## 序章

  


## 女の出発

「たいそう暗いが、キヌさん、もう何時ごろかのう？」

「まあだ、三時にはなりゃあすまいね」

「やれやれ、この谷は<ruby><rb>一日</rb><rt>いちんち</rt></ruby>がよその半分しかないよ。仕事も半分しか、でけやせん」

「その代り、夜がよその倍あるわ」

「倍あったって、電燈はつきゃせんし、油は高いし、寝るしか用がない。この村の者がどんどん都に出て行くわけがわかるよ。遠いところに行く者は、ハワイやブラジルまでも行っとる。成功しとる者もたくさんある。その成功した者は、もう二度とこんな草深い田舎には、かえって来やせん。かえらんのがほんとよな」

「マンさん、あんたもどうやら、<ruby><rb>出心</rb><rt>でごころ</rt></ruby>がついたようにあるねえ。<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>さんの<ruby><rb>林助</rb><rt>りんすけ</rt></ruby>さんは、関門の方に行ってなさるということだが、元気にして<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>りんさるかね」

「はい、門司で、沖の仕事をして、儲けだしとるとかで、わたしに、出て来んか、って、なんべんも手紙をくれなさる」

「だけど、たいがいなら、港なんどというところには出んがええよ。<ruby><rb>人気</rb><rt>にんき</rt></ruby>が荒うて、若い娘はモミクチャにされるというけえ。……マンさん、もう、<ruby><rb>煙草葉</rb><rt>たばこば</rt></ruby>のばすこと、やめんさい。帰ろうや」

「お父っあんが、楽しみに待ってなさるけえ」

「親孝行もんよ。おふくろも安心でがんひょう。でも、その煙草葉、大丈夫なのけえ？」

「大丈夫とも」

深い谷の底である。四方の山がきりたっているので、この部落には、朝の光線がさすのはおそく、日の暮れるのは早い。まして、日の短い秋であるから、まだ三時というのに、もう<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>のようだ。部落の名は、<ruby><rb>広島県</rb><rt>ひろしまけん</rt></ruby><ruby><rb>比婆郡</rb><rt>ひばぐん</rt></ruby><ruby><rb>峯田村</rb><rt>みねたむら</rt></ruby><ruby><rb>字</rb><rt>あざ</rt></ruby><ruby><rb>峯</rb><rt>みね</rt></ruby>。

はげしいせせらぎの音をたてる谷川の岸で、二人の若い村の娘が話をしている。健康そうなのは共通しているが、マンの方は丸顔の小柄、キヌの方は長顔で、おそろしく背が高い。

粗末な木綿着のマンは、川岸にある二段<ruby><rb>歩</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ほどの煙草畠にしゃがみ、しきりに落ちた古葉をさがして重ねる。ていねいに、皺をのばす。なれた手つきである。

野良着で、手に鎌を持っているキヌの方はススキの林のなかに、あおむけにひっくりかえって、

「やあれ、もう、狐さんたちが鳴き騒いどらあ」

と、のんきたらしく独りごとをいいながら、無意味に、バサッ、バサッと、ススキをたたき切っている。

深い山には、狐、狸、兎、猿、などがたくさん居り、ときどき、猪があらわれることがあった。昔から現在にかけて、狐に化かされた話は数えきれない。谷川には河童がいるという。河童と角力をとったという老人が、自分の実見談を、炉辺で、まじめな顔して話す。

マンは、煙草好きの父のために、一枚でも余計に葉をひろうつもりである。においの強い、黄色い枯葉が、<ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>のなかにたまる。

すると、寝ころがっていたキヌが、突然、くるりと起きあがった。なにかを見つけたらしい。

「マンさん、<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>、鬼が来たよ。早よ、隠れんさい」

切迫した語調で、叫んだ。

おどろいたマンも、狼狽したが、おそかった。

「こらあ、逃げることならんぞう」

と、太い声が、山の道からひびいて来た。

観音堂のある山道の曲り角にあらわれた一人の大男が、大股でバネ仕掛のようにとびながら、かけ降って来た。黒い中折帽をかぶり、黒い詰襟服で、これも黒の皮カバンを右手にぶらさげている。顔いろも、日やけと酒やけで赤黒く、ちょび髭が木炭をくっつけたようだ。

「とうとう、見つけられたなあ。ええかげんで、早よ、やめんもんじゃけえ」

キヌは、もう、青くなっている。

「かまうもんか」

観念したとみえて、マンは、煙草畠のなかに立ちあがって、男の近づいて来るのを待った。煙草の葉を入れた笊だけは、畠のくぼみに隠した。

「逃げるんでないぞう。逃げたってわかるぞう」

男は、まだ、そんなことを叫びながら、谷川の岸に来ると、朽ちかけた丸木橋を、あぶなっかしい足どりで渡った。二人のところにやって来た。

「こんなことだろうと思うた。お前、谷口の娘ッ子だな？」

「はい」

「盗んだ葉を出しなさい」

「盗みはしません」

「ちゃんと見とったんだ。そこの笊を出しなさい」

マンはあきらめて、黙って、くぼみから笊をとりだした。

「ほうら、こんなに盗んどる」

「盗んだんじゃありません。落ちていたのを拾うたとです」

「こんなに葉が落ちるわけがあるか。どうもこの辺の奴は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>が悪い。政府を馬鹿にしとる。今度は許さん。処罰してやる。……おい、そっちの娘ッ子、お前もいっしょにやったのとちがうか」

「とんでもない。わたしは草刈りに行った帰りに、通りかかっただけです」

「怪しいな。ま、ええわ。共謀としてひっくくるところだが、特別にこらえてやる。帰れ」

キヌは、籠を背に負うと、一散に走り去った。

「谷口の、わしについて来なさい。お前のお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>うに逢うて、ようと調べたうえで、罰金申しつけてやる」

「お役人さん、そればっかりは堪忍して……」

「ならん」

「ほんとに、盗んだとじゃないけえ」

「やかまし、行け」

男にはげしく肩をつかれて、マンはしかたなく先に立った。

黒服の男は専売局の役人である。煙草が専売制になると、厳重な規則ができた。この部落でも作っている家が多いが、段に何本と定められ、それは専売局の原簿に記帳される。種は専売局からもらい、葉の数は精密に調査されて、一枚も私することはできない。ただ、葉の上、中、下とそれぞれ味がちがい、役にたたぬ部分もあり、その落ちた何枚かを自家用に吸うことだけが、大目に見られていた。

山峡の底は日没が早く、二人が歩いてゆくうちに暗くなる。点々とある家に、ランプがともる。ツクツク法師と狐とが鳴いている。

淵になった谷川の横に、水車小屋があった。水車がゆるく廻っている。そこまで来ると、役人は立ちどまった。あたりを見まわしながら、

「ちょっとお待ち」

「なんぞ……？」

「話したいことがある。そこの水車小屋に入んなさい」

マンは、ちらと水車小屋に視線を投げたが、その切れのながい、大きな眼に、不安のいろが浮かんだ。

「話なら、ここで聞きます」

「ちょっと、お前の持っとる煙草葉の数を読みたいんだが、外では風で飛ぶ。たいそう風が出て来た。小屋の中なら飛ぶ心配はない。さあ、入んなさい」

そういうと、役人はがたぴしと水車小屋の一枚戸をひきあけて、さっさと、先に入った。中から、マンをうながした。

マンも、しかたなく、おずおずと、小屋に入った。

暗い。鎧窓からさすかすかな光線で、三坪ほどの小屋の一隅に、土間に半分埋められた<ruby><rb>木臼</rb><rt>きうす</rt></ruby>が、三つならんでいるのがわかる。その中に、<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>が入れられ、水車の廻転によって動く三つの<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>が、それをおそい速度で、ドッス、ドッスと<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いている。たえ間なく、水の音がしている。小屋の中は、へんに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かび</span>くさい。

「煙草の葉を見せてごらん」

役人は、やさしい声でいった。態度がまるで変っている。帽子から、服、カバン、靴、顔にいたるまで黒い大男が、急に、猫なで声を出すので、マンは一層気味がわるくなった。無言で、笊をさしだした。

役人は、葉を一枚々々とりだして、手でもんだり、においをかいでみたりしながら、

「ずいぶん念入りに取ったものだなあ。お前は、わるい女のようではないが、どうして、政府の物を盗むようなことをするかね？」

「お父っあんが、煙草が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>から好きなもんですけえ……」

「なんぼ親孝行でも、法は法、可哀そうでも、罰金をかけにゃあなるまいなあ」

「お役人さん、もうしませんけ、どうぞ、堪忍して……」

「さあねえ」

思わせぶりに、役人は、じろりと、マンを見た。この、「鬼」という綽名をつけられている専売局の駐在員は、さっきから、マンの後から歩いてゆくうちに、下等な慾情をそそられた模様である。こりこりとひきしまった若い女の身体つき、腰や尻の弾力に富んだ動き、藁草履をはいた白い素足、ほつれ毛のたれかかっている小麦色の首すじ――この、眼前にある新鮮な<ruby><rb>熟</rb><rt>う</rt></ruby>れた果実を、とって食べたくなったものにちがいない。

「谷口の、罰金はいやかね？」

と、舌なめずりする口調で、マンの方に寄って来た。三角眼が<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らに光っている。

「はい、いやです」

「とりやめにしてあげようかね？」

「お願いします」

「じゃが、タダというわけにはいかんなあ。あんたもこれだけのことをしといて、タダですむとは、まさか思うて居らんだろう？」

「どうしたら、よろしゅう、がんひょうか？」

「そうじゃなあ、一番簡単なことですますとするかね。……な、それで、よかろ？」

マンも、男の考えていることが、やっとわかった。飛びすざった。

「それは、いやです」

「いや？　へえエ、ええことしたうえに、罪を帳消しにしてもらうのがいや？　もう、<ruby><rb>処女</rb><rt>きむすめ</rt></ruby>でもあるまいに。みんな、そうするんじゃがなあ。それが、利口だよ」

そういううちにも、黒い大男の身体が、小柄なマンを、風呂敷につつむように、からんで来た。マンははげしく抵抗したが、強い男の腕力に抱きすくめられた。まったく身うごきができなくなった。

ドブロクくさい男の息が、顔に近づいて来た。マンは土間にあおむけに転がされ、恐しい力でおさえつけられた。

前に、一度、マンはこれと同じ目にあったことがある。

この夏の盆踊りの晩であった。草深い山峡の部落では、<ruby><rb>盂蘭盆会</rb><rt>うらぼんえ</rt></ruby>は、若い男女が思いきり羽をのばす唯一の祭である。盆踊りは、柿ノ坂という、養蚕のさかんなことで有名な部落の<ruby><rb>仲蔵寺</rb><rt>ちゅうぞうじ</rt></ruby>で行われる。谷口家先祖代々の墓も、この寺にあった。

父善助は、子供たちをこの寺につれて来て、祖先の墓の前に立たせ、昔ばなしをするのが好きだった。もう時代のほどもわからぬ古びた墓石は、原形をとどめぬほど、方々がかけている。文字もよく読めない。しかし、善助は、

「ほうれ、この紋を見れ」

といって、墓石の上部を、節くれだった指で示してみせる。

「なんにも、ありゃせん」

子供たちがそういうと、善助は得意になって、語りだす。

「お前たちにはわからんでも、お父っあんには、ありありとみえる。これはな、<ruby><rb>平家</rb><rt>へいけ</rt></ruby>さんの御紋じゃ。源平合戦で敗れた平家さんの落武者は、<ruby><rb>源氏</rb><rt>げんじ</rt></ruby>の追討が、えッときびしいもんじゃけえ、日本国中の山奥に逃げこんだんじゃが、このあたりにも来なさったんじゃ。今はこれだけでも開けたが、わしの小さいころは、この谷は昼間でもお化けの出るようなところでな、平家さんの残党が永いこと隠れて住んどった。国勢調査のとき、はじめてそれがわかってな、なんでも、まだ、チョン髷結うた、奇妙なサムライが山奥に居るちゅうんで、官員さんが調べに行ったらな、刀さしたのが出て来て――もう、源氏は亡びたか、と、きいたというわい。谷口家も、平家さんの一門じゃ。根ッからの土ン百姓とはちがうぞう」

マンは、先祖が平家であろうがなかろうが、格別、なんとも思わなかった。父の自慢するのがおかしかった。どうかすると、そのことに父の衰えを感じて悲しかった。

ところが、このことは村では由緒めかして取り沙汰され、村長の家から、二男というのに、ぜひマンをくれと縁談の申しこみがあった。二男坊は大学を出たということだったが、マンは、高慢ちきで、鼻眼鏡をかけたこの男を好かなかった。いく度、強硬に督促されても、拒絶した。すると、盆踊りの夜、この男から、寺の裏の杉林にひきこまれ、おさえつけられたのである。青白い顔なのに、恐しい力だった。すんでのところに、提灯をつけて、誰かが通りかかり、あやうく難をのがれることができた。

家に帰って、このことを父に報告すると、善助は、「馬鹿たれが。そんなことはこれからもある。よう覚えとけ」と、女の護身法を教えてくれた。

専売局の「鬼」に組みしかれたマンの頭に、ぱっと、そのときの父の言葉が浮かんだ。マンは、もう夢中だった。しかし、声は立てなかった。歯を食いしばり、眼だけを怒りに燃やした。男の股間にさしこまれたマンの右手に、あるかぎりの力がこめられた。異様な叫び声を発した男の顔色が、スウッと大根葉色に変った。はげしい<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>をおこすと、「鬼」はぐったりとなって、そこへ倒れた。

マンは、はね起きた。飛びすざった。顔が熱く<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>り、動悸がはげしく打つ。肩で大きく息をしながら、見ると、暗い土間に、松の大木をころがしたように、男は横たわっている。動かない。

そっと、近よった。眼がひきつり、<ruby><rb>乱杭</rb><rt>らんぐい</rt></ruby>歯をむきだしにして、唇の部厚な口が、ポカッと開いている。狸のようである。マンは、耳を男の胸にくっつけてみた。それから、そこらに散乱している煙草の葉をかきあつめ、笊に入れた。それを持って、水車小屋を出た。

井戸の底から見あげるような空に、うす赤い夕焼雲がただよい、一羽の<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が悠々と舞っている。あたりには、家もなく、人影もない。キョーン、と一声、遠くに、狐の声が聞えた。

マンは、水車のところに来た。笊を置き、水車をまわしている瀬の岸にしゃがんだ。落ちて来る谷川の流れで、手を洗った。それから、水を両手ですくい、ごくごくと飲んだ。咽喉がひどくかわいていた。澄んだ冷たい水が、食道から胃袋へ通ってゆくのがわかり、

「ああ、おいしい」

と、思わず、声が出た。

かすかな黄昏の光のなかで、マンは、すぐ眼のまえの流れに一匹の<ruby><rb>鮠</rb><rt>はえ</rt></ruby>のいるのを認めた。水はかなりはげしく流れているのに、小さな魚は流れにさからって、間断なく<ruby><rb>鰭</rb><rt>ひれ</rt></ruby>をうごかしながら、ほとんど停止している。すこしずつ、進む。それを見ると、マンはしいんとした気持になり、すこし落ちついた。

マンは、もう一度、両手で水をすくい、それを口一杯にふくんで、立ちあがった。小走りに、また、小屋の中に入った。

倒れている役人のところに行き、顔を目がけて、プウッ、プウッと、二度に、水をふきかけた。すると、男の顔がびくついて、開いていた口がふさがり、ウウン……と、くぐもった<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声が、咽喉の奥底から起った。役人が動きだす気配を知って、マンは表に飛びだした。水車のところに置いた笊をとると、一散に、走った。

恐しいのか、悲しいのか、腹だたしいのか、それとも、うれしいのか、わからず、彼女は、ただ、早く家に帰りたかった。谷川に沿った<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>を、わき目もふらず急いだ。稔った稲穂のうえを、しだいに強くなった風がわたって行くと、湖のようである。また、キョーンと、するどい狐の一声が、今度はすぐ耳の間近でひびいた。

いくつも坂を越えた。やっと、前方にわが家が見えて来た。ランプの下で、ワラジを編んでいる母の静かな姿が眼に入って、マンは、突然、ぐっと胸がこみあげてきた。大声をあげて泣きだしたい衝動を、やっと、唇をかんでこらえた。涙があふれ出て来て、前方のランプの光がゆらゆらと流れた。

このとき、背後で、馬の蹄の音がした。

「マン坊」

と、声をかけられた。

ふりかえると、馬に乗った一人の筒袖姿の青年が、ススキの深い曲り道から、姿をあらわした。

「時やんけえ、びっくりしたあ」

「びっくりするこたあ、なあじゃろ。狐じゃあるまあし。……ほれ、郵便じゃよ」

「どこからな？」

「<ruby><rb>門司</rb><rt>もじ</rt></ruby>の<ruby><rb>林助兄</rb><rt>りんすけあに</rt></ruby>さんからと、……こっちの方は、専売局じゃ」

「専売局？」

マンは、どきっとした。

大川時次郎は郵便配達夫である。柿ノ坂の郵便局まで来る郵便物を、彼は馬に乗って、部落々々に配達して廻る。ときには、書留や小包などの大切な物も扱うので、信用の置ける者にしか委せられない。時次郎は、その点では村中での模範青年といってよかった。さらに、雨、風、雪、嵐のときにも、配達を休むわけにはいかないので、身体の頑健な者でないと勤まらない。その点でも、草角力の横綱である時次郎は、最適任者であった。

「おやあ」と、馬上から、時次郎は、マンの顔をのぞきこむようにして、「マン坊、泣いたのとちがうか」

「うんにゃ、泣きはせん」

「それでも、一杯、涙がたまっとる。マン坊の泣き虫は珍しゅうはなあが、また、村長の二男坊から、いじめられたとみえるなあ」

「誰が、あんな、鼻眼鏡……」

「マン坊の方はそんな気でも、まあだ、<ruby><rb>敬</rb><rt>けえ</rt></ruby>やんはあんたのこと、あきらめんというぞ。根が狡ン坊のうえに、大学出の智慧者じゃけえ、惚れたがメッチャラで、なにを企らむか知れん。気をつけんさいや」

「なんでやって来ても、負けやせんよ」

「そんなら、ええが……」

ひろい縁の麦藁帽の下から、きりッとしまった面長の顔が、なにかの思いをこめて、マンを見る。すこし鈍くはあるが、眼には意志的な光があり、黒く太い眉がたくましい。

マンは、時次郎の瞳にただよっている、その思いというのが、なにか、よく知っている。そして、マンの方も、時次郎にたいして、或る気持を抱いていた。

「マン坊、今夜、<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>けえ？」

「うウン、今夜は、ちょっとばかし、用がある」

用はなかったけれども、水車小屋での事件が、どんな結果を生むか、閑であるとはとてもいえなかった。それどころか、マンは、今にも息をふきかえした「鬼」が、跡を追って来るにちがいないと、びくびくしているのである。

「そうか、閑なら、今夜遊びに行って、ゆるゆる話したいことがあったんじゃがなあ。……<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の晩は？」

「それも、わからんわ」

「たいそう忙しいんじゃなあ。いつか、おれのために、閑をつくってくれんさいや」

「そのうちにね」

時次郎は、つれないマンの態度に、あきらかに、失望のいろをあらわしたが、それでも、にこにこ顔をつくって、

「そんなら、また」

と、愛馬の<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>をめぐらした。<ruby><rb>上背</rb><rt>うわぜい</rt></ruby>のある、たくましい栗毛の四歳馬である。

「時やん」

と、マンは、急に、すこし狼狽した顔で、呼びとめた。

「あン？」

「あんた、<ruby><rb>七瀬</rb><rt>ななせ</rt></ruby>の水車のところを通って、帰りんさるかね？」

「そうよ。あの道しかないけえ。それが、どうかしたな？」

「どうも、しやせん」

マンは、くるりと廻ると、飛びあがるようにして、家の方に走った。

家の下の崖まで来て、足音を殺した。斜になった石段を、そっと登った。母にさとられぬよう、裏手の牛小屋の方に廻った。

すると、どこにいたのか、愛犬のシュンが、暗闇のなかから飛びだして来た。はげしく尾をふり、クウン、クウンと鼻を鳴らして、まつわりつく。

「シイッ、シッ」

びっくりして、追ったけれども、シュンは逃げない。昼間からずっと、一番可愛がってくれる<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>を見なかったので、よっぽどうれしかったらしい。煙草葉を入れた笊を落しそうになるほど、騒々しく飛びかかって、じゃれる。

その気配に、

「おマンけえ？」

ランプの下から、母イワが、ワラジ編む手を休めて、表の暗がりをすかして見た。

「はい」

と、しかたなく、答えた。

「お父っあんには、逢わなんだけえ？」

「いンね」

「山に居ったんじゃあ、なあのけえ？」

「煙草畠に行っとりました」

「やンれ、やンれ、お父っあんは、炭焼小屋じゃろうというて、山の方に、お前を迎えに行きんさったんじゃが。今日は、朝っぱらから、たいそう、狐どんが鳴きよるけえ、おマンが化かされたらいけん、というて……」

「すみません」

マンは、牛小屋に行った。犬も、ついて来た。牛は、もう、マンの足音を知って、小屋の板壁を角でつき、足踏みをはじめた。去年生まれた小牛と二匹、親子ともよく彼女になついている。ブルルルと鼻を鳴らす。歓迎の啼き声を出す。

牛小屋に入ると、マンは、棚のうえのランプに、火を点じた。<ruby><rb>飼料</rb><rt>かいば</rt></ruby>桶に、藁を入れてやった。牛は親子で、早速、それを食べはじめる。

マンは、牛小屋の戸をしめ、ふところから、二通の封書をとりだした。耳をすまし、誰も来る気配のないのをたしかめてから、兄林助の手紙から先に、封を切った。

小学校三年を中途でやめた兄の手紙は、片仮名で、ところどころに入っている漢字は、全部、嘘字である。しかし、意味はわかる。

「――関門海峡ニハ、タクサンノ外国船ガ入ッテクルコトトナッテ、沖ノ仕事モ増スバカリトナッテ、組デハ、若クテヨイ働キ手ヲサガシテオル。オ前ガ出テクルノヲ待ツ。ソンナ山オクデ、一生ヲ終ルナンテ、馬鹿クサイト思ワンカ。思イキッテ、出テ来ンサイ」

それから、いつでも、自分の<ruby><rb>親方</rb><rt>おやかた</rt></ruby>の浜尾組で、<ruby><rb>部屋仲仕</rb><rt>へやなかし</rt></ruby>として引きとること、住居、賃銀、門司の港と町の賑わい、都会の面白さ、などが、たどたどしい、しかし、心をときめかさずには居られないような書きかたで、こまごまと、<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>されてあった。

マンは、二通目の封書を開いた。専売局のも片仮名文であったが、嘘字はなく、これはいかめしく印刷してあった。

「冠省、先般ヨリ申請中ノ願書、<ruby><rb>詮衡</rb><rt>せんこう</rt></ruby>ノ結果、今回、谷口マン儀、煙草女工資格者ト決定セルニ付、採用ノ旨、通告ス」

マンは、二つの手紙を、何度も読みくらべながら、いくらか狂気じみた、夢みる瞳になって、牛小屋の中に立ちつくした。

（どうしたら、よかろうか？）

マンは、迷う。

村でも、専売局の煙草女工になりたい希望者は多い。ひょっとしたら、村娘にとっての、唯一最大のあこがれかも知れない。しかし、資格に面倒な条件がたくさんあって、なかなか採用にならない。その金的を、マンは射とめたわけである。普通なら、飛びあがってよろこぶところだ。

ところが、マンの顔は当惑したように、眉がよせられている。

――都会。

――港。

――自由の世界。

――ブラジル。

せせこましい谷底の故郷から、ひろびろとした天地へ出たい。青春の血を騒がせる漂泊と放浪の思いは、すでに、早くから、絶ちがたい情熱となって、マンの胸に燃えている。どこに行っても、鼻先のつかえる狭い山奥、田や畠をつくっても、五段歩とつづけられる土地がない。母の兄、マンには伯父に当る人が、ブラジル移民で成功し、大農園を経営している。そこには眼のとどかぬところまで続いた農場があり、四季を通じて、自由な耕作ができるという。マンの空想は、はるかに海を越えて、ブラジルの天地にまで飛ぶ。

――まず、門司港にいる兄林助を頼って行き、そこで足場をこしらえて、ブラジルへ。

これが、マンの憧憬の構図であった。

大川時次郎の顔が浮かぶ。郵便局に勤めているこの青年を、マンも好きだ。村一番の男と思う。時やんも、マンを嫁にしたがっている。しかし、時やんは一人息子であり、大川家を継いで、生涯をこの部落で終らねばならぬ。時やん自身も、引っこみ思案のところがあって、村を出る積極的な気持はない。彼の最後の理想は、柿ノ坂の郵便局長になることにあるらしい。

（そんなのは、いやだ）

と、マンは、思う。

表で、足音がした。牛小屋の前に来てとまった。

「マン坊けえ？」

父善助の声だった。

「はい」

と答えて、あわてて、兄林助の手紙の方を、ふところに隠した。

小屋の戸を開けた。マンより先に、犬が飛びだした。背に薪を負い、手に鎌を持った長身の父が立っている。

「なんじゃい、戸をしめこんでしもうて……」

「お父っあん、これ」

マンは、専売局からの封筒をわたした。ランプの明かりでそれを読む、善助の日やけした顔に、みるみる、狂喜にちかい表情が浮かびあがって来た。

「やンれ、よかったのう。万歳、万歳」

そういって、両手で、万歳の恰好をし、どんと、娘の肩をたたいた。

「おマン、お前も、うれしいじゃろうのう？」

「はい」

そう答えなければ、しかたがなかった。

<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>端で、一家、にぎやかな夕食がはじまった。善助、イワ、長兄倉助、その嫁ミキ、その子の三歳になる松男、弟<ruby><rb>牛三</rb><rt>ぎゅうぞう</rt></ruby>、それに、マンの七人。マンの採用のお祝いといって、善助は芋<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>をつけたが、ふと、思いだしたように、

「専売局といやあ、あの駐在所の鬼が、七瀬の水車小屋でなあ……」と、話しだした。

マンは、胸のなかで、心臓が一廻転したような気がした。かあッと、顔が燃えた。眼を皿にして、父の顔を見た。

善助は、上きげんで、焼酎の徳利から、独酌をしながら、

「……なんでも、とうとう、狐に化かされたらしいぞ。あの鬼奴、いつも、威張りくさっとった。――この谷の者はみんな間抜けの阿呆たれじゃ。この文明の世の中に、狐が人間を化かすなんて、そんな馬鹿げたことがあるか。おれの方が狐を化かしてみせる。……なんて、いうてな。それが、今度は、狐どんからやられたんじゃ。罰よ」

「そりゃあ、ええ気味じゃが、どがあな風に、化かされんさったとな？」

これも、茶碗で焼酎をかたむけ、もう赤くなっている倉助が、きく。

「わしも聞いたことで、ようは知らんけどな、<ruby><rb>高門</rb><rt>たかかど</rt></ruby>の<ruby><rb>武十</rb><rt>ぶじゅう</rt></ruby>旦那の話によると、こうじゃ。――旦那が七瀬の水車の横を通りかかんさった。そしたら、小屋の中から、ウンウン<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>る声がして、なんか、入口から這いだして来た。旦那はびっくりしたらしいけんど、胆の太い人じゃけ、提灯をさしだして、照らして見んさった」

「それが、専売局じゃったとけえ？」

と、母イワが、身体を乗りだす。

「そうよ。どがあしたわけか知らんが、腑抜けのようになってな、旦那が声をかけても、返事もせんし、フラフラッと立ちあがって、なんべんか<ruby><rb>倒</rb><rt>こ</rt></ruby>けながら、川の岸をユウラユラ、酔いどれみたいに、歩いて行ったというわい」

「どっちの方に？」

マンは、切迫した声できいた。

「柿ノ坂の方じゃ。狐に化かされとっても、駐在所に帰る方角だけは、知っとったとみえるのう。服は泥だらけになっとったというが、そんなことも気づかん風じゃったらしい」

「カバンは持って居らんじゃったけえ？」

「カバン？　それまでは聞かんじゃった」といったが、ふっと、不審そうに、「マン坊は、どうして、鬼がカバンを持っとったこと、知っとる？」

「いンね、……役人さん、いつも黒いカバン持っとるけえ、どうしたか、と、ちょっと思うたもんじゃけえ……」

マンは、どぎまぎと答えた。

水車小屋の事件を、マンは父に話さなかった。誰にも話さなかった。盆踊りの晩、村長の二男坊から手ごめにされかけたことは、すぐに、父に打ちあけたのに、今日、ふたたび、同じ目に逢いながら、これは隠した。

盆のとき、父から、「これからも、そんなことはある。よう覚えとけ」といって、教えられた女の護身法を、習ったとおりに実行したのであるから、手柄顔で報告してもよいのに、マンは沈黙を守った。はからずも、危険から身を守ることができはしたけれども、その方法は、純真で一本気な若い娘を、はげしい<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>におとしいれたのである。得々と報告するどころか、真実を知られることを恐れた。マンに、新しい一つの秘密ができた。

けれども、また、別にマンの心の奥底に、奇体な力が生まれていた。

――女でも、必死になれば、自力で、男に負けぬ仕事をすることができる。

その、胸のふくらむような、自覚と、自信とであった。

一週間ほどが、過ぎた。

村の煙草工場の開所式が、盛大におこなわれた。貧乏部落のくせに、なにかの行事は派手にしたがる癖があって、この工場開きの日は、まるで、お祭騒ぎであった。

「こんな名誉なことは、なあよ。これで、わしも、もう、いつ死んでもええ」

村長は、禿げあがった頭をたたいて、本心から、そういった。まだ電燈もつかない、こんな山奥の村に、政府の指定機関が出来たことは、村長にとっては、一世一代の晴れであったかも知れない。

「村長さん、わたしも、あんたに負けんほど、うれしゅうがんす」

そういうのは、<ruby><rb>高門</rb><rt>たかかど</rt></ruby>の<ruby><rb>武十</rb><rt>ぶじゅう</rt></ruby>旦那である。

煙草工場といっても、単に、大地主である武十の家の倉庫を、改造したものにすぎない。煙草葉をきざむ初期の工程だけをやるのだし、女工も十六人しかいないのだから、結構、それで間にあうのである。

「村長さん、武十旦那さん、わしも、今度のことで、命が三年ほど延びやした。おおきに、ありがとうございやした」

谷口善助のその言葉も、お世辞ではなかった。娘のマンが採用されたばかりか、女工頭に任命されたのである。

開所式の当日、広島からやって来た専売局の若い出張員も、にこにこと、挨拶した。

「ここまで漕ぎつけることのできましたことは、村長さんはじめ、近郊各部落の方々の熱意の<ruby><rb>賜</rb><rt>たまもの</rt></ruby>でありまして、本官は、今回、選抜された優秀なる女工さんがたによって、かならずや、期待される以上の成果が、生みだされるにちがいないことを確信いたします。特に、女工頭の責任ある地位に就かれた、谷口マンさんの活躍に嘱望するところ、はなはだ大であります。……本日は、当地方の駐在員である松富五八郎君が、列席できないことは、まことに残念のいたりでありますが、同君は、一週間ほど前、<ruby><rb>七瀬</rb><rt>ななせ</rt></ruby>の水車小屋に隠匿されてあった不法煙草葉を調査、摘発中、ふいに持病の胃ケイレンをおこして以来、病臥中でありまして……」

どっと、会場内に、爆発するような笑い声がおこった。

得意で挨拶していた若い役人はなんで笑われたのかわからず、すこし、むっとした顔つきになって、

「同君は、技能抜群、誠実無類の人物でありまして、日ごろ、諸君を指導しながら、仕事熱心のあまり、今日、殉職に近い難にあわれましたことは……」

また、ひとしきり、会場内は、奇妙な笑いでどよめいた。役人に遠慮はしていたが、誰もおかしさがおさえきれなかったのである。

笑うことのできなかったのは、マンだけである。中央にしつらわれた、十六人の女工席の先頭に腰かけていたが、顔がまっ赤に燃えてきて、頭があげられなかった。

「マンさん、ウフフ……」

すぐ後にいたキヌが、マンの腰のあたりを指でつついて、意味ありげなふくみ笑いをした。キヌも、女工に採用されていた。

マンは、氷の鎌で腰を切られたような寒気がした。くらくらと、眼まいをおぼえた。

「誰もほんとのことを知らんらしいが、あたしだけは、なにもかも知っとるよ」

キヌの<ruby><rb>陰</rb><rt>いん</rt></ruby>にこもった笑いは、明瞭に、そういっていた。

それから、毎日、マンは、高門の煙草工場に出勤した。心内ははげしく動揺していたけれども、表面は、この新しい仕事に嬉々として、没頭しているように見えた。

「やっぱり、マン坊はちがうのう」

武十旦那も、彼女の働きぶりに、大満悦である。毎日、面とむかって、ほめる。

「いンね、旦那さん、つまりません」

「一等葉を、日に三杯もつくるなんて、機械よりも、よう、やりんさる。五等葉でも、三杯、なんぼうにも出来ん者もあるとに……」

煙草葉は、よい部分、わるい部分と、一等から五等までに分けられる。それをきざむのだが、一日に、一等葉を一杯（一貫六百目）つくるのも、なかなか骨だった。それを、マンは、正確に、三杯つくった。ぞんざいにきざむ五等葉なら、六杯ぐらい作る者もあった。一杯の賃銀、三銭から四銭。

「マン坊、村長さんとこの敬やんの嫁女になるげなのう」

或る日、工場で、武十旦那からそういわれて、びっくりした。きいてみると、マンが、煙草工場に採用されたことも、女工頭になったことも、すべて、二男坊の顔と口ききとによるものだということであった。マンは、唖然とし、嘔吐をもよおした。

敬造は、谷口家を、毎夜のように、訪れて来るようになった。にやけた声で、しかし、<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>するように、善助を口説く。

「僕が、一口きいたら、今日にでも、マン坊は、工場をクビになるんだよ。まったく、僕のおかげですよ」

善助は、苦虫をかみつぶした顔で、答えない。やけに、<ruby><rb>鉈豆煙管</rb><rt>なたまめきせる</rt></ruby>で、煙をふかす。イワも、無言で、ワラジを編む。

或る雨のそぼ降る日、工場の入口から入って来た男を見て、マンは、思わず、手元が狂った。庖丁で、指を切った。

「やあ、精が出よるなあ」

「鬼」であった。相かわらず、黒の詰襟服、黒カバン、黒帽子の大男は、にこにこしながら、まっすぐに、マンの方に歩いて来た。女工たちの間に、くすくす笑いがおこった。

マンが、血のふきでた左の親指を口にくわえて、無言でつっ立っていると、役人は、

「怪我したのかね、どれ」

と、親切そうに、赤ら顔をつきだした。ドブロクくさかった。

「なんでも、なあです」

「そうかい」と、憎々しげにうなずいたが、仕事をしている女工たちを見まわして、「やあ、模範的娘ばっかりの展覧会だなあ」

そういって、身体中をゆすりながら、意味ありげに、哄笑した。

マンは、歯を食いしばった。「鬼」が、水車小屋の中で、罪を帳消しにしてやるからといって、身体を求めてきたとき、「みんな、そうするんじゃがなあ」といった言葉を思いだした。この女工たちの中にも、「鬼」の毒牙にかかった者があるのだろうか？　役人は、百姓が泣き寝入りするものと定めていたのだ。マンの例外におどろいたかも知れない。しかし、「鬼」は、かえって非を悔いるどころか、意地になって、新しく、マンを狙いはじめたようであった。

それから、数日後、時次郎が、また、専売局からの書留郵便を、マンのところに、届けて来た。

「専売法違反ノ科料、金二円五十銭也ヲ収メヨ」という命令書であった。

駐在員の松富五八郎が、谷口家を訪れて来た。マンの方を、じろじろ横目で見ながら、

「善助さん、罰金が来たそうだねえ？」

「来ました」

「<ruby><rb>姐御</rb><rt>むすめご</rt></ruby>の親孝行が、かえって、仇になったというところですかな。……だが、なあ、善助さん、この罰金、収めずにすます方法が、なくもないんだがねえ」

「いンね、ええです。収めます」

「そんな<ruby><rb>空威張</rb><rt>からいば</rt></ruby>りしたって、損だよ。政府だって、血も涙もあるんだから、恩恵に浴してはどうかね？　便法があるが。……科料は大したことはないけど、前科がつくし、第一、罰金を収めに、岡山裁判所までも行かねばならんよ」

「行きます」

「お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>に楯ついて、得はないのになあ」

「鬼」は、せせら笑って立ちあがった。大股で、悠々と帰って行った。

「お父っあん、すみません」

「マン坊、なあに、心配はいらん。お父っあんが、よう知っとる」

マンは、わっと泣き伏した。

善助は、罰金を収めるために、岡山に向かって、出発した。二円五十銭といえば、科料としては最低であったが、収めに行くのが大変である。大旅行といってよい。広島の山奥から、谷をわたり、山を越え、幾日も泊りを重ね、やっと、鉄道のあるところまで出て、汽車に乗る。岡山市にたどりつき、裁判所に、科料金を納入すると、また、同じコースを引きかえす。罰金の数倍の費用を使い、善助が、村に帰りついたのは、家を出てから十三日目であった。

善助は、疲れた顔も見せなかったが、日ごろ愛用していた鉈豆煙管、タバコ盆、タバコ入れ、等を、くるくると、油紙につつんで、仏壇の下の物入れにつっこんでしまった。

イワが、妙な顔して、

「あンれ、お父っあん、どがあに、しんさったな？　好きな煙草を、押しこんでしもうて……」

「おれが煙草を吸うもんじゃけえ、マン坊が心配して、罪をおかすようなことをする。今日かぎり、ふっつりとやめた」

マンは、また、涙が出た。

こういうことがあっても、なお、苦しい気持をいだいて、煙草工場に通っていたが、或る風のはげしい日の夕暮どき、マンは、七瀬の水車小屋の横で、大川時次郎とキヌとが、むつまじげに語らっている姿を見た。観音堂のかげから、眼を据えた。

遠くからで、言葉をききとることはできなかったけれども、肩を接するようにして、なにか、大声で、楽しげに笑いさんざめいている。これまで感じたこともない、不可解な嫉妬の感情が、マンの胸いっぱいに溢れた。

（なあんじゃ）

くッ、くッ、と、笑いのような、<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>のようなものが、胸の奥底からつきあげて来た。二人の姿が、狐と狸のように見えた。

<ruby><rb>清冽</rb><rt>せいれつ</rt></ruby>な流れを、黄昏のうすい光に散らしながら、水車がゆるい速度で廻っている。

それから、数日後、彼女の姿は、この谷底の部落から、消えていた。

明治三十五年、晩秋。

谷口マン、十九歳。

  


## 男の出発

「ええ天気じゃのう。お城があんなに、きれいに見えるぞな」

「天気ばかりようても、こっちの方は、大雨、大風、大嵐じゃ」

「そがいに、悪いのかい？　<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>坊」

「悪いというても、<ruby><rb>清</rb><rt>せい</rt></ruby>ちゃんのような鍛冶屋の<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>には、わかるまいけんどな。この車に積んどる蜜柑を、今日、問屋で、言い値で引きとらなんだら、破産じゃと、<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>がいうとった」

「ふうン」

「それで、おれに、談判して来いというんじゃ。兄は<ruby><rb>上手者</rb><rt>じょうずもん</rt></ruby>じゃけど、問屋からいいくるめられてばっかり居るけに、兄はやらん。いつも、むつかしい談判には、末ッ子のおれを使いさすんじゃ」

「そら、そうじゃろ。お父さんの考えが、おれにもわかるぞな、もし」

「どうなるか、当って砕けるつもりじゃが、もし、都合よう行ったら、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の風呂に入って、遊んで来てええ、って、親父がいうた」

「その時は、おれもつれて行ってくれや」

「うん、……だが、どがいなことになるか……？」

眼に痛いほど、濃く深く澄みわたった青空に、くっきりと、松山城の天主閣が浮き出ている。街の中央に、百三十メートルほどの高さで聳えている<ruby><rb>城山</rb><rt>しろやま</rt></ruby>は、全山、豊富な樹木に掩われていて、緑の瘤のようだ。頂上の白い城は、しゃれた山高帽に似ている。

はるかに、この城を望みながら、蜜柑山の間を縫っている街道を、一台の馬車が行く。その馬車には、蜜柑箱が数段に積みかさねられて、前部の箱のうえに、二人の青年がならんで、腰かけている。

ひろい縁の麦藁帽をかぶっている方の男が、両手に持っている手綱と鞭とで、上手に、馬をあやつりながら、馬車を進める。金坊と呼ばれた方で、身体つきががっしりとし、肩幅がひろい。丸味のある顔は浅黒いが、まくりあげたシャツの先から出ているたくましい腕は、光るほど白い。

片方の青年は、ちんちくりんで、色が黒く、貧相たらしい。かぶっている鳥打帽も、煮しめたように垢じみ、穴がいくつもあいている。

二人とも、蜜柑山で掩われたこの村の青年だ。馬車の出発した、この部落の名は、<ruby><rb>愛媛県</rb><rt>えひめけん</rt></ruby><ruby><rb>温泉郡</rb><rt>おんせんぐん</rt></ruby><ruby><rb>潮見村</rb><rt>しおみむら</rt></ruby><ruby><rb>字</rb><rt>あざ</rt></ruby><ruby><rb>吉藤</rb><rt>よしふじ</rt></ruby>。

くねくねと、やたらに曲りくねった道を、馬車は、松山市の方へ進む。この「<ruby><rb>七曲</rb><rt>ななまが</rt></ruby>り」といわれている街道は、昔、敵兵が攻めて来るとき、城の天主閣から、どの道に来てもわかるように、わざと<ruby><rb>紆余</rb><rt>うよ</rt></ruby>曲折させたものだという。

「金坊、お前んとこの<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>さん、やっぱり、いけんかい？」

「どうもこうも、いけんなあ。だんだん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いけず</span>になるばっかりじゃ。おれをこきつかう分はかまわんが、兄に、ひどい陰口をいうには、へこたれる。――金五郎に気をつけにゃいけん、あれは、末ッ子の癖に、この玉井家を乗っとる腹じゃ。……なんて、いう。小使を五銭くれりゃ、兄には、十銭やった、というし、髪つみに十銭貰や、人には、十五銭やったという」

「そんなかな？　もし」

「清ちゃん」

金五郎は、なにか思いついて、眼をかがやかせた。

「うん」

「一生の頼みがあるんじゃがな」

鍛冶屋の清七は、お人よしで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かん</span>の鈍いことで有名である。金五郎から、いつも、「お前は、朝、頭をたたかれて、夕方ごろになって、アイタ、というような男じゃ」といって、からかわれる。それで、今、親友が、切迫した顔つきと語調とで、一生の頼みがある、といっても、のびやかな顔で、表情も変えず、

「なんぞな？　もし」

と、間のびした声で、ききかえしただけであった。しきりに、鼻糞をほじくる。

「鍵を、一箇、作ってもらいたいんじゃがなあ」

「どがいな鍵ぞな？」

「それが、……ちょっと、わからんのじゃが……？」

「わからん鍵は、でけんなあ」

「清ちゃん、お前じゃけに、打ちあける。実は、兄夫婦が、いつも、銭を入れとる<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>がある。その箪笥の鍵は、嫂が持っとる。その鍵と<ruby><rb>同</rb><rt>おんな</rt></ruby>じ鍵が欲しいとじゃ」

「箪笥の銭を泥棒するんかな、もし？」

「いや、盗むんじゃない。<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>るんじゃ」

「箪笥をあけて、黙って借るんかな？」

「そうじゃ」

「借るんなら、鍵を作ってあげてもええぞな」

「どがいにしたら、同じ鍵ができる？」

「鍵穴に、墨を塗りつけてな、半紙で押して、型を取って来なさい」

「そうか、おおきに」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かん</span>は鈍いけれども、清七の腕の方は、金五郎は信用していた。馬の蹄鉄でも、馬車の軸でも、柑橘類の<ruby><rb>剪取</rb><rt>きりとり</rt></ruby>に使うハサミでも、清七は、馬鹿叮嚀に念を入れるので、よその鍛冶屋のよりは、数等堅牢で永持ちがした。きっと、ちゃんと、箪笥に合う合鍵ができるにちがいない。

やがて、馬車は、松山市内に入って行った。城下町の名残りをとどめている古い家が、いたるところにあり、武者窓のついた部屋の内側から、パタン、パタン、と、伊予絣を織っている<ruby><rb>機</rb><rt>はた</rt></ruby>の音が聞えて来た。

<ruby><rb>萱</rb><rt>かや</rt></ruby>町にある果物問屋の前まで来て、馬車をとめた。<ruby><rb>￼</rb><rt>かねじん</rt></ruby>という、伊予蜜柑を一手にあつかっている店である。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>をくぐって、金五郎は入った。暗い中に香ばしい果物のにおいが立ちこめている。

ひっそりとした店の帳場で、内儀が一人、老眼鏡をかけて、雑誌を読んでいたが、表の方をすかすようにして、

「どなたかな、もし？」と、顔をあげた。

「<ruby><rb>吉藤</rb><rt>よしふじ</rt></ruby>の玉井です」

「ああ、<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>さんじゃなあ。ちょいと、お待ちいな。うちのも、あんたの来るのを、さきにから、待っとった。じき呼んで来るけに……」

内儀と入れちがいに、主人があらわれた。色の青い、小柄な中老人だが、<ruby><rb>辣腕</rb><rt>らつわん</rt></ruby>な商人として鳴りひびいた男である。金壺眼の奥に、<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>そうな淀んだ光が沈んでいる。

すぐに、商談がはじまった。店先の框に、腰を下した二人の間に、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>が置かれた。

この取引が、うまく行くか、行かぬかで、玉井家の運命がきまる――父が、自分を使いに出した責任の重大さを考えると、金五郎は緊張せずには居られなかった。

算盤の玉を、四つ、下からはねあげておいてから、じっと、￼の顔色をうかがった。

腕組みしたまま、思わせぶりに、￼は、にやにや笑っている。いつもなら、電光石火に、値の交渉が行われて定まるのだが、どうしたのか、￼は、返事をしない。金五郎が、算盤の玉で示した値段にも、さほど関心を持っていないようにすら見える。

金五郎は、すこし、じれて来て、

「どうですか、この値では？」

それでも、黙っているので、

「これ以上は、一銭もまからんですよ。早う、手を打って、金を渡しなさい」

すこし声を大きくして、詰めよった。睨むようにした。

正直のところ、金五郎は、心内、すこし狼狽していた。まずいことになった、と思う。こういう談判の仕方になっては、負けだ。いつもの￼の手をよく知っているので、その作戦を練って来たのに、まるで、様子がちがう。こちらが、４とはじけば、￼は、１と来る。そこを揉みあって、３に定まれば、大成功のつもりであった。

ところが、普段は、４と置いた玉を、抜く手を見せぬ勢で、パチッと、三つ<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>きかえす￼が、沈黙したまま、全然、反応を示さない。のみならず、妙に意味ありげな微笑を浮かべている。

金五郎は、すこし、気味が悪くなった。そうなると、一層、いらいらして来て、追っかけられるように、「￼さん、男らしく、定めましょう」と、叫び声になった。

「まあ、まあ」と、やっと、相手は口を開いた。

「金さん、あわてることはないぞな」

「あわてはせんけれど、愚図々々するのも、感心しませんでなあ」

「金さん」￼は、落ちつきはらって、「どがいにしても、それだけの金が、お<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>りるかな？」

「<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>ります」

「じゃが、今は、もう、そんな値段は無茶ぞな」

「いつでも無茶なのは、￼さんじゃないですか。あんたには、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">山殺し</span>という綽名がついとるのを御存知ですか」

「そがいなことは、どがいでもええが、……金さん、ほんとに、それだけないと、玉井ではお困りかな？」

「困ります。破産します」

「それでは、こがいにしよう。うちも商売じゃけに、みすみす、大損はしとうない。あんたの言い値で取ったら、こっちが破算する。それで、玉井も助かるし、うちも損せんという取引をするが一番、金さん、どうかい？」

「そんな、うまいことができますか」

「できるかも知れん、……あんたの考えひとつで……」

そういうと、￼は、はじめて、いきいきと眼を光らせて、すこし膝を進めて来た。

「わたしの考えひとつ？……」

わからなかった。

「なあ、金さん、ざっくばらんで行こう。あんたは、<ruby><rb>黒石家</rb><rt>くろいしけ</rt></ruby>に養子に行くことを、どがいにしても承知せんそうじゃが、考えを変えて、行きなさい。それが、なにもかも円満解決の上分別。黒石はわしの親戚になるけに、あんたを養子に世話してくれりゃ、お礼の金を出す。それを、この腐れ蜜柑の代金として、あんたに払う。三方めでたくおさまるわけぞな」

金五郎は、唖然とした。呆然となった。思いも設けぬ伏兵である。

（一杯、食った）

唇を噛んで、息をのんだ。

「こがいなええ話、めったに、あるもんじゃないぞな」

してやったりというように、￼は、にたにた笑って、返事をうながす。

黒石家から、金五郎を養子に欲しいという申し入れは、もう、長い話である。当主黒石幸作は、潮見村で一二といわれる分限者だが、子供が一人しかない。それが、娘で、角力取りのような大女のうえに、すこぶるつきの<ruby><rb>醜女</rb><rt>ぶおんな</rt></ruby>と来ている。どうしても、婿養子をしなくてはならぬけれども、来手がない。女には眼をつぶり、財産目あてで来ようという者もないではないが、そういうのは黒石の方で気に入らない。身体が頑健で、仕事が出来、男ぶりも十人並、親を大事にし、娘を可愛がってくれる男が欲しい。その白羽の矢が玉井家の三男坊、金五郎に立てられたのである。

「村中見わたしても、金さんをおいては、他に一人も、これと思う男は居らんでなあ」

黒石幸作は、そういう。中風が出て、すこし不自由な身体を、自身で、何度も、玉井家に運んで来た。

父卯八や、兄<ruby><rb>卯太郎</rb><rt>うたろう</rt></ruby>は、先方の莫大な財産に、食指がうごかないでもなかったので、

「どうじゃ、金坊、黒石に行って、ヤス坊を嫁にして、村一番の物持になるかい？」

と、誘いをかけてみたが、

「死んでも、行かん」

金五郎の答は、その一点張りであった。

村長や、有力者、商売筋、役人、警察、友人――あらゆる方面から、執拗に口説いたけれども、金五郎の決心は変らなかった。

日ごろ、金五郎を邪魔者あつかいにしている嫂のスギなどは、

「お前は、馬鹿ぞな。こがいな棚ボタばなしが、世界のどこにあるもんか。わたしがお前なら、<ruby><rb>慰斗</rb><rt>のし</rt></ruby>をくわえて、飛んで行くが」と、義弟の無慾を罵倒した。

黒石の一人娘ヤスも、「金さんでなければ、いや」といって、駄々をこねているとのことである。

金五郎は、窮した。

「なあ、金さん」￼は、もうひと押しというように、

「あんた、さっき、男らしゅう定めよう、と、いうたなあ？　それは、ここのことぞな。さあ、思いきって、手を打とうじゃないけ？」

「わかりました。わたしが、黒石の養子に行けば、蜜柑を全部、四で、引きとってくれるというんですね？」

「そのとおり」

「四で、値引きを一つもせず、即金で払ってくれるというんですね？」

「そのとおり」

「よろしい。手を打ちます」

「そうけ」と、￼は飛びあがって、「くどいようじゃが、黒石の養子のこと、承知じゃな？」

「承知です」

「おおきに。やっぱり、金さんはものわかりがええ。これで、三方、丸くおさまるというもんじゃ」

それから、金五郎は、「相違ナク、黒石家ニ養子ニ参リマス」という証文を書かされた。得意満面、ほくそ笑んでいる￼から、蜜柑の代金をうけとって、悄然と、店を出た。

<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>になった馬車に乗って、金五郎と清七とは、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>温泉に行った。湯の町は、松山とはつづいている。

鍛冶屋の清七は、取引のなりゆきを、心配しながら、見ていたが、友人が、あんなにもいやがっていた黒石家の養子を承諾したので、びっくりした。馬車の前部に、肩をならべながら、「金坊、お前、ええのけ？」と、不審顔で、きく。

「ええ、ええ。どういうたって、仕方があるもんか。家の急場をしのぐにゃあ、もう、この一手じゃ」

「そがいにいうても、養子は一生のことぞな、もし」

「放っといてくれ。おれに、すこし考えがあるけに」

「そうけ？」

「それでな、清ちゃん、来るとき頼んだ箪笥の合鍵は、もう作ってもらわんでも、ええ。要らんことになった。今夜は、湯町で、やりっぱなしに散財しよう。もう、やけ糞じゃ。お前、つきあえよ」

「そら、つきあいはするが……ほんとに、金坊は、なにをしでかすか、わからんなあ……」

「お前にも、煙草銭やろ。……ほら」

「そうけ」

￼に、四と吹きかけて、二で治まれば予定どおり、三なら大成功、という目算であったから、金五郎の胴巻は、現金でふくらんでいる。そのなかから、目ノ子算で、いくらかをつかみだして、清七の手のひらに握らせた。

公園になっている湯町の入口に、小さい骨董屋があった。あまり高級でないガラクタ店である。

馬車を止めると、金五郎は、つかつかと、その店に入った。

「やあ、金さん、おいで」

赤鼻で、禿頭の親父が出て来た。木魚のように、口が大きい。

「こないだから、銭がでけたら貰うというとった<ruby><rb>助広</rb><rt>すけひろ</rt></ruby>の短刀な、あれをおくれんかな」

「がいに、儲かったのけ？」

「雀の涙ばかり」

「蜜柑じゃあ、今年は、みんなが損ばかりしよるとに、やっぱり、金さんじゃなあ」

紫の袋につつんだ一振りの小刀を、奥からとりだして来た。うけとると、鞘を抜き、よくあらためてから、金を払った。骨董屋を出た。

「あがいに、前から欲しがっとったのを、とうどう、手に入れたなあ」

清七も、金五郎の刀剣好きを知っていたので、祝福の言葉をのべた。

馬車を知りあいの果物店にあずけて、共同湯に、行った。浴室はいくつかあったが、「神の湯」という、ひろい<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>に入った。

青く淀んでいる、ぬらりとした湯に、首まで浸ると、金五郎は、なにか、ぐったりとなって、不思議な疲れをおぼえた。白い湯気のなかで、眼をとじると、夢を見ているような心地になる。あまりよくない夢である。頭が重く、口中がほろ苦い。

その耳に、すぐ傍で、

「<ruby><rb>兄</rb><rt>あん</rt></ruby>ちゃんや」

という、聞きなれぬ声が聞えた。眼をあけた。

さっきから、一人で、<ruby><rb>蛇口</rb><rt>じゃぐち</rt></ruby>のすぐ下に浸っていた、角刈頭で、色の青黒い、全身に<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をほどこした、眼つきの鋭い男である。

「わたしですか？」

と、金五郎は、問いかえしたが、すぐに、この男を見るのは、はじめてではないことに気づいた。

先刻、湯槽に降りて来る前、二階の大広間の脱衣場で、番茶をすすり、塩せんべいをかじりながら、清七と<ruby><rb>高話</rb><rt>たかばなし</rt></ruby>をした。そのとき、二間とははなれていないところに、<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の<ruby><rb>諸肌</rb><rt>もろはだ</rt></ruby>をぬいで一人の男が寝ころがっていた。その男にちがいない。むきだしの痩せた身体を、いっぱいに埋めつくしていた、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>と<ruby><rb>大蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>の彫青に、見おぼえがある。四十年配だ。

二人は、蜜柑のこと、￼のこと、刀剣のこと、浄瑠璃のこと、黒石のヤスのこと――手あたりしだいに、話題をとらえて、駄弁を弄していた。そのあげくに、

「今夜、散財するのもええが、大事な現金をたくさん持っとるけに、早目に切りあげて、帰った方がええぞな」

大きな声で、そういった清七に、金五郎は、いきなり、膝をつねって、合図した。かたわらの彫青男が、眼をぎらつかせて、聞き耳を立てていることに、気づいたからである。

しかし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かん</span>のにぶい清七は、さらに、金五郎から、眼くばせされても、まだ、わからず、

「なんするのぞな、無茶しよって。痛いじゃないけ。金さんの力で、ひねられてたまるもんけ」

と、恨むまなざしで、友達を見た。

金五郎は、はがゆくてたまらなかったが、

「清ちゃん、お前、今度の鎮守祭には、「<ruby><rb>三勝</rb><rt>さんかつ</rt></ruby>半七」を語るのけ？」

と、話題を転じた。

「いんや、「太閤記十段目」にしようと思うとる。……じゃが、痛いなあ。青じみになったわ。どがいなわけで、金坊は、こがいなひどいことを……」

なおも、清七が、ぶつぶつと、そんなことをいいかけると、寝ころんでいた変な男は、くるりと起きあがった。浴衣をぬぎ、手拭をぶら下げて、急ぎ足で、湯槽への階段を降って行った。

金五郎は、清七に、「もう、銭の話は、すな」といましめた。しばらくして、二人とも、裸になって、湯槽に降りた。すると、そこに、先刻の男がいたのである。「神の湯」の札を買ったことを知っていて、待ちかまえていたのかも知れない。

ひろい石の湯槽に、客は、三人しかいなかった。

「兄ちゃんは、きれいな身体してるなあ」

角刈の男は、折った手拭を頭にのせたまま、つうっと、金五郎の方へ、寄って来た。

「なに、土百姓じゃけ、泥と一つことです」

金五郎は、しかたなしに、苦笑して、答えた。

「いいや、そうじゃない。ほんとに、色が白くて、<ruby><rb>肌目</rb><rt>きめ</rt></ruby>がこまかい。おれの肌とは大ちがいだ。あんたのような身体に、<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>したら、そりゃあ、みごとなもんだがなあ」

「滅相もない。百姓の子が、彫青なんて……」

「兄ちゃんは、<ruby><rb>何年</rb><rt>なにどし</rt></ruby>かね？」

「<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>です」

「辰？　ほう、いい<ruby><rb>干支</rb><rt>えと</rt></ruby>だ。おれは、<ruby><rb>巳</rb><rt>み</rt></ruby>の年だから、蛇を入れたが、兄ちゃんなら、ピシャリ、<ruby><rb>龍</rb><rt>りゅう</rt></ruby>だなあ。彫りあがったら、惚れぼれするぞ。おれのは、こんなに、汚ねえが……」

男は、金五郎の腕をつかんだ。

医者が、患者を診察するような手つきで、しきりと、腕や、肩を、骨ばった指先で、さすったり、もんだりする。背中の方まで廻って、眺めながら、「ふウむ」と、なにやら、うなずく。

金五郎は、男のするがままに、まかせていた。清七は、気味わるがって、何度も、相手にするな、という風に、眼くばせしたり、湯の下で、金五郎の尻をつねったりした。

やがて、怪しい男は、診断を終った医者が、判定をくだすように、妙なことをいいだした。

「立派な体格だ。おれが女なら、首ったけになるよ。百姓には惜しい。龍の彫青でもしたら、大前田英五郎のような親分になることは、うけあいだ」

この男が土地の者でないことは、言葉からでも、態度からでも、明瞭だった。道後温泉には、旅の者が多く入湯に来るから、他国者のいることは珍しくない。しかし、こういう、生粋の江戸弁を使う、全身総彫青の男などは、よく湯町に来る金五郎も、これまで、見かけたことはなかった。

金五郎は、好奇心をおぼえて、からかってみる気持になった。

「土ン百姓の子でも、親分になれますか」

「そりゃあ、なれるさ」

「実は、わたしも、侠客が好きなんです。講談本を読んでいて――清水の次郎長や、国定忠治のような親分になりたいなあ。……って、考えたことはあります」

「とんでもねえ、<ruby><rb>兄</rb><rt>あん</rt></ruby>ちゃん、そりゃあ、考えちがいだ」

「どうしてです」

「次郎長や、忠治、ってえのは、いけねえや。侠客の屑さ。喧嘩を売り物にする奴は、駄目だ。ほんとうのいい親分は、喧嘩をしねえな。だから、大前田英五郎ってえのは、えれえよ」

「大前田英五郎というのは、知りませんね」

「そうよ、斬った張ったをやらねえから、講談や浪花節にはならねえんだ。つまらねえ侠客というのは、みんな、派手なものさ」

金五郎は、はじめは気味のわるい印象を持ったこの男に、すこし、興味と親しみとを感じて来た。

「親分さん」

と、呼んでみた。

男は、ケッ、ケッ、ケッ、と、鶏のような声で笑いだして、

「おれは、親分じゃねえや」

「そんなら……」

「三ン下さ。……だが、なにか用かね？」

「親分になるのには、どがいにしたら、ええでしょうか」

「さあ、なあ、……？　一口では、いえんなあ。……兄ちゃんは、すこしは、やんなさるか」

「なにをです？」

「これさ」

男は、右手で、<ruby><rb>骰子</rb><rt>さいころ</rt></ruby>を投げる恰好をした。しかし、金五郎は、その意味がわからなかった。

「それ、なんのことで？」

「ははあ、兄ちゃん、まだ、ズブの素人だな。<ruby><rb>丁半</rb><rt>ちょうはん</rt></ruby>さ。ばくちだよ」

「やったこと、ありません」

「どうだ、兄ちゃん」と、男は眼を光らせた。「今夜、盆につきあわねえか。仲間が四五人来てるんだ。面白いぜ」

清七は、いよいよ、悪漢が本性をあらわして来たと思った。前よりも力をこめて、金五郎の尻をつねった。

金五郎は、その手を、湯の中で、はねのけておいてから、

「三ン下さん、ぜひ、今夜仲間に入れてつかあさい」

と、いった。

「いいとも、いいとも。そっちの兄ちゃんと二人で、やって来な」

そして、<ruby><rb>盆茣蓙</rb><rt>ぼんござ</rt></ruby>の開帳される筈になっている場所や、時間を、詳しく教えた。それから、急に、「ああ、うっかり長湯して、のぼせてしまった」と、まるで、オットセイが水から飛びあがるような具合に、あわただしく、「神の湯」から、出て行った。

白くたちこめる湯気の中に、背に<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>られた恐しい般若の面が、すっと消え、ちょっとの間、妖しい雰囲気がただよった。

「金坊、お前、やめとけよ」

「かまん、かまん。なんでも、知らんことはやってみるんじゃ。勉強じゃけに」

「そうけ？」

金五郎は、手拭で、白い身体をゴシゴシこすりながら、遠くを見る眼になった。

――港。

――自由の天地。

――支那大陸。

金五郎が、支那へわたりたいと考えはじめたのは、もはや、二年や三年のことではなかった。せまい村の中で、こせこせと、ちっぽけな争いをくりかえしている息苦しさ、馬鹿々々しさ。伊予蜜柑の産地として、聞えているとしても、その面積は猫の額ほどにすぎぬ。金五郎の眼には、一望千里の間、ふさふさと、あらゆる季節の果実をみのらせた大果樹園が浮かぶ。

――どこか、港に出て、基礎ができてから、大陸へ渡ろう。

おさえがたい青春の血は、すでに、自由を求める漂泊と放浪との思いを、たぎる情熱と化せしめていた。その金五郎の空想の中に、

――龍。

突然、奇妙な伝説の動物が、荒々しく登場したのである。

（龍になって、昇天するんだ）

湯槽の一角に、蛇口があって、そこから、間断なく、豊富な湯がはきだされている。その湯口は、青銅で彫られた龍である。これまで、注意したこともなかったのに、今、金五郎は、その龍が、自分になにかの謎をかけ、話しかけているような気がした。

（あの、変なバクチ打ち奴、つまらんことをいいやがる。からかってやったら、本気にしやがった。誰が、親分なんかになるものか。彫青なんて、馬鹿にするな。龍になり、雲と風とに乗って、大空を<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けまわるんだ）

金五郎の大きな眼からは、狂気に似た光が、ギラギラと発散した。

湯を出ると、うどんを食べてから、彫青男から教えられた「四国屋旅館」に行った。散財は後廻しにした。この宿屋は、色町の中央にあって、料亭も、貸席も兼ねている。

例の男が、玄関まで、迎えに出た。盆の開帳されている奥座敷へ、案内してくれた。

襖がひらかれた瞬間、金五郎は、思わず、かるいおどろきの声が出た。

こういう光景を見るのは、はじめてである。湯槽の中では、四五人、仲間が来ていると聞いたので、狭い部屋で、こっそり、こじんまりしたバクチが、行われるものとばかり思っていた。ところが、今見ると、まるで、宴会場だ。

三十畳ほどの広間の中央に、四十人ほどの客が、ずらりと、二列になって向きあっている。列の間に、長い茣蓙が敷いてある。もう、早くから、はじまっていたらしく、座には、殺気のようなものが、<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っているのが感じられた。むんむんする人いきれがただよっている。

金五郎がおどろいたのは、そればかりではない。博徒の中に、女が五六人いるうえに、男客の中には、顔見知りの者が、二三にとどまらぬことであった。

彫青男は、きょろついている金五郎を、会心そうに眺めながら、

「<ruby><rb>兄</rb><rt>あん</rt></ruby>ちゃん、豪勢なもんだろう。遊びにも、いろいろあるが、これは、一番あたりまえの丁半だ。この街の堅気の旦那衆も、たくさん見えてござる。どんな素人でも、すぐに覚えられるという奴だ。<ruby><rb>丁方</rb><rt>ちょうかた</rt></ruby>か、<ruby><rb>半方</rb><rt>はんかた</rt></ruby>かになって、好きなだけを張ればいいんだ。……兄ちゃんは、どっちになさる？」

「どっち、といいますと？」

「丁かい？　半かい？」

<ruby><rb>骰子</rb><rt>さいころ</rt></ruby>の目の偶数が丁、奇数が半くらいのことは、金五郎も知っていた。

「さあ、どっちがええかなあ……？」

「九半十二丁、といってな、二つの骰子の目の組みあわせじゃあ、丁の目が、半より三つ多いことになってるんだ」

「金坊」と、横から、清七が袖をひいて、「丁にしいな。なんぼうでも、多い方がええぞな」

「半にしましょう」

と、金五郎は、いった。

半方の列の間に、わりこんで坐った。

「やあ、これは」

と、何人もが挨拶する。伊予絣の呉服屋、魚屋、質屋の隠居、材木屋――日ごろは<ruby><rb>半纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>や前だれがけで、勤勉に店で働いている商人たちが、眼の色変えて、バクチに熱中している姿に、金五郎は異様な昏迷をおぼえた。丁方の中に、￼の顔まで、発見した。

でっぷり肥った五十男が、親分らしい。丁方の中央に<ruby><rb>胡床</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて、悠然と、巻煙草をくゆらせている。

<ruby><rb>中盆</rb><rt>なかぼん</rt></ruby>と<ruby><rb>壺振</rb><rt>つぼふ</rt></ruby>りとを兼ねているのは、若い女である。<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>返しの髪はすこしみだれ、ほつれ毛が、紅潮した長顔に、しどけなくたれかかっているが、金五郎の眼をひいたのは、腕まくりした女の右腕の、美しい彫青であった。大きな牡丹に、数羽の蝶の群れている図柄だが、その牡丹の花は、眼にしむほど、あざやかな朱で彩られている。

丁半両者の賭金がそろうと、

「勝負」

女は、丸味のある声でいって、ぱっと、白い手で、壺笊を伏せた。二つの骰子が、カラカラッと鳴って静まった。

金五郎は、その女の不思議な色気に、圧倒された。こういう女を見たことがない。思わず、見とれていると、壺笊に手をおいたまま、座中を見まわしていた女の視線が、自分に来た。

金五郎は、どぎまぎして、ふいに、赤らんだ。女の眼も、金五郎にとまって動かなくなった。

金五郎は、女から、二人置いた右手にいた。女の眼にも、おどおどした金五郎の田舎者らしい様子は、いかにも素人くさく映ったものであろう。やさしく、弟でもさとすような語調で、

「<ruby><rb>兄</rb><rt>あん</rt></ruby>さんは、お張りになったの？」

と、いった。

「いいえ、……まだ、……」

思いがけず、声をかけられて、金五郎はびっくりして答えた。

「今からでもいいわ。お張んなさい。きっと、丁方で、受ける方がありますから」

「張ります」

なんだか、ぼうとした気持になって、財布から、一枚の紙幣をつかみだした。それを、前の茣蓙のうえにさしだした。

「ほう、……十円」女は、わざとらしく、おどろいてみせて、「半方の若い兄さんから、猪が出ました。丁方で、どなたか、お合わせになる方はありませんか」

と、一座を見まわした。

「張った」

間髪を入れずにそういって、同じく十円札を出したのは、￼であった。

金五郎と、￼とは、顔見あわせて、人には通じない、異様な微笑をとりかわした。

「勝負」

もう一度、女は、そういって、ばっと、壺笊をあげた。

「半」

がやがやと、座はひとしきり、ざわめいた。

女は、負けた丁方の賭金を全部あつめ、半方の賭金額に応じて、それを分配した。どんな風に、テラ銭が差し引かれたのか、わからなかったが、金五郎の張った十円には、八円が配当された。

「兄さん、目が出そうだわね」

中盆の女が、二つの骰子を、手のひらで転がしながら、金五郎に笑いかけた。歯が美しい。

「おかげさまで、まぐれ当りいたしました」

急に、かえす言葉が見つからなくて、そんなとんちんかんな返答をした。そして、耳のつけ根まで赤くなった。どっと、<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>すような笑い声がおこった。

それから、何度か、勝負はつづけられた。

金五郎は、四五回目には、もう、呼吸をのみこんでしまって、張ったり張らなかったり、金額も、増したり減らしたりした。

時間の経つのが、わからなかった。

チン、チン、チン、チン……

急に、時計の音に気づいて、柱時計を見た。十一時である。びっくりして、立ちあがった。

「こら、いかん。親父が心配しとるけに、帰ろう」

「勝ち逃げかね？」

彫青男が寄って来て、笑いながら、いった。

「家が遠いけに、失礼します」

「そうかい。そんなら、また、おいで。一週間ほどは、毎晩、やっとる。兄ちゃんは、しこたま取りこんでるから、途中、気をつけてな」

「はい、お邪魔いたしました」

金五郎の胴巻はふくれあがり、妊娠腹のようになっている。そのうえに、助広の短刀をさした。

清七と二人、また、空馬車に乗って、帰った。散財はやめにした。

月明である。冬の夜空に、松山城が浮きあがり、なにかの花の香が、街道いちめんに流れている。

その年が、明けた。

松の内に、黒石家では、金五郎を養子に迎えるめでたい式が、一種、狂気じみた盛大さで、もよおされた。式が派手で、金がかかるほど、養子をつなぎとめる鎖が太いわけなのである。

雪の降る日であった。

「お前は、がいな親孝行<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>ぞな」

厄払いができたうえに、まさかのときには、養子先から、金の引きだせるあてもできたので、嫂のスギは、大満悦である。急に、金五郎を、下に置かぬあつかいをした。

鍛冶屋の清七には、どうしても、友人の計算がわからない。黒石家には、「死んでも行かん」といっていたのだから、金ができたら、やめればよさそうなものだ。玉井家が、破算するかせぬか、その瀬戸際の運命を賭して、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な￼にぶっつかった。養子に行くなら、と、ペテンのような戦術にひっかかった。やむなく、承諾した。ところが、その帰りに、偶然にも、丁半バクチに加わって、大勝利を博したのだ。￼から受けとった以上の金が、ふところに入ったのである。

「金坊、￼に、銭もどして、黒石の養子、やめたら、どがいぞな？」

そう忠告したのに、

「<ruby><rb>銭金</rb><rt>ぜにかね</rt></ruby>のことじゃない。男が、いったん、約束したことは破られん」

金五郎は、不機嫌にそういっただけであった。

よろこんだのは、ヤスである。永年の宿願がかなったのであるから、露骨に、不器量な顔をほころばせて、どんなつまらないことにも、うれしげに、げらげら笑った。彼女は智能の程度も、小学三年生並であった。

ところが、それも、束の間であった。ヤスと、金五郎との間に、奇妙な争闘が展開された。それは、はじめは、閨房の中から、はじまった。

金五郎は、いつも、一人で寝て、絶対に、ヤスを相手にしないのである。いくら、ヤスが要求しても、応じない。

ヤスは、泣きだす。

「金さん、あんた、どがいなわけで、わたしを可愛がって、おくれでないのぞな？」

「おれは、養子には来たが、あんたの婿に来たんじゃない」

「養子に来れば、わたしが嫁にきまっとるじゃないけ？」

「養子に行くことは約束したが、あんたの婿になることは約束しとらん」

「ははあ、……」ヤスは、怒りと<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>心とにあふれた眼つきで、「あんたも、財産目あてで来たんじゃな？」

「とんでもない。おれは、財産なんか、<ruby><rb>鐚</rb><rt>びた</rt></ruby>一文欲しゅうはないよ」

「そんなら、なんで、来た？」

「だから、養子の約束したけに、養子に来たというとるじゃないけ」

二人の話は、水かけ論で、<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>があかない。

ヤスは、我慢しきれなくなって、金五郎に飛びかかる。大女の怪力で、油断していた金五郎は抱きすくめられる。おさえつけられる。ヤスの身体は、火のようだ。金五郎は、やっと、情炎に狂う女をつき放して、表に逃げだす。

そんなことが、毎夜であった。

金五郎は、家を外にするようになった。<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>温泉に行くと、三日も四日も、帰って来ない。

酔っぱらって、警察の厄介になったことも、数度あった。

自然の順序として、金五郎の放埒は、村の評判になる。

養子縁組の仲介役をつとめた村長が、金五郎を呼びつけた。

「金さん、目にあまるぞな。お前、どないなわけで、そがいな無茶するんじゃ？」

「どがいも、こがいも、家に居ったら、ヤスに殺されるけに」

まったく、<ruby><rb>醜女</rb><rt>ぶおんな</rt></ruby>で、白痴で、大女のヤスが、らんらんと眼を光らせて、挑んで来る姿を想像すると、金五郎は、慄然として、頽廃的な気持にならずには居られなかった。黒石家は、黒縄地獄である。

「金さん、お前、道後に、いいかわした女でもあるとじゃないけ？」

「そんなものは、ありません」

「わしには、打ちあけてくれんかい。黒石でも――もう仕方がない。ヤスを嫁としてあつこうてくれりゃ、その女を請けだして、メカケとして、ちゃんと、おさまらせる、というとるけに……」

「ほんとに、そんなものは、ないです」

それからも、金五郎の乱行は高じるばかりであったので、遂に、四月になって、正式に離縁された。

父卯八や、兄卯太郎、それから、仲介の村長への義理を立てて、黒石家を飛びだすことを我慢していたのであるから、金五郎にとっては、もっけの幸であった。

玉井家に帰って来ると、父や兄はなにもいわなかったが、嫂のスギは、

「この、糞馬鹿が」

と、以前より、数倍も、金五郎を酷使し、虐待した。

黒石家から、訴訟が起された。名誉<ruby><rb>毀損</rb><rt>きそん</rt></ruby>、結婚<ruby><rb>詐欺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>、財産横領、器物破壊、家宅侵入、損害賠償、暴力行為、傷害、印鑑・私文書偽造、貞操<ruby><rb>蹂躙</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>――あらゆる罪名が、にぎやかに、金五郎のうえにつけられた。

金五郎は、苦笑した。

「もう、なんにも、いわん。ただ、おれは、ヤス坊の身体に、指一本、触ったことはない。暴力行為で、貞操蹂躙されかかったのは、こっちの方じゃ」

そのことだけを、釈明した。

黒石家からの復讐は、いろいろな形で行われた。それは、しだいに、悪質になった。

この近郊農村一帯は、四国東部、阿波徳島の影響をうけて、浄瑠璃が盛だった。吉藤にも、立派な衣裳や人形を持った「温泉座」という一座があり、百姓片手で、三味線をひき、デコを使う者もあった。金五郎も、若手の語り手とされていたのに、祭の日になると、誰も三味線をひいてくれず、人形も動かしてくれる者がなかった。

或る日、桜見に行った帰り、春の空気をふるわせて、一発の銃声がひびきわたった。弾丸が、金五郎の右耳をはじいて、飛び去った。果物をつつきに群れる鳥を追うため、空鉄砲を放つことは、許されているのである。

金五郎は、耳からふき出る血をおさえ、唇をかんで、さびしそうな顔をした。

或る日の黄昏どき、金五郎は、清七鍛冶屋の店先にあらわれた。

「清ちゃん、いつか頼んだ合鍵な、やっぱり、要ることになったけに、頼むよ」

「よし来た」

蹄鉄を打っていた清七は、金五郎のところに寄って来ると、耳に口を寄せた。

「金坊、お前を鉄砲で撃った奴、おれ、ちゃあんと、知っとるぞな」

「もう、ええ、ええ、放っといてくれ」

「黒石じゃな、お前に、<ruby><rb>犬神</rb><rt>いぬがみ</rt></ruby>をとりつかせるというとるげなぞ」

「執念ぶかい奴じゃ」

「もう、四日も前から、あの痩犬のクロを、蔵の中に埋けてな、絶食させとる。あたりまえなら、一週間くらいで、犬神を追いだすのじゃが、今度は十日にして、はげしゅう、お前をいびるらしい」

「勝手にさせとけ」

土中に全身を埋めた犬に、永い間、餌をあたえずに置く。飢餓に瀕するのを見て、眼前に、御馳走を見せる。犬はそれが食べたくてたまらない。しかし、主はそれを見せびらかしておいて、「もし、これが欲しかったら、その前に、誰それに、とり<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来い」と命じる。怨霊となった犬神は、目的の人間の体内へもぐりこんで、方々を肉の瘤となって移動する。その苦痛は耐えがたい。――この地方に昔から伝わっている、不気味な呪いの方法であった。

金五郎は、清七が鍵をつくってくれるのを待った。

馬鹿叮嚀に、念を入れる清七が、半紙に墨で押した鍵穴の型をもとにして、一つの鍵をこしらえあげたのは、頼んでから、一週間目も後であった。

「やっと、でけたぞな。……そら、そうと、まあだ、犬神は来んけ？」

「待っとるが、一向に来ん。呼んで来てくれんか」

その次、逢った清七は、「とうとう、犬神奴、飢え死にしてしもうたげな」と、腹をかかえて笑った。

五月に入って間もなく、兄夫婦が伊勢詣りに旅立った。このときをおいて、機会はない。

金五郎は、清七の作ってくれた合鍵を、箪笥の鍵穴にはめた。ぴったりと合った。あけてみると、紙幣、銅貨、銀貨がとりまぜて、ざくざくと入っている。七百円ほどもあった。いきなり、そのうち、二百円ほどをふところに入れた。しかし、金五郎は、この金は、父が山を売って、苦心の果てに、こしらえたものだ、ということを知っていた。

金五郎は、いったん入れた金を取りだした。三十円だけにした。そして、「一金参拾円也、拝借仕候」という証文を書いて、そこへ残した。こうして置かないと、また、嫂が、「金坊が、三百円も盗んで行ったぞな」というのに、きまっている。

また、金五郎は、いつか、この金は、かならずかえすつもりであった。

着換えなどを、風呂敷に包んだりして行くと目立つので、六枚も、重ねて着た。ちょっとそこへ行って来る、というような恰好で、家を出た。汗がどんどん流れだし、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の湯に浸っているような気持であった。

それきり、彼の姿は、この村では見かけられなかった。

明治三十六年、初夏。

玉井金五郎、二十四歳。

  


## 第一部

  


## 男と女

<ruby><rb>門司</rb><rt>もじ</rt></ruby>港。

<ruby><rb>風師山</rb><rt>かざしやま</rt></ruby>のいただきを、強い風のわたっているのが、海鳴りのように聞える。二百十日が近づいた、その前ぶれかも知れない。遠くで、風の合間を縫って、汽笛が鳴る。

桟橋下の貯炭場を、すぐ前に望む、浜尾組の事務所に、あかあかと、<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がともっている。奥座敷に、大勢の人かげがうごき、なお、ぞくぞくと、集まって来る。やがて、七八十人になった。女が二十人ほどまじっている。

黒ガキの<ruby><rb>牀柱</rb><rt>とこばしら</rt></ruby>を背に、一人の巨漢が、入って来る人間をしらべながら、名簿らしい大きな帳面に、赤インキで、しるしをつけている。六尺をこえるかと思われる、色の黒い、出歯で、額のせまい、いがぐり頭の四十男だ。ネルのシャツのうえに、「浜尾組助役」と染めぬかれた<ruby><rb>半纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>を着ている。眼が、するどい。

「どうやら、揃うたようにあるなあ。三人ほど来んが、半パ者ばかりだから、もう、これで、よかろう。……新公、お前、親分へ――揃いましたから、お出まし下さい。……って、取りついで来い」

「へい」

新公と呼ばれた、二十三四らしい、やはり、半纏姿の頑丈そうな男が、密集している仲仕たちの間を、敏捷に、かきわけて出て行った。

まもなく、浜尾市造があらわれた。牀柱のところに来て、つっ立った。中肉中背だが<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>でもつけたように、おそろしく両肩が張っていて、瓢箪のように細長い顔は、へんに青白い。疳性らしい青筋が、ミミズのように、額に太く這い、びくついている。

一座が静まると、浜尾は、沈痛な面持で、口を切った。

「今夜、みんなに集まってもらったのは、浜尾組の浮沈にかかわる一大事が起ったからじゃ。学問のない者が多いので、わからんかも知れんが、フチンというのは、字でかけば、浮き沈み、浜尾組が浮くか、沈むか？　この浜尾市造の顔が立つか、つぶれるか？……今日まで、ばりばりと鳴らして来たが、明日のインド丸の荷役に失敗したら、おれは、この門司に居られん。つまりは、浜尾組は解散、お前たちも、路頭に迷うことになる。……わかってくれるな？」

一座は、しいんとしている。

「どうじゃ、親分のいうこと、わかるじゃろう？」

助役の大男が、<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>のような眼で、一座を見まわして、どなると、

「わかります」

十人ほど答える者があった。

「相手は、宿敵の大村組じゃ」浜尾は、そこに、大村がいるかのように、眼をぎらつかせて、「絶対に、負けられん。そこで、明日の荷役には、いつもの出番を変更して、しっかりした者だけを、三十人、出す。人選は、日ごろの成績によって、ボーシン（助役）と相談のうえ、定めた。もし、勝てば、問題ないが、……いや、ぜひ勝ってもらわにゃならんが、……万一、負けるようなことがあったら、その場で、喧嘩をふっかけて、やっつけて、おれの顔を立ててくれ。……それじゃ、ボーシン、名前を読め」

「へえ」大男は、帳面をひろげた。「ええか。……大石良造、堀部安太郎、小山田庄三郎、大原源吾、谷口<ruby><rb>林助</rb><rt>りんすけ</rt></ruby>、森新之助、玉井金五郎、……女では、丹羽フミエ、石川タツ、谷口マン、井上トモ子、……」

指名が終ると、一座は、ひとしきり、ざわついた。しかし、この人選は、個人の意志や、意見などは、はじめから、無視された。命令的なものであって、派遣に決定した者のなかから、不服をとなえることは許されなかった。

選に洩れた者のなかで、

「大将、わたしも、ぜひ、仲間に入れて下さい」

と、志願する男があった。

「駄目、駄目」と、大男の巨漢が、どなりつけた。「お前のような飲んだくれで、喧嘩ばかりは強くても、怠け者は資格がない。久松が入ると、仕事の段取りが狂うてしまう」

それから、浜尾市造の方をむいて、

「親分、どうやら、かたづきましたようで……」

「よし」

浜尾は、満足げに、うなずき、

「それでは、みんな、頼んだぞ。こういうときに、日ごろの恩をかえすのが、人間というものじゃ。明日が早いから、今夜は夜ふかしをしてはいかん。酒も、バクチも、やめて、早く寝れ。女買いにも行くな。あれが、一番、翌日の仕事にこたえる」

「女房とも、いけませんか」

そういう者があって、一座は、どっと、笑った。

「女房とでもわるいが、まかりちがって、喧嘩になれば、別れになるかも知れんから、すこしなら、よろしい」

また、<ruby><rb>隠微</rb><rt>いんび</rt></ruby>な笑いが流れた。

「そんなら」と、助役が、「明朝は、三時に起す。四時、浜に集合。ええな？」

「はあい」と、何人かが答えた。

「玉井」

「はい」

座の後方にいた金五郎は、そう答えて、膝立ちした。

「お前、新米じゃが、特別に、明日の組に入れてやった。ありがとう思え。それで、ちょっと、相談があるけ、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に残ってくれ」

「なんごとですか」

「それは、後で話す」

「これから、友だちと、活動写真を見に行く約束しとるんですが……」

「いかん、いかん。夜ふかしすんなと、たった今、いうたばっかりじゃないか。残れ」

「はあ」

しかたなく、頭をかいて、金五郎は、また、一座の中に沈んだ。

解散が宣せられて、仲仕たちは、どやどやと、散って行った。幹部の五六人と、金五郎とが残った。

風師山のいただきをわたる風は、一層、強くなるようである。十夜ほどの月が、山の肩に出ている。ぼうと、カサをかぶって霞み、円光のような、うすい七色の虹が美しい。

三々五々、黒い影になって、仲仕たちは帰って行く。そのなかに、谷口林助と、マンも、まじっていた。肩をならべて歩きながら、兄妹は、口をきかなかった。足どりも、重い。

背後で、プッ、プウッ、と、ラッパの音が起った。提灯をつけた一台の人力車が、景気よく、横を走りすぎて行った。

「<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>さん、親方さんじゃないけ？」

「そうよ、これから、オメカケさんのところに行きんさるとよ」

二人は、また、黙って歩いた。

運河に添って行くと、遠くに、長屋の灯が見えて来た。誰か、井戸端で、洗濯をしている。

「兄さん」

なにか考えながら、重い足どりで歩いていたマンが、顔をあげた。

「あン？」

「女って、損ねえ」

「なにが、損か」

「はじめから、男とは段ちがいに、定められてしもうとる。なんでも、下廻りばっかりで……」

「そら、しかたがないわ。昔から、そうなっとるんじゃから」

「なぜ、そうなっとるの？　それが、あたし、おかしいのよ。いいえ、はがいいのよ。仲仕だって、そうでしょ。男が一人前とるのに、女は六分、そりゃあ、女は男ほどの仕事はできんかも知れんけど、男の中にだって、女の半分もできん人があるんじゃけ。それでも、賃銀は定められたとおり。不公平やわ」

「そんなこと、いうたって、通りゃせん」

「それが、はがいいのよ。まちがったことでもなんでも、そのまま平気で押し通す――それが、男の権利なの？」

「権利ちゅうわけでもないが……」

「権利と思うとるのね。親方さんだっても、そうやわ。ちゃんと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さんがあんなさるとに、オメカケさんを囲うて、さっきも、人力で乗りこみなさる。メカケの一人二人持つのは、男の甲斐性というて、メカケを持たぬ者が、かえって、馬鹿にされる。そんなことが、当りまえみたいに通るのは、まちがいよ」

「まちがいというてみても、世の中のことはなあ……」

「ふウン、兄さんも、金でもできたら、二号を持ちたい口ね」

「馬鹿なこと、いうな」

林助は、妹の鋭鋒が自分にむいて来たので、うろたえた。

「どうかしらん？……兄さんが、<ruby><rb>義姉</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんをいつもいじめて、毎日、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っとるの、あたし、腹が立ってたまらんわ。義姉さんも義姉さん、それが当りまえみたいに、ただ、メソメソ泣いて、あやまっとるのだもん。あたしなら、承知せんのじゃけど……」

「お前のような女を女房にした男は、命がけじゃのう」

「そんなことないわよ。理不尽なことには、泣き寝入りせんだけよ」

広島の山奥から、兄を頼って来て以来、十ヶ月ほどになるので、マンの言葉にも、故郷の訛りがいくらか抜けていた。

長屋の灯が近づく。七色の虹のなかにある月が、しだいに、雲の厚味で、ぼやける。

「おマン」

「はい」

「お前、玉井金五郎という男を、どう思う？」

「どう思う、って、なんとも思わんわ、男っていうのは、誰も彼もおんなじ、みんな、きらいよ」

「あの男、癪にさわる。このごろ来たばっかりなのに、俺よりも、三分も余計に取りやがる。おまけに、今夜も、残されよったが……」

マンは、ぶつぶつとぼやく兄の横顔を、ちらと見た。その<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>には、軽侮のいろがあった。

「明日は、また、喧嘩か、畜生」

林助は、やけのような声を出す。

長屋に帰った。

一番<ruby><rb>鶏</rb><rt>どり</rt></ruby>が鳴く。まだ暗い午前三時の空気を、羽ばたきの音がゆるがせる。提灯をつけた大男が、長屋のせまい路地を走るように過ぎ、一軒々々、戸をたたいて、起して廻る。

「時間ぞ、時間ぞう」

静かであった長屋が、急に、ざわめきはじめる。戸をあける音、水をくむ音、火をおこす音、どなる声、走る足音。

向こう鉢巻をした<ruby><rb>助役</rb><rt>ボーシン</rt></ruby>の巨漢は、一軒の戸口の前に来て、急に、顔色を変えた。

「なんてや、それ、ほんとか？」

喪心せんばかりに、狼狽した声で、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。

「ほんとです」

寝ぼけ眼の男が、今にも叩かれはせぬかと、もう首をちぢめて、おどおどと答えた。

「畜生奴、<ruby><rb>尻</rb><rt>けつ</rt></ruby>割りやがったか」

助役は、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いた。

「昨夜は一緒に寝たんです。たしかに、六人、蒲団をしいて、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>に入りました。それなのに、今、ボーシンさんに起されたら、わたし一人しか、いないんで……」

「間抜け奴」

予期していたとおり、鉄の八ツ手のような平手が、風をおこして飛んで来た。病身らしい中年仲仕は、将棋の駒のように、わけなく倒れた。

「五人も、ずらかるのに気づかんなんて、貴様は、鉛か。……どうも、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆんべ</rt></ruby>、玉井の様子がおかしいと思うた」

助役は、ばりばりと、歯がみをした。

独身者ばかり、六人が、この部屋にいるのだった。六畳、四畳半、それに、台所がついていて、男の手で自炊をしている。この六人のうち、三人が、昨夜、指名されていた。玉井金五郎も、その一人であったが、助役が手筈どおり、起しに来てみると、六人のうち、五人の姿が見えないのである。

（玉井の奴が、そそのかして、逃げやがったにちがいない）

前夜、金五郎を残して、「明日、喧嘩になったら、お前が指揮をとれ」と命じたところ、金五郎は、「わたしは、喧嘩は下手ですから」といって、どうしても承引しなかった。のみならず、「喧嘩は嫌いですから、喧嘩になったら、逃げだします」などとも、いったのである。それでも、現場に行くことだけは、堅く約束したのであった。

助役は狼狽の極に達した。とっさに、人選を変更して、昨夜、指名されなかった仲仕を、三人、別に起した。

マンは、兄林助の家の一部屋を借りていた。襖で仕切られた四畳半であるが、女一人には充分だ。おまけに、狭くとも、自分一人の部屋を持つことは、生まれてはじめてである。

仕事着をつけ、林助と二人、集会場である桟橋の浜に急いだ。

「おマン、玉井の奴が、ケツ割ったらしいぞ」

「ふウン」

マンは、問題にせぬ顔で答えたが、その顔に、かすかに、なにかの動揺が感じられた。

集合場で、人影と提灯とがちらつき、しきりに、けたたましく、喚いている。

「おうい、急げ、急げ。大村組の<ruby><rb>伝馬</rb><rt>てんま</rt></ruby>船は、もう、漕ぎだしとるぞう。出遅れたぞう。……急げえ、走れえ」

敵に、機先を制せられた模様である。

「早く乗れ、早く乗れ」

巨漢の助役は、もう、狂人のようだ。彼の作戦としては、四時に集合して漕ぎだせば、大村組の鼻をあかすことができると、胸算していた。ところが、浜に来てみると、すでに、大村組の伝馬船が、人間と道具とを満載して、暗い海のうえを、インド丸に向かって漕いで行くのが見えたのである。

「なに愚図々々しとるか。間抜けども」

間抜けは自分であった、と、この男も感じていたので、その飛ばちりを、怒号と罵倒とで、部下たちにぶっつけた。

キイ、キイ、と、敵の伝馬船の櫓の音が、嘲けるように、海上から伝わって来る。風のために波だっている、暗黒の関門海峡に、数隻の汽船が浮いている。目じるしとして、特に、緑の舷燈をともしているのが、インド丸らしい。

やっと、仲仕たちが、伝馬船に乗ってしまったとき、道具番の男が血相かえて、飛んで来た。

「ボーシン、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>です」

「どうした？」

「道具を積んだ小伝馬が、見あたらんです」

「なにや？」

助役は、バネ仕掛のように、跳躍して、道具番の肩をつかんだ。夜ではっきりしないけれども、彼の顔から血の気が引き、ふるえだすのがわかった。腰の抜ける思いである。

「よく探したか」

「いくら探しても、見えません」

「うウム」

<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>った。手ちがいばかりで、ことごとく目算の外れた、単純な助役の頭脳に、反応的に浮かんで来る対応策は、暴力以外にはない。逆上が、彼に歪曲された勇気をあたえる。

「おい、みんな」

と、彼は、ほとんど、凜然として、部下たちを<ruby><rb>睥睨</rb><rt>へいげい</rt></ruby>した。

「大村組と決戦するときが来たぞ。船は出し遅れたし、大切な道具は、どこかに行ってしもうた。敵に盗まれたのかも知れん。もう、仕事にはならん。こうなったら、大村組の現場に乗りつけて邪魔してやらにゃ、腹がいえん。みんな、しっかりしろ。がんばれ。……よし、漕ぎだせ」

三挺の櫓を立てて、伝馬船は、岸を離れた。異様な昏迷と興奮とが、沖仲仕たちを緊迫させていた。暗い波のうえを、船は、ぐんぐんと、インド丸へ、漕ぎ進んで行った。

「おマン、危いから、後にひっこんどれよ」

兄の言葉に、マンは、答えなかった。

「右舷に、つけろ」

インド丸が近づくと、助役が叫んだ。右舷は、大村組の持場である。

ところが、左舷で、奇妙なことが起っていた。<ruby><rb>焚料</rb><rt>バンカ</rt></ruby>積込みの口のある舷側に、数枚の棚が吊られてある。そのうえに、四五人の人影が立っている。つまり、いつの間にか、仕事の準備がちゃんと出来ていて、伝馬船が着きさえすれば、すぐに、仕事にかかれるようになっているのであった。

「早う来うい。段取りはすんどるぞう」

そう叫びながら、インド丸の甲板から、カンテラを高く振っているのは、玉井金五郎であった。

それを認めた助役は、伝馬船の<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>につっ立ちあがった。狐にでも化かされたような、ぽかんとした顔つきである。

「早う、船を着けえ。すぐに、仕事にかかれえ」

金五郎は、なおも、どなっている。

「そうか」

助役は、首が落ちたかと思われるほど、強く、うなずいた。事態の真実を、やっと、理解したのである。

「よし、船を控え廻せ。左舷に、変更じゃ」

右舷に向かっていた伝馬船は、方角を急転回した。三挺の櫓に、にわかに、活気が満ちわたり、船は、全速力で、インド丸へ接近して行った。

「やっぱ、金さんはちがうわ」

タカという女仲仕が、うっとりとした眼つきになって、呟いた。

「ヘン」と、一人の仲仕が、「何十ぺん、肱鉄食うても、あきらめられんとみえるのう」

「いつか、わたしのもんにして見せるよ」

「来年三月かい？」

その言葉に、船の中に、明かるい笑い声が起った。喧嘩をしなくてもすんだ、という安堵感が、仲仕たちの憂鬱と緊張とを、解いていた。

「おい、タカさん、おれに、五十銭、奮発せえ。金さんを取りもってやるぞ」

<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の方で、からかう者があって、げらげらと、また、笑いが流れた。

マンひとりだけが、この笑いに同調せず、インド丸の甲板に立っている金五郎の姿を、またたきもせず、凝視している。

巨大な暗黒の中に、カンテラの光で浮き出ている金五郎の半纏姿は、マンの眼に、なにか、神々しいものさえ感じさせて、映った。いっぱいに<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>られた眼球に、潮風がしみて痛くなり、やっと、マンは、一つ、瞬きをした。

二千二百トンのインド丸の舷側に、石炭を満載した八十トン<ruby><rb>艀</rb><rt>はしけ</rt></ruby>がつながれている。伝馬船をその艀に漕ぎよせると、仲仕たちは、ばらばらッと、飛びあがった。

「玉井、おおきに」

巨漢の助役は、艀の<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>に立って、下から、インド丸の甲板に、声をかけた。

「ボーシン、そんなこた、どうでもええです。すぐ、持場について下さい。まだ、大村組は、棚を吊りよるところです」

「よし来た。……みんな、すぐ、かかれ」

仲仕たちは、敏捷に、あらかじめ定められた自分の部署についた。

金五郎は、甲板から、ロープを伝って降りて来た。六段に吊られてある棚の三段目に立った。微笑をふくんで、

「そら来い、そら来い」

と、調子をとるように、両手を上げ下げした。

汽船の舷側に、風変りな<ruby><rb>雛壇</rb><rt>ひなだん</rt></ruby>が作られたような具合である。長さ一間、幅は下に行くほど広くなる板が、ロープで、六段に吊られ、一段に二人ずつ、美しい雛のかわりに、ごつい沖仲仕が立っている。

艀の中にいる、「入れ<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>」と称する仲仕たちが、直径一尺三寸ほどの丸籠に、<ruby><rb>雁爪</rb><rt>がんづめ</rt></ruby>で、石炭を入れる。それが、一つずつ、棚立ちの仲仕によって、敏速に、下から上へ押しあげられる。天狗とり荷役である。

活溌な作業が、開始された。

「玉井、たまげたぞう」

金五郎の上段に立っている助役が、籠を送りながら、話しかけた。

「すみません」

「すまんこたない。<ruby><rb>殊勲</rb><rt>しゅくん</rt></ruby>甲じゃ。それでも、一時は、どうなることかと思うたわい」

「ボーシンに、話して行く間がなかったもんですから……」

「勘弁してくれ。さっきまでは、お前がケツ割ったもんとばっかり、思うちょった。浜に出てみりゃ、道具を積んだ小伝馬は居らんし……」

「今朝、眼がさめてから、わたしも気づいたんです。一番鶏の鳴くのをきいて、――こりゃ、いかん。先に行って、段取りだけでもしとかにゃ、大村組に負ける。……そう思うたもんで、あわてて、同じ部屋の者だけ、四人起して、二時ごろ、家を出たんです」

「それは、おれも気づかんじゃった。これで、もう、こっちの勝ちじゃ。親分に話して、お前を取り立ててもらうようにしてやるぞ」

「いえ、そんなこた、ええです」

殺風景な雛段を伝って、石炭を満たした丸籠が、ぐんぐん上がる。二列のエスカレーターのようである。甲板に達すると、移し方の手で、<ruby><rb>焚料</rb><rt>バンカ</rt></ruby>口に、石炭が投げこまれ、空籠が艀の中に投げ落される。この迅速な循環によって、みるみるうちに、艀の中の石炭が減って行く。

マンは、「入れ<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>」の組にいた。女の力では、棚立ちはできなかった。籠は、バスケットが<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>って、バイスケと呼ばれている。マンは、同僚がバイスケ一杯満たす間に、かならず、三杯、入れた。正確な機械のようである。

「そら来い、そら来い」

拍子をとりながら、金五郎は、上から、艀の中を見下していた。その眼は、マンに、釘づけされている。

「みんな、がんばれ。船を傾けてしまえ」

助役は、もう、勝利の確信に有頂天だ。図に乗って、号令を降す。

両舷から、焚料炭を積みこむのであるから、平衡が破れると、船は傾斜してしまう。それは、船では困るので、傾けないように懇請するのであるが、ただ、意地と張りとの競争意識に燃えている仲仕たちは、船の迷惑など、そっちのけだ。まして、宿敵、大村組との、浮沈を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>した荷役であるから、浜尾組は、日ごろの倍以上の馬力をかけた。

「おいおい、頼むから、船を傾けんでくれ」

機関長が出て来て、どなったけれども、しだいに、インド丸は、左舷へ向かって傾きはじめた。

「もっと、寝かせろ」

助役は、得意満面だ。

傾くと、傾いた側は、棚が浅くなって、仕事がやりやすくなる。逆に、傾けられた側は、舷が高くなって、さらに荷役が遅れる。

右舷の大村組も、躍起になっていたが、すでに勝敗は決していた。

東の空が、かすかに、白みはじめたころ、甲板のうえに、大村組の仲仕たちが、全員、飛びあがって来た。それを見た浜尾組の巨漢助役は、「生意気な」と叫んで、部下たちを、甲板に乗りこませた。

「喧嘩すんな。喧嘩すんな」

金五郎が、必死に叫んだけれども、遅かった。

どっちから、かかったともなく、たちまち、乱闘になっていた。

浜尾組と大村組との印半纏が入りみだれ、集団となった人間と声とが、インド丸の甲板上を、滑稽な交響楽になって、もつれあう。武器は、<ruby><rb>雁爪</rb><rt>がんづめ</rt></ruby>、スコップ、六尺棒、バイスケ、<ruby><rb>素手</rb><rt>すで</rt></ruby>、など。怒号と、悲鳴と、笑い声とが、暁の港の空気をふるわせて、交錯した。

「喧嘩やめえ。喧嘩やめえ」

金五郎は、カンテラをぶら下げて、なおも、そう叫びながら、逃げまわった。

幾度か、大村組の者から、六尺棒や、雁爪で追っかけられたが、すばやく、<ruby><rb>船橋</rb><rt>ブリッジ</rt></ruby>や、煙突のかげに隠れた。

ところが、その何度目かに、送風パイプの根にしゃがんでいると、背後から、したたかに、頭のてっぺんを殴られた。スコップを平にして打ち降したらしく、うすい鉄板が、ピーンと鳴り、金五郎は、くらくらッと、眼まいがして、そこへ、昏倒した。

誰かに、顔に、冷たい水を吹きかけられて、蘇生した。仰向けになったまま、ブルブルッと頭を振り、濡れた顔を手でなでた。くるりと、はね起きた。

金五郎の顔に、口にふくんだ水を吹きつけたマンは、パイプのかげに<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んだので、金五郎の眼には、とまらなかった。

「糞う」

怒りの虫が、金五郎を、飛びあがらせた。張りのある大きな眼が、ギラギラ光った。

金五郎は、プッ、プッ、と、両手のたなごころに、唾をはきこんだ。それから、親指を中に包んで、拳をにぎりしめ、猛然と、修羅場の中心に、おどりこんだ。

インド丸の船長をはじめ、船員たちが、出て来た。

「静まれ、静まれ」

必死に喚いたり、止めに入ったりしてみたが、<ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>はなかった。

金五郎は、あばれた。持って生まれた馬鹿力と、糞度胸と、小さいときから、ターザンのように、山から山、木から木を飛びまわった敏捷さと、いくらか<ruby><rb>囓</rb><rt>かじ</rt></ruby>った柔道と、草角力の大関までのぼったことのある、四十八手の裏表と――悲しみに似た、いいようもない憤りに駆りたてられて、金五郎は、ぶっつかる敵を、片はしから、甲板に転がした。何人かを、高い舷から、海に投げこんだ。

大男の助役が、大村組の、これも劣らぬ巨大漢に組みしかれて、咽喉をしめつけられている。三角眼を白黒させ、今にも、息が切れそうな、不景気な声を出している。

金五郎は、それを見たが、助ける気持は起らなかった。煙突にもたれ、唇を噛み、汗をふいた。

一人の敵が、そっと、金五郎に忍びよった。雁爪をふるって、襲いかかった。金五郎は、気づかなかった。六つの刃のある雁爪を打ちかけられたら、命にかかわったかも知れない。しかし、その男は、襲撃の寸前に、ワイヤにつまずいて、どさッと、金五郎の足元に倒れた。マンが、突き飛ばしたのである。

金五郎は、その男の襟首をつかむと、舷側まで引きずって行って、海中に、投入した。

金五郎は、マンを睨んだ。

「女の癖に、出しゃばるな」

そう叫ぶと、くるりと廻転して、また、乱戦の中に、飛びこんで行った。

両軍入りみだれる戦場に、突然、太い水の鞭が降って来た。<ruby><rb>水夫長</rb><rt>ボースン</rt></ruby>が、ポンプの水を、マストの梯子の上から、浴せはじめたのである。強い水しぶきが、喧嘩男どもを、ピシピシと、たたいた。

水上警察署のランチが、汽笛を鳴らしながら、近づいて来た。

「サツが来たぞう」

誰かが、叫んだ。

その声は、まるで、魔法の箒に似ていた。びしょ濡れになって、組んずほつれつしていた両組の仲仕たちは、その一声で、さっと、甲板から掃きだされた。一人のこらず、消えた。

見る間に、仲仕たちは、伝馬船に乗り移った。舷側に吊られていた棚は、最上部から切断された。機敏に、道具と、怪我人とを収容してしまうと、二隻の伝馬船は、インド丸の舷側を離れた。全速力で、陸に向かって、漕ぎだした。

「逃げるのは、早うて、上手じゃのう」

「サツばっかりは、苦手じゃ」

「これぐらい、なんでも、パッパと、やるとええけんどな」

あまりにも、迅速で、整然とした退却ぶりが、われながら、おかしく、仲仕たちは笑いころげた。これも、熟練の結果である。というのは、港では、この種の喧嘩が、日常茶飯事のごとくになっていることを、証明するものに外ならなかった。

負傷者だけが、仏頂面をしている。喧嘩のはげしかった割りに、大きな怪我人はなかった。手拭や、シャツを破って、応急手当をほどこしている。巨漢の助役は、青い顔をして、船底に、横たわっているが、死んだように、元気がない。

壇ノ浦の方角にあたる東の空に、太陽がのぼって来た。真紅である。昨夜からのどんよりとした雲の中に、くっきりと、輪郭を見せている。

<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>に腰をおろしている金五郎は、むっつりした顔で、膝をかかえていた。スコップでどやされた脳天がずきずきし、身体の節々が痛い。金五郎は、無性に、腹が立ってたまらない。

（仕事に勝ちさえすれば、喧嘩をせずにすむと思ったので、先に段取りしに行ったのに、勝っても、負けても、喧嘩か）

馬鹿々々しくてならなかった。

その金五郎の眼に、すぐ横にいる谷口マンの姿が映った。

マンは、麻の煙草入れから、キザミをとりだし、短い煙管で、煙草を吸っている。マッチで、雁首に火をつける。吸口を唇にはさんで、軽く吸うと、ポウッと、火が大きく明かるくなる。すこし胸を張り、フウッ、と、煙をはきだす。いかにも、おいしそうである。

金五郎は、珍しい気持で、

「おマンさん」と、呼びかけた。

「はい」

「あんた、煙草のみじゃな？」

その言葉に、マンは、ふいに、赤らんだ。

「わたしに、一服」

金五郎にそういわれて、マンは煙管と煙草入れとを、黙ってさしだした。

なれぬ手つきで、キザミをつめ、火をつけて、一口吸った金五郎は、はげしく、せきこんだ。その眼に、真紅の太陽が、くるくると、廻転した。咳が、脳天の傷にこたえる。涙が出た。

  


## 夫婦

<ruby><rb>真昼間</rb><rt>まっぴるま</rt></ruby>なのに、長屋は、ひっそり閑と、静かだ。今日は、仕事は休みだが、どの家にも、誰もいない。鶏が、二三羽、餌をつついている。

長屋の中央にある井戸端で、かんかんと照りつける秋の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>を浴びながら、マンと、兄<ruby><rb>林助</rb><rt>りんすけ</rt></ruby>の女房チヱとが、二人、話をしている。

インド丸荷役の勝利は、浜尾市造をすこぶる満足させた。喧嘩の方は、どっちが勝ったかわからないけれども、大村組から仕掛けて来たのであるから、浜尾組にお咎めはない。浮沈の瀬戸際を乗りきることのできた浜尾は、大よろこびだ。今日は、子分の全員を引き具して、遠足に出かけた。今ごろは、壇ノ浦を望む<ruby><rb>和布利</rb><rt>めかり</rt></ruby>神社の境内で、祝いの酒盛が、たけなわの時分である。

チヱは、<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>を前にし、大儀そうな手つきで、洗濯に余念がない。背中に、二つになる男の赤ん坊を帯でくくりつけているが、腹の方は、もう臨月で、動くたびに息苦しいらしい。ときどき、肩で大きな吐息をつく。

五ツになる上の女の子は、マンが、バケツの中で、猫を洗っているのを、心配そうな顔つきで、のぞきこんでいる。<ruby><rb>泥溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>に落ちこんだ猫は、マンの自由にされながら、おとなしい。しかし、こまかい毛にしみこんだ青黒い泥土は、石鹸でこするのに、なかなか落ちない。ひどく臭い。

「叔母ちゃん、猫、死なん？」

女の子は、涙ぐんでいる。

「安心なさい。死にはせんよ。でも、もう、ちょっと、気づかなんだら、仏さまになっとったかも知れんねえ」

「よかったねえ」

「ほんとに、よかったよ」

チヱは、笑いながら、

「おマンさんたら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>から、猫好きね」

「動物なら、なんでも、好きですのよ」

「猫、何匹になった？」

「八匹。でも、ミイが、また、腹が太いですけ、近いうち、三匹ほど増えますわ」

「ウフフ……」チヱは、妙にさびしげな含み笑いをして、「増えるのは、子供だけね。猫も、人間も。……<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>、これから生まれる猫の子も、人間の子も入れたら、十七人の大家族よ」

「ミイの腹、この前より、ずっと大きいようにあるけ、五匹くらい、産みはせんかしらん？」

「あたしも、<ruby><rb>双生児</rb><rt>ふたご</rt></ruby>かも知れないんだって……」

「まあ」

二人は、顔見あわせたが、どちらも、今度は笑わなかった。

奇妙な沈黙が、流れた。

「<ruby><rb>義姉</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん」

マンの表情は、真剣になっていた。

「なあに？」

「あたし、不思議でたまらんことがあるんだけど……」

「どんなこと？」

「こんなこと、いうの、ごめんなさい。……ねえさんたち夫婦のことです」

「不思議なこと、って？」

「あたし、広島から出て来て、ずっと世話になっとって、こんなこというと、怒られるかも知れんけど、……兄さんと、ねえさん、毎日のように、喧嘩して、……それも、いつも、あんなにはげしい夫婦喧嘩しとるのに、……どうして、別れんで居るんじゃろうか、と……？」

チヱは、眼を落して、洗濯する手をつづけた。痩せた長顔に、油気のないほつれ毛が、たれ下って、かすかな風にゆらいでいる。

マンは、洗い終った猫を、前だれの中に包んで抱き、

「きっと、今夜も、喧嘩でしょ。いつも、兄さん、外で飲んで帰ると、ベロンベロンで、ねえさんをいじめる。あばれる。障子や襖を破る。茶碗を割る。ランプのホヤを割る。そして、朝になったら、喧嘩でくずした物を修繕したり、新しく買ったり。それを、また、こわす。また、買う。きりがありゃせん。まるで、夫婦喧嘩のつくろいをするために、働いとるみたいに見えるわ。ところが、そんなに、仲が悪いくせに、別れようともせんし、……子供は、どんどん、生まれるし……」

チヱは顔をあげて、笑いながら、

「おマンさんは、まだ、若いわ。夫婦って、奇妙なものよ。今に、わかるわ」

「そうかしら？……あたし、もし、亭主を持つことがあっても、兄さんのような横暴、絶対、許さんわ」

「おマンさんなら、どうなさる？」

「あたしなら、とっくに、別れます。……ねえさんは、我慢づよいのね。今年の春、兄さんが、変な女にかかりあったときだって、別れようとせんのじゃもん。あたしは、女房以外に女を作る男なんて、承知せんですよ」

「おマンさんに、三国一のええ婿さんが出来るように、祈るわ」

チヱは、若いマンの世間知らずを、いたわるような、しんみりした語調で、いった。それは、羨む気持も手つだっていたと同時に、嘗ては、自分もそういう一本気であった、娘時代をふりかえる哀愁の思いでもあった。

（しかし）と、チヱは、思う。（マンさんは、わたしたちと、どこか違うところがある。自分たちが、生活の圧力と習俗とに、わけなく屈してしまったようには、マンさんは屈しないかも知れない。このひとは、なにか、強いものを持っている）

猫は、マンの前だれの中で、眠ったらしい。ゴロゴロと、咽喉が鳴っている。

マンは、遠いところを見る眼になった。

「あたし、だいぶん、当てが狂ったわ。林助兄さんが、何度も手紙くれるんで、思いきって、田舎を飛びだして来たのに、こんなことでは、いつ、ブラジルに行けるのか、わかりゃせん。貯金をして、旅費を作って、アメリカ行の船を見つけて、と思うたのに、……仲仕の賃金なんて安いし、それを辛抱して、ようやく、すこし<ruby><rb>蓄</rb><rt>た</rt></ruby>まると、兄さんから借りられるし……」

「すみません」

「いいえ、ねえさんの罪じゃありませんわ。兄さんが、甲斐性なしだから……」

井戸端の<ruby><rb>花崗岩</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>に腰をおろすと、マンは、ふところから、煙草入れをとりだした。放心したような顔つきで、キザミを煙管につめ、マッチで火をつけた。一服、吸って、

「ああ、おいしい」

と、思わず、呟いた。

「のみぶりの、ええこと」

「まあ、ねえさん」

はにかみながら、マンが、二服目をつめようとしていると、路地の奥に、下駄の音が聞えた。

赤い顔をした、着流しの玉井金五郎が、折詰をぶらさげて、近づいて来た。

マンは、狼狽したが煙草をかくす間がなかった。（かまうものか）と、不貞腐れた。二服目をつめた煙管を、口にくわえて、マッチをすろうとした。

「待ちなさい。待ちなさい」

傍に来た金五郎が、軸木を持ったマンの右手を、おさえた。折詰を、井桁に置いて、

「わたしが、火をつけて進ぜる」

にこにこと、笑いながら、腹巻をさぐって、妙なものを取りだした。

一寸五分と一寸ほどの、平べたい矩形の、金属製の小箱である。銀色に光っているが、それはメッキらしい。どこに仕掛けがあるのか親指でイボを押すと、パチッと蓋があいた。同時に、あらわれた中の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>に、火がともっている。石油くさい。

「さあ」

機械の火をさしだされて、マンは、鼓動を感じながら、くわえたまま、煙管の雁首を近づけた。火を吸いつけてから、かあッと、顔が、真赤に燃えた。耳まで、赤くなった。

「おマンさん、これ、懐中ランプというもんじゃ。アメリカ通いの汽船で、<ruby><rb>事務長</rb><rt>パーサ</rt></ruby>から貰うたんじゃが、あんたにあげよう。わたしは、煙草をのまんけに、用がない」

「いいえ、要らんです」

「遠慮せんで、貰うときなさい」

と、チヱがいった。

「実をいうと」と、金五郎は、快活な調子で、「わたしは、煙草をふかす女なんて、好きじゃない。じゃけど、林助さんから、あんたが、どうして煙草のみになったか、ちゅう話を聞かされて、急に、あんたが好きになった。それで、この懐中ランプを、あんたにあげる気になったんじゃ」

マンは、兄林助が、どんな風に話したのか、と、気がかりになった。

煙草好きであった父善助のため、専売局の眼をかすめてまで、煙草葉を集めて、キザミを作ってやった。マンは、父にのませるために、まず、自分が火を吸いつけてから、父に煙管をわたした。それが習慣になると、はじめは、苦くて、からくて、むせかえっていたが、しだいに熟練するとともに、いつか、煙草に味が出て来た。すると、義務でやっていた吸いつけが、後には、楽しみになるようになった。

ところが、専売局から発見されて、罰金を申しつけられると、父善助は、それきり、ふっつりと、煙草を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>ってしまった。しかし、そのときには、マンの方は、もう、味が忘れられなくなっていたのである。

（そういう風に、兄さんは、ちゃんと、金五郎さんに、話しただろうか？）

マンは、あやふやな兄が不安でたまらない。しかし、もう、ためらわず、

「そんなら、頂戴します」

と、その珍しい点火器を受けとった。

「玉井さん、うちのは、どうしとりましたか」

チヱが、きいた。

「まあだ、みんな、大騒ぎの最中ですよ。林助さんも、ステテコを踊ったりして、上機嫌でしたよ。わたし一人、なんだか、馬鹿くさくなって、抜けて来ました。浜尾の親方がつまらんことばっかりいうし、……おマンさんにも、ちょっと話したいことが、あったもんじゃけ……」

「わたし、帰るわ。どうぞ、二人で、ゆっくり、お話しなさい」

「いや、おかみさん、そんな、秘密の話じゃない」

金五郎は、あわてて、止めたけれども、チヱは、洗濯物を丸め、女の子の手を引いて、長屋の奥へ去って行った。

金五郎は、苦笑したが、

「やっぱり、居らん方がええ」

そういって、マンの方に、向きなおった。

マンは、間隔をおいて、堅い姿勢で、つっ立った。

（変な真似をしたら、承知せん）

そう、思っていた。

「お話、承ります」

「大層、しゃちこばっとるなあ。……ま、ええわ。ざっくばらんに話そう。……おマンさん、あんた、この浜尾組に、いつまでも、いなさる気かね？」

唐突すぎて、返事が出なかった。

「林助さんから、あんたが、去年の暮近くに、浜尾組に来なさったこと、聞いた。もう、十ヶ月ほどになるわけじゃね。あんたの方が、ここでは、先輩じゃ。わたしは、この夏に来たばっかりの新米にすぎん。しかし、わたしは、もうこの浜尾組に居ることが、いやになった。はっきりいうても、ええ。わたしは、浜尾親方に、愛想がつきたんじゃ」

ぽつりぽつりと、重い調子で語る金五郎の顔を、マンは、瞬きもせず、見ていた。

「わたしは、仕事が好きじゃし、なんでも、ええ加減にすますことは嫌いじゃから、どんなつまらん仕事でも、一所懸命、やった。それで、来てから間もなく、一人五分くれるようになって、それはありがたいと思うたが、その後、じっと見とると、どうも、浜尾親方のやりかたが、万事、気に食わん。これは、長居するところじゃない、と思うとるうちに、今度のインド丸事件が起った。それで、きっぱり、見切りをつけたんじゃ」

