## 一

六年生の<ruby><rb>加藤大作君</rb><rt>かとうだいさくくん</rt></ruby>が、人通りのない道を歩いてくると、キャラメルの<ruby><rb>箱</rb><rt>はこ</rt></ruby>が一つ落ちていた。

「あれ、キャラメ……」

大作君はかがんでそれをひろおうとした。しかし急にある考えがうかんで、ひろうのをやめた。人に<ruby><rb>空箱</rb><rt>あきばこ</rt></ruby>をひろわせてはずかしい思いをさせようという、だれかの意地わるないたずらかも知れない。どこかにかくれてみていて、それを大作君がひろうととたんに「わアい、いいものひろったなア。」とひやかすつもりかも知れない。そういえば、あたりがばかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそり</span>している。この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそり</span>しているのが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くさい</span>のである。

そこで大作君はキャラメルの箱を<ruby><rb>横眼</rb><rt>よこめ</rt></ruby>でにらみながら通りすぎると、うしろからあんのじょう、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だい</span>くん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だい</span>くん。」とよんだ者がある。ふりかえったがだれもいなかった。

すると道ばたの、いま白い花をいっぱいにつけたくちなしのいけがきの一ところが、がさがさと動いて、「ここだよ、ここだよ。」とよんだ。

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>はすこしもどって、すきまからのぞいてみた。黒い<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>がまたたきながら笑っていた。なんだ、大頭の<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>である。

だが、こいつは<ruby><rb>油断</rb><rt>ゆだん</rt></ruby>のならぬ<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だ、ぼくを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>にかけようとしたんだ、と大作君はすこし<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>が立った。

大頭の吉太郎君は自分のしかけた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>が失敗したので、ご<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>をとるようににこにこしながら、

「はいってこいよ、あそこの<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>から。」

といった。

大作君は、うんといって、その穴から吉太郎君の家の<ruby><rb>屋敷</rb><rt>やしき</rt></ruby>にはいった。そこはお金持の吉太郎君の家の<ruby><rb>土蔵</rb><rt>どぞう</rt></ruby>のうらで、みかんの木が五六本うわっていた。

「な、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だい</span>くん、あっこにキャラメルの<ruby><rb>箱</rb><rt>はこ</rt></ruby>が落ちてるだろう。」

と吉太郎君がひそひそ声でいった。こんなふうに、ひそひそ声で話しかけられると、つまらないことでも重大な意味があるように感じられるものだから、大作君はいけがきのすきまからあらためてキャラメルの箱をみた。そして<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をぱちくりやって、

「うん。」

と、やはり声をひそませて答えた。

「あいつをだれかがきっとひろうから、みてよかよ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">貧乏なやつ</span>がきっとひろうぞ。」

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>は、ついいましがた、自分がそれをひろおうとしたこと、そして自分が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>にかけられようとしているのに気づいて<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>を立てたことをわすれてしまった。こんどはためす立場にかわったのだ。人をためすとなると、また一だんと<ruby><rb>興味</rb><rt>きょうみ</rt></ruby>がわくものである。

「うん。」

と大作君は、もう<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>の味方になりながら、うなずいた。

ふたりは、くちなしの葉や花<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しべ</span>に顔をさわられながら、すきまから道の上の小さい<ruby><rb>箱</rb><rt>はこ</rt></ruby>を熱心にみつめ、はやく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">貧乏なやつ</span>がこないかと、道の左右をうかがっていた。

こうして、人に知られずに、人をためすということは、なんと<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>のときめくことであろう。<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>をとらえるために<ruby><rb>風呂桶</rb><rt>ふろおけ</rt></ruby>のふたを庭に立てて、その下にもみをまいておき、雀がそこにだまされてくるのを、ものかげからみているときの、あのひそやかな<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びに<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>ている、と大作君は思った。

それにしても、道というものはなかなか人の通らぬものだ。そしてまた村というものは、ばかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそりかん</span>としたものである。<ruby><rb>黄金虫</rb><rt>こがねむし</rt></ruby>が一ぴき、はねを鳴らしてふたりの鼻先を通ったとき、ふたりはあやうくおどろきの声をあげるところであった。黄金虫がこんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べらぼう</span>な<ruby><rb>翅音</rb><rt>はおと</rt></ruby>を立てるとは知らなかったのである。

と<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>が、

「だれかくるぞ。」

こうささやいた。ほんとうに、だれかくるけはいがした。

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>が冷たいいけがきの中へ顔をつっこんでみると、ちょうど、こういうことでためすには手ごろだと思われる初等科二三年の子どもが、何かぶつぶついいながらくるのがみえた。しかしどうも見覚えのある子どもだ、と大作君は思った。そのはずである、それは大作君の弟の<ruby><rb>幸助</rb><rt>こうすけ</rt></ruby>だった。

「なんだ、幸……」

しかし大作君はだまってしまった。もう幸助はすぐ近くにきていたのである。もうなりゆきにまかすばかりだった。

大作君は息の根がとまった。――幸助が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれ</span>をひろうか、ひろわないか……

「はァん、はァん、ちゃッちゃッちゃッ。」

と幸助は、ひとりのときいつでもやるように、わけのわからぬことをうたいながら、<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>でいけがきの葉をむしったりして近づいてきたが、急にだまってしまった。ついにキャラメルの<ruby><rb>箱</rb><rt>はこ</rt></ruby>を発見したのだ。

大作君は<ruby><rb>両眼</rb><rt>りょうめ</rt></ruby>をつむりたかったが、それはまた<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>なことのような気がしたので、そのままみていることにした。

はたして<ruby><rb>幸助</rb><rt>こうすけ</rt></ruby>は、キャラメルの<ruby><rb>箱</rb><rt>はこ</rt></ruby>をひろった。そして中を改めてみて（むろん、からだった）ポケットにしまいこむと、またさっきのつづきを、

「はァん、はァん、ちゃッちゃッちゃッ。」

とうたいながら、いってしまった。

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>ははずかしさで顔がほてった。その顔をみられるのがいやなので、いっそいつまでもいけがきにつっこんでいたかったほどである。

<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>と顔を見合わせると、吉太郎君が、なんといっていいか困ったように顔をゆがめた。すると大作君は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うちは貧乏だ</span>！　という考えが頭からおっかぶさってきて、どう立っていていいかわからなかった。

