<ruby><rb>経之</rb><rt>つねゆき</rt></ruby>の<ruby><rb>母御</rb><rt>ははご</rt></ruby>は朝のあいさつを交したあとに、ふしぎそうな面持でいった。

「ゆうべそなたは庭をわたって行かれたように覚えるが。」

「いえ、さようなことはございませぬ。誰かをご<ruby><rb>覧</rb><rt>ろう</rt></ruby>じましたか。」

それは確かに人かげを見うけ申した。月がなくただ星あかりでしか見えない池の裏手の、<ruby><rb>萩芒</rb><rt>はぎすすき</rt></ruby>の枯れ<ruby><rb>叢</rb><rt>むら</rt></ruby>の間をぬけて行った者がいた。かぶり物をしていたから顔はようは見られなかったがと、母御はそなたではなかったのかといった。

「ではやはり女であったらしい。」

「女とは？」

経之は女とは、<ruby><rb>御達</rb><rt>ごたち</rt></ruby>のうちの誰かであったか、どうかといった。

「それから<ruby><rb>一刻</rb><rt>ひととき</rt></ruby>のあとに寝もやらぬうちに、ふたたび庭をよぎって戻って行く姿を見ましたが、池の<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>から裏庭へ、つま戸の開く音がしたようにも覚えます。」

「するとそれは女部屋の方から出た者としか覚えませぬが、夜半に女の身で庭に出るとは考えられませぬ。」

「わらわもゆめかとも覚えるが、ひと夜に二度も姿を見うけては、ゆめではあるまい。」

「たしかにつま戸の開く音がいたしましたか。」

経之はつま戸の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>りの固いことは知っていたから、どのように、注意ぶかく開けても、<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けた夜半には一応のささやかさであろうとも、音を絶つことはないはずだった。経之自身も、つま戸の軋りは頭の中に覚えがあった。

「二度目は閉まる音もいたしました。あの戸は永い間きしっていてよく音をきき分けることが出来ます。」

「して<ruby><rb>御達</rb><rt>ごたち</rt></ruby>らのようすにかわったこともござりませんでしたか。」

「どの女であるか分らぬが、そちのこころ当りはどう。」

「一向に見当がつきませぬが、よく心得て置きます。」

「よほど大胆な女であろうの。」

「夜の庭をよこぎることはいままでの御達らも、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>がっているくらいゆえ、よほどの決心でもなければ庭わたりは女の身では出来ませぬ。」

経之はたちばな、はぎ野、まゆみ、たえ、すおう、とかぞえた御達のなかで、すぐ頭を射てくるものははぎ野だった。長身の黒髪は海藻に似たかがやきを見せていたし、すべすべした手足は経之自身にもふかく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>でられた、その感じの生きいきとしたものを、彼自身のなかに思いあてることができた。そのような庭わたりのできるような素早さをつつんでいる者は、はぎ野のほかには見当らなかった。何よりもそのあでやかな色気は、どうかすると、すぐにも燃えあがるよい血色をたぎらせているのだ。経之ははぎ野のうつくしさが困ったうつくしさであることを知ると、もうかれの頭では、はぎ野のほかの女でないことが分った。しかし経之は母の前では、軽率にその名前を口にすることを控えた。もしその名前を指すことを一度でもそうしたら、それは母の眼の下を離れられないはぎ野であることを、注意ぶかく心にとめた。それに、はぎ野は母御の仕えだったのだ。

「経之。」

母御はあらためていった。

「こたび初めての庭わたりでないことを今から考えると、覚えがあります。」

「折々お見うけなされたか。」

「三たび四たびではないように覚えます。月のない夜がえらばれているようだ。」

母御はあれは町方から上った者だが、武家の者のように<ruby><rb>立居振舞</rb><rt>たちいふるまい</rt></ruby>が正しいといった。経之は、ただうなずいて見せた。去秋、町方から来て以来、過失もなく、どこかに聡明をかくれて持ったようだが、<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>べには、それが見られなかった。<ruby><rb>御達</rb><rt>ごたち</rt></ruby>仲間のつきあいもよかった。ただ、そのきらびやかな顔立にあるものは、ことごとく危険なすぐ男の手にわたされるようなきらびやかさであり、それがはぎ野からいくら<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いても、拭ききれないものだった。恐らく、はぎ野の顔立ばかりでなくその心にも、そんな危険に類した浮いたようなものがあるのだろうと、経之はいった。彼女が先刻、<ruby><rb>白湯</rb><rt>さゆ</rt></ruby>をはこんで来たときに、早くも<ruby><rb>瞼下</rb><rt>まぶたした</rt></ruby>のつかれをうすくはいだように見えていたことで分った。しかも、彼女はそういう自分の顔の中にあるつかれたものを知っていることだった。知っていてその<ruby><rb>化粧</rb><rt>よそお</rt></ruby>いを直して来たこまかさが、経之にやはり並大ていのはぎ野でないことを、このことだけを見立てても、わかった。もう、どこにも、眼は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>のこと、寝不足とか疲労とか、ものだるさというもののあとが、見られなかった。