マンは、胸をしめつけられる思いだった。

「荷役に負けたら、喧嘩をふっかけろ、なんて、わたしはあきれたよ。ところが、どうにか、浜尾組の顔が立ったもんじゃけ、今度は、わたしを<ruby><rb>助</rb><rt>すけ</rt></ruby>ボーシンに取りたててやる、というんじゃ。結構です、というて断ったら――お前の手柄に対して、褒美をやる。三人居るメカケを一人やる。……そんなことを、いう。それも断ったら――なんでも、いえ。なんでも、聞いてやる。……親方が、そういうもんじゃけ――暇を下さい。……そういうたら、それは許さん、というんじゃ。でも、わたしは、もう、心にきめた。明日にでも、この組を出る。……わたしの気持、わかってくれるかしらん？」

「よく、わかります」

「それで、……おマンさん、あんたも、……あんたのような、仕事の出来るひとも、……こんな組に居って、腐ってしまうのは、惜しいと思うて、……出たら、どうかと……」

すると、このとき、長屋の入口が、にわかに、騒々しくなった。

がやがやとなだれこむように帰って来た仲仕たちの中に、寝かされた人間をのせた戸板が、幾つもある。異様な恐怖の表情が、どの顔にも、満ちていた。誰も彼も、酔いなど醒めはてた顔である。

長屋は、瞬時に、大混乱におちいった。

森新之助が、血相変えて、自分の家の方へ駈けだして行った。<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>になり、緒の切れた下駄は、両手につかんでいる。

井戸端の横を通りさま、

「玉井、その折詰、食べなんな。死ぬぞ」

そう叫んで、走り去った。

戸板に乗せられて、ぐったりとなった<ruby><rb>助役</rb><rt>ボーシン</rt></ruby>が、五六人にかつがれて、やって来た。口辺に、ねばねばした黄色い粘液がまつわりつき、三角眼は白くなって、眉がつりあがっている。それでも、まだ、視力はあるとみえて、金五郎をみとめると、

「玉井、……仇を討ってくれ」

と、<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばった唇で、とぎれとぎれに、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「どうしたんです？　ボーシン」

「やられた。……毒を盛られた。……大村の奴、喧嘩に負けやがったもんじゃけ、仕出し屋を抱えこんで、弁当に、毒を入れやがったんじゃ。……畜生」

マンは、おどろいた。

「シロ、シロ」

と、狂気のように、叫んだ。

金五郎と話をしている間に、マンの前だれを抜けだした猫が、井桁に置いてあった折詰を、下に引きずり落して、食べている。泥溝に落ちて、腹が減っていたとみえ、蓋をかき破って、イカのサシミ、焼き鯛、カマボコなどは、もう、あらかた、かたづけていた。

マンは、猫を抱きとり、折詰を、はげしく、蹴飛ばした。

金五郎も、さすがに、おどろいて、

「危いとこじゃったなあ。おマンさんにお土産のつもりで、わたしは、手をつけずに、ぶらさげて来たんじゃが……」

と、長大息した。

祝いの酒盛であったのに、突如、死の饗宴と化したのである。しかし、それは、助役がいったように、大村組の復讐ではなかった。単純な助役の頭脳では、そうとしか考えようがなかったらしい。彼は、自宅にかつぎこまれると、なおも、

「大村の悪党奴、……死んだら、幽霊になって、とり殺してやるぞ」

などと、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いていたが、医師の来るのを待たずに、息を引きとってしまった。

このとき、<ruby><rb>門司</rb><rt>もじ</rt></ruby>市全体を、暗黒の戦慄におとし入れた「<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>コレラ」の<ruby><rb>猖獗</rb><rt>しょうけつ</rt></ruby>は、浜尾組のみならず、すでに、市内の各所に、その兆候をあらわしていた。

朝は気持よく起きて、話をしていた人間が、昼すぎに、四五回、ビイビイと、口から黄色い粘液汁を吐いたと思うと、一時間も経たずに死んでしまう。大して腹痛もないのに、便所に行って、下痢をすると、もう動けなかった。死者が、続出した。疑似コレラか、真性コレラかを判断する暇さえなかった。そのはげしさは、言語に絶した。

浜尾組の長屋でも、三十人近くの患者が出たため、附近一帯、二百五十人ほどの者が、隔離された。周辺の人達は逃げてしまった。

張りめぐらされた縄の中に、金五郎も、マンも、残された。

マンは、兄の林助が羅病したので、附ききりで、看病した。義姉のチヱと、子供たちとは、無理矢理に、隔離室に押しやった。

兄の枕許にいるマンの周囲で、八匹の猫が、一匹ずつ、死んで行った。

「チヱ、チヱ」

林助は、熱で真赤になりながら、<ruby><rb>囈言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように、妻の名を呼んだ。

「兄さん」

その声で、林助は眼をあける。妹の顔を見て、不審そうに、

「チヱは、どこに行った？」

「元気でいます。だけど、ここには、居らんわ」

「どうして、ここに居らん？　呼んで来い。つれて来てくれ」

「いいえ、いけません。ねえさんは、身重の大切な身体よ。病気がうつったら、大変です」

「馬鹿ぬかせ」

怒った林助は、憎悪の眼で、マンを睨んだ。起きあがろうとした。

「兄さん、……駄目よ」

「貴様、鬼か。おれが死にかかっとるのに、可愛い女房に逢わせんのか」

「いいえ、兄さん、死にはせん。今、逢ってはいけない」

「チヱもチヱじゃ。亭主を見殺しにして、知らん顔しとるなんて……」

林助は、ばりばりと歯を鳴らしたが、その眼から、ポロリ、ポロリと、太い涙があふれ落ちた。それから、がっくりとなって、痩せた顔を、すとんと枕から落した。虫の息である。

マンは、昏迷した。疑念と、狼狽とが、急に、マンを不安にした。

（どうしたら、よいのか？）

いろいろ苦労はしたつもりであったのに、こういう凄惨な人間の<ruby><rb>土壇場</rb><rt>どたんば</rt></ruby>に、立ちあったことは、はじめてであった。強い心で割り切っていたのに、今、不可解な人間の魂の<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声が、マンの人生観と、生活の規律とをゆるがせる。生命をも超えたものの声が、若いマンの胸をかきみだす。

連日連夜、夫婦喧嘩ばかりをくりかえしている林助とチヱ、そして、家庭内では、一種の暴君である兄が、死の床で、ただ、妻の名ばかり呼んでいる。病気を感染させてはならないという一心で、義姉を隔離したのに、マンを、鬼呼ばわりした。気が弱く、どこか、妹に気兼ねしていた兄としては、心底からの、最後の言葉であったかも知れない。

マンは、立ちあがった。

「兄さん」

呼んだが、返事がなかった。

胸のうえに、耳をつけてみた。かすかに、弱々しい鼓動が打っている。

マンは、<ruby><rb>薬缶</rb><rt>やかん</rt></ruby>の水をふくむと、兄の顔に、プッと、吹きかけた。林助は、かすかに、眼をひらいた。顔は動かさず、横眼づかいに、じろりと、妹を見た。マンは、ぞっとした。

「兄さん、ねえさんを呼んで来るわ。それまで、死なないで……」

表に、飛びだした。

台所の片隅にある蜜柑箱に、六匹の猫の屍骸が入れてある。あとの二匹は、どこに行ったかわからない。それをちらと見たが、マンは、唇を噛んで、一散に、隔離室の方に、走った。

長屋中は、騒然としている。棺桶をたくさん積んだ車力が、二台、井戸端のところに止まっている。

そこで、玉井金五郎が、なにか、青い腕章をした市役所の役人と、声高に、いい争っていた。

「いやですよ」

と、金五郎は、役人から、握られていた腕を、ふり離した。

五十年配の、<ruby><rb>胡瓜</rb><rt>きゅうり</rt></ruby>のような顔に、八字髭を生やした吏員は、横柄に、呶鳴った。

「そんなことをいっては、困るじゃないか。早く、死人を、棺桶に入れろ」

「いやなこと」

「いつまで経ったって、片づきはせん。早くせんと、お前も、コレラにかかって、死んでしまうぞ」

「コレラにかかったって、あんたのいうことは、聞かん。消毒したり、棺桶に入れたりするのは、市役所の仕事じゃないか。わたしは、市役所の使用人じゃないよ」

金五郎は、褌一つの素裸である。羅病した仲間を介抱するのに、着物を着ていては邪魔くさいので、脱いでしまったらしい。胸の厚い、たくましい筋骨の、<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>のこまかい、まっ白な身体が、秋の陽に、まぶしく、光っているようである。胸毛が、濃い。

そこへ、

「玉井、どしたんじゃ？」

と、浜尾市造が、やって来た。火事装束をして、黒いマスクをかけている。

役人が、横から、

「これは、浜尾君、大変だね。なにね、この男、僕が、死人を棺に入れろといったのに、どうしても、いうことを聞かないんだよ」

「そうですか。……玉井、役所も手が足らんらしいから、すまんけど、お前、世話ついでに、ひとつ、死人を棺桶に入れてやってくれんか」

「わかりました。入れます。親方がいうのなら、いつでも入れますよ。死人を<ruby><rb>舐</rb><rt>ねぶ</rt></ruby>れ、といわれや、ねぶります。<ruby><rb>料理</rb><rt>つく</rt></ruby>って食え、といわれても、いわれたとおりします。役人の命令なんて、誰がきくもんか。<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>ずくなら、いやなこってす。……なあ、新公」

と、かたわらの森新之助を、かえりみた。

「そうじゃ、そうじゃ」

新之助も、こっくりこっくりをして、八字髭の役人に、ペロリと、舌を出した。

そこまで、見ていて、マンは、隔離室の方へ、また、走った。

監視に立っている警官に、わけを話して、チヱを出して貰った。女の子と、赤ン坊とは巡査はどうしても許可しなかった。二人は、長屋の方へ急いだ。

臨月腹をかかえているチヱは、肩と腹とではげしい息をしながら、

「神さま、林助さんを助けて、……林助さんを殺さないで……」

と、夢中のように、叫びつづけていた。

マンは、走りながらも、

（あたしが神さまだったら、兄さんを殺しはしない）

と、自分も、いつか、祈る気持になっていた。

一軒の長屋の前に来ると、マンは、ひとりでに、足が止まった。

部屋の中に、真裸の金五郎がいる。彼は、蒲団のうえに馬乗りになっているが、その下には、女仲仕のタカが、

「苦しい。……苦しい……」

と、咽喉の裂けるような声で、喚いている。そのたびに、口から、黄色い唾が飛ぶ。

「タカさん、辛抱せえ。じっとしとれ、あばれたら、いかん。もう、じき、癒るぞ」

金五郎は、子供をさとすように、いう。

「金さん」

急に、静まったタカは、下から、金五郎の顔を見あげた。

「うん？」

「わたし、うれしい」

「どうした？」

「わたし、……金さんのおかみさんに、なるつもりだったよ。……こうやって、金さんに介抱されて、死ぬの、うれしいわ」

「そんな気の弱いこと、いいなさんな。死にはせん。死にはせん」

「わたし、もう、……死んでも、ええ」

「死ぬな。死ぬな」

「しっかり、抱いて……」

「これで、ええか」

金五郎は、蒲団のうえから、タカをくるむようにして、抱きしめた。

マンは、物かげに潜んでいたが、これ以上、見るに耐えなかった。また、走った。マンが立ちどまっている間に、チヱは、とっくに、林助のところに帰ったとみえて、姿がなかった。

マンは、嘗て、二度ほど、タカから<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かされたことがある。

「おマンさん、金さんはわたしのもんよ。手出ししたら、あんた、命はないものと思うとんなさい」

タカは、マンだけにではなく、浜尾組の独身女仲仕は、全部、そういって、脅迫していた。よっぽど、金五郎に惚れていたらしい。そのタカは、死に瀕している。

隔離室での、さまざまな光景を、マンは思いおこした。夫婦でも、別々にされている者が多かったが、つれあいの無事を祈っている者があるかと思うと、「コレラにかかりやがったのが、もっけの幸、あんな奴、死んだが増し」と、うそぶいている夫や、妻があった。マンは、錯倒せざるを得ない。

家に帰りつくと、マンは、入口のところに、釘づけになった。足が進まなくなった。

兄は、さっきとは打って変って、元気になっている。横になったままではあるが、チヱの手を取り、落ちくぼんだ眼を、妖しく、ぎらつかせながら、なにか、弾んだ語調で、叫んでいる。その言葉は、舌が廻らないため、はっきりとは聞きとれないけれども、マンの耳には、たしかに、

「お前を残して、誰が死ぬもんか。シズ子や、松吉や、今度生まれて来る子を置いて、誰が死ぬもんか」

と、聞えた。それを、お経のように、単調に、くりかえしている。

マンは、戸口に、佇立したまま、したたかに、背負い投げを食わされた思いだった。味気なく、自分の無力さを、痛感せずには居られなかった。

人々を、恐怖と戦慄のどん底におとし入れた「上海コレラ」騒動は、それから、半月以上も続いた。浜尾組でも、巨漢助役をはじめ、二十人近くの死者を出した。谷口林助は、辛うじて、一命をとりとめたが、タカは死んだ。

青い腕章をした市役所の吏員が、やって来て、玉井金五郎と、森新之助とを呼びだした。

「お前たち二人には、コレラの<ruby><rb>黴菌</rb><rt>ばいきん</rt></ruby>が、いっぱい、ひっついとる。絶対に、出ることはならん」

そうして、二人は、監禁された。

長屋の一隅に、一間四角の掘立小屋が作られた。雨露を凌ぐに足るだけのバラックである。扉はあるけれども、外から錠前が降され、その鍵は、役人が持っている。

両側に、空気抜きと採光とを兼ねた、一尺四方の小窓がつけてある。別に、大小便口がある。この箱の中に、二人は、一週間、<ruby><rb>蟄居</rb><rt>ちっきょ</rt></ruby>することを命ぜられた。

「一週間目に検疫して、一匹でも、黴菌が居ったら、もう一週間、隔離を延長する」

青い腕章の市衛生課吏員は、小気味よげにそういいすてて、大威張りで、帰って行った。

「木ッ葉役人の畜生奴、棺桶の仇討ちをしやがったな」

新之助は、ぶりぶりと、腹を立てた。

金五郎は、笑って、

「新公、まあ、そう怒んな。わざわざ、家を新築してくれたんじゃないか。骨休めに、ちょうど、ええわい。もう、こうなったら、寝るの一手じゃ。一年分ほど、寝溜めしようや」

「そういえば、そうじゃが……」

と、新之助も、不承々々、機嫌をなおした。

箱の中での奇妙な生活が、はじまった。

二日も経たぬうちに、もう退屈してしまった新之助は、「こんな小屋、わけない。<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち破って、脱走しようか」といいだしたが、金五郎は、「そんなことしたら、他人に迷惑かける」といって、なだめた。

三度々々の食事は、マンが、差し入れした。

<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>の中の囚人どもは、おかずの贅沢ばかりをいい、ときには、酒も注文した。ちびちびやりながら、中で、一日、将棋をさしている。

「おマンさん、今夜は、すき焼を頼む」

などと、いう。

マンは、笑って、七輪やら、鍋やら、砂糖、醤油、団扇、牛肉、葱、豆腐――すき焼に必要なものを入れてやる。

「まるで、旦那じゃな」

気楽な居食いの生活で、箱の中の二人は、日ごとに、まるまると、肥えた。

しかし、旦那の豪奢とはやはり違っていた。雨の日には、天井から雫がたれるし、風の日には、家全体が吹っ飛びそうに、ゆれ動く。床のすぐ下で、コオロギや地虫が鳴く。

夜は、もう寒い。ランプを消して寝ると、野犬が箱のまわりをうろつき、しきりに、遠吠をした。月の光も、冷たい。深夜、眼がさめると、コレラで死んだ幽霊たちが、あたりを徘徊しているように、不気味だった。

「花をあげましょ」

或る日、一升徳利を花瓶がわりにして、大束の菊の花を、マンが、小窓からさし入れた。

「これは、これは」

金五郎が、受けとると、

「あたしの家の庭に、咲いたものです。枯れたら、また、とりかえてあげますわ」

「この花の枯れるまでは、居らんよ」

新鮮な菊の強い芳香は、一坪立方の邸内を、いっぱいに、むせかえるほど満たした。のみならず、二つの小窓から流れだして、荒廃した長屋の隅々まで、匂った。

一つ蒲団にくるまって寝る狭い箱の中で、金五郎と新之助との友情は、急速に、そして、堅確に、結ばれた。二人は、兄弟分の誓いを立てた。同年配ではあるが、金五郎が、兄貴分である。

「新公、おれは、この箱から出されたら、すぐ、浜尾組を暇取ろうと思うとるんじゃが……」

「おれも、そう思うちょる。ひでえ親方じゃ。今度のコレラ騒動でも、たった一ぺん、顔を出しただけ、まるで、寄りつきゃせんで、メカケのところに、べたべたしとる。おかみがコレラで死んだのをええことにして、二号を家に引きこむ算段らしいわい。それは、まあ、勝手じゃが、組の者が、こんなむごい目に逢うちょるのに、見舞にも来んし、医者も、看護婦も、さし向けやせん。死んだ者のところだって、かえって迷惑そうな顔して、ほったらかしじゃ。親方がしゃんとしとりゃ、おれたちだって、こんな箱の中に、一週間も、<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じこめられんで、すんじょる」

「ま、ええわ。おれにすこし考えがあるけに、一緒に<ruby><rb>彦島</rb><rt>ひこしま</rt></ruby>に行こう」

「うん、金さんの行くところなら、どこでも行く」

いずれは、二人で、支那大陸に渡ろう、という約束をした。

或る日、また、マンが、小窓の外から、笑いながら、

「はい、新聞」

見ると、土地の赤新聞に、大きな見出しで、でかでかと、「コレラの海の中で、すこしも感染しなかった、不思議な二人の不死身男」、そして、金五郎と新之助との写真が、ならべてかかげられてある。

「生まれてはじめて、新聞ちゅうもんに、載ったのう」

二人のしがない沖仲仕は、妙に、くすぐったくてならなかった。

一歩も出られぬ箱の中が、やはり、どうにも寂しくてたまらなくなり、二人は、酒盛をしては、手をたたいて、唄を歌ったりした。

八日目に、やっと釈放された。金五郎は、その足で、谷口林助の家を訪れて行った。マンは裏庭にいると教えられて、そちらに、廻った。垣をあけると、菊の香が鼻を打った。

マンは、柿の木の根元にしゃがみこんで、泣いている。新しい土盛りの上に、カマボコ板でこしらえた、小さな二つの墓標がならび、線香の細い煙がながれている。

「猫の墓です。こっちの方は、<ruby><rb>夫婦猫</rb><rt>みょうとねこ</rt></ruby>なので、別にして、花を供えてやりました」

金五郎を見ると、マンは、そういって、また、手ばなしで、おんおんと、泣いた。

  


## 裸一貫

「おい、あの女、とんと、ここらでは見かけん女じゃが、どこの<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>じゃろか？」

「洋装のハイカラ美人なんて、一年に、一ぺんも見たことないなあ」

「しかも、二人もな」

「西洋の活動写真のごと、あるのう」

「声かけてみようか」

「<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めちょけ。ハイカラさんが、おれたちのようなゴンゾを、相手にするもんか」

海をへだてて、<ruby><rb>巌流島</rb><rt>がんりゅうじま</rt></ruby>が、盆景の島のように、小さく、こじんまりと見える。先ごろ、この北九州を吹き荒らした、二百二十日の烈風で折れたらしく、島の中心にある丘の一本松が、タコの足のような根をあらわにして、横倒しになっている。

その松の根に、ハンカチをしいて、二人の女が腰をかけている。どちらも、似たような白のドレスで、黒い手袋をはめ、桃色と緑とのパラソルをさしている。二人の視線は、関門海峡をへだてた<ruby><rb>小倉</rb><rt>こくら</rt></ruby>の<ruby><rb>延命寺</rb><rt>えんめいじ</rt></ruby>燈台の方角にそそがれ、ときどき、顔見あわせて、たのしげに、笑いさんざめく。

かたわらに、中年の厚司男が立っていて、しきりと、方々を指さしながら、口を動かしているのは、このあたりの風景や史跡を説明しているらしい。延命寺には、宮本武蔵の墓があるから、巌流島に於ける武蔵と佐々木小次郎との決闘について、一席弁じたてているのかも知れない。三人の乗って行った小伝馬船が、<ruby><rb>渚</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>につながれ、船頭は、待っている間を利用して、魚を釣っている。

「あの女、なんじゃろか？」

好奇心に駆られて、仲仕たちは、なおも、しきりと評定をするが、誰も、その正体をいい当てる者がない。

「うちの親方のところに、誰か、また、えらい客人が来とるのかも知れんなあ。きっと、その人のつれじゃよ」

その観察が、いくらか当っているようだった。

<ruby><rb>彦島</rb><rt>ひこしま</rt></ruby>貯炭場での昼休みである。彦島は、下関とは川を一つ隔てているだけであるが、市街地の方とは、まったく違った雰囲気があった。いたるところに、貯炭の山があり、その<ruby><rb>繰替</rb><rt>くりかえ</rt></ruby>をしたり、<ruby><rb>艀</rb><rt>はしけ</rt></ruby>への積込みをしたりする仲仕たちが、方々に、<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>していた。語源があきらかでないけれども、この地方では沖仲仕も、陸仲仕も、ひっくるめて、「ゴンゾウ」と呼ばれている。

昼弁当を使っている十七八人の仲仕たちの中に、谷口マンも、まじっている。女は五六人、マンのとなりに、松野菊江という、マンより三つほど年配の女仲仕が、杉の木の四角な重箱から、麦飯を、番茶漬けにして、いそがしげに、かきこんでいる。

菊江は、<ruby><rb>頬面</rb><rt>はおべた</rt></ruby>に飯のついていることなどかまわず、巌流島の方をながめながら、呟く。

「おマンさん、人間には、いろいろな階級があるなあ。わたしたちのように、石炭の中で、まっ黒になっとるゴンゾもあるかと思や、あんな、ピカピカ光る西洋の<ruby><rb>着物</rb><rt>きもん</rt></ruby>着た、まっ白な女もあるよ」

「それが、どうしたかね？　情ないこと、いいなさんな。あたしたちだって、いつまでも、ゴンゾで居るもんか」

そのはげしい言葉に、菊江はびっくりして、マンを見た。

森新之助が、このとき、握り飯を口に頬ばりながら、急に、ものものしげに、声をひそめた。

「おい、みんな、気をつけろ」

「なにをや？」

一人の老仲仕が、鈍重な語調で、きいた。

「おれは、今、ひょっくり、気がついたんじゃよ。あの女たち、<ruby><rb>露探</rb><rt>ろたん</rt></ruby>かも知れんぞ」

誰も答える者はなかった。急に、前とは違った、緊張した顔つきになって、巌流島の女たちを眺めなおした。洋装婦人たちは、なにがそんなにおかしいのか、肩をたたきあうようにして、笑いころげている。

それを見るマンの瞳には、一種軽侮に似た光と、憤りの感情とが、まじりあっていた。

「それに、ちがわん」新之助は、確信にあふれた顔つきで、「このごろ、ロシヤは、日本の女を、さかんに、スパイに雇うとるちゅう噂じゃ。この十月八日が、約束の日じゃったのに、ロシヤは、満洲から撤兵するどころか、どんどん、兵隊を南進させよる。あっちは、もう、日本を馬鹿にして、戦争する腹じゃ。それでも、日清戦争のことがあるもんじゃけ、用心して、日本の様子を探っとるんじゃ。それに、女を使うちょる。こないだは、長崎で、女の露探が捕まえられたが、あの女たちも怪しいぞ」

「そういやあ、女が、なにも、巌流島までも行って、関門海峡を見物せんでもええなあ」

老人仲仕も、新之助の意見に、同感の意を表した。

日露の風雲は、ようやく、急を告げつつあった。国内には、開戦論と非戦論とが沸騰していた。三万七千人の会員を擁する全国青年同志会が、露国<ruby><rb>膺懲</rb><rt>ようちょう</rt></ruby>の建白書を、桂首相に提出するかと思うと、非戦論者である堺利彦、内村鑑三、幸徳秋水の三人が、「万朝報」を去るというような事件が、この関門地方をも騒がしていたのである。旅順の日本人は引き揚げを開始し、この地方に帰って来た人もあって、

「ロシヤは、旅順に、大層もない要塞を築きよる。どうで、戦争はまぬがれん」

と、決定的に強調していた。

山下組の仲仕たちも、国の一大事に、無関心では居られない。なおも、巌流島の不思議な女たちについて、ひそひそと、語りあった。

詰所の中から、山下組の<ruby><rb>助役</rb><rt>ボーシン</rt></ruby>が出て来た。

「玉井は居らんか」

「居りません」

と、新之助が答えた。

「どこに行った？」

「さあ、飯食うて、どこかに出かけよりましたが、……また、<ruby><rb>飯代部屋</rb><rt>はんだいべや</rt></ruby>で、将棋さしとるのとちがいますか」

「将棋の好きな奴じゃなあ。急用があったんじゃが、……」そういって、当惑したように、長い顎をつまんだが、マンに気づくと、「おマンさん、あんた、玉井と夫婦になるそうじゃね。玉井が、話しとったが……」

「嘘ですよ。誰が、あんな……」

「そうかね？　……嘘かね？」

新之助は、策略的な顔になって、助役の袖を引いた。

「ボーシン、あのハイカラ女ども、どこの<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>ですか？」

「そんな口きくと、碌なこたないぞ。今売り出しの、若松の吉田磯吉さんが、客人といっしょにつれておいでになったんじゃ」

新之助は青くなった。

「そういえば」と、助役は、ふと気づいた顔で、「森、お前にも用があったんじゃ」

「なんごとです？」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>から、うちの親方のところに、若松の吉田親分をはじめ、下関、小倉、<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>、別府などの顔役方がお見えになって、泊りがけで遊んでいなさるんじゃ。それが、今朝がた、お開きになってな、今、別れの昼御飯を食べておいでになる。博多、別府方面の親分衆は、二時の汽車で、<ruby><rb>門司</rb><rt>もじ</rt></ruby>からお帰りになる」

「それで、わたしに用事というのは？」

「吉田磯吉親分がな――この組に、玉井金五郎、森新之助、ちゅう二人の若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>が居るそうなが、逢いたい、といいなさるんじゃ」

「なんで、また？……」

「光栄に思え」

「どうして、玉井とわたしの名を、特に、吉田さんが……？」

吉田磯吉のつれて来た女を、露探などといったばかりなので、新之助は気味が悪かった。

助役は、そんなことは知る由もないので、

「あれよ、ほら、こないだうちからの<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>コレラ騒ぎ、あん時に、お前たち二人が、新聞に出たろうが。コレラの黴菌の海の中で、素裸でおって、コレラにかからんじゃった――そのことを、吉田親分が、知っていなさってな、逢うてみたいといわれる」

「ふウン、そんなことか。吉田親分も物好きじゃのう」

「おい」助役は、新之助の肩を、指でぽんとつついて、卑屈そうな笑みを浮かべ、「羨しいぞ。お前たちの運がひらけて来たんじゃ。吉田さんは、新聞を読んでから、大層、興味を感じられた様子でな、門司の浜尾組に聞きあわせなすったらしい。そしたら、もう浜尾を出て、彦島の山下組に居るちゅうことを知って、今日、どうしても逢わせてくれ、といいなさる」

「ごめんを蒙りたいですなあ」

「馬鹿なことをいうなよ。罰が当るぞ。今売り出しの吉田親分が、名ざしで逢いたい、……いや、うちの親方に向かって、逢わせてくれ、というて、頼みなさるなんて、冥利に尽きるじゃないか。きっと、子分に欲しいんじゃよ」

「玉井にも、意見を聞いてみます」

「なんの意見を聞く？」

「玉井が、逢うというか、どうか？……」

「変なことばっかりいう奴じゃなあ。吉田親分が逢いたいといいなさって、うちの親方もよろこんで、お目通りさせます、と約束したことに、逢うも逢わんもあるもんか。……ええな、玉井を見つけて、いうとけよ。――今夜、吉田親分が<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>を御馳走して下さるそうじゃから、四時までに、親方の家の裏口から入って来い、……ってな」

色黒で、せっかちの助役は、そういい残して、すたすたと、詰所の方へ引っかえして行った。

新之助は、当惑した顔つきで、かたわらのマンをかえりみた。

「弱ったなあ。……おマンさん、どうしようか？」

「<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めなさいよ。つまらん。金五郎さんだって、きっと、行くといわないにきまっとるわ」

巌流島の方から、二人のハイカラ美人を乗せた小伝馬船が、帰って来た。

桟橋から、山下松次の屋敷へ抜ける道は、運河沿いのところにあって、この貯炭場の中を通ってはいない。ところが、小伝馬船から、二羽の鶴のように、桟橋に飛びあがった洋装の女たちが貯炭場の方に廻って来た。

「おい、露探が、こっちに来るぞ」

一人の仲仕が、笑いながら、新之助の尻をつついた。

新之助は狼狽して、

「露探なんて、いうなよ。間違いというものは、ときどき、ある。おれが、さっき、露探というたことは、取り消す」

「それでも、もう、あのハイカラ美人の耳に、入ったのかも知れんぞ」

「冗談いうな。二町も離れとるのに、聞えるもんか」

そんな話をしていると、二人の女は、仲仕たちの屯しているところへ、近づいて来た。なにか、用事ありげな足どりである。追風のため、女よりも先に、強い香水と白粉のにおいが、流れて来た。

「やあ、皆さん、<ruby><rb>御精</rb><rt>ごせい</rt></ruby>なことで」

案内役の厚司男が、立ちどまって、仲仕たちに、声をかけた。「先生」と呼ばれている、山下組の玄関番のような、色の青い、猫なで声を出す、温厚で、卑屈な男である。

「やあ、先生も、御精なことで……」

誰かが、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>のような態度にあてつけて、そういったので、くすくすと、笑いが起った。

「あんた、ちょいと」

桃色のパラソルをさした方の女が、マンのすぐ前に来て、蓮っ葉に、呼びかけた。

マンは、びっくりして、

「はい……？」

「あんたはん、珍しいもの、持ってやはったらしいけど、それ、あてに見せてんか？」

「なんでしょう？」

「なんや、こう、手に持って、パッと火のつく、<ruby><rb>小</rb><rt>ちっ</rt></ruby>さな機械やったわ。煙草のみはるのに、煙管に、マッチとは違うた、その機械でつけはったでっしゃろ？」

「懐中ランプのことじゃよ」

と、新之助が、横から、マンにいった。

マンは、腰にぶら下げていた麻袋から、懐中ランプを取りだした。

「これでしょうか？」

女は、受けとると、銀色の小箱を、子供のようにひねくりながら、もう一人の女に示した。

どちらも、年配は二十二三、似たような丸顔である。桃色パラソルの方は、眼尻が下り、唇がうすく、軽薄で、厚顔らしいが、緑色傘の女は、下ぶくれで、眼元が涼しく、唇にしまりがあり、どこか落ちついているところがあった。唇の右下にある大きな<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>が、昆虫が止まっているように見える。妙に、色っぽい。

女たちは、小伝馬船の上から、マンが、煙草をのむのに、妙な点火器具を使用していたのを、好奇の<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、遠望していたものらしい。

「あんたはん」と、桃色傘の女は、いく度か、火をつけてみたあと、「これ、あてに、ゆずっとくなはれや」

「いえ、それは、……」

「タダやないわ。お金、たんと払うさかい」

「お金、頂いても……」

「二円、どう？　あんたはん等、一日働いたかて、五十銭にも、ならへんのやろ。二円、大金よ。……ほな、三円」

「いやです」

桃色傘の女は、狐のように、<ruby><rb>眦</rb><rt>まなじり</rt></ruby>をつりあげて、軽侮のいろを浮かべた。

「ゴンゾの癖して、三円なんてお金、いっぺんでも持ったこと、あらへんのやろ。黙って、ゆずったが、増しやで」

「ゆずりません。かえして下さい」

「ほな、五円、どや？」

まだ、未練があるらしい。後には、ライターなど、掃きすてるほどになったけれども、そのころは、珍品中の珍であった。それを、女仲仕風情が持っているので、洋装婦人は、自分たちが使う方がよっぽど似つかわしい、と思ったものであろう。権利があると思ったのかも知れない。

「失礼ですが」と、横から、新之助が、「それは、五十円でもゆずりますまいなあ。ええ人から貰うた、大切な品ですけ」

「新さん、あんた、なにを……」

マンは、びっくりして、赤らむと、新之助の膝を、はげしく、つねった。

「ふウン」桃色傘は、いよいよ、憎さげに、「<ruby><rb>色男</rb><rt>れこ</rt></ruby>のプレゼントだッか？　ゴンゾでも、一人前、恋をするのやな。……そか、そか、ほな、かえすわ。……なんや、けったいに臭い<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>たら、男のにおいやな。あ、<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>な」

ぽんと、懐中ランプを、石炭の中に投げすてて、

「<ruby><rb>君香</rb><rt>きみか</rt></ruby>さん、さ、行こ。阿呆らしい。こんなわからず屋、相手にしたって、仕様あらへん」

桃色傘の女は、ぷんぷんとふくれて、靴で、石炭の黒塵をまきあげながら、さっさと、桟橋の方へ、去って行った。

マンは、無言で、懐中ランプを拾いあげた。唇を噛みながら、そのよごれを、手拭でふいた。

君香と呼ばれた、緑色パラソルの女は、マンの傍に来て、

「あんたはん、気にせんといてや。あの人、あんな短気やけど、気は、ほんに、ええ人やさかい」

いいわけするように、そういって、案内の厚司男をうながして、帰って行った。

菊江が、呟くように、

「おマンさん、慾のない人じゃなあ、五円出すというのじゃけ、売ったらよかろうに。五円なんて金、わたし等が、一年働いたって、<ruby><rb>蓄</rb><rt>た</rt></ruby>まりゃせんのに」

「なに情ないこと、いうとるかね。今に、十円、百円の金を、あんな人たちの顔に、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っつけてやるよ」

マンの眼は、妖しく、ぎらぎらと光っていた。しかし、その黒眼勝ちの瞳は、うっすらと、涙でぬれている。

<ruby><rb>飯代</rb><rt>はんだい</rt></ruby>部屋の方から、玉井金五郎が、頭をかきながら、帰って来た。

「<ruby><rb>敗</rb><rt>ま</rt></ruby>けた、敗けた。どうも、今日は調子が悪い。<ruby><rb>甚</rb><rt>じん</rt></ruby>公から、二枚落しで、四番も立ち投げを食うた」

「金さん」

新之助は、吉田磯吉が、コレラ騒動の新聞を見て、今日、二人を晩飯に招ぶ、といっていることを、ひととおり、話した。

「どうする？　おれは、いやじゃが……」

「行ってみよう。吉田磯吉さんの名は、聞いて知っとる。どんな親分か、逢うてみたい。なんでも、ぶっつかてみんことにゃ、わからん」

金五郎の語調は、弾んでいた。

その夜、饗宴は、深更までつづいた。

山下松次は石炭荷役の請負師であるが、手遊びが好きで、土地は勿論、九州一円の顔役とは、その方面のひろい<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>があった。そして、山下邸で、四季に一度くらいずつ、相当大きな賭博が開帳される。今度は、その秋の集まりらしかった。

御馳走は、<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>のサシミ、チリである。人数は二十人ほど、女が五六人。吉田親分の名ざしで、特別に、金五郎と新之助とが、座に加えられた。

金五郎は、裏口から入り、座敷の襖をあけた途端、はっとして、胸がどきんと鳴った。眼を皿にした。

（ちがうらしい）

気抜けしたような、安堵したような気持で、心に呟いた。

席に侍っている女たちのうち、銀杏返しに結った、黒襟の若い女を、金五郎は見ちがえたのである。いつか、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>温泉の「四国屋」で逢った女、牡丹に蝶の<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をして、中盆と壺振りとを、あざやかな手さばきでやりながら、金五郎に声をかけて、にっこりと笑った女――横顔がそっくりだったので、その女かと思ったのだが、正面むくと、まるで、違っていた。

（ちがっていて、よかった）

あのとき、印象に残ったその女が、金五郎の心の中に占めている位置は、不可解なものであった。別に、どうと取り立てる感情でもなく、行きずりに見た花の記憶にすぎないのであるけれども、忘れている間にも、写真の乾板にいったん焼きつけられた映像のように、その全容が消えていなかった。

しかし、その花には、艶めかしさのほかに、危険な毒のようなものが感じられて、金五郎は、その女に、もう一度逢いたいと思っていたわけではなかった。だから、どきんとして眼を瞠った女が、別人であると知って、或る安堵感をおぼえたのである。

座には、白いドレスの洋装女が、二人いた。

金五郎と、新之助とは、肩をすぼめるようにして、末席に坐った。

大黒柱に背をもたせ、腕組みして、一座を、するどい鷹の眼光で眺めまわしているのが、吉田磯吉らしかった。黒い<ruby><rb>結城</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>の袷羽織、太い綱のような白縮緬の帯、角刈にしている頭髪の下に、<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かぬ気らしい、精悍な、面長の顔がある。眉が張り、心持尖った唇が、うすい。

吉田の両方に、劣らぬほどの剽悍な連中が、居ながれている。

（暴力団が、大層、えらそうにしとる）

威圧されそうなものに、反撥するように、金五郎は、強いて、心に、そう呟いた。

吉田磯吉が、山下松次に、なにか、耳打ちした。山下は、ぺこぺこしている。

「おうい、玉井に、森」

「はあ」

「吉田親分が、こっちに来い、って、いいなさっとる。お流れを下さるそうじゃ」

金五郎と、新之助は、吉田の正面に来て、坐りなおした。

「お前たちか」

吉田は、組んだ腕と、据えた眼とに、力を入れるようにして、二人を、無言で、じろじろと眺めた。

「玉井、とか、いうたな。君、幾つになる？」

「二十四になりました」

「二十四？……ああ、辰年じゃな。若いなあ。これからじゃ。そっちの……」

名前を思いださないらしいので、山下が横から、「森新之助と申します」と、註釈した。

「ああ、森君か。……君は？」

「二十四です」

「玉井と同い年か。どっちも、辰じゃね。辰は龍、威勢のええエトじゃ。わしは、慶応三年生まれ、兎じゃよ。三十七になる。兎じゃあ、二匹の龍殿の前では、勝負にならんなあ」

吉田は、そういって、高笑いした。

しかし、実際は――お前たちのような青二才が、二人かかって来ても、取るに足らん。……吉田の<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>は、はっきりと、そういっているように、金五郎の耳には、聞えた。

「まあ、顔を見知っといてくれ」

吉田は、左右にいる腹心らしい子分たちを紹介しておいてから、

「どうじゃね？　玉井も森も、その気があったら、いつでも、若松に来て、わしの家に、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>をぬぎない」

と、つけ加えた。

「おツタ、盃をやってくれ」

その吉田の言葉で、さっき、金五郎が道後の女とまちがえた銀杏返しが、銚子をさげて、にじり寄って来た。

「兄さん、ひとつ」

金五郎は、盃を受けとったが、

「吉田親分さんに、申しあげます」

「なんな？」

「この盃、親分子分の盃ではありませんでしょうね？」

「そういうことに、しても、ええ」

「いいえ、それなら、頂きません。それは、もうすこし考えさせて下さい。なんでもない酒なら、よろこんで頂戴します」

「大層、仁義がやかましいのう。君の好きなようにして、飲んだら、ええわい」

吉田は屈託なげに笑ったが、その表情には、不快そうなものが、露出していた。

この両者が、生涯を宿敵として、渡りあう運命の出発は、このときにしたのかも知れなかった。

酒がまわると、座はにぎやかになって来たが、やがて、吉田磯吉のなにかの話がはじまると、一座は、急に静まって、それに耳をかたむけた。

金五郎は、はじめの方は聞きそこなったが、どうやら、吉田の回想談らしかった。三四年前の出来事らしい。

酔ってはいても、すこしも乱れない吉田は、赤い顔に陶酔の面持を浮かべ、身ぶり手まねを入れて、<ruby><rb>咄々</rb><rt>とつとつ</rt></ruby>と、語る。

「その晩は、大雨降りでなあ、雷まで、ゴロンゴロン鳴りだしやがって、まあ、なぐりこみには、あつらえ向きといえんこともなかった。なにしろ、相手は<ruby><rb>江崎満吉</rb><rt>えざきまんきち</rt></ruby>、今でも、子分を何百人と持って、幅をきかせとるが、その頃は手のつけられん横暴の最中でな、紀元節の日に、決戦をやろう、ちゅうて、わしのところに、果し状をつけて来とった。それを、こっちから、先を越して、鼻を明かしてやれ、というわけで、ここに居る、友田喜造やら、大谷剛一、市川弥兵衛、松部五八郎、などの暴れん坊が、八人ほどで、夜討ちをかけたんじゃ。向こうは、不意を食ろうて、あわてたらしいが、喧嘩の準備は、ちゃんと、出来ちょる。竹槍、<ruby><rb>日本刀</rb><rt>どす</rt></ruby>、猟銃、ピストル、熊手、出刃、鎌――ようも揃えたもんじゃ。約束の刻限が丑満じゃったもんで、まだ、人数は半分くらいしか集まっとらん。吹き降りの大嵐の中を、こっちの同勢が、近づいて行くと、ポオン、ポオン、音がする。もう射って来たかと思うたら、四斗樽の鏡を抜きよったんじゃ。江崎満吉というのは、派手な奴でなあ、自分も大酒飲みじゃが、喧嘩の<ruby><rb>首途</rb><rt>かどで</rt></ruby>にゃ、どんな小人数のときでも、新しい四斗樽を買いこんで、景気をつけよった」

「その酒代は、払うたことがないそうですよ」

友田喜造が、横から、いった。

色のどす黒い、細い眼の奥が、<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>のように、底光りしている、中肉中背の男である。女のような声を出す。まくりあげた袖の下や、はだけた胸から、全身に<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をしているのがわかる。顔に、数ヶ所の傷痕がある。吉田磯吉の一の子分らしい。

「そうらしいなあ」吉田は、大笑して、「酒屋が掛け取りに行くと――金がいるのか。よし、払うてやる。長いのがええか、短いのがええか。……と、いうて、<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かすそうじゃなあ」

「喧嘩の話は、どうなりました？」

と、誰かが、催促した。

「うん、喧嘩は、いうまでもない。大勝利さ。第一、気がまえがちがうよ。江崎の方は、人数ばかり多うても、<ruby><rb>烏合</rb><rt>うごう</rt></ruby>の衆、同然。こっちは、一人々々が、一騎当千、この友田なんか、女みたよなやさしい声出しちょるが、国定忠治か、清水の大政小政にも負けん荒武者でな、その晩、敵を何人斬ったやら、わかりゃせん」

「わたし等より」と、友田喜造が、「おギンさんの働きが見事でしたよ」

「そうそう、おギンの活躍ぶりを、みんなに、見せたかったなあ」

「おギンさんというのは、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>ですか」

森新之助が、きいた。

「君等、なんにも知らんなあ。今、若松で、「ドテラ婆さん」ちゅうたら、ばりばりの女<ruby><rb>侠客</rb><rt>きょうかく</rt></ruby>じゃ。婆さん、というても、なにも、年寄りじゃない。三十五六の女盛りじゃ。また、ドテラ着とるわけでもない。角力取りみたいに、恰幅がようて、どっしりしとるもんじゃけ、いつか、みんなが、「ドテラ婆さん」なんて、呼ぶようになったんじゃ。でも、江崎との喧嘩のときには、今のように、肥えては居らんで、すばしこかったよ。両軍入りみだれての乱闘のまん中で、味方に、<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>を配ってまわったりしてな……」

それから、なお、勇壮で、けたたましい喧嘩の説明が、ながながと、つづいた。吉田磯吉の表情は、ほとんど、恍惚としていた。

金五郎が、はじめて、口を挟んだ。

「吉田親分さんに、お<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねいたします」

「なんじゃ？」

「さっきから、お話をうかがって居りますのに、親分さんが一向にあらわれませんが、そのとき、あなたは、どうして居られました？」

「おれか。おれは喧嘩場には、行かん。家に、居った」

それをきいた金五郎の眼に、失望と、軽侮のいろが、同時に浮かんだ。

吉田磯吉は、そんな、青二才の反応などには、全然、無頓着で、

「明治町辺から、<ruby><rb>本町</rb><rt>ほんまち</rt></ruby>三丁目筋にかけて、篠つく大雷鳴のなかを、<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>どおり、血の雨が降ったわけでな、なんちかんち、その荒けないことというたら、この友田の愛用の白鞘の一刀なんど、<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>の歯のようになっとった。おまけに、飴ン棒みたよに曲ってしもうたもんじゃけ、敵の刀をぶんどって、戦う始末よ。なにしろ、こっちは、進退、法にかのうた喧嘩上手ばかり、敵の人数の多いことなんて、恐れはせん。そしたら、……」

と、なおも、自分が顔役として売りだすきっかけとなった血闘談を、たのしげに、つづける。

――やがて、警察の手が入ったので、一時、子分たちは、地方に、身を隠した。吉田は、一歩も家から出なかったので、お構いなし。これには、町の長老や、有力者の諒解運動があって、これだけの大喧嘩がウヤムヤになった。ひとり、吉田磯吉の名声が高まったのである。

この騒動を機に、若松には、警察のほかに、憲兵屯署が設けられるようになった。

それから、吉田の話は、

「玉井、森、君たちは、まだ、苦労が足らんぞ」

という言葉から、若い時代の苦闘談になる。いつ尽きるとも知れない。

「おれは、川舟乗りじゃったよ。十六くらいのときから、船頭になって、えらい苦労をした。夏は、まあええが、<ruby><rb>冬分</rb><rt>ふゆぶん</rt></ruby>は死ぬ思いじゃったなあ。<ruby><rb>遠賀川</rb><rt>おんががわ</rt></ruby>の洲の岸に、<ruby><rb>水棹</rb><rt>みさお</rt></ruby>を立てて、それに、舟を綱で<ruby><rb>纜</rb><rt>もや</rt></ruby>う。寒風が吹きさらす。雪が降る。積荷の石炭の上にゴザをしいて、<ruby><rb>赤毛布</rb><rt>あかげっと</rt></ruby>一枚にくるまって寝たよ。今どきの若い者が、あたたかいものを充分に着こんでいながら、寒いなんち、いうちょるのは、ちゃんちゃら、おかしい。おれは、そんな時代でも、いっぺんでも、寒い、と、いうたことがない」

川舟乗りから、角力取りになるつもりで、大阪に出た。褌かつぎになって、地方巡業に廻った。山陽線は、まだ全通していない時分のこと、寒中、素肌に浴衣一枚、巡業の荷物を積んだ大八車の後押しをして歩いた。

それから、若松に来たが、日清戦争の風雲に乗じて、朝鮮にわたった。

「おれも、ゴンゾをやったことがある。じゃが、朝鮮では、支那人仲仕が大層えばっとってな、癪にさわってたまらんもんじゃけ、或るとき、船の現場で、二三人、海に投げこんでやった。そしたら、支那の領事館から、日本大使館に、強硬談判を持ちこんで来やがったよ」

吉田磯吉は、身をゆすって、大笑した。

「それから」

と、その後の来歴を語ってから、

「人間、裸一貫、ことに、男は、力と度胸――これじゃよ。……玉井、森、わかったか？」

そういって、吉田は、肩を怒らし、右拳で、厚い胸板を、つよく、ドスンと、たたいた。

煙にまかれた金五郎は、わかったような、わからぬような顔付で、返事をしなかった。

――裸一貫。

その一語だけが、自分流に、わかった。

翌日になって、ほぼ同じ刻限に、二つの事件が、おこった。

  


## 追放

<ruby><rb>巌流島</rb><rt>がんりゅうじま</rt></ruby>の見える桟橋横で、マンは煙草をのみながら、魚釣りを見物していた。

昼休みである。

魚を釣っているのは、彦島の諸式商「なんでも屋」の親爺、まだ、五十には遠いのに、すっかり頭髪が絶えてしまい、<ruby><rb>橙</rb><rt>だいだい</rt></ruby>色に光っている。釣り気ちがいで、店は女房まかせ、そのために、いつも、夫婦喧嘩の絶え間がない。喧嘩といっても、常に、細君の方の一方的勝利に終るので、「なんでも屋」は、<ruby><rb>嚊</rb><rt>かかあ</rt></ruby>天下として、鳴りひびいている。

マンは、ひやかす。

「あたしの林助兄さん夫婦と、おたくは正反対ね。兄さんの方は、亭主が威張っとって、オンピン・メンテレやけど、「なんでも屋」さんは、オンテレ・メンピンやわ。しっかりしなさいよ」

「そげんこというたって、世間には、オンテレ・メンピンが、多かとばい。まあまあ、女房には負けとくが、よかとたい」

「そんなだらしのないことで、どうするとですか。見とって、はがいいわ」

「フフフ……」

「なんでも屋」は、マンの顔を、じろじろと見て、妙な笑いかたをし、

「そりばって、マンさんが<ruby><rb>嫁女</rb><rt>よめじょ</rt></ruby>になったら、はげしいメンピンになるとじゃろうもん……？」

「あたし、亭主が理不尽なことせんかぎり、おとなしい、ええおかみさんになるつもりよ」

「そういえば」と、諸式屋は、なにか思いついたように、「マンさんは、玉井さんと夫婦になるそうじゃねえ？」

「誰が、そんなこと、いうの？」

「玉井さんが、話しよったばい」

「馬鹿にしとるわ。あっちこっち、自分でいいふちしとるのね。ボーシンさんからも、聞いたわ。……フン、自分で勝手にきめたって、あたしの知ったことか」

「そげんこつかい？　わしゃ、また、もう、話しあいでも、出来ちょるのか、と思うとったに。それで、二人が夫婦になったら、どっちもはげしかけん、オンピン・メンピンが出来るなんて、思うちょった」

「あたし、仲仕の女房になんか、なる気はないのよ。ほかに、いろいろ、考えとることがあるの。それに、まだ、結婚したいなんて、思うたこともない」

「早うはないがなあ……」

「早い、おそい、じゃないとです」

静かな秋の海に、糸をたれて、魚のかかるのを待ちながら、「なんでも屋」は、横目で、ときどきマンを見る。

飾りけのない<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby><ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>の仕事衣は、マンを、キリッと、甲斐々々しく見せる。そして、若さの内部に充実している、なにかの力が、マンに溌剌としたかがやきをあたえている。そのマンが、煙管で煙草を吸う手つきや、その味を心から楽しんでいる頬のふくらみと、眼のいろに、不思議な色気がある。化粧のことなど、考えたこともないのに、<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しいもので彩られて見える。

「やあ、食うた、食うた」

「なんでも屋」が、急いで、竿をあげると、また、小河豚である。

このとき、背後で、

「谷口マン、というのは、お前さんか？」

と、荒々しい声がした。

ふりかえると、四五人、遊び人風の、人相の悪い男たちが立っている。マンを、取りかこんだ。

マンは、びっくりして、立ちあがった。吸いつけていた煙草の火を、あわてて、<ruby><rb>帆前掛</rb><rt>ほまえが</rt></ruby>けで、もみ消した。

魚を釣りあげたばかりのところへ、突然、無頼漢があらわれたので、小胆な「なんでも屋」は、地面に、尻餅をついた。ふるえながら、そのまま、両手で、後すざりしはじめた。投げだされたヒガン河豚が、癇癪をおこして、まん丸くふくれあがり、石炭粉の中をはねまわっている。

「ちょっと、それを、<ruby><rb>収</rb><rt>なお</rt></ruby>すな」

マンが、麻袋のなかに、煙管と、懐中ランプを入れようとすると、一段と背の高い、顎のしゃくった、<ruby><rb>茄子</rb><rt>なすび</rt></ruby>色の、角刈の男が、マンの右手をつかんだ。

「なにを、なさるんです？」

マンは、手をふりきった。

「その懐中ランプを、こっちによこせ」

「いやです」

マンは、あわてて、麻袋も、煙管も、ライターも、いっしょくたに、ふところに突っこんで、上から、両手でおさえた。ぽっかりと、かたく盛りあがった二つの乳房が、久留米餅の仕事着の下で、かすかに息づいている。

「生意気なねえちゃんじゃなあ。四の五のいわんと、おとなしゅう出した方が、お前さんのためど。……見てみんかい。こんな立派な<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>さんたちが、四人も揃うて、お前さんから、懐中ランプを頂こうというて、わざわざ、お出ましになっとるんじゃ。それでも、楯つくつもりかえ？」

蛙を見こんだ蛇のように、茄子色は舌なめずりしながら、ギョロリと、眼を光らす。

それを合図のように、他の三人も、それぞれ、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>んだ恰好をつくり、ギョロギョロ、無理に、眼玉をうごかす。こう、四人もが<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>したら、手をくださずとも、小娘が青くなってふるえだし、懐中ランプをさしだすは必定と、胸算用しているらしい。

マンは、なんのために、彼等がやって来たかを、すぐに、悟った。

（あの、ハイカラ美人から、頼まれたにちがいないわ）

いったんは、懐中ランプを投げすて、<ruby><rb>捨台詞</rb><rt>すてぜりふ</rt></ruby>して去ったのに、よくよく、欲しくてたまらないのであろう。それで、やくざをさしむけたにちがいないが、女一人に、男四人とは仰山すぎる。現場には、男仲仕たちもいるし、「その懐中ランプは、ええ人から貰うたもの」などと、新之助がいったので、まさかのときの用心からかも知れない。しかし、マンは、魚釣り見物のため、現場を離れていたので、たった一人、<ruby><rb>掠奪</rb><rt>りゃくだつ</rt></ruby>団にとっては、もっけの幸というわけであった。

「さあ、出した、出した」

と、茄子色が、長い顎をしゃくる。

マンは、青ざめてはいたけれども、ふるえてはいなかった。きっと、唇を噛み、瞬時、ためらっていたが、ふところに右手をさしこんで、懐中ランプを取りだした。

「感心なねえちゃんじゃ。どれ、こっちに出しな」

長顎が、にたついて、そういったとき、マンの右手は高く伸びて、懐中ランプは、はるか海の彼方に、投げこまれていた。

青空に、銀色に光る小さなものが、弧をえがきながら、コポッと、波の上に、消えた。

「畜生奴」

四人の悪漢たちは、あっけにとられていたが、茄子色の男が、われにかえったように、怒りだした。歯糞のたまった、黄色い<ruby><rb>乱杭</rb><rt>らんぐい</rt></ruby>歯を、猿のように、むきだして、

「なんで、海に捨てやがった？」

「あんただちを、泥棒にすまいと思うたとです」

「泥棒に？……」

「あたしの持っている物を、無理に、取りあげたら、強盗でしょ？　だから、あたし、捨てたとです。捨てたら、もう、あたしのもんじゃない。どうぞ、海にもぐって、拾って下さい」

「この野郎、途方もないこと、ぬかしやがる」

茄子色の鉄拳が、マンの頬に飛んで来た。

しかし、掌は空間で空舞いし、男はよろめいて、味方の一人にぶっつかった。

「娘ッ子と思うて、甘くあつこうとりゃ、ええ気になりやがって……」

四人の男たちは、いっせいに、マンに襲いかかって来た。

マンは、袋の鼠になった。

ところが、もみあって、幾ばくも経たない間に、角刈の茄子色は、奇妙な<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声を発すると、そこへ、提灯をたたむように、へなへなと、坐りこんでしまった。顔色は大根葉色に変じ、眼も、口も、顎も、ひきつって、やがて、<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>をたらして、地面に伸びた。

「おいおい、どうした？」

他の三人は、おどろいて、ぐったりとなった兄貴株の男を、抱きおこした。

そのときには、もう、マンの姿は、どこにも、見あたらなかった。

「<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られたのか？」

三人は、きょろきょろと、悶絶男の身体中を探したが、どこにも、傷痕はなかった。血も出ていない。しかし、男は虫の息である。

桟橋のところへ降りた一人が、海水を、手拭に浸して来た。それをしぼって、人事不省の男の顔をぬらした。数回、そうすると、どうやら、意識を取りもどした。三人は大男を手取り足取りしてかつぎ、山下組の詰所の方に、去って行った。

詰所の裏に、<ruby><rb>飯代</rb><rt>はんだい</rt></ruby>部屋がある。独身仲仕たちの下宿である。もとセメント倉庫だったものを改造して、畳がしいてあるだけだが、広さは三十畳敷ほどもある。それが、三と一の割合で、男仲仕と女仲仕とに仕切られ、台所には、大きな五升釜が、三つならんでいる。

海の見える窓際で、向こう鉢巻をして、将棋をさしているのは、玉井金五郎と、山口甚七だ。二人は、昼休みを待ちかねて、将棋盤を持ちだす。甚七は「ノロ甚」という綽名があるが、将棋は彦島随一で、金五郎は、二枚落しで、どうしてもかなわない。負けん性が強いので、負ければ負けるほど、仕掛かって行き、また、負ける。今も、四苦八苦だ。

「おい、金さん、あら、なんじゃ？」

この島では見かけぬ遊び人が、一人を三人でかついで、窓の外を通るのを、甚七は指さしたけれども、金五郎は、ちらと<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>しただけ、「どうせ、つまらん喧嘩じゃろうよ」

と、<ruby><rb>雪隠詰</rb><rt>せっちんづめ</rt></ruby>になりそうな、自分の王将へ、情なさそうな瞳をかえした。

石炭の中に、腰をおろして、森新之助は、仲間たちに、前夜のありさまを、声高に説明していた。

昼食のときは、いつでも、こういう座談会のようなことになる。くたびれて、石炭のうえにごろ寝する者もあるが、たいていは、昼休みの一時間、馬鹿話に花が咲く。いずれ、仲仕たちのこと故、その場かぎりの<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>もない話、まず、定石どおり、「酒とばくちと女」から始まって、最近のトピックを拾う順序になるのだが、今日の「酒とばくちと女」の話題は、いつもの常套的な、退屈談とは、すこしちがっていた。

貯炭場の岸壁から、つながれている<ruby><rb>艀</rb><rt>はしけ</rt></ruby>に、<ruby><rb>歩</rb><rt>あゆみ</rt></ruby>板がわたしてある。今日は、艀積みをしているのだが、その艀の「カラス」という綽名の船頭も、珍しく、座談会に加わっている。「カラス」は、いつでも、

「お前らの話は、<ruby><rb>下作</rb><rt>げさく</rt></ruby>で、根も、葉も、シンものうて、聞いただけ損になる」

といい、一人で、<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>をのんでいるのだが、今日は、誘われもしないのに、太った身体を、歩板に乗せて、のこのこ、岸にあがって来た。

「なにや？　吉田磯吉親分を、お前が、蹴った？」

いきなり、焼酎くさい息で、わめくように、そういうと、石炭のうえに、どすッと、腰をおろした。

新之助は、びっくりして、

「誰も、おれが吉田さんを蹴ったなんて、話しはせん。聞きちがいすんな」

「それでも、さっきから、船のうえで聞いとったら、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>、吉田親分の盃をつっかえした、ちゅうて、話しとったじゃないか」

「そんな風に、いうたんじゃない。あんたは、そそっかしやじゃけ、すぐ、勘ちがいして、困る」

「今売り出しの吉田親分を、お前らのような若僧が、蹴ったちゅうから、おれは、かけつけて来たんじゃ。蹴ったのじゃないのけえ？」

「どうも、おっさんの話は、言葉が悪いなあ。蹴った、の、つっかえした、の、って。そうじゃないよ。玉井が――ただの酒なら、頂戴しますが、親分子分の盃なら、もうすこし考えさせて下さい。……そういっただけさ」

「ほれ、見ろ。それが、盃をつっかえして、蹴ったことになるんじゃ。<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>な奴じゃなあ。おれなら、よろこんで、子分にして貰うのに。お前ら、運を取りにがしたぞ」

「まあ、カラスのおっさん」と、横から、老人仲仕が、「そう、横から飛びだして、まぜくらんでくれ。今、話が面白うなりかかっとるところじゃけ」

新之助も、助け舟が出て、ほっとした面持で、一つ、咳をし、

「それで、江崎満吉が、吉田さんに、果し状をつきつけて、大喧嘩になるんじゃが……」

と、話をつづけた。

吉田磯吉の一の子分、友田喜造の刀が、鋸の歯のようになったところまで来たとき、足音がして、五六人の見なれぬ遊び人があらわれた。背はひくいが、眼の鋭い一人が、

「おい、おしゃべりしとる、そこの<ruby><rb>兄</rb><rt>あん</rt></ruby>ちゃん、ちょっと、向こうまで、顔を貸してくれんか？」

そして、ひょろ長い、<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>の一人が、新之助の腕をつかんだ。

新之助は、道具倉庫の裏に、つれて行かれた。

竹籠、スコップ、<ruby><rb>雁爪</rb><rt>がんづめ</rt></ruby>などが積みあげられ、赤錆になった<ruby><rb>錨</rb><rt>いかり</rt></ruby>が一本、足を切られた<ruby><rb>蛸</rb><rt>たこ</rt></ruby>のように、投げだされてある。その上にとまっていた一羽の雀が、どやどやと、やって来た人間の群におどろいて、海の方へ、飛び去った。

立ちどまると、新之助は、

「わたしに、なんぞ、用ですか？」

と、きいた。

新之助は、年よりはすこし<ruby><rb>老</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて見える。身体つきは頑丈だが、面長の色白で、整った顔立ちをして居り、癇癪持ちで、利かぬ気の半面、どこかに気の柔いところがあって、争いごとは好きではなかった。だから、遊び人たちに<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して来られると、はじめから、日ごろの敏捷さにものをいわせて、隙をうかがって、逃げだすつもりにしていた。

「おう、用がないのに、誰が呼ぶか」

と、相手は、もう、喧嘩腰である。

「どんな御用で？……」

「お前は、親分のおつれさんを、<ruby><rb>露探</rb><rt>ろたん</rt></ruby>というたそうじゃなあ？」

新之助は、ぎくっとして、

「いえそれは……」

「それはも、糞もあるか」

もう、そのときは、背後にいた一人が、新之助の腰を蹴飛ばしていた。不意を食らって、よろめくと、五人の男たちは、一度に、新之助にむらがりかかった。殴る。突く。蹴る。首をしめる。新之助がたおれると、めちゃくちゃに、顔といわず、頭といわず、胸、腹、手足の区別なく、下駄や雪駄で、踏みつけた。

新之助は、鼻血を出し、傷だらけになって、昏倒した。

「ざまみやがれ」

暴漢どもは、人事不省になって、だらしなく伸びている新之助に、まだ、唾をはきかけたり、足で泥をはねかけたりして、詰所の方角へ、意気揚々と引きあげて行った。

飯代部屋の中では、金五郎は、まだ、うんうん、<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>っている。雪隠詰になりかかった王は、やっと脱出したものの、今度は、うっかりしていて、王手飛車を食った。

「じたばたするほど、悪いどな」

「ノロ甚」は、にたついて、<ruby><rb>鉈豆</rb><rt>なたまめ</rt></ruby>煙管をひねくりまわしている。この将棋には、いくらか<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>かっているので、どちらも、真剣だ。

金五郎は、へこたれたが、意地っ張りなので、待ったはいわない。持駒と盤面とを等分に睨めまわして、起死回生の策を練っている。

「江戸ッ子なら、もう、投げる時分じゃがなあ」

そんな嫌がらせをいっていた甚七は、ふっと、窓の外を眺めて、

「金さんや、また、喧嘩らしいぞ」

煙管で、詰所の方角を指さした。

金五郎は、ちらと、そっちを見ることは見たが、すぐに、盤に、眼を落した。

「ほっとけ。喧嘩商売の奴なんか、相手にすんな」

「金さん、金さん、ちょっと、見ろよ。ありゃあ、森の新さんじゃねえか」

新之助の名をきいて、金五郎は、あらためて、顔をあげた。ガラス越しに、瞳をこらした。

仲間たちにかつがれて行く、血だらけの男が、親友だと知ると、新之助は、おッと叫んで立ちあがった。表に飛びだした。将棋盤がひっくりかえり、駒が散った。

それから、十分ほど後、金五郎は、顔面を怒りで紅潮させながら、山下親方の屋敷の方角へ、急いでいた。

（いくら、吉田親分でも、無道は、許さぬ）

病院へかつぎこまれた弟分の新之助のむざんな姿を見たときから、その憤りは、全身をふるいたたせていた。

新之助は、意識朦朧となって、口をきくことができなかったけれども、理由をきく必要はない、と思った。昨夜、親分子分の盃を拒否したことを遺恨の種に、子分をさしむけたにきまっている。貯炭場に来て、自分を探したが、いなかったので、新之助一人を槍玉にあげたのであろう。――金五郎は、そうと、信じた。

（男らしくない）

いつでも、自分はかげに隠れていて、子分を踊らせている。そんなのは、立派な親分とはいえぬ。――金五郎は、怒りと、蔑みと、憎しみとで、歯がみする思いだった。

いくつも黒い山になっている貯炭場の間を抜けて、町はずれに出た。そこから、山下邸の二階の屋根と、庭の銀杏とが、見える。

急いでいると、

「玉井さん、玉井さん」

と、呼びとめられた。

ふりかえると、「なんでも屋」の親父が、あわてふためいて、店から駈けだして来るところだった。橙色の禿頭を、太陽に光らせながら、金五郎に追いつき、息をはずませて、

「玉井さん、ちょっと、話がある」

「話は、また、あとで聞く。急用があるけ……」

「どこに行きなさる？」

「吉田磯吉親分に逢いに行くんじゃ」

「そんなら、ちょっと、わしの話も聞きなさい。まんざら、無関係のことでも、なかけん……」

「おっさんの話は長いからなあ」

「いや、一分。……三十秒でも、よか」

金五郎も、ただごとでないと悟って、ごたごたと品のならんでいる諸式商の軒先に入った。

「なんでも屋」は、奥の方で、赤ん坊を寝かせつけている女房に、気がねするように、おどおどした小声で、昼休み、桟橋横で起った事件を、かいつまんで話した。

マンの遭遇した危難の物語は、金五郎の怒りを、倍にした。

「よし、わかった」

と、ほとんど、血相を変えて、表に出た。

焼杉板の黒塀に沿って、山下邸の門をくぐった。昨夜のように、裏口からではなく、表玄関に回った。

「おごめん」

三度ほど、案内を乞うと、玄関番のにやけた「先生」が出て来た。厚司着で、突っ立ったまま、

「誰かと思や、金さんか。用があったら、勝手口に廻れや」

「願います。吉田親分さんに、コレラの玉井金五郎が、ちょっと、お目にかかりたい、というて、来て居ります、と、取り次いで下さい」

「吉田親分に、なんの用かや？」

「それは、お目にかかって、じかに、申しあげます」

「先生」は、うろんな眼つきで、金五郎を見たが、不承々々に、引っこんだ。

まもなく、出て来た。

「大将が、逢うてやる、といいなさっとる。わたしに、ついて来なさい」

「先生」に案内されて行くと、幾つも、廊下を曲った。

山下親方は、どこにいるのか、姿が見えなかったが、前夜の宴席にいた客人たちは、方々の部屋に、三々五々、屯していた。花札を繰っている組もあれば、女を加えて、酒盛をしている組もある。

突き当りの離れの前に来て、「先生」が、襖の外から、

「吉田の大将、玉井をつれて来ました」

「そうか、お入り」

「先生」が襖をひらくと、金五郎は、どきっとした。すぐに、馬鹿々々しくなって、赤面をした。部屋の中にいた女を、また、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の女とまちがえたのである。

寝そべった吉田磯吉の腰をもんでいる、銀杏返しに黒襟の女は、金五郎から見える位置では、横むきになっていて、またも、金五郎に錯覚をおこさせた。こんなに横顔の似ている女は珍しい。それとも、一度逢ったきりの女を、こんなにも、明確に、記憶に再現する金五郎の方が、珍しいというべきか。

吉田は、腹這いになったまま、にこにこと、

「やあ、玉井君、よう来たなあ。遠慮せんで、中に入んなさい」

「失礼します」

金五郎は、六畳の座敷に入り、正座した。

「そう堅くならんと、楽にしたら、ええ。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>は失敬したなあ。よう遊びに来てくれた」

「ようも、参りません」

「大層、気色ばんじょるが、どげえかしたのかね？」

「吉田親分さんに、話があって参りました。ちょっと、起きて下さいませんか」

「どげな話か知らんが、くたびれちょるけ、これで、こらえてくれ。話次第じゃあ、起きんこともないが……」

「それでは、そのまま、聞いて下さい」

金五郎は、激昂して来る胸の虫をおさえて、ぐっと、生唾をのみこんだ。

「森新之助は、半死半生になって病院にかつぎこまれました」

「へえ、そりゃ、また。……いったい、どげえしたとな？」

「袋叩きに逢うたからです」

「誰に？」

金五郎は、白を切る吉田の顔を、槍の絆で睨みつけて、

「親分さんが、それを、わたしに聞きなさるとですか」

「知らんことは、聞かにゃわからんよ」

そうさりげなくいったが、吉田は、なにかに気づいた様子で、「おツタ、ちょっと待て」と、女の按摩の手をとめると、むっくりと、起きあがった。茶襟のついた銘仙の丹前を着ている。

「玉井君」

と、あらたまった語調で、吉田はいった。

「はあ……？」

「わかった。君は、なんか、勘ちがいしとる。森君が怪我したのを、おれが指図したと思うとるんじゃな。おれは、なにも知らん。それは、どうで、後でわかろう。じゃが、おれがさせたように思われたのは、おれの不徳のいたすところじゃ。どんなことか知らんが、子分がしたことなら、おれが<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>る。すまん。いずれ、正式に挨拶はするが、勘弁してくれ」

吉田は、そういって、軽く、頭を下げた。

金五郎は、気抜けがした。瞬時、ぽかんとなった。次第に、赤面する気持になって来て、座にいるのが、苦痛になった。

「失礼いたしました。それだけ、申しあげれば、用はすみましたとです」

吉田が、両手をあげて、

「まあ、玉井君、ちょっと待て。まだ、話が……」

と、とめたが、逃げるように、廊下に出た。すたすたと、入って来たときの落ちついた足どりとはちがった、狼狽の歩調で、客人たちのいぶかる中を、表玄関に出た。

（おれの馬鹿）

軽率が悔まれた。よく事情も<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>さず、一途に、思いつめて行動したのだが、若さから来る客気の頼りなさを、したたかに、思い知らされた。

（こんなことでは、駄目じゃ）

そう自省する反面、とりかえしのつかぬことをしてしまったような悔恨と、焦躁とが、はげしく、金五郎を<ruby><rb>苛</rb><rt>さいな</rt></ruby>んだ。

「そそっかしくて、早合点しました。すみません」

と、何故、率直に、いえないのか。

吉田は――自分の知らぬことだが、子分のしたことなら、自分が謝る、すまぬ、といって、一介の沖仲仕の前に、頭を下げたではないか。金五郎は、昨夜から作りあげていた、勝手な吉田磯吉とは、別個の吉田磯吉に、威圧を感じた。

谷口マンのことをいうつもりだったのに、それどころではなかった。いわなくて、よかった。懐中ランプなどを、吉田磯吉が子分を使って取りあげさせる筈がない。

金五郎は、足が重くなった。次第に、あたりが黄昏れて、暗くなるような、奇妙な不安感に包まれて、唇をかみかみ、歩いた。

（龍になって、昇天するなど、おこの沙汰じゃ。あべこべに、地に<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>らねばならん）

涙のにじむ思いで、自分を叱りとばした。

飯代部屋に、帰って来た。

誰もいない。がらんとしている。さっき、新之助の遭難をきいて飛びだしたとき、蹴ちらした将棋の駒が、散乱したままになっている。

金五郎は、そこに、坐ると、静かに、将棋の駒を拾いあつめた。飛車を手に取り、裏返して、龍の字を眺め、将棋盤の中央に、心をすますようにして、パチッと、打った。

金五郎は、部屋の隅にある柳行李を引きよせた。これが、全財産である。蓋を取り、ごたごたと詰めこんである衣類を持ちあげて、底の方に、手をさしこんだ。

（おや？）

と、不審の面持になった。

急に、あわてて、中をまぜかえした。

「ない」

顔色を変えて、呟いた。

<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>湯の町で買いもとめた<ruby><rb>助広</rb><rt>すけひろ</rt></ruby>の小刀、故郷を飛びだすときにも、どこを放浪しても、常に、肌身はなさず持ち歩いたのである。

（盗まれたか？）

悪いときには、悪いことが重なる。乱れた心を、助広の美しい肌を眺めて、落ちつけようと思ったのに、碌なことはない。――と、金五郎は、いよいよ腐った。

「金さん」と、いつ入って来たか「ノロ甚」が、「短刀じゃろ？　ありゃあ、おマンさんが借りてゆくちゅうて、持って行ったどな」

「なんて？　おマンさんが、おれの短刀、持って行った？」

金五郎は、唖然とした。

「おれが、一人で、ここに寝ころんどったらな、おマンさんが入って来て――金五郎さんをいくら探しても、姿が見えん。相談して借りようと思うたけんど、居らんけ、仕方がない。急に、要ることが出来たけ、借りて行きます。あんた、証人になっといて。……そんなこというてな、その行李の中から、取りだして持って行ったよ」

金五郎は、立ちあがった。

貯炭場に、行ってみた。もう、みんな午後の仕事にかかっている。

探すまでもなく、マンの姿は見えた。雁爪を持って、入れ鍬をしている、きびきびした働きぶりは、いつもとすこしも変りがない。

金五郎は、狐につままれたような気がした。

マンは、金五郎の姿を見つけると、雁爪をおいて、かけ寄って来た。声を落して、

「金五郎さん、あなたの留守に、刀を借りました。吉田の子分が、仕掛けて来るかもわからんと思うたもんじゃけ……」

「刀は？」

「石炭の中に、隠してあります」

指さすところを見たけれども、黒い石炭だけで、なにも見えない。帆前掛けを外しているから、それにくるんで、埋めてあるのであろう。

（この女は、無頼漢どもが仕返しに来たら、刀を抜いて、戦うつもりじゃ）

金五郎は、マンの若々しく、どこか、あどけないところさえある顔を、おどろきの<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、あらためて、見なおした。

（こういう女を、女房にしたい。これは、女の龍かも知れない）

男龍と女龍とが、仲よく、二匹ならんで、黒雲をかきわけながら、ぐんぐん、昇天してゆく幻影が、金五郎の眼に、ありありと、浮かんだ。さっきから、悄然と、地に潜る不景気な龍のことばかり考えて、気の滅入っていた金五郎は、マンの雄々しさに勇気づけられて、すこし、元気が出た。しかし、言葉では、

「おマンさん、女だてらに、あまり、事を荒立てん方がええよ」

と、たしなめた。

「それでも、身にふりかかる火の粉は、払わにゃならんけ」

「まあ、ならず者がやって来たら、逃げときなさい。……わたしは、ちょっと、森のところに、行って来る」

金五郎は、貯炭場を出た。

仲仕たちは「病院」といいならわしているが、実際は小さな小児科医院である。松野医師は子供専門なのだが、近くに医者がいないので、いつの間にか、仲仕たちの怪我人をかつぎこむ、外科医院みたいになってしまった。

石炭酸くさい廊下を抜けて、新之助の部屋に行った。若い代診に出逢ったので、容態をきいでみた。傷は二十三ヶ所ほどあるが、派手なばかり、どれも浅いから、命には別状ない――それを聞いて、安堵した。

病室の扉を、あけた。

金五郎は、ノッブを握ったまま、ちょっとの間、立ちすくんだ。まっ白に光る着物が、まず眼に入ったので、看護婦かと思ったのに、それは、昨日見た、洋装の、ハイカラ美人のうちの一人であった。

「玉井はん、おいでやす」

女の方から、声をかけて来た。

「<ruby><rb>今日</rb><rt>こんち</rt></ruby>はあ」

と、仕方なく答えたが、金五郎には、なんのことやら、えたいが知れない。語調もぶっきらぼうで、怒ったようだった。

うすぎたない部屋の中に、いきなり、不似合な百合の花束を投げこんだようである。下ぶくれの丸顔で、眼元の涼しい女は、どこか打ち沈んだところがあって、おどおどしてさえいた。唇の右下にある大きな黒子が、女の顔に<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しい色気を附与している。金五郎は、たしか、この女の名は<ruby><rb>君香</rb><rt>きみか</rt></ruby>というのだったと、昨夜の記憶を呼びおこした。ベッドの枕元に、ボンネットと、緑色のパラソルと、黒い絹の手袋とが、置いてある。

「新公、どうかい？」

壊れた人形を修繕したみたいに、全身、繃帯でつつまれている森新之助は、絆創膏だらけの顔を、苦しそうに、友達の方に向けた。

「殺されたかと、思うたよ」

「コレラより、よっぽど、人間の方が恐しいのう」

「ほんとに、すみまへん」と、君香は、美しい顔に、消え入りたいような、陳謝の表情を浮かべて、

「なんというたらええか、わからしまへん。あて、なんにも知りへんのに、こんなことになってしもうて。あてらのこと、森はんが、<ruby><rb>露探</rb><rt>ろたん</rt></ruby>やいうた、いうて、誰や、おたくの組の人が、来やはったけど、あて、そんなこと、なんとも思わんね。ほたら、子分さんたちが、森はんとこ仕掛けて行ってこないなひどい目にあわせて、……忠義だてらに、要らんことばっかり……吉田の親分さんは、玉井はんから、話聞きはった、いうで、あてを見舞によこしはりました。少いけど、膏薬代を、といやはって、ここに、あずかって来て居ります」

「そんな銭、要らん。馬鹿にすんな」

新之助は、苦痛に歪む顔で、唾を吐きだすようないいかただった。

「君香さん、よくわかりました。吉田親分さんのお志、ありがたく頂戴いたして置きます」

「こら、金さん、そんな汚れた銭、受け取んな」

「まあ、おれに委せとけ」

金五郎は、そういって、君香から、「御見舞」と、表に、太く墨書された、部厚な<ruby><rb>慰斗</rb><rt>のし</rt></ruby>袋を受けとった。

「ほな、また、参ります。お大事に」

君香は、傘と帽子と手袋とを取ると、新之助の方にも、叮嚀に挨拶して、部屋を出て行った。しばらく、えもいえぬ芳香が、部屋のなかに、残っていた。消えるのが惜しいようである。

「敵は、どこに居るか、わからんなあ」

椅子に腰をおろすと、金五郎は、しんみりと、述懐するような語調で、呟いた。

新之助がうっかり口を辷らせた「露探」という言葉を、誰か、山下組の仲間が密告しているのである。

（世の中は、むずかしい）

人と人との関係、そのつながり、結びつき、などの複雑さ、人間の外にも、内にもいる「敵」というもの、若さの美しさと危険、これからの生きて行く前途を考えて、唇をしっかりと結んだ金五郎の厚い胸に、いろいろな想念が浮かんだ。

数日が、過ぎた。

また、なにかの波瀾が起るかと思われたが、意外にも、颱風が一過したに似て、平静だった。吉田磯吉が、子分たちを一人残らず引き具して、彦島を退散したためであろうか。

しかし、この彦島での出来事は、歴史的なものといってよかった。その禍根と、影響とは、誰が考えたよりも、はるかに、深く、遠いものとなったのである。

秋の雨が降った。それが、石炭を黒光りさせ、巌流島の横流しになった松を、よみがえらせたように、緑に染めた。晴れると、日ごとに、空も、海も、青の濃さを増す。

或る日の夕方、松野医院に、新之助を見舞に行っての帰途、道具倉庫の横で、金五郎は、マンに、呼びとめられた。

「これは、おマンさん、なんぞ、用かね？」

「ちょっと、ここまで」

金五郎は、普段着のマンが立っている、錨の傍に行った。

もう黄昏れて、煙って来た海上からの風が、冷たい。船も、対岸の門司も、灯をちりばめて、汽笛が、ときどき、海峡の空気をふるわせる。

「金五郎さん」

「うん」

「困りますよ」

「なにが？」

「あなた、方々に、あたしと夫婦になる、というて、いいふらしていなさるらしいけど、自分勝手にきめたとて、あたしは知らないわ」

「そうかね？　困るかね？」

「あたりまえじゃないですか。大迷惑やわ」

「そうかなあ……？　わたしは、なにも、いいふらして歩いたわけじゃない。人から――玉井さんも、もう、おかみさんを貰うて、身をかためたら、どうか。……とか、ええ<ruby><rb>嫁女</rb><rt>よめじょ</rt></ruby>を世話しようか、とか、いわれるもんじゃけ、そのたびに――いや、結構、わたしは女房貰うなら、谷口マンさんのような女が欲しい、と、いうたまでじゃ。他人の口に移ると、なんでも曲ってしまう。あんたと夫婦になる、って、いいふらすなんて、そんなこと、するわけがない。でも、わたしが、そう思うとることをいうのが、あんたに、そんなに、迷惑かね？」

「迷惑ですとも」

「困るかね？」

「困りますよ」

「そうか。それは、すまんじゃった。わたしはあんたが好きじゃし、ひょっとしたら、あんたも、わたしに好意を持ってくれやせんじゃろかと、思うたもんじゃけ、うっかりしたこと、いうた。勘弁しておくれ。もう、いわん。……わたしに、話があるというたのは、このことな？」

「そうです」

「そんなら、今いうたとおりじゃ。……さよなら」

金五郎は、くるりと廻ると、すたすたと、飯代部屋の方へ、去って行った。

その後姿を眺めるマンの眼に、不思議な狼狽の光がただよっていた。

夕食時間なので、飯代部屋も、夫婦長屋も、これから食事がはじまるところである。マンの黒眼勝ちの瞳には、珍しく、ブラジルの天地を望む強い光より、家庭を恋している、柔い光がにじみ出ていた。

また、数日が、過ぎた。

金五郎は、どうしても、「ノロ甚」にかなわないので、躍起になって、連日、挑戦した。しかし、いつも、鴨になる。今日も、昼休みに、将棋をさしていると、「ノロ甚」が、いつもとすこし違う緊張の面持で、

「金さん」

「あン？」

と、顔をあげた。

「うちの親方が、大層、あんたに、機嫌が悪いそうなで」

「なんで？」

「いつか、吉田親分のところへ、乗りこんで、かけあいに行っとろうが。あのことで――玉井の奴、おれをさしおいて、じかに、吉田の大将に面会するなんて、生意気な奴じゃ。おれの顔をつぶした。……ちゅうて、はげしゅう、怒っとるそうじゃ」

「ふウン……」

それから、また、二三番、さした後、

「金さん」

「あン？」

「あんた、谷口のおマンさんと夫婦になるそうじゃなあ」

「誰が、いうたな？」

「おマンさんが、自分で、いいよった」

金五郎は、そのことを聞くのは、はじめてではなかった。この二三日、どこに行っても、それをいわれる。それというのが、マンが、誰彼に逢うごとに、「金五郎さんの嫁女になる」と、いいふらしているらしかった。その癖、マンは金五郎に出あっても、つんと横をむいて、ものもいわずに、通りすぎてしまう。

金五郎は、苦笑する。

（おかしな女じゃ）

その夕方、新之助の見舞に行くと、君香がいた。毎日、来ているらしい。派手な洋装はやめて、簡単服のような、質素な風をしている。どこにも、ボンネットや、絹手袋、パラソルのようなものは見あたらなかった。

（なんだか、妙じゃな）

と、金五郎は、直感した。新之助と君香との関係が、あたりまえでない。――そう、気づいたのである。

もう、繃帯はほとんど取っている新之助は、ベッドの上に、坐れるようになっていた。

友人を見ると、にこにこと、

「おめでとう」と、いった。

金五郎は、眼をぱちくりさせて、

「なにが？」

「おマンさんと、いよいよ、式をあげることに、定まったそうじゃないか」

「そんなこと、誰がいうんじゃ？」

「今さき、おマンさんが見舞に来てくれてな、そういうとった」

君香が、横から、微笑を浮かべて、

「あの、懐中ランプを海にほりこんで、遊び人を向こうに廻して、勝った人でっしゃろ。面白い人やわ。あんたはんと、こんな似あいの夫婦はあらへん」

「金さん、おれが退院するまで、<ruby><rb>祝言</rb><rt>しゅうげん</rt></ruby>をのばしといてくれよ」

こういう風になって来ると、話は早かった。

「なんでも屋」が、仲介役を買って出て、玉井金五郎と谷口マンとは、結婚した。

彦島の<ruby><rb>弟子待</rb><rt>でしまつ</rt></ruby>に、小さい家を一軒借り、はじめて、世帯を持った。

四畳半に、三畳、それに、台所と便所とがついている。古ぼけて、屋根と壁との落ちた家、畳は破れ、天井も穴だらけ、夜になると、鼠と、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>と、蚤とが、しきりに活躍する。新婚家庭は、荒廃のかぎりをつくしていた。

新鮮なのは、金五郎とマンの心だけである。

「とうとう、一緒になったなあ」

「ウフフ……」

顔見あわせて、奇妙な含み笑いをしあう二人の心は、この結合の宿命を、おたがいの胸で、しっかりと、うなずきあっているようであった。

森新之助のいったように、

「あんただち二人は、生まれん前から、夫婦になることが、定まっとったんじゃよ」

金五郎も、マンも、そんな気持がしていた。

男は四国の田舎を出発した。女は広島の山奥を出発した。どちらも、みずからの意志によって、飛びだして来たのではあるけれども、逆にいえば、追放されたに似ていた。そういう二人の<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>は、単なる偶然ではないような気がする。一点から伸ばされた二本の太い綱で、ぐいぐいと、二人、同じところへ引きよせられたような、運命的な気持が、金五郎の胸も、マンの心も、領していた。

もとより、二人とも、この小さな島で、仲仕生活をしながら、一生を終る気持は毛頭なかった。寝物語は壮大である。

「わたしは、ゆくゆくは、支那大陸に渡って、一旗あげるつもりじゃ」

金五郎が、そういえば、

「あたしは、ブラジルに行って、大農場を経営したいわ」

マンは、眼をかがやかして、それをいう。

青春の夢の構図は別々で、方角は西と東とに別れていたけれども、雲を望む漂泊と放浪の思いは共通していて、どちらも、これからの人生の難行路を歩むのに、よい伴侶を得た、と満足していた。夢も健康であれば、肉体も健康であった。

下関の街に揃って出て、世帯道具を買いととのえた。あまり一度に買うと、楽しみがなくなるので、一つずつ、間に合わせの物から買った。といっても、貧乏生活で、<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>一本買えず、ただ、鍋、釜、バケツ、水がめ、米とぎ桶、<ruby><rb>飯台</rb><rt>はんだい</rt></ruby>、箸、茶瓶、などというような、まったく、食うに必要な、最小限度のものばかり、新夫婦のくるまって寝る蒲団も、「なんでも屋」から、借りたものだった。

それでも、ぼろ家の表に、「玉井金五郎」と、自分でしたためた表札を出すと、一家の主人のような気持になる。金五郎は、小学校も満足には終えていなかったが、独特の、どっしりした、肉太の字を書いた。

「うまいもんじゃなあ」

「なんでも屋」が、表札の字を見て感心し、自分の店の看板を頼みに来たりした。

ところが、二人の新家庭は、僅か二週間と続かなかったのである。

山下松次の命を受けたといって、<ruby><rb>助役</rb><rt>ボーシン</rt></ruby>がやって来た。

「お前たちは、すぐに、山下組を出てくれ。親方もこれまで我慢しとったが、どうも、お前たちのため、吉田親分に、顔が悪うなってしもうた。彦島から、一時も早う、足を抜いてくれ」

「承知しました」

と、金五郎は答えた。抗弁する気持は、はじめからなかった。

助役が帰ると、マンがいった。

「金五郎さん、これから、すぐ、出ましょうよ」

「そんなに急がんでも、ええ。新公にも、ちょっと、相談があるけ」

「あたし、こうなったら、もう、一分も、こんなところに居るの、いややわ。それに、新さんはいませんよ。今朝、あたしが飯代部屋に寄ったら、昨日から、別府温泉に行って、半月ほど帰らん、ということでした」

「そうか」と、金五郎は、沈痛に、首を振って、「君香と一緒じゃな。傷の療養に行くのはええが、どうも、あの君香と、変な風になるのは、感心せん。新公も、考えが足らんなあ。君香は、誰か、……吉田磯吉じゃないらしいが、……その身内の、うるさい奴の二号らしいけ、どうせ、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なこたない。いっぺん、忠告しようと思うとったんじゃが……」

「<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>さんの誘惑にかかると、男って、もろいのね。金五郎さんも、そうとちがうの？」

「馬鹿なこと、いいなさんな」

「どうか知らん……？　わたしのほかに、女でもこしらえたら、承知せんけん」

「お前こそ、<ruby><rb>間男</rb><rt>まおとこ</rt></ruby>すんなよ」

若夫婦は、はじめての焼き餅喧嘩の真似ごとをして、げらげらと、笑いあった。

マンの意見にしたがって、すぐに、出発することにした。

「なんでも屋」や、「ノロ甚」は、おどろいたけれども、金五郎とマンとが、格別に悲しんでいる様子もないのを見て、いくらか、安堵した。島を追われる二人は、かえって、勇気凜々としているようにさえ見えた。

陰険な山下松次は、はじめから終いまで、顔を出さない。しかし、なにかの指命が組内に発せられた模様で、金五郎とマンが島を出て行くのに、仲間は、一人も姿を見せなかった。

桟橋まで、「なんでも屋」と、「ノロ甚」とが来ただけである。伝馬船に、世帯道具を積んだ。「ノロ甚」が、櫓を漕ぐ。「なんでも屋」は、餞別に、金五郎夫婦の寝ていた<ruby><rb>煎餅</rb><rt>せんべい</rt></ruby>蒲団を、二枚くれた。

関門海峡には、どんよりとした雲が映って、重苦しい波が騒いでいる。

「さようなら、達者でな」

そういう「なんでも屋」のしょぼついた眼に、いっぱい、涙がたまっていた。

巌流島の横を通って、門司の岸壁に、伝馬船をつけた。

櫓をこいで、ふたたび、彦島へ帰って行く「ノロ甚」に、金五郎は、

「今度、逢うときは、将棋がお前より強うなって、コテコテに、やっつけてやるぞ」

と、<ruby><rb>闊達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>にいった。

<ruby><rb>戸畑</rb><rt>とばた</rt></ruby>まで行くつもりで、門司駅に行った。困った。汽車賃一人十七銭なのに、三十銭しかない。四銭、足りない。そのころ、米一升、十二銭であった。

「歩きましょう」

と、マンがいった。

「うん、仕方がない」

蒲団、柳行李、信玄袋、鍋、釜、米とぎ桶、茶瓶、などを、それぞれ、分担して、身体につけ、乞食のような恰好で、海岸添いの道を歩いた。四里ほどの道のりである。

前途は、暗澹としていた。

明治三十六年、十一月。

玉井金五郎、二十四歳。

谷口マン、二十歳。

  


## <ruby><rb>仇花</rb><rt>あだばな</rt></ruby>

二年ばかりが、過ぎる。

日露戦争は、日本の勝利に終った。

<ruby><rb>対馬</rb><rt>つしま</rt></ruby>の近い北九州では、日本海々戦の砲声が、遠雷のように、聞えた。全滅したバルチック艦隊の敗残兵が、ボートに乗って、近くの海岸に流れつく事件があって、百姓や漁師たちが、鍬、鎌、櫓などをふりまわす珍騒動がおこった。

連日、威勢よく、号外のリンが、町々、村々を、かけまわる。

「どうやら、勝ち<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>らしいのう」

「ロシヤのような大きな国に仕掛かって、日本みたいな小さい国が、ようも、ここまで、やったもんじゃ」

「図体が大きいばかりじゃあ、なんにもならん。小そうても<ruby><rb>山椒</rb><rt>さんしょ</rt></ruby>はピリッと辛い。正義には、勝てるもんか」

「それでも、旅順が、なんぼ攻めても落ちんころには、ひやひやしたのう」

「日本が勝ちゃあ、港も、景気が出るばい。そん時は、ゴンゾ様々たい。……なあ、ボーシン」

呼びかけられて、金五郎は、帳面をつけていた手を休めた。

「なんか、いうたな？」

「ロシヤが負けたら、港の景気も出て、こちとらゴンゾも、芽が出ろう、というたとよ。ボーシンの考えは、どうじゃ？」

「そら、芽が出るじゃろうよ」

金五郎は、仕方なく、そう答えたが、彼の厚い胸の中の芽は、そんな、ここの港だけのような小さな芽ではなく、支那大陸へおろされ、すくすくと伸び、無限にひろがる壮大な芽であった。

（いよいよ、宿願の大陸へ渡れる時期が近づいたぞ）

金五郎の<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>は、遠い空を望む。

金五郎の着ている印半纏の襟には、両方に、永田組の文字が染め抜かれ、上部に、助役と、赤で入れられてある。助役をボーシンというのは、汽船用語のボースンが<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>ったものらしく、一つの組の世話役を意味している。ボーシンとて、一介の仲仕であることに変りはないけれども、ともかく、金五郎は、二年間の苦闘によって、一つの組の切り盛りをする立場まで、こぎつけることが出来たのであった。

二年前、妻と二人、彦島を追われて、放浪の旅に出たとき、

「どこに行っても、これというて、心服の出来る親方というのは、居らんなあ」

と、述懐しあった。

裸一貫――力と頼むのは、自分たちの身体だけしかない。金があれば、とっくに支那大陸か、ブラジルかに渡っている。でなければ、なにか、商売でもはじめているかも知れない。また、学問があれば、ちがった道の歩きようもあろう。無学で、無銭、ということになれば、資本は、ただ若く力の溢れた肉体一つ、そして、労働が生活の方便となるほかはなかった。金五郎夫婦は、その身体を、粉にして、働いたのである。

「なんでも屋」が、「まあ、行ってごらん」といって、紹介状を書いてくれた。戸畑の永田組で、どうやら、二年間、落ちついたのであった。

二千トンの高野山丸の<ruby><rb>船橋</rb><rt>ブリッジ</rt></ruby>を、初秋の風が吹き流れる。昼休みの弁当を食べ終った仲仕たちの多くは、甲板や艀などに横になって、昼寝をしている。

帳面をつけ終った金五郎は、ブリッジのデッキから、はるか下につながれてある、伝馬船の艦に向かって、声をかけた。

「おうい、マン」

マンは、顔を上げて、下から、笑いかけた。

「釣れるかあ？……」

「ほうれ、こんなに」

マンのさしあげた小籠に、十匹ほどの<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>が入っている。針金で縁をつくった丸い網に、イワシの頭を入れ、ラムネの空ビンをオモリにして沈めると、蟹がかかる。

「お前のおかげで、毎日、おかずは買わんですむのう」

「米も一緒に釣れると、まだ、ええけんどね」

上と下とで、そんな話をして笑いあっているのを、艀の舷に、仰むいて寝ころんでいる、<ruby><rb>角助</rb><rt>かくすけ</rt></ruby>という仲仕が、憎々しげな横眼で、睨んでいた。

まさか、顔の形から名をつけたのでもあるまいが、角助の顔はほとんど四方形である。色が青黒く、頬骨がつき出ていて、唇がひどく厚い。髯の生えかたがまばらで、不潔な雑巾のような感じがする。四十をいくつか過ぎていようか。魯鈍と、陰険と、残忍さとが、犯罪者じみた顔に、露骨にあらわれている。

（生意気な新参野郎奴）

と、その白濁した眼は、あきらかに、そういっていた。

永田組に、平尾角助は、もう、五年以上いる。順序から行けば、彼が助役になるところだが、新米の玉井金五郎から、見る間に追い越された。角助は、金五郎を憎むとともに、親方の永田<ruby><rb>杢次</rb><rt>もくじ</rt></ruby>を恨んでいた。

金五郎は、デッキにもたれて、港内を見わたした。

<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>の風景は、関門海峡とは、また、趣を異にしている。

瓢箪形の巨大な入海は、<ruby><rb>戸畑</rb><rt>とばた</rt></ruby>、<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby>、若松、という三つの町に取りかこまれ、<ruby><rb>中島</rb><rt>なかのしま</rt></ruby>、<ruby><rb>葛島</rb><rt>かつらしま</rt></ruby>という二つの島を浮かべている。小倉の<ruby><rb>足立山</rb><rt>あだちやま</rt></ruby>、八幡の<ruby><rb>帆柱山</rb><rt>ほばしらやま</rt></ruby>、若松の<ruby><rb>高塔山</rb><rt>たかとうやま</rt></ruby>などの山々が、この湾を包んで、八幡製鉄所をはじめとする大小工場の煙突が林立し、煤煙が空を掩っている。港の中の多くの船舶、沿岸を走る汽車――そういうすべてのものの底から、湧きあがって来る力動的な騒音。

（ここの港は、生きている）

金五郎は、洞海湾の溌剌とした鼓動が、じかに、自分の心臓にふれて来る思いで、この風景に、不思議な魅力を感じた。

しかし、視線が、若松の方に移ると、金五郎の顔が、しかめ面になる。

（若松はうるさいところじゃ。吉田磯吉親分をはじめ、江崎満吉、友田喜造、ドテラ婆さん、などという暴力団が、たくさんいる。若松は、行くところでも、住むところでもない）

金五郎は、若松を敬遠する気持が強かった。

「金さんよい」

呼ばれて気がつくと、<ruby><rb>艀</rb><rt>はしけ</rt></ruby>の<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>に寝ていた筈の角助が、横に、立っている。

「なんですか？　角さん」

金五郎は、角助が、日ごろから、自分に悪感情を抱いていることはよく知っていたが、格別警戒する気持はなかった。

角助は、醜悪な顔に、狡そうな笑みを浮かべて、

「あんたに、頼みがあるんじゃ」

「どんなこと？」

「おれを、<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>け者にせんでくれ」

「角さんを、誰も退け者にしやせん。それは、ひがみですよ」

「おれを押しのけて、あんたがボーシンになったことは、おれに力がないんじゃけ、もう、いわん。じゃが、永田組では、おれは古参じゃけ、<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>には<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して貰いとうないなあ」

「意味が、よく、わからん。はっきり、いうて下さい」

「今度、<ruby><rb>聯合組</rb><rt>れんごうぐみ</rt></ruby>の秋の遠足で、<ruby><rb>武蔵温泉</rb><rt>むさしおんせん</rt></ruby>に行くちゅうじゃないか」

「そうらしいです」

「それに、おれを入れてくれ」

「そんなこというても、わたしは下ッ端じゃから、わたしの考えでは、どうにもならんですよ」

「うちの親方が、呑ンだくれの助平で、能なしと来とるもんで、はがゆうて、たまらん。大事な組の仕事はほったらかし、酒ばっかり酔いくろうて、メカケのところに、入りびたっちょる。おれたちのこと、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>に、面倒もみてくれやせんし、考えたこともない。今度の遠足だって、おれを外すなんて、親方の糞たれ奴」

角助が怒ると、顔が、化けもののようになる。

金五郎は、不快な気持をおさえて、

「そんないい方をしては、いけませんよ。永田の親方は、ええ人です」

「そら、そじゃろ。あんたは、可愛がって貰うて、若い身で、ボーシンに引き立てられたんじゃ悪うはいえまい。……ま、そんなこた、どでも、ええ。今度の遠足に、おれをつれて行って貰や、おれの顔が立つんじゃ。永田組の角、というて、古くから、名が通うっとるに、外されたんじゃ、この港を、向こうむいて、歩けん」

「弱ったなあ」

「弱るこたないじゃないか。あんたが遠慮すりゃ、おれが行かれる。それくらいの仁義は立てても、ええじゃろ？」

角助は、強引である。

下の伝馬船の<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>から、マンが、心配そうな顔で、ブリッジを見あげている。なにかはわからないが、夫が、悪漢に難癖をつけられて、困惑している様子だけはわかる。

マンは、はがゆかった。金五郎が、強そうで、気の弱いところもあるのを知るようになっていて、

（どうして、角助なんかのいうことに、一々、かかりあうのか）と、じれったい思いで、いらいらした。

その夜、マンは、金五郎から、角助の申し出を聞かされて、笑いだした。

「なんですか。そんなことやったの？　角助に、なんの仁義を立てるの？　どんなことがあっても、あんたが、行きなさいよ」

と、強く、武蔵温泉行をすすめた。

その旅先で、どんな途轍もないことが起るか、もとより、マンに、わかろう筈はなかった。

遠足の当日は、あいにく、雨になった。しかし、風をともなわぬ、<ruby><rb>春雨</rb><rt>はるさめ</rt></ruby>のような、しっとりした降りかたで、かえって、旅情を添えるものといえなくもなかった。

<ruby><rb>戸畑</rb><rt>とばた</rt></ruby>駅は、閑散である。九州鉄道の幹線が開通し、この戸畑町に停車場が出来たのは、三年ほど前、人口も、六千人に<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>満ちているにすぎなかった。しかし、筑豊炭田を受ける<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>の一角の町として、海岸には、鉄道院が設備した、近代的な炭積機械が、巨大な鉄の昆虫のようにそびえ立って、秋の雨に濡れている。牧山にあるホイスト・クレーンの<ruby><rb>繋船</rb><rt>けいせん</rt></ruby>壁も、工事が進行中で、もう、完成が近い。

雨中に煙る、こういうものを眺めながら、<ruby><rb>大庭春吉</rb><rt>おおばはるきち</rt></ruby>は、かたわらの金五郎をかえりみて、

「港も、石炭にかけちゃあ、盛になるばっかりじゃなあ。今に、日本一になるぞよ」

と、<ruby><rb>蛭子顔</rb><rt>えびすがお</rt></ruby>で、いった。

「さようですなあ」

金五郎は、そう返事はしたものの、上の空である。さっきから、きょときょとと、駅前の方角を、不安の眸で、眺めまわしている。

大庭春吉は、それに気づいて、

「永田を待っとるのか？」

「はい」

「ほっとけ」

その語調は苦々しげで、放棄的だった。さっきの蛭子顔が、<ruby><rb>鍾馗面</rb><rt>しょうきづら</rt></ruby>に、一変している。

「でも、たしかに、来ることになっとるんですが……」

「あんな奴、<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>にゃ来んでもええんじゃ」

「いえ、今日は、どうしても、来て貰わんことには……」

金五郎にとっては、港が日本一になるよりも、今は、親方の永田杢次の不参が、はるかに重大問題であった。このごろの永田の不行跡は、仲間うちでも、眼にあまるものとされている。もし、今日の、聯合組の親分衆の集まる遠足に洩れたならば、<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>を知らぬ者として、進退問題になりかねない。金五郎は、気が気ではない。

やがて、雨合羽をまとった駅の小使が、停車場前の広場に、大きな<ruby><rb>振鈴</rb><rt>かね</rt></ruby>をぶら下げて、出て行った。それを、カラン、カラン、カラン、と、大きく振って鳴らしながら、

「汽車が出ますよう、……汽車が出ますよう」

と、どなりだした。五分前である。

金五郎が、なおも、気をもんでいると、前方の町角を、番傘をさしたマンが、駈け足で、急いで来る姿が見えた。やっと、駅にたどりつくと、ふうふうと、息を切らしている。

「どうしたんじゃ？」

「あなた」と、マンは、夫を物かげに引っぱって行き、「気をつけて下さいよ。角助さんが、どこかで、あなたを汽車から突き落してやる、というて、小倉から、この列車に乗りこんだらしいです」

「ふウン」と、金五郎も、ちょっと、眼をぎらつかせたが、「それより、親方が来んが、お前、知らんか」

「また、メカケのところで、飲んだくれとるのでしょ。仕様がないわねえ。……どこが、あんな女、ええのか知らん……？」

マンは、歯ぎしりしそうに、口惜しい顔になる。

発車間際になって、一台の人力車が、「アラヨッ、アラヨッ」と、やけ糞のような掛声で、駅に向かって、疾走して来た。<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>笠をかぶった車夫の顔からは、雨と汗とが一緒くたになって、だらだら流れ、白い湯気が立っている。

<ruby><rb>幌</rb><rt>ほろ</rt></ruby>をめくると、永田杢次と、メカケのサクとが、一緒に乗っていた。泥酔している永田は、ナマコのように、骨なしになって、サクの膝のうえにうつぶし、ほとんど、意識がない。

「親方、しっかりしなさい」

金五郎は、永田を、ひっかついだ。たくましい金五郎のひろい肩のうえに、小柄な永田の身体は、セメント袋のように、軽々と、乗った。

「ああ、間に合うて、よかったわ」

サクも汗だくで、ほっとしたように、呟きながら、車夫へ金を払った。

列車が、プラット・フォームに、入って来た。

「大庭の親分さん、ちょっと、汽車を待たせといて下さい。切符、買うて来ますけ」

金五郎は、乗車券売場の窓口に行った。行先をいい、金を出した。

気がつくと、すぐ後に、くっつくように、サクが立っている。切符を買うつもりらしい。

「おサクさん、あんたは行かんでも、ええです。親方には、わたしが、ついとる」

「いいえ、あたしが傍に居らんことには、旦那は、赤ン坊とひとつことですから……」

マンが、横から、はがゆそうに、

「親分衆の集まるところに、おメカケさんなんか、行くものがあるもんですか。そんな出しゃばりしたら、永田の親分に、わざわざ、恥かかせるようなもんやわ」

そんな騒ぎをおぼろげに聞いていて、金五郎の肩のうえの永田杢次は、口の中で、なにか、しきりに、ムニャムニャと、呟く。<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>が、金五郎の着ている、セルの<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>をつたって落ちる。なにをいっているのかわからないが、サクの名が、数度、呼ばれたようであった。

改札口を出て、汽車に乗った。乗客たちが、なにごとかと、この騒動を見物している。

駅長が、ピリピリピリと、笛を吹いて、手をあげた。土地の顔役である大庭春吉の頼みで、永田と金五郎とが乗りこむまで、一分足らず、待ってくれたらしい。

列車が動きだしてから、サクが、あわてて、飛び乗った。

客席はすいていた。永田を二人分の座席に寝かせると、サクがやって来た。仕方なしに、委せた。

「大庭の親分さん、すみません」

サクは、首をちぢめる恰好で、遠慮勝ちに、そういったが、大庭春吉は渋茶をのんだ顔つきで、返事をしなかった。しかし、サクは、他人がどう思おうともかまわぬといった態度で、永田の傍により、これをいたわり、介抱した。もとは、左褄をとっていた女なのに、そんな派手さや、なまめかしさは、ちっともなく、むしろ、地味で、看護婦のようなところがあった。

九州本線と、筑豊線とは、<ruby><rb>折尾</rb><rt>おりお</rt></ruby>駅で交錯する。若松から、博多、熊本方面に行く者は、ここで、乗り換えるのである。そういう人たちが、折尾で停車した列車に、どやどやと、乗りこんで来た。

その新しい乗車客たちを眺めていた金五郎は、あっけに取られた顔になり、眼をぱちくりさせた。

「やあ、大庭の大将」

「これは、皆さん、お揃いで……」

聯合組の親分連中は、大庭春吉と、口々に、そういう挨拶を、とりかわした。

「杢次どんは、相かわらず、もう、グデ助じゃのう」

とか、金五郎を見つけて、

「永田の<ruby><rb>大黒</rb><rt>だいこく</rt></ruby>ボーシンも来ちょるな。いっぺん、君とゆっくりやりたいと、思うちょった」

などと、いう者があった。

金五郎も、それぞれ、適当に挨拶をしたが、今度の遠足のつれの、派手で、賑やかで、<ruby><rb>闊達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>で、色っぽくて、だらしのないことに、一驚せざるを得なかった。

列車は、折尾駅を出発し、なお降りしきる雨の中を走る。沿線は一面に緑の畳をしきのべた稲田である。<ruby><rb>案山子</rb><rt>かかし</rt></ruby>のおどけた顔が、いくつも、窓外を後方へ飛ぶ。

眼をさました永田杢次は、ゆらゆらと立ちあがった。サクにつき添われ、

「よう、お歴々」

と、呂律のまわらぬ舌で叫んで、新しい道づれの中に割りこんで行った。

そこでは、もはや、酒盛である。<ruby><rb>阿鼻叫喚</rb><rt>あびきょうかん</rt></ruby>の巷といってよい。他の乗客の迷惑などは、おかまいなし、どこかの料亭の大広間で、宴会でもしているつもりらしい。二十人近い同勢のほとんどが、相当に酔いを発していて、特に、永田杢次の酔態が目立ちはしなかった。げらげらと、間断なく笑う。

金五郎が、眼をそばだてたのは、親分たちの半数以上に、一人ずつ、女のくっついていることである。いずれも、馴染らしく、メカケか、芸者か、娼妓か、女給か――細君らしい者は一人もいない。

「なんじゃい、永田の大黒は、独り者かい？　そんな野暮人でもなさそうな顔しちょるが、ほれ、こいつででも、間に合わせちょけ」

そんなことをいって、カフェの女給らしい女を、金五郎へ、どんと押しつける親分もあった。

列車は、ゴウと音を立てて、長い鉄橋をわたった。金五郎は、雨に煙るひろびろとした川面を眺めながら、呟いた。

（<ruby><rb>遠賀川</rb><rt>おんががわ</rt></ruby>、……<ruby><rb>川筋</rb><rt>かわすじ</rt></ruby>……）

石炭が、この遠賀川を、川舟によって積み出されたことに起因して、いつか、川筋気質というものが発生した。それは、吉田磯吉をはじめとする仁侠の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>となって、北九州の地を掩うている。親分といわれる者はもとより、石炭仲仕でさえ、普通の労働者とは異って、博徒、やくざ、遊侠の気風を帯びていた。

金五郎は、盃を手にしながら、あらためて、一つの決意に、眼を光らせる。

（どんな世界でも、拒否してはならぬ。ぶっつかり、これを乗り越えねばならぬ）

ただ、前進あるのみだ、と思う。

郷里を飛びだしてから、転々した。門司に来て、浜尾組、下関にわたって、山下組、今は、戸畑の永田組――新しい世界の展開につれて、新しい知人も出来る。それらは、すべて、龍となって昇天する道程で、踏破して行く山であり、峠であり、峯々だ。

（引きかえすな。ただ、前へ）

金五郎は、眉をあげる。

列車は、<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>をすぎて、<ruby><rb>二日市</rb><rt>ふつかいち</rt></ruby>駅着。下車した一行は、なお止まぬ雨のなかを、鉄道馬車で、<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>温泉へ向かった。

<ruby><rb>筑紫</rb><rt>つくし</rt></ruby>館に、宿を取った。

浴衣に着かえ、まず湯に入ったりしているうちに、黄昏れて来たが、雨は止まない。街には、柳の並木が風にゆれ、遠く、<ruby><rb>太宰府</rb><rt>だざいふ</rt></ruby>の背後に聳える宝満山の暗いいただきは、低い雲ととけあっている。

「みんな、自由行動にしよう」

遠足団長格の<ruby><rb>田中光徳</rb><rt>たなかこうとく</rt></ruby>親分が、いう。

いわれるまでもなく、はじめから、勝手な行動を取っている腕白連中は、夜に入ると、それぞれ、自然に、「飲む」「打つ」「買う」の三班に分れた。

しかし、もとより、出鱈目な者ばかりであったわけではなく、庭に面した広間に集まって、真面目な話をしている親分連もあった。

大庭春吉が、ぽつりぽつりと、重い口調でいっている。

「聯合組も、もっと、しっかりせんと、<ruby><rb>共働</rb><rt>きょうどう</rt></ruby>組に、仕事を食われてしまうぞ。なにしろ、相手は、吉田磯吉の一の子分の友田喜造じゃけなあ。……どうも、いざとなると、腕力で来るんじゃけ、うるさいわい」

「港の仕事にまで、ドスを持って、食いこんで来られちゃあ、たまらんなあ」

「なあ、玉井」

と、縁側で、<ruby><rb>助役</rb><rt>ボーシン</rt></ruby>仲間と、盃片手に、将棋をさしていた金五郎へ、大庭春吉の顔が向いた。

「はあ……？」

ふりかえると、

「永田杢次はあげな風で、さっぱり、頼りにならん。玉井、ゆくゆくは、お前のような、しっかりした若い者に、聯合組を守って貰わにゃならんど」

「いえ、わたしなんぞ、……」

金五郎は、びっくりして、尻込みした。

このとき、廊下に、草履の音がして、襖が開いた。一人の若い女が、顔を出して、

「盆が始まります。親分衆たち、どうぞ」

「打つ」組の案内らしい。

金五郎は、眼を凝結させた。そこは、いくらかうす暗くて、女の顔は、はっきりと見きわめられなかったのに、金五郎の胸は、もう、ドキドキと、波打ちはじめた。銀杏返しに、黒襟、面長の顔――正面を向いていて、見誤まりはなかった。二年前、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>で、一度逢ったきりなのに、必要に応じて、その全容が再現される、金五郎にとって、不可解な存在の女。彦島で、二度も横顔のよく似た女に、はっと、鼓動を感じたが、今度は、正真正銘、ほんものであった。

先方は、そんな金五郎に、まだ、気づかないらしい。中膝になって、三本指をつき、

「二階の「菊の間」でございます」

と、丸味のある声でいう。

「玉井、行ってみるか」

そういって立った大庭春吉の声に、金五郎も、ふらふらと、立ちあがった。

廊下づたいに行った。夜の庭では、竹林が雨にたたかれて鳴っている。ホオズキを噛むような声で、鳴いている蛙。<ruby><rb>泉水</rb><rt>せんすい</rt></ruby>の音。

曲り角の便所のところに来ると、大庭春吉は、小便をもよおしていたとみえて、「ちょっと」といって、引戸をあけて入った。

それを待つ姿勢になったとき、先に立っていた案内の女と、金五郎との視線が合った。

「お久しゅうござす」

その金五郎の言葉に、銀杏返しの女は、きょとんとした顔つきで、若い男の顔を見た。

暗い電燈が、ついている。

「お忘れですか。いつぞや、道後温泉の「四国屋」で、お目にかかりましたが……」

「ああ、あのときの……」

女も、やっと気づいたらしく、あらためて、眼に力をこめて、金五郎を見なおした。

金五郎は、耳まで赤くなるほど、顔が<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>ってはいたが、いくらか、気分は落ちついていた。

「あれから、もう、三年ほどになります」

「忘れてはいませんわ。……そうですか。立派におなりになって……」

それは、お世辞かも知れなかったけれども、たしかに、あのときは、四国の土百姓で、見るからに田舎者然としていた金五郎は、この三年ほどの間に、どこかに、泥と垢との抜けたところが出来ていた。眼の光も、ちがっている。

そういえば、女の方も変っている。あのときの若さと堅さとにくらべて、<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しいばかり、<ruby><rb>爛熟</rb><rt>らんじゅく</rt></ruby>したものを感じさせる。堅肥りしていて、やや受け口の厚ぼったい唇にも、青んだ細い眼にも、二重にくくれたふくよかな顎にも、胸をどきつかせるような色気が、みなぎっていた。元禄模様の単衣を、キリッと締めあげた博多帯が、全身にあふれている妖気に似たものを、発散させる噴霧器の役をしている。赤い緒の草履を、無造作につっかけた、指のしなった素足が美しい。

女は、急に、いきいきと、切れ長の眼をかがやかして、金五郎に近づき、

「奇遇ですわね、三年も経って、こんなところで、お目にかかるなんて。でも、あたし、ほんとに、あなたのこと、ときどき、思いだしましたわ。「四国屋」での印象、忘れられないんですもの。だって、素人の方で……ことに、あなたは初めてらしかったけど、……あんなに、あざやかな勝ちっぷりを見せた人なんて、やくざ渡世の永年に、一度も見たことなかったわ。玄人連中が、アレヨ、アレヨ、とあっけに取られている顔つきったら、なかったのね。<ruby><rb>半方</rb><rt>はんかた</rt></ruby>の<ruby><rb>定張</rb><rt>じょうば</rt></ruby>りで、一度もくずれずに、あっさり、勝ち逃げ。……ホホホホ、……後で、関東の親分衆が――あれは、なんだ？　素人面して、鬼殺しじゃねえか。……なんて、話してましたよ。……でも、一度っきりだったのね。こんなところで、お逢いできるなんて……」

便所から出て、<ruby><rb>手水</rb><rt>ちょうず</rt></ruby>を使っていた大庭春吉が、

「なんじゃ、玉井は、その<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんとは近づきかい？　隅に置けんなあ」

と、笑った。

二階の「菊の間」に行った。客が揃わないので、盆<ruby><rb>茣蓙</rb><rt>ござ</rt></ruby>はまだ始まっていなかった。やがて、二十人ほどになると、開帳された。もう、こういう雰囲気にも、金五郎はおどろかない。

銀杏返しの女が、<ruby><rb>半方</rb><rt>はんかた</rt></ruby>の中央に位置して、壺振りをやるらしいので、金五郎は、<ruby><rb>丁方</rb><rt>ちょうかた</rt></ruby>に廻った。壺をあつかう柔軟な女の手つきを、眼を皿にして見た。

「勝負」

その丸味のある声を、金五郎は、三年ぶりで聞いたのである。右腕をまくると、牡丹に蝶の美しい<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>が出た。

二つの<ruby><rb>骰子</rb><rt>さいころ</rt></ruby>を壺笊に入れ、女が白い手で、ぱっと伏せる。骰子はカラカラッと鳴って、静まる。狐、狸、猿、狼、虎――瞬間の<ruby><rb>輸贏</rb><rt>ゆえい</rt></ruby>に賭ける、いろいろな<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>を、客たちは女の手元に集中する。壺笊が、勢よく、あげられる。

「丁」

その女の声で、一座の悲喜こもごものざわめき。

客は、温泉へ集まった各方面の旅人ばかりで、聯合組の親分連の顔は、五六人しか見えない。

「打つ」組より、「飲む」「買う」組の方が多いらしい。しかし、他の客も、炭鉱主、土木建築業者、請負師などが多く、賭金の額はかなりだった。日ごろ温厚な大庭春吉も、思いきった金を張っている。

たかが、一<ruby><rb>助役</rb><rt>ボーシン</rt></ruby>にすぎない金五郎は、こういう旦那ばくちに入る柄ではなかったが、大庭親分が、<ruby><rb>資本</rb><rt>ジキリ</rt></ruby>を貸してくれたので、大胆な張りかたをすることが出来た。

七八回、勝負がすすんだとき、金五郎は、妙なことに気づいた。

銀杏返しの女が、鉄火の道ひと筋で、三年前より、さらに、手練が習熟していることは当然だが、金五郎は、その女の鮮やかな壺ふりの手つきに、ふと、なにかの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かげ</span>を感じた。乱れを感じた。そうすると、

