## 一

<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>は十六になった。

妹の<ruby><rb>於</rb><rt>お</rt></ruby>ややと二人して、伯父伯母にあたる浅野家に養われて来た。ふたり共、養女なのである。

世間は知らなかった。それほど、浅野又右衛門夫婦の愛は、世の親たちと変りなかった。

十六というと、<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>も人知れず、「女の先」を考え始めた。時代は早婚の風である。もう他から結婚のはなしがいろいろ持込まれるのであった。

その数々の<ruby><rb>縁談</rb><rt>はなし</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くち</span>で、親たちの眼に<ruby><rb>選</rb><rt>え</rt></ruby>り残されているのは、もちろん皆、尾張<ruby><rb>清洲</rb><rt>きよす</rt></ruby>の<ruby><rb>織田</rb><rt>おだ</rt></ruby>家中ではあるが、とりわけ、

藩の<ruby><rb>侍頭大学信盛</rb><rt>さむらいがしらだいがくのぶもり</rt></ruby>の舎弟、<ruby><rb>佐久間左京</rb><rt>さくまさきょう</rt></ruby>

信長の<ruby><rb>小姓組</rb><rt>こしょうぐみ</rt></ruby>、前田<ruby><rb>犬千代</rb><rt>いぬちよ</rt></ruby>

槍組衆の<ruby><rb>河尻与兵衛</rb><rt>かわじりよへい</rt></ruby>

足軽三十人持、<ruby><rb>御小人組小頭</rb><rt>おこびとぐみこがしら</rt></ruby>木下<ruby><rb>藤吉郎</rb><rt>とうきちろう</rt></ruby>

――などの四名が候補になっていた。各〻に特長もあり理由もあって、

「急ぐこともないから、よう生涯を考えて――」と、<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>にも告げて、宿題の予日をのこし、親たちも先方へ、まだはっきり返辞をしない程度になっていた。

## 二

四人の候補のうちで、最も身分の高いのは、佐久間左京であった。兄大学<ruby><rb>信盛</rb><rt>のぶもり</rt></ruby>は、<ruby><rb>愛知郡</rb><rt>あいちごおり</rt></ruby>山崎で、<ruby><rb>出城</rb><rt>でじろ</rt></ruby>とはいえ、一ヵ城の城持ちであり、左京も織田家では、重要な地位を占め、主君のおおぼえもよかった。年齢は二十三歳とかいう。

「申し分はないが、何せい、こちらは<ruby><rb>弓之衆</rb><rt>ゆみのしゅう</rt></ruby>の長屋住い、身分がちがいすぎる」

と、又右衛門夫婦は、その点で迷っていた。

総じて、尾張半国の小藩にすぎない織田家は、君臣ともに、質素で財力も<ruby><rb>乏</rb><rt>とぼ</rt></ruby>しかったが、わけて浅野又右衛門は、<ruby><rb>小禄</rb><rt>しょうろく</rt></ruby>な弓組の一家士でしかなかった。

年ごろの娘ふたりに、人なみの教養もさせ、人知れぬ「<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>とり」の支度をしておくだに、なかなか容易ではない家計だった。

その点では、

家庭へもよく遊びに来て、気心もおけないし、先の人がらも<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>も知れている前田犬千代は、

「<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>も、嫌ではないらしい」

と考えられて、親たち自身の心もだいぶ<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>いていた。

難をいえば、犬千代は感情につよく、同僚などとも<ruby><rb>刃傷沙汰</rb><rt>にんじょうざた</rt></ruby>を起して、殿の勘気をうけたりしたこともあった。<ruby><rb>素行</rb><rt>そこう</rt></ruby>も<ruby><rb>放縦</rb><rt>ほうじゅう</rt></ruby>のように思われる。また、美丈夫なので、寧子とのあいだに、恋愛でもあるかのようなうわさも<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれた。年は二十四歳、寧子も望んでいるらしいし、ふさわしい<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>とは思われるものの、まだ又右衛門夫婦の決心は、はっきりせずに在る。

では、<ruby><rb>河尻与兵衛</rb><rt>かわじりよへえ</rt></ruby>はというに。

これなら剛健で、武勇は槍組の随一と聞えているし、戦国の士として、<ruby><rb>負</rb><rt>ひ</rt></ruby>け<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>は取らないが、ただ寧子とはあまり年がちがう。それに一度妻をもった人でもあるし、

