## 一

「八、今のはなんだい」

「ヘエ――」

銭形の平次は、後ろから<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来る、八五郎のガラッ八をふり返りました。正月六日の昼少し前、永代橋の上はひっきりなしに、遅れた礼者と、お詣りと、俗用の人が通ります。

「人様が見て笑っているぜ、でっかい<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>なんかしやがって」

「ヘエ――相済みません」

八五郎はヒョイと頭を下げました。

「お辞儀しなくたっていいやな、――腹が減ったら、減ったというがいい。八幡様の前でよっぽど昼飯にしようかと思ったが、朝飯が遅かったから、ツイ油断をしたんだ。家までは<ruby><rb>保</rb><rt>も</rt></ruby>ちそうもないのかえ」

「ヘエ――」

「ヘエ――じゃないよ。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>は橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で飼葉を喰っている馬を見て溜息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いていたろう。あれは人間の食うものじゃないよ。<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めた方がいいぜ」

「へッ」

八五郎は<ruby><rb>長</rb><rt>なんが</rt></ruby>い<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を襟に埋めました。まさに図星といった<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>です。

「どうにもこうにも保ちそうもなかったら、その辺で詰め込んで帰るとしようよ。魚の<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>を<ruby><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>っている犬なんか見て、浅ましい心を起しちゃならねエ」

平次はそんなことを言いながら、その辺のちょいとした家で、一杯やらかそうと考えているのでした。

「犬は大丈夫だが、橋詰の<ruby><rb>鰻屋</rb><rt>うなぎや</rt></ruby>の匂いを嗅いだら、フラフラッとなるかも知れませんよ」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた野郎だ」

二人は橋を渡って、御船手屋敷の方へ少し歩いた時。

「あッ、危ねエ、気を付けやがれ、間抜け<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>ッ」

飛んで来て、ドカンと突き当りそうにして、平次にかわされて、クルリと一と廻りした男、八五郎の前に踏止まって遠慮のないのを張り上げたのです。

「何をッ、そっちから突っかかって来たじゃないか」

「八、放っておけ、空き腹に喧嘩は毒だ」

平次は二人の間に割って入りました。

「あッ、銭形の親分」

「なんだ。<ruby><rb>新堀</rb><rt>しんぼり</rt></ruby>の<ruby><rb>鳶頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>じゃないか」

<ruby><rb>革袢纏</rb><rt>かわばんてん</rt></ruby>を着た、中年輩の男、年始廻りにしては、少しあわてた恰好で、照れ隠しに冷汗を拭いております。

「相済みません。少しあわてたもんで、ツイ向う見ずにポンポンとやる癖が出ちゃって、へッ、へッ」

「恐ろしい勢いだったぜ。火事はどこだい。煙も見えないようだが」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からか</span>っちゃいけません、ね親分。ここでお目にかかったのは、ちょうどいい<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>だ。ちょいと覗いてやって下さい。大変な騒ぎが始まったんで」

「何が始まったんだ。喧嘩じゃあるまいね。夫婦喧嘩の仲裁なんざ、御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>るよ」

「殺しですよ、親分」

「ヘエ、松の内から、気の短い奴があるじゃないか」

「殺されたのは、新堀の廻船問屋、三文字屋の大旦那久兵衛さんだ。たくらみ抜いた殺しで、恐ろしく気の長い奴の仕業ですぜ、親分」

「なるほど、そいつは<ruby><rb>鳶頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>の畠じゃねえ」

「だからちょいと覗いて下さい。そう言っちゃ済まねえが、富島町の島吉親分じゃ、こね返しているばかりで、いつまで経っても<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>が明かねえ。あんまり<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>いから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は深川の尾張屋の親分を呼んで来て、陽のあるうちに下手人を縛って貰おうと思って飛んで来たんだが、橋の上で銭形の平次親分と鉢合せをするなんざ、八幡様のお引合せみてえなもので――」

「八幡様が迷惑なさるから、そんな馬鹿なことは言わないことにしてくれ。外ならぬ島吉<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>が困っているなら、ちょいと手伝ってやってもいい。案内してくれるかい、鳶頭」

平次は思いの外気軽に引受けました。滅多に人の縄張に足を踏込んで、仲間の岡っ引に恥をかかせるようなことをしない平次ですが、富島町の島吉は先代から<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>で、わけても先代の島吉に、平次は親身も及ばぬ世話になっております。その<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の島吉――まだ十手捕縄をお上から許されたばかりの若い御用聞が、いきなり厄介な事件に直面して面喰らっていると聴いては、ジッとしてもいられません。まして、川を越して深川の尾張屋が乗出すようなことになると島吉の顔は<ruby><rb>丸潰</rb><rt>まるつぶ</rt></ruby>れでしょう。平次が気軽に乗出したのも無理のないことだったのです。

<ruby><rb>豊海橋</rb><rt>ほうかいばし</rt></ruby>を渡って南新堀へ入ると、鳶頭は三文字屋の方へは行かずに、四日市町から天神様へ行きます。

「道が違やしないかえ、鳶頭」

八五郎は<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>の仕返しに、一本抗議を申込みました。

「三文字屋のお店は南新堀だが、大旦那は<ruby><rb>癇性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>で多勢人のいるところでは寝られないと言って、毎晩<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）になると、霊岸島の隠居家へ引揚げて休みなさるんで」