「勝負」

といって、一座を見まわす女の張りのある声にも、眼にも、なんとなし、わざとらしい、<ruby><rb>詐術</rb><rt>さじゅつ</rt></ruby>めいたいろが看取される。

金五郎は、どきっとして、槍の眸で、女の手元を睨んだ。直感は誤まっていなかった。おどろいた金五郎は、狼狽する気持で、立ちあがった。躊躇しては居られなかった。

「ちょっと、壺ふりの姐さん」

と、女を呼んだ。

「あたしですの？」

「そうです、すみませんが、ちょっと、廊下まで……」

満座の不審そうな視線のなかを、二人は、廊下に出た。

雨ははげしくなっていて、竹林の奥のどこかで、滝のように、水の流れる音がしている。

「なにか、あたしに？……」

「姐さん、壺笊を取りかえて下さい。インチキはいけません。わたしが気づいたからよかったものの、他の客に知れたら、大変なことになります。相当にうるさい親分衆がいますから」

女も、多くを聞かなかった。

「わかりました」

青ざめた顔で、一言いったきり、くるりと廻転して、盆茣蓙にかえった。

どうも、変なので、はじめは、骰子に仕掛けのある道具賽を使っているのかと思った。しかし、眼を金盥にしてみて、壺笊の一部が巧妙に偽装してあって、外から中の殻子の目が読めることがわかったのである。女と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐる</span>の仲間が、それによって、莫大な勝ちかたをしていた。

金五郎が、座に戻ると、横にいた大庭春吉が、にやにや笑いながら、細い声で囁いた。

「おれが、満座のなかで、ばらしてやろうかと思うちょったんじゃが、……玉井、お前は、ええとこがあるのう」

一時間ほど、盆茣蓙につきあっていたが、「打つ」のにも飽いて、大庭春吉と金五郎とは、「飲む」方に、鞍替した。勝負はほどほどで、痛くも痒くもない程度だった。

階下の大広間「松の間」に、「飲む」組が<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>していた。十二三人の聯合組連中に、つれて来た女たち、土地の芸者が加わって、乱痴気騒ぎである。

「こら、永田の大黒、どこ行っちょったか。今夜は、お前を酔いつぶさにゃ置かんど」

何人もの親分が、金五郎に向かって、それと似た言葉を、口々に投げた。<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>のように、盃が飛んで来た。

永田杢次は、サクに膝枕させて、死んだように、のびている。金五郎が、「永田の大黒」と呼ばれるのは、永田組の大黒柱という意味だ。永田組は玉井金五郎がいなかったら潰れる――それが、通り相場になっていた。

「お酌をしましょう」

横で、なまめいた女の声がした。ふりかえると、いつ来たか、賭場にいた銀杏返しの女が、にこにこ顔で、銚子をさしだしている。

「疲れたので、盆から抜けて来ましたわ。ここで、しばらく、遊ばせて貰っていいでしょう？」

「それは、ええですよ」

金五郎は盃を取って、女の酌を受けた。ぐっと干してから、女にさした。酒の方も、女はなれた手つきである。

「ほんとに、久しぶりでしたなあ」

金五郎は、だいぶん、酔っていた。なんだか、夢幻のような気持である。

「あなた、玉井金五郎さんとおっしゃるのね。聞いたわ。あなたのおかげで助かりました。お礼に、お酌をします。今夜は、ゆっくり、飲みましょう。いろいろ、話したいこともあるし。……あたし、京子といいます。お京、と呼んで頂戴」

女は、金五郎へ、しなだれかかるように、寄り添った。<ruby><rb>木犀</rb><rt>もくせい</rt></ruby>の花の香のような、官能をえぐる、誘惑的なにおいが、こころよく、金五郎の鼻をくすぐる。

「お京さん？　……ええ名じゃ」

と、金五郎は、柄にもないお世辞をいう。

「おつれさんがた、どういう方ですの？」

「北九州の親分さんです」

「親分といってもいろいろあるわ」

「石炭の親分ですよ」

「炭鉱を持ってらっしゃるの？」

「いんや、その炭鉱から出る石炭を、港で積む親分です。三井、三菱、安川、貝島、麻生、古河、……そんな金持の炭鉱が、筑豊炭田に、たくさんあるでしょう。その石炭が、汽車や、川舟で、<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>に出る。若松港に入っとる汽車や、帆船に積みこまれて、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>の方に送られる。その積みこみを請けあうとるのが、親分さんたち。……ほら、あそこの大庭春吉親分、田中光徳親分、そんな親分衆が、請負師で、聯合組というのを作っていなさるんじゃ」

「金五郎さんは、その子分なの？」

「いんや、子分の子分です。聯合組に、何人か、<ruby><rb>小頭</rb><rt>こがしら</rt></ruby>ちゅうのが居る。まあ、下請けみたいなもんじゃな。自分で、仲仕を抱えて、伝馬船、その他、道具一切を持って、現場の仕事をやるんです。……あそこに、女の膝で寝とる人が、小頭の永田杢次さん、わたしの親方じゃ。……向こうで、ステテコ踊っとるのが、小頭の安藤親分……」

「金五郎さんも、いずれは、立派な親分さんになるのね」

「とんでもない」

金五郎は、しだいに、呂律が怪しくなって来た。

一座は、男と女と入りみだれる乱戦になっていて、金五郎とお京とが、さしつさされつしながら、親しげに話している姿など、格別に、目立ちはしない。誰一人、注意する者もない。それどころか、痴呆的な頽廃の雰囲気は、夜が更けるとともに、さらに、濃密になる。

甘い言葉で、巧妙に盃をさすお京の酌で、金五郎は、酔眼朦朧となった。そのぼんやりと霧をかけた瞳に、うす化粧しているお京は、夢幻の女のように、妖艶に映る。

「金五郎さん、逢いたかったわ。道後の初会のときから、あなたのこと、忘れたことなかったのよ。いつか、逢えると思ってた。今日逢えて、うれしい」

「わたしもですよ」

そんな出鱈目の言葉が、自然のように、口をついて出る。

「さあ、酌をさせて」

「お京さん」

「あい」

「あんた、さっき、なにか、わたしに話があるというたなあ？」

「もっと飲んでからで、いいわ」

盃が、<ruby><rb>梭</rb><rt>ひ</rt></ruby>のように、二人の間を往復する。金五郎も弱い方ではないが、お京の強さはおどろくばかりだった。金五郎と対等に飲んでいるのに、男の方は、深酒とともに、意識不明になって行き、女の方は、いよいよ、青くなって、冴えかえる。胸に一物あるので、酔わないのかも知れない。

「女なんかに、負けてたまるもんか。……馬鹿にすんな」

そんな負け惜しみを、くどくどと、くりかえしていた金五郎は、遂に、前後不覚に、酔いつぶれた。……

どれくらい、時間が経ったか。

ふと、眼をさました金五郎は、あたりを、きょときょと、見廻した。森閑と、静まりかえっている。先刻のどんちゃん騒ぎも、聯合組の仲間も、大広間も、いつの間にか消えて、六畳ほどの一室に、一人、寝かされている。格子天井の中央にある電燈がまぶしい。眼球が痛く、にぶく頭がうずいて、まだ、酔っているようだった。

<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>に下げられた風鈴が鳴っている。外では、雨の音が、蛙の声をまじえて、聞える。

様子がまるでわからないので、夢でも見ているのかと思っていると、

「お目ざめ？」

その声に、びっくりして、ふりかえった。

お京が、坐っている。あおむけになった金五郎の左肩のところにいた。なにをしていたのか、金五郎が、ふりむくと、手に持っていた筆を、かたわらの小机のうえに置いた。下から見あげると、下顎のくくれが一層ゆたかで、白い富士額には、うすく、汗がにじんでいる。

お京は、不思議な微笑をたたえて、

「金五郎さん、起きて、鏡をごらんなさいな」

と、いった。

「鏡？」

奇妙なことをいうと思い、酔いしれて、鉛のように重い上半身を、やっと起した金五郎は、思わず、あッ、と、叫び声が出た。

眉をつりあげ、<ruby><rb>団栗眼</rb><rt>どんぐりめ</rt></ruby>をむいて、正面の大きな鏡台の中を、睨んだ。

いつ裸にされたのか、むきだしになった両腕に、左右とも、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たる<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>がほどこされてある。よく見ると、左腕には、黒雲をかきわけて、天に顔をあげている昇り龍、右腕には、地に鼻先をむけている降り龍、その二匹の龍とも、らんらんときらめく巨大な眼、弾力のある長い鬚、つき立った角、張りのある鱗、焔のような尻尾、朱でいろどられている<ruby><rb>蛇腹</rb><rt>じゃばら</rt></ruby>などが、ものすさまじくいきいきとしていて、どちらも、前肢には、宝珠がつかまれている。

それは、金五郎の<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>のこまかい、光るばかりの白い皮膚のうえに、青々と、美しく、浮きあがっていた。

「金五郎さん、いかが？」

あまりのおどろきで、返事の出ぬ金五郎は、両手で、交互に、自分の腕をさすってみた。生身の腕と、鏡の中とを、いく度も見くらべた。腕の彫青が、<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>られたものではなく、絵筆によって描かれたものであることは、すぐわかった。

やっと、われにかえったように、金五郎は、女の方を向いた。

「お京さん、これ、あんたが描いたのですか」

「そうよ。お気に召して？……」

金五郎は、<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>った。あらためて、お京の顔を見なおした。

「これも、あたしが、自分でやったの」

そういったお京は、いきなり、くるりと、着物の右袖を、肩のつけ根までまくった。牡丹に蝶の彫青のある腕を出すと、それを、金五郎の左腕に、ぴったりと、くっつけた。

「自分でやった、というのは？」

「あたしが、彫ったの」

「あんた、彫れるのかね」

「彫れるわ」

金五郎は、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>温泉での記憶を呼びおこした。鍛冶屋の清七と二人、「神の湯」に行ったとき、全身に、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の総彫青をした若い男に逢った。その三ン下博徒に逢ったのが、お京を知るきっかけになったのである。

お京の素姓は、まだ、わからない。若い女の身で、鉄火の世界を渡り歩いていることだけは明瞭だが、どんな<ruby><rb>閲歴</rb><rt>えつれき</rt></ruby>を持ち、どんな親分の後楯があるか、さっぱり、わからない。温泉地を経めぐって、地方の旦那衆をカモにしている渡り師のようにも思われるし、彫青の技倆も相当らしいから、そっちの方が本職のようでもある。そういえば、仇っぽい女<ruby><rb>彫青師</rb><rt>ほりものし</rt></ruby>の話を聞いたことがあるような気がする。しかし、それがこのお京であるかどうかはわからない。いずれにしろ、金五郎にとっては、謎の女である。そして、金五郎は、以前、お京に、危険な毒を感じていたのに、今、その毒気にあてられていながら、妙に、こころよい夢見心地になっているのであった。

総身彫青の男のことをきいてみると、

「ああ、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の五郎さん、……さあ、どうしましたかねえ。風来坊だから、風吹くまま、どこをうろついてるやら、わかりはしないわ」

お京は、問題にしていない風だった。

二本ならべた模様のある腕が、鏡に映っている。金五郎の昇り龍が、お京の牡丹の花を、食べようとしているように見える。お京のやわらかい腕から、生あたたかい体温が伝わって来て、金五郎は、変な気持になって来た。

遠くで、三味の爪びきの音がしている。

  


## 愛憎

四五日来の雨があがると、夏がぶりかえして来たような残暑が、人々をうだらせた。ツクツク法師も戸まどいしたようで、また、森では、油蝉が鳴いた。

マンは、土間に、<ruby><rb>茣蓙</rb><rt>ござ</rt></ruby>をしいて、ワラジを編んでいた。

台所の七輪にかけた鉄瓶が、シュンシュン、鳴っている。飯台のうえには、ちゃんと夕食の支度がととのえられ、金五郎の好きなイワシを煮た鍋、焼き茄子、豆腐汁、などの横には、一合徳利も置いてある。茶碗も、皿も、箸も、それぞれ、二人前、いつ、夫が帰って来ても、すぐに、一緒に、晩飯が食べられるようになっていた。マンの膝の上に一匹、方々に、五六匹の猫が散在している。

三足目のワラジを編みかかったときには、外は、そろそろ、暗くなっていた。

「今日も、帰らんのか知らん……？」

マンは、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の表を見て、ふっと、ためいきのように、呟いた。

下駄の音が、聞えた。

（帰って来たわ）

心をはずませて、立ちあがると、入口に、永田親方の細君、ヨネがあらわれた。<ruby><rb>茂次平</rb><rt>もじへい</rt></ruby>という、八つになる男の子の手をひいている。ヨネは、三十を幾つかすぎているが、いつも、マンをはがゆがらせるほど、おとなしく、従順で、すべてが地味な女だった。いつも、なにかにおびえたように、おどおどしている。

「これは、お<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、どうぞ、お入り下さって……」

夫かと思ったマンは、がっかりしたが、なにげない顔で、ヨネを家の中にみちびいた。

ヨネは、家中を見まわしていたが、

「金さんは、まだ、帰らんとな？」

「はい、帰りません」

「おかしいなあ……？」

「親方さんは？」

「うちのも帰らんけんど、うちのは、いつものことじゃけ、不思議なこたない。女をつれて出たら、一週間や十日、鉄砲玉になることは珍しゅうない。金さんが、遠足に行ったきり、五日も帰らんのは、変じゃな」

「お姐さん、仕方ありませんですよ。あきらめています。男商売は<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>が大事、女房のさびしいくらいは、我慢します。女房にゴマすって、交際を怠るようでは、世間を大手ふって通られませんけ」

「そら、わかっとるがな、大庭の親分さんも、田中の親分さんも、聯合組の遠足のつれは、もう、二三日前、みんな、帰っとるばい。帰らんのは、うちと、金さんだけじゃ」

「わかりました。玉井は、永田親方さんの守りをしとるとです。親方思いですけ……」

「守りは、おサクが居る筈じゃがなあ」

「女に委せては、居られんとでしょう。そのうち、親方さんのお伴して、帰って来ますわ。……お姐さん、番茶でも」

「はい、おおきに」

ヨネは、お茶を飲み、十分ほど、話して帰った。夫の放埒と、メカケの愚痴ばかりである。

その夜も、マンは、一人で寝た。

<ruby><rb>助役</rb><rt>ボーシン</rt></ruby>になってから、すこし大きい家をあてがわれた。といっても、部屋仲仕のいる長屋の一角、六畳と四畳半、二間の古ぼけた家である。それでも、彦島の家より、ずっと上等であった。

深夜、マンは、奇妙な物音に、眼をさました。

裏木戸をこじあける音、やがて、足音を忍ばせて、何者かが、マンの寝ている六畳の部屋へ、近づいて来た。

マンは、耳をすました。

月が出ているのか、表からの光で、家の中は、ぼうと明かるい。そのうす明かりで、枕元の置時計が見える。何時ごろかと思い、顔を近づけると、そんなことしなくてもええですよ、というように、チン、と、一つ、一時を打った。外では、風が吹いている。

足音は、襖の根に来て、立ちどまった。息を殺して、中の様子をうかがっているらしい。

マンは、蒲団の中に腹ばいになって、

「あなた、ですか？」

と、声をかけた。

夫が帰ったのではないか、と思ったのである。<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>なところのある金五郎は、夜おそくなると、よく、こっそり、入って来ては、マンをおどかすことがあった。それは照れくささをごまかしているのだが、今夜も、五日も留守をあけた気兼ねで、そっと、忍びこんで来たのかも知れない。

「あなた、でしょ？」

と、もう一度、いった。

ガタガタと、あわてふためいた開けかたで、襖が開いた。頬かぶりした、菜ッ葉服姿の男が、調子の狂ったゼンマイ人形のように、騒々しく、おどりこんで来た。

マンは、びっくりして、蒲団のうえに、はね起きた。坐ったまま、急いで、寝巻のうえに、着物をひっかけた。

「どなたですか？」

「泥棒様じゃ、さ、騒ぐな」

右手に、出刃庖丁を持っている。それを、マンの鼻先につきつけた。月光のほてりで、ずんぐりした兇器の厚ぼったい刃が、にぶく白い。その庖丁に、マンは、鉄と魚のにおいをかいだ。ところが、よく見ると、その庖丁は、まるで電気アンマの機械のように、間断なく震動している。つまり、泥棒が全身をわなわなとふるわせているのにつれて、庖丁も動いているのである。泥棒は、終始、そわそわと、落ちつかず、あたりをきょろきょろ見まわす。足袋跣足で、足ぶみをしきりにして、片時も、じっとしていない。騒いでいるのは、泥棒の方だ。

マンも、一時はおどろいたが、泥棒の様子を見て、まもなく、落ちついた。

ほろ酔いで帰った金五郎が、いつか、これと同じ恰好で、マンをおどかしたことがある。しかし、眼前の泥棒は、夫とは似ても似つかぬ貧弱な体格で、声にも、凄味がない。<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわ</rt></ruby>がれたふるえ声である。もう五十歳を越えた年配かと、推定された。

「お金が要るんですか？」

「あ、あたりまえじゃ。……か、か、……金が要るけん、ど、泥棒に、入ったんじゃ」

「今、あたしとこ、金ありませんわ。夫が、旅行に、財布をさらえて持って行ってしもうたし、……この二三日、仕事もあぶれとるもんで……」

「う、嘘をこくな。は、は、早く、銭を出せ」

「どうしても、要るんですか？」

「どうしても、い、要る」

「困ったわねえ」マンは、ちょっと小首をひねったが、「そんなら、十分ほど、待っとって下さい。<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>って来てあげますけ」

「まちがうなよ」

「煙草でものんで、一服していらっしゃい」

マンは、立ちあがると、そういい残して、裏口から、出た。

静まりかえった深夜の街を、襟をかきあわせて、急いだ。

十五夜近い月光が明かるいので、そんなにさびしいとも思わない。故郷の山奥はもっとさびしかった。しかし、音も人影もない月夜の静寂さは、どこかに、故郷の谷を思い出させるものがあって、マンは、唐突に、郷愁を感じた。どこかで鳴いた犬の声が、狐の声のように、耳にひびいた。

（みんな、どうしているだろうか？）

父の顔、母の顔、弟の顔、それから、大川時次郎の顔が浮かんだ。時やんは、まだ、馬に乗って、郵便配達をしているのか知らん？――マンの胸の奥の奥で、ちくちく<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>くものがあった。

永田杢次の家まで、一町半ばかりだった。

マンは、裏口にまわり、戸をたたいた。

ヨネが、寝ぼけ眼をこすりながら、台所の硝子戸のところへ出て来た。

「おマンさんかえ？」

「はい」

「今ごろ、どうしたんじゃね？」

ヨネは、戸を開いた。

「親方さんは？」

「まあだ、帰らん」

「お姐さん、すみませんけど、お金を十円、すぐ貸して下さい」

「今ごろ、だしぬけに、いったい……？」

「わけは、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>、話します。急ぎます。お願いします」

「そうかな？」

ヨネは不審そうな顔をしたが、うなずいて、ひっこんだ。まもなく、一円札を十枚揃えてあらわれた。

「おマンさんのことじゃけ、まちがいあるまい。詳しいことは、明日、聞こう」

「ありがとうございます」

それを受けとると、走るように、わが家に急いだ。

秋の夜気が冷たく、襟首にしみる。月は氷の塊のようである。

帰ってみると、家の中では、活劇が展開されていた。泥棒が出刃庖丁をふるって、猫とたたかっている。七匹いる猫のうち、勇敢で忠実な数匹が、怪しい<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>者に向かって、背の毛を逆立ちにし、歯をむきだして、唸りながら、<ruby><rb>対峙</rb><rt>たいじ</rt></ruby>していた。泥棒は屁っぴり腰で、庖丁をふりまわし、ただ、「シイッ、シイッ」と、追っているばかりだ。

マンの姿を見ると、猫は静まった。鳴き声を立てて、マンに寄って来た。

「借って来てあげましたよ。……ほら」

マンは、十枚の一円札をさしだした。

泥棒は、ふるえる手で、それを不器用に数えていたが、なにか考えこむように、黙りこんでしまった。<ruby><rb>洟水</rb><rt>はなみず</rt></ruby>をすすりあげている。やがて、顔をあげた。

「こ、こんなには、要らん。六円あれば、間に合う。四円はかえす」

「ええですよ、持って行きなさいよ」

「いんや、六円で、ええ。あんたも借りたもんなら、またかえさにゃなるまい。そんとき、大変じゃろうけん、余分は戻す」

「そうですか」

「おおきに。それじゃあ、これで……」

「待ちなさい。今時分、表をうろついとったら、怪しまれる。さっきも、巡査さんが廻りよった。あたしが、送って行ってあげる」

マンは、泥棒とつれだって、また、月光の街に出た。

「どっちの方角に、帰りなさる？」

「さあ、どっちでもええが、……ステンショの方にでも行こか」

停車場への曲り角で、巡査に出逢った。カンテラをさげている。つかつかと、寄って来た。

「おいおい、コラ」

マンは、相手の顔を見て、

「安木の旦那さん、あたしです」

「なんだ、玉井のおかみさんか。今ごろ、どこへ？」

「親戚の人が来ましてね。お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>がすいたもんで、うどんでも食べようかと思うて……」

町角に、夜泣きうどんの提灯が見えるのに気づいて、マンは、とっさに、そんな出まかせをいった。

「そうかい、秋の夜は腹が減るもんだからなあ。行っておいで」

巡査が同じ方向に歩くので、仕方なく、夜泣きうどん屋に、立ち寄った。巡査は、カンテラをふりながら、サーベルと靴の音を派手にさせて、行ってしまった。

「「当り矢」さん、狐うどん、二杯、下さいな」

うどん屋も、顔見知りだった。

「玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>かね。おそいなあ。もう、仕舞おうかと思うとったんじゃ」

「一時に仕舞うのは、早いじゃないの？　いつもは、二時すぎまでもやっとるのに……」

「ケタイ糞が悪いけ」

「どうして？」

「<ruby><rb>角助</rb><rt>かくすけ</rt></ruby>の奴に、今、売りあげを、みんな、持って行かれてしもうた。さんざ、飲み食いした揚句の三八に。もう、これで、四度目じゃよ」

「警察にいうたら、ええのに」

「そんなことしたら、命がない。どうも、この土地は柄が悪いなあ。真面目な商売は出来やせん。暴力団が威張っとるし、このごろじゃあ、泥棒も増えた。わしも、もう、明日から商売が出来ん。<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>をさらわれてしもうたけ、こっちも、泥棒でもしようごとある」

二杯の狐うどんを、マンと、もう一人の男にわたして、夜泣きうどん屋は、しきりに、愚痴をこぼした。

「「当り矢」さん」

「へい」

「これ、<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>の足しにしませんか」

マンは、泥棒から返して貰った一円札二枚を、帯の間からとりだした。

「いえ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>に迷惑かけたんじゃあ……」

「かまいませんよ。困ったときは、おたがいですわ」

「そうですか。……そんなら……」

「当り矢」は、おしいただくようにして、それを受けとった。もう六十を越えた、小柄で、おとなしそうな色白の老人である。

「そらそうと」と、うどん屋は、急に、あたりをはばかる声になって、「角助が、さっき、飲んだくれでな――玉井金五郎が、畳の上で死のうと思うたって、そうは問屋がおろさん。……なんて、いうとったけど、なにか変ったことでもあったですか」

「<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>んどるのでしょ」

「永田組をケツ割ってやった。あんなオイボレ爺、先の望みがない。若松の「ドテラ婆さん」の子分になるんじゃ。――そんなことも、いうとったばい」

泥棒は、屋台のランプに顔を照らし出されないように、向こうむきで、うどんを食べている。

犬が、また、狐のような声で、鳴いた。

翌朝、マンが、猫を集めて、御飯を食べさせているところへ、永田ヨネが、息子を負ぶって、やって来た。

縁側はにぎやかだ。猫の御馳走は、前日、金五郎のために準備しておいた料理の残りである。夫へのマンの心づくしは、この五日ほど、毎日、猫への奉仕と化している。七つの皿に、七匹の猫。

「おマンさん、お早よう」

「お早ようございます」

「ほう、こりゃあ、猫の花が咲いたごとあるなあ。おマンさんは、ほんに、猫好きたい。やっぱり、子供のない者は、動物を可愛がるというのは、ほんとうじゃろうかなあ。それにしても、あんただち夫婦、どっちも身体が丈夫なのに、どげえもて、子供が出来んとじゃろか。まあだ、なんの印もないのかな」

「ありません」

「おかしいなあ。もう、一緒になって、二年になるとじゃろ？」

「子供が産まれんで仕合わせですわ。こんな貧乏世帯では、養いきりませんけ」

「なんの、<ruby><rb>一人口</rb><rt>ひとりぐち</rt></ruby>は食えんでも、二人口は食える、というてな、猫を七匹も飼うよりゃ、わが子を育てる方が楽よね」

ヨネは、猫の群れている縁側に、茂次平をおろして、自分も腰をかけた。

すがすがしい朝の光線が、いっぱいに、縁にさして来た。港の方で、汽笛の音が聞える。

「そらそうと、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>は、いったい、どげえしたとな？」

「泥棒が入りましたとです」

「泥棒？」

ヨネは、<ruby><rb>団栗眼</rb><rt>どんぐりめ</rt></ruby>をむいた。まだ、そこらに、その泥棒がいるかのように、気味悪そうな眼つきで、あたりを見まわした。

マンは、笑って、

「泥棒にやる金を、お姐さんのところに借りに行ったんです」

「なんてな？」ヨネは、仰天して、「そげな馬鹿なことが……」

「ほんとです。昨夜の泥棒は、正直そうな人でした」

「なんちゅうこと、いうかね。正直な人間が、泥棒なんかに入るもんか。悪人じゃよ」

「いいえ、わたしには、その泥棒が悪い人とは思えませんでした。きっと、初めて泥棒をする人じゃったとでしょう。よっぽど、<ruby><rb>切羽</rb><rt>せっぱ</rt></ruby>つまることがあったにちがいありません。どうしても六円の金がないと、夜逃げでもしなくてほならんか、生きるか、死ぬるか、……そんな追いつめられた気持で、思いあまって、泥棒する気になったんですわ。それで、あたしも、お金をなんとか都合してあげる気になって、お姐さんのところに、借りに行ったとです」

「とぼけた話じゃなあ。泥棒にやるために、金を借りに行く者も行く者じゃが、帰って来るのを、てれっと待っとる泥棒も、泥棒じゃ。巡査を引っぱって来はせんか、という疑いの心も湧かんとじゃろか。近ごろ、間抜けな話を聞いたわ」

「お姐さん。この二円、余りましたけ、おかえししときます」

「十円のうち、泥棒に六円やって、どうして、二円余る？」

「夜泣きの「当り矢」さんが、強盗に逢うたというもんじゃけ、二円あげました」

「気前のええ<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>じゃなあ」

ヨネは、ほとほと呆れた、という顔つきだった。

それから、また、二日経ったが、なお、金五郎は帰って来なかった。

留守の間、荷役のある日は、マンは、助役たる金五郎の責任を自分が果す気持で、組の仕事をてきぱきと切りまわした。早朝の荷役のときには、さびしい未明から、一人で、組内の仲仕を起してまわり、仕事の段取りも、跡始末も、率先してやった。しかし、どうしても、女の力では及ばぬことがある。そうすると、情ないやら、腹立たしいやらで、いらいらし、

（なにをしとるんじゃろか？　親方が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐうたら</span>じゃけ、うちのまでが引きこまれる。親方の守りなんか、ええ加減で切りあげて、引きずって帰りゃ、ええのに……）

と、もっぱら、罪を親方になすりつけて、永田杢次を恨んだ。

金五郎の下で、<ruby><rb>助</rb><rt>すけ</rt></ruby>ボーシンをしている松川源十は、顔中、<ruby><rb>菊石</rb><rt>あばた</rt></ruby>なので、「六ゾロの源」と、仲間から呼ばれている。六ゾロは<ruby><rb>骰子</rb><rt>さいころ</rt></ruby>の六の目が二つ列んだ形だ。源十も小博徒である。しかし、仕事熱心で、金五郎とは気が合っていた。三十歳。彼は、マンに、

「おマンさん、心配せんでもええ。金さんが帰るまで、わしが引き受けた。金さんの顔をつぶすようなことはせん」

と、口癖に、いった。

「すみません」

「すまんこたない。角助が居らんようになりゃあ、この組で、金さんを蹴落そうというような考えの者は、誰も居らん。いんや、そればかりじゃない。永田組の者は、親方があんな風じゃけ、もう、気持のうえでは、金さんを親方と思うとる者が多いばい」

「おおきに」

「このごろ、変な噂がありよる。なんでも、聯合組じゃあ、永田親方のやり口があんまり悪いもんじゃけ、<ruby><rb>番下</rb><rt>ばんさ</rt></ruby>げ処分にするということじゃ。金さんが居るもんで、現場は他組以上じゃが、肝腎の親方がああじゃけ、永田組を取りつぶせ、という者があるらしい。聯合組の内輪同士というても、請負師仲間には野心のある人が居るけ、油断がならん。組が解散にでもなったら、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>じゃ」

「早う帰って来ればよいのに、はがいい親方ですねえ」

マンは、一途に、永田杢次が恨めしくてならない。

次の日の夜、マンが、いつものように、土間に<ruby><rb>莚</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をしいて、ワラジを編んでいると、

「居やはりまッか？」

大阪弁の女の声で、入口から、案内を乞う者があった。

マンが立って行くと、

「おマンはん、久しぶりだすなあ」

「まあ、君香さん」

マンも、おどろいた。二年前、彦島で別れたきりである。

金五郎夫婦が彦島を追われる前日、新之助と君香とは、別府温泉に行ったとのことだった。その後、<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として消息を絶ち、誰に聞いても知っている者がなかったのである。夫婦は、寝物語に、いく度、「新公はどうしたかなあ」と、話しあったか知れない。

「森の新さんは？」

君香を招じ入れると、マンの口をまっ先について出たのは、その言葉だった。

「新之助はんは、福岡の監獄に居やはります」

「監獄？」

「へえ。実は、そのことで、あて、伺いましたのやけど、……玉井はんは？」

「うちのは、こないだから、ちょっと、旅に出とりますけど、……新さんが、どうして、また監獄なんかに？……」

聞きたいのは、なによりも、そのことだった。

彦島のとき、洋装のハイカラ美人として、マンたちの眼をそばたてさせた君香は、もう、どこにもいなかった。なにからなにまで純日本式で、どこかの料亭の女将風である。<ruby><rb>鬘下</rb><rt>かつらした</rt></ruby>にした頭髪も小粋だし、黒襟からのぞいている青いほどの襟足も水々しい。あの時分から、下ぶくれの丸顔に、落ちついた表情があったが、二年間の歳月が、さらに、その顔に或る重味を加えている。それは、太々しさのようにも見えた。唇の右下の<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>だけが、昔のままだ。

マンの汲んで出した番茶をすすりながら、君香は、家の中を見まわした。

「赤ちゃんは、出来はらしまへなんだのだッか？」

「まだですのよ」

「あて、出来ましたねん」

「ほう」マンは、意外の面持で、君香をあらためて眺め、「お母さんのようには見えませんわ」

「もう、二つになります」

「新さんの子供？」

「さよだす。娘の子やよってに、<ruby><rb>百合香</rb><rt>ゆりか</rt></ruby>という名つけました」

「あなたと新さんに似たら、可愛いでしょうね？」

「ほんまに」

「それで、新さんが、どうして、監獄に？　なんの罪で？……」

「人殺しだす」

「まあ、殺人罪なのですか？」

「いうたら、そんなもんで。……恥を話さな、わかって貰えんさかいに、なんもかんも、打ちわって話しますけど……」

そういって、君香は、彦島以後の消息を語るのだったが、それを聞くマンは、追われて彦島を出発する日、金五郎が沈痛な面持で呟いた言葉が、頭に浮かんで来た。

「新公も考えが足らんなあ。君香は、誰か、……吉田磯吉身内の、うるさい奴の二号らしいけ、どうせ、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なこたない」

その予言が当ったのであった。

君香は、「うるさい奴」の二号であったが、その男は吉田磯吉身内ではなかった。下関の顔役で、「<ruby><rb>蝮一</rb><rt>まむしいち</rt></ruby>」と俗称された土建屋である。新之助と君香とが別府に行ったことをかぎつけた「蝮一」は、早速、別府に乗りこみ、新之助を殺そうとして、あべこべに殺されたのである。はじめから、新之助の方には殺意などなく、追いつめられた果ての兇行で、正当防衛的な意味も多少あったために、刑は軽かった。君香は、自分を「<ruby><rb>露探</rb><rt>ろたん</rt></ruby>」と呼んだという、つまらないことがきっかけで、半死半生の目にあった森新之助を、はじめは気の毒に思って、見舞に行ったり、同情したりしていたのだが、いつか、それが愛情に変化して、殺人事件にまで発展してしまったわけである。

「新さんが――絶対に、このこと、玉井に知らせてくれるな。……って、いやはるもんやさかい、これまで隠して居りましたのやけど、今度、どないしても、相談に乗って貰わんならんことが、いくつも出来ましたよって、お邪魔に上りました」

「あたしとこに、相談というのは？……」

「新之助はんが、もう四五日したら、牢屋から出やはります。まだ刑期はすまへんのやけど、成績がよろしいよって、仮出獄の恩典で、出して貰えるのだす。それで、その身元引請人に、玉井はんになって貰おうと思て。……新之助さんがいやはりました――これまでは隠して居ったけんど、娑婆に出たら、やっぱり、玉井金五郎はんの弟分になって、万事、やって行きたい。いっぺん、兄貴をつれて、牢屋に面会に来てくれたら、ええなあ。……って」

「それは、よろこんで、玉井も迎えに行きますわ。それで、新さん、出てから、なにか、仕事のあてでも？」

「へえ、それは、もう、ちゃあんと。そのことでも、玉井はんに力になって貰わんならんのだすが、あての昔の<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>のお方がおましてな、あてらに同情して、気安うに、ちょいとした料理屋を譲ってくれることになりましたんや。新之助はんも、乗り気で、それやろ、といやはるし、あてはあてで、芸者衆を五六人<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて、そこで、<ruby><rb>置屋</rb><rt>おきや</rt></ruby>もやる考えだす」

「どこでですか？」

「若松だす」

「若松？」

マンの顔が、ちょっと、曇った。

吉田磯吉をはじめ、友田喜造、江崎満吉、ドテラ婆さん、その他、うるさい親分衆、顔役、暴力団のたくさんいる街として、夫金五郎も、若松を敬遠していたが、マンも同様に、若松を、あたかも、猛獣の棲んでいるジャングルみたいに考えていた。

君香には、そんなことがわかる筈もないので、希望に燃えたいきいきした顔つきで、

「新之助はんは、興行の方もやりたい、いうではりました。なんや、あて、よう知りまへんのやけど、牢屋のなかで、友達になった人がいやはりましてな、その人も、若松の方とかで、えろう気が合うたらしゅうて、娑婆に出たら、玉井はんにも、ぜひ紹介して、兄弟分になって貰うんや、いうてはりましたわ」

「なんという方ですの？」

「<ruby><rb>熊丸虎市</rb><rt>くままるとらいち</rt></ruby>、とか、いやはりました」

「<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い名ですこと」

二人は、顔見あわせて、ころころと、笑った。

「それが、おマンはん、恐いどころか、えろう優しい、……新之助はんの口でいうと――<ruby><rb>二十日鼠</rb><rt>はつかねずみ</rt></ruby>みたよな、色白で、コチョッコリした、おとなしい人。……やそうやし。――監獄ちゅうところは、どんな悪い奴ばかり来とるところかと思うたら、みんなええ人間ばかりじゃ。娑婆でのさばっとる奴等の方に、よっぽど悪人が居る。……そないなことも、いうてはりました」

君香の話は、明かるいことばかりである。マンも、新之助と彼女との新生活をよろこぶ気持に変りはない。それにもかかわらず、マンの心に、えたいの知れぬ不安の気持がわき、かすかながら、不思議な動悸が打つ。牙と歯のするどい猛獣のうようよしているジャングルで、料亭をひらき、興行をするという森新之助、そして、そのことの、夫金五郎へのつながり――マンの予感と予見とは、かならずしも、空虚の中に幻影を見る、錯覚だけでもないように思われた。

君香は、金五郎が帰ったら、すぐ連絡してくれるようにと、若松の住所を書き、<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>のウニを置いて、いそいそした足どりで、帰って行った。

翌朝、洗濯をしているところへ、大庭春吉からの使いが来た。<ruby><rb>庭番</rb><rt>にわばん</rt></ruby>の弥吉という老人である。せかせかした語調で、

「おマンさん、これから、じきに、親分の家へ来てつかあさい。なんか、大事なことで、ぜひ話したいことがあるげなけん」

マンは、すぐに、着物を着換え、弥吉老人とつれだって、家を出た。

大庭家は、<ruby><rb>牧山</rb><rt>まきやま</rt></ruby>の高台にあった。鬱蒼とした森林を背後に、深い孟宗竹の林にかこまれて、こじんまりした白壁の家がある。うるさいほど、雀が鳴いている。

大庭の家に行くと、先に助ボーシンの松川源十が来ていた。これも、使者を立てて呼び寄せられたらしい。

春吉は、<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>の座敷で、二人を待っていた。無言で、茶と、菓子と、煙草とを供してから、突然、怒ったような口調で、

「<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>が起ったなあ」

と、口を切った。

「なんごとですか？」

「六ゾロの源」は、びっくりして、<ruby><rb>菊石面</rb><rt>あばたづら</rt></ruby>の長い顎をつまんだ。

「東京よ。交番やら、電車やらが、どんどん焼かれよる。日比谷で講和反対の国民大会が開かれたり、大臣の家に押しかけたり、帝都は大騒ぎじゃ。とうとう、戒厳令が<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>かれたちゅうぞ。当り前のことよ。これだけの戦争をして、こげな屈辱外交をされたんじゃあ、国民が黙って居られるもんか。俺だって、焼討ちに加わりたいくらいじゃよ」

「今日の用件というのは、そのことですか？」

「まさか、なんぼ腹が立ったとて、東京まで、焼討ちの加勢に行くわけにゃいかん。実はな、東京も大事じゃが、こっちにも、大事が出来かかっとる。そのことで、来て貰うた。<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>、<ruby><rb>郵船</rb><rt>ゆうせん</rt></ruby>のパナマ丸が入港する。荷物炭を千トンも積みこまねばならぬ大仕事じゃ。これは、聯合組の縄張りで、永田組が番に当っとるんじゃが、どうも、友田喜造の一派が、横取りしようという企らみをしとるらしい。「ドテラ婆」の子分が、現場に乗りこんで来るかも知れん、という噂がある。無茶は通らん筈じゃけど、<ruby><rb>無法者</rb><rt>むほうもの</rt></ruby>揃いじゃけ、どんな横車を押すかわからん。こんなとき、玉井が居りゃあ、なんの心配もないが、どうしたのか、まだ、帰って来んし……」

「親分さん、すみません」マンは、肩のちぢむ思いだった。「でも、永田の親方もあんまりですわ。親方が帰らんもんで、親方思いのうちのが引きずられて……」

「永田は、一昨日の晩、帰った。玉井のことを聞いてみたが、知らんというんじゃ」

マンは、心臓が、ひっくりかえったようだった。どきどきと、はげしく動悸が打って来た。

（角助から、殺されたのではあるまいか？）

夜泣きの「当り矢」が、話していた――玉井が畳の上で死のうと思うても、そうは問屋がおろさん、といったという角助の言葉が、恐しく、思いだされた。

大庭春吉は、金五郎が、牡丹と蝶の<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をした怪しい女と仲よくしていたことを知っていたが、それは口に出さなかった。

「それで」と、パナマ丸荷役のことを、くれぐれも依頼して、二人を帰した。

乱れた重い心をいだいて、マンは、家に帰って来た。すると、家の中に、誰かがいる。

夫かと思って、駈けこんだ。

「マン坊」

故郷の山奥の大川時次郎であった。

「これは、時やん」

と、さすがに、マンも、おどろいた。

「ようよう逢えたわい」時次郎は、満面によろこびのいろを浮かべて、「どんなに探したかわからん。マン坊に逢おうと思うて、田舎を飛びだしてから、北九州中を、足が棒になるほど、うろついた。よかった、よかった」

「まあ、そんなところに立っていないで、おあがり」

マンは、時次郎を、六畳の座敷にあげた。見なれぬ男を、七匹の猫がうさんくさい眼つきで、眺めている。

時次郎は、郵便局の詰襟服を着ている。いつも、この服装で、馬にまたがり、谷や、丘や峠を越えて郵便を配達していた。四年ぶりで逢うのに、時次郎を見ていると、表に、愛馬の四歳馬がつながれているのではないかという錯覚をおぼえるのだった。日にこげているが、昔と変らぬ頑健さで、濃い粗野な眉や、節の太い手の指に、故郷の谷のにおいがあった。

「なにから話したら、ええか……？」

四年間の思いをこめる<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、時次郎は、昔とは変ったマンを見る。

時次郎の眼に映るマンは、もう、四年前、太陽の光線のさすことの少い谷間で、煙草の葉を巻いたり、牛に餌をやったり、炭を焼いたりしていた百姓娘ではなかった。マンの顔から、野性が<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せてはいなかったけれども、時次郎の知らぬなにかによって、別の<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>りがつけられ、磨きがかけられていることは、疑うことが出来なかった。それは、不思議な一種の圧力になって、時次郎を圧迫する。広島の山奥では、マンに、こんなものを感じたことはなかった。それだけに、時次郎は、いよいよ、平静さをうしない、追っかけられるように、気分が尖って来るのを、どうすることも出来なかった。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんや、お<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんたち、元気でいなさるか知らん？」

そんなマンの当然の質問も、はがゆい気持で、

「元気で居りんさる」

と、怒ったように答え、

「マン坊、あんたは、ひでえ<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>じゃなあ」と、もうなんの修飾も忘れて、恨みがましい口調になった。四年間の思いと癇癪とをぶちまける、爆発の瞬間である。「あんたが、田舎から居らんようになってしもうてから、わしは、どがあに淋しかったか、薄情なあんたには、わかるまあ。わしはあんたと夫婦になるつもりで居ったし、あんたも、わしの嫁女になってくれる気で居るとばかり、思うとった。村長の二男坊の敬やんが、あがあに、あんたを口説いても、縦に首をふらんのは、わしのためと思うとった。それに、わしに一言もいわんで、村を飛びだすなんて……」

時次郎は興奮で、言葉もとぎれとぎれである。

マンは、唐突な告白に、当惑した。堅くなって、うつむき、昔の恋人の声を、雷鳴のように、耳に聞いた。

時次郎は、必死の面持である。膝を乗りだして来た。

「なんでも、ええ。これからでも、ええ。わしと夫婦になりんさい。そのことだけで、村を出て来たんじゃ。村の人から、どがあに思われても、どがあに悪ういわれても、あんたと夫婦になりさえすれや、わしは本望じゃ」

「時やん、あんた、そんな無理なことを、今ごろになって、いうたって……」

にじり寄って来る時次郎の膝が、マンの膝小僧にぴったりとくっついた。しかし、マンは、身体を引こうとはしなかった。興奮した時次郎は、女の手を取った。それも、マンは、なすがままにしていた。

「無理なこと？……今ごろになって？……」

「そうじゃないの」

「無理なことがあるもんけえ。今からだっても、遅うはなあ。今すぐ、夫婦になろう。おれは、あんたが、一度は村を出ても、きっと、また、帰って来ると思うて、待っとったんじゃ。そりゃあ、夫婦約束したわけでも、なんでもなあ。じゃけど、もう、おたがい、心の中ではわかっとった筈じゃ。なあ、マン坊、そうじゃろ？」

「時やんの嘘つき。浮気ン坊。キヌさんのことは、どがあにしたとな？」

皮肉をいおうとして、思わず、故郷の言葉になった。

「キヌ坊？」

「そうよな。キヌさんと大層仲ようして、あたしのことなんて、どがあでも、よかった癖して……」

マンの眼に、ありありと、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の水車小屋の風景が浮かんで来た。ススキの穂の光る流れの土堤で、時次郎とキヌとが、肩を接するようにして、むつまじげに、なにか語らっていた。いかにも楽しげに、笑いさんざめいていた。その二人が、狐と狸のように見えた。そのとき、（なあんじゃ、そうじゃったのか）と、投げだされた気持になり、はじめて感じた嫉妬の思いに、村をすてる決心が定まったのであった。

時次郎は、仰天した顔つきになって、

「とんでもなあ。キヌ坊と、おれと、なんのことがあろうか。そりゃ、友達じゃけえ、話をしたことはある。水車小屋のところで出逢うて、専売局の「鬼」が、狐にだまされた話して、笑うたこともある。じゃけど、友達なら、そがあなことは当りまえじゃなあか。マン坊、お前、おれを嫌うて、難癖でもつけよるのとちがうか。おれは、真剣じゃぞ。キヌ坊は、もう二年も前に、<ruby><rb>高門</rb><rt>たかかど</rt></ruby>の武十旦那の三男坊に貰われて嫁った。おれは、女子のことは、マン坊のほかに考えたことはなあ。郵便局もなにも、<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>からかして、村を出たんじゃ。おれと夫婦になってくれんさい」

「時やん、あんた、あたしが、もう人の嫁女になっとることが、判りんさらんとな？」

「門司の<ruby><rb>林助兄</rb><rt>りんすけあに</rt></ruby>さんを尋ねて行って、あんたの行先を聞いたんじゃよ。そんとき、玉井金五郎とかいう変な男に誘われて、下関の彦島に渡ったと教えられた。その玉井の嫁女になったとは、聞かなんだよ」

「その変な男の嫁女になったとよ」

「どうせ、沖仲仕のばくち打ちで、彫青かなんかしたゴロツキじゃろ？」

「彫青なんて、そがあな馬鹿なもん、しとるもんけえ」

「なんでもええ。そがあな男とは別れんさい。籍に入っとるわけじゃ、あるまあが？」

「籍には、入っとらんけど……」

「子供は？」

「出来んわ」

「そんなら、なんでもなあ。マン坊、頼む」

「ちょっと、待って」

マンは、時次郎の手を払うと、かたわらの煙管を取りあげた。落ちついた手つきで、キザミをつめ、静かに、一服、吸った。

時次郎の眼は、<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しくぎらつき、額に、大粒の油汗がにじみ出ていた。

マンは、頬をへこませて、煙を深く吸いこみ、それから、胸を張るようにして、フウッと、それを吐きだした。火鉢の縁に、雁首をたたきつけて、火を落した。

「時やん」

「う？」

「玉井金五郎が帰るまで、待って」

「いつ、帰るんじゃ？」

「わからんわ」

「どこに、行っとるんじゃ？」

「一週間ほど前に、二日市にある武蔵温泉というところに行ったとよ」

「ほうれ、そがあなことよ。温泉に行って、一週間も帰らんといやあ、そこで、淫売みたよな<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>と、でれついとるに定まっとる。そがあな男は早よ見切りんさい」

「見切るかも知れんけえ、ともかく、帰るまで待ちんさい、玉井に聞いてみて、玉井が、時やんの嫁女になってもええ、というなら、なる」

「そがあな、まだろこしいことより、今からすぐ、二人で、この家を出ろうや」

「時やんの判らず屋」

はげしい語調だった。猫が二三匹びっくりして、飛びあがった。大川時次郎も、不意に、頬に平手打ちを食ったようなおどろきで、きょとんとした顔つきになった。それまでにも、妙に、威圧されるものを感じていたのに、その<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しった</rt></ruby>の声は、完全に、時次郎を打ちのめした。

時次郎は、俄かに、言葉をうしない、首を深くたれて、うつむいた。

マンは、無言で、また、煙草を吸った。

時次郎は、しょんぼりした顔つきで、頭をあげた。

「マン坊、その玉井金五郎という人の帰るのを、待つことにするよ」

力のない声で、いった。

それから、やっと、二人は、久しぶりで逢った故郷の人間同士の平静さにかえって、一別以来の村の話に、花を咲かせた。

その日が暮れても、夜になっても、金五郎は帰らなかった。

時次郎は、泊ることになった。マンは六畳の方に、客人は四畳半に寝ることにしたが、蒲団がない。彦島を追われるとき、「なんでも屋」が餞別にくれた煎餅蒲団は、年が経って、幾度も綿を打ち替え、表の布を張りなおした。それが上下二枚あるきり、客用の蒲団を作るほど、まだ、家計に余裕がなかった。

「時やん、これにくるまって寝ておくれ」

マンは、厚い敷き蒲団の方を、時次郎に渡した。

「いんや、おれは蒲団なんか要らん。寒いこたない。ごろ寝するよ」

「夜は冷えるけ、風邪を引くばい。まあ、これを着んさい」

「ええというのに……」

二人が、蒲団を中にはさんで、押し問答をしていると、突然、ガタッ、ピシャッと、家なり震動するほどのはげしさで、障子が開いた。

マンと、時次郎とがびっくりして、ふりかえると、部屋の入口に、金五郎が突っ立っている。

金五郎は、団栗眼をひんむき、上歯で下唇を噛み、<ruby><rb>諸肌</rb><rt>もろはだ</rt></ruby>をぬいでいる。その右手には、短刀がにぎられ、左腕には、肩から二の腕にかけて、昇り龍の彫青が、青々と、浮きあがっていた。

「<ruby><rb>間男</rb><rt>まおとこ</rt></ruby>、見つけたぞ。二人とも、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち斬ってくれる。そこへ、坐れ」

金五郎のすさまじい剣幕に、時次郎は、思わず、畳のうえに、膝をついた。坐った。

マンは、ぽかんとなって、眼を白黒させた。その眼は、金五郎の左腕に、釘づけされた。夫の誤解や、怒りを解こうという気持よりも、彼女にとっては、夫の腕に、これまで見たこともない、怪しい模様の出来ているのが、重大関心事であった。

天井から吊るされたランプの<ruby><rb>火屋</rb><rt>ほや</rt></ruby>に、さっきから、一羽の大きな蛾が、しきりと、戯れていた。バタバタと飛ぶたびに、羽から細かい金粉を散らしていたが、このとき、金五郎の方に飛んで行って、左腕にとまった。その途端、ふっと、蛾の姿が消えた。

マンは、ぎょっとして、眼を皿にした。夫の腕のうえで、らんらんと、巨大な二つの眼をきらめかせ、雲を望んで昇天している龍が、その蛾をバクッと呑んだように見えたのである。それは妖怪じみた幻想となって、マンを戸まどいさせた。これまで二年間、夫婦として親しんだ夫が、まったく別人と化したような、不思議な錯覚におちいって、奇態な吐息が出た。

「その<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>、いったい、どうしたんですか？　いつ、どこで、誰から<ruby><rb>彫</rb><rt>い</rt></ruby>れて貰ったんですか？」

そんな当然の問いが、怒りの形相ものすごく、突っ立っている金五郎を見ると、どうしても、口から出なかった。といって、マンには、時次郎との仲を疑われた弁解をしようという気持も、湧いては来ないのである。

待ちこがれた夫を見たうれしさや、腹立たしさや、悲しさやがこんぐらがって、

（ふン、今時分まで、どこをほっつき歩いとったか知らんけど、いきなり、飛びこんで来て、間男呼ばわりするなんて、勝手のええにもほどがあるわ）

心のうちで、そんな<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>の<ruby><rb>邪鬼</rb><rt>じゃく</rt></ruby>な意地を出していた。

マンは、金五郎が右手に握っている刀に気づくと、不審の眉をひそめた。夫が、後生大事にしている<ruby><rb>助広</rb><rt>すけひろ</rt></ruby>だ。二年ほど前、彦島で、遊び人たちの襲撃に備えて、金五郎の柳行李から無断で借りて行ったことがある品。結婚してからも、ときどき、取りだして手入れをしているので、マンも、刀の肌や形や色に、見おぼえが出来ていた。

（あの小刀は、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の桐箪笥に入れてあった筈じゃが……？）

そうとすると、夫は帰宅すると、いきなり、飛びこんで来たのではないことになる。しばらく、様子を見ていて、そっと、箪笥から、刀を取りだしてから、障子を開いたのであろうか。

正坐した時次郎は、握った両拳を太股のうえにつき、金五郎を無言で、凝視している。恐怖の感情からではなく、この変な男の正体を、見きわめようとしているもののようだった。

（これが、恋敵か？）

マンは、彫青なんかしていないといったが、やっぱり、クリカラモンモンのゴロツキではないか――時次郎は、軽侮と、憎しみとの<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>を光らせ、戦いの姿勢をととのえた。武器は持っていないけれど、村の草角力で横綱になった腕力と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わざ</span>とには自信がある。時次郎の濃く太い眉が、ぐりぐり、動く。

金五郎は、立ちはだかったまま、二人の様子を見ていたが、おもむろに、口を開いた。

「知らぬは亭主ばかりなり――とは、昔の人が、よう、いうちょる。マンだけは信用しとったが、ちょっと、留守をしとる間に、もう、これじゃ。女子の心ちゅうもんは、<ruby><rb>恐</rb><rt>おとろ</rt></ruby>しいのう。女子は魔物じゃ」

（なに、いうとるかね、男の方が、よっぽど、魔物じゃないか）

マンは、そう思ったが、口には出さなかった。

金五郎は、腕組みした。右手の小刀が、左腕のところに行き、龍がそれをくわえているように見えた。

「マン、間男」と、二人を、交互に睨みつけるようにしてから、「お前たちは、運がええ。本来ならば、この場で、二人を重ねて置いて、四つにするのが、間男成敗の定法じゃが、今夜だけ、それを延期する。明日の晩にする。どうしても、その前に、やらねばならん仕事があるからじゃ。……マン、旅から帰りに、大庭親分のところに、お詫びの挨拶に寄って、パナマ丸の荷役の話、聞いた。親分さんは、おれがこの仕事に間に合うたことを、大層よろこんでくれて、頼むぞ、と、おれの手をとっていいなさった。おれも、ええときに帰って来たと思うて、うれしかった。この仕事は、永田組、……いや、聯合組全体の浮沈にかかわる大事な荷役じゃけ、どんなことがあっても、やり遂げにゃならん。旅から帰ってみりゃ、お前が間男しとって、<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>は煮えくりかえるごとあるが、明日のパナマ丸を<ruby><rb>失敗</rb><rt>しくじ</rt></ruby>っては、おれの男が立たん。話は全部、パナマ丸の後にする。……マン、ええな？」

マンは、夫の顔を鋭く見つめたまま、無言で、大きく、ひとつ、うなずいた。そのとき、はじめて、<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>きをした。

金五郎は、吊るされたランプを見あげながら、独りごとのように、「明日の仕事は、ただではおさまるまい。「ドテラ婆」の一味が、邪魔に入るかも知れんちゅうから、当りまえではいかん。「ドテラ婆」の背後には、友田喜造が居る。友田は、腕力で、この港の仕事を、端から、自分のものにしようと企らんどる。おまけに、おれの留守中に、角助がケツ割って、「ドテラ婆」の子分になったちゅうことじゃけ、問題は一層うるさい。角助は、おれのやり口を知っとるけ、おれの裏をかくかも知れん。それで、こっちも、今度は、もう一つ、その裏をかかにゃならん。……マン」

きっと、金五郎の強い眸が、ふたたび、マンを刺した。

マンは、なお、無言で、夫の口もとに注意した。

「お前、これからすぐ、部屋中を起して廻れ。午前二時、<ruby><rb>新川</rb><rt>しんかわ</rt></ruby>岸壁集合、<ruby><rb>大伝馬</rb><rt>おおでんま</rt></ruby>船を、<ruby><rb>燈台沖</rb><rt>とうだいおき</rt></ruby>まで漕ぎだして置いて、パナマ丸の入港を待つ。助ボーシンの源公とも、よく打ちあわせてある。<ruby><rb>小方</rb><rt>こかた</rt></ruby>に全部知らせたら、永田親方の家に行って、朝飯を六十人前、すぐ<ruby><rb>炊</rb><rt>た</rt></ruby>いて、パナマ丸に届けろ。そのころは、もう、船は港に入っとる筈。……おい、間男、猫の手一つでも借りたいところじゃ。というて、うちの猫は七匹居っても、さっぱり、役に立たん。お前も、手伝え」

  


## 人情の谷

永田家の台所には、三升釜が二つ、据えられてある。どこの<ruby><rb>小頭</rb><rt>こがしら</rt></ruby>の家でもそうであるが、<ruby><rb>夜業</rb><rt>やぎょう</rt></ruby>、<ruby><rb>朝業</rb><rt>あさぎょう</rt></ruby>、<ruby><rb>遠出</rb><rt>とおで</rt></ruby>などの荷役のときには、五十人前――百人前という弁当をつくることが稀でないので、炊きだしの整備はととのっていた。

マンの指図で、炊かれた熱い飯が、どんどん、握られる。大きな握り飯三つに、これも太く輪切りにした沢庵の片が五つ、これが一人前、竹の皮で巻かれ、古新聞に包まれる。敏速に、出来る端から、籠に詰められる。

永田ヨネを加えて、女仲仕たちが四人、弁当作りに、余念がなかった。

「おトキさん」

と、マンが、一人の女を呼んだ。

「はい」

「あんた、すまんが、酒屋に<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>ッ<ruby><rb>走</rb><rt>ぱし</rt></ruby>り、行って来ておくれんか。五升樽を二つ、すぐ、永田まで届けて下さい、って」

「一斗ですね？　行って来ます」

トキが門口を出ると、入れちがいに、永田組の印半纏を着た、少年のような男が、入って来た。「中学生」と愛称されている、谷<ruby><rb>俊次</rb><rt>しゅんじ</rt></ruby>である。

「弁当、もう出来ましたか？」

「もう、じき、出来る。俊ちゃんが持って行ってくれるとな？」

マンは、「中学生」が、故郷にいる弟の<ruby><rb>牛三</rb><rt>ぎゅうぞう</rt></ruby>によく似ているので、可愛がっていた。

「はあ、僕が持って行きます」

俊次は<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>に腰をおろして、そこに置いてあった薬缶から、ゴクゴクと、咽喉を鳴らして、水を飲んだ。それから、思いだしたように、沢庵をきざんでいるマンの方を向いた。

「玉井の<ruby><rb>姐</rb><rt>あね</rt></ruby>さん」

「はあ？」

「今、新川の岸壁から来たんですが、大庭の親分が、浜に出て居られましたばい」

「大庭の親分さんが？……」

「聯合組の提灯を持った人が、桟橋のところに居るもんじゃから、誰かと思うたら、大庭の親分でした」

「そら、いかん」

マンは、急に、びっくりしたように、立ちあがった。

「酒が来たら、弁当といっしょに、俊ちゃんに持たせてやって下さいな」

永田ヨネに、そう、いい置いて、あわてふためいた様子で、表に駈けだした。右手に、永田組名入りの弓張提灯を持っていた。

冷えきった秋の夜気が、手をさしこむように、懐に飛びこんで来た。月がぼうと霞んでいる。マンは、左手で襟元をかきあわせ、その腕で、乳房の盛りあがっている胸をおさえて、急いだ。

夜泣きうどんの「当り矢」の横を、通った。

「玉井のごりょん、こないだは、ありがとう。熱いのを一杯、どうな？」

そんな「当り矢」の言葉も聞きすてて、一層、歩度を伸ばした。

停車場の裏手に当る狭い路地の奥に、永田杢次の妾宅があった。格子戸を、どんどんと、叩いた。

「電報、電報」

赤い長襦袢姿のおサクがあらわれた。髪がみだれている。

「永田の親方に、すぐ、あたしといっしょに帰るように、いうて下さい。パナマ丸の仕事を心配なさって、大庭の大親方まで、出張っていなさる。玉井をはじめ<ruby><rb>小方</rb><rt>こかた</rt></ruby>は、もう、燈台沖までも漕ぎ出しとる。肝腎の永田親方が居らんで、すみますかって」

いったん引っこんだサクは、まもなく、あらわれた。長襦袢のうえに、羽織を引っかけている。髪のほつれも、かきあげていた。

「旦那は、どうしても、お起きになりませんわ」

「死んどるとですか？」

「いえ、死んでは居られんけんど……」

「死んどらん者が、起きんわけがありますか？　あんた、ほんとに、起したの？」

「ずいぶん、声をかけてみたのですけど、……ひどく酔ってらっしゃるもんだから……」

「ちょっと、失礼」

マンは、玄関の上り框に、提灯を置くと、草履をぬいで、つかつかと、奥に通った。

家は狭いので、すぐに、永田杢次の寝ている蒲団が見えた。部屋は、青白い。天井のガス燈のマントルが、白い布地の網を、呼吸でもしているように、明かるく、鈍く、光らせている。<ruby><rb>饐</rb><rt>す</rt></ruby>えたような異臭が、鼻を打った。朱の剥げ落ちた箱枕が、永田杢次のビリケン型の禿頭の横にころがり、うつぶせになった半裸体の中老人は、奇妙な恰好に、腕と足とをよじらせて、鋸の目立てのような<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>を、かいている。

マンには、その親方の姿が、鬼火に照らされた墓場で、棺から<ruby><rb>発</rb><rt>あば</rt></ruby>きだされた屍骸のように、見えた。それは、しかし、不気味さや、恐しさではなく、いいようもない佗しさ、悲しさ、寂しさであり、やり場に困る腹立たしさであった。そして、その憤りは、親方に対してよりも、一層はげしく、サクの方へ向いていた。

（この毒の花のような女が、このよい親方を殺してしまったのだ）

マンは、一見しおらしげなサクへ、はげしい憎悪をおぼえた。

「親方、……永田の親方」

膝をついて、肩をゆすぶった。

永田は鼾を止め、軽い<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きを発するだけで、眼をさます様子がない。

「こんなに疲れていらっしゃるんですから、もう、このままに……」

そのサクの言葉には答えず、マンは、枕元にある水さしを取った。永田をあおむけにしておいてから、水を口にふくみ、ブウッと、親方の顔にふきかけた。二度、冷たい水を浴せると、永田は、ようやく、眼を開いた。

「親方」

「おサクかい？」

舌のもつれたような声である。

「わたしですよ。玉井のマンです。わかりますか？」

「わかるが、……なんで、おマンが来たんじゃ？」

「親方を迎えに来ました。すぐ、あたしと帰って下さい。永田組が潰れかかっています。夜業の現場に、大庭の大親方がお出ましになって――もし、今夜の荷役に、永田が姿を見せなんだら、考えがある。……そう、おっしゃっています。親方、親方は永田組が潰れても、ええとですか？　永田組と、おサクさんと、どっちが大事なのですか？　子分全部と、メカケ一人と、<ruby><rb>天秤</rb><rt>てんびん</rt></ruby>にかけて、どっちを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るとですか？　どっちが、可愛いとですか？」

マンのその言葉は、麻痺した神経にも、鋭く<ruby><rb>中枢</rb><rt>ちゅうすう</rt></ruby>にひびいたものか、永田杢次は、

「そら、大事じゃ。そら、大事じゃ」

と、<ruby><rb>囈言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように、呟いて、蒲団のうえに、起きなおった。

「お帰りになりますの？」

サクは、ふらついている旦那が、まだこころもとないとみえる。

「当り前ですよ」

親方にかわって、マンが、そう、叩きつけるように、答えた。

マンは、乱れ箱に入れてある衣類を取り、親方に着せた。骨なしのような永田杢次を立たせ、頑是ない子供にしてやるように、襦袢、着物、羽織、そして、帯まで締めてやった。サクがしようとするのを、手をはねのけて、扱わせなかった。

玄関に、引きずるようにして、つれて出た。

「旦那、<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>を呼びましょうか？」

そのサクの猫なで声に、マンは、はがゆそうに、

「俥なんて、要るもんですか。そんな悠長な時間はないわ」

玄関に置いた弓張提灯は、火が消えていた。

サクが、マッチを持って来て、火を点じようとした。マンは、提灯を引いた。

「あんたの火は借らん。今夜は月夜じゃけ、足元は明かるいわ」

腹立ちまぎれ、無茶のような捨言葉を残して、妾宅を出た。そして、永田杢次の手を引き、おぼろ月に煙る深夜の街を急いだが、マンは、遠くに、永田家の灯が見え、そこで、忙しく弁当ごしらえに立ち働いている人たちの影が見えて来ると、急に、胸が<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>いて来て、涙が、ボロボロと、流れ落いた。

永田が、ぐにゃぐにゃで、幾度もつまずいて倒れるので、マンは、親方を、背に負った。張り子のように、軽い。

また、新しい涙が流れ、

（ええ親方じゃったのに……）

と、二年前、「なんでも屋」の紹介状を持って、永田杢次を頼って来て以来のことが、走馬燈を急廻転させるように、目まぐるしく、マンの脳裡を去来した。

「どこに行っても、これというて、心服の出来る親方は居らんなあ」

門司や、下関にいたころ、金五郎は、口癖に、そう、述懐していた。浜尾市造も、山下松次も、親分として仰ぐに足る人物でないとして、見切りをつけた。その金五郎が、永田組で、二年も腰を落ちつけたのは、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>、永田杢次の人柄に惹かれたためである。

二人が、乞食のような恰好で、彦島を追放され、暗澹とした気持におち入って、さして深い希望も抱かずに、戸畑にやって来たとき、永田杢次は、暖かい気持で二人を迎え、<ruby><rb>親身</rb><rt>しんみ</rt></ruby>もおよばぬ面倒をみてくれた。その親切は、金五郎夫婦の骨身に浸みた。そして、身を粉にして働き、二年間が過ぎたのであるが、この半年ほど前から、永田杢次は豹変してしまったのである。

（あんな女、どこが、ええのか知らん？　どうして、あんな女のために、男一匹が、腐ってしまうのか知らん？）

マンは、不思議でたまらない。そして、その理解の出来ないもどかしさ、はがゆさ、いらだたしさで、ただ、無性に、腹が立って来るのだった。顔を、涙で濡らしたまま、マンは、永田家に帰った。永田杢次は、いつか、マンの背中で、気持よさそうに、眠っていた。

防波堤の突端にある燈台の灯が、ゆるやかに、廻転しながら、夜の幕のうえに、光の<ruby><rb>条</rb><rt>すじ</rt></ruby>をきらめかす。霞んだ空の月が、海上を、ほのかに、照らしているので、伝馬船の行動に、不便はない。八幡の上空は、製鉄所の熔鉱炉の火が高く反映して、大火事のように、赤く燃えている。その空の火が息をしているように、明滅する。風が、冷たい。

「今、何時ごろかな？」

誰かが、そういったけれども、時計を持っている者はなかった。

「五時じゃ」

と、断定的に、いう者があった。

「どうして、わかる？」

「<ruby><rb>安養寺</rb><rt>あんようじ</rt></ruby>の鐘が鳴りよる」

そういわれて、耳をすますと、未明の空気の奥底に、余韻をながく引いた鐘の音が、かすかに、ひびいていた。若松にある安養寺は、古い由緒のある浄土宗の寺である。朝の五時には、かならず、時鐘を<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>く。鐘楼は街を一望に見下す高台の突端にあるので、その音は、ひろく、遠く、伝わる。それでも、港外になる燈台沖までは聞えにくいのだが、西風のせいであろう。

「五時か？」と、<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>に腰をおろしていた金五郎は、ちょっと、不審そうに、「パナマ丸は遅いなあ。四時過ぎには、入港する予定ちゅうことじゃったが……」

「ボーシン、すこし遅れた方が、ええよ。明かるうなってからの方が、危険がないけ」

「それも、そうじゃが、暗い方が、こっちの作戦が、敵方に知られんですむ」

「角助の野郎、人非人じゃなあ」

「<ruby><rb>繋船</rb><rt>けいせん</rt></ruby>が、三番<ruby><rb>浮標</rb><rt>ブイ</rt></ruby>じゃけ、きっと、あいつ、ブイのところに、伝馬を漕ぎだして待っとるよ。それで、こっちの鼻を明かそうと考えとる。おれたちが、燈台沖までも出とるとは、まさか、気がつくまい。角助は、今日の荷役で、ドテラ婆さんに忠誠を示す、一番手柄を立てるつもりじゃろうが、あべこべに、大眼玉を食うぞ」

「ドテラ婆というのは、はげしい奴らしいなあ。誰かを殺そうという<ruby><rb>目安</rb><rt>めやす</rt></ruby>をつけたら、その相手の後の方に立って、合図に、右手をあげる。そしたら、子分が、その男を斬る。そんな話を聞いたよ。人間を殺すのを、大根か、<ruby><rb>茄子</rb><rt>なすび</rt></ruby>を切るくらいにしか、考えとらん奴ばっかりじゃけ、困るわい。ボーシンも、気をつけたが、ええばい」

「おれは、喧嘩は嫌いじゃけ、斬られはせん。斬られそうになったら、三十六計、逃げだすよ」

その金五郎の言葉で、笑い声が起った。

若松港内は静かであるが、ここまで来ると、さすがに、波が高い。防波堤には、白いしぶきがあがっている。燈台の真下になる暗い海上に、二隻の大伝馬船が浮き、舷側に、夜光虫を青白く光らせながら、パナマ丸の入港を待っているのだった。

一隻には金五郎、別の一隻には、「六ゾロの源」が、統率役として乗っている。煙草を吸う火のほか、明かりはつけていない。

金五郎の乗っている船の<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>には、大川時次郎が、膝をかかえてしゃがんでいた。郵便局の制服は脱いで、借りものの沖仲仕の仕事衣を着ている。永田組部屋仲仕のほかに、「バゾク」と称する、組に所属しない浮浪仲仕も、何人かまじっていたので、時次郎もその「バゾク」の一人のように見え、特に、彼に注意する者もなかった。

時次郎の関心は、ただ、玉井金五郎の言動にあった。

「来た。来た」

と、松川源十の方の船で、声があがった。みんなは、一斉に、沖の方を見た。

<ruby><rb>六連島</rb><rt>むつれじま</rt></ruby>を背景にして、一隻の汽船が、左に赤、右に緑、<ruby><rb>檣</rb><rt>ほばしら</rt></ruby>に白の航海燈をともして、こちらに、近づいて来る。霞んだ暗い海のうえに、光を<ruby><rb>鏤</rb><rt>ちりば</rt></ruby>めた黒い船体が、幻のようである。パナマ丸は、ボウオッと、重々しいひびきを立て、白い蒸気をふきあげて、入港の汽笛を鳴らした。

「よし、漕げ」

と、舳に立ちあがった金五郎は、弾んだ声で、叫んだ。

二隻とも、二挺の櫓を立て、パナマ丸に向かってではなく、港内に舳を向けて、漕ぎだした。

待ちくたびれていた伝馬船内に、俄かに、活気がみなぎって来た。

港口に近づくと、汽船は速力を落す。それでも、人間の漕ぐ伝馬船には、すぐ追いつく。間近に、ビルディングのようなパナマ丸の巨体が、近づいて来た。

金五郎は、弓張提灯に、火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。松川源十も、それに<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>った。永田組の三字が入った十個ほどの提灯が、俄かに咲いた花のように、海上に光を落した。

キイ、キイと、<ruby><rb>櫓臍</rb><rt>ろべそ</rt></ruby>が泣く。二隻の伝馬船は、十間ほどの間隔をおいて、力一杯、港内へ向かって漕がれている。その中間に、やがて、追いついて来たパナマ丸が、舳を乗り入れて来た。

「<ruby><rb>本船</rb><rt>ほんせん</rt></ruby>に寄せろ」

金五郎のその号令で、伝馬船は、パナマ丸と平行して走りながら、ぐんぐん、汽船の船腹へ寄って行った。巨船のまきおこす波のあおりが、急に、ざわついた大きな横波になって、伝馬船をはげしく動揺させた。下手が漕ぐと、櫓が浮いてしまうのだが、<ruby><rb>櫓方</rb><rt>ろかた</rt></ruby>も鍛えた腕だった。吸いつけられるように、伝馬船は、赤い腹を出している汽船へ近づく。

「危いぞう」

すでに、パナマ丸では、船の進路に、提灯を点した二隻の小船のいるのを認めていて、甲板の上から、船員たちが怒鳴っていた。赤いカンテラを振り、

「ぶっつかるぞう」

「沈んでしまうぞう」

「離れろう」

などと、口々に、叫んでいる。

舳に突ったった金五郎は、提灯を、丸く、輪形に、振っていたが、汽船の舳が、二隻の伝馬船の中間を過ぎると、それを、傍の仲仕に渡した。用意していた一本のロープを取りあげた。先に、<ruby><rb>錨</rb><rt>いかり</rt></ruby>のような<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>がついている。

「ヨウッ」

と、腹の底からのような、低い掛声とともに、そのロープを、汽船の甲板に向かって、投げあげた。習熟しつくした手練である。ロープは甲板の上に飛んで行き、先の釣が、ガチャッと、音を立てて、デッキの<ruby><rb>欄干</rb><rt>てすり</rt></ruby>に引っかかった。

「よし」

と、金五郎は、会心の面持で、強く、うなずいた。

ロープの下端は、伝馬船の舳につながれてある。綱が斜にぴんと張ると、伝馬は汽船と同じ速力になって、走りだした。

金五郎は、ロープに手をかけた。二三度、しごいてみてから、足を伝馬船から放した。ロープを伝い、するすると、登って行く。猿のようである。時次郎は、眼を瞠って、金五郎の行動を凝視していた。

（あの男、海に落ちれば、面白い）

時次郎の心に、意地悪な気持が湧いた。

（落ちて、死ねば、なお、ええんじゃが……）

彼の胸中の奥底を探れば、そんな悪魔の心であったかも知れなかった。

――恋敵。

憎いのである。マンへの慕情が、いささか、常軌を逸するほどであっただけに、マンを独占している男に対しては、歯ぎしりしたいほどの、嫉妬と憎悪の思いが湧く。それは、マンへの恨みもこめて、模範青年であった大川時次郎を、<ruby><rb>瞋志</rb><rt>しんい</rt></ruby>の地獄へ誘いこむのであった。

（あの男がいなくなれば、マン坊は、おれのものになるのだ）

盲目的な恋愛のエゴイズムが、時次郎に、そんな悪辣な期待を抱かせていた。

時次郎の切なる願いにもかかわらず、金五郎は、海には落ちなかった。敏捷に、ロープをよじ登って、欄干に達すると、ひらりと、<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>をおどりこえて、甲板に消えた。

三分も経たぬうちに、船上に、姿をあらわした。欄干から、身体を乗りだし、下の伝馬船に向かって、

「すぐに、<ruby><rb>棚吊</rb><rt>たなつ</rt></ruby>りに、掛かれ」

と、怒鳴った。

船の進行中に、舷側に、手揚げ荷役の段取りをするなどは、異例に属する。第一、危険であるし、これまで、一度も、例がなかった。しかし、船に乗りこんだ金五郎は、短時間の間に、その諒解を得たものらしい。これも、交渉の結果とみえ、船の速力が、一段と落ちた。

出発のときから、充分に、打ち合わせは出来ていたので、金五郎の号令で、仲仕たちは、敏活な行動を開始した。

金五郎が、舷側に、縄梯子をぶら下げた。それを伝って、三人ほど、甲板に上がった。ロープや、棚板が、次々に操作され、見る間に、第三ハッチの舷側に、六段の雛壇が出来あがった。それは、右舷だけではなく、左舷も同様だった。左舷を指揮していたのは、「六ゾロの源」である。

「どうやら、うまく行ったなあ」

金五郎と、源十とは、さすがに、ほっとした面持で、微笑を取りかわした。

段取りが終り、パナマ丸が、<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>の入口に横たわっている、<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>ノ<ruby><rb>島</rb><rt>しま</rt></ruby>の横を通るころには、東の空は白み、港内も、ぼうと、暁のうす光に、浮きあがりつつあった。

「玉井君、君は、相かわらず、元気だなあ」

<ruby><rb>船橋</rb><rt>ブリッジ</rt></ruby>のうえで、そういうのは、船長である。門司以来の顔見知りで、荷役のたび、何度も逢ったことがあった。

「外に、能がありませんからな。親ゆずりの健康だけが、取り柄ですよ」

「いや、謙遜せんでもいい。僕も、今度ばかりはおどろいたよ。型破りだ。こんな無鉄砲、君でなけりゃ、出来んよ。これは、健康だけの<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>じゃない」

「わたしがしたんではなくて、港の悪漢がさせたんですよ」

「大きに、そうだ。どうも、港をかきまわす毒虫がいて、困るなあ。こっちが、<ruby><rb>端迷惑</rb><rt>はためいわく</rt></ruby>だ。船を喧嘩場と思ってるんだから。……今日も、喧嘩になりぁすまいねえ？」

「わたしの方は、喧嘩なんかしないつもりですが……」

三番<ruby><rb>浮標</rb><rt>ブイ</rt></ruby>が、薄明の中に、近づいて来た。

遠目であるが、そのブイのまわりに、二隻の大伝馬船がつながれているのが、明瞭に、認められた。「友田」の二字を入れた数十張りの提灯が、光の針鼠のように、二箇所、海上に、密集しているので、見まちがいようがない。

「やっぱり、おれの考えていたとおりじゃったな」

金五郎は、<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>するような、派手な光の集団を見て、おかしそうに、笑った。

「友田喜造の名で、脅かそうとしていやがる」

源十も、苦笑して、警戒する眼のいろになった。

「こっちも、提灯を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けよう」

「それが、ええ」

二人の合図で、永田組の弓張提灯に、全部、灯が入れられた。両舷の雛壇に、四人ずつ立った。六段で二十四個、提灯<ruby><rb>山笠</rb><rt>やま</rt></ruby>みたいである。パナマ丸は、あたかも、<ruby><rb>大手</rb><rt>おおて</rt></ruby>、<ruby><rb>搦手</rb><rt>からめて</rt></ruby>を、軍兵によって護られた城郭のように、美しい。天主閣のうえで、ボオオウと、法螺貝のような、太い汽笛を鳴らしながら、船は、<ruby><rb>水先案内</rb><rt>パイロット</rt></ruby>の<ruby><rb>小蒸気</rb><rt>ボート</rt></ruby>に誘導されて、三番ブイに近づいた。

この、ものものしい、暁の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>の祭典は、港の周辺のどこからでも望まれる。各所から、数千の好奇の視線が、三番ブイに、集中されていた。

パナマ丸が、中ノ島横を通過するのが見えると、石炭を満載した数隻の艀が、<ruby><rb>曳蒸気船</rb><rt>ひきボート</rt></ruby>に<ruby><rb>曳航</rb><rt>えいこう</rt></ruby>されて、若松側の鉄道桟橋下から、本船に向かって、進行して来た。

パナマ丸は、ブイに、繋留された。

永田組の伝馬船に、「友田」方の伝馬船が、漕ぎ寄って来た。舳に、提灯を高くかかげた平尾角助が、突っ立っている。

「永田杢次は、居らんか？」

二隻の舷が接すると、角助が呶鳴った。不潔な雑巾のような、醜悪な正方形の顔に、陰険で、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>そうな眼が光っている。

金五郎は、デッキから、棚伝いに降りて来て、角助と相対した。

「角さん、なんか、用ですか？」

「お前に、用はない。永田の親方を出せ」

「わたしが、現場の責任者じゃけ、仕事の話なら、わたしが聞きます」

「<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>ッ<ruby><rb>端</rb><rt>ぱ</rt></ruby>は、引っこんどれ。永田組の仕事の話は、永田の親方にするんじゃ」

「角さん、それでは、筋が通らんですよ」

「なんでや？」

「あんただって、友田さんでも、ドテラ婆さんでもないじゃないか。それとも、その伝馬船の人たちは、平尾組の若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>かね？」

平尾角助は返答に窮して、眼を白黒させた。頭が悪いので、条理を立てて来られると、すぐに、言葉に詰まる。

「わたしも、下ッ端なら、あんたも、いわば、下ッ端。そんなら、下ッ端同士で、話は出来る筈です」

金五郎は、静かな語調でいった。

「よし、そんなら、話をする。玉井、すぐに、永田の若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>全部を引きつれて、この場から退散せえ。このパナマ丸の荷役は、ちゃあんと、こっちでやる約束が出来ちょる。それを<ruby><rb>分取</rb><rt>ぶんど</rt></ruby>りしようなんて、横着にも程がある。さっさと、引っこめ」

「約束？……誰と？……」

「お前の親方の、永田杢次とよ」

金五郎は、せせら笑って、

「奇妙なことを聞くもんですなあ。他人が出鱈目の約束するなら、そんなこともあろうかと思うが、自分の大切な仕事を、本人の永田親方が、なんで、他人に譲ったりなんかしますか？　気でも違わんかぎり……」

「ワッハッハッハッ、永田が<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>ちゅうこと、子分の癖に、気がつかんとか。玉井、お前を<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にしとる永田が、お前たちを売っとるんじゃよ」

「そんな途轍もない因縁をつけても、誰も、ほんとうに、する者はない。正当な仕事の邪魔をしたりせんで、ともかく、引き取って下さい」

「ワッハッハッハッ」

と、角助は、また、<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>した。いかにも、会心そうである。

敵味方の視線が、鋭く、二人に、集中している。

「玉井、引き取らにゃならんのは、そっちじゃぞ。いくらいうても、おれを信用すまいから、証拠を見せてやる」

角助は、腹掛けの<ruby><rb>丼</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>を探って、一枚の紙片を取りだした。ひろげて、皺をのばし、筋くれだった平手で、ぱんと叩いてから、金五郎の鼻先に突きつけた。

「これを、見れ」

金五郎は、その青罫紙を受けとって、読んだ。

譲渡証である。――「次回入港予定ノパナマ丸、荷物炭一千トン積込ミ荷役ハ、本日、頂戴致シタル金員ノ代償トシテ、貴殿ニ譲渡仕候段、相違無之、後日ノ為、並ニ一札認メ置候也」そして、永田杢次の署名と<ruby><rb>捺印</rb><rt>なついん</rt></ruby>。

本文は別だが、その署名の筆蹟は、乱れてはいるけれども、永田のものに相違なかった。印形も、実印だ。

（また、やられたか？）

しまった――と思い、金五郎は、唇を噛んだ。

前にも、数回、同じようなことがあった。そのときは、事件が小さすぎたので、問題とするに足りなかったけれども、永田杢次は、充分、戒心していた筈である。近来、酒乱の傾向があり、泥酔中の記憶は、ほとんど喪失するようになっていた。それを奇貨として、陰謀が企らまれる。それには、サクが利用された。無知なサクは、ただ金が必要なために、奸計にやすやすと陥って、永田杢次に、いろいろな証書に、署名捺印させた。甘い永田は、サクのいうことなら、なんでも聞く。

（この譲渡証も、親方の酔いにつけこんで、サクを介して、行われたものにちがいない）

金五郎は、鉛の熱塊を、咽喉に突っこまれたような感じがしたが、表面は、さあらぬ態で、

「これ、親方の字と違うようですなあ」

と、うそぶいた。

「それじゃけ、永田本人を出せ、ちゅうたんじゃ。現場に、顔をまるきり出さん者に、親方の資格があるか」

「角助さん、親方は、ここに、いますよ」

その女の声で、ふりかえると、いつ来たか、小伝馬船の中に、マンと、永田杢次とが、立っていた。「中学生」の谷俊次も乗って居り、朝食弁当の籠と、五升樽二つが積んである。

「そうか」と、角助は憎々しげに、「そら、あつらえ向きじゃ。……永田さん、その証書を見てくれ。自分で書いたもんを、まさか、見ちがいはすまい」

いくらか酔いも醒めている永田杢次は、永田組の文字の上に、小頭と入った印半纏を着ていた。久しぶりに珍しい仕事装束である。

永田杢次は、角助が、友田の名入り半纏を着て、敵方の船に乗っていることが、腑に落ちないらしい。しょぼついた眼を何度もこすって、

「<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>よい、お前、いつ、友田の若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>になったとかい？」

「いつも、かつも、あるもんか。あんたのようなグウタラ親方のところに居ったんじゃあ、先の見込みがないけ、こっちから、ケツ割ってやったんじゃ。……そげなこた、どうでも、ええ。その<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>を、よく見て、さっさと、永田組は引きあげれ」

「なんの書付や？」

「これです」

と、金五郎は、譲渡証を、永田に渡した。金五郎は、悪いところに、親方が来た、と思ったけれども、仕方がない。もし、永田が、それを認めると、大変なことになる。まさか、親方の譲渡証など角助が持っていようとは思わなかった。また、この日ごろ、現場に来たこともない親方が談判の最中に、姿をあらわすことなども、夢想だにしなかった。意外なことの連続だ。といって、満目衆視の中で、親方に<ruby><rb>姑息</rb><rt>こそく</rt></ruby>な智慧づけをすることも、許されなかった。

永田杢次は、うすい青罫紙を両手でひろげ、不審げな顔つきで、読んだ。ようやく白んで来た朝の光にあてて、透かしてみるように、天に向かって、高くさしあげ、小首を傾けた。

「こら、なんじゃ？　妙なもんじゃなあ」

と、呟いた。

それを聞いて、金五郎は、ほっとした。

角助は、いよいよ、顔をまっ四角に尖らせて、白濁した三角眼をひんむき、

「妙なもんちゅうことが、あるもんか。あんたが、ちゃんと、承認のうえ、自分で、署名して、<ruby><rb>判子</rb><rt>はんこ</rt></ruby>をついたんじゃないか」

「こんなものに、なんで、判をつくもんかい」

「今さら、白ばくれても駄目じゃ。その字も、判も、あんたのものに違いないよ」

「こんな馬鹿な書類に、名を書いたり、判をついたりした覚えはない。字も、判も、ようもまあ、似せたもんじゃなあ」

永田杢次は、まったく、記憶がないのであった。実際は、知覚を失した泥酔中に、サクに手伝わせて、署名捺印したのである。手付として、貰った金も使ってしまった。しかし、その片鱗だに記憶に残っていないので、柔和な眼に、しだいに、<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>のいろを浮かべて来て、怒りはじめた。

「角よい、お前は、それでも、人間か。こんな<ruby><rb>偽</rb><rt>にせ</rt></ruby>の書付をこしらえて、恩になった親方に、<ruby><rb>後足</rb><rt>あとあし</rt></ruby>で、泥をはねかけるようなことをするなんて……」

「そんなことじゃろうと、思うた」

金五郎は、そういうと、素早く、永田の手から書類を取って、ずたずたに、引き裂いた。出来るだけ細かく、特に署名捺印のところが、後に痕跡を残さぬように注意して、<ruby><rb>粉々</rb><rt>こなごな</rt></ruby>にした。

「なにを、無茶するか」

おどろいた角助が、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>くように叫んで、飛びついて来たが、左手でおさえて、

「無茶は、そっちじゃ。仕事師なら、こんなインチキせんで、もっと、男らしゅうしろ」

そういって、<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>のように、紙片を、海に、散らした。うすく<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>い和紙は、水に落ちた雪のように、溶けて行く。

「畜生、ウウウ……」

角助は、呻いた。<ruby><rb>痙攣</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>ったように、ふるえだした。醜悪な顔が化物のようになり、むきだされた<ruby><rb>乱杭</rb><rt>らんぐい</rt></ruby>歯が、ガチガチ、鳴る。

金五郎を、憎悪の<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、睨みつけていたが、急に、身体をひるがえし、提灯をかきわけて、自分の伝馬船の最後尾に、撤退した。金五郎の<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>をよく知っているので、正面から立ち向かっても、勝ち味のないことは、角助自身が、百も承知している。

角助は、<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>に突っ立つと、俄かに、虚勢を張り、胸を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りくりかえして、

「永田組の野郎どもを、たたんでしまえ」

と、絶叫した。

「友田」の提灯を持った仲仕たちが、どよめいて、永田組の伝馬船へ、殺到する気配を示した。

「手出しをするな」

<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>に立っていた金五郎は、ふりかえって、落ちついた語調で、組内の者に、声をかけた。

これが、<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない野ッ原かなにかであったならば、大喧嘩になったかも知れない。しかし、あまりに、観衆が多すぎた。<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>という、巨大で、花やかな、いわば、野天舞台の中央でのページェントだ。しかも、突発的事故ではなく、前々から、不穏の空気は察知されていたのである。

そのうえ、当日の、三番<ruby><rb>浮標</rb><rt>ブイ</rt></ruby>を中心とする舞台装置、大道具、小道具の仕掛けが、派手すぎた。

どちらも、あかあかと、提灯をともしているので、金五郎と、角助とか、談判をしている最中に、すでに、水上警察署のランチが、ブイのところへ来ていた。ランチには、帽子の顎紐をかけた警官が、鈴なりに、満載されている。

また、石炭の荷主である麻生のボートも、到着していて、会社の本船係や、現場監督が、この場のなりゆきを注視していた。

角助の号令で、友田方が動きはじめると同時に、警察のランチから、大勢の巡査が、伝馬船に飛び移って、二組の間に、垣を作った。

「邪魔すんな、退け、<ruby><rb>退</rb><rt>どど</rt></ruby>け」

逆上した角助は、もう、相手の見さかいがない。狂気のように、喚く。

しかし、そのときは、友田方は、警官たちに遮られて、行動の自由をうしなっていた。

結局、友田方が引きあげることになり、二隻の伝馬船は、水上のランチに<ruby><rb>曳航</rb><rt>えいこう</rt></ruby>されて、若松側へ帰って行った。

失意と、憤怒とで言葉をうしなった角助は、ただ<ruby><rb>囈言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように、

「<ruby><rb>憶</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えちょれ。……今に、見ちょれ」

と、それを、くりかえしているばかりだった。

「すぐに、荷役をはじめてくれたまえ」

麻生の本船係が、ほっとしたように、金五郎に、いった。

「そうしましょう」

金五郎は、ひどく浮かぬ顔をしていた。

「いや、君のおかげで、無事に、すんだよ。ありがとう。一時は、どうなることかと思った。偽の譲渡証を作って、仕事を奪おうなんて、ひどい奴等だね。……でも、よかった。よかった」

金五郎には、勝利の快感など、まるでなく、或る<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>めたさで、気が滅入って仕方がなかった。

「玉井、早よ、仕事に掛かれ」

永田杢次は、満面に、よろこびと、得意のいろをうかべて、金五郎をうながす。

マンも、

「あなた、すぐに、はじめたら、……」

と、憂鬱そうな夫を、不思議そうに、眺めて、顔をのぞきこんだ。夫の両眼に、なにか、きらめいているものがある。涙だと知って、マンは、はっとした。とっさには、それが、なんの涙なのか、理解出来なかった。

「あなた……？」

どうなさったの？――それは、心の中でいって、金五郎に、近づいた。

「ようし、仕事、はじめえ」

マンを避けるように、金五郎は、くるりと廻転すると、右手を高くあげて、叫んだ。マンには、顔を見せず、舷側の棚紐をつたって、猿の敏捷さで、瞬く、間に、高いパナマ丸のデッキを躍りこえた。

活溌に、荷役が、開始された。

この種の仕事に馴れない大川時次郎は、<ruby><rb>艀</rb><rt>はしけ</rt></ruby>の中で、「入れ<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>」をした。スコップで、籠に、石炭を入れる役である。女の領分だ。しかし、元来が百姓で、力はあるので、ちょっとの間に、要領をおぼえると、女の三倍は能率をあげた。

しかし、時次郎の関心は、無論、そんな、仕事を憶えることにはない。彼の胸中には、これまでに見た恋敵の言動が、一杯に、つまっている。

時次郎は、息苦しい。それは、肉体の過動から来るものではなくて、明らかに、精神の昏迷から、来ているものであった。

（玉井金五郎という男は、おれの考えていたような、飲んだくれの、ばくち打ちの、ゴロツキとは、すこし、違うようじゃ）

時次郎にとっては、マンを独占している男が、<ruby><rb>醜男</rb><rt>ぶおとこ</rt></ruby>で、グウタラで、無能で、なんの取り柄もないヤクザ者であった方が、はるかに、よいのであった。前夜、マンと、蒲団のことで、押し問答をしているところへ、突然、あらわれ、<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>の肌をむきだして、「<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち斬ってくれる」といったときには、金五郎を怖れる気持は、すこしもなかった。ところが、今、そのゴロツキが、なにをしたかを、終始、目撃した時次郎は、しだいに、金五郎を怖れる気持を生じていた。

（憎い恋敵奴）

景気づけに、強いて、時次郎は、心の中で、呟く。嫉妬の感情に変りはない。けれども、軽侮と憎悪の念は、いつか、影をひそめているのである。といって、マンを、あきらめる気持はなく、

（なにがなんでも、マン坊は、おれのものにするんじゃ）

と、時次郎は、<ruby><rb>力</rb><rt>りき</rt></ruby>みかえるのだった。

時次郎は、マンの方を、そっと、見た。同じ艀の中で、<ruby><rb>雁爪</rb><rt>がんづめ</rt></ruby>を持って、せっせと、入れ鍬をしている。その甲斐々々しい働きぶりは、たしかに、時次郎のことなどは念頭になく、玉井金五郎のこの大切な仕事へ、全心全力を傾けて、協力している姿にちがいなかった。

マンは、ときどき、汗をふき、仕事の手を休めて、デッキの上の金五郎を見る。時次郎の方は、一度も見向きもしない。

印半纏をぬいだ金五郎は、丼のある紺の腹掛けの両側に、腕をむきだしにしている。その左腕に躍っている昇り龍が、朝の光線に、青々と浮きあがり、眼を光らして、荷役の采配を振っているかのようだった。

「そら来い。そら来い」

金五郎の声は、弾んでいる。

（あの男、パナマ丸の荷役の後で、おれとマンとを成敗するというたが、ほんとに、おれを斬りはせんじゃろか？）

そのことが、時次郎は、急に心配になって来た。

「珍しい荷役じゃなあ」

船長も、会社の本船係りも、感心したように、眺めている。

普通、荷物炭荷役の場合には、舷側に、棚は吊らない。雛壇をこしらえて、天狗取り作業をやるのは、<ruby><rb>焚料</rb><rt>バンカ</rt></ruby>炭の場合に限られていた。それを、今日、特に、棚を吊ったのは、敵の裏をかく作戦である。たしかに、燈台沖までも漕ぎだして、危険をかえりみず、棚を吊っておいたおかげで、敵は手出しが出来なかったのである。

荷物炭は、艀から、本船へ、長い<ruby><rb>歩</rb><rt>あゆみ</rt></ruby>板をかけ、その上を登り降りして、振りわけにした<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>い<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>で、積みこむのが通常だ。金五郎の苦肉の策にしたがって、今日は、二通りの荷役が、同時に、行われているのだった。これには、人数を多く要するけれども、荷役の能率は倍に近かった。

一千トンもの仕事は、一日では終らず、掛かってから三日目に、ようやく終了した。

この間、妨害に対する警戒が、充分になされていたが、友田喜造からも、ドテラ婆さんからも、平尾角助からも、なんらの不穏な働きかけはなかった。静かなのが、かえって、不気味なくらいである。問題が大きくなりすぎて、警察が干渉して来たためであったかも知れない。

パナマ丸荷役が、つつがなく終ったことをよろこんだ大庭春吉は、永田杢次をはじめ、金五郎、松川源十、マン、その他、七八人の主だった部下を、自邸に、招待した。

「玉井が居らなんだら、どうなっとったか、わからん。玉井は、永田組だけじゃない、聯合組の大黒じゃ」

大庭は、そういって、しきりに、金五郎を賞揚した。

しかし、金五郎は、何故か、仏頂面をしていて、終始、憂鬱そうだった。

この宴席から、永田杢次は、いつの間にか、姿を消してしまった。

金五郎も、自宅に、「六ゾロの源」をはじめ、十人あまりの仲間を招いた。すき焼で、ささやかな<ruby><rb>犒</rb><rt>ねぎら</rt></ruby>いの宴を張った。

「みんなが、よくやってくれたので、どうにか、無事にすんだ、ほんとに、ありがとう」

金五郎は、そういい、座にいる大川時次郎の方を向いて、

「御苦労さん、あんたにも、一杯」

と、盃をさした。

「金さん」

と、もう、<ruby><rb>菊石面</rb><rt>あばたづら</rt></ruby>を真赤に染めている源十が、すこし、声を落した。

「なんじゃね？」

「角助が、右手の小指に繃帯しとるのを、見た者があるちゅうぞ。新しい繃帯で、石炭酸のにおいが、しよったちゅうけ、きっと、今度の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しくじり</span>で、小指を切って、ドテラ婆さんか、友田かに詫びを入れたんじゃよ」

「ふウン」

「あいつ」と、「中学生」の谷俊次が、「指ばっかり切っとるなあ。左手の小指も、薬指も、先がありゃせん。そのうちに、どの指も、第一関節から先が<ruby><rb>無</rb><rt>の</rt></ruby>うなって、<ruby><rb>生姜</rb><rt>しょうが</rt></ruby>のような手になるぞ」

その言葉で、一座は、どっと笑ったが、時次郎には、なんの意味なのか、わからなかった。きょとんとした顔つきで、

「どがあなわけで、指なんか切るとですか？」

源十が、

「ドジを踏んだお詫びに、指を切って、こらえて貰うんじゃよ」

「ドジ、というのは？」

「たとえば、今度のように、こっちの仕事を取り損うたり、ばくち場で、インチキをして抑えられたり、親分の顔をつぶすようなことをしたり、選挙の運動をして、候補者を落選させたり、……それから、<ruby><rb>間男</rb><rt>まおとこ</rt></ruby>を見つけられたり……」

「間男、も、ですか？」

「そうよ」

時次郎は、びっくりした顔になって、金五郎を、見た。マンを、見た。二人の顔を、かわるがわる、見くらべた。

「ワッハッハッハッ」

と、金五郎が笑いだした。時次郎はひやっとした。

「広島の<ruby><rb>客人</rb><rt>きゃくじん</rt></ruby>は、まるきり、自分が間男したみたいな、心配そうな顔しとるなあ。それとも、広島で、間男でもして、逃げて来たのかね？」

「とんでもなあ。そがあなこと、僕がするもんけえ」

「そんなら、なにも、びくびくすることはない。あんたは、間男するよな顔は、しちょらん。真面目らしいし、よう、仕事も出来る。……ところで、客人は、これから、どうなさる？」

時次郎は、眼を白黒させた。なにがなんだか、さっぱり、わからないのである。

マンは、とっくに、すべてを理解していた。

（得意の、おどけ芝居だわ）

蒲団を中にして、時次郎と押し問答している最中に、金五郎が入って来た。ガタッ、ピシャッ、というわざとらしい障子の開け方、家に置いてあった筈の助広の短刀、「間男、見つけた」という、芝居もどきの<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>、無理矢理に、ぐりぐりとひんむいている眼ン玉――マンを信じていて、姦通したなどと、微塵も疑ってはいない癖に、彫青について<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねられることを封じての芝居なのだ。そう、マンは、あの夜から、すでに、看破していたのである。

くすくす、笑いだしたいのを我慢しながら、時次郎が、なんと答えるかを待った。

時次郎は、ちょっとの間、考えていたが、顔をあげると、きっぱりした語調でいった。

「この組に、置いて下さい。玉井さんの家来にして下さい。一所懸命、働きます」

歌が出たり、踊ったり、賑やかに、気持よく、おそくまで騒いで、仲間は引きあげて行った。

大川時次郎は、独身者の<ruby><rb>飯代</rb><rt>はんだい</rt></ruby>部屋に入れることにして、「六ゾロの源」が、つれて帰った。

<ruby><rb>杯盤狼藉</rb><rt>はんばんろうぜき</rt></ruby>のなかに、二人だけが残されると、まるで、半年も逢わなかった後のような気持で、金五郎も、マンも、ぽかんとした顔をつきあわせた。金五郎が帰った夜以来、パナマ丸の荷役に追われて、夫婦は、なにひとつ、ゆっくり、話す間がなかったのである。

時ならぬ御馳走の散乱に、七匹の猫が、それぞれの場所で、活躍している。

「マン、くたぶれたろう？」

いたわるような、金五郎のその言葉に、マンは、ぐっと胸がつまって来たが、

「いいえ、あなたこそ」

そういって、煙管を取りあげた。キザミをつめて火をつけ、一口吸ってから、夫に渡した。

無言で、金五郎は、それをおいしそうに吸い、蛾の戯れているランプの<ruby><rb>火屋</rb><rt>ほや</rt></ruby>を、じっと、見あげていたが、ふいに、その両眼から、ラムネ玉のような、大粒の涙が、タラタラタラと、あふれ落ちた。

マンは、びっくりして、

「あなた……？」

マンの眼に、パナマ丸の現場で見た、夫の不思議な涙の記憶が、よみがえって来た。

金五郎は、妻からされたように、黙って、キザミを雁首につめ、火をつけ、一口吸って、マンに煙管をかえしてから、

「おれは、駄目じゃ」

と、唇を噛んで、呟いた。

「どうなさったの？」

「なっとらん」

「あなた、仕事場でも、泣いていなさったようにあったが……？」

「泣いたんじゃない。口惜しいやら、情ないやら、馬鹿々々しいやら、恥かしいやら、……あんまり、腹が立つもんで、笑うてやろうと思ったら、どうしたわけか、眼から、水が出たんじゃ。角助をインチキ呼ばわりしたが、こっちの方が、よっぽど、インチキじゃった。こんなことじゃあ、龍になって、天に昇るどころか、谷底に落ちて、這いずりまわるが、関の山じゃ。なっちゃあ、居らん」

金五郎は、憂鬱そうに、膝をかかえた。

――龍。

その言葉を口にされて、マンは、どさくさで忘れていた夫の彫青のことを思い起した。

「あなた」

「うん？」

「彫青、どうなさったの？」

「これか」

金五郎は、片肌を脱いだ。愛撫するように、右手のたなごころで、二三度、龍のうえを撫でさすった。ランプの光の下で、青の色が美しい。

「誰から、<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>って貰ったんですか？」

「親方たちと、武蔵温泉に行ったとき、ひょっくり、腕のええ<ruby><rb>彫青師</rb><rt>ほりものし</rt></ruby>に出逢うてなあ。おれの肌を見て、どうしても彫りたいという。こっちも彫って貰いたいと思うて、いっしょに、博多に行ったんじゃ。これだけに、一週間かかったよ」

金五郎は、お京との秘密を、マンに知られることを恐れた。胸の奥底が、疼く。

<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたような、夢幻のような、一週間であった。金五郎はマンへ秘密を持ちたくはなかったけれども、それは、強力無双な運命の<ruby><rb>軛</rb><rt>くびき</rt></ruby>のように、いったん捕えた金五郎を、離そうとはしなかったのである。

あの夜、泥酔した果、お京から、両腕に、龍の絵を描かれて、おどろいた。牡丹と蝶のお京の右腕と、昇り龍の自分の左腕とをくっつけて、鏡の中に映したとき、金五郎は催眠術をかけられたように、妖艶なお京の毒気にあてられていた。

「ねぇ、金五郎さん、きれいでしょう？」

お京は、男の腕をさすり、甘たるい声で、ささやいた。

「うん、きれいじゃなあ」

金五郎も、そう、思った。

「どう？　絵ではなくて、ほんとうに、彫ったら？」

「そうじゃなあ……」

「あなたのような身体は、彫青を入れるために、あるようなものよ。あたし、これまで、随分、いろんな人の身体彫ったけど、金五郎さんのような美しい肌、見たことないわ。涎のたれるほど、惚れ惚れする。白のままで置いとくなんて、ほんとに、もったいないわ」

「<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の五郎さんも、そんなこと、いうとったなあ」

「ねえ、彫んなさいよ。立派な男の紋章じゃないの」

「お京さん」

「あい」

「あんたが、彫ってくれるのかね？」

「勿論、そうよ。誰が、ほかの人に彫らせるもんですか」

「よし、彫ろう」

後には、生涯の禍根となり、そのときになって、どんなに後悔しても追っつかなかった彫青を、このとき、金五郎は、或る陶酔感をもって、肉体に刻印しようと、決意したのであった。

「えらい」

お京は、大仰に、賞讃の声をあげて、ニタッと、会心の笑みを洩らした。

その翌朝、まだ暗いうちに、二人の姿は、武蔵温泉から、消えた。

<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>市を貫流する<ruby><rb>那珂川</rb><rt>なかがわ</rt></ruby>、<ruby><rb>春吉橋</rb><rt>はるよしばし</rt></ruby>の畔、流れに面した<ruby><rb>小粋</rb><rt>こいき</rt></ruby>な<ruby><rb>待合</rb><rt>まちあい</rt></ruby>の一室で、二人の奇妙な生活がはじまった。

まず、左腕から、昇り龍を彫ることになった。どこを旅するにも、お京は、道具一式を携帯しているらしい。お京は、下絵を描かない。ぶっつけに、白紙の腕に、彫って行く。右手に、<ruby><rb>小町針</rb><rt>こまちばり</rt></ruby>を数本、束にして持ち、左手に、墨をふくませた筆を持って、針を肌に突きさす端から、色を入れる。熟達したみごとな腕前である。

なにもない白い金五郎の腕のうえに、龍の眼玉、鼻、角、髭、と、順々に、浮きあがる。金五郎は、チクチクと、痛いけれども、我慢した。

お京が笑って、

「痛そうね？」

「なんの、<ruby><rb>擽</rb><rt>こそば</rt></ruby>ゆうて、気持がええわい」

「腕なんて、一番、痛くないところよ。尻や、腰のときは、気の弱い者は、涙をこぼすわ」

針が、龍の上肢に来たとき、金五郎は、

「ちょっと待って」

と、お京の手を止めた。

「どうしたの？」

「その<ruby><rb>肢</rb><rt>あし</rt></ruby>には、なにをつかむ？」

「宝珠の玉よ。きまってるじゃないの？」

「菊の花を、描いて貰いたいんじゃ」

「菊？　変ねえ」

不審げに、そういったけれども、お京は、いわれるまま、大束の菊を、龍の肢につかませた。

夜になると、心得顔の仲居が、<ruby><rb>粋</rb><rt>すい</rt></ruby>をきかせて、蒲団を一つ、枕を二つならべて、出て行った。

おどろいた金五郎は、廊下まで、仲居を追っかけて出た。

「もしもし、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん」

「なんですかいな」

「<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>は、二つ敷いてくれんと、困るよ」

「阿呆らしか。野暮なことば、いいんしゃんな。そげんかことしたら、お京さんに叱られます」

「いかん、いかん。絶対、二つ」

「知らん、知らん」

「おい、待て、待て」

そんな押し問答をしていると、騒ぎを聞きつけて、お京が出て来た。腹をかかえて、笑いだした。

「笑いごとじゃないよ」

不機嫌なその金五郎の言葉には答えず、お京は、なお笑いながら、仲居に、蒲団は二つにするように、命じた。

夜も、彫青作業はつづけられた。

時期を指示されて、金五郎は、風呂に入る。特に彫青のために、一日中、湯が湧かしてあった。熱い湯にひたると、針を立てられる以上の苦痛をおぼえた。腕がしびれ、もげそうに、疼く。しかし、入浴しなければ、ほんとうの色が出て来ないのだった。

寝る段になると、金五郎は、一苦労だ。お京が風呂に行った隙に段取りをした。仲居が敷いて行った二組の蒲団を、六畳の端と端へ寄せ、間を出来るだけ離す。それでも、不安なので、中間に、部屋にあった金泥の二枚屏風を立てた。

湯から上って来たお京が、笑いだして、

「金五郎さん、それ、なんの<ruby><rb>呪禁</rb><rt>まじない</rt></ruby>？」

「魔よけじゃ」

「魔がいるの？」

「居るよ」

「どんな魔？」

「<ruby><rb>気色</rb><rt>きしょく</rt></ruby>の悪い魔じゃ」

「変なひとねえ」

笑っていたお京の切れ長の眼が、複雑な思いをこめた<ruby><rb>秋波</rb><rt>ながしめ</rt></ruby>になる。

お京が、金五郎に対して抱いている関心は、単に、彫青だけではなくなっていることは、疑いなかった。うすうす、金五郎もそれを感じていたので、境界線を作ったわけである。

しかし、狭い六畳の部屋に、若い男女が二人居れば、蒲団は、一つでも、二つでも、同じことだ。屏風の城壁など、なんの役にも立たない。

金五郎が眠っていると、ぶつかるように、お京が飛びついて来て、眼をさます。お京は白い襟のついた<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>の長襦袢を着ている。<ruby><rb>鬘下</rb><rt>かつらした</rt></ruby>にした髪からは、濃いビンツケの香が立ち、白粉と香水とのまじった官能的なにおいは、金五郎の鼻孔をくすぐる。

金五郎は、胸がどきどきして、

「お京さん、どうした？」

「鼠よ。鼠、あたし、大きらい」

そういって、金五郎へしがみつく。

おどろいた金五郎は、お京を突きのけるようにして、立ちあがる。部屋中をうろうろし、

「鼠はどこに居るんじゃ？　鼠なんて、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くないよ。……シッ、シッ」

と、頓狂な恰好で、追い声を出す。鼠の姿など、どこにも見えない。やっと、別々に寝たかと思うと、「<ruby><rb>壁虎</rb><rt>かべちょろ</rt></ruby>（やもり）が出た」といって、また、金五郎の方へ、出張して来るのだった。

ようやく、一夜が明けた。

どうやら、なにごともなくて過ぎたが、金五郎は、不思議な疲れかたをしていた。

朝食のとき、お京は、元気がなかった。

「お京さん、どうしたかね？」

「今ね、考えていたら、つくづく情なくなったの。あたし、ほんとうに力になってくれる男の人って、誰もないのよ。やっぱり、女って、男が頼りね」

しんみりと述懐するお京の眼に、涙さえ浮かんでいるのではないかと思われたが、金五郎の方は、反撥するように、心のなかで、

（なにをいうとるか。あんたほどの女を、誰が<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>っとくものか。男はうようよ、惚れ手は山ほど、黒い紐、赤い紐、青い紐、紐だらけじゃろうよ）

そんなことを、考えていた。

しかし、口には出さず、

「お京さん」

「あい」

「わたしは部屋住みの主人持ち、仕事の責任もあるもんで、長くは家をあけられん。出来るだけ、早う、願いたんじゃが……」

「ウフフ、おかみさんのところへ、早く帰りたいのとちがうの？」

「女房なんて、どうでも、ええが……」

「どうか知ら……？」

お京は、どうやってみても、金五郎が誘惑に乗って来ないので、あきらめたらしい。

「大体、定法から行くと、彫青が終ってしまうまでは、男女の慾は禁物なのよ。皮膚がたるんだり、脂くさくなったりして、出来上りが<ruby><rb>不様</rb><rt>ぶざま</rt></ruby>になるから……」

そんなことをいって、金五郎の警戒心を解こうと努めた。深謀遠慮、長期作戦の決意をした模様である。

昼夜兼行で、仕事がつづけられた。二日、三日、五日、と過ぎた。金五郎の左腕に、みごとな昇り龍が、日とともに、完成されて行った。

お京は精魂を傾けつくしているように見えた。豊麗な顔に、やつれがあらわれた。

しかし、危険は増大して来た。どんなに忍耐していても、若い男女が、二人きり、一室で起居をともにしているということは、杓子定規では行かない。<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>以来、三年間も、不可解な思慕の像を、心の乾板に焼きつけていた金五郎の方にも、いつ陥没しないともわからない要因があった。ときどき、ふっと、悪魔の心に誘われて、切ない瞬間がある。

日夜、顔をつきあわせ、裸の肉体を身近に接触させつづけている生活が、金五郎は、息苦しく、恐しく、なって来た。そして、遂に、片腕だけ仕上った夜、お京の隙をうかがって、待合を脱出したのであった。金五郎は、

（お京のことは、マンには、話すまい）

そう、心の中で、思い定めた。

重々しく掩いかぶさって来るお京の幻影を、追いはらうようにしながら、金五郎は、龍が上肢につかんでいる菊の花束を、マンに、示した。

「この菊は、<ruby><rb>門司</rb><rt>もじ</rt></ruby>時代のお前のことを思いだしたもんじゃけ、特別に入れたんじゃ。上海コレラ騒ぎで、森の新公と監禁されたとき、お前が、箱の中に、菊の花を入れてくれた思い出は忘れられんよ」

それを聞いても、彫青など好きでないマンは、なにか疑い深そうに、不機嫌な顔をしていた。

日露戦争は終焉を告げ、十月十六日、平和克復の<ruby><rb>大詔</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>が、換発された。

東京湾で、大観艦式が行われることになって、東郷司令長官率いるところの聯合艦隊が、関門海峡を通過した。北九州地方は、このために、日の丸の旗に埋めつくされ、凱旋部隊を歓迎する声のどよめきは、文字どおり、天にとどろき、地を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>がした。

金五郎夫婦も、旗を持って、門司まで、見物に出かけた。

そのとき、群衆のなかで、浜尾組時代の古い仲間に、ひょっくり、顔をあわせた。

「おや、こりゃあ、金さん、珍しい。あんた、長いこと見なんだが、戦争に行っとったんじゃあなかったな？」

「わたしは、甲種の<ruby><rb>籤脱</rb><rt>くじのが</rt></ruby>れでなあ」

その男の話で、旧親方の浜尾市造が、一儲け企らんで、軍夫長で渡満し、奉天戦のとき、流弾にあたって、戦死した消息を聞かされた。

敗北したロシヤに、革命の動乱が勃発した。モスクワでは、革命党員が政府軍と交戦して、数万の死傷者を出した旨が、新聞によって報じられた。

この年の冬は、北九州は、雪が深かった。その大雪のうちに、新しい年を迎えると、<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>は騒然として来て、石炭積込みの聯合組にも、革命が起った。

降り積んだ雪のうえに、さらに、牡丹雪が<ruby><rb>霏々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>として降りやまぬ或る日、金五郎は、大庭春吉の屋敷に呼ばれた。

「玉井、折り入っての頼みが、あるんじゃが……」

そういう大庭春吉の言葉は、はじめから、意味ありげだった。

金五郎も、緊張した表情になって、大親方の顔を仰いだ。

「承ります」

「どうしても、お前に決心をして貰わねばならんことが出来た。お前を男と見こんで、頼みたい」

「どんなことでしょう？」

「お前に、永田組の<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>を<ruby><rb>継</rb><rt>つ</rt></ruby>いで貰いたいんじゃ」

金五郎は、びっくりして、すぐには、返事が出なかった。低く、頭をたれた。唇を噛み、ぐっと、唾をのみこんでから、呟くように、

「それは、私には出来ません」

と、答えた。

「お前が、そういうにちがいないということは、わしにも、わかっとった。親方思いのお前としては、当然のことじゃ。じゃが、玉井、大事なのは、ここぞ。ようく、噛みわけて考えなおしてくれ」

腕組みした大庭春吉は、ひと膝、乗りだした。一段と、語調を強めた。

「今、この急場を救うてくれる者は、お前を置いてない。<ruby><rb>勝戦</rb><rt>かちいくさ</rt></ruby>のおかげで、港も仕事の増える目安がついて、これから忙しゅうなるんじゃが、そこに、また、別の心配がある。吉田磯吉の勢力をバックにして、友田喜造一派は、いよいよ、これから<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れる算段をしとる。この前のパナマ丸では失敗し居ったが、この先、どんな<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>で来るかも知れん。ロシヤじゃないが、港に、血の雨が降りそうにある。そうなったとき、聯合組は、今の陣容では、太刀打ち出来ん。それで、重役会議の結果、大改革をやることになったんじゃ。その席で、まっ先に、槍玉にあがったのが、永田組じゃよ。いや、永田杢次じゃ」

金五郎は、うつむいたまま、下唇を軽く噛んで、当惑しきっていた。

大庭春吉の声は、さらに、熱にあふれる。

「永田杢次を処分しなくてはならんということは、今に、はじまったことじゃない。堪忍袋の緒が切れた、というところじゃ。聯合組全体の統制上、なんとも仕方がない。玉井、もう、永田組の札を<ruby><rb>番下</rb><rt>ばんさ</rt></ruby>げにすることは、定まってしもうたことなんじゃよ」

大庭夫人が、茶道具を盆にのせて、入って来た。長火鉢に坐って、銅壺から、熱い茶を入れた。大庭春吉が今日あるのは、夫人の内助の功に、<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>を負っていると噂されるほど、勝気で、さばけた女である。もう五十に近いが、色艶が娘のように若々しい。

「金さん、番茶を」

「頂きます」

腰高障子のガラス越しに、音もなく、紛々と、降りしきる雪が、<ruby><rb>絣</rb><rt>かすり</rt></ruby>の模様のように見える。

「なあ、玉井」

「はい」

「わしが頼みというのは、ここじゃ。永田組が番下げになってしまえば、当然、解散。永田はええとしても、小方は路頭に迷う。そこを、お前が、跡を継いでくれることになると、小方は勿論、聯合組にも、<ruby><rb>筋金</rb><rt>すじがね</rt></ruby>が入ることになる」

「親方を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた<ruby><rb>後釜</rb><rt>あとがま</rt></ruby>に坐ることなど、とても、出来ません」

「お前のその気持は、よくわかる。じゃが、それが、結局、永田を救うことにもなるわけじゃよ。永田の名を復活することは、もう、絶対に出来ん。重役連中も――玉井金五郎が責任者になって、玉井組の名で札を掛けるのなら、これまでの永田の荷役め権利を認める。……そういうとるんじゃ。……な、玉井、決心をしてくれ。わしが、頭を下げて、頼む」

大庭春吉は、そういうと、腕組みを解き、膝のうえに両手をのせて、軽く、頭を下げた。

金五郎は、仰天して、

「大親方、なにをなさいます？」

「玉井、わしは、前々から、お前を、永田組ではのうて、聯合組の大黒柱になって貰いたいと考えとった。それで、すこし、出過ぎたかも知れんが、永田組の札のあとに、玉井組の札を掛けることも、もう、すっかり、段取りしてしもうた。それから、本腰を入れて、仕事を切り盛りして欲しいと思うて、お前のために、家も一軒、借りてある。若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>を十人くらいは置けるくらいの、ちょっとした二階家じゃ。そこへ、移って貰いたいと思うとる」

「その家というのは、どこですの？」

と、夫人が、訊ねた。

「若松の<ruby><rb>新仲町</rb><rt>しんなかまち</rt></ruby>じゃ。どうで、洞海湾の石炭荷役は、若松港が<ruby><rb>主</rb><rt>おも</rt></ruby>じゃけ、仕事師は、若松に住んどらんと、本式にならん。この戸畑はなにかと不便じゃ。聯合組の事務所も、若松側にあるし、……な、玉井、そうしてくれ」