「かわいそうではありませんか」

と、又右衛門よりは、妻のほうが、気のすすまない顔いろだった。

殆ど、問題にしていないのは、つい近頃、小者からやっと士分になったばかりの男で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まめ</span>に足を運んで来る木下藤吉郎という男だった。

「かなわぬよ、あの男につかまると」

又右衛門も、<ruby><rb>閉口</rb><rt>へいこう</rt></ruby>している。こちらでは問題としなくても、先は熱心を<ruby><rb>冷</rb><rt>さ</rt></ruby>まさないのである。物を届けて来る。<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な用でもすぐ来る。無くてもやって来る。来れば話しこむ。――その末には、

「どうでしょう。決して、寧子どのを、不幸にはいたしませんが。――それだけは誓えます」

などと<ruby><rb>縁談</rb><rt>はなし</rt></ruby>は、聟どの直接なのである。

その懸命さに、つい<ruby><rb>膠</rb><rt>にべ</rt></ruby>のないこともいえず、

「まあ、考えて」――とか。

「寧子の胸もきいた上で――」

とか、云って来たのが悪くもあった。近頃では、又右衛門も持て余していた。といって、応じる気には毛頭なれないのだ。どうながめても、

「この男の将来では、まあ百貫の<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>でも取られたら関のやま。生涯、妻に不幸な目は見せぬ、などと云いおるが疑わしい」

と、考えられるからだった。

又右衛門の評価は、まだまだよいほうなのである。世間では、彼が低い小者勤めをしていた頃の呼び<ruby><rb>慣</rb><rt>なら</rt></ruby>わしのまま、いまだに、

――猿。猿。

と呼んで、藤吉郎とは云わぬ者のほうが多い。

家すじも、中村の百姓だとしか聞かないし、現在も、士分のうちでは一番下の軽輩だし、顔は、猿に似ているし、風采といったら<ruby><rb>寔</rb><rt>まこと</rt></ruby>にあがらない小柄なほうだ。<ruby><rb>取柄</rb><rt>とりえ</rt></ruby>といったらただ、

「おもしろいお人や」

と、台所の<ruby><rb>下婢</rb><rt>かひ</rt></ruby>どもや、<ruby><rb>下僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>などから、自分たちの仲間のように思われて、人気のあることだけだった。

だから、<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>や、妹の<ruby><rb>於</rb><rt>お</rt></ruby>ややまでが、彼の姿を門に見れば、

「――お父さま、また木下様が、お越しですよ」

と、<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>もなく、おかしがるのが先で、眼のうちにも入れていなかった。

## 三

<ruby><rb>永禄</rb><rt>えいろく</rt></ruby>四年の六月、<ruby><rb>桶狭間</rb><rt>おけはざま</rt></ruby>の合戦の翌る年。

<ruby><rb>津島</rb><rt>つしま</rt></ruby>祭りのある頃だった。

やぶ蚊の多い<ruby><rb>弓之衆</rb><rt>ゆみのしゅう</rt></ruby>の組長屋で、一組の聟とり<ruby><rb>祝言</rb><rt>しゅうげん</rt></ruby>があった。

聟どのは、当年二十六歳の木下藤吉郎で、むしろ<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>のほうから望んで<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に挙げられた婚儀と聞いて、

「へええ？　猿が、あの寧子どのと？」

と、世間には、幾つも<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ顔が出来た。

世間の驚いたのも無理もない。親の又右衛門夫婦ですら、その晩、婚儀の席に並んだ者のはなしを聞けば、

「何やら、力落しの態で、浮きもせず、世間に肩身のせまいような顔してござった」という。

なお。――当夜の模様はと、問いただせば、

「板屋びさしの弓長屋に、ひっそり縁者どもが寄り、<ruby><rb>簀掻藁</rb><rt>すがきわら</rt></ruby>を<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>にしいて、うす暗い<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>の明りが三ツ四ツ、聟どのと花嫁が中ほどに坐って、形ばかりの<ruby><rb>杯事</rb><rt>さかずきごと</rt></ruby>をしたまでのこと――」

と、如実に語って、

「――花嫁の気は知れぬが、たださしうつ向き、聟の猿どのは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けろり</span>としたものよ」