「その隠居家に<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いのを囲ってあるという寸法かい」

と八五郎。

「とんでもない、三文字屋の大旦那と来た日にゃ、江戸一番の堅造だ。もっともとって六十三とか言ったが、――隠居家は下女のお作一人、雌猫も置かねえ」

「その下女が――」

「三十過ぎの出戻りで、稼いで溜めて、在所へ帰るより外に望みのねえ女だ」

そんな話をするうちに、三人は隠居所の前、なんとなく穏やかならぬ人立ちの中に立っておりました。

## 二

三文字屋の隠居所というのは、霊岸島町の裏におき忘れたように建てた、たった三間の家で、知らない者では、これが廻船問屋で万両分限の隠居所とは、気のつきようもないほど粗末なものでした。

「ああ、銭形の親分さん」

三間に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れる男女は、一斉に平次の方をふり返りました。深川の御用聞尾張屋の専吉をつれて来ると言って飛び出した<ruby><rb>鳶頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>が、名高い銭形の平次をつれて来たのを見て、一同ホッとした様子です。

「島吉兄哥は？」

平次はその中から、若い島吉を物色しました。

「奥にいますよ」

案内役に立ったのは、三文字屋の縁つづきで、手代をしている幾松でした。二十四五の小意気な男で<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>の小さい、ニコニコしたのが人に好感を持たせます。

平次は黙って次の間に入って行きました。

「おや、銭形の親分」

島吉は顔を挙げました。主人久兵衛の無残な死骸を前にして、番頭の市助と何やら話し込んでいたのです。

「永代で鳶頭に逢って聴いたが――、たいへんだね。目星は？」

「判らない。――怪しい奴が多過ぎる」

島吉は首を振りました。

ともかく久兵衛の死骸を見せて貰うと、薄い寝巻を着たまま、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から左<ruby><rb>肩胛骨</rb><rt>かいがらぼね</rt></ruby>の下を、脇差か何かで一と突きにやられたもので、多分声も立てずに死んだことでしょう。

「死骸は縁側にあったが、部屋の中には床が敷いてあった。――隠居家で、ここには一両と<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった金を置かないから、泥棒でないことも確かだ」

島吉は半日の探索で調べ上げたことを話しました。

「刃物は？」

「脇差だろうと思うけれど、<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>が持って帰ったと見えてここにはない」

「紛失物は一つもなかったんだね」

と平次。

「何にもなくなったものはございませんよ」

番頭の市助が引取りました。五十前後の<ruby><rb>乾物</rb><rt>ひもの</rt></ruby>のような中老人で、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>には明るそうですが、主人を殺すような人間とは見えません。

「主人を<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んでる者は？」

平次は至って常識的なことから踏出しました。

「結構な御主人で、人様から怨まれるような筋はございません」

「町内の岩田屋の福次が、<ruby><rb>地境</rb><rt>じざかい</rt></ruby>のことで三文字屋を怨んでいたそうだ」

島吉は<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し書を入れました。

「主人が死んでトクになる人は？」

「…………」

番頭は口を<ruby><rb>緘</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでモグモグさせます。

「養子の小三郎だろう。近ごろ大旦那と折合がよくなかったそうだから」

これも島吉が引取りました。

「呼んで貰おうか番頭さん、ここで話を聴きたいが――」

殺された久兵衛の前で、養子の小三郎はどんなことを言うか平次は試したかったのです。

「私が小三郎ですが、親分さん」

唐紙の蔭から、そっと顔を出したのは、幾松と同年輩か、どうかしたら一つ二つ若かろうと思う男でした。色の浅黒い<ruby><rb>恰幅</rb><rt>かっぷく</rt></ruby>の立派な青年で、一本調子で突っかかったような物の言い方をするところなどは、決して人に好感を持たせる<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の人間ではありません。

「お前さんは、何か大旦那としっくり行かないことがあったそうだね」

「そんなことはありません」

「ゆうべは一と晩店の方にいたんだね」

「いえ」

「どこへ行ったんだ」

「…………」

小三郎は唇を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みました。正直者らしいようですが、典型的な多血質で、カーッとなったら、ずいぶん人も殺し兼ねないでしょう。

「ゆうべ店にいなかったのは小三郎だけか」

平次は番頭の方をふり返りました。

「ヘエ――」

市助はただおろおろするばかりで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろく</span>な返事もできません。

「親分、幾松も店にいなかったそうですよ」

ガラッ八はその間も、いろいろな人の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をかき集めて平次に報告したのです。

「ここへ呼んでくれ」

「ヘエ――」

「それから、外に三文字屋の者が来ているなら皆んなここへ呼ぶんだ。――主人の死骸の前では、器用に嘘も<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>けまい。今のうちに調べるだけ調べておこう」

ガラッ八は平次の言葉を半分聴いて飛び出すと、ものの煙草二三服ほどのうちに、幾松の外に若い娘を一人つれて来ました。

「お前さんは？」

「お嬢さんのお美乃さんですよ」

番頭の市助が代って答えました。

「そうか、――お気の毒な事だね。一人残されちゃさぞ困るだろう」

「…………」

お美乃は黙って涙を拭きました。そんなに綺麗というほどではありませんが、素直に清らかに育っているらしく、見よげな娘です。

「ところで、お前に訊いたら一番よく解るだろう。父親が<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>誰かのことをひどく言ってはいなかったか」

