## 一

話はガラッ八の八五郎から始まります。

「あら親分」

「…………」

「八五郎親分」

素晴らしい<ruby><rb>次高音</rb><rt>メツォ・ソプラノ</rt></ruby>を浴びせられて、八五郎は悠揚として足を止めました。粋な<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を七三に<ruby><rb>端折</rb><rt>はしょ</rt></ruby>って、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>の十手は少しばかり突っ張りますが、夕風に胸毛を吹かせた男前は、我ながら路地のドブ板を、橋がかりに見たてたいくらいのものです。

「俺かい」

振り返るとパッと咲いたような美女が一人、<ruby><rb>嫣然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>として八五郎の鼻を迎えました。

「八五郎親分は、江戸にたった一人じゃありませんか」

「お前は誰だい」

「随分ねエ」

女はちょいと打つ真似をしました。見てくれは二十二三ですが、もう少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ヒネ</span>ているかもわかりません。<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>な<ruby><rb>櫛巻</rb><rt>くしまき</rt></ruby>にした多い毛にも、わざと<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を嫌った真珠色の素顔にも、野暮を売物にした木綿の単衣にも、包み切れない魅力が、夕映えと一緒に街中に拡がるような女でした。

「見たような顔だが、どうも思い出せねえ。名乗ってみな」

「まア、大層な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せりふ</span>ねエ、――遠からん者は音にも聞け、と言いたいけれど、実はそんな<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>なんじゃありませんよ、――両国の<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>をお忘れになって、八五郎親分」

女は少しばかり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しな</span>を作って見せます。

「何だ、水茶屋のお篠か、白粉っ気がなくなるから、お<ruby><rb>見逸</rb><rt>みそ</rt></ruby>れ申すじゃないか」

「まア、私、そんなに厚塗りだったかしら？」

お篠はそんな事を言いながら、自分の頬へちょっと触って見せたりするのです。笑うと八重歯が少し見えて、<ruby><rb>滅法</rb><rt>めっぽう</rt></ruby>可愛らしくなるくせに、真面目な顔をすると、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>とした凄味が抜身のように人に迫るたちの女でした。

「赤前垂を取払うと、すっかり女が変るな。一年近く見えないが、身でも固めたのかい」

「とんでもない、私なんかを拾ってくれ手があるものですか」

「そうじゃあるめえ、事と次第じゃ、俺も拾い手になりてえぐれえのものだ」

「まア、親分」

お篠の手がまた大きく夕空に弧を描くのです。

「ところで何か用事があるのかい」

「大ありよ、親分」

「押かけ女房の口なら御免だが、他の事ならてえげえ相談に乗ってやるよ、ことに金のことなどと来た日にゃ――」

「<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>ねえ。親分、金は小判というものをうんと持っているけれど、亭主になり手がなくて困っているところなの」

「ふざけちゃいけねえ」

「ね、八五郎親分、<ruby><rb>掛合噺</rb><rt>かけあいばなし</rt></ruby>はまた来年の春にでもゆっくり伺うとして、本当に真剣に聴いて下さらない？」

「大層またあらたまりやがったな」

「私本当に困ったことがあるのよ、八五郎親分」

「あんまり困ったような顔じゃないぜ、何がどうしたんだ」

ガラッ八も引込まれるともなく、少しばかり真面目になりました。

「親分は私の妹を御存じねエ」

「知ってるとも、お<ruby><rb>秋</rb><rt>あき</rt></ruby>とか言ったね、お前よりは二つ三つ若くて、お前よりも綺麗だった――」

「まア、御挨拶ねエ」

「その妹がどうしたんだ」

「両国の水茶屋を仕舞った時の借りがあったので、私と別々に奉公したんです。私は――今は<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>したけれど浅草の料理屋へ、妹は堅気がいいと言うんで、<ruby><rb>湯島</rb><rt>ゆしま</rt></ruby>の<ruby><rb>山名屋五左衛門</rb><rt>やまなやござえもん</rt></ruby>様へ――」

「そいつは<ruby><rb>料簡</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>が悪かったな、山名屋五左衛門は、<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>に知らぬ者のない癖の悪い男だ」

「それも後で聞きました。驚いて妹を取戻しに行きましたが、どうしても返しちゃくれません」

「給料の前借りでもあるのか」

「そんなものはありゃしません」

「証文を入れるとか、<ruby><rb>請人</rb><rt>うけにん</rt></ruby>をたてるとか、何か形の残るものが向うへ入っているんじゃないか」

「知った同士で話をつけ、何一つ向うへは入っていません」

「それじゃ戻せないことはあるまい」

ガラッ八は一向手軽なことのように考えているのでした。

「女一人行ったところで、馬鹿にされて戻されるのがせいぜいです。今までにもう、三度も追い帰されました」

「フーム」

「今つれて帰らなきゃ、妹のお秋にどんな間違いがあるかも判りません。独り者の山名屋はお秋を<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>にする気でいるんです。あの娘には、まだ祝言こそしないが、決った<ruby><rb>許嫁</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>があるのも承知の上で」