そこで<ruby><rb>失敬</rb><rt>しっけい</rt></ruby>もいわないで、しかられた<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>のようにごそごそと、さっきの<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>から外に出た。

## 二

大頭の吉太郎君にわかれてから、大作君はもう四つ五つの道かどをまがってきた。こんなふうに景色をかえているうちに、たいていの<ruby><rb>不愉快</rb><rt>ふゆかい</rt></ruby>なおもいは消えてしまうものである。ところが、<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>はそうでなかった。家は<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>だ、というおもいは、しゅうねんぶかく大作君のあとをつけてきた。まるで、追っても追ってもついてくるすて犬のように。

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>は、何もいままで自分の家の<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>なことを知らなかったわけではないのだ。しかしこんなぐあいに、まざまざとみせつけられたのは<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>がはじめてであった。

四年生の三学期に大作君は<ruby><rb>体操</rb><rt>たいそう</rt></ruby>をなまけてばかりいたことがあった。それで、体操の点が<ruby><rb>乙</rb><rt>おつ</rt></ruby>か<ruby><rb>丙</rb><rt>へい</rt></ruby>になるだろうということは、前からうすうす思っていた。しかし<ruby><rb>通知票</rb><rt>つうちひょう</rt></ruby>をもらって、じっさいそこに、体操丙と書かれてあるのをみたときには、いやこれであたりまえだ、と思いながらも、がっかりしてしまったものだ。

大作君が、いぜんからうすうす知っていた自分の家の<ruby><rb>貧</rb><rt>まず</rt></ruby>しいことを、今日のできごとでまざまざとみせつけられたのは、体操丙の通知票をみたときと同じようなことであった。

そこで大作君は、おとなのことばでいえば、自分の家の貧乏をはっきり<ruby><rb>認識</rb><rt>にんしき</rt></ruby>した。さらに、貧乏であることをしみじみはずかしく感じたのである。

人は、つまずいてすてんころりとぶざまにころんだりすると、ころんだ自分に<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>を立てて、もういっぺんわざと、こんどはもっとひどく、ころんで自分をいじめることがあるものだが、大作君も、自分の家の貧乏なことがよくわかり、そしてそれがうたがいもなくはずかしいことであるとわかってみると、こんどはわざと、自分の家がどんなに貧しいはずかしい<ruby><rb>暮</rb><rt>く</rt></ruby>らし方をしているかをおもい出して、ますますはずかしさを味わってみたくなった。

――第一、<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>の家では子どもが多すぎるのだ。大作君をかしらにして八人いる。そしてお母さんはまだこれから<ruby><rb>赤</rb><rt>あか</rt></ruby>ん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をうむかも知れないのである。何しろこんなに生まれるということはお父さんも意外だったそうだ。それが<ruby><rb>証拠</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>に、お父さんははじめ三人だけは、大作、<ruby><rb>速男</rb><rt>はやお</rt></ruby>、<ruby><rb>幸助</rb><rt>こうすけ</rt></ruby>と、ていねいな名前をつけた。そして四人目が生まれたときにはじめて、これは今後何人生まれるかわからない。それならば、いちいち考えて名をつけているわけにはいかないというので、四人目の弟からは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">四</span><ruby><rb>郎</rb><rt>ろう</rt></ruby>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">五</span>郎、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ム</span>ツ子、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">七</span>郎と、番号式につけたのだそうである。この話をよく大作君はお父さんから笑い話としてきかされ、そのつど、おかしくて大笑いした。しかし考えてみれば、こんなことのどこがおもしろいものか。ぜんぜん<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>くさい話じゃないか。

子どもが多いので大作君の家では、服をひとりひとりに買ってあてがうということはないのだ。たとえば大作君が使った洋服を、つぎの速男が使ってわるくし、それをつぎの幸助が使ってぞうきんみたいなものにしてしまい、それをつぎの四郎と五郎が使っていっそうちぎれちぎれにしてしまうと、最後は赤ん坊たちのむつきになるというあんばいだった。

<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>や<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>や教科書、その<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>なんでもそういうふうに、年上から年下へ手わたされていくのであった。おかしいことに<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>の上のこぶまでがそうだった。つまり最初に、大作君の左の眼の上が赤くつやつやとふくれあがってまぶたが重くなる。一週間もして大作君のそれがなおると、つぎの速男がちゃんとそれをうけついで、左の眼の上をはらしている。速男がなおれば幸助、つぎは四<ruby><rb>郎</rb><rt>ろう</rt></ruby>、五郎という順にいく。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たんこぶ</span>までが、リレーの<ruby><rb>棒</rb><rt>バトン</rt></ruby>のように、<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>から眼へうけわたされていくというのは、まったくばかげた、一<ruby><rb>銭</rb><rt>せん</rt></ruby>の<ruby><rb>得</rb><rt>とく</rt></ruby>にもならない話ではないか。

いや、その弟どもが、またひとりひとり考えてみると、いかにも<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>たらしいのである。

<ruby><rb>速男</rb><rt>はやお</rt></ruby>はやせっぽちで、<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>からゆずりうける服がいつもだぶだぶのくせに大ぐいである。そして家では速男を<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すいか</rt></ruby>ぐいの名人といっている。それは、はやくたべることと、皮を紙のようにうすくのこしてあとはすっかりたべてしまう芸当のためにもらった名前である。

つぎの<ruby><rb>幸助</rb><rt>こうすけ</rt></ruby>は、なんでもひろってきて、人のみないところにかくしておき、ひとりで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とてつ</span>もないことを大まじめに考えているという変なやつだ。たとえば、茶色の小石をマッチ<ruby><rb>箱</rb><rt>ばこ</rt></ruby>に入れて持っていて、めったにみせてはくれないが、それは土の中にうめておくとだんだん大きくなり、さらにそれを清水のわくところにつけておくと、すきとおってきて<ruby><rb>宝石</rb><rt>ほうせき</rt></ruby>になるのだそうだ。

つぎの四郎はまだ国民学校にあがったばかりだ。声がいいというので学芸会に出て唱歌をうたったが、家にいるときは、つぎのようなくだらん歌をいつでもくりかえしうたっている。

