## 一

ある<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>、<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>は<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>にはいっていた。晩といっても、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>で風呂にはいるのは暗くなってからである。風呂といっても、田舎の風呂は、<ruby><rb>五右エ門風呂</rb><rt>ごえもんぶろ</rt></ruby>という、ひとりしかはいれない<ruby><rb>桶</rb><rt>おけ</rt></ruby>のような風呂である。

久助君は、つまらなそうに、じゃばじゃばと音をさせてはいっていた。風呂の中でハモニカをふくことと、歌をうたうことは、このあいだお父さんから、かたく<ruby><rb>禁</rb><rt>きん</rt></ruby>じられてしまったのである。「風呂の中でハモニカをふいたり、鼻歌をうたったりするようなもんは、きっとうちの<ruby><rb>屋台骨</rb><rt>やたいぼね</rt></ruby>をまげるようになる」とお父さんはいった。久助君は、<ruby><rb>加平君</rb><rt>かへいくん</rt></ruby>ところの牛小屋が、いぜん、だんだん<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>いてきて、<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>がかえるの<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>のように外側にふくれ、とうとうある日つぶれてしまったのをよく知っていたので、自分の家があんなふうになるのはかなわないと思って、ハモニカも歌もやめてしまったのであった。

ハモニカと歌をとりあげられてしまうと、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>は、<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>にとって、おもしろくないことであった。何もすることがなかったのだ。

そこで久助君は、何か一つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">考えて</span>みることにした。

しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">考え</span>というものは、さあ考えようといったって、たやすくうかんでくるものではない。いったいなんのことを考えたらいいだろう。

――さて何を考えよう、と久助君が、自分の耳をひっぱったときに、じつにすばらしい考えのいとぐちがみつかった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">耳</span>のことである。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">花市君の耳</span>のことである。

<ruby><rb>花市君</rb><rt>はないちくん</rt></ruby>は、ふつうの人より大きい耳をもっている。その耳は肉があつくて、<ruby><rb>柔</rb><rt>やわ</rt></ruby>らかくて、赤い色をしている。その二つの耳が、花市君の、まんまるな、お月さんのような顔の両側に<ruby><rb>扇子</rb><rt>せんす</rt></ruby>をひらいたようなぐあいについている。花市君はいつも、二つの耳のあいだで、<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をほそくしてにこにこしているのである。

久助君たちは、よくこの花市君の耳をさわるのである。むろん久助君ばかりではない。村の子ども――といって、花市君より上級の者ばかりだが――は全部、そういうことをするのである。ほんとうは久助君は、自分からすすんでそんなことをしたおぼえはない。ただ、ひとがするので、まねてするばかりである。

<ruby><rb>花市君</rb><rt>はないちくん</rt></ruby>の二つの耳というのが、また、みるとなんとなくさわりたくなってくるのだ。<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>の<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>をみると、人はなでたくなるし、<ruby><rb>赤</rb><rt>あか</rt></ruby>ん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>の小っちゃい手をみると、人はそれをいじってみたくなる。それと同じで、<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>たちは花市君の耳をみると、さわりたくてむずむずしてくるのであった。

もしだれかが、久助君の耳をさわりにきたら――そんなことがたびたびあったら、久助君は<ruby><rb>憤慨</rb><rt>ふんがい</rt></ruby>するだろう。「ぼくの耳はおもちゃじゃないぞ。ばかにするねえ！」といって、相手をつきとばすだろう。久助君じゃなくても、<ruby><rb>徳一君</rb><rt>とくいちくん</rt></ruby>にしても<ruby><rb>兵太郎君</rb><rt>へいたろうくん</rt></ruby>にしても<ruby><rb>音次郎君</rb><rt>おとじろうくん</rt></ruby>にしてもそうだろう。

ところが花市君は、いままで、おこったことがいちどもなかった。あんまり、みんなが、うるさく耳をさわりはじめると、「いたいよ」といってにげだすことがあったが、そんなときでもにこにこしていた。そこで、久助君たちは花市君の耳をいじることだけは、特別の<ruby><rb>法律</rb><rt>ほうりつ</rt></ruby>でゆるされているように考えているのである。