「そいつは気の毒だが、本人が帰る気がなきゃどうすることも出来ない」

「本人は帰りたいに決っています。あんな<ruby><rb>蛸入道</rb><rt>たこにゅうどう</rt></ruby>が<ruby><rb>瘧</rb><rt>おこり</rt></ruby>を患ったような、五十男の手掛けになって、日蔭者で一生を送りたいはずはありません」

「…………」

「この間も私が行くと、逢われないながらも、二階の格子の中で泣いているじゃありませんか、私はもう可哀相で可哀相で」

「それで、俺に何をしろと言うんだ」

ガラッ八もだいぶ呑込みがよくなりました。

「決して無理なことをお願いするんじゃありません。山名屋の店先へ行って、見えるように見えないように、その<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>の十手をチラチラさして下さりゃいいんです。私が一人で乗込んで、主人を始め番頭手代と渡り合い、きっと妹のお秋を救い出して来ます」

お篠は一生懸命説きたてるのです。一時両国の水茶屋で、鉄火者で鳴らしたお篠が、妹のお秋を<ruby><rb>虎狼</rb><rt>ころう</rt></ruby>の<ruby><rb>顎</rb><rt>あぎと</rt></ruby>から救い出したさに、ガラッ八の十手のチラチラまで借りようというのは、全く並々ならぬ危険を感じたからのことでしょう。

お秋の<ruby><rb>﨟</rb><rt>ろう</rt></ruby>たき美しさをガラッ八は知りすぎているだけに、この頼みを蹴飛ばしかねました。

「よし、それじゃ行ってやろう」

「有難うございます、八五郎親分」

「その代り、俺は店の中へは入らないよ。外に居て、十手をチラチラさせるだけだよ」

ガラッ八は馬鹿馬鹿しくも念を押します。

## 二

ガラッ八とお篠が、湯島の山名屋へ行ったのはその晩の<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつつ</rt></ruby>（八時）過ぎでした。途中で一パイ引っ掛けて、いい機嫌になったガラッ八は、その晩の冒険に対して、何かこう、芝居じみた興味をさえ感じていたのです。

遅い商売の酒屋の店も、大戸を下ろそうというとき、

「ちょいと待ちな、主人に用事があるんだ、俺じゃねえ、あの女だがネ――」

敷居際に立ちはだかった八五郎は、片手<ruby><rb>弥蔵</rb><rt>やぞう</rt></ruby>を懐へ落して、時々十手をチラリチラリと見せるのでした。

「ヘエー」

相手が悪いと思ったか、手代の一人はあわてて奥へ飛込みましたが、やがて戻って来ると、

「主人は<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>におります、どうぞ木戸から庭へ廻って下さい」

木戸をあけて丁寧に案内するのです。

「お篠、行って来るがいい、俺はここで待っている」

「…………」

お篠はそれに感謝の眼で応えて、手代と二人、木戸の中の闇にスーッと消えました。

それから<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっとき</rt></ruby>ばかり。

煙草をのんだり<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしたり、鼻を掘ったり、ガラッ八がいい加減退屈した頃、

「待たせたわねエ、八五郎親分」

庭木戸を開けて、そっとお篠が出て来ました。夜の闇を匂わせるような女ですが、この時は不思議にしんみりしておりました。

「お前一人かえ」

「え」

二人は肩を並べるように、<ruby><rb>中坂</rb><rt>なかざか</rt></ruby>を<ruby><rb>同朋町</rb><rt>どうぼうちょう</rt></ruby>の方へ降りたのですが、妙に話の<ruby><rb>継穂</rb><rt>つぎほ</rt></ruby>を失って、しばらくは黙りこくっていたのでした。

「本当に有難うよ、親分」

「そりゃ構わねえが、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>のお秋はどうしたんだ」

「駄目よ、やっぱり。証文を出さなくたって、奉公人に変りはないんだもの、出代り時でもないのに、無理につれて来るわけに行かない」

「そんな馬鹿なことはないだろう」

「可哀相に、本人もその気になって」

お篠の謎のような言葉は、ガラッ八の神経にも何やら大きい疑問符を投げかけました。

「山名屋に踏み止まる気になったのか」

「え」

二人はそれっきり、また黙りこくってしまいました。

<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>の月、秋近いのに、春めく生温かさが、良い年増と歩くガラッ八を、少しばかり<ruby><rb>道行</rb><rt>みちゆき</rt></ruby>めかしい心持にします。