「困りました」

「若松は、うるさい奴が、いっぱい居るけ、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いか？」

「怖いことなんか、ないですけど……」

「そんなら、行ってくれ。若松で、玉井組の看板を掛けて、立派な男になってくれ」

「金さん、あたしからも頼みますよ」

「帰って、家内と相談してから、御返事します」

金五郎は、牡丹雪を被りながら、重い足どりで、帰宅した。

金五郎夫婦は、額をつきあわせて、青息吐息である。

「どうしたもんかなあ……？」

「困ったわねえ」

港では、一つの仕事の権利を取り、組の名札を掛けることは、金的を射とめたと同じ栄誉となっている。このために、日夜、野心家の間に、血なまぐさい争闘が展開されているほどだ。

ところが、金五郎の場合は、野心もなければ、欲望もなく、まして、運動をしたわけでもなかったのに、予想もしない、一つの組としての権利が、天くだって来たのであった。普通の者ならば、飛びあがって、この棚から落ちて来た巨大なボタ餅を、大あわてで掴むところだ。しかし、金五郎にとっては、この御馳走が、すこぶる苦痛なのであった。

夫婦の寝物語から、壮大な青春の夢は、まだ、消えていない。

「おれは、ゆくゆくは、支那大陸に渡って、一旗あげる。幸い、日露戦争の勝利で、存分に活躍出来るようにもなったし……」

「あたしは、やっぱり、ブラジルよ。大農場の経営、すてきだわ」

二人が、仲仕をしながら、力をあわせて働いたのも、その青雲の志あればこそといってよかった。

ところが、複雑で微妙な人間の実生活は、二人を、ぐいぐいと、思いもかけぬ方向へ導いて行く。避けようと努力している方角へ、強力な運命の<ruby><rb>軛</rb><rt>くびき</rt></ruby>が、二人をねじ向ける。また、二人の気質が、否応なしに、人情の谷間へ落ち、そこへ二度と這いあがることが困難なほど、深々と、沈む結果をも将来しているようであった。

――若松。

金五郎も、マンも、猛獣のうようよしているジャングルとして、敬遠し、行くところでも、住むところでもない、と考えていたのに、運命の暴風に吹きまくられて、その若松に根を下さなくてならぬ廻りあわせが、おとずれつつあるのであった。

「弱ったなあ……」

「どうしたら、ええか知らん……？」

困惑しきっている金五郎夫婦を、憤然と、永田杢次が訪れて来た。しおれ切っている。

「玉井、おれの後を頼む。長いこと、聯合組に尽したおれを番下げにするなんて、<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>がちぎれそうじゃ。本来なら、腹いせに、事務所のまん前で、舌噛んで、死んでくれるところじゃが、お前が<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>をやってくれるちゅうんなら、我慢する。外の<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>がやるんじゃったら、承知すりゃせん」

「親方、わたしは、いやです」

「やってくれ。お前がやらにゃ、外の者から、仕事を取られるだけの話じゃ」

「六ゾロの源」をはじめ、永田組の小方連中も、金五郎へ、懇請するところがあった。

松川源十は、いった。

「金さん、おれたちは、みんな、よろこんで、あんたの子分になる。みんな、あんたのため、命も惜しまんというとる。玉井組の札を掛けて、おれたちの親分になっておくれ」

金五郎は、遂に、決心した。マンも、同意した。金五郎夫婦は、若松に移住した。

聯合組の事務所の壁から、古ぼけた「永田組」の札が外され、真新しい「玉井組」の札がかかげられた。

その日は、明治三十九年二月十九日。

金五郎、二十七歳。

その記念すべき日の朝、マンは、夫に、

「あなた、あたし、赤ちゃんが出来たかも知れんわ」

そういって、ぱっと顔を染めた。

  


## 七人の敵

「<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>じゃ。喧嘩じゃ」

そう叫びながら、<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>の外を、走って行く者があった。

「どこで、やっとるんじゃろうか？」

角助が、呟くと、

「<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>っとけや。珍しゅうもない。花見に喧嘩はつきもの、景物の一つたい。喧嘩のない花見は、花見のうちに入らん。そんなことより、おれが歌うけ、芸者衆、三味線をひけ」

島村ギンは、そういって、酒を一杯満たした湯呑茶碗を、ぐっと、一息に、飲みほした。

「ドテラ婆さん」と呼びならされて、本名の方は忘れられているギンは、<ruby><rb>赤毛氈</rb><rt>あかもうせん</rt></ruby>のうえに、<ruby><rb>胡床</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいて、もう、だいぶん、陶然たる様子だ。その名の起った、チャンチャンコまがいの袖なしドテラを着て、白足袋をはいている。女角力のように、堂々とした体格だ。色は浅黒く、利かぬ気らしい精博の気が顔にあふれ、糸のような細い眼に、異様な光がある。<ruby><rb>大丸髷</rb><rt>おおまるまげ</rt></ruby>に、桜の花びらが幾ひらも乗っている。

<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>を中心とする北九州を、眼下に一望できる<ruby><rb>金比羅神社</rb><rt>こんぴらじんじゃ</rt></ruby>の境内は、撩乱たる桜の花ざかり、晴れあがった春空の下で、各所に、花見宴が張られていた。

「ドテラ婆さん」も、十四五人の子分づれで、朝から、気焔をあげていた。芸者も、五人ほど、席に侍って、取り持ちをしている。

ギンの命令で、二人の芸者が、三味線を取りあげた。一人が、

「なにをお歌いになるの？」

「<ruby><rb>磯節</rb><rt>いそぶし</rt></ruby>。……ええな」

女親分は、細い眼をさらに細めて、歌いだした。

若松名所を知らない人に、

若松名物、知らせたい。

<ruby><rb>金比羅山</rb><rt>こんぴらやま</rt></ruby>から、<ruby><rb>岬</rb><rt>はな</rt></ruby>の山、

桟橋、眺めりゃ、

<ruby><rb>岡蒸気</rb><rt>おかじょうき</rt></ruby>が、ピイ……

まるで、申しあわせたかのように、眼下の鉄道桟橋のうえを走る汽車が、ピイッと、汽笛を鳴らしたので、どっと、拍手と笑い声とが起った。

「さあ、今度は、角助どんの番じゃ。なんか、やれ」

男のような言葉つきであるが、その声は、黄色い金切り声である。

「やります」

角助も酔っていて、そういうと、坐りなおした。正方形の醜悪な顔が、ベンガラ色になっている。膝のうえに乗せた手には、左の小指、薬指、右の小指、いずれも、第二関節から先がない。丸太ン棒のようである。

「三味線は、<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らん。日露戦争の尻とり歌じゃ。言葉の最後の字が、次の言葉の頭になっとるところを、照覧あれ」

「講釈は、それくらいで、ええ」

「そんなら」

角助は、天に顔をあげ、「日本の、乃木さんが、凱旋す、雀、<ruby><rb>目白</rb><rt>めしろ</rt></ruby>、ロシヤ、野蛮国、クロポトキン、きん玉、マカローフ、<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>、しめた……」

「ちょっと待った」と、女親分が、笑いながら、「角助どんは、しめようにも、褌がないのとちがうか。いつも、ドジばかり踏んで、玉井から、赤恥かかされちょるが……」

「玉井金五郎は、かならず、わたしが殺しますよ。まあ、見とって下さい」

芸者の中にいるお京の眼が、その言葉に、<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しく、光った。

「玉井組も、今日は、来とりゃせんかね」

「来とりますよ。幹部だけらしゅうて、六ゾロの源公たち、五六人、神社の裏手で、こっそりやっちょります」

「金五郎は？」

「さあ、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から来たかも知れんけんど、わたしが見たときは、子分だけでした」

「玉井金五郎って、図々しい奴じゃないか。おれたちの縄張りの若松に、のそのそ、入りこんで来やがって、頭をもたげるなんて……」

「ドテラ婆さん」は、憎々しげないいかたである。腕まくりし、ぐいぐいと、酒を飲む。

角助も、金五郎を憎む点では、誰にも劣らないので、

「ヘン、あいつが、若松に来て、頭をもたげようたって、そうは問屋がおろしませんよ。畳のうえで死ぬ気なら、当てが外れまさあ」

「玉井組は、<ruby><rb>半纏</rb><rt>はっぴ</rt></ruby>に、ここの金比羅さんと同じマークをつけとるなあ。生意気な」

「名が金五郎じゃけ、丸の中に、金の字を入れたんでしょう。罰当りですよ。図に乗りやがって、……良心のある者なら、神様に遠慮せんならんとこですばい」

「ちいたあ気の利いた子分でも、居るとかい？」

「<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なのは、居らんですよ。六ゾロの源のような間抜けがボーシンじゃけ、後は大概わかっとる。田舎の郵便配達じゃったという大川時次郎、こいつ、金五郎の女房のおマンと、どうやら、田舎に居ったときから、怪しい仲じゃったちゅうけ、今に、痴話喧嘩が始まりますばい。間男の現場を、金五郎に見つかった、ちゅう噂も聞きましたよ」

「それで、よう、玉井が黙っとるなあ？」

「あいつ、おマンに首ったけで、オンテレ・メンピンじゃけ。わたしなら、惚れた女でも、間男したら、泣寝入りはせんです」

「オコゼを釘にひっかけたような顔しとって、女に惚れる柄かい」

その言葉で、一座は、どっと、笑った。角助はむくれた。

「そのほかには？」

「おマンの兄とかいう谷口林助、門司から、夫婦子供づれで、頼って来たんじゃけど、こいつは、人がええばっかりで、まるきりの意気地なしです。玉井金五郎が、若松で、玉井組の看板をあげたと知って、前の永田組の子分のほかに、方々から、いろんな奴がやって来たらしいですな。金五郎の郷里の四国から、鍛冶屋の清七という<ruby><rb>頓馬</rb><rt>とんま</rt></ruby>が来て、道具番をやったり、下関の彦島から、「ノロ甚」という綽名の、将棋は馬鹿に強いが、さっぱり仕事の出来ん<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>とぼけが来たり、それから……」

角助の口にかかると、玉井組は、一人残らず、能なしの役立たずで、堅められているように聞えた。

お京は、笑いをこらえて、素知らぬ顔で、聞いていた。

「三井物産では、今度、玉井に、<ruby><rb>焚料口</rb><rt>バンカぐち</rt></ruby>を、<ruby><rb>一口</rb><rt>ひとくち</rt></ruby>、持たせるという話を聞いたが……？」

「わたしも聞きました。ほんとらしいです」

「<ruby><rb>他所者</rb><rt>よそもん</rt></ruby>に、<ruby><rb>縄張</rb><rt>シマ</rt></ruby>の中で、御馳走の撰り食いをされちゃあ、他の<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>の顔は、丸つぶれじゃないか」

「まあ、わたしに委せといて下さい」

角助は、そういって、自信ありげに、うなずき、指の短い両拳を握って、<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>っくりかえらせた胸を、どすんと、たたいた。

島村ギンは、ゆらゆらと、立ちあがった。

「しんきくさい話は、やめじゃ。どんちゃん騒ぎをしようや。……芸者衆、踊らんか」

そう<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>くように、叫んだ。また、「若松名所を知らない人に」と、歌いだし、三味の音につれて、踊りはじめた。肥満した身体つきに似あわず、柔軟な手足のこなしである。それは、この「ドテラ婆さん」の前身を、物語っているもののようだった。

子分たちも、皆、立った。三人の芸者もまじって、円陣になった。にぎやかに、踊りながら、紅白だんだらの<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>の内側を、ぐるぐる廻る。

お京も、踊りの列のなかにあった。

（聞きしにまさる<ruby><rb>大姐御</rb><rt>おおあねご</rt></ruby>だわ）

ギンの豪快で、すさまじい女親分ぶりを、ひそかに、腹の中で、感歎していた。お京とて、鉄火の世界を渡り歩いた女であるが、どこに行っても、ギンのような女親分を見たことがなかった。女<ruby><rb>侠客</rb><rt>きょうかく</rt></ruby>といわれる者は、他にもあるが、「ドテラ婆さん」のような、男か女かわからない、人を殺すことを屁とも思っていない、執拗<ruby><rb>残忍</rb><rt>ざんにん</rt></ruby>な女に逢ったのははじめてだ。

（金五郎さんは、殺されるかも知れない）

その不安が、湧いて来るのだった。

お京は、若松検番から、やはり、「お京」という芸名で、芸者に出ている。<ruby><rb>博多</rb><rt>はたか</rt></ruby>の待合から逃げられた金五郎に対して、長期作戦の腹を定めて、若松に来たのである。

監獄から帰った森新之助と、君香とが始めた「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」という<ruby><rb>置屋</rb><rt>おきや</rt></ruby>で、三味と踊りの出来る、<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>芸者を探していると聞いて、そこへ<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えられた。金に窮してのうえではないので、<ruby><rb>自前</rb><rt>じまえ</rt></ruby>でもよいのだが、身分を隠すため、わざと、借金をした。新之助も、君香も、「よい<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>が来てくれた」といって、すこぶる、よろこんだ。二人とも、まだ、金五郎とのことは、なにも知っていない。

今日は、花見の客を、「ドテラ婆さん」と知って、志願して来たのである。ギンの方は、芸者を五人、花見線香をつけて出せ、というだけのことで、格別、お京に注意もしていなかった。

「ああ、<ruby><rb>小便</rb><rt>しょうべん</rt></ruby>がしとうなった。芸者衆、肩を貸せ」

踊っていたギンは、そういうと、傍にいたお京と、<ruby><rb>染奴</rb><rt>そめやっこ</rt></ruby>という若い芸者とを、引きよせた。両脇に抱きよせるようにし、太い両手を、二人の肩から首に巻きつけた。重くのしかかって、足どりも怪しく、幔幕の外に、出た。

「危いですわ」

お京が、たおれそうになったギンの身体を支えると、

「酒くらいで、引っくりかやるドテラ婆と思うちょるか」

そういって、女侠客は、全身を大きくゆるがして、<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>した。

金比羅神社の裏手に、臨時共同便所がこしらえてあった。そこは、断崖になっている。石段は三百段あるから、そこから落ちれば、無論、命はない。

ふっと、お京の胸に、悪逆の心が湧いた。

（素知らぬ顔で、崖の下に落してやろうか。死んだところで、酔余の果ての過失として、誰も、疑う者はないにちがいない）

すると、ギンが、急に、顔をあげて、呟いた。

「おんや、玉井の奴、なにをしちょるとじゃろか？　江崎満吉の子分と、喧嘩やっちょるのか？」

大鳥居から、<ruby><rb>狛犬</rb><rt>こまいぬ</rt></ruby>の石像にかけて、「若松<ruby><rb>金物商</rb><rt>かなものしょう</rt></ruby>組合」という、紺の幕が張りめぐらしてある。

そこのところで、金五郎が、四五人の遊び人風体の男たちと、なにか、いい争っていた。金五郎の方は、やわらかく話をしているが、相手は喧嘩腰だ。金五郎は、着物のうえから、玉井組の印半纏を羽織り、手に、一升徳利をぶら下げている。頬は赤いが、酔ってはいない。

このなりゆきを、心配そうに眺めているのは、金物商組合の人たちらしい。事の起りは、金物屋連中が花見をしているところへ、江崎満吉の子分たちがやってきて、

「ここは、おれたちの場じゃ。お前らは、<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>に行け」

と、立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>きを命じたことが、発端のようだった。通りあわせた金五郎が、見るに見かねて、仲裁、に出たのである。

「お前なんかの知ったことじゃない。すっこんどれ」

眼っかちの大男が、憎々しげに、怒鳴った。

「話がわかったら、いつでも、すっこみます」

「話はわかっとるじゃないか。おれたちがここで花見するけ、金物屋がどこかに行ったら、ええんじゃ」

「この場所は、あんたがたの土地ですか？」

「土地でなんか、あるもんか」

「先約でもしてあったのですか？」

「そんなもんは、しとらん」

「そんなら、あんたがたが、無理ですよ。金物屋さんたちは、一週間も前から、契約して、ここを借りていなさる。今日も、朝早うから、準備をしに来て、いま、皆さん、お揃いで、弁当を開かれたところらしい。それを、追いだして、ここを占領しようというのは、どういうわけですか？」

「どういうわけも、こういうわけも、あるもんか。ここの桜が一番きれいで、見晴らしもええけ、ここに、定めたんじゃ。つべこべ、要らん差し出口たたかんで、引き下がっとる方が、お前の身のためじゃろうで」

「わたしの身のためでも、金物屋さんたちが困りなさる。どうですか？　もう、ええ場所がないなら、わたしたちのところを譲ってもええから、金物屋さんの方は、勘弁してあげたら……？」

「ここと定めたら、ここでやるんじゃ。……生意気な出しゃばり野郎奴、江崎満吉を知らんとか」

そう叫ぶと、眼っかちの男は、拳をふりあげて、殴りかかって来た。金五郎が<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>したので、よろめいた拍子に、石につまずいて、音を立ててたおれた。

「やり居ったな」

もう一人が喚くのと、残りの者が、金五郎に飛びかかるのと、同時だった。いうまでもなく、袋だたきにするつもりである。

しかし、金五郎は、敏捷に飛びまわって、なかなか、掴まらない。積極的に、立ち向かう気がないので、逃げてばかりいる。しかし、たまに、相手と組みあうと、かならず、江崎の子分の方が、引っくりかえるか、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声を立てて、伸びるかした。

金五郎は、暴漢をおさえつけておいて、口の中に、一升徳利の酒をそそぎこんだ。

素手では駄目とみて、悪漢たちは五人とも、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を抜いた。

それを見た金五郎は、徳利の紐を口にくわえると、かたわらの桜の大木の幹を、するすると、よじ登った。またたく間に、高い梢に、猿のように、腰をおろした。

「やい、腰抜け、降りて来やがれ」

下から、呶鳴るのに、

「斬られに、誰が降りるもんかね。まあ、そう騒がんと、一杯、おあがり」

金五郎は、笑いながら、徳利をさかさにして、眼下の暴漢たちの頭から浴せかけた。撩乱と咲きみだれた桜の間を縫って、黄金色の滝がながれ落ちる。悪漢たちは酒に濡れて、飛び散った。

石を拾って、投げあげはじめた。みんな見当が狂っている。命中弾があると、金五郎は、徳利で受ける。コンと音がして、落ちて来た弾丸が、暴漢たちの頭に当たる。

「喧嘩じゃ。喧嘩じゃ」

と、弥次馬が、もう、だいぶん、集まっていた。そして、奇妙な喧嘩をながめて、げらげら笑った。

神社裏で、花見宴を張って、金五郎の来るのを待っていた玉井組の連中も、やっと、これに気づいた。かけつけて来た。彼等は喧嘩の見物や、仲間入りをする気はなかったのだが、桜の木のてっぺんにいる金五郎が見えたので、びっくりしたのである。

「六ゾロの源」、大川時次郎、「ノロ甚」、道具番の清七、新谷勝太郎、城三次、などの若い連中が「玉井組」の<ruby><rb>半纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>姿で、血相変えてあらわれたので、暴漢たちは、たじたじとなった。急を聞いて、数名の巡査がやって来た。逃げ腰になっているところだったので、江崎の子分たちは、こそこそと、群衆をかきわけて、消えてしまった。

金五郎は、桜の木から、降りて来た。にこにこしている。

一幕終ったので、見物も散った。

「どうも、ありがとうございました。おかげで、助かりました」

金物商組合の幹部らしい中老人が、金五郎に、礼を述べた。

金五郎は、乱れた着物をつくろいながら、妙に、気恥かしげに、照れた様子で、

「なんの、かえって、御心配かけて、……もう大丈夫です。巡査さんが来ましたから。……失礼します」

子分たちをうながして、逃げるように、足早に、去って行った。

その後姿を、いつまでも、つぶらな眼を凝結させて、眺めている一人の青年があった。まだ二十歳を出ないらしい、少年といった方がよい、頬のふっくらとした若者である。火のような<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>は、金五郎に釘づけにされ、なにか、心にうなずくように、しきりと、こっくりこっくりをしていた。

「<ruby><rb>安</rb><rt>やっ</rt></ruby>さん、なにぼんやりしとるとかい？　花見のやりなおしじゃ。こっちに、おいで」

紺の幔幕の内側から、声をかけられて、はじめて、我にかえったように、身体を廻転させた。幕をくぐって、中に入った。

「<ruby><rb>安五郎</rb><rt>やすごろう</rt></ruby>、今日は、なんぼか、酒を飲んでもええ。父が、許可してやる」

「井上金物商」は、目抜きの本町通りに店舗をかまえて、繁昌していた。

後に、玉井金五郎と生涯の盟友となって、吉田磯吉一派と<ruby><rb>拮抗</rb><rt>きっこう</rt></ruby>した井上安五郎の、まだ若い胸の中に、このとき、なにかのはげしいものが、燃えあがったようであった。

金物商組合の一座は、五十人ばかり。家族子供づれで、賑やかである。芸者が四五人、<ruby><rb>胡蝶屋豆八</rb><rt>こちょうやまめはち</rt></ruby>という、小柄で、<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>の<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>が一人、巡査も二三人、まじっていた。

一時はどうなることかと思ったのに、無事にかたづいたので、あらためて、酒盛りがはじめられた。

「玉井組というのは、なんかいな？」

若松に渡って日の浅い金五郎は、まだ、よく、街の人に知られていなかった。

「請負師かね？」

「それにしちゃあ、年が若かったが……」

「どこかの仲仕かも知れん」

「じゃが、面白そうな若い衆じゃったなあ」

そんな噂をしながら、酒を飲んでいると、中には、よく知っている者もあって、説明役を買って出た。<ruby><rb>井場</rb><rt>いば</rt></ruby>という船具商である。

「あれは、玉井金五郎というて、このごろ、聯合組の<ruby><rb>小頭</rb><rt>こがしら</rt></ruby>になった人です。私の店で、いつも、道具を買うてくれるんで、よう知っとる。道具番に、もと鍛冶屋じゃった清七さんというのが居ってね、これが本職じゃもんで、スコップでも、<ruby><rb>雁爪</rb><rt>がんづめ</rt></ruby>でも、チェーン・ボロッコでも、いちいち吟味したうえでないと、引きとらん。それだけ、現場の荷役には危げがないわけですな。若手じゃが、玉井金五郎さんは、ゆくゆくは聯合組を背負うて立つ人と、あの人を知っとる者は、みんな、いうとります」

「それにしても」と、幹部の中老人が、吐息をつくようないいかたで、「若松は、こんなことでは困るなあ。こう暴力団がはびこって、堅気の者をいじめられては、まともな商売はやって行けん。吉田磯吉さんはえらい人かも知れんが、子分連中が、どうもなあ……」

「町会議員にも、ばくち打ちやら、ゴロツキやらが出るようになるぞ」

「今のうちは、まだええが、普選にでもなったら、なにが飛びだすやら、わからんわい。暴力団が政治の権力でも握ったら、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>になる」

若い井上安五郎は、ちびちびと盃をなめながら、無言で、大人たちの<ruby><rb>繰言</rb><rt>くりごと</rt></ruby>を聞いていた。知的な光と、情熱的な光とが、同居している、張りのある<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>、「金魚」と綽名された大きな眼玉に、はるか遠くを夢みているような、緊迫したいろがただよっている。

――政治。

――政治家。

安五郎が、みずからの青春を傾けつくした一生の方角が、このときに、決定したのかも知れない。前から、政治や経済には興味を持っていたが、その下地に、多感な青年の正義感が、仕上げをしたのである。

（政治家になろう。そして、政治が悪漢どもの手によって、<ruby><rb>壟断</rb><rt>ろうだん</rt></ruby>される罪悪を、一掃したい）

安五郎の胸は、希望に燃えはじめていた。その安五郎の眼に、さきほど見た、玉井金五郎の面影が、はっきりと、印象づけられているのであった。

紺の幔幕の外を、「ドテラ婆さん」が、千鳥足で、通りすぎた。両腕を架しているお京と染奴とを、交互にふりかえりながら、

「芸者衆、見たかい？　玉井金五郎、惚れるなら、あんな男に惚れなさい。おれが若かったら、入れあげる。じゃが、馬鹿な喧嘩をしたもんじゃ。相手が悪い。金五郎どん、角助を待たんで、二三日うちに、江崎満吉から殺されるわい。太鼓判を押しとく」

島村ギンの予言したとおりであった。

その日の夕刻、江崎満吉の使いといって、一人の<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>ひきが、新仲町の玉井組を訪れて来た。

緑色に塗られた大きな公立病院の建物が、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の光の中に、聳え立っている。明治建築の様式に、いくらか新し味を加えた尖塔の中心に、痰壺のような白い陶器の飾りがある。

病院の横は寺である。墓地には古ぼけた墓石がならび、銀杏の樹の下に、鐘楼がある。いつぞや、パナマ丸の荷役をするため、燈台沖まで、伝馬船で漕ぎだしたとき、朝の五時になって、金五郎たちの聞いた鐘の音は、この安養寺の鐘楼で、撞き鳴らされたものであった。

新仲町は、この病院と寺とに接した狭い通りだ。玉井組は、病棟から、石炭酸のにおいや、患者の呻き声の聞えて来るような位置にあった。

がらんとした二階建である。玄関の入口右側に、「玉井組事務所」の看板、左に「玉井金五郎」の表札、いずれも、金五郎が、例の、独特な肉太字で書いたものであった。

「おごめんなさい」

玄関に入った五十年配の俥ひきは、ずらりと、壁間にかけられてある「玉井組」名入りの弓張提灯を見た。そして、あまかに、ひっそり閑としているのが不審らしく、小首をひねった。一段と、声を張りあげた。

「おごめん。誰も、居らんとですか？」

その声で、裏の小屋でワラジを編んでいたマンが、出て来た。

「なんぞ、御用で？」

「玉井金五郎さんは、居りませんか？」

「いません。お昼すぎに、若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>と、花見に行ったきり、まだ帰りません」

「あんたは、ごりょんさんですか」

「ええ」

「そんなら、あんたでも、よかろう。これを、江崎親分からことづかって来ました」

俥ひきは、腹がけの丼から、一通の封書をとりだした。マンに、渡した。

受けとって、

「返事が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るとですか？」

「はあ、返事を貰うて来い、といわれました」

「それでは、いま、見ますけ……」

マンは、封を切った。

奉書の巻紙に、なぐり書きのような太い筆で――「前略四月八日、午前零時、貴殿宅へ、ナグリコミヲ掛ケル所存ニ付、左様、承知下サイ。江崎満吉ヨリ」

マンの顔から、血の気が引いた。かすかに、動悸が打って来た。唇を、ぎゅっと噛んだ。

しかし、表面は落ちついた様子で、

「わかりました――と、江崎親分にお伝え下さい」

と、いった。

「そんなら」

そういって、出ようとするのを、

「あ、俥屋さん」

と、マンは、呼び止めた。

「まだ、なんか、用でも……？」

「ちょっと、待って」

マンは、奥に入ると、桐箪笥を探って、<ruby><rb>巾着</rb><rt>きんちゃく</rt></ruby>を取りだした。十銭銀貨をひとつ、塵紙のなかにひねりこんだ。玄関に出ると、「<ruby><rb>煙草銭</rb><rt>たばこせん</rt></ruby>にでも」

そういって、俥ひきに、渡した。

料理屋は、朝が遅い、置屋も同様だ。「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」が、朝食と昼食とをごっちゃにして、食膳にみんなが揃うのは、大抵、正午過ぎ、それから、掃除がはじまるのである。

花見客の二次会、三次会が、午前一時二時は普通、夜明けがた近くまでも騒ぐ組があって、「飛鳥」の寝たのは、もう、東の空が白むころだった。

お京は、しかし、早くから、眼がさめた。蒲団のなかからは出ず、腹ばいになって、煙草を吸った。障子に、明かるい朝の光線がさしている。

六畳の部屋に、三つ、蒲団が敷きならべてある。同僚の芸者は、誰も、まだ、深更の夢を見ていた。白粉がはげ落ちたり、髪がくずれたり、枕を外したりしていて、あまりよい恰好ではない。夜、化粧をし、お座敷着姿でいると、なかなか美しいが、こうして見ると、興ざめだった。

（昼は、夜の言葉を殺す――なんかの本に、書いてあったわ）

お京は、そんなことを考えて、苦笑が湧いた。そうすると、

（金五郎さんは、昼も、夜もなかなか、つかまらない）

そのことも、はがゆいやら、おかしいやらであった。

（でも、きっと、いつかは、思いを<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げてみせる）

お京のその決心に、変りはなかった。

主人の森新之助は、六人居る抱え芸者に、口癖のように、いいきかせた。

「どうせ、花柳界なんて、色と恋の世界じゃけ、お前たちが、誰に惚れようと、どんな男を旦那に持とうと、おれは、なんにもいわん。ただ、玉井金五郎にだけは、手を出さんでくれ。口説いてみたって、玉井が相手にすりゃすまいが、そこは、男と女のこと、いつどんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はずみ</span>で、妙なことにならんとも限らん。もし、おれの抱え芸者のうちで、玉井と妙な風にでもなったら、おマンさんに対して、おれがすまん。顔向けならんことになる。頼むけ、玉井だけは番外にしといてくれ」

女将の君香も、機会のあるたびに、それをいうことを忘れなかった。

お京は、深謀遠慮、すぐに、看破されるような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へま</span>はやらない。心中、焦躁に狂いながらも、忍耐づよく、ただ、機の熟するのを待っていた。それまでは、やたらに、金五郎の前にも、顔をあらわさないように心がけていたので、金五郎は、まだ、親友の家に、恐しいお京のいることを知らなかった。

食事になると、自然に、まっさきに、前日の金比羅神社での喧嘩話が出た。

お京は黙っていたが、おしゃべりで有名な染奴が、話に尾鰭をつけて、身ぶり手まね入りで、報告した。

「悪い奴と、出入が出来たなあ」

新之助は、心配顔である。

「ほんまに」君香も、眉をよせて、「金さんて、損な<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>だすな。そないなうるさい掛けあい場やったら、黙って、避けて通りはったらええやろに。触らぬ神に祟りなし――やないか。そやけど、金さんは、それが出来はらん人や。祟りが来る、とわかりきったるのに、黙って居られん人や」

話していると、仕込みの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>が、

「玉井はんが、来やはりました」

と、告げに来た。

「ちょっと、あたし、お師匠さんとこ、行って参りますわ」

お京は、あわてて、立った。君香が、びっくりしたように、

「お師匠はんとこ、どないしやはったん？」

「春の<ruby><rb>温習会</rb><rt>おんしゅうかい</rt></ruby>のお稽古、もうすこし、見て貰っておこうと思いますので……」

「阿呆らし。そないなこと、朝早よから騒ぐこた、あらへん。今、うちの旦那はんの兄貴分のひとが、来やはる。お京はん、まだ、逢うたことあらへんのやろ？　玉井金五郎はん、いっぺん、逢うといて」

「いえ、あたし、男なんかよりも芸の方が大事ですから」

笑いにごまかして、あたふたと、台所口から、部屋を出た。金五郎らしい足音が、近づいて来たからである。

「おかしな<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>やなあ」

「金さんには、逢わんがええ。お京と金さんなら、なんか知らんが、気が合いそうにある。気が合うのはええが、合いすぎでもしたら、おれがおマンさんに、すまんことになるからなあ」

「そやけど、お京はんは、聯合組の親分衆や、会社のえら方に<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にして貰わんならんよってに、いっぺん逢うて<ruby><rb>貰</rb><rt>もろ</rt></ruby>とくが、ええのやがな」

「それも、そうじゃが……」

夫婦がそんな話をしていると、金五郎が、廊下から、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>を排して、入って来た。

「やあ、今が朝飯じゃな？」

にこにこしながら、長火鉢の向う側へ、<ruby><rb>胡床</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた。自分の家のような気やすさである。印半纏に、半ズボンをはいている。

「金さん、これから、仕事かね？　現場支度ども、しちょるが……」

「うん、五十トンばかりの<ruby><rb>焚料</rb><rt>バンカ</rt></ruby>じゃ。夜業でやってくれちゅうことじゃったけど、繰りあげて、昼やらして貰うことにした。晩は、ちょっと、用事が出来たもんじゃけ」

「ときに、金さん、あんた、昨日、江崎の子分と喧嘩したそうじゃないか」

「喧嘩というほどのことはないよ。運動会みたよなもんたい」

「あんたは、その気でも、向こうは<ruby><rb>麻疹犬</rb><rt>はしかいぬ</rt></ruby>じゃ。日ごろから、江崎は、若松で、玉井組がのして来たのを心よう思うちょらんけ、うるさいことに、なりゃせんな？」

「こっちは、喧嘩が商売じゃない。仕事師じゃけ、あんなのには、相手にならん」

「おれたち、昔、彦島で、吉田親分から、江崎満吉との大喧嘩の話、聞かせて貰うたことがあったなあ。大嵐の晩のはげしい出入りの一件じゃった。江崎も、今はあのときほどの勢はないらしいんけんど、気をつけんと、馬鹿みるばい」

「ああ、おおきに。じゃが、まあ、心配なことはないよ。……そら、そうと、ちょっと、思いついたことがあって来た。これから、聯合組に行くとこじゃが、こないだ買うた刀を二本、出してみんな？　<ruby><rb>本阿弥</rb><rt>ほんあみ</rt></ruby>の<ruby><rb>直弟子</rb><rt>じきでし</rt></ruby>の、大層上手な鑑定家が来とるそうな。おれも、助広を<ruby><rb>鑑</rb><rt>み</rt></ruby>て貰おうかと思うちょる。お前は自慢しとったけど、おれは、どうも、お前のは<ruby><rb>備前物</rb><rt>びぜんもん</rt></ruby>とは思われん。一杯、食わされちょる。一緒に鑑定して貰うてやるけ、おれにあずけなさい」

「そうかい、そんなら、頼もう」

前にも、そんなことがあったし、新之助は、格別、疑う気持もなしに、奥の部屋から持ちだして来た日本刀を、二本、無造作に、金五郎に、渡した。

聯合組事務所は、海岸通りにある。そこには、弁財天宮があって、通常「弁財天浜」と呼ばれている。道幅が一間あまりしかなく、風と波のはげしいときは、湾内の海水がしぶきになって、店の中まで入って来る。今日は波が静かで、林立した帆船の<ruby><rb>檣</rb><rt>ほばしら</rt></ruby>も、じっとしていた。

金五郎は、事務所の裏口から廻り、小使に、日本刀をあずけた。

「仕事の帰りに貰うて行くけ、どこかに、<ruby><rb>蔵</rb><rt>しま</rt></ruby>っといてな」

「玉井さんは、刀剣の<ruby><rb>鑑定</rb><rt>めきき</rt></ruby>が、大層、上手じゃげなのう。これも、銘刀かね？」

「うん、天下の銘刀じゃ」

笑って、そういい、また、弁財天浜に、出た。岩壁の附近を見まわした。

「おうい、<ruby><rb>親方</rb><rt>おやじ</rt></ruby>、こっちじゃあ……」

サンパン小屋の附近から、大川時次郎が、手をあげて、呶鳴っている。

「玉井組」の看板をかけて以来、困ったのは、金五郎の呼びかたであった。<ruby><rb>小方</rb><rt>こかた</rt></ruby>には、昔の同僚や先輩がいるし、郷里の友人もいる。これまでの「<ruby><rb>親方</rb><rt>おやかた</rt></ruby>」というのは、照れくさいし、「親分」も、仕事師らしくない。「玉井さん」「金五郎さん」「金さん」などは、なお、ぴんと来ない。そこで、申しあわせの結果、マンの発案を入れて、「オヤジ」と呼ぶことに取りきめたのであった。初めはちょっと変だったが、呼びならわしてみると、奇妙な親しみがあった。

金五郎は、みんなの乗っている大伝馬船に、飛び移った。早くから、棚板やバイスケを積んで、金五郎の来るのを待っていたのだった。

伝馬船は、岸壁を離れた。ゆるやかな櫓のあやつりで、二番ブイにつながれている大成丸を目標に行く。

「オヤジ」と、<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>にいる「六ゾロ源」が、笑いながら、「江崎満吉の子分連中は、今日、花見のやりなおしをするらしいばい」

「誰から、聞いたな？」

「聞きはせんが、それに違わん。さっき、<ruby><rb>清</rb><rt>せい</rt></ruby>やんと、井場の船具商で、ロオプを買うて、弁財天通りまで来たら、昨日の連中が、四斗樽を車力に積んで、曳いて行きよった。……なあ、清やん」

「うん」と、清七は大きくうなずいて、「子分が何人居るか知らんけんど、することだけは<ruby><rb>太</rb><rt>ふと</rt></ruby>いのう。四斗樽一挺とは、豪勢じゃ」

「じゃが、江崎は、銭を払わんことで、有名ぞ。催促に行くと、刀を抜いて――長いのが、ええか？　短いのが、ええか？……そういうて、ギョロッと睨むそうじゃ」

「それが、ええのう。おれたちも、その手で、行こか」

「お前のようなヘナヘナが、<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>を切ったところで、凄味はあらせん。顔に、庖丁で、二つ三つ、傷でも、こさえとかにゃあ」

小方たちは、そんなことをいいあっては、にぎやかに、げらげらと、笑った。

金五郎は、黙って、聞いていた。

江崎満吉が、今夜半、なぐりこみを掛けて来ることは、まだ誰も知らない。マンと、金五郎の夫婦だけだ。

金五郎は、彦島で聞いた話を思いだした。江崎満吉が、なぐりこみのときには、かならず、新しい四斗樽の鏡を抜くということは、ほんとうらしい。松川源十のいうように、花見酒ではないのである。

大成丸の荷役を終えて帰ると、金五郎は、夜を待った。

五時になると、安養寺の梵鐘が、鳴りだした。音は、近い。

金五郎は、玄関正面にかかっている柱時計を<ruby><rb>降</rb><rt>おろ</rt></ruby>した。新品である。

「七分ほど、遅れちょる。この時計、あんまり狂うたことはないとじゃが、ゼンマイがゆるんどるんじゃろう」

台所で、晩飯の支度をしているマンを見て、そんなことをいいながら、坐りこんで、ギチギチと、ネジを巻いた。

時間をあわせてから、すぐには、掛けようとせず、両手で、愛撫でもするように、時計を、ためつ、すがめつした。八角形になった<ruby><rb>外枠</rb><rt>そとわく</rt></ruby>の中に、アラビヤ数字で書かれた、丸い文字盤がある。<ruby><rb>振子</rb><rt>ふりこ</rt></ruby>は、金メッキされて居り、<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かし彫りにした朝顔が、その肩のところに花を開いている。「精工舎製」の四字が、時計の中に見える。

振子が止まらないように注意して、金五郎は、ゆるやかに、時計を廻転させた。裏に、肉太の字で書かれてある自分の字を、読んだ。

新仲町玉井組

明治三十九年四月二日求之

本品ハ請負業開業記念トシテ

愛智時計店ヨリ買収セリ

一金四円七拾銭也

営業開始ハ二月十九日

金五郎は、微笑した。この時計は、マンと二人で、買いに出たのだが、そのとき、店先で、夫婦間に、口喧嘩が出来たのである。

「あなた、こんな高い時計、あたしたちには、贅沢すぎますよ。こっちの安い方で、ええわ」

「馬鹿をいうな。玉井組の記念じゃけ。思いきって張りこむんじゃ。どうせ、今、お前の腹の中に居る子が、男じゃったら、<ruby><rb>跡継</rb><rt>あとつ</rt></ruby>ぎをさせにゃならん。そのときに、安物じゃったら痛んでしまう。これなら、<ruby><rb>末代物</rb><rt>まつだいもん</rt></ruby>じゃよ。こういうことには、けちけちせんものじゃ」

「けちけちするわけじゃないけど、……四円七拾銭ものお金、どこから出るの？」

「働いて、ひねりだす。一層、<ruby><rb>励</rb><rt>はげ</rt></ruby>みが出るじゃないか」

「ごりょんさん」と、愛智時計屋が、笑いながら、「心配しなさんな。<ruby><rb>月賦</rb><rt>げっぷ</rt></ruby>で、ええ。あるとき払いでも、ええ。玉井さんを信用して、売ります。持って帰って下さい」

その親切な計らいで、手に入れることが出来たのであった。

金五郎は、時計を柱にかけた。

「マン、<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>は、まだか？」

「出来ました。もう、ええです」

「そうか」

金五郎は、二階の梯子段のところに行って、下から、呶鳴った。

「おうい、みんな、晩飯ぞう」

「はあい」

二階にいた子分連中が、どやどやと、降りて来た。

いつもと変らぬ食事をした。

夜が来て、八時、九時、十時と、時間が経った。町の家々も、一軒ずつ、<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>を消す。静かになった夜の空気を、病院から、聞えて来る重病人の陰鬱な呻き声だけが、かすかに、破る。

十一時が打ったとき、金五郎は、マンに、

「<ruby><rb>大盥</rb><rt>おおだらい</rt></ruby>を、玄関において、一杯、水を汲みこんでくれ」

と、命じた。

マンは、いわれるとおりにした。なにをするのか、わからなかったけれども、無言で、いつも洗濯に使う盥を、金五郎から指示された場所に置いた。その盤に、バケツで五六杯、水を八分目ほど満たした。

「マン」

「はい」

「お前、出しゃばることならんぞ。女だてらに、喧嘩の中などに、入るなよ」

「はい」

「おうい、若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>」

と、金五郎は、二階に向かって、声をかけた。

踊り場のところに、「ノロ甚」が、顔を出した。眠そうな顔をしている。

「なんか、用な？」

「すまんが、みんな降りて来てくれんか」

「全部かや？」

「うん、居る者は、みんな」

「みんな、居るよ」

マンは、金五郎から堅く口止めされていたので、誰にも話していなかった。それでも、さすがに、気にかかってたまらないので、松川源十に、「今夜、大事な相談があるけ、どこにも行かずに、みんな、家に居っておくれ」と、頼んでおいたのである。夫婦や、家族のある小方たちは、長屋の方に家をかまえていたが、独身仲仕だけが、金五郎宅の二階に、八人、下宿していた。――源十、時次郎、清七、甚七、「中学生」の俊次、松本重雄、新谷勝太郎、<ruby><rb>城</rb><rt>じょう</rt></ruby>三次。

もう寝ていた者が多く、寝ぼけ眼をこすりこすり、降りて来た。

「<ruby><rb>夜中</rb><rt>よなか</rt></ruby>に、なんごとですか」

と、時次郎が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>く。

「みんな、すまんけんど、あるだけの提灯に、全部、<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>をつけてくれんか」

そういいつけておいて、自分は、ランプに、火を入れた。それから、思いだしたように、

「マン、永田に行って、ラムネを十本ほど、貰うて来てくれ」

「はい」

マンは、青ざめた顔をしていたが、なに一つ、夫の言葉に<ruby><rb>抗</rb><rt>さから</rt></ruby>わなかった。火の入った弓張提灯を持って、小走りに、出て行った。

家紋である「丸に橘」と、「玉井組」の字の入った、五十箇以上の弓張提灯に、すっかり、明かりがついて、光の花壇のようである。それを、玄関を中心に、ずらりと、掛け並べさせた。

<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しいほど、明かるい。

数匹の猫が、なにごとかと不思議そうに、きょろきょろしている。

マンが、<ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>に、ラムネを入れて、帰って来た。

「まあ、きれい」

と、提灯の満艦飾に、思わず、呟いた。

ラムネを、一本ずつ、みんな飲んだが、

「オヤジ、誰か来るのかね？」

さすがに、頭にぴんとひびくものがあって、源十が、不審顔で、訊いた。

「お客があるんじゃ」

「こんな夜中に？　誰が？」

「みんな」と、急に、金五郎は、あらたまった顔になった。「今夜、十二時をすぎたら、江崎満吉がなぐりこんで来る。相手は、おれが一人でする。玉井組は、喧嘩商売じゃないけ、お前たちに、喧嘩の巻き添えを食わせとうない。二階にあがって、絶対に、降りて来ることはならん。おれが斬られても、手出しするな。さあ、早く、あがれ」

「そんな無茶が、あるもんか」

びっくりした松川源十は、<ruby><rb>菊石面</rb><rt>あばたづら</rt></ruby>をふくらませて、膝を乗りだした。ほかの連中の眼も、ぎらぎら光っている。

「無茶？」

「そうじゃないか。あんたとおれたちは、一心同体、玉井組の看板をかけるときから――あんたのために、命をすてて惜しまん、と、みんな誓うとる。それに、おれたちに、なんにも知らせんで、江崎を一人で相手するなんて。そんな水くさいこと、いいなさんな。オヤジが、ゴロツキから斬られるのを、なんで、おれたちが黙って見て居られるもんか。……なあ、みんな、そうじゃろうが？」

「そうじゃ」

「そうじゃ」

と、異口同音だった。

「そういうてくれるのは、ありがたい。その言葉だけで、ええ。お前たちの気持は、ようわかった。じゃが、おれが頭を下げて頼むけ、もう、これ以上いわせんで、二階に帰ってくれ。そろそろ、時間にもなる。……さあ、早く、早く……」

立ちあがった金五郎は、子分たちを追い立てた。

その緊迫した金五郎の表情と態度に、つべこべと、抗弁する口を封じてしまう、おかしがたく<ruby><rb>厳</rb><rt>きび</rt></ruby>しいものがあって、不服と不満で、仏頂面の子分たちは、だらしなく、二階へ追いあげられた。しぶしぶ、階段を登る。

重い足どりの子分連中が、八人とも、踊り場まであがりきってしまうと、金五郎は、梯子段を外してしまった。取り外し式になっている。力の強い金五郎は、それを、軽々と、廊下の板の間まで運んで行った。

「マン」

「はい」

「引っこんどれ。出て来んな」

マンは、うなずいて、台所に入った。

<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>を手にすると、大きな釜の蓋を取って、中をかきまわした。もうもうと、真白い湯気が立つ。

この家に移ったとき、他のところには手をつけなかったが、台所だけは改造した。大勢の集会をしたり、夜業や遠出の弁当を炊いたりするために、どうしても、大きな釜が三つは要る。今、そのうちの二つ、三升釜と五升釜とが、ぐらぐらと煮えたぎっている。<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>だった。

十時ごろ、金五郎が、釜になにかを仕込んでいるマンを見て、

「今から、飯を炊くのか」

と、訊いた。

「いいえ、すこし洗い張りをせんならんので、糊を炊いておこうと思うて……」

「ふウン」

夫から、喧嘩に手を出すな、といわれたマンは、暴漢どもが飛びこんで来たら、たぎり立った糊を、頭から<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っかけてやろうと考えているのだった。

金五郎は、水の満たされた盥の前に、入口の真正面を向いて、<ruby><rb>胡床</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた。手拭で鉢巻をして、着物の両肌を脱いだ。満艦飾の提灯の照明の中に、たくましい金五郎の白い肌と、青々とした龍の<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>とが照らし出された。

金五郎は、新之助から借りて来た二本の日本刀を抜き身にして、盥の水に<ruby><rb>浸</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。チャポ、チャポと、洗った。そして、ときどき、表の夜の暗黒を、ぎょろりとした眼玉をむいて、のぞくように、睨む。

静まりかえった深夜の空気を、刀を洗う水の音だけが、かすかに、ゆるがせる。金五郎は、二本の日本刀を、交互に、盥の中で、ころがしながら、ときどき、水からあげる。<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>のたれている冴えかえった刃を、裏表にかえして、しみじみと、眺める。刀の肌に、周囲の提灯が映って、刀身の中で光のゆらめきが、焔の乱舞のようだ。

（美しいなあ）

と、思う。

昔から、刀剣が好きであったが、欲しい刀を買う余裕はなかった。やっと、養子の交換条件で、蜜柑を売ったとき、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の湯町で、前から眼をつけていた、助広の小刀を手に入れることが出来た。故郷を出奔するとき、それを大事にたずさえて出て、今日まで愛蔵している。しかし、金五郎が刀を愛するのは、その美しい肌を見ていると、乱れた心も澄んで来るからであって、それを殺人の道具と考えたことは、一度もなかった。

武蔵温泉から帰った夜、マンと時次郎との二人の前に、その助広を抜いて立ちはだかった。

「<ruby><rb>間男</rb><rt>まおとこ</rt></ruby>、見つけたぞ。<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち斬ってくれる」

そういった。しかし、心の中では、笑いをこらえていたのであって、助広を間男成敗に使う気持は、毛頭なかった。マンと時次郎が、話している様子をすっかり立ち聞いて、マンの潔白を信じてから、持ち前のおどけ癖で、一芝居打ったにすぎない。

ところが、若松に来ると、その日本刀が、さかんに、喧嘩用、殺人用に、使用されている。そして、今、自分も、その渦中に巻きこまれる運命に、陥っているのだった。しかし、金五郎は、助広を喧嘩用に使いたくなかったので、森新之助の刀を借りに行ったのである。

（なんという馬鹿げたことを、やっとるのか？）

金五郎は、刀から眼をはなすと、腹立たしい自嘲の思いに、気が腐った。笑いだしたい。しかし、いつか、パナマ丸荷役のとき、情ないやら、馬鹿々々しいやら、恥かしいやらで、笑ってやろうと思ったら、眼から、水が流れ出たことがある。今夜も、そんな気持だった。

（滑稽千万な、おどけ芝居じゃ）

自分が、派手な無台装置のまん中に坐っている、下手な喜劇役者のように思われて来た。

猫が、奇妙なこの場の様子を解しかねたように、金五郎が刀を動かすたびに、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で見る。盥の傍で、丸くなって眠っているのもある。

つまらなくなったように、去って行く一匹が、林立しているラムネの空びんを、一本、たおした。

カラ、カラッ、という、その音に、金五郎は、妙に、ぎくっとした。これまで、不思議と、恐怖の観念などはなかったのに、不意に、不安で、動悸が打って来た。

（ひょっとしたら、殺されるかも知れない）

そう思ったとき、故郷の松山のことが、急廻転する走馬燈のように、頭に浮かんだ。その流れのなかに、<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>スギの顔だけが、にゅうと、大きく飛び出た。その軽侮と憎悪の眼が、金五郎を睨みつけている。

（そうじゃ。村を出るとき、無断で借用した三十円だけは、なんとか、無理算段してでも、かえしておくんじゃったなあ……）

その悔恨で、胸が痺いた。

チン、チン、チン、チン、……

時計が、十二時を打ちはじめた。

二階に追いあげられた子分たちも、じっとしていたわけではない。じっとしては居られなかった。音のしないように、大活躍をした。

四五人、屋根伝いに、裏の方に降りると、道具番の清七が、小屋の鍵をあけて、雁爪、スコップ、<ruby><rb>陸尺</rb><rt>ろくしゃく</rt></ruby>棒、などを取りだした。それを、また、裏から、二階にあげた。武器である。

梯子をかけて、石炭を入れた<ruby><rb>小籠</rb><rt>バイスケ</rt></ruby>を、天狗取り荷役の要領で、十個ほど、押しあげた。この作業は、お手のものだ。燃料用に貰った粉炭が、裏の箱に入れてあった。

「奴等が入って来たら、こいつで、眼つぶしを食らわせるんじゃぞ」

「六ゾロの源」が、金五郎に悟られないように、小声で、指示をする。

戦闘準備は、整ったのである。二階の明かりを消し、息を殺して待った。

大川時次郎は、胸を、どきどき、させていた。彼の心は、恐しい矛盾のなかで、錯乱する。

（もし、玉井金五郎が殺されるようなことがあったら……？）

その空想は、今は、時次郎に取って、地獄である。日とともに、強くなる金五郎への信頼感と、なお、あきらめきれぬマンへの思慕とが、からみあって、時次郎を呪縛する。それは、パナマ丸のとき、舷側を、猿のように、ロオプを伝って登る金五郎を見て、

（落ちれば面白い。落ちて死ねば、なお、ええんじゃが……）

と考えたときとは、心内の変化が段ちがいであった。

今では、金五郎に心服して、死ねばよい、とか、殺されればよいとか、考えたこともなかった。それどころか、この男らしい人とともに、自分も男を磨きたい、と、気負い立っていたほどだ。それなのに、今、悪漢が、玉井金五郎を殺しに来る土壇場に、立ちあったとき、

（もし、玉井金五郎がいなくなれば……？）

そういう悪魔のささやきが、時次郎の心の奥底で、まるで、このときを待っていたかのように、頭をもたげているのだった。

台所の方を、透かしてみると、もうもうと立ちのぼる白い煙の中で、柄杓を持ったマンが、眼を光らせて、表の気配に、気を配っている。

（マン坊は、金五郎のために、命を投げだして、闘かう気じゃな）

圧倒されるような威圧に、時次郎の心はすくむ。自分の醜い鬼の心と、エゴイズムとが、時次郎は、我ながら、恐しかった。恥かしかった。その癖、追っても、追っても、

――金五郎がいなくなれば、マンと夫婦になれる。

その美しい邪念は、心の一隅のどこかに、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な鼠のように、潜んでいるのだった。

金五郎は、相かわらず、二本の日本刀を、大盤の水で、チャポン、チャポン、鳴らしながら、ときどき、表を見る。小手をかざし、姿勢を低めて、闇をうかがうような恰好をする。

家の内いっぱいに、はちきれそうにふくらんだ提灯の明かりが、表の道路までも照らしているが、外は、午前零時をすぎても、森閑として、人間の気配など、まるで、なかった。

一時が、打った。

二時が、打った。

三時が、打った。

翌朝、例によって、「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」が遅い朝食をしているところへ、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>の胡蝶屋豆八が、あわただしげに、飛びこんで来た。

「森の大将、森の大将」

「なんじゃい？　豆八ッあん、朝っぱらから、騒々しいなあ」

「もう、朝や、あらへん。それに、これが、騒々しゅうせんと、居らりょうか」

「なんぞ、起ったんか？」

「起ったも、起らんも、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>が、起っちょる」

小柄で、<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>の<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>な豆八は、息を、ふうふう、切らしている。走って来たらしい。

「なんごとかね？　早よ、いわんか」

「大将の兄貴分の玉井金五郎さんのところへ、江崎満吉一家のなぐりこみじゃ」

「なにや？」

と、新之助は、飛びあがった。

食膳に向かっていたお京も、君香も、染奴も、顔色を変えた。箸を置いた。

「ちょっと、行ってくる」

金五郎が、日本刀を借りに来たことが、俄かに、ぴいんと頭にひびいて、新之助は、心の中で、（しまった）と、叫んでいた。自分の<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>さが、腹立たしかった。

表に、駈けだそうとする新之助の袖を、豆八が、しっかりと握った。びりびりと、縫い目の裂ける音がした。

「待った、待った。大将」

「離せ」

「今から、行っても、もう、間に合わん」

「<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られたのか？」

どきっとして、心臓が、胸壁の中で、宙返りした。

「もう、すんでしもうたですよ」

「すんだ、というのは？」

「江崎の方が、<ruby><rb>敗</rb><rt>ま</rt></ruby>けたとです」

「詳しく、話してくれ」

豆八の語るところによると、こうである。

――<ruby><rb>五反町</rb><rt>ごたんまち</rt></ruby>にある江崎満吉の家では、玉井家を襲撃するために、子分たちを<ruby><rb>鳩合</rb><rt>きゅうごう</rt></ruby>した。昼間から、準備をして、<ruby><rb>首途</rb><rt>かどで</rt></ruby>に鏡を抜く四斗樽まで買いこんだ。もっとも、この酒代は払ったかどうか、わからない。夕方ごろ、江崎家には、三十人ほどの人数がいた。牛肉のすき焼かなんかで、晩飯を食い、酒を飲んでいた。竹槍、日本刀、鎌などが、<ruby><rb>牀</rb><rt>とこ</rt></ruby>の間に、ずらりと、ならべてあった。酔って来ると、歌う者、手をたたく者、踊る者が出て来た。

「おいおい、あまり、ぐでぐでになるなよ」

江崎満吉は、気が気でないように、幾度も子分たちをたしなめていた。

十二時の定刻まで、みんな、一寝入りということになった。

十一時に、江崎が起した。そして、型どおり、向こう鉢巻、縄襷、尻はし折り、ワラジがけ、武器をものものしくたずさえて、赤穂浪士の討入り然と、出発した。しかし、落ち目になっている、このころの江崎一家というのは、まったくの烏合の衆といってよく、屁っぴり腰の者が多かった。酔っている者もある。腹心の部下というのは数人で、あとは<ruby><rb>傭兵</rb><rt>やといへい</rt></ruby>である。日当を貰い、御馳走酒にありつく目的で、ひやかし半分に入りこんでいる者もあった。

それでも、衆を<ruby><rb>恃</rb><rt>たの</rt></ruby>んで、外見ばかりは勇ましく、<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない病院と寺との横道を、新仲町に出た。陣形をととのえ、玉井家を、包囲した。

斥候が、偵察に出た。玉井組の表まで、そっと忍んで行き、帰って来ると、隊長の江崎満吉に、

「どうも、変ですよ」

と、報告する。

腹心の者をやっても、同様なので、江崎が自身で行ってみた。彼も、（どうも変だ）と思わずには居られなかった。変を通り越して、不気味になって来た。

これまで、幾度も果し合い、決闘、なぐりこみ、遭遇戦などをやって来たが、こんなのは初めてだった。相手が、こちらのなぐりこみを待ちかまえ、武装を整えて勢揃いして居れば、同じ気合の<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みで、どっと、飛びこむことが出来る。しかし、玉井一家は、そんな註文どおりの隊形を整えていない。

五十張りを越える提灯を、玄関一杯に<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>し、その中に、ぽつんと、金五郎が、たった一人、いるきりだ。<ruby><rb>諸肌</rb><rt>もろはだ</rt></ruby>を脱いでいるたくましい腕には、らんらんと眼を光らす昇り龍の彫青が、青々と浮き出ている。しかも、その金五郎は、抜き身の長い日本刀を、しきりと、大盥の水で洗っている。かたわらには、ラムネの空びんがずらりとならび、数匹の猫が眠っている。金五郎は、ときどき、表の方を、ぎょろぎょろ眼玉で、透かしてみる。

江崎満吉は、その凄さに、足がすくんだ。金五郎に、数十人の屈強の子分がいることは、江崎も知っている。その連中が、どこに、どういう風に潜伏しているのか、それが、気味悪くなって来た。恐しくなって来た。

隊長が、こういう調子であるから、部下たちは、もう浮き足立っている。

「斬りこめ」

と、江崎満吉は、やけ糞で、命令を<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>したけれども、誰も、飛びこむ勇気を持った者はなかった。あべこべに、逃げだした。

「――というわけでしてな、わたしの家が、すぐ近くじゃもんで、一部始終を、見とりましたんですよ」

新之助は、ほっとしたが気合い抜けがして、どすんと、<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>へ、尻を落した。

「豆八ッあんも、ひどいなあ。<ruby><rb>何故</rb><rt>なし</rt></ruby>、なぐりこみの前に、おれに知らせてくれんとか」

「そりゃあ、無理ですばい。江崎一家が、勢揃いして、酒盛しとる頃は、まさか、玉井さんとことは思わんし、また、今夜、誰か、気の毒な人が出来るなあ、って、考えとったんです。警察に知らしゃあ、わたしが後で殺されるし、……そしたら、今朝になって、わたしと仲ようしとる、やっぱり傭兵で出かけたバクチ打ちが、すっかり、話してくれたんです」

君香は、ためいきをつくように、

「ほんまに、金さんも、難儀やなあ。あての死んだお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>はんが、よう、いやはってた――男は、いったん、家の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>をまたいで出たら、七人の敵が居る、と思え。帰って来ると思うな。……って。金さんも、売りだして、男になるのはええが、この若松は、七人どころか、百人もの敵が、うようよ、しとるのやさかい、命は、なんぼあっても、足らへん。ただ、ちょっと、頭をもたげかけさえすりゃ――生意気や、<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ってしまえ。……まるきり、無茶や。<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>や、あらへん。いつ、こっちの番に廻って来るか……？」

その兆候は、すでに、あるのであった。

お京の張りのある眼が、異様に、光っている。

  


## 父と母

夕暮近くなると、雨が降って来た。生あたたかい、煙った春の空気のなかに、金比羅山の桜がぼやけ、その右につらなる<ruby><rb>高塔山</rb><rt>たかとうやま</rt></ruby>のいただきには、密集した松林が、山上に乗りあげた軍艦のようである。港の方で鳴る船の汽笛も、寝ぼけたように、ひどく、もの憂い。

「旅が、しとうなったなあ」

金五郎は、両手を頭の下に<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>って、寝ころんだまま、ひとり言のように、呟いた。

今日は、仕事は休みであった。さっきまで、新之助から借りた刀の手入れをしていたが、それがすむと、自分の身体を、裏庭に面した縁の廊下に、面倒くさそうに、転がしたのである。

マンは、かたわらで、赤ン坊の<ruby><rb>襁褓</rb><rt>おしめ</rt></ruby>をこしらえていたが、これも疲れたように、手を休めた。<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>や襦袢の着くずしを、オシメに縫いなおしたのが、五六枚、重ねてある。

かたわらの煙管をとりあげて、おいしそうに、一服吸ってから、肩で吐息をつくように、

「骨休めに、どこかに、行っていらっしゃいよ」

と、いった。

「一人じゃ、つまらん。お前と、行きたいんじゃ。一緒になってから、まだ、新婚旅行ちゅうもんを、しちょらんからなあ」

「ウフフ、新婚旅行なんて、そんな<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃ</rt></ruby>れたもん、あたしたちのような貧乏人の<ruby><rb>働人</rb><rt>はたらきど</rt></ruby>がする柄じゃないですよ。あれは、金持のするもんやわ。それに、もう、三年も経って、子供まで出来るというのに、新婚でも、ありゃせん」

「そんなこた、ないよ。これまでは、働くばっかりで、<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>も取れなんだが、今なら、ボーシンの源公に後を頼んで、五日や一週間くらいなら、二人で、出られる。……どうじゃ？　新婚旅行のつもりで、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の温泉に行かんか？」

「そりゃあ、行きたいことは、行きたいけど……」

金五郎は、むっくりと、起きあがった。マンの煙管を取って、自分も吸い、しんみりした語調になった。

「おれは田舎を飛びだしてから、故郷なんて、糞食らえ、と思うとった。それが、どうしたわけか、このごろ、馬鹿に田舎のことが思いだされる。親父や、お袋のことを、夢に見たりする。なんかの機会があったら、いっぺん帰りたいと、考えとったんじゃ」

それは、マンも、同じ思いであった。しかし、口に出しては、いわなかった。

――<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>。

どんなに、いやなことがあったにしたところで、人間の宿命のように、忘れることの出来ない、懐しい心の寄りどころであった。

「それで、今度、お前さえよければ、一緒に、帰ってみようと思う。お前も、あんまり、どん腹になったら、旅が出来まいけ、今のうちがええ。第一、子供の籍のことがある。まさか、若松に腰を落ちつけるなんて、思いもせんじゃったもんじゃけ、寄留もせんですましとった。今のうち、分家して貰うとかんと困る。それに、兄貴から借りた三十円も、大庭親方からの前借りを足して、やっとこさで、出来た。……田舎には黒石という、おれが養子に行った先の、うるさい奴が居るけんど、……まあ、どうにかなろうたい。……な、マン、道後と松山とは続いとるけ、ゆっくり、二人で、温泉に、でも入ろうや」

金五郎は、楽しそうな顔つきだった。

「おれたちに、子供が出来る。おれが、親父になって、お前がお袋になる――なんか、変じゃなあ……」

「変なこと、あらせんわ」

「変じゃよ、森の新公が、三つになる女の子の親父なんて、どうも、変で仕方がないよ。……おれたちの、男か知らん？　女か知らん？」

「どっちが、ええの？」

「男じゃなあ」

「あたし、女が欲しいわ。<ruby><rb>一姫二太郎</rb><rt>いちひめにたろう</rt></ruby>、というて、最初は女の方が、ええのよ。母親が助かるけ……」

「そんなに、都合ように、出来るかどうか、わかるもんか。おれは、やっぱり、男じゃ。そして、立派な男に仕上げて、玉井組の跡を継がせるんじゃ。そのころは、もっと、玉井組も大きゅうなっとるに違わんし、時代も変って、こんな野蛮な若松でも、<ruby><rb>無</rb><rt>の</rt></ruby>うなっとるじゃろう。今のような、暴力団のはびこっちょる若松なら、こっちまで、暴力団かぶれしてしまう。でも、仕方がない。覚悟を定めて、若松に移ったんじゃけ、あくまで、この地で、やりあげるんじゃ。なあに、どんなに、暴力団が理不尽な横車を押したとて、正しい者が、最後には、きっと勝つよ」

「あたしも、そう、思っています」

夫婦の瞳には、どちらにも、強い決意が、みなぎっていた。

話していると、「中学生」の俊次が、焼き芋を頬ばった口を、もぐもぐさせながら、玄関口から、大声で、

「オヤジさん、「飛鳥」の大将が、お見えになりましたばい」

「そうか。こっちに、お通し。……それから、お前、永田に行って、ラムネを四五本、貰うて来てくれんか」

「はあい」

去って行く俊次と入れちがいに、新之助が、入って来た。

「やあ、よう来たなあ。これから、刀をかえしに行こうかと、思うとったところじゃ」

「新さん、こないだうちからは、いろいろ……」

と、マンも、挨拶した。

「いいえ、あんたの方こそ、大変じゃったなあ」新之助は、坐って、

「びっくりしたよ、なんにも知らんもんじゃけ、うかうか、金さんに刀を貸したりして、……金さんも、人が悪いなあ」

「お前に知らせて、心配かけとうなかったもんじゃけなあ」

「無事にすんだから、よかったものの、もしものことがあったら、おれは恨むよ」

「わかった。わかった。<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>る」

面倒なので、金五郎は、無抵抗作戦に出た。

マンは、お茶入れに、立った。

「金さん」

急に、新之助は、坐りなおして、あらたまった顔になった。緊張の面持である。

「うん？」

「お前と江崎との喧嘩が、妙な風になって来たよ」

「妙な風？」

「どういうたら、ええか？……さっき、友田喜造の使いの者が来てな――この喧嘩の仲裁を、自分がやりたいので、中に入らせて欲しい。その仲直りの会場には、「飛鳥」を貸して貰いたい。吉田磯吉親分も、出席するかも知れん。……そういうんじゃよ」

「断ったら、ええじゃないか」

「一度は、断ったんじゃよ。そしたら、向こうで――友田喜造の顔をつぶすつもりか？　それなら、それで、考えがある。顔に、泥を塗られて、黙っては引っこめん。……そんなことをいう。なにも、こっちは、友田の顔をつぶしたり、泥を塗ったりした覚えはないのに、……どうも、この、顔――という奴、この世界じゃあ、憲法みたいなもんでなあ……」

――顔。

仁侠とやくざの世界に打ち立てられた、黄金のピラミッド。顔が立つ。立たぬ。顔に免じて。顔をつぶした。つぶさぬ。――<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>と、<ruby><rb>矜特</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>とが作りだす頑固一徹の虚栄心が、歪曲されたヒロイズムとなって、男性的と錯覚される。理非曲直を越えた場所に、つねに、暴力を背景にして、強引に押しだされて来る人間の<ruby><rb>陥穿</rb><rt>かんせい</rt></ruby>――この地方の人々が、この「顔」のために煩わされていることは、想像以上のようであった。

新之助自身も、君香と別府温泉に行ったとき、追っかけて来た「<ruby><rb>蝮一</rb><rt>まむしいち</rt></ruby>」から、

「貴様、おれの顔をつぶしやがって」

いきなり、その一言を投げられて、斬りつけられたのであった。新之助が、殺人罪を犯したのも、この「顔」のためであったといってよい。

金五郎も、これまで、たびたび、「顔」に苦しめられた経験があった。それで、今、新之助が、どんなに当惑しているかは、金五郎にも、よくわかった。

「金さん、お前、江崎満吉と仲直りするの、いやか？」

「おれは、誰とでも仲ようしたいと思うとる。いつでも、仲直りするよ」

「仲裁の顔が、不服か？」

「そんなこたない」

「そんなら、ここんとこ、ひとつ、折れて、友田の仲裁で、江崎と、手打ちにしてくれんか。吉田磯吉親分も、この喧嘩には、関心を持っとるというけ、変に、荒立てんがええ。おれが、なにも、お前のいやなことを強いとるわけじゃないことは、お前も、わかってくれるじゃろう？　この街に住んで、商売やっとりゃ、そんなに、街の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>くことも出来ん。……それに、昔のおれなら、なにくそ、と思うが、娘の子の親となってみるとなあ……」

金五郎は、親友の弱々しげな口調を、さびしい思いで、聞いていた。

（新公は、変った）

新之助の立場や、苦衷は、充分に察していながら、金五郎には、兄弟盃をした親友の軟化が、やはり、さびしかった。情ない気もした。この若松では、ほとんど唯一の友人で、頼みにしていた男なのに、いま、その新之助が、自分を離れようとしている。裏切るとは思わなかったけれども、金五郎は、俄かに、孤独感におちいって、気が沈んだ。

反動的に、快活な調子で、

「わかった。わかった。よし、承知。<ruby><rb>日日</rb><rt>ひにち</rt></ruby>と時間とを知らせてくれ。いつでも、行く」

「そうか。そうしてくれると、ありがたい。……それからな、この刀、二本とも、お前にやる。そのかわり、仲直りの場で、お前が喧嘩に使うた刀は、おれから借りたもんということは、いわんようにしといてくれ」

「わかった。わかった。もう、帰れ」

森新之助は、いずれ日取りが決定したら、知らせるから、と、ひどくなって来た雨の中を、帰って行った。

番茶を運んで来たマンは、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な顔つきで、

「新さん、どうかしたの？　えらい早よ、帰りなさったが……」

「追い返したんじゃ」

「どうして？」

「用がすんだからよ」

投げだすように、そういって、金五郎は、また、ごろりと、<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>に<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がった。放棄的な表情で、眼をつぶったが、急になにかを思いついたように、すぐに、くるりと、起きなおった。かたわらにある日本刀を二本、<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>づかみにして、立ちあがった。

「どこに、行きなさるの？」

「ちょっと、永田の親方のところに、行って来る」

裏口で、高下駄をつっかけていると、俊次が、ラムネを四五本、懐に入れて、帰って来た。客はもう帰った、お前たちが飲め、と、いい残して、金五郎は、番傘をさして出た。

雨に煙る<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の町を抜け二町とは離れていない永田の家に行った。

聯合組を番下げされた永田杢次は、貰った退職金で、ラムネ製造業を始めたのである。もともと懲罰的処分を受けたのであったけれども、情に厚い大庭春吉は、金五郎と話しあい、永田がメカケのサクと別れることを条件に、ラムネ屋を始めるだけの資金を都合してくれた。永田はそれを機会に、若松へ移住した。そして、同じ新仲町の、玉井組と眼と鼻の先で開業したのは、なるべく近くにいて、旧親方の面倒をみたいという、金五郎の希望にもとづいているのであった。

表には、「永田清涼飲料水製造所」という看板が出ているが、入口の<ruby><rb>鴨居</rb><rt>かもい</rt></ruby>には、昔の「永田組」の提灯がかかげられてある。一日の仕事を終えた工場では、四五人の従業員が、ラムネの瓶を箱詰にしたり、割れたガラスの<ruby><rb>欠片</rb><rt>かけら</rt></ruby>を、竹箒で、掃き集めたりしている。

「おごめんなさい」

「おう、玉井か。おあがり」

茶の間で、長火鉢を挟み、永田夫婦は糸巻きをしていた。杢次が両手首にかけた白糸の束を、ヨネがくるくると巻き取っている。糸がほぐれてゆくたびに、手首を柔軟に動かして、杢次はなかなか要領がよい。

それを、かたわらで、息子の茂次平が、面白そうに眺めている。

長火鉢の横に、坐ると、

「親方、刀をあげましょう」

そういって、紫の<ruby><rb>袱紗</rb><rt>ふくさ</rt></ruby>に入った二本の刀を、永田杢次の前に、置いた。

「そうか、そりゃ、おおきに」

永田は、糸を外し、日本刀を抜いた。何度も刀身を眺めて、よろこんだ。以前にくらべて、ずっと、健康そうである。

ヨネが、酒の燗をつけて来た。

「玉井、今度、お前の発案で、<ruby><rb>小頭</rb><rt>こがしら</rt></ruby>の組合を作るそうじゃないか」

「そうしようと思っています」

「ええ事じゃなあ」

「でも、困ることがあるんですよ。聯合組や、三井物産、大高組、などは賛成してくれたんですが、友田喜造の<ruby><rb>共働</rb><rt>きょうどう</rt></ruby>組だけが、どうしても入らんのです」

「やっぱり、野心があるんじゃな？」

「共働組でも、小頭の中には、加入したい希望の者が、なんぼか、あるんですが、なにしろ、大親方の友田が、睨みを<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かしとるもんですけ――玉井の組合に入りたければ、入れ。考えがある。……そんな風にいわれたら、誰も入らんですよ」

「友田は、前から、そうじゃったが、港の仕事は、自分がみんな取ろうと思うとるんじゃよ。荷主の方だって、なんぼでも安い方がええからのう。そっと、裏から廻って、協定の請負賃銀より、一トン当り、二銭でも、三銭でも引いてやるといえば、聯合組のお得意でも、友田の方へ、仕事を移さんともかぎらん」

「そうなんですよ。もう、その兆候が、出とるんです。現に、四五日前も、聯合組に来る筈じゃった三菱の玄洋丸の荷物炭が、八百トンも、共働組に持って行かれました。大体、働く立場の者が、仕事の奪いあいをして競争するなんて、まちがっていますよ。今でさえ安い賃銀を、また安うしたりして、結局、資本家をよろこばせるだけのことです。わたしは、これまで、沖仲士をして来て、どうして、こんなに、みんなが汗水たらして働いとるのに、<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>が楽にならんのかと、不思議でたまらなかったんです。それというのが、おたがいが馬鹿な競争をするからですよ。そのために、どうしても、組合をこしらえなくちゃならんと、思うようになりました。ところが、友田喜造の一派だけ、なんとしても、入りません」

「困ったもんじゃのう」

「おまけに、わたしのことを、友田が、こういう風に、いうとるということを聞きました――玉井金五郎の奴、このごろ、若松に来た<ruby><rb>新米</rb><rt>しんまい</rt></ruby>の癖して、太い料簡の<ruby><rb>横道者</rb><rt>おうどうもん</rt></ruby>じゃ。若松港<ruby><rb>汽船積</rb><rt>きせんづみ</rt></ruby>小頭組合ちゅうもんを組織するというて、飛びまわっとるが、自分がその組合長になって、港の仕事を自由勝手にしようと企らんどる。そんな組合なんて、くずしてみせる。玉井を若松に居られんようにも、してやる。……そんな具合に、口癖に、いうとるというんですよ。請負師というのは、働く者の代表でなくてはならんのに、あの人は労働者の敵です。はっきり、資本家側、御用暴力団というても、ええくらいですね」

金五郎の眼は、おさえがたい憤りに、燃えていた。

永田杢次は、面倒くさいことがきらいのうえ、そういう複雑なことはわからないので、ただ、漠然と、

「ほんとに、困ったもんじゃなあ」

と、呟いているばかりである。

前夜の出来事については、永田家では、なんにも知らぬ様子である。（相かわらず、のんきな親方だ）と、思った。もともと、荒くれた立引と、生き馬の眼を引き抜く鋭敏さと、ときには、血で血を洗う争闘さえ、辞せられない請負師をしていたことが、永田杢次には無理なのであった。ラムネ屋という、普通の商売に変ってみると、実に、平和な姿で、板についている。

「玉井、<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>を打たんか」

と、にこにこ顔でいう。

「碁は知りません。将棋なら、すこし、さします」

「将棋は、おれが知らん。碁の方が面白いぞ。知らんなら、教えてやろうか」

「教えて下さい」

「おい、ヨネ、碁盤を持って来い」

「いえ、今夜は、ちょっと、外に用事がありますけ、また、この次に……」

「そうか。そんなら、そうしよ。……玉井、お前も、一人前の仕事師になって、これから、玉井組が大きゅうなって行くんなら、碁は、ぜひ、知っとくがええぞ、趣味を持たん人間は、動物と同じじゃ。バクチを知っとるだけじゃ、つまらん。お前は、若いに似あわん面白い男じゃけ、そのうち、町会議員くらいには出られるかも知れん。いんや、かならず、町会議員にはなれる。そんなときには、えらい人とも<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>わねばならんことが出来て来るけ、碁は知っとけ、きっと、役に立つ。おれが、指南してやる。……それにしても、……」

と、永田杢次は、俄かに、感慨に耐えぬような、遠くを見る回顧的な<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>になって、

「お前と、おマンとが、二人で、乞食の引っ越しみたよな恰好で、おれのところを頼って来たのは、ありゃあ、もう、何年前になるかなあ……？」

「あれから、三年ほどが経ちました」

「そうなるかなあ。下関の「なんでも屋」ちゅうのは、同郷の<ruby><rb>直方</rb><rt>のうがた</rt></ruby>でなあ、あんまりしゃんとはしとらんけど、正直なええ奴じゃ。その「なんでも屋」の紹介状を持って来たもんじゃけ、お前たち夫婦を信用したんじゃが、……その乞食の風来坊が、おれの跡を継いで、こげえ立派になろうなんて、そこまでは、おれも思わんじゃったよ」

「みんな、親方のおかげです」

「なんの、おれのおかげがあろうかい。おれみたよな、<ruby><rb>腑抜</rb><rt>ふぬ</rt></ruby>けの<ruby><rb>呆作</rb><rt>ほうさく</rt></ruby>は、人のためになったことなんて、一回もありゃせん。それどころか、おれが、今、こうして、安閑として居られるのは、玉井、みんなお前のおかげじゃと思うて、いつも、家内と二人で、感謝しとるぞ」

「なにをいわれますか。こんなことでは、わたしの親方に対する御恩返しは、足りないのです」

それから、なお、十分ほど、雑談した後、永田家を辞した。

わが家へ急ぎ、番傘を雨がはげしくたたく音を聞きながら、

（親方の家が、はじめて、家庭らしゅうなったわい）

微笑のわく思いで、そんなことを考えていた。そしてそれは、やがて、自分たちにも子供が出来る、その日のことを思う、不思議に楽しい感慨に、一直線に続いていた。

翌朝、「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」の仕込みの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>が、森新之助の手紙を持って来た。仲直りの日取り通知状である。金五郎をはじめ、小方連中は、仕事に出て、留守だった。

マンが、受けとった。

「<ruby><rb>女髪結</rb><rt>おんなかみゆ</rt></ruby>い<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>」という看板のうえで、黄色い蝶と、白い蝶とが、さっきから、二匹、しきりに戯れている。もつれあいながら、舞いあがり、くるくる廻り、また下って来る。看板の上部と、軒場の桶との間には、大きな<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>が巣をかけて、獲物のかかるのを待っている。二匹の蝶は、なんの警戒心もなく、無我の境で戯れているうち、ときどき、網の線に触れる。中心にうずくまっている蜘蛛が、その都度、走りだしそうにするが、蝶が網に引っかかりはしないので、あきらめたように、いまいましげな様子で引っかえす。

「あの蝶々、危いわねえ」

お京は、さっきから、気にかかってならないらしく、独り言のように、呟いた。

「飛鳥」の芸者たちが四五人、つれだって、髪結いに来たのだった。お京は、写真画報を見ながら、順番を待っていた。投げ島田の頭を、銀杏返しに結いなおして貰うつもりである。

「染奴さんは、ハイカラねえ」

二〇三高地<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>にしている染奴を見て、友達が、眼を丸くしている。二〇三高地は、日露戦争のとき、非常な激戦の後、日本軍が奪取したロシヤ軍陣地のあった山だ。その名を冠した髪が流行していた。庇髪の中央に、サザエのような瘤を作る。染奴が、特に、今日、この髷を選んだのには、魂胆があった。

「今日は、みなさんお揃いで、晩、なにかあると？」

髪結のおナツが、染奴の髪を結いながら、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>く。<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>生まれ、四十年配の、勝気らしい、色の浅黒い、眉毛のつりあがった女である。

三人いる弟子たちも、それぞれ、鏡に向かって、一人ずつ、髪を結っている。店内には、強いびんつけ油のにおいがただよい、ときどき、<ruby><rb>元結</rb><rt>もとゆい</rt></ruby>をしめる、キュ、キュ、という音、髪を<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>く櫛の、シュウ、シュウという音が聞える。

染奴が、いそいそした声で、

「宴会よ」

「宴会は珍しゅうも、なか。こげん、みなさんが気張って、髪を結いなさるとは、なんか、特別なことじゃろうもん」

「そうよ、おナツさん。大変よ。喧嘩の仲直りが、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>であるの」

「誰と誰との喧嘩？」

「玉井金五郎親分と、江崎満吉親分。仲裁役は、友田喜造親分。うちのお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんが、玉井親分と兄弟分だから、あたしとこに、申し入れがあったの。それはええけど、今夜は、若松中の親分がたが、ほとんど揃うらしいわ。吉田の大親分さんも来られるということだし、山下剛一親分、長井久吉親分、花田準造親分、それに、ドテラ婆さん、……それから、玉井さんの方は、大庭春吉親分、田中光徳親分、三崎国造親分、……」

「わあ、親分の展覧会やなあ。そら、今夜、「飛鳥」は<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>たい。ばって、そげん、敵味方の親分衆が集まって、なんごとも<ruby><rb>無</rb><rt>の</rt></ruby>う、すむじゃろか？」

「それは、すむわよ。もともとが、仲直りやもの」

「染奴さん、なんか知らんばってん、嬉しそうやな？　逢いたい人があるとじゃろ？」

「当った」と、露骨に、にやにやして、「あたし、このごろ、玉井金五郎親分に、首ったけなのよ。あんな人となら、どんな苦労してもええわ」

お京はそれを聞いて、金比羅山でのことを思いだした。ドテラ婆さんが、お京と染奴とに、両腕でもたれながら、「惚れるなら、玉井金五郎のような男に惚れるがええ。自分が若かったら、入れあげる」といったところである。しかし、染奴がそれに煽動されて、急に、惚れたのではないことも、お京は知っていた。金五郎は、「飛鳥」には、自分の家のように出入りしていたから、染奴は、早くから、金五郎に思いをかけていたようであった。

二〇三高地髷に、染奴が結っているのも、今夜、このハイカラ頭で、金五郎の気を引こうという作戦らしい。また、よく似合った。

「染奴さん、待っててね。一緒に帰ろうよ」

「ええ」

そして、二人はつれだって、おナツの店を出た。

軽い汗ばみをおぼえるような上天気である。二人の下駄の音が、カラコロと澄んだ音で、青空の奥深くひびき登って行くようで、もう夏の気配がどこかに感じられた。一羽の<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が、悠々と舞い、ときどき、笛のような声で啼く。

「染奴さん、ちょっと、話したいことがあるの。つきあってね」

「ええ」

若い染奴は、姉芸者として、お京には一目置いていた。従順である。

木柵でかこまれた町役場の横を抜けて、<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>神社に行った。この古い由緒を持つ社は、石鳥居の下まで、<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>の波が来ていて、石段を洗っている。境内には、榎、杉、松、樟、などの大樹が、鬱蒼と繁茂して、昼なお暗い感がある。海の神様として、漁師たちの信仰が厚かった。まったく、人かげがない。

「姉さん、なあに？」

あたりのあまりの静けさに、不気味そうにしながら、あどけない顔で、染奴は、訊いた。

「ほかのことじゃないけどね、あんた、玉井さんに惚れるの、<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めなさい」

染奴は、びっくりして、お京を見た。お京の顔はいつになく鋭く、染奴は威圧を感じた。しかし、彼女も、いつもの従順さをすてて、

「御意見なのね。姉さんのお言葉やけど、こればかりは聞かれないわ。いつも、お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんからいわれることも、よくわかったうえでのことよ。「飛鳥」にいるために、女の命の恋がかなえられないというのなら、あたし「飛鳥」を出ようとまで、思うとるのよ。……お京姉さんにも、力になって頂きたいと考えとったのやわ。それに、姉さんが、止めなさい、なんて……」

「でも、あんた、玉井さんと変なことになったら、友田さんとのこと、どうするの？」

「無論、手を切るわよ」

「あんた、そんなに簡単にいったって……」

「ええのよ。友田さんて、あたし一人じゃないんだし、……いつか、別れた方がええって、考えとったの」

「駄目よ。そんなもんじゃないわ。それでなくてさえ、玉井さんと友田さんとは、なにかと張りあっているのに、女の問題がからんだら、どんなことになると思うの？　あんたのために、玉井さんへ、友田さんの恨みが、また新しく行くと思わない？」

「ははあ、姉さんが、玉井さん、好きなのね」

「そうよ」

と、いってしまった。

「それなら、それでもええわ。あたし、お京姉さんと張りあうわ」

染奴は、<ruby><rb>蟀谷</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>のいろを浮かべながらも、決意のほどを明らかにした。癇性らしい気質が、浮きあがった<ruby><rb>蟀谷</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>の青筋をびくつかせ一重瞼の細い眼が、狐のように、つりあがっている。

お京は、妹芸者の決心が生やさしいものでないことを見抜くと、非常手段に訴える以外に、方法がないと覚悟した。

「染奴さん」

と、強い語調で、あらためて名を呼び、凄んだ<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、睨みつけた。

「なによ」

と、相手も、もはや、挑戦的である。

「ほんとに、あたしと、張りあう気？」

「ええ」

「命がけで、でも？……」

「無論よ」

「アッハッハッハッ」

突然、お京は、男のような声で、笑いだした。どうしても、その<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>が止まらないように、苦しげに、腹をよじらせる。

染奴は、むっとして、

「なにが、そんなにおかしいの？　いくら、姉さんだって、あんまり、馬鹿にすると、承知できないわ」

「ワアハッ、ハッハッハッ……」

「姉さん、あたし、もう、帰る」

「ちょっと、待って」

笑いやめたお京は、あわてて、染奴の袖をつかんだ。

「染奴さん、あんまり、あんたが威張るから、ふきだしたのよ。命がけ、だの、承知できない、だのって、子供の癖に、なにいうのさ。自分のいった言葉の意味が、自分でほんとにわかってるの？　でも、もう、こうなったら、仕方ないわ。あんたに無駄な苦労をかけさせては気の毒だから、なにもかも、教えてあげる。……染奴さん、玉井さんは、もう、あたしと深い仲なのよ」

「<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>、嘘」

「嘘なもんかね。面倒くさいから、これまで隠していたのよ、あんたがおせっかいしそうだから、ちゃんと教えるのさ」

「あたし、信じないわ。お京姉さんたら、玉井さんに、一度も逢うたことだって、ない癖して……」

「そんなら、今晩、見ててごらんよ。なにもかも、わかるから。……染奴さん、あんた、一体、あたしを誰だと思ってるの？　これまで、猫をかぶっていたけど、素姓を知らせてあげようか。……ほら、これをごらんよ」

お京は、ちょっと、あたりを見まわしてから、右腕をまくった。牡丹に蝶の美しい<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>が、あらわれた。「飛鳥」に来て以来、誰にも見せたことがなかったのである。

染奴は、さすがに、仰天した。顔色を変え、二三歩、後すざった。

「「<ruby><rb>蝶々牡丹</rb><rt>ちょうちょうぼたん</rt></ruby>のお京」といったら、関東では、すこしは知られた<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>さ。それが、こんな若松みたいな田舎に来たのも、みんな、金五郎さんのためよ。染奴さん、あんた、命が要らないなら、金五郎さんに、おちょっかいをかけなさい。それから、今日のこと――あたしの素姓や、金五郎さんとのこと、ちょっとでも、人にしゃべったら、やっぱり、命がないものと、お思い」

染奴は、袂で顔を掩うと、はげしく泣きだした。

その夜、「飛鳥」では、豪華な饗宴がひらかれた。

五十畳敷の広間には、今夜の主客である玉井金五郎と、江崎満吉とを中心に、この街の名だたる顔役連中が居流れた。両方の関係者を合して、約三十人、芸者が十五六人、料理は三の膳までついた最上等献立て、酒とビールは、無尽蔵に、席に運ばれた。

「まず、今夜は、めでたいよ」

右隣りの席にいる森新之助が、にこにこと、そういうのを、

「うん、まあな」

金五郎は、ぶっきらぼうに、相槌を打って、あまり浮かぬ顔をしていた。

左隣りには、「六ゾロの源」がいた。

「向こう<ruby><rb>方</rb><rt>がた</rt></ruby>が、大層多いのう」

と、いう。

「<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かそうとしとるんじゃよ」

「吉田親分は、見えんようじゃないか」

「後で来るとか、いいよった」

新之助は、金五郎の弟分ということで、今日は「飛鳥」の亭主ではなく、正客として、金五郎とならんでいた。

森新之助は、この街では、一目置いた眼で、眺められている。殺人の前歴があるからだ。人を殺して、監獄に行って帰れば、箔がつくことは、一種のやくざ憲法ごときものになっている。新之助が殺した「<ruby><rb>蝮一</rb><rt>まむしいち</rt></ruby>」は、関門北九州では、もっとも<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>な親分であったので、新之助は奇妙な名声さえ持っているといってよかった。普段はおとなしいが、生来、短気で、かっとなると、なにをしでかすかわからない。そんな気質も、いつか、知られていて、

「あいつを怒らせると、うるさいぞ」

うるさいことでは人後に落ちない連中からも、そんな風な眼で見られていた。そのことが、いわば、敵方である吉田磯吉派の勢力圏内で、「飛鳥」を開業して、どうにか、これまで、無事にすんだ理由といえるかも知れない。しかし、今、例の「顔」が、その均衡と平和とを破ろうとしているのであった。

金五郎の側としては、新之助、松川源十、大川時次郎、大庭春吉、三崎国造、田中光徳の七人きりであるが、友田喜造の側は、残りの大半である。山下剛一、長井久吉、市川弥兵衛、岡部亭蔵、花田準造、藤野清次、長富紋太、「ドテラ婆」の島村ギン、その他吉田一派の四天王、腹心、<ruby><rb>懐刀</rb><rt>ふところがたな</rt></ruby>、猛将、といわれる人物が勢揃いしている。たしかに、これは壮観で、デモンストレーションとしては、重圧的といえた。

奇妙なのは、江崎満吉一党だ。もともと、江崎と玉井との仲直りという触れだしであるのに、この席では、江崎はまるで問題にされていない。昔は、吉田磯吉と対等の大喧嘩をしたことがあるけれども、現在では、落ち目になっているうえに、今度の喧嘩では、戦闘隊勢をととのえて、玉井家の表まで行きながら、盥で日本刀を洗っている金五郎に恐れをなして、退却したことは、知れわたっていたから、軽蔑されてしまっているのだった。

拍手が起った。お座つきが始まるらしい。舞台の幕があいた。<ruby><rb>地方</rb><rt>じかた</rt></ruby>の三味線と、鼓、唄い手などが六人、五葉松の背景のある舞台奥にならんでいる。

中央に、頭をさげて、お辞儀をしている銀杏返しの一人の女、踊り手が、顔をあげた。

金五郎は、びっくりした。

三味線と、地唄につれて、お京は踊りはじめる。水々しい銀杏返しの頭、裾を引いた市松模様の着物、手にひるがえす銀扇、豊醇に<ruby><rb>熟</rb><rt>う</rt></ruby>れきった身体のこなしが、柔軟に、音もなく、舞台のうえをすべって、さす手、引く手に、いいようもない<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しい色気がただよう。切れ長の細い眼は、なにかの愁いをふくんでいるように、青味を帯びている。

梅にも春の

色そえて

<ruby><rb>若水汲</rb><rt>わかみずく</rt></ruby>みか

<ruby><rb>車井戸</rb><rt>くるまいど</rt></ruby>……

踊りながら、お京は、ときどき、金五郎の方を見て、にこッと、笑う。金五郎が、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられた顔つきで、ぽかんと、口をあけて、自分を凝視しているのが、おかしくて仕方がない。そして、お京は、自分の美しさを誇示するように、さらに、あでやかに舞いながら、金五郎へ、モールス信号のような、ながしめの電波を送った。

「久しぶりでしたのね。博多以来、お逢いしたかったのよ。まだ、大切な用件があったのに、あなたは逃げておしまいになった。でも、あたしはあきらめません。今夜、あとで、逢って下さいね。きっとよ」

お京の眼の暗号は、はっきりと、金五郎へ、そのことを伝えていた。

しかし、踊りながら、お京の頭に、奇妙なものが、ちらついていた。昼間、「女髪結い処」の看板のうえを、しきりと戯れながら飛んでいた二匹の蝶、今にも、蜘蛛の巣にかかりそうなので、危いと思って、はらはらした。そのときは、ただ、蝶の危険が気にかかっただけであったのに、今、踊っている最中のお京の胸に、黄色い蝶の方が金五郎、白い蝶の方が自分であるような幻影が、浮かんでいるのだった。

（そんなら、蜘蛛は？……）

蜘蛛は、この席に、一杯、うようよしている――お京は、そんなことを考えだすと、不意に、不安がおこって来て、手足の乱れを感じた。動悸さえ、打つ。

「おい、玉井」

大庭春吉が、金五郎の袖を引いた。

「はい」

「踊っとるあの女、二日市の武蔵温泉のときの女じゃないか」

「よく似ていますなあ。わたしも、そうかと思いました。でも、ちがうようです」

「そうかな？　どうも、あの女のような気がするが……？」

金五郎を愛している大庭春吉としては、もし、武蔵温泉の女であったならば、警戒しなくてはならぬと思っているのであった。旅先ではともかく、地元では、いろいろと困った問題が生じて来るのである。

友田喜造は、お京の<ruby><rb>艶冶</rb><rt>えんや</rt></ruby>さを、うっとりとした眼つきで眺めていたが、盃をおくと、そっと、仲居を呼んだ。

「なにごとでしょうか？」

「あの女、なんという<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>かね？」

「お京と申します」

「気に入った。今夜、頼むぞ」

「さあ、……？　お京さん、どう、いいますか？……」

「どういうも、こういうもあるか。芸者じゃないか」

それを、染奴が、眼を光らせて、聞いている。

お京の「梅にも春」が、拍手のうちに終ると、すぐ、宴になった。列席者の紹介と、仲直りの式とは、すでにすんでいたので、後は無礼講である。盃が、飛ぶように、廻る。

「これから、一芸廻しにしよう。……玉井君、なんか、やりたまえ。わしが所望じゃ」

友田喜造が、そういった。

「やります」

金五郎は気軽に立ちあがると、

「ちょっと支度を」といって、部屋を出た。

五六分ほどの後、拍子木の音とともに、舞台の幕が開いた。中央に、二人の男女、向かって左に、<ruby><rb>肩衣</rb><rt>かたぎぬ</rt></ruby>をつけ、<ruby><rb>見台</rb><rt>けんだい</rt></ruby>に両手をついて、頭を下げているのは金五郎、右に<ruby><rb>太枠</rb><rt>ふとざお</rt></ruby>の三味線を前に置き、これもお辞儀をしている、銀杏返しの女はお京。

拍子木を打っているのは、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>の胡蝶屋豆八、頓狂な黄色い声で、<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>を述べる。

「<ruby><rb>東西</rb><rt>とざい</rt></ruby>、<ruby><rb>東西</rb><rt>とうざい</rt></ruby>、このところお聞きに達しまする浄瑠璃<ruby><rb>芸題</rb><rt>げだい</rt></ruby>、「<ruby><rb>艶姿女舞衣</rb><rt>はですがたおんなまいぎぬ</rt></ruby>」、語りまする<ruby><rb>太夫</rb><rt>たゆう</rt></ruby>、玉井<ruby><rb>春昇</rb><rt>しゅんしょう</rt></ruby>、三味線お京、いよいよ、三勝半七酒屋の段、そのため口上、東西東西」

拍手。

金五郎は顔をあげ、お京は三味線を取りあげる。

一座の視線も、好奇のいろで、二人に集中しているが、その中で、友田喜造、染奴、大庭春吉、三人の<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>には、それぞれに違った複雑なものがみなぎっていた。

金五郎は、四国時代から、浄瑠璃が好きで、祭礼などで行われる素人大会には、幾度も出たことがある。「温泉座」の座員だった。若手のうちでは、語り手とされていて、師匠から、「<ruby><rb>春昇</rb><rt>しゅんしょう</rt></ruby>」という芸名まで貰っていた。戸畑にいるときも、若松に移ってからも、<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>さえあれば、稽古を怠らなかった。師匠は豊沢団助、子分たちのくれた幔幕もある。森新之助も、それにかぶれて、自分もはじめていたので、たまたま、見台や肩衣、太棹の類が、「飛鳥」にあったわけである。

友田から、一芸廻しの<ruby><rb>先登</rb><rt>トップ</rt></ruby>に指名されると、悪びれず、すぐ義太夫をやろうと思い、さらに、お京に三味線を弾かせることも考えついたのであった。

両眼を<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じ、うっすらと、微笑を顔の全体にただよわせた金五郎は、やがて、三味の音に乗って、重厚な調子で語りはじめる。

「……<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>には、<ruby><rb>園</rb><rt>その</rt></ruby>が、うき思い、かかれとてしも<ruby><rb>烏羽玉</rb><rt>うばたま</rt></ruby>の、世の味気なさ、身一つに、結ばれ、とけぬ<ruby><rb>片糸</rb><rt>かたいと</rt></ruby>の、くりかえしたる独りごと……」

染奴は、蛭子神社の境内で、お京からいわれたことを思いだしていた。お京と金五郎とが、すでに深い仲――そんなことは信じられなかったのに、今、舞台で見る二人の呼吸の一致、話しぶりや態度のなれなれしさ、そういうものを、眼のあたり見せつけられて、（やっぱり、嘘ではなかったわ）

と、思わずには居られなかった。失意と嫉妬の思いが、染奴の眼に青い燐光を燃やす。

「……今ごろは、半七ッあん、どこに、どうして、ござろうぞ……」

金五郎のもっとも得意とする<ruby><rb>件</rb><rt>くだり</rt></ruby>である。酔ったように、陶然と、語る。

幕のあいたときから、友田喜造は、鳶のような細く鋭い眼を、異様にぎらつかせていたが、いかにも<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>そうに<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めていた盃を、下に置いた。

「おうい、もう、わかった。そんな下手糞浄瑠璃、<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めれ」

と、怒鳴った。

夢中で語っている金五郎には、その言葉はよく聞えなかったので、なおも、首をふりふり、

「今さらかえらぬことながら、わしという者ないならば……」

と、語りつづけた。

「<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めちゅうたら、止めんか。味噌も、糞も、いっしょに腐るわい」

友田喜造が、また、そう叫ぶと、

「やれやれ、なかなか、うまいぞ」

と、列中から、声援する者があった。

松川源十と大川時次郎とは、友田が自分たちのオヤジを罵倒するのを、歯を食いしばる思いで聞いていたので、応援者が出て来ると、その声の方を見た。しかし、それは、聯合組の味方側からではなく、敵側と思っていた花田準造であった。花田が吉田磯吉の<ruby><rb>懐刀</rb><rt>ふところがたな</rt></ruby>と噂されていることは、日ごろから聞いている。しかし、同じ吉田幕下として、友田喜造とは兄弟分のような間柄でなければならぬ筈だ。それなのに、友田へ反対する言葉を発しているので、源十と時次郎とは、ちょっと、意外の感じをうけた。

「妙ですなあ」

と、時次郎は、首をひねって、源十を見た。しかし、広島の田舎から出て来たばかりの時次郎にくらべて、さすがに場数を踏んでいる源十には、うなずけるものがなくもなかった。

「同じ吉田一家の中でも、いろいろと、また、派があるんじゃよ。友田喜造と花田準造――きっと、なんか、こみいった<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>があるにちがわん」

時次郎の耳に口をよせて、ささやくように、そんなことをいった。

幸い、金五郎の耳には、友田の罵声も、花田の声援も、どちらもはっきり聞きとれなかった。いい気持で、眼を細めて、語りつづける。三味線を弾いているお京だけが、二人の声に眼を光らせたが、なにもいわずに、浄瑠璃に調子を合わせた。

花田準造は、でっぷりと肥った色白の身体づきで、眼の光にやわらかさがあった。昔、川舟のりをしていたとは思われない。男ぶりもよく、二枚目の役者のようでもある。しかし、吉田磯吉が、戸畑の江木弥作親分の身分であった花田を、懇請して自分の子分に貰いうけただけあって、今では吉田一家の智慧袋として、重きをなしているのであった。

花田の声援が出ると、友田は、それ以上は、止めろとはいわず、いよいよ<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>りきった不愉快そうな様子で、かたわらの染奴に、しきりと、酌をさせて、がぶ飲みした。

「……思えば思えば、この園が、去年の秋のわずらいに、いっそ死んでしもうたら、こうした難儀もあるまいもの」

そこで、金五郎が、ひとしきり泣いて、打ちどめにすると、どっと、拍手と笑い声とが起った。胡蝶屋豆八が、拍子木を打って、幕がしまる。

染奴が、友田へ盃をさしながら、妖しい微笑を浮ふべて、

「旦那、あなた、玉井さんとお京さんとのこと、御存知ですの？」

「どんなことをじゃ？」

「二人が、ええ仲ってこと」

「そんなことが、あるもんかい」

「お京姉さんに、だいぶ、御執心のようでしたけど、さあ、……ねえ……？」

友田喜造は、いくつかの傷痕の浮かび出た、どす黒いくすんだ顔に、鳶のような鋭い瞳をぎらつかせていたが、肩衣を脱いで、また、座敷にかえって来た金五郎を見ると、待っていたように、右手をあげて、呼んだ。

「おうい、玉井君、ここに、おいで。ちょっと話がある」

金五郎が前に来ると、友田は、無理に笑顔を作って、盃をさした。金五郎は、おとなしく、これを受けて、

「ほんとに、今度は、御厄介をかけました」

と、挨拶した。

「まあ、無事に仲直りがすんで、よかった。これというのも、おれたちの力よ。江崎満吉のようなうるさい男が、外の者の仲裁なら、どうして受けるもんか」

「そのとおりです。ありがとうございました」

かえされた盃を、ぐっと、一息に飲んで、

「ときに、玉井君」

「はあ」

「君は、<ruby><rb>小頭</rb><rt>こがしら</rt></ruby>の組合を作る運動を、しよるちゅう話を聞いたが、ほんとな？」

「ぜひ、作りたいと思いまして……」

「ぜひ？……ぜひ、ということはないじゃろう。この間から、君に逢うたら、いっぺん、いおうと思うとったんじゃが、……どうも、君の考えは、間違うとるようにある。この若松というところは、石炭あっての港、石炭あっての町、ちゅうぐらいのことは、君に説明するまでもないが、その石炭は、三菱とか、三井とか、貝島とか、麻生とか、そういう荷主さんの炭坑があって、はじめて、この若松港に出て来るんじゃ。いわば、おれたちは、その荷主さんのおかげで、食わせて貰うとるというても、ええ。こうやって、一杯の酒の飲めるのも、そのおかげじゃ。……玉井君、そうじゃろうが？」

「おっしゃるとおりです」

「そしたら、われわれの恩人の、その得意さんを、大切にせんならんことも、当りまえじゃないか。違うか？」

「違いません」

「そうすると、玉井君、君の組合を作る運動ちゅうのは、お得意さんに、弓を引くことになりゃせんか？」

「いいえ、弓を引くというわけでは、けっしてありません。それは、荷主さんあっての私たちということは、充分、承知して居ります。けれども、現場で、下働きをしている仲仕たちの生活が、あんまりみじめで、こんなに貧乏なのは、やっぱり、どこかに、無理がある、それは……」

「どこに、無理がある？」

「一口に、思うようにいえませんけど、結局、賃銀が安すぎると思いますのです。荷主さんと、働く者とは、持ちつ持たれつ、なるほど、荷主さんあってはじめての私たちですけれど、これを逆に申しましたら、やっぱり、私たち働く者あっての荷主さんでありますし、荷主さんだけが肥え太って、働く者が、いつも、ぴいぴいで痩せとるというのは、正しいこととは思われません。それで、組合を作って……」

「荷主さんへ、喧嘩をふっかけるというのか？」

「そんな風に、いわれますと、困りますのですが……」

「どんな風にいうたって、同じじゃないか。どうも、君はおかしいなあ。それは危険思想ちゅうもんじゃよ。君は、社会主義者と違うか？」

「とんでもない。私は、ただ、仲仕の立場として、実際の問題を考えているだけです」

「君が組合を作るちゅうのを、おれが<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めるわけにもいかんが、おれの共働組だけは、そんな義理知らずの組合なんかには、絶対、入らせんから、そのつもりで居ってくれ」

一芸廻しがつづいている。ドテラ婆さんが、例の「若松名所を知らない人に」を歌って踊ったり、江崎満吉が、浪花節をうなったり、大庭春吉が、「カッポレ」を踊ったり、無口で有名な岡部亭蔵が、しぶい声で、端唄をうたったり、花田準造が、<ruby><rb>剣舞</rb><rt>けんぶ</rt></ruby>をしたり、――一座は、三味、太鼓入りで、賑やかなので、友田喜造と玉井金五郎との話は、まわりにいる数人にしか聞えない。

森新之助だけが、すこし離れた別の列中から、気づかわしげに、全身を耳にして、二人の会話に、注意していた。

（金さんも、あまり<ruby><rb>抗</rb><rt>さから</rt></ruby>わずに、ええ加減にしとけばええのに……）

正しいと信じたことには、火が降って来ても、矢玉が飛んで来ても、避けようとしない親友の気質をよく知っていながら、新之助は、その融通のきかなさが、腹立たしくもあるのであった。なにも、わざわざ、平地に波瀾を起すようなことを、しないでもよいではないかと思う。昔、友田喜造が、江崎満吉との大喧嘩で、愛用の白鞘の日本刀が、<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>の歯のようになったうえ、飴ン棒のように曲ってしまったので、敵方の刀をぶんどって奮戦したという、豪の者であることは、伝説的にすらなっている。現在では、名の聞えた請負師として、若い頃のような無鉄砲はしないとしても、そのかわりに、子分連中に、多くの無法者を擁している。それをよく知っているので、新之助には、金五郎の奇妙な意地ッ張りが、ときには、子供らしいものにさえ思えて来ることがあるのだった。

友田の言葉に、金五郎が返事が出来ずにいると、友田は、小気味よげに、

「そら、そうと、玉井君、君は、この町に来たとき、吉田親分のところへ、挨拶に行ったな？」

「いいえ、参りません」

「どうも、君はいけんなあ。若松に、吉田磯吉親分の居ることを知らん筈はあるまいが、町長でも、警察署長でも、新任のときには、まっ先に、吉田親分に御機嫌うかがいに行くんじゃよ。まして、この港で仕事をしようという君が、一度も、挨拶に行かんちゅうのは、仁義に外れちょる。親分は、大層、君に好意を持っとるばい。それで、今夜も、出席しなさるように、自分から申し出て居られたんじゃが、夕方ごろから、持病の胃が<ruby><rb>痛</rb><rt>せ</rt></ruby>くので、失礼する、玉井によろしゅう、と、お<ruby><rb>言付</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>があったんじゃ。玉井君、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>にでも、親分のところに、顔を出して、お礼をいうときなさい」

森新之助は、金五郎が、どんな返事をするかと、はらはらしていたが、すなおに、

「そうしましょう」

といったので、安堵した。

「それから、玉井君、君、さっき、浄瑠璃を語ったとき、三味線を弾いとった女な、……お京とかいうた、……あの芸者と、ええ仲ちゅうことじゃが、ほんとな？」

「滅相もない。ただ、三味を弾いて貰うただけです」

「そうか、そんなら、ええ。おれが、今晩、抱いて寝ようと思うとったもんじゃけ、ちょっと訊いてみたんじゃ。君と鞘当てになっては、困るけのう」

友田喜造は、そういうと、女のような黄色い声で、カラスのように、けたたましく笑った。

しかし、まだ宴の終らないうちに、金五郎とお京の姿は、どこに行ったのか、「飛鳥」から、消えていた。

日が暮れてから、マンは、町に、買い物に出た。兄<ruby><rb>林助</rb><rt>りんすけ</rt></ruby>の一番上の娘の子、八歳になる<ruby><rb>光子</rb><rt>みつこ</rt></ruby>の手を引き、すこし大きな荷物になりそうだったので、「中学生」の俊次を、<ruby><rb>供</rb><rt>とも</rt></ruby>につれた。

小学校に上ったばかりの光子に、鉛筆や一厘半紙を買ってやった。<ruby><rb>玩具屋</rb><rt>おもちゃや</rt></ruby>の店先を通るとき、いかにも欲しそうな眼つきをしているので、ゴム毬も買いあたえた。

「俊ちゃんも、なにか、買うて貰いたそうな顔しとるなあ」

マンが、笑って、そういうと、俊次は、もじもじしながら、

「お<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、僕、なんにも欲しゅうはないけど、芝居を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>に、つれて行ってくれんかなあ……？」

「今から？　もう、遅いわよ」

「いンね、ちょうど、ええです。一幕だけ、「<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>ノ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>」で、結構じゃけ」

「なにが、あっとるの？」

「渡辺ノ綱、羅生門の鬼退治」

「ああ、森の新さんが、やるとかいうとった芝居、今あっとるのね」

「あの、……渡辺ノ綱が、鬼から、<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>の<ruby><rb>錣</rb><rt>しころ</rt></ruby>をグヮシと、ひっつかまれて、ドロドロドロと、天に吊るしあげられるところ、そして、その鬼の腕を、刀でちょん斬るところ――何度見ても、飽かんです」

「前に、もう見たの？」

「二度、見ました」

「まあ、そんなら、三度も見ることはないじゃないの？」

「三度でも、五度でも、毎晩でも、見たいですよ。ええですばい。……お姐さん、そうそう、お姐さんも、ぜひ見なさるがええ。渡辺ノ綱に扮する、何とかいう役者が、玉井のオヤジさんにそっくりですよ。そして、また、鬼ちゅうのが、友田喜造に、よう似ちょる」

「そんなこと、いうもんじゃないわ。今夜は、その友田さんの<ruby><rb>肝煎</rb><rt>きもい</rt></ruby>りで、江崎満吉と、仲直りの式をしとるのに……」

そうはいったけれども、マンも、一度、その芝居を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>たい気持にもなって来て、<ruby><rb>三内町</rb><rt>さんないまち</rt></ruby>の<ruby><rb>旭座</rb><rt>あさひざ</rt></ruby>の方へ、歩を運んだ。光子にも意向を聞いてみると、大よろこびで、観る方に賛成したのである。

森新之助から、招待券は来ていた。金五郎から、<ruby><rb>祝儀</rb><rt>はな</rt></ruby>もやってある。新之助が、福岡監獄に服役中、知りあいになった<ruby><rb>熊丸虎市</rb><rt>くままるとらいち</rt></ruby>と、共同で、この、関西若手歌舞伎一座の興行をやっているのだった。しかし、まだ、表面には、森新之助の名は出ていなかった。それというのが、やはり、吉田一派との<ruby><rb>軋轢</rb><rt>あつれき</rt></ruby>に原因しているのである。

マンは、<ruby><rb>木戸銭</rb><rt>きどせん</rt></ruby>を払った。一人五銭。「虎ノ間」は、最下等の立見席だ。<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>のように、張りめぐらされた木柵の外部から観るのである。この興行は、蓋をあけてから、連日、大入満員をつづけているようだった。二階や、<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>はもとより、「虎ノ間」も、ぎっしりと詰まっていて、立錐の余地もない。

「光坊、<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>な。ビビンコしてやろ」

俊次は、そういって、光子を、肩車に乗せた。しかし、客が多すぎて、どうしても、うまく観ることが出来ない。<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>や音楽が、とぎれとぎれに聞え、花やかな舞台の色どりゃ、動きが、ちらちらするばかり、なんのことやら、さっぱりわからない。

「俊ちゃん、駄目やわ。大変な人気ね。明日は仕事休みじゃけ、みんなで、揃って出なおそうよ」

「癪じゃなあ」

いくら努力しても観ることが出来ないので、とうとう、あきらめて、外に出た。

「おやッ」と、俊次が呟いた。「ありゃあ、オヤジさんじゃないか知らん？」

暗い街角を曲る金五郎と、市松模様の衣裳の芸者とが、見えたのである。

「そうらしいわね」

そういって、マンは、ちょっと立ちどまったが、二人の姿が、街角から消えると、格別、なにごともなかったような顔つきで、<ruby><rb>本町</rb><rt>ほんまち</rt></ruby>筋に出た。もう灯の消された家が多く、街は暗い。

肩車されていた光子は、眠ってしまったので、俊次が負ぶった。「井上金物商」の店先に、立ち寄った。息子の安五郎が、大戸をしめようとしていた。マンの姿を見ると、主人が、奥から、出て来た。

「これは、玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん、大層、遅いお買物で……」

「芝居小屋に入ったりして、道草食うとったもんですから。……また、三升釜を、一つ、欲しいと思いまして……」

「もう、痛みましたか？」

「いいえ、痛む分は、<ruby><rb>鋳</rb><rt>い</rt></ruby>かけで、修繕して使うとりますけど、どうしても、まだ、一つ足らんもんで……」

「御商売、繁昌で、結構ですなあ。三井物産の仕事も、おはじめになるとかで、おめでとうございます」

「これも、皆さまのおかげですわ」

「やっぱり、玉井さんが、正しい方じゃけ、<ruby><rb>福</rb><rt>ふく</rt></ruby>がついて廻るとですよ。このうち、金比羅山の花見では、とんと、玉井さんのお世話になりました」

「その節は、御叮嚀に、金物商組合から、過分な物を頂きまして……」

「なんの、ほんの志です。私たち、町の者、いつも、集まるたび、話して居ります。玉井金五郎さんのような方が、町会議員にでも出るようになったら、なんぼか、この若松も、ようなるとじゃあるまいかって」

「とんでもありませんわ。主人は、政治はきらいと、口癖のように、いうとります」

「そんな、議員には自分で出たがらん人が、出て貰わんといけませんです。なんとも知れん、爪弾きされとるのが、ちょっと金があるばっかりに、出しゃばって、町会議員に打って出るのは、困りものですよ。おたくの御主人のような方に、ぜひ、政界に乗りだして欲しいですなあ」

「きっと、いやがるでしょうよ」

そんな会話を、大戸に手をかけたまま聞いている青年、井上安五郎の、金魚のように大きな澄んだ瞳が、決意に似た、なにかをきらめかせて、強い光を放っていた。

――政治。

――政治家。

そうして、庶民の生活を圧迫し、政治を毒する社会悪への怒り、その一掃――それは、すでに、この青年の青春の唯一の方向となっていた。

（玉井金五郎という人と、一度、逢って、ゆっくり、話がしてみたい）

その思いも、強くなりつつあった。

三升釜を買ったので、これを俊次が持ち、光子は、マンが負ぶった。

停車場の方角へ歩いた。「ステンショ」だけには、早くから、電燈が引かれていた。まだ、終列車まで、いくつかあるとみえ、暗い夜の中に、その一角だけ、<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と、光を発散している。汽笛や、石炭貨車を連結したり、離したりするかんだかい金属音が、鉄道構内から、しきりに、ひびく。

「おうい、おマンじゃないか」

後から呼ばれた。林助が、ほろ酔いで、近づいて来た。にやにやしながら、

「おマン、さっき、<ruby><rb>老松町</rb><rt>おいまつちょう</rt></ruby>の角で、金さんに逢うたがなあ、<ruby><rb>別嬢</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>の芸者と、二人づれじゃったど」

マンは、けろりとした顔で、「あたしも、逢うたわ」

「へえエ、……それで？」

「それで、というのは？」

「わからんなあ」

「わからんのは、こっちよ。兄さん、なにをいおうとしなさっとるの？」

「焼き餅、焼かんのけえ？」

「なんで？」

「亭主が、若い美人の芸者と仲ようしとるのが、お前、なんともないのか？」

「なんともないわ」

「お前、前に――女房以外に、女を作るような亭主は、承知でけん。……って、口癖のように、いうとったじゃないか」

「なに、いうてなさるの？　そんな狭い料簡じゃけ、兄さん、いつまでも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うだつ</span>が上らんのよ。あたしのその考え、今でも同じよ。変っては居らんわ。でも、うちの人が別に、あたし以外に女を作ったわけでもなんでもないじゃないの。芸者と二人で歩いたって、それが、なによ。男商売は、<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>が大切よ。そうすれば、料理屋に行くことだって、遊廓に流れこむことだってあるわ。それを、いちいち、いい立てたり、女と一緒にいたくらいで、神経を尖らしたりしとったら、仕事師の女房は勤まらんわよ。あたし、うちの人、信用しとるけん、どんな女の渦の中に居っても、大丈夫。あたし以外に、女作ることなんて、絶対にない」

「金さんが惚れんでも、女の方から惚れたら、どうする？　だいぶん、惚れ手が多いちゅう話じゃが……」

「おお、うれし。そんなに、女から惚れられる亭主を持って、<ruby><rb>幸福</rb><rt>しやわせ</rt></ruby>やわ。女から、<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>も引っかけられんような男が、どうなるものですか。……ウフフ、兄さんたら、自分が女から惚れられたことないもんで、自分が焼き餅焼いとるのね。きっと、そうよ」

「ふウン、見あげたもんじゃのう。うちのチエとお前とを、つきまぜたら、ちょうど、ええな。女房の奴、もう、子供が五人も出来とるとに、まだ、くだらん<ruby><rb>悋気</rb><rt>りんき</rt></ruby>ばかりして困る。お前は、いつも、おれがチヱを苛めるようにばっかりいうけんど、あいつが、根も葉もないことに、焼き餅焼くもんじゃけ、いつでも、大喧嘩になるんじゃ。金さんが羨しいわい」

三年前、門司の浜尾組時代には、谷口林助の方が、玉井金五郎よりは、はるかに先輩であった。そして、新米の金五郎からぐんぐん追い抜かれるのを、<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましい感情で眺めながら、妹のマンに、金五郎の悪口をいったこともあるのだが、今は、その金五郎とは義兄弟となり、幕下となっている。しかし、それは自分に力がないとあきらめて、妹婿に仕える気持ではいるけれども、やはり、なにかと、反撥するものが出て来ることはおさえがたいのだった。

新仲町へ曲り、しばらく黙って歩いた。玉井家の灯が見えてから、

「おマン、広島のお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんが、<ruby><rb>大怪我</rb><rt>おおけが</rt></ruby>をしたちゅうで」

おどろいて、

「どんな？」

「簡単な手紙で、はっきりとはわからんがな、なんでも、薪割りをしよって、<ruby><rb>欠片</rb><rt>かけら</rt></ruby>が顔に飛んだらしい。それが眼に入って、<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>になるかも知れん、と書いてあった。それにびっくりして、お<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんも寝こんでしもうとるげな」

