## 一

「八、あれを<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けてみな」

「ヘエ――」

「逃がしちゃならねえ、相手は<ruby><rb>細</rb><rt>こま</rt></ruby>かくねえぞ」

「あの七つ下がりの浪人者ですかい」

「馬鹿ッ、あれはどこかの手習師匠で、仏様のような武家だ。俺の言うのは、その先へ行く娘のことだ」

「ヘエ――、あの美しい<ruby><rb>新造</rb><rt>しんぞ</rt></ruby>が<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>なんですかい。驚いたな」

「静かに物を言え、人が聞いてるぜ」

銭形の平次と子分のガラッ八は、その頃繁昌した、<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>の<ruby><rb>徳蔵稲荷</rb><rt>とくぞういなり</rt></ruby>に参詣するつもりで、まだ朝のうちの広徳寺前を、上野の方へ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>っておりました。

「ガラッ八、よく見ておくんだよ、心得のために話しておくが――」

「ヘエ――」

平次は一段と声を落しました。

「武家はちょいと怖い顔をしているが、よくよく見ると顔の造作の刻みが深いというだけのことで、まことに人相に毒がねえ、――牙のある獣に<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>がなく、角のある獣に牙がねえのと同じ理窟で、あんな怖い顔をした人間は、十中八九は心持のいいものだ。ところが本当の悪党とか、腹の黒い人間というものは、思いの外ノッペリした顔をしているものだよ。見るがいい、あの武家の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の先には、ここからでも見えるくらい、<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>が付いてるだろう、あれが手習師匠の証拠だ、子供の手習を直すとき<ruby><rb>朱硯</rb><rt>しゅすずり</rt></ruby>に袂の先が入ったんだろう」

「ヘエ――、するとあの美しい娘が悪人てえ証拠は？」

「あの娘と擦れ違ったとき見ると、<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>の先に同じように赤いものが付いてるが、それは朱じゃなくて血だ。それにあの娘は広徳寺前で、袂から泥焼きのお狐様を落したろう」

「それは、あっしも見ましたよ。あれは徳蔵稲荷の門前で売っていますね。素焼きのお狐に泥絵具を塗って、一つが十二<ruby><rb>文</rb><rt>もん</rt></ruby>、あれは<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ忍ばせておくと、願い事が<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>うとか言って、<ruby><rb>手弄</rb><rt>てなぐさ</rt></ruby>みをする手合がよく持っていますが――」

「それだよ、そのお狐を若い女が袖に忍ばせているのも<ruby><rb>可怪</rb><rt>おか</rt></ruby>しいが、何かの<ruby><rb>機</rb><rt>はず</rt></ruby>みで落っことすと、乾き切った往来の上で尻尾が欠けた。――この通り」

平次はいつの間に拾ったか、<ruby><rb>内懐</rb><rt>うちぶところ</rt></ruby>から尻尾の欠けた素焼きの狐を出して見せました。

「いつの間に拾いなすったんで、早業だね、親分は？」

「馬鹿、静かに物を言え、往来の人が顔を見るじゃないか、――ところで、女が物を落すと、どんなに忙しい時でも大抵踏み止まって一応は拾い上げるものだ。そして、役にも立たないことだが――<ruby><rb>毀</rb><rt>こわ</rt></ruby>れたものなら、元の通り<ruby><rb>継</rb><rt>つ</rt></ruby>いでみるとか何とか、どんなにつまらない物でも、それくらいの未練は持っているものだ、ところがあの娘はどうだ」

「お狐を<ruby><rb>落</rb><rt>おっこ</rt></ruby>として、尻尾が欠けると、ちょいと振り向いたっきり、拾い上げようともせずにサッサと行ってしまった――なるほど、こいつは可怪しいや」

「解ったか、八、あの女は馬鹿か豪傑か、でなければ腹の中に容易でない屈託があるんだ。それも並大抵のことではない、女が願い事が叶うという<ruby><rb>禁呪</rb><rt>まじない</rt></ruby>のおコンコン様を捨てて行くのは容易じゃない」

平次の明察は、すっかりガラッ八を景気付けました。

「ね、親分、この仕事をあっしに任しちゃ下さいませんか」

「何だと」

「八五郎の手柄初めに、根こそぎ洗い出してみせましょう」

「大丈夫か、ガラッ八」

「大丈夫かは心細いな」

「…………」

「第一、あんな吹けば飛ぶような新造を、銭形の平次親分とその一の子分の八五郎とで<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けたとあっちゃ、世間の聞えもよくねえ」

「それもそうだな。万に一つの間違いはあるまいが、あの娘を見失っちゃならねえよ。俺は徳蔵稲荷へ行って、お前の帰って来るのを待っているから」

「<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがて</rt></ruby>え、それじゃ任せて下さるんだね、親分」

「ドジを踏むな、相手が綺麗な新造だと思うと間違いだぞ」

「だ、大丈夫――」

ガラッ八は平手を<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>にかざすと、平次に別れて娘の後を追いました。

## 二

平次が徳蔵稲荷へ行ってみると、果して思いもよらぬ大事件が待ち構えておりました。

神様にも<ruby><rb>流行廃</rb><rt>はやりすた</rt></ruby>りで、今は跡形もありませんが、その頃大変流行った徳蔵稲荷の門前は、何があったのか、朝から黒山の人だかりです。ハッと思うと早足になって、人混みを分けるともなく顔を出すと、