「八五郎親分、ここでお別れしましょう」

お篠はフト立ち止まりました。

「お前はどこへ行くんだ」

「近頃は三味線堀に居ますよ、奉公は止して、母親と一緒に」

「それじゃ気を付けて行きねエ、一人で淋しくはないのか」

「江戸の真ん中ですもの」

「江戸の真ん中だからな」

「ホ、ホ」

お篠は面白そうに笑うのです。男が淋しがらないものを、女が淋しがっていいものですか――といった気でしょう。

「あばよ、お篠」

「あ、ちょいと、八五郎親分」

「何だい」

「怒っちゃ嫌よ、親分、――これはほんの私のお礼心、取って下さるわねエ」

お篠は八五郎に寄り添うように、紙に包んだものを、そっとその<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に落し込むのです。

「何をするんだ」

あわてて取出すと、紙が破れて、落ち散る小判が三枚――五枚。

「あれ、八五郎親分」

「冗談じゃねエ」

八五郎は手に残る小判を汚いもののように叩き付けると、<ruby><rb>怫然</rb><rt>ふつぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>背</rb><rt>そびら</rt></ruby>を見せました。

「まア、親分」

お篠はこの世の奇蹟を見るような心持で、立ちつくしました。長い間水茶屋に奉公して、張りも意気地も心得たつもりのお篠ですが、安岡っ引が袖の下を取らないなんぞということは、想像してみたこともなかったのです。

## 三

山名屋五左衛門はその晩殺されたのです。

<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の一と間で、誰とも知れぬ者の手で、胸を一とえぐり、声も立てずに死んだのでしょう。縁側に<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れたまま、血汐の中に息が絶えておりました。

いつ、どうして殺されたか、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>に居る奉公人達は何にも知りません。<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝になって、手代の<ruby><rb>清松</rb><rt>きよまつ</rt></ruby>が庭から声を掛けると、雨戸は一枚だけ開け放ったまま、カンカンと朝陽の入る中に、五十男の主人五左衛門は脂ぎった死体を横たえていたというのです。

騒ぎは一瞬のうちに、山名屋を煮えくり返らせました。

銭形平次が飛んで行ったのはそれから一刻の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>。一と通り現場を調べると、雨戸は確かに主人山名屋五左衛門が開けたもの、寝巻の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を着たまま、人を迎えたか送ったか、ともかく、縁側に立ってうっかり月か何か眺めたところを、<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>にいた<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>が、下から脇差で、一と思いに左乳の下を突き上げたものです。

中を調べると、番頭の<ruby><rb>元吉</rb><rt>もときち</rt></ruby>の言い分では、離屋の金箱に入れておいた五百両の小判が、綺麗になくなっております。五左衛門を突いた脇差は、その辺に見当らず、奉公人達には別に怪しい者もありません。

番頭の元吉は五十前後、三十年も奉公した<ruby><rb>白鼠</rb><rt>しろねずみ</rt></ruby>で、しっかり溜めてはいる様子ですが、溜める事に興味を持ちすぎて、<ruby><rb>盗</rb><rt>と</rt></ruby>ることなどは考えていそうもありません。こんな肌合の人間は、百両盗むよりも、五十両<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>す方に情熱を感じるでしょう。手代の清松は若くて少しばかり道楽者な上、死骸の発見者で、着物に血まで付いておりますが、これは死骸を見付けたとき、あわてて抱き起したせいだと言っております。

他に、下女が二人、下男が一人、小僧が二人、これは疑いの外に置かれます。下女二人と、小僧と下男が二つの部屋に寝ているので、夜中に便所に起きても人に知られずには済みません。

もう一人、<ruby><rb>鞍掛蔵人</rb><rt>くらかけくらんど</rt></ruby>という恐ろしく<ruby><rb>厳</rb><rt>いかめ</rt></ruby>しい名を持った浪人者が居候をしております。四十年輩の遠縁のお国者で、名前のむつかしいに似ぬ、猫の子のような二本差でした。五左衛門は用心棒のつもりで置いた様子ですが、小僧か下女にまで甘く見られて、剣術よりは小唄<ruby><rb>浄瑠璃</rb><rt>じょうるり</rt></ruby>の節廻しに苦労する肌合の男です。

もう一人、お篠の妹のお秋は、ゆくゆく五左衛門の身の辺りの世話をするはずでしたが、まだ目見得中で母屋に泊っており、これは十九の<ruby><rb>虞美人草</rb><rt>ぐびじんそう</rt></ruby>のような娘でした。細面で、小麦色の皮膚と、茶色の眼を持ち、逢っていると、あまり口をきかないくせに、相手を陶酔に導かずにはおかないといった、世にも得難い魅力の発散者です。

死骸の発見者で、血の付いた着物を着ている手代清松は、一番先に疑いの矢面に立ったことは言うまでもありません。

「主人の死骸を見付けたのは<ruby><rb>何刻</rb><rt>なんどき</rt></ruby>だ」

「<ruby><rb>卯刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>半（七時）過ぎでございました、――その頃になると、いつも起きて来る主人が、今朝に限って起き出さないので、変だと思って行ってみると――」

「銭形の、その手代の野郎の荷物の中に、小判で三百両隠してあったぜ」

<ruby><rb>真砂町</rb><rt>まさごちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>喜三郎</rb><rt>きさぶろう</rt></ruby>――若くて野心的で、平次の心酔者なる御用聞が、風呂敷に包んだまま、三百両の小判を持って来て見せたのです。

