場所の名は今あらはに云ひにくいが、これは<ruby><rb>某</rb><rt>ある</rt></ruby>カフヱーの主人の話である。<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>しその主人とは前からの<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>でも何でもない。去年の一月末の<ruby><rb>陰</rb><rt>くも</rt></ruby>つた<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>に、わたしは<ruby><rb>拠</rb><rt>よんどこ</rt></ruby>ろない義理で下町のある貸席へ顔を出すことになつた。そこに<ruby><rb>某</rb><rt>ある</rt></ruby>社中の俳句会が開かれたのである。

わたしは俳人でもなく、俳句の選をするといふ<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>でもないのであるが、どういふ<ruby><rb>廻</rb><rt>まは</rt></ruby>り合せか時々に引つ張り出されて、迷惑ながら<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の選者顔をして、机の前に坐らなければならないやうな<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>に陥ることがある。今夜もやはりそれで、無理に狩り出されて山の手から下町まで出かけて来たのであるが、あひにくに<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>は昼間から陰つて底冷えがする。自分も二三日前から少しく風邪を引いたやうな心持がする。おまけに午後八時頃からいよ〱雨になつたので、わたしは諸君よりも一足先へ<ruby><rb>御免</rb><rt>ごめん</rt></ruby>を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>ることにして、十時近い頃にそこを出た。それから<ruby><rb>小半町</rb><rt>こはんちょう</rt></ruby>もあるいて、電車の停留所にたどり着いたが、どうしたものか電車が<ruby><rb>一向</rb><rt>いっこう</rt></ruby>に来ない。下町とはいひながら、雨のふり<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>る寒い<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>に、電車を待つ人の傘の影が<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>一ぱいに重なり合つてゐるのを見ると、よほど前から電車は来ないらしい。

困つたものだと思ひながら、わたしも寒い雨のなかに<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>つ立つてゐると、電車はいつまでも来ない。電車ばかりか、意地悪く乗合自動車も来ない、円タクも来ない。<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>はだん〱に<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて来る。雨は<ruby><rb>小歇</rb><rt>おや</rt></ruby>みなく降つてゐる。<ruby><rb>洋傘</rb><rt>こうもり</rt></ruby>を持つてゐる手先は痛いやうに<ruby><rb>冷</rb><rt>つめた</rt></ruby>くなつて来る。からだも何だか<ruby><rb>悪寒</rb><rt>さむけ</rt></ruby>がして来た。

『とても<ruby><rb>遣切</rb><rt>やりき</rt></ruby>れない。茶でも<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>まう。』

かう思つて、わたしはすぐ<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にある小さい<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>カフェー</rt></ruby>の<ruby><rb>硝子戸</rb><rt>がらすど</rt></ruby>をあけて<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>つた。場合が場合であるから、どんな<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>でもかまはない。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>もかくも家のなかへ這入つて、熱い紅茶の一杯も<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>つて、当坐の寒さを<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>がうと思つたのである。店は<ruby><rb>間口</rb><rt>まぐち</rt></ruby>二<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>ぐらゐのバラツク<ruby><rb>建</rb><rt>だて</rt></ruby>で、<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>の見つきは<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しくなかつたが、内は案外に整頓してゐた。隅の方の椅子に腰をおろして、紅茶と菓子を註文すると、十六七の<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>らしい娘が註文の品々を運んで来た。

ほかには客も無い。わたしは黙つて茶をのみながら<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>らを見まはすと、菓子や果物のほかに軽い食事も出来るらしいが、家内は夫婦と娘の三人きりで、主人が料理を一手に引受け、女房が勘定をあづかり、娘が給仕をするといふ役割で、他人まぜずに商売をしてゐるらしい。今夜のやうな晩は<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>であるとみえて、主人はやがてコツク場から店の方へ出て来た。年はもう四十を五つ六つも越えてゐるであらう、背は高くないが<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>つた男で、<ruby><rb>布袋</rb><rt>ほてい</rt></ruby>のやうな大きい腹を突き出して、無邪気さうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にや</span>〱笑ひながら挨拶した。

