Soranoha

私の歩んだ道

わたくしのあゆんだみち

蜷川 新

一 子供時代の教育と精神

私は、明治六年に生まれた。そうして七日ののちに、父をうしなった。私は、父親を知らない人間である。

私は、駿河するがの国(静岡県)の海岸の袖師そでしで生まれた。興津おきつの隣り村である。私は生まれてまもなく、母にいだかれて東京に移った。母の生家は、徳川時代から神田明神下かんだみょうじんしたにあった。母の実父、すなわち私の祖父は、播州ばんしゅう(兵庫県)林田はやしだの旧藩主であったが、まだ生きていたのであった。母は、その生家の建部家をたよって、東京に出たのである。

私は、一家が無録移住をした駿河で生まれたのであり、生まれながらにして、逆境におかれた不運な一人間であった。

当時の東京は、おごれる薩長人をはじめ、各藩から集まりきたった勝利者の占領地となった直後であった。すなわち、革命後の混乱の社会であった。

私の母は、やがて麹町こうじまち三番町さんばんちょうの実弟、坪内つぼうち家の邸内に移ることになった。私はそこで、十五歳まで、母とともに生活した。私は七歳以後は、当時から有名な番町小学校に学んだが、学問、思想、行動は、先生から模範少年としてほめられていた。ただし、町の人びとには、いたずら者として、市ヶ谷見附いちがやみつけから九段くだんにいたる間の人びとからは、憎まれはしなかったが、評判されていた。

私はそのあいだに、漢学を清田嘿もく先生に学び、英語を無名の先生に習い、また特に数学の先生について、代数や算術を学んだ。私の母は、親切に私を養育した。「一大人物となるよう。」にと、母はいつも私をはげました。母は私に、わが家の昔からの歴史を、よく説ききかせた。また、維新当時の事情を、よく話された。

私が五歳のときに、空中にものすごい帚星すいせいがあらわれたが、母は深夜、私を庭につれだして、そのおそろしい大きな星を指さし、「あれが、西郷さいごうの怨霊だと、みんなは言っている。」と、私にきかせた。私は、まだほんの五歳の子どもであったが、永年、かき消すことのできないほどの強い感じを、そのときに受けた。七十四年をへた今日でも、その大きな、かがやいた彗星すいせいとその場面とは、私の眼に映っていて、消えさらない。

私はある日、母につれられて、小石川こいしかわの大学植物園へいった。十歳ぐらいの時であったろう。母は私にむかって言った。「ここは、蜷川家にながわけの下屋敷しもやしきであった。明治元年三月から十月までのあいだ、一家は二人の旧臣と数人の下男下女とともに、この屋敷に住まっていた。その五月には、彰義隊しょうぎたいの敗兵数名がこの屋敷に逃げこんできた。一家は、今夜こそは官軍の刃にかかって、皆殺しにされるだろうと心配もしたが、覚悟もきめた。しかし、敗兵はどこにか去って、一家は無事だった。しかしその後、ある夕刻に、父も母も中二階で夕食をともにしていた時に、山上から、突如、一発の弾丸が飛んできた。その弾丸は、座敷のかもいにあたった。父母は食事をやめて、階下におり、静かに山上のようすをうかがって見たが、なんの異変も見られず、そのままで終った。」と、私に話してきかせた。子供ながらにも私は、それをきいて憤りなきをえなかった。そのときの母の姿と容貌とは、今もなお、私の眼底に残って消えない。

私は、子供の時代に、三番町に住んでいた清田嘿もくという漢学の先生の塾に、毎日かよった。先生は、幕府時代には与力よりきの身分の人で、漢学には深い造詣があった。漢文の著書も数種あった。生徒も、たくさん通っていた。先生は、いつも、維新当時の江戸の実相を私に話しきかされたが、そのなかには、西郷が江戸市中に放った強盗五百人の掠奪事件のくわしい話もあった。与力よりきは、幕府の警察官として、強盗押入りの知らせがあれば、ただちに隊を組んで、その捕縛にむかって、挺身するのであった。人民の財産を強掠するのが西郷らの仕事であって、幕府を攻めるのでもなく、市内に反乱をおこさせるのでもなかったことを、いつも先生は、くわしく私に話された。彼らには、なんらの道義心のなかったことを、力強く私に話されるのであった。正義心にもえていた少年の私は、子供のときから、彼ら政争者の残虐非道をにくまずにはいられなかった。