しかしはぎ野がゆうべ庭先をわたったとすれば、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>に何者のもとに忍んで行ったものであろうか、弟の<ruby><rb>定明</rb><rt>さだあき</rt></ruby>以外には、はぎ野の忍んでゆきそうなところはない、ゆうべは定明は館の北にいた。非番で宵早くの食を終えると引きこもっていて、経之は顔を合さなかった。

定明の北のやかたは庭をよぎり、松と<ruby><rb>柏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>とにかこまれていて、夜は仕えの者も遠ざかって、ただ一人の唖の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>がやかたの外部屋に寝泊りしているだけで、誰も往き来はしない。何をしていようが、何者が忍ぼうが、それは定明以外の者の知るところではなかったのだ。

経之は母のもとを去ると、中の島を隔てた池の向う側を歩いて行った。冬枯れの形よく<ruby><rb>隈取</rb><rt>くまど</rt></ruby>られた<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>は、まだそのまま掃かれたことがなかった。経之はていねいに落葉のかさなりを見て行ったが、そのかさなりの<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れたあたりに、人の歩いたあとがあった。しかも、落葉の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずれ</span>はあたらしい<ruby><rb>些</rb><rt>いささ</rt></ruby>かの乱れを見せていたが、<ruby><rb>紛</rb><rt>まご</rt></ruby>う方もない女の足あとだった。経之は池をまわり、広庭につづく、ひとつは<ruby><rb>塗籠</rb><rt>くら</rt></ruby>へ、ひとつは定明の館に通ずる径を行った。落葉のみだれは館のあたりまでつづいていたが、塗籠の方に歩いたようすは見られなかった。

経之は北の館の前に立ってみたが、そんなことで、女の忍びが分るものではない。経之が去ろうとした時、突然、やかたから定明が立って出て、経之のすがたを見とめた。定明の眼は皮肉な<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>のかがやきを見せ、言葉はほとばしるように<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて出た。

「これはお珍らしい、兄上のお越しとは全く思いがけない。」

「そちをたずねた訳ではないのだ、春も近いから庭方を入れずばなるまいと思ったからだ。」

「ほう、兄上ご自身のご検分か。」

定明の言葉はすぐ食い付いて来た。

「下見して悪いか。」

「何と致しまして、ご苦労にぞんずると申すのでござる。」

ぞんざいな言葉づかいまで<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>んで放れないものを見せ、経之は異腹の兄弟とはこうもあろうかと、顔かたちの違い、性情の違い、肉体の違いを何故か急に頭にうかべた。仕えの女腹から出た定明は、父の歿後、母の許すところとなり引き取られて育ったが、異常な野性と、<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>の気性は経之とはまるで違った性格をひらいて見せた。動物にたいする<ruby><rb>憐愍</rb><rt>れんびん</rt></ruby>の欠乏は勿論、仕えの女たちへのしばしばの乱行もそうなら、<ruby><rb>碗</rb><rt>わん</rt></ruby>をもって酒食らうことも殆ど町方<ruby><rb>破落戸</rb><rt>ごろつき</rt></ruby>とえらぶところがなかった。彼のまことの母の<ruby><rb>春日野</rb><rt>かすがの</rt></ruby>は、弟が引き取られると同時に行方が分らず、津の国で見た者がいるともいい、<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の<ruby><rb>宮司</rb><rt>ぐうじ</rt></ruby>の家で見た者もいるといい、まちまちな噂であった。乱倫なもとの仕え女のなかでも、下の方にいた春日野は、邪魔者の手のかかる赤ん坊の始末がつくと、幾人かの男の手からこぼれてゆくように、津や大和にさまようて行ったのである。

定明は自分の生い立ちを知ることと、彼自身の<ruby><rb>放蕩無頼</rb><rt>ほうとうぶらい</rt></ruby>とはよく調和されているほど、反省も顧慮もしなかった。肉体にくいこんでいる母のあおぐろい血は、彼に何のわざわいを見せつけるのか、彼はひまさえあれば、北のやかたで飲酒にふけっていた。

「近頃、宮仕えの怠りが<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>いぞ。」

経之は<ruby><rb>宿酔</rb><rt>ふつかよい</rt></ruby>らしい弟の顔を見た。

「面白くない宮仕えをするなら、土民になり下った方が気が楽でござる。」

「勤めはやめる気か。」

「その日まかせにござる。」

「それでは我が家にもとどまらぬつもりでいるのか。」

「もとより。」

「よくも、ぬけぬけと<ruby><rb>囈言</rb><rt>たわごと</rt></ruby>を続けた。館を出ていずれに越そうとする。」

「野は<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>も開け放しだ。」

「いかがして<ruby><rb>飯</rb><rt>いい</rt></ruby>を用意する、飯は野に落ちてはいぬぞ。」

「兄上の飯をはむくらいなら、野に出て甘い草木をかじり申していたらさぞ晴れがましい気がいたそう。」

「この兄の飯をくらわぬというか。」

「とうから<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になってござる。」

「何故すぐさまに出て<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せぬのだ、そのようにいやならば、とかく申さずにかたを附けたらよいのに。」