「あッ、銭形の親分、ちょうどいいところで」

町の口利きらしいのが、顔見知りと見えて、袖を引かぬばかりに案内してくれます。

「どうなすったんです、これは？」

「大変な間違いがありましたよ、あれを見てやって下さい」

指したのは、ささやかな玉垣の下。

「あッ、これはひどい」

銭形の平次も思わず声を立てました。

人の死体や、残酷な場面は、嫌いだといっても随分たくさん見て来た平次ですが、まだ、こんな変ったのは見たこともありません。

真新しい紅白の鈴の緒で縛り上げられた中年者の男が、二た突き三突き、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>で刺されて、見るも<ruby><rb>無慙</rb><rt>むざん</rt></ruby>な死にようをしているのです。

「銭形の親分、この通りだ。これは<ruby><rb>堂守</rb><rt>どうもり</rt></ruby>の<ruby><rb>仁三郎</rb><rt>にさぶろう</rt></ruby>といって、町内の人気者だ。人に<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みを買う<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>の人間じゃない、金を溜めるような心掛けの男でもねえ、それがこんな<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい有様になって、<ruby><rb>朝詣</rb><rt>あさまい</rt></ruby>りの人に見付かったんだ。何とか<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討ってやって下さい」

「ヘエ――、大変な事をする奴もあるものですね。玉垣の前で堂守を殺すなんて、随分<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>の当った話じゃありませんか」

平次はそう言いながら、一と通り死体を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べましたが、四十五六の<ruby><rb>岩乗</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な男で、女や子供に縛られそうな柄ではありません。朝といっても<ruby><rb>日中</rb><rt>ひなか</rt></ruby>の事ではあり、たぶん当身か何か食わされて、一度目を廻したのを鈴の緒で縛り上げられ、後で気が付いて口を利こうとしたので、匕首で滅多突きにされたものでしょう。

もっともまだ人通りも少ない時分で、死体は玉垣の横手の方にあったのですから、夜が明けたといっても一と<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>や半刻は、知らずに過せば過せないこともありません。何人目かの朝詣りの人が、拝殿に下がっている鈴の緒が引き千切れているのに気が付いて急に騒ぎ出すと、間もなく玉垣の横、ちょっと人目に付かないところに、堂守の死体が転がっているのが見付けられたのです。

役人の見える前に、平次は忙しく四方を探しましたが、<ruby><rb>賽銭箱</rb><rt>さいせんばこ</rt></ruby>の上に下がっている大きな鈴と、その鈴に付いた紅白の鈴の緒が千切り取られているほかには、何の変ったところもありません。賽銭泥棒というのは、いつの世にもあったもので、器用なのは<ruby><rb>鳥黐</rb><rt>とりもち</rt></ruby>で釣り、荒っぽいのは箱を打ちこわすのですが、見たところ、そんな様子は少しもありません。

「ハテ――」

銭形平次ほどの者も、思案に余って<ruby><rb>双腕</rb><rt>もろうで</rt></ruby>を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>きました。

そのうちに、徳蔵稲荷の前は野次馬で一パイ。

「仁三郎が殺されたとよ」

「あんな仏様みてえな人間を殺す奴は、どんな野郎だろう」

「それに玉垣まで血で<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>してよ、罰の当った畜生じゃないか、お稲荷様だって黙っちゃいなさるめえ」

こんな噂を平次はジッと聴いておりました。この事件には、余程深い奥がありそうです。やがて平次は、門前の<ruby><rb>土産物屋</rb><rt>みやげものや</rt></ruby>へ行っていろいろ尋ねてみましたが、朝詣りの客は土産物などに眼をくれないので、ツイ今しがた表戸を開けたばかり、何にも知らないという心細い有様です。

「十八九の美しい新造が、この<ruby><rb>禁呪</rb><rt>まじない</rt></ruby>のお狐を買って行かなかったかえ」

「ヘエ、そんな事もありましたでしょうが、なにぶん毎日二三十ずつ売れるお狐様ですから、はっきり覚えちゃいません。場所柄で<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>衆や水茶屋の<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん方がよくお買いになりますよ」

土産物屋のお<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんの記憶ははなはだ心細いものです。

## 三

「ちょいと、お兄イさん」

不意に、本当に不意に娘は立ち止まりました。お屋敷風とも町家風ともつかぬ、十八九の賢そうな<ruby><rb>瓜実顔</rb><rt>うりざねがお</rt></ruby>、どこかお<ruby><rb>侠</rb><rt>きゃん</rt></ruby>なところはありますが、育ちは<ruby><rb>良</rb><rt>い</rt></ruby>いらしく、相応に美しくも可愛らしくもあるうちに何となく品があります。

「…………」

不意討を喰らって、ガラッ八は往来の真ん中に立ち<ruby><rb>辣</rb><rt>すく</rt></ruby>みました。秋が深いにしても、朝の光の中に<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しく<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかむ</rt></ruby>り、<ruby><rb>唐桟</rb><rt>とうざん</rt></ruby>を<ruby><rb>端折</rb><rt>はしょ</rt></ruby>って、右の拳で弥蔵をきめた恰好は、どう<ruby><rb>贔屓目</rb><rt>ひいきめ</rt></ruby>に見ても、あまり結構な風俗ではありません。