「そんな事もあるだろうよ。血だらけな足で、離屋の中を歩いたのは、どうもこの野郎らしいと思った」

平次はそう言って、清松の肩に手を置きました。

「あ、それは、それは」

「それはどうした、一期半期の奉公人が、三百両の大金を溜めたなんて言ったって、お<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>じゃ通用しねえよ、<ruby><rb>太</rb><rt>ふて</rt></ruby>え野郎だ」

「親分さん、――その金は<ruby><rb>盗</rb><rt>と</rt></ruby>ったに違いありません、が、主人を殺したのは私じゃありません。主人の死骸を見付けた時、部屋の隅に金箱の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>があいて、中の金が見えていたんです。ツイ、私は――」

「金は盗ったが、主人を殺した覚えはないと言うのか」

「その通りです、親分」

と清松。

「銭形の、そんな甘口な<ruby><rb>弁解</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>を信用しちゃならねえ、――第一金箱には五百両入っていたはずだっていうぜ、あとの二百両をどこへやったんだ」

喜三郎は少し<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れ気味に清松を小突き廻します。

「それは、八五郎親分に訊いて下さい」

清松は変な事を言い出しました。

「――？」

「昨夜八五郎親分が、お秋の姉のお篠と一緒に来て、離屋で主人と一刻あまりも話をして帰りました。――それっきり、家中の者は誰も主人に逢いません」

「それは本当か」

平次は四方を見廻しました。が、番頭の顔にも、小僧の顔にも、清松の言葉に対する否定の色は少しもありません。

## 四

「やい、八」

「ヘエ――」

平次のこんなに腹を立てた顔を、八五郎はまだ見たこともありません。

「<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>に言わせると、一と通りの理窟はあるようだが、そんなところへ立ち廻らねえのが岡っ引の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>というものだ。万一人殺しの片棒などを担がせられたらどうするつもりだ」

「ヘエ――」

「妹を救い出すとか何とか言って、大金を持出したに<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>えねえ。すぐ飛んで行って、お篠に泥を吐かせるなり、次第によっては、引っ<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>って来やがれ。着物へ血でも付いていたら、<ruby><rb>弁解</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>させるんじゃねえぞ」

「そんなものは付いちゃいませんでしたよ、親分」

「白地の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>でも着ていなきゃ、少しぐらい血が<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶ</rt></ruby>いたって、夜目に判るものか、馬鹿野郎」

「ヘエ――」

八五郎はまことにさんざんの体です。

「山名屋には<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>を殺すようなのは、一人もいねえ。流しの押込でなきゃ<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みのある人間の仕業だ。主人が雨戸を開けてやったところをみると、流しの押込でないことも判り切っている。あの五左衛門は女癖は悪いが、金離れがいいから、思いのほか町内では評判のいい男だ。お篠でなきゃ、お篠に掛り合いの人間の仕業に違えねえ。すぐ行って来い」

平次の調子は火のように猛烈です。

「ヘエ――」

「万一手前の名前なんか出ると、十手捕縄の返上ぐらいじゃ済まねえぞ」

「ヘエ――」

八五郎は全く追っ立てられるように飛んで出ました。こんなに脅かされたことはありません。

三味線堀へ行って捜すと、お篠の隠れ家はすぐ判りました。路地の奥の奥の、置き忘れたようなささやかな長屋。

「お篠は居るかい」

八五郎が精一杯野太い声をかけると、

「まア、八五郎親分」

妙に物なつかしそうな声と一緒に、<ruby><rb>嫣然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>としたお篠の笑顔が現われます。

「来い、<ruby><rb>太</rb><rt>ふて</rt></ruby>え<ruby><rb>女</rb><rt>あま</rt></ruby>だ」

八五郎は飛付いて、お篠の<ruby><rb>手頸</rb><rt>てくび</rt></ruby>をギュウと<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みました。

「あッ、何をするのさ、<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>だね」

お篠はカッとなって、<ruby><rb>競</rb><rt>きお</rt></ruby>い立った<ruby><rb>雌猫</rb><rt>めねこ</rt></ruby>のように逆毛を立てました。

「ふざけるなお篠、――<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>持って来た金、ありゃどこから出した」

「どこから出そうと勝手じゃありませんか」

「山名屋の主人を殺したのが、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>でないという証拠は一つもないぞ」

「えッ」

「脇差をどこへ捨てた」

「何を言うんだい、――私はそんな事を知るものか。金は妹を奉公させる代りに、二百両受取ったに違いないが、私が別れる時はピンピンしていたあの五左衛門が――」

お篠の言葉は半分述懐になって、何やら深々と考え込んでしまいました。

「言い訳はお白洲でするがいい、さア、来い、――俺まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だし</span>に使いやがって太え女だ」