「いずれ参ります。」

「そちらしくないことを申す、<ruby><rb>口前</rb><rt>くちまえ</rt></ruby>を覚えて置け。」

「わすれ申さぬ。いずれは野に暮らす者にとって何の嘘がございましょう。兄上の<ruby><rb>飯</rb><rt>いい</rt></ruby>はもとより母上の飯にもお言葉にも、もう、こりこり申している。」

「母上のことをあげつらうのはよせ、そちの幼少の折から眼をかけてつかわされた母上のことをあれこれと申すと、口もひんまがるぞ。」

「何の、われにはあずかり知らぬ母上のことだ、兄上にはまことの親しみはござろうとも、われにはまるで関係のないことだ。」

「母上のことを申すな、恐れ多いではないか。」

「兄上には恐れ多いかはぞんぜぬが、われには何のかかわりのない母上、兄上がわれの身の上になったら何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も分り申そう。」

「<ruby><rb>慮外者</rb><rt>りょがいもの</rt></ruby>、耳が腐る。」

経之は手をあげて、定明の頬を続けさまに<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>った。あおざめた定明は兄の肩先をつかんだ。

「<ruby><rb>撲</rb><rt>ぶ</rt></ruby>たれたな。」

「<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>ごとき畜生道の言葉をあやつる<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は、<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>るよりほかに手の施しようがないのだ。張り手を受けろ。」

経之はなお手をあげようとした時、突然、<ruby><rb>癇癖</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>に逆上した定明はやかたに飛びこむと、<ruby><rb>小太刀</rb><rt>こだち</rt></ruby>を携えて素足で庭石の上におりた。手を<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>の上にわなわなと震え、もう、ものもいえぬほどの<ruby><rb>昂</rb><rt>たかぶ</rt></ruby>り方だった。

「<ruby><rb>莫迦者</rb><rt>ばかもの</rt></ruby>、そのざまは何だ。」

経之は近よると、小太刀の上の手をちからを込めて、はたいた。

「この館の内でそんな太刀が抜けるか、たとえ、われにかかって来ても何の勝が得られるのだ。」

さすがに定明は、小太刀を持ち出したことが、<ruby><rb>昂</rb><rt>たかぶ</rt></ruby>りすぎて気恥かしかった。だが、引くことの出来ないぎりぎりの間に兄弟は立っていた。

「勝はいずれにあるか、そんなことは<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>にしていないのだ。」

「行け、莫迦者。」

経之は去った。

これ以上昂らせることの無益は、定明の短慮焦躁の日常を知っていたから、経之は<ruby><rb>懲</rb><rt>こら</rt></ruby>しめることをしないで去って行った。

その夜も<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>をながしたような暗さが、<ruby><rb>凍</rb><rt>し</rt></ruby>みて石のように固い空模様にまじって、庭は水底の冷えを行きわたらせていた。つい、三日前の朝、<ruby><rb>経之</rb><rt>つねゆき</rt></ruby>は裏の井のほとりに衣裳が打ちかけられて干されてあるのを見た。それは、はぎ野の衣裳で、夜着るものらしかったが、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>には一様に引かれた泥のにじみが、氷をやぶってわたったらしく、水気をふくんでいた。はたしてはぎ野の衣裳かどうかを、その翌晩に衣裳がえをしているのを見ると、やはりそうかと思った。庭わたりをするなら、定明のやかたに行くよりほかはなかったのだ。

経之は仕えの者がやすみ、夜のあかりがほそぼそとかよう下のわたどの<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>に、<ruby><rb>枕耳</rb><rt>まくらみみ</rt></ruby>を立ててやすんでいた。庭は<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>のあきから見られ、音はどこからも聞き入られるほど、館の中は寝しずまっていた。ちょうど、経之が枕をかえそうとしたとき、下のつま戸がすうと息を引くような音をたてて引かれた。そして次にはまた同じい息を引くように、つま戸がしめられた。