私は、その時代からすでに、レジスタンス式の精神を、うえつけられていたのである。私は、張良ちょうりょうが秦しんの始皇帝しこうていを、挺身襲撃した古事を、漢学によって学び、張良の強く正しい意気を、深く敬慕していたものであった。後年にも、私はその絵を床の間にかけて、観賞するのをたのしみとしている。

二 高等学校と大学時代の私

私は、自分でかってに、自分の方向をきめて進んだ。私は、はじめは、海軍に身を投じて、海国に身を投じて、海国日本のために一生をささげようと考えた。しかし、一度、兵学校の体格試験を受けたところが、「虫歯が一本多い。」というので、はじめからはねられた。私は、そこで、海軍を見かぎった。そうして私は、東京大学に学ぶことに方針をかえた。

私は、明治二十二年に、第一高等学校に入学した。私は仏文科にはいり、将来は外交官となることを決心した。私は、英雄の伝を読みふけった。友とともに暴飲もやった。先生にもたびたび反抗した。教場で、ときどき、神道を説く文学士の先生を、公然、教場でからかったりした。王朝文学を講ずる文学士の発生にむかって、和文の気力のないことを、公然、非難したりした。先生からは、「君はだめだ。」といわれ、取りあわれないこともあった。それは有名な落合直文おちあいなおぶみ先生であった。私は、フランス語は大いに学んだ。フランス大使館の通訳官とも交わった。私は学校の長い休暇には、各地を旅行した。その旅行の仲間で、後年には日本のために大いにつくした友人が数名いた。内閣にはいった渡辺千冬わたなべちふゆ、世界的の学者となった農博、鈴木梅太郎すずきうめたろう、京城大学の総長だの、李王りおう職長官だのになった法博、篠田治策しのだじさくだのが、それである。私は、高等学校の例の祝祭日の日に、興に乗じて。朝から酒を飲みすごし、夕方の四時には、まったく体が動けなくなって、あの広い弥生やよいヶ丘おかの運動場の上にたおれ、友にたすけられて寄宿寮に運びこまれたこともあった。

私の行為について、母はさだめし、その心のなかで憂えていたことであろう。しかし、なにごとも言わずに、母は私のなすにまかしていた。母の恩は、後年になってから、しみじみと私の胸を打ち、まことに相すまなかったという悔悟を、生ぜしめてやまないのである。私は、生来、自由を愛した。自由に学生時代を送ったのであった。詩吟が大好きであった。

三 一年志願兵として入隊

私は、大学を卒業したならば、ただちに外交官となって、世界じゅうを飛びまわろうと考えていた。そこで、高等学校を卒業するや、軍隊にはいり、軍事をいちおう心得て、後年の外交官としての活躍のための参考にしようという決心をもった。私の友は、私を、もの好きだと笑った。私は、ひとりで身の方向をきめた。私は一年志願兵として、近衛このえ第四連隊に入営した。明治二十九年十二月のことであった。それは、日清戦争直後のことであった。

軍隊では、傲慢で低級な下士官や上等兵に、そうとうににくまれた。あるときは、下志津原しもしずはらの遠いバラックに連れてゆかれ、闇打ちをくらう直前までいったこともあった。だが、私の正論に、彼らは圧せられて、たくみに私はその場を切りぬけた。私は幸いにして難をまぬがれ、自分のバラックに帰ることができた。連隊長や大隊長らには、私は大きな信頼を受けていた。