たかじゃっぽォ

ぽんひゃァりィ

りくぐんのォ

<ruby><rb>乃木</rb><rt>のぎ</rt></ruby>さんがァ

がいせんすゥ

すずゥめェ

めじろォ

ろしやァ

やばんこォくゥ

クロバトキン

……

このばかげたしりとりうたはいつまでうたってもきりがない。きいてるとうんざりしてしまうのだ。

つぎの<ruby><rb>五郎</rb><rt>ごろう</rt></ruby>は、耳の先をぴくぴく動かすことができる。みんながめずらしがって、動かしてみせろというと、まだちいさいので、いい気になって、<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>を細め、口をさるのようにつぼめ、耳をぴくつかせてみせるのである。

まだ<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>の家の<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>な話はいくらでもあるが、そう一度に全部おもい出せるものではない。ここまでおもい出したとき、大作君はもう家のそばまできてしまった。

いつもなら物置小屋の横を通って、さっさと庭にはいるのだが、<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>は物置小屋の横で足がとまってしまった。ことのついでに、自分の家がどんなに貧乏くさいかみてやれ、と大作君は思ったのだ。

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>は、物置小屋の横から自分の生まれた家を観察するため、顔をすこしさしだしたとき、<ruby><rb>泥棒</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>でもしようとしているかのように、うしろめたく感じた。

<ruby><rb>井戸</rb><rt>いど</rt></ruby>ばたで小さい女の人が、油っ気のない<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>をいいかげんにぐるぐるとまきつけて、<ruby><rb>洗濯</rb><rt>せんたく</rt></ruby>をしていた。それが大作君のお母さんだった。そのうしろにはビール<ruby><rb>箱</rb><rt>ばこ</rt></ruby>がおいてあって、中に<ruby><rb>赤</rb><rt>あか</rt></ruby>ん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>がはいっていた。ビール箱はお父さんが買ってきて、ちょっと細工してつくった「<ruby><rb>乳母車</rb><rt>うばぐるま</rt></ruby>」であった。

赤ん坊を、八つぐらいの男の子どもがあやしていた。あやす<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>は何かといえば、すりきれて、もう使えなくなったほうきであった。その男の子どもが大作君の弟の<ruby><rb>四郎</rb><rt>しろう</rt></ruby>であった。

これはもう、申し分のない<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>な景色であるように大作君には思えた。やれやれ、自分の家はこんなんだったのか。

大作君はげんなりと力もぬけて、物置小屋の<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>にもたれていた。

## 三

大作君は、あることはわすれてしまい、あることは<ruby><rb>憶</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えている。憶えていることは、たびたびおもい出す機会があるので、ますます心に<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>みこまれていく。

自分の家は<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>だ、ということは、<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>の心からいつまでも消えてゆかなかった。

ある日の昼休みの時間に、大作君は<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>てつぼう</rt></ruby>をしていた。<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>上がりでうまくくるりとまわって、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をくの<ruby><rb>字</rb><rt>じ</rt></ruby><ruby><rb>型</rb><rt>がた</rt></ruby>に鉄棒にかけて、さて向こうをみたとき、大作君の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>は、ちょうど<ruby><rb>校舎</rb><rt>こうしゃ</rt></ruby>の屋根の上にいる人かげにとまった。

その人かげは小さくて、顔などははっきりみえなかったけれども、大作君のお父さんであることは、大作君にはすぐわかった。お父さんの<ruby><rb>職業</rb><rt>しょくぎょう</rt></ruby>というのが、<ruby><rb>屋根職人</rb><rt>やねしょくにん</rt></ruby>であったからだ。<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>は校舎の屋根の、こわれた<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>をとりかえにきたのに相違ない。

お父さんだとわかると、大作君ははずかしくなってきた。こりゃ、こんなところにいるといけないぞ、つぎに尻上がりした<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>がきっとみつけるだろう、そしてこんなことをいうかも知れない、「あッ、おい、みれよ。大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くんがれ</span>のお父つあんが屋根の上におるぞ。」

そこで大作君は、さっと<ruby><rb>砂</rb><rt>すな</rt></ruby>の上に飛びおりると、お父さんの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>のみえない小使室の方へ走っていった。そこの<ruby><rb>桜</rb><rt>さくら</rt></ruby>の木の下では、<ruby><rb>兼男君</rb><rt>かねおくん</rt></ruby>たちが<ruby><rb>地雷火遊</rb><rt>じらいかあそ</rt></ruby>びをしていたので、<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>に入れてもらって、お父さんのことをわすれてしまった。

午後の一時間目は<ruby><rb>綴方</rb><rt>つづりかた</rt></ruby>であった。先生が<ruby><rb>扉口</rb><rt>とぐち</rt></ruby>にあらわれたのをみると、綴方帳のひと荷物を重そうにかかえていられる。十日ほど前に「私の家」という題で書いた綴方を返してくださるのだ。

大作君は<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>に<ruby><rb>一撃</rb><rt>いちげき</rt></ruby>をくらった。なんだかわるいことがはじまるぞ、という予感があった。大作君は、その<ruby><rb>綴方</rb><rt>つづりかた</rt></ruby>を書いたじぶんは、まだ<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>がそれほどはずかしいこととは思わなかったので、自分の家の貧乏なことを<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>になって書いてしまったのだ。たとえば、こんなふうに書いたところもあった。「ぼくの家はびんぼうだ。しかしのぐち<ruby><rb>英世</rb><rt>ひでよ</rt></ruby>の家はびんぼうだったと先生は教えてくれた。ぼくもしっかり勉強してのぐち英世に負けないようにしよう……」

当番の者が綴方帳をくばっていたとき、みんなの頭の上でミシミシッという音がした。先生はあおむいて<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>をみた。生徒たちも天井をみた。<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>もそれにつられて天井をあおいだが、すぐうつむいてしまった。お父さんがちょうど教室の<ruby><rb>真上</rb><rt>まうえ</rt></ruby>にきたその足音だということをさとったからである。

するとだれかが、うしろの方で「<ruby><rb>瓦屋</rb><rt>かわらや</rt></ruby>さんだ。」と小さい声でいった。大作君は耳の中で<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>が一ぴきじーんと鳴き出したように感じた。

「大作君のお父つあんだ。」と、すぐ横の<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>が、必要もないのに大きな声ではっきりみんなに教えた。そこでみんなは大作君の顔をみた。大作君はどうしようもなくはずかしいのであった。