経之は起きあがった。<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>のあいまに、はぎ野が庭に出ようとし、裾をからげ、髪を胸前に垂らしながら立っている姿を見出した。あれほど多い仕え女の間を抜け出すことの困難さを、あぶらをながすように<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り出したはぎ野の大胆さは、図抜けた庭わたりだった。母の許しのあったはぎ野とのあいだも、他の仕え女を出代りさせたうえ、同じ武家の姫となぞらえて迎えるような<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>は、とうに、はぎ野は知っているはずだった、母からの衣裳や髪化粧の具、<ruby><rb>袿</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>や<ruby><rb>襲</rb><rt>かさね</rt></ruby>の数々もひそかに母からわたされていることを知っている経之は、はぎ野の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>にすら信仰をもっていたのだ、だが、もはや彼の眼に宵のほどに逢ったはぎ野の言葉すら、それがまことの言葉であるとは思えなかった。

経之は先まわりして庭に下りると、池のうしろに身をかがませた。定明のもとに通う時は池の裏側を通らなければならないし、勢い経之のかがんだあたりに姿をあらわすことになるのだ、経之はへいぜい気のつかない庭の風物が、この瞬間に一変してくることを感じた。見なれている<ruby><rb>幽谷</rb><rt>ゆうこく</rt></ruby>のしらべをつくる<ruby><rb>松柏</rb><rt>しょうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>は、少しも経之に<ruby><rb>常日頃</rb><rt>つねひごろ</rt></ruby>のしたしい風景にならずに、どこか、素っ気ない<ruby><rb>他処</rb><rt>よそ</rt></ruby>の庭を見るような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はな</span>れた気持であった。こんな冷たいよそよそしい風物を眺めることは初めてであった。経之はいやな沈んだ気分から、そっと呼んで見た。<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>は一たい<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>なのだ、何をしに自分がこういうところに<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>まねばならないのだ。

風はなかった。それだけに<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>い冬の名残りがきびしく、<ruby><rb>凍</rb><rt>し</rt></ruby>みを耳や足もとに、つたえて来た。やっと庭に出たはぎ野は、庭に下り立ったと見ると同時に、非常に素早い足どりで<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>の枯れ叢、松の木の間、冬も緑をもつ低い木々のあいだを縫うて、殆ど走るがように急ぎ足で行った。たくみな陰をえらんだ縫い方は、人であるよりも、なにか、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>のくずれが<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでながれているように、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れやすいものであった。経之は近よったはぎ野が下枝の張った<ruby><rb>一位</rb><rt>いちい</rt></ruby>の木から、ほっそりとうかび出た姿はまぎれもないはぎ野であることを、近々と、はっきりと見取った。

「はぎ野。」

突然、はぎ野は立ち停まり、よろけるように、二、三歩あるき出したが、驚きと恐怖とで足が前にはこべないふうだった。

「はい。」

やはり低い、低いために注意ぶかく<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>り固まったような、はぎ野だった。

「いずれに参らるる。」

「…………」

経之はぐいぐい近寄って行った。<ruby><rb>夜眼</rb><rt>よめ</rt></ruby>にも匂うような若い女の熱い顔は、実際、しきりに香気を夜気のなかにほとばらしているのだ。

「この夜半にいずれに<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>こうとされる。」

返辞はなく、はぎ野はしだいに重く、うな垂れた。ほとんど、胸もとにくっ附くほどであった。

「お返辞あれ、黙っていては訳がわかり申さぬ。」

もう、はぎ野はうごくことも、声を出して返辞をすることも出来ないところに、<ruby><rb>趁</rb><rt>お</rt></ruby>いこまれていた。

「北の館に御油をつぎにまいります。」

「夜半に油の心配か。」

その時、だしぬけにはぎ野らしく、もう、永居してはと、りこうにも<ruby><rb>踵</rb><rt>くびす</rt></ruby>をかえそうとした。そしていかにこの場を<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れるために油の説明が効いたか分らなかった。

「では失礼を。」

その言葉はつめたかった。

「待て、身どもと話をいたしてゆかれぬのか。」

「もはや夜半になりますゆえ。」

「定明がもとにこれから赴こうとするほどの<ruby><rb>御身</rb><rt>おみ</rt></ruby>が、われと話さえまかりならぬというのか。」

経之は<ruby><rb>赫</rb><rt>かっ</rt></ruby>として眉をあげた。

「はい、定明様は定明様、あなた様はあなた様、別ようにございます。」

「それで……。」

経之はせき込んで叫んだ。

「わたくしはこれにて<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>ります。」

落著いてあきらかに<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>がったふうを見せたはぎ野は、そのまま、うしろ向きになって歩き出した。まるで経之なぞはぎ野の頭の中にいないというふうだった。

「はぎ野。」

返しの言葉がなかった。

「待て。」

経之はその時、手にいじっていた火打石の一個を、殆どそれが決定的にそう<ruby><rb>抛打</rb><rt>なげう</rt></ruby>つために用意されていたように、こちら向きになったはぎ野に打ち当てた。