ガラッ八はなおもお篠の手をグイグイと引きます。

「そんなつもりじゃありませんよ。私が二百両の金を取って来たわけ、みんな言ってしまいましょう、八五郎親分」

お篠はガラリと調子を変えると、崩折れるようにそこに坐ってしまいました。

幸い母親は観音様のお<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りで留守、誰に遠慮もなく、お篠は続けるのです。

山名屋五左衛門は<ruby><rb>庶腹</rb><rt>しょふく</rt></ruby>の弟で家を継ぎましたが、五左衛門の兄に当る先代五左衛門の子の<ruby><rb>宗兵衛</rb><rt>そうべえ</rt></ruby>というのが、五十を越して<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby><ruby><rb>宗次郎</rb><rt>そうじろう</rt></ruby>と一緒に、金沢町に細々と暮しておりました。これは当然山名屋を継ぐべきはずでしたが、<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>で眼を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>した上、父親の生前勘当されていたことを言い立てて、叔父の五左衛門に追い出され、叔父の五左衛門自身が山名屋の後に坐り込んで、五左衛門の通り名を名乗ったのは、もう二十年も前のことです。

眼の不自由な宗兵衛は、二十四になる倅の宗次郎と一緒に、骨に沁みるような貧苦と闘い抜きましたが、近頃はその戦闘力もうせ、餓死を待つばかりの<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>ない身の上に落ち込んでいました。

お篠お秋姉妹は、父親の代から受けた恩に<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いるため、水茶屋奉公をしながら長い間宗兵衛親子に貢ぎました。しかし、近頃は世の不景気と共にそれさえ<ruby><rb>不如意</rb><rt>ふにょい</rt></ruby>になり、とうとう五左衛門の望むまま、お秋を奉公に出して、少しばかり<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった金を貰い、それで、せめても宗次郎が身の立つようにしてやるつもりでしたが、<ruby><rb>強</rb><rt>したた</rt></ruby>か者の五左衛門は、美しいお秋を手元に留め置きながら、ああのこうのと言い延して、容易のことでは、纏まった金などくれそうもなかったのです。

「昨夜はいよいよ妹を返すか、三百か五百の纏まった金を出すか、命がけで掛け合うつもりで、山名屋へ行きました。でも、私のようなものが一人で行ったところで、真面目に相手にしてくれる五左衛門ではありません。途中で親分に逢ったのを幸い、親分の<ruby><rb>侠気</rb><rt>きょうき</rt></ruby>に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って、一緒に行ってもらいました。親分が<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>で十手を見せて下されば、奥へ入らなくても、山名屋のような悪い事ばかりしている人間は、ギョッとするに違いないと思い付いたのです」

「…………」

八五郎は<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りました。かなり太い話ですが、そう聞けば、ムキになって怒るわけにも行きません。

「山名屋は<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の縁側でたしかに私に二百両の金を渡しました。たった二百両ばかりの金で、妹を<ruby><rb>人身御供</rb><rt>ひとみごくう</rt></ruby>に上げるかと思うと、私は涙が出てしようがなかったけれど、それもこれも宗次郎さんの身を立てるためと思って、眼をつぶって帰って来ました」

「…………」

「でも、二百両でも取れたのは、みんな親分のお蔭です。そう思ってお礼を上げたけれど――」

「それからどうした」

ガラッ八は押っ冠せて<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きました。

「金沢町へ持って行って、宗次郎さんに渡しました」

「宗次郎は黙って受取ったのか」

「――その代り妹のことは<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めてくれ――って、くれぐれも言ってやりましたが」

「すると二人は？」

「え、二人は一緒になるはずだったんです」

お篠は淋しそうでした。

## 五

八五郎はしょんぼり帰って来ました。

「こんなわけだ、親分、お篠は脇差なんか持っちゃいなかったし、どんなに太い女だって、岡っ引を番人にして人を殺すわけはねエ。五左衛門から金を貰ったというだけじゃ、縛れないじゃありませんか」

そう言うのが、せめてもの<ruby><rb>弁解</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>です。

「なるほど、それじゃお篠は縛れまい。もう一度山名屋へ行ってみようか」

平次は恐れ入るガラッ八をつれて、もう一度湯島へ行ってみました。

「銭形の、大変なものが手に入ったぜ」

真砂町の喜三郎は、泥だらけの脇差を振り廻して、すっかり悦に入っております。

「どこにそんなものがあったんだ」

と平次。

「一町ばかり先の下水に突っ込んで、血だらけな<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>だけ水の上に出ているのを、子供が見付けて大騒ぎしていたんだ」

「柄だけ出ていたんだね？」

「柄が隠れるほど<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち込んでいちゃ、見付からなかったかも知れない」

「どれどれ」

受取ってみると、なるほど手頃な脇差で、<ruby><rb>溝泥</rb><rt>どぶどろ</rt></ruby>で滅茶滅茶になっておりますが、<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>から上は大して汚れず、紺糸を巻いた柄には、ベットリ血がこびり付いております。