ということだった。

聞く者は、もう一度、唖然とした。

## 四

足軽三十人持の<ruby><rb>小頭</rb><rt>こがしら</rt></ruby>といっては、まだその足軽よりすこし<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>しなくらいの生活でしかない。<ruby><rb>清洲</rb><rt>きよす</rt></ruby>の<ruby><rb>侍小路</rb><rt>さむらいこうじ</rt></ruby>の裏に、若い夫婦は、初めて<ruby><rb>小</rb><rt>ささ</rt></ruby>やかな家と鍋釜を持った。

織田家はその頃、隣国の<ruby><rb>美濃</rb><rt>みの</rt></ruby>の斎藤方へ、しきりと攻略を計っていた。良人はたえず家にいなかった。時には、木曾川の国境へ遠征し、<ruby><rb>稀〻</rb><rt>たまたま</rt></ruby>、帰って来ても城内の寝泊りが多いし、まだ二十歳にもならない新妻は、常に、<ruby><rb>陰膳</rb><rt>かげぜん</rt></ruby>ばかり供えて、独りで喰べ、独りで縫い、独りで家事を見ていた。

けれど、その良人が、稀に家にあって、

「<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>。寧子」

と、朝から晩まで、快活な声で、<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>いでいると、彼女は、百日の苦も、一年の留守も、物のかずではない。しんから今の生活が楽しまれた。

「<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>の妻とは、不びんなものだ。――だが、こうして<ruby><rb>殿</rb><rt>との</rt></ruby>からお暇をゆるされて、家にある一日だけは、気儘もいうがよい。おれの<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>は、そなたのものだ。そなたの体はまた、おれのものだし……。はははは」

どこまで、明るい人である。寧子は、持った良人を、いつも改めてそう見直した。そして、自分の求めた結婚に、悔いるような気持は一瞬でも起らなかった。

ある時、ふと、

「寧子。そなたは、わしを知った最初は、わしが嫌いだったろう」

そんなことを、良人は<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ね出した。

正直に、寧子は、ほほ笑んで<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「ええ」

「それが、どうして<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に、わしと生涯を暮す気になったのか」

「それはこうです。いつかあなた様が、中村のお母様のところへ上げるお手紙を、何かの品と一緒に、お忘れになって行ったでしょう。実は、妹がわたくしにそれを見せたので、あの中の御孝心なお<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>に心をうごかされたのです。……そればかりではありませんが、それから<ruby><rb>他</rb><rt>よそ</rt></ruby>ながら、あなたのお勤めぶりや、おはなしの<ruby><rb>端々</rb><rt>はしばし</rt></ruby>にも、心をひかれるようになったのでございました」

云い終って、寧子は、顔を紅くした。

すると、良人は、

「そうか。やはりそうか。実申せば、あの<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>は、そなたの心をうごかすため、わざと置き忘れて行ったのだ。はははは、そなたはわしの兵法で、まんまと<ruby><rb>擒人</rb><rt>とりこ</rt></ruby>になったんだよ」

手を打たないばかり、<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがって笑うのだった。

けれど寧子は、すこしも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">興ざめ</span>な心地はしなかった。なぜなら良人の孝心は、決して嘘でないからである。中村の田舎にいる母親に対する藤吉郎の孝心は、離れてこそいるが、恋妻の自分にしてくれる以上であった。戦場からよこす便りにも、母の事を書いてないことはないほどだし、家に戻っても、ここにはいない母親のうわさをしない日はなかった。

「<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby><ruby><rb>信心</rb><rt>しんじん</rt></ruby>、<ruby><rb>仏</rb><rt>ほとけ</rt></ruby>信心もだが、わしの胸には、どこにいても、母がいるからな。母を思い出すと、悪い事はすまいと思う。善い事はしようと思う。そして良い子をもって<ruby><rb>倖</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せだと、母に欣んでもらいたいと思う」

常々、藤吉郎は、そう云った。

また――

「わしの願いは、中村じゅうで一番の<ruby><rb>不倖</rb><rt>ふしあわ</rt></ruby>せ者じゃった母を、日本一の幸福者にさせてお上げ申したいことだ……」

と、云いかけて、後は、寧子の顔を見て笑った。そして、何を云うかと思えば、

「そして共々、この女房をもな――」

と、彼女の美しい鼻を、指でついた。

## 五

猿。猿。――猿の妻。

添うてからも、幾年かは、<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い声を、時折聞いた。世間の<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>は去らなかった。

自分が云われるよりも、良人の云われた場合に、<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>は腹が立った。けれど良人は意にかけるふうもない。笑うのみである。