「あ。」

「うごくな。」

しかし素早いはぎ野は、叫び声をあげると同時に池の向う側に姿を消した。たしかに、額に火打石は<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めたのだ、手応えは充分にあったのだ。もしかりに額に当てられたとしたら、傷を負わしはしなかったかと、なぜか、きゅうに経之の心は<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めたが、大ざっぱに、そして投げやりな気持に変って行った。その時はその時だ、何事も遅いと彼は意地悪い<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>り立つもののなかに荒々しい息をついた。

経之が間もなく踵を返そうとすると、不意に、全くそれは先ほどからの機会を待ちうけたように、北のやかたの方から、姿は見えないが、<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>のかげから起った声が、経之のうしろから叫ばれた。

「誰か。」

経之は声の方向を眼で<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>ったが、きゅうには所在が判らなかった。

「そういうのは<ruby><rb>何奴</rb><rt>なにやつ</rt></ruby>か。」

「そちらこそ何者だ。」

声は定明、そして彼は池のはじの方にある植込を前に控えて立っていた。

「経之だが、いまごろ何用あって呼び止めたのだ。」

「兄上か。」定明はさらに挑みかかるようにいった。「この夜半に庭にて何をなされていられる。」

「そちこそ何用あって庭わたりをしているのだ、<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>臭い奴だ。」

「兄上こそ身分がら夜歩きは<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>し兼ねまする。」

経之は<ruby><rb>冷笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>った。

「女ならもう突き戻した、<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>を食わして追い払ったのだ。」

「礫を！」

「たしかに額に打ち当てた、女狐は打たねばならぬ。」

定明は逆上していった。

「兄上、去られい、たとえ兄上であるとも、容赦はできぬまでに相成り申しているぞ、暗さは暗し何を仕出かすか、分り申しませぬ。」

「かかって来るか。」

答えはなく、枯木にこだました人間の声は、固い石を打ちあてるようだった。

「去られい。」

そしてその定明の声は、自分で何をするか分らない<ruby><rb>警</rb><rt>いまし</rt></ruby>めを、自らにも、経之にも叫びあうようなものだった。やがてそれは同様な兄経之の<ruby><rb>昂</rb><rt>たかぶ</rt></ruby>った気持と、少しの<ruby><rb>渝</rb><rt>かわ</rt></ruby>りのないものだ。

「汝こそ<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>がれ、一刻の後にはどうなるか分らないものが、汝の身に迫っていることに気がつかんか。」

「兄上の身にもそれが<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いかかってござるぞ。」

「たわけ。」

「…………」

彼らは彼ら自身すら知らない間に、相ついで近づいた、そして近づいたということは、それが合図なように重い二人の肉体が<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みあう機会を、もう、外すことができないぎりぎりのところに追いつめていた。経之は弟の肩先をつかみ、定明は兄の胸のあたりに手をからませた。それは時間でいえば何分もかかっていなかった。

「去れというに。」

定明は突きもどされた。そこから、再び立ち向えないものが年長者にたいする、ふしぎなおそれになり、定明を<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>ませ<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>り固まらせた。彼はちょっと<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>むような姿勢になったと思うと、突然、経之は額に重い打撲を感じた。それは定明が跼んで起きたときに、すでに用意した<ruby><rb>沓</rb><rt>くつ</rt></ruby>の片方が非常な速さで、経之の額に投げ飛ばされたのだ。

「<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>。」

経之の声が切れたときに、もう一個あった火打石の片方が、うしろを見せて素早く立ち去ろうとした定明の逃足に向って打ち当てられた。

「た……」

という変な声を立てると、定明は急にしゃがむように、その五体を<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>のうえに崩して行った。

経之は去った。彼はたかが女一匹とふたたび心で叫んで見たが、それはもはや<ruby><rb>虚</rb><rt>むな</rt></ruby>しい<ruby><rb>痩我慢</rb><rt>やせがまん</rt></ruby>にすぎない言葉だった。女は経之を<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>っているというあれほどたしかな言葉があろうか、母がゆるしているのに、女はそむいて定明についているのだ、もう、これ以上に彼の考えることはなかった。彼は何のために夜半の庭歩きをし、みにくく弟と<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み合ったかを考えると、眼は<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え心は妙にふるえて来た。何度も寝返りを打ち、何度も深い<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をつき、からだをちぢめ、また伸ばそうとこころみたが、<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りはもう穏やかにはやって来なかった。それは幾時の後だか分らないが、彼がふと<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>のすきから庭先に眼をやった時、愕然として再び起き直って蔀のそばに寄って外を眺めた。

そとの池のまわりを殆ど眼を射るように、過ぎるに速い姿があった。人にちがいなく人も女身だったのだ、誰がこれをはぎ野だといい切る者がいようぞ、しかも、<ruby><rb>紛</rb><rt>まご</rt></ruby>う方もないはぎ野だったのだ、経之は、あれほどの驚きを数刻の前に知った女が、<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>にしかも<ruby><rb>既</rb><rt>と</rt></ruby>うに何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も打っちゃって男にあいに行くために、同じ夜半にふたたび庭わたりをしているではないか、<ruby><rb>凝然</rb><rt>ぎょうぜん</rt></ruby>として経之は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返ったなかに、女のつよさ、一念の剛直さに眼をはなさないでいた。はぎ野の姿は北のやかたの方に消え失せた。