「私の家はここよ、後を<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来たんならもうお帰り」

「ヘエ――」

「何て間抜けな<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>だろう」

「あッ」

虹のような<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>を、ポカンとしている向う額に浴びせて、娘は路地の中へ<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と消えてしまいました。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おも</span>影に立つ鮮やかさに、しばらくは後を追うことも忘れて、娘の言葉を噛み締めるように、ガラッ八は立ち止まりましたが、

「あッ、いけねえ」

路地へ飛込んだがもういけません。中は<ruby><rb>羊腸</rb><rt>ようちょう</rt></ruby>たる抜け裏、娘の姿は本当に虹のように蒸発してしまったのでした。

「畜生め」

大きく舌打を一つ、せっかく引受けた大仕事を<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじ</rt></ruby>ってしまって、面目次第もなく、朝の元の大通りへバアと出ると、ちょうど通りかかったのは先ほどの武家、――親分の平次が手習師匠に見立てた五十前後の浪人者です。

「この武家を<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けてやれ、新造の尻を追い廻すよりは、気がとがめないだけでもいい」

勝手な独り言を言いながら、少しやり過して、<ruby><rb>件</rb><rt>くだん</rt></ruby>の七つ下がりの<ruby><rb>羊羹色</rb><rt>ようかんいろ</rt></ruby>浪人の後から跟け始めました。それから大通りをしばらく行って、路地を二つ三つ曲ると、とある路地の中へ。

「どっこい、今度は逃さねえぞ」

浪人者の<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を踏むように続いて入ろうとすると、今度もまた見付かってしまいました。

「これこれ町人」

「ヘエ、ヘエ」

「先ほどから<ruby><rb>拙者</rb><rt>せっしゃ</rt></ruby>の後を跟けているようだが、何か用事でもあるのかな」

「とんでもない」

「<ruby><rb>剽盗</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>泥棒ならあきらめて帰るがよかろう。この通り無禄の浪人者だ、一文も持合せがない、その上年こそ取っているが、拙者は腕が出来ているぜ、ハッハッハッハッ」

カンラカラカラと笑い飛ばすと、刻みの深い物凄い顔の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>が<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んで、<ruby><rb>群青</rb><rt>ぐんじょう</rt></ruby>で描いたような<ruby><rb>青髯</rb><rt>あおひげ</rt></ruby>の跡までが<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>になります。

「ヘエ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は悪い人間じゃございません」

「そうだろう。その方の人相は、どう買い被っても悪人という相じゃない。鼻が<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>っくり返って、眼尻が下がって、歯が少し<ruby><rb>乱杭</rb><rt>らんぐい</rt></ruby>だな、そんな刻みの深い顔は、すべて善人か愚人にあるものじゃ」

「ヘエ――」

「悪人はもう少しノッペリして凄味があるな」

ガラッ八もうすっかり面喰らってしまいました。

「親分もそんな事を申しましたよ、あの御武家は、ちょっと凄い顔をしているが、きっと仏様のような方に相違ないって――」

「仏様は少し嫌だな、まあいい、ところで何の用事で拙者の後を跟けた、返答によっては許さんぞ」

「決して旦那の後を跟けたわけじゃございません。先刻旦那の前へ行った、あの綺麗な新造が、どこへ行くかと思って、ちょいと、その――」

「馬鹿野郎」

「ヘエ――」

「お前のような馬鹿がいるから、若い娘が一人歩きも出来ないのだ。今日だけは見逃してやる、さっさと帰れ」

「ヘエ――」

ガラッ八は全くさんざんな敗北でした。二三町スッ飛んで、浪人者が路地の中へ消えるのを待って、近所の酒屋で聞いてみると、<ruby><rb>白川鉄之助</rb><rt>しらかわてつのすけ</rt></ruby>という九州辺の浪人者で、大した金持という訳ではありませんが、<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>には困らないらしく、別に仕官の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を求めるでもなく、毎日ブラリブラリと遊んでいるということでした。

「あの浪人者は、手習子を集めて、師匠をしているでしょうね」

「いいえ、そんな話は聞きませんよ。身寄りも<ruby><rb>知辺</rb><rt>しるべ</rt></ruby>もない一人者で、時々ブラリと外へ出るほかは、<ruby><rb>珍糞漢糞</rb><rt>ちんぷんかんぷん</rt></ruby>な本ばかり読んでますよ」

「しめたッ」

ガラッ八は、それだけ聞くと、横っ飛びに徳蔵稲荷へ駆け付けました。娘を見失ったのは、何といっても大失策に相違ありませんが、その代り、あの浪人者を手習師匠と鑑定した、親分平次の失策も<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだのです。これなら五分と五分――いや七分と三分ぐらいかも知れませんが、とにかく、親分のお小言も緩和されるだろうと思ったのです。

徳蔵稲荷の前へ帰って来ると、黒山の人だかり。

「ハイヨハイヨ」

野次馬を分けて入ってみると、玉垣の下、紅白の鈴の緒で縛られた堂守の死体を前に、銭形平次は腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>いて考えているところでした。

「親分、これはどうした事です」

「おお、八か、あの娘はどうした」

「<ruby><rb>入谷</rb><rt>いりや</rt></ruby>まで<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けて行ったんですが、恐ろしい<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby>の<ruby><rb>藪知</rb><rt>やぶし</rt></ruby>らずの抜け道へ入り込んで、とうとう消えっちまいましたよ」