「あたし、一度、広島へ帰って来ようか知らん？」

俄かに、はげしい郷愁が、矢も楯もたまらぬもののように、マンの全身を焼いた。

  


## 死生

<ruby><rb>旗亭</rb><rt>きてい</rt></ruby>「<ruby><rb>緑屋</rb><rt>みどりや</rt></ruby>」の二階から、夜の海が見える。そのあたりは、<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>の入口だ。港口にある中ノ島には鬱蒼たる森林と、聳え立つ骸炭工場の高い煙突とが、月光に照らしだされている。対岸の戸畑は、霞んで見えない。

この中ノ島は、<ruby><rb>河￼島</rb><rt>かわとじま</rt></ruby>という別名があって、昔は、筑前藩、黒田二十五騎の一人である<ruby><rb>三宅若狭守家義</rb><rt>みやけわかさのかみいえよし</rt></ruby>の守っていた若松城があったが、今は城址は石ころだけとなり、そこへ、コークス工場が出来たのであった。工場には、「河￼の異人さん」と呼ばれた、エエ・メイ・コイという、月給を日本貨幣で二百五十円も取った、フランス人技師がいたけれども、今はもういない。

島の黒い大樹が、風に鳴っているのが、海をへだてて聞える。

それに、耳をかたむけながら、お京は、吐息をつくようないいかたで、

「<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>の日を、どんなに待っていたか知れないわ」

と、金五郎へ、しなだれかかった。

「お京さんも、根性が悪いなあ。そんなに、前から、新公のところへ来とることなんて、まるで、知らんかったよ」

「博多から逃げだして、うまく、あたしとは縁が切れたつもりでいらしたのでしょう？　ウフフ、金五郎さんて、女の一念というものを、御存知ないのね」

「あのとき、すまんとは思うたんじゃけど、どうにも、ああするしか、仕方がなかったもんじゃから……でも、いつも気にかかっとった。<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>を彫って貰うた代金もあげとらんし、博多の宿賃も、そのままにしてしもうて……」

「野暮なこと、いいっこなしよ。<ruby><rb>銭金</rb><rt>ぜにかね</rt></ruby>で、あたしがやったと思っていなさるの？」

「でもあんまり……」

「もう、いいの、昔のこと。あたしが、若松に来たのも、たった一つ、金五郎さんに逢いたいためだったし、こうやって思いがかなえられたら、以前のことなんて、どうだっていいわ。……ねえ、金五郎さん、わたしの思いをかなえさせて、頂戴」

二人のいる四畳半には、小さな<ruby><rb>餉台</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>が一つ置いてあるきり、仲居も、簡単な酒肴を運ぶと、気をきかせて、後はよりつかない。窓は明けてあるが、前方は夜の海と島とで、どこからも見られる恐れはなかった。

この一夜のために、深謀遠慮、長期作戦を立てて、隠忍自重して来たお京の張りのある眼は、一層張って、絶対に、目的を達しなければ置かぬという、切なくはげしいものが、みなぎり燃えている。それは、一種、殺気にも似たもので、お京の艶麗な全身から立ちのぼる、妖しい攻撃精神は、今は気ちがいじみたものまでもまじえているようだった。着物の市松模様にさえ、嘗て、<ruby><rb>安珍</rb><rt>あんちん</rt></ruby>を追った<ruby><rb>清姫</rb><rt>きよひめ</rt></ruby>の鬼気がただよっている感さえあった。

金五郎は、すっかり、堅くなって、

「お京さん」

「あい」

「すみません」

「なに、謝るの？」

「わたしを、帰して下さい」

「用がすんだら、何時でも。金五郎さん、あたしの一生の願い、かなえて頂戴。約束して頂戴。なんどもいうけど、銭金じゃないのよ。あたしの一念なの」

金五郎は、いよいよ、当惑した顔つきで、尻込みし、

「お京さん、あんたの気持はうれしいんじゃけど、どうも、……なあ」

「どうも――どうって、いうの？」

「あんたと、変な仲になるちゅうことは、ちょっと、なあ……」

「アッハッハッハッ」

と、お京は、男のように、笑いだした。それは、しかし、ほんとうに、おかしいのやら、腹立たしいのやら、すて鉢なのやら、自嘲なのやら、よくわからない。お京自身も、<ruby><rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>ない胸のうちをおさえかねながらも、持ちまえの負けじ魂で、いたずらに、男の膝下に<ruby><rb>叩頭</rb><rt>こうとう</rt></ruby>することは、きらいであった。けたたましく笑うことによって、なにかをごまかし、心機一転を装うのが、精一杯といってよかった。

突然、<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>されて、呆気に取られている金五郎を、あわれむ<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で眺めながら、

「おどろいた。金五郎さんて、思いのほかに、うぬぼれ屋だわ。変な仲になる――なんて、アッハッハッハッ、……あたしが、あなたに惚れてると思ってるのね。惚れて、若松まで追っかけて来て、可愛がって貰おう、と考えて、こうやって、お願いしてると思ってるのね。勘ちがいしないでよ」

「そんなら、お京さんの一生の願い、女の一念というのは、なんじゃね？」

「<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>よ」

「彫青？」

と、<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>がえしをして、お京の顔を、あらためて、見なおした。

「わかってるじゃないの。武蔵温泉で逢ったとき、ちゃんと、わたしに約束した癖して。……左腕に、昇り龍、右腕に、降り龍――あたしが彫るのなら、両腕に、一対、ぜひ頼みたいって。……そうでしょう？　金五郎さんも男なら、いったん約束したことは、忘れはしないでしょ？　あたしだって、すこしは知られた<ruby><rb>彫青師</rb><rt>ほりものし</rt></ruby>さ。うるさい関東の渡世人たちの間で、腕だけではなくて、気ッぷで、通って来た「<ruby><rb>蝶々牡丹</rb><rt>ちょうちょうぼたん</rt></ruby>のお京」よ。山ほど、銭金を積まれたって、いやだと思ったら、どんな<ruby><rb>貸元</rb><rt>かしもと</rt></ruby>にだって、桃ひとつ、彫りゃしないわ。それが、金五郎さんの美しい肌に惚れこんで、……まちがわないでね。あなたにではなくて、あなたの身体に惚れたのさ。……銭金、損得抜きで、あたしが、こんなに打ちこむなんて、これまで、一度もなかったことよ。……金五郎さん、わかる？」

「うウン、わかったような、わからんような気持じゃが……」

「金五郎さん、お願い」と、また、お京は、蓮ッ葉な伝法調から、哀願する態度になって、

「ね、あたしに、右腕に、降り龍を彫らせて。もう、彫ってやるなんて、威張らないわ。あなたが、左腕だけで、博多から逃げてしまったときから、あたしは、病気になったのよ。<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>になるかも知れないわ。夢にまで見て、うなされるの。どんなことがあっても、あなたの右腕に、降り龍を彫りたい――<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>きもののしたような、命がけの願い。女の一念。……金五郎さん、あたしのこの気持、わかって」

「わからんこともないが……」

「あなただって、片方だけの<ruby><rb>半端</rb><rt>はんぱ</rt></ruby>じゃあ、ほんとの男の紋章とは思わないでしょう。あたし、金五郎さんが、立派な男で、約束を守る人だということを、信用するわ。武蔵温泉での約束、果して下さること、疑わないわ」

「弱ったなあ……」

「金五郎さん、彫青、もう一度、見せて」

仕方なしに、左腕をまくると、

「ああ、美しいわ」

お京は、我慢が出来ないように、金五郎の腕を両手でにぎり、龍の首のところに頬ずりをした。唇をつけて、青い絵具を舐めるかのように、彫青の部分を吸った。銀杏返しの髪のほつれ毛が、金五郎の顔に当る。

金五郎は<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったく、変な気持になって来たが、お京を怒らせたくはなかったので、なすがままに、まかせていた。

「そっちの腕、見せて」

まっ白い左腕をさすりながら、火山のような大きな吐息をつき、

「この腕を、このままで置いとくなんて。ああ、金五郎さんがいやというなら、殺してでも、この腕に、降り龍を彫りたいわ」

「お京さん」

「あい」

「そうしておくれ」

「どうするの？」

「殺してから、彫ってくれんか。生きとる間は、どうもなあ……」

「どうして？」

「うちの女房が、あんまり、彫青なんか、好きでないんじゃよ」

その言葉に、さすがに、お京はぎくッとしたようだったが、すぐに、投げやりの伝法になって、

「ヘエン、金五郎さんて、おかみさんに頭が上らないの？　オンテレ・メンピンだったの？　そうか。それでわかったわ。博多から逃げだしたのも、おかみさんが<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>かったのね。あなたのおかみさんのこと、……おマンさんとかいう名の、……いつも、うちの大将やお姐さんから聞かされてたわ。大変なしっかり者って、いうじゃないの。女のしっかり者が、ほんとうは困り者さ。彫青がきらいだなんて、そんなことじゃあ、折角男になる亭主を、殺すようなものじゃないか。女房の<ruby><rb>顔色</rb><rt>かおいろ</rt></ruby>見てなんかいたら、男になって売り出すことは出来はしないわよ。金五郎さん、しっかりおしよ」

そんな憎まれ口をたたきながら、お京は、妙なものが頭の中をちらつくのに、弱っていた。「女髪結い処」で見た二匹の蝶、それを、さっき、「飛鳥」の舞台で踊るときには、金五郎と自分とにたとえてみたのに、今、その二匹は、夫婦で、黄色い方がマン、そして、それを狙っている蜘蛛が、自分――そんな、いやな幻影が湧いているのだった。

金五郎の方は、左腕の彫青を眺めなおしながら、

（この龍が、<ruby><rb>前肢</rb><rt>まえあし</rt></ruby>につかんでいる菊の花束、それが、マンであることを、お京は知らん）

そう思って、秘密の持つ、なんとなしの楽しさに浸っていた。

「金五郎さん」

「あん？」

「どうしても、いや？」

「女房に、相談してみる」

「馬鹿」

金五郎は、立ちあがった。

「帰るの？」

「うん」

「帰すもんかね。もし、金五郎さんが、彫青の約束を守らないなら、街中、いいふらしてやるわ。――玉井金五郎、って、このごろ売りだしかけてるけど、あれは、ほんとうは、嘘つきの、卑怯者の、男らしくない三ン下奴だ。……って」

「仕方ないよ」

「金五郎さん、待って。……そんなこというなら、殺してやる、殺して、彫青してやる」

お京は、金五郎に<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>りかかった。

マンは、台所に、提灯を<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>した。「井上金物商」から買って来た新しい鉄の三升釜を、井戸端で、洗って、磨いた。湯をわかして置き、糠を<ruby><rb>藁</rb><rt>ぬかわら</rt></ruby>タワシで、ゴシゴシ、こすりつけると、きれいに、垢と錆とが落ちる。

猫が、マンの手つきを、ものうげな眼つきで、眺めている。

柱時計が、チン、チン、チンと、鳴りはじめた。手を休めて数えると、十一、打った。二階で、将棋をさしたり、花札を繰ったり、酒を飲んだりして、賑やかに騒いでいた子分連中も、いつか、静かになっている。

（もう、帰る時分やわ）

と、思っていると、表の格子戸が、開く音がした。

「ただ今」

「六ゾロの源」の声である。しかし、いつもとちがって、その声には元気がない。

マンは、弓張提灯を持って、玄関に出た。源十と時次郎。あまり酔ってもいず、妙に遠慮勝ちな様子で、もじもじしている。提灯の光を、まぶしそうにする。

「御苦労さん、無事にすんだのね。……さあ、おあがり。お酒の燗が、つけてありますよ」

「もう、沢山。向こうで、いやというほど、よばれて来たけ」

「そんなことでは、<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>の源さんが酔うとるとは、いえんじゃろ？　口なおしに、時やんと、一杯、やんなさいよ。肴に、イイダコが買うてあるわ」

「いんや、もう、寝る。きつい。くたぶれた」

「時やんも？」

「うん」

二人は、しめしあわせて来たかのように、こそこそと、しかし、大急ぎで、二階に上ってしまった。二人は、帰って来たとき、マンから、「オヤジと一緒じゃなかったの？」と<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねられることが一番怖かったのであるが、当然あると予期したその質問がなかったので、やれやれ、と思ったのであった。二人は、金五郎とお京とが、ひどく仲よくしていて、いつの間にか、「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」から見えなくなったことを、マンに、話したくなかったのである。

（変やわ）

マンは、嘗てない二人の態度を、ちょっと、不審に思った。金五郎と芸者とが、街を歩いていた姿は、自分も見かけたし、兄林助からも聞かされていたので、源十と時次郎とが、金五郎と一緒でなかったことは別に不思議には思わなかったけれども、子分たちの、奇妙に、秘密めかした、マンを憚っているような、意味ありげな様子が、気にかかった。小首を傾け、眉をよせた。

兄林助には、大言壮語したけれども、そこは、マンも、女である。俄かに、胸中に、妬情めいた、疑心暗鬼が生じた。

それでも、マンが、なお、台所で、三升釜を磨く仕事をつづけていると、玄関の格子戸が開いた。

「おごめん」

出て見ると、若い<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>ひきが立っている。

「これを、「飛鳥」の<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さんが、あなたに渡して下さい、って」

一通の手紙である。

駄賃をやって、使いをかえすと、マンは、それを台所に持って来て、開封した。

読んで行くマンの顔色が、みるみる、変った。眼が、狐のように、吊りあがる。

たどたどしい女文字の片仮名文章は、

「オマンサン、コンナコト、アナタニ知ラセタクハ、ナイノダケレド、ヨクヨクノコトト、承知ノ上、読ンデ下サイ」

と、始まる。

「困ツタコトガ出来マシタ。仲ナオリノ式ハ、無事ニ終ツタノニ、女ノ事デ、オタクノ金五郎サント、友田喜造親分ト、ソシテ、ワタシタチノ間ニ、悪イイキサツガ出来テシマツタノデス。

今夜、ワタシトコノカカエ芸者ノオ京サンヲ、友田サンガ、世話セヨ、トイウ話ガアツタ。タイヘン熱心デシタ。トコロガ、オ京サンハ、前カラ、金五郎サント出来テイテ、ドウシテモ、ウン、トイイマセン。金五郎サンモ、自分ノ女ヲ、友田サンニ取ラレルノハイヤトミエテ、宴会ノ途中カラ、二人トモ、ドコカニ行ツテシマイマシタ。

オマンサン、

アナタハ、金五郎サントオ京サントノ事、ナニモ知ラナイデシヨウ。アタシモ、コンナ事、アナタニ知ラセタクナイノデスガ、ドウシテモ、コノ問題ハ、アナタニ解決シテモラウシカ、手ダテガナイト考エタノデ、急ギ、コノ手紙書クノデス。

手紙デハナク、新サンカ、ワタシカガ、出カケナクテハナラナイノデスケド、マダ宴会ハスンデ居ランシ、後始末モアルノデ、手紙デ、許シテ下サイ。

オマンサン、

新サンモ、ワタシモ、アナタタチ夫婦ノ、昔カラノ事ヲヨク知ツテ居ルノデ、金五郎サンニ、女ナドハ作ラセナイ様、ズイブント骨折ツテ来マシタ。シカシ、色恋ノ道ハ別トハ、ヨウ、イウタモノ、金五郎サンハ、前カラ、オ京サントハ深イ仲ダツタラシクテ、ワタシタチノ忠告ナド、耳ニモ入レヨウトシマセンデシタ。

新サンモ、ワタシモ、イツモ、オ京サンニ向カツテ、<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>グセニ、

――玉井サント切レテクレ。オマンサンニスマンカラ。

ト、イウテ居ツタノデスガ、オ京サンモ、イランオ世話様トイウ、タイ度デシタ。

ソレデモ、二人ダケノ事ナラ、マダ善カツタノデスガ、今度ノ様ナ事ニナルト、困ツテシマイマス。相手ガ、今度ノ喧嘩ノ仲裁役デ、若松切ツテノ顔役、吉田一家ノ一ノ子分トイウ事ニナルト、ワタシタチニ振リカカル災難ガ、思イヤラレマス。

友田親分ハ、金五郎サント、オ京サントガ、二人デ、ドコカニ行ツタ事ヲ知ルト、カンカンニ怒ツテ、ウチノニ、コウイウノデス。

――森君、君ハオレノ顔ニ、ヨクモ、泥ヲ塗ツタナ。オレガ、オ京ヲ今晩世話シロ、ト、アレホド申シコンデオイタノヲ、知ツテ居ルクセニ、玉井トオ京トヲ、逃ガシテシモウタ。今度ノ喧嘩ノ仲裁シタ恩ヲ、仇デ返ストハ、ドウイウ考エジヤ。

――イイエ、ワタシハ何モ知リマセン。

新サンハ、ビックリシテ、ベン解シマシタケレドモ、友田サンハ聞キマセン。ソレデモ、

――マア、今夜ハ、ガマンシテヤル。明日ノ晩、オ京ヲ世話セナンダラ、考エガアル。

ソウイウテ、帰リマシタ。

オマンサン、

金五郎サント、オ京サントヲ切リハナスニハ、モウ、アナタノ力ヲ借ル外、ナイノデス。アナタノイウ事ナラ、金五郎サンモ、キット、聞クデシヨウ。オ京サント別レサセテ下サイ。頼ミマス。オ願イシマス」

マンは、まるで噴火山のようである。

<ruby><rb>君香</rb><rt>きみか</rt></ruby>の手紙を読み終えるまで、青くなったり、赤くなったり、眼を白黒させたり、息を蒸気のように吹きだしたり、肩を大波打たせたり、幾度か、眼まいをおぼえて倒れそうになったりした。

手紙を、帯の間につっこみ、また、ゴシゴシと、三升釜を磨いた。腹が立つことがあると、一層、やたらに仕事がしたくなるのは、マンの癖であったが、今や、嫉妬の鬼と化したマンの、総身の力をこめた手で、釜は、ピカピカと、美しく磨きだされた。

（畜生）

はげしい怒りに燃えながら、ぽろぽろと、涙が流れた。

（あたしを、<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>すなんて……）

町で見た金五郎と、市松模様の芸者との姿が、マンの人のよさと愚かさとを嘲笑うように、空間に、ぽっかりと浮かぶ。それを打ち消すように、マンは、眼をつぶって、はげしく頭を振り、ぎりぎりと、歯がみした。

（どうして、やろうか？）

夫を信じきっていただけに、反動が大きかった。

深夜に近くなって、あたりは森閑としている。釜を洗いはじめるころまで、裏の病院から、重病人の呻き声が、東風に乗って聞えていたが、ひとしきり廊下を走る音、がやがやとざわめく声がしたと思うと、静かになった。死んだのかも知れない。

猫が、<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>の上で、眠っている。

マンは、釜をきれいに洗って拭き、台所の一角にある、「<ruby><rb>荒神様</rb><rt>こうじんさま</rt></ruby>」の神棚に供えた。<ruby><rb>菜種油</rb><rt>なたねあぶら</rt></ruby>の入っている<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>に、<ruby><rb>燈心</rb><rt>とうしん</rt></ruby>をかきたてて、マッチで、火をつけた。

静かに、合掌し、<ruby><rb>柏手</rb><rt>かしわで</rt></ruby>を打った。その手の音が、しいんとした家の中に、不気味に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こだま</span>する。猫が、ちょっと眼をさましたが、すぐに、また、ものうげに、眠ってしまった。

マンは、奥座敷に入った。

（どうせ、今夜は、帰って来ないに定まっとるわ）

そう思ったけれども、とり乱して、金五郎とお京のいるところを、探しに出かける気持はなかった。

いつか、時次郎とマンとが、二人いるところへ、旅先から帰って来た金五郎が、突然、あらわれ、

「間男、見つけたぞ。<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち斬ってくれる。二人とも、そこへ、坐れ」

と、怒鳴ったことが、思い出された。

（ふン、人のことどころか、こっちが、重ねておいて、四つに、打ち斬ってやろうか）

マンは、助広の短刀の在り場所などを考え、憎々しげに、心中で、そんなことを呟いてみた。しかし、その<ruby><rb>強気</rb><rt>つよき</rt></ruby>にもかかわらず、天地のくずれ落ちる中へ、ぐんぐん、吸いこまれてゆくような、いいようもない<ruby><rb>寂寥</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>と、孤独感とが、全身を包んでいた。涙が、とめどもないように、後から、後から、湧きあがって来る。

その癖、

「ヘン、男は、あんた一人か」

そんな不貞腐れた言葉を、蓮っ葉に呟きながら、しきりと、荷物ごしらえをした。

桐箪笥から、数枚の着物、肌襦袢、腰巻の類をとりだして、風呂敷に包んだ。激情の果てのためであろうか。いつになく、腹の子供がひどく動く気配を、しきりに感じる。

（こんな子供まで、生まれようというのに……）

そう思うと、さらに、新しい涙が流れた。

旅支度を整えると、蒲団をしいて、もぐりこんだ。いつもは、二つならべる枕を、自分のだけにした。ひと寝入りした後、子分たちの朝御飯を作ってから、早朝、出発するつもりだった。

しかし、なかなか、眠ることが出来ないでいると、十二時を打ってから、表の格子戸を、たたく音がした。金五郎らしい。

「マン、開けてくれ」

と、怒鳴っている。

若松に住みついてから、これまで、金五郎は、まだ、家をあけたことがない。したがって、締めだされたこともない。<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>で、どんなに遅くなっても、かならず帰って来た。マンも、一時が打っても、二時が打っても、表を掛けずに、待つのが習慣になっていた。

しかし、今夜は、十二時前に、戸じまりをしたのである。

「こらあ、どうして、締めるか。……開けんかあ」

がたがたと、格子戸を鳴らしながら、金五郎は、不服らしげに、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いている。

マンは、蒲団の中で、息を殺していた。誰かが梯子段を鳴らして、二階から、降りて行くようである。畳を踏む足音が、玄関の方に出て、

「オヤジさんですか？」

時次郎だった。

「おれじゃよ」

「今、開けます」

内から掛けた鍵がはずされると、はげしく、格子戸が開いた。投げつける語調で、

「帰ることがわかっとるのに、<ruby><rb>何故</rb><rt>なし</rt></ruby>、掛けるか？　マンは、居らんとか？」

「居ります」

「鍵は、誰が掛けたとかい？」

「<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんが掛けました」

「馬鹿にしとる」

金五郎にしてみれば、若干の秘密があったにしたところで、女の誘惑を蹴とばして、帰って来たのである。お京へ心を惹かれた点は、マンにすまぬ、と思うけれども、最後の線では、マンへ貞節を通している。女房から、感謝されてもよい、と、考える。といって、別に褒められたい気持もないのだが、締めだされたりすると、

（おれのような亭主が、どこにあるか？）

そんな反撥心が、湧いて来るのだった。

請負師仲間では、女道楽、女郎買い、芸者買い、メカケ狂い、二号、三号、四号、の設置、等は、日常茶飯事となっている。女を多く作るだけ、甲斐性のようにも、いわれる。まして、「据え膳食わぬは、男の恥」、女の方から持ちかけられて、白旗をかかげる者は、笑い者になるほどだった。

それでも、金五郎は、そんな通俗に流れまいと考えて、これまでもやって来たし、今夜とて、美しい桃色の虎口を脱して来たわけである。それだけに、締めだされたことが、奇妙に、腹が立った。酒の酔いも、手つだっていた。

「時やん、もう、寝れ」

そういって、大川時次郎を、二階に追いあげておいてから、寝室に、殺到した。

真暗ではあるが、勝手はわかっている。無言で、着物を脱ぎすて、マンの寝ている蒲団に、もぐりこもうとした。

ところが、マンは、まるで、<ruby><rb>蓑虫</rb><rt>みのむし</rt></ruby>のように、身体を、堅く、掛け蒲団で包んでいる。しっかりと、両手で巻いていて、金五郎を寄せつけない。

「なにしちょるか？」

「あんたこそ、なにをしとんなさるの？」

「蒲団を、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>けんか？」

「ああ、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>くさい。けがらわしいわ。用があるなら、お京さんところに、行ってしなさい」

「貴様、……そんなこというなら、強姦してやる」

腹の立つのと、おどけるのと両方で、笑いながら、金五郎は、マンへ挑みかかった。力ずくになると、マンは、かなわない。はげしく抵抗したが、蒲団をめくられてしまった。

しかし、次の瞬間には、マンの上にかぶさった金五郎が、「ア、タタタ、……ツ」と、異様な<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声を発して、顔を大根葉色に青ざめさせると、ぐったりと、投げだされていた。

マンは、はね起きた。両手と、尻餅とを、べったり、畳のうえについて、一つ、巨大なため息をした。がっかりとなった。動悸が、止まらない。

金五郎は、暗黒の中に、だらしなく、伸びている。苦しげに、うごめきながら、虫の息であったが、それも聞えなくなった。あたりは、急に、しいんとなった。

マンは、そっと、夫の胸に、耳を持って行った。それから、立ちあがると、台所に行った。神棚の燈心から、蝋燭に火をうつして、「玉井組」の弓張提灯に立てた。

座敷に来た。鏡台の前で、身支度をととのえた。旅の準備は、先刻、完了している。風呂敷包みを、玄関口に出しておいてから、右手に提灯、左手に、<ruby><rb>鉄瓶</rb><rt>てつびん</rt></ruby>を持って、寝室に入った。

渚に打ちあげられたマグロのような恰好で、ころがっている夫に、蒲団を着せかけた。それから、鉄瓶の水を口にふくんだが、ひきつったように、青ざめている夫の顔を見ると、ふいにたらたらと、涙が流れ落ちた。

「ぷウッ、ぷウッ」

と、二度、顔に、水をふきかけた。

金五郎の顔の筋肉が、びくついて、息をふきかえす気配がわかると、あわてて、寝室の外に飛びだした。

階段のところへ行き、五六段、登ってから、

「時やん、時やん」

と、声をかけた。

一睡もせず、下の様子に気を配っていた大川時次郎は、這い出て来て、踊り場に、緊張で歪んだ顔をのぞかせた。

「なんけえ？」

「うちの人が、気分が悪いと、いいよる。あたしは、街の薬屋に<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>ッ走り、行って来るけ、あんた、しばらく、介抱しといて」

「薬なら、おれが買うて来るよ。あんたが、居った方が、ええ」

「時やんでは、わからん。そんなら、頼んだばい」

マンは、せかせかと、玄関に出た。風呂敷包みを抱きとると、格子を開け、深夜の戸外に飛びだした。戸をしめるとき、なんとなし、家の中全体を見まわした。きゅうと、胸が、ワイヤの<ruby><rb>箍</rb><rt>たが</rt></ruby>ででも、締めつけられるようである。

提灯の明かりを頼りに、静まりかえった新仲町を抜けた。夜気が冷たい。天には、星が一杯、火の粉のように、頭のうえに振りかかる近さできらめき、マンの行く手で、つづけさまに、二つ、星が流れた。マンは、その流星に、ひやりとしたものを感じた。足のすくむ思いがした。

「永田清涼飲料水製造所」の白い看板が、夜闇に、ぼんやりと、浮きあがっている。

「今晩は」

戸をたたくと、すぐに、ヨネが顔を出した。永田杢次も、出て来た。まだ、起きて、誰かと碁を打っていたらしい。

「おマンじゃないか。今ごろ、<ruby><rb>他所行</rb><rt>よそいき</rt></ruby>支度で、どげえしたとな？」

「広島のお父さんと、お母さんとが、どっちも悪いという知らせがありましたけ、これから、ちょっと、田舎に、帰って来ます」

「また、急なことじゃなあ。今からちゅうたって、汽車があるまい？」

「いいえ、終列車に、ちょうど、間に合います。……それじゃあ、どうぞ、留守を、よろしゅう……」

永田夫婦が、見舞と餞別とをやるつもりで、声をかけたが、マンは、逃げるように、深夜の奥に、去ってしまった。

時次郎は、マンが出て行くと、ランプを持って、階段を降りた。

源十や、二三の者も眼をさましていて、一緒に行こうとしかけたが、押しとどめた。子分連中は、<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>の中で、気づかわしげな顔を突きあわせている。

わざと、足音を高くして、寝室に近づいた。

「オヤジさん」

と、呼んでみた。

返事はなく、かすかな呻き声が聞える。

時次郎が入ると、ランプの明かりで、朦朧とした意識を呼びさまされたものか、引っくりかえっていた金五郎は、顔を、光の方へねじ向けた。青ざめた顔が、一杯に、水で濡れている。

うっすらと、眼をあけて、

「マンか？」

「大川です」

「時やんか？……咽喉が、乾いてたまらん。ラムネをくれ」

「ちょっと、待って下さい。貰うて来ますけ」

時次郎は、襖をしめて、部屋を出た。二階の踊り場のところにかたまって、下をのぞいている源十たちに、

「もう心配なことはないけ、寝なさい」そういいおいて、玄関から、表に出た。

深夜の町を、永田ラムネ屋へ、急ぎながら、

（どんなむずかしい仕事でも、暴力団でも、なぐりこみでも、火でも、矢玉でも、怖れたことのない、そして、負けたことのない玉井金五郎が、女房から、やられてしまった）

それを考えると、おかしくてならなかった。

大川時次郎の頭に、故郷での昔の出来事が浮かぶ。――専売局の役人が、狐に化かされたことである。横柄で、弱い者いじめを専門にしていた、好色漢の「鬼」が、或る日の夕暮どき、<ruby><rb>七瀬</rb><rt>ななせ</rt></ruby>の水車小屋の中で、倒れていた。<ruby><rb>高門</rb><rt>たかかど</rt></ruby>の<ruby><rb>武十</rb><rt>ぶじゅう</rt></ruby>旦那が、虫の息で、這いだして来る「鬼」に出逢った。それから、村中の大評判になった。しかし、それは、実際は、狐に化かされたのではなくして、マンを手ごめにしようとして、遭難したものだ、という真相は、いつか、誰からも、知られるようになっていた。

父親の谷口善助も、それを知ってからは、

「村の娘ッ子どもも、おらがのマン坊に見ならえ」

などと、自慢する始末だった。

その、父から伝授された、「女の護身法」を、マンが、夫に対して、用いたのである。

（はげしい女じゃ）

時次郎は、おかしい気持が薄らぐと、マンが、怖くなって来た。マンを慕い、マンを嫁にしたい一心で、故郷を飛びだして来たのだが、もし、夫婦になったとしても、到底、マンが、自分の手に負える女ではない、と考えられるのである。

しかしながら、そう思う一面、

（ひょっとしたら、今度の事件で、マン坊は、玉井金五郎と別れる。そうしたら、おれと夫婦になれるかも知れん……？）

その、胸のどきつく美しい邪念は、執拗に、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>に、時次郎の胸の奥底に、くすぶっているのであった。

永田から貰って来たラムネを、おいしそうに、二本、つづけさまに、飲んだ金五郎は、ぐったりとなったように、眠ってしまった。

一時が、打った。

薬を買いに行くといって出たマンは、そのまま、朝まで、帰らなかった。

翌朝になると、大騒動である。家事万端が、子分連中の分業になる。

「将棋と料理なら、おれにまかしちょけ」

「ノロ甚」は、そんなことをいって、生来の緩慢な動作で、味噌汁を作り、大根おろしをこしらえた。飯炊きの役の源十が、<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>に薪をくべ、道具番の清七は、七輪をおこして、<ruby><rb>目刺</rb><rt>めざし</rt></ruby>を焼く。「中学生」の俊次は、水汲み専門、流し元で、皿や茶碗を洗う。

時次郎は、<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>を持って、家の中を掃く。

雨戸をめくっているのは、二十五になる、力自慢の城三次。

外の掃除をしているのは、「カマキリ」という綽名の、背のひょろ高い新谷勝太郎。二十七歳。

<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>がけは、<ruby><rb>伝馬番</rb><rt>てんまばん</rt></ruby>の松本重雄。三十一歳。

竈の前にしゃがみ、くすぶる煙に、ぼろぼろ、涙を流しながら、火吹き竹を吹いている「六ゾロの源」は、大根をすっている「ノロ甚」に、話しかける。

「おい、甚公、あきれたのう」

「なにがや？」

「今、おれたちが、八人でやっとる仕事を、毎朝、姐さんが、一人で、やっとったんじゃで」

「そういえば、そうじゃなあ」

「これでも、まだ、前の晩から、米が<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>いで、釜に仕掛けてあったり、味噌やら、豆腐やら、大根やらが、買うてあるもんじゃけ、楽なんじゃ。買いだしも姐さんの仕事、それから、洗濯、縫い物、ワラジ作り、そして、現場にも出る。……こりゃあ、<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>ど」

「猫の<ruby><rb>餌</rb><rt>えさ</rt></ruby>も、やらにゃ、ならんしなあ」

「なんでもない、当りまえのことのように考えとったことでも、ぶっつかってみると、ほう、と思うようなことがあるもんじゃのう。姐さんは、八人<ruby><rb>力</rb><rt>りき</rt></ruby>じゃないか」

「ボーシン、大発見をしたわい。こりゃあ、うちの姐さんだけじゃないばい。女房ちゅうもんは、どこの女房でも、みんな、これだけの仕事をしとるんじゃよ。おれたち、今は、みんな独身じゃが、いずれ、女房貰うじゃろうから、ようと考えとかにゃ、いけん」

「そして、女房を大切にして、オンテレ・メンピンになるか」

そんな話をしながら、笑い声がさんざめき、台所は賑やかだった。

「オヤジは？」

「まだ気分が悪いちゅうて、寝ちょる。――あんまり欲しゅうないけ、みんな、勝手に朝飯食べてくれ。味噌汁を一杯だけで、ええ。……ちゅうことじゃった」

俊次の運んで来た、やたら<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>い、ダシの<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いていない味噌汁を吸いながら、金五郎は、蒲団の中で、苦笑ばかりを浮かべつづけていた。

（おどけ芝居よりも、まだ、滑稽じゃ）

重大な生活と運命の高まりが、人間にとって、ぎりぎりの場所に来たとき、常に、その転換や、再生が、奇妙に、滑稽な形であらわれる。悲痛さとか、悲壮さとかいう、真実の歌声は、人に語ることの出来ないような、馬鹿げた場所で、人間を嘲笑しているものであろうか。悲劇か、喜劇か、誰も識別することは出来ない。

故郷の村にいたとき、のっぴきならぬ義理で、黒石家の養子に行ったことがある。夜毎、ヤスという、白痴の大女に悩まされて、遂に、逃げだした。女彫青師のお京からは、博多で一度、若松に来てから一度、挑まれたが、逃げた。そうして、今、自分の女房から、逃げられた。抱腹絶倒したい。しかし、口辺に浮かぶのは、<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い、声のない、うす笑いばかりだ。

（死んだら、どうするつもりじゃったのか？）

ほんとに、一時は、死ぬかと思ったのである。マンに、殺す気のあるわけはあるまいが、過失ということがある。

マンにしてみれば、経験者であり、すでに一種の熟練工でもあるから、死ぬ筈のないことを、計算しての所業であったろうが、金五郎には、そんなことはわからなかった。

（よく事情をたしかめもしないで、こんな無茶するなんて……）

これまで、心の底から、信じあい、マンに貞操を立てて来た金五郎としては、女房の誤解と、嫉妬による暴力行為が、糞面白くない。考えていると、次第に、腹が立って来て、

（マンの奴がその気なら、こっちも……）

と、反撥的に、危険な思考におちいって行くのだった。

「用があるなら、お京さんのところに行きなさい」

と、マンは、いった。

「行ってやろうか？」

声に出して、そういってみて、（どんなことになったって、知らんぞ）と、マンが、そこにいるかのように、<ruby><rb>力</rb><rt>りき</rt></ruby>みかえる。「緑屋」で、お京から責め立てられ、「それでも男か」と<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>られて、右腕に降り龍を彫ることだけは、約束したのである。無論、彫青だけの接触だが、もうこうなったら、そのもう一つ奥の<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>にまで、発展しないともかぎらない。くしゃくしゃしている金五郎の心に、悪魔が忍びこんで来た。

朝の光線が、障子窓いっぱいにさしている。今日もよい天気らしい。雀のさえずりが、台所にいる子分連中の騒ぎといっしょになって、にぎやかな交響楽を奏でる。

頭の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>が鈍くうずいて、重い。味噌汁椀を置いた金五郎は、枕元にあるラムネを飲もうと思って身体をねじ曲げた。その眼に、水色の一通の封書の落ちているのが映った。手をのばして、拾いあげた。

表に、「玉井マン殿へ」、裏には「飛鳥、森キミより」――キミというのは、君香の本名である。すでに、封が切られてある。

金五郎は、不審の面持で、中の手紙を引きだしてみた。目読した。読み終って、

「なあんじゃ。そうか」

と、吐きだすように、呟いた。マンの行動の原因がわかったのである。

そうすると、今度は、こういう手紙をマンに書いた君香、そして、君香と同調しているにちがいない森新之助への憤りが、俄かに、金五郎の全身を燃え立たせた。

（こうまで、腐った心になっとろうとは、思わんじゃったが……）

門司以来、兄弟分として信頼しあって来た唯一の親友であったのに、訣別しなくてはならぬときが近づいたか？　――と、金五郎は、いいようもない寂寥感と、孤独感とにつつまれて、気が滅入った。

「オヤジさん、永田の親方がお見えになりました」

俊次が、取り次いで来た。

「今ごろになって、風邪を引いたそうじゃないか」

永田杢次が、にこにこ顔で、入って来た。ヨネと、息子の茂次平とが、後につづいている。

数日が、経った。

金五郎は、虚脱したような気持で、嘗て、経験したことのない、索漠とした毎日を過ごした。身体の調子は、すぐに恢復したので、仕事にも出たけれども、なにをやっても、まるで、張りあいがないのである。

マンのいない家の中は、あたかも、歯の抜けてしまった口のようだ。そして、それは、そのまま、金五郎の心に、似ていた。

なにもかもが、奇妙な風に、狂ってしまった。

（マンといっしょに、久しぶりに、故郷に帰って、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の湯に、ゆっくり、入るつもりじゃったんじゃが……）

それも、もう、一人では、出かける気持にならなかった。

すると、腹立ちまぎれ、危険な考えが、頭をもたげる。

（四年前、お京とはじめて逢った道後の「四国屋」、そこへ、お京と二人で、行ってやろか。そして、右腕へ、降り龍を彫ってもらい、いっそ、ええ仲になってやろか）

近所の人たちが、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>く。

「このごろ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さんを見かけんようですが、どげえしましたか？」

「広島の両親が悪いちゅうもんじゃけ、見舞にやりました」

そう答えれば、日ごろの仲のよさを知っているので、疑う者はなかった。誰も、途轍もない夫婦喧嘩をした揚句、マンが飛びだしたことなど、知る者はない。

「中学生」の俊次は、

「<ruby><rb>旭座</rb><rt>あさひざ</rt></ruby>の芝居を、<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>につれて行ってくれると、約束しとったのに……」

と、ふくれ面をしている。

子分連中は、一日だけで、家事をやることに、へこたれてしまった。マンのいなくなった当日は、面白半分、大騒ぎをして、八人分業でやってみたが、食事をすましたあと、大事業のあることを知った。

「食う支度をすることより、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>かたづけが、<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>じゃのう」

八人で食い散らした食卓の残骸を見て、うんざりした顔を、つきあわせるのである。残り物は、猫にやっても、よごれた茶碗、皿、鍋、釜、箸などを洗うことは、つまらなくて、大儀千万であった。

それに、仕事があるので、彼等が、毎日、こんなこともして居られない。すると、松川源十が、夜になって、にこにこしながら、一人の女をつれて来た。

「ええ女中を、雇うて来たぞ」

中肉中背、いかにも健康そうで、色の浅黒い、人のよさそうな、無口な女である。三崎組のボーシンの姪に当るとかで、やはり、女仲仕として働いていたという。田崎ジュン、二十六歳。

金五郎も、逢ってみて、

「マンが帰るまで、よろしゅう、頼むよ」

と、いった。

或る朝、金五郎は、吉田磯吉に逢うために、一人で、家を出た。「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」で、友田喜造から勧告されて、約束したのである。

底抜けの青空が、動かない白雲を、天に貼りつけている、風のない日である。もう夏が来たかと思われるように、歩いていると、全身が汗ばんだ。綿羽織が、重たい。下駄も、重たい。

金五郎の心も、重たかった。

<ruby><rb>手土産</rb><rt>てみやげ</rt></ruby>をなににしようかと思ったが、顔見知りの「<ruby><rb>魚勝</rb><rt>うおかつ</rt></ruby>」に寄って、<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>を二枚、揃えた。

「お使い<ruby><rb>物</rb><rt>もん</rt></ruby>ですか？　お届けしときましょうか？」

気さくな「魚勝」が、そういったけれども、

「いや、自分で持って行く」

青笹を添えた鯛の皿を、風呂敷に包んで、ぶら下げた。

<ruby><rb>連歌町</rb><rt>れんかまち</rt></ruby>の角まで来たとき、うつろな気持で歩いていた金五郎は、

「やあ、玉井君じゃないか」

その声と同時に、突き飛ばされたかと思うほど、はげしく、肩をたたかれた。ふりかえって、

「品川さんですか。びっくりしましたよ」

「びっくりすることはあるまい。だが、君のように、ぼんやりして歩いとったら、いつ、敵に、ブスッと<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られるかも知れんぞ。この街は、物騒だからのう」

そういって、相手は、全身をゆすぶって、<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>に<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>した。

「若松実業新聞」を独力で発行している、<ruby><rb>品川信健</rb><rt>しながわしんけん</rt></ruby>である。五十年配だが、若いころ、志を抱いて、朝鮮満洲を放浪した、大陸的な、利かぬ気と、闘志とが、てらてらと光る、酒好きらしい赤ら顔に、なお残っている。そういえば、まだ昼前なのに、もう、すこし飲んでいるようだった。

山高帽に八字髭、洋服姿の品川は、近くの者が、耳をそばだてるような、不遠慮な大声で、

「玉井君、君は、えらい。大いに、やりたまえ。大きな傘の中に入っとれば、雨には濡れん。それは、わかっとる。この若松では、吉田一派は、大きな傘というても、ええ。だが、雨にぬれても、曲った傘の中には入らん、というのが、男の意地だ。雨にびしょ濡れになっても、正義のためには、なに<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わんや、だ」

「急いでいますから……」

「まあ、待ちたまえ。志を同じゅうする者は、席を同じゅうすべし――じゃないか。同志、玉井君、君が、弾圧と迫害の中で、若松港汽船積中頭組合を作るというて、奔走しとることを、壮としとるんだよ。僕は、経験があるんだ。この街では、吉田派の傘の外で、なにかをやろうとすることが、どんなに、困難か。……友田喜造が、君を脅迫したことも、聞いたよ。だが、やりたまえ。神は、正しき者を守るよ」

「失礼します」

居たたまれなくなった金五郎は、耳をおさえるようにして、そこを離れた。

「おうい、玉井君、ちょっと待て。まだ、話があるんだ」

その声にもかまわず、走るように、急いだ。

立ち話をしているときに、友田喜造の子分が、果物屋の店先で、耳を傾けている姿を見たのである。いや、この狭い街では、全町が耳であるといっても、過言ではない。品川信健もそれを知らない筈はないのだが、この豪放な新聞社々長は、つねに、自分を守る正義の神を、信じきっているもののようであった。

吉田邸の門前まで到着したときには、汗があふれて、軽い動悸が打っていた。ふりかえってみたが、品川は、後を追って来る様子はなかった。

格子戸を、開いた。

「おごめん下さい」

「おうい」

二三度、顔をあわせたことのある、玄関番が、出て来た。

「吉田の親分さんに、お目にかかりたいのですが……」

「おかしいなあ……？　玉井金五郎が、うちの親分に、用があるわけがないじゃないか。なんの因縁をつけに来たんじゃ？」

金五郎は、むっとしたが、腹の虫をおさえて、おだやかに、

「親分さんは、おいでではないのですか？」

「おいでにはなるが、お前さんなんかに、逢うわけがないよ」

「お取り次ぎを願います」

「わからん男じゃなあ。取り次いだって、無駄に定まっとるというのに……」

「わたしは、あなたに逢いに来たのではありません。吉田親分さんに、お目にかかりに参ったのですから、ともかく――玉井金五郎が来た。……と、お伝え下さい。親分さんが、逢わぬとおっしゃるのでしたら、帰ります」

「しつこいのう。そんなら、ちょっと、待っとれ」

「それから、これは、ほんの御挨拶の印で……」

金五郎がさし出した鯛の皿を、玄関番は、せせら笑う眼つきで見下したが、面倒くさそうに抱えあげて、奥に、入った。喧嘩の名残りか、<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>を引いていて、右足の傷も刀痕らしい。色黒で、人相の悪い、「小猿の久八」という、五十男である。

間もなく、出て来た。憎々しげな語調で、

「おれのいうたとおりじゃよ。親分は、いわっしゃった――玉井金五郎が、なんの用で、おれに逢いに来るか。おれを殺しに来たんじゃないか。玉井なんちゅう奴の顔、見るのも、いやじゃ。追い返してしまえ。……って。とっとと、帰れ」

「さよですか。そんなら、帰ります。どうぞ、親分さんによろしゅうに」

表に出た金五郎が、町角を曲りかけたとき、背後で、けたたましい呼び声が起った。

「ピス来い。ピス来い。ピス、ピス、ピス、ピス……」

ふりかえると、先刻の玄関番が、鯛をのせた皿を両手にかかえて、しきりに、呶鳴っている。そこは、吉田邸の裏口に当っていた。ごみため箱が置いてある。やがて、松林のある寺の方角から、一匹の犬が走って来た。茶褐色のたくましい土佐犬である。ピスというのは、その犬の名らしい。

「ほら、御馳走やるぞ」

「小猿の久八」は、魚を、犬に投げあたえた。大小二枚の新鮮な鯛は、生きているように、空間に躍り、鱗が太陽の光線にきらめいた。しかし、それも瞬間で、土の上に落ちた鯛は、犬の泥足に踏まれ、口に<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えられた。ひろい皿が投げすてられ、大きな音を立てて、微塵に砕けた。

そういう動作が、すべて、金五郎への当てつけに行われたものであることは、一点の疑う余地がない。久八が、大声で、ピスを呼んだのも、わざわざ、金五郎へ聞えるように仕向けたのである。

しかし、金五郎は、なにもいわず、無言で、その場を去った。

（吉田磯吉という親分は、もうすこし、増しな侠客かと、思うて居ったんじゃが……）

腹立ちや、憎しみよりも、心の底から、軽侮の念だけが、湧くのだった。そうすると、心も軽くなって来る。相手が立派でないとわかれば、問題にするに足りないのである。解放されたような気持だ。口笛が吹きたい。

俄かに、軽い足どりになった金五郎は、「今ごろは、半七ッあん、どこに、どうして、ござろうぞ」と、口三味線で、義太夫を口吟みながら、「飛鳥」の方向へ、足を向けた。

森新之助の顔を見ると、金五郎は、仏頂面になって、

「新公、今日は、すこし、こみ入った話をしに来たんじゃ」

と、いった。

「そうか。こっちからも、こみ入った話がある。奥へ、来てくれ」

庭に面した六畳の部屋で、二人だけで、対した。どちらの顔も、緊張している。

「お京さんは、居らんかね？」

坐ると同時に、金五郎は、そう訊いた。

「その、お京のことで、すこし、金さんに、話しとかねばならんことが、出来たんじゃが……」

「聞かんでも、わかっちょる。とにかく、お京に逢わせてくれ」

「お京は、居らんよ」

「どこに行ったかね？　どうせ、髪結いか、風呂か、稽古じゃろ？　それとも、友田喜造のところか？……仕込みにでも、呼びにやってくれ。どうしても、お前の居る眼の前で、逢うとかにゃならんことが出来た」

「お京は、もう、この若松に居らん」

「なにや？」

さすがに、おどろいた。

新之助は、沈痛な面持で、

「さっき、お前に、こみ入った話があるというたのは、お京のことなんじゃが、……今日あたり、お前の家へ報告に行こうかと、考えとったんじゃ。お京は、おれが、頭を下げて、この若松から、出て貰うた。お京一人のために、あちこちに、面白うない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いざこざ</span>が出来るんでは、困る。おれは、お京の前に、手をついたよ。お京に、頼んだ――あんたも辛かろうが、ここのところは、あんたが身を引いてくれさえすれば、方々が、丸くおさまる。もう、ここまで来たら、なにもかもが、さっぱり行くとは思われんけれど、あんたさえ居なければ、なんとか、辻褄のあわせようもある。すまんが、死んだと思うて……」

「そしたら……？」

「そしたら、お京は、げらげら笑いだしてな――ああ、おかし。たった女一匹のために、大親分、中親分、小親分、寄ってたかって大騒ぎ。面白かった。でも、もう、こんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けち</span>くさい若松なんて、頼まれたって、居てやるもんか。……そんなことをいうてな。どこかへ行ってしもうたよ」

「それは、いつのことじゃ？」

「あの、仲直りの翌る朝よ」

「そうか」

金五郎は、腕組みして、複雑な苦笑をたたえていたが、

「新公、お前、お京のことで、友田喜造から、脅迫されたらしいな？」

「脅迫？……友田から？……そんなことはない」

「あの晩、おれとお京とが、途中から、居らんようになったもんじゃけ、大層、<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かされたちゅうじゃないか――よくも、おれの顔に泥を塗ったな。おれが、お京を世話せえ、と、あれだけいうとったのに、お京と玉井とを逃がした。仲裁の恩を仇で返すとは、なにごとか。……ちゅうて」

「誰が、そんなことをいうんじゃ？　まったく、そんなことはないよ。友田は黙って、帰った。ひどい出鱈目をいう者が居るなあ……？」

「お前のおかみさんの手紙に、書いてあった」

「おれの女房の手紙？　キミが、お前に、手紙を書いた？」

「そうよ」

「おかしいのう。キミの奴は、おれに輪をかけた無学文盲で、自分の名の外は、一字も書けん女じゃよ。それが、手紙なんか、書くわけがないがなあ」

これには、金五郎もびっくりして、ふところから、持参して来た君香の手紙を取りだした。無言で、新之助に渡した。

目読していた新之助は、読み終ると、大きな吐息をついた。

「そうか。これで、なにもかも、わかったよ」

「やっぱり、おかみさんの字とちがうか？」

「ちがうも、ちがわんも、女房の字なんて、おりゃ見たことがない。これはな、染奴が書いたんじゃ」

「染奴？」

「うちの抱え芸者じゃが、あの翌る日に、急に、<ruby><rb>仕換</rb><rt>しか</rt></ruby>えをするというて、「<ruby><rb>山根</rb><rt>やまね</rt></ruby>」に変ったんで、妙なことに思うとった。こんな卑怯な芝居をしくさっとる」

「染奴が、なんで、こんな偽手紙を書くんじゃ？」

「お前に、惚れちょるからよ」

「おれに？」

「染奴の旦那は、友田喜造じゃが、友田は外に何人も、女がある。友田はけちけちしとるし、誰か、ええ旦那に鞍替えしようと、前から考えとった。その白羽の矢が、お前に立ったんじゃ。ところが、お前とお京との関係を知ったもんじゃけ、こんな芝居を仕組んだんじゃよ。それにちがわん。どうも、女ちゅうのは、色気に眼がくらむと、なにをするか、わからんのう」

「ふウン」金五郎も、ほとほと、あきれはてた顔つきで、「おれは、実は、今日は、この手紙のことで、お前と喧嘩する気で来たんじゃよ。おかみさんが書いたにしたところで、お前が知らん筈はないし、まかりちがえば、絶交するつもりじゃった」

「それで、おマンさんは、どうした？」

「飛びだしてしもうたよ」

「こんな手紙を見たら、なんぼ、お前を信用しとるおマンさんでも、腹を立てるわい」

「それというのが、お前のおかみさんを信用しとるからたい。……そういえば、おかみさんは？」

「友田喜造のところへ行った」

「なんで？」

「どうもこうも、困る。あの仲直り宴の費用が、途方ものう掛ったとに、友田が払うてくれん。キミがお百度を踏んどるが、知らん、ちゅうんじゃ。もともと、友田からの話で、<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>どおりにしたんじゃけ、友田がすっかり勘定してくれるもんと思うとったら――仲裁をしてやっただけでも、ありがとう思え。飲み食いの跡始末まで、知ったことか。……なんて、いう。あれだけの宴会をして、一銭も取れなんだら、おれの店はつぶれるよ」

「そんなことか。友田のいいそうなことじゃわい。もともとは、おれから出たこと、お前に迷惑をかけてはいけん。おれが、なんとかしよう。いっぺんには払えんが、……なんぼ、掛った？」

「いや、お前から出して貰うことはない。仲裁役が全部を見るのが、やくざの仁義じゃないか。友田もこの町では名うての顔役じゃ。なんとかして、友田から出させるよ」

新之助は、口で、そんな強いことをいっているけれども、それがきわめて困難事で、或いは不可能に近いかも知れぬということは、自身でよくわかっているのであった。

夕暮、玉井家では、晩餐がはじまっていた。明日は、早朝から、聯合組の大仕事、アメリカ航路のメキシコ丸の<ruby><rb>焚料</rb><rt>バンカ</rt></ruby>炭、三百トン積込み荷役を控えて、前景気に、金五郎中心に、一杯、飲んでいた。

女中のジュンが、甲斐々々しく立ち働いている。けれども、肝腎のマンがいない家は、妙に、気抜けしたようだ。

にぎやかに談笑していると、玄関を訪れる者があった。時次郎が、出て行くと、着流しに、ふところ手をした大男が、にゅうっと立っている。

「吉田磯吉じゃがなあ、玉井君は居るな？」

時次郎は、青くなって、晩餐の席に、飛びかえって来た。<ruby><rb>団栗眼</rb><rt>どんぐりめ</rt></ruby>をむいて、声をひそめ、

「オヤジ、<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>じゃ」

「なにを、あわてちょるとかい？　お客は、誰な？」

「吉田磯吉が、仕掛けて来た」

「吉田親分？」

金五郎も、不審の眉を寄せて、緊張の面持になった。盃を置いて、坐りなおした。

「玄関に、ニュッと立って、オヤジは居らんか、って、訊くんですよ」

「吉田親分が？……一人で？……」

「うん」

「人ちがいじゃないか？」

「自分で、名乗りました。玄関に居るのは、吉田磯吉だけじゃが、表に、誰か、何人も居るようにあった」

「オヤジ」と、松川源十が、「あんた、出らん方が、ええ。おれが出てみる」

「待て」金五郎は、もう立ちかける源十を、押し止めた。「おれが、出る。……お前たち、来ること、ならんぞ。声も立てるな」

金五郎は、身づくろいをし、通路の板戸を閉めきって、静かに、玄関に出た。

無造作な<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>の恰好で、鴨居に吊るしてある提灯や、帳場の壁に貼った、子分連中の<ruby><rb>勤怠表</rb><rt>きんたいひょう</rt></ruby>などを、のんきそうに、眺めまわしていた吉田磯吉は、金五郎を見ると、

「やあ、玉井君、久しぶりじゃのう」

ぶっきらぼうではあるが、どこかに、親しみの感じられる調子で、いった。

それが、かえって気味悪く、金五郎の方は、警戒心を、いよいよ、厳にした。この街で、「吉田天皇」という者さえある、大親分の吉田磯吉が、なにかと対立している玉井組の牙城へ、先方から、予告もなしに訪れて来ることも変であるし、たった一人というのは、なお、おかしい。

油断をさせるためかも知れない、と思い、金五郎は、それとなく、表の気配に、注意した。<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の薄明の中に、石ころの多い狭い道路が、白々と、ひろがって、わずかの風に、<ruby><rb>溝縁</rb><rt>みぞぶち</rt></ruby>の雑草がゆらいでいる。しかし、金五郎の鋭い眼は、表格子の戸袋のかげになっているところに、誰かの潜んでいることを見逃がさなかった。

（懐手をしているが、ピストルか、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>かを忍ばせているのかも知れん……？）

いつかは一度、来なければならぬ最後の対決のときが来たという緊迫感で、金五郎は、武者ぶるいして来た。中腰になっていたが、いつでも、機敏に、跳躍出来るように、全身をバネ仕掛けにした。

両子の三つ指を、畳のうえに、軽くついて、

「よう、お出で下さいました。わたくしに、なにか、御用で？……」

「うん、ちょっと、君に逢いたいと思うてな」

「おあがり下さいませんか」

「ここで、ええ。……玉井君、今日、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ来てくれたちなあ……」

金五郎は、おどろいて、

「あなたに、取り次いで貰うた筈ですが……？」

「いんや、おりゃ、なあも知らん。後で聞いて、すまんことしたと思うたもんじゃけ。ぶらっと、出かけて来た。玄関番の小猿が、おれに知らせんで、なんか、勝手にふるもうたらしいわい。まあ、怒らんでくれ。玉井君、おれのところにゃ、いろんな<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>が<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げこんで来るんじゃよ。<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>の者は、いつも、――大将、もう、あんまり、世話の仕甲斐のない<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>を、相手にしなさんな。……ちゅうけんどな、そんな奴は、おれでも面倒見てやらにゃ、誰も、うてあわん。いうてみりゃ、おれは人間の<ruby><rb>反古籠</rb><rt>ほうぐかご</rt></ruby>のようなつもりで、居るとたい。そりゃ、ええけんども、今度みたよに、忠義ぶって、お客に失礼することがあるもんじゃけ、困る。玉井君、悪う思わんでくれ」

「わかりました」

「「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」にも行くつもりじゃったけど、行けんで、残念じゃったよ。どうも、胃の具合が悪うてかなわん。腹を切らにゃなるまいかと、思うちょる。……そういやあ、「飛鳥」のときに、お祝いを持って行こうと思うちょったのに、不精しとった。森君にも、君から、よろしゅういうといてくれると、ええ。……おうい」

吉田磯吉は、表に向かって声をかけた。応じる声がして、中年の俥ひきが、朱塗りの魚桶を、重そうにかかえて人づて来た。さっき、金五郎が誰か戸袋のかげに潜んでいると思ったのは、この俥ひきらしく、そこには、人力車も待たせてある様子だ。

<ruby><rb>水引</rb><rt>みずひき</rt></ruby>と<ruby><rb>慰斗</rb><rt>のし</rt></ruby>とをかけた桶の中には、青笹を蒲団に、巨大な赤鯛が二尾、イセエビが一匹、鯛の肌のうえには、「祝儀」の二字を太い筆でかいた奉書包み、それには、少からぬ紙幣束が入っているらしく、厚くふくらんでいる。さらに、一斗樽が運ばれた。

俥ひきが、玄関の<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>に、それらを置くのを、当惑した金五郎が、言葉もなく眺めていると、

「玉井君、そのうち、ゆっくり、遊びに<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>ない」

ぶっきらぼうに、そういった吉田磯吉は、俥ひきをうながして、表に出た。俥に乗った気配がし、もう暗くなった黄昏の道を、プッ、プウッ、と、ラッパの音が遠ざかって行った。

魚のにおいをかぎつけて、早速、猫が何匹もやって来た。それを追い散らしてから、金五郎は、端坐して、魚桶の前に腕組みしたまま、しばらく、動かなかった。

（世の中は、むずかしい）

四年前のことが、思いだされた。彦島の病院に、袋だたきされた森新之助が入院していたとき、吉田磯吉が見舞をくれたことがある。そのときと似たような感慨が、金五郎の厚い胸を領した。

――人間と人間との関係の複雑さ、結びつきや、つながりの深さ、浅さ、その溝や谷、食いちがう歯車、敵と味方という危険な想念、理解と誤解との生む<ruby><rb>修羅</rb><rt>しゅら</rt></ruby>――そして、こういうものが、時間の流れを背景にして、死と生とを交錯させながら、織りなして行く運命の劇。思えば、人生は多端で、前途は多難である。

（それにしても）と、金五郎は、思う。（――それにしても、やっぱり、吉田磯吉は、ええとこがある。大きいところがある）

そして金五郎は、まだ、自分の人生勉強の足りなさを、唇を噛んで、強く、反省するのであった。

  


## 命

あたしゃ、仲仕で、

<ruby><rb>半纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>育ち

長い着物にゃ、

縁がない……

澄んだ張りのあるよい声で、「ゴンゾ唄」を歌っているのは、女仲仕の原田タネである。

メキシコ丸の舷側に、棚が吊られ、雛壇式の天狗取り荷役が、調子よく、つづけられている。その作業の動作に合わせ、はずみをつけるように、タネは、<ruby><rb>艀</rb><rt>はしけ</rt></ruby>の中で、入れ<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>をしながら、仲仕歌をうたう。

かっと照りつける太陽に、汽船の鉄板からは<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>が立ち、仲仕たちは汗みどろである。<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>内の水は青く、<ruby><rb>浮標</rb><rt>ブイ</rt></ruby>を拠点にして、数十羽のカモメが魚をねらって、群れ飛んでいる。ときどき、海面にボラがはねる。

タネが一くさり歌い終ると、待っていたように、艀の船頭が、<ruby><rb>銅鑼</rb><rt>どら</rt></ruby>声をはりあげて歌いだした。

沖のゴンゾが

人間ならば、

蝶々トンボも

<ruby><rb>鳥</rb><rt>とり</rt></ruby>のうち……

「こン畜生」

棚に立っている「六ゾロの源」が、<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>にしゃがんで、帆の修繕をしているその船頭を、<ruby><rb>団栗眼</rb><rt>どんぐりめ</rt></ruby>をむいてにらみつけた。それから、歌いだす。

船は<ruby><rb>破</rb><rt>や</rt></ruby>れ船、

船頭は片目、

<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>引きゃ、

カサ頭

船頭の息子らしく、十二三の男の子が、竹ポンプで、しきりに、艀にたまった垢水を汲みあげている。鉢のあいた頭いっぱいに、吹き出ものがしていて、それに、蝿が四五匹、とまったまま動かない。

仲仕たちはげらげら笑う。子供はなんで大人たちが笑っているのかわからないが、ふりかえって、きょろきょろしながら、自分も笑った。また、どっと、新たな<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>。

船頭は、いまいましげに、しかし、心から怒っているわけでなく、自分も笑いながら、また、仲仕をからかう文句を歌ってやりかえす。仲仕の方も負けずに、今度は船頭の女房を槍玉にあげる。メキシコ丸の連中が、<ruby><rb>船橋</rb><rt>ブリッジ</rt></ruby>や甲板の上で、面白そうに聞いている。

「おいおい、お前たち、そんな歌喧嘩すんなよ」

<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>の<ruby><rb>欄干</rb><rt>てすり</rt></ruby>から、上半身をのぞかせて、金五郎が呶鳴った。にこにこしている。

「そんなら、オヤジのを、いっちょ、聞かせてくれえ」

城三次が、棚の下段からあおむいて声をかけた。

「よし、歌うぞ」

金五郎は、機嫌がよい。

若松みなとの

ゴンゾは花よ、

<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な手さばき

<ruby><rb>日本一</rb><rt>にほんいち</rt></ruby>……

どっと起る歓声と、拍手。笑い声。石炭がばらばらと飛ぶ。金五郎は、なお、つづける。

雛壇の上に、ならんで立っている甚七と、清七とが、港内の一点に視線を集めて、低い声で話している。

「あの<ruby><rb>梅丸</rb><rt>うめまる</rt></ruby>には、ドテラ婆の組が来ちょるが、<ruby><rb>角助</rb><rt>かくすけ</rt></ruby>は見えんようにあるのう？」

「甚公、お前、知らんのけ？　角助は、バクチで、小倉監獄にかまうとるぞな。もし」

「へえン、それで、このごろ見んと思うた。ドテラ婆に、うちのオヤジを殺すことを請負うちょったそうなが、……」

「そらそうと、時やんは、姐さんを迎えに行くちゅうて、広島に<ruby><rb>帰</rb><rt>い</rt></ruby>んだが、うまいこと、つれて戻りきるじゃろか？」

「オヤジも、危いことをするなあ。時やんは、昔から、姐さんに惚れとったとじゃろ？　姐さんと夫婦になりたいばっかりに、村を飛びだして、尋ねて来たとじゃろ？　その時やんを、迎えにやるなんて……」

「時やんが、自分で行くというたんぞな」

「なお、危いじゃないか」

「オヤジには、<ruby><rb>小</rb><rt>こんま</rt></ruby>いときから、そがいな<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>の切れるところがあったのはあった。わしらには出来んことぞな」

「おれが知っとるが、時やんは、いつか、こんなときの来るのを、待ちかまえとったんじゃ。……帰るかなあ……？」

二人は、この内憂外患のときにのんきたらしく、上機嫌で、「ゴンゾ唄」などを歌っている金五郎が、不思議でたまらなかった。

<ruby><rb>高塔山</rb><rt>たかとうやま</rt></ruby>の頂上の、乗りあげた軍艦のような松林のかげに、真紅の夕焼をきらめかせて、太陽が沈んだ。暗くなってしまわないうちに、メキシコ丸の荷役も終った。

道具をかたづけ、全員、二隻の伝馬船に分乗して、聯合組のある若松側岸壁に引きあげた。

金五郎は、事務所に入って、荷役終了を告げ、掛けられてある「玉井組」の<ruby><rb>番札</rb><rt>ばんふだ</rt></ruby>を、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に下げた。

海岸にある「玉井組<ruby><rb>詰所</rb><rt>つめしょ</rt></ruby>」では、「<ruby><rb>小使</rb><rt>こづかい</rt></ruby>」と称する賃銀の内金を、松本重雄が子分連中に渡している。勘定は半月毎にすることになっていて、仕事のあった日は、帰りに、夫婦者は三十銭、独身者は二十銭、内渡しするのである。

<ruby><rb>帳面方</rb><rt>ちょうめんかた</rt></ruby>、<ruby><rb>兼</rb><rt>けん</rt></ruby>会計は、大川時次郎であるが、留守なので、松本が代行している。

「頼む。今日だけ、三十銭」

酒好きの城三次がねだる。

「今日だけとはなんかい。毎日じゃないか。あんまり安酒は飲まんがええで」

「女に振られたけ、やけ酒じゃよ」

「飲みすぎるから、嫌われるとよ。……ほんとに、今日だけばい」

後に、松川源十の後をうけて、玉井組のボーシンになった松本重雄は、しっかりしているところがあった。

それぞれの文句をいいながら、子分連中はにぎやかに帰って行く。途中、露店や、おでん屋、居酒屋などに寄る者が多い。彼等の楽しみは、なにより、「<ruby><rb>角打</rb><rt>かくう</rt></ruby>ち」だ。<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>から、キュウッと、<ruby><rb>冷酒</rb><rt>ひやざけ</rt></ruby>を<ruby><rb>一息</rb><rt>ひといき</rt></ruby>に飲むことである。

金五郎は、荷役の監督をする<ruby><rb>甲板番</rb><rt>デッキばん</rt></ruby>の労をねぎらおうと思った。

「<ruby><rb>副島</rb><rt>そえじま</rt></ruby>さん、ちょっと、そこらへ行きましょう。簡単に、晩飯でも……」

「ああ、つきあおう」

二人が事務所を出ようとしたとき、老小使が金五郎を呼びに来た。だいぶ前から、客が来て、裏で待っているという。

金五郎は、「ちょっと」と、副島にいいおいて、裏に廻った。<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>の胡蝶屋豆八であった。

「豆八ッあんか。誰かと思うた。なんごとじゃね？」

「大将、これをごらん下すって」

あたりをはばかって、豆八がとりだした一枚の紙片を、ランプの光で<ruby><rb>黙読</rb><rt>もくどく</rt></ruby>した。

「金五郎さん、京は待っています。きっと、あなたが約束を果して下さることを信じます。京の命は今はこの<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>ことだけにつながっています。豆八さんに聞いて下されば、いつでも<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>と連絡がつきます。京より」

「わからしゃったか？」

「うん」

「それでは……」

日ごろの<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>に似あわず、深刻めいた顔付の豆八は、紙片をくるくると丸めると、ランプの火に投じた。秘密の手紙は燃えた。

副島<ruby><rb>甲板番</rb><rt>デッキばん</rt></ruby>が、ビフテキでビールが飲みたいというので、<ruby><rb>山手通</rb><rt>やまてどおり</rt></ruby>にある「<ruby><rb>突貫亭</rb><rt>とっかんてい</rt></ruby>」に行った。豆八も帯同した。

高塔山の麓、近くに<ruby><rb>白山</rb><rt>しらやま</rt></ruby>神社のある高台に、<ruby><rb>鹿鳴館</rb><rt>ろくめいかん</rt></ruby>張り、青ペンキ塗りのハイカラな木造洋館がある。アーチ作りの門にかけられた看板が、ガス燈の光で「最新式高等西洋料理店・突貫亭」と読まれる。大広間には、ガスとともに、電燈も引かれている。まわりには、深い竹林や、鬱蒼とした大樹の森があって、夜になると、フクロウが鳴き、ときには狐や狸も出没する。

「いらっしゃアい。<ruby><rb>御新来</rb><rt>ごしんき</rt></ruby>、お三人さあん」

白エプロンの若い女給が、歌うような声で迎えて、金五郎たちを大広間の一隅にみちびいた。

テーブルの椅子に腰をおろすと、副島はチョビ髭をひねりながら、

「やあ、お歴々が来とるなあ」

と、部屋中を見まわした。

畳敷にすれば、六十枚以上も敷けそうな板の間に、幾組もテーブルが置いてある。一番奥では、三十人ばかりの宴会がひらかれている。仕切りとは名ばかりの低い<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>が立ててあるきりなので、客は丸見えだ。賑やかに談笑している。

金五郎は、仕事関係以外、まだ、よく、この街の人を知らなかったので、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみた。

「副島さん、お歴々というのはどなたですか？」

「なにが、今夜、あっとるのかな？　町会議員の顔が、<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>、見えるが。……<ruby><rb>蒲瀬</rb><rt>かませ</rt></ruby>町長も来とる。小田助役、石井収入役も居るな。……玉井君、あれが、佐藤慶太郎氏だよ。炭鉱をいくつも持っとる大金持だ。……その右手のが、安川敬一郎氏、安川財閥の<ruby><rb>御大</rb><rt>おんたい</rt></ruby>。……それから、右に、順々に、<ruby><rb>帆足</rb><rt>ほあし</rt></ruby>市右衛門氏、瓜生徳平氏、<ruby><rb>大貝潜太郎</rb><rt>おおがいせんたろう</rt></ruby>氏、石崎<ruby><rb>敏行</rb><rt>びんこう</rt></ruby>氏、……」若松生えぬきの副島は、よく土地の名士を知っていて、一人のこらず、金五郎に教え、「築港会社の田中さんも居るし、……役場で、昼間、市制施行についての懇談会でも、やったのかも知れん」

運ばれて来たビフテキ、トンカツ、エビフライなどを、馴れぬナイフとフォークで切りながら、ビールを飲んだ。

「玉井君」酔って来た副島は、いくらか、からかい気味の語調で、「君も、ひとつ、町会議員にならんかい？」

「とんでもない。わたしらのようなゴンゾが、そんなこと、考えただけでも<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>があたりますよ」

「罰？　なんの罰が？　たれが罰をあてるんだね？　僕はいつも考えるんだよ。この若松は石炭の街だから、石炭仲仕の代表が、町会に出る必要がある。聯合組の重役では、田中光徳親分などが出たい意向があるんだが、ほんとに、石炭の中で、まっ黒になって働いとる君たちの中から、誰か出にゃいかん。それには君が持ってこいだよ」

「いやです」

高台になっているので、窓から、若松の街が一望である。金五郎はコップを口につけ、苦いビールの泡を噛みながら、光の少い若松の街を、感慨をこめた<ruby><rb>眸</rb><rt>まなぎし</rt></ruby>で見おろした。

（とうとう、若松に、腰を据えることになってしまった）

運命の不可思議さを、今さらのように、考えずには居られなかった。

テーブルには幾組も客があったが、そのどれからかの声が、ふと、金五郎の耳をそば立てさせた。

「玉井の奴が、組合を作ろうたって、出来るわけがないよ。それに、うちの親分から<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かされて、釘を刺されちょるけ、作りきりゃせん」

それが、金五郎のいることを知っての、聞えよがしであることは明瞭だった。

二つほど間を置いたテーブルに、五六人の客が、金五郎たちの入って来る前から、洋食をつつきながら、ウィスキーを飲んでいた。芸者が二人まじっている。言葉を発した筒っぽ袖の男は、金五郎に背を向けていたので、誰かわからなかった。けれども、それが、友田喜造のいる共働組の誰かであることは、容易に想像された。

金五郎は、その席にいる芸者の一人の顔を、見たことがあるように思った。

（染奴だ）

と、すぐに気づいた。

「なんぼ、玉井が<ruby><rb>謀叛人</rb><rt>むほんにん</rt></ruby>ちゅうたって、命は惜しいにちがわんからなあ。うちの親分に楯ついて、組合作ったら、どげなことになるか、玉井が一番よう知っとろうだい」

筒袖の男は、まだ、つづけている。

「大将、出ましょう」

いたたまらなくなったように、胡蝶屋豆八が、金五郎の耳にささやいた。

「うん」

女給を呼んで、勘定を払った。もう千鳥足になっているデッキ番を支えながら、その部屋を出た。背後に、男と女と入りまじって、爆発するように、嘲るように、けたたましく、笑う声が聞えた。

「突貫亭」を出た。門のガス燈が青白く、あたりは霧でもかけているように霞んでいる。裏の森で、フクロウがしきりに鳴いている。港の方で、汽船の汽笛が聞える。

副島がまだ飲み足らぬらしいので、豆八に、「飛鳥」に一緒に行って、二次会をするようにいいつけた。

「大将はお帰りになるとですか？」

「今日はくたぶれたから、あんたに、万事まかせる。新公によろしゅういうておくれ」

金五郎が歩きだすと、豆八は追いすがって来た。

「大将、お京さんに、なにか、<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>づけは？……」

金五郎はそれには答えず、すたすたと、その場を去った。

家に帰ると、女中のジュンが、一通の封書を持って来た。マン宛の書留郵便である。差出人を見ると、「福岡県<ruby><rb>遠賀郡</rb><rt>おんがぐん</rt></ruby>戸畑町字牧山、石川二右衛門」――まるで心当りのない奇妙な名だ。

金五郎は、開封して見た。

「拝啓、イツゾヤ拝借ノ金、ヨウヤク都合ツキタルニツキ、返却仕候。長々ト有難ク、御礼申シ上候、泥棒ヨリ」

文面は簡単で、六円の小為替が同封してある。

金五郎は、笑いだした。あんまり笑いすぎて、涙が出た。

昨年の秋、彼が武蔵温泉に行った留守宅に、侵入して来たおかしな泥棒の話は、マンから聞かされていた。そのときも、笑いが止まらなかったが、今、その泥棒が金を送りかえして来たことを知って、金五郎は抱腹絶倒したのである。

（立派な泥棒じゃ）

この日ごろ、むしゃくしゃすることばかり続いて、憂鬱でならなかった金五郎の心に、パッと窓が開き、カッと明かるい光線がさしこんで来たような、愉快さであった。石川二右衛門――その名も<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃ</rt></ruby>れている。為替を組むためには、名が必要なので、偽名を使ったのであろうが、五右衛門から三右衛門少いところが面白い。

すると、金五郎は、急に、忘れていた大事なことに気づいた。

（おれも、松山の親父に、三十円かえさなくちゃならん。明日、早速、送ろう）

そう思って、心が晴れ晴れした。

それから数日後、奇妙な事件が起った。

染奴が、或る夜、お座敷の帰りに、何者かのために、ザンギリ頭にされてしまったのである。丸坊主にされたわけではなかったけれども、鋭利な刃物で、黒髪を、ほとんど根元から、全面的に、切り取られた。染奴は、「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」から「<ruby><rb>山根</rb><rt>やまね</rt></ruby>」に仕換えして、相変らず、友田喜造と関係をつづけていたが、その夜は友田と逢ったのではなかった。三菱の宴会によばれたのである。

振袖の袂で、<ruby><rb>御高祖頭巾</rb><rt>おこそずきん</rt></ruby>のように頭と顔をつつみ、けたたましく泣き喚きながら、「山根」に走り帰って来た染奴を、誰も、はじめは、発狂したのではないかと疑った。

「染ちゃん、どうしたのよ？」

女将をはじめ、おどろいて、居あわせた者が、寄ってたかってなだめすかすけれども、半狂乱の染奴は、畳のうえを、断末魔の芋虫のように、ころがりまわって、泣き叫ぶことを止めなかった。手がつけられない。

やがて、染奴の頭が、<ruby><rb>不様</rb><rt>ぶざま</rt></ruby>なザンギリになっていることを知って、あらためて、みんなは仰天した。

「誰が、こんなことをしたの？　染ちゃん、わけをお話しよ」

まっ青になった女将は、自分も染奴について泣きだしながら、しきりと、この恐しい出来事の<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を聞きたがった。

「畜生、……鬼、……鬼、……」

染奴は、泣きじゃくりながら、<ruby><rb>囈言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように、そんなことを口走るばかりである。

「誰が畜生なの？　誰が鬼なの？　さあ、話して……」

並みいる者は、こういう無残なことを、誰が、どういう理由でしたのか、知りたがった。

ところが、染奴は、どんなに問いつめられてもそれを語らない。その夜は、すぐに寝てしまい、朝まで、蒲団の中で泣いていたが、朝になってからでも、彼女が犯人を明らかにせぬ態度は変らなかった。頑強である。警察沙汰にまでなって、刑事が調べに来たけれども、犯人のことになると、染奴はただ――誰か、自分にもわからない。ほろ酔いで、帰る途中、家並の切れた寂しい場所で、いきなり、暗闇から飛びだした者が、短刀で、こんなことをして逃げたのだ。……そういう風にいうだけで、後は泣く一方である。

「痴漢の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しわざ</span>らしいな」

刑事は、したりげに、うなずいた。警察官も、なにか恨みを含む者の復讐的行為ではないか、という疑念が湧かぬでもないらしかったが、その犯人が、女であると考えた者はないようである。

女のもっとも大切な黒髪を奪うことによって、染奴に制裁を加えたのが、外ならぬお京であることに、うすうす気づいたのは、新之助夫婦、金五郎、胡蝶屋豆八、くらいにすぎなかった。

染奴は、命が惜しいので、絶対に、犯人がお京であることを、口に出さない。そのとき、お京から脅迫された言葉は恐しい。

「染奴さん、あたしは約束したことは、実行することが好きな女よ。<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>神社の境内で、あれだけいっておいたのに、あんたは裏切ったのね。おまけに、血迷って、玉井さんのおかみさんに、偽手紙を書くなんて。……今夜は、髪だけで、勘弁してあげるけど、このことをあたしがしたなんて、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>でもしゃべってごらん。そのときこそ、ほんとに、命がないとお思い。「蝶々牡丹のお京」は、一度いったことは、ちゃんと守るのが大好きさ」

その後、お京の行方は<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として知れない。

三つになる娘の<ruby><rb>百合香</rb><rt>ゆりか</rt></ruby>に、可愛い洋服を着せ、君香が手を引いて、玉井家を訪れて来た。

金五郎の顔を見るなり、

「おマンはんは、まだ、帰って来やはらんのだッか？」

「もう、帰らんかも知れんよ」

「そないなこた、あらしよまいけど、……すみまへん」

「あんたが謝ることはない」

「染奴て、無茶しよる。……そらそうと、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>から今朝にかけて、えらい騒ぎや」

「なんで？」

このときは、まだ、金五郎は斬髪事件を知らなかったので聞きかえした。

君香は、ひととおり、輪郭を話して、ため息をつくように、

「そんな思いきったことするのは、お京はんに<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まったる。お京はんとしては、無理あらへんやろ。そやけど、やっぱ、困るのは結局はこっちや」

「友田から、なんか、苦情でもいうて来たのかね？」

「染奴は、誰からされたともいわへんらしけど、友田は、あての方に、因縁つけて来よるのや。理窟も屁ったくれもない、横車やよってに、なんぼ、理を詰めた話したかてあかへん。友田の子分で、「山犬の松」とかいう、すごいのがやって来て――小指を切って、詫びを入れるなら、こらえてやるが、そやなかったら、今すぐ染奴の髪をもとのとおりにしてかえせ。……そないなことをいう。どっちも聞かなんだら、なぐりこみを掛けるぞと、いわんばっかりや。――仲直りの勘定も払わんといて、よう、そんな理不尽なことがいえるもんじゃ、いやはって、新さんは歯を食いしばって、泣きよった。……金さん、ほんまに、この百合香が居るばっかりに、新さんはこらえたんやで。そいで、涙をのんで、小指切って、ここんところは、一時、おさめる覚悟定めたんや」

「馬鹿な」金五郎はびっくりして、「それで、指切って出したのか？」

「すんでのところを、切らんですみました。花田準造親分が友田をおさえてくれはったらしゅうて……」

吉田磯吉が、自分は人間の<ruby><rb>反古籠</rb><rt>ほうぐかご</rt></ruby>をもって任じている、といった言葉を、金五郎は思いだした。友田や花田などの錚々たる子分が、反古であるわけはないが、少くとも、雑種であることは間違いないらしい。親の心、子知らず、というのであろうか。花田準造は江木弥作親分から乞いうけて貰った子分といえば、一種の<ruby><rb>外様</rb><rt>とざま</rt></ruby>大名だ。<ruby><rb>譜代</rb><rt>ふだい</rt></ruby>大名である友田喜造とは、なにかと暗流を衝突させているのかも知れない。しかし、その<ruby><rb>軋轢</rb><rt>あつれき</rt></ruby>が、はからずも、森新之助には幸したわけである。仲直り宴の経費で、倒れるかと心配していたのに、吉田磯吉が金五郎のところへ届けてくれた祝儀で、急場を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぐことが出来た。二つの偶然が新之助を救ったことになるのだが、それが、敵か味方か、判じかねるものからの結果なので、狐につままれたような気持から抜けきれなかった。

それは金五郎とても同様だ。

（無用の闘争に、巻きこまれないようにしなくてはならぬ）

と、いよいよ、警戒心が湧くのである。

君香は、「この街が、なんや、<ruby><rb>怖</rb><rt>こお</rt></ruby>うなった」といい、あどけない無心の百合香に頬ずりしながら、ぽろぽろと涙を流した。そして、

「おマンはんも、今年は赤ちゃんが出来はるのやろ？　つまらん意地なんか捨てて、早よ呼び戻したがええのになあ」

姉のように、金五郎を<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>して、帰って行った。

二ヶ月ほどが過ぎ、真夏のころになって、ようやく金五郎の努力は<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>を結んだ。「若松港汽船積小頭組合」の発会式まで、どうにか漕ぎつけることが出来たのである。

とはいっても、その組合は完全なものではなかった。はじめから強力に反対し通していた友田喜造の共働組からは、一人の参加者もないうえに、栄盛組、大高組、三井物産、その他の中にも、加入しない小頭があった。それは、友田に気がねする者、組合の外にあって仕事を狙う野心家、組合の必要性に、まったく理解と関心とを持たない無知な者、などであったが、聯合組自体の中にすら、新参者である玉井金五郎の<ruby><rb>擡頭</rb><rt>たいとう</rt></ruby>を快く思わず、そっぽを向く者があった。しかしながら、曲りなりにも出来た小頭組合は、これまでは無統制の強い者勝ち、馬賊と海賊との修羅場に似ていた若松港湾の石炭荷役に、一つの秩序と規律とをあたえる基礎となったのである。

もっとも金五郎を支持してくれた大庭春吉は、結成式をあげる段取りになったことを聞くと、<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>顔でよろこんだ。

「お前を見こんだおれの眼は、狂わんじゃったのう。お前は、これからは、聯合組だけでのうて、若松港の大黒柱じゃ」

しかし、その言葉を聞いても、金五郎は、浮かぬ顔つきをしていた。

（女房が、組合を作ることに、一番、熱心に賛成しとったんじゃが……）

マンは泣いてよろこぶかも知れない。そのマンがいないことが、金五郎にはさびしくてならなかった。マンが逃げてから、なにをしても張りあいがなくなっていたが、精魂を打ちこんだ筈の組合がやっと出来あがっても、妙につまらぬ感じがしてならないのである。

大庭春吉には、そんな金五郎の気持などはわからないので、なおも、

「これからも、頑張ってくれ。どうで、お前が組合長に就任するとじゃろうけ、お前の力で、この喧嘩港を平和な模範港にしてくれ」

と、いうのであった。

「とんでもありません。わたしの小さい力では、とてもそんな大仕事は出来ません。皆さんと力を合わせて努めるだけです。それに、組合が出来たら、わたしなどのような若造は引っこんで、先輩の年功の方に、組合長になって貰います。わたしは<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>組合員で結構です」

幾度も準備世話人会が開かれた結果、聯合組の古参小頭、<ruby><rb>進藤利三</rb><rt>しんどうりぞう</rt></ruby>が組合長に決定した。金五郎は、責任ある位置につくことを堅く固辞したけれども、満場の推挙で、副組合長の役に据えられた。

小頭組合発会式の報を聞いた友田喜造は、

「ふン、半年もつづいたら、お目にかからんよ」

と、せせら笑ったということであった。

品川信健が、「若松実業新聞」の社説で、金五郎を賞讃した。漢学をやったという筆者の論調は激越で、これを読んだ金五郎を当惑させた。

「暴力をもって、正業の人士を<ruby><rb>扼</rb><rt>やく</rt></ruby>す。それ何ぞ、鬼畜に類するや。正義の徒、断乎、起つべし。最後の勝利は、吾にあり」

「吉田一派の弾圧と迫害とに屈せず、遂に小頭組合を結成せる玉井金五郎君に、満腔の拍手を送る。吾、彼に一個の英雄を見たり。百万人といえども行かんの気概、壮とせざるべけんや」

「同志よ、暗黒の中に、<ruby><rb>炬火</rb><rt>きょか</rt></ruby>をかかげたる玉井金五郎の後に続け」

そんな文句があって、金五郎は、顔が赤らんだ。（勇ましい社長さんじゃ）と思い、自分のことよりも、品川信健の身の上が案じられた。

快晴の日を選んで、中ノ島に伝馬船の洗濯に出かけた。

朝食のとき、

「今日は、伝馬タデに行くぞ」

金五郎がそういうと、子分連中は、ワアッと子供のように、歓声をあげてよろこんだ。

伝馬船は長くそのままにして置くと、船底の外部に、貝殻や、青苔がくっついて、船足が重くなる。おまけに、船板が痛んで、腐りが早い。それで、ときどき、陸に引きあげて、船の裏をきれいにこそぎ落し、火をたいて<ruby><rb>焙</rb><rt>あぶ</rt></ruby>る。これを方言で、「たでる」というが、仕事休みの日を利用して行われる。この「伝馬タデ」は、仲仕たちにとって、遠足のように、楽しいものであった。弁当がけ、酒肴持ちで、景色のよい浜辺に出かけるからである。

金五郎を隊長に、女仲仕もまじえて、十四五人、「玉井組」と彫りこんである大伝馬船二隻、小伝馬二隻に、それぞれ分乗して、聯合組岸壁の桟橋から、中ノ島に向かって漕ぎだした。<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>の入口、若松と戸畑に挟まっている中ノ島に着くと、早速、乗って来た伝馬船を、渚から白砂の浜に、引きあげた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たで</span>た。

四隻ともよく船裏を磨き、火で<ruby><rb>焙</rb><rt>あぶ</rt></ruby>って、コールタールを塗ると、仕事は終りである。あとは、泳ぐ者、魚を釣る者、干潟で、マテやアサリ貝を取る者、酒をのむ者、寝ころぶ者、など勝手放題、ゆるやかな波がよせてはかえす島の海岸で、時間をすごした。

褌ひとつで、金五郎は泳いだ。沖合に出て、左手の<ruby><rb>蓊鬱</rb><rt>おううつ</rt></ruby>と繁茂している中ノ島の大樹と、右手に望まれる緑屋の二階座敷とを見くらべながら、奇妙な感慨に浸っていた。

（あそこの二階で、お京と話をしながら、島の樹が風に鳴っているのを聞いたんじゃが、……その晩から、マンは居らんようになってしもうた。お京も、どこかへ行った）

そして、海水に洗われる左腕の青い龍と、その前肢の菊の花とを眺めて、さびしいような、腹立たしいような、滑稽のような気持で、波に浮いていると、すぐ耳のそばで、

「オヤジ」と、呼ぶ声が聞えた。

ふりかえると、谷口林助である。あまり水練の達者でない林助は、伝馬の船板をブイにして、浮いている。それで、金五郎のところへ泳ぎ寄って来たらしい。金五郎が微笑を返すと、

「わしに、四五日、暇をおくれんか？」

「どうして？」

「おマンを、わしが呼び返しに行って来ようかと思う」

「それなら、<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>っちょいてくれ」

「妹からの手紙によると、親父やお袋はもう大したこともないようにある。<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>が飛んで、親父は片眼はまるきり見えんようになったらしいけんど、片方が大丈夫じゃけ――眼は一つありゃええ、なんて、元気でいうとるらしい。そんなら、もう、おマンも帰って来りゃええのに、あれから三ヶ月にもなるとに戻ろうとせんし、……」

「時やんが、つれて帰るよ」

「それが、オヤジ、変じゃよ。時やんは、村に帰っちゃ居らんらしいで」

「そんな筈があるもんか」

「それでも、マンの手紙に、そう書いてある。それで、わしが<ruby><rb>帰</rb><rt>い</rt></ruby>んで来ようかと考えたわけじゃが……」

「要らんお世話」

投げつけるように叫んだ金五郎は、くるりと身体を廻すと、急に、はげしく抜き手を切って、沖に向かって泳ぎはじめた。

ぐんぐんと、沖合を目ざし、島を遠ざかって行くと、<ruby><rb>響灘</rb><rt>ひびきなだ</rt></ruby>の水平線のうえに、ぎらぎらと照りかえす純白の入道雲が、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たる行列をつくって、雲部隊の進軍のようである。せせこましい地上の出来事など、この太陽と、海原と、青空との壮大な交響楽の前には、<ruby><rb>塵芥</rb><rt>じんかい</rt></ruby>にも等しい。

（この海をこのまま泳ぎつづけて行けば、支那に行ける。この海は、支那大陸へ、一直線に続いている）

嘗て、青春の夢にとりつかれ、放浪と漂泊の情熱に全身を<ruby><rb>灼</rb><rt>や</rt></ruby>かれたとき、つねに、その若々しい志は、はるか支那の天地につながれていた。自由を求め、ひろびろとした世界に出て、龍となって昇天する筈であった。それなのに、今は、北九州の一角、若松という不自由の天地に、<ruby><rb>土龍</rb><rt>もぐら</rt></ruby>のように<ruby><rb>跼蹐</rb><rt>きょくせき</rt></ruby>している。泳ぎながら、金五郎は、左腕を見る。直径三寸ほどの白い筋肉の丸太のうえに、ものものしく眼玉を光らせた一匹の龍がいる。角や髭など生やし、えらそうにしているけれども、この腕の中から、出ることも出来ねば、動くことも出来ない。金五郎は、笑いだしたい衝動をしきりに感じた。

しかし、実は、金五郎の胸の中は、この哀れな龍よりも、もっと、せせこましく、偏狭になっていたのであった。

（どうも、マンと、時次郎とが、怪しい）

はじめて湧いた疑念である。

（おれが焼き餅を焼くなんて……）

邪念を蹴とばすように、心中で呶鳴ってみても、ひとたび、胸奥に生じた疑心暗鬼は消えなかった。

大川時次郎がマンに惚れ抜いていることは、百も承知だ。それなのに、マンを迎えに行くという時次郎の申し出を許したのは、マンを信じきっていたための寛厚さであった。マンの誤解は、いつか解ける日があるであろう。それまでは、一ヶ月帰らなくとも、三ヶ月帰らなくとも、一通の便りが来なくとも、金五郎は苦にしなかった。たとえ、その期間中、時次郎が傍にいたところで、心配はしない。まして、嫉妬の感情など、全然、湧かなかった。おどけ好きの金五郎は、それを面白がる気持さえ、なかったとはいえない。

ところが、林助から聞かされた言葉は、青天の<ruby><rb>霹靂</rb><rt>へきれき</rt></ruby>より、もっと、<ruby><rb>衝撃</rb><rt>しょうげき</rt></ruby>が大きかった。

（マンが、時次郎のいることを隠すとなれば、ただごとではない）

金五郎は、あたりが暗黒になるような昏迷と、絶望感とで、泳ぐ手から、次第に、力が抜けた。それでも引っかえす気にならず、機械のように、無意識に、なお、青空と白雲の隊列とを目標に、沖へ沖へと出て行った。手足の痺れるのを感じ、ときどき、くらくらと眼まいをおぼえた。それでも、金五郎の頭は、水平線の方角から動かなかった。

「おうい、オヤジい」

意識朦朧となりかかっても、なお泳ぎつづける金五郎の背後から、一隻の小伝馬船が、全速力で、追っかけて来た。「六ゾロの源」、清七、「中学生」の三人が乗っている。

金五郎は、伝馬船のうえに引きあげられた。

三人は、どうして自分たちの親分が、無茶な遠泳をしたかを知らない。それどころか、日ごろの水練上手を知っているので、いくらか疲れているのを見ても、格別、心配もしていなかった。追っかけて来たのは、別のことだった。

「早よ帰らんと、<ruby><rb>大時化</rb><rt>おおしけ</rt></ruby>になるちゅうて、中ノ島の漁師が話しよる」

それを告げに来たのである。

果して、夕刻ごろから、すさまじい突風を加えた大嵐になった。

玄界灘は若松の北方に位している。そのまた北方には、満洲があり、シベリヤがある。冬になると、北風の冷たさはお話にならない。しかし、夏でも、もっとも強烈な暴風はこの方角から吹くのを常とした。

昼間の上天気は仮面でもあったかのように、豪雨をまじえた北風は北九州の空を吹き荒れた。ときに、なぐりつけるように、風速二五メートルもの突風が、トタンの看板を飛ばし、屋根瓦をはぎ、掛け小屋を倒した。夜に入るにしたがって、雷鳴まで加わって、暗黒の中に、洞海湾は今にもくつがえるかとばかり煮えくりかえった。

「船を流すな」

闇のどこからか、金五郎の声がひびきわたる。声は風と雨とに消され勝ちだが、子分たちの耳には聞えた。

「大丈夫」

合言葉のように、誰かが答える。

中ノ島から、聯合組岸壁まで、どうにか漕ぎ帰ったころから、嵐の気ざしに出あったのだった。伝馬船は仲仕の生命だ。夕食などそっちのけで、四隻の船の防衛に当った。

たぎりたつ波に翻弄されて、岸につながれた多くの船は、舷を接し、もみあい、ぶっつかる。ギギイ、バリバリと、船体が分解してしまいそうな音が、あっちこっちで起る。艀や黒船の林立した柱が、振り子のように傾き、編んだように交錯する。折れるのもあった。どこからかわからないが、悲鳴のように、汽笛や、サイレンが鳴って、地獄の叫喚が現出されていた。

「<ruby><rb>纜綱</rb><rt>もやい</rt></ruby>が切れたあ」

そう喚いたのは、「ノロ甚」らしかった。

「よその船に、つないどけ」

金五郎はそう絶叫したが、もう返事がなかった。またたく間に、流されてしまったらしい。

「やっぱり、将棋のほかにはなにをやらしても、のろくさいのう。あの小伝馬にゃ、清七も乗っとったのとちがうか。清七の奴も、朝、頭をたたかれて、夕方ごろ、アイタというような奴じゃげ、よう揃うたもんじゃ」

金五郎は、かたわらにいた「六ゾロの源」に、そんなことをいって笑った。

「大丈夫じゃろか？」

「流されたところで、湾の奥の方じゃけ、それは心配ないが、……沈んだりすると、どっちも泳げん奴じゃからなあ」

「オヤジ、この嵐は朝までは止まんばい」

「徹夜で船を守るんじゃ」

暴風雨は勢を増す一方だった。

暗くてよくわからないけれども、どこの組からも人数がくりだされて、伝馬船の警戒がなされている。暗夜の中に黒い人かげが動き、カンテラの灯がちらつく。

金五郎は、桟橋の反対側にある大伝馬のことが気がかりになって、荒れ狂う船づたいに、桟橋に飛びあがった。危く足をふみ外して、海に落ちそうになった。やっと這いあがって、桟橋に立った。

正面からのはげしい風雨に、頭を突っこむように、身体を傾けて歩きだしたとき、いきなり、カンテラをなにかで殴った者があった。思わず取り落すと、ガラスが割れて、火が消えた。

「誰か、乱暴するのは？」

そう叫んだ金五郎の眼に、ばらばらと、五六人の人かげが自分を取りかこむのが見えた。稲妻の青い光の中に、その連中の一人々々が、それぞれ抜き身の日本刀、匕首を持っているのが認められた。

手ぶらの金五郎を、一気に斬りふせようという作戦らしく、暴漢たちは、金五郎にかまえる隙もあたえず、いっせいに、襲いかかって来た。

「名乗れ」

桟橋の突端に退いて、そう叫んだとき、金五郎は、背中と後頭部とに、はげしく殴られたような衝撃を受けた。よろめきながら、一人の暴漢を、右腕で小脇にかかえこみ、その匕首を奪いとった。そのとき、指の怪我をした。

「<ruby><rb>角助</rb><rt>かくすけ</rt></ruby>かあ？」

「そんな<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>じゃねえや」

<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れ声で、誰かが答えた。

「江崎満吉か？」

「馬鹿ぬかせ」

「友田組じゃな？」

「文句いわんと、斬られてしまえ」

身体が敏捷なのと、多少柔道の心得があるのと、持ちまえの糞度胸とで、これまでの喧嘩のときは、どうにか切り抜けて来たのだが、暗夜、足場の狭いところで、兇器を抜きつれた大勢の敵を相手にすることは、いままでのようには行かなかった。悪い条件が揃っていた。

「くたばりやがれ」

喚いて、無茶苦茶に、刀をふりまわし、突いて来る敵のために、金五郎は数ヶ所を斬られた。左の太股に、刀の切っ先を突き立てられて、桟橋の上に片膝と左手とを突いた。そのとき、前額部に、どっと、巨大な石でも落ちかかったような、するどい衝撃を感じた。自然に、頭が後へひかれると同時、顔中に、だらだらと生ぬくいものが流れ落ちた。それは眼に入り、口に入った。魚のように、生ぐさかった。

口中に入った血を、ぷッと吐きだし、

「吉田の身内か？」

そう呶鳴ったけれども、それはもう声にはならなかった。

雷鳴をとどろかせて、なおも吹き荒れる暴風雨が、ときどき、アセチリン<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>のように、稲妻の中に、まっ青に浮きあがる。湾内のどこかで、沈没する船でもあるのか、悲鳴と、汽笛と、鉦の音とが、しきりに鳴りひびいている。

金五郎は桟橋の上に倒れて、意識朦朧となりつつあった。全身を、刀と匕首とで、<ruby><rb>膾</rb><rt>なます</rt></ruby>のように突かれ、刻まれるのが、もはや、痛みのない麻痺の中で、はっきり、わかった。死という観念も、命という思想も、瀕死の神経には湧いて来ない。そして、気ちがいじみた奇妙な滑稽感が、金五郎の唇を苦笑で歪ませようとしていた。

「<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めを刺せ」

そんな声がかすかに、聞えた。

すると、それを聞いた瞬間、不思議なことに、突如、猛然と、（生きたい。殺されてたまるか）というはげしい生命慾がよみがえり、

「貴様らに、負けるか」

そんな言葉が口を突いて出た。しかし、それは全然言葉にはならず、蟹の泡のような、哀れな呟きにすぎなかった。起きあがろうとしたけれども、微動も出来なかった。そして、次第に、意識をうしなって行った。

金五郎が倒されるまでは、短い時間だった。「玉井組」の連中も気づかなかったほどである。

稲妻の青い光の中に、まっ先に怪しい光景を認めた「六ゾロの源」が、桟橋に飛びあがった。

「角助、待て」

と、叫んだ。

当てずっぽうではなかった。桟橋におどりあがった瞬間、きらめいた稲妻の青い光のなかに、源十の眼は、指の短い一つの手を鋭く認めたのである。<ruby><rb>生姜</rb><rt>しょうが</rt></ruby>のような、奇怪な形の青白い手だけが空間に浮かび、桟橋から岸壁の方へ飛び去ろうとしていた。

走った。夢中だった。

岸壁に繋留された大伝馬、小伝馬、サンパン、押売り船、などが、芋を洗うように、はげしい音を立ててもみあっている、その岸壁をすれすれに、角助は逃げて行く。稲妻の閃光のなかに、今度は手が二つ見えた。どちらも第一関節から先を何本か切断した指の形が、不思議にはっきり、病的な幻影に似た不気味さで、源十の眼を刺した。日本刀はどこかに捨てたらしい。

「角助、貴様、……」

若い源十は足が早い。<ruby><rb>蟹股</rb><rt>がにまた</rt></ruby>で逃げる角助は、すぐに追いつかれた。黒い雨合羽を頭から被った角助は、後から抱きついた源十のために投げたおされた。

起きあがろうとするのに、飛びかかってねじ伏せた。暴風雨はなおはげしく、二人の転んだところは水のたまった泥沼だ。まるで、二人ともドブ鼠である。格闘しているうえを電光が照らす。

角助は、金五郎を殺したと思っている。源十は、オヤジを殺されたと思っている。どちらも必死だった。しかし、どちらも武器がない。ただ、組んずはつれつしながら、叩きあいをしているばかりだ。

ところが、数分の後に、角助は、源十の<ruby><rb>打擲</rb><rt>ちょうちゃく</rt></ruby>の下に、急におとなしくなった。「六ゾロの源」はもう無我夢中である。狂気に近かった。金五郎を慕う心が、この誠実で一本気の男を逆上させたのである。いつか、赤煉瓦のかけらが、右手に堅く握りしめられていた。異様な呻きに似た声を発しながら、それを力まかせに、角助の頭に打ちおろしていた。角助が動かなくなっても、頭蓋骨を砕く力を抜こうとしなかった。源十はここに一個の機械と化したごとくである。

そして、おかしなことに、痴呆のごとくなった源十の口をついて、

「おマンさん、おマンさん、……おマンさん、……」

その言葉が、これも蓄音機のように、単調に、間断なく、吐きだされているのだった。

やがて、桟橋上での異変がみんなの知るところとなった。大騒ぎになった。

「玉井金五郎が殺された」

その報は、たちまち、波紋のようにひろがった。

暴徒たちは一人のこらず逃げ去っていた。一本の日本刀が、桟橋の根につながれてある小伝馬船の中に見出された。角助は海中に投じたつもりであったのである。

海岸派出所の巡査がかけつけて来た。水上警察署からもやって来た。桟橋は黒山の人だかりになった。

玉井組の子分連中は、狂気のようになって、敵を探し求めたが、もはや、一人として捕えることは出来なかった。源十と角助とが発見されたのは、しばらく時間が経ってからである。

子分連中は、なお吹き荒れる嵐の中で、文字どおり、天を仰ぎ、男泣きに、<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>した。

無残な金五郎の身体は、戸板に乗せられて、病院にかつぎこまれた。

幾時間経ったのか、何日がすぎたのか、時日の経過など、まるでわからなかった。生と死との境を夢幻の気持でさまよう金五郎には、もはや、苦痛の感覚もなく、喜怒哀楽の感情もうごかない。ただ、奇妙なことに、いいようもない<ruby><rb>寂寥</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>感だけが残っていて、

（どこか、誰もいないところへ逃げだしたい）

そんな脱出の欲望が、身うごき一つ出来ぬ癖に、発作的におこるのみであった。

……ものものしい白衣の手術着や、マスク、メス、鉄、血と石炭酸のにおい。それから、ばらばらに解体した玩具を修繕でもするように、つなぎあわせてぐるぐる巻きにした白い繃帯。ベッドのうえに、そんな哀れな姿で横たわっている青ざめた金五郎は、誰の眼にも、死んでいるものとしか見えないのに、本人はどこかへ行きたくて仕方がないのである。

病室の中には、陰気くさい空気がたれこめている。重苦しい。窓には明かるい外気があたっているけれども、カーテンがそれを遮断している。

医者が、入って来た。うしろに、銀色の箱を持った看護婦がしたがっている。

医学博士の鹿爪らしい八字髭と、金縁眼鏡とを眺めて、金五郎はいった。

「散歩させてくれませんか」

「とんでもない」医師はびっくりして、「一尺動いたら、死んでしまうよ」

「そんなら、そこの窓から、外を見せて下さい」

「カーテンを引きなさい」

命ぜられた看護婦が、静かにカーテンをめくった。

上部につけられた<ruby><rb>環</rb><rt>かん</rt></ruby>の金属音が、鈴を鳴らすように、金五郎の耳に、こころよくひびいた。それよりも、彼の眼を奪ったものは、窓外のすばらしい青空である。指をさしだせば染まりそうに濃い。高く、深く、底なしに澄んで、そこに、馬の形をした雲が、しきりに、早い速力で飛んでいる。白馬の競走のようだ。

「窓を開いて下さい」

と、金五郎は弾んだ語調でいった。

「窓ガラスをお<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>け」

看護婦が、また、窓を開いた。

金五郎は、いきなり、ベッドの上に立ちあがった。

医者と看護婦とは仰天して、両方から、金五郎の腕を捕えた。

「なにを、無茶なことを……」

「離せ。昇天するんじゃ」

絶叫した金五郎は、ウンと、一つ弾みをつけて、跳躍した。窓から飛びだした。頭と<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>とを青空に向け、泳ぐように、両手を天に向かってさしだした。

しかし、次の瞬間、金五郎が自分の身体を発見したのは、天上ではなかった。<ruby><rb>地面</rb><rt>じべた</rt></ruby>である。しかも、いつか、龍に化している長たらしい全身から、鱗が一枚ずつ<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げ落ちて、ウナギに似た無残さになっていた。そして、金五郎は、自分の前肢が空っぽになっていることに気づいたのである。大事につかんでいた筈の菊の花束がない。

「畜生」

禿げちょろの龍は、口惜しさで、地上をのたうちまわった。さらに、音を立てて、鱗が落ちる。

まっ青な天には、相かわらず、白馬の群が快適な逸走をつづけている。

力尽きようとしたとき、瀕死の耳に、

「あなた」

女の声が、息のかかる近さで聞えた。

龍は七転八倒するのをやめて、耳を傾けた。

その声は、聞いたことのあるような声でもあれば、まるで知らない声のようでもあった。毎日聞きなれた声のようでもあり、一度も聞いたことのない声のようでもある。

しかし、その声が、ふたたび、

「あなた」

前よりも、一層大きく、近く、鼓膜をふるわせてひびいたとき、金五郎は、全身に電流のようなものがつたわるのを感じた。すると、地面に、花びらをまき散らしたように、剥げ落ちていた鱗が、あたかも、強力な磁石で吸いよせられるように、一枚ずつ、音を立てて、身体に飛びかえって来た。気がつくと、いつか、前肢には、ふさふさとした菊の花束が握られている。

その美しい花の色が眼を射、強い芳香が鼻孔をえぐったとき、龍は、唐突に、一つのことを思いだしていた。一間四角の箱である。それは、上海コレラ騒動のとき、とじこめられた掘立小屋だ。この箱の中にさし入れされた、菊の花のにおいにむせたことがある。そのときの菊と、今、手にしている花と、においが寸分ちがわない。

「あなた」

と、また、聞えた。

金五郎は、うすく、眼を開いた。意識が朦朧としていて、夢と現実との境がはっきりしなかったけれども、霞をかけたような視野の中に、幻のように、妻の顔を認めることが出来た。

「マン」

反射的に、その声が出た。しかし、それは、呟きのように低く、力のない声で、かすかに、唇が動いた程度にすぎなかった。マン一人に聞きとれただけだ。

そして、マンがはげしく号泣する声を聞きながら、金五郎は人事不省におち入り、またも、深い昏睡の中に、意識をうしなって行った。そこには、もはや、夢もなく、死の暗黒があるばかりだった。

病室には、マンの外、子分連中と四五人の見舞客がいた。

嵐の夜、金五郎が奇禍に遭って以来、病室には客が殺到した。しかし、「玉井金五郎が殺された」――それは決定的な噂になって、街にひろがっていたので、どの客の顔も沈痛だった。誰も見舞ではなく、お<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>みに来るのである。

常に金五郎の後楯になっていた大庭春吉の歎きは大きかった。

「おれが殺したようなもんじゃ」

そういって、男泣きに泣いた。

「親方」と、永田杢次も涙をためて、大庭春吉にいうのだった。「わたしが甲斐性なしだもんで、玉井をこげな目に逢わせることになったとですよ。わたしが殺したというてもええです」

しかし、もっともはげしい歎きと悲しみとに打ちのめされていたのは、マンであったことはいうまでもない。マンは、発狂の一歩手前にあるといってよかった。しっかり者といわれ、どんな困難や危険の前にも、男以上に立ちむかって来たのに、今、夫の死に逢おうとして、半狂乱になっていた。

「オヤジカクスケニキラレタ」セイメイキトク」マツモトシゲオ」

広島に来たその子分からの電報で、宙を飛ぶようにして、帰って来たのだが、帰る途中も、帰ってからも、

（夫を殺したのは、あたしだわ）

その恐しい自責の念が抜けなかった。

（あたしがいたら、こんなことにはならなかった）

そんな気がするのであった。

誤解と誤解とが衝突して、馬鹿げた結果を招いたことは、もう、マンにはわかっていた。人間の小さな感情が、命にかかわる大事をひきおこす。マンは泣いても泣ききれなかった。

森新之助夫婦に逢って、染奴と金五郎とのことを聞き、夫の潔白を知った。君香の手紙とばかり信じこんでいたものが染奴のからくりであったこともわかった。

「金さんのような人は珍しいわ。どんな男でも、お京はんみたよなええ<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>からいい寄られて、肱鉄食わすことなんて、でけへん。それも、おマンさん、みんなあんたはんに操を立ててのことやで」

君香からそういわれても、後の祭、追っつくことではなかった。

しかし、マンは、金五郎の方も、自分を疑っていたと知って、身ぶるいのする思いがした。

兄の林助から、

「オヤジは、お前と時やんとが、田舎で、都合ようやっとるように考えとったらしいぞ。時やんはお前を迎えに行くというて、広島に帰ったとに、お前が手紙の中に、時やんは居らん、なんて、書いて来るもんじゃけえ……」

そういわれて、びっくりした。

「でも、ほんとうに居らんのじゃもん」

「時やんが迎えに行っても、二ヶ月も三ヶ月も帰らんのなら、おれが迎えに行かにゃ、オヤジにすまんと思うたんじゃ」

「おかしいわねえ。時やんはどうしたのか知らん？……あたしは、ずっと、峯から出たことなかったのに、時やんが帰ったなんて、誰からも聞いたことないわ」

「ふウン……？　オヤジは、もうお前と時やんとがくっついて、それを隠しとるように……」

「そんなあたしと思うなんて、……」

マンは、口惜しい。

しかし、今さらなにをどういってみたところで、金五郎が斬られて、死に瀕しているという現実を、どうしようもないのであった。マンは、暗黒の中にたたずむ気持で、ただ、狂うことからわずかにまぬがれているだけである。そのマンの悲しさを、そのまま、受けとるかのように、腹の中の子供がはげしく動く。胎児は生長して、マンの妊娠腹は、もう、誰の眼にも目立つようになっていた。

（<ruby><rb>父</rb><rt>てて</rt></ruby>なし子になるのか？）

それを思うと、マンは、すでに、自分の人生は終ったような絶望感に捕われて、生きて行く勇気をうしなおうとするのだった。

しかし、金五郎の命は、たびたび、消えはてようとして、なお、細々と、息をつないでいた。

「駄目でしょうかね？」

気づかわしげに<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねる大庭春吉に、外科病院の院長、浜野健一郎博士も、首をひねりながら、答えるのだった。

「不思議ですなあ。普通の者だったら、とっくに死んでいますよ。手当としては、もうこれ以上のやりようはないですが、……ひょっとしたら、命を取りとめるかも知れません。今日明日というところが峠です」

その日の夕刻近く、看護婦が見舞客を取り次いで来た。

「島村ギン、という女の方が、御面会ですが、……」

「ドテラ婆」である。

マンの眼がギラッと光った。

マンは、床に敷かれた畳のうえで、煙草をのんでいた。「ドテラ婆」が来たと聞かされると、あらためて新しい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きざみ</span>をつめなおし、ゆっくりと、マッチで火をつけた。雁首を口にくわえ、こころもち身体を後に反らせるくらい、胸を大きく張って、<ruby><rb>深々</rb><rt>ふかぶか</rt></ruby>と、一服を吸った。くるりと二つの乳房の張った鳩胸と、妊娠七ヶ月の太鼓腹とが、奇妙な瓢箪のようである。

ふうッと、煙をはきだし、

「どうしますか？」

という松本重雄の緊張した顔に、

「通して」

凜とした語調で答えて、立ちあがった。躊躇するところなく、金五郎の寝ているベッドを廻って、枕元の右手に行った。そこには、ベッドの藁蒲団と、鉄座との間に、助広の短刀が隠してあるのである。手をさしこんでみて、<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を触り、あることを確かめた。

（夫をこんなむごい目にあわせたのは、ドテラ婆じゃ）

それを疑うことは出来ない。

あの夜、金五郎を襲撃した兇漢たちは、まだ誰も捕まらない。張本人の平尾角助は、発見されたけれども、頭を砕かれて、絶命していた。夢中で殺人罪を犯した松川源十は、警察に留置されている。

「六ゾロの源」は、警察官の<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>にはっきりと答えた。

「オヤジを襲った人数が、何人であったか、誰であったか、あの咄嗟の場合ではわかりませんでした。しかし、角助が大将になって、そいつ等を率いて来たことは、太鼓判を押します。そして、その角助に、オヤジを殺すように、命令を降したのが、「ドテラ婆」にちがいないことも、もう<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>廻り、大きい太鼓判を押します。死人に口がないからというて、「ドテラ婆」にいいのがれはさせません。あの鬼婆とわたしとを逢わせて下さい」

源十は、泣いて、「ドテラ婆」との対決を懇請したけれども、それは許されなかった。

「困った事件が起ったわい」

と、警察署長も首をひねり、ほとほと、思案に暮れていたということである。

証拠もないのに、単なる噂や、子分たちの申し立てによって、島村ギンを逮捕することは出来ない。ことに、ギンと友田喜造とは密接な関係があり、友田には、「吉田天皇」と称せられる、吉田磯吉という強力な後楯がある。うっかりギンに疑いをかけた行動をとれば、どんなうるさい政治問題が起らぬともかぎらないのだった。しかし、「オヤジを殺したのは、「ドテラ婆」だ」――それは、玉井一家の動かすべからざる確信であった。

扉が開いた。

「ドテラ婆」が、入って来た。てらてらと艶のある浅黒い顔全体に、妙におどおどした、ひどく当惑したいろが漂っている。相かわらずの大丸髷、夏でも脱いだことのない綿入れのチャンチャンコ。そして、女角力のような肥った身体を、すりよせるような、警戒心に溢れた歩みで、金五郎の枕元に運んだ。

その後から、ぞろぞろと、四五人の子分たちがつづいて入った。廊下にも、七八人、ひしめいている様子である。

こちらは、松本重雄、「ノロ甚」、「中学生」の俊次、それに、マンだけしかいなかった。

ギンは、マンを見ると、黄色い声でいった。

「あんたが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さんな？　玉井さんが斬られたちなあ。気の毒なことが出来たもんじゃなあ」

マンは、そっと、ベッドの下に手をさしこんだ。<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を握りしめると、すらりと、刀を引き抜いた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん、あんた、ほんとに、心配じゃろ？　あんたの気持、おれにはようわかるよ。おれの親父が、やっぱ、喧嘩で、こげな目に逢うたことがあるけん。……それで、どげな風な？」

容体を訊ねたのに、相手が答えようとしないので、ギンは、臆病そうな眼つきで、マンを見た。

内側にまくれこむほど、唇をきっと結び、豹のような鋭い<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、瞬きもせず、自分を凝視しているマンの血走った顔に、ギンはぎょっとした。眉は吊りあがり、瞳には、怒りと、憎しみと、復讐のいろとが、燐光のように燃えている。<ruby><rb>後手</rb><rt>うしろで</rt></ruby>に隠している刀は見えなかったけれども、大きく波打っている肩と胸とに、不気味な殺気があった。

それでなくてさえ、びくびくもので入って来たギンは、たじたじとなる思いで、二三歩、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>ずさった。急に、あわてたように、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん、おもがな、今日来たのはな、あんたに<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>、いうて置きたいことがあったけんじゃ。おれも困ったよ。今度のこと、玉井さんやあんただちにとっても、<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>じゃったことはようわかっとるが、……これが、おれの方にも、こたえた。角助の馬鹿たれ奴、バクチで、小倉監獄にかまうちょったけ、ええ厄介払いが出来たと思うとったのに、いつ出て来やがったのか、玉井さんにこげなことをしちょる。おれは、なんにも知らん。……ほんとに、……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん、おれを信用しておくれ。世間じゃ、まるで、おれが玉井さんを殺したようにいいよる。角助の奴が勝手にやったことで、おれはなんの関係もないのに。……ほんとじゃよ。おれが、なんで、玉井さんのような立派な男を殺すわけあいがあろうか。それなのに、玉井組の若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>が、おれを恨んで、おれの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>になぐりこみを掛ける、ちゅう噂を聞いたもんじゃけ、おれはびっくりして、飛んで来たんじゃ。……な、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>、おれを恨むのは筋ちがいばい。おれは、心から、玉井さんの災難を気の毒に思うとるんじゃよ」

早口で、追っかけられるように、ギンは弁解する。

歯を食いしばって、相手を睨みすえていたマンの眼から、すこしずつ、強い光が消えて行った。刀の柄を握りしめていた右手からも、力が抜けた。

（さし殺して、自分も死のう）

そんな張りつめた気持でいたのに、マンは、いつか、ささくれだった復讐の念をうしなっていた。

女侠客として、勇名のとどろいている「ドテラ婆」、それにしては、意外にだらしのない態度である。堂々と、金五郎を嘲笑し、<ruby><rb>止</rb><rt>とと</rt></ruby>めを刺しに来たのかと思った。子分を十四五人も引き具している。ところが、ギンは、ひたすらに、弁明につとめるばかりだ。ふるえてさえいる。つれて来た子分は、玉井一家の仕返しを恐れる、自分の護身のためらしい。戦意などは微塵もない。はじめから降伏しているといってもよい。