かくまでに女のおもいは<ruby><rb>猛々</rb><rt>たけだけ</rt></ruby>しいものであったか、何者にも恐れず、また、何者にも<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りようとしない女の心の烈しさ、これは結局、女のまことがこうまで女を走らせているのだ、そこにはうそも、見栄もあろうはずがない、経之はふたたび庭に下りてはぎ野を<ruby><rb>趁</rb><rt>お</rt></ruby>うことのおろかさを感じた。こと、ここまでに至っては何ごとを説こうとしても、説く者に恥があるのだと経之は<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>とするだけだった。

翌朝、経之はあたりに人眼がなかったので、はぎ野を呼び止めた。

「額の傷は？」

「ごぞんじにあらせられますのに。」

つめたい<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしには、経之も、たじろいだ。しかも、突きすすんで経之のために受けた傷であることを<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>らさまに言わないところに、さすがに女らしいものがあり、それの分らない経之ではなかった。

「では何故に<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め立てをしないのだ。」

「ほんのかすり傷でございますゆえ、お咎めしても、せんなきように思いまする。」

はぎ野はわらって見せた。それも、男ゆえに我慢しているのか、経之はうずくような美しさを踏みにじりたかった。

「そしてそちは、ゆうべ、あれから再び庭をわたって行ったのだ。」

「いいえ。」

はぎ野はかぶりをふって見せたが、短い間の<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた色は、顔のなかにばらばらに現われた。

「そして一刻の後に立ち戻ったのを見た。」

「いいえ、額の傷のいたみで<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>すことすら出来ませなんだ、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にも、まいりはいたしませぬ。」

「井のほとりに干してある衣裳の裾には、引き泥のあるのはいかが致した。」

はぎ野は、そこまで見られたことは、知らなかった。経之はたたみかけて言った。

「そちの顔色蒼白は何のためか。」

はぎ野は思いがけなく、顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>らめた。いくら経之でも、ゆうべの男との仕儀がまさか<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にあらわれていはすまいに、それを見破ることはないと思った。

「傷のいたみとしか思われませぬ。」

「教えてやろう、はぎ野、男と寝た女の顔の翌朝の<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>は、すぐ分り申すのだ、よごれて疲れているのだ。そちの顔にあられもない有様がただようている。」

はぎ野はこの言葉をうけとるほど、それほどの男との数々を知っているわけではなかった。だが、充分に<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>り立てられたものは、彼女のかゆい乳房のうえに覚えあるものをよみがえらせた。

はぎ野は例のりこうげに立ち去ろうとした。

「わたくしこれにて……」

「待て。」

経之は鋭く呼び立った。

「もう一度念を押すがそちはこの家にもはや足をとどめることがあるまいな。」

「はい、いずれは？」

ぎょっとしてはぎ野は思うところに、経之が<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかって来たことを知った。

「いずれは去るか。」

「はい。」

きっぱりとした答えだった。

「経之をどうする？」

「あなた様のことはあなた様のこと、わたくしのぞんじ上げるところではございませぬ。」

「そうか、のたれ死の道を選ぶのか。」

経之はかっとして唾を吐いた。

「女の面に<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>を打つような<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい方には、<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>くような女はこの世界のどこにもいはいたしませぬ。」

経之はその言葉の前に、もう、一歩もすすめなかった。やっと彼はやけくそのような言葉を叩きつけた。

「行け。」

はぎ野は<ruby><rb>簀子</rb><rt>すのこ</rt></ruby>のうえから去った。

頭がしんとなるような瞬間は、同時に<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ空虚な、よい考えなぞ、うかんで来なかった。

数日の後、定明はやかたを出て、行方をくらましたが、<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>それから中一日を置いて、はぎ野も、誰にも何事をも明さずに、やかたを出て行った。しめし合したことは勿論であるが、春が来て秋がなかばになっても、かれらの行方がわからなかった。経之は、母へも何も明さないまま、また、行方をさがすことをしなかった。官の方は辞し北のやかたの戸を閉してしまったのである。たくわえもなければ領地もない定明はいずれは、のたれ死をするくらいが落ちであろう、経之はその年も暮れ、ふたたび冬が来、春も近づこうとする頃、北のやかたの<ruby><rb>守人</rb><rt>もりびと</rt></ruby>のいうには、<ruby><rb>南野</rb><rt>みなみの</rt></ruby>のはてに定明らしい者が<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>しているとも言い、それは一軒のやかた作りではなく、野の<ruby><rb>臥戸</rb><rt>ふしど</rt></ruby>のような<ruby><rb>小屋掛</rb><rt>こやがけ</rt></ruby>の中に住んでいるとのことだった。勿論、はぎ野も一緒であったが、一年に余る野の臥戸ぐらしに衣裳はやぶれ落ち、飯も自ら作ることをしないために<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えがちだということであった。