「何？　見失った？　馬鹿野郎ッ」

「その代り親分、あの浪人者は手習師匠でないってことまで突き止めて来ましたぜ」

「そんな事を誰が頼んだ、馬鹿ッ、向うへ行ってしまえ」

「ヘエ」

ガラッ八は、まことに滅茶滅茶です。

## 四

徳蔵稲荷の堂守殺しは、それっきり下手人が判りませんでした。銭形の平次は身一つに引受けて、いろいろ探索の手を費やしましたが、何としても解りません。

仁三郎は全くの一人者で、金も係累も、人に怨みを買う覚えもなく、その上、<ruby><rb>賽銭箱</rb><rt>さいせんばこ</rt></ruby>が無事で、取られた物といっては、拝殿の鈴だけ。これも仁三郎を縛るために、鈴の緒を引き千切った時、一緒に転げ落ちたのを、そのまま誰か拾って猫ばばをきめ込んだのかもわかりません。

しかしこの時代の迷信深い野次馬が、お稲荷様の拝殿の鈴を隠すというのも受取れないことです。

さては、鈴を盗むためであったか――

フト平次はそんな事を考えました。しかし、<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>の拝殿の鈴などは、迷信的な気持に逆らってまで盗むほどの物ではなく、第一小さい社はすっかり荒れてしまって、最近一手に寄進する金持があって、改造に取りかかる<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>にまでなっていたのですから、古い鈴などは、その時は自然新しいのと替えられるでしょうし、手順を踏んで頼めば、随分安く手に入らないとは限りません。どう考えても、人を殺してまで<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>るほどのものではなかったのです。

それにつけても、あの娘を逃がしたのは、何という手ぬかりでしょう。子分思いの平次もこの時ばかりは、ガラッ八に半日も物を言いませんでした。袖の<ruby><rb>尖端</rb><rt>さき</rt></ruby>に血のついた娘――それも、間違いなくこの境内から出た女の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を、つまらない手違いから見失ってしまったというのは、何としたドジでしょう。

最後に残る手段は、鈴の行方を調べることです。平次はその日のうちに、あらゆる子分を駆り集めて、<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の古道具屋や堂宮を聞かせました。

「親分の眼鏡は曇らねえ、確かにありますぜ」

第一に飛び込んで来たのはガラッ八。

「何があったんだ」

と平次、さすがに腰が上がります。

「近頃下谷中の古道具屋から、鈴を買い集めた者があるって言いますぜ」

「本当か、八」

「本当か――は情けねえ、この足で歩いて、この耳で聞いたんだ。間違いっこはねえ、その上、堂宮の拝殿の鈴がチョイチョイ盗まれる」

「何だと」

「親分、こりゃどこかに鈴を集めて<ruby><rb>謀反</rb><rt>むほん</rt></ruby>でも企む奴があるに<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>えねえ――」

「馬鹿だなお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は、鈴が鉄砲玉の代りになるかよ――ところで、その鈴を買いに歩くのは男か女か」

「男も女も、武家も、町人もあるってことですよ」

「いつ頃から始まったことなんだ」

「なんでも半年ばかり前からボツボツあった事だが、激しくなったのは、この二三日だってことですよ」

「よし、それで解った、八」

「ヘエ――」

「手前、いつでも、親分のためなら命を投げ出すと言うね」

平次は少し<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>となります。

「言いましたとも、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りながら小判形の八五郎、金や命に糸目は付けねえ」

「糸目を付けたくも、金なんか持っちゃいめえ」

「図星ッ、親分の眼鏡は曇らねえな」

「幸い命だけは一つ持っているだろう、そいつをちょいと貸してくれ」

「お安い御用だ、<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>行きのですか、それとも<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>使いのですか」

「馬鹿だな、お前は」

すべてこういった調子ですが、昔の江戸っ子は、こうした警句のために、自分の命ぐらいは何とも思わずに賭けました。

「誰にも言っちゃならねえよ、俺達の知り合いから出来るだけ鈴を集めるんだ、――それから、熊や三公にそう言って、まだ手の届かねえ場末から鈴を集めさせ、それを<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って、手前しばらく鈴を売って歩くんだ」

「そんな事なら何でもありゃしません、やりますとも」

「<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>で鈴を探している奴は、鈴で釣るより外に<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>はねえ」

「解りましたよ、親分、鈴でも<ruby><rb>半鐘</rb><rt>はんしょう</rt></ruby>でも売って歩きますよ」

物事を単純に考えるガラッ八は、もうすっかり成功したつもりで飛出してしまいました。

## 五

その<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日、八五郎はすっかり鈴屋になり済まして、入谷から根岸の方へ流しておりました。<ruby><rb>万筋</rb><rt>まんすじ</rt></ruby>の野暮ったい<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>に、<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby><ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>をつけ、置手拭までした恰好は、誰に教わったか知りませんが、すっかり行商人の板についております。肩から小鈴の箱を<ruby><rb>飴屋</rb><rt>あめや</rt></ruby>さんに掛けて、両手には、大きい鈴を、新しいのと古いのと取交ぜて、五つ六つずつ<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げました。

「――エー、鈴はいりませんか、大きいのは拝殿の鈴から、小さいのは<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>の鈴、腰下げからポックリの鈴――新しいのもある、古いのもある。金の鈴、銀の鈴、<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゅう</rt></ruby>の鈴、<ruby><rb>銅</rb><rt>あか</rt></ruby>の鈴、――<ruby><rb>足結</rb><rt>あゆい</rt></ruby>の鈴、手の鈴、<ruby><rb>釧</rb><rt>くしろ</rt></ruby>の鈴、大刀の鈴、鈴鏡、さては犬の鈴、鷹の鈴、およそ鈴と名の付くものなら何でもある――鈴は<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>りませんかな――」