『お寒うございます。あひにくに又降り出しました。』

『困りますね。』と、わたしは表の雨の音に耳をかたむけながら云つた。

『まつたく困ります。<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>は御近所でございますか。』

『いや、山の手で……。』

『そりや<ruby><rb>御遠方</rb><rt>ごえんぽう</rt></ruby>で……。あひにく電車が<ruby><rb>些</rb><rt>ち</rt></ruby>つとも来ないやうですね。』

『それでいよ〱困つてゐるんですよ。』

『どうして来ないのかな。又どこかで人でも<ruby><rb>轢</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたかな。』と、主人はすこし顔をしかめた。

娘は気を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かして表を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてくれたが、電車はまだ来さうもないのであつた。

『まあ、<ruby><rb>御</rb><rt>ご</rt></ruby>ゆつくりなさいまし。表はお寒うございますから。』と、女房は<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそう</rt></ruby>よく云つて、わたしの火鉢に炭を継いでくれたりした。

主人もわたしに近い椅子に腰をおろして、<ruby><rb>打解</rb><rt>うちと</rt></ruby>けたやうに話し出した。

『旦那は山の手ぢやあ、<ruby><rb>区画</rb><rt>くかく</rt></ruby>整理にはお<ruby><rb>係</rb><rt>かか</rt></ruby>り合ひ無しですね。』

『いや、やつぱり震災に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>られたんですよ。』

『やあ、それはどうも……。まつたく御同様にひどい目に逢ひましたね。わたくし共なんぞもこの始末です。』と、かれは笑ひながら<ruby><rb>家中</rb><rt>うちじゅう</rt></ruby>をみまはした。

『<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>しなか〱綺麗ぢやありませんか。』

『ご冗談を……。この通りの<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>バラツクで、まるで見る影はありませんや。これでも震災前までは<ruby><rb>四間半</rb><rt>しけんはん</rt></ruby>の<ruby><rb>間口</rb><rt>まぐち</rt></ruby>を張つて、少しは気の利いた西洋料理屋を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>つてゐたんですが、震災で何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も<ruby><rb>型無</rb><rt>かたな</rt></ruby>しになつて仕舞つたので、半分を隣のパン屋に貸して……。なに、前から知合ひの仲ですから、高い権利金なんぞ取りやあしません。そこで、奉公人は一切置かないことにして、<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんと娘と三人ぎりで、このごろ流行のカフヱーの真似事みたやうなことを始めて……。なにしろ店が小さいから<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>な商売もありませんが、その代りには又気楽ですよ。それにしても、これぢやああんまり<ruby><rb>体裁</rb><rt>ていさい</rt></ruby>が悪いから、もう少し何とか<ruby><rb>店附</rb><rt>みせつき</rt></ruby>を<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くしようと云つてゐるんですが、例の区画整理がまだ本当に<ruby><rb>決</rb><rt>き</rt></ruby>まらないんでね。いや、<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>はもう<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>を打つたんですが、近所が去年焼けたもんですから、又なんだか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごた</span><ruby><rb>付</rb><rt>つ</rt></ruby>いて……。一体どうなるんでせうかねえ。』

『この近所は焼けたんですか。』

わたしも少しく顔を<ruby><rb>陰</rb><rt>くも</rt></ruby>らせた。震災に焼かれてバラツクを建てゝ、それを又焼かれては<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らない。まつたく踏んだり<ruby><rb>蹴</rb><rt>けっ</rt></ruby>たりの災難であると、わたしは我身にひきくらべて、心から気の毒に思つた。それを察したやうに、主人は<ruby><rb>首肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

『気の毒ですよ。いくらバラツクで<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>な物はないと云つたつて、又焼かれちやあ助かりません。近所でもみんな泣いてゐましたよ。』

『よつぽど焼けたんですか。』と、わたしは又<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

『えゝ、<ruby><rb>小一町</rb><rt>こいっちょう</rt></ruby>ばかり真四角に焼けてしまひました。』

『ぢやあ、この<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>も……。』

『ところが、焼けない。どうも不思議で……。こゝの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>だけが<ruby><rb>唯</rb><rt>た</rt></ruby>つた一軒助かつたんです。』