いったい花市君は、あんなことをされるとき、何を考えているだろうか。にこにこしているところをみるとおこってはいまいが、何を考えているかはわからない。

わからないといえば、久助君たちはあまり花市君のことを知らないのだ。この村から、町の国民学校（この村は小さいので国民学校がない）に通うものは男が十八人、女が九人であるが、男の十八人のうちで、五年級にいるものは<ruby><rb>花市君</rb><rt>はないちくん</rt></ruby>ひとりである。<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>、<ruby><rb>徳一君</rb><rt>とくいちくん</rt></ruby>、<ruby><rb>兵太郎君</rb><rt>へいたろうくん</rt></ruby>、<ruby><rb>音次郎君</rb><rt>おとじろうくん</rt></ruby>たちはみな六年級である。だから、花市君が、学校でよくできる生徒かどうかということも久助君たちにはわからなかった。それに花市君はにこにこしてばかりいて、あまり口もきかなかった。それで、みんなからわすれられてしまうこともあった。

しかし、こんなこともあった。ある雨の日に、五年と六年とが教室で戦争ごっこをした。久助君は<ruby><rb>俘虜</rb><rt>ふりょ</rt></ruby>になって五年の教室につれられていった。すると、そこの<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>に図画が五六<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>はってあった。どれもみなうまかったが、一ばん上にはってある山の<ruby><rb>水彩画</rb><rt>すいさいが</rt></ruby>は、久助君の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をひきつけた。色が<ruby><rb>豊</rb><rt>ゆた</rt></ruby>かで、たいへん美しかったのである。久助君も図画はとくいであったが、この<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>のように色を<ruby><rb>大胆</rb><rt>だいたん</rt></ruby>に豊かにぬることはできなかった。この画にくらべると、自分の画は、何か、かさかさしていて<ruby><rb>貧相</rb><rt>ひんそう</rt></ruby>であった。久助君が、そっと、あれはだれの画かときいてみると、花市君のだということであった。

そんなこともあったが、じき久助君はわすれてしまったのだ。そして花市君をみれば、みんなといっしょに耳をさわらしてもらっていたのである。……

「久は、ちっとも音をさせんが、まさか<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>の中で死んどるんじゃあるめえな。」

とお父さんの、いっているのが聞こえてきた。

久助君はあわてて、じゃばッと外に出た。すこし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">考えすぎた</span>ようである。<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>がまっかになっていた。

## 二

「<ruby><rb>久助</rb><rt>きゅうすけ</rt></ruby>くうん」

と下級生のよぶ声がして、すこしあいだをおいてから、

「きゅ、う、すけえ」

と、<ruby><rb>遠慮</rb><rt>えんりょ</rt></ruby>しがちに、同級生の者がよんだ。これが、久助君たちのあいだで行なわれる、<ruby><rb>召集</rb><rt>しょうしゅう</rt></ruby>のしかたである。

この村は一本の県道をはさんで、南北にわかれている。道の南側はだんだんに高くなっていて、終わりには村の南端の、<ruby><rb>運動山</rb><rt>うんどうやま</rt></ruby>のいただきにいたるのである。道の北側は反対にだんだん低くなってゆき終わりは<ruby><rb>背戸川</rb><rt>せどがわ</rt></ruby>にいたるのである。

そこで子どもたちが<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>を召集しようと思うと、道に立って、道の南にある家に向かっては、あおむいて、背戸からよび、道の北にある家に向かっては、下の方をむいて、家の正面からよぶのである。

久助君の家は道の北側にあったので、よび声は、家の前の<ruby><rb>段々畑</rb><rt>だんだんばたけ</rt></ruby>の、茶の木をこえて流れてきた。そして久助君の耳にはいった。

そのとき<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>はふかしたいもをたべていた。学校から帰ると<ruby><rb>甘</rb><rt>あま</rt></ruby>えん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>の久助君は、何かたべる<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>だったのである。