ガラッ八はときどき<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、仮名で書いて貰った口上書を弁慶読みにしながら、こういった声を張り上げました。猫の<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>取りさえ触れ歩いた時代ですから、鈴売りなどは決して珍しいものではありません。

「チョイと、鈴屋さん」

八五郎はときどき呼び止められて、猫の子の鈴、鋏の鈴などを売りましたが、徳蔵稲荷で盗まれたような、大きな鈴は誰も振り向いてはくれません。

翌る日、ガラッ八は根岸の奥へ入り込んでおりました。すっかりもう板について、懐を覗かなくともスラスラと口上も言えるし、元手かまわずの鈴も相当売れますから、何だったら、このまま足を洗って、鈴売りになるのも悪くない――といったような<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>な気持になっておりました。

「エ――鈴屋でござい、鈴はいりませんかな、手の鈴、足結の鈴、釧の鈴――」

と張り上げていると、

「ちょいと、鈴屋さん」

<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>の寮の裏手らしい黒板塀の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りが開いて、若い女が小手招ぎをしております。

「ヘエヘエ」

「御新造様が鈴を御覧になりたいとおっしゃるよ、ちょいとここから入っておくれ」

「ヘエヘエ」

誘われるままに、ヒョイと庭に入ると、後ろの潜戸はピシリと締められましたが、その<ruby><rb>機</rb><rt>はず</rt></ruby>みに振り返って見ると、呼込んだ娘というのは、三四日前、広徳寺前から<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、入谷で首尾よく<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれた、あの袖の先に血の付いた<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を着ていた娘だったのです。

「あッ」

ガラッ八は、思わず声を出しましたが、庭石に<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いたような振りをして<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>しました。様子はすっかり変っているし、手拭は<ruby><rb>吉原冠</rb><rt>よしわらかむ</rt></ruby>りにしているし、たぶん俺とは気が付くめえ――といった、相変らずガラッ八流の楽天的な心持で、娘の後に跟いて、寮の庭を廻りました。

「御新造様、鈴屋を呼んで参りました」

障子の中へ声を掛けます。

「御苦労だったね、<ruby><rb>八重</rb><rt>やえ</rt></ruby>」

優しく応えて、秋の朝日の<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いよる障子を開けたのは、二十二三とも見える、少し病身らしいが、恐ろしい美人、ガラッ八も吉原冠りの手拭を取って、思わずヒョイとお辞儀をしてしまいました。

眉の跡青々と妙に淋しく<ruby><rb>細</rb><rt>ほっそ</rt></ruby>りしておりますが、水際立った元禄姿で、敷居の上に桜貝のような素足の爪を並べて立つと、腰から上へ真珠色の<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>が棚びいて、雲の上から美妙な声が聞えるといった心持、ガラッ八は一ペンに降参してしまいました。

「下町には居るそうだが、この辺へ鈴屋が来るのは珍しいね。どんな品があるか、みんな見せておくれ、気に入りさえすれば、<ruby><rb>幾箇</rb><rt>いくつ</rt></ruby>でも買って上げるから」

「ヘエ――」

<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>としていたガラッ八は、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く人心地が付くと、そそくさと鈴の箱を開けました。

しかしこの時、<ruby><rb>灯籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>の蔭、木戸の後ろ、縁側の隅などに、幾人かの人間が、<ruby><rb>餌</rb><rt>えさ</rt></ruby>に狙い寄る猛獣のように、眼を輝かしているのに、八五郎少しも気が付かなかったのです。

箱の中の鈴と、手に持った鈴と、洗いざらい縁側に並べると、八五郎を案内した美しい女中は手を挙げて合図しました。

「それッ」

四方から飛出したのは、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く女。女中、小間使、お針、飯炊き、あらゆる種類を尽して、八五郎の八方からサッと飛びかかります。

「あッ、何をする」

と言ったが追い付きません。女と思って甘くあしらっている内に、風呂敷を被せて、帯紐で縛ってそのまま、物をも言わず奥へ<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ込みます。

## 六

ガラッ八は出かけてから、もう三日帰りませんでした。銭形平次、さすがに放ってもおけません。

<ruby><rb>与力</rb><rt>よりき</rt></ruby>の笹野新三郎を訪ねて訊くと、<ruby><rb>石原</rb><rt>いしはら</rt></ruby>の<ruby><rb>利助</rb><rt>りすけ</rt></ruby>は堂守殺しの下手人として、徳蔵稲荷の隣に住んでいる、やくざ者の<ruby><rb>仙吉</rb><rt>せんきち</rt></ruby>を挙げたという話、これは<ruby><rb>賭博</rb><rt>ばくち</rt></ruby>の元手に困って、仁三郎の財布を狙ったものと見たわけです。

仁三郎の<ruby><rb>臍繰</rb><rt>へそくり</rt></ruby>――そんなものがもしあったとしたら、ろくに鍵も錠もない、仁三郎の部屋へ忍び込んで、何とかして<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>るのが本当で、賽銭箱の上に登らなければ取れない鈴の緒を引き千切って、玉垣の下へ死体を<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出しておくというのは、あまりに念入りな頭の悪さです。