もっと悪い噂は<ruby><rb>行人</rb><rt>こうじん</rt></ruby>や村家の物を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>め取るということが、あたりの人の口の<ruby><rb>端</rb><rt>は</rt></ruby>に上っていた。もしこれ以上に行人村家の物を掠めるようなことがあれば、村人は野を狩り立てるかも知れない、それでなくとも、村人は山麓と野の境には足跡を絶って近寄らなかった。

その年の冬は永く続いて寒さと<ruby><rb>凍</rb><rt>し</rt></ruby>みは、野の作り物を遅らせ、夏の初めには<ruby><rb>飢饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>のきざしさえ見え、雨は月と月に<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>っても降らなかった。村人はわずかな<ruby><rb>菜根</rb><rt>さいこん</rt></ruby>の<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>に見張りをつけるほど、食物はまるで実らなかった。その乏しいというよりも殆ど一本の菜っ葉をかぞえるくらいの畠は、夜にはいると荒らされて盗みの手がはいった。それはまるで村人同士が、お互の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>に乗じて畑から畑へとわずかな、しかもかけがえのない菜根を盗みはじめたのだ、そしてそれらの盗み手は、野と<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の境目にいる男女が行うた盗みのわざというふうに言われた。村人は自分の盗みをなすり付けるのに、これほど、よい口実がなかった。

村人は寄り合ってこの武家あがりの男をどうして捕えようかと話し合ったが、野の遠くではあり、狩り立てるのにも、武士のことゆえ軽々しく事を行うわけにゆかない。彼らは結局、一つのそれが自然にそうなったような、或るやましい思い付きを話し合った。

「野に火を放て。」

この案はそれ自体が盗人を退治する、ただ一つの方法であった。

「誰がしたか分らないように四方から野を焼くのだ、盗人がそこで焼き死をするまで火を放て。」

村人は手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>ち、草も雨がないので枯れているから、よく燃えるだろうし、追風のある日にはたちまちまっ黒野になってしまうだろうと、その案に<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>を送ったのである。寄り合いはこうして結ばれたのだ。その一人はいった。

「つれの女も焼くのか。」

「女も盗人と同罪だ、女を焼かないで誰を焼くのだ、盗みというやつは女がいつも背後にいるのだ。」

村人はこぞって追風の立つ日を待った。その間にも或る夜の畑の中で盗人を見つけた一人の村人が、永追いをして斬られ、<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>を負った。そして畑の作物は<ruby><rb>掠</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み取られ、いやがうえに村人の<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りを<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>り立てることになったのである。斬られた村人は言った。若い武士だ、剣のような蒼白い顔立ちをし、古びた太刀をはいていた。太刀の使い手らしいから用心せよと皆に注意した。まるで<ruby><rb>疾風</rb><rt>はやて</rt></ruby>のように去ったが、山麓の方に消え失せたとも言った。

「一刻も猶予すべきではない、当にもならない風の日なぞ待たないで、事を決しようではないか。」

村人は翌日、枯草の山を野の四方に積み立て、折から、やや烈しい追風のあるのを見て、皆こぞって火を放つ用意をした。草は<ruby><rb>古藁</rb><rt>ふるわら</rt></ruby>のように乾き、野はかまどのように熱く土さえ燃えそうな暑い日になった。彼らが四方から火をつけようとしたとき、突然、早馬に乗った一人の武士が、三人の供をつれて疾駆してくる姿を見付けた。馬は野をはすかいによぎって走った。

「早く火を放て。」

村人は口々に叫びながら、ついに、火は四方の枯草の上につけられた。火はほんの一刻の間に<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め廻す<ruby><rb>火先</rb><rt>ほさき</rt></ruby>と火先のつながりから、一さいに大きいひろがりから、塊に変って行った。

<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>その時、馬上の武士がかれらが逃げようとする、前の道路に立ちふさがった。村人は一つのかたまりになって後ろ<ruby><rb>退</rb><rt>す</rt></ruby>さりに、火をつけた方に戻るような位置になって行った。

「火を消すのだ、野を焼くことは大罪になる、火を消せ。」

村人は言った。

「盗人を焼くのだ、これが何の大罪になるのだ。」

「大罪も大罪、死罪になる、早く消してかかれ、火を消せば罪は<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め立てはせぬから、早くかかれ。」

村人は死罪という言葉にたじろうた。武士はふたたび叫んだ。

「火の元を消さなければ<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く死罪を言い付けるぞ。」

村人はなお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐず</span>ついている間に、武士は一人の村人を斬った。斬られた百姓はただちに捕えられた。