いつか彼女も、良人に訓練されて、笑っていられるようになった。

がしかし、それも、良人が<ruby><rb>洲股</rb><rt>すのまた</rt></ruby>の築城をなし遂げて、一躍、五百貫の恩地と、一城の守将という地位とを<ruby><rb>克</rb><rt>か</rt></ruby>ち<ruby><rb>獲</rb><rt>と</rt></ruby>ると、世間は今さらのように、

「<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>るべき男」

と、藤吉郎を見直して来た。

寧子はひそかに、自分に誇った。よくぞ生涯の人を選んで<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>らなかったと、未婚の頃の岐路を顧みて思うことが多かった。

ただ。

良人の立身と共に、彼女にはべつな困難が加わって来た。それは、良人の<ruby><rb>累進</rb><rt>るいしん</rt></ruby>に、自分の教養が――劣らない妻としてゆくことが、ともすれば、追いつけなくなりそうな点であった。

家臣は多くなる。一族はまわりに持つ。経済は<ruby><rb>膨大</rb><rt>ぼうだい</rt></ruby>になってゆく。君侯への心くばりから、使者の往来といったような社交。良人の身まわりもまるで違ってきた。

その繁忙の間にでも、夜々の暇をぬすんでは、修養を加えてゆかなければ、以前の一藤吉郎ではない――羽柴筑前守秀吉の妻として、いやでも取残されてしまいそうだった。良人の事業と栄進とは、そのために、どんなに愛している妻でも、妻のために、待っている<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>はないからである。

結婚してから、いつか、十一年は経っていた。

主君の信長が、尾張半国から興って、今川を討ち、<ruby><rb>美濃</rb><rt>みの</rt></ruby>を経略し、居城も<ruby><rb>清洲</rb><rt>きよす</rt></ruby>から<ruby><rb>小牧山</rb><rt>こまきやま</rt></ruby>へ、それからまた<ruby><rb>岐阜城</rb><rt>ぎふじょう</rt></ruby>へと移って、<ruby><rb>尾濃</rb><rt>びのう</rt></ruby>百二十万石を治めるようになると、秀吉もそれまでの功によって、<ruby><rb>近江長浜</rb><rt>おうみながはま</rt></ruby>の城主二十万石という大身になっていた。

「<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>、そなたは、女子にめずらしい者じゃ、偉いものと、秀吉も今にして思う」

「お<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れ遊ばしませ」

「いや、<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>だ。足軽に毛のはえたくらいな身分であったあの頃のわしを――良人に選んだ眼は、<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>頃の女子として、偉いといわねばなるまいな。――そのむかし、わしがまだ十八歳の頃、針売りなどして諸国をさまよい歩いていた艱苦の頃だ。庄内川の河原で、信長公の御馬前へ駈け伏したところ、そのまま召しつれて、<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>取りにお使いくだされた御主君のお眼もだが――そなたは、御主君に次いで、この秀吉の人間を、見とおした偉い女子じゃ、<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めてつかわす」

「そうお賞めいただくと、寧子は汗がながれます」

「なぜか」

「こんなにまで、あなたが御立身なさろうとは、寧子も思っておりませんでしたから」

「あははは、それはそうかも知れぬ。この秀吉も、思っておらなかったからな」

「では、あなたは、御自身どれくらいまで、御出世遊ばそうと、考えておいでになりましたか」

「いや、わしはな、そう上を望んだことはない。<ruby><rb>草履取</rb><rt>ぞうりと</rt></ruby>りをしておる時には、御主君のお草履をつかむ仕事を精いっぱいに勤め、士分になれば士分の仕事を精いっぱいに、一城の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>となれば、一城の主を精いっぱいやりおるだけじゃ。――だから今も今を精いっぱいにやっておるに止る」

秀吉夫婦のこういったふうな話は、侍臣の前でも、奥女中たちの居並んでいる所でも、声を<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めるなどということはなく、至極、明けっ放しに交わされるのであった。

以前の貧乏ばなしなど、わけて少しも、隠して<ruby><rb>衒</rb><rt>てら</rt></ruby>うふうはなかった。

秀吉が宿望であった、故郷の母も、長浜の城に迎えた。

姉も弟たちも、寧子の一族たちも、皆、彼を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って、門戸の栄えに恵まれた。