「この脇差の持主がないから不思議さ、それに<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>もない」

喜三郎はまだその辺を嗅ぎ廻りながら、こう言うのです。

平次は、一応家の者に当りましたが、何の得るところもありません。浪人者の鞍掛蔵人に言わせると、この脇差は<ruby><rb>犬威</rb><rt>いぬおど</rt></ruby>しのようなもので、町人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>に持ったものだろうということ、武士の魂とは、少し縁の遠い<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>です。

「金沢町へ行ってみよう、ここは喜三郎<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにき</rt></ruby>に頼んで。来い、八」

「ヘエ」

「その脇差を借りて行くぜ、真砂町の」

「あ、いいとも」

平次は油紙を一枚貰って、泥と血に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れたのをクルクルと巻くと、金沢町へ飛びました。何が何やら解らずについて行く八五郎。

山名屋の隠居の宗兵衛の家は、平次もよく心得ております。

「御免よ」

犬小屋よりもひどい裏長屋。

「あ、銭形の親分さん」

盲目の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>――宗兵衛と膝つき合せて、倅の宗次郎とお篠は何やら話しておりました。

「この脇差はお前のだろうね」

平次は油紙の包をクルクルとほぐすと、少し乱暴に、泥と血に塗れた協差を宗次郎の膝の前に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出します。

「私のですよ、親分」

宗次郎は悪びれた色もありません。

「鞘はどうしたんだ」

と、平次。――後ろからは八五郎の眼が<ruby><rb>虎視眈々</rb><rt>こしたんたん</rt></ruby>としております。

「面喰らって脇差だけ置いて来たんでしょう、鞘はここにありますよ」

宗次郎は静かに<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って、形ばかりの戸棚から<ruby><rb>蝋塗</rb><rt>ろうぬ</rt></ruby>りの<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げた鞘を持って来て、平次の前に押しやりました。

二十四というにしては、若く弱々しく見えますが、知識的な立派な若者で、貧しさを超越して、品のよさがあります。

「この脇差で、山名屋の五左衛門が殺されたんだ。言い訳を聞こうか」

平次は上がり<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>に腰を掛けて正面からピタリと三人を見やりました。

「みんな言ってしまいましょう、聴いて下さい――」

宗次郎はあらたまった調子で始めました。

「…………」

「昨夜<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>半（十一時）過ぎにお篠さんが、二百両の金を持って来て、お秋の<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>の<ruby><rb>代金</rb><rt>しろきん</rt></ruby>にこれだけ受取って来たから、これで私に身を立てろと言うんです。――その志は有難いが、お秋を人身御供に上げて、私は出世する気はありません。一応金を受取った後で、お篠さんが帰るとすぐ、その二百両を持って湯島の山名屋へ行き、案内知った木戸を開けて、いきなり離屋の戸を叩きました」

「…………」

宗次郎の話の意外さ。お篠も全く思いがけなかったらしく、眼を見張って聞入るばかりです。

「五左衛門に二百両の金を返して、お秋をすぐにも返してくれと<ruby><rb>強談</rb><rt>ごうだん</rt></ruby>しました。私は泣いたり、怨んだり、脅かしたり、とうとう持って行った脇差まで抜いて、畳に突き立てて責めました。最初は五左衛門も鼻であしらっていましたが、私の剣幕があんまり凄かったものか、とうとう承知をして、三日のうちにきっとお秋を返すということまで誓言しました」

「それっきりか」

「それっきりです、親分。私はあまりの嬉しさに、畳へ突っ立てた、抜身の脇差を鞘に納めるのも忘れ、そのままここまで飛んで帰ったのです。帰って来てから、腰に脇差の鞘だけ残っていることに気が付いたくらいですもの、五左衛門を殺す道理がありません」

そう言う宗次郎の顔には、純情家らしい一生懸命さがあって、駆引も嘘もあろうとは思われません。

「それは何刻だった」

「帰ったのは<ruby><rb>子刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>（十二時）少し過ぎでした。心配しながら子刻の鐘を聴いていると、間もなく倅が帰って来て、――ああせいせいした、金は五左衛門に返しましたよ――と言って、そのまま床へもぐり込んだ様子でした」

父親の宗兵衛が口を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れるのです。

「親分――金箱から無くなったのは五百両、三百両は今朝清松がくすねたとすると、昨夜のうちに二百両無くなったのは確かだ。死んだ者は証人にならねえ。もう少しここを捜してみようじゃありませんか」

八五郎はそっと後ろから平次の袖を引きます。

「黙っていろ」

平次はその袖を払って何やら考え込んでおります。

## 六

「親分」

「何だ、お篠」

平次はお篠の思い詰めた顔を見詰めました。

「私を縛って下さい」

「何？」

「五左衛門を殺したのは、この私です」

「何だと、お篠」

「宗次郎さんの後をつけて行って、様子を残らず聴いてしまいました。――宗次郎さんがそんなに妹の事を思ってくれるのに、私はまア、何という情けないことをしてしまったんでしょう。五左衛門はあんな器用なことを言ったって、それは思い詰めた宗次郎さんが怖いから、当座のがれに言ったまでの事で、本当の心持は、お秋を返す気はないに決っています」