『運が好かつたんですね。』

『運が好かつたんですよ。』と<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>がへしに答へながら、主人はすこし真面目になつた。『それがねえ、旦那。なんだか<ruby><rb>妙</rb><rt>みょう</rt></ruby>なんですよ。まあ、お聴きください。御承知の通り、区画整理はどこでも<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>ごた付きで、なか〱容易に決着しません。こゝらも<ruby><rb>大揉</rb><rt>おおも</rt></ruby>めに揉めたんですが、それでもまあ<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うにか<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うにか折合が附いて……。なに、本当に附いたわけぢやあないが、まあ半分は泣寝入りの形で、みんなも虫を殺して往生することになつて、去年の九月に復興局の人たちが来て、<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>を入れたり何かした<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>に、どこでもするやうに赤い杭を打ち込んで行きました。こゝの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>も店さきを一間二尺ほど切り下げられるんださうで、両隣との<ruby><rb>庇間</rb><rt>ひあわい</rt></ruby>へ杭を打たれたんです。<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>さへ狭くなつたところへ、こゝで又、奥行を一間二尺も切り<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>められちやあ<ruby><rb>仕様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がないが、それもまあ世間<ruby><rb>一統</rb><rt>いっとう</rt></ruby>のことですから、わたしの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>ばかりが苦情を云つても始まらないと、まあ<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めてゐたんです。そこで、この一町内も<ruby><rb>門並</rb><rt>かどなみ</rt></ruby>に杭を打たれてしまふと、その月のお<ruby><rb>彼岸</rb><rt>ひがん</rt></ruby><ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ぎ――<ruby><rb>廿八</rb><rt>にじゅうはち</rt></ruby>日の晩でした。

その日は朝から急に<ruby><rb>涼風</rb><rt>すずかぜ</rt></ruby>が立つて、日が暮れるともう<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとへもの</rt></ruby>では<ruby><rb>冷々</rb><rt>ひやひや</rt></ruby>するくらゐでしたが、不思議なことにはその晩<ruby><rb>些</rb><rt>ち</rt></ruby>つともお客が無いんです。昼間はいつもの通りでしたが、<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>がついてからは一人も来ないんです。こんなことも珍しい、陽気が急に涼しくなつたせゐかしらなぞと云つてゐました。その<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>、表の往来はふだんの通りに<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かいんですが、誰もこゝの店へ這入つて来るものが無い、みんな素通りです。<ruby><rb>定連</rb><rt>じょうれん</rt></ruby>のやうに毎晩寄つてくれる近所の若い人たちも、今夜は湯帰りの<ruby><rb>湿</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>をぶら下げながら黙つて店の前を通り過ぎてしまふんです。わたしばかりぢやあない、<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>のかみさんや娘たちも何だか寂しいやうな気がしたさうです。それでも商売ですから、宵から戸を閉めるわけにも行かないので、夜の更けるまで<ruby><rb>欠</rb><rt>あく</rt></ruby>びをしながら、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>と店の番をしてゐると、もう十一時半頃でしたらうか、いつもは十二時まで店をあけて置くんですが、今夜は右の一件ですから、もうそろ〱閉めようかと思ひながら、わたしが表へ出てみると、こゝらの家ももう大抵は寝てしまつて、世間は<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>としてゐます。電車の往来も<ruby><rb>少</rb><rt>すくな</rt></ruby>くなつて、人通りは勿論少い。たゞ大空には<ruby><rb>皎々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>とした月が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え渡つて、もう夜霧が降りたのでせう、近所のトタン<ruby><rb>屋根</rb><rt>やね</rt></ruby>も往来の地面も<ruby><rb>湿</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れたやうに白く光つてゐました。