それを見ると、マンは、憎しみや怒りよりも、はげしい軽侮の念が湧いて来て、（こんな虫けら同然の女と、さしちがいなどしたくない）その気持になったのであった。

また、ギンがしゃべっているとき、金五郎が身うごきして<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いた。それは無意識に発した苦痛の声であったろうが、マンの耳には、

「女の癖に、出しゃばるな。引っこんどれ」

そういう、はっきりした言葉になって聞えた。

しかし、ほんとうに、マンを静まらせたのは、腹の中の子である。どうしたのか、胎児はしきりに<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れて、母親へなにかを告げようとしているかのようだった。興奮していたマンが、生まれ出る子に気づいた瞬間、完全に、危険な想念が消えていた。

その日から、なお、金五郎に昏睡の日がつづいた。

病室の表に、「面会謝絶」の札が掛けられた。

吉田磯吉や、花田準造、品川信健なども、見舞に来たが、浜野病院長は、患者に逢わせることを差し控えた。いずれも見舞の品を置いて帰った。

井上安五郎がやって来た。父に話し、金物商組合からの見舞品を、届ける役を買って出たのである。正義感に溢れるこの青年は、玉井金五郎の遭難を、街中の誰よりも歎き悲しんだ。まだ一度も話したことはなかったけれども、心の中では、もっとも信ずるに足る人、すでに、同志としての強い結合さえ感じていたのである。それだけに、怒りも大きかった。

（この若松は、なんという野蛮な暴力の街だろう）

しかし、安五郎は、それを恐れる心よりも、その理不尽を除去しなくてはならぬ、という強い情熱と勇気とを、若々しい胸にたぎらせているのであった。

「<ruby><rb>一目</rb><rt>ひとめ</rt></ruby>だけで、結構なのですが、……」

病院の玄関で、懇請したけれども許されなかった。

「どなたの面会も、お断わりして居りますから」

「それでは、これを……」

やむなく、見舞品を置いて、<ruby><rb>虚</rb><rt>むな</rt></ruby>しく帰らなければならなかった。力のない足どりで、街の方へ引き返しながら、

（どうぞ、死なないで下さい）

と、心の底から祈った。

マンは、帰った次の日の朝から、三社詣りを欠かさなかった。氏神の白山神社、<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>神社、金比羅神社の三社へ、早朝、日参をして、「お<ruby><rb>百度</rb><rt>ひゃくど</rt></ruby>」を踏んだ。

まだ真暗な、深夜といってよい午前三時から起きて、まず、白山神社に出かける。百段ある高い石段を登る。鬱蒼たる森林が風にざわめき、高い杉のうえで、フクロウが鳴く。キョーン、と鋭い狐の声が聞えるときもある。しかし、マンは、不気味さも、恐怖も忘れて、<ruby><rb>洗足</rb><rt>はだし</rt></ruby>になって、神前を、百回、往復した。

暗黒の金比羅神社も、蛭子神社も、その凄さは白山神社に劣らない。合掌したまま、土の上を踏む一心不乱のマンには、夫の生還を祈る心のほか、なに一つ余念はなかった。その切なさのあまり、

（もし、夫の命を奪うのだったら、この世に、神様というものはない）

そんな突きつめた気持さえ湧くのだった。

三つ目の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>で、「お百度」が終るころ、東の空が白んで来る。明かるい太陽の光線がさして来る。それは、あたかも、死の暗夜から、生の朝がよみがえったように、マンには感じられる。

（こんな風に、夫も生きかえってくれれば……）

そう思うと、そんな気がして、宙を飛ぶように、病院へ走って帰る。しかし、金五郎は、昏々と眠って、なお、死の谷の中に横たわっているのであった。

五日目の朝、マンが三社詣りから帰って来たときである。

これまで、動くこともしなかった金五郎が、苦しそうに呻いて、顔をねじまげた。

「あなた」

思わず、マンが呼ぶと、うすく、眼を開いた。

「マンか？」

「はい」

「ラムネをくれ」

「はい、ちょっと、待って」

そう答えると、うれしさで、息がつまりそうだった。ぼろぼろと、堰を切ったように、マンの眼から、大粒の涙があふれ落ちた。

秋風が立ちはじめるころになって、金五郎は退院することが出来た。無論、まだ仕事をすることなどは思いも寄らなかったけれども、杖をつけば歩けるほどになったので、自宅で静養することにしたのである。

大よろこびの大庭春吉は、持ち前の<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>顔を、さらににこにここ綻ばせて、病院長の浜野博士に、礼を述べた。

「ありがとうございました。玉井の命を取りとめたのも、みんな先生のおかげです。この御恩は、終生、忘れません。玉井に代って、お礼を申します」

「いや」と、温厚な浜野博士は、当惑した面持で、「どうも、変ですよ。玉井さんの命を救ったのは、僕ではないようですな。この間も申しあげたように、普通の者だったら、あれだけの傷を受けて、三日とは生きて居られませんよ。即死するでしょうね。おどろいた頑強さです。<ruby><rb>不死身</rb><rt>ふじみ</rt></ruby>という感じを受けました」

「不死身――ああ、そういえば、昔も似たようなことがありましたよ。もう三年ほど前になりますかな？……門司で、大層、上海コレラが流行ったことがあるでしょう？」

「知っています。毎日、何百人といって罹病し、何十人といって死にましたね。僕も、専門ちがいですが、医者の手が足りないということで、応援に行きましたよ」

「そのときです。玉井は、あれの弟分の、ほら、今、<ruby><rb>三内町</rb><rt>さんないまち</rt></ruby>で、「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」という料理屋をやっている森新之助、その森と二人で、コレラ患者のまっただ中で、まっ裸になって、毎日、仲間を介抱したのに、コレラにかからなかったんですよ。――コレラのバイキンの海の中で、平気でいた不死身男。……なんて、新聞に、写真入りで書かれました」

「致命傷がなかったのも幸でしたね。なにしろ、相手は、首魁の角助をはじめとして、剣客でもなんでもない。腕の鈍いのが、<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>くら刀を、しかも、びくびくもので、やたらに振りまわしただけ。それに、玉井さんは雨合羽を着ていましたから、急所を外れています。……いずれにしろ、死を免れたのはなによりでした」

「よっぽど葬式を出すのかと思いましたよ。葬式はあまり好きではありませんからな」

「医者も、お寺とはあまり仲よくしたくありませんよ」

そうして、親分と博士とは、明かるい声を立てて笑いあった。

金五郎が人力車に乗せられて、病院の玄関を出て行くとき、群衆の中にまじって、ひそかに、これを見送っているお京の姿があった。

病みあがりででもあるのか、豊艶であった顔は青白く、ひどく痩せが目立っている。水々しかった銀杏返しの頭も、洗い髪にしているが、油気が抜け、ほつれ毛がたれさがったまま、張りのある眼にだけ、なお、昔ながらの<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しい光がただよっているけれども、それすらも弱々しく、深い憂いのいろに彩られていた。その眼に、うっすらと、涙がたまっている。

プッ、プウッと、ラッパの音とともに、数台の人力車は、街の方へ、ゆるやかな速度で出て行った。先登の車に、大庭春吉、次に、金五郎、その後に、マン。いずれも、<ruby><rb>幌</rb><rt>ほろ</rt></ruby>が被せられていて、顔は見えない。幌の小さいセルロイド窓から、金五郎の白い繃帯だけがちらちらした。

お京は、かたわらの胡蝶屋豆八をかえりみた。その耳に口をつけて、なにか、ささやいた。豆八は、深刻な顔つきをして、何度も、しきりと、うなずいた。その豆八の眼にも、涙が光っている。

群集の中に、お京の姿は消えた。

北九州の空に、満洲シベリヤの野から、日本海を渡って来る寒風が吹きはじめる。

十二月に入ると、すぐに、蛭子神社の大祭だ。祭は春と冬との二季に行われるが、冬の方が本祭である。近郊近在からの参詣客で、毎年、<ruby><rb>鼎</rb><rt>かなえ</rt></ruby>のたぎる盛況を呈するのを常とした。

「オヤジ、サーカスにつれて行って下さい」

一週間も前から、「中学生」の俊次は、金五郎にねだっていた。

金五郎も、もう、杖なしで自由に歩けるようになっていたので、

「今年は、おれの快気祝いを兼ねて、玉井組全部、「<ruby><rb>蛭子座</rb><rt>えびすざ</rt></ruby>」に坐ろうと思うとる。サーカスでも、ロクロ首でも、八幡の藪しらべでも、なんでも、つれて行ってやるぞ」

上機嫌で、そんなことをいった。

祭の第一日目に、早朝から、「蛭子座」が開かれる。社殿とは別に建てられた広い拝殿で、参拝者が座につく。エビと<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>つきの膳で、<ruby><rb>神酒</rb><rt>みき</rt></ruby>をのみ、打ち込みをして、縁起を祝うのである。希望者が多いので、なかなかその資格が得られないのだが、金五郎は、なんとかして、今年は玉井組全員、「蛭子座」に就きたいと考えていた。

「マン、お前も坐れよ」

「さあ……？」マンは、小首をひねって、「ウフフ……、こんなドン腹で、……」

「ドン腹だって、恥かしいことあるもんか」

「恥かしいことはないけんど、「蛭子座」のまん中で、産気づきでもしたら、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>やわ」

「なお、めでたいじゃないか。産婆さんを雇うで、隣りに置いといてやるけ、お前も来い」

「そんなこと、……」

すると、横から、松本重雄が声を落して、

「オヤジ」

「うん？」

「変な噂がありよるですよ。床屋で話しよったが、――玉井組が全員、「蛭子座」に坐るというなら友田組も全部坐って、なにかの因縁をつけて、今度は根こそぎ、玉井組をやっつけてしまう。……なんて、気をつけたがええです」

「またか。うるさいのう」金五郎は、舌打ちしたが、<ruby><rb>闊達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>に笑って、「勝手にさせちょけ。おれは一度死んだ人間じゃ。もう、どんなことが来たって、恐いことはない。どこまで彼奴等の無茶が通るか、こうなったら、<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>くらべじゃよ」

死の谷を抜けて来て、金五郎には、自分でもよくわからぬ、なにかの新しい力が、自分に附与された思いがしていた。後退するよりも、さらに前進する勇気が、身内に溢れている。

金五郎は、ようやく繃帯の取れた額に手をやった。横なぐりに叩きつけられた鈍刀で、頭の皮が帽子をぬぐようにめくれた。それをまた被せて縫ったところが、三日月型の大きな傷になっている。そこから、たくさんの血が流れ出たが、そのかわりに、なにか新しい元素のようなものが、注入されたようであった。

（もう、おれは、二度と死なない）

そんな奇妙な自信も生まれていた。

十二月三日、寒風の中に<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>がまじった。

未明、玉井組の連中は、新しい半纏姿で、新仲町の家に勢揃いした。ここでも、<ruby><rb>神酒</rb><rt>みき</rt></ruby>をひっかけ、まだ暗いので、弓張提灯を持って、金五郎先登に、蛭子神社へ出かけた。

産婆に注意されて、マンは家に残った。

東の空が白み、「蛭子座」で、神主が<ruby><rb>祝詞</rb><rt>のりと</rt></ruby>を読みはじめたとき、あわただしく、女中のジュンが飛んで来た。

「オヤジさん、男の子が生まれましたよ」

「蛭子座」で、一騒動持ちあがるかと思われたが、それは噂だけで、なにごともなく終った。

マンの生んだ男の子に命名するために、金五郎は数日の楽しい苦吟をした。そのとき、文字を知らず、学問のない悲しさを味わった。それでも、人に頼む気にならず、漢和大字典だの、暦や、姓名学の本などと首引きをした。

それを見て、マンも笑いながら、

「どんな名をつけなさるの？」

「人に負けんような、ええ名をつけてやるんじゃ」

「そんなら、<ruby><rb>勝</rb><rt>カツ</rt></ruby>という字を入れたらええのに」

「そうじゃなあ……？」

「あなた」

「うん」

「あたし、今、気がついたけど、今年は<ruby><rb>丙午</rb><rt>ひのえうま</rt></ruby>よ。女でのうてよかったわ。丙午の女ははげしすぎて、男を食う、男を殺す、なんて、昔からいうけん」

「そんなこた、迷信じゃよ。……じゃが、今年は、いろいろ、苦しいことは多かったけど、忘れられん年じゃったなあ。若松に移ったのも今年、玉井組の看板をかけたのも今年、お前とはげしい夫婦喧嘩したのも今年、殺されて生き返ったのも今年、跡継ぎの男の子が生まれたのも、今年、……」

「それから、四円七拾銭もの高い時計を買うたのも、今年」

「明治三十九年――先になってから、記念の年になるなあ」

「先になって？　あたしがお婆さんになったとき？」

「おれが<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>になったとき。そのときは、この子も大きゅうなっとるぞ。……そうじゃ。<ruby><rb>勝</rb><rt>かつ</rt></ruby>、という字を入れた名にしてやろ。……勝、勝、……勝、何がええかのう？……」

誕生五日目に、やっと、「<ruby><rb>勝則</rb><rt>カツノリ</rt></ruby>」という名が出来た。それを、日本紙に、例の我流の<ruby><rb>肉太字</rb><rt>にくぶとじ</rt></ruby>で書いて神棚の下に貼りつけた。

ところが、困った問題が起こったのである。戸籍がないのであった。金五郎も、マンも、故郷を無断で飛びだしているので、若松に籍がない。早く寄留をしなければと何度か相談はしたのに、そのためには、郷里へ帰るか、手紙で連絡するかしなければならないので、つい、ずるずるになっていた。

「どうしたもんかなあ？」

夫婦は、ほとほと、途方に暮れた。なんにも知らずに、可愛い眼をぱちくりさせている赤ン坊を眺めては、夫婦顔見あわせ、来る日ごとに、ため息をついた。

永田杢次が見るに見かねて、

「わしに委せときなさい、こんなときくらい、腑抜けの<ruby><rb>呆作</rb><rt>ほけさく</rt></ruby>のわしでも、役に立つかも知れん。わしが手続をして来てあげよう。なに、気の毒がることはない。<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の入湯、それに、宮島詰りをすると思やええ」

そういって、わざわざ、四国と広島とに行ってくれた。

「玉井組」の仕事は、順調に<ruby><rb>捗</rb><rt>はかど</rt></ruby>っていた。松川源十が小倉監獄に収容された後、松本重雄がボーシンとなって、金五郎を助けた。金五郎も、十二月には、聯合組事務所に顔を出し、ときには、現場の見まわりも出来るようになっていた。

歳晩近くなって、永田杢次はがっかりした顔で、帰って来た。

「おれはなにやっても<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>らんのう。戸籍取りも出来んが。いやはや」

苦笑して、頭をかいた。

年が、明けた。

元日、勝則に、新調の晴衣を着せ、夫婦揃って、氏神の白山神社に宮詣りをした。

赤ン坊は色が白く、近所の人たちが、

「ゴンゾの子に、よう、こげな可愛い子が出来たもんじゃ。カラスがトンビを生んだちゅうのは、このことたい」

などというので、マンはうれしくて仕方がなかった。

それで、もっと息子をきれいにしてやろうと考え、銭湯につれて行くと、<ruby><rb>糠</rb><rt>ぬか</rt></ruby>袋と卵の自身とで、ゴシゴシ磨き立てて、とうとう、赤ン坊の顔をすりむいてしまった。

戸籍のことはなかなか解決しない。両方の籍から抜いて、結婚届をした上、出生届を出さなくてはならないので、おいそれと行きそうもなかった。

「<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>をいつまでも籍なしで、置いといちゃいかんばい。お前たちの方は先になってもええが。とりあえず、息子はわしの方の籍にでも入れといたら、どうな？」

永田杢次のその言葉にしたがって、勝則を、永田家の二男として入籍した。ところが、誕生日は昨年の十二月三日であるといっても、規則一点張りの戸籍係りが、頑として聞き入れない。そのため謄本には、明治四十年一月二十五日生として記帳された。

冬の蛭子祭が近づいた。勝則が、ようやく障子の桟をつたいながら、歩けるようになったころ、マンは、顔を染めて夫にいった。

「あなた、また、出来たらしいわ」

「なにが？」

「赤ちゃんよ」

「へえエ、勝則が出来るまでは、お前は<ruby><rb>石女</rb><rt>うまずめ</rt></ruby>かと思うちょったが、出口がついたと見えるのう」

「今年は、女の子ならええけど、……」

翌年、女の子が生まれた。<ruby><rb>文子</rb><rt>ふみこ</rt></ruby>と命名。

それから、マンは、まるで、命の製造機械かなにかのように、次々と、子供を生んだ。そして、<ruby><rb>年子</rb><rt>としご</rt></ruby>のようにして、勝則、文子、政雄、秀子、国子、と、家族が増してゆく間に、「玉井組」も次第に膨脹して、時代は、明治から、大正に移っていた。

大正三年一月十二日、桜島が大爆発をした。鹿児島南端の山から吹きあげた火山灰は、風に乗って、北九州の空まで流れて来た。勝則は、小学二年生であったが、学校の校舎の屋根は雪が降ったように、まっ白になっていた。天気なのに、母のマンから、灰よけに、傘をさして行け、といわれた。多くの者が傘をさしていた。

この年、第一次世界大戦、勃発。

玉井家は、<ruby><rb>正保寺</rb><rt>しょうほうじ</rt></ruby>町に移転していた。前の新仲町とは裏表で、一町とは離れていない。新築したのである。長男の勝則の外はみなこの家で生まれた。

裏庭は、菊の好きなマンが花畑にしてしまい、家の中には、相かわらず、猫がうようよしていた。そうして、<ruby><rb>欅箪笥</rb><rt>けやきだんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>は、三段ほど、助広の短刀をはじめとして、日本刀で埋められていた。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん」もう、あなた、と呼ばず、マンはそう呼ぶようになっていた。「これまでも大変じゃったけど、これからが、一層、大変よ」

「おれも、そう思うちょる」

大正三年四月一日、若松に、市制が布かれた。ときに、戸数六二五八、人口三七三九三。<ruby><rb>因</rb><rt>ちな</rt></ruby>みに、若松村が若松町になったのは、明治二十四年三月一日、戸数八八一、人口三一三一。明治五年には若松村は戸数二〇、人口五八〇の一漁村にすぎなかった。

市制施行祝典が盛大に催された。

玉井金五郎、三十五歳。

同マン、三十一歳。

同勝則、九歳。

  


## 第二部

  


## 大都会

「東京、……東京……」

急行列車は、プラット・フォームに入った。

乗客がぞろぞろ降りる。長旅の疲れを見せている誰の顔にも、ほっとした色があった。

若松市会議員の一行十人も、それぞれの荷物を持って、二等車から降りた。

金五郎は、二等車などに乗ったのは生まれてはじめてである。三等車だと、自分の家のようで気楽だが、二等車は身分ちがいの他人の屋敷にいるようで落ちつかない。しかし、今度の視察旅行は官費であるし、自分一人の勝手は許されなかった。

「井上君、くたぶれたろう？」

隣りを歩く井上安五郎に、声をかけた。安五郎は、<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>な洋服姿で、赤い革カバンを下げている。浅黒い顔に、若いころから、金魚といわれた特徴のある眼が大きい。

「すこし腰が痛くなった。九州から東京は遠いなあ。昔の殿様はこの<ruby><rb>長道</rb><rt>ながみち</rt></ruby>を歩いて、<ruby><rb>参覲交代</rb><rt>さんきんこうたい</rt></ruby>しよったと思うと、あきれてしまうよ」

「二ヶ月くらい、かかるじゃろな」

そんな話をして笑いながら、地下道を降って行くと、

「玉井君」

と、呼ばれた。

友田喜造であった。鳶のような眼は、年をとるにしたがって、いよいよ鋭さを増して、その底に、さらに、陰険で<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な色が露骨に光っている。新調したらしい<ruby><rb>縹</rb><rt>はなだ</rt></ruby>の背広を着ているが、着なれないとみえて、どこかに借りもののようなところがある。金時計の金鎖をチョッキにのぞかせ、眼鏡も金縁、ステッキの握りも金。

洋服といえば、金五郎も、自分の背広が、なんだかまだ板につかない。「馬子にも衣裳」というけれども、沖仲仕や、女郎屋のおやじ、バクチ打ち、ゴロツキ、石炭ブローカー、などが、三ツ揃いの背広を着、靴をはいてすましているのがおかしくてならなかった。

「なんですか？」

ふりむくと、

「君に、今夜、どうしても話して置かにゃならんことがある。君は、どうも、今度の上京をええことにして、<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからんことを考えとるようにあるが。そのことについて、宿で懇談したい。そのほかにも、君と膝つきあわせて、話しあいたいことがある」

「承ります」

二人の会話を、井上安五郎が、苦々しげな、そして、気づかわしげな表情で聞いていた。

改札口を出た。

群衆の中に立って、金五郎は天井をふり仰いだ。

降車口の屋根は、外から見ると、青銅の<ruby><rb>円塔</rb><rt>ドーム</rt></ruby>になっている。その内側の天井は純白に塗られて、巨大な<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>傘のように、高く聳えている。内壁は十二に区切られて、そこに、十二支の絵が淡彩で描かれてあった。中央の円の中には、天女が飛んでいる。<ruby><rb>迦陵頻伽</rb><rt>かりょうびんが</rt></ruby>かも知れない。

（ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ、……）

金五郎は、心の中で、エトを数えながら、辰のところに来て、眼を<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めた。らんらんと眼を光らせた一匹の龍が、踊るような恰好で、高い天井から、自分を見おろしている。金五郎は、そっと右手を、洋服の上から、左腕に当てた。

（ここにも、一匹、龍がいるのだが、……）

そして、憂鬱そうな顔をした。

このとき、周囲の群衆が、にわかに騒ぎだした。金五郎はひどく突き飛ばされた。危く左手のカバンを落すところだった。

「<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>だ。逃がすな」

そんな声がした。

一人の男が、群衆をかきわけて、降車口から、表へ飛びだした。

掏摸と聞いて、金五郎は、反射的に、手をポケットにやってみた。上衣の内ポケットに入れておいた財布がない。

「東京はチボが多いというけ、気をつけなさいよ。人を見たら泥棒と思え、――そんな気持でいたら、恰度ええんですって」

出発のとき、マンから、笑いながら、そんな注意をされたのに、忘れてしまっていた。誰も彼もを泥棒と思うなどというような、根性の悪さは愉快ではなかったし、油断をしていたわけではないけれども、ぽかんと天井の絵を見あげていたときには、まったく、放心状態であった。本場の掏摸にとっては、そんな田舎者の懐中を抜くほど、たやすいことはないであろう。有金残らずと、大切な書付、印鑑などが、みんな大きな財布に入れてあった。

（しまった）と思い、あわてて、降車口から出た。

「玉井君、どこへ行く？」

井上安五郎が、顔色変えて飛びだす友人に、不審顔で<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「やられた」

「今の掏摸に？」

「うん、諸君は先に宿に行っといてくれたまえ。後で行くから……」

<ruby><rb>捨台詞</rb><rt>すてぜりふ</rt></ruby>のようにいい残して、走った。

丸ビルの方角に向かって、群衆がなだれて行く。掏摸の姿はちらちらとしか見えない。よれよれの単衣に、<ruby><rb>千断</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>れかかった三尺をしめた、もう六十を越えた男だ。無帽の頭は五分刈で、まっ白い。草履はとっくに脱ぎすてて、必死で走っている。

金五郎は速力を落した。自分が追っかけなくとも、掏摸がかならず捕まることがわかったからだ。まだ午後三時の真昼間、場所は東京駅前の雑沓、掏摸はよぼよぼに近い老人、到底、逃げ<ruby><rb>終</rb><rt>おお</rt></ruby>せることは不可能である。

「掏摸だ。掏摸だ」

と、掛け声のように、絶叫する群衆の声を聞いて、交番から、巡査も駈けだして来た。

金五郎は安心して、ゆっくり歩いた。あわただしい気持ながら、心に余裕が出来て、あたりを見まわしたりもした。赤煉瓦の荘重な東京駅、中央郵便局、聳えたつ丸ノ内ビルディング、その他の宏壮華麗な建築物の列、はるかに望まれる宮城、コンクリートで堅められた駅前広場、走る電車、自動車、人力車――大都会の美しい玄関を、感歎して眺めた。

すると、金五郎は妙なことに気づいたのである。

やはり、ほんとうの関心は掏摸に向けられていたのだが、その掏摸が、こけつまろびつ、がむしゃらに逃れて行く姿を見ていて、ほっと胸にひびいて来たものがあった。眼を皿にした。

あまり敏捷でない老掏摸は、幾度か群衆に捕えられた。追手の場合もあれば、正面からの弥次馬の場合もあった。そのたびに、必死に暴れまわって、すり抜けたが、次第に弱り、帯がとけ、着物が剥がされて行った。四月であるから、寒いことはない。それどころか、泥棒は汗だくだ。

「ふん<ruby><rb>縛</rb><rt>じば</rt></ruby>れ」

掏摸が老いぼれのうえに、何も兇器を持っていないことを知ると、群衆は面白がって追跡する。

とうとう、裸にされてしまった。自分でなったのかも知れない。

金五郎は、びっくりした。

痩せさらばえた身体の全面に、<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をほどこしている。胴巻と褌一つになってしまったのに、まるで青黒いシャツでも着ているように見えた。そして、その彫青は<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>と<ruby><rb>大蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>。

金五郎には、はっきりとした記憶があった。忘れようとしても忘れることの出来ない、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>温泉の男。

（般若の五郎じゃ）

金五郎は、あたりを見まわした。

逃げる途中に、老掏摸がぬぎすてて行った帯、着物、鳥打帽、草履、などが方々に散乱している。縞模様の煙草入れも、彼の物かも知れない。いずれも群衆の土足に踏みにじられて泥まみれだ。金五郎は、それらを、一つずつ、探しながら、拾い集めた。<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を払って、右手にかかえた。麻裏草履の片方は、並木の横の水たまりに飛んでいたが、引きあげて、ぶら下げた。<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>がたれる。気がつくと、泥棒はとっくに捕えられて、巡査に、手錠をはめられていた。交番のまわりに、黒山の人だかりがしている。金五郎は、そこへ近づいて行った。

「巡査さん、これを着せてあげてくれませんか」

左手のカバンを、交番所の中に置き、両手で着物をさしだした。

若い巡査は、きょとんとした顔つきで、

「それは、どうしたんですか」

「拾うて来たんです」

「この掏摸と、知りあいなのですか」

「いいえ、わたしは、たった今、九州から、東京へ着いたばかりの者です。そして、降車口で、この人から、懐中物を掏られました。……わたしの財布を持っていませんでしたか？」

「どんな財布です？」

「黒い革の財布で、<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>め<ruby><rb>金</rb><rt>がね</rt></ruby>のところに、銀の小さな菊の花がついています。横が五寸くらい、縦は三寸ほどです」

「これですか」

奥の机の上に置いてあった財布を、巡査は示した。

「そうです」

「中には、どんな物が入っています？」

「間違いありませんから、かえして下さい。わたしはこういう者です。その財布の中にも、同じ名刺がある筈ですが、……」

金五郎から受けとった名刺と、財布の中の物とを、巡査はしきりに照らしあわせはじめた。

群衆は好奇心にあふれた眼で、この場のなりゆきを眺めていたが、もっとも、驚愕に近い<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、射るように、金五郎を凝視していたのは老掏摸であった。

手錠をはずされ、くしゃくしゃになった着物を着たが、帯をしめ、草履をはく間中も、その視線は金五郎から離れなかった。般若の五郎は、方々にかすり傷をこしらえ、額には瘤、歯茎にはうっすらと血をにじませている。しかし、どんなに、不審そうに、洋服紳士を見つめても、彼には正体を知ることが出来ないようだった。不思議でたまらぬように、小首を傾ける。

（自分の財布を盗んだ泥棒の着物を、拾ってやる人間が、どこの世界にあるだろうか？）

老掏摸の表情は、あきらかに、そういっているように見えた。

巡査は点検を終ると、相違ないと思ったらしく、書類になにかを書きこんでから、財布を返してくれた。

「巡査さん、この人を、許してあげて下さいませんか。わたしが、身元引請人になりますが……」

「そういうわけには、いかんですよ。被害者はあなた一人じゃないし、取り調べをせにゃならんから、豚箱に入れます。牢屋に送ることになるかも知れん。まあ、被害がなくてすんだんだから、お引き取り下さい」

愛嬌のない横柄な巡査は、そういうと、般若の五郎に、また手錠をはめ、後からこづきまわしながら、引き立てて行ってしまった。

暮れるのに遅い春の日も、ようやく、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れて来た。

九段坂上にある「筑紫館」は、博多出身の者が経営していて、九州から上京する人たちの<ruby><rb>定宿</rb><rt>じょうやど</rt></ruby>になっているようだった。和洋折衷の三階建である。

二階の突きあたりの六畳が、金五郎と安五郎との部屋に割りあてられた。

一足遅れて着いた金五郎は、宿の<ruby><rb>褞袍</rb><rt>どてら</rt></ruby>に着かえながら、その視線は西方の一角に釘づけされていた。

まだ明かるい西空に、くっきりと富士山が浮き出ている。そこだけくり抜かれたような空の形が、洒落れた額縁のようだ。真赤な夕焼雲が美しい。

金五郎は、しんとした気持になった。

右手に視線をめぐらすと、すぐ近くに、靖国神社の屋根と、大鳥居とが見える。境内一杯の桜はもう青々とした葉桜で、数本の彼岸桜だけが、その中に、ふさふさとした八重の花びらを<ruby><rb>点綴</rb><rt>てんてつ</rt></ruby>している。

女中が、入って来た。

「お客様、お風呂をお召しになられませんか」

「<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の人は？」

「こちらの井上様も、他の方々と、お入りになっていらっしゃいます。十人くらいは御一緒出来ますから……」

「家族風呂はありませんかね」

「ございますけど……？」

「そちらへ、一人で入りたいんだが、……」

「さよですか？……そんなら、ちょっとお待ち下さいませ。見て参りますから」

変なことをいう客を、女中は不審そうにしながら、出て行った。

入れちがいに、安五郎が、タオルをぶら下げて帰って来た。

「やあ、玉井君、いい風呂だが、入らんかね？」

「ああ」

「それで、財布は？」

「かえった。なにも、なくなっては居らん」

「それはよかった。やっぱり、東京は物騒だなあ。気をつけることにしよう」

廊下に座蒲団を布き、「ああ、富士が見える」そういいながら、坐った。煙草に火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、おいしそうに吸った。

嘗て、金物商の息子であった青年安五郎は、玉井金五郎の行状に強い関心を持ち、早くから知己を得たいと念じていた。そして、長い歳月の過ぎた現在では、対等の友人になっているのである。安五郎は金五郎より七つも下であったけれども、金五郎は、安五郎の教養と、政治的手腕とに敬服していて、年齢を離れた交遊をしていた。この二人の強い同志的結合は、街の人々によって、美しいものに認められていたが、反対派の方からは、

「<ruby><rb>安五郎</rb><rt>あんごろう</rt></ruby>と金五郎で、五郎五郎、ゴロゴロ鳴りだすとうるさいぞ」と、煙たがられているのであった。

金五郎も坐って、巻煙草を吸った。

「玉井君、友田喜造が、駅で、また、なにかうるさいことを、いってたようだが……？」

「今夜、懇談したいことがあるというんじゃが、なに、友田のいうことは、聞かんでもわかっとる」

「あんたも、やりにくいなあ。立場が、直接、石炭の関係だもんだから……」

「いよいよ、土壇場に来たのかも知れん。長い敵じゃったが、今度の問題では、最後の対決になるかも知れんと思うとる。……わたしは、一度死んだ男、……もう一ぺん、死んでみるのも、面白い」

金五郎は、そんなことをいって、<ruby><rb>闊達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>に笑ったが、安五郎は不吉な予感で、笑うどころではなかった。

女中が、家族風呂があきましたから、と、告げに来た。

賑やかに談笑の声が聞える共同浴場の前を抜けて行くと、ひっそりした家族風呂があった。誰もいない。

金五郎は、浴室に入って、裸になった。<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>に浸ると、よい気持である。やや<ruby><rb>熱目</rb><rt>あつめ</rt></ruby>の湯が全身にしみわたり、音を立てるように、旅の疲れが抜けて行く。狭い浴場に、白い湯気が靄のように立ちこめ、電燈が月のようである。首筋を深く、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>までつけて、しばらく陶然と、眼をつぶっていた。その金五郎の脳裡に、やがて、先刻の老掏摸のことが、鮮やかに、浮かびあがって来た。

（おれは、ぬくぬくと、風呂などに入っとるが、般若の五郎さんは、今ごろは、蚤や虱だらけの留置場か）

不思議なためいきが出た。

<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>温泉で、鍛冶屋の清七と二人、はじめて五郎に逢ったときのことが、金五郎には忘れがたい追憶になっている。あの変てこな三ン下バクチ打ちのために、お京に逢うきっかけが出来たのであるが、それよりも、金五郎は、般若の五郎自身に、ひそかに、感謝していることがあるのだった。

湯町の「神の湯」の浴槽で、五郎と取りかわした会話を思いだす。

五郎は、金五郎の裸の身体を、不遠慮に、ぐりぐり<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みながら、いった。

「立派な体格だ。おれが女なら、首ったけになるよ。百姓には惜しい。龍の彫青でもしたら、大前田英五郎のような親分になることは、うけあいだ」

そこで、金五郎は、からかい半分に、答えたのであった。

「土百姓の子でも、親分になれますか」

「そりゃあ、なれるさ」

「実は、わたしも、侠客が好きなんです。講談本を読んでいて、清水の次郎長や、国定忠治のような親分になりたいなあ、……って、考えたことはあります」

「とんでもねえ。<ruby><rb>兄</rb><rt>あん</rt></ruby>ちゃん、そりゃあ、考えちがいだ」

「どうしてです？」

「次郎長や、忠治、ってえのは、いけねえや。侠客の屑さ。喧嘩を売り物にする奴は駄目だ。ほんとうのいい親分は、喧嘩をしねえな。だから、大前田英五郎というのは、えれえよ」

「大前田英五郎というのは、知りませんね」

「そうよ。斬った張ったはやらねえから、講談や浪花節にはならねえんだ。つまらねえ侠客というのは、みんな、派手なものさ」

そのときは、なにげなく聞き<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>していた。むしろ、馬鹿くさいことのようにさえ思っていた。親分になどなる気は毛頭なかったからである。それで、般若の五郎が湯を出た後、

（あの変なバクチ打ち奴、つまらんことをいいやがる。からかってやったら、本気にしやがった。誰が親分なんかになるものか。彫青なんて、馬鹿にするな。龍になり、雲と風とに乗って、大空を<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けまわるんじゃ）

と、心中で叫んだのであった。

ところが、その抵抗にもかかわらず、運命の強力な<ruby><rb>軛</rb><rt>くびき</rt></ruby>にはさまれ、人情の谷に落ちこんで、いつか、その親分のようなものになってしまった。そのとき、<ruby><rb>霹靂</rb><rt>へきれき</rt></ruby>のように、雷鳴のとどろきをもって、昔聞いた、しがない博徒の言葉が、金五郎の脳裡によみがえって来たのであった。そしてそれは、はからずも、金五郎の生きてゆくための、もっとも大切な信条となったのである。その言葉によって、どんなに救われて来たことか。恐らく、その言葉を吐いた五郎の方は、とっくに、忘れ去ってしまったことであろう。しかし、金五郎にとっては、般若の五郎は次第に忘れがたい男になり、一度、逢って礼を述べたいと、念願するようになっていたのである。

金五郎は、大前田英五郎にはならなかったけれども、喧嘩渡世ではない仕事師であるという自覚を持ちつづけて、ともかく、北九州一円では、名を知られる親分となることが出来た。現在では、「玉井組」は、聯合組の外、三井物産、<ruby><rb>山九</rb><rt>さんきゅう</rt></ruby>運輸、東海鋼業、八幡製鉄所、その他に仕事を持ち、直属の子分も、数百人を算するようになっている。若松港汽船積小頭組合長として、港湾石炭荷役の元締となり、働く者の代表という意味で、市会に押されて、当選した。大正十一年、第一期、同十五年の二期を、現在、勤めている。その任期も終りに近づいて、来月が改選だ。県会議員に推挙しようという動きもある。

こういう風になって来ても、金五郎とマンとは、口癖に、「おれたちは、石炭仲仕じゃ。裸一貫、門司、下関、戸畑、それから、若松に来てからも、石炭の中で、まっ黒になって働いたことを忘れまい」と、話しあった。現在でも、金五郎は半纏姿で、沖の現場に行くことを欠かさなかった。長男の勝則にも、「お前はゴンゾの子じゃぞ。そして、お前もゴンゾなのじゃぞ」と、機会ある毎にいましめた。その勝則は、すでに、二十五歳の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい青年になって、「玉井組」の半纏がけで、毎日、仕事に精出している。

そして、こういう長年月の生活の根桟に、つねに、般若の五郎の言葉が、重々しく、光りかがやいていたのであった。その五郎に、三十年ぶりで、奇妙な<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>をしたわけである。

ただ、金五郎のへこたれたのは、彫青であった。

（五郎さんの彫青も、お京が彫ったものじゃろうか？）

そうかも知れない。しかし、全身総彫青の五郎は、左腕一本だけの金五郎のように、それを後悔し、苦しみ悩んだか、どうか？――実に、後年の金五郎にとっては、彫青は地獄に類するものといってよかった。

（いっそ、腕一本、切ってしまおうか？）

あまりの情なさに、そんな無茶も、何度か、考えさえしたほどである。右腕だけになり、晴れ晴れした気持になった夢さえ見た。

「どうじゃ、立派じゃろう？」

そんなことをいって、人に示した若いころが恥かしい。美しさを自慢したことは、無知にもほどのあることであった。

困ったのは、子供たちである。勝則をはじめ、次々に生まれた子供たちは父の彫青をいやがって、登校をしぶる日さえあるのだった。

「やあい、お前の親父は、彫青のゴロツキじゃろが」

小学生は、むきだしに、そんな憎まれ口をたたく。子供たちは泣いて帰って来て、早くその絵を消してくれ、という。消そうとして、あらゆる努力を払った。しかし、薬品、灸、手術など、どれも効果がない。とすれば、人前に出さぬこと以外に方法がなかった。夏でも、裸にならず、長い袖のシャツを着た。人と旅行しても、こっそりと、家族風呂などに、一人だけで入るのだった。

といって、「蝶々牡丹のお京」を恨んでいるわけではなかった。今も、般若の五郎と邂逅したことから、

（五郎が、お京の消息を知っているかも知れない。五郎に逢いに行こう）

と、考えているのである。

誰か、ガラス戸を開けて、浴室に入って来た。

金五郎は、あわててタオルを繃帯のように左腕に巻きつけて、彫青を隠した。

顔を出したのは、友田喜造である。真ッ裸だ。全身が濡れ、雫のたれるタオルで、腰のまわりを巻いている。これまで共同浴場の方に入っていたらしい。

「やあ、いた、いた。君が家族風呂の方というもんじゃけ、移動して来たんじゃ」

そして、「おう、寒ぶ」といって、いきなり、<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>に飛びこんだ。金五郎一人でも、溢れそうになっていたのに、二人になると、<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>を越して、瀑布のように、湯が流れ出た。狭くて、湯の底で、足が触れあうほどである。

「ここの風呂は、新婚の夫婦<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>かなんかが入るとじゃな？　彫青の親分同士の<ruby><rb>相風呂</rb><rt>あいぶろ</rt></ruby>とは、野暮の天助たい」

友田はそんなことをいって、けたたましく笑ったが、無理な作り笑いであることは、金五郎にはわかった。

友田なら隠す要もないので、彫青を巻いたタオルを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>した。

白く<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>の<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い金五郎の皮膚にくらべて、友田の身体は、<ruby><rb>鮫肌</rb><rt>さめはだ</rt></ruby>で、どす黒い。そこへ、両腕から背中一面にかけて、<ruby><rb>自来也</rb><rt>じらいや</rt></ruby>の彫青をしているので、よごれたシャツでも着ているようである。でっぷりと小肥りの身体と、骨ばった痩躯も、対蹠的だ。しかし、湯に濡れて光る、友田の肌の<ruby><rb>大蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>、<ruby><rb>蝦暮</rb><rt>がま</rt></ruby>、<ruby><rb>蛞蝓</rb><rt>なめくじ</rt></ruby>などの眼は、どれも、金五郎を睨んでいるように、妖しく<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いている。それを金五郎の腕の龍が、睨みかえしているように見える。こういう途轍もない怪物たちが参加して、狭い浴室のなかには、奇妙な鬼気に似たものがただよった。

「チボにやられたそうじゃなあ」

「ええ、でも、なにもなくなりはしませんでした。その場で捕まりましたから、……」

「間抜けな泥棒じゃ」

友田は金五郎の盗難を、よい気味だと思ったのかも知れない。そして、財布が返らない方を望んでいたのかも知れない。

「なにか、御用でしたか？」

と、金五郎は<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「うん、ちょっと話したいことがあってな。駅で、今夜、宿で懇談しようというたけんど、晩飯食うたら、<ruby><rb>悪徒</rb><rt>わるそう</rt></ruby>どもが、吉原へしけこもうといいよるけ、その前に話しとこうと考えなおしたんじゃ。どこで話しても同じじゃし、ここへ来た」

友田は努めてなにげない様子を装おうとしているけれども、金五郎への敵意が、腹中にたぎっていることは、その鋭い鳶の眼の光、金属的な黄色い声の<ruby><rb>端々</rb><rt>はしばし</rt></ruby>に、断続的にあらわれる。

「承ります」

「もう、君にはいわんでもわかっとると思うが、……」

「わかりません」

「井上安五郎と手を切って、民政党に入ったら、どうな？」

「…………」

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>は五十八議会の見学に行くんじゃが、控室で吉田磯吉親分が、君を待っとる筈じゃ。昔から、親分がずっと君に好意を持っとることは、君も知らんことはあるまいが？　君を、どうしても、民政党に欲しいといいなさっとる。君は中立じゃけど、井上安五郎と仲ようしとると、政友会くさい。親分は君を陣笠で置くつもりはないんじゃよ。幹事長に取り立てて、次期の県会には、民政党公認で立候補させ、絶対当選させてやる、といわれるんじゃ。君は親分には恩になっとるし、義理を知っとるなら、断われん筈じゃがなあ？……」

「吉田親分の御厚意は、日ごろ、身にしみて、ありがたいことに感じて居ります」

「そんなら、親分のいわれるとおりにするか？」

「それは、残念ながら出来かねます。それとこれとは、別です」

「どれと、どれが……？」

「吉田親分からお世話になりましたことは、私個人のことです。政治は公のことですから、混同出来ません。わたしは、民政党が悪いというているわけではないんです。中央政界や、国会などでは、政党が必要で、それが憲政の常道であることは、無学なわたしでも知っていますよ。じゃけど、地方自治体では、政党というものは、有害無益であるというのが、わたしの信念です。それは、現在の若松市の実状から、はっきりいえることなのでして、……ざっくばらんに申しますから、お許し願いたいですが、……若松では、「民政党にあらずんば、人にあらず」――そんな言葉さえあって、そのために、どんなに市政が歪められているか、街の人たちが困っているか、……それは、いうまでもなく、吉田代議士の威力で、虎の威を借る狐の、……」

「おれも、その狐の一匹というんじゃな？」

「いえ、そういう意味ではけっしてありませんが、……こういう若松の状態を、わたしは正しいとは思わんのです。それで、一市民としての中立の立場で、政党に関係なく、わたしの微力を傾けたいと、存念している次第です」

「政党に関係がないなんて、ちゃんと、井上安五郎や、政友会と関係しとるじゃないか」

「それは、横暴な民政党に対抗するために、結束しているだけです。井上君は政友会ではありませんよ。わたしと同じ中立です」

「どうしても、いやなんじゃね？」

「お許し下さい」

「君は、品川信健の最後を知らんことはあるまいな？」

「よう知って居ります」

「あいつ、生意気に、「若松実業新聞」で、親分に盛んに楯つきやがって、とうとう、殺されてしまやがった。馬鹿な奴じゃ」

「わたしは、立派であったと思っています」

「親分には、親分のために命を惜しまぬ子分が、うようよしとる。若松で、吉田親分に楯ついて、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なことはないよ。玉井君、君も考えなおした方がよさそうじゃな」

「考えなおしません」

狭い湯槽の中で、膝を接しながら、語る二人の言葉は穏かであったが、肌に躍る龍、大蛇、蝦暮、蛞蝓、などの怪獣たちの眼は、白い湯気のなかで、さらに、不気味な光を増したようだった。

「まあ、そのことは、また、後まわしにしよう。それより、玉井君、君は<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからんぞ」

友田は、露骨に挑戦的になった。

民政党入党の勧告も、予期していたが、これから、友田がいわんとすることも、金五郎には、わかっていた。それで、「怪しからん」といわれても、「なにがです？」とは<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かず、黙っていた。黙って、タオルで、身体を洗った。

友田は、その落ちついた様子が、一層、癇に触るらしく、

「どうも、君はいけん。君と仲ようしようとは、昔から考えとるんじゃが、君のやり口が悪いもんじゃけ、衝突せにゃならんことになる。……玉井君、君は、今度の上京をええことにして、三菱の本店に行くつもりじゃろ？」

「そうしたいと考えて居ります」

「行くことならん」

「参ります」

「<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めれ」

「止めません」

「君など行っても、誰も相手にしやせん。それに、もう、新川岸壁に、炭積機を作ることは定まってしもうとるんじゃ。行っても無駄じゃよ」

「無駄とは思いません。誠意を<ruby><rb>披瀝</rb><rt>ひれき</rt></ruby>して話せば、わかって頂けると考えとります。それでなくてさえ、食うや食わずで居る沖仲仕が、この上、炭積機でも出来たら、餓死の外はありません。なんとかして、思い止まって貰うよう、本店のえらい人に逢うて、歎願するつもりです」

「君は時代おくれじゃよ。文明が進歩したら、なんでも機械化することはわかっとるじゃないか」

「それは、わかっとります。<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>には、ホイスト、クレエン、鉄道桟橋などの岸壁設備、沖にも、ローダー、ポンツウンなどがある。それは新時代の然らしめるところでしょう。しかし、多くの沖仲仕が餓死することも顧みられないで、機械が作られることが、文明の進歩とは思いません。一番大切なものは、なんというても、人間の命ですよ」

「君は、それじゃから、馬鹿じゃというんじゃ。労働者の味方なんかせんで、もっと自分のことを考えるがええよ。虫けらみたよなゴンゾのために、一所懸命になってみたところで、得は一つもない。それより、利口な世渡りをする気になりゃあ、丸々となれるばい。……実は、君が、炭積機建設の反対運動を止めるなら、相当まとまった金を出してもええ、ということになっとるんじゃが……」

「お断わりします。わたしは、仲仕ですから、仲仕以外のことは考えられません」

「ふウン、……」

友田は、憎々しげに、鼻で笑った。

このとき、不意に、

（この男を殺してやろうか）

金五郎の胸に、<ruby><rb>霹靂</rb><rt>へきれき</rt></ruby>のように、奇怪な考えが浮かんだ。

（その気になれば、ここで、この痩せ男を締め殺すくらい、わけはない。入浴中、心臓麻痺を起したということで、すむかも知れない。たとえ、おれが殺したとわかっても、おれは本望じゃ）

友田喜造一人がいなくなれば、多くの港湾労働者、いや、若松の街の人たちも、どんなによろこぶことだろうか？――と、思うのだった。

しかし、無論、金五郎は、その悪魔の想念に愕然として、妄念を払い落すように、頭を打ち振った。

「玉井君」

と、まだ、友田は話があるようだった。

「はあ？」

「もう一つ、いうときたいが、君の息子の勝則君な、あれが、このごろ、<ruby><rb>光丸</rb><rt>みつまる</rt></ruby>という芸者と仲ようしとるようにあるが、あれは止めさせてくれんか。あの女に触られちゃあ、困る」

金五郎は、びっくりした。

そのおどろく顔を、小気味よげに見た友田喜造は、

「ああ、<ruby><rb>長湯</rb><rt>ながゆ</rt></ruby>して、のぼせてしもうた」

そういうと、<ruby><rb>海嘯</rb><rt>つなみ</rt></ruby>をまきおこして、湯槽から、飛び出た。あおりを<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>って、金五郎は、顔中、飛ばちりをかぶった。

友田は、タオルをしぼると、鏡の前に立ちはだかって、身体を拭いた。彫青の青黒い背中を見せたまま、

「玉井君、君は、「竹の家」の<ruby><rb>辻木惣八</rb><rt>つじきそうはち</rt></ruby>は、よう知っとるじゃろ？　君もなんぼか、浄瑠璃を語るし、義太夫をやる<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>で、辻木を知らん者はない。その辻木が、若松民政党の幹部であることも、君は知っとる筈じゃ」

「知っとります」

「光丸は、その辻木の養女なんじゃよ。ただの芸者じゃない。芸者なんてせんでもええんじゃが、娘が芸事が好きじゃし、退屈もしとるもんじゃけ、遊びのつもりで、お座敷に出しとるんじゃ。辻木には、大学に行っとる出来のええ一人息子があるが、ちゃんと、その嫁に定めてある。<ruby><rb>来春</rb><rt>らいはる</rt></ruby>、学校を出たら、おれが<ruby><rb>仲介</rb><rt>なこうど</rt></ruby>になって、式を挙げさせることも、話が出来ちょる。……ところが、その光丸に、君んとこの息子が、手を出しよるちゅう話、親父の君から、止めさせてくれ」

「わかりました」

「それじゃあ……」

友田喜造は、出て行った。

長湯と、昏迷とで、金五郎は逆上気味になって、湯槽を出た。全身、うでダコのように、赤くなっている。呆然とした気持で、膝をかかえてうずくまった。眼まいがする。

（なんちゅうことか？）

地に引きこまれて行くような惑乱に、金五郎は泣きたい思いであった。

友田が話したいということは、全部、わかりきっているつもりだった。民政党入党勧告と、三菱炭積機建設反対運動の撤回――その二つとばかり思っていた。第三の問題は、暗夜、不意に、頭上に打ち降された、巨大なる鉄槌に似ていた。出発直前、大庭春吉と、堅い約束をかわして来たばかりである。

「先方は、是非ということでな、お前さえ承知なら、この秋には、<ruby><rb>祝言</rb><rt>しゅうげん</rt></ruby>という段取りにまで運びたい、といいなさっとる」

大庭親方のその言葉に、

「勝則の意見も聞いてあります。大丈夫、御意に添えることでしょう。「藤本組」と親戚になるなんてありがたいことです」

「そんなら、先方へ、承知しました、と伝えて、ええな？」

「結構です」

八幡製鉄所に大きな仕事を持っている請負師、藤本喜八郎の長女絹子を、勝則の嫁にという縁談なのだった。マンも大乗気である。誰より、仲介役の大庭春吉が熱心で、「自分も幾組も取りもったが、こんな良縁はまたとない」と、自慢しているくらいであった。勝則も、この話を聞かされて、

「お父さんと、お母さんとに、委せます。ええようにして下さい」と、いったのである。

金五郎は、<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>った。噴火山のような溜息をついた。

（友田のいうのは、ほんとうじゃろうか？）

帰国したら、すぐ調べてみねばならぬ――と、狼狽した気持になった。

翌朝、「筑紫館」から、晩春の空に、富士は霞んで望まれた。

洗面所で、歯を磨いていた金五郎は、友田喜造から肩を叩かれた。

「お早よう。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>は失礼。今日は、議会に行くことになっとるが、風呂の中で話したことな、民政党入党のこと、君から、直接、吉田親分に返事してくれな。子供の使いじゃあるまいし、そうそう、同じ返事ばかり、おれはされん」

そういい捨てると、答も聞かず、スリッパを鳴らして、去ってしまった。

横にいた井上安五郎が、

「吉田さんは、いい子分を持っとるわい」

と、おかしげに、また、苦々しげに、呟いた。

金五郎は、単身、一足先に、宿を出た。般若の五郎のことを聞きに、東京駅前の交番を訪れるつもりである。誰にも話さなかった。

九段坂上の停留場まで行って、奇妙な街の雰囲気に気づいた。電車に乗るつもりだったのだが、なかなか、電車がやって来ない。客は密集している。群衆になって、騒然と、なにか、口々に<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いている。ただごとではない。

「なにか、あったのですか」と、訊いてみた。

「昨日から、市電がストライキをやってるんだよ」

中年のサラリー・マン風の男が、まるで、金五郎をがみつけるように答えた。きっと、出勤時間に遅れて、機嫌斜なのにちがいない。

新聞を見なかった金五郎は、そのときまで、そんな大事件を知らなかった。

「バスが来たぞ」

一口坂の方角から登って来た青バスに、群衆は殺到した。怒号と悲鳴とが起った。まるで、喧嘩だ。とても乗れる望みはない。

同じ方角から、やっと、電車が来た。押しのけられて、それにも、乗れなかった。長い時間待って来た二台目も、駄目だった。金五郎は、いらいらして来た。三台目に、揉み殺される思いで、どうにか乗ることが出来た。

チン、チン、ポー、と、電車は動きだす。それは歩くよりは早いけれども、疾走しているとは義理にもいえない。実にのろのろしている。総<ruby><rb>罷</rb><rt>ひ</rt></ruby>業のため、専門の運転手や車掌は居らず、電気局の事務員や、技手、応援の青年団などが、臨時で、代りを勤めていることを知った。

「昨日は、青山で、追突したそうです。乗客が七人も、怪我したといいます」

「<ruby><rb>笄坂</rb><rt>こうがいざか</rt></ruby>じゃあ、坂落しをやったらしいよ」

「水道橋でも、脱線したそうな」

「危いなあ」

寿司詰の客が、不安そうに、そんな話をしている。不馴れのために、方々で、事故が続出している様子だった。

洋服を着た、縁なし眼鏡の中年紳士が、切符切りをしている。新米車掌らしい。

「いくらですか」

と、金五郎は<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「正規の運賃は、七銭ですが、争議中は、二銭お引きすることになって居ります」

金五郎に切符を渡した臨時車掌は、外を見て、急にあわてだした。停留場が近くなったのに、はっきり知らないらしい。

「次は、……次は、……えエと、……？……次は……」

と、せきこみながら、何度もいっていたが、とうとう、ポケットから、地図帖を取りだした。せかせかと、頁を繰る。

すると、客の誰かが呶鳴った。

「皆さん、次は<ruby><rb>神保町</rb><rt>じんぼうちょう</rt></ruby>でございます。お降りのお方、お乗り換えのお方は、お支度を願います」

どっと、車内に、笑い声がみなぎった。

新米車掌は、頭をかいている。

こういう調子なので、目的地まで、長い時間かかった。上京第一歩から<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りた金五郎は、<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>を警戒して、懐中物の用心は怠らなかった。車中は身動きひとつ出来ない。

やっと、東京駅前着。

昨日の交番に行った。

「ここでは、そんなこと、わかりませんな。本署に行って下さい」

巡査に、うるさそうに、そういわれて、丸ノ内署を訪れた。

入口の裸ベンチで、長いこと待たされた。北九州の親分として、若松警察署に行くと、大びらで通る顔も、東京のまん中では、一田舎者にすぎなかった。おまけに、変な老掏摸などに面会に行ったので、若い警官から、胡散くさい眼で見られ、鼻であしらわれた。剣もほろろの扱いである。金五郎の左額には、なお、大きく、角助に斬られた刀痕が残っている。縫った後が三日月形にふくれ、額から頭の部分に、半分食い入っていて、そこだけ、いまだに頭髪が生えない。醜いというほどでもないのだが、それを不遠慮にじろじろと見る刑事もあった。

一時間も経ってから、結局、面会を拒絶された。しかし、中年の巡査部長から、

「ひょっとしたら、一両日中に、あなたに請人になって貰って、<ruby><rb>大貫五郎</rb><rt>おおぬきごろう</rt></ruby>を下げ渡すことになるかも知れませんから、連絡場所をはっきりして置いて下さい」

といわれた。

一縷の望みを抱き、九段富士見町の「筑紫館」をそれにして、警察署を出た。これから、衆議院に行くことも告げた。

市電争議のため、丸の内界隈も騒然としている。濠端のところで、電車とバスとが衝突したらしく、人だかりがしていた。

電車に乗ることはあきらめて、人力車を拾った。

「旦那、どちらまで？」

「議事堂まで、やって下さい」

「どっちの方ですか？」

「どっちとは？」

「貴族院と、衆議院と、……」

「衆議院です」

早朝、宿を出たのに、方々で、思わぬ時間を食った。大都会ではすべてが若松のような具合には行かない。金五郎は、自分の小ささを、あらためて痛感した。

議事堂に着き、二階の傍聴席に入ると、けたたましく、入場合図のベルが鳴りひびいているところだった。議場にはまだ誰もいない。

金五郎は、井上安五郎の横に腰かけた。傍聴席は思いのほかに、がらんとしている。若松の市会議員連は、一ヶ所にかたまって、もの珍しそうに、議場の内部を見まわしながら、しきりと、なにやら<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りあっていた。貧弱な若松市会と、豪華な帝国議会とを比較して、感慨を催しているのかも知れない。それとも、一度はこの国会に議席を持ちたいという野心を、かき立てられてでもいるのであろうか。

友田喜造が、金五郎をふりかえって、意味ありげに、にやりと、笑った。

やがて、左右の扉が開いて、各派の代議士連中が、水が流れ出るような具合に、議場にあらわれた。みるみる、議席は人間で埋められた。

「吉田親分が来なさった」

友田が独り言のように、いった。無論、傍聴者たちに聴かせる魂胆で、その語調はいかにも得意げであった。

ほとんど洋服ばかりの議員連の中に、羽織袴姿の巨漢、吉田磯吉は目立っている。堂々とした体躯で、懐手をし、悠然と民政党側の議席に就いた。坐る前、ちらと傍聴席を見あげた。郷土の顔ぶれを見つけると、無言で、<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>に軽くうなずいた。

守衛から、金五郎は、声をかけられた。一枚の紙片を渡された。

「男同士で話しあいたい事がある。正午の休憩時間、議員食堂で待つ。吉田」

「民政党は、すごいなあ」

腕組みした友田喜造が、<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りくりかえるような姿勢で、また、聞えよがしに、呟いた。

「まったくじゃ」

と、同党の仲間が相槌を打つ。

議長席に向かって、中央附近から、左側全部が民政党議員席だ。二百七十一名という絶対多数を占めている会心と<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>の活気が、どの代議士の表情にも見える。吉田磯吉の精悍な顔にも、我が天下を誇る得意満面の色が掩いがたい。その右は、百七十三名の政友会席だが、中央後方に位置を占めている総裁<ruby><rb>犬養毅</rb><rt>いぬかいつよし</rt></ruby>の老顔には、はげしい闘志が燃えている。厚い髭が白く、大きい眼がギョロギョロ光る。革新、無産、国同、無所属、等の代議士は、右隅に、ちまちまとかたまっている。正面には、民政党総裁、浜口雄幸首相、安達、俵、小泉、町田、などの諸閣僚。

拍手のうちに、田口書記官長が、議長席に就いた。

「議院法第二条第二項により、議長、副議長が勅任せられるまで、私が議長の職をとります。これより、衆議院規則により、議長、副議長候補の選挙を行います」

それから、氏名点呼にしたがって、投票の堂々めぐりがはじまった。議員連は、演壇につめかけて、グルグル廻る。

金五郎は、それを見ていて、蟻の行列を思いだした。また、幼稚園の遊戯が、頭に浮かんだ。ゼンマイ仕掛のようでもある。市会でも、採決のときには、自分たちも、よく、これと同じことをやるのだが、傍聴席から見ると、やはり、そんな風に見えるのだろうかと、顔の赤らむ思いがした。

「開票せんでもわかっちょるよ」

友田喜造が、せせら笑う口調でいう。

結果は、民政党の勝利に定まっているというのであろう。はたして、総投票数四四二票のうち、二六八票で、藤沢幾之輔当選、議長第一候補となる。第二候補は、過半数に達しないので、やりなおし。また、同じょうなグルグル舞いの堂々めぐり。これも、民政党の西村丹治郎当選、第三候補も、民政党。

「副議長も、民政党のもんたい」

<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るのは、友田喜造一人である。誰も答える者はない。

（これが、政治というものじゃろうか？）

金五郎は退屈し、馬鹿々々しくなって来た。しかし、金五郎は、自分の無学と無知とを、深く自覚していたので、口に出してはいわなかった。君に政治なんかわかるものか、といわれるに定まっている。なお、さらに、なにかを知ろうと努めた。

「もしもし」

と、また、声をかけられた。先刻の守衛である。

「なんですか？」

「ちょっと」

他の傍聴者の邪魔にならぬよう、扉のところまで行った。

「あなたにお電話がかかっていました」

「どこから？」

「丸ノ内警察からです」

「どういう……？」

「あなたにそういえばわかるとのことで、……僕にはよく事情が飲みこめませんでしたが」

「般若の五郎という男のことではありませんでしたか」

「般若の？……いや、五郎とはいったが、……そうだ、大貫五郎とか、……」

「そうです。大貫五郎です。それが？……」

「あなたに身元引請けをして貰って、釈放するから、今すぐ、署まで来るように、伝えてくれとのことでした」

「今すぐ？」

「ええ、すぐでないと帰さないそうです」

金五郎は、時計を見た。眉が寄った。当惑した。十一時四十二分、吉田磯吉が指定した正午に近い。

丸ノ内警察署の裸ベンチのうえで、金五郎はしびれを切らせた。議会からまっすぐかけつけて来てから、すでに、数時間が経つのに、まだ、般若の五郎は釈放されないのである。面会もさせてくれない。

うるさそうに、

「もうすこし、待っていて下さい」

と、いうばかりだ。

仕方なく腰かけていると、たしかに、入れかわり立ちかわり、いろいろな人物が出入りして、この大都会の中央街にある警察署の多忙なことがわかる。事件も多いのであろう。しかし、また、金五郎の眼には、それらのすべてが、けっして能率的に片づけられていないことも、よくわかった。こちらの都合などは、全然、考慮に入れていない。おまけに、あまりせつくと、かえって故意に遅らせるような傾向さえ見て取れるのである。昔から、役人や警察官の好きでなかった金五郎は、いらいらして、

（こんなことなら、吉田親分と逢うて来ればよかった。逢うてからでも、ゆっくり、間に合うんじゃった。馬鹿にしとる）

と、もうすこしで、癇癪玉が破裂しそうになった。

運命の意地の悪さ――それは、これまでにも、いやというほど経験して来たところであるが、今日も、また、それのために、してやられた。吉田磯吉が、「男同士で語りあいたい」といった時間を、すっぽかしてしまったのだ。きっと、吉田親分はかんかんに怒っているにちがいない。

こちらでは、こういう一大事が起っているのに、警察は相かわらず、誰か、他の被害者からの抗議が出ているので、と、漠然としたことをいうばかり、さらに、数時間が過ぎてしまった。催促をすると、

「本署は好意的に、破格といってもいい寛大な<ruby><rb>措置</rb><rt>そち</rt></ruby>を取ることを考慮しているんですよ。あの悪漢を出すときに、いてくれないと、送庁して投獄することにならんともかぎらん。それでよければ、お引き取りになって結構です」

と、恩に着せたり、脅迫したりするようなことをいう。

般若の五郎が、やっと釈放されたのは、日の長い春の日が、もうすっかり暮れきってしまってからであった。金五郎は、空腹で、腹の中がしきりに、ググウ、グウ、と鳴りつづけている。

二人は、夜の街を、無言で、歩いた。宮城の濠端に出た。

聳えたつビルディングが、無数のどの窓にも煙々たる電燈をきらめかしている。その、光の絣模様のようにつらなっている美しい風景が、金五郎を、お<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎ</rt></ruby>の国に入りこんだような、幻想的な気持にさせた。古びた石垣の静かなたたずまい、土堤の形のよい松の姿、かすかな<ruby><rb>漣</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>を立てている濠、はねる鯉、柳の並木、空からさすやわらかな月光――そういうものが、すこしずつ、警察署でのささくれだった金五郎の気持をほぐして行く。

二重橋が夜目にもかすかに認められるところまで来て、金五郎は、立ち止まった。

「五郎さん」

「へい」

般若の五郎も、もう、自分の身元引請人になってくれた奇妙な田舎紳士が、何者であるかを知っていた。両手を前帯に突っこみ、金五郎の歩くままにしたがっていたが、老醜といってよい五郎のどす黒い顔には、さっきから、異様に複雑な表情が、狐火のように、あらわれたり、消えたりしていた。

「あんたは、お京さんの消息を知っては居らんでしょうね？」

「知って居りますとも」

と、言下に答えた。

「どこにいます？」

「浅草です。……なんなら、これから、一緒に参りやしょうかね？」

そして、二人は、電車に乗った。

浅草。

雷門から入ると仲店の美しさに、金五郎は眼を奪われた。狭い<ruby><rb>石甃</rb><rt>いしだたみ</rt></ruby>の道をはさんで、両側に、あらゆる商店がならんでいるが、通常日なのに、まるで祭のようで、日本髪の美しい姿が、どの店にもちらほらしている。

金五郎はきょろきょろしているけれども、五郎の方は、（浅草なんぞ、珍しくもねえや）そんな仏頂面で、どんどん、観音堂の方へ行く。

「五郎さん、ちょっと、待って」

金五郎の呼ぶ声で、引きかえして来た。

「ちょっと、買い物をしたいから、……」

「お京さんへの<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>なら、やめときなせえ。そんな心配は要らねえ」

「いや、それは、お京さんに逢うてからのことにするが……ちょっと」

お京はどうしているのか、さっぱりわからない。般若の五郎は、金五郎がいくら訊ねても、逢えばわかる、というきりで語ろうとしないし、ただ、深刻な顔つきで、「びっくりしないで下さいよ」というばかりなのだった。しかし、その謎めいた言葉も、五郎のいうとおり、逢いさえすれば、一切が氷解する。

金五郎が立ち止まったのは、<ruby><rb>仲店</rb><rt>なかみせ</rt></ruby>の一軒に、たくさん並んでいるライターを見つけたからだった。

「そこのガラスの中のを、一箇くれませんか」

「これでございますか？」

「そうです」

金五郎は、唐突に、不可解な昔日の回想に捕われていた。大都会の雰囲気の植えつけた<ruby><rb>中古</rb><rt>ちゅうぶる</rt></ruby>の感傷かも知れない。ライターはもはや珍しいものではなくなっている。若松でも売っているのだが、今、嘗て、青春の日に、マンにあたえた「懐中ランプ」と寸分たがわぬ形の品を発見して、足がすくんだのである。

（マンの土産にしよう）

天の啓示のように、思い定めたのであった。

財布を出して、金を払った。

仁王門の両側に、巨大な仁王が二体、夜目にも光る恐しい<ruby><rb>団栗眼</rb><rt>どんくりめ</rt></ruby>をひんむいて、立ちはだかっている。山門の中心からは、これも巨大な一足の<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>と、赤提灯とがぶら下げられてある。なにもかも大きいものずくめだ。

金五郎が、筋骨隆々たる仁王像を感心して眺めながら、（この顔は誰かに似とるぞ）そんなことを考えていると、

「玉井親分、さあ、行きましょう」

般若の五郎から、うながされた。

「田舎者は、なんでも珍しいもんじゃから、……」

「もっと珍しいものがありまさあ」

観音堂の横を入り、「一膳めし」という赤提灯の出ている大衆食堂の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>を潜った。どちらも大空腹であった。酒を一本ずつ取り、親子丼を食べた。一杯では足らず、お代りをした。ようやく人心地のついた思いである。

「そうでやすかねえ？……道後の湯から、もう、三十年、……へえエ、わからねえもんですなあ、……なあるほど、……」

般若の五郎は変りはてた金五郎の姿を見ては、幾度も、そんな述懐めいた、感歎の言葉を洩らした。しかし、どこか、わざとらしいところがあって、そのしょぼついた眼の奥には、なにか、蛇に似た<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な光がちらついているようだった。

「五郎さんも変ったので、おどろきましたよ。じゃけど、逢えて、ほんとにうれしい」

金五郎は、すなおな気持で、それをいった。

勘定をすまして出た。

「こっちで、へい」

五郎にみちびかれるまま行くと、瓢箪池の横に出た。

ネオンをきらめかす明かるい電燈と、けばけばした色彩と、ごった返している群衆、映画館、芝居小屋、<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>、<ruby><rb>木馬館</rb><rt>もくばかん</rt></ruby>のメリー・ゴーラウンド、煽情的な看板、幟、旗、そして、ずらりとならんだ食べ物屋、飲み屋、焼き鳥のにおいと、ジンタの音楽との奏でだす、世にも頽廃的な狂躁曲――金五郎は、またも、ぽかんとなるような気持で、あたりを眺めまわしながら、

（この浅草のどこかに、お京が居るのじゃ）

と、夢幻的な感傷に捕われていた。

瓢箪池の水面に、きらびやかな風景が、さかさに影を落している。美しい。しかし、共同便所と樹木とのある側は、その一劃だけ、まるで、光の中の穴のように、暗い場所になっていた。無意識のように、般若の五郎の後にしたがって歩いていた金五郎は、ふっと、自分がひどくさびしいところに来ていることに気づいた。なんの木なのか、葉の繁った低い立木が密集し、周囲の喧噪から完全に遮断されている。光は葉越しにちらついているだけだ。

「五郎さん、もう、お京さんの居るところは、近いですか」

そう、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみた。

「ケッケッケッケッ」

<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>のような異様な<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>が、はねかえって来た。五郎は老いぼれた身体を、バネ仕掛のように、反動つけながら、おかしくてたまらぬもののように、腹をよじらせて、笑っている。

金五郎が、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られていると、あたりの繁みがざわついて、五六人の黒い人影があらわれた。金五郎を取り巻いた。うす明かりのなかに、それらが、いずれも、<ruby><rb>与太者</rb><rt>よたもん</rt></ruby>風体であることが認められた。五郎は、どこかで、巧妙に、彼等と連絡を取ったものらしい。

「田舎の親分さん」

すでに、勝利者の傲岸さで、その語調も嘲笑的である。

金五郎は、返事が出来ない。

「これをごらんな」

般若の五郎が懐から取りだしたのは、金五郎の財布だった。いつ、どこで、掏り取ったのであろうか。金五郎は、呆然となった。

「関東の掏摸は、一度狙ったホシは外さねえんだ。外したら、<ruby><rb>沽券</rb><rt>こけん</rt></ruby>にかかわる。昨日はドジを踏んだが、今日は思いを遂げるんだ。ざまあみやがれ」

「五郎さん、あんたのすることは、わからん。あんたを助けたわたしに、どうして、こんな仕打ちをするんじゃ？」

「助けた？　ケッ、笑わせるねえ。お京の<ruby><rb>仇討</rb><rt>かたきうち</rt></ruby>だ。覚悟しやがれ」

「お京さんの仇討？　どういう意味です？　わけを聞かせて下さい」

「こっちには、ちゃんとわかってるんだ。……野郎共、こいつの身ぐるみ、<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がしてしまえ。裸にしたら、瓢箪池に<ruby><rb>投</rb><rt>ほ</rt></ruby>りこめ」

「おう」

「合点だ」

たちまち、乱闘になった。

金五郎はやむなく、襲撃して来る暴漢どもを相手にしなくてはならなかったが、なんとかして、般若の五郎を逃がすまいと、努力した。そして、やっと、五郎を足元に引きずりたおしたとき、突然、あたりが静かになった。暴漢たちが、一瞬に、消え去ったのである。警官がかけつけて来るのを発見したらしかった。喧嘩も早いが、逃げ足も早い。

金五郎も、飛びあがった。般若の五郎を組みしいてはいたけれども、あきらめた。見つかって、面倒なことになるのは、いやだった。心残りだが、仕方がない。警官の近づく気配を知ると、繁みをかきわけて、逃げた。走った。

盛り場の方に出た。夢中で、一軒の飲食店に飛びこんだ。

「ラムネを下さい」

（どうも、わからん……？）

どう考えても、わからないのである。金五郎は、昏迷のため、気が鬱した。

（こんな馬鹿な話があるか）

と、腹が立って来る。

赤前垂をかけた中年の女が、ラムネを盆にのせて運んで来た。栓抜きは、紡績糸で、天井から吊るしてある。

金五郎はそれを取ると、ラムネの栓を抜いた。ポオン、と爽快な音がし、シュシュッ、と白い泡が吹きだす。丸い玉がカランと落ちる。金五郎はこの音が好きだ。ゴクゴクと、ラッパ飲みをした。刺戟の強い冷たいラムネ水が、咽喉を通り抜けて行くと、いくらか、溜飲の下がる心地である。

「ああ、うまい」

と、思わず、声が出た。さらに、一本、飲んだ。

表をあわただしげに走り去る靴音、誰かを探し求める声、<ruby><rb>呼子</rb><rt>よびこ</rt></ruby>の笛、サーベルの音も聞えた。先刻の警官隊かも知れない。

「また、喧嘩かな？」

何組かいる客の一人が、珍しくもなさそうに、大儀らしい口調で呟いた。電気ブランを飲んでいる土方風の男である。

（般若の五郎は、<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まったか知らん？）

憎むに足る不可解な行動をした五郎ではあったが、金五郎は、やはり、彼が無事に逃げ<ruby><rb>終</rb><rt>おお</rt></ruby>せることの方を願っていた。

「小母さん、ラムネ、もう一本」

「よく、あがりますね」

「わたしは、ラムネが強いんですよ」

三本目を飲みながら、なにげなしに、卓のうえにひろげられてある新聞を読んだ。読むというより、見たのである。いくらか落ちついて来た金五郎の眼に、雑然と、さまざまな記事の見出しが映った。

――市電一万の従業員、遂に、総罷業。当局の非常時編成も敏活に、巧妙なる攻防戦術。

――第五十八特別議会、今日召集。

――ロンドン海軍軍縮会議大詰、本日の首席全権会議で、条約草案を承認、明日いよいよ調印。

――高松宮両殿下、午後三時、横浜港より、鹿島丸にて、ヨーロッパへ御出発。

――六大学リーグ、早稲田、法政を３対０で破って、全勝。

――惨殺された男から、突然、一年目に音信。遺骨まで引き取った妻の驚き。

――浅草千束町で、旅の女、絞殺さる。

――三銭を盗む。鶴見の怪賊。

金五郎は、苦笑した。もうすこしで、「田舎のお<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り市会議員殿、浅草にて、掏摸にやらる」などと、新聞に書かれるところだったのである。

（今日は、<ruby><rb>何日</rb><rt>なんにち</rt></ruby>じゃったかな？）

世界と、日本と、浅草とに、こんなにも、いろいろな事件の重なっている偉大な日、金五郎にも忘れられない思い出が、また一つ、増えたのである。

新聞の日附を見た――昭和五年四月二十一日。

金五郎は、般若の五郎のいった言葉を思いだした。

「東京には、もっと珍しいものがありまさあ」

また、

「びっくりしないで下さいよ」

たしかに、珍しいことに出逢った。びっくりしないでは居られない。びっくりした。金五郎は、大都会の渦巻の中で、戸まどって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へま</span>ばかりやっている自分が滑稽で、哀れでならなくなって来た。腹をかかえて笑いたい。しかし、顔は仏頂面になる一方だ。

「もう一本、あげましょうか？」

「いや、もう、ええです」

金五郎は、笑って、金を払った。財布の方は<ruby><rb>盗</rb><rt>と</rt></ruby>られてしまったけれども、幸い、小銭がポケットにすこしあった。ラムネ三本代を払うと、あとに、五銭。やっと、割引電車に乗れる。

洋服の泥を払い、身づくろいをして、表に出た。

なにごともなかったような、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>として頽廃的な浅草の雑沓。金五郎は、眼がちかちかし、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しくて仕方がなかった。

「お京さあん……」

大声で、呶鳴ったら、聞えないだろうか。

金五郎は、不意に、赤面した。逃げるように、仁王門の方角に急いだ。

  


## 青春

「どうも、たいへん御邪魔いたしました。それでは、これで失礼いたします」

「まあ、もうすこし、ゆるッとなさったら？……まだ、雨も降って居りますし、……」

「いえ、この雨は<ruby><rb>地雨</rb><rt>じあめ</rt></ruby>のようで、どうせ<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>みそうもありませんから、……親方、お暇いたしましょう」

「うん、そうじゃな」

マンと、大庭春吉とは、立った。

<ruby><rb>帆柱山</rb><rt>ほばしらやま</rt></ruby>の麓の高台にある藤本家からは、八幡製鉄所が眼下に望まれる。<ruby><rb>囂々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>たる音響と、濛々たる<ruby><rb>煤煙</rb><rt>ばいえん</rt></ruby>。その向こうには、無数に近い大小船舶の碇泊している<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>がひろがり、対岸には、若松の<ruby><rb>高塔山</rb><rt>たかとうやま</rt></ruby>、石峯山、等の、山というよりも、丘陵の親分ほどの高地がつらなっている。雨に煙って、ぼかし絵のようだ。入港船か、出港船か、鈍く、汽笛が聞える。

藤本喜八郎は留守だったが、夫人で、すべての話は通じた。「藤本組の女傑」と呼ぶ者もあるほど、杉江夫人はしっかりしていた。

玄関を出るとき、どちらからも、最後の仕上げかのように、

「これで、安心をいたしました」

と、同じことをいって、微笑をかわした。

席に侍って、茶を入れたり、果物をむいたりしていた長女絹子は、それまで、多く口もきかず、表情も変えなかったが、そのとき、ぱっと、赤インキを浴びたように、顔を染めた。

大庭春吉と、マンとは、傘をさして、雨の道を歩いた。

「まずまず、よかったなあ」

「親方のおかげですわ」

「ええ<ruby><rb>夫婦</rb><rt>めおと</rt></ruby>が出来るぞ。玉井組と藤本組とが手を握りゃあ、鬼に金棒じゃ。<ruby><rb>祝言</rb><rt>しゅうげん</rt></ruby>は、この春ちゅうわけにも行くまいけ、秋に、早目にやろ。夏は暑うて、かなわん」

「万事、親方にお委せいたします」

「金さんは、まだ、東京な？」

「一週間の予定ということでしたから、もう帰る時分でしょう」

「友田喜造も、一緒らしいのう。フフ……、長い敵じゃなあ。おれは、或るところで聞いたがな、友田の奴が――玉井をこんなに大きゅうならんうちに、かたづけとくんじゃった。……ちゅうて、大層、口惜しがっとったちゅうわい。それでも、あの男のことじゃけ、まだ、どんな卑怯な策略を、考えとらんとも限らん」

「親方」

マンは、急に、立ち止まった。

「なんじゃい？」

「この道です」

「この道が、どげしたな？」

「この道ですわ。うちの人と二人で、はじめて、永田の親方を頼って来たとき、この道を歩きました。彦島を追いだされて、金はないし、腹は減るし、……あたしも、うちの人も、まるきり、乞食の引っ越しみたよな恰好で、この道を、とぼとぼ、とぼとぼ……」

「古い話じゃのう。あれから、何年になるか知らん？」

「三十年近くになります」

「それくらいにはなろうなあ、おれが、こげな、よぼよぼ爺になっちょるけ」

「あたしも、こんなお婆さんになってしもうて……」

二人は顔見あわせて笑ったが、マンの眼には、うっすらと光るものがあった。

すっかり開けて、様子は変ってしまっているけれども、道筋と、それを挟む崖や、丘には、なお昔の面影が残っていた。踊るような恰好の一本松や、竹藪へ登る壊れた石段、「猿田彦大神」の<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>などには、はっきりした記憶があった。前途暗澹とした気持で、金五郎と二人、力なく腰をおろした路傍の石も、そのままある。

――青春の日。

マンの脳裡に、遠い日の思い出が、次々によみがえって来たが、

（その青春は、もう、子供たちにはじまっている）

それを思って、胸が<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>いた。

<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>の道を、二人とも、高下駄で、注意しながら、歩いた。山を伐りひらいて作ったばかりの道路は、ともすると、ガキッと、下駄の歯をくわえて、足元を狂わせるのだった。

「親方」

と、今度は、歩きながら、

「おい」

「すこし、気がかりなことがあるとですけど、……」

「なんじゃい？」

「うちのボーシンが話しよったとですが、勝則が、このごろ、なんか、芸者と仲ようなっとるとかで……」

「それで？」

「今度の縁談がそのために、……？」

「ワッハッハッハッ」と、大庭春吉は、こともなげに、笑いだした。「そげな心配は要らんばい。そんくらいのこと、なんでもないよ。請負師稼業は<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>が多いけ、どげしても、花柳界とは縁が切れん。そしたら、芸者の顔知りくらい、出来るとが当り前、勝則だって、もう二十五じゃろ？　一人前たい。<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>を見たら、ちいたあ、胸がドキドキしたり、ときには、酒の勢で、女の手くらい握ったり、……フフフ、人間じゃもん、あろうわな。なけりゃ、<ruby><rb>不具</rb><rt>かたわ</rt></ruby>じゃ。わしにも、経験がある。そげな心配はしなんな。おマンも、割と苦労性じゃなあ」

「そうでしょうか？」

「向こうだって、あるかもわからんぞ。藤本の<ruby><rb>嬢</rb><rt>じょう</rt></ruby>も、二十二といや、一人前、わしは洒落れた言葉は知らんけんど、青春てら、なんとかの目ざめてらいう年頃じゃでな、ちょっと好きな男の一人や二人、ないとも限らん。あったって、ええよ。結婚して、夫婦になってしまや、そげなこた、なんでもない。わしが、請負うちょく」

「そんなら、よろしいですけど、……」

マンは、まだ、気がかりの面持だった。

「それに、おマン、もし、勝則が、その噂のある芸者と、なんぼか深入りしとったとしても、芸者のことなら、金でかたづく。わしに委せときない。大丈夫。勝則は親思いのおとなしい子じゃけ、今度の縁談をくずすようなことはしやせん」

「あたしも、そうは考えとります。……じゃけど、あの子、無口で、おとなしゅうはありますが、なにを考えとるのか、なにをしでかすか、わからんようなところも、あるもんですけ……」

「大学まで行っても、半纏がけで、沖に出とるのを、わしは感心して見ちょる。金五郎のような苦労はしちゃ居らんが、体格もええし、ええ親分になるじゃろよ。藤本組と縁組みすりゃ、玉井組万々歳じゃ」

「うちの人も、あたしも、まるきりの無学文盲、それで、一生<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い目を見ましたけ、子供たちには、どんなに貧乏してでも、学問だけはさせてやろうと思うたとですが、……そうすれば、そうしたで、子供たちは、親の膝元を離れるようになりはせんかと、……」

「むずかしいもんたい。じゃが、あんまり考えすぎても、物事はうまく行かん。まあ、今度の縁談については、そう、クヨクヨしなんな。勝則も、まさか、わたしたちの顔をつぶすようなことはしやすまい」

大庭邸のある、牧山への上り口のところに来て、二人は別れた。別れ際に、大庭春吉は、「明日の晩にでも、勝則を、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に、遊びに寄越しなさい」と、いった。大庭は、勝則が自分の孫のように、可愛ゆくてならぬ様子だった。

マンは、一人で、渡船場の方へ歩きながら、まだ不安が去らず、これから、<ruby><rb>原田雲井</rb><rt>はらだくもい</rt></ruby>のところへ寄って、この問題について、智慧を借りよう、と思った。

渡船に、乗った。五〇トンほどのずんぐりした恰好の小蒸気船である。戸畑と若松とをつなぎ、五分足らず、渡船賃三銭、十分置き、中ノ島の両側に添って、出入港船の頻繁な洞海湾の港口を横断している。

マンが乗っていると、

「この渡しは危いねえ。早う、橋をかけるか、海底トンネルにすべきじゃよ」

と、話している者があった。

「これは、玉井の<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、どちらまで？」

と、声をかけられた。

ふりかえると、城三次が立っている。「<ruby><rb>山九</rb><rt>さんきゅう</rt></ruby>運輸」と襟に入った半纏を着、タンクと呼ばれている半ズボン、ゴム長靴、チョッキには時計の銀鎖、手に大きな風呂敷包みを持っている。三次の顔は、笑うと、左の唇がひきつるので、異様な形相になる。日本刀で斬られた<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>である。後頭部にも、鳥打帽を取れば、大きな傷痕が見える筈だ。二十数年前の嵐の夜、金五郎が角助一味から、滅多斬りにされたとき、城三次も、傷を負ったのであった。後でわかったことであるが、三次は逃げて行く暴漢の一人に追いつき、組み打ちをして、怪我をしたのである。相手は逃げてしまった。

「オヤジのかわりに、おれが斬られりゃ、よかった」

あのとき、金五郎のむざんな姿を見て、三次は、そういって、男泣きに泣いたのである。

その城三次は、今は、「<ruby><rb>山九</rb><rt>さんきゅう</rt></ruby>組」の小頭として、ちょっとした親分になっている。

「おれみたいな奴が、この若松を、大きな顔で通れるのも、みんな、玉井のオヤジのおかげじゃ」

と、口癖にいい、自分がオヤジと呼ばれる身分になっていても、金五郎を、昔どおり、「オヤジ」と呼んでいた。

城三次は、赤い顔をしている。

「わたしは、大庭の親方のところへ行ったんじゃが、……三次さんは？」

「宇部の炭坑に行った帰りです。……ああ、大庭へ行きなさったといやあ、<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>オヤジの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おめでた</span>でしょう？」

「もう、知っとるの？」

「誰でも知っちょりますよ。大庭の大親分がいいふらすもんじゃけ、有名ですばい」

「あんまり、騒がれると困るんじゃけど……」

「なあに、若松中、でんぐりがやるように、お祝いをやりまっしょうや。わたしも、今から、張りきっちょるですよ。昔の玉井組の子分連中は、今じゃ、ちょいとした顔役になっちょる者が多いけ、このうち、集まって、もうお祝い物の相談もすんじょるですたい。それは、いわれん。びっくりさせてやろう、ちゅうて……」

「ほんとに、大仰にならん方がええのよ」

「一世一代、なんの遠慮があるもんですかい。やってやって、やりまくりまっしょう」

すこし酔っている三次が、不遠慮な高声で話しかけるので、マンは、閉口した。

船が狭いので、乗客もみんな聞いている。中には、顔を知っている者もまじっていて、「勝則さんの祝言は、いつですか」などというので、一層、顔が赤らんだ。

雨に煙る海のうえを、渡船は若松に着いた。

マンは、三次と別れ、<ruby><rb>蛭子通</rb><rt>えびすどお</rt></ruby>りから、原田雲井の家のある<ruby><rb>浜</rb><rt>はま</rt></ruby>ノ<ruby><rb>町</rb><rt>まち</rt></ruby>へ曲った。

一町も行かぬうち、一軒の家の中から、

「玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>や、寄って行かんかな？」

と、呶鳴る者があった。女の声である。

マンは、微笑して、立ち止まった。その家の方へ歩いた。そのマンの耳に、どよめきのように、猫の鳴き声が聞えて来た。

勝手を知った縁側の方に廻ると、四十匹ほどの猫の群衆の中に、「二代目ドテラ婆さん」が、<ruby><rb>胡床</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいていた。

縁に、二人の若い芸者がいる。

「どうな、うちの前を、素通りは出来まいがな？」

川野ノブは、身体をゆすって笑った。

「そうね、猫にかけちゃあ、あたしも、おノブさんには勝ちませんよ」

「あんたは猫好き、おれは猫気ちがい、<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>には、誰も勝たん。じゃが、おれは猫を好かん奴は、信用せんことにしとるばい。悪い心の奴には、猫の可愛いことがわからん」

「そんなら、あたしは信用があるのね」

「<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>あり、大あり。……ほうら、猫の方でも、よう知っちょる。猫を好かん奴には寄りつかんが、あんたが来ると、そげな風に、ゾロゾロ、寄って行く。猫は賢いもんばい」

そういううちにも、七八匹の猫が、縁側に坐ったマンの、膝といわず、肩といわず、まつわりついて来た。

猫の種類は千差万別で、まったく、猫の展覧会といってよい。この家は「猫屋敷」と呼ばれて居り、川野ノブは「猫婆さん」で、どこででも通る。昔、女侠客として鳴らした島村ギンは、明治の末期に、喧嘩の怪我がもとで死んだ。ギンは「ドテラ婆」と呼ばれていたが、川野ノブも、また、「二代目ドテラ婆」と称されている。血はつながっていないのに、よくもこんなに似たものだとおどろくほど、初代に、風貌がそっくりだ。すると、ノブの方も、わざと、大丸髷を結ったり、チャンチャンコまがいの<ruby><rb>褞袍</rb><rt>どてら</rt></ruby>を着たり、男のような言葉使いをしたりして、初代とまぎらかしてよろこんでいるのだった。ただ、ちがうところは、猫のこと。

「先代は、猫なんか好かんじゃった。猫が傍に来ると、蹴とばしたりしよった。そんなことするもんじゃけ、猫の罰があたって、畳のうえで死ねなんだんじゃ。おギンさんが怪我した老松町の出入りのとき、なぐりこみをかけた先方の家には、黒猫が居ったげな。その黒猫の尻尾を踏んで、おギンさんは庭にこけ落ちたんぞな。猫のたたりよ。それがもとで死んでしもうた」

この話を、マンは、ノブから、何度、聞かされたか知れない。そして、「おマンさん、あんたは猫が守っちょるけ、永生きするばい」と、つけ加えるのを忘れないのである。

表では、雨がひどくなって、遠雷のひびきが伝わって来た。

「玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>、今度ええ猫が生まれるけ、また、二三匹、あげような」

「一匹で、ええですよ」

「まあ、遠慮せんと、貰ろときない。今、そこに居る芸者衆にも、猫をやったとこたい。感心に、猫を可愛がるもんじゃけ、おれはひいきにしてやっとる。おれの勝手で、<ruby><rb>猫丸</rb><rt>ねこまる</rt></ruby>、<ruby><rb>猫三</rb><rt>ねこぞう</rt></ruby>、ちゅう名で呼んどる。姉妹芸者でな、どっちも、ええ<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>じゃ」

姉妹ということがすぐわかる、色白の丸顔で、どちらも、緑の葉模様の地味な銘仙を着ていた。二十三四と、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>とくらいであろうか。姉の方は<ruby><rb>庇髪</rb><rt>ひさしがみ</rt></ruby>、妹の方は島田に結っているが、芸者というよりも、どこか素人くさい、人ずれのしていないところがあった。一匹ずつ、三毛猫を抱いている。

二人は、先刻から、妙に、マンを眩しそうに見ていたが、「猫婆さん」の言葉で、二人とも、かるく、マンへ、頭を下げた。

マンも無言で、会釈をした。

「おマンさん、どこへ？」

「原田雲井さんのとこへ、ちょっと、寄ろうと思いまして……」

「ありゃりゃ、たった今、おたくの勝則さんが、原田さんとこ行くちゅうて、出たばかりじゃが。今まで、うちで遊びよったよ」

その言葉に、妹芸者の方の顔が、ぽッと赤らんだ。

「小母さん、失礼します」

姉芸者の方が、立ちあがった。

「まあ、ええじゃないか。玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>も猫好き、あんただちも猫好き、そうじゃ、今帰った勝則さんも猫好き、外は春雨が降っちょる。ゆっくり、みんなで、猫の話どもしようや。この<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なこたひとつもない世の中に、猫の話だけしとりゃ、天下泰平じゃよ」

「ええ、でも、お稽古の時間ですから……」

「<ruby><rb>藤間</rb><rt>ふじま</rt></ruby>のお師匠さんとこかへ？」

「はい」

「東京から、いせさんが来とるてなあ？」

「妹が、今度の<ruby><rb>温習会</rb><rt>おんしゅうかい</rt></ruby>で、清元の「夕立」を踊るもんですから……」

「さぞ、きれいじゃろなあ。ぜひ、<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>に行くばい。花輪でもやろか、「猫丸さんに」ちゅうて、ワッハッハッハッ」

「それでは」

つれだって、姉妹は、「猫屋敷」を出た。一匹ずつ、猫を袂で抱き、姉のさす一本の蛇の目傘に入った。うす緑の傘のいろが、二人の顔を染め、<ruby><rb>相合傘</rb><rt>あいあいがさ</rt></ruby>の姿が美しい。

蛭子神社の方へ、歩いた。

「<ruby><rb>良</rb><rt>よ</rt></ruby>ッちゃん、勝則さんのおっ母さんて、割と、やさしそうな人やないか」

「でも、……」

「男まさりのはげしい人というて、評判でしょ？　どんな恐しい人かと思うたわ」

「<ruby><rb>時</rb><rt>とき</rt></ruby>姉さん」

「うん？」

「「猫婆さん」が、話しはせんか知らん」

「あんたと、勝則さんとのことを？」

「ええ」

「あれで、なかなか、<ruby><rb>蓮根</rb><rt>れんこん</rt></ruby>食いやけ、そんな野暮はせんやろ。話したってええやないか。どうせ、このままでは、すみはすまいもん」

妹芸者は、黙った。内気らしい顔に、深い憂いのいろがただよっている。

蛭子神社の角を曲った。年代を経た大榎の梢に、鳩の群が、雨に濡れながら、しきりと舞っている。

「<ruby><rb>良</rb><rt>よ</rt></ruby>ッちゃん」

これまでにない、強い姉の語調が、耳をはじいた。

二人は血をわけた真実の姉妹である。<ruby><rb>光三</rb><rt>みつぞう</rt></ruby>、<ruby><rb>光丸</rb><rt>みつまる</rt></ruby>、という芸名で、若松検番から出ているが、おたがいの間では、<ruby><rb>時子</rb><rt>ときこ</rt></ruby>、<ruby><rb>良子</rb><rt>よしこ</rt></ruby>、と、本名を呼びあった。光丸が養女になっている辻木惣八の「竹の家」に、光三も同居している。料亭「竹の家」は、置屋も兼ねていて、他に、四五人、抱え芸者がいた。

「なあに？」

ふりむくと、また、強い語調と<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、

「あんた、本気なんでしょうね？」

「ええ」

「あたしなんて、出鱈目で、浮気ばっかりしとるけど、あんたは、あたしたちとは違うのよ。辻木家のれっきとした養女で、要之助さんの<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>なのよ。それで、<ruby><rb>舞妓</rb><rt>まいこ</rt></ruby>から一本になるときだって、水あげもしとらんし、芸一本の自由勝手なお座敷づとめをしとる。でも、あんたも年ごろ、好きなお客さんの出来ること、<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めはせんけど、……ほどほどにしとかんと、後で困ることが出来るばい」

「わかっています」

「あたし、ほんとは、あんたのスパイなのよ。お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんと、お<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんとから、買収されとるの。あんたの行動を、……つまり、男とのことを、厳重監視、そして、ちょっとでも変な素振りがあったら、お父さんとお母さんに報告する義務があるのよ」

「報告した？」

「今、考慮中」

「姉さん、お願い。もうちょっと、待って」

「買収しなけりゃ、報告するぞ」

「買収するけん」

「ウフフ……」

おかしくてならぬように、光三が笑ったので、袂の中で、心地よさそうに眠っていた小猫が、びっくりして、眼をさました。

「<ruby><rb>良</rb><rt>よ</rt></ruby>ッちゃん、心配御無用。あたしは、あんたの味方よ。あんたの気持、あたしには、ちゃあんと、わかっとる。要之助さんとの縁組なんて、あんたには無断で定めたことやし、……第一、あんな、にやけ男、あたし、大きらい。良ッちゃんが、あんな男の嫁さんになるかと、思うただけで、背中がゾコゾコッとするわ。<ruby><rb>蜈蚣</rb><rt>むかで</rt></ruby>と、<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みみず</rt></ruby>と、毛虫とが、一緒に襟元に飛びこんだみたいよ。おう、<ruby><rb>気色</rb><rt>きしょく</rt></ruby>が<ruby><rb>悪</rb><rt>わ</rt></ruby>る。……良ッちゃん、あんな男に、指一本でも、触れさせるな」

蓮ッ葉な伝法調で、光三は、命令を降すように、いうのだった。

光丸は、うつむいて、道に散る雨の雫ばかり、見て歩いた。一重瞼の澄んだ眼に、うっすらと涙がたまっている。

「友田喜造さんが、仲介することになっとるらしいのね。あたしたち、政治のことなんて、さっぱり、わからんけど、どうして、あんなに、政党政党って、いうのか知らん？――民政党に<ruby><rb>非</rb><rt>あら</rt></ruby>ずんば、人に非ず。……なんて、滅茶な話さ。人に非ずかなんか知らんけど、若松じゃあ、民政党に入らんことには、商売ひとつ、満足に出来やせん。料理屋組合でも、みんな民政党。うちのお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんも、民政党。吉田親分さんの鼻息ばっかり、うかごうとる。阿呆らし。……な、良ッちゃんも、そう、思うやろ？」

「あたし、政治のことは、わからんわ」

「そりゃ、姉さんもわからんさ。じゃけど、五月の市会議員選挙に、うちのお父さんも出るつもりじゃけん、友田さんの機嫌を取っとるとよ。この間、友田さんがお父さんと話しとるのを聞いたわ――今度の選挙には、民政党から、十七人か十八人、立候補させて、全部、当選させる。議員は定員三十人じゃから、絶対多数になる。辻木君、あんたも落しやせん。そして、今度の選挙の第一目標は、うるさいゴロゴロ、玉井金五郎と井上安五郎とを、絶対、たたき落す。……なんて。……友田さんは、骨の髄から、玉井さんと井上さんとがきらいらしいのね。……その玉井さんの息子と、良ッちゃん、あんたとが恋仲なんて、面白いなあ」

光三は、妙にはしゃいで、一人で面白がっているけれども、光丸の顔の憂色は、深まるばかりだった。

「若松検番」の看板が、見えて来た。稽古場からの三味や鼓の音が、雨を縫って、かすかに聞える。

「良ッちゃん、あんた、先に、検番に行っといて。あたし、一ぺん家に帰って、猫置いて来る。あんたの扇を取って来てあげるわ。……さあ、猫をこっちにお出し」

光三は、光丸を検番に送りこむと、二匹の猫を抱いて、傘をさして、帰って行った。

光丸は、二階の稽古場への階段を登った。

「これは、光丸はん、お師匠はんがお待ちかねですよ」

「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」の女将、君香が、にこにこ顔で迎えた。

「遅うなりまして……」

「光丸はん、うちの妻太郎はんと<ruby><rb>相棒</rb><rt>あいぼ</rt></ruby>で、「夕立」を踊んなはるんやてなあ。妻太郎はん、頼りないよってに、よろしゅう頼みまっさ」

「こちらこそ」

大勢の芸者たちが、藤間いせの指導の下に、稽古に熱中している。その雰囲気が、心の沈んでいた光丸を、すこしずつ、芸の世界に引き入れて行った。

浜ノ町は一番町から十一番町まである。すべて、大正初年までは、まだ、海であったところだ。市街地の後方に、<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>のような<ruby><rb>高塔山</rb><rt>たかとうやま</rt></ruby>を控えている若松は、海の方へ領土拡張をする以外に、発展のしようがない。海面埋立のために、八幡製鉄所の<ruby><rb>鉱滓</rb><rt>こうさい</rt></ruby>が運ばれ、急速に、街はぐんぐん海の方へ伸びて行ったのである。市中の雑然とした古い町並に比べて、浜ノ町は碁盤の目のように、井然としている。浜ノ町から先の広大な埋立地は、工場地帯になっていた。この浜四番町の一劃に、原田雲井の家があった。

「猫屋敷」を出た玉井勝則が、原田家に到着するまでには、普通以上に、時間がかかった。心が重く、足どりに力がなかったからである。

しかし、大した距離でもないので、いつか、自然に、原田邸の門前にたどりついていた。「若松新聞社」という、家には不似合な大きな看板がかかげられてある。それを見ながら、「玉井組」の半纏姿で、蝙蝠傘をさしている勝則は、しばらく、ためらっていて、案内を乞う勇気が出ないもののようだった。

原田雲井の方から、見つけられた。

「やあ、そこに居るとは、勝則君じゃなかな？」

「はあ」

と、仕方なしに、答えた。

「そげんとこで、なんごとば、しよるとな？　雨ん中に立っとらんで、早よ、内さい這入らんかな」

「失礼します」

崩れかけて傾いている、扉もない、門のようなものを潜って、玄関に通った。

蝙蝠傘をたたもうとすると、

「傘は、そのまま、そのまま。わが家は、雨の日は、内も外も同じこと。傘はさして、上がッつかアさい」

勝則も笑いだして、靴だけ脱いだ。傘の方はよく雫を切ってから、また、さして、座敷に上った。

長屋の一軒で、六畳、四畳半、三畳、の三間ある平屋だが、その荒廃のさまは<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>同然といってよい。調度類はほとんどなく、襖、障子は破れ放題、ガラス戸のガラスも、満足なのは、幾枚もない。畳も、畳というよりも、荒れた芝生のようだ。六畳のまん中に、一閑張りの<ruby><rb>朱机</rb><rt>しゅづくえ</rt></ruby>が一個、硯箱、インキ壺、雑然とした書類の束。そして、原田は、勝則が訪れるまで、その机に向かって、なにかの原稿を書いていた模様だった。内も外も同じというほどは、<ruby><rb>屋内</rb><rt>おくない</rt></ruby>は雨が降ってはいない。方々、雨漏りがしていて、<ruby><rb>家内</rb><rt>やない</rt></ruby>のいたるところに、洗面器、<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>、釜の類が置いてあるけれども、六畳の座敷は、ときどき、天井から雫が落ちる程度だ。

原田雲井、五十八歳。「タコノバッチョ」と呼ばれている、禅宗僧が<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>のときに用いる、大きな笠を被っている。六尺豊かで、肥満した巨躯、髭の中に顔があるといった方がよいほど、顔全体を包んでいる長い髭、ロイド縁の眼鏡、その下にある細い眼、<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>に笑うときには、人のよさそうな童顔になるが、その顔全体には、いいようもない頑固一徹さ、太々しさのようなものが漲っていた。袖口の切れた、色のはげた黒の背広を着ている。天井から落ちる点滴が、バッチョ笠を鳴らす。

「<ruby><rb>悪家主</rb><rt>あくやぬし</rt></ruby>の<ruby><rb>外道</rb><rt>げど</rt></ruby>されが、とうどう、屋根の瓦ば剥いでしまい居ってな」

原田は天井を見あげて、身体中をゆすって笑った。

「僕のところは、天気になりました」

そういって、勝則は、蝙蝠傘をたたんだ。

（どういう風に、話し出したらよかろうか？）

気が、重い。

「どうも、こうも、うちの家主と来たら、碌な奴ッちゃない」<ruby><rb>布袋</rb><rt>ほてい</rt></ruby>のような原田雲井は、客の気持などは全然わからないので、<ruby><rb>鉈豆</rb><rt>なたまめ</rt></ruby>煙管で、キザミをふかしながら、にこにこと、楽しげな口調で、

「<ruby><rb>人権蹂躙</rb><rt>じんけんじゅうりん</rt></ruby>で訴えてやろうと思うちょる。わしが家賃を払わんのも悪かばって、こっちは貧乏して、食うことがやっと、家賃まで手が廻らんとじゃ。……いや、そうじゃなか。勝則君も知っとる筈。ほんというと、家賃くらいは、どうにでもなる。まさかのときにゃ、お宅にでも駈けこめや、玉井さんが、家賃くらいのことはいつでも引きうけてくれる。<ruby><rb>銭金</rb><rt>ぜにかね</rt></ruby>じゃなかとたい。庶民を苦しめる悪家主とは、徹底的に闘わにゃいかん。……馬鹿たれが。屋根の瓦を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がしゃ、わしが困るかと思うちょる。出るかと思うちょる。ヘン、今に、向こうが吠え面かくとたい」

そういって、また、全身と、家とをゆるがせて、<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>した。

「家主は、誰ですか？」

「森五市くさ。<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>からして、悪逆無道の顔しちょる。ボタ餅を<ruby><rb>地面</rb><rt>じべた</rt></ruby>にたたきつけて、その上を<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>で引いたような面しとって、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>は二人も囲うちょる。それが、勝則君、今度の選挙に打って出ろうというとばい」

「森さんの息子さんは、僕と小学校の同級生でした」

「九市じゃろ？」

「はあ」

「その九市が、また、碌な<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>じゃなか。若い癖して、鬼高利貸になって、こいつも、親父に<ruby><rb>倣</rb><rt>なろ</rt></ruby>うて、妾を持っちょるちゅう話じゃ。なんでもよか。わしは、天下の悪家主、悪高利貸、悪質屋など、庶民の敵を征伐することを、生涯の仕事と定めとるとじゃけん、どげん<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に逢うたって、あくまで、やる。腕力ではのうて、正義人道と、言論と、法律とが、わしの武器たい。ところがその<ruby><rb>悪者</rb><rt>わるもん</rt></ruby>の大部分が、この若松じゃあ、民政党、吉田一家と来ちょる。ちょいと、うるさい。ばって、男一匹、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にゃ引かれん。命が危かけん、用心しなさい、というてくれる者も多か。昔、品川信健が殺されたが、あの二の舞を踏まんように、と、忠告してくれる者もある。ばって、用心せえたって、用心のしようもなか。町角を曲るときに、すこし大廻りするくらいのこったい、<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られたときは、天命くさ。これまで、頑固が通して来た<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>いの一徹、屋根瓦を剥がされたくらいで、旗を巻くもんかい」

<ruby><rb>陋巷</rb><rt>ろうこう</rt></ruby>の豪傑は、また、笑う。

玉井金五郎夫婦が、この原田雲井と近づきになったのは、戸籍のことからであった。

勝則が生まれたとき、籍がなく、やむなく、永田杢次の二男として入籍した。ようやく、若松に寄留し、勝則を玉井の籍に入れようとしたが、「養子」としてしか、記帳を許されなかった。規則がやかましい。法律のことなど何ひとつわからぬ金五郎夫婦は、途方に暮れた。すると、井上安五郎が、

「そんな話なら、原田三百代言君にかぎる」

そういって、紹介してくれたのであった。

「若松新聞社」をたった一人で経営していた原田雲井は、福岡の士族で、父が判事、若いころは、裁判所の書記をしていたことがあるので、法律には明かるかった。この原田の献身的な努力の結果、勝則は、はじめて、玉井家の長男として、戸籍が訂正されたのである。このため、金五郎夫婦は、原田へ深い感謝の念を抱いていた。そして、この奇人ではあるが、親切で、実践力に富む原田雲井は、いつか、玉井家の家族の一員のように親しくなり、なにかと玉井家の相談相手になるようになっていたのである。

「家内が、晩の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おかず</span>ば買い出しに、町に出とるもんじゃけん、お茶も出されんが、……」

そういって、台所の方を眺めまわしてから、やっと、気づいたように、

「そら、そうと、勝則君、なんか、用じゃったとな？」

「ええ、……ちょっと、……」

「話さっしゃい」

「すこし、折り入って、……」

「こみいったことな？」

「はあ」

「なんでも、聞かせなさい。あんたのことなら、どげんことでも、相談に乗ってあぐる。親父にも、お袋にも、話されんことでも、わしになら、話せる筈じゃ。わしはあんたの戸籍じゃけんな。遠慮は要らんばい」

「結婚問題なのですが……」

勝則は正坐して、両手を膝に乗せ、うつむいたまま、苦しげな声でいった。ふさふさした長髪が、顔の前にたれ下っている。

「結婚問題、なるほど。……それが？」

「困ったことが出来ました」

「はっきり、話さっしゃい」

「あなたは、このごろの、わたしの縁談について、なにか、お聞きではなかったでしょうか」

原田雲井は、ちょっと考えるようにしたが、

「ようは知らんばって、……八幡の藤本組との話じゃったかな？」

「そうです」

「それなら、前に、ちらっと、井上安五郎君から聞いたことがある。それが、どげんしたとな？」

「その縁談をあなたから、断わっていただきたいと思いまして……」

「破談にするとな？」

「はあ」

「どして？」

「それが、……」

勝則は、いよいよ、苦しげに、うなだれた。

顔が熱く<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>り、目まで真ッ赤になっている。下唇を強く噛み、眉を曇らせているのは、胸中のなにかの苦悶と闘っているらしい。

<ruby><rb>布袋</rb><rt>ほてい</rt></ruby>和尚のような原田雲井は、近眼鏡の奥から、細い眼で、眼前の青年の苦渋のありさまを、じっと見ていたが、コクッと、首の骨が鳴るほど、ひとつ、大きく、うなずいた。（わかった）という顔つきである。

「どうやら、雨は<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んだらしいな」

天井を見あげて、そういうと、バッチョ笠を脱いだ。ちぢれた半白の頭髪が、<ruby><rb>鬘</rb><rt>かつら</rt></ruby>でも被っているようである。原田は坐りなおした。

真剣な顔になって、厳かに、

「勝則君」

「はあ」

「あんた、女が<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>たとじゃな？」

返事が出来ずに、勝則は、また、うつむいた。そして、意を決したように、半纏の裏につけたポケットに、手をさしこむと、一通の封書を取りだした。それを、無言で、原田の前の机に置いた。

「もし、お留守だったらと思うて、この手紙、書いて来ましたのですが、……」

「拝見」

原田は、封を切って目読した。

外の雨も小降りになった模様である。天井から落ちる雫も間遠になった。しかし、ときどき、机の上、原田の頭、バッチョ笠、勝則の肩、手紙のうえなどに、瓦を剥がされた屋根裏の赤土と、天井の<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>との混合した赤黒い汁がたれる。

勝則は、頭をたれて、判決を待った。

便箋に五六枚、びっしりと<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い字で書き埋められた長たらしい手紙を、法律家原田雲井は、梅干を噛んだような、鹿爪らしい顔で読む。ときどき、フン、フン、と、鼻を鳴らす。うなずく。小首を傾ける。前の方を読みかえしたり、二枚ならべて照合したり、まるで、裁判の証拠書類でもしらべているような調子だ。

やがて、読み終ると、ためいきのような、<ruby><rb>嚏</rb><rt>くさめ</rt></ruby>のような、妙な<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>を、一つした。それから、手紙を、机のうえに、一枚目から、ずらりと、順に横にならべて、

「勝則君、わかった」

と、顔に反動をつけて、いった。

どう返事をしたらよいかわからないので、黙っていると、

「この、二枚目に書いてある、<ruby><rb>光丸</rb><rt>みつまる</rt></ruby>という芸者に、あんた、惚れとるとじゃろ？」

むきつけな言葉に、どぎまぎしたが、仕方なしに、

「はあ」

「光丸君の方も、あんたに、惚れとるじゃろ？」

「……ええ」

「真剣なのじゃな？」

「はあ」

「四枚目に、光丸君はもう妊娠しとると書いてあるが、あんたの子に相違なかろうな？」

「相違ありません」

「よろしい」原田雲井は、どすんと、机のうえを叩いた。「問題なか。惚れた同士、夫婦になるがよかたい。わしが親父に話してあぐる。なに、藤本組との縁談を破談にするくらい、わけも屁もなか。まだ、口約束だけで、結納を取りかわしちゃ居らんらしいけん、そげん、むずかしか問題も起るまい。……玉井さんは、東京から、いつ、帰るな？」

「もう、二三日と思いますが……」

「帰ったら、じき、逢うてあぐる。……勝則君、白状するが、わしの家内も<ruby><rb>恋女房</rb><rt>こいにょんぼ</rt></ruby>でな、若いころ、いろいろ、あったとばい。どっちも、<ruby><rb>爺婆</rb><rt>じじばば</rt></ruby>になってしもうたばって。……そげんいやあ、あんたのお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>ッあんと、おッ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんも、昔、好きあうて夫婦になりござったごたる。あんたのことも、わかってくれるさ」

「よろしく、お願いします」

「大船に乗った気で居らっしゃい。……あ、家内が帰って来たらしいな」

裏口の戸が開いて、原田夫人が入って来た。台所に、買い出して来たいろいろな物を置き、座敷に上った。

「これは、勝則さん、いらっしゃい」

「お邪魔しとります」

夫人は大柄で、風貌がどこか亭主に似ているので、「布袋夫婦」などといわれていた。

「なにもなかばって、林檎でもむきまっしょ」

「いいえ、もう、お暇しますから……」

「今、そこの角で、おッ母さんにお逢いしましたばい」

「そうですか」

「原田に、なんか、相談したいことがあって、寄るつもりじゃったばって、あんたが先に行っとるらしいけん、日を変えて、また、といいなさって、帰らしゃった」

「わたしがここに来とること、母は知っていましたか」

「「猫婆さん」とこで、聞きなさったとかで……」

その言葉に、勝則は、ぎくッとした。

（光丸と、母は、逢いはしなかったろうか？　「猫婆さん」が、なにか、母に話しはしなかったろうか？）

<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れられぬ最後の場に、すこしずつ、じりじりと、運命の環がちぢまって行く。勝則の胸奥には、すでに、はっきりとした一つの決意は出来ていたとしても、このことの成就の困難さが、言語に絶するものであることも、彼にはよくわかっていた。

「失礼いたしました」

礼を述べて、原田邸を辞した。

小降りになった雨の中を、傘なしで歩きながら、

（原田さんへの母の用件も、このことだ）

それを考えて、胸が痛かった。

  


## 虚実

視察旅行に上京していた市会議員一行は、無事、帰若した。

待ちかまえていた原田雲井は、ただちに、玉井金五郎に談判した。しかし、原田の弁舌と熱心も、堅い金五郎の鉄壁から、にべもなく、弾ねかえされた。

「原田君、外のことなら、あんたのいうことも聞くけんど、こればかりは、いくら、あんたでも駄目じゃ。絶対、勝則は、藤本さんと縁組みさせる。二度と、いいなさんな」

取りつく島が、なかった。

マンは、金五郎の留守中、大庭春吉と藤本家に行ったことを報告したが、やはり、眉をひそめて、息子と芸者とのことを語った。

「まあ、おれに委せちょけ」

金五郎は、不機嫌に、そういって、多く語るを好まないようだった。

（<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なことは、一つもない）

磊落な金五郎も、今度の上京以来、あまりの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さんざん</span>さに、さすがに、気を腐らせていた。

財布の盗難と、般若の五郎の奇怪な行動。気がかりなお京の消息。約束の時間をすっぽかして、吉田磯吉を激怒させた。炭積機問題で、三菱本社を四度も訪れたのに、てんで相手にされなかった。そして、帰ってみれば、友田喜造から、風呂の中で聞かされたとおりの、息子の裏切り行為。

或る夜、金五郎は、勝則を誘って、漁に出かけた。これはいつものことで、父が<ruby><rb>投網</rb><rt>とあみ</rt></ruby>を打つ小伝馬船の櫓を、息子が漕ぐのである。

弁財天浜から、船を出した。ここは、嘗て、金五郎が斬られた場所であるが、海岸通りも広くなり、桟橋の様子もすっかり昔と変っている。

「やあ、親子で、<ruby><rb>魚取</rb><rt>さかなと</rt></ruby>りですかな」

夜業があるとみえて、まだ聯合組事務所にいた新谷勝太郎が、にこにこ顔で、声をかけた。玉井組の子分であった新谷は、聯合組の<ruby><rb>甲板番</rb><rt>デッキばん</rt></ruby>になっていた。

「うんと取って来てやるけ、酒の燗でもつけて待っときなさい」

金五郎も、笑って、答えた。

月明である。春の夜の<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>は、波も立たず、月かげをただよわせて、おぼろに霞んでいる。沿岸や港内には、イルミネーションのように、電燈がともり、夜業をしている船から聞える、ウィンチを巻く蒸気と機械の音が、夜の空気をゆるがせる。八幡製鉄所の熔鉱炉の火が天に反射して、赤の色が呼吸している。

「中ノ島に行こう」

勝則が櫓をあやつって、船をすすめると、金五郎は<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>に腰かけて、網をしらべる。どちらも、水に濡れてもよいような菜ッ葉服、半ズボン、草履をはいている。

「ここらで、<ruby><rb>一網</rb><rt>ひとあみ</rt></ruby>入れてみよう。……控え廻してくれ」

中ノ島の岸近く、船を止めた。

金五郎は、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>になって、舳に立った。左腕に託していた投網を、二三回、反動をつけ、腰をひねって、さッと、海面に投げた。要領がよい。力も強いので、網は一杯にひろがって、シャワァッと、海面に落ちて沈んだ。勝則も馴れているので、うまく櫓と船とを操作する。

「居らんな」

網を<ruby><rb>手操</rb><rt>たぐ</rt></ruby>りあげながら、金五郎は呟く。あげてみると、小さなセイゴが一匹、入っていた。

なお、そこで、<ruby><rb>二網</rb><rt>ふたあみ</rt></ruby>ほど入れたが、成績が<ruby><rb>芳</rb><rt>かんば</rt></ruby>しくないので、場所を変えることにした。

「切れ戸の方に行ってみよう」

金五郎は、そういって、舳に腰を下すと、煙草に火をつけた。

伝馬船は、<ruby><rb>櫓臍</rb><rt>ろべそ</rt></ruby>をかすかにキイキイ鳴らしながら、港外に出る。はるか前方に、燈台が明滅している。

勝則は、ゆるやかに、櫓を押しながら、

「お父さん」

「うん？」

「三菱の本店には寄られましたか」

「寄った」

「どうでした？」

「どうも、こうも、まるきり、話にならん。四度も行ったのに、一ぺんも逢うてくれん。玄関払いじゃ。なにしろ、ビルディングのような大きな店じゃもんでな。受付で<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねられたら、法が附かん。おれたちの家くらいなら、どこからでも入りこんで、逢いたい<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>に面会出来るとじゃが、……」

「若松の支店の方からか、友田喜造かが、前もって連絡しとったんじゃありませんか」

「きっと、そうじゃ。東京で、友田が策動したものに違わん。それで、おれは、手紙を出そうかとも考えてみたんじゃが、……碌に、字は知らんし、文章も書けんもんじゃけ、……」

暗くてわからなかったけれども、そういう金五郎の顔には、悲しげな自嘲の表情が湧いたように思われた。

労苦が<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>われて、次第に、社会的地位が出来、責任のある立場に就くようになったとき、金五郎をもっとも悲しませたものは、無学であった。少年のころ、ただ、腕白にまかせ、朝、学校に行くといって、弁当とカバンとを持って、家は出ても、山や川ばかりに行って遊んだ。持って生まれた取るに足らぬ能力を過信し、学問を軽蔑したのである。

「学問なんて、要らん。腕と力とさえありゃ、龍になって、昇天することが出来る。<ruby><rb>物識</rb><rt>ものし</rt></ruby>り馬鹿ちゅうものもある。そんなものにはなりとうない」