あるとき、黒木くろき近衛師団長の検閲がおこなわれた。私はひとり、青山あおやま練兵場に引きだされた。師団長はじめ参謀らがならんでいた。一人の大尉は私の前に立ち、「服従の定則をのべてみよ。」と命じた。私は、形のとおり静かに答えた。ついで、その大尉は、「どんな命令にも服従するか。」と、重ねてたずねた。私は、「天皇の命は正しいと信ずる。それゆえに、服従する。不正の命令には、私は断じて服従しない。」と、厳然として答えた。その大尉は私を叱って、「それは、服従の定則に反するのではないか。」と責めるがごとくに、私に問うた。私は、「それは、正しい見解でない。」と、頑として強弁した。それで私にたいする試験はおわったが、その夕刻にその大尉は、「君! じつはみんなで協議したうえ、君にあの質問を発して、おもしろい場面を展開し、師団長に披露しようという芝居であったのだ。」といった。

私は、連隊でよい経験をつんだ。そうして、私の体格は、ひじょうに堅実のものとなった。私は、一年と三ヵ月を隊中にくらした。そうして少尉となって、ふたたび自由の学生となって、大学に学ぶ身となった。母はだいぶに老いの身となっていたが、大いによろこばれた。

四 東京大学入学とその以後

私は、東京大学の法律科に入学した。そうして、主としてフランス語と、国際法とを学んだ。学生時代に、私は、ルノールの有名な国際法を翻訳して出版した。フランス語の力をつけるためであった。私はいく人かの学友とともに、演説の講習会をつくって、大学の大教室で演説の練習をやった。その仲間には、後年に有名となった人がいる。長島隆二、小川郷太郎、渡辺千冬、中川健蔵らが、それである。スイス人の教師ブルデルには、私は大いに信用された。民法の講義を受けたが、私は、そのフランス語と講義を、大した誤りもなく筆記しうるようになった。私は、外人で日本を訪れる人のために、通訳となって日光にっこうの案内をやったこともあった。外人を理解することが、私の目的であった。私はそれによって、得るところは多かった。

私は、明治三十四年に法科大学を卒業した。まず自身で大蔵省に行って、就職を求めてみた。係官の一書記官は、その机の上に準備してあった「大学卒業生の成績表」と私とを対照し、私と少しばかり話をまじえたが、私にむかって採用を約束された。私は関税課の勤務となった。その課長は有名な目賀田種太郎めがたたねたろう氏であった。私にむかって、「そのうちに、在外財務官が設置されることになっている。君をそのほうに当てる予定である。」といった。私は、目賀田氏の人物に非凡のところがあるのをみとめて、唯々として、その命にしたがっていた。あるときは、えらく叱られたこともあった。

私はひそかに外交官試験を受けてみた。試験官は書記官石井菊次郎氏であったが、フランス文の書いてある一枚の紙を私に渡した。それを読んでみろと言われた。私はすらすらと読んだ。石井氏は、「どういう意味か。」と私に問われた。私は、「わからない。」と答えた。「なぜか。」と問われた。私は、「フランス文の文字が、二つ私にわからないのがある。それで意味が取れないのである。」と答えた。石井氏は、「教えてやろう。」と言われた。私は、「試験場に出てきて、知らない文字を教えられては、私の不名誉である。」と、キッパリと答えた。石井氏は少しく怒気をふくんで、「それならば、もうよろしい。」と言われた。私はそれで、試験は落第ときまった。私は、それも運命だと思った。私は、官吏は私にはむかないと考えた。そこで、大蔵省も辞職した。目賀田氏は、私をその邸にまねいて、「思い止まれ。」といわれたが、私は固くことわった。明治三十五年のことである。

私は、みずから読売新聞社に行って、臨時の記者に採用された。私は大いに政治を論じた。岳南のペンネームで書いたが、自由で、はなはだ愉快であった。やがて渡辺国武わたなべくにたけ子爵は、伊藤内閣の大蔵大臣を辞し、あらたに新聞を発行されることになった。私は渡辺子爵をかねて知っていた。そこで、その新聞に転ずることになった。電報新聞といった。私は社に宿泊して、新聞事業に身を投じた。その当時、私は大学院の学生に席をおき、将来は自由な学者になることを志していた。明治三十六年のことである。