涼しいのを通り越して、なんだか<ruby><rb>薄</rb><rt>うす</rt></ruby>ら寒くなつて来たので、わたしは<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をかき合はせながら内へ引込まうとする時、どつちの方から来たのか知りませんが、三人づれの男の客が<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がつて這入つて来ました。みんな洋服を着た若い人ばかりで、二人は<ruby><rb>詰襟</rb><rt>つめえり</rt></ruby>、ひとりは折襟……。帽子もみんな覚えてゐます、一人は<ruby><rb>麦藁</rb><rt>むぎわら</rt></ruby>、ひとりは<ruby><rb>鳥打</rb><rt>とりうち</rt></ruby>、ひとりは古ぼけた<ruby><rb>中折</rb><rt>なかお</rt></ruby>れをかぶつてゐました。<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らつしやいと云ひながら好く<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>ると、どの人も覚えのある顔で、半月ほど前にこゝらへ来て、測量をしたり杭を打ち込んだりして行つた復興局の人達でしたから、わたしも商売柄、先日はご苦労様でしたとか何とか挨拶をして、さてお<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>へを<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、サラダか何かの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつさり</span>したもので、ビールを飲ませろと云ふんです。宵から一人もお客が無かつたところへ、三人連れで来てくれたんですから、こつちも有難い。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にこのあひだ中は随分世話を焼かせた復興局の人たちですから、かみさんや娘たちも精々お世辞をならべて、お誂へを運び出すと、三人ともに黙つて飲んでゐるばかりで、わたしの方から何か話しかけても、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に返事もしないんです。大分御ゆつくりでございますねと云つても、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>むゝと云ふばかり。これからどちらへかお出かけですかと冗談半分に訊いてみても、唯むゝと云ふばかり。このあひだは三人ながら<ruby><rb>皆</rb><rt>み</rt></ruby>んな威勢の好い人達ばかりだつたのに、今夜は揃ひも揃つて何だかむづかしい顔をして黙つてゐるのは、どういふわけかと思ひながら、わたし達も黙つて見てゐると、三人はビールを三杯づつ飲んで、<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>まだ飲ませろと云ふんです。

こんな夜ふけに、復興局の人たちが三人揃つて<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>をうろ付いてゐるのか。いや、若い人達ですから、うろ付いてゐるのに不思議は無いとしても、どの人も<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>にむづかしい顔をして、たゞ黙つて飲んでばかりゐるのが少し気になりました。復興局をクビにでもなつて、<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>になつてそこらを飲みあるいてゐるんぢや無いかなどとも考へると、この人達にむやみに飲ませるのも何だか不安心なやうにも思はれましたが、まさかに註文を断るわけにも行かないので、その云ふ通りに飲ませると、大きいコツプでたうとう五杯づつ飲みました。それで別に酔つたらしい様子もみえないんです。そのうちに店の時計が十二時を打ちましたから、それを<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>にそこらをそろ〱片附けはじめると、三人は気の毒だがもう少し飲ませてくれと云つて、それからそれへと又二杯、<ruby><rb>都合</rb><rt>つごう</rt></ruby>七杯づつ飲みました。

夜は<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて来る、変なお客が黙つていつまでも飲んでゐる。勿論、こんなお客にもたび〱出逢つてゐますから、さのみ驚きもしませんが、今夜の三人は何だか薄気味が悪いやうに思はれて来たんです。かみさんや娘もやつぱり<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いやうな気がしたと云つてゐました。かうなると、お客もお荷物で、早く帰つてくれゝば好いと思つてゐると、表から又ひとりの客が這入つて来ました。痩せて背の高い男で、鼠色の立派な洋服を着て、やはり鼠色のヘルメツトのやうな帽子をかぶつてゐましたが、帽子を取ると髪の毛が銀のやうに白く光つてゐるのが眼につきました。前の三人はこの男をみると、一度に起ちあがつて<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>に挨拶する。その様子から考へると、この男は三人の上役らしいんです。お誂へを聞くと、なんにも<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らない、水を一杯くれろと云ふだけでした。