「いえ」

お美乃は言下に応えましたが、その後でひとわたり一座の者の顔を、そっと見渡しました。

「跡取りは決っているだろうね、番頭さん」

「へえー、この正月の末には、祝言をするはずで、その仕度も大方できております」

「小三郎とお美乃とだね」

「ヘエ――」

「それは気の毒だね」

若い二人を見比べて、平次もツイ<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>った心持になります。

昼を少し廻った陽が縁側から入って、六畳の部屋がカッと明るいのも、妙に物淋しさを誘います。

「縁側の雨戸は開いていたんだね、番頭さん」

「ヘエー、内から<ruby><rb>桟</rb><rt>さん</rt></ruby>をおろしてあるはずですが、不思議に雨戸が一枚開いていたそうです。戸を閉め忘れるなどということのない御主人ですが」

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>は主人に戸を開けさして入ったというわけだな」

## 三

「ところでもう一度訊くが、小三郎は昨夜どこへ行ったんだ」

「…………」

改めて平次は訊ねましたが、小三郎は<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたきり応えようともしません。

「宵から朝までいなかったのか」

「いえ――夜中過ぎには帰ったようでございます」

番頭の市助は取りなし顔に言いました。

「どうしても昨夜行った先を言いたくないのか」

「…………」

ようやく挙げた小三郎の顔には、悲しい苦悩が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>ります。

「主殺しの疑いを受けることになるが、構わないだろうな」

「親分さん」

と小三郎。

「言ってしまっちゃどうだ」

「言っても本当にしないでしょうし、できることなら言いたくありません」

小三郎はそう言って、ガックリ首を垂れるのでした。

「それじゃ幾松に聞くが、お前も家をあけたそうじゃないか」

平次の眼は小三郎から幾松に転じました。少し<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい無愛想な小三郎に比べて、弱々しくて<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>のある幾松は、岡っ引にとって扱いいい相手らしく見えます。

「ヘエ――」

苦い微笑が唇に浮んだと思うと、サッと拭き取ったように消えました。

「どこかの稽古所へでも潜り込んでいたんだろう。言いにくいことがあっても、隠さない方が身のためだぜ」

「親分さん、私は大旦那なんかを殺しゃしませんが――」

「それはそうだろうよ」

「どうしても昨夜の行先を言わなきゃなりませんか」

「言う方が無事だろうよ」

平次はひどく冷静です。

「弱ったなア」

幾松は小三郎ほど絶望的ではありませんが、困惑しきっていることは違いありません。

「<ruby><rb>磔刑柱</rb><rt>はりつけばしら</rt></ruby>を仲よく二人で背負う<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>か」

「…………」

「隠したって隠しおおせるものじゃない。言う<ruby><rb>潮時</rb><rt>しおどき</rt></ruby>に言ってしまわないと、後で後悔するよ」

「…………」

幾松も黙りこくってしまいました。こうなっては、手の付けようがありません。

平次はいい加減に<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、一とわたりお勝手の方を覗いてみました。<ruby><rb>土竈</rb><rt>へっつい</rt></ruby>の蔭に恐れ入っているのは、三十を少し越したらしい女、ひどい<ruby><rb>痘痕</rb><rt>あばた</rt></ruby>で、眼も片方はどうかしている様子です。

「お前はお作というのだね」

「ヘエー」

「国はどこだ」

「<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>でございます」

「ゆうべ何か変ったことがなかったか」

「ありましたよ、――いつもお店から来なさると、そのまま黙ってお床に入る大旦那様が昨夜はわざわざ私を呼び止めて、『お作、人の心というものは解らないものだな。俺はこの年になって、飼犬に手を噛まれるとは思わなかったよ』とおっしゃって、淋しそうに笑っておいでになりました」

「飼犬に手？」

平次は考え込みました。飼犬という言葉の意味は、誰を指すのか判りませんが、少なくとも三文字屋を怨んでいるという、岩田屋福次でないことだけは明らかです。

下女のお作は、醜い顔と、正直な心とを持っているように平次は鑑定しました。この鑑定に間違いがなければ、下手人は小三郎か幾松か、市助か――いやいやまだ外に三文字屋の店にいる人間があるかもしれません。

平次は八五郎に小三郎と幾松の見張りを言いつけ、島吉と一緒に三文字屋に行ってみました。

ここにはお磯という親類の娘の外に小僧二人と下女が二人いるだけ。お磯の外の者は、何を訊いても大した役に立ちそうもありません。

「主人といちばん仲の悪いのは誰だえ」

「小三郎さんですよ」

お磯の答えは簡単で予想外でした。

「それはどういうわけだ」

「小三郎さんは、どこかの船頭の子だそうで、十三の時親知らずの約束で貰い、それから十年のあいだ丹精して育てた上、お美乃さんと一緒にして、この大身代の跡取りにすることになっているのに、あの通りのわからない人で、大旦那を怒らせてばかりいるんです」

「フーム」

「幾松は？」

「幾松さんは三文字屋の遠い<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>ですから、本当は他人の小三郎さんより、縁が近いわけなんです。その幾松さんを跡取りにせずに、小三郎さんを養子に決めたのは、どんなわけがあるか、私には解りません。多分お美乃さんが幾松さんを嫌ったんでしょう」

「幾松の方が好い男じゃないか」

「え、好すぎるんで、浮気が大変です」

「なるほどそんなこともあるだろうな」

「近ごろ主人と小三郎と言い争いでもしたことがなかったのか」

「<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>もやっていたようです。<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>も――」

「幾松は？」

「あの人は人に<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>なんか突きません」

「お前は？」

「…………」

お磯は黙ってしまいました。二十五六にもなるでしょうか、痘痕でもなく、どこか美しくさえある女ですが、なんとなく冴えない顔で、目鼻立ちの端正なのが、かえってこの女の魅力を傷つけているといった感じのお磯です。