綴方帳がもどってきたのでそこを開いてみると、「優」という赤い字と、文のそちこちに打ってある<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>つぶのような<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>とが、大作君の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>にとびこんだ。大作君は喜ばしい気持ちと困ったなという気持ちとを同時に味わった。優であることはうれしかったが、いつもの例で、優の者はたいてい自作を<ruby><rb>朗読</rb><rt>ろうどく</rt></ruby>することになっていたから、それは困るのであった。

わるいことというものはすべり台のようなもので、そのはしにのってすべりはじめると、するすると、いきつくところまでいってしまうのである。<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>はそれをよく知っていた。きっとこれからはずかしい目に合うんだ。

その通りだった。大作君はまっさきに<ruby><rb>朗読</rb><rt>ろうどく</rt></ruby>をあてられた。なぜなら大作君の<ruby><rb>綴方</rb><rt>つづりかた</rt></ruby>がいちばんの<ruby><rb>傑作</rb><rt>けっさく</rt></ruby>なんだそうだ。やれやれ。

大作君は思い切って、立って読んだ。「ぼくの家はびんぼうだ。ぼくの家ではお父さんひとりがお金をもうける。お父さんは屋根しょくにんだ。」するとそのとたんに、また頭上で、ミシミシと音がした。まるで大作君のお父さんが屋根の上で朗読をきいていて、「そうだ、そうだよ。」とあいづちを打ったようなぐあいであった。あまりそれがぴったり合っていたので、みんなはどっと笑った。先生までつりこまれて笑ってしまわれた。

それから先も、ところどころで、屋根の上のお父さんは、ミシミシとあいづちを打ったり、とっぴょうしにパシャンとわれ<ruby><rb>瓦</rb><rt>がわら</rt></ruby>を<ruby><rb>窓先</rb><rt>まどさき</rt></ruby>へ投げおろしたりして、子どもの大作君の綴方朗読をめちゃめちゃにしてしまった。みんなはそのたびに笑った。

みんなは、むろん大作君の家の<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>なことを笑ったのではないだろう。親と子が屋根の上と下で、同時に音をたてているのがおもしろかったのだろう。しかし大作君はみんなが大作君の家の貧乏をあざわらったように思えた。何しろ大作君は、貧乏がはずかしいことと思いこんでいたので。

このことがあってから、<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>は意気地がなくなってしまった。いぜんは大作君の<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に<ruby><rb>針金</rb><rt>はりがね</rt></ruby>のようにぴいんとしたものがはいっていた。それはいってみれば「何くそ！　ぼくは優等生だぞ。ぼくの家は<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>だってなんにもうしろぐらいことはないぞ。公明正大な貧乏だぞ！」といったような気持ちであった。だから、そのじぶんは、大作君はどんなに<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>に<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>があいていたって、どんなに洋服の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>がよれよれになっていたって、人にみられてはずかしいなどと思わなかった。それがこのごろではまるでちがってきた。あの針金のようなものが体からぬけてしまったので、どうかすると立っているのさえ<ruby><rb>難儀</rb><rt>なんぎ</rt></ruby>なことがあった。いっそ、みみずのように地べたをはっていたいと思うようなことがあった。そして人にながめられると、すぐ自分のみなりの貧乏くさいことを気にするのであった。それも、あとから考えるとばかばかしいようなことが気になった。たとえば、下から二つ目のボタンがひしゃげていることとか、<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>のあたりにこびりついている<ruby><rb>味噌汁</rb><rt>みそしる</rt></ruby>のとばっちりだとか。また、お母さんに<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>をかってもらったあとでは、頭のうしろを気にした、そこが弟たちのように<ruby><rb>虎刈</rb><rt>とらが</rt></ruby>りになっていやしないかと思って。

いぜんには大作君は<ruby><rb>明快</rb><rt>めいかい</rt></ruby>に口がきけたものだ。何々で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あります</span>、とか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いいえちがいます</span>、とか、最後のことばまではっきりいえたものだ。それがこのごろでは、半分くらい何かいうと、あとはゴム風船から空気がぬけたように、消えてしまうというあんばいだった。たとえば「あッ、ひこ――」というと、もう力がぬけてしまって、あとの「おきが飛んでおるよ。」ということができないのであった。また歌にしても、「ふ、な、」というともうやめてしまうので、きいている者には、<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>が「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふな</span>さァかァやァまやァすゥぎさァかとォ」という<ruby><rb>児島高徳</rb><rt>こじまたかのり</rt></ruby>の歌をうたうつもりだったのか、それとも「ふなすくいにいこうかよオ」というつもりだったのか、とんとわからなかったのである。

また、いぜんには大作君は、どんなことでも、大頭の<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>などには負けなかったもんだ。<ruby><rb>競走</rb><rt>きょうそう</rt></ruby>なら、吉太郎君が十メートルくらい先に走ってから大作君がスタートを切っても、運動場を一周してくるうちには、楽々と吉太郎君をぬいてしまったし、<ruby><rb>相撲</rb><rt>すもう</rt></ruby>なら、不意に吉太郎君がうしろからくみついてきても、<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>を二つほどひねれば、吉太郎君はよっぱらいのようにあっちこっちよろける、そこでわき<ruby><rb>腹</rb><rt>ばら</rt></ruby>へ手をまわして足をかければ、かるく吉太郎君はたおれてしまったものである。ところがある日、意外なことが起こった。いつものように<ruby><rb>砂場</rb><rt>すなば</rt></ruby>で勝ちぬき相撲をやっていた大作君は、そこでひとり相手をたおした。するとうしろからだれかが大作君の腰にしがみついてきた。大作君はいつもするように腰をひねったが、相手はなかなかてごわかった。うしろからぐんぐんおしてきた。大作君は、こいつはいけないと、足の<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>に力を入れてふんばろうとしたが、思うように力がはいらなかった。そして<ruby><rb>浮足</rb><rt>うきあし</rt></ruby>でいるうちに、砂場の外へおし出されてしまった。ふりかえってみて、大作君はおや、と思った。いつも<ruby><rb>簡単</rb><rt>かんたん</rt></ruby>にひねりつぶしていた大頭の吉太郎君だったからだ。自分が意気を失ったことを、このとき<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>ははっきり知ったのである。