しかし、<ruby><rb>召集</rb><rt>しょうしゅう</rt></ruby>の声をきくと久助君は、

「ううん」

と、向こうに聞こえるように返事をして、すっくと立ちあがった。

そしていもをたべながら家を出た。子どもの召集だから、物をたべながらあつまってもさしつかえなかったのである。

久助君が県道に出ると、もう七人あつまっていた。きょうは運動山で、<ruby><rb>南京攻略</rb><rt>なんきんこうりゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>模擬戦</rb><rt>もぎせん</rt></ruby>をするのだそうだ。

やがてこの村の全部の男の子が、――つまり十八人があつまった。

運動山について、<ruby><rb>参謀本部</rb><rt>さんぼうほんぶ</rt></ruby>が作戦計画を立てはじめた。参謀本部というのは、<ruby><rb>徳一君</rb><rt>とくいちくん</rt></ruby>と久助君と<ruby><rb>兵太郎君</rb><rt>へいたろうくん</rt></ruby>で、だれがきめたのでもなかったが、しぜんにそういうことになっていたのである。もっともこのうちで兵太郎君は、<ruby><rb>装甲自動車</rb><rt>そうこうじどうしゃ</rt></ruby>とタンクの区別がつかなかったり、軍用犬になる犬の種類を知らなかったり、<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>ばきの飛行機（フロートをつけた飛行機）というと、<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>のかわりに下駄をはいてのりこむ飛行機であると思いこんだり、<ruby><rb>敵前上陸</rb><rt>てきぜんじょうりく</rt></ruby>はどこででも――たとえば川も海もない麦畑の中のようなところでもできると考えていたりするようなたよりない<ruby><rb>将校</rb><rt>しょうこう</rt></ruby>であった。しかし、<ruby><rb>戦闘</rb><rt>せんとう</rt></ruby>のまねをすることがじつにうまかった。たとえば、クリークの中を泳いですすむまね、<ruby><rb>掩護物</rb><rt>えんごぶつ</rt></ruby>のかげからかげに<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をかがめてゆく動作、トーチカを<ruby><rb>占領</rb><rt>せんりょう</rt></ruby>して<ruby><rb>万歳</rb><rt>ばんざい</rt></ruby>を<ruby><rb>絶叫</rb><rt>ぜっきょう</rt></ruby>する<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をうたれて、ころころと<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>からころがりおちるところ――それらはみな真にせまっていた。こういうことがじょうずだから、<ruby><rb>参謀本部</rb><rt>さんぼうほんぶ</rt></ruby>のひとりになるねうちはあると、<ruby><rb>兵太郎君</rb><rt>へいたろうくん</rt></ruby>はじぶんで考えていたのである。

さて、参謀本部が、だれとだれを<ruby><rb>支那兵</rb><rt>しなへい</rt></ruby>にし、だれを<ruby><rb>友軍</rb><rt>ゆうぐん</rt></ruby>の<ruby><rb>斥候</rb><rt>せっこう</rt></ruby>にし、だれをタンクにするかというようなことをきめていたときのことだった。待っていた<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>の者たちが手持ちぶさただったので、そういうときによくやるように、<ruby><rb>花市君</rb><rt>はないちくん</rt></ruby>の耳にさわろうとしたのである。

さいしょに手を出したのは、六年生の<ruby><rb>加平君</rb><rt>かへいくん</rt></ruby>であった。加平君は、こっそり、花市君の耳の<ruby><rb>柔</rb><rt>やわ</rt></ruby>らかさをたのしもうとしたので、他の者にははじめ知れなかった。しかし、

「いやだよ。」

という、ひじょうにはっきりした、強いことばが発せられたので、みんなはそちらをみた。久助君たちも作戦計画を中止してみた。

するとそこには、花市君が、いつものようににこにこせずに、つっ立っていた。そのかわりに加平君がにやにやとてれくさそうに笑っていた。そこで一同には、加平君が花市君の耳をさわろうとしたのであること、「いやだよ」というききなれないことばは花市君の口から出たということが、わかったのである。

みんなは<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としてしまった。これはいったいどうしたことなのか。

<ruby><rb>花市君</rb><rt>はないちくん</rt></ruby>が「いやだよ」とはっきりいったのである。耳をさわることを<ruby><rb>拒絶</rb><rt>きょぜつ</rt></ruby>したのである。そしてにこにこすることをやめたのである。