「そんなはずはございません、下手人は思いもよらぬ大物でしょう」

平次はそう言って与力の役宅を出ましたが、さて、大きい口を利いたものの、<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>って行く<ruby><rb>手蔓</rb><rt>てづる</rt></ruby>が一つもありません。

念のために下谷へ引返して、徳蔵稲荷の<ruby><rb>氏子</rb><rt>うじこ</rt></ruby>総代――<ruby><rb>和泉屋</rb><rt>いずみや</rt></ruby>という町内の酒屋の主人に逢って訊いてみると、思いも寄らぬ新事実が挙がりました。

それは、徳蔵稲荷の建物はひどく古くなったので、最近<ruby><rb>堀留</rb><rt>ほりどめ</rt></ruby>の穀物問屋で、諸藩の御金御用も勤め<ruby><rb>苗字帯刀</rb><rt>みょうじたいとう</rt></ruby>まで許されている、<ruby><rb>大川屋孫三郎</rb><rt>おおかわやまごさぶろう</rt></ruby>が、全然新しく建てて寄進することになり、材木まで用意して、来春早々工事に取りかかる運びにまでなっているというのです。

それだけなら何でもありませんが、その上、古い堂宇は、信心のため孫三郎が申受け、御本尊を除いた一切の付属品と共に、根岸の寮の広い庭に移して、そのまま祀ろうという事に決っているという話なのです。

「賽銭箱から鈴の緒まで新しいのと代えて下さるそうで、氏子一同大喜びでございます。それにつけても、こんなに荒れたままで大川屋さんに差上げては、いくら何でもお気の毒だからと申して、玉垣と鳥居を塗ったついでに、<ruby><rb>木連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>だけは<ruby><rb>紅殻</rb><rt>べんがら</rt></ruby>で塗っておきました。その矢先あの騒ぎで、本当に私どもまで、どんなに迷惑したかわかりません。親分のお力で一日も早く下手人が捕まるように――と、氏子一同そう申しております」

和泉屋の主人の話を聞くと、平次の真っ暗な胸には、サッと一道の光明が射しました。

「有難うございました、いろいろ解りました。稲荷様の罰ということもありますから、そのうちには下手人も判りましょう、お<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しゅう――」

和泉屋を飛出した平次は、その足ですぐ根岸の大川屋の寮を目当てに行きました。まさかガラッ八の真似をして鈴屋になって出かけるわけにも行きません。岡っ引にしては少し手堅い<ruby><rb>平常着</rb><rt>ふだんぎ</rt></ruby>のまま、まず三町四方もあろうかと思うような板塀の外をグルリと一と廻りしてみました。

近所で聞いてみると、大川屋の主人というのは、働き盛りの四十男ですが、早く<ruby><rb>配偶</rb><rt>つれあい</rt></ruby>を失い、先年吉原で馴染を重ねた<ruby><rb>華魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>を請出して、親類の承諾を得て後添いに直しました。これが不思議と心掛けの良い女で、美しくも優しくもあったのですが、なにぶんの病身、堀留の本宅に置くわけにも行かず、根岸にこんな立派な寮を建てて、女手に飽かして住まわしてあるのだということでした。

その女は、お<ruby><rb>米</rb><rt>よね</rt></ruby>といって、不思議に鈴の音を愛し、長い間に買い集めて家の中は鈴だらけ、召使を呼ぶにも食事を知らせるにも、いちいち鈴を鳴らすのだと聞いて、平次はすっかり有頂天になりました。

門を入って耳を澄ますと、なるほど秋の空気に響いて、どこからともなく、床しい鈴の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が聞えて来ます。

「これだこれだ」

平次は独り言を言いながら、寮の玄関にかかりました。

## 七

寮の玄関には、大きい鈴がブラ下がっておりました。その頃では珍しい試みで、なるほど「鈴屋敷」だと思いながら、二つ三つガランガランとやると、玄関の障子が<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかに開いて、

「どなた様で――」

首をかしげたのは、忘れもしないガラッ八に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けさした娘、なるほど桃色の<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>ぐらいは切りそうなお<ruby><rb>侠</rb><rt>きゃん</rt></ruby>な娘です。

「あッ、お前さんはやはり<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>の人か」

「…………」

娘はサッと顔色を変えて、そのまま障子を締めそうにするのを、

「どっこい待った。俺はお上の御用を聞いている平次という者だが、お前さんには徳蔵稲荷の仁三郎殺しの疑いがかかっている、変なことをしちゃかえって為にならねえ、黙って主人に取次いで、どうして鈴を集めたか、仔細を話して明り（<ruby><rb>証</rb><rt>あかし</rt></ruby>）を立てなきゃア、どんな事になるか判らないぜ」

平次の態度には、商売柄にも似ぬ、噛んで含めるようなもの優しさがありました。娘はハッと顔を伏せましたが、思い定めた様子で、

「しばらくお待ち下さいまし」

静かに奥へ消えます。

やがて通されたのは、さまで広くはありませんが、妙に小綺麗に片付いた寮の奥座敷、待つ間もなく、

「お待たせいたしました。銭形の親分さんだそうで、ちょうどいい方にお目にかかりました。私は大川屋の<ruby><rb>配偶</rb><rt>つれあい</rt></ruby>で、米と申します」

敷居際で静かに挨拶したのは、最早名妓といった<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>はありませんが、いかにも洗練された美しい女房振りです。