それよりいっそういけないことが大作君の心の中に起こった。ときどき、自分の家、弟妹たち、いやお父さんお母さんたちをさえも、他人のように<ruby><rb>冷淡</rb><rt>れいたん</rt></ruby>な<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>でじっとみるようになったことだ。たとえば、夜一家が一つのあかりの下に集まってにぎやかに<ruby><rb>夕飯</rb><rt>ゆうはん</rt></ruby>を食べている。そんなとき大作君ひとりは、しんねりむっつりとおしだまって、小さい弟妹たちを、がきみたいな<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>らだなア、耳の中にあかをためたりして、などと思ってみているのである。また、ご飯のときには勝手場へ持ってこられ、お客のあるときには<ruby><rb>居間</rb><rt>いま</rt></ruby>の方へ持ってゆかれ、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>にはいるときには土間の方にさし出され、たった一つで五つ分ほどのはたらきをする十六<ruby><rb>燭光</rb><rt>しょっこう</rt></ruby>の電燈をみては、こんなことは家が<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>である<ruby><rb>証拠</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>になるばかりで、すこしも<ruby><rb>自慢</rb><rt>じまん</rt></ruby>のたねになることじゃないと考えているのである。こんなときは、大作君の<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>は家族の中にありながら、心は遠くにさまよっているので、とつぜん、家の者みなが何かのことで笑い出したりすると、大作君は<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>からさめた人のようにきょろんとして、おくればせにすこし笑うのであった。

ときには大作君は、貧乏くさいというので、弟の中のだれかれをにくんだりした。

<ruby><rb>宝蔵倉</rb><rt>ほうぞうぐら</rt></ruby>の前で、少年たちが<ruby><rb>模型</rb><rt>もけい</rt></ruby>グライダーを飛ばしていた。みんな大なり小なりグライダーを持っていたが、なかに大作君の弟の<ruby><rb>幸助</rb><rt>こうすけ</rt></ruby>だけが持っていなかった。幸助はそこで、みんなの飛ばすグライダーをひろう役目をさせてもらっていた。みんなの手から飛んでいったグライダーが<ruby><rb>宝蔵倉</rb><rt>ほうぞうぐら</rt></ruby>の戸か<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>にあたって地べたに落ちる。すると<ruby><rb>幸助</rb><rt>こうすけ</rt></ruby>が走っていって、それをひろってくる。幸助は、ひろって持ち主のところまでいくあいだ、グライダーを持つことができる、それによってわずかに自分のグライダー<ruby><rb>欲</rb><rt>よく</rt></ruby>をみたしていたのである。だから幸助は、その役をうばわれないようにみんなのご<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>をとっていた。ちょうど<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>のポケットのすみに<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>があいていたので、ポケットにつっこんだ手の<ruby><rb>人指指</rb><rt>ひとさしゆび</rt></ruby>をその穴から出して、「ピストルだぞ、ピストルだぞ。」といっては、二つ三つおどけてとびあがってみせるのであった。そんなことが何かの<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>になるつもりでいるのであった。<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>は、みていてまったくなさけなかった。なんという<ruby><rb>恥</rb><rt>はじ</rt></ruby>さらしだ！　大作君は幸助をものかげによんだ。そして、兄さんのいかりをちっとも知らないで天使のように<ruby><rb>無邪気</rb><rt>むじゃき</rt></ruby>な顔をしてやってきた幸助の横<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びんた</span>を、「ばかッ」とさけびざま、びしゃんとぶたずにはいられなかった。

こうして、<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>ったらしいまねをしていた弟は、大作君ににくまれてなぐりとばされた。しかし貧乏くさいからとて、お父さんやお母さんをにくむことが大作君にできたろうか。

それは大麦のうれるころのある日だった。そのじぶんお父さんは、<ruby><rb>瓦屋</rb><rt>かわらや</rt></ruby>の方の仕事がひまなので、いそがしい<ruby><rb>百姓家</rb><rt>ひゃくしょうや</rt></ruby>へ一日か半日ずつやとわれて、百姓仕事を手つだいにいっていた。<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>近く大作君は、お父さんのところへ<ruby><rb>弁当</rb><rt>べんとう</rt></ruby>を持ってゆくよう、お母さんからいいつかった。大作君は弁当を持って、<ruby><rb>和五郎</rb><rt>わごろう</rt></ruby>さんの<ruby><rb>麦畠</rb><rt>むぎばたけ</rt></ruby>の方へいった。そこの畠でお父さんは手つだっているはずだった。

<ruby><rb>菓子屋</rb><rt>かしや</rt></ruby>の<ruby><rb>勝助</rb><rt>かつすけ</rt></ruby>さんと<ruby><rb>床屋</rb><rt>とこや</rt></ruby>の家のあいだを通りぬけると、西の方に<ruby><rb>和五郎</rb><rt>わごろう</rt></ruby>さんの<ruby><rb>麦畠</rb><rt>むぎばたけ</rt></ruby>がみえた。もう麦はみなかられて、たばねられてあった。畠のこちらのすみでは、和五郎さんとおかみさんが<ruby><rb>脱穀</rb><rt>だっこく</rt></ruby>していた。向こうからだれかが麦を<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>にかついで運んできた。その人は少年のようにすとすとと<ruby><rb>畠中</rb><rt>はたなか</rt></ruby>を走って運んでいた。はじめ<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>は、それがどこかの少年かと思った。なぜならおとなはめったに走ったりしないものなので。しかし、大作君がもっと近くへいって、和五郎さんとおかみさんが笑いながら「<ruby><rb>加重</rb><rt>かじゅう</rt></ruby>さん、そう走らんでもええがン、もっとぼつぼつやっとくれや。」といっているのを聞くと、それがほかならぬお父さんの加重さんであることがわかった。

お<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>の和五郎さんとおかみさんは、加重さんの走り方がおかしいといって笑いころげた。ふたりは、加重さんがおどけてそんなことをしていると思ったのだ。大作君もはじめそう思って、和五郎さんたちといっしょにお父さんの方をみながら、笑って立っていた。なんというひょうきん者のお父さんだろう。

だが、そのうちに大作君は顔がこわばってきて、笑えなくなってしまった。そして笑えなくなった顔の、ぎゅッとひきゆがむのが感じられた。深い悲しみが大作君をおそったのだ。

大作君にはいまわかった、お父さんがひょうきんでそんなまねをしているのではないことが。お父さんは<ruby><rb>真剣</rb><rt>しんけん</rt></ruby>だったのだ。早くその仕事をしてしまいたかったのだ。つぎの仕事で一<ruby><rb>銭</rb><rt>せん</rt></ruby>でも多くもうけるために。いわば<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>が、おとなの<ruby><rb>加重</rb><rt>かじゅう</rt></ruby>さんをこんなに子どものように<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>の上を走りまわらせているのであった。なんという悲しいながめであろう。