「…………」

「私は、宗次郎さんが帰った後で、あの脇差を取って、一と思いに五左衛門を殺しました。それに違いはありません。私を縛って下さい、銭形の親分」

お篠はそう言って、自分の両手を後ろに廻し、平次の方へ<ruby><rb>膝行</rb><rt>いざ</rt></ruby>り寄るのです。<ruby><rb>白粉気</rb><rt>おしろいけ</rt></ruby>のない顔は青ざめ、<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れる涙が、豊かな頬を濡らして襟に落ちるのでした。

「<ruby><rb>幾太刀</rb><rt>いくたち</rt></ruby>斬った」

と平次。

「滅茶滅茶に斬りました」

「それから、二百両の金はどうした」

「腹が立つから、<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込みました」

「よしよし」

「宗次郎さん、私は縛られて行きます。<ruby><rb>処刑</rb><rt>おしおき</rt></ruby>に上ったら、線香の一本も上げて下さい、――そして、お秋と仲よく暮して下さい」

「何を言うんだ、お篠さん、お前は人を殺せるような人じゃない」

宗次郎は驚いて立ちかかりましたが、お篠の一生懸命さに圧倒されてどうすることも出来ません。

「もういいよ、お篠。お前は宗次郎を下手人と思い込んで、そんな事を言うのだろう。が、宗次郎が下手人でないことは脇差を置いて来たのでも、鞘を隠さなかったことでも解っている。お前が下手人でないことは――八五郎の顔を見ろ、あの通りニヤニヤ笑っているぜ。八の野郎はとんだお篠さん<ruby><rb>贔屓</rb><rt>びいき</rt></ruby>さ。第一、五左衛門は<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>から一と突きにされて死んでいるんだ、女の手で滅茶滅茶に斬られて死んだわけじゃない」

「…………」

お篠はヘタヘタと崩折れました。

「八、もう一度やり直しだ。こんな他愛もない殺しで、こんなに骨の折れるのは珍しい。下手人になり手が多すぎだよ」

平次はそんな事を言いながら、金沢町を引揚げてしまったのです。

それから湯島へ引返す道々、

「八、二百両の金をどこへ隠したと思う？」

平次は変なことを訊きます。

「自分の<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>か何かじゃありませんか」

「いや、山名屋の奉公人の荷物はみんな見たが、そんなものを持っていたのは、清松だけだ」

「ヘエ」

「下手人は昨夜の<ruby><rb>子刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>過ぎ、宗次郎が帰った後へ行って、宗次郎の脇差で一と思いにやった後、二百両の金をどこかに隠し、脇差を溝にさし込み、わざと見付かるように柄だけ出して落いた、――あの脇差の血だらけな柄が見えるように溝の中に突っ立っていたと聞いた時から、俺は下手人は脇差の持主ではあるまいと思ったよ」

「ヘエ――」

「山名屋から一町も持出したところを見ると、下手人は十中八九山名屋の家の者だ」

「清松じゃありませんか」

「いや、清松は下手人じゃない。下手人なら三百両の金を<ruby><rb>盗</rb><rt>と</rt></ruby>って、自分の行李などへ隠すはずはない」

「すると？」

「下手人は二百両の金をとんでもないところへ隠しておいたに違いない、――どうしても知れないところで――後できっと自分の手に入るところだ――後できっと自分のものになるところ、――溝や下水じゃ誰が見付けるかも分らない」

「…………」

「下手人は恐ろしく食えない奴だ。毎晩主人の様子を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>って、殺す折を狙っていたかも知れない。あの離屋から誰の寝部屋へ一番よく道が付いているか<ruby><rb>見物</rb><rt>みもの</rt></ruby>だ。庭は<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>が一ぱいだが、五六遍も歩くと跡が付く」

「…………」

「主人の五左衛門が死んで一番損をする奴は誰だ――一番儲かるのは、五左衛門には子がないから、山名屋の跡を<ruby><rb>襲</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐ宗次郎だろうが、その宗次郎に疑いをかけるように仕向けたのは、ちょっと見たところ、五左衛門が死んで一番損をするような人間に違いない」

「…………」

次第に疑問を畳み上げて、下手人の影法師に生命を付与して行く親分の強大な<ruby><rb>想像力</rb><rt>イマジネーション</rt></ruby>に、ガラッ八は<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられて聴入るばかりでした。

## 七

「親分、庭の苔は、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の居候先生の部屋の窓の下まですっかり踏まれていますよ」

八五郎は鬼の首でも取った様子です。

「よしよし、それから、主人が死んで一番損する奴は誰だか聞いて来い」

「ヘエ――」

八五郎がもう一度母屋へ行くうち、平次は離屋の戸棚からいろいろの書類を取出してザッと眼を通しました。

「有り金は千三百四十八両、貸金は三千五百両、外に地所と家作――大変な<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>だな」