みんなには、そこにつったっているのは、よく見知っている花市君ではなくて、どこか知らない遠いところから、きょう<ruby><rb>突然</rb><rt>とつぜん</rt></ruby>やってきた少年のように思われた。

しかし、子どもたちは、自分たちの中に、そういう、わけのわからぬものがいるとは思いたくなかった、やっぱり、そこにいるのは、日ごろ親しくしている花市君であると思いたかった。そこで、二番目に<ruby><rb>音次郎君</rb><rt>おとじろうくん</rt></ruby>が、横から手を出して、花市君の耳にさわろうとした。

「いやだよ。」

と花市君は前と同じ声で、同じ<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>でしずかにいった。

もううたがいのよちはなかった。花市君はきっぱりと耳にさわられることをことわったのである。それは<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>ばかりでなくこれからのちいつまでもそういうくだらぬことはしてもらいたくないという心をあらわしていた。

べつにおこっているふうでもなければ、どなり声でもなかったが、その声をきくと、さわろうとした者はもう二度と手の出せないのがふしぎだった。

これで<ruby><rb>花市君</rb><rt>はないちくん</rt></ruby>の<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>ははっきりしたのである。しかしたしかめてみる必要があると<ruby><rb>兵太郎君</rb><rt>へいたろうくん</rt></ruby>は考えた。そこで兵太郎君が花市君のそばにいって手を出した。しかし、

「いやだよ」

という同じことばに兵太郎君も<ruby><rb>撃退</rb><rt>げきたい</rt></ruby>されてしまった。

兵太郎君以上にばかなものはいなかったのでもうだれも手を出さなかった。しかしみんなは、全部の者が、手を出してはねつけられたような感じがした。ひとりの花市君に、十七人の者が負けてしまったような気がした。

それは、わずかなあいだにおこった、なんでもないようなできごとであった。しかしこれは、みんなの心の世界では、じつに大きな<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>だったのである。かたわらでとつぜん<ruby><rb>大砲</rb><rt>たいほう</rt></ruby>が発砲されたようなぐあいだった。心の中がガアーンとしてしまって、前後のことがめちゃくちゃになり<ruby><rb>連絡</rb><rt>れんらく</rt></ruby>がつかなくなってしまった。

しばらくしてみんなは、じぶんたちが<ruby><rb>南京攻略</rb><rt>なんきんこうりゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>模擬戦</rb><rt>もぎせん</rt></ruby>を計画中であったことを、やっとのことで思い出した。しかしそのときは、もう、そんなことになんの<ruby><rb>興味</rb><rt>きょうみ</rt></ruby>も感じないのであった。

<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>たちは、けろんけろんとして、あっちの空をみたりこっちの空をみたり、あるものはおもしろくなさそうな顔で松かさを足でおもちゃにしたりしていた。

## 三

<ruby><rb>花市君</rb><rt>はないちくん</rt></ruby>のやり方が、たいへんりっぱで、<ruby><rb>英雄的</rb><rt>えいゆうてき</rt></ruby>であることは、十七人の子どもたちによくわかった。あんなにきっぱりと「いやだよ」といった者が、この村の子どもたちの中にいままでひとりでもあったろうか。

古いわるい<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>をあらためるのは、まったくあの通りにやらなければならない。「いやだよ」ときっぱりはねつけるのである。また、新しくよい習慣をはじめようとするには「よし、やろう」ときっぱりいって<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがるのである。「いやだよ」も「よしやろう」も、つまりは同じことなのだ。

さて、この村の少年たちは、その夜、ひとりひとりになってから、じぶんも、あのようにきっぱりと、古いわるい習慣を改めたい、またあのようにきっぱりと新しいよい習慣を身につけたいと考えたのである。しかし人間はひとりひとり顔がちがうように、心もちがうところがあるから、考えていった道すじや、考えた結果はいろいろだった。