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>はもうみていられなかった。<ruby><rb>恥</rb><rt>はじ</rt></ruby>と悲しみで、<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>がふるえるのをとめられなかった。

## 四

六月の終わりの暑い日に、近くの町の公園グランドで<ruby><rb>連合競技会</rb><rt>れんごうきょうぎかい</rt></ruby>が行なわれた。

その最後の種目は、六年男子の<ruby><rb>綱持競走</rb><rt>つなもちきょうそう</rt></ruby>であった。長さ五メートルぐらいの一本の綱を一組二十人の者が持って、<ruby><rb>距離</rb><rt>きょり</rt></ruby>四キロを<ruby><rb>走破</rb><rt>そうは</rt></ruby>するのである。そしてこの競走のだいじなところは、二十人のうちひとりでも<ruby><rb>落伍</rb><rt>らくご</rt></ruby>してはだめだということだ。

なんだか知らないが、戦線における<ruby><rb>皇軍</rb><rt>こうぐん</rt></ruby>のある仕事をしのばせるから、大作君たちはこの競走には勝とうという<ruby><rb>悲壮</rb><rt>ひそう</rt></ruby>な決意が、はじめからみんなのはらの中にできていた。

いざ出場となると、大作君たちはおたがいの<ruby><rb>緊張</rb><rt>きんちょう</rt></ruby>した顔を、いやに黒くげんこつみたいに小さいなアと思いながら、もくもくとはだしになり、<ruby><rb>運動帽</rb><rt>うんどうぼう</rt></ruby>のふちのひもを頭がいたくなるほどしめなおした。

たくさん出てきた。およそ三十組くらいの<ruby><rb>縦列</rb><rt>じゅうれつ</rt></ruby>が、長くひかれた白線の前にならんだ。大きい学校からは数組出ているのだろう。大作君の学校は小さいので、二十人出ると六年男子はほとんどみんなである。

それから<ruby><rb>競走</rb><rt>きょうそう</rt></ruby>がはじまった。先頭の<ruby><rb>徳一君</rb><rt>とくいちくん</rt></ruby>が「ヨイショッ」と声をかけると、それをみんなが「ヨイショッ」とうける。はじめはあたりいっぱい「ヨイショ」や「コラショ」や「オ一二」の声があったので、<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>たちの声はそれにのまれてしまって、自分たちの「ヨイショ」なのか、ひとの「ヨイショ」なのか区別もつかなかった。

グランドを<ruby><rb>縦</rb><rt>たて</rt></ruby>につっきって、両側をヒマラヤシーダの<ruby><rb>並木</rb><rt>なみき</rt></ruby>ではさまれた細い道から<ruby><rb>往還</rb><rt>おうかん</rt></ruby>へ出た。そのじぶんにはもう、平行していく組も走っているということはなかった。ただ大作君たちにしつこく追いすがってくるのは、線色のそろいの<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>をかぶった知らない学校の一組だけであった。がそれも、<ruby><rb>飴屋</rb><rt>あめや</rt></ruby>の前の最初の曲がり角をまわったころには、もう数メートル大作君たちよりおくれていた。大作君たちはトップではなかったが、そうとう前の方に走っているつもりであった。

かけ声の「ヨイショ」と足とがよくそろって、調子は上々であった。練習のときなら、ひょうきんな<ruby><rb>兵太郎君</rb><rt>へいたろうくん</rt></ruby>がこのあたりで「コラショイ」と<ruby><rb>突拍子</rb><rt>とっぴょうし</rt></ruby>な声をあげたり「アリャリャン」「スチャラカ、ポンポン」などとでたらめをいったりしてにぎわすのだが、<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>はやはりほんとうの競走だからまじめになっているのか、それとも、ゆうべアイスキャンデーを七本たべて<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>はちょっと<ruby><rb>腹工合</rb><rt>はらぐあい</rt></ruby>がわるいといっていたから、そのせいなのか、どちらか知らないが、ともかく変な声は立てなかった。

<ruby><rb>稲荷</rb><rt>いなり</rt></ruby>さんの門前に立っている<ruby><rb>赤旗</rb><rt>あかはた</rt></ruby>をまわってひきかえすのであったが、そこにいき着くまでに<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>たちは三つの組を追いぬき、赤旗のところでもみあって、また二組ぬいた。しかしそのじぶんには、みんなの<ruby><rb>呼吸</rb><rt>こきゅう</rt></ruby>がだいぶん苦しそうになっていた。かけ声の「ヨイショ」もはじめのような元気な<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>きを失って、うめき声のようになった。中にはもうそれに声を合わせないで、だまって走っている者もあった。だまっている者は、きっと<ruby><rb>横腹</rb><rt>よこばら</rt></ruby>のいたむのや<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>の苦しいのをじっとこらえているのだ、と大作君は思った。

大作君は、腹もいたまねば胸も苦しくなかった。この調子ならまだ十キロぐらい走れる、と思った。しかし<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>がちらちらして、風景がはっきりうつらなかった。ときどき、道の角の花をつけた<ruby><rb>夾竹桃</rb><rt>きょうちくとう</rt></ruby>や、太陽の<ruby><rb>直射</rb><rt>ちょくしゃ</rt></ruby>に<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>の毛を<ruby><rb>繻子</rb><rt>しゅす</rt></ruby>のように光らせて道ばたに休んでいる牛の<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>が、眼にとびこんでくるだけであった。

公園の入口のみえる長い直線道路に出たとき、大作君たちは急にかけ声をやめてしまった。すぐまえを、<ruby><rb>紫色</rb><rt>むらさきいろ</rt></ruby>のはちまきした一組が足なみそろえて走っていた。大作君たちの組がだまってしまったのは、あの<ruby><rb>強敵</rb><rt>きょうてき</rt></ruby>をぬこうという、みんなの決意のあらわれだ、と大作君は思った。

ひっそりして大作君たちは紫のはちまきにせまっていった。敵も大作君たちをみとめるや、声を消してしまった。ひっそりとして二つの組は必死になった。そして大作君たちは、ひっそりとして追いぬいていった。