「お前は昨夜どこにも出なかったのか」

「え」

お磯は言下に応えましたが、この女の底意地の悪い物言いや、顔の冷たい感じなどがひどく平次を<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせた様子です。

「小三郎と幾松と、番頭と、――奉公人の部屋を見せて貰おうか」

「…………」

お磯は黙って立ちました。それに<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って、平次と島吉。

「ここに小三郎さんと幾松さんが休みますよ」

暗い四畳半の入口にお磯は立ちました。中へ入ると、窓は厳重な格子で、店かお勝手へ出なければ、夜中に外へなどは出られません。

「荷物は」

「その押入にあるでしょう。上は小三郎さんで、下は幾松さんが使っているようです」

平次と島吉はまず幾松の<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>を引出しました。<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を払って見ると、中はお<ruby><rb>店者</rb><rt>たなもの</rt></ruby>の着換えが一と通り詰まっているだけ。

「おや、変なものを持っているぜ」

島吉が底から捜し出したのは、<ruby><rb>蝋塗鞘</rb><rt>ろうぬりざや</rt></ruby>の手頃な脇差が一本。

「どれどれ」

平次はそれを受取って、鞘を払い、窓際へ行って外の明りに<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して見ました。

「銭形の、――こいつは人間を斬った<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>だぜ」

島吉はささやきます。脇差の刃は油を引いたように薄く曇っているのでした。

「生々しい脂だ。一応洗って拭き込んだ様子だが――」

兇器がこんなにも<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く見付かったのが、平次には予想外だった様子です。

「この脇差は誰のだ」

島吉は脇差を鞘に納めると、部屋の外に持って出ました。

「小三郎さんのですよ」

「何？」

「小三郎さんの自慢の脇差ですよ。何とかいう船頭が、遠州<ruby><rb>灘</rb><rt>なだ</rt></ruby>で海坊主を斬った脇差ですって、たぶん小三郎さんの父さんのでしょう」

お磯の言葉は相変らず毒を含みます。

「それが幾松の行李に入っていたのはどういうわけだ」

「まア」

「おいおい小僧さん、この脇差は誰のか知ってるかい」

「若旦那のですよ」

二人の小僧は声を揃えました。

「こいつは変だぞ。島吉<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>――今度は上の行李を見よう」

平次と島吉は、押入の上の段の行李を出して念入りに調べましたが、そこには何にも変ったものがありません。

## 四

「親分、とうとう口を割りましたよ」

わめき込んで来たのは八五郎でした。

「なんだ、下手人が白状でもしたというのか」

と平次。

「そんな大したことじゃねえが、――幾松はとうとう昨夜行った先を言いましたぜ」

「なんだ、そんなことであわてて飛んで来たのか、見張っていろと言ったのに」

「大丈夫、下っ引に見張りを頼んで来たから、変な素振りを見せると、すぐ縛ってしまいます」

「で、幾松は昨夜どこへ行ったんだ」

「それが大変なんで、――お美乃さんなんかの前じゃ言えなかったわけでさ」

「どこだ」

「一番<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>の悪い場所、――一番<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りの悪いところで、へッ」

「江戸中にそんな恥っかきな場所があるのかい」

「今にも<ruby><rb>磔柱</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>を背負わせるように<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かして、ようやく白状させましたよ――本所の<ruby><rb>安宅</rb><rt>あたか</rt></ruby>長屋で丸太（<ruby><rb>船比丘尼</rb><rt>ふなびくに</rt></ruby>）を相手にしていちゃ、幾松口がきけないのも無理はありません。――<ruby><rb>昼三</rb><rt>ちゅうさん</rt></ruby>の<ruby><rb>太夫</rb><rt>たゆう</rt></ruby>なんて<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>は望まないが、せめて金猫銀猫とか、<ruby><rb>櫓下</rb><rt>やぐらした</rt></ruby>へ行くでもとか――」

ガラッ八は<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐き散らします。

「まアいいやな、怒るな。――ところで相手の名ぐらいは聞いて来たんだろう」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おえの</span>という女だそうで、名前からして粋じゃありませんよ」

「黒い<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>に<ruby><rb>腰衣</rb><rt>こしごろも</rt></ruby>は、とんだ粋なやつさ。ついでにその<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おえの</span>を生捕って、昨夜幾松が何刻から何刻までいたか聴いてくれ。どうせ昼は高瀬舟に乗っているわけじゃあるめえ。<ruby><rb>塒</rb><rt>ねぐら</rt></ruby>にいるのをそっと捉えて<ruby><rb>柔</rb><rt>や</rt></ruby>んわりと訊くんだ。脅かしちゃいけねえよ」

「心得ていますよ」

ガラッ八はもういちど飛んで行きました。

「これで大方眼鼻が付いたろう。俺はさいしょ幾松が臭いと思ったが、高瀬舟や安宅長屋に潜っていちゃ人殺しはできない。万一そんなことが知れちゃ、お<ruby><rb>店者</rb><rt>たなもの</rt></ruby>は一代の恥っかきだ。――八五郎が帰って来て幾松が一と晩安宅を動かなかったと解れば、小三郎を縛ってまず間違いはあるまい。それに、自分の脇差を使って、よく洗って幾松の荷物へ入れて置いたのは憎いやり方だ。いいかえ、島吉兄哥、俺はこれで帰るから」

「<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがて</rt></ruby>え、銭形の。お蔭で一日のうちに<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>が明いてしまった。いずれそのうちに礼に行くぜ」

「なんの、こんな事くらい」

平次はそれっきりこの事件との関係を断ったのです。恩人の子の島吉に手柄を立てさせて、蔭で知らぬ顔をして見ているのが、平次にとっては、たまらない楽しみだったのでしょう。