そして、裸一貫、営々と働いて、生活の基礎を築きあげたのである。けれども、そのときになって、金五郎は、思いがけぬ障壁に突きあたったのである。文字を知らず、知識に乏しく、恥をかくことばかりが続いたのであった。

――<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>と、無学。

二つの地獄の中で、<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>した。

無学はマンも同様で、夫婦は、「どんなに貧乏しても、<ruby><rb>質八</rb><rt>しちばち</rt></ruby>置いてでも、子供たちに、学校だけはさせてやろうな」と、口癖に話しあった。

市会議員に推挙されたときも、躊躇したのであるが、沖仲仕の代表、働く者の味方という意味で、断わりきれずに、立候補した。当選して、二期を勤めたが、やはり、事毎に、自分の無学を思い知らされて、情ない思いをした。金五郎以上に文盲な者が、のさばりかえっているのもあったけれども、金五郎には、どうしても、そういう厚顔、鉄面皮が出来なかった。それで、県会議員にという<ruby><rb>推輓</rb><rt>すいばん</rt></ruby>は、謙虚に、辞退した。

「県会には、井上安五郎君を出した方がええ。わたしは、かげに居って、井上君を助けたい」

その説を譲らなかったのである。

櫓のうごくにつれて、夜光虫が青白く光る。<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>も夜光虫で彩られている。金五郎の吸う煙草の火だけが赤い。親子を乗せた伝馬船は、埋立の工場地帯を左に見ながら、次第に、港外へ出て行く。

櫓を押しながら、また、

「お父さん」

と、呼びかけた。

「うん？」

「相談したいことが、ありますのですが、……」

「なんじゃ？」

「組合を作りたいと思いますのです」

「組合はあるじゃないか」

「いえ、仲仕の組合です」

「<ruby><rb>小方</rb><rt>こかた</rt></ruby>は、小頭と直結したものじゃ。小頭組合があったら、別に、仲仕の組合は要らんと思うが、……？」

「三菱炭積機問題は、簡単にはかたづかんと思います。それは、きっと、もっと先には、別の形の大きな問題になるような気がします。そうなったときに、小頭組合だけでは解決出来んような事態が、起って来るんじゃないでしょうか」

「そうかね？」

「殊に、友田喜造という人が、中間に介在して、邪魔をしとりますから、一層、複雑で、むずかしいことになると思わにゃなりません。そのとき、泣寝入りするのなら兎も角、あくまで、こっちの主張を貫徹しようというのでしたら、今よりもっと強力な組織が必要です。それで、沖仲仕労働組合を作った方がよいと思いますのです」

「そうか……？」

「もっとも、この組合が、そう簡単に出来るとは思いませんが、……」

「共働組が、また、反対するじゃろうな」

「そうです。きっと、お父さんが小頭組合を作ったときと、同じことが起るでしょう。どうも、変ですね。請負師というものは、僕には、働く者の側に立つ人としか思われんのに、友田さんは、いつでも、労働者の敵に廻っとる。共働組のほんとうの責任者は、岡部亭蔵氏で、請負師組合長も岡部氏なのに、あの人は無口な人で、表面にはほとんど顔を出さん。もっぱら、参謀格の友田さんが、切りまわしとるのじゃけど、……友田さんの居るかぎり、仲仕に有利になることは考えられません。友田さんは資本家と結びついています。これに対抗するには、組織の力以外にないと思うのです」

金五郎は、ふりかえって息子を見た。

月光が背後からさしていて、顔はよくわからない。しかし、静かに櫓を漕いでいる息子の柔和な顔に、なにか、<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>きもののしたような<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しいもの、責任をもって、自己の行動を裏づける、強い意志と情熱とが、漂っているように、金五郎には感じられた。

（この子には、見かけによらぬ、はげしいものがある）

そして、金五郎は、嘗て、自分が通って来た道をふりかえって、息子が、同じように、危険の中へ、信念と勇気とをもって、踏みこもうとしている雄々しさを、ひそかに、是認した。新しい労働組合が必要という意味が、まだ、はっきりとは呑みこめなかったけれども、

「お前が、その方がええと思うなら、作んなさい」

と、いった。

「やってみようと思います」

夜になって、入港して来る汽船があった。汽笛の音とともに、空中に白い蒸気の花が咲いた。小伝馬船は横波を食ってゆらいだ。赤、青、白などの航海燈が、静かに辷り、汽船は白い泡の航跡を引きながら、港口へ遠ざかって行った。<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>に、「パナマ丸」の文字が読まれた。

切れ戸の燈台の灯が近づいて来たとき、軽い口調で、

「勝則」

と、呼んだ。

「はい」

「お前、光丸という芸者を知っとるか」

息を呑むように、瞬時、ためらったが、

「知って居ります」

「その芸者に、<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>があること、知っとるか？」

はっとしたはずみに、手元が狂って、櫓が<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れた。

「代ってやろう」

金五郎は立ちあがって、櫓を取った。櫓臍に<ruby><rb>填</rb><rt>は</rt></ruby>めて、漕いだ。

勝則は、舳に腰を下した。父に顔をそむけ、夜光虫の光る青白い波に、瞳を落した。

「辻木の養女の光丸には、定められた男がある。来春、学校を出次第に、光丸と結婚することになっとる。……このこと、知っとったか？」

「知りませんでした」

うなだれて、力のない声で、答えた。

「そうか。そんなら、知らせとく。<ruby><rb>仲介</rb><rt>なこうど</rt></ruby>は、友田喜造ちゅうことじゃ。そのことも、知らせとく」

船のうえには、しばらく、人間の声が絶えた。櫓の音と、かすかな波の音だけ、伝馬船は切れ戸近くに来た。すこし、波が荒くなった。

「この辺でよかろ。……勝則、<ruby><rb>一網</rb><rt>ひとあみ</rt></ruby>、入れてみんか」

勝則は、無言で、立ちあがった。草履を脱いだ。網を取りあげて、舳に突っ立った。

ちょっとの間、海面を眺め、見当をつけていたが、反動をつけて、網を投げた。父のようには、うまくひろがらない。瓢箪形の<ruby><rb>歪</rb><rt>いびつ</rt></ruby>になって、網は沈んだ。

「まだ、下手じゃなあ」

櫓を押しながら、金五郎は笑った。

ビリビリッと手ごたえがあった。しかし、網をしぼって引きあげようとしたのに、どうしても上らない。海底の岩かなにかに引っかかってしまった。無理に引っぱって、網を破った。

「ちょっと待て」

金五郎が、網のところへやって来た。

勝則は、櫓に代った。

船を移動させて、根気よく、すこしずつ、網をあげた。方々が破れている。

「なにか入っとったらしいが、逃げてしもうたわい」

そういいながら、やっと、ぼろぼろになった網を引きあげた金五郎は、

「ウワア、大けなスズキが掛かっちょるど」

と頓狂に叫んだ。

<ruby><rb>一暴</rb><rt>ひとあば</rt></ruby>れしたとき、岩に、鼻でもぶっつけて気絶したのか、二尺以上もあるスズキが、破れ網に包まれて、おとなしく上って来た。月光に、鱗が美しく光る。

「怪我の功名じゃなあ」

金五郎が、そういって笑ったとき、背後に、エンジンの音が聞えた。水上警察署の白いモーター・ボートが近づいて来た。伝馬船のところに来て止まった。

若い一人の巡査が、姿をあらわした。威丈高に、

「おいこら、鑑札を持っとるか」

「なんのですか？」

「漁業のたい。わかっとるじゃないか」

「持ちません」

「ここは、禁漁区だ。鑑札がなけりゃ、違犯だ。署まで来い」

「すみません。禁漁区ちゅうことを知らんじゃったことですけ、こらえて下さい。これから、気をつけます」

「どうも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>が悪い。漁業組合から、毎々、抗議が出とる。見せしめだ。来い。豚箱に入れてやる」

「ほんとに、知らんでしたこと、堪忍して下さい。謝ります」

「謝って、すむことか。なんでもええから、来いちゅうたら、来い」

金五郎は、むっとしたが、腹の虫をおさえて、

「わたしは、玉井金五郎です。いずれ、署までお詫びに出ますけ、豚箱だけはお助け下さい」

「ならん。金五郎か、銀五郎か知らんが、罪を犯して、逃れようなんて、虫のええ奴じゃ。……来んか」

「行かん」

はげしい語調だった。

「来ん？　横着な奴ちゃなあ。お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の命令に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>く気か」

「反く。なんば、お<ruby><rb>上風</rb><rt>かみかぜ</rt></ruby>吹かしたって、弱い<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>いじめの命令には、服されん。禁止区ちゅうことを知らんじゃったもんじゃけ、これだけ、謝っとるんじゃ。わたしが、あんたなら――これから、気をつけなさい。……というて、許すよ。それに、あんた、この若松で、玉井金五郎を知らんで、よう、巡査が勤まるなあ。署長にいうときなさい――玉井金五郎が違犯して、拘引しようとしても、いうことを聞かんじゃった。……ちゅうて。……さあ、勝則、こんな判らず屋を相手にしとっても、仕様がない。帰ろう。漕げ」

小伝馬船が、勝則の櫓で、港口に向かって動きだすと、水上署のモーター・ボートも、爆音を立てて走り去った。そっと運転手が巡査の袖を引いたのである。運転手はよく金五郎の名を知っていたらしい。速力が段ちがいなので、同じ方向なのに、ボートは、月光の中に、白い煙と白い波とを残して、見る間に、中ノ島の横を湾内へ吸われて消えた。水上警察署は<ruby><rb>若戸</rb><rt>わかと</rt></ruby>渡船場とならんで、港口にある。

親子は、しばらく無言であったので、櫓臍の音ばかりが、キイキイと、静かな春夜の海のうえに流れた。夜光虫も港口へ近づくにつれて、光がうすらぐ。火の消えたことのない八幡製鉄所の熔鉱炉が、相かわらず、呼吸をするように、天を赤く染めている。

「おれは、駄目じゃなあ」

<ruby><rb>魚籠</rb><rt>びく</rt></ruby>に入らぬ大スズキを縄でくくり、破れた網を巻きおさめながら、金五郎が、自嘲する語調で呟いた。

「どうしました？」

「なんで、あんな馬鹿なことをいうたとか知らん？　あんまり、巡査が威張りくさるもんじゃけ、つい、いつもの癖が出てしもうたが、……どうも、<ruby><rb>後口</rb><rt>あとくち</rt></ruby>が悪いなあ。……勝則、帰りに、源公のところにでも寄って、このスズキを肴に、口なおしに、一杯、やるか？」

「はあ」

いつも、謙虚な気持でいることを努めている金五郎にしては、思いあがったに似た<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>であった。若いころ、門司で、上海コレラ騒動のとき、市役所の役人に反抗した<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>の<ruby><rb>邪鬼</rb><rt>じゃく</rt></ruby>は、年をとっても、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>嫌いの、「いつもの癖」になってはいたけれども、それが、思いもかけぬ、突発的とはいえ、自分の顔をふりまわす傲慢さで、表現されたとは、われながら、意外のことであった。東京の警察署で、田舎者として、取るに足らぬ扱いを受けた鬱積が、潜在意識のいたずらで、反動的に、あらわれたのであろうか。

（おれは、小人物じゃ）

一度吐いた言葉は消えない。金五郎は、気が滅入るばかりだった。

勝則の方は、また、別の衝撃を受けていた。この街の多くの親分と称されているボスたちのように、父が、「玉井金五郎を知らんか」という種類の、啖呵を切ったことを聞いた記憶がなかったので、

（父は、おれと光丸とのことで、気がむしゃくしゃしているのだ）

そんな風に解釈して、苦しかった。

中ノ島の横まで、船が来たとき、

「原田雲井君のところへ、行ったってなあ？」

「ええ」

「今度の選挙には、原田君も、また、中立団から立候補する。二度出て、二度とも落選しとるけ、今度はなんとかして当選させたい。あんな変骨屋が、市会に出にゃいかんとじゃ。……勝則、おれの方はええけ、原田君へ、馬力をかけて、応援してやってくれや」

「そうしましょう」

伝馬船は、水上警察署の前を過ぎた。

聯合組前の岸壁に、船をつないで上った。

事務所には、まだ、明かりがついている。七八人の人影が、なにやら、あわただしげに、うごめき、その中に、新谷勝太郎の姿も見えた。

金五郎は、まっすぐに、玄関へ歩いて行った。

「夜業な？」

「オヤジ」と、長身の新谷が、緊張した面持で近づいて来た。「奇妙なことが起ったですよ」

「なんごと？」

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、……そうそう、オヤジが魚取りに漕ぎだしてから、間もなく、パナマ丸が入港して来たとです」

「中ノ島のすこし先で、すれちごうたよ」

「あれは、入港次第、徹夜で、三菱の荷物炭を積みこむ打ち合わせになっとったもんじゃけ、わたしは<ruby><rb>先番</rb><rt>はなばん</rt></ruby>の三崎組の札を掛けた。三崎の若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>も出て来て、<ruby><rb>浮標</rb><rt>ブイ</rt></ruby>にかかるのを待って、段取りしようとした。そしたら、オヤジ、三菱の<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>番が――これは、共働組でやることになっとる。……というんですよ。もう友田組が来る筈、といいます。それで、ボーシンたちが、今、小伝馬で上って来て、騒いどったんです」

「この前の鞍馬山丸も、そうじゃったな？」

「甲板番がいうとりましたよ――もう、三菱の仕事は、みんな共働組でやって貰うようになるかも知れん。……って」

「そうか」金五郎はちょっと唇を噛むようにしたが、「仕方ない。三崎組に引きあげるようにいいなさい。現場で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おっせかっせ</span>いうて、喧嘩になっても困る。話は、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>、わたしが出なおして来て、つける。……まあ、今夜は、一杯やって、黙って引き取んなさい。このスズキを半分、あげよう。酒は、おれの名で、木村屋からでも取っときゃええ」

金五郎は、台所に入ると、庖丁を借りて、スズキを真二つにした。尻尾の方を残し、

「勝則、行こう」

頭の方を荒縄でぶら下げて、すたすたと、先に立った。

背後で、時計が十一時を打った。

「お父さん」

「うん？」

「炭積機問題の余波ですね？」

「いやらしいなあ」

吐きだすようにいって、金五郎は、路上に、唾を吐いた。

西新町に出た。

「おごめん」

と、一軒の店の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>を潜った。

古い船板の看板に、「六ゾロ」と彫ってある。両端に、一個ずつ<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めこまれた大きな<ruby><rb>骰子</rb><rt>さいころ</rt></ruby>には、どちらも、六の目が正面に出ている。上部には、「おでん・すし・<ruby><rb>割烹</rb><rt>かっぽう</rt></ruby>」。角助を殺した松川源十の店だ。刑を終えて、監獄を出て来ると、金五郎は資金をあたえて、おでん屋を開業させた。はじめは小さかったが、思いの外、繁昌して、すこしずつ大きくなった。寿司もはじめ、二階には小座敷もしつらえて、小料理屋風になっている。

「看板の字は、オヤジが書いて下さい」

源十が懇願するので、金五郎が、例の肉太字で、書いてやったのである。板は、廃船になった玉井組の小伝馬船の底板を使った。マンが、夫婦喧嘩をして、広島に逃げ帰ったとき、「六ゾロの源」は、女仲仕のジュンを、女中に雇って来たことがある。そのジュンと夫婦になって、もう子供が四人ある。

「こりゃあ、玉井の旦那、お揃いで……」

そういって、にこにこ顔で迎えたのは、胡蝶屋豆八であった。

「豆八ッあん、よう、ここで逢うなあ」

「ようじゃありまッせんばい。旦那が来るころと、網張って、待っとったとですよ」

「なんか、用じゃったな？」

「大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>の起ったけん……」

「またかね。豆八ッあんの大きな大事は、聞き倦いたよ。猫が屁をへったことでも、大きな大事ちゅうて騒ぐからのう」

金五郎は、そういって笑いながら、頭の方半分しかないスズキを、板場にいる源十の前にさしだした。

「これを、ええように、こしらえてくれんか」

「尻尾はどげしました？」

「聯合組が夜業しよったけ、新谷たちに、酒の肴にやって来た。……やっぱり、夜は冷える。熱いのをつけてや……」

「すぐに」

すっかり飲み屋の親爺が板についた源十は、ジュンに、酒の燗を命じ、自分はスズキを料理した。出刃庖丁で頭を落し、器用に、三枚に<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>して、刺身を作る。

勝則と二人、狭い座敷になっている片隅に、腰かけると、

「旦那、ちょっと」

豆八が、眼で呼んだ。

つるつるに頭の禿げあがった、小柄な胡蝶屋豆八は、昔よりずっと<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>な風貌になっている。跛も、わざとバネ仕掛を大仰にして歩いて、愛嬌と笑いとをふりまく。<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>はやめて、花柳界や、夜の盛り場を歩く<ruby><rb>辻占売</rb><rt>つじうらう</rt></ruby>りになっていた。大福帳をかついでいる。

いつにない深刻めかした顔つきで、金五郎を、裏座敷の方にみちびいた。

「秘密の話な？」

「大秘密、大事件」

何組かの客が、小座敷で、賑やかに飲んでいる。酔漢と芸者との金切声、それかと思うと、しんみりした爪弾きの三味の音、渋い端唄、それらの間を抜けて行くと、一番奥に、誰もいない二畳の間があった。先に上った豆八は、爪先き立ちして、電燈のスイッチをひねった。

金五郎が入って、さしむかいになると、声をひそめて、

「旦那、びっくりしなさんな」

「馬鹿に、おどかすなあ」

「これ」懐から、油紙に包んだ長方形の品を取りだして、「或る人から、旦那に送って来たもんでござすが、誰からと思わっしゃるか？」

「そんなこた、わからんな」

「昔、昔、昔の、女の人ですよ」

「ふウン……？」

「お京さんです」

「ほう」

「びっくりしましたばい。旦那も、びっくりしたか知れんが、わたしゃ、たまげてしもうた。心臓がでんぐりがえる気持がしましたよ。指折ってみたら、あれから、二十五年、お京さんが若松を出てから、もう、四分の一世紀も経っちょる。わたしが旦那との連絡係りになっちゃ居ったが、いつの間にか、こげん年月が経ってしもうた。なんの便りもないし、若松を出るときゃ、大層、病気で弱っとったけん、可哀そうに、てっきり、死んだもんと定めとりました。これが来たとき、幽霊が、あの世から郵便を寄越したのかと、正直、わたしゃ、ぶるぶる、ふるえましたばい。でも、正真正銘のお京さんからでした。……旦那、どうぞ、ゆっくり、ごらん下さい。わたしが、その間、若旦那のお相手をしとりますけん、……」

豆八は、出て行った。

金五郎は、油紙包みをほどいた。一個の財布が出て来た。東京で、般若の五郎から奪われたものだ。中を調べてみると、なに一つなくなっていない。金も、一銭もちがわない。

お京の手紙が、入っている。

「金五郎さん、浅草で逢いそこねて、残念でした。般若の五郎さんが、つまらぬおせっかいをしなかったら、久方ぶりでお目にかかれたのに。でも、お逢いした方がよかったか、わるかったかはわかりません。

五郎さんが取って来た財布をおかえしいたします。

女が、一生のうち、ほんとに命をかけるということが、何度あるものでしょうか。他の女の場合は知りませんけど、あたしには、一度しかなかったように思います。そして、そのかけた命は、まだ、なにかの大切な仕事をしのこしているようで、歳月にかかわりのない燃えかたをしています。

金五郎さん、

あたしはあなたを恨んだりはして居りません。あなたが角助に斬られたとき、あたしは、毎朝、暗いうちに、<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>神社に、「お百度」を踏みに通いました。いうまでもなく、あなたの命の助かるように。そしてそのたびに、おかみさんのおマンさんに出逢いました。しかし、一心不乱のおマンさんはあたしには気づかなかったようです。おマンさんは蛭子神社だけではなく、白山神社、金比羅さんにも、朝詣りをして居りました。

あなたの退院の日、あたしも、病院の人ごみの中に立って、あなたを見送りました。三台の車で、一番前が大庭親分、次があなた、最後がおマンさんでした。

そのとき、あたしは、かたわらにいた豆八さんに申しました。

――あたし、金五郎さんをあきらめるわ。

――どうして？

――おマンさんに負けた。

――そうか。

――もう、若松から消える。

そうして、それきり、消息を絶ったのです。

二十五年ぶり、浅草でのことはあたしをおどろかせました。あなたが般若の五郎さんを救い、あたしに逢いたい、といったと聞いて、あたしの哀れな命の焼けぼっくいが、パチパチと、また、妖しげに、音を立てたのです。でも、浅草では、逢わなかった方がよかったかも知れません。

金五郎さん、

いつか、また、近いうちに、かならず、お逢い出来る日がありましょう。あたしはおマンさんには負けたと思っていましたけれども、ひょっとしたら、勝っているところがあるのかも知れないと考えるようになりました。手紙などではなにも意をつくしません。いずれ、すべては、ふたたび、お目にかかる日に。京より」

読み終って、金五郎は、巨大なためいきをついた。

（まるで、謎々じゃ）

お京の手紙は茫漠としていて、とらえどころがない。不気味である。

金五郎は、手紙を財布におさめ、それを上衣の内ポケットに入れた。店に出た。

豆八、源十をまじえ、勝則と四人、スズキを肴に、無意味な談笑を三十分ほどして、「六ゾロ」を出た。

月光の街を抜けて、家に帰った。

まだ起きて待っていたマンが、出迎え、

「お疲れさま。風呂がわかしてありますよ。……おや、漁は？」

「かえりに、食うてしもうたよ」

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おかず</span>は買わんでええと思うとったのに……」

「市場で、お前が釣って来い」

そんなへらず口をたたいて、笑いながら、金五郎と勝則とは、裸になって、浴室に入った。

脱いだ着物をかたづけようとしていると、夫の服から、なにか、落ちた。財布だった。

マンは、不審の面持で、拾いあげた。

（この財布は、東京で、チボから盗まれたというとったのに、……？）

横三寸、縦五寸、黒革で、止め金に銀の小菊が彫ってある。「ちきり屋」という街の袋物屋に、夫婦で出かけ、マンが選定したものだ。見ちがえる筈はない。

「東京駅で、ぽかんと、天井の十二支の絵を見とれとったら、その際にやられてなあ。上京の突鼻に、無一文になってしもうて、井上君から借金したよ」

金五郎は、そういう簡単な報告をしただけである。

「このライターも、借金のお土産なのね」

「昔の懐中ランプを思いだしたもんじゃけ。……よう似とろうが」

「そういえば……」

七人の親になっているのに、二人は青春の日を思いだして、くすぐったげな微笑を取りかわした。

「あのライターは、まだ、関門海峡に沈んどるか知らん？」

「平家蟹が使いよるじゃろう」

そんな馬鹿話をして、機嫌よく笑いあったのだった。

それだけに、この財布の思いがけぬ出現は、マンの胸に、えたいの知れぬ昏迷と、<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>心とを生んだ。

仏間に持って来て、中を調べた。紙幣や、書類、印鑑、など、ごたごたしたものの中から、一通の封書が出た。

表に――玉井金五郎さま。裏がえすと――京より。すでに、封が切ってある。

マンは、ゴクッと、唾を呑みこんだ。手紙を長火鉢の上に置いた。長煙管を取り、キザミをつめると、胸を張るようにして、深々と、一服吸った。いつになく、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い。

それから、手紙を引きだして、読んだ。

廊下をへだてた浴室の方から、親子が話している声が聞える。ガラス戸越しで、くぐもったひくい声なので、なにを話しているのかはわからない。

「お父さん、流しましょう」

そういわれて、金五郎は、勝則に、背をこすらせていた。そして、今夜のパナマ丸の荷役のこと、このことから、三菱炭積機問題の複雑怪奇さ、友田喜造との関係が、いよいよ、土壇場を思わせるこじれかたをして来たこと、衝突と爆発はまぬがれられぬ――そんなことを話していると、

「お父さん、この字は銘ですか」

左腕を石鹸で洗っていた勝則が、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「メイ？……なんか、字が書いてあるか」

「この、龍の尻尾の鱗に、「京」という字が彫ってありますよ」

金五郎は、びっくりした。しかし、とっさに、なに気ない様子で、

「そうか。そんなら、これを彫った京次郎という<ruby><rb>彫青師</rb><rt>ほりものし</rt></ruby>の頭文字じゃ。……へえエ、これまで、気づかんじゃったが、……」

自分では見にくい、腕の裏のところ、また、よほど注意してみないとわからない小さな鱗の一枚に、お京は自分の名を刻みこんでいるのであった。

勝則には、父の驚愕の意味などはわからないので、

「普通の龍は、宝珠をつかんどるが、お父さんのは、菊の花をつかんでいますね。変っとる」

「お前も、<ruby><rb>彫</rb><rt>い</rt></ruby>れんか」

と、いってみた。

「彫れますかな？　本式の親分になる<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>に。……そしたら、僕も、やっぱり、龍を彫ります。そして、百合の花を<ruby><rb>肢</rb><rt>あし</rt></ruby>に握らせますよ」

勝則の瞳は、夢遊病者のような、奇妙な光りかたをしていた。

奥の部屋から、誰か、出て来る足音がした。マンは、あわてて、手紙を財布に入れ、服の内ポケットに押しこんだ。

「おマンさんかえ？」

「はあ」

「金さんと勝則とが、網打ちから帰って来たんじゃなかったな？」

「帰って来て、二人とも、風呂に入っとります」

「腹が減っとりゃせんじゃろか？」

「さあ……？　帰りに、源さんの店に寄って来たようなこと、いうとりましたけど……」

「寝る前に、お茶漬でも食べるんなら、<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>でも上げてやろうかと思うが……」

「ババンから、聞いてみて下さい」

「そうしようか」と、行きかけたが、ふと気づいたように、二三歩で引きかえして来て、「<ruby><rb>千博</rb><rt>ちひろ</rt></ruby>が、すこし熱があって、変な<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をしよるばい。勝則の<ruby><rb>小</rb><rt>こま</rt></ruby>いときのごと、<ruby><rb>馬牌風</rb><rt>ばひふ</rt></ruby>（ジフテリア）にでもなると<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>じゃけ、夜が明けたら、じき、医者に<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>て貰うがええな」

「そうしましょう」

ババンは、浴室の方に去った。

大正の中ごろ、永田杢次が死ぬと、ラムネ屋は人に譲った。一人息子の茂次平は、まるで商売をする気がなく、ヨネの妹婿になる山田健一が、満洲の旅順で経営している、かなり大きな印刷工場に徒弟になって行った。

残されたヨネは、玉井家で引き取った。美しいお婆さんである。マンの生んだ子供で、誰一人、ヨネの手にかからぬ者はない。いつか、「<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>はん」が<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>って、「ババン」と呼ばれ、お人よしではあるけれども、親切で、情愛ぶかいヨネは、子供たちに、心底からなつかれた。金五郎夫婦も、真実の母のように、ヨネを大切にした。

ババンの足音が、風呂場から、台所に向かい、沢庵桶のある物置へ、下駄の音が消えたのは、金五郎たちが、お茶漬を食べようということになったらしい。

それを知って、マンも、お茶でも沸かそうと、立ちあがった。

正保寺町の家も、すこしずつ建て増しして、広くなっている。二階が三間、階下は、襖を取れば四五十人の集まりや、宴会も出来る座敷を入れて、<ruby><rb>八間</rb><rt>はちま</rt></ruby>、石燈籠をあしらい、瓢箪池と築山のある庭、浴室もある。昔は、子分たちを下宿させていたが、今は家族だけだ。

台所に食卓が出されて、金五郎、マン、勝則、ババンの四人が坐った。

漁と巡査の話をしていると、時計が、チン、チン、と、二つ鳴った。

「ありゃ、もう、二時かや？」

ババンが、頓狂な声を立てた。

沢庵で、茶漬を食べ終った金五郎は、なにかを思いだしたように、立って、奥に入った。すぐに出て来ると、黒革の財布を持っている。それを、ぽんと、マンの前に投げた。

マンは、素知らぬ顔で、手に取り、

「あれ、この財布は、東京でチボに<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>られたと、いいなさッとッたんじゃないですか」

「そうよ」

「それが、どうして？……」

「東京には、面白い<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>が居るなあ。いっぺん盗んどいて、送りかえして来たよ。中を調べてごらん。なに一つ、のうなっとらん。銭も入れたままじゃ。おマン、昔、泥棒に入って来て、六円盗んで、……いや、お前がやったんじゃったなあ、……その六円を、一年目くらいに送りかえして来たのがあったじゃないか。その財布を盗んだ掏摸も、その同じ<ruby><rb>伝</rb><rt>でん</rt></ruby>かも知れんよ」

財布の中からは、お京の手紙だけが抜いてあった。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん」

「あん？」

「そのチボは、男？……女？」

「そんなことが、わかるもんか」

「女じゃないか知らん？」

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なして</rt></ruby>や？」

「この財布が、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>くそうなっとる」

金五郎は、ぎくッとした。

「へえエ？　ちょっと、貸してみい」

受けとって、鼻にあててみた。格別に、白粉のにおいもしなかった。

「お前、かいでみんか」

勝則に渡したが、息子も、そんなにおいはしないようだ、といった。

最後に、ババンが、念入りに、鼻をスンスン鳴らして、財布を鼻にこすりつけていたが、大きな眼をクルッとむいて、

「ほんと、こりゃ。<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>のにおいがするばい」

と、頓狂にいった。

マンは、また、財布を手にして、

「東京には、美人のチボがなんぼも居るという話は、前から聞いとった。自分はやらんで、チボをたくさん使うとる女親分も居るそうな。その一人にちがわん。でも、銭も抜かんで、かえして来たというのは、どういうわけじゃろか」

「それが、今いうた、六円泥棒の口じゃろうよ」

「そじゃろか？　あたしは、ちがうと思うが……」

「そんなら、お前はどう思うんじゃ？」

「女のチボが、お父さんに惚れとるとじゃないか知らん？」

「馬鹿なこと、いうなよ」

「ないことじゃないわ。一ぺんは掏りとってみたものの、惚れとるもんじゃけ、かえしといて、いつか、折りをみて、渡りをつけに来る……」

「おマンさんが、また、奇妙なこといいだして、……」

ババンは、あきれた顔つきである。

「どんな女チボか知らんけんど」

と、マンは、夢みるような、妖しげな<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>になって、ひとりごとのように、「いっぺん逢うてみたいなあ。逢うて、お礼がいいたいわ」

「泥棒に、なんのお礼をいうのかな？」

ババンは、いよいよ、あきれ顔だ。

「いろいろ」

ためいきのように、その言葉を落した。それから、煙管を取って、静かに、煙草を吸った。

表で、深夜の空気を破って、ブーン、というモーターの音が起った。つづいて、ペタペタというベルトの音。水の音。

「ありゃ、もう豆腐屋が起きて、仕事を始めちょる。さあ、寝よ、寝よ」

ババンのその言葉で、みんな、立った。

金五郎は、ババンと息子とが去った後で、漁に行って、勝則に、光丸とのことについて話をしたことを、マンに報告するつもりであったけれども、思いとどまった。マンの雲行が怪しい。

ただごとでない。不思議なことばかりいう。

（風呂に入っている間に、お京の手紙を見たのじゃあるまいか？）

その疑いの心が、湧いた。

それぞれ、寝室に引き取った。

金五郎は、日記をつけた。長年の習慣である。字も知らず、文章も書けぬけれども、自分の勉強のために、欠かしたことがなかった。片仮名文に、嘘字だらけの漢字、人が見たら、支離滅裂であるかも知れないが、他人に示すものではなく、それで充分だった。もともと、金五郎には一種の記録癖のようなものがあった。どんな<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なことでも、丹念にメモして置くことを忘れなかった。後になって、それがどれだけ役立ったか知れない。

金五郎は、第一行に、

「ウソトホント、人間ノ秘密、ナカナカ六ツカシイ」

と、書いた。

嘘をついて、マンを<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>すつもりはすこしもないのに、結果においては、そういうことになっている。夫婦間の秘密とは、いったい、なんであろうか。お京に<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>を<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>らせるときにも、龍の肢に菊の花束をつかませるほど、夫婦の愛情と、信頼とは深かったのに、お京とのことは、マンに一口も打ちあけていない。妻に対して、<ruby><rb>疾</rb><rt>やま</rt></ruby>しいところはないと思う。それなのに、なお、告白を躊躇している。マンの方も、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>こうとしなかった。

「夫婦ちゅうもんは、なんもかんも、洗いざらい、一つの秘密もないごと、両方から話しあうとくが、一番ええ」

下関の彦島で、はじめて世帯を持ったとき、<ruby><rb>仲介</rb><rt>なこうど</rt></ruby>の、「なんでも屋」から、そういわれた。そのときは、そんなものかと思ったが、年月が経つうちに、人間の生活はそんな簡単なものではないということが、次第に、わかって来た。

――秘密は汚いもの、悪いものとばかりはかぎらない。立派な秘密、美しい秘密というものもある。

それを知るようになった。

お京とのことは、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>や<ruby><rb>二言</rb><rt>ふたこと</rt></ruby>では話せない。一言二言話せば、かえって、誤解される。納得の行くように、いつか話そうと思っているうちに、話しはぐれると、いよいよ、むずかしくなってしまう。

このごろでは、

（無理矢理にほじくらず、一生、そっとして、置いとく秘密があってもええではないか）

そんな風に、考えるようになっていた。

（マンの方にも、あるかも知れん？）

人間と人間とが<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>ぜりあいしながら、生きて行く世界が、誤解の上に立つ矛盾と滑稽に満ちていることは、もはや、金五郎は、いやというほど、経験して来たのである。その人間の憂鬱を、そっとして置きたい美しい秘密だけが、わずかに、支えているのではあるまいか。

「なんとか、なろうわい」

言葉に出して、呟いて、金五郎は、意味深長な微笑をただよわせた。

昔、染奴の偽手紙で、お京との仲を疑ったマンは、金五郎に暴力を加えて、広島に逃げ帰ったが、今度はほんもののお京の手紙を読んで、いかなる行動に出るか？――金五郎は、すこしおどけた気分になって、それを待とうと思った。

「さあ、ババンに<ruby><rb>負</rb><rt>お</rt></ruby>んぶしなさい」

そういって、熱のあるという末子、十二歳の千博を、ヨネが便所につれて行く気配が聞えた。

どうしたのか、猫がしきりに鳴いている。

金五郎は、日記の前の方をパラパラとめくってみた。「禁煙」「禁酒」「禁慾」「禁バクチ」「マゴコロ」「威張ルナ」「忍耐」――そんな字句が、欄外のいたるところに、書いてある。

（どの一つも、実行出来んじゃないか）

泣きべそのような、自嘲の苦笑を浮かべた。

頁一杯に、「今ニ見テオレ」とだけ書いてある日が、数ヶ所あった。

「金さん、まだ起きちょるのかな？」

ババンの声で、電燈を消した。

  


## 勝負

三味や鼓の音が、晩春の朝の空気をなまめかしくふるわせて、検番の稽古場から流れ出る。温習会の日も近づいたので、最後の<ruby><rb>馬力</rb><rt>ばりき</rt></ruby>をかけているらしい。

そこへ、のれんを割って、

「おごめん」

胡蝶屋豆八が、ひょこんと、顔を出すと、ワアッと、芸者たちが、躍りかかるように、群がって行った。

「おいおい、無茶すんな。死んでしまうがな」

<ruby><rb>一時</rb><rt>いちどき</rt></ruby>に落ちかかって来た、巨大な花びらに似た女たちの下敷きになって、小柄な豆八老人は、悲鳴をあげた。すり抜けて、廊下に出た。

「早よ、<ruby><rb>筋紙</rb><rt>すじがみ</rt></ruby>を見せてよ」

「今、見せる。あわてなさんな」

「稽古がいそがしいのよ」

十人ほどの芸者に取りかこまれた豆八は、懐から、わざと悠々とした手つきで、一箇の大きな状袋を取りだした。その中から引きだした筋紙を、一枚ずつ、女たちに配った。

「豆八ッあん、これ、インチキはあるまいねえ？」

<ruby><rb>光三</rb><rt>みつぞう</rt></ruby>が、睨むようにして、いった。

「無礼なことを申すな。天上天下、お<ruby><rb>天道</rb><rt>てんと</rt></ruby>さまはお見通し、<ruby><rb>胴親</rb><rt>どうおや</rt></ruby>は、今売りだしの島崎親分、「<ruby><rb>蟻走</rb><rt>ギソウ</rt></ruby>」は、正道一途の豆八ッあん、疑う心ある者は買うな」

「大層、威張るなあ。あんまり当らんけん、ちょっというてみたのよ。……今日は、当ててみせるぞ」

「精進が悪いと、当らんばい」

「なにいうとるのさ。<ruby><rb>喜代福</rb><rt>きよふく</rt></ruby>姐さんなんて、あたしより五倍も精進が悪いとに、昨日なんて、大当りじゃないか。「チーハー」の神さまは助平が好きなのかね」

「<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らんこといわんと、早よ、買いな」

豆八が、別に取りだした「フワ紙」と、人体図とを、賭博者たちは血眼で見くらべながら、おのおの、これと思う自分の筋紙の罫に、印をつけた。張る金を添えて、豆八に渡す。

横長い筋紙には、上下二段、三十六の劃内に、「<ruby><rb>点魁</rb><rt>テンカイ</rt></ruby>」「<ruby><rb>艮玉</rb><rt>コンギョク</rt></ruby>」「<ruby><rb>板桂</rb><rt>ハンケイ</rt></ruby>」「<ruby><rb>明珠</rb><rt>メイシュ</rt></ruby>」「<ruby><rb>月宝</rb><rt>ゲッポウ</rt></ruby>」「<ruby><rb>逢春</rb><rt>ホウシュン</rt></ruby>」等の文字が印刷されてある。この「チーハー」と呼ばれる富籤式の賭博は、支那から渡って来たものであるが、猛烈な勢で、若松全市に、蔓延していた。胴親から派遣される「<ruby><rb>蟻走</rb><rt>ギソウ</rt></ruby>」と称する大勢の運送屋が、午前のうちに、あらゆる方面に飛んで、「筋紙」を配り、零細の金を集めて廻る。

午後、「<ruby><rb>現場</rb><rt>げんば</rt></ruby>」に持ち寄られ、「蟻走」立ちあいの上、胴親の厳封した当り銭を開いて、勝負を定める。「現場」は、警察の眼をくらますため、毎日、移動される。そこへ、胴親の帳場がやって来て、金銭の分配をするのである。当りは賭金の三十倍が支払われるが、「蟻走」が手数料を取るので、結局、二十八倍。当れば小さくないので、たちまち、花柳界をも風靡したのである。

「やっぱり、「<ruby><rb>光明</rb><rt>コウメイ</rt></ruby>」に張るわ。<ruby><rb>光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>という字が、気に入ったよ。……豆八ッあん、はい、二円」

「ウワア、どえろう気張ったなあ」

「一か八かさ」

がやがや騒いでいると、「<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>」の君香が出て来た。

「困るなあ、豆八ッあん。芸者衆にバクチを奨励して歩くよって、稽古、てんから出けへん。「チーハー」で、<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>の空や。明日から、稽古場には<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>んといて」

「へえい」

豆八は、首をすぼめたおどけた恰好で、わざと跛を大きく引きながら、逃げて行った。

入れちがいに、光丸が入って来た。青い顔をしている。

誰かを探すらしく、落ちつかぬ<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、ひろい稽古場に、群がっている芸者たちの中を物色した。光三を見つけると、

「ちょっと、姉さん」

眼で、呼んだ。

二人が、団十郎縞ののれんを排して、廊下に出ようとしたとき、

「光丸さん、もう、あんたの順番ですよ」

背後から、師匠藤間いせのきびしい声が追っかけて来た。

「はい、……すぐ、……」

おどおどしながら、切迫した面持で、姉を廊下の隅にみちびいた。

「<ruby><rb>良</rb><rt>よ</rt></ruby>ッちゃん、どうしたの？」

「姉さん、今朝、こんな手紙が来たのよ。……読んでみて」

光丸が、帯の間から取りだした一通の封書を、光三は目読した。

「前略。君を信用していたのに、君がたいへん不誠実であることがわかった。最後の話しあいをしたいと思う。五月三日、六時、「<ruby><rb>丸金</rb><rt>まるきん</rt></ruby>」で待っている。勝則」

巻紙に、そんな簡単な文面が、走り書きしてある。

「あたし、どうしようか知らん……？」

「どうするたって、行くほかないじゃないの？」

「<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いわ。最後の話しあい、なんて……」

青ざめた美しい顔に、光丸はもう涙を浮かべていた。

「あんた、要之助さんのこと、話しとらんのでしょ？」

「ええ、……だって、……」

「きっと、勝則さん、誰かから、あんたに<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>のあること、聞いたのよ。でも、ええやないか。いつまでも隠しとってすむことやなし、勇気を出して、勝則さんに逢いなさいよ」

「一人では、怖い。姉さんも、いっしょに行って、……」

「馬鹿ねえ。いやよ。あんただって、本気でやったことなら、自分で、ちゃんと、結着をつけなさいよ。もう、ごまかしは出来んようになっとるとばい。要之助さんも、誰からか、……きっと、友田喜造さんから、……勝則さんとあんたとのこと聞いて、東京から、帰って来るとかよ。ウフフ、新学期で、上京したばっかりなのに、もう、<ruby><rb>嫁女</rb><rt>よめじょ</rt></ruby>の浮気の噂で、学校どころじゃないらしいわ。来年の卒業を待たんで、すぐ祝言したい。なんて、いうとるげな。面白うなって来たなあ。……良ッちゃん、頑張んなさいよ」

「でも、……」

稽古場から、幾度も、光丸を呼ぶ声がした。

「さあ、元気を出して、稽古をおし。姉さんは、もうすんだけん、ちょいと、逢いびきに行って来る。……良ッちゃん、今が一番大事なところよ。しっかりしなさい」

光三は、どんと、妹の肩をたたいておいて、小走りに、階段を降って行った。

力のない姿で、のれんをくぐると、藤間いせが、

「光丸さん、気分でも悪いの？」

「いいえ、別に……」

「そんなら、すぐに、……」

「はい」

清元「夕立」を踊る相手の妻太郎と、稽古台に上った。妻太郎が男役、光丸は御殿女中、一本の蛇の目傘の中に、二人は入る。地唄に、三味がまじって、踊りはじめたが、心に憂悶のある光丸は、幾度も手をまちがえて、師匠から、はげしく<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しった</rt></ruby>された。

……掟きびしき白玉の

露にも濡れしことはなく……

すこしずつ、調子に乗る。

<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>神社の大鳥居の前で、<ruby><rb>瞑目</rb><rt>めいもく</rt></ruby>して、<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>らしく、<ruby><rb>柏手</rb><rt>かしわで</rt></ruby>をポンポン打っていた胡蝶屋豆八は、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から、軽く背中をたたかれた。

頓狂に、ふりかえった。仏頂面で、

「なんじゃ、光三さんか。びっくりしたよ。折角の<ruby><rb>願</rb><rt>がん</rt></ruby>かけが、中途半端になるやないか」

「殊勝らしい顔して、なんの願、かけとるの？」

「あたりまえのことを<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きなさんな。このごろ、「チーハー」以外に、神さんに頼みごとがあろうかい」

「豆八ッあんは、なに買うたの？」

「いわれん、いわれん」

「あたしの、今日、当てんと承知せんぞ。なけなしの小遣い、髪結い賃まではたいて、張ったとに」

「そんなこた、わしゃ知らん。あんたも、しっかり、神さんに頼んどくが、ええわ」

憎たらしく、赤んべえをしてみせて、豆八が行きかけたとき、絵馬堂のかげから、

「豆八、ちょっと待て」

その声といっしょに、一人の男が、躍りだして来た。

豆八は、バネ仕掛のように、<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>な恰好で、飛びあがって、

「こりゃあ、<ruby><rb>栗田</rb><rt>くりた</rt></ruby>の親分さんですか。今日はようおどかされる日やなあ。心臓がてんてこ舞いしましたよ」

「そして、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>、ちゅうのか。お前のいうこた、わかっちょる。<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>たらしいことばっかりぬかして、大体、人を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めくさっちょるわい」

「とんでもない。泣く子も黙るという、栗田の親分さんを、どげして舐めまっしょうかい」

「それが、舐めちょるちゅうんじゃ。豆八、貴様、のぼせあがっちょると、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なこたないど」

「まるで、ものがいわれりゃせん……親分さん、なんか御用でしたか？　早よ、聞かせて下さい。わたしゃ忙しいけ」

「淫売芸者と、チャラチャラ、馬鹿話しよって、忙しいが聞いてあきれらあ」

「あたし、失礼するわ」

つんとして、光三が行きかけると、

「こら、女、動くな。お前にも、用があるんじゃ。……さっきから聞いとったら、「チーハー」の話をしよったが、どうも、豆八は、「<ruby><rb>蟻走</rb><rt>ギソウ</rt></ruby>」をやっちょるらしいな。恰度ええ。訊きたいことがあるけ、<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に、返事せえよ。嘘をついたら、考えがある」

色の<ruby><rb>生青</rb><rt>なまあお</rt></ruby>い<ruby><rb>優男</rb><rt>やさおとこ</rt></ruby>であるが、その眼は、二枚の<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>のように、不気味に鋭い。ひょろりと背の高いのが、一種病的な感じだ。着流しの、<ruby><rb>白縮緬帯</rb><rt>しろちりめんおび</rt></ruby>に両手をさしこみ、武者ぶるいじみた、貧乏ゆるぎをしている。すこし、<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>る。

<ruby><rb>栗田銀五</rb><rt>くりたぎんご</rt></ruby>、三十四歳。友田善造の息のかかった博徒である。

「なんごとでしょうか」

と、豆八も、すこし警戒する姿勢になった。

「今日の「チーハー」の宿は、どこじゃ？」

「そんなこた、知りません」

「蟻走が、知らんことがあるか」

「蟻走は蟻走でも、わたしゃ<ruby><rb>下蟻走</rb><rt>したギソウ</rt></ruby>ですけん、「<ruby><rb>現場</rb><rt>げんば</rt></ruby>」に立ち会うたこた、一ぺんもないです。誰か、<ruby><rb>本蟻走</rb><rt>ほんギソウ</rt></ruby>に訊いて下さい」

これは、とっさの嘘であった。豆八は本蟻走に昇進したばかりで、今日の「現場」が、「猫婆さん」の家であることを知っている。これから、そこへ行くところなのだ。

「そうか」と、栗田は、案外、簡単に信用して、「そんなら訊くが、「チーハー」の胴親の島崎勇次を、玉井金五郎が、<ruby><rb>後楯</rb><rt>うしろだて</rt></ruby>しちょるという話じゃが、ほんとうか？」

「そんなこた、ありまっせんですよ。玉井の旦那は、バクチの<ruby><rb>後見</rb><rt>こうけん</rt></ruby>なんぞのようなことは、なされんでしょ」

「それでも、こないだ、うちの子分が話しよったが、島崎が<ruby><rb>宰配</rb><rt>みかじめ</rt></ruby>しとる金比羅山の<ruby><rb>闘鶏場</rb><rt>とうけいば</rt></ruby>にゃ、玉井金五郎も顔出ししとったちゅうぞ。島崎勇次が、この若松に来て、まだ日が浅いとに、こげえ幅を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かすには、……しかも、吉田一家を向こうに廻して、のさばりかえる裏にゃ、なにかがなけりゃならん。「チーハー」だって、玉井と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐる</span>にちがわん。ほんとのことをいえ」

「ほんとのこと、いうとるですよ。そりゃあ、玉井の旦那は<ruby><rb>勝負事</rb><rt>しょうぶごと</rt></ruby>は好きな<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>です。こんなこというちゃ悪いかも知らんけんど、商売柄、<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>で、花札、<ruby><rb>骰子</rb><rt>さいころ</rt></ruby>、競馬、闘鶏、碁、将棋、それに、「チーハー」、なんでもなさる。じゃけど、自分一人の楽しみにゃんなさること、それを渡世になさったり、縄張りの作りの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だし</span>になさったりする考えなんぞ、毛頭ありませんよ。「チーハー」だって、ときどき、冗談半分に、子分連中にまじって、買いなさるだけの話、島崎親分と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐる</span>なんて、そりゃあ、親分さんの思いすごしですばい」

「そうかあ？……」

まだ、半信半疑ながら、栗田銀五は、幾分、豆八のいうことを納得したらしい。直情径行、怒ると、「喧嘩の鬼」といわれている栗田も、案外に、人を信じやすい、好人物のところがあるようだった。粗暴で、一本気であると同時に、純情なところもあって、彼のためには、よろこんで生命を棄てる子分も何人かある、と噂されていた。

豆八が、ほっとした気持でいると、今度は、

「女」

と、鋭鋒が、光三に向いて来た。

「なによ、えらそうに、……」

「お前、「竹の家」の光三じゃったな」

「そうよ。それがどうしたの？」

「ええとこで逢うた。実は、友田親分の使いで、お前とこに行く途中じゃったんじゃ。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、おれが、今度の浪花節名人大会の用件で、親方のところに相談に行ったら――<ruby><rb>劇場</rb><rt>こや</rt></ruby>に行くなら「竹の家」に寄ってくれ、と頼まれた。お前に逢うたら、もう行かんでええ。辻木の親父にな、こう伝えてくれ――友田の親分が、要之助君の結婚問題と、選挙のことで、どうしても打ち合わせとかにゃならんことがあるけ、晩に、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>まで出かけて来てくれ。……って。……ええな？　忘れんなよ。……それから、豆八、島崎親分にいうちょけ――この若松ちゅう街が、どげな街か、知っちょるか。もちいと研究してから、やりたいことをやれ。……ちゅてな」

いうだけのことをいってしまうと、栗田銀五は、相変らず、両手を帯にさしこんだままの恰好で、市役所の方角に去って行った。ひょろ高い着流しの後姿が、妙に、飄々としている。幾度となく白刃の下を潜って、人を斬り、人からも斬られた男とは思われない。

栗田の姿が消えてしまうまで、ぽかんとした顔つきで見送っていた豆八と光三とは、顔見あわせると、どちらからともなく、けたたましく笑いだした。<ruby><rb>窮鼠</rb><rt>きゅうそ</rt></ruby>のような<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>だ。

「この若松ちゅう街が」と、豆八はおどけた恰好で、口真似して、

「どげな街か、知っちょるか？……」

「知っちょる、知っちょる」光三も、ふざけた語調で、「アメリカの西部劇のような勇ましい街じゃ。馬が居らんだけさ」

二人が、「猫婆さん」の家の方角に歩いて行くと、前方から、玉井金五郎、井上安五郎、原田雲井の三人が、話しながら、やって来るのが見えた。

出あうと、立ちどまった。両方から、親しげに挨拶を<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>した。

港から吹いて来るしめっぽい東風が、二階の窓から、石炭の<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>くさいにおいを送りこむ。五月に入ってからも、雨模様の日が続き、なかなか<ruby><rb>五月晴</rb><rt>さつきば</rt></ruby>れの青空があらわれない。大小船舶の碇泊している<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>は、どんよりした曇天の下で、灰色の水をたたえ、時に風をまじえて波立った。

二階の正面に「OYADAMA SHOKUDO」という、ローマ字の看板がかかげられてある。緑のペンキで塗られたレストランだ。

「どうも、天気がカラッとせんなあ」

今にも降りだしそうな空を見あげて、<ruby><rb>布袋腹</rb><rt>ほていばら</rt></ruby>の原田雲井がいった。顎を包んでいる長髯をなでまわす。

「昨日のメーデーは、雨の中でやったところが多いらしいね」

井上安五郎も、金魚の眼をひっぱりあけるようにして、空を仰いだ。

原田は、煙草に火をつけて、一服吸ってから、

「天気が悪いと、人間の気持もさっぱりせん。帝国議会も、大層、荒れたらしか様子じゃね。今度の五十八議会は、はじめから、気が立っとったばって、予算総会になってから、また、大喧嘩はしちょる。若松の市会議員も、あんまり柄が良うはなかばって、代議士の方は、も一つ、それに輪をかけて、悪かごたる。国民のことなんて、どげんでもよかとじゃな。党利党略、<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>みあい、縄張り争い、愚劣な<ruby><rb>罵詈讒謗</rb><rt>ばりざんぼう</rt></ruby>、低級な弥次、わざとの喧嘩、議事規則の無視、あげくの三八にゃ、ゴロツキでもやらんげな、気違いじみた取っ組みあい、乱闘騒ぎ――さぞかし、吉田磯吉親分の働きどころが、多かったろうや」

「若松市会だけでも、今度は、民政党の天下にならんようにせんといかんなあ」

金五郎が、決意のほどを示す語調で、いった。

「それが」と、原田雲井は、細い眼を光らせて、「またぞろ、絶対多数を取るちゅう算段をしよるらしかばい。今度は、普選の第一回目じゃけ、民政党でも、候補者の人選にゃ、頭を悩ましとる。どげんひいき目に見わたしたって、人材不足じゃけんな。それで、女郎屋、淫売屋、料理屋、石炭ブローカー、ゴロツキ、バクチ打ち、高利貸、悪家主――政治のことなんて、天からわかりもせんとを、遮二無二、十七人か十八人、押し立てて、全部、当選させるちゅう作戦らしか」

そういった後で、かたわらに居る光三に気づいて、ちょっと、頭をかき、

「いやあ、光三君とこの辻木惣八さんは、候補者中の人材じゃけんどなあ」

光三は、笑いだした。

「そんな、取ってつけたようなお世辞、いいなさらんでも、ええとですよ。あたしは民政党でもなんでもないけん。ほんとに、原田先生のおっしゃるとおり、うちのお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんなんて、市会に出る柄じゃないわ。友田さんにおだてられて、絶対当選させてやる、なんて、いわれるもんじゃけ、柄にない野心を起したとです」

先刻、道で逢ったとき、「<ruby><rb>親玉</rb><rt>おやだま</rt></ruby>食堂」で、昼食をしようということになったのだが、「現場」に行く豆八だけは、時間がなくて、同道しなかったのである。料理が来るまで、ビールを飲む。

「友田喜造が――絶対当選させてやる、というたって？」

「ええ――立候補した者は、一人も落さん自信がある。……そう、友田さんが、何度も、お父さんにいうとりましたわ」

「ははあ」原田は、天井の一角を睨むようにして、「また、例の手か？……買収、饗応、戸別訪問、<ruby><rb>恐喝</rb><rt>きょうかつ</rt></ruby>、……それに、わが党政府の選挙干渉、……こげんガラクタのごたる候補者ばっかりが出て、全部<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>るといやあ、それしか考えられん。糞う、そげん何時もかつも、柳の下に<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>が居るもんか。今度は、負けんぞ」

「まあ、原田君、そんなに、いいなさんな」井上安五郎が笑って、「こっちの候補者だって、そんなに粒揃いというわけにゃいかん。どうかと思う者もある。民政党の中だって、立派な候補者も居るよ。ただ、最善を尽して、やってみる以外にはない。……今度は、君を、どうしても当選させたいと思うとるが、……」

「今度は、大丈夫じゃろうと思う」と、金五郎も、確信ありげに、「普選になったんじゃし、若松の<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>も、そう<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>ばかりでもないよ。二度も落ちたんじゃし、原田君のような快男児が市会に出たら、市会が活気を呈して、浄化されるこた、識者にはわかっとることじゃ。今度は間違いなし。わたしが請けあう」

「あたしたちも、原田先生に応援するわ」

「ほんとかい？」

「あたしたちには票はないけんど、そこはそれ、女の力も馬鹿にはなりませんよ」

「それ聞いて、安心した。もう<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ったような気持になったわい。……光三君、一杯、行こう」

原田雲井はコップをさして、ビールをついだ。光三はぐっと飲み干して、かえした。

料理が、運ばれて来た。

「ほう、大けなビフテキじゃなあ」

原田が、頓狂な声を立てた。

「原田君の身体には、恰度、似おうとるじゃないか。昔、「突貫亭」という西洋料理屋で、おいしいビフテキを食わせたが、ここのが、もっと、うまいよ。<ruby><rb>店主</rb><rt>おやじ</rt></ruby>の小田亀造ちゅうのは、アメリカの駆逐艦のコックをしとったとかいう面白い男でな、註文してあるけ、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で来るじゃろが、チャップリンとか、チャプスイとかいうような、珍しい料理も作る。アラスカに金鉱掘りに行って雪に埋められて、一ぺんは凍死しとったげな。それで、今でも、<ruby><rb>跛</rb><rt>ちんば</rt></ruby>引いちょるが、……」

「玉井さん、その小田ちゅうのは、何党な？」

「どうも、選挙になると、困るなあ。人さえ見たら、すぐ敵と味方とに分けてしまうけ。原田君、心配無用。わたし等の同志で、あんたの大層なファンじゃよ」

「そうな？」原田は、露骨にうれしそうな童顔になって、「今日は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まん</span>のよか日たい。芸者と、洋食屋のおやじの応援者が見つかった。自信が出たばい」

「原田君、票数を調べたな？」

「ざあッと、調べてみた」と、ポケットから小さい手帳をとりだして、「まだ、投票日の間近にならんと、正確なこた、わからん。死亡者名簿が出来とらんし、失格者も増えるかも知れん。現在、若松市の人口が、五万七千三百二十六人、去年の九月一目の有権者名簿で見ると、登録者は九千三百二十九人となっとるばって、いろいろ故障があって、実際は、八千九百二十九票という勘定になっとる」

「そうすると？……」

「候補者数が、決定的にはわからんばって、まず予想が、民政党十七名、政友会十二名、中立十四名、社会民衆党一名――合計四十四名と仮定して、一人当り百九十三票強ちゅうことになる。高点の者が三百も四百も取ろうけん、大体、百五六十票ありゃあ、当選圏内に入るちゅうわけじゃろうなあ」

「玉井<ruby><rb>旦</rb><rt>だん</rt></ruby>さん、井上旦さん」光三が、変に真剣な顔つきになって、「こんなこと、あたしなんかがいわんでもええことですけんど、今度は、民政党では、あなた方二人を、どうでもこうでも落す、とか、いうて……」

「ワッハッハッ」原田が、テーブルをくつがえすはげしさで、笑いだした。「ゴロゴロを落せ――か。そげんこた、初めからわかっちょる。ばって、この二人が落ちるもんか」

窓の外は、雨になった。

<ruby><rb>部厚</rb><rt>ぶあつ</rt></ruby>で、血のたれる柔いビフテキを、不器用な手つきで切りながら、

「まるで、<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>みたいじゃなあ」

と、まだ、天気を気にして、原田雲井がいう。

ビール飲んで、ぽおッと、桜色になっている光三が、ふと思いだしたように、

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、みなさんにお逢いするちょっと前、お<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>さんの鳥居のところで、栗田銀五親分から、大層、<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かされましたのよ」

「なんちゅうて？」

「玉井<ruby><rb>旦</rb><rt>だん</rt></ruby>さん、栗田さんは、どうも、旦那と、「チーハー」の島崎勇次親分とが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐる</span>にちがわん、ちゅうて、かんぐっとったようですわ」

「これも、じき、敵と味方とを色分けする口じゃのう」

と、原田が笑った。

「玉井君、島崎勇次というのは、どういう男かね？」

井上安五郎は、まだよく知らない様子であった。

「わたしも、そんなに、深い<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>はないんじゃけど、これまで見たところ、なんぼか、骨ッ節のある男のようにある。小倉の競馬場で、誰かを殺して、刑を終えて帰ってから、<ruby><rb>新地</rb><rt>しんち</rt></ruby>で、料理屋をしとるんじゃが、「飛鳥」の森新之助が兄弟分のごと、しとるらしゅうて、わたしも知りあいになったんじゃ。まだ、四十には間のある、身体は弱そうな男じゃが、……」

「玉井さん」と、原田が、「森君と、その島崎とが兄弟分なら、森君はあんたの弟分じゃけん、あんたも島崎と兄弟分ちゅう理窟になりゃせんな？」

「それは、そうじゃけんど、そこまでは考えとらん。森新之助が島崎と仲ようするのを、わたしが止めるわけにも行かんので、黙っとるだけじゃ」

「この若松は、変てこなところばい。人を殺して帰って来さえすりゃ、幅が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>く。顔役になって売り出せる。それで、まだ青二才の無法<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>どもが、まるで、それをやくざ憲法のごと考えて、人を殺したがる。おまけに、暗殺命令を発する本部がある。命令一下、品川信健を殺した西中宗之助は、監獄から出て来ると、恩賞に、<ruby><rb>小</rb><rt>こま</rt></ruby>い炭坑を貰うて、顔役になった。かんじんの命令を降した張本人は、なんごとものう、相かわらず、大親分で君臨しちょる。代議士になっちょる。面白か街たい」

「原田君、そう簡単にはいいきれんところもあるばい。人を殺した者が、みんな、悪人とはかぎらん。また、殺人罪をおかしたところで、それで売りだすともかぎらん。森新之助でも、「六ゾロ」の松川源十でも、そうじゃ。島崎勇次君も、なんか、のっぴきならん、売られた喧嘩じゃったらしい。そこが、森新之助の共鳴したとこかも知れん。無論、殺人なんて、人間としての最悪の罪、絶対におかしてはならんこと、……じゃけど、人間は、してはならんことを、どうしてもせにゃならんこともある。いや、逆上して、無意識に、してしまうこともある。……こんなこと、あんたにいうのは、釈迦に説法じゃが、……」

次第に、しんみりした語調になる金五郎は、東京での恐しい出来事を思いだしていた。

「筑紫館」の家族風呂に、友田喜造と二人で入っていたとき、

（この男を殺してやろうか）

唐突に、その悪逆の心が<ruby><rb>兆</rb><rt>きざ</rt></ruby>したことがある。愕然として、大あわてで、悪魔の想念を追っ払ったけれども、人間の心の奥底に棲んでいる、思いもかけぬ鬼の存在に、慄然としたのであった。

光三は、別のことを考えていた。

（妹と勝則さんとのことを、玉井の旦那は、知っとるのじゃろか？　知ったら、どんな顔をするか知らん？）

そんな気持で、玉井金五郎の真面目くさった顔を見ると、親というものが、妙に、間が抜けて見えて、吹きだしたい衝動をおさえかねた。

翌日も、鬱陶しい雨模様であった。

マンは、早く起きて、学校に行く子供たちのために、朝食の準備をする。弁当を詰めてやる。長年変らぬ毎朝の習慣だ。一人、若い女中がいるけれども、子供たちのことだけは、自分でやった。また、ババンもいるので、子供たちの世話は、よく行きとどく。一番下の<ruby><rb>千博</rb><rt>ちひろ</rt></ruby>が十二歳であるから、もう、そんなに手を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わす子供はいない。

マンは十人の子供を産んだ。

「勝則が出来るまでは、お前は<ruby><rb>石女</rb><rt>うまずめ</rt></ruby>かと思うちょったが、出口がついたと見えるのう」

金五郎から、そういって笑われたように、ほとんど<ruby><rb>年子</rb><rt>としご</rt></ruby>のように、次々に産んだ。長男の勝則と、末子の千博とは、十三しか<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>がちがわない。

男、女、男、女、女、女、女、女、女、男――の順である。しかし、四番目の<ruby><rb>一枝</rb><rt>かずえ</rt></ruby>を三つのとき、六番目の<ruby><rb>国子</rb><rt>くにこ</rt></ruby>を十四にもなってから、病気で失った。七番目は死産であった。

長女文子は、鉄道に出ている前田正彦に嫁がせた。

次男政雄は、熊本五高を出て、東大法科、在学中。春休みには帰省していたが、上京して行った。

三女秀子は、女学校を卒業後、家事の手伝いをしている。

その下の繁子と<ruby><rb>里美</rb><rt>さとみ</rt></ruby>とが、女学校、千博が小学校五年、この三人のために、マンは弁当をこしらえるのだが、今朝は、千博が熱を出して寝ているので、二人の娘の分だけでよかった。

「お<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さん、千博ちゃんはどんな？」

繁子も、里美も、食事をしながら、心配顔である。

「心配なこたない。ババンがついとるけ、安心して、学校に行きなさい」

ヨネが、答えた。

「行って参りまあす」

姉妹が揃って行ってから、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の者の食事になる。

健啖で、味噌汁好きの金五郎は、毎朝、四杯は平らげるのが常だった。

「馬鹿の三杯汁――ちゅうけ、四杯、吸うんじゃ」

そういって、笑う。

食卓を囲んで、金五郎、マン、勝則、秀子、ババン、女中の六人。ババンが、千博のために、お<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>を炊き、好きな卵焼きを添えて、奥の部屋へ持って行く。

「勝則」

「はい」

「今夜、お前も出てくれな。聯合組で、三菱を招待することになっちょる。炭積機問題がこじれよるけ、懇談しようちゅうんじゃ。三菱は聯合組の大得意じゃから、怒らせて、仕事をみんな共働組に持って行かれても困る。いやらしいけんど、仕方がない。聯合組の中には、おれが、あんまり、炭積機反対を強硬に主張するのを、心よう思わん<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>もあるし、……」

「今夜は、ちょっと、さしつかえがあるとですが……」

「そんなら仕方がないが、出られたら出てくれ。お前のいいよった労働組合の話も、出るかも知れん。大庭の親方も来なさる」

「どこでですか」

「「<ruby><rb>丸金</rb><rt>まるきん</rt></ruby>」じゃ。五時からちゅうことになっとる」

勝則の顔に、異様に当惑した表情が浮かんだ。けれども、金五郎も、マンも、その意味には気づかなかった。

マンが、御飯を茶碗に盛りながら、

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん」

「あん？」

「また、選挙なのね。あたし、選挙、<ruby><rb>大好</rb><rt>だいす</rt></ruby>かんわ。選挙のたび、汚い人の心の裏が見えすくけ……」

「おれだって、好きでやっとるわけじゃないよ。一ぺん出ただけで<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りたけ、<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めようと思うけんど、そうもいかん義理あいが出来てなあ」

「なんか、もっとええ選挙の方法がないのか知らん？　まるで、無茶やわ。お父さんが出るもんじゃけ、そして、出た以上は落ちてはならんと思うけ、一所懸命、手伝いはするけんど、選挙の間中、いやな気持が抜けん。すんだら、もう、二度とごめん、と、たんびに思うわ。……お父さんにはすまんけど、……」

「すまんこたない。おれも<ruby><rb>同</rb><rt>おんな</rt></ruby>じよ」

「ようまあ、平気で、あんな嘘がつけると、泣きとうなることがある――どこそこに何票ある。間違いなく、大将に入れる。……そんなこというて、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、飲んだり食うたり、小遣いをせびったりしといて、今度は別の候補者のところに、同じ票を売り込みに行く。見えすいとる、味方か敵か、わかりゃせん」

「選挙は<ruby><rb>水物</rb><rt>みずもん</rt></ruby>――というけんど、ほんとに、ええ加減なもんじゃ。この前の商業会議所議員の改選のときにゃあ、<ruby><rb>魚市場</rb><rt>うおいちば</rt></ruby>事件のような滑稽なことが起ったけのう」

「どんなことですか？」

と、勝則が訊いた。

「お前は、まだ、学校に居ったときじゃけ、知るまいが、……」

と、金五郎が、くすぐったげな微笑を含んで話す。

……商業会議所議員は、三票あれば、当選出来る。魚市場の社長、河村利三郎が立候補した。仲買人の有権者が十九名、河村は、日ごろから、金を使って手なずけて置いた。いよいよ、投票日の朝、全員、魚市場に勢揃いした。

「では、これから、社長さんに投票しに参ります」

みんな、誓約して出かけた。帰って来ると、一人残らず、「社長さんに入れて来ました」と、報告した。よろこんだ河村は、最高点疑いなしとして、仲買人たちに礼を述べ、大いに歓待した。

開票の結果、一票しかなくて、落選した。

選挙事務長がかんかんに怒りだした。

「どいつも、こいつも、嘘つきばッかりじゃ」

ところが、その一票は、候補者自身が自分に入れたものであった。……

「このため、魚市場騒動が起ってな、怒った社長が首切りをやったり、闇討ちで怪我人が出たり、しまいには、訴訟沙汰になって、裁判をごたごた長いことやっとったよ。……河村利三郎は、今度は、民政党から、市会に出るらしいが……」

「人間が信用出来んようになるだけでも、あたしは、選挙が嫌いやわ」

マンはためいきをつくようないいかたをして、煙管で、煙草を吸った。

「そのかわり、信用の出来る人間というものも、選挙でわかるよ」

「それはそうかも知れんけど、……候補者だって、日ごろは威張りくさって、道で逢うても、見むきもせん癖して、選挙が近づくと、急に、にこにこと、<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>がようなる。ペコペコ、頭を下げて――どうぞ、清き一票を、わたくしに。……そして、当選したら、手のひらをかえすように、また、知らん顔。……お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんは、そんなことはないけんど、<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>みたいに、一票にガツガツすることだけは<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めといてね」

マンの舌鋒に抗しかねて、仕方なさそうに、金五郎は、ただ、苦笑するばかりだった。

（お京の手紙から八つ当りかも知れん）

と、気色が悪い。<ruby><rb>薄氷</rb><rt>はくひょう</rt></ruby>のうえに立った心地である。

「原田雲井さんだけは、今度はぜひ当選させたい」

マンは、ぽつんと、いった。

金五郎と勝則とは、つれだって、玄関を出た。父は、「聯合組」、子は「玉井組」の、どちらも半纏姿。背丈は似たような五尺四五寸だが、ならぶと、金五郎の方が肥っていて、どっしりとしている。野球、柔道、剣道などをやった勝則は、骨組はがっちりしているけれども、肉づきが浅い。

路をへだてた二階家の入口に、「松本重雄」という表札が出ている。

金五郎は、表から、呶鳴るように、

「もう、みんな、仕事に出たかな？」

と、声をかけた。

「早ように、出ました」

と、松本の女房が、暗い奥の方から、答えた。

松本重雄は玉井組の<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>ボーシンになって、仕事の全体を統轄している。家には、独身仲仕を十四五人置き、<ruby><rb>飯代部屋</rb><rt>はんだいべや</rt></ruby>を兼ねていた。裏の方には、家族持ちのいる長屋がある。

玉井組は、一号、二号、三号と分かれ、それぞれ、中山<ruby><rb>弥志馬</rb><rt>やしま</rt></ruby>、広瀬伝吉、大島宗太という<ruby><rb>助役</rb><rt>ボーシン</rt></ruby>がいた。東海鋼業の仕事は、<ruby><rb>渡部徳一</rb><rt>わたべとくいち</rt></ruby>、八幡製鉄所の<ruby><rb>屑鉄</rb><rt>スクラップ</rt></ruby>作業の責任者は、往年の「中学生」、<ruby><rb>谷俊次</rb><rt>たにしゅんじ</rt></ruby>である。

松本家の隣りが、「ノロ甚」の営む豆腐屋。

二人が通りかかると、

「オヤジ、ちょっと……」

なにか、切迫した表情の甚七が、下駄をつっかけるのもまどろこしいあわてかたで、表に飛びだして来た。一枚の新聞を持っている。

「これに、変なことが出ちょるが、……」

受けとってみると、「若松民友新聞」である。民政党の機関紙、河上健一という記者がいて、自党の宣伝と、反対党の攻撃を、毎日やっていた。政友会の方には、「九州民報」があり、高野貞三記者が、連日、論陣を張っている。

「ノロ甚」の指さすところに、

――痴漢、<ruby><rb>詐欺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>漢、非人道のボス、玉井金五郎を葬れ。

という大きな見出しがあった。

一面トップ記事だ。どうして調べたか、四国の郷里で、黒石家の養子に行った前後のことが、誇張し、歪曲された筆で書かれ、最大級の言葉を使って、悪しざまに罵倒してある。ヤスを<ruby><rb>凌辱</rb><rt>りょうじょく</rt></ruby>したことになっている。

金五郎は、苦笑した。

「ゴロゴロを落せ――の作戦が、いよいよ、始まりましたね」

と、勝則も、笑った。

「やあ、お早ようさん、お揃いで出勤ですか」

ふりかえると、谷口政吉だった。馬車を引いている。彼もこれから仕事に出かけるところであろう。

マンの兄林助は六年ほど前に死んだ。長男の政吉は馬車曳きになった。父に似て、体力は頑健そのものだが、お人よしで、仕事の方も人並がやっとである。それでも、馬車曳きになると、乗馬にでもなるようなよい馬を手に入れて、ひとかどにやっていた。

よくマンに、

「叔母さん、叔母さんは、馬乗りが上手ちゅうて、よう親父が話しよったが、乗んなさらんですか。ええ馬ですばい」

などと、いったりしていた。

ガラガラと空馬車をひいて、行ってしまった。

聯合事務所に、一度、顔を出し、勝則は、小伝馬船に乗って、荷役をしている玄海丸の現場に出かけて行った。

夕刻、「<ruby><rb>丸金</rb><rt>まるきん</rt></ruby>」の大広間で、三菱の招待宴が張られた。「丸金」は、「<ruby><rb>緑屋</rb><rt>みどりや</rt></ruby>」から二町ほど離れたところにある。金五郎は、玉井組のマークが丸の中に<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>なので、ひどくこの料亭が気に入って、ひいきにしていた。

客は、支店長はじめ、十人ばかり。聯合組は、大庭春吉、田中光徳、牧野<ruby><rb>藤三郎</rb><rt>とうざぶろう</rt></ruby>、などの重役に、岡野松四郎、三崎清次郎、渡辺国明、金五郎、等の<ruby><rb>小頭</rb><rt>こがしら</rt></ruby>連中、<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>番の新谷勝太郎、会計の松丸龍蔵、その他。芸者を十人ほど加えて、たちまち、賑やかな饗宴になった。

「まあ、仲よく、持ちつ持たれつ、喧嘩はせんで行こうや」

そんな茫漠とした言葉が、酒の中で、いく度となく、くりかえされた。

金五郎が、三菱の<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>番と、<ruby><rb>藤八拳</rb><rt>とうはちけん</rt></ruby>を打っていると、仲居がそっと袖を引いた。

廊下に、出た。

「大将、息子さんが見えとりますよ」

「そうか。そんなら、すぐ、こっちへ」

「いいえ、離れの四畳半に……」

「誰と？」

「光丸さんと、二人で、……」

コヨという、もう、五十になる<ruby><rb>仲居頭</rb><rt>なかいがしら</rt></ruby>、背が低く、色が黒く、なにからなにまで小柄な女、豆狸のような面相をしているけれども、しっかり者で、「丸金」の台所を切りまわしている。白髪まじりの頭に、水々しい小さい丸髷を結っているのが、ひどく愛嬌がある。ひそひそと声を低めて、妙に、深刻そうな表情をたたえている。

「早くから、来とったのかね？」

「六時ごろからです」

「今夜、ここで、逢う約束をしとったんじゃな？」

「<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>、部屋を貸してくれちゅうて、電話がかかりましたけ、<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>けときましたの。誰か友達衆と飲みに来るかと思うとりました。そしたら、一人で来なさって、後から、光丸さんが来たとです」

「光丸は、ここから呼んだんじゃないのか」

「線香は、よそにつけとるとでしょう。それとも、<ruby><rb>自前</rb><rt>じまえ</rt></ruby>みたよなもんじゃけ、検番を通さんで、来たのかも知れんですわ。裾を引かんで、普段着で来とるようじゃけん」

「そうか」

朝食のとき、勝則が、今夜はさしつかえがある、といった理由がわかった。三菱招待を「丸金」でやる、といったとき、奇妙に、当惑した表情を浮かべた意味もわかった。

金五郎は、唇を噛んだ。

しかし、コヨの方は、勝則と光丸とが来ていることだけを、告げに来たのではなかった。そんな野暮はしない。花柳の巷で、海千山千のしたたかな修練を積んだ女、「<ruby><rb>蓮根</rb><rt>れんこん</rt></ruby>を食う」<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>は百も心得ている。彼女が宴席から金五郎を呼びだしたのは、別の理由からだった。

「大将」

と、さらに、声を細めて、顔を寄せた。

「うん？」

「どうも、今夜は様子が変ですよ。いつもとまるで違うもんじゃけん、わたしは心配で、大将に知らせに来たとです」

「変というのは？……」

「それが、一口にはいわれんけんど、……大将、ちょっと、行ってみて下さい」

広間では、もはや、どんちゃん騒ぎである。三味に太鼓までまじって、喧噪で割れそうだ。金五郎とコヨの立っている中廊下を、酒を運ぶ仲居、芸者、酔っぱらい客などが、しきりに往来する。

二人は離れ座敷の方に行った。曲りくねった橋廊下を渡った。

竹林に、風が騒ぎ、どこかの<ruby><rb>泉水</rb><rt>せんすい</rt></ruby>に、水の落ちている音がする。

「一番、奥の部屋です」

コヨに教えられて、足音を忍ばせた。息子の逢いびきの場所をうかがう<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>めたさが、瞬時、金五郎の胸をかすめた。人の秘密を盗み見る<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しさが、口中をざらつかせる。

（<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めようか）

と、ふと、思った。

しかし、コヨの「様子が変だ」という言葉が、やはり気がかりだった。思い当る節がないでもない。先夜、<ruby><rb>投網</rb><rt>とあみ</rt></ruby>打ちに行ったとき、息子に、光丸に<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>があるという話をした。その許婚と、来春、結婚、仲介は友田喜造、そのことも告げた。勝則はこのことを知らなかったらしく、はっとした拍子に、櫓を外した。そのとき以後、心境に、動揺と変化とが起ったことは疑いない。金五郎は、深くは追求せず、また、圧迫も加えず、息子自身の反省と、自主的な行動とを待っていたわけであった。今、そのあらわれを見ようとしているのである。

廊下の隅に立って、胸のどきつく気持で、耳を傾けた。

部屋の中は、しいんとしている。二人がいるのか、いないのか、障子に明かるい電燈が当っているのが見えるだけ、なんの音も、声もしない。あまり静かなので、後にいるコヨに、

「居るのかね？」

と、小声で訊いた。

「いますとも」

コヨは眼で答えて、しきりにうなずく。

なお、しばらく、静寂がつづいてから、

「僕が、馬鹿だったんだ」

かすれたような勝則の声が聞えた。

「すみません」

光丸の声は細い。

「君だけは信用しとったがなあ。花柳界は嘘の多い世界ということは、知らんこともなかったけど、君だけは、……君までが、嘘をつくとは思わなんだ」

「いいえ」光丸の語調は、切迫して来て、「そんなこと、……あたしが、嘘をついたなんて、いつ、どんな嘘を、……？」

「君には、許婚があったんだ」

「ええ、それはありましたわ」

「どうして、それを隠しとったんだ？」

「そんなこと、無理です。無理やわ。もし、それを話したら、もう、あなたに逢えなくなると思うたとです。あたし、その許婚と一緒になるつもりなら、とっくに、芸者やめてます。その人が嫌いなばっかりに、……そして、あなたとお逢いしたいばっかりに、……こうやって、芸者に出とるとです。……それを、嘘をついたなんて、……」

光丸の声は、とぎれとぎれ、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ、涙といっしょのように思われた。

「とにかく、僕が馬鹿だったんだ。馬鹿じゃけ、<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されたんだ」

投げだすような言葉。

「騙されたなんて、……そんなこといわれたら、あたし、立つ瀬がないわ。恩も、義理も、すてて、あなたを慕うたとに、……」

それから、また、しいんとなった。

金五郎が、なお、呼吸を殺していると、部屋の中で、はげしい<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>の声が起った。それは、一人だけのようでもあり、二人いっしょのようでもあり、悲しみと苦しみとを、なにかの想念で抑圧してはいるけれども、おさえきれず、溢れほとばしり出る<ruby><rb>堰</rb><rt>せき</rt></ruby>の流れに似た、切なげなひびきをたたえていた。

また、静かになる。

「ねえ、あたしのいうとおりでしょ？」

というように、コヨが金五郎の顔を見る。

金五郎は、巨大なためいきが出た。

「……恩も、義理も、すてて、……」

その光丸の言葉が、金五郎の厚い胸を、鋼鉄の矢のように、貫いた。

部屋の中で、人の立つ気配がした。出て来るようである。金五郎は、あわてて、かたわらの手洗所の中に隠れた。老練なコヨは、急にすました顔つきになって、たった今、ここへ来たという素振りをした。障子をあけて、光丸が顔を出すと、

「酒が切れたころじゃないかと思うて、訊きに来たのよ」

と、いった。

泣いて歪んだ青い顔を、ハンカチでふきながら、

「もう、帰りますわ」

「一人で？」

「いいえ、いっしょに」

勝則も、出て来た。酒は飲まなかったのか、怒ったような仏頂面をしている。

「早いじゃないの？　ゆっくりしなさいよ」

「帰る」と、勝則がいって、「おコヨさん、広間の方に、親父が来とるじゃろ？」

「ええ、来とんなさいます」

「僕も、出席するようにいわれとったんだ。でも、今日は出られん。偶然、いっしょになってしもうて、弱った。親父に、僕の来とったこと、いわんといて下さいよ」

「はいはい」

「広間の方に行って、誰かに逢うと困る。庭の裏木戸から出るけ、すまんけんど、僕の下駄をこっちに廻してくれんか知らん」

「忍ぶ恋路は、手間のかかることやなあ」

コヨは、そんな冗談口をたたいて、橋廊下を渡って行った。

光丸もそれにつづいた。彼女は帳場の方から表に出るらしい。

手洗所に潜んでいた金五郎は、勝則が小便をしに入って来るらしい様子に、びっくりした。

あわてて、大便所の戸を開いて、飛びこんだ。鼻をつまんで、突っ立ち、息子が小便をする音を聞いた。笑いだしたい衝動をおさえるのに、一苦労した。

（おれはおどけ芝居の名人じゃ）

人間の重大な秘密が、説明しがたい滑稽の表情を呈することは、毎々、経験したが、<ruby><rb>雪隠詰</rb><rt>せっちんづめ</rt></ruby>になったのははじめてだ。

（こうなったら、<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>じゃ）

脱糞することにした。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、……」

小便をしながら、呟いている息子のさびしげな声が聞えた。

大便所は清潔で、正面に小さい<ruby><rb>牀</rb><rt>とこ</rt></ruby>が作ってあり、銀の一輪ざしに、温室咲きらしい百合の花がさしてあった。うす暗い電燈の光のなかに、白い花びらが清楚に光っている。金五郎はしんとなるような気持がした。

（いつか、勝則が、<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>を入れるなら、やっぱり龍を彫って、その<ruby><rb>肢</rb><rt>あし</rt></ruby>に百合の花を握らせる、なんて、いうとったことがあるが、……）

風呂の中でのことを思いだした。そして、そのときは気づかなかったのに、息子がいった百合の花というのは、光丸のことを考えてのことであったろうか、と、<ruby><rb>霹靂</rb><rt>へきれき</rt></ruby>のように、金五郎は、今、<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>のなかで悟ったのである。

（おれの菊の花も、マンのことを考えたからじゃったが、……）

<ruby><rb>排泄</rb><rt>はいせつ</rt></ruby>しながら、不思議な感傷に浸った。

（じゃが）と、金五郎は、不意に、眼を怒らせる。（息子の勝手と、裏切りとを、許すわけには行かぬ。藤本との縁談を成就しなければ、大庭の親方に対して、顔が立たん。申しわけない。勝則だって、一度は委せるといったんじゃから、男の約束を履行せねばならん）

金五郎の決意は堅かった。

勝則は手を洗ってから、出て行った。

「ここへ置きますよ」

庭石の上に、コヨが下駄を揃えた。

「ありがとう。……おコヨさん、これ」

「ええのよ、そんな心配せんでも」

「まあ、僕の気持じゃけ」

「そうかね」

コヨは、勝則のさしだす紙包みを受け取った。

大島の羽織と着物を着ている若々しい青年の顔を、コヨはあらためて見なおした。柔和な面持ちのなかに、耐えがたい苦悩とともに、なにか、非常の覚悟のみなぎっていることが看取される。

勝則が暗い裏庭に消えると、金五郎が出て来た。

「おコヨさん、<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>をついて行ってみてくれんか」

「<ruby><rb>心中</rb><rt>しんじゅう</rt></ruby>でも、したら困るけ？……」

「そんなこたすまいけんど」

金五郎は、広間に帰った。

「やあ、親方、どこに行っとったかね。今夜は、親分の浄瑠璃を聞くのを楽しみにして来たんだ。一席やってくれ」

もうだいぶん酔っている三菱の労務課長が、<ruby><rb>牀柱</rb><rt>とこばしら</rt></ruby>のところから、手をあげて叫んだ。

拍手が起った。

「やりましょう」

<ruby><rb>見台</rb><rt>けんだい</rt></ruby>に似た台を取り寄せさせ、新聞紙で、即製の<ruby><rb>肩衣</rb><rt>かたぎぬ</rt></ruby>をこしらえて、金五郎は正面の座についた。舞台はない。太枠もないので、<ruby><rb>徳弥</rb><rt>とくや</rt></ruby>という芸者に、普通の三味線を持たせて、左に<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>らせた。おどけた顔つきをし、頓狂な<ruby><rb>声色</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>で、自分で、口上を述べる。

「<ruby><rb>東西東西</rb><rt>とざいとうざい</rt></ruby>、このところお聞きに達しまする浄瑠璃<ruby><rb>芸題</rb><rt>げだい</rt></ruby>『<ruby><rb>艶姿女舞衣</rb><rt>はですがたおんなまいぎぬ</rt></ruby>』、語りまする太夫、玉井春昇、三味線徳弥、いよいよ、三勝半七酒屋の段、そのため口上、東西東西」

この芸題が馬鹿の一つ憶えのようになってしまった。若いころから、義太夫を好きで語って来たけれども、素質がなかったのか、大して上達もしない。本物にもならず、酒席の座興で、お茶を濁すのが関の山だった。しかし、金五郎は、語りながら懐旧の念に耐えなかった。昔、江崎満吉との喧嘩の仲裁宴のとき、「飛鳥」の舞台で、お京の三味線で、これを語った。その夜のさまざまの出来事は忘れられない。ふと、お京がいるかと、隣りをふりかえるような、妖しい錯覚さえ起すのであった。

「……今ごろは、半七ッあん、どこにどうして、ござろうぞ……」

と、眼を細めて<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りながら、どこにどうしているかわからないお京のことを考えている。

拍手のうちに終ると、また、盃の飛ぶ乱戦。

大庭春吉が、金五郎を呼んだ。

「二三日前、八幡から、藤本君がわざわざ来てくれてなあ、おれとお前とを招待したいというとるが、どうするか？」

「藤本さんのお宅にですか」

「いんや、別府に、温泉のある別荘があるけ、そこへ案内したいというとった」

「すこし先にして下さい」

「そんなら、お前の都合のええとき、知らせてくれ。先方は今度の縁談を大よろこびでな、おれも顔がようなったよ」

それから、真面目な顔になって、仕事の話をした。――三菱の荷役問題は、今夜の宴で、一時の小康を得るかも知れないけれども、根本問題は解決されない。炭積機建設が中止されないかぎり、さらに、新しい問題となって、大きく展開する。三菱のみならず、貝島や三井も炭積機を作ったし、港湾荷役は機械化によって、必然的に、石炭仲仕の生活難と、失業とを誘致する。いずれは、近い将来、整理、転業、救済という問題に直面するものと考えなければならない。

「そうなったとき、また、あの友田喜造という男がなあ……」

大庭は、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>りきった顔である。

「港の癌ですね」

「癌どころか、鬼じゃよ」

「まあ、その話は、また、……」

金五郎が言葉を濁したのは、席には、民政党の連中が何人もいるからだった。

聯合組は、荷役会社として始められたものであるから、政党的には統一されていない。これまでにも、重役、小頭の中から、市会や商業会議所に出た者は多いが、民政、政友、中立、ばらばらである。このことが、聯合組内部を複雑なものにしている。

重役の牧野藤三郎は、民政党の錚々たる闘士である。豪放な気質だが、あまり上手でもない短歌を作ったりもする。酒と女とにかけては人後に落ちない。ドン・ファンをもってみずから任じている。

牧野は、今夜の宴席でも、

「玉井君、君も民政党に入ったがええばい。中立なんて、きれいごとをいうとったところで、いつまで経っても、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うだつ</span>が上がりゃせんよ」

と、何回となく、くりかえした。

しかし、同じく、しきりに、民政党に入党を勧告する友田喜造とは、あまり肌合いが合わぬうえに、聯合組と共働組という、商売上のことでは、正面から対立している。同じ吉田一派、民政党内といっても、一色一様ではない。牧野藤三郎も、

「友田の<ruby><rb>金棒引</rb><rt>かなぼうひ</rt></ruby>き奴、人間の皮かぶった畜生じゃ。<ruby><rb>胃潰瘍</rb><rt>いかいよう</rt></ruby>ちゅうことじゃが、早く、くたばりやがりゃええのに」

などと、酔いにまかせて、そんな極端な<ruby><rb>罵詈讒謗</rb><rt>ばりざんぼう</rt></ruby>をするのだった。

歌やら、踊りやら、乱痴気騒ぎの最中に、コヨが、また、金五郎を呼びだしに来た。

廊下に、出た。

「心中したかね？」

「ひょっと、思いつめて、間違いでも起しちゃならんと思うて、わたしゃ、必死で、二人の跡をつけて行きましたばい。外は霧が探うて、幸い、こっちも見つけられんでよかったけんど、向こうの姿もどうかすると、見うしない勝ちでしてなあ。えらい霧ですよ。滅多にこんなことはないとじゃが、五月に入ってからの雨模様のためでしょうかなあ。五間と先は見えりゃせん。二人はならんだまま、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も口をきかんで、幽霊のごと、歩いて行くとです。どんどん、海の方へ……」

ただ、無言で、ぐるぐる街を歩く勝則と光丸とを尾行するコヨは、神経が疲れた。霧は深いけれども、最後まで発見されずにいるということは困難だ。ことに、小柄なコヨは、チョコチョコと歩くので、下駄の音が必要以上にひびく。探偵するため、あわてて飛びだしたので、音のしない草履をはくことまで考えおよばなかった。後悔したけれども追っつかない。それでも、苦心して隠れながら、二人の跡をつけた。

勝則と光丸とは、曲り角などに来ると、ときどき、立ちどまった。どちらに行こうか、これから、どうしようか、と思案している様子である。そういうとき、霧の中をすかすようにして、コヨのいる方角を見た。コヨは見つけられなかったと思っていたが、二人の方では気づいていたらしい。霧の中に、ぼうと霞んでいる電燈が、夜光虫のようである。赤い電燈などは、普段よりずっと<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>のいろを濃くにじみ出させていた。二人が、浜ノ町を抜け、暗い海の方へ行くので、コヨは心配になった。しかし、波の音が聞えはじめるところから、二人は引きかえした。また、街の方へ入った。<ruby><rb>三内町</rb><rt>さんないまち</rt></ruby>の角で立ちどまった。向かいあった。

それまで、まったく、口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かなかった勝則が、ぽつんと、いった。

「ここで、別れよう」

「帰んなさるの？」

と、光丸がさびしげな声で訊いた。

「うん、……さようなら」

勝則は右手をさしだした。なにかの思いをこめた力の入れかたで、光丸の手を握った。離すと、くるりと回転し、霧の中に去って行った。

呆然とした様子で、光丸は、男の姿が霧に呑まれてしまうまで、見送っていた。

コヨは、その姿を盗み見ていて、「牡丹燈籠」のお露の亡霊を思いだした。ぞっとした。実際に、打ちしおれた光丸の姿は、そのまま、スウッと、霧の中に消えて行くのではないかと思われた。光丸は、うなだれて、力のない足どりで歩きだした。コヨの方へ近づいて来た。コヨは電柱に立てかけてある、大きな映画宣伝の立看板のかげに隠れた。小柄なコヨの身体はすっぽりと入る。看板には、国定忠治が、背に幼児を負い、御用提灯をひらめかす大勢の捕手役人を相手に、大刀をふるっている絵が、けばけばしい色彩で描かれてあった。

光丸は看板の前を通りすぎた。

そっと、コヨは顔を出して、その姿を見送った。

後姿が霧にうすめられかけたとき、光丸は、くるりと、ふりむいた。

びっくりした。あわてて、顔を引っこめた。

「おコヨ姐さんの馬鹿」

投げつけるような声がしたと思うと、にわかに、カラカラと、下駄の音が遠ざかって行った。

顔を出してみたときには、霧ばかりだった。……

「それから、ここへ帰って来たというんじゃね？」

金五郎が、訊く。

「いいえ、まだ、先がありますたい。一たん別れることは別れても、また、思いかえして、どこかで逢うということも、ないこっちゃない。そこは、わたしも根性が悪いけ、こっちへ帰る前に、「六ゾロ」の方へ廻ってみました。案の定、わたしのカンのとおり、息子さんは「六ゾロ」に行っとって、もう、ビールを飲みよりました」

「そうか」

「大将、まあだ先があります。息子さんは源さんに話して、友達を迎えにやりよったですよ。いつもいっしょに飲む仲よし、洗濯屋の星野順一さん、鉄道検車所の岩下喜代光あん、早速、小女が使いに出て行きました。一人で飲むのはさびしいとでしょう。大将、もう、大丈夫ですばい」

コヨは、大任を果した斥候のように、<ruby><rb>逐一</rb><rt>ちくいち</rt></ruby>報告すると、ほっとした面持で、チョコチョコと、廊下を去って行った。

金五郎も安堵はしたが、妙に、気持が酸っぱく、口中が<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>くて仕方がなかった。

（もう、大丈夫――なにが、大丈夫というのか）

金五郎は、かえって、説明しがたい不安と昏迷とに襲われた。しかし、勝則と光丸とが、「丸金」を出て、どこかの待合にでも行くのではないかと考えていたので、ともかく、二人が別々になったということだけは、金五郎の気持を軽くした。

（勝則は、光丸と切れようと決心したのかも知れん）

そうとも思われる。ところが、この、自分の方にとっては、最上、好都合の筈のことを考えているのに、金五郎は、何故か、晴れ晴れとならぬ自分の気持が不思議だった。

「やあ、オヤジ、なにをこげなところで、ぼやッと立っちょるとですか。みんな探しよりますばい」

甲板番の新谷勝太郎が、千鳥足でやって来て、広間の方へ引きずって行った。

「ようし、わしが仲仕唄を踊ろう」

金五郎は、やけ糞のように叫んだ。拍手が起った。

若松みなとの

ゴンゾは花よ、

<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な手さばき

日本一……

金五郎は、滑稽な恰好で、天狗取り荷役のしぐさで踊りだした。

「<ruby><rb>日若座</rb><rt>ひわかざ</rt></ruby>」は、朝から大賑いである。今日の一日のために、前々から準備がすすめられていたのであるから、この劇場を中心にして、いちどきに、百花が撩乱と、咲きみだれたような具合であった。入場客でごったがえしている。

「若松検番・春の温習会」――大看板をはじめ、<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>や扁額にまで、いくつも、その文字が書かれてある。劇場の前や、舞台の両袖、花道にまで、無数といってもよい花輪がかざられ、そのなかには、それぞれ、ひいきの芸者を名ざしにしたものも多かった。その美しい人工花園の中に、とりわけ巨大な花輪が、一つ、誰からでも眼につく劇場の正面にあった。それには、「光丸さんへ・友田喜造」と書いてある。その横に、「猫丸さんへ・ドテラ婆」というのが、まるで、押しやられたようにならんでいる。

原田雲井は、この花輪の前に立って、妙な顔をしていた。紋付羽織に、袴をはいている。

（光丸といえば、勝則君の話しとった女にちがいないが、その光丸に、どんなわけで、友田喜造が、こんな途方もない大きな花輪をやるのじゃろか？）

顎鬚をひねりながら、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうにしている原田の顔は、明らかに、そういっていた。わからない。

「原田さん」

と、呼びかけられた。

「こりゃあ、玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>、御見物ですか」

「原田さんでも、こんな踊りを観に来なさるのね？」

「でも、は、ひどかですなあ。わたしはこれでなかなか粋人ですばい。昔は鶯鳴かせたこともありますたい」

マンは、ちらと、劇場前の花輪を見て、

「原田さん、あなた、この光丸という芸者さん、知っとんなさる？」

原田はどぎまぎして、眼を白黒させ、

「逢うたこた、ありまっせん。今日、よそながら、お顔ば拝見しようと思いましてなあ。……ばって、この花輪を見ると、友田喜造がやっちょるごたるけんど、友田がひいきにしとるとですかなあ？」

「この光丸さんには許婚があって、<ruby><rb>来春</rb><rt>らいはる</rt></ruby>、その人と祝言するらしいです。友田さんはその仲介をなさるとかいう話ですよ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>は、大層、詳しかですなあ」

そういいながら、原田はマンの顔をうかがわずには居られなかった。勝則から光丸とのことを打ち明けられ、藤本組との破談をうけあいながら、金五郎から、一撃の下に撃退された。勝則には、大船に乗った気でいなさいなどと、壮語したのに、小伝馬船ほどの偉力もなかった。それ以来、気にはかかりながら、この問題には触れずに来たのだが、いま奇妙な花輪の前に立つと、問題は原田が考えていたよりも、はるかに複雑らしいことがわかった。

「今日は」と、その問題は苦手なので、原田は話題を転じた。「日若座の中は面白かですばい。芸者には、黒紐、赤紐、青紐、いろいろな紐がついちょるけん、呉越同舟、敵味方、全部、集まる。一騒動あるかも知れんですなあ。若松じゃあ、踊りもゆるッとは観られん。命がけじゃ」

森新之助と島崎勇次とが、やって来た。

「日若座」は、森と熊丸虎市が経営している。座主は熊丸の名になっているが、実権は新之助が握っていた。島崎も株に加わっている。

新之助の顔は青ざめて、ただならぬ緊張のいろがみなぎっている。友田喜造一派が、栗田銀五を総大将にして、今日の温習会に、なにかの妨害をくわだてているという情報を入手したためであった。

「おマンさん、ちょっと」

森新之助は、マンを一人、劇場の横にみちびいた。あたりを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>る切迫した語調になって、

「金さんは来とるな？」

「まだじゃけど、もう来るころよ。聯合組の人たちと揃うて行くと、いいよったけ」

「来たら、いうちょいておくれ――今日は、おれに取っての<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>が起るかも知れん日じゃけ、気をつけといてくれ。――ちゅうて」

「どんなこと？」

「どんなことかは、まだ、おれにもわからん。興行のことでも、友田派とは、前々から、いろんないざこざのあっとるのは、あんたもよう知っちょることじゃが、四五日前、友田の使いというて、栗田銀五がやって来てな、今度の選挙の演説会場に、日若座を貸してくれ、ちゅうもんじゃけ――もっと早よう、いうてくれりゃよかった。もう、中立団と政友会との両方に約束してしもうて、昼も、夜も、一日も空いた日がない。……そう答えたんじゃ。そしたら――早よう来ても、遅う来ても、民政党にゃ貸す気はないとじゃろう？　ふン、温習会ども派手にやるらしいが、後で、吠え面かくなよ。……そんな<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>を切って、帰ったんじゃ。こっちも、それくらいのことは覚悟のうえじゃっけ、なにいうか、と思うとったんじゃが、……どうも、今日の温習会で、なんか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>の悪いことを企らんどるごとある。……それでな、おマンさん、金さんに、力になって貰いたいけ、用心して、終りまで居ってくれるように、よう頼んどいて。な。……おれもじかに逢うて、話しはするけんど……」

「わかったわ」

新之助は、また、島崎とつれだって、木戸から、劇場の中に入って行った。

「ははあ、あれが、「チーハー」の島崎勇次か。なるほど、男は<ruby><rb>小</rb><rt>こま</rt></ruby>いばって、全身が<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>のごと、殺気がみなぎっちょる。肺病とかいうこッちゃが、命短しで、世をすねたかな？」

原田雲井は、引きかえして来たマンに、鹿爪らしい顔つきで、そんなことをいったが、やがて、二人とも、下足番に履物をあずけて入場した。

階下も、二階も、超満員だ。いずれも弁当ごしらえ、酒を持ちこんでの見物なので、賑やかを通りこして、騒々しいことおびただしい。一つずつの<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>の<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>の中で、どこも小宴が張られているが、劇場全体で、大饗宴が行われているに異ならなかった。団体のところは、桝の仕切りを取りはずし、広くして飲んでいる。

幕が開くと、いくらか、静かになる。舞台に、観衆の眼が向く。しかし、ときどき、野卑な弥次が飛んで、劇場内に、どっと、笑い声がみなぎった。

プログラムは、次々に、進んだ。

二階の中央からやや左寄りに、聯合組が陣取っていた。共働組は、階下の右桟敷。この、なんでもないような席割りも、森新之助の苦心の考慮にもとづいたもので、階下から階上へはなにも出来ないけれども、階上から階下へなら、やろうと思えばどんなことでも出来るからであった。

大庭春吉を囲んで、金五郎、マン、勝則がいた。

聯合組とならんで、「中立聯盟」と称されている中立団の連中。井上安五郎、原田雲井、中村勉、児島卯太郎、その他。

「吉田磯吉親分は、まだ、議会が終らんけん、東京から帰っとらんと見えるなあ」

岡部亭蔵、友田喜造、長富紋太、栗田銀五、藤野清次、など、吉田一家の錚々たる親分連中のたむろしている階下を見下しながら、原田雲井がいった。

「ばって」と、苦笑に似た、警戒的な表情をたたえて、「どこに居ったところで、本部から、物騒な命令を発するとじゃけん、居ると同じこったい」

民政党は、別に、かたまってはいなかった。それぞれ、自分の所属する団体に、或いは、個人的に、席を取っていた。

「エーイ、ラムネはよろし？」

ラムネを詰めた小箱をかついで、女の売り子が客をかきわけながらやって来た。

「ラムネを三十本ほどおくれ」

金五郎が声をかけた。今日は、聯合組も、家族づれが多かったので、そのために註文したのである。亭主連中は酒を飲んでいる。もう呂律の廻らぬ者もある。三十本はないというので、あるだけを買いしめ、金五郎は、女房子供連中に配ってから、「わたしはラムネが強いとばい」そういって、笑いながら、自分も飲んだ。「やあ、玉井さん、来とんなさるな？」

便所にでも行くのか、狭い通路を通りかかった、五十がらみの、半白の五分刈り頭の男が、上下に派手にならんだ金歯を光らせながら、声をかけた。連歌町遊廓で、一番大きな「いろは」という貸座敷を経営している矢崎新兵衛である。口の悪い原田雲井が、いつも、「民政党候補はガラクタばっかり、中でも、無学文盲の女郎屋の助平<ruby><rb>狒々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>」といっている男だ。

「こりゃあ、矢崎さん」と、金五郎は、愛想よくふりむいて、「いよいよ、選挙も近まりましたなあ」

「そうですたい。また、うるさいこッてす。中立連盟は、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>、立候補の届出をなさる？」

「四五日うち、出そうかと思うとります」

「お手柔かに頼みますばい」

「こちらこそ。……民政党の方は、何時？」

「届出ですか？　さよう、こっちはそんなにあわてんで、十八日の<ruby><rb>大安</rb><rt>たいあん</rt></ruby>に、十七人、枕をならべて、出馬することにしちょります。……それでは」

矢崎新兵衛が、<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>な態度で去って行くと、原田雲井が腹をかかえて笑いだした。

「フワアハッハッハッ、やっぱり、女郎屋の親父だけあって、いうことが振るうちょるばい。枕をならべて――は、よかったなあ。傑作じゃ。<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>をならべて――のつもりじゃったろうが……」

みんなもついて笑い、たちまち、矢崎の名言が酒の肴になった。

表は、次第に、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れて来た。場内は電燈で<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しいほど明かるい。

プログラムが進み、いよいよ、

「清元・夕立」の幕が開いた。

置舞台の正面に、屋形舟が一隻、その右に、しだれ柳、黒幕の背景、右掛りに赤毛氈の床がしつらわれて、黒紋付姿の地方姐さん連が五人、見台に唄方が三人、三味線が二挺。はじめ、幕が引かれたときには、舞台には誰もいない。

普通の観客には、この舞台も、プログラムの一幕にすぎなかったけれども、金五郎、マン、勝則、原田、等にとっては、それぞれに異ってはいるが、特別の関心をそそるものであった。おたがいに、無言で、自分だけの注意力を集中している。

雨の降る気配の鼓の音がし、三味線と唄とがはじまった。花道にすぼめられた一本の蛇の目傘があらわれた。踊り手二人の上半身が、その中につつまれている。顔は見えない。そのままの恰好で、花道から、舞台の中央に出た。屋形舟の前に来て、傘をひらいた。

<ruby><rb>文金高島田</rb><rt>ぶんきんたかしまだ</rt></ruby>のうえに手拭をかぶり、五位鷺の裾模様のある振袖をひるがえしているのは、御殿女中に扮している光丸。

男役になっている女は、頭を<ruby><rb>鬘下</rb><rt>かつらした</rt></ruby>にし、荒い縞模様の着物を着ている。二人は相合傘の中で、形をきめると、男役の方が、正面を向いた。

金五郎は、びっくりした。眼を、皿にした。

（お京、……？）

<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>を

越せど、

色恋は……

唄と三味とに乗って、二人は、柔軟に、舞台一杯を動き、踊る。<ruby><rb>優婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>で、美しい。「掟きびしき白玉の、露にも濡れしことはなく」――色恋を<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>として遮断されていた<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>な御殿女中が、はじめて知った男への恋慕のきびしさに、とりのぼせる<ruby><rb>所作事</rb><rt>しょさごと</rt></ruby>らしい。

<ruby><rb>不粋</rb><rt>ぶすい</rt></ruby>な金五郎には、それくらいの意味しかわからないが、そんなことよりも、男役になっている女の顔に、瞬き一つせず、彼の眼は釘づけされていた。そして、

（お京じゃ。お京にちがいない）

不審と昏迷との果てに、そのことを、巨大なためいきとともに、はっきりと、うなずいていた。

プログラムを見ると、踊り手は妻太郎・光丸となっている。しかし、妻太郎は「飛鳥」にいる芸者なので、金五郎もよく知っている。全然、ちがう。出演当日になって、配役が変更になることはあり勝ちだから、妻太郎でないことは大して不思議ではないけれども、それがお京であるとすれば、胡蝶屋豆八ではないが、「大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>」といわなければならなかった。

しかし、考えられないことではなかった。お京は変幻自在、唐突に、思いもかけぬ場所に出現して、金五郎をおどろかすことの名人だ。再三、その経験がある。東京では、般若の五郎に邪魔されて、逢えなかったが、手紙を寄こして、「いつか、近いうちに、かならず逢える日がありましょう」と書いて来ている。こっそりやって来て、昔なじみの「飛鳥」の君香に頼んで、不意に、妻太郎と代ったのかも知れない。ただ、年齢が若すぎるけれども、舞台化粧をすれば、二十や三十の歳を隠すくらいはなんでもないことであった。この「夕立」の前には、六十近い美代吉という婆芸者が、八百屋お七に扮して、その水々しい若さで、観客をおどろかしたばかりだ。

（どんなつもりで、お京は、また、やって来たのか？）

異様な不安を感じながら、金五郎は、かたわらのマンをちらと見た。

マンは、お京の方には無関心の様子で、光丸に、強い視線を投げている。

勝則は、また、別の考えに浸っていた。ほろ<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>そうな表情で、索漠とした自分の気持とたたかっていた。

（あんなに、楽しそうに踊っとる。悲しみも、苦しみも、もう、光丸にはないんだ。おれのことも、考えてなんか居らんらしい）

芸のなかに、陶酔しきっているような光丸の舞姿に、勝則は、

（それでいいんだ。ああ、それでいいよ。別々の世界に、おれたちは居るんだ）

そんな放棄的な感情に荒々しくゆすぶられながら、急に、光丸が遠くなるのを、さびしい気持で耐えていた。

拍手のうちに、幕が閉まった。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん」

と、マンが金五郎をかえりみた。金五郎はびくッとした。

「あん？」

「光丸さんて、きれいな人ね。相手の妻太郎さんというのも美しいわ」

「うん、そうじゃなあ、……」

勝則は、立った。座に居られなかった。便所にというような風をして、階段を降りた。そのまま、木戸口から、表に出た。

「ちょいと、ちょいと、玉井の<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>」

呼びとめられた。

<ruby><rb>遊人</rb><rt>あそびにん</rt></ruby>風の男である。話があるといわれ、暗い劇場裏につれて行かれた。

眼鏡をかけた、青瓢箪のような、一人の大学生が、待っていた。

「つれて来ましたばい」

という、遊人の報告も待ちきれぬように、慶応大学の徽章をつけた帽子の青年は、

「君かね、僕の女房におちょっかいをかけてる男というのは？」

バネ仕掛で、全身がはずんでいる恰好で、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きかかって来た。声が妙にかすれている。息がニコチン臭かった。よほどの煙草好きらしく、それまで、指先の黄色くなった手で、短くなった金口の煙草をつまんでいたが、その言葉とともに、遠くへ投げすてた。火がついたままの煙草は、夜の空間に赤い線を引いて、高い赤煉瓦の根の、なにかを積んだもののうえに落ちたようだった。

勝則には、直感的に、この大学生が、光丸の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>の辻木要之助であることがわかった。返答に窮して、無言でいると、

「君は、玉井組の若親分でしょう？」

いやに叮嚀な、嘲侮するような語調で、亀のように、要之助は首だけ伸ばして来た。

「そうです」

仕方なく、答えた。

「困るなあ、どうも、この若松の者は、柄が悪くて、助平で、油断も隙もならんよ。玉井君、光丸は僕の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">れっき</span>とした女房ですよ。<ruby><rb>不見転</rb><rt>みずてん</rt></ruby>芸者と、他人の細君との見さかいくらいはつけて貰いたいもんだねえ。君は、一体、光丸とどんな関係なんだ？」

「どんな関係でもありません」

「お客と芸者とだけの関係なら、仕方はないさ。が、もう、光丸を呼んで貰いたくないな」

「呼びません」

「きれいに、手を引いてくれたまえ」

「引きます」

「君は早稲田ということだが、まさか、僕と早慶戦をやるつもりじゃあるまいね。恋愛と野球と混同してくれちゃあ、大迷惑だ。それとも、早慶戦、やってみるか、どっちが勝つか、負けるか？……」

「負けました」

勝則がはげしく抵抗して来るものとばかり思っていた要之助は、案外の弱腰に、いくらか、張りあい抜けがした模様だった。しかし、それも、自分の攻撃のすさまじさと、用心棒の威力とに、相手が屈服したものと信じ、すこぶる満足したらしい。にやけた青白い顔に、露骨に、勝利者のほくそ笑みを浮かべた。

腕まくりしていた遊人の一人が、

「ふン、親父も弱虫じゃが、息子も似たような腰抜けじゃなあ」

と、せせら笑った。

「失礼します」

勝則が行きかけると、のっぽの男が、「待て」と、呼びとめた。そして、部下たちに命令を降した。

「これから先の見せしめに、ちいと、痛い目にあわせちょけ」

その言葉で、腕のむずむずしていた無頼漢たちは、勝則に殴りかかって来た。

逃げようとしたが、組みつかれた。その男を投げたおすと、はげしく棒切で脛を払われた。足が折れたようだった。たおれた。敵は馬乗りになって、乱打しようとする。<ruby><rb>渾身</rb><rt>こんしん</rt></ruby>の力をふるって、はね起きると、相手を前後左右に投げ飛ばした。しかし、うすい光の中に、短い白刃が何本もきらめくのを見たと思った瞬間、左股に、熱い火のようなはげしい疼痛を感じた。

「殺すな」

と、誰かの声がした。

同時に、暴漢たちは、明かりのない劇場裏の奥へ、一散に消えた。

地面に膝をつき、歯を食いしばっている勝則の耳に、舞台から流れて来る三味と鼓の音が、夢幻の世界からの音楽のように、遠く聞かれた。

マンは、日若座を出た。

「温習会」を、聯合組が、家族同伴で<ruby><rb>総見</rb><rt>そうけん</rt></ruby>するというので、金五郎にすすめられるまま、見物に来たのであるが、「清元・夕立」の幕が閉まると、俄かにこれ以上、観る興味をうしなった。あとで考えてみると、それとはっきり意識しなかったけれども、光丸の踊りが、というより、踊る光丸が見たかったのかも知れない。母親として、息子が心を惹かれている女が、どんな女か、たしかめて置きたい気持は強かったのである。

そして、マンは、全然、知らずして、夫が心を惹かれている女をも、同時に見たわけであった。

「帰るのか？」

と訊く金五郎には、

「<ruby><rb>千博</rb><rt>ちひろ</rt></ruby>が、また、熱を出しかけとったもんじゃけ、気がかりで、落ちついて見とられん。ババンにばかり委せとくのも悪いわ」

そう答えて、席を立ったのだった。

劇場裏とは逆の方向に廻ったので、一足先に出た勝則が、どんな目にあったかということは知らなかった。

友田一味は、最初から、日若座に来ている金五郎、マン、勝則、の三人に、それぞれ、なんらかの方法で、攻撃を加える計画を立てていたもののようである。そのため、混雑している客にまじって、どこからか監視の眼を光らせて、行動を探偵していた。勝則がまずその作戦に引っかかったのである。つづいて劇場を出たマンの後からも、遊人体の男が二三人、尾行していた。

明かるい本町通りに出ると、書店に入って、病床にいる末子のために、絵の美しいお<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>の本を数冊買った。果物屋で、千博の好きなバナナと林檎とをすこし買った。

紙包みを両手で前胸のところにかかえて、<ruby><rb>旭小路</rb><rt>あさひこうじ</rt></ruby>のゆるい坂を登った。この道は暗い。二間幅ほどの道をはさんで、両側に、どちらも、高い<ruby><rb>花崗石</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>の崖と、煉瓦塀とが聳えている。右は、安養寺、左は、明治建築の古風な尖塔を持つ筑豊鉱業組合事務所。寺の方には、夜目にも黒くそそり立つ一本の銀杏と、墓石と、鐘楼とが見える。

（今はお伽噺の本をよろこぶ十二歳の末子も、いつか、青春の日が来て、また、美しい女の子が好きになるのじゃろうか？）

そして、先刻、「夕立」の舞台で見た光丸が、いつか、「猫婆さん」のところで逢った芸者であったことを考えながら、暗い坂道の中ほどまで来たとき、

「ちょいと、玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>や」

と呼びとめられた。

ふりかえると、三人の男が、すばやく、マンを取りかこんだ。

「なんぞ、わたしに御用で？」

「おう、用事がのうて、どげして呼ぶか。あんたに、ぜひ、話しておきたいことがあるんじゃよ」

「承りましょう」

「お前の倅の勝則にな、やたらに、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>に手をつけること、止めさせちくれ」

「勝則はそんことする子じゃありません」

「証拠があってもか」

「どんな証拠？」

「人の奥さんになる女子に、子を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>ましちょる、ちゅうが、……」

「馬鹿なこと、いいなさい。もし、それがほんととしても、勝則は、きっと、責任を取るでしょうよ」

「責任を取る？……」

「ええ、男らしゅう」

「子が子なら、親も親じゃ。ははあ、お前がそそのかして、させたとじゃな？　そんなら、お前を許すことならん」

ずんぐりと肥えた、酒くさい息をはく大男が、マンの左肩をつかんだ。

「なにをするんです」

「知れたことよ。<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の大切な奥さんに傷をつけといて、ただですむと思うちょるか。これでも、食らえ」

右手で、マンの頬をはげしく打った。

それを合図に、外の二人も、マンに躍りかかって来た。

マンは、地面に蹴たおされた。それでも、絵本と果物とを入れた紙包みを落すまいとして、しっかりと、胸に押しつけた。そのため自由をうしなって、さらにさんざんに<ruby><rb>打擲</rb><rt>ちょうちゃく</rt></ruby>された。

しかし、次の瞬間、三人の暴漢は、かき消すように、逃げ去っていた。遠くから、<ruby><rb>佩剣</rb><rt>はいけん</rt></ruby>をがちゃつかせながら、やって来る巡査に気づいたらしい。逃げ足は早い。

マンは、歯を食いしばって、痛む身体を、無理に引き起した。着物の泥をはらい、身づくろいをした。飛んでいる下駄を拾って履いた。片方は鼻緒が切れている。口中が生ぐさいので、ハンカチで拭いてみると、歯茎から血が出ていた。

靴音が近づいて来た。マンに、懐中電燈を照らしかけた中年の巡査は、おどろいた顔つきで、

「こりゃあ、玉井の奥さん、どうなさったのですか」

マンは微笑を浮かべて、

「転びました。ここは危いですね。こんなに、水道工事の跡が穴だらけになっとるとに、街燈もないもんじゃけ……」

「怪我なさっとるようにあるが、……」

「大したことはありません。……それでは、これで」

「大丈夫ですか」

「大丈夫です」

マンは歩きだしたが、あまり大丈夫とはいえなかった。身体の方々が疼く。蹴られた横腹がずきずきし、<ruby><rb>捻挫</rb><rt>ねんざ</rt></ruby>したのか、<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>を引かなければ歩けない。人通りのないさびしい夜道なのが幸だった。巡査は、気づかわしげに、しばらく見送っていたが、くるりと回転すると、反対の方角に、坂道を降って行った。その靴音の遠ざかるのを聞きながら、マンは、つぶれるほど、下唇を噛んで、

（お前らに、負けるもんか）

そんなえたいの知れぬ言葉を、はげしい憤りのなかで、絶叫していた。涙のにじんでいる眼が、ギラギラと、<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しく、光る。

日若座の方でも、<ruby><rb>椿事</rb><rt>ちんじ</rt></ruby>が持ちあがっていた。

「夕立」の次の幕は、<ruby><rb>狐忠信</rb><rt>きつねただのぶ</rt></ruby>であったが、劇が佳境に入って来たとき、舞台の中央に大きく組み立てられてあった観音堂のセットが、巨大な音響とともに、くずれ落ちたのである。

狐忠信に扮して踊っていたのは、「チーハー」の島崎勇次がひいきにしている<ruby><rb>文路</rb><rt>ふみじ</rt></ruby>という芸者だった。舞台の袖に、「文路さんへ・島崎勇次より」という、格段に目立つ花輪がある。

頭から足の先まで黒装束の<ruby><rb>黒子</rb><rt>くろこ</rt></ruby>が、長い竿の先につけた火の玉を、忠信の動くにつれて、移動させていた。お堂の格子の前に来た忠信が、縁に膝をついて、形をきめ、ちょっとの間、静止したとき、急に、ゆらゆらと屋根がうごいたと思うと、すさまじい勢で、頭上から落下して来た。文路は、飛びのいて、危うく、下敷きになることからまぬがれた。びっくりした黒子が、火のついている竿をすてて逃げたので、見る間に、紙張りのお堂に燃えついた。