「面倒な駆引は抜きにして、早速承りますが、手前どもの八五郎という男――鈴売りに身をやつして参ったはずでございますが、<ruby><rb>彼</rb><rt>あれ</rt></ruby>はどうなりました」

平次の調子は、平淡なうちにも一歩も<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>せぬ厳しさがありました。

「ハ、ハイ、あの方は、身分をおっしゃいませんので、全く敵の廻し者と思い込み、しばらくこの寮へ留まって頂きました」

「そうでしょう、――いやそう打明けておっしゃって下さると大変私もお話を申上げよくなります。ところで、その次に伺いたいのは徳蔵稲荷の鈴の事ですが、あれは一体どうなりました」

平次の言葉は直ちに問題の核心に触れて行きます。

「あれは少しも存じません。先ほどお取次に出ました、召使の八重と申す娘に、朝夕あの鈴を見張りながら、お<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りをさせておきましたが、あの日行ってみると、鈴は紅白の緒ごと引き千切られ、玉垣の下には、鈴の緒で縛られた死骸があったと申します。八重は気丈な娘でございますから、もしやと思って死骸の近所を探したそうですが、鈴はやはり無かったそうでございます。そのとき袂の先を少し血潮で汚したとか言っておりました」

お米の答は明快を極めました。眉の跡の青々とした<ruby><rb>明眸</rb><rt>めいぼう</rt></ruby>の女<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は、さすが昔の全盛を偲ばせて、年にも柄にも似合わぬ頭のよさがあったのです。

「そうでしょう、――あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>に鈴の緒を千切れるわけもなく、気が強いといっても仁三郎を殺せるはずもありません。最初往来で擦れ違った時は、袂の血を見て<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>しましたが、仁三郎の死体を見て、これは女子供の仕業でないとわかりましたよ、お蔭でだいぶ眼鼻が付いて参りました」

こう言う平次の態度や言葉は、その人柄のように<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>で、世の常の岡っ引とはあまりに違っておりました。最初は多少警戒的な気持で話していたお米も、次第に信頼しきる心持になって、

「それから、どんな事を申上げれば宜しいでしょう？」

ツイこう言ってみるのでした。

「たったこれだけの事を打明けて下さい。どうして、こんなにたくさんの鈴を集めなすったか――、この鈴は何になさるつもりか、それから、八五郎を敵の廻し者と間違えたとおっしゃったが、その敵というのは誰か、それだけを聞けば、私の用事は済みます」

「ハイ、決して隠し立てはいたしません、何もかも申上げます。父が生きていれば、どんな事があっても口外の出来ないことですが、今ではもう昔話になりました」

お米は思い入った風情にこう申しました。

## 八

お米の父というのは、<ruby><rb>芳村道之丞</rb><rt>よしむらみちのじょう</rt></ruby>という<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>侍で、<ruby><rb>島原</rb><rt>しまばら</rt></ruby>の残党。<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>が事を起す前に七人の同志と江戸に潜行し将軍御膝元で事を挙げるつもりでしたが、島原の乱も案外早く平定し、徳川の<ruby><rb>礎</rb><rt>いしずえ</rt></ruby>はいよいよ<ruby><rb>鞏固</rb><rt>きょうこ</rt></ruby>で、<ruby><rb>痩</rb><rt>やせ</rt></ruby>浪人の策動ではどうにもならないと解ると、七人の同志と相談して、散り散りばらばらになり、芳村道之丞はその中心人物として、長い間一味の連絡に当っておりました。

その後、<ruby><rb>天草</rb><rt>あまくさ</rt></ruby>で習ったオランダ風の<ruby><rb>錺</rb><rt>かざり</rt></ruby>を応用して、精巧な鈴を作ることを工夫し、芳村<ruby><rb>道斎</rb><rt>どうさい</rt></ruby>と名乗って江戸中の<ruby><rb>好事家</rb><rt>こうずか</rt></ruby>の人気を集めましたが、名人業であまりお宝にはならず、年中貧乏を看板に、女房一人、娘一人を養って事足れりとしておりました。

女房お<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>が死んだ後は、その唯一の形見の<ruby><rb>金簪</rb><rt>きんかんざし</rt></ruby>を<ruby><rb>鋳込</rb><rt>いこ</rt></ruby>んで大きい鈴を作り、自分の仕事部屋に掛けて、朝夕清澄な<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を楽しんでおりましたが、ある夜賊が入って、芳村道斎を斬った上、あらゆる鈴を盗んで行ってしまいました。

<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日まで生きていた道斎は重い手傷にも屈せず「<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>は<ruby><rb>河井龍之介</rb><rt>かわいりゅうのすけ</rt></ruby>、敵は河井龍之介」と言い続けて命を落しました。

河井龍之介というのは、日ごろ父道斎と懇意にしていたこれも西国の浪人者で、たぶん父道斎が、島原の残党七人の連絡係をつとめ、その所名前を書いているのを知って、奪い取ろうとしたのでしょう。島原の残党七人の所名前が判れば、<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>っても訴人しても相当の金になったのです。

一人残された娘のお米は、悪者の手に掛って吉原に身を沈め、生来の美しさと賢さで、一時は全盛を<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>われましたが、縁あって大川屋孫三郎に<ruby><rb>落籍</rb><rt>ひか</rt></ruby>され、今は何不自由なく暮しているものの、どういうものか身体が楽になるとかえって気が弱って、昔父道斎の作った美しい鈴の音が忘れられません。