ついに公園グランドにはいった。周囲に<ruby><rb>歓呼</rb><rt>かんこ</rt></ruby>の声がわあッとあがった。自分たちは優勝だ！　自然に「ヨイショッ」が口をついて出た。

<ruby><rb>審判</rb><rt>しんぱん</rt></ruby>の先生がきて、すぐ<ruby><rb>頭数</rb><rt>あたまかず</rt></ruby>をかぞえた。そして「おやひとりたらんぞ。」といった。それからまた数えなおしてみた。「ひとりたらん。」そう気の毒そうにいった。

「だれだ、だれだッ。」

と先頭の<ruby><rb>徳一君</rb><rt>とくいちくん</rt></ruby>が、<ruby><rb>汗</rb><rt>あせ</rt></ruby>で、川からあがったばかりのようにぬれた顔を殺気立ててどなった。

だがみんなは、決勝点についたという思いでもう気力がぬけ、ぽうとしていた。もう何も考えられなかった。はやく<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をおろしたいばかりであった。

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>たちは<ruby><rb>楡</rb><rt>にれ</rt></ruby>の大木のかげにいって休み、やがてだんだん元気がかえってきた。そしてそれまでに、<ruby><rb>落伍</rb><rt>らくご</rt></ruby>したのは大頭の<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>であることがわかった。<ruby><rb>稲荷社</rb><rt>いなりしゃ</rt></ruby>の前で<ruby><rb>赤旗</rb><rt>あかはた</rt></ruby>をまわるとき三組ばかりいっしょになってもみあったが、あのときのどさくさで、吉太郎君が落ちたことをだれも気づかなかったのだろう。受持ちの<ruby><rb>鈴木先生</rb><rt>すずきせんせい</rt></ruby>は自転車を借りて吉太郎君をむかえにいった。道ばたに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へたばって</span>いるかも知れないからだ。

大作君たちの<ruby><rb>隣</rb><rt>とな</rt></ruby>りの<ruby><rb>控席</rb><rt>ひかえせき</rt></ruby>に帰ってきたよその学校の組の中で、ひとりのふとった少年があおくなってのびた。ふたりのつきそいの先生は、それ水を持ってこい、それ<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>であおれ、と大さわぎをしていた。本部のテントの中から、急をきいて、白い服の<ruby><rb>看護婦</rb><rt>かんごふ</rt></ruby>や女の先生が飛んできた。えらいことになった、と<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>たちは思った。そして、<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>がああいうふうになってもどってこないようにと、心の中にみんなは願った。もう、競走の勝敗のことなどすっかりわすれていた。

吉太郎君は帰ってきた。みんなが願っていた通り、元気で帰ってきた。先生のうしろから自転車の荷かけにまたがって、血色のいい顔をにこにこさせながら帰ってきた。すこし元気すぎるほどだ。でもまあよかった。みんなは、ほっとして帰りじたくにかかった。

公園を出て、川の<ruby><rb>堤</rb><rt>つつみ</rt></ruby>を電車の<ruby><rb>停留場</rb><rt>ていりゅうじょう</rt></ruby>の方へ歩いていった。みんなは<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れでぼんやりしていたので、だれひとりものをいおうとしなかった。

電車を待つために、大作君たちは停留場の外の<ruby><rb>葉桜</rb><rt>はざくら</rt></ruby>の日かげに<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をおろして、向こう側のかりとられた<ruby><rb>小麦畠</rb><rt>こむぎばたけ</rt></ruby>の方をぼんやりみていた。先生は<ruby><rb>事務所</rb><rt>じむしょ</rt></ruby>の中へはいってゆかれた。

小麦のかりとられたあとに一輪の矢車草の花がさいていて、なんということなく、みんなの<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をひいた。

「あんなとこに、矢車草があるげや。」

そう兵太郎君がいった。

「うん。」

と大作君が答えた。

するとみんなのうしろにすわって、すこしきまりわるそうにしていた大頭の<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>が、

「とってこうか。」

といって、小走りに走っていき、二メートルほどの<ruby><rb>赭土</rb><rt>あかつち</rt></ruby>の<ruby><rb>傾斜</rb><rt>けいしゃ</rt></ruby>をいせいよくかけのぼった。

みんなは顔を見合わせた。吉太郎君がすこし元気すぎるのだ。あんなに元気なら、なぜ最後までがんばらなかったのか。みんなの心にはいまになって、優勝をとりにがしたいまいましさがよみがえってきた。

吉太郎君は矢車草をとって、みんなのそばにもどってきた。

「やろか。」

といって<ruby><rb>隣</rb><rt>とな</rt></ruby>りの<ruby><rb>周造君</rb><rt>しゅうぞうくん</rt></ruby>の方にさし出した。

みんなにはそのときはっきりと、吉太郎君がみんなのご<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>をとろうとしていることがわかった。良心にやましい点があるのだ。つまり、まだ走れるところを<ruby><rb>綱</rb><rt>つな</rt></ruby>をはなしてしまったのだ。

「周造、そんなものをうけとるな。」

そう<ruby><rb>徳一君</rb><rt>とくいちくん</rt></ruby>が親分みたいにげんとして命令した。おとなしい周造君はちょっとまごついたが、ついにがき<ruby><rb>大将</rb><rt>だいしょう</rt></ruby>の徳一君の命にしたがった。吉太郎君はべそをかいていた。

いまはみんなは、吉太郎君がひごろいやらしい<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>であったことを<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出した。親しげに人の耳のそばに口をよせてきて、つまらぬつげ口をしたかと思うと、もうつぎの日には、ほかの者の耳に口をよせて、ちらちら<ruby><rb>横眼</rb><rt>よこめ</rt></ruby>でこちらをみながら、何かこちらのことをつげ口しているというふうの<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>であった。また、つきとばされたりすると、面と向かってくるのではなくて、げらげらと下品に笑いながら、よいどれのまねなどしながら、べたべたとはりついてきて、たわむれのようにみせかけながら、相手の服に<ruby><rb>鼻汁</rb><rt>はなじる</rt></ruby>をなすりつけたりして<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>するというふうの<ruby><rb>卑劣</rb><rt>ひれつ</rt></ruby>な奴であった。

しかしいまさらおこったって、どうにもならない。みんなはあきらめてまたぼんやり<ruby><rb>小麦畠</rb><rt>こむぎばたけ</rt></ruby>の方をみていた。