外へ出るともう夕刻、平次は昼飯を食い損ねたことに気が付きました。急に腹の減ったことに気が付くと、八五郎の強健な胃の<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>が、今頃どんなことになっているかと思うと、独り笑いが空き腹からコミ上げて来ます。

## 五

それから二た月経ってしまいました。三文字屋殺しは養子の小三郎と決って、下手人を挙げた手柄はことごとく若い島吉に帰し、平次は組屋敷あたりの噂で、小三郎のお<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>の神妙さや、口書きも無事に済んで、<ruby><rb>処刑</rb><rt>おしおき</rt></ruby>を待っているという話を聴いているだけのことでした。

「親分、大変なことがありましたよ」

ガラッ八の八五郎がいつもの調子とは違って、ひどく沈んだ顔を持って来ました。

それは三月三日――江戸は桃も桜も咲き揃って、すっかり春になりきった晩のことです。

「何が大変なんだ。ドブ板を蹴返さないと、大変らしい心持にならないぜ」

「ね、親分。あの三文字屋の娘――お美乃とかいうのが、南の御奉行所へ駆け込み訴えをやりましたぜ」

「何？」

平次も何か<ruby><rb>駭然</rb><rt>がいぜん</rt></ruby>とした心持です。

「気の毒なことに、門前で喰い止められて、泣く泣く帰ったそうですが、いずれ<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>は処刑になる小三郎の、助命願いでしょうが――」

「親殺しのお主殺しだ。あの小三郎だけは助けようはないよ。駆け込み訴えもモノによりけりだ」

平次はそう言いきって、心の底から淋しさを感じておりました。島吉に縛られたにしても、小三郎を<ruby><rb>磔刑柱</rb><rt>はりつけばしら</rt></ruby>に上げるまでに運んだのは、何といっても平次のせいだったに違いありません。

「でも、思い詰めて死ぬようなことはないでしょうね。可愛らしい娘だったが」

八五郎までが妙に<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れているのは、お美乃の可愛らしさのせいだったかもわかりません。

「お前さん」

「なんだい」

「お前さん、ちょいと」

女房のお静が、敷居際から妙に声を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせております。

「なんだい、そんなとこに突っ立って――借金取りでも来たのかい」

「お嬢さんが、お勝手で、泣いていらっしゃるんですよ」

そう言うお静も、すっかり泣き<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れて、極り悪そうに、顔を<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>けながら話すのです。

「お嬢さんが――？」

平次はお勝手を覗くと、薄暗い<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の下、上がり<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>に近く<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れたまま泣いているのは、花束を叩き付けたような、痛々しい姿の若い娘。

「お美乃さんじゃないか」

平次は不思議な空気の圧迫を感じながら板の間に<ruby><rb>踞</rb><rt>しゃが</rt></ruby>みました。南の奉行所を追われたお美乃は、最後の頼みの銭形平次を訪ねて、お勝手口から肩身狭く入ったのでしょう。

「親分さん、――小三郎さんを助けてやって下さい。お願い――」

半分は<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>に呑まれながら、お美乃は<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>くも心持だけを言って、子供のように泣くのです。

「そいつは無理だ。今しがた俺が言ったことを、ここで聴いていたんだろうが、親殺しや主殺しは、御奉行様でも助けようはない。そればかりは諦めた方がいいぜ」

「違います、親分さん。小三郎さんは、決して、父さんを殺しはしません、――<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゅにん</rt></ruby>は外にあるんです」

「お美乃さんがそう思うのは無理もないが、小三郎が縛られるには、縛られるだけのわけがあったんだ。――証拠は山ほどある上に、あの日島吉兄哥が隠居所へ引返して行くと小三郎は一と足違いで逃げ出したというじゃないか。幸い<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日捕まったからいいようなものの、そうでもなきゃ、島吉兄哥はとんだ<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじり</rt></ruby>をするところさ」

平次は<ruby><rb>諄々</rb><rt>じゅんじゅん</rt></ruby>として説き聞かせました。が、お美乃は涙にひたりながらも、頑固に頭を振って、平次の言葉を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>け<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れようともしません。

「親分さん、どんな証拠があっても、小三郎さんは、本当の親を殺すはずはありません」

「何？　<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>の親？」

「え、小三郎さんは、父さんの――三文字屋久兵衛の血をわけた本当の子だったんです。私こそ<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って義理のある娘だったんです」

お美乃の言葉は、平次にとっても驚きです。

## 六

「それはどういうわけだ、<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく話してくれ」

平次はとうとうお勝手の板の間に坐り込んでしまいました。

その後ろに八五郎、その横にはお静が、ただわけもなく<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を呑みます。

「小三郎さんは父さん（久兵衛）の本当の子ですが、母親は深川の芸者で、親類の手前や、<ruby><rb>配偶</rb><rt>つれあい</rt></ruby>の思惑があったので、誰にも知らさずに、船頭の浪五郎という人に、お金をつけてやりました。そこで十三まで育てられた小三郎さんは、三文字屋に男の子がなかったので、今から十年前に引取られましたが、船頭の子で育っているから、町人に向くか向かないか、<ruby><rb>子柄</rb><rt>こがら</rt></ruby>の見定めが付かないから、しばらく奉公人並に使ってみると言って、去年の秋まで奉公人と少しも変らない扱いでした。ですからお店でも、世間でも、小三郎さんを父さんの本当の子とは知りません」