では<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>の場合はどうだったろうか。

夜の七時。お母さんはお<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>をわかしていた。お父さんはお酒の<ruby><rb>配給券</rb><rt>はいきゅうけん</rt></ruby>を配りにいってるすだった。おばあさんは、ことしとった<ruby><rb>綿</rb><rt>わた</rt></ruby>の花の中から、<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>を一<ruby><rb>粒</rb><rt>つぶ</rt></ruby>ずつひろい出していた。ねずみが、<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>の方で、ごそごそやっていた。<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>は、<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>からつるした<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>太鼓</rb><rt>たいこ</rt></ruby>の下に、あおむけにねころがって、足で太鼓をたたいていた。なれているので、うまくたたくことができた。

――いやだよ。

このことばをまた心の中でいってみた。あれからいくどくりかえしたことだろう。――いやだよ……

久助君も、きっぱりとそういって、古いわるいしきたりを<ruby><rb>英雄的</rb><rt>えいゆうてき</rt></ruby>に改めたかった。しかし、その古いわるいしきたりとはなんであるかということになると、これはまた問題であった。

いっぱい古いわるいしきたりはあるような気がする。まるで黒い雲のように、じぶんのまわりを、古いわるい、うすぎたない、くさった<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いのする<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>が、とりまいているような気がする。しかしいくら考えても、そのうちの一つでも、はっきり久助君の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>にみえてこないのである。

いったい何を、「いやだよ」と<ruby><rb>拒絶</rb><rt>きょぜつ</rt></ruby>したらいいのだろう。何を「よし、やろう」とはじめたらいいのだろう。……

久助君はポンポンと太鼓をけった。

（そうだ）、と久助君は考えた、（こうしていることがわるい古い習慣だ。）そして自分のねている<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を、首だけ起こしてながめまわした。（よし、こいつから改めよう。）

「いやだよ！」

と<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>の口から大声がとび出した。そして久助君はぴょこんととびあがってつっ立った。

おばあさんがびっくりしていった。「どうしただや久は。虫でも起こったじゃないかや。」

「いやだよ！」

と久助君はまたどなるようにいった。そして手あらくかばんをはずしてきた。それから、つきぬけるようなかん高い声で、読本の第六課を読みはじめた。読めない字があっても、考えたり、筆記帳をみたりするのが<ruby><rb>面倒</rb><rt>めんどう</rt></ruby>なので、でたらめのことをいって通っていった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きっぱりしたやり方</span>なんだからそれもしかたないと考えたのである。

しかし、第六課を二ページばかり読むと、自分のやっていることは、ほんとうのきっぱりしたやり方ではないことがわかり、ばからしくなって、やめてしまった。そして読本をそこに投げだすと、また<ruby><rb>太鼓</rb><rt>たいこ</rt></ruby>の下にあおむけにねころがった。……

久助君にとっては、<ruby><rb>花市君</rb><rt>はないちくん</rt></ruby>のようにやることは、どうもむつかしく思われたのである。

## 四

さて、つぎの朝、久助君はまた、<ruby><rb>通学団</rb><rt>つうがくだん</rt></ruby>の集合時間におくれてしまった。七時三十分までに、この村の子どもたちは男子も女子も、村はずれの橋のところにあつまり、そこで整列して、団長に<ruby><rb>引率</rb><rt>いんそつ</rt></ruby>され、学校にむかうことになっていたのである。久助君はこのころ、いつも、それにまにあわないのであった。

<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>はおばあさんが起こしてくれなかったから、<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>はおばあさんにあるのだ、という顔をして、プンプンしながら朝ご飯をたべた。

おばあさんは孫の久助君をあまやかす<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>だったので、「そげんあわくって出かけんでもええだ。また、<ruby><rb>新家</rb><rt>しんや</rt></ruby>の<ruby><rb>太一</rb><rt>たいっ</rt></ruby>ツあんに自転車にのせてってもらえや」といった。年よりは、ぜんぜん<ruby><rb>団体精神</rb><rt>だんたいせいしん</rt></ruby>を知らんのでだめである。

久助君は、<ruby><rb>井戸</rb><rt>いど</rt></ruby>のわきから坂になっている細道をのぼって、県道に出た。

うららかな冬の朝だ。空気がすんで、風はすこしもない。道のわらくずなどに<ruby><rb>霜</rb><rt>しも</rt></ruby>が美しくおりている。あかい色の朝の陽光が、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>にこころよくふれる。静かである。