「わしに仕える心を、母につくしてくれ。母が歓べば、わしは自分につくされたより欣しい。ありがたい」

秀吉が、寧子へいう、口癖であった。

母はもう五十であった。まったく田舎の一<ruby><rb>老媼</rb><rt>おうな</rt></ruby>である。果報にすぎると、常に勿体ながるばかりであった。その母は、誰よりも、寧子が気に入っていた。

夜の<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎ</rt></ruby>に、母を中心に取巻いて、

「お母様、お聞きください。わが<ruby><rb>良人</rb><rt>つま</rt></ruby>が、わたくしを<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>る時には、お母様へのお手紙を、わざと忘れ落したふりして、わたくしの心をうごかしたのでございますよ。いわば親孝行を<ruby><rb>囮</rb><rt>おとり</rt></ruby>に遊ばして、<ruby><rb>処女心</rb><rt>おとめごころ</rt></ruby>をだましたのでございます」

などと思い出ばなしを、戯れに告げると、

「まあ、悪い子じゃなあ」

と、母はおかしがって、また、中村時代の手に負えなかった秀吉の――<ruby><rb>日吉</rb><rt>ひよし</rt></ruby>といった時分の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>ぶりだの、奉公先からおしりばかり持込まれたことだの、喰べるに物もなかった貧苦の中に泣かされたことだの、寧子にはなして聞かせるのだった。

「どうして、まだまだこの子には、小さい折の面影がたんとある。そなたも、上手に<ruby><rb>騙</rb><rt>たぶらか</rt></ruby>されぬがよい」

母が、寧子に味方して云うと、秀吉は大いに<ruby><rb>懼</rb><rt>おそ</rt></ruby>れをなして、

「いけませんなあ。折角、秀吉がよい女房に仕立てておるのに、母上がそうお<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>しなされては」

と、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、次のことばを、抑えるまねした。

<ruby><rb>近習</rb><rt>きんじゅう</rt></ruby>たちも笑えば、<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>たちも、笑いこけるほどであった。そして周囲は、主人の物質的な栄華よりも、その<ruby><rb>睦</rb><rt>むつ</rt></ruby>まじさに、心から<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましさを覚えるのだった。

## 六

誰へも、洩らしたことはない。どんなことでも隠さない母へも――である。<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>は、ひとりで、悩むことがあった。

それは秀吉の浮気であった。自分のほかに、愛する女性のできたことである。

「貧しい細長屋で暮していた時のほうが……」

と、今の栄位を、むしろ<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>う気さえこの頃は起った。<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に、<ruby><rb>清洲</rb><rt>きよす</rt></ruby>時代の<ruby><rb>小</rb><rt>ささ</rt></ruby>やかな二人暮しの時ばかり振返られて、良人の内助に、ふと、心のゆるむ日もあった。

その良人に代って、岐阜城の主君の許へ、使いを命じられた。長浜の絹、<ruby><rb>琵琶湖</rb><rt>びわこ</rt></ruby>の鮮魚など、心をこめた土産の数々を、<ruby><rb>荷駄組</rb><rt>にだぐみ</rt></ruby>の武士に運ばせ、彼女は、華麗な奥方用の<ruby><rb>塗駕籠</rb><rt>ぬりかご</rt></ruby>に、多くの侍女や侍を従えて岐阜に赴いた。主君に会って、使いを果してからである。信長はくだけて、

「どうだな秀吉は、相かわらず元気に、毎日をおもしろく暮しているだろうな」

などと、いろいろ家庭の内事まで訊かれたので、<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>も女ごころについ、

「何事も良人のなさることには、不服を申しませぬが、どうか余り夜の<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>へしげしげお<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>い遊ばすことはないように、どうぞお上から仰っしゃって戴きとう存じまする」

と、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>には笑って頼んだ。

信長も、苦笑しながら、

「よしよし。わしからもよく云ってやる。そのほうにかけては、くせの良くない男だからの」

と、慰め返した。

すると、日を措いてから、主君の信長から、寧子へあてて書面がとどいた。いつぞやの土産物の数々の、実に見事であったことなど、欣びを<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めた後で、

――<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せのごとく、こんど、この地へ、はじめて越し、けんざんに入、祝着に候……<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>の<ruby><rb>眉目</rb><rt>みめ</rt></ruby>ぶり<ruby><rb>容</rb><rt>かたち</rt></ruby>まで、いつぞや見まいらせ候折ふしよりは、十のもの二十ほども見上げもうし候