「本人は？」

平次は一番大事な問いを忘れませんでした。

「小三郎さんは何もかも知っていますが、あの通り正直一徹の人ですから、誰にも言いません」

「すると小三郎とお美乃さんは<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>になるわけじゃないか」

「いえ、小三郎さんは三文字屋の血を引いた人ですが、私は三文字屋の二度目の嫁の連れ子で、父さんの本当の娘ではございません」

「なるほど、それで久兵衛さんが、小三郎を養子にして、お前と添わせて三文字屋の跡を継がせる気になったのも判る。だが、それだけじゃ、小三郎が無実の証拠にはならない。あの晩――正月五日の晩、小三郎はどこにいたんだ。それが判って、生き証人でもなきゃ、今となっては小三郎が無実と知っても助ける工夫はない」

「小三郎さんは、あの晩、養いの親の浪五郎に逢っていたんです」

「何？」

「浪五郎は若い時から船頭で、幾度も難破したのを、水天宮様を信心して助かったと言って、月の五日の<ruby><rb>正午</rb><rt>しょううま</rt></ruby>の<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>には、どこにいても必ず江戸へ帰って来て赤羽橋の有馬様の水天宮様にお詣りをします。小三郎さんはそれを知っていて、月に一度、船の都合では二た月に一度、五日の晩永代の近くに<ruby><rb>舫</rb><rt>もや</rt></ruby>っている浪五郎の船へ行って、一と晩泊って来るのを楽しみにしているんです」

「なぜ、お白洲でそれを言わなかったんだ。それを言いさえすれば、助かる見込みがあったのに」

平次はお美乃の話から、不思議な事件の展開を見たのでした。

「それができなかったのです。――浪五郎は仲間の者の<ruby><rb>悪企</rb><rt>わるだく</rt></ruby>みから、五年前に海賊の一味と間違えられて縛られ、もう少しで首を切られるところを、縄抜けをして助かった人です。今ではなんとか名前を変え、<ruby><rb>顔容</rb><rt>かおかたち</rt></ruby>まで変えているんでしょう。浪五郎は正直者で、海賊なんかする人じゃありませんが、お上に<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まれていては手も足も出ません」

「…………」

「ですから、月に一度そっと江戸へ来て、水天宮様へお詣りして、小三郎さんに逢って行くのを、何よりの楽しみにしているんです。小三郎さんはあの通りの人ですから、自分が<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>になるまでも、養い親の浪五郎の首に縄のつくようなことは口へ出せなかったのです」

「フーム」

あまりの怪奇な話に、平次もただ<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>るばかり。

「悪者はそれを知って、五日の晩を<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>って父さんを殺し、小三郎さんに罪をなすったに違いありません。可哀想に小三郎さんは、養い親に義理を立てて、親殺し、主殺しで死んで行くんです。どうぞ助けてやって下さい、浪五郎に迷惑のかからないように。銭形の親分さんなら、きっとそれができます。お願いでございます」

お美乃はたしなみも恥かしさも忘れて、精いっぱいに口説くのでした。

「ね、お前さん」

お静まで泣き声を挟みました。

「お前は黙っていろ。――ところでお美乃さん、もう聴いているだろうが、<ruby><rb>処刑</rb><rt>おしおき</rt></ruby>は明後日の<ruby><rb>正午</rb><rt>しょううま</rt></ruby>の<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>だ。正直のところ、それまでに、小三郎を助ける見込みが立つかどうか、俺にも判らない。が、お前さんが、本当に小三郎が無実と思うなら――」

「それはもう親分さん」

「若い娘がそれだけ信用するなら、大抵間違いはあるまい。<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けずくでないから、お前さんの心は鏡のようなものだ」

「…………」

「ところで、お美乃さん」

「ハ、ハイ」

「お前さんは、小三郎をどんなことをしても救いたいと言うのだね」

平次の声には、激しい意図が潜んでおりました。

「え、どんなことをしても、どんなことがあっても」

「命を捨てても」

「命を捨てても」

「万人の前に恥をさらしても」

「え、万人の前に恥をさらしても」

お美乃は平次の言葉を<ruby><rb>復誦</rb><rt>ふくしょう</rt></ruby>して、静かに顔を挙げました。涙に濡れて、少し<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れっぽくはなっておりますが、若々しい眼鼻立ちに、火のような純情が燃えて、日頃のお美乃には、見ることのできなかった美しさが人をうちます。

「明後日、処刑の日はちょうど五日だ。浪五郎が赤羽橋の水天宮様へ、お詣りに来る日だろうな」

「雨が降っても、槍が降っても、正午の刻にはきっと来るはずです」

「鈴ヶ森の処刑も正午の刻、赤羽橋のお詣りも正午の刻」

平次は深々と腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>きました。

## 七

その晩平次と八五郎は<ruby><rb>安宅</rb><rt>あたか</rt></ruby>に飛んで、<ruby><rb>船比丘尼</rb><rt>ふなびくに</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おえの</span>を捜しました。

が、なんという不運でしょう。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おえの</span>は十日ばかり前に大酒を呑んで頓死し、<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>いも何も済んでしまったと聴いては手の下しようもありません。

その死んだ日か、前に来た客のことを訊きましたが、下等な船比丘尼の客などは誰も気に留めず、そこにも探索の<ruby><rb>手蔓</rb><rt>てづる</rt></ruby>は絶えてしまいました。

「この上は五日の昼頃、浪五郎という船頭を捕まえる外に<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>はない」