その当時は、日露間には不穏の事態があらわれ、有名な七博士は、率先して開戦を叫んだ。私もその一味の応援者であった。私は開戦を論じていた。明治三十七年の二月に、開戦の宣言は発せられた。同時に、旅順港の襲撃がおこなわれた。私は、予備の陸軍少尉であったところから、ただちに召集されて、軍隊の人間となった。私は第一軍司令部付の国際法顧問を命ぜられて、黒木司令官らとともに、宇品うじなから出発し、大同江だいどうこうをさかのぼり、平壌へいじょうについた。その以後は、国際法上の違反がおこらないように、私は軍司令部参謀にやかましい意見をのべ、満一ヵ年を、満州の戦場におくったのであった。

明治三十八年三月、私は陸軍省の命令により、名古屋の俘虜収容所附に転じた。旅順りょじゅんで勇戦した有名な将官らが、名古屋にいた。私はその取締りにむけられたのである。私は俘虜から敬愛された。そこにいること三ヵ月であったが、俘虜は私に大いに感謝した。当時の日記は、私の手もとに保存してある。人類愛の実行であった。私は交際社会で大いにもてたのも一つ話である。

同年七月私は、新設された樺太からふと軍の国際法顧問にされた。樺太の占領にかんして、私は大いに人類のために働いた。その事業は、意義の大きいものであったが、詳細はここにはぶく。ポーツマスの平和条約が成立して、樺太軍の大部分は日本に帰ったが、私は一箇連隊とともに残された。樺太引き渡しの事業にあたることになった。いっさいの談判は、私ひとりでおこなった。これもまた意義の大きな外交事務であった。当時の記録を私は保存している。日本の占領していた北部樺太の引き渡しは終了した。無事にすんだのを陸軍大臣らは大いによろこんだ。

私は、十一月日本に帰ったが、陸軍大臣は、私に旅順にいって、「外人の遺留財産の整理委員」となるように命じた。私は、それを引き受けて旅順にいった。この事業は、全満州における外国人の遺留した動産不動産を、整理することであったが、そこに私は、一年三ヵ月のあいだ留まっていた。その事業のなかには、撫順ぶじゅんの大炭坑を、ロシア人とシナ人に還付すべしという請願事件もあった。それは、ポーツマス条約のなかに、ロシアのために有利な条文が揷入してあったところから生じた一大事件であった。私はその問題を、ロシア人と毎日、談判した。ついに日本のために有利に解決したのであったが、それは。私として大事業であった。

私は、その任務を終了して日本に帰った。明治四十年三月のことである。それから私は、韓国政府の官吏となることになった。目賀田顧問のもとに、経理の事業をおこなう任務であった。まもなく韓国は、イギリスの支援をもって日本の保護国となった。それ以来、私は韓国宮内府くないふに入り、宮中の一大改革をおこなう任務をあたえられた。私は大胆に、宮中の大粛正をおこなった。この時代に、多年、李太王の寵人であり、顧問であり、韓国の外交を一女子の身をもって引きずり廻していたフランス人ゾンタク夫人と、私は最初は大いに抗争して、その専恣を押えた。しかし、私は伊藤統監から命ぜられて、その夫人と和睦した。そうして日本の外交を勝利にみちびいたのであった。

韓国にあること六年であったが、伏魔殿といわれた宮中は、まったく粛清された。李太王は相当の人物であったが、私には一目をおいていた。私は目的を達して、いさぎよく官を辞したが、李太王は寺内てらうち総督に人を派じ、「あと二年だけ蜷川を留任せしめたい。」と申し入れられた。私は固くことわったが、李太王の策略であったかとも思われた。

私は大正元年十月に、京城において文部大臣から学位を授けられた。私はこれを機会として、事務の人間から学界の人間へと一転した。そうして私は、大正二年三月をもって、ウラジオストックに渡航した。そこからモスコウに向かった。そうしてパリーにゆき、専門の学問に志した。ついでに私は、全ヨーロッパを旅行した。私は大正三年九月に日本に帰った。

私は、明治三十七年二月以後、大正二年三月にいたるまでの十余年の歳月は、極東において、日本民族の自保自存のために、一身をささげて働いたものである。私には地位や収入など、まったく眼中になかった。予備の一中尉として、あるいは一嘱託として、あるいは韓国の一小官吏として働いたのであったが、私には、眼中に長官はなく、自由な一人間として、日本民族の光栄と自由とのために奮闘した。私の基本とする原則は、国際法であり。人類の福祉であった。私は、ロシア人の生命も相当に救った。シナ人、朝鮮人の生命や財産も保護した。日露の戦中また戦後の対外政策の一端に、私はあずかっていたけれども、私のなしたことは、けっして侵略ではなかった。侵略への反抗であった。私と接したすべての外国人は、私の誠意をみとめて、いずれも感謝してくれた。私は、民族の自由と平等とを、第一義として働いたのであった。