夫孫三郎の許しを受け、金に飽かして新古いろいろの鈴を買い集め、その中から、道斎銘のを探し出して楽しみにしておりましたが、不思議なことに、母の金簪を鋳込んだ、父の最後の傑作が見えません。

だんだん詮議しているうちに、誰の手を経てどうして売られたか、その鈴は徳蔵稲荷の拝殿にあることを見付け、鈴だけ所望するのも、稲荷様を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>すようで気がさすので、<ruby><rb>社殿</rb><rt>やしろ</rt></ruby>を全部寄進する代り、古い<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>を何もかも申受け、この根岸の寮に移して、拝殿に掛けた父の最後の傑作――<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>たる<ruby><rb>名鈴</rb><rt>めいれい</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>に、朝夕親しむつもりだったのです。

「こんなわけでございます。親分、父親の作った鈴の音を慕う私の心持をお察し下さいまし」

長物語をおわったお米は、物悲しそうに平次の顔を振り仰ぐばかりでした。

## 九

「親分、これからどうなるんでしょうね」

とガラッ八。

「俺にも解らねえ、二日でも、<ruby><rb>女護</rb><rt>にょご</rt></ruby>の島みたいな寮に引止められていたんだから、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>も少しは智恵が付いたろう。何とかこの先を考えてみな」

「チェッ、<ruby><rb>雁字</rb><rt>がんじ</rt></ruby>がらめにされて、納戸に<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込まれていたんですぜ。あんな恐ろしい女護ヶ島ってあるわけのもんじゃねえ、あの<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>っちょの飯炊きがまた恐ろしい力で」

「こぼすなよ、八」

銭形の平次と八五郎は、こんな事を言いながら、根岸の奥の寮を引揚げました。

入谷まで来ると、何を考えたか、平次は卒然として往来に立ち停ります。

「八ッ、手前あの浪人者は手習師匠じゃねえと言ったっけな」

「何ですって？」

「あの騒ぎのあった朝、広徳寺前で逢って、お前が<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けて行った武家だよ」

「へ、へッ、千慮の一失って講釈師は言いますぜ、あの時ばかりは親分の<ruby><rb>鑑識</rb><rt>めがね</rt></ruby>も曇ったね」

「つまらねえ事を言うな――こうっと、あの浪人者が手習師匠でないとすると、あの袖の赤いのは朱じゃなくて<ruby><rb>紅殻</rb><rt>べんがら</rt></ruby>だ」

「ヘエ――」

「徳蔵稲荷の<ruby><rb>木連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>は、紅殻を塗ったばかりだって、和泉屋の亭主は言ったね、――あの拝殿の鈴を<ruby><rb>毟</rb><rt>むし</rt></ruby>り取るのは、賽銭箱の上に登らなきゃならねえが、足元が悪いから、鈴を取るとグラリと行く、塗り立ての木連格子に、袖や袂ぐらいは強く触るだろうじゃないか」

「なある――」

「それに、大川屋の御新造は、父親を殺した河井龍之介というのは、生きていれば五十を越したはずで青髯の凄まじい、ちょっと怖い顔をした男だと言った」

「ヘエ――？」

「さア、来い、ガラッ八、手前にとっちゃ怪我の功名だ。その浪人者の家へ案内しろ」

「親分、こうお出でなせえ」

## 一〇

二人は宙を飛んで白川鉄之助と名乗った浪人者の長屋へ駆け付けました。ソッと格子から覗くと、家の中は鈴だらけ、主人の鉄之助は、障子に漏れる秋の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の中にいい心持そうに昼寝をしております。

「今日は、今日は、御免下さい」

八五郎が格子を開けると、

「河井龍之介、御用ッ」

銭形平次が飛込むと一緒でした。浪人者はさすがに身だしなみで、引付けてある一刀を引抜き、

「何をッ」

真っ向から向って来るのを迎えて、ピュッ、ピュッと、平次得意の投げ銭、一箇は刀を抜く拳を打ち一箇は眉間を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したたか</span>に打ちました。

「あッ」

とたじろぐところを、折重なって、<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひしひし</rt></ruby>と縛り上げます。ガラッ八も人柄相応に馬鹿力があるので、こんな時は存外役に立つのでした。

＊

河井龍之介の首は、間もなく鈴ヶ森に<ruby><rb>梟</rb><rt>さら</rt></ruby>されました。

堂宮の鈴を盗み歩いたのは、自分が道斎を殺したとき盗んで売った鈴の中に、島原の残党の所名前が書いてあることに気が付いたためでしたが、お<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>でそんな事を申立てても、もう上役人も相手にしてはくれません。一つは河井龍之介の家から没収した鈴に、そんな所名前などを書いたのは一つもなかったからでもあります。

もっとも、徳蔵稲荷から盗んだ鈴だけは、そっと銭形平次の手から、お米の手へ返してやりました。その鈴を二つに割ると中には細々と何やら書いてありましたが、平次はもとよりそんなものを読もうともしなかったのです。

後日その事について、与力の笹野新三郎に訊かれた時、平次はケロリとして、

「今頃島原の残党が、二人や三人ヨボヨボになって江戸に居ることを詮索したところで、何の足しになりましょう。それより大事なことをお耳に入れておきますが、河井龍之介を捕えた手柄は、この平次ではなくて、ガラッ八の野郎でございますよ。あの男はなかなか馬鹿じゃございません、おついでのとき褒めてやって下さいまし」

こんな事を言っておりました。