平次はそんな頼み少ないことを言うのです。

その翌々日、とうとう三月五日という日が来てしまいました。

親殺しの主殺し、五逆五悪の大罪人小三郎は、裸馬に乗せられて、幾十人の<ruby><rb>獄卒</rb><rt>ごくそつ</rt></ruby>に<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>られ、罪状を書いた高札を掲げて、江戸中<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>の場所を引廻しの上、鈴ヶ森の処刑場に着いたのは、<ruby><rb>巳刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>半（十一時）少し過ぎでした。

その日は<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に良いお天気で、春の青空が深々と光って、竹矢来の中にも、数千の群衆の頭の上にも、桜の花片が、チラホラと散って来ました。

<ruby><rb>囚人</rb><rt>めしうど</rt></ruby>小三郎を乗せた馬が、竹矢来の中へ入ろうという時でした。一梃の<ruby><rb>町駕籠</rb><rt>まちかご</rt></ruby>が、役人の油断を見すまして、ツ、ツ、ツと、裸馬の前――ピタリと竹矢来の入口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いだのです。

「退け、退け、退けッ」

バラバラと駆けて来る役人小者。

「お願い、お願いの者でございます」

「なんだなんだ」

「小三郎の<ruby><rb>許嫁</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>、美乃と申すものでございます。親の遺言を果すため、処刑前に、祝言をさせて下さいませ。お願いでございます」

駕籠の中から転げるように出たのは、<ruby><rb>白無垢</rb><rt>しろむく</rt></ruby>、綿帽子の花嫁姿。おどろき<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れる役人の前に綿帽子をかなぐり捨てると激しい興奮に血の気を失いましたが、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>の凄まじい情景に引立てられて神々しくも美しく見えるお美乃です。

「ワ――ッ」

竹矢来を囲む数千の群集は、ドッと<ruby><rb>動揺</rb><rt>どよ</rt></ruby>みを打ちました。

「ならぬならぬ、ここを何と心得る」

役人二三人、押っ取り刀で美乃を取巻くと、役目大事と<ruby><rb>威猛高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>になりました。

「<ruby><rb>盃事</rb><rt>さかずきごと</rt></ruby>の済んだ上で、私の命をお召下すっても、少しも<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みには存じません」

「馬鹿なことを申せ」

「これは助命の願いではございません。どんな<ruby><rb>罪科</rb><rt>つみとが</rt></ruby>がありましょうとも、小三郎は私の許婚、二世を<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>った方に違いはございません」

一生懸命さが言わせる処女の雄弁に言い<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>られて、役人小者も顔を見合せるばかり、しばらくは、日頃用い慣れた権力を用いることさえ忘れました。

「ならぬならぬ」

「お願いでございます。処刑になる罪人には、今わの際に、たった一つだけは望みを叶えさせると承りました」

「えッ邪魔だッ、退かぬと力ずくで退かせるぞッ」

二三本の六尺棒が前後からお美乃の白無垢を押えました。

「たってならぬとおっしゃれば、ここで自害をいたします。せめて夫の先に死んで、死出三途の案内をいたしましょう」

お美乃は帯の間から用意の懐剣を取出すと、キラリと抜いて、我とわが胸に<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>っ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>を当てるのでした。一本の指でも加えたら、そのままズブリと突き刺して、白無垢を紅に染めるでしょう。竹矢来を取巻く見物は、高潮する劇的なシーンに酔って、時々ドッ、ドッと<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声をあげます。

そのうちに時刻は経ちました。裸馬に乗せられて、<ruby><rb>雁字</rb><rt>がんじ</rt></ruby>がらめに縛られた小三郎は、この凄まじいお美乃の純情をすぐ眼の下に眺めながら、一言の口をきくことも許されず、ほうり落ちる涙を拭う<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もなく、唇を噛み、身体を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせ、ただ男泣きに泣くばかりでした。

## 八

一方は銭形平次と八五郎、赤羽橋有馬屋敷の角、お<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>の<ruby><rb>葭簀張</rb><rt>よしずばり</rt></ruby>の中に、<ruby><rb>辰刻</rb><rt>いつつ</rt></ruby>（午前八時）過ぎから眼を光らせました。筑後国久留米二十一万石の大守<ruby><rb>有馬玄蕃頭</rb><rt>ありまげんばのかみ</rt></ruby>上屋敷、三田通りの一角に水天宮を勧進し、正式に諸人の参詣を許したのはずっと後の寛政年間で、日本橋に移ったのは明治になってからですが、寛政以前にも、屋敷内の水天宮に、特志の者の参詣を許したことはあったのです。

浪五郎がお詣りした頃は、月の五日でも参詣の者はほんの数えるくらい、その中に船頭風の男が交っていさえすれば、平次と八五郎の眼を<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れるはずはありません。

それから二た刻近いあいだ、平次と八五郎がどれほど気を揉んだことでしょう。

「八、あれだッ」

平次が濠端をやって来る、<ruby><rb>白髪頭</rb><rt>しらがあたま</rt></ruby>の頑固そうな老人を見付けたのは、ちょうど三縁山の昼の鐘が鳴り納めた時でした。

「お前さんは、船頭の浪五郎というんだね」

「えッ」

八五郎に胸倉を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まぬばかりにされて、老船頭はのけ反るばかりに驚きました。が、気を取直すと、

「いかにも、船頭の浪五郎はこの俺だ。さア、お縄を頂戴しよう。――身に覚えのないことだが、もう命が惜しいほどの年じゃない」

後ろに手を廻して観念の眼さえつぶるのです。

「違う違うお前を縛るんじゃない。三文字屋の小三郎が、親殺しの罪で、今日、今、<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>になりかけているんだ」