五 学界入りについで再渡欧

私は、大正三年九月にヨーロッパから帰ると、当時、京都に創始せられることになった同志社どうししゃ大学に、教授として就職することになった。私立の大学を発展せしめることは、日本の文明のために、必要であることを私は信じていた。

同志社大学では、満三年のあいだ、国際法と外交史の講座を担当していた。希望の学生もそうとうに多くいた。今日でも、社会にそうとうの地位を占め、私と交遊している人もある。私は一時、健康をそこない、肺病の初期のように医師からいわれた。私は京都に引きこんでいるのを、愉快としなかった。そこで私は、三年の勤務をおわって辞任し、大磯おおいそに閑居することにした。私は自然を友として、しばらく遊んでいた。

大正七年の春、日本赤十字社は、石黒社長の代理として石黒忠篤いしぐろただあつ氏を、私の大磯の私邸によこされた。そうして、日本赤十字社の顧問使として、ヨーロッパに行くことを申しこまれた。私は、二日の後にそれを承諾した。そうして、ヨーロッパの戦地に行くことになった。一行は、徳川慶久よしひさ公爵と赤十字の医師と合計八人であった。

われわれの一行は、まずアメリカにわたった。そうして大西洋をこえてイギリスにわたった。第一次大戦の末期であったが、まだいずれの国でも、ドイツの敗北を予断する人はいなかった。洋上のわれわれは危険であった。艦隊を編制して、軍艦に護衛され、ものものしい警戒のもとに航行するのであった。幸いにして敵の襲撃をこうむらずに、約十日の航海をへて、われわれはイギリスに上陸した。それからフランスにわたり、フランス、ベルギー、イタリアの前線に進み、軍と赤十字とを慰問した。医師は三名をつれて行ったが、先方で希望するならば、先方の病院に残留せしめる方針であった。ところが、各国ともに、医師も十分に準備してあったので、ただ、たんに視察して、日本の医師は日本に帰ったのであった。その方のことは、じつは無益であった。しかしながら、未曽有の大戦のおこなわれているヨーロッパにいって、政治、経済、人道を研究したことは、じつに甚大の利益があった。

私は各国の国王や、政治家や、学者や、軍人や、一般人やに接触して、いろいろのことを研究した。その研究の結果は、かねて約束してあった陸相田中義一氏にたびたび報告した。また私の視察と感想とは、私が著書をもって、世に報告してある。(『復活の巴里より』という著書が出ている。)私は知人の田中陸相から、ドイツ軍のおこなった「占領地行政」をくわしく調査することを、出発前に依頼されていたのである。私はフランスの陸軍省に申し出て、ドイツ軍の全占領地を、フランスの一陸軍中尉をともない、一週間にわたって、くわしく調査したのであった。フランスの陸軍はよく私を知っていた。

私は大戦の悲惨を目撃して、世界の平和永続の方策を研究した。そうして、第一次大戦が終ったのちも、赤十字事業を引きつづき平和時に、全世界にわたっておこなうことを、列国間に新たに条約すべきことを、列国の有力者に力説した。それが国際連盟規約の第二十五条となった。またそれが、赤十字社連盟規約の締結となって、世界に新しい「赤十字世界」が、創建せられたのであった。人道、平和上の一事業であることを、私は信じている。

一九一九年のヴェルサイユ会議のときには、私は、フランスの大新聞「タン」、「マタン」、その他いくつかの雑誌に投書して、世界の問題を論じたが、幸いに、パリーに集まった世界の識者の注目を集めた。このときには、外務省の役人も、たくさんパリーにきていた。松岡洋右や、吉田茂や、芦田均も、書記官として来ていた。まだ、名の知れていない、微力の人びとであった。青島の帰属は一時はシナにゆくことにきまり、日本全権は失望の極に達していたけれども、私の学理による一片の論文によって、それが解決せられ、日本に譲りわたされることになったのである。ただし日本の全権は、このことを偽って、原首相に報告している。