藤吉郎、れんれんと、ふそくの<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>、申すの<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>、<ruby><rb>言語</rb><rt>ごんご</rt></ruby>どうだん、<ruby><rb>曲事</rb><rt>くせごと</rt></ruby>に候が、<ruby><rb>何方</rb><rt>いずれ</rt></ruby>を相たずね候とも、また二たびは、求めがたき<ruby><rb>夫</rb><rt>つま</rt></ruby>にもあれば、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>にも、おもおもしく、りん気などに立ち入りては然るべからず、ただし、おんなの役に候あいだ、ふんべつにて、程ようあるは、あしかるまじ……

などと<ruby><rb>婉曲</rb><rt>えんきょく</rt></ruby>にではあるが、<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>の悩みに、<ruby><rb>誡</rb><rt>いまし</rt></ruby>めを与えていた。<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>は、それを見て、後では、

「なぜ、御主君などへ」

と、深く悔いた。

そして今さらのように、女ごころの不覚を知った。意志のつよいつもりでいる自分にも、<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>い一面を気づいて、自分を恐ろしいと思った。

その心をもってその日から、彼女は改めて、良人に<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>いた。良人の愛は、以前より勝っても、変ってはいなかった。愛を疑う時、愛はすぐ黒い雲に変るもの――と、寧子はひそかに良人に詑びた。

それから間もなく。

秀吉は軍をひいて、中国へ出征した。

長い留守がつづいた。何年も、何年も。

そのうちに――天正十年五月、上洛中の主君信長が、<ruby><rb>叛臣</rb><rt>はんしん</rt></ruby><ruby><rb>光秀</rb><rt>みつひで</rt></ruby>のために、<ruby><rb>本能寺</rb><rt>ほんのうじ</rt></ruby>で討たれた。

変が伝わると共に、秀吉の留守城長浜は、明智光秀に加担の<ruby><rb>阿部淡路守</rb><rt>あべあわじのかみ</rt></ruby>の軍勢に攻め<ruby><rb>襲</rb><rt>よ</rt></ruby>せられた。

寧子は静かに、留守の一族や侍たちへ<ruby><rb>殿軍</rb><rt>しんがり</rt></ruby>のさしずをした上、侍女たちの手もかりず、自分の背に母を負って、<ruby><rb>慥乎</rb><rt>しっか</rt></ruby>と<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>いつけ、片手に<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>を携えて、<ruby><rb>東浅井郡</rb><rt>ひがしあさいごおり</rt></ruby>の山奥、<ruby><rb>大吉寺</rb><rt>だいきちじ</rt></ruby>へのぼった。

母を、寺内にかくして、夜も昼も、彼女は門前に立って固めた。侍女たちを入れても、五十人に足らない手勢であったから、もし敵がこれへ来たら、<ruby><rb>斬死</rb><rt>きりじに</rt></ruby>の覚悟であった。――だがそうしてもなお、留守の良人に詫びきれない心地のものは、母の身に万一のことでもあったらということであった。良人の孝心を思うと、逃げきれるだけ逃げのびたいし、武門の妻であることを思うと、

「秀吉の妻として、笑われぬよう」

と、悲壮な斬死へ、気は<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>った。

## 七

わずか十日余りだった。

秀吉は、変を知ると、中国高松城の水攻めを、毛利家との<ruby><rb>和睦</rb><rt>わぼく</rt></ruby>に中止して、疾風のごとく陣を返し、山崎の一戦に、光秀を<ruby><rb>葬</rb><rt>ほうむ</rt></ruby>り去った。

長浜城は、奪回した。

秀吉は、大吉寺の山へ上って来た。

真っ先に、母のすがたを求めて、オオと呼ぶ母を見ると、

「おっ母さん！」

子どもみたいに縋った。

それから、

「<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>。寧子っ」

と、呼び立て、

「よくいたした。よくいたした。それでこそ秀吉の……」

妻と手を取り合って、泣いているのである。

<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>は、ものも云い得ない。ただ<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>じゅうの<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるような歓びにつつまれていた。人間と生れなければ――人妻となってみなければ――また、こういう難儀をも突きぬけてみなければ――この歓びを生命に味うことは出来なかったろう。そう落着いた後では思ったことであった。