急いでも追いつけないのはわかっているので、久助君は<ruby><rb>口笛</rb><rt>くちぶえ</rt></ruby>をふきながら、道ばたの松の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>にいる<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>をみたりしながら、歩いていった。

まもなく、うしろから、ジイイと<ruby><rb>軽快</rb><rt>けいかい</rt></ruby>な自転車の音がしてきた。久助君の家とは<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>の、太一ツあんである。太一ツあんは町の信用組合につとめている。

「久、また<ruby><rb>朝寝坊</rb><rt>あさねぼう</rt></ruby>したな。<ruby><rb>遅刻</rb><rt>ちこく</rt></ruby>するぞ。」

そういって太一ツあんは自転車をとめた。いつもここから久助君は太一ツあんの自転車にのせていってもらい、やっと学校の始業時間にまにあうのであった。

<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>は、何もいわずにうすく笑った。

「さァ、のれ」

と<ruby><rb>太一</rb><rt>たいっ</rt></ruby>ツあんはいった。

久助君は喜んで、荷かけにまたがろうとした。そのときである。天から落ちてでもきたように、久助君の頭に、一つの考えがうかんだ。

――あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きっぱりしたやり方</span>をするならいまだ！

せっかく、親切にいってくれたのを、ことわるのは、太一ツあんにすまない気もした。久助君はしばらくためらった。だが、ついにのるのをやめた。

「どうしただや？」

と、何も知らない太一ツあんはけげんそうにきいた。

「ううん」と久助君ははずかしそうに笑いながら、小さい声でいった。「太一ツあん、おれ、ついて走ら。」

「走る？」

「うん。」

「そんなことをいって、学校まで一<ruby><rb>里</rb><rt>り</rt></ruby>もあるに、走れるもんか、さ、のれ。先生にみつかったら、おれがあやまってやるからええに。」

「んでも、おれ走るでええもん」

と<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>は、やはりにこにこしながら小さい声でいった。

「へんな<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だな。」

と<ruby><rb>太一</rb><rt>たいっ</rt></ruby>ツあんはいったが、どうやら、久助君の<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>の中に、何かかたい決意のあることがわかったらしかった。

そこで太一ツあんの自転車が走りだした。久助君はかばんを横だきにして、<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>で自転車の荷かけにつかまり、かけ出した。ゴツゴツとかばんの中の用具が鳴った。

つぼけ（稲積）がならんでいる<ruby><rb>刈田</rb><rt>かりた</rt></ruby>や、かれ草の<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>や、はだかの白い木などの冬の景色が、かけていく久助君の両側をながれた。

久助君はあたたかくなってきた。それから胸が苦しくなってきた。そしてそれから横っ<ruby><rb>腹</rb><rt>ぱら</rt></ruby>がいたくなってきた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しんたのむね</span>の上まできたとき、とうとう自転車から手をはなした。

「どした。苦しいか。のるか？」

と太一ツあんは自転車をとめてきいた。

久助君はつとめて笑いながら、首を横にふった。息がはずんで返事がいえなかったのである。

――こいつには、こいつで何か考えがあるんだろう、と太一ツあんは考えた。

そこでまた<ruby><rb>太一</rb><rt>たいっ</rt></ruby>ツあんの自転車がはしりはじめ、<ruby><rb>久助君</rb><rt>きゅうすけくん</rt></ruby>は荷かけをつかんでかけはじめた。

――こんちきしょ！　こんちきしょ！　と久助君は口の中でいいつづけた。

ついに校門の前にきた。

「とうとう、がんばったな、久。」

そういって、太一ツあんはわかれていった。

久助君は、校門の前のたたきに、朝のなごやかな光がななめにさしているのを、いままでにこんなにほがらかにながめたことはなかった。

いつもより、十センチぐらい深く頭をさげて<ruby><rb>敬礼</rb><rt>けいれい</rt></ruby>をし、校門をはいった。

すると同級生のひとりが近よってきてこういった。

「<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>な、日本は米国英国と戦争をはじめただぞ。」

久助君は立ちどまった。そして相手の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をまじまじとみた。

昭和十六年十二月八日の朝のことだった。