私は、一九一九年(大正八年)五月五日に、パリーで公式に赤十字社連盟を成立させることに成功して、ひとまず帰国を命ぜられ、九月に日本に帰った。しかしながら、その十一月には、ふたたび赤十字会議に出席する任務をおびて、またジュネーヴにむかって出発した。そうして翌二十年の九月に、日本に帰った。各国人は、私の親しい友であった。インド洋上の航海は、私にはたのしみの一つであった。また来ましたかと、途中の内外人にいわれたほどであった。

六 シナおよびシャムへの旅行

私は日本に帰り、まもなく東洋拓殖会社の石塚総裁からさそわれて、同氏とともに満州と北支へ旅行した。そうして張作霖ちょうさくりんや徐じょ総統に会見した。拓殖上の問題のためであった。四十日の旅行もおえて日本に帰ったが、シャムのバンコックに東洋赤十字会議がひらかれることになり、私はそれに出席することになった。

シャムの国王や王族や大臣や軍人やに会見したが、日本人にたいして、彼らは深い敬意を表していた。王族のなかには、パリーで知己となった人もいた。在留インド人の、集団から招かれて、私は二日、一大会合に臨席したが、「なにか演説を。」との申し出にたいして、私は立って、「インドの独立」を叫んだ。場内は大動揺した。それはイギリス人をおそれる卑怯から生じた混乱であった。しかし、二十年ののちには、インドは、イギリスから独立したのである。世界は変わった。

七 ワシントン会議行きと私

大正十一年(一九二二年)の秋、私は陸軍、外務、および東拓から依頼されて、原首相にも面会して、ワシントンの軍縮会議の研究にむかった。全権一行と同船したのであった。私は、私の名を秘して、米国の御用紙ワシントン・ポストに、毎日のように論文を投書して、アメリカ政府の対日方策の不正を批判し、学理に立ちつつ、それを攻撃した。ポスト紙は、真剣に私の論文と取りくんで、紙上に毎日のように長い論文をかかげたが、ついには、私のまえに降伏せざるをえなくなった。そうして、降伏の直前になって、「日本に権力がある」ということを、紙上に書くようになった。ポスト紙の一人の記者は、徳川全権の室をたずねて、「ポスト紙への投書は、だれの意見ですか。」と問うてみた。公爵はなにも知らなかった。「だれの意見だか知らない。とにかく全権側の意見ではない。」と、公爵はいかにも殿様外交家らしく、すらすらと答えた。いっさいは、それで終った。公爵は無能であった。貴族は無用の長物と、私はなげいた。

私はワシントンから、またまたヨーロッパにいった。それは、ジュネーヴの赤十字会議に出席するためであった。そのときの船は、五万トンの豪華なフランスの船であった。美人あり、才子あり、きわめて陽気なものであった。おもしろい話があるが、はぶく。一日、ひじょうなシケにあって、恐ろしい光景を、私はその航海で経験した。私はしばらくパリーにとどまって、ジュネーヴにむかった。そうして会議に列した。

八 数年にわたる国内の講演

大正十一年ごろには、日本人は欧米の大勢を知らず、大勢にはソッポをむいて、マルクス的のインターナショナルが大流行であった。大正二年以来、私は世界の大勢にじかに接してきているところから、その真相を、全国の学生や青年に告げることを必要と考えた。山川健次郎男や、清浦奎吾きようらけいご子爵は、私にその講演を要求された。私は自己を犠牲にして、それを承諾した。

私は、ナショナリズムの世界的大勢を全国に説きまわった。その折に、福岡と鹿児島の高等学校では、激烈に私に反対した。しかしながら、私はいつもそれを、学問をもって軽く受け流して、私の所信を述べた。私は昭和の初めまでも、それをつづけた。私はナショナルを力説したが、それを「国家主義」と、かってにかえて、ビラをはり出したところもあった。当時の日本人は、世界の実相に暗かった。