平次は番頭の元吉を相手に遺された身上を調べております。

土蔵へ案内させて、有り金を調べてみると、帳面通り千三百四十八両、ピタリと合って、一文の狂いもありません。

「番頭さん、さすがに恐れ入ったね、主人が死んだ後で、一文一銭の不審な金もないというのは大したことだ」

「ヘエ、恐れ入ります」

「ところで、その紙に包んである分は何だい」

「これは奉公人達へわけてやるように、主人が達者なうちから、こうしておきました」

「どれどれ」

「跡取りのない御主人のことで、無理もない用意でございます」

手に取って見ると、紙に包んで小僧二人の分は十両ずつ、下女と下男へ五両ずつ、手代へ五十両、居候の鞍掛蔵人へ二百両。

「お前さんのはないようだね」

「ヘエ、残りを私が頂戴することになっております」

「大層なことだね」

「それから貸金の方は、山名屋の後を継ぐ方に引渡します」

「なるほど、――ところで、この包の上に書いた字は、主人の<ruby><rb>筆跡</rb><rt>て</rt></ruby>かい」

「さようでございます」

「それにしちゃ墨色が新しいようだが――」

「…………」

平次が指先に力を入れて、包んだ紙を揉み砕くと、

「あッ」

中から出て来たのは、<ruby><rb>斑々</rb><rt>はんぱん</rt></ruby>と鮮血に染んだ、小判が二百枚。

「親分」

「あわてるな八、下手人はあの浪人者じゃねえ、こんな手数のかかった細工をした黒鼠だ」

平次が差した指は、真っ直ぐに元吉の血の気を失った額を指したのです。

「御用ッ」

飛付く八五郎、全く一とたまりもありません。

＊

「あの番頭が悪者とは驚いたね」

ガラッ八は絵解きが聞きたそうな顔です。下手人の元吉を送った帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>。

「跡取りのない山名屋だもの、主人が死ねば、番頭の一存で身上はどうにでもなるのさ。最初俺は浪人者をあやしいと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだが、だんだん調べて行くうちに違って来た――」

「お篠や宗次郎は？」

「あの二人は善人だよ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はな</span>から、疑ってみる気もしなかった。もっとも、お篠は宗次郎に気があった。妹を人身御供に上げてまでも、宗次郎に出世させようとしたのは悪かったが、宗次郎がすぐ金を突っ返して来たと聞いて、自分の悪かった事に気が付いたのさ。それに、脇差は宗次郎のだと聞いて、てっきり下手人を宗次郎と思い込み、妹と宗次郎への申し訳に、自分で罪を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って行く気になったんだろう、――考えはあさはかだが、あんな女は憎くないね」

平次はこんな事を言って、一度はお篠の道具に使われたガラッ八の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くのです。

「番頭を下手人と解ったのは？」

「宗次郎が帰ったあとで主人に会い、疑われもせず<ruby><rb>易々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>と殺せるのは、元吉か蔵人か清松の外にない。清松はそれほどの深い企みのある男でなし、蔵人は二本差のくせに、猫の子のような男だ、それに」

「それに？」

「帳尻を合せて大金を<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>すのは、番頭の外にない。有り金千三百四十八両と書いてあるのに、清松の盗んだ三百両を勘定することをうっかり忘れていたところなどは、落着いているようでもやっぱり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわてて</span>いたんだね」

「なるほどね」

「宗次郎の持って来た二百両の金を、どこかへ隠したに相違ない、どこへ隠したかいろいろ考えたが、――金の隠す場所は、金箱が一番いいと気が付いた。これなら人に見付けられることも、疑われることもない」

「なアーる」

「だが、どんなに細工が上手でも、血の中からかき集めた二百枚の小判を、洗っている暇はなかったはずだ。封をしていちいち名前を書いたのは、考え抜いたことには違いないが、それがまた臭いことであった。遺言をして金をわけるなら、一枚書いたものがあれば沢山だ、いちいち包んでおくのはどうかしている」

平次の説明には、もう一点の疑問もありません。

「浪人者の窓の下から道をつけたのは」

「つまらない細工だよ、小器用な悪人はそんな事で人が<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>せると思っているだけのことさ」

「それでみんな解りましたよ、親分。ところで、宗次郎や、お篠姉妹はどうなるでしょう？」

「宗次郎は山名屋の跡取りになるだろうよ、お秋はその女房さ」

「お篠が可哀相じゃありませんか、親分」

「悪くない女さ、――八の女房などにどうだい」

「御免蒙ろう、<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆすり</rt></ruby>の片棒を担がせられちゃ<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わない」

「そう言うな、八、俺はあのお篠という女に見どころがあると思うよ」

二人はそんな事を言いながら、――もう平次の家へ近く差掛っておりました。