「えッ」

「一月五日の晩、お前と一緒に船の中で一と晩過したという<ruby><rb>証</rb><rt>あかし</rt></ruby>が立ちさえすれば助かる。サア、こうしているうちにも処刑が済むかも知れない。早、早く、早く」

「そいつは知らなかった。俺は海の上にばかりいる人間だ。サア、どこへでもつれて行ってくれ。一月五日には永代の下で、一と晩この俺と小三郎は話していた」

用意した三梃の駕籠、三人はまず<ruby><rb>数寄屋橋</rb><rt>すきやばし</rt></ruby>内南町奉行所に飛ぶと、そこに待っていた<ruby><rb>与力</rb><rt>よりき</rt></ruby>笹野新三郎は、手を廻して老中の奥印を<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>した赦免状を用意していました。

「それッ」

新たに人足を代えて、三梃の駕籠は鈴ヶ森へ――。

平次と八五郎が、赦免状と生き証人をつれて鈴ヶ森に乗込んだ時は、<ruby><rb>午刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>（十二時）を遥かに過ぎてもう<ruby><rb>未刻</rb><rt>やつ</rt></ruby>（二時）近くなっておりました。

お美乃の努力にも限度があります。六尺棒で押し隔てられて、竹矢来の外につまみ出されると、改めて囚人小三郎を馬からおろし、役人がもういちど罪状を読み聴かせた上、目隠しをして<ruby><rb>磔刑柱</rb><rt>はりつけばしら</rt></ruby>に掛けるのです。

「お願い、お願い」

竹矢来の外から必死と叫ぶお美乃の声も<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れ果てました。

「お美乃さん、私は嬉しい」

磔刑柱の上から、目隠しをされたまま、小三郎はわずかに声を張り上げます。

「小三郎さん」

「この小三郎が下手人でないことは、お美乃さんだけはよく知っている。――あの人に逢ったら、そう言って下さい」

「小三郎さん、お願いだから、言って下さい。みんな言って下さい」

しかしそれは無駄な努力でした。時刻が迫ると、役人は役目の落度になります。

「それッ」

合図をすると、二本の<ruby><rb>錆槍</rb><rt>さびやり</rt></ruby>が、小三郎の胸のあたりでピタリと交されました。一瞬の間、万事終るでしょう。

「小三郎さん」

ドッと<ruby><rb>動揺</rb><rt>どよ</rt></ruby>み打つ群集の声に呑まれて、お美乃のか弱い声ももう聞えません。あなやと思う時でした。

「待った。――その処刑待った」

「御赦免状だぞッ」

平次と八五郎と浪五郎は、大波のように揺れる群集の中へ、真一文字に飛び込んで来たのでした。

＊

幾松はその日のうちに主殺しの下手人として、島吉に縛られました。安宅の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おえの</span>の家から三十両の金が、幾松の財布に入ったまま現われたのと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おえの</span>に毒酒を持って行ったのが、見知り人があって幾松と知れ、主人久兵衛殺しまで幾松の仕業とわかったのです。

「五日の晩、わざと遠方の安宅長屋へ行って、人に知れると恥になるような証拠を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたのは、幾松の並々ならぬ悪智恵だ。その場にいない証拠に、船比丘尼などを出すのは人情の裏を行った<ruby><rb>逆手</rb><rt>ぎゃくて</rt></ruby>さ」

平次はガラッ八にせがまれて、絵解きをしてやりました。事件が落着して四五日のことです。

「なるほどね」

「小三郎の脇差で久兵衛を殺し、一と通り洗って自分の<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>へ入れて置いたのも行届いた<ruby><rb>悪企</rb><rt>わるだく</rt></ruby>みだ。あれを見た時は俺も下手人はてっきり小三郎に違いないと思ったよ」

「なんだって幾松は主人を殺す気になったんでしょう」

「幾松にしてみれば、赤の他人の小三郎が三文字屋を継ぐことになったのが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわったのさ。小三郎を久兵衛の本当の子と知らないから、三文字屋の血を引く自分の方が跡を継ぐのが本当だと思ったんだろう。久兵衛を殺して小三郎が下手人で処刑になれば、三文字屋の身上とお美乃は幾松の自由になるじゃないか」

そう言われると、幾松が下手人らしくなります。

「もう一つ解らないことがあるんだが――」

「なんだい」

「お磯はなんだって小三郎をひどく言ったんでしょう」

「お美乃に取られたような気がして<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しかったのさ」

「小三郎はとんだ果報者だね」

「あんな肌合の男が<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って娘に好かれるんだろう。愛嬌があって如才がなくて、触りの滑らかな幾松は、腹が黒いから娘達に打ち込まれないのさ」

「ヘエ――」

「大層感心するじゃないか、――お前なんかも一本調子だから娘たちには人気のある方さ。用心するがいいぜ」

「冗談でしょう。ところで、お美乃を花嫁姿で鈴ヶ森へやったのは親分の指図でしょう」

「とんでもない。岡っ引がそんなことをしていいか悪いか考えてみろ」

平次の言葉には<ruby><rb>含蓄</rb><rt>がんちく</rt></ruby>があります。

「でも、島吉兄哥は親分のお蔭で大手柄でしたよ。喜んでいましたぜ」

「とんでもない、もうすこしで取返しのつかない<ruby><rb>大縮尻</rb><rt>おおしくじり</rt></ruby>をやらかすところよ。――岡っ引は本当に怖い。自分の腕や智恵にたよりすぎると、大変なことになる」

平次はそんな気になっているのでした。