ふたりの間の愛も。

二十歳だいの頃、

三十の頃、

また、四十をも越えた今。

――と<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みてくると、愛そのものの動かぬ相にも、自然その深度と意義には、年と共に変化があった。お互いに<ruby><rb>培</rb><rt>つちか</rt></ruby>って来た努力がようやく、ほんとの夫婦愛の実となって、今、結ばれているのが分った。

何かしら、その頃から後の彼女の胸には<ruby><rb>悠</rb><rt>ゆ</rt></ruby>ったりと、大きな安心がすわっていた。

春の海のようにそれは<ruby><rb>寛</rb><rt>ひろ</rt></ruby>い。

秀吉の<ruby><rb>側室</rb><rt>そくしつ</rt></ruby>に、うら若い<ruby><rb>淀君</rb><rt>よどぎみ</rt></ruby>とかいう美女が<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>くようになって、<ruby><rb>閨門</rb><rt>けいもん</rt></ruby>を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>る奥仕えの者たちから、いろいろな<ruby><rb>曲事</rb><rt>ひがごと</rt></ruby>が聞えて来ても、その寛やかな彼女の胸に、<ruby><rb>小波</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>も立てることはできなかった。

時に、<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>は立つかもしれない。幾歳になっても、女性の血は女性の血であるから。――けれど、彼女のそばに常にいる召使も、時折に伺候する家臣も諸侯も、彼女に会えばいつも花の<ruby><rb>木陰</rb><rt>こかげ</rt></ruby>に<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>うような平和をおぼえた。春の海に向うような寛さを覚えた。<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>ほどな気色でも、淀君に対してうごく色を見たためしはなかった。

すでに、秀吉は、太閤といわれ、その母は、<ruby><rb>大政所</rb><rt>おおまんどころ</rt></ruby>と<ruby><rb>敬</rb><rt>うやま</rt></ruby>われ、そして<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>は、<ruby><rb>北</rb><rt>きた</rt></ruby>の<ruby><rb>政所</rb><rt>まんどころ</rt></ruby>と称されていた。

いうまでもなく、大坂城にあって、天下を<ruby><rb>統</rb><rt>す</rt></ruby>べている秀吉であった。

その秀吉の不足と、彼女のたった一つのさびしさは、遂にまだ、二人の仲に子のなかったことである。

## 八

淀君には、子が生れた。

<ruby><rb>鶴松君</rb><rt>つるまつぎみ</rt></ruby>といったが、<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>のうちに早世した。

次に、<ruby><rb>拾君</rb><rt>ひろいぎみ</rt></ruby>を生んだ。後の<ruby><rb>秀頼</rb><rt>ひでより</rt></ruby>である。

北の<ruby><rb>政所</rb><rt>まんどころ</rt></ruby>もあるかなしかのように、淀君の勢力は、自然大坂城に<ruby><rb>偉</rb><rt>おお</rt></ruby>きなものとなった。

こんな事もあった。

<ruby><rb>佐々成政</rb><rt>さっさなりまさ</rt></ruby>が、北国すじの<ruby><rb>地侍</rb><rt>じざむらい</rt></ruby>へたのんで、<ruby><rb>白山</rb><rt>はくさん</rt></ruby>の黒百合を取りよせて、北の政所へ献上した。

めずらしい高山植物の花だった。黒いばかり<ruby><rb>濃紫</rb><rt>こむらさき</rt></ruby>の百合である。北の政所は、

「ひとりで慰むのも、花に勿体ない心地がする」

と、茶会を思い立って、<ruby><rb>利休</rb><rt>りきゅう</rt></ruby>の娘で、<ruby><rb>鵙屋</rb><rt>もずや</rt></ruby>の妻となっていたお<ruby><rb>吟</rb><rt>ぎん</rt></ruby>を召しよせて、趣好を相談した。

何かの打合せをすまして、お<ruby><rb>吟</rb><rt>ぎん</rt></ruby>が西の丸から退がって来ると、淀君付の<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>が待っていて、

「そっと、淀君さまからのお<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねじゃが、そなた、何の御用で、西の丸へは伺ったか」

と、廊下の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>で訊かれた。

お吟は、ありのままに、

「めずらしい黒百合がお手に入りましたので――」

と、茶会の趣好をはなした。

茶の日には、淀君もよばれていた。人々はみな、珍しがったが、淀君は、黒百合のことを、よく<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えていたので、