九 国際連盟から脱退した日本人

そのころ、日本の軍人や政治家は、はなはだしく卑怯であった。マルクス式のインターナショナルの流行時には、縮みがあって引っこんでいた。しかるに、ナショナルに日本人がめざめたときには、軍人らはそれを煽りたてて、自己の利益のために利用した。そうして天皇主義にもってゆき、八紘一宇はっこういちうなどととなえ、人心をして神がかり的、迷信的ならしめた。そうして国際連盟をののしり、「国を焦土となすも可なり。」などと豪語し、脱退を国民にあふりたてた。それは、世界の平和をおびやかす危険な政策であった。私はそれらの軽卒な輩が示した不誠実の態度を、深く悲しんだ。

私は極力その脱退に反対した。身命を投げだして、内閣や枢府の知人の政治家らに訴えた。斎藤総理も、私に同意していた。枢府の原嘉道氏は、私に鄭重に回答された。私は右傾から強烈に攻撃された。「身上危険」と、警察は私に報告した。しかしながら、ついに日本政府は脱退した。私は、日本の未来あやうしと慨歎した。それ以後は、私は政治を論ずることを思いとどまり、家に引きこもり、学問にのみ耽った。日本の大敗と衰亡とは、このときからはじまったものと、私は判断している。それは、昭和八年のことであった。

一〇 国際連盟脱退以後の歩み

日本がはなはだしく不穏当に、国際連盟から脱退してからは、専制政治にむかって、軍人はじめ政治家は、その方向を定めていた。天皇の親族だというところから、軍人らは、近衛文麿このえあやまろを内閣首相にたてた。また軍人は、大政翼賛会たいせいよくさんかいを創立して、ナチ政治をまねた。三国同盟をつくって、英・米・仏らを敵にまわした。ついに大東亜宣言を発して、ヨーロッパのヒットラーの弟子分となった。

世人は一般に浮かれていたが、私は悲観した。私は大政翼賛会は、憲法違反であると公言した。ドイツの必敗を論じたてた。三国同盟条約の欠点を指摘した。大東亜宣言を違憲だと説いた。それでも、なんびとも迫害はしなかった。官憲から捕縛もされなかった。その私は、終戦後、内閣総理大臣の名で公職から追放された。

昭和十二年、「支那事変」が起ったとき、欧米は、日本は「中国に関する九ヶ国条約」に違反する国であると、強く日本を攻撃した。これに対して政府は、「九ヶ国条約は現に有効に存在するが、同条約の成立時代とは国際事情が変っているから、日本政府は、同条約を守ることはできない。」と説明した。これは「条約は反古紙にひとしい。」と勝手にふみにじったドイツと同じで、列国から増悪されるのは「増悪されるのは」はママ、知れきったことである。

これに対して私は、国際法の学理にもとづく見解を発表した。「九ヶ国条約無効」と題して、日英両文で、「日支の両国は、交戦関係にある。二国の交戦は、二国間の条約を自動的に無効にした。日本はもはや、同条約に拘束されるものではない。日本はそれを守る義務がない。守ろうとしても、不能である。」これは、国際法の学理である。この一著は、軍部や政府の不法の外交や政治を非難したものであって、彼らのために助言したり、支援したりしたものでは、もちろんない。ところが、私の右の学理による著書は、戦後になって、追放調査委員会から調査された。そうして「日本の対支行動を正当化し、支那事変に理念的基礎をあたえるものと認める。」と裁断され、私は追放されたのである。私は、右の審査を軽薄と憤った。「理由なし」として弁明書を出したが、取り合われなかった。私は世の中からまったく引っこみ、大磯に風光と書物を友として、かろうじて生きていたのである。

一九五二年八月二十日

蜷川新

底本 / Source edition

底本:「天皇 誰が日本民族の主人であるか」長崎出版
1988(昭和63)年11月20日初版発行
※「帚星」と「彗星」の混在は、底本通りです。
入力:Democrat
校正:川山隆
2014年10月14日作成
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書誌 / Bibliography
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蜷川 新「私の歩んだ道」(新字新仮名)、底本『天皇 誰が日本民族の主人であるか』長崎出版、1988年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 056238_001776, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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