折から、鐘が鳴り、非常の空気が村人の上に蔽いかかり、なお、ぐずついていれば皆召し捕られることに、武士は叫びながら<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

「火を消せ。」

村人らは自分の<ruby><rb>放</rb><rt>つ</rt></ruby>けた火を消し出したが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>の追風にはもう手の尽しようもなく拡がった火の手は、四方から暗い煙と、粉を吹く火の手にかわり、墨汁のような一面の煙はもう行くところまで燃え拡がらなければ、おさまらないふうだった。村人は総出になったが、火はふくれ拡がり、深く野の<ruby><rb>胴腹</rb><rt>どうばら</rt></ruby>を<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>って山麓の方に、<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>状の起伏を音響のある火風になって押し寄せて行った。

馬上の武士はもう何事も手のつくされないことを知ると、ただ一騎で野をよぎり、山麓の方に向きを据えると、<ruby><rb>馳</rb><rt>はし</rt></ruby>りに馳った。火の手は馬上の彼とすれすれの勢いで、或る火の道はほどばしりを上げながら、彼のゆく手を抜いて燃えさかり、馬の脚なみと同じ速力を競うて、燃えついて行った。

流れがあった。その流れのあたりに人の通りつけた<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>が、ひとりでに草の間についていて、小径は山麓と野の境の間にある一つのほら穴の前に、行き尽いていた。ほら穴の入口にも雑草は蔽うていたが、人が住むために整えられたような穴のへりは、円いなめらかさを持っているのは、疑いもなく誰かが、いるためとしか、思われなかった。彼が<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に走りついた時にも、火の手は背後にも、前にも幾層となく<ruby><rb>縞目</rb><rt>しまめ</rt></ruby>を<ruby><rb>縒</rb><rt>よ</rt></ruby>って追っていた。わずかな<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>や<ruby><rb>萱</rb><rt>かや</rt></ruby>の節々の燃えはじける音は、一つの交響的なほどばしりになって寄せた。

「<ruby><rb>危</rb><rt>あぶな</rt></ruby>い出ろ。」

馬上の武士のこういう叫び声がつづくと、穴の中から一人の男がまるで火の手なぞを一向に問題にしない、平気な顔付で現われた。そして冷たい<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>しつけるような<ruby><rb>眼付</rb><rt>めつき</rt></ruby>で馬上の武士を見るといった。

「兄上、何しに見えられた。」

「野に火が<ruby><rb>放</rb><rt>つ</rt></ruby>けられたのだ、早くここを落ちのびろ。」

馬上の武士は経之だった。

「そして<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>に行けばいいのだ、火の手は眼で見ているのだ。」

「焼死するつもりか。」

「<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>よりほかに行く<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>がなければ、お察しのとおりでござろう。」

定明の顔色には、少しの動揺がなかった。

「その覚悟にも後悔はないか。」

「後悔はあるでしょう、だが、今は何もない、勝手にさせてもらいましょう。」

「では勝手にするがよい、おれはもうすることをしてしまったのだ。」

火はあたりに迫った。暗い煙が穴の前につなみのように寄せた。

「<ruby><rb>莫迦者</rb><rt>ばかもの</rt></ruby>、<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>かぬか。」

「退いてよければ勝手に退くのだ、<ruby><rb>御辺</rb><rt>ごへん</rt></ruby>のお世話にならぬ。」

その時はじめて経之は或るふしぎな思いに引きもどされた。

「はぎ野は？」

「<ruby><rb>虱</rb><rt>しらみ</rt></ruby>のわいている<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>武士には、女はいつき申さぬ。」

「なぜ女を斬らなかったのだ。」

「女は斬れそうで斬れない、はは。」

火は二人のあしもとに、ちろちろ飛んで燃えて来た。もう村人の声もしない、<ruby><rb>爆</rb><rt>は</rt></ruby>ぜる音ばかりが続き、<ruby><rb>凝乎</rb><rt>じっ</rt></ruby>としては熱風で息が<ruby><rb>窒</rb><rt>つ</rt></ruby>まりそうだった。

「定明。」

「何事。」

「もう一度いうが、立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いたらどうだ、わが馬のうしろに。」

経之は馬の腰をたたいて見せた。さすがに定明はためらい、眉を伏せるような恰好をして見せたが、次の瞬間にはこの剛情者は<ruby><rb>頑</rb><rt>がん</rt></ruby>として動じないふうにいった。

「お構いあるな。」

「<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬか</rt></ruby>した、うつけ者、焼けただれてしまえ。」

「熱かったら逃げ申す。」

突如として定明は<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>い声を立てた。

彼らはこうして別れた。山の方にやけくそのように登ってゆく不敵な定明は、都の方への道をとらずに、山峡をただ足にまかせてつたって行った。