向こうの道角を、自転車のうしろに氷のかたまりをのせた人がまがって、坂道にかかった。そのとき氷がすべり落ちた。すぐそれをひろって、その人は坂をのぼっていってしまった。そのあとにちょっとした<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>が一つ光って落ちていた。

<ruby><rb>徳一君</rb><rt>とくいちくん</rt></ruby>がそれをひろって、水道であらってきた。

「ええかァ」と徳一君はいった。「いまからこいつをまわすから、順番につぎのもんにわたせよ。」

徳一君の手から<ruby><rb>兼男君</rb><rt>かねおくん</rt></ruby>の手にわたった。それからつぎの者へ。こうして<ruby><rb>一片</rb><rt>いっぺん</rt></ruby>の氷は少年たちの手をわたっていった。みんなは声を立ててその冷たさを喜んだ。中には頭の上にしばらくのせているものもあった。<ruby><rb>兵太郎君</rb><rt>へいたろうくん</rt></ruby>は、<ruby><rb>石鹸</rb><rt>せっけん</rt></ruby>のように<ruby><rb>両掌</rb><rt>りょうて</rt></ruby>の中でもんだので、急に小さくなってしまったようにみんなは思った。

<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>はうけとった。大作君のつぎには、べそをかいて草の葉をむしっている大頭の<ruby><rb>吉太郎君</rb><rt>よしたろうくん</rt></ruby>がのこっているばかりだった。大作君はこの氷の<ruby><rb>破片</rb><rt>はへん</rt></ruby>をどうしようかとまよった。みんなはあきらかに吉太郎君をにくんでいた。吉太郎君なんかにわたすな、と<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>でしらせていた。

大作君はためらっていた。手の中の小さい氷の破片が<ruby><rb>妙</rb><rt>みょう</rt></ruby>に重く感じられた。大勢の注意がそれに集まっているからだ。

大作君もみんなのように、吉太郎君のふがいなさに<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>を立てていた。すこしお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>のかげんのわるい<ruby><rb>兵太郎君</rb><rt>へいたろうくん</rt></ruby>でさえ、最後までがんばり通したのに、どこもわるくない吉太郎君がすこしぐらい苦しいからといって、<ruby><rb>途中</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっこけて</span>しまって、その上あろうことかあるまいことか、先生の自転車にのっけてもらって、にやにや笑いながらもどってくるなんて、じつに<ruby><rb>失敬</rb><rt>しっけい</rt></ruby>じゃないか、と思った。

しかし大作君のその心の、も一つ<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>にある何ものかが、大作君をおすのであった。大作君は、そっと、氷をうつむいている吉太郎君の手ににぎらせたのである。

## 五

その夜、大作君はくたびれたので、柱をふまえてねそべっていた。下からみたって、いつもみなれたすかんぴんの<ruby><rb>貧</rb><rt>まず</rt></ruby>しい家であった。しかし大作君の心は、いまは安らかにここに落ち着いていた。<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>なことになんの不平もなかった。

そこへ<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>からあがったはだかん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>の弟たちが、湯気につつまれながら出てきた。そして<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>の頭のかたわらで<ruby><rb>相撲</rb><rt>すもう</rt></ruby>をとりはじめた。どんどんと大作君の頭にひびいた。

いつもなら大作君は、「やめんかッ」と、優等生の兄さんらしくどなるところだ。しかし今夜はしからなかった。弟たちの健康なはだかん坊をたのもしいもののようにみていた。足音が大きくひびいてくればくるほど気持ちがよかった。――おお！　力を出せ！　力のありったけを出せ！　家がつぶれるくらいあばれろ！　大作君はそう<ruby><rb>声援</rb><rt>せいえん</rt></ruby>したいほどだった。

いまは、大作君の心から、ながいあいだかかっていた<ruby><rb>灰色</rb><rt>はいいろ</rt></ruby>のとばりがはらいのけられていた。――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">貧乏だとてはずかしがることはないのだ</span>。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼくたちは健康だ</span>。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そしてぼくたちにはがんばる力があるんだ</span>。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼくたちにはこれからどんなことだってできるのだ</span>。――

はじめは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちび</span>の<ruby><rb>四郎</rb><rt>しろう</rt></ruby>と五郎だけが相撲をしていたが、やがて<ruby><rb>速男</rb><rt>はやお</rt></ruby>も<ruby><rb>幸助</rb><rt>こうすけ</rt></ruby>も加わって、しまいには相撲というよりはめちゃめちゃの<ruby><rb>乱闘</rb><rt>らんとう</rt></ruby>になってしまった。

「よし、こいッ。」

そうさけんで、大作君ははね起きた。「ぼくひとりにみんなかかってこいッ。」

みんなかかってきた。うしろからしがみつくもの、足にからまるもの、<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>をひっぱるもの、大作君はたじたじとなったが、うんとふんばった。ちびの五郎を両腕でだきあげた。じたばたするのを顔の高さにまで持ちあげた。そして「神だなに上げるぞオ。」といって、そちらへ歩いていった。

すると<ruby><rb>大作君</rb><rt>だいさくくん</rt></ruby>は、<ruby><rb>神棚</rb><rt>かみだな</rt></ruby>の下にたらしてはってある四角な紙に<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>がとまった。何か<ruby><rb>免状</rb><rt>めんじょう</rt></ruby>みたいなものだ。

「これなんだア。」

と大作君は<ruby><rb>五郎</rb><rt>ごろう</rt></ruby>をおろしてたずねた。

そして<ruby><rb>速男</rb><rt>はやお</rt></ruby>から、それは<ruby><rb>幸助</rb><rt>こうすけ</rt></ruby>がたばこ、キャラメルなどの<ruby><rb>空箱</rb><rt>あきばこ</rt></ruby>や、おれ<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>、<ruby><rb>針金</rb><rt>はりがね</rt></ruby>などをひろいためて、<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>役場の軍事課へ<ruby><rb>献納</rb><rt>けんのう</rt></ruby>して、もらってきた<ruby><rb>感謝状</rb><rt>かんしゃじょう</rt></ruby>だということをきいた。

――それなら幸助は、あのキャラメルの箱も献納するつもりでひろったんだ。そうだったのか。国民六年<ruby><rb>加藤大作君</rb><rt>かとうだいさくくん</rt></ruby>は、きいていて、喜びのために<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>があつくなるのを覚えたのである。