男は水を飲んでしまつて、三人に眼で知らせると、三人はすぐに帰り<ruby><rb>仕度</rb><rt>じたく</rt></ruby>をはじめました。さあ、これからがお話です。三人はわたしに向つて、実は持合はせがないから、今夜の勘定は<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>の<ruby><rb>晦日</rb><rt>みそか</rt></ruby>まで貸してくれと云ふんです。大方そんなことぢやあないかと<ruby><rb>内々</rb><rt>ないない</rt></ruby>あやぶんでゐたんですが、今更どうにも仕様がありません。無いといふものを無理に出せとも云はれず、ましてまんざら<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らない顔でもないんですから、わたしも素直に承知して、ビール<ruby><rb>廿一杯</rb><rt>にじゅういっぱい</rt></ruby>とハムサラダ三枚の勘定を貸して<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ることにすると、みんなも喜んで出て行きました。さあお仕舞だと総がかりで店を片附けはじめると、娘が表をのぞいて又引返して来て、あの四人連れはまだ外に立つてゐると云ふんです。なにをしてゐるのかと、わたしも<ruby><rb>窃</rb><rt>そっ</rt></ruby>と覗いてみると、四人は明るい月の下に突つ立つて、なにか相談でもしてゐるらしいんです。そのうちに髪の白い男が<ruby><rb>真先</rb><rt>まっさき</rt></ruby>に立つて、ほかの三人がそのあとに附いて、この町内の角を曲つて行きましたが、やがて<ruby><rb>鶏</rb><rt>にわとり</rt></ruby>が鳴き始めました。それも時を作るのぢやあない、物に驚いたやうに鳴いて騒ぎ出したんです。この町内には鶏を飼つてゐる家が三軒ばかりありますが、その鶏がみんな一度に騒ぎ出したので、わたしも少し変だと思つてゐると、そこらの犬もむやみに吠え出しました。

よその<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>はもう<ruby><rb>寝静</rb><rt>ねしず</rt></ruby>まつてゐるので、なんにも<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>かないかも知れませんが、わたし達はどうも不安心でなりません。<ruby><rb>鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>が騒ぐ、犬が吠える、もしや又大地震でも始まる前兆ぢやあないかなどと云つて、かみさんや娘は怖がります。わたしはもう一度、表へ出てみると、往来には一人も通らず、夜の更けるに連れて月がます〱冴えてゐるばかりです。<ruby><rb>鶏</rb><rt>にわとり</rt></ruby>や犬はまだ鳴いてゐる。その時、横町の薬屋の角から出て来た人の影があるので、よく見るとそれは今の四人連れで、この町内を四角に<ruby><rb>一廻</rb><rt>ひとまわ</rt></ruby>りして来たらしいんです。昼のうちに見廻ると、方々の店から出て来て色々の苦情をならべ立てるので、夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてから<ruby><rb>窃</rb><rt>そっ</rt></ruby>と見まはるのかも知れないと思つて、内へ這入つてその話をすると、かみさんも<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>さうかも知れないと云つてゐました。まつたくこゝらでは、復興局の人をみると<ruby><rb>喧嘩腰</rb><rt>けんかごし</rt></ruby>で<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>つてかゝるのが随分ありますから、一々相手になつてゐるのも面倒だと思つて、わざと夜ふけに見廻つてあるくと云ふことも無いとは云へません。<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の悪いのは、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>半分に一旦打ち込んだ杭を引つこ抜いて仕舞ふのも無いとは限りませんから、それで見廻つてゐるのかも知れないなぞとも思ひました。

それで、表の戸をしめて内へ這入ると、犬や鶏はまだ鳴いてゐるんです。なんだか気になるが、どうにも仕様がない。大抵の地震が来たところで、このバラツクならば大して驚くこともないと<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>をくゝつて、わたしが真先に寝床へ転げ込むと、かみさんや娘も気味を悪がりながら寝てしまひました。そのうちに犬も鶏も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぱつたり</span>鳴き止んで、外は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひつそり</span>と<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まつたやうでした。わたしは<ruby><rb>後生楽</rb><rt>ごしょうらく</rt></ruby>の人間ですから、<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>へ這入つたが最後、夜のあけるまで一息に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐつすり</span>寝込んで、夜なかに何があつても知らない方ですから、その晩も<ruby><rb>好</rb><rt>いい</rt></ruby><ruby><rb>心持</rb><rt>こころもち</rt></ruby>に寝てしまつたんですが、あくる朝起きてみると、かみさんや娘が<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに不思議がつてゐるんです。