「お智識でいらっしゃいますこと」

と、人々は感心して聞き入った。

それから数日たつと、こんどは淀君のほうの催しで、「<ruby><rb>花摘</rb><rt>はなつ</rt></ruby>みの会」の招きがあった。殿中の廊下には、たくさんの<ruby><rb>花桶</rb><rt>はなおけ</rt></ruby>が並べてあって、各〻が心まかせに、好みの花を摘んで、<ruby><rb>挿</rb><rt>い</rt></ruby>けたり、家<ruby><rb>土産</rb><rt>づと</rt></ruby>に戴いて帰った。

ところが、いつぞやの黒百合と同じ花が、他の雑な花と一緒に、一つの花桶に突っこんであったので、人々は、

「まあ何として？　……」

と、眼をみはった。

その皆の眼は折ふし来合せた<ruby><rb>北</rb><rt>きた</rt></ruby>の<ruby><rb>政所</rb><rt>まんどころ</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をお気の毒で見るにたえないというように<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らしあっていたが、北の政所は、花桶に眼をとめると、

「おお、たくさんにある……」

と、微笑んだだけだったので、その<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかな<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をながめた人々は、

「今日の花の、どの花よりもお美しい」

と、ひそかに思った。

## 九

太閤の母、大政所は、八十歳を一<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>として、<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>で亡くなった。

<ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>の<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせを、太閤は、<ruby><rb>名護屋</rb><rt>なごや</rt></ruby>の陣で知ったのである。彼は生涯の大事業としている朝鮮役の出征にかかっていた。

軍事を措いて大坂へ帰った。

――が、臨終には間にあわなかったのである。もう老齢な子は、母に取りすがって、人前もなく歎いた。

日本を統一し、海外にまで余力を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>ばして、大陸経営まで抱負している<ruby><rb>大気宇</rb><rt>だいきう</rt></ruby>な太閤が、

「<ruby><rb>寧子</rb><rt>ねね</rt></ruby>寧子。もう何を張合いに」

と、泣いたということである。

寧子は、大政所の病中、帯も<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>かないほどだった。彼女も急に老いていた。

「お察しいたしまする。けれどあなた様にはまだ、大きな御使命がございましょう。……寧子は、何をあてに、この先の日を」

高野山に<ruby><rb>青巌寺</rb><rt>せいがんじ</rt></ruby>を建て、諸国に供養所を興して、亡母の<ruby><rb>冥福</rb><rt>めいふく</rt></ruby>を<ruby><rb>祷</rb><rt>いの</rt></ruby>っても、秀吉の心は、なお<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えなかった。

朝鮮陣の<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ば、太閤もまた、六十三を一<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>に、薨去した。

「……寧子」

わかれには、たった一言、そう云ってにこと、顔を見あわせたのみであった。

北の政所は、大坂城を退いて、京都の高台寺の峰に、一寺を建てて、ひとり清らかに住んでいた。――いやほど近い<ruby><rb>阿弥陀</rb><rt>あみだ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>峰</rb><rt>みね</rt></ruby>の土に眠る太閤を、朝夕に訪れるのを楽しみとして。

淀君の生活は、彼女とは反対に、それから<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>な<ruby><rb>爛熟</rb><rt>らんじゅく</rt></ruby>を迎えた花のように咲けるだけ狂い咲きに咲いて、そして、<ruby><rb>元和</rb><rt>げんな</rt></ruby>元年の夏の陣に、大坂落城の<ruby><rb>炎</rb><rt>ほのお</rt></ruby>に散った。

子の秀頼も。一族も。

彼女を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>る無数の男女の召使までも、また、太閤の<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>したあらゆる物も――愛情までも、その<ruby><rb>焦土</rb><rt>しょうど</rt></ruby>へ投げこんでしまった。

真っ赤な天は、ふた晩も三晩も、京の高台寺の峰からもよく見えたほどだった。

そこも<ruby><rb>阿弥陀</rb><rt>あみだ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>峰</rb><rt>みね</rt></ruby>も、<ruby><rb>颯々</rb><rt>さっさつ</rt></ruby>と、冷たい松風のみであった。

家康も、そこへは兵を上げなかった。

むしろ敵の家康まで、彼女の才徳と貞操を感じて、寺領を寄進したり、何かと生涯の面倒を見るように、所司代の板倉<ruby><rb>勝重</rb><rt>かつしげ</rt></ruby>へいいつけたほどであった。

寛永元年の九月、彼女は安らかに世を終った。

六十七歳まで――死ぬるまで、彼女は太閤の愛に抱かれていた。