なにが不思議だと訊いてみると、店の横手の右と左とに打ち込んであつた区画整理の赤い杭を、誰かが引つこ抜いてしまつたと云ふんです。なるほど変だと段々しらべると、家のうしろに打ち込んだ杭も見えなくなつてゐる。近所はどうしたかと見てあるくと、ほかの家の杭はみんな元の通りになつてゐて、わたしの家のまはりの杭だけがなくなつて仕舞つたもんですから、こゝだけが赤い杭の外へこぼれ出して、<ruby><rb>朱引</rb><rt>しゅび</rt></ruby>き外と云つたやうな形になつてゐるんです。ゆうべの人がしたんぢやないかと娘達は云ふんですが、なぜそんな事をしたのか判りません。なにしろ<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の<ruby><rb>晦日</rb><rt>みそか</rt></ruby>にはあの人達が勘定を払ひに来てくれるだらうから、そのときに訊いてみようと云ふことにして、先づそのまゝに打つちやつて置くと、あくる日の晦日になつても三人は姿を見せないんです。夜になつたら来るだらうと云つてゐたんですが、その夜が十時になり、十一時になり、十二時になつても、たうとう誰も来ない。おまけに寒い風が吹き出したので、思ひ切つて店を閉めて仕舞ひました。

いつもの通りに店を片附けて、さあ寝ようかといふ時に、町内の犬や鶏が又むやみに鳴いて騒ぎ出しました。つゞいて火事だ火事だと<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>る声がきこえる。おどろいて表へ飛び出すと、町内の家具屋が燃えてゐるんです。あひにくに風があるので、火の手は<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>くひまに拡がつて、もう<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うすることも出来ない。こゝの家へも火の<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>が一面にかぶつて来るので、<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>に荷物なぞを持ち出すひまも無しに、寝巻一枚で逃げ出すといふ始末。やれ、やれ、震災を又喰つたのかと、さすがのわたしも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>して眺めてゐると、そのうちに消防の自動車もかけ付けて来ましたが、なにしろバラツクですから堪りません、それからそれへと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぺら</span>〱焼けて行つて、たうとうこの一町内を灰にして仕舞ひました。そこで不思議なことは、ねえ、旦那。そのなかで、この家だけは無事でした。<ruby><rb>門並</rb><rt>かどな</rt></ruby>み焼け落ちたなかで、この家だけは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちやん</span>と残つてゐたんです。どう考へても不思議ぢやありませんか。

今もいふ通り、誰がしたのか知れませんが、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>のまはりの赤い杭を抜いてしまつて、こゝだけを朱引き外にして置くと、不思議に火の手が廻つて来なかつたんです。どうしてこゝだけが残つたのかと、誰でも不思議がらない者はありません。旦那はどうお思ひです。』

この長い話を聞き終つて、わたしも思はず<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついた。

『それで、その復興局の人達といふのは其後に姿を見せないんですか。』

『それぎり一度も見えません。』と、主人は答へた。『勿論その晩の勘定は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふい</span>になつて仕舞つたんですが、<ruby><rb>晦日</rb><rt>みそか</rt></ruby>の晩に払ひに来ると云つて、その晩が火事なんですからね。つまり私の方ぢやあビール廿一杯とハムサラダ三枚の勘定の代りに、家の焼けるのを助かつたと思やあ好いんですから、差引きをすりやあ有難いわけだと云つてゐるんですよ。ねえ、さうでせう。』

『そりやあ<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>にさうだが……。』と、わたしは<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>えかゝつた紅茶を一口飲んだ。

『旦那、お止しなさい。冷くなつてゐるでせう。』

主人は娘に云ひつけて、熱い茶に換へさせた。

『その杭を抜いたと云ふのは、まつたく復興局の人達だらうか。』と、わたしは考へながら云つた。

『だつて、今もお話をするやうな訳ですからね。その人達がした事に相違あるまいと思はれるぢやありませんか。』と、主人は堅くそれを信じてゐるらしかつた。

『それにしても不思議だな。』

『だから、不思議だと云ふんですよ。このあひだも復興局の人が杭を打ち直しに来ましたが、みんな<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らない顔ばかりなんです。いつか来た人たちは<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしましたと訊いてみたんですが、今度の人は去年の暮頃から新しく這入つた人達ばかりで、前の人のことは何にも知らないと云ふんです。と云つて、復興局までわざ〱訊きに行くのも変ですから、まあそれぎりになつてゐるんですがね。まあ、そのうちには自然に判ることもありませう。』

この時、電車が来ましたと娘が教へてくれたので、わたしは早々に勘定を払つて出た。振返つてみると、なるほど左右のバラツクはみな新しいなかに、この店だけはもう相当に古びてゐるのが、暗い雨のうちにも<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かに認められた。