劇場のなかは、たちまち、大混乱におちいった。

火を消すために、大勢の者が、舞台にかけあがって来た。バケツや桶に汲まれた水が、どんどん、ぶっかけられる。長い竿をふりまわして、叩き消そうとする者もある。

「火事じゃあ」

「逃げれえ」

観客は、押しあい、へしあい、われ先に、場外へなだれ出て行った。火の粉が天井までもふきあげられ、逃げまどう客たちのうえに降り落ちる。女子供が多いので、けたたましい悲鳴、泣き声、怒号、が入りみだれて、そのすさまじい混雑は、まさに、地獄図絵といってよかった。花輪が踏みくだかれて、けばけばしい造花を散らす。

森新之助は、狂気のようになって、バケツの水を運んでいる。

「畜生、……畜生」

と、歯ぎしりしている。

金五郎も、手伝った。

「こんなことまで、しやがるとは思わんじゃった」

新之助は憤怒の形相で<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。

栗田銀五の一味で、なにか悪だくみをしていることは知っていたけれども、舞台を崩壊させるなどとは、想像を絶したことであった。厳重に警戒はしていたのに、まったく、見当が外れていたのである。舞台装置をする熟練した<ruby><rb>道具方</rb><rt>どうぐかた</rt></ruby>は、組みたてたセットの急所を知っている。どこの釘、<ruby><rb>楔</rb><rt>くさび</rt></ruby>、<ruby><rb>鎹</rb><rt>かすがい</rt></ruby>、或いは、結び綱をとけば、道具がくずれるか、やろうと思えば、どんなことでも出来る。観音堂は吊り道具になっていたらしい。吊り綱が切られたため、一瞬にして落下した模様だ。計画的であることは明瞭だった。

新之助は、お堂がくずれ落ちた瞬間に、はじめて、それを気づいたのである。

（どいつが、やったのか？）

狂人のように、消火に努めながらも、新之助の頭には、<ruby><rb>小屋</rb><rt>こや</rt></ruby>の<ruby><rb>裏方</rb><rt>うらかた</rt></ruby>の顔が、次々に、浮かんで消えた。

（あいつかも知れん？）

一つの顔を思い浮かべて、眼を光らした。手が足りないので、深く<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>もせず、四五人、臨時に雇い入れたのであるが、そのときに、敵の廻し者がまぎれこんだにちがいない。「<ruby><rb>作</rb><rt>さく</rt></ruby>やん」とだけ呼ばれていた、四十恰好の、背に岩見重太郎の<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をほどこした小柄な男――その男が怪しいと思われた。

「新公、消えそうじゃぞ」

必死に手伝っていた金五郎が、親友を元気づけるように、弾んだ語調で、声をかけた。

「うん、ありがたい。これくらいで消えてくれりゃあ、……」

ところが、意外なことが起った。舞台の火事はおさまりかけたのに、劇場の裏手から、新しい火の手が上って来たのである。さらに、混乱は倍加された。

「<ruby><rb>放火</rb><rt>つけび</rt></ruby>しやがったか」

新之助の顔は歪み、鬼のようだった。

半鐘が、鳴りだした。

消防組が、くりだして来た。手押しポンプがならべられた。えんえんと燃えあがるすさまじい火の手に向かって、幾本もの水の槍が前後左右からそそぎかけられた。<ruby><rb>鳶口</rb><rt>とびぐち</rt></ruby>を持った<ruby><rb>刺子半纏</rb><rt>さしこはんてん</rt></ruby>の消防手が活躍をする。

<ruby><rb>諸肌</rb><rt>もろはだ</rt></ruby>ぬぎになった金五郎も、<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>の荷物運びだしに、加勢をした。

かけつけた子分たちが、玉井組の提灯をふりかざして、飛びまわっている。

彫青を見せないために、夏も着ている長袖のシャツが、なにかに引っかかって破れた。そこから、らんらんたる眼の龍の顔と、肢につかまれている菊の花とがのぞいていた。

衣裳入れの<ruby><rb>葛籠</rb><rt>つづら</rt></ruby>に手をかけたとき、金五郎は、背後から、頭へ、鳶口を打ちかけられた。

「あいたッ」

と、思わず、声が出た。

なにかが落ちかかって来たと思ったのである。

鋭い鳶口の先が、頭に突き刺さっていたならば、命があったかどうかわからない。どさくさしている狭い場所であったうえに、相手も興奮していたとみえて、手先が狂ったらしい。しかし、鳶口のついている根元のところが、力まかせに後頭部に当ったので、金五郎はくらくらとした。

瞬間、何者かが攻撃して来たことに気づいて、ふりかえりさま、右手で鳶口の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>をつかんだ。

「誰じゃ？」

火事装束の消防手である。火消し帽で深く頭と顔とを包んでいる。眼だけ出ているが、誰なのかわからない。失敗したと知って、顔を伏せた。

「わたしを殺すより先に、火を消しなさい」

金五郎は、そういうと、握っていた鳶口をぽんと投げかえした。相手は、一散に、火事場の方に走り去った。

頭に手をやってみた。べっとりと、血がついた。

「物騒なことじゃわい」

苦笑が湧いた。そして、破れたシャツの左袖から、龍と花とがのぞいているのに気づくと、あわてて着物を左肌だけ着た。火の粉といっしょに、大雨のように、ポンプの水が飛んで来る。全身、ずぶ濡れになった。先刻、出しかけていた衣裳<ruby><rb>葛籠</rb><rt>つづら</rt></ruby>を肩にかついで、避難所へ急いだ。火勢は強まるばかりのようだ。張りめぐらされた交通遮断の綱の外に、見物人が密集している。「<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の火事は大きいほど面白い」という顔つきで、<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の焔を吹きあげながら、なおも燃えひろがって行く日若座を眺めている。提灯を持った大勢の巡査が喚きながら、整理と警戒とにあたっていた。

金五郎は走りながら、その群衆のなかに、お京の顔を見たように思った。はっとして、立ちどまった。見なおしたときには、消えていた。

「畜生、……畜生」

青ざめた森新之助は、<ruby><rb>囈言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように、その言葉ばかり、呟いている。

熊丸虎市も、ぐったりと、運び出された荷物のうえにへたばりこみ、阿呆のように、ぽかんと口を開いて、ただ、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いでいた。

深更になって、ようやく、鎮火した。日若座は全焼したが、裏は高い赤煉瓦塀でめぐらされていたので、類焼は少かった。

抜刀した島崎勇次が、朝まで、栗田銀五を追い廻していたらしいが、相手が隠れてしまって、喧嘩にはならなかったようである。

花やかで美しかった温習会は、こういう凄惨な結末をもって、幕を閉じた。それにもかかわらず、事件はきわめて不明朗な形で、<ruby><rb>有耶無耶</rb><rt>うやむや</rt></ruby>に葬り去られようとしていた。新之助が、吊り道具を切り落した下手人と睨んだ「作やん」は、当夜から、行方が知れない。しかしその敵の廻し者も、火災をおこすまでの考えはなかったのかも知れなかった。鬼火を捨てた<ruby><rb>黒子</rb><rt>くろこ</rt></ruby>は、新之助が可愛がっていた正直者である。裏手から新しく出た火の手は、放火にちがいないと思う。といっても、証拠はなかった。勝則を呼びだして<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>したとき、辻木要之助が投げすてた煙草の火が原因らしいけれども、誰一人、そんなことに気づく者はなかった。

「警察は、なにをしちょるか。こんなことじゃあ、まるで、無警察と同じじゃないか。吉田一派の御用警察なのか？」

新之助が、いくら、ばりばり歯噛みして、口惜しがってみても、結局は泣き寝入りになるのが落ちのようだった。

翌朝、原田雲井が玉井家を訪れて来た。

「ノロ甚」の豆腐屋の前で、勝則に逢った。いつもの半纏姿であるが、太い樫の木の杖をついて、ひどい<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>をひいている。

「どげんしなさったとな？」

原田は、おどろいた顔で訊ねた。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>さくや</rt></ruby>、酔っぱらって、溝に落ちこみました」

「危なかなあ。どこを、怪我さっしゃった？」

「この左股、……なんか、ブリキ缶の<ruby><rb>切片</rb><rt>きれ</rt></ruby>のようなもんがありまして……」

「そげんか足どりじゃあ、沖の現場にゃ行かれんばい。休んだが、よか」

「いえ、今日は荷役じゃありません。労働組合のことで、聯合組のボーシン連中が集まることになっとるもんですから。……それでは」

「気をつけて行かっしゃい」

危なかしい足どりの勝則が、「<ruby><rb>三福湯</rb><rt>さんぷくゆ</rt></ruby>」の角へ消えるのを見送ってから、玄関を入った。

「おごめん」

「はあい」

箒を持った前かけ姿のマンが、跛をひきひき出て来た。座敷を掃いていたらしいが、箒を杖がわりにして、痛そうに顔をしかめている。

「おやあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん、どげんしました？」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、踊りを観に行ったかえりに、安養寺の坂で、<ruby><rb>転</rb><rt>こ</rt></ruby>けましてねえ」

「そりゃあ――あそこは、水道工事の跡がやりっぱなしで、危険じゃけん、早よ片づけて、街燈をつけんにゃいかん。……ちゅうて、わたしが、五へんも、十ぺんも市役所に抗議したとですけんどなあ。……そうですか。……玉井さんは？」

「庭に居ります。どうぞ」

原田は上って、庭の方に廻った。

金五郎は尻まくりし、瓢箪池の中に入って、<ruby><rb>手網</rb><rt>たぼ</rt></ruby>で、金魚をすくっていた。大きな盥のなかに、鯉、鮒、亀、などが、池から移されている。池の水を換えるつもりらしい。ぽかぽかと日あたりのよい縁側に、猫が四五匹、雪見燈籠の笠のうえに、鳥籠があって、二羽の<ruby><rb>眼白</rb><rt>めじろ</rt></ruby>がしきりに鳴いている。

原田は、金五郎が頭に繃帯をしているのを見て、

「どげんなさったな？」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>、火事場で、<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げてなあ」

「へえエ、昨夜は玉井家の<ruby><rb>厄日</rb><rt>やくび</rt></ruby>たい。勝則君も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>も、<ruby><rb>転</rb><rt>こ</rt></ruby>けたといいよった。親子三人揃うてこけるちゅうのは珍しか」

「転げたくらいですんで、よかっちょる。君も転げんごと気をつけるがええばい」

「わたしは、こう見えてもなかなか転げん。転げたときには、ただでは起きんたい」

原田は豪放に笑って、縁に坐ったが、二人の話には、焦点のあわぬところがあった。

「玉井さん」

「あん？」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>よんべ</rt></ruby>の火事なあ、ありゃあ、東京の吉田本部から、命令が出ちょるにちがわんばい」

「さあ？　吉田大親分がそこまではやるまいなあ。わたしは、吉田さんも、友田喜造も、直接には関係のない、<ruby><rb>小者</rb><rt>こもの</rt></ruby>連中の策動と睨んどる。……というても、結局は同じことになるが、……」

金五郎、マン、勝則の三人は、前夜の遭難を、絶対に、他人に口外しないことを申しあわせていた。内輪の者にも話さない方がよい。もし子分連中にでも知れたら、どんな復讐行為に出ないともかぎらない。歯を食いしばって、小さな闘争を避け、もっと大切な戦いに、全力をあげなければ、と、親子の気持が一致していた。

  


## 親と子

静かな夜の空気をふるわせて、安養寺の鐘が鳴っている。九時らしい。よく晴れわたった星空に、天の川がとびぬけて明かるく、きらめく帯になって、頭上に横たわっている。

浜ノ町から、郵便局の横を通って、金五郎と、君香とが、肩をならべて話しながら街の方へ行く。日若座の火災事件について、原田雲井のところに、法律上の相談に行った帰りだった。

金五郎は「夕立」の踊りの話をして、

「ほんとに、びっくりしたよ。お京は、まるで、忍術使いじゃ」

と、いった。

「ほんまに」と、君香も、ためいきをつくようなうなずきかたをして、「あても、お京はんの突飛なのには、あきれたわ。温習会の前の日に、ひょっくり訪ねて来やはって、……そうやなあ、もう、あれから二十五年にもなるのと違いまッか。……どないも、こないもない――一生の願いやさかい、「夕立」を踊らしてんか、いやはって、妻太郎はんと代りましたんや」

「やっぱり、おれの考えたとおりじゃった。……それで？」

「ほたら、あないな、どえらい騒ぎになって、小屋は焼けて、わやになってしまうし――金五郎さんに逢おうと<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>て、わざわざ、東京から来たんやけど、一ぺん、帰って来う。……いやはって、……」

「東京に帰った？」

「久しぶりで来て、若松の様子もわかったし、……なんより、一番に、あんたはんのこと知りたかったんやろな。……日若座の後始末のゴタゴタ、それに、選挙のゴタゴタ、そないなときに、金さんの気を散らしたらあかん、すまんさかい、と、いうて、火事の翌る朝、早ように……」

「帰った？」

「選挙がすんだら、出なおして来る、いやはってな」

「ふウン……？」

相かわらず、神出鬼没だ、と思い、金五郎は、次の機会のお京の出現に、不気味なものを感じた。

（一体、お京はなにを考えとるのじゃろうか？　なにをしようと、いうのじゃろうか？）

しかし、その不安のなかにも、一度は逢いたい気持は強かったのである。

君香がなにか重大な秘密を隠していることには、金五郎は気づかなかった。

「あては、ここで」

と、君香は、「女髪結い処」の門燈の出ている曲り角から、別れて行った。

公会堂の前まで来たとき、金五郎は、背後から、呼びとめられた。

ふりかえった。

「玉井の大将、ちょっと、顔を貸して下さらんですか」

遊人風の巨漢である。鳥打帽をかぶっている。（またか）と、舌打ちする思いだったが、みちびかれるままに、暗い公会堂裏について行った。

二十人ばかりの無頼漢が、ぞろぞろと、あらわれた。金五郎を包囲した。鳥打帽が号令をかける。

と、全員、抜刀した。

シュウシュウという、すき間風のような音とともに、引き抜かれた日本刀の切ッ先が、二十本あまり、金五郎を中心に突きだされた。公会堂の小使室から洩れて来るかすかな明かりに照らされて、整然とならんだ刀が、八百屋の店先の白ネギの列のようである。抜刀隊は、これも、誰かが号令を降したかのように、いずれも、<ruby><rb>諸肌</rb><rt>もろはだ</rt></ruby>ぬぎになった。シャツを着ている者は一人もなく、男たちの素肌には、夜目にも、全員、さまざまの<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>がほどこしてあるのがわかる。

金五郎は、苦笑した。

（おれも、おどけ芝居の名人じゃが、向こうにも、おれに負けん役者が居るとみえるわい）

危険感はまったくなかった。彼等に殺意のないことを、金五郎は、敏感に、看破した。しかし、笑いだしたい衝動を、無理な渋面で押し殺して、すこしふるえ声でいった。

「大層、派手に、わたしを<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>かしなさるが、どげなわけかね？」

「嚇かしじゃありませんです。場合によっては、命を頂戴します」

そういう、隊長らしい、長身の四十男を、金五郎は、どこかで逢ったように思ったけれども、はっきりした記憶がなかった。そういえば、暴力団連中の顔も、どれもこれも、見たようだと思うだけで、名前を知っている者は一人もいない。

隊長の両腕に、<ruby><rb>唐獅子</rb><rt>からじし</rt></ruby>の彫青が見える。いやに落ちついた、馬鹿叮嚀な言葉つきで、夜目にも白く眼の光る、ちょっと凄味のある男である。きっと、今夜の演出家にちがいない。

「場合によっては、というのは？」

金五郎は、<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>をしたまま、訊ねた。懐手をしていることは危険にきまっているが、敵の芝居気が伝染したのである。

「わたしは使者ですから、<ruby><rb>言付</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>だけを伝えます」

「聞こう」

「民政党に入党して下さい」

「せん」

「今夜が最後の勧告です。もう、選挙も間近に迫っています。民政党は十八日の<ruby><rb>大安</rb><rt>たいあん</rt></ruby>に、一斉届出、中立聯盟はそれよりすこし先とのこと、あなたが中立団として届出するまえに、こうやって、最後の決意をうながす次第です。もう一回だけ、いいます――民政党に入党して下さい」

「それで、わたしがしないといったら、この場で殺すというのじゃね？」

「そうです」

「そんなら、仕方がない。殺して貰おう」

「命にかけても、入らないというのですね」

「吉田の親分さんも<ruby><rb>大人気</rb><rt>おとなげ</rt></ruby>ないな。大民政党が、たかが玉井金五郎一人を、そんなにまで邪魔にするとは<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せん。また、中立団の方も、わたし一人、居ったところで、居らんところで、格別、力が弱まることはない。正義というものは、個人には関係がないからじゃ。今、君たちがわたしをここで殺したところで、正義が消え去るもんでもない。いや、わたしを君たちが殺したことが、後でどんな形になって、燃えあがるか、面白いところ、わたしは一度は死んだ男、女房子供達も、この街では、<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>をまたいで外に出れば、七人の、……いや、百人も二百人もの敵のあることは、覚悟のまえ、こうなることは約束ごと、きれいに斬られてやるけ、どこからでも、料理しなさい」

金五郎にも、いつか、芝居気が出ていて、言葉にも<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>まがいの変てこな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めりはり</span>がついていた。そうなれば、一種、自虐的な放棄感情が、さらに、金五郎を、羽目を外した滑稽さへ駆りたてる。

肌をぬいだ。シャツもぬいで、彫青をむきだしにすると、地面に寝てしまった。

<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>いたとき、星を無数にちりばめた夜の天が、顔の真正面に開けた。こんな風にして、夜空を眺めたことははじめてだ。美しい。きらめいている星の一つ一つが生きているようである。巨大な銀河の帯は光を密集させて、南北に走り、手をあげて払えば落ちそうに、近々と、見えた。一瞬、金五郎は、お<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎ</rt></ruby>の国に来たような、夢幻的な気持になった。二十人もの抜刀隊が周囲にいることも忘れた。

「よい覚悟です」

その人間の言葉で、現実につれもどされた。

大の字に寝たまま、あたりを見まわした。二十本の刀のどれにも、<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>が映っている。

「早よう、料理せんかね？」

ひやかすように、うながした。今度は、答がなかった。金五郎は、うすら笑いを浮かべて、眼を閉じた。

（暴力団のやることは、定まっちょる）

脅迫と、暗殺と、決闘と――それが、幾十度、くりかえされて来たことであろうか。しかし、それは、その方法の単純さと危険さとによって、つねに、人間のもっとも大切な生命を軽侮して来たのだ。金五郎は、そのことへの憤りで、半生を過ごして来たといってよい。そして、今、暴力を過信する者たちの、芝居気たっぷりな脅迫を受けて、彼等を軽蔑する念はいよいよ増した。同時に、

（ふン、ほんとに斬る気はない癖に、……）

相手をなめる気持さえ湧いた。

ところが、どうしたことか、不意に、金五郎は、全身が冷却するような戦慄に襲われたのである。眼を開いた。あまりに、しいんと、あたりが静かなことが、不気味になったのであった。

金五郎は、ぎょっとした。むっくりと起きなおった。二十人もが刀を抜きつれていることは、前とすこしも変りはないけれども、眼を閉じる前にはなかったすさまじい殺気が、刀の<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の間に生じている。ことに、隊長の男の眼は妖しく光り、その刀は今にも金五郎を突き刺すかと思われた。金五郎は、息をひそめた。言葉が出なかった。生唾を呑みこもうとして、眼を白黒させた。恐怖の感情がにわかに湧いたのである。

（本気で、おれを殺す気になっとる）

はっきりと、それがわかった。けれども、その急激な変化の理由はわからなかった。金五郎は、急に危険を感じて、防衛の姿勢になった。

金五郎を凄い眼つきで睨んでいた隊長は、はがゆそうに、舌打ちすると、パチッと、はげしい音を立てて、日本刀を鞘におさめた。

「よし、みんな、引きあげろ」

その号令で、部下たちは、いっせいに、刀を<ruby><rb>収</rb><rt>しま</rt></ruby>った。ぞろぞろと、塀に添った暗い植えこみの中に消えて行った。

「どうぞ、肌を入れて下さい」

そういわれて、金五郎も着物を着た。立った。鳥打帽の男に、これまでになかった或る威圧を感じていた。

（このあたりの者じゃない。何者か知らん？）

その疑念が強くなって来た。

「玉井の親分さん」

<ruby><rb>唐獅子</rb><rt>からじし</rt></ruby>の彫青を包んでから、相手は、静かな語調で、呼びかけて来た。

「うん？」

「危いところでしたな。あなたは命拾いしましたよ。わたしは金儲けの<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>われ兵だから、あなたを脅迫するだけで、商売はすんではいたんですが、……もし、あなたが玉井金五郎さんでなかったならば、ひょっとしたら、あなたを斬っていたかも知れませんなあ」

謎めいた言葉に、金五郎は、ただ、無言で、相手を見つめた。

奇妙な男は、しんみりした口調になって、ひとり言のように、

「わたしは、十五年ほど前、たいへん世話になった親分を斬ったことがありますが、今、そのことを思いだしていましたよ。或ることで、親分と意見が衝突したんです。ひどく罵倒されて、血気盛りで、若かったわたしは、かっとなって、思わず、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を抜きました。そうすると、親分はせせら笑って――おれを斬る気か。よし、面白い。斬られてやろう。さあ、どっからでも斬れ。……そういってちょうど、あなたのしたように、彫青の<ruby><rb>諸肌</rb><rt>もろはだ</rt></ruby>ぬぎになって、大の字に寝ましたなあ。斬れるもんか、と、なめきっているんですね。無論、わたしも、もののはずみで短刀を抜きはしたものの、親分を斬る気など、毛頭なかったんです。でも、親分が、斬れる筈がない、と、あんまり軽蔑しきった態度で――さあ、斬らんか。斬れるものなら、斬ってみろ。斬れまいが。……などと、馬鹿にして笑うのを見て、ほんとうに、親分を斬ってしまったんです。そんなことがありました。……失礼しました」

男は、叮嚀に頭を下げると、すたすたと、公会堂の表の道に、去って行った。

呼びとめる言葉もうしなって、金五郎は呆然と立っていた。男の後姿が夜の街に見えなくなり、<ruby><rb>雪駄</rb><rt>せった</rt></ruby>の足音が消えてから、われに返った。思わず、一つ、巨大なためいきが出た。

（なんちゅうことか）

自分の愚かさに、腹が立った。したたかに、背負い投げで、地面へ叩きつけられた気持である。思いあがったきざな英雄的ポーズ、先刻の自分の姿の醜さに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へど</span>が出そうだった。

（それにしても、何者じゃろうか？）

このあたりでは聞きなれぬ歯切れのよい東京言葉だ。金五郎は、ふっと、般若の五郎を思い出した。すると、潜在意識の中にある不可思議な記憶の作用が、俄かに働いて、金五郎を東京の浅草につれて行った。見たことがあるようだと思ったのは、浅草であったのかも知れない。瓢箪池の傍で、般若の五郎の手先になって、襲撃して来た暴漢の中に、その男がいたような気がする。そして、それはどうやら、般若の五郎によく似ているようだ。

（五郎の子供なのか？）

しかし、般若の五郎の息子が、どういうわけで、吉田磯吉に頼まれて、自分を脅迫したのか――わからない。親父の五郎には、不識の間に、大切な人生の信条を教えられて、ひそかに、感謝していたが、その息子から、また、教訓をあたえられたのか。奇妙なめぐりあわせになるものだ。苦笑ばかりが湧く。

（お京といっしょに来たのかも知れん？）

あり得ないことではない、と思われた。

「おれは、馬鹿じゃ」

金五郎は、泣きそうな顔になって、力のない足どりで歩きだした。

西新町に出て、「六ゾロ」の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>を潜った。

「こりゃあ、オヤジ、一人ですか」

寿司をにぎっていた源十は、いつになく元気のない金五郎を見て、不審の面持である。

「うん、熱い酒を一杯くれ」

「オヤジ、二階に、森の新さんが来ちょる。上がらんな？」

「また、飲んどるのか。毎晩じゃないか」

「日若座が焼けてから、大層、荒れちょる、無理はないばい。……一人じゃけ、上がんなさい」

「いや、ここで、ええ」

これ以上、みじめな気持になりたくなかった。

五月を<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>過ぎると、街は、にわかに、色めき立って来た。

街頭のいたるところに、候補者の立看板、ポスター、などが張りだされ、演説会のビラが<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれた。投票は卅一日、翌六月一日、開票される。その運命の日を目ざして、各派、各候補、それぞれの戦術を展開、日とともに、全市は騒然となり、投票日が近づくにつれて、街には、殺気に似た空気がみなぎって来た。

「早よ、選挙がすんでくれんかなあ」

玉井家では、マンが、毎日、仏頂面で、同じことを呟いている。

「六月一日が来りゃあ、否でも応でもすむたい」

金五郎が、そういって笑うと、

「あたしゃ、逃げだそうごとある。ほんとに選挙はいやらしい。人間の眼が、狐やら、狸やら、猿やら、果ては、狼やら、虎やらの眼に変る。どこもかも、違反ばっかり。こんなことで当選した人が、政治家になるなんて、あたしは、そんな政治、信用出来んわ」

しかし、夫にはそんな不服をいいながらも、集まって来る人たちには、愛想よく、笑顔をもって接した。渋滞なく、出入りする大勢の人たちの世話を焼いた。

正保寺町の自宅の表に、「厳正中立・玉井金五郎選挙事務所」という看板がかかげられた。字は子供たちの通った小学校の先生で、書家である<ruby><rb>河合正気</rb><rt>かわいまさき</rt></ruby>という、長髯の老人に、揮毫して貰った。――河合先生が看板を書いた候補者は、かならず、当選する。……いつか、そんな妙な伝説が出来ていて、依頼者が多かったけれども、気骨のある老先生は、これと思う候補者以外は書かなかった。札束を積んで来ても断わった。原田雲井も書いて貰ったが、「今度は、絶対、当選、疑いなか」と、布袋腹をたたき、髯面をほころばせて、自信満々としていた。

原田は、一日に一度は、かならず、金五郎の選挙事務所に顔を出す。状勢を報告し、作戦の打ちあわせをする。

碁を打ちながら、

「五十八議会は、十三日で終ったばって、最後になって、また、泥試合をやっちょるなあ。大乱闘、肉弾戦、民政党総務の<ruby><rb>頼母木</rb><rt>たのもぎ</rt></ruby>桂吉が、政友会の志賀和多利に殴られて、怪我しちょる。その懲罰委員会が、また、喧嘩になって、電燈を消したりなんかして、大暴れじゃ。はじめから醜態さらけだしの連続じゃったが、出たらめ国会、有終の美を成したわけたい。吉田磯吉親分を売りださせたようなもんじゃ」

「吉田親分は若松に帰って来とるとか、井上君が話しよったが、……」

「どげんしてでも、十七人の候補者を、全員当選させるごと、<ruby><rb>御大将</rb><rt>おんたいしょう</rt></ruby>みずから采配を振るらしか。警察は自分の部下と思うちょるし、買収、饗応、脅喝、戸別訪問、自由自在たい。玉井さん、楽観は許されんばい。ゴロゴロを落せ――ちゅうて、ああたと井上君とを目標にしとるけん、油断は禁物。わたしの探ったところでは、今度の敵のやり方は徹底しとるごとある」

「例えば？……」

「区長、衛生組長、小組長が、ほとんど民政党、こいつを手足にして動かせば強い。小組長が自分の組員を投票につれて行き、投票した名を、吸取り紙にうつさせて、後で調べるようなことを考えちょる。一票、大体、五十銭から二円五十銭という相場ちゅうが、投票前日には、急所を狙うて、五円くらいの実弾射撃をするらしか。そんなときゃ、警察では、署長が署員を一人のこらず召集して、三時間か四時間か、選挙訓示をあたえる。全市を<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>ッぽにするわけじゃなあ。吉田天皇の<ruby><rb>勅</rb><rt>みことのり</rt></ruby>じゃけん、どげんかことでも出来るわけたい」

「そんなことまで、するじゃろか？」

「こっちの考えで、相手を律すると、大きな大事になる。ああいう敵を向こうに廻すときにやあ、こっちも、えげつないほど根性を悪う持たんと、調子が合わん。こっちからも、スパイが入れてあるけん、大概のことはわかる。玉井さん、気をつけんといかんばい。敵は、ああたと井上君との地盤を調べて、票を片っぱしから食うてしまう<ruby><rb>目論見</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>じゃ」

「なに、こっちは、なんば、敵が来ても、ゆるがん票があるけ」

「中立聯盟の候補は、どれも、弱かけんなあ」

「わたしの票を、適当に分けるよ。わたしや井上君だけが当選しても、なんにもならん。一人でも、同志が余計出にゃいかん。原田君、あんたにも、三十票ほど考えちょる」

「おおきに。それだけ貰や、鬼に金棒たい。そろそろ、言論戦の火蓋ば切ろうと思うちょる。吉田一派、民政党横暴の罪史を、徹底的に、市民のまえに、暴露してやるつもりじゃ。市営バス買い入れ問題、公立病院不正事件、若戸渡船建造入札問題、若松・<ruby><rb>島郷</rb><rt>しまごう</rt></ruby>・合併問題、税金取り立ての不公平、水道料値下、それに、今度の日若座放火事件――材料は、なんぼでもある。……ところで、<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>の演説会に、勝則君に出て貰おうと思うちょるが、どげんじゃろか？」

金五郎は、ちらと、眼を伏せたが、

「出るように、いおう。あんたに極力応援することは、前からあれも承知しとったけ」

「友人の中村勉君の参謀長で、やっとるごたるなあ」

「うん、まだ、あれは満二十五歳にならんけ、選挙権はない。中村君が二十七で、候補者中、最年少、<ruby><rb>栃木</rb><rt>とちぎ</rt></ruby>村太郎さんをロボットの選挙事務長にして、勝則が采配振っとるらしい。……じゃが、……実は、あの子、ほんとうは、すぐにでも、東京に行きたい気持のようにあるが、……」

「そら、また、どうして？」

「あんたから、いつか聞いた光丸のことでなあ」

「あきらめて？……」

「はっきりとはわからんけんど、そんな気持になったとじゃないか知らん？　藤本組との祝言を秋にするというのは、もうすこし考えさせてくれ、といいよったが、ともかく、光丸と別れる決心をしたらしゅう思われる。それで、やっぱり、さびしいとじゃろうなあ。マンに、しばらく、東京に遊びに行かせてくれ、ちゅうて、頼んだそうな。東京には、早稲田時代の友達がたくさん居るし、気を<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らかすつもりじゃろ。マンが、わたしに――勝則も可哀そうじゃけ、いっとき旅に出してやったら、どうじゃろか？……というもんじゃけ、わたしも、そうしてやるがええ、と、承諾したんじゃ。でも、選挙が始まったし、わたしや、中村君も立候補しとるもんじゃけ、これも気になる様子で、まだ、家に居る。選挙がすんだら、すぐ東京に、という気持らしい」

「光丸君を、よう、あきらめる気になったもんじゃなあ」

「どんな気持なのか、まだ、わたしにも、ようはわかりかねるところがある。じゃけど、その気になって、藤本さんの方と縁組みしてくれりゃ、八方、丸くおさまるちゅうもんじゃ。わたしも、大庭の親方の顔をつぶさんで、すむし、……」

「そんな勝則君に、応援演説を頼むのは、なんか悪い気持がするなあ。ばって、こっちも、勝つか負けるかの瀬戸際、頼みます。……それじゃあ、また」

原田雲井は、風を起すようにして、帰って行った。

入れちがいに、大石鶴松が、やって来た。怒ったような仏頂面をしている。立ちはだかったまま、いきなり、

「玉井さん、わたしに、選挙事務長をやめさせて下さい」

金五郎は、びっくりして、

「なにを、大石さん、だしぬけに？……」

「だしぬけじゃないですばい。わたしが選挙事務長を引きうけたのも、あなたを当選させたいばっかり、ない智慧と力とをふりしぼって、これまでやって来ました。じゃけど、もう、やれん」

「どうして？」

「わたしが、なんぼいうても、あなたは聞かんで、票をあっちこっちに<ruby><rb>分</rb><rt>わ</rt></ruby>けなさる。そら、同志を落しちゃならんという、あなたの気持はようわかっとるですよ。その気持をうれしいとは思いますたい。でも、そげなことしよったら、あなたが危い。票というもんな、大体が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやふや</span>なもんじゃのに、今度の敵の食いこみははげしいですばい。馬鹿にならん。わたしゃ、それを、一票でも逃がすまいと思うて、必死に食いとめよるとです。それなのに、肝腎のあなたが、どんどん、票を分けてしまうんじゃあ、わたしゃ、なんのための選挙事務長かわかりゃせん。あなたは楽観しとんなさるごとあるが、わたしは、こんなことじゃあ、落選と見ました。票を分けることを止めなさらにゃあ、わたしは<ruby><rb>罷免</rb><rt>ひめん</rt></ruby>して貰います」

「選挙事務長に怒られたんじゃあ、わたしも困る。そんなら、票の分配はこれくらいでやめましょう」

金五郎は苦笑して、仕方なしに答えた。

「そげえして下さりゃ、わたしも一所懸命やります」

大石鶴松は、やっと機嫌をなおした。

玉井家の隣りに、「<ruby><rb>三福湯</rb><rt>さんぷくゆ</rt></ruby>」という風呂がある。これは十年ほど昔、大石、金五郎、それに、山本佐四郎という質屋を加えて、三人共同経営ではじめたので、「三福湯」という名をつけたのであるが、後、大石一人に譲った。大石は、六十歳近く、禿頭の大入道で、頑固一徹ではあるが、誠実な人柄なので、金五郎は、選挙のたび、事務長をやって貰っていた。

大石鶴松は、金五郎の前に、<ruby><rb>碁盤</rb><rt>ごばん</rt></ruby>のあるのを見ると、

「一番、昨日の仇討を」

といって、もう、黒石の碁器を取った。

打ちはじめたところへ、マンが、茶を運んで入って来た。

「大石さん、毎日、お疲れさんで、……」

「ほんとに、くたびれます。選挙になると、いつも、二貫目ほど痩せますたい」

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん」

と、マンは、金五郎の方を向いた。

「あン？」

「今夜の演説会は、公会堂ね？」

「そうじゃ」

「あたしも、行ってみようか知らん？」

「お前はおれの演説なんて、聞かんでもええ。三十年近くもいっしょに暮して、おれの話なんて、聞き飽いちょろうが、……」

「ほんとに。それは、もう、お父さんのいうことは、聞かんでもわかっとる。そやけど、ちょっと、外に、用があるけん」

「どげな？」

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんの演説会のたんびに、欠かさんで、聞きに来る人があるそうね？」

「そりゃ、あるかも知れん」

「女の人で？」

「女？……女にゃあ、あるまい」

「逢うてみにゃわからんけど、たいそう<ruby><rb>小粋</rb><rt>こいき</rt></ruby>な別嬪さんとのこと。……その人、いつか、東京から、お父さんの財布を送りかえして来た、スリの女親分じゃないか知らん？……どうも、そんな気がするけんど、……」

大石が奇妙な顔をして、黒石をつまんだまま、

「へえエ？　ありゃあ、女スリですか？」

「ありゃあ――なんて、大石さん、あんたも、その女、気づいとったとですか」

金五郎は、すこしどぎまぎして、<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「気がついとりましたよ。初回のときは、別になんとも思わんじゃったけんど、あんまり、毎回じゃけ、<ruby><rb>鈍</rb><rt>どん</rt></ruby>なわたしも、変に思うて見るようになりました。聴衆が大勢のときには、どこに紛れこんどってもわからんけんど、小さい会場で、<ruby><rb>小人数</rb><rt>こにんず</rt></ruby>のときにゃ、あげな女は、じき目につく。それでも、なんか、玉井さんの眼には隠れるごとして、ショールで顔を埋めたり、戸口の廊下から、そっと覗いたりしとるとです。みんなと――あの女、なんじゃろうか？……ちゅうて、話しあうとったとですよ」

「ほうら、ごらん」と、マンが笑って、「気がつかんのは、お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんだけよ」

「そうですか」と、大石が、パチリと、一石、力をこめて、打ち下してから、「スリの女親分、……わたしゃ、また、芸者かなんかかと思うちょったけんど」

「女スリですよ。大石さん、うちのお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんも、ええとこがあるでしょう？　東京の女スリから惚れられて、一ぺんは<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>られた財布をかえして貰うて、おまけに、若松くんだりまでも、逢いに来られとる。あたしは、お父さんに惚れとるその女の人に、前から一ぺん逢うてみたいと考えとったもんじゃけ、今夜、公会堂に行ってみようと思います。きっと、今日も来るでしょうけん」

「そら、来るかも知れんけんど、……へえエ、そげなことですか」

大石鶴松は、くすぐったそうな顔つきで、夫婦間の<ruby><rb>雲行</rb><rt>くもゆき</rt></ruby>を偵察するように、金五郎とマンの顔を見くらべた。

金五郎は、酢を飲んだような顔をしている。

（女房の焼き餅が、妙なところへ、妙な風に、あらわれて来たわい）

勝則と<ruby><rb>投網</rb><rt>とあみ</rt></ruby>打ちに行った夜、お京の手紙を見られて以来、マンが、そのことについて、一口もいわないので、内心、気味が悪かった。兆候があんまりあらわれないので、或いは見なかったのか、とさえ考えることがあった。やっぱり、見ていた。それにしても、マンが、他人のいる前で、堂々と、宣言する意味がわかりかねる。二人で解決すればよい夫婦間の秘密を、どういうわけで、マンは、明かるみへ、公開するのであろうか。

（おかしな女じゃ）

しかし、マンの方にしてみれば、こういう問題は、夫婦だけで話しあえば、不必要に角が立って、陰惨になる危険がある。昔、染奴の書いた<ruby><rb>偽手紙</rb><rt>にせてがみ</rt></ruby>を読んだときは、逆上して飛びだしたけれども、マンも年をとって、思慮深くなっていた。七人の母親としても、軽挙は出来ない。同時に、夫に対する信頼感も変ってはいなかったので、お京の問題は、暗い場所に置かずに、明かるい舞台に出した方が、<ruby><rb>後味</rb><rt>あとあじ</rt></ruby>のよい、カラッとした解決が得られるのではないかと、考えていたのであった。

こみいったことは知らなかった大石鶴松は、マンの方を向いて、調停役を買って出た。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん、玉井さんは、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>と違うて、女のことはきれいなもんですばい。わたしが請けあう。それに、その女、いつも、男とつれだっとります。鳥打帽をかぶった、眼の鋭い、<ruby><rb>遊人体</rb><rt>あそびにんてい</rt></ruby>の大男です。きっと色男ですよ」

「大石さん、慰めて貰わんでもええとですよ」

マンは、笑った。そして、煙管を取ると、キザミをつめ、胸を張るようにして、深々と、一服、吸った。フウッと、やわらかく煙をはきだす口辺に、不思議な微笑がただよっている。

その夜、中立聯盟合同演説会が、公会堂において開かれた。

午後七時、定刻どおり、はじめられた。超満員である。

演壇の後の白壁に、ずらりと、スローガンや演題がならんでいる。

「若松のバイキン共を葬れ――原田雲井」、「自治の本義とは何ぞや――井上安五郎」、「市会を市民の手に――玉井金五郎」、「暗黒の中に灯を――中村勉」、「働く人々のための政治――玉井勝則」、その他。

原田雲井は雄弁である。日ごろは、袖口の切れた洋服に、切れかかったバンドをしめて、破れ靴をはいているけれども、演壇に立つと、実に堂々たるものだ。顔をつつむ髯も、布袋のような巨躯とともに、あたりを払う威風を示している。

「……民政党は、バイキンであります。バチルスであります。この愛すべきわれらの港若松を、バイキン暴力団共に荒らさせてはなりません。バイキン共は、十七匹、枕をならべて、出馬いたしましたが、ことごとく、一匹残らず、<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>をならべて、<ruby><rb>討死</rb><rt>うちじに</rt></ruby>させなければ、この若松に、いつまで経っても、市民の平和と幸福とは実現しないのであります」

「ヒヤヒヤ」

「仙人のいうとおり」

掛け声、拍手、笑声が走るかと思うと、

「バイキンはお前じゃあ」

と、弥次る者もある。

控室では、十四五人、雑談をしながら、弁士は出番を待っている。

すでに、表は真暗になっていた。窓の外に、夜風にゆらいでいるアカシアの葉が、電燈の光に照らしだされ、幻燈のようなあざやかに濃い<ruby><rb>緑</rb><rt>みどり</rt></ruby>を、浮きあがらせている。星が美しい。

（この樹の下で、この間、二十人もの抜刀隊に脅迫されたんじゃが、……）

金五郎はそれを思いだして、口中のざらつく思いを味わっていた。同時に、そのときの隊長、唐獅子の彫青を入れた、鳥打帽の男が、お京とつれだって、演説会場にあらわれている、ということを考えて、異様な昏迷をおぼえずには居られない。その男が般若の五郎の子供にちがいないことは、疑う余地がないと思われた。

（二人は、今夜も、きっと、聴衆のなかに、紛れこんどるに違わん）

それを考えて、妙な胸騒ぎを感じていると、

「玉井君、どうかしたかね？　なんだかそわそわしてるようだが、……」

と、井上安五郎にいわれた。

大石鶴松が、入って来た。

「玉井さん、南階段の柱のところに、立っとりますよ」

耳に口をつけて、ささやいた。

会場で、はげしい拍手が起った。

原田雲井が汗をふきながら、演壇から降りて来た。

「玉井さん、敵方の間者が、だいぶん入りこんどるごたるけ、注意したがよか」

そういう原田にうなずいて、演壇に上った。拍手。金五郎は、まず、コップの水を、一杯、飲んだ。いつもとちがって、なんだかすこし落ちつかない。軽い<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>さえ打っている。

若いころ、田舎を飛びだし、北九州に来て、沖仲仕をしながら、石炭によごれて働いていたときは、無学な自分が、洋服を着て、こんな高い演壇に立って、大勢の人の前で、えらそうに演説する羽目に立ちいたることなど、夢想だにしたことはなかった。われながら、変てこで仕方がないのである。それでも、持ちまえの糞度胸で、どうにかお茶をにごして来たのであった。

金五郎は、<ruby><rb>訥々</rb><rt>とつとつ</rt></ruby>とした語調で、話しはじめた。しかし、その眼は、ともすると、南階段の円柱のところへ吸いつけられた。そして、とちる。

お京の顔が、見えた。もう一人、その傍に、見たような顔――光丸の顔があった。

マンも、いた。

金五郎は、額に汗がにじんで来た。<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>の下からも、冷たい水が湧いて、気持わるく横腹を流れる。しきりに、水を飲んだ。

「……今までお話し申しあげましたように、万事、民政党のやり口というものは、<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>い。「人の法事で<ruby><rb>牛蒡</rb><rt>ごぼう</rt></ruby>をする」という<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>がありますが、……」

どッと、堂内をゆるがす笑声が起った。

金五郎はびっくりして、いいなおした。

「いや、まちがいました。――人の法事で牛蒡を……」

また、爆笑。

金五郎は立ち往生して、水を飲んだ。苦笑が止まらない。

（矢崎新兵衛の「枕をならべて、出馬」を笑えんじゃないか）

そう思いながら、今度はゆっくりと、

「人の、牛蒡で、法事をする――自分は手をよごさず、うまい汁を吸うのは、民政党の十八番であります」

「お前の十八番は、法事で牛蒡をすることじゃろ」

誰かが弥次って、また、ひとしきり、場内がどよめいた。

金五郎は、なおも、汗をふきふき、演説をつづけたが、ときどき、南階段の方へ投げる<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>に、マンが、お京の方へ寄って行くのが見えた。マンが呼びかけたらしく、お京がふりむいて、なにか、答えている。無論、遠い演壇からでは、なにを話しているかはわからない。

やがて、二人はつれだって、出て行った。

その後から、鳥打帽の巨漢が、追うように、姿を消した。

光丸だけが残っている。

（妙な具合になって来たわい）

しかし、こうなったら、成行に委せるほかはない。金五郎は糞度胸をきめた。すると、かえって、落ちついて来て、その後は、演説ぶりが調子よく、いつになく<ruby><rb>上出来</rb><rt>じょうでき</rt></ruby>で、

「……来る三十一日の投票日には、みなさんの貴重な一票を、ぜひとも、正義の党たる中立聯盟の同志に、御投与下さいますよう、お願い申します」

と、結ぶことが出来た。

拍手を浴びて、控室に帰って来ると、原田雲井が、

「どげんしなさったな？　出だしと結びとが、大層なこと差があったが。前半は丙で、後半は甲ノ上たい」

そんなことをいって、笑った。

（勝則も、演壇から、光丸の顔を見たら、おれのように、とちるかも知れん）

卓のうえに原稿をのせて、目読している息子を見て、金五郎は、意地のわるいことを考えていた。

中村勉が、演壇に、出て行った。築港会社の社員で、二十七歳。角ばった精悍な顔に、はちきれそうな闘志をみなぎらせている。

控室の裏手の入口から、セルの着流しの男が、ぶらりと入って来た。

「オヤジ、お疲れさん」

「こりゃあ、時やん、若松に来とったな？」

「二三日前から。今度の選挙はどうも大変らしゅうて、オヤジも危いと聞いたもんじゃけ、心配で出て来ました。こんなわたしでも、動けば何票かの加勢は出来ますけ」

「そら、おおきに」

大川時次郎は、現在、<ruby><rb>直方市</rb><rt>のおがたし</rt></ruby>に住んでいる。小さい炭坑を経営していた。

二十五年も前、家出したマンを呼び戻しに行くといって出た時次郎は、広島には帰らず、反対の方角、筑豊の炭坑に行って、坑夫になった。出発したときには、そんなつもりは毛頭なかったのに、下関から、山陽線に乗る段になって気が変ったのである。マンを呼び返すことよりも、マンに逢うのが怖くなったのだ。時次郎は、金五郎に対する信頼と、マンへの思慕と、自分の立場とに苦しんだ。そうして、一人決心をして、故郷へ帰るのをやめ、炭坑へ新しい人生を求めたのであった。

そして、幾年が過ぎた。誠実で勤勉な人柄が認められ、努力の結果、小坑主となることが出来たのである。

二三年前から、ふたたび、玉井家に顔を出すようになっていた。

マンは、女とともに、公会堂を出ると、玄関脇にある大きな石碑の前まで来て、立ちどまった。

（さて、どこに行ったものか知らん？）

と、思案した。

すこし当てが外れたので、予定の作戦が狂ったのである。

昼間、選挙事務長の大石鶴松を<ruby><rb>立会人</rb><rt>たちあいにん</rt></ruby>にして、夫に、お京と面会することを宣言したときには、女に逢ってからのことを、いろいろと思いめぐらしていた。決闘するつもりなどは、無論、なかったけれども、いいたいことがなかったわけではない。同時に、心の奥底で、女というものが男へ抱く一つの感情、理窟や、世間の習俗には合わぬ、愛情というものの不思議な深さと、悲しさ、夫金五郎への献身――お京の、そういうものを考えて、淡い同感と、感謝とでもいえる気持も抱いていたのであった。

（ぜひ、そのお京という女の人に、逢うてみたい）

その願望は、普通の意味の、恋敵、嫉妬、復讐、という感情とは、はるかにかけ離れた、女同士の心の秘密、心の<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>をさぐりあてる純粋な動機に、いつか、変っていたといってよい。

（どんな女じゃろうか？）

好奇心も、湧く。

ところが、その宿題を果す日が来たと思ったのに、奇妙な肩すかしを食わされた。

「あの女ですばい」

演説会場で、大石に教えられ、南階段の円柱にもたれている女を見たとき、不審の眉を寄せた。<ruby><rb>鬘下</rb><rt>かつらした</rt></ruby>の頭で、<ruby><rb>元禄模様</rb><rt>げんろくもよう</rt></ruby>の着物を着た女は、演壇の金五郎を、またたきもせずに、見つめている。その<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>な姿が、若々しく、美しい。マンは、狐につままれたような気持だった。

（こんなに、若いはずはないが、……）

お京の手紙には、二十五年前のことが書かれてあったのに、眼前の女は、どう見ても、まだ、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>をいくつか過ぎたばかりとしか思われない。いくら年をとらないといっても、不老長寿の魔法を知らぬかぎり、あり得ぬことである。

（人ちがいやわ）

一度はそう思って、がっかりした。が、思いきって、声をかけてみた。

「もしもし」

「あたしですの？」

と、女はふりむいた。

「東京から、おいでになった方ですね？」

「あい」

「お京さん？」

女は、ちょっと、ためらう表情を示したが、臆せず、妖しい微笑を浮かべて、

「そうです」

「あたし、玉井マンです。ちょっと、あなたに、――」

演壇では、金五郎が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんちんかん</span>なことばかりいって、笑われている。しきりに、汗をふいたり、やたらに、水を飲んだりしている。

「外に出るんですの？」

「そこまで」

そうして、二人は演説会場を出たのであった。

出るとき、女はすこし離れたところにいた光丸に、眼でさよならをした。二人は「夕立」をいっしょに踊った仲で、それ以来、急速に、親しくなっているようだった。光丸も、会釈をかえしたが、マンと視線が逢うと、ふっと、眼を伏せた。

「あっちへ、行きましょう」

マンは、公会堂の裏に出て、<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>神社の方へ、女をみちびいた。

女は、おとなしく、ついて来る。

<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>の大榎の根元に、長いベンチがある。それに、マンが黙って腰かけると、女も、無言で、左手に、坐った。夜風がひいやりとする。すぐ前に、池があって、中心の<ruby><rb>石亀</rb><rt>いしがめ</rt></ruby>が、口から噴水を高くふきあげている。それが霧になって散り、暗い社燈にきらめきながら、雨のような音を立てて、水面に落ちる。鯉がたくさんいるらしく、水の落ちるところで、ときどきはねる。

二人とも、それを眺めて、暫時、沈黙していたが、マンの方から、口を切った。

「お京さん」

女は返事をしない。<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で、口をおさえ、笑いを噛み殺している。

「お京さん」

と、もう一度、呼んだ。

「いいえ、あたし、お京ではありませんわ」

女は、そういって、マンの方を向いた。<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な顔になっている。美しい<ruby><rb>瓜実顔</rb><rt>うりざねがお</rt></ruby>が正面になって、かすかな社燈の光に浮き出たとき、マンは、あッと、思いだした。舞台で遠くから見たのと、すぐ傍で見るのとでは、感じがちがうけれども、温習会の夜、「夕立」を、光丸と踊った芸者にちがいなかった。先刻から、はぐらかされてばかりいるのがおかしくなって、

「ああ、あなた、妻太郎さんなのね」

と、なにか軽い気持になって、いった。

「いいえ、ちがいます」

女の顔に、また、妖しい微笑が浮かんだ。

「そんなら、どなた？」

マンは、狐につままれた面持である。

「お京は、あたしの母です。あたしは、<ruby><rb>葉子</rb><rt>ようこ</rt></ruby>と申します」

「お京さんの娘さん？……」

マンは、おどろいて、相手の顔を見なおした。

「十郎さん」

葉子はふりかえって、<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>に向かって、声をかけた。

「なんだい？　お葉さん」

その声と同時に、大榎のかげから、懐手をした鳥打帽の巨漢があらわれた。

「もう、ここは、いいわ」

「そうかい。そんなら、会場の方に行ってるから……」

「抜からないでね」

「心配しなさんな」

男は雪駄の音を急がせて、池にかけられた石橋を渡って行った。また、公会堂に行くらしい。

「あれは、どなた？」

「用心棒です」

「あなたの？」

「いいえ、あなたの旦那さまの」

マンは、わけがわからないので、ちょっと、言葉が出なかった。

お葉は、マンのきょとんとした顔つきを見て、面白そうに、ころころと笑いながら、

「この間は、十郎さんが、二十人もの<ruby><rb>遊人</rb><rt>あそびにん</rt></ruby>を雇って、玉井さんを脅迫しましたのよ。御存じ？」

「ああ、公会堂の裏ででしょう？」

「ええ」

「みんな、日本刀を抜いて……」

「ええ」

「そのことは、うちの人から聞きましたわ。まあ、そうですか。吉田一派の者とばっかり、思うとったのに。でも、おかしいわねえ。うちの人を脅迫したり、用心棒になって守ったり、……」

「みんな、母のいいつけです」

「お京さんの？……」

「母は、東京にいますけれども、母の心は、若松に来て居ります。あたしは、その母の身代りですの」

「もっと、詳しく話して下さい」

マンは切迫した顔になって、膝を進めた。

大榎の梢で、<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>が鳴いている。遠く、<ruby><rb>武徳殿</rb><rt>ぶとくでん</rt></ruby>の建物に<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>かくれて、公会堂が見える。聴衆で埋められている二階の演説会場からときどき、拍手や、笑声、喧号のどよめきが伝わって来る。

その方に、視線を投げて、お葉は、ひとりごとのように、語りだした。

「母は、自慢の出来る女ではありません。若いころから、女だてらに、バクチ打ちの仲間に加わって、旅から旅を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っていました。北は北海道から、南は九州の果てまで。それこそ、全国を股にかけていたわけです。そして、田舎の素人衆を相手に、イカサマをやって、お金を巻きあげていたのです。母は、「蝶々牡丹のお京」などと呼ばれて、命がけの鉄火の世界で、<ruby><rb>姐御分</rb><rt>あねごぶん</rt></ruby>として通るようになっていたそうですから、腕も、度胸も、男まさりだったのでしょう。その母に、いつも、くっついていたのが、般若の五郎という三ン下、さっきの鳥打帽の男、<ruby><rb>唐獅子</rb><rt>からじし</rt></ruby>の十郎さんの親父です」

「うちの人と、はじめは、どこで逢うたとか知らん？」

「<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の温泉です」

「いつごろ？」

「そうですね」と、お葉は、両手の花車な指を、一本ずつ折って、「二十七八年も昔、明治でいったら、三十五年の秋になります」

「明治三十五年？　まちがいありませんか」

「まちがいありません。母のことは、あたしのこと――いえ、自分のことよりも、はっきり、憶えていますわ」

「すると」マンは、胸がどきついて、「わたしと夫婦になる前、いや、知りあう前に、お京さんとはもう逢うとったわけね」

「そうです。そのとき、はじめて、母は、玉井さんを知ったのです。でも、そのときは、湯ノ町の賭場に、まだ若かった玉井さんが、般若の五郎さんに誘われて、気まぐれに顔を出しなさっただけの話。なんだか初めてらしくて、<ruby><rb>賽</rb><rt>さい</rt></ruby>の目も、張りかたも、よく知らなかったそうですが、<ruby><rb>半方</rb><rt>はんかた</rt></ruby>の<ruby><rb>定張</rb><rt>じょうば</rt></ruby>りで、一度もくずれず、勝ちっぱなし、玄人連の度胆を抜いたといいます。それが母の印象に残ったようです。玉井さんの方も、田舎に珍しい、伝法な、……そういっては、なんですが、……ふりかえってもみたいほどの母の美しさに、ちょっと、気を惹かれていたらしいとのことです。……でも、そのとき一度きりで別れてしまえば、なんでもなかったわけでしょう。母とて、そのときは、格別、玉井さんに惚れたというほどでもなかったらしいですから」

「その次逢うたのは、いつか知らん？」

「三年経ってから、明治三十八年四月です」

「ちょっと待って下さい」今度は、マンが、若いころの苦労の名残りをとどめている、節くれだった指を折ってから、「それは、うちの人が、聯合組の遠足で、二日市の武蔵温泉に行った月じゃが、……」

「そうです。その武蔵温泉で、母が、玉井さんに、二度目に逢ったのです」

「また、バクチ場で？」

「ええ。母の一行が、田舎のカモを狙って、泊っていた筑紫館に、聯合組の人たちも同宿しました。そこで、母と玉井さんは三年ぶりで<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>したわけですが、その夜、鉄火場で、或る事件が起りました。もっとも、大変な事件になるところを、玉井さんのおかげで、母が救われたのです」

「どんなこと？」

「母の振っていた壺笊のインチキを、玉井さんが見つけたのです。でも、そっと注意をしてくれたので、母は恥をかかずにすみました。そのことが縁で、玉井さんの肌に、彫青をすることになったわけです」

「彫青？」

マンは、仰天した。

お葉は、マンの気持など、そっちのけで、どこか楽しげな口調である。両手で膝をかかえ、視線は、公会堂から<ruby><rb>泉水</rb><rt>せんすい</rt></ruby>のうえに散る水しぶきの方に落したまま、なお、ひとりごとのように、

「さっきから申しあげましたように、母はすこしも自慢するところのない女です。けれども、あたしが母を褒めたいと思いますのは、母の玉井さんに対する<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>の心、……あんなにも、女が、一人の男に打ちこめるものかと、若いあたしは、母を学びたい心が湧いたほどでした。いえ、学ぶどころか、それだからこそ、あたしが、母の身代りになって、若松に参りましたのですけど、……」

「身代りといいますと？」

「玉井さんに、お目にかかりに」

「うちの人に逢って、どうなさるおつもり？」

「ただ、お逢いすればよろしいのですわ」

お葉は、なにもかも打ち明けているようで、このとき、もっとも重大な一点を隠していた。

社燈のうす明かりに浮き出ているお葉の顔には、よくも、こんなに、母の血と心とを受けついだものと怪しまれるほど、妖艶で、凄味のある仇っぽさがにじみ出ている。その、燐光のような青さを放つ瞳の奥には、狂気に近いものがひらめいていた。それは、一種のたけだけしさで、世俗をも常識をも、倫理をもはねとばして、女の愛の権利を主張する妖気といってよかった。

金五郎が、お葉をお京と思いこんでしまったのも、無理はない。近々にあらわれる、という前ぶれの直後、「夕立」の舞台と、火事場と、演説会場と、三度とも、遠目に見たのでは、母と瓜二つのお葉を、お京とばかり信じたのは当然であった。君香まで一役買って、原田雲井邸からの帰途、お葉のことを、お京として、話したことも一因といえよう。

マンは、息をのむようにして、

「うちの人の彫青は、お母さんが彫ったというのは、ほんとうですか？」

「御存じありませんでしたの？」

「今、はじめて聞くことです」

「おや、玉井さんは、それを隠していなさったのね。二十五年間も、よく、まあ……」

そういうお葉の眼に、一瞬、また、新しく、なにかの怪しい光が、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>に、ひらめいて、すぐ消えた。会心に似たほくそ笑みも、ちらと浮かんだ。

マンは錯乱し、心中の動揺とはげしくたたかいながら、ただ、お葉の顔を見つめていた。

（二十五年もの嘘……）

凝結する思いである。

お京の手紙が思いだされた。その一節にあった言葉――「あたしはおマンさんには負けたと思っていましたけれども、ひょっとしたら、勝っているところがあるのかも知れないと考えるようになりました」

（この彫青の秘密のことか知らん？）

マンは、口がきけなくなった。

「玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん」呼びかけても、返事のないのはかまわずに、「でも、母はあなたに負けました。玉井さんの美しい白い左腕に、昇り龍を彫りはしましたけれども、肱鉄を食わされて逃げられました。母が精魂こめたその彫青さえ、龍の肢には、菊の花をつかませる始末です。その菊は、あなたを思いだしてのことと、母は後になって悟ったそうです。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん、御安心下さい。玉井さんと母とは、なんの<ruby><rb>疚</rb><rt>やま</rt></ruby>しい関係もありませんわ。その後も、若松まで、芸者になって追っかけて行きましたけれども、徹底的に振られました。そして、玉井さんが、大嵐の晩、<ruby><rb>角助</rb><rt>かくすけ</rt></ruby>の一味に斬られて、大怪我をなさったとき、あきらめて、東京へ帰って来たのです」

お葉は、ちょっと、口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ。袂から、塵紙を出して、<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をかんだ。

マンは、お葉が泣いているのではないかと思ったが、相手の感傷に釣られてはならぬ、と、気持を堅くし、さらに、お葉の言動に注意した。しかし、そのマンの方に、一つの感傷があった。

（うちの人が斬られて、生死の巷をさまよっていたとき、あたしは、毎朝、この蛭子神社に日参したのじゃが、お京さんも、同じように、一心こめて、「お百度」踏みに来とったんやわ）

<ruby><rb>横恋慕</rb><rt>よこれんぼ</rt></ruby>をしていた、腹の立つお京とはいえ、そういう、女としての愛情の真実さには、マンも、心の奥底で同感をおぼえている。そして、長い年月が経ってみると、感謝に似た気持にさえなっているのだった。

<ruby><rb>蛍</rb><rt>ほたる</rt></ruby>が一匹、噴水の霧を横ぎるようにして、大榎の梢たかく、消えた。

「母は」と、お葉は、また、つづけた。「それから、出たらめになりました。酒、バクチ、カッパライ、喧嘩、そして、男。……母の男狂いをいうことはつらいのですけれども、母は、まるで、<ruby><rb>俄盲目</rb><rt>にわかめくら</rt></ruby>にでもなったように、相手かまわず、どんな男とでも関係を結んで、<ruby><rb>放埒三昧</rb><rt>ほうらつざんまい</rt></ruby>という体たらくになりました。いちどきに、何人の男があったか、それは、もう、滅茶苦茶といった方が早いかも知れませんわ。そうして、あたしが生まれましたのですが、……悲しく恥かしいことですけれども、申しあげましょう。……あたしは、誰の子供なのか、わからないのです。わかっていますのは、お京が母ということだけ、父親の見当もつきませんの」

お葉は、そこで、言葉を切ると、自嘲するような笑みをたたえて、また、噴水のうえにあらわれた一匹の蛍に、<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>を投げた。すると、その蛍を隊長のようにして、次々に、蛍が飛んで来て、池のうえ一面に、きらめく光の粉をまいた。

マンは、蛍よりも、息をのむ思いで、お葉の美しい横顔を見つめていた。

（うちの人が、お京さんの一生を台なしにしたらしい）

異様な気持である。

「玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さん、母は、こんなに、なんでもかんでも、やりッ放しでしたけれども、一つだけ、ふっつりと、止めたことがあるんですの。それは、彫青です。女<ruby><rb>彫青師</rb><rt>ほりものし</rt></ruby>として、母は、名の知れた男の名人たちからも、腕のよさを高く買われていましたのに、東京に帰ってから、今日まで、一度も、筆と針とを手にしません。おわかり下さるでしょう？　玉井さんの左腕に残した昇り龍を、最後にしたわけです」

マンは、返事が出ない。

「先月、玉井さんは上京されました。そのとき、偶然にも、般若の五郎さんが、東京駅で、玉井さんの財布を抜きました。それで、母と、久しぶりに、奇妙な連絡がついたという次第です。ほんとに、二十五年ぶり、あたしが、今年、二十三になります。母は、放埒むざんが<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>って、いろいろと悪い病気を起し、寝こんで居ります。般若の五郎さんが、玉井さんを浅草におびきだし、与太者たちを集めて、身ぐるみ<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いだうえ、瓢箪池に<ruby><rb>投</rb><rt>ほ</rt></ruby>りこもうとしたのも、玉井さんが、母を苦しめた仇討をするつもりだったのでしょう。そのとき、先刻の唐獅子の十郎さんも、その中にいました。でも、母は玉井さんを恨んではいません。そして、今度、あたしたちを、若松に派遣したのです」

「すこし、わかりました」

と、マンは、ためいきをつくような語調でいった。

このとき、公会堂の演説会場で、にわかに、騒ぎが持ちあがった。すさまじい怒号の声とともに、聴衆が総立ちになるのが見えた。窓ガラスが、四五枚、割れて飛んだ。

数日が過ぎた。

若松の裏海岸、港とは反対の<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>の外れに、<ruby><rb>白鳥</rb><rt>しらとり</rt></ruby>温泉がある。温泉といっても、ほんのちょっぴり硫黄分のある<ruby><rb>湧水</rb><rt>ゆうすい</rt></ruby>を、<ruby><rb>沸</rb><rt>わ</rt></ruby>かしているだけだ。温泉宿も一軒きり、古ぼけた二階家を青ペンキで塗ってある。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて取り柄をいえば、<ruby><rb>縹渺</rb><rt>ひょうびょう</rt></ruby>たる<ruby><rb>響灘</rb><rt>ひびきなだ</rt></ruby>を望む景色のよさと、魚の新しさくらいのものであろう。その温泉宿「かもめ館」の二階に、湯上り姿で、寝そべっている二人の男女――唐獅子の十郎と、お葉とが、一杯きげんで、話をしている。

五月の空は深く澄みきって、渚にうちよせる波のひびきが、紺青空の天をふるわせているようだ。潮と<ruby><rb>海苔</rb><rt>のり</rt></ruby>の強烈な香が、北風に乗って、窓から吹きこむ。沖には、たくさんの漁船が出ている。

「若松というところは、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>のおふくろから聞いてたよりも、もっと、ひでえ街だなあ」

十郎は、ガラスの<ruby><rb>欠片</rb><rt>かけら</rt></ruby>で、額に出来た傷に、絆創膏を貼っている。

「おッ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんが、心配するはずでしょう？」

「まったくだ。よくも、玉井金五郎てえ男が、今日まで命があったものよ」

「友田喜造が――玉井がこんなに大きくならん前に、かたづけとくんだった。……なんて、口惜しがってるとさ。ここまで、玉井組が根を張ったんじゃあ、いくら、吉田一派だって、うっかりしたことも出来まいからね」

「それで、お葉さん、玉井のおかみさんと会談した首尾は？」

「あたしも、正直、おどろいたよ。公会堂で、いきなり、声をかけられたときにはね。でも、糞度胸を定めて逢ったさ。なにもかも、話してやった――ふウン、これが、おッ母さんの恋敵か？　この女から、おッ母さんが<ruby><rb>敗</rb><rt>ま</rt></ruby>けたのか？……そう思うと、あたしは、一層、決心が堅まったよ」

「ヘッ、どうも、お前という女は、<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せねえよ。お京さんが、<ruby><rb>若</rb><rt>わけ</rt></ruby>えころは、おれの親父を悩ましたというが、お前も、まったく、おれを悩ます。わからねえ。身体つきも、眼つきも、色気たっぷりと来てやがる癖に、まだ男を知らねえ<ruby><rb>処女</rb><rt>きむすめ</rt></ruby>なんて、誰だって思う者はねえぜ」

「あたしは、おッ母さんを見てて、男というものが<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>くなったのさ。いや、女というものが、といった方がいいかな？……女は哀れなものだよ。だから、あたしは大事を踏んでるんだ。柄に似あわないといわれたってね」

お葉は、煙草をふかしながら、夢見るような瞳になって、沖の漁船が、魚のはねる網を引きあげるのを眺めている。その青味がかった瞳は、

（玉井金五郎さんを、あの魚のように、きっと、あたしの網のなかに入れてみせる。おッ母さんは、網から逃がしてしまったけど、……）

妖しい光をただよわせて、はっきりと、そのことを語っているようだった。

十郎のいらいらした表情には、なにかの耐えがたい感情を、歯をくいしばっておさえている、苦渋のいろが読みとれる。

お葉は、うっとりとした<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、海を見ながら、ひとりごとのように、

「きっと、おッ母さんの命令を果してみせるわ。いや、もう、あたしは、身も、心も、おッ母さんになりきってるの。玉井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごりょん</span>さんには、一番大事なことは話さなかった。誰が話すもんか。あたしには、自信がある。おッ母さんは、あたしに、二つの命令を降した。一つの方は、駄目かも知れない――右腕にも、降り龍を彫る約束がしてあるから、お前が約束を果しておいで。……おッ母さんは、そういったけれど、どうだか？……でも、もう一つの方は、……きっと、きっと、……」

狂気に近い妄執を、その眼に燃やしている女を、十郎はあきれた顔つきで見た。

「お葉さん、お前、本気で、玉井金五郎の子を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>む気かい？」

「本気でなくってさ」

「おどろいたもんだなあ。親子二代の横恋慕かい。惚れるなら、若い方にしたら、どうだね？　息子の勝則に、……」

「なにいってんのさ。嫌なこったよ。あたしの目標は玉井金五郎、ただ一人よ。おッ母さんが、あたしに乗りうつってるんだ。それに、十郎さん、息子の方は、もう、ちゃんと出来てる女がある。あたしと「夕立」を踊った光丸さんという芸者」

「へえエ、もう、そんなことまで調べあげたのかい？」

「<ruby><rb>蛇</rb><rt>じゃ</rt></ruby>の道は<ruby><rb>蛇</rb><rt>へび</rt></ruby>さ。それに、あたし、光丸さんと踊りながら、あの<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>が、妊娠してることに気づいたよ。踊るのが苦しそうだったし、肩で息ばかりしてたわ。おまけに、幕が閉まったら、楽屋で倒れてしまって、ゲエゲエ、あげてた。きっと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つわり</span>よ。でも、二人の仲、どっちの親も反対してるらしいの。……十郎さん、金五郎さんだけではなくて、勝則さんの方にも、ひと肌ぬいではどうだね？」

「冗談は<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>してくれ。そうは手が廻らねえや。それでなくても、こんなお役目、ごめん蒙りてえところだ。<ruby><rb>因果</rb><rt>いんが</rt></ruby>な役を引きうけたよ。お京さんと、親父とから頭を下げられたんじゃあ、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にも引けねえからな」

「そのかわり、ちゃんと、日当になったじゃあないか」

「ヘン、金なんて、おりゃあ、欲しくもねえや」

「お前さんが、脅迫したり、守ったりするのを、玉井さんがたいそう不思議がってたってさ」

「もう、芝居は嫌になったよ」

外見では、二人は、仲のよい、温泉宿のつれこみ客のように見える。けれども、根本のところで、まるで食いちがったしっくりしないものがあった。

先夜、十郎が、二十人もの抜刀隊を率いて、金五郎を脅迫したのは、友田喜造から依頼されたためである。もっとも、最初は、十郎の方から売りこんだといってもよいかも知れない。若松にやって来ると、すぐ、十郎は、友田一派の鉄火場に、顔を出した。この土地は<ruby><rb>初</rb><rt>はつ</rt></ruby>の<ruby><rb>旅人</rb><rt>たびにん</rt></ruby>、しかも、関東生粋のしたたか者――そういう<ruby><rb>面通</rb><rt>めんどお</rt></ruby>しを、凄味たっぷりで<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かせて、玉井金五郎脅迫を買って出た。金儲けと同時に、玉井金五郎という男を<ruby><rb>験</rb><rt>ため</rt></ruby>す、少からぬ好奇心もあった。そうして、あの、公会堂裏の道化芝居になったのである。

もともと、唐獅子の十郎は、お葉と旅に出ることに、はげしいよろこびと、異様な興奮とを感じていた。その切ない気持が、今、二人だけいる温泉宿で、爆発しそうになる。それを、唇をかんで、こらえていた。しかし、その忍耐にも限度が来た。

お葉が、横坐りになろうとして、畳についた花車な左手が、寝そべっていた十郎の鼻先に来たとき、我慢しきれなくなって、その手をつかんだ。

「お葉さん、これ以上、おれを苦しめてくれるな」

「なにをいってるのさ」と、お葉は、邪慳に、十郎の手をふり払った。「恐しいことはおやめよ。あたしとお前さんとは、<ruby><rb>兄弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>かも知れないんだよ。般若の五郎さんは、おッ母さんの亭主じゃあないけれど、亭主みたようなときもあったんだ。あたしがお前さんのお父ッあんの<ruby><rb>胤</rb><rt>たね</rt></ruby>でないとは、誰も保証できないじゃないか。<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>になるのは、いやさ」

「お客さん、若松行の馬車が参りましたよ」

表で、ラッパの音と、馬のいななく音とが聞えた。

  


## 宿命

街中を、自転車の群が縦横無尽に飛びまわる。そのどれにも、白鉢巻、<ruby><rb>白襷</rb><rt>しろだすき</rt></ruby>の青年が乗り、後尾には、候補者の名を書いた旗を立てている。ハンドルには、号外の<ruby><rb>振鈴</rb><rt>りん</rt></ruby>のようなものを、幾つも束にしてくくりつけているので、チリン、チリン、ジャラン、ジャラン、と、やかましい。

「もう、矢崎新兵衛さんは、当選に定まったわい」

街の人たちは、頻繁に、景気よく走る候補者の伝令や、その顔色を見て、状況判断をする。

「矢崎さんだけじゃない。民政党は、枕をならべて、当選のごとあるのう」

「やっぱり、吉田天皇のお膝元、民政党の金城湯池じゃ。争われんもんたい」

「政友会は、最長老の<ruby><rb>大貝潜太郎</rb><rt>おおがいせんたろう</rt></ruby>さんが、危かばい」

「そういやあ、中立団も、総帥の井上さんや、玉井さんの票の出が、馬鹿に悪いじゃないか。どげしたじゃろか？」

「可哀そうに、原田雲井はまた落選たい。中村勉も、むつかしいわい」

街は、下馬評で湧き立つ。

開票場である公会堂は、<ruby><rb>坩堝</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>のたぎる喧噪に包まれている。二階の講堂の中央で、一票ずつ開かれ、読みあげられているが、そのたびに、拍手や<ruby><rb>喊声</rb><rt>かんせい</rt></ruby>がおこる。赤煉瓦づくりの公会堂のまわりには、数十の机がそれぞれの位置に据えられ、得票の知らせを待っている。二階の窓から、針金が斜に机のところまで掛けわたしてあって、票の出るたび、その候補者の開票立会人が、紙挟みに票数を書いた紙をくくりつけ、スルスルと、下におろす。

「そら、三票じゃ。飛べ」

その声で、勇ましい伝令が、選挙事務所まで、全速力で、自転車を走らせる。

「形勢は、どぎゃんですか」

政友会の機関紙「九州民報」の記者、高野貞三が、「玉井金五郎」と張りだしのしてある机のところへ、寄って来てのぞきこんだ。三十歳くらい、色の浅黒い、額の生え際が、<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>のように、頭部の中央に食いこんでいる、眼のぎょろぎょろした熊本弁まるだしの男である。

「どうも、変ですよ」

玉井組一号のボーシン、中山弥志馬が、仏頂面で答える。精悍な顔の労働者である。

七八人いる運動員や、子分連中もしょげかえって、あまり口をきこうとしない。白鉢巻、白襷の伝令隊も、手持ち不沙汰というよりも、はがゆそうな情なそうな顔で、しょんぼりしている。次々に票が降りて来て、景気よく走りだす他候補の伝令を、いまいましげに眺めて舌打ちする。口を尖らしてささやきあう。

「友田喜造の奴、もう、二四〇票も出やがった。誰があげな奴に入れるとか？」

「あいつの運動員が、報徳銀行で、手の切れそうな一円札を、三千円も両替えしよったちゅうぞ。それでのうて、あげな鬼のような奴が、あれだけ票の出るわけがあるもんか」

「淫売屋の青河は、自分の店のエロ切符を配ったちゅうばい」

「中山さん、玉井さんは何票出ましたか？」

と、高野がきいた。

「まあだ、九二票です。七〇票くらいまで、バタバタ出たとに、そこからすぱッと止まりました。……こげな筈はないとじゃが、……？」

<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の方はひとりごとになって、小首を傾けた。

「こら大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>たい。井上安五郎さんも、まだ八〇票代じゃ。ゴロゴロを落せ――ちゅう、敵の作戦に引っかかってしもうた。政友会も、大貝、児島、などという大物ば落した。選挙ちゅうもんな、わからんもんじゃなあ」

町のいたるところに、速報板がかかげられ、刻々の票数が書きだされる。

明治町の角にある速報板の前で、原田雲井が演説をしている。

「今度の選挙は、やりなおし。こんな不正な選挙で当選した者が、市民の選良といえるか。民政党候補の票は、全部、無効じゃ。神に恥じざる票が、一票でもあるか。市民諸君、原田は情ない。諸君は、いつまで、この若松を、愛するわが郷土を、暗黒のままで、置いておくというのか」

「泣き言いうな。見苦しいど」

群衆の中からどなる者があって、どッと、笑い声が起った。

「原田は、一個人のことをいうとるとじゃない。原田<ruby><rb>一人</rb><rt>いちにん</rt></ruby>の落選など、問題じゃなか。社会正義の立場から、諸君に訴えとるとじゃ。諸君は、今回も、また、みずからの墓穴を、みずからの手で掘ったぞ」

鬚に埋められた原田雲井の顔は、苦渋に歪み、眼鏡の下の細い眼には、きらきらと光っているものがある。うすい星のある左眼から、水がツツウと頬を流れ落ちて、顎髯のジャングルに吸いこまれた。

「原田先生」

と、群衆をかきわけて、「猫婆さん」があらわれた。絶叫している巨漢の背中を、力まかせに、たたいた。<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>ったといった方がよい。

原田は、びっくりして、突然、ゼンマイの切れた時計のように、鳴りやんだ。

「ドテラ婆か？　たまげるじゃないか」

「涙を拭きなさいよ」川野ノブは、煮しめたような醤油色の手拭で、原田の頬と眼とをぬぐってやってから、「おれだって口惜しいよ。おれの応援した人は、みんな落ちたよ。若松という街は、こげなところさね。じゃが、原田先生――敗軍の将、兵を語らず。……なんにもいわんで、「六ゾロ」にでも行って、一杯、ひっかけるとしまッしょ」

「それがええ。それがええ」

誰かがそういったので、また、群衆は<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>でどよめいた。

「ドテラ婆、まだ、戦いはすまん。大事な戦闘中に飲むのは、<ruby><rb>武士</rb><rt>もののふ</rt></ruby>のすることじゃなか。わしが落ちたことはあきらめる。大将のことが気がかりじゃ。玉井さんのところへ、行ってみよう」

「そんなら、おれもお伴しよう」

どちらも、並はずれた巨躯の男と女とが、肩をならべて去って行く後姿に、街の人々は、さらに、ひとしきり、笑いさざめいた。たしかに、<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>な姿である。

しかし、中には、同情者があって、

「そんなに、人を嘲るもんじゃないよ。天に<ruby><rb>唾</rb><rt>つばき</rt></ruby>して、自分で自分の顔を、汚すことになるかも知れんけんな」

と、思慮深い語調で、無責任な群集をたしなめていた。

原田とノブとが、「<ruby><rb>三福湯</rb><rt>さんぷくゆ</rt></ruby>」の角まで来ると、三々五々、玉井家から、運動員が出て行く。或る者は、ひそひそと語りあい、或る者は沈黙し、こそこそと、逃げるように、散る。原田雲井を見ると、顔をそむけて、走りだす者さえあった。

「ノロ甚」の豆腐屋の表に、白い雪塊のようなものが飛んでいる。甚七が、片はしから、店の豆腐を道路に投げすてているのだった。

「オヤジが落選して、なんの、豆腐なんか、要るもんか」

酒に酔った顔で泣きじゃくりながら、狂人のように、豆腐をすてる。

「おいおい、甚七さん、豆腐には罪はなか。無茶ば止めなさい」

「なにぬかすか。お前らがオヤジを落したんじゃないか。これでも、食ろちょけ」

甚七は、一個の豆腐をつかむと、原田の顔をめがけて、投げた。<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>したので、背後の塀にあたって、真白くはじけた。

玄関を入ると、かん高い大石鶴松の、憤りにふるえる声が聞えて来た。

「だから、わたしがいわんこッちゃあなかったのに……」

「まあ、待ちなさい。最後の一票まで開いてみんことにゃあ、わからん」

そういっている金五郎の落ちついた声が、つづいて、聞えた。

原田雲井と、猫婆さんとが入って行くと、事務室の中は、がらんとしている。今朝の開票時から、七〇票くらいまで出たときには、足の踏み場もないほど、人間で埋まっていた。そして、がやがやと賑やかだったのに、いま残っているのは、七八人、それも、元気のない顔で、誰も口をきかない。選挙事務長の大石が、金五郎の前に正坐して、悲憤の面持で、膝詰めしているだけだ。原田の顔を見ると、さらに、勢を得たように、

「なあ、原田先生、玉井さんは、まだわからん、て、いわっしゃるけんど、あげな風じゃあ」と、壁にはりだしてある得点表を、右手で示して、「山が動いたって、引っくりかえしは出来んでしょうが？」

「そうたいなあ」

原田も同感だったので、そう答えて、壁の方へ歩いて行った。立ちはだかり、睨みすえるようにして、<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>を見た。

四十五人の候補者名のうえに、刻々に報じられる票数が、赤インキで書きこまれてある。青インキで、「<ruby><rb>確</rb><rt>かく</rt></ruby>」と、大きく、帽子のように、上部に一字あるのは、当選確実者だ。最高点は、矢崎新兵衛、二七四票、その他、民政党連中は、ほとんどが、「確」の冠をかぶっている。最低点は、中立の井上英一、二五票。その次が、原田雲井で、四八票。中村勉、六三票。玉井金五郎、九九票。井上安五郎、一〇一票。

渋い顔で、ずらりと眺めまわした原田は、かたわらの机にいる大川時次郎に、

「全部で、どのくらい票が出ましたとな？」

と、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

時次郎も、泣きそうな顔をしている。わざわざ、<ruby><rb>直方</rb><rt>のうがた</rt></ruby>の炭坑から、応援にかけつけて来たのに、努力の甲斐もなかったのである。原田にたずねられ、机のうえの紙片をパラパラめくって、面倒くさそうに、

「六千九百三十……、大体、七千票でしょうかなあ」

「フム、そうすりゃあ、もう、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>は、千票あまりしか残っとらん勘定じゃが、……」

望みがない。惨敗――原田は、眼を怒らして、歯がみした。

隣室で、「六ゾロ」の源十が、なにかの広い紙を、力まかせに、ベリベリと引き裂いている。

「当選御礼」の張り札だ。開票がはじまったころ、市中に張りだすため、二十枚ほども書いたのだった。

原田は、ぐったりとなったように、腰を落した。

「原田君、いっちょ、行こか？」

と、金五郎が笑いながらいった。

「碁な？」

「うん」

「よし、やろ」

やけ糞のように、原田は叫んだ。

二人は、碁を打ちはじめた。金五郎が白を持っているけれども、どちらもザル碁だ。ほとんど考えることをせず、まるで、<ruby><rb>機械</rb><rt>シーソー</rt></ruby>のように、交互に石を打ち<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>す。マンが、いつも、「餅つき碁」といって笑う。大石も好きなので、仏頂面のまま、にじり寄って来て、のぞきこんだ。

玄関で、自転車のベルの音がした。号外のように、<ruby><rb>振鈴</rb><rt>りん</rt></ruby>を鳴らしている。

源十が、出て行った。面白くもなさそうな顔付で、紙片を握って、帰って来た。

「オヤジ、<ruby><rb>四票</rb><rt>よんぴょう</rt></ruby>、出ましたよ」

「そうか」

金五郎は、ふりむかず、碁盤のうえを見ていた。

マンが、入って来た。

「やれやれ、よかったわ。誰もかれも落ちて、これで、もう<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りて、今度から、選挙なんで<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めるじゃろうけん」

茶を入れながら、笑った。

夕刻、すっかり日が暮れてから、開票が終った。

民政党は、十七名、立候補者、全員当選、最高点は、三五八票。政友会は、七名。中立聯盟は、六名。計、三十名。社会民衆党は、二人とも落選した。当選の最後尾は、政友会の<ruby><rb>楠野太一郎</rb><rt>くすのたいちろう</rt></ruby>、一五二票。その次が、玉井金五郎、一六〇票。井上安五郎一六八票。政友会の<ruby><rb>久野惣吉</rb><rt>ひさのそうきち</rt></ruby>、一七八票の順。ビリから、二番、三番ではあるが、ともかく、「ゴロゴロ」は当選した。

「もう、こげな気色の悪い選挙は二度といやですばい。最後のドンヅマリまでひやひやして、命がちぢまる。あちこち、同志に票を分けて、結果からみりゃあ、作戦どおりといえるかも知れんけど、まったく、危い綱わたりじゃ」

不服そうに、そんなことをいいながらも、大石鶴松は、さすがに、にこにこしている。

金五郎は、しかし、残念そうである。

「わたしの力が足らんで、原田君や、中村君のような有能の士を落してしもうた。結局、惨敗じゃなあ。民政党絶対多数、これから先が、思いやられるたい」

マンも、はがゆそうに、

「ほんとに、汚い選挙じゃ。原田さんじゃないけんど、解散してやりなおすがええ。こんなことで議員になった人たちで、なんで、ええ政治が出来ようか。というて、何べん解散しても、政治家ちゅう<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>は、同じことばっかりのくりかえし、ようなるという当てもないけんど。迷惑するのは、市民だけやわ」

開票の翌日、勝則は、東京に向かって出発した。

「いつごろ、帰る？」

と、マンはきいた。

「二三ヶ月、<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>を下さい」

「そりゃあ、お前の気のすむまで、旅して来てもええけんど、……<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>のことも忘れんようにな」

「あちらから、手紙を出します。急なことがありましたら帰ります。早稲田大学にいる<ruby><rb>吉井篤雄</rb><rt>よしいあつお</rt></ruby>君のところを連絡場所にしときますから、……」

光丸と別れる決心をして、旅に出て行く息子のさびしげな顔を見て、マンは、胸が<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>いた。涙が出た。

金五郎も、息子が哀れでたまらず、

「二三ヶ月でも、半年でも、好きなところを、旅行して来い。金は要るだけ送ってやる。今ごろは、北海道が大層ええちゅうけ、<ruby><rb>阿寒</rb><rt>あかん</rt></ruby>湖、<ruby><rb>洞爺</rb><rt>とうや</rt></ruby>湖、<ruby><rb>摩周</rb><rt>ましゅう</rt></ruby>湖、<ruby><rb>支笏</rb><rt>しこつ</rt></ruby>湖、など、湖めぐりをして来るがええ。<ruby><rb>大雪山</rb><rt>だいせつざん</rt></ruby>にも、まだ、雪が残っとるじゃろう。アイヌも珍しいけ」

三年ほど前、市参事会員だけで、北海道視察旅行をしたことを思いだして、そんなことをいった。

六月が過ぎて、七月が来た。

マンは、選挙のすむのを待って、夫に逢うといったお葉の消息のないのを、不思議に思った。

「飛鳥」に行って、君香に訊いてみた。

「なんや、おッ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>はんが、たいそう病気が悪い、いやはってな、開票の次の日に、東京に帰らはったわ。おマンはん、あんた、お葉はんに逢いなはったんやてなあ」

「ええ、ちょっと……」

マンは、お葉と蛭子神社の境内で逢ったことは、隠さなかったけれども、話の内容については、<ruby><rb>極秘</rb><rt>ごくひ</rt></ruby>にした。自分一人の胸におさめていた。そして、金五郎には、奇妙な微笑を浮かべて、

「お京さんが、今度、若松に来たら、ぜひ、逢うてあげてね」

と、いっていた。マンの小さな陰謀である。

金五郎は、まだ、お京とばかり、思いこんでいる。マンの言葉を聞いて、

「逢うても、逢わんでも、ええたい」

どぎまぎして、しどろもどろの返答をした。

よく晴れた日の早朝から、金五郎は、森新之助と、猟に行った。新之助の娘<ruby><rb>百合香</rb><rt>ゆりか</rt></ruby>がついて来た。

<ruby><rb>高塔山</rb><rt>たかとうやま</rt></ruby>と谷ひとつ隔てた山に、<ruby><rb>高野山</rb><rt>こうやさん</rt></ruby>九州別院「<ruby><rb>東南院</rb><rt>とうなんいん</rt></ruby>」がある。その周囲の鬱蒼たる森林に、このごろ、<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>が出没するという噂。猟の目あてはそれだった。

「お父さんの腕前は怪しいから、危いなあ。あたしを射っちゃいやよ」

百合香が、新之助をひやかす。

「このごろは、免許皆伝になっとるんじゃ。心配すんな。……なあ、金さん」

「うん、狙いの上手になったとは、感心しとる。じゃが、百合ちゃん、なんぼ下手ちゅうでも、<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>とあんたとを取り違えやせん。自分の狙うもんは知っちょるたい」

「でも、このごろ、お父さんは、頭がのぼっとるから……」

「馬鹿たれ。のぼっとるのは、お前じゃないか」

新之助は、冗談めかして、そういったが、ふっと、眼を伏せ、軽く唇を噛んだ。

もう三十歳に近い百合香は、グレイのスーツを着て、断髪にしている。その洋装がよく似あう。美しい。森夫婦が、いつも、「どうしたわけで、娘がモダン・ガールちゅうもんになったのか」と、苦笑しながら、不思議がっているが、女子大学を出て、東京生活をしているうちに、両親とはかけ離れた近代娘になってしまった。英語や、フランス語も、自由に話す。それでいて、若いころ、君香の仕込んだ踊り、三味線、琴、なども、一人前以上に出来るのだった。

三人は、山を登り、次第に、深い森林の中に、わけ入って行った。猟銃を背にした二人は、老兵のようである。たくましい猟犬のベルが、先に立つ。いろいろな調子で、囀っている小鳥たちの声の中に、目ざす雉子の声を聞こうと努めた。杉、松、檜、樟などが繁茂している緑一色の中に、ところどころ、椿のあざやかな赤が黄色い<ruby><rb>蕊</rb><rt>しべ</rt></ruby>をのぞかせて、眼にしむ濃さで、<ruby><rb>点綴</rb><rt>てんてつ</rt></ruby>されている。丘を登り、丘を降る合間に、林の間から、ちらちらと、真青な<ruby><rb>響灘</rb><rt>ひびきなだ</rt></ruby>が散見した。

「居らんじゃないか」

二時間ほどもうろついてから、新之助ががっかりした声でいう。

「まだ、あきらめるのは早い。新谷勝太郎が射って来とるんじゃけ、まちがいない。まだ、何羽も見たが、射ちそこねたといいよった。どこかに巣があるらしいとも、いいよった。<ruby><rb>藤</rb><rt>ふじ</rt></ruby>の実の減りかたのはげしいのを見てもわかる。雉子は、藤の実を<ruby><rb>蓄</rb><rt>た</rt></ruby>めて、食糧対策を講じるとじゃけ、遠方には行っとらん。もうすこし頑張ってみよう」

「金さんは、最後の一票まで、ねばることの名人じゃけ、まあ、金さんのいうことを聞こう。じゃが、くたぶれて、腹が減ったわい。ここらで、一休みして、弁当にしようや」

「そういやあ、おれも腹ペコじゃ」

「あたしもよ」

と、百合香もいいだして、食事をすることになった。杉の根の熊笹に坐り、持参の弁当を開いた。朝食なのか、昼食なのか、わからない。

「百合香、お前、すまんが、東南院に行って、お茶を貰うて来てくれんか」

「行って来るわ」

気軽に答えて、森林の小径を降って行った。快活に、なにか西洋の歌らしいものを<ruby><rb>口吟</rb><rt>くちずさ</rt></ruby>みながら、<ruby><rb>擬宝珠</rb><rt>ぎぼうしゅ</rt></ruby>の屋根の方角へ、姿が消えた。

それを見送っていた新之助は、金五郎をふりむいた。

「金さん」

ひどく真剣な顔つきをしている。

「あン？」

「これを、あんたに、あげよう」

そういって、服の内ポケットから取りだした黒いものを、金五郎の掌に乗せた。一挺のピストルであった。

金五郎は、妙な顔をして、

「こりゃあ、一体、どげしたんじゃ？」

「おれが持っとると危いけ、お前にやるとたい」

「おれだって、こんなもんに、用はない」

「実は、金さん、聞いてくれ」新之助は、しんみりした、どこか、さびしげな語調になって、「そのピストルは、大川の時やんから、手に入れたもんじゃ。時やんが、お前の選挙のとき、心配して来とった、あのときに、頼んだんじゃよ。そしたら、炭坑の方で工面して、このごろ、届けてくれた。ブローニングちゅう、新式の六連発でな、小型じゃけ、あんまり離れると当らんけんど、近いときにゃあ、持って来いちゅことじゃ」

「なんで、こんなもんを、時やんに頼んだんじゃ？」

「日若座の無念を晴らしてやろうと、思うたもんじゃけなあ」

金五郎は、返事が出なかった。

ちょっと沈黙した後、新之助は、さらに、さびしげに、自嘲のひびきさえまじえて、

「じゃが、おれは駄目じゃ。もう、人殺しは出来ん。百合香が、さっき、いうとったように、おれは日若座が焼けてからは、たしかに、頭がのぼっとったよ。毎日、やけ酒ばっかり飲んで、<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のごとなっとった。あのときに、ピストルがあったら、おりゃあ、また、追いつめられて、「<ruby><rb>蝮一</rb><rt>まむしいち</rt></ruby>」を殺したときのように、友田喜造か、栗田銀五かを、やっとったかも知れんなあ。じゃが、時やんがピストルを持って来て、くれたときにゃあ、なんぼか頭が冷えとった」

「そうか」

「おれも、昔とはちがう。あの百合香なあ、あいつ、三年ほど前に、亭主に先だたれて、<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>暮しをしとったが、今度、願ってもないええところから、貰い手がついた。再縁にしちゃあ、拝みたいほどの人よ。その縁談の、……いや祝言のため、東京から帰って来たんじゃ。あいつも大よろこびよ。それから、今、京都の大学に行っとる長男、鹿児島の七高に居る二男坊――考えて来りゃサ、少々、腹が立つことがあったところで、うかつなことは出来ん。まして、人殺しなんど、……」

「わかった。よう、我慢してくれた。暴力は絶対いかん。もっと、別の方法で、仇を討つことが出来るよ」

「そうじゃ。おれも、それを悟ったんじゃ。それに、日若座も、お前たちのおかげで、再建の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めど</span>もついた。保険もつけてあったもんで、助かった。島崎勇次がひと肌ぬいでくれて、……いや、両肌ぬぎで応援してくれて、前よりも、三倍も五倍も立派な<ruby><rb>劇場</rb><rt>こや</rt></ruby>が出来そうにある。おれは、事業のなかに、ありたけの力を打ちこむよ」

「それが、ええ」

「それで、もう、このピストルは要らん。持っとると、いつ、また、出来心がわかんともかぎらんけ、お前にやる」

「よし。おれも、こんなもんは必要ないけんど、お前がその気持なら、おれがあずかっちょくことにしようわい」

ずっと下の、森林の<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の間がくれに、百合香が登って来るのが見えた。右手に、茶瓶をぶら下げている。

金五郎は、あわてて、拳銃を内ポケットに<ruby><rb>収</rb><rt>しま</rt></ruby>った。

西洋花のような百合香は、息を切らしながら、近づいて来た。

「一気に登ると、やっぱり苦しいわ。東南院さんで、沸かして下さるのを待ってたもんだから、遅くなったの。方丈さんが、お<ruby><rb>二方</rb><rt>ふたかた</rt></ruby>に、くれぐれも、よろしくッて」

「<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>じゃ」

突然、新之助が叫んだ。猟銃を外し、森林の奥へ、そっと、入って行った。姿が隠れた。

パーン、という銃声。森林中を鳴らす<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>。

「やったぞ」

その声と同時に、猟犬ベルが、声もなく、疾走して行った。

<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>祭が、来た。

<ruby><rb>氏神</rb><rt>うじがみ</rt></ruby>である<ruby><rb>白山</rb><rt>しらやま</rt></ruby>神社の境内には、「四海泰平」「徳光遍世」などと書かれた白い<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>が、七月の風に、パタパタと鳴っている。朝暗いうちから、<ruby><rb>大太鼓</rb><rt>おおだいこ</rt></ruby>の音がひびきわたり、<ruby><rb>神輿</rb><rt>みこし</rt></ruby>が、揃いの<ruby><rb>祭着</rb><rt>まつりぎ</rt></ruby>に甲斐々々しく身がためした若者たちによって、海岸の方へかつぎ出される。浜辺から、<ruby><rb>遠浅</rb><rt>とおあさ</rt></ruby>の沖の方へ、ぐんぐん、入って行く。首まで<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>るあたりまで来て、「ワッショィ、ワッショイ」と、勇壮に、波しぶきをあげて練りまわす。それから、濡れたままで、街に出て来る。

各町内では、それぞれ、思い思いの<ruby><rb>山笠</rb><rt>やま</rt></ruby>が作られていた。

正保寺町、新仲町、一帯を含めた十二区でも、一週間ほど前から、昼夜兼行で、一つの山笠が出来た。

「この山笠を、お京さんに見せたいなあ」

マンが、いたずらそうな微笑を含んで、金五郎にいった。

「なにいうちょるか」

金五郎は、お京の話になると、たじたじである。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん」

「あン？」

「こないだ話したように、今度お京さんが来たら、是が非でも、逢うてあげんといけんばい」

「逢うても、逢わんでも、ええちゅうのに……」

「ウフフ、逢いとうてたまらん癖に」

山笠には、一匹の巨大な龍が、中央の岩をぐるぐる巻きにして、天を睨んでいる。顔だけが三尺ほどもあり、<ruby><rb>蛇腹</rb><rt>じゃばら</rt></ruby>のついた胴の廻りが、やはり三尺、ガラスの大眼玉、棕櫚の頭髪、真鍮の<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>、鱗には、薄板を使って、すさまじいばかりの出来栄えであった。そして、昇り龍は、両肢に、右に菊、左に百合の花束を、掴んでいる。十二区の<ruby><rb>山車</rb><rt>だし</rt></ruby>といっても、実際は、玉井組の山笠といってもよかった。金五郎夫婦が世話好きのうえに、祭などの賑わいごとが好きなので、一所懸命である。町内から寄附金が集まるけれども、それでは足りない。不足分は、玉井家で負担した。山笠の飾り物も、商売人に頼まず、子分たちが総がかりでこしらえた。松本重雄の<ruby><rb>飯代</rb><rt>はんだい</rt></ruby>部屋が、工場に変る。町内の、昔、人形師をしていたという、小間物屋の<ruby><rb>上林</rb><rt>かんばやし</rt></ruby>が指導に当り、暇を見て、金五郎が、直接、采配をふる。子供たちも、学校から帰ると、大勢で手伝う。

「花を握っとる龍というのは、面白いですなあ」

そういう上林は、金五郎の腕の彫青など、見たことはない。あることすら知らないかも知れない。

「昇り龍がええわ。景気なおしに」

町内の人たちが集まって、山笠の意匠を工夫していたとき、そういいだしたのは、マンであった。誰も異存はなかった。そして、マンは、人形作りの上林に、宝珠のかわりに、龍の肢に、菊の花をにぎらせることを依頼したのであった。すると、金五郎が、照れくさそうな顔で、片一方は、百合にしたがええ、といいだしたのである。

「色気のある龍で、なかなか、よかたい」

大束な菊と、百合の花とが加わると、龍の山笠は、一層、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>としたものになる。

「美しいなあ」

と、この<ruby><rb>山車</rb><rt>だし</rt></ruby>をひく区内の子供たちも、大よろこびである。

「六区は岩見重太郎、七区は天の岩戸、十一区は羅生門、三区は提灯山じゃ。おれんかたの龍が、一番、ええど」

子供たちは、他区の山笠を見に出かけては、そんな自慢話をしている。

祭の前日、深更までかかって、すっかり仕上げた。

金五郎が、マンにいった。

「ひょっとしたら、勝則が帰って来るかも知れんど」

「どうして」

「お祇園さんじゃけ、子供といっしょになって、ワイワイ騒いだら、気分も<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れやせんかと思うてな、東京に、手紙を出しといた」

「あら、あたしも、帰って来るごと、一週間も前に、便りしたんじゃが。……でも、今に帰って<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>んけ、帰らんつもりでしょうよ」

ぎらぎらと、眼もくるめくような<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>が、海も、山も、街も、ゆらめかせている暑い日である。風があって、筒抜けの青空を飛ぶ白雲の足も早かった。

街中を、多くの山笠が練り歩く。他区に負けないように、それぞれの意匠を凝らし、山車をひく子供たちの祭衣も、みんな揃いだ。区名入りの半纏、豆しぼりの手拭、赤や白の鉢巻、大男の子供たちが、二本の<ruby><rb>曳綱</rb><rt>ひきづな</rt></ruby>に群がって歩いて行くと、山車の中から、勇ましく、にぎやかに、<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>と太鼓とが鳴りひびく。山笠は、ときどき、ワッショ、ワッショ、と、<ruby><rb>喊声</rb><rt>かんせい</rt></ruby>をあげて走りだす。山笠には、どれにも、十人ほどの<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>がついている。

十二区の山笠の横には、金五郎の姿があった。おどけ好きの金五郎は、武蔵坊弁慶の恰好をつくり、大小刀を二本、<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>、高い一本歯の足駄をはいている。その外は、子供も、大人も、白と黒、横縞の揃いの衣裳、白の鉢巻。山車のうえでは、打ち鳴らされる鉦太鼓につれて、金粉銀粉をやたらに振りかけられた巨大な龍が、菊と百合との花束を抱いて、進行につれて、生きてでもいるように、ゆらめき動く。

「オヤジ」

明治町を通過しているとき、ボーシンの中山弥志馬が、後から、声をかけた。仕事が休みなので、中山も祭衣裳で、山笠についていた。

「うん？」

「気をつけんと、七区の山笠が、うちの山笠に、喧嘩を吹っかけるという噂がありますばい」

「七区？……おかしいなあ。七区というのは、松ヶ枝町、明治町、<ruby><rb>三内町</rb><rt>さんないまち</rt></ruby>、……なにも、いざこざのあるわけはないが、……」

「わたしも、そう思いますけんど、みんながそういうちょります」

「友田は四区、栗田は十五区、……吉田親分のいる老松町もちがうし、……七区？……誰が居ったかなあ？」

「まあ、火のないところに、煙は立たん、といいますけ、警戒だけはしとったがええです。<ruby><rb>岩戸神楽</rb><rt>いわとかぐら</rt></ruby>の山笠です」

その山笠と、数度、すれちがった。しかし、格別、不穏の様子もなかった。金五郎は、ついている大人たちの顔を見まわしてみた。けれども、危険人物もいるようには思われなかった。

「やあ、ええお祭<ruby><rb>日和</rb><rt>びより</rt></ruby>で」

「愉快なこッてすなあ」

顔見知りの者と、おだやかに、挨拶さえ<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>したのである。

「なんでもないじゃないか」

中山にいうと、

「変じゃなあ。デマかな？　たしかに、まちがいないという風に、聞いたとですけど。……オヤジ、わかった。夜、夜ですよ。きっと、そうです」

金五郎は、ところどころで、山笠を止めると、二百人以上もいる綱ひきの子供に、ラムネなどを飲ませた。菓子をやった。

日が、暮れた。

街に<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が入ると、祭の様相も変る。山車を曳く連中も、子供より大人が多くなって、酒の勢とともに、どこの山笠も荒っぽくなる。十二区の山笠は、「玉井組のあばれ山笠」とも呼ばれている。金五郎の厳重ないいつけで、喧嘩は絶対にしないけれども、山笠そのものはあばれ放題、元気のよい子分連中が、まるで、山笠をくずしてしまうような練り方をするのだった。

「ほら、ワッショイ、ワッショイ」

「ドンドン、ガンガン、ドンドン、ガンガン」

「練りだせ、引っくりかえせ」

無茶苦茶に走る。町幅一杯、くねくねと曲る。くるくる回転する。前後左右にはげしくゆすぶり、はては、横だおしにしてしまう。転覆した山車の中でも、鉦太鼓はやまない。引き起すと、さらに、景気よく、ワァーッと、走りだす。

夜の山笠には、勝則の姿があった。

中川通りを練っているとき、中山が叫んだ。

「若オヤジ、七区の山笠が、突っかけて来ましたばい」

夜は、金五郎はいなかった。八幡製鉄所に、近く、アメリカから、莫大な数量の<ruby><rb>屑鉄</rb><rt>スクラップ</rt></ruby>を積んだ巨船が数隻、入港する。その荷役のことで、谷俊次を入れて、会社側と打ちあわせをするため、八幡に行って、留守だった。

東京から帰った勝則は、みんなと同じ、白黒横縞の祭衣を着て、父のかわりに、山笠についていた。手には、十二区の提灯を持っていた。

中山の声を聞いて、指さす方角を見た。

<ruby><rb>天鈿女命</rb><rt>あめのうずめのみこと</rt></ruby>が、岩戸の前で、踊っている。鶏が大きく口をひらいて、鳴いている。<ruby><rb>手力男命</rb><rt>たぢからおのみこと</rt></ruby>が、岩に手をかけて開いたところに、<ruby><rb>天照大神</rb><rt>あまてらすおおみかみ</rt></ruby>の美しい顔が見える。張りめぐらされたしめ縄に、<ruby><rb>御幣</rb><rt>ごへい</rt></ruby>がたくさん垂らしてある――その山笠が、ゆさゆさ、はげしく揺れながら、恐しい勢で、こちらの山笠に近づいて来た。

「ワアーイ、ワアーイ」

「ぶっつけろイ」

という<ruby><rb>喊声</rb><rt>かんせい</rt></ruby>。

十二区の山笠の通りかかるのを、横町で待ちかまえていたらしい。真横に、突っかけて来た。

山笠の太い<ruby><rb>担</rb><rt>か</rt></ruby>き棒をはげしく叩きつけられて、こちらの山笠は、危うく横だおしになるところであった。<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>っておけば倒れた。ほとんど、地につきそうになったところを、やっと押し返した。

「なにをするか」

と、子分たちは怒りだした。

「喧嘩はすんな。手出しすんな」

勝則は、必死に制止した。

しかし、もはや、殺気だった連中を、静めることは不可能だった。たちまち、すさまじい乱闘になった。それでも、なお、

「<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めろ、止めろ。静まれ」

と叫んでいた勝則は、背後から、したたかに、後頭部を殴りつけられた。くらくらとした。同時に、地面にたたきつけられた。猛然と立ちあがると、打ちかかって来る相手方の男たちと、格闘をした。

警官隊がかけつけて来て、やっと、滅茶苦茶な修羅場がおさまった。

一人の長身の巡査部長が、いきなり、勝則の頭をこづいた。

「なんで、喧嘩をするんだ？」

勝則は、むっとして、

「この山笠を見て下さい。こっちの山笠に、七区の山笠が突っかけて来たのですよ。喧嘩を売ったのは向こうです」

「向こうも、こっちもあるか。祭の日に、人騒がせをして不都合な。署まで来い」

「行きません」

「行かん？……おい」と、巡査に呼びかけ、自分も勝則の腕をつかみ、「こいつを、検束しろ」

帽子の顎紐をかけた黒衣の警官が、三人がかりで、勝則を引き立てて行った。胸中に憤りが渦巻いていたけれども、勝則は歯を食いしばって、おとなしく同行した。

顔見知りの署僚がおどろいて、すぐに、釈放してくれた。巡査部長は、最近、門司から転勤して来たばかりらしかった。

その夜、勝則は泥酔した。

喧嘩をふっかけて来たのが七区の方であることは、<ruby><rb>山笠</rb><rt>やま</rt></ruby>の位置を見れば一目瞭然なので、十二区の方は、なんのお咎めもなかったけれども、気の鬱屈は避けがたい。これも同じくむしゃくしゃしている子分連中と、山笠をおさめてから、自宅で、憂さ晴らしの饗宴を張った。

いいようもない怒りと、悲しみと、みじめな気持とが、いつになく、勝則を酒に溺れさせた。早く酔いたくてたまらず、がぶ飲みをした。

「勝則、お前、そんなに飲んで、……」

マンが心配していたが、母の言葉も耳に入らなかった。

そして、前後不覚に、意識をうしなったのである。……

どれくらい時間が経ったか。ふっと、眼のさめた勝則は、びっくりした。

かたわらに、光丸がいる。

あたりは、ぼうと、うす明かるい。電燈は消してあるけれども、障子が白く、かすかな光線をうけていて、その明かりが狭い部屋を浮きあがらせている。勝則は、異様な昏迷をおぼえた。

（ここは、一体、どこだろうか？　一体、あれから、どうなったんだろうか？）

自宅で、子分たちと酒を飲んでいるうちに、視界朦朧となりはじめてから、まったく、記憶がない。断片的に、<ruby><rb>幻燈</rb><rt>げんとう</rt></ruby>のように、記憶が飛び飛びになっているが、それも夢といった方が早い。手をたたいて、子分たちと歌ったり、踊ったりしたようである。やけ糞みたいに、しきりに、なにか、どなり散らした。ゆらゆらと立ちあがると、母が、

「もう、外には出らんで、早よう寝なさい」

そういったようでもある。しかし、それも、夢であったかも知れない。

ふと目ざめたときも、夢の中にいるように思った。頭の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>がズキズキと<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>き、まだ、酔っているように、顔や身体中が<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>っている。はじめは、酔いつぶれて、自分の家のどこかに寝ているのかと錯覚した。

光丸の顔が見えて、仰天した。

「ここは、どこだね？」

と、きいた。

「お目ざめになったのね。「<ruby><rb>丸金</rb><rt>まるきん</rt></ruby>」よ」

「「丸金」？」

あらためて、勝則は、部屋中を見まわした。<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けに寝たまま眺めたので、部屋の感じがちがって見えたのであるが、いつも来なれた「丸金」の離れの四畳半にちがいなかった。三ヶ月ほど前、光丸と逢い、別れる決心をした、あの部屋だ。

（どうして、こんなところに来たのか？）

勝則は、気味が悪くなった。

気がつくと、自分は祭衣裳のまま、畳のうえに転がっている。まだ、白い鉢巻もしめている。

着物は喧嘩のとき、引き裂かれ、泥だらけになったが、そのむざんな着物を、さらに、だらしなく、はだけている。枕元に、洗面器と水とが置いてあるのは、<ruby><rb>嘔</rb><rt>は</rt></ruby>いたものらしい。身体に静かな風が当るので、妙に思って見ると、光丸が<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を持って、あおいでいるのだった。

光丸は、大きな<ruby><rb>葡萄</rb><rt>ぶどう</rt></ruby>の葉と実のついた<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を着て、勝則の腹のあたりに、きちんと坐っている。頭は洗い髪にしていた。うす明かりのなかに、顔は青ざめて、やつれて見えたが、ほつれ毛のかかっているその美しい顔には、いいようもない、晴れ晴れとしたものが、隠しようもなく、浮かび出ていた。

「一体、どうしたんじゃね？」

勝則は、えたいが知れなくなって、そんなとんちんかんな問い方をした。

「御記憶がないの？」

「なんにも、<ruby><rb>憶</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えとらん」

「そうか知らん？」

「もう、朝かね？」

「ええ、まもなく、夜が明けるでしょ」

「君は、寝ずに起きとったのか？」

「蚊が居るもんやけ、こうやって、一晩中、団扇で追っていましたの」

「<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>吊ったら、ええのに……」

「あんなこと」光丸は、ころころと笑って、「ほんとに、憶えていらっしゃらないらしいのね。蚊帳吊りましょう、というても――要らん。……蒲団敷きましょう、というても――<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らん。……そうして、すこし<ruby><rb>嘔</rb><rt>あ</rt></ruby>げてから、そのまま、眠っておしまいになったのよ。グウグウ、大きな<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>をかいて……」

「君が、どうして、ここに居るんだ？」

「まあ」

光丸は、ちょッと<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた顔をしたが、それも、また、彼女の内心に渦巻いているよろこびの感情を倍加するもののようで、露骨に、口辺に、うれしげな微笑をたたえた。おさえても、おさえても、うずうずとほぐれて来るほくそ笑みを、殺すことが出来ないらしい。それを素直に、言葉に出して、

「あたし、うれしいわ」

と、いった。

勝則は、うれしいのか、悲しいのか、腹立たしいのか、わからなかった。ただ、呆然となっているばかりである。

わかって見ると、こういうことらしい――深夜になって、泥酔した勝則が、「丸金」にやって来た。もう戸を閉めようとしているところであったが、無理に、離れに通った。仲居頭のコヨに、光丸を呼べ、と命じた。コヨが、やめた方がよい、という意味をほのめかすと、非常な剣幕で怒った。と思うと、頼むから呼んでくれ、と哀願したりした。コヨも、遂に、根負けして、光丸を呼んだ、というのであった。

それを聞いて、勝則は、さらに、呆然となる思いだった。自分の潜在意識のなかにあるものが、無意識の間に、なにをしたか？　とりとめもない行動の中に、なにを求めようとしたのか？――恐しいことといわなければならない。

（光丸とは、別れた方がよい）

そう悲しく思いさだめたとき、勝則は、人間の不幸と犠牲という問題について、解決が得られなかったのであった。

（もし、無理矢理、二人だけの思いを通そうとすれば、周囲はどうなるか？）

エゴイズムは許されない。恋愛の自由と神聖とが、無要の波瀾と被害とを巻きおこすことによって、多くの人々を不幸に陥れ、巨大な犠牲を足下にふみにじってまでも、あり得るだろうか？――それは、勝則にとっては、耐えがたいことであった。そのため、歯を食いしばって、光丸と別れる覚悟をしたのである。しかし、それらの一切の苦悩と、営為とは、この一夜、一瞬にして砕かれてしまったのであった。

（おれたちは、やはり、こうなるべきであったのだ？）

呆然とした気持から覚めると、次第に、勝則の胸を領して来たのは、この、最後の場を肯定する、強いうなずきであった。宿命だ、と思う。

「あたし、お詫びしなくてはならんことがあるわ。昨日の喧嘩ね、七区の<ruby><rb>山笠</rb><rt>やま</rt></ruby>が、おたくの山笠にぶっつけたこと、あれ、みんな、要之助さんの<ruby><rb>差金</rb><rt>さしがね</rt></ruby>よ。あの人が、晩はゴロツキを雇うて、わざと、おたくの山笠に喧嘩をふっかけて、……あなたを袋叩きにしてしまう算段でしたの」

もう、しかし、勝則には、そんなことも、どうでもよかった。身体を起すと、

「光丸」

と、呼んで、女を抱いた。

（もはや、<ruby><rb>何人</rb><rt>なにびと</rt></ruby>であろうとも、おれたち二人を離すことは出来ない）

一種狂気じみた興奮の中で、若い男女はしっかりと抱きあい、はげしく嗚咽しながら、昂然と、眉をあげていた。

勝則は、プクリとふくれている女の腹を感じた。すでに妊娠六ヶ月ほどでもあろうか。

（この中に、おれたちの子供がいるのだ）、

その甘酸っぱい感傷は、えたいの知れぬ恍惚感さえみちびきだして、二人をいやが上にも熱しさせた。

障子は次第に白さを増して来た。雀の囀りが夏の朝の空気に、針をさすようだ。

数日後、勝則は、料亭「竹の家」を訪れた。熟考の果て、勇を鼓してであることはいうまでもない。敵前上陸のような気持だった。

茶の間に、案内された。

長火鉢の向こうに、辻木惣八が坐っている。色の黒い、皺の深い、普段から気むずかしげな顔は、さらに、不機嫌に歪んでいる。真鍮の<ruby><rb>鉈豆</rb><rt>なたまめ</rt></ruby>煙管で、煙草を吸うのにも、いらだたしげに、それをはげしく火鉢にたたきつけて、火を落す動作にも、内心の憤りが、掩いがたく、露出していた。

辻木夫人は、惣八よりも一廻り大柄だ。女角力取りのような身体を、夫のかたわらに置いて、かしこまっている勝則を、憎々しげに見下だしている。

隣室に、要之介がいて、この場のなりゆきをうかがっている気配が、明瞭だった。

和服姿の勝則は、正坐した膝に両手をのせて、静かに頭を下げた。

「光丸を、わたしに、下さいませんでしょうか」

「そんなことは出来んよ。あれは、ちゃんと、うちの息子の嫁に定めてあるとじゃけん」

「すみません。でも、もう、光丸は、わたしの子供を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んで居りますし、……」

「それも、知っとる。仕方がない。子供はこっちで育てる。大体なら、貞操蹂躙で訴えるところじゃけんど、あれを芸者としてお座敷に出しといたのが、こっちの油断じゃ。あきらめる。年ごろの娘じゃけん、男の中に出しゃあ、あり勝ちのこと、わしはわかった話をしよるつもりじゃ。それに、あんたが光丸を強姦したのでもないらしいけん、あんたを咎めよるわけじゃない。出来たことは仕方がないけん、黙って、手を引いて貰いたいんじゃ」

「どうしても、駄目でしょうか」

かたわらから、夫人が身体を乗りだして来た。これも、長煙管を、火鉢の縁で、コンコン鳴らしながら、男のような<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわ</rt></ruby>がれ声で、

「あなたも変な人ですなあ。たかが芸者<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>を家に入れんでも、玉井組の御曹子といやあ、どんなええところからでも、三国一の花嫁御寮が来まッしょうに。八幡の藤本組と縁談がととのっとるということ、噂に聞いたように思うけんど、嘘でしたかな？　こっちは、それこそ、ありッたけ、怨みつらみをいいたいところを、光丸が馬鹿じゃけ、堪忍しとるとですよ。要之助もおとなしい子で、涙をのんで、傷ものにされた女を、黙って嫁にしようといいよる。これ以上、まだ、あなたは、わたしらに、なにを<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えろというのかね？　若い男と女、惚れた<ruby><rb>脹</rb><rt>は</rt></ruby>れたの浮気はつきもの、一時の気まぐれとして、忘れてしまえば、ええじゃないですか」

「いえ、わたしは、けっして、そんな無責任なことで……」

「いくらいうても、同じじゃ」と、辻木が声を荒らげて、「もう、帰んなさい。<ruby><rb>一日</rb><rt>いちんち</rt></ruby>そこに坐っとっても、百万べん頭を下げても、こればっかりは駄目じゃ」

「ねえや」と、夫人が、女中に「お客さまの下駄を揃えなさい」

「はあい」

取りつく島もなかった。

追い立てられるようにして、「竹の家」を出た。

力のない足どりで、黒板塀に添って行くと、曲り角にある勝手口のところに、姉の光三が立っていた。先廻りして、待っていたらしい。

「勝則さん、駄目やったらしいのね」

「うん」

「正面から行ったら、駄目に定まっとるわよ。それに、勝則さん、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>、あなたに聞かせておきたいことがあるわ。あなたは、まだ、お坊ちゃんじゃけん、すぐ人のいうこと信じるけんど、うちのお<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんやお<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんて、あなたの十倍も、百倍も、<ruby><rb>海千山千</rb><rt>うみせんやません</rt></ruby>よ」

「そりゃあ、僕だって、知らんことはないけど、……」

「知らんことはない――なんて、なんにも知らん癖して。……さっき、お父さんが――腹の子は仕方がないけん、こっちで育てる。……って、いうたでしょう？　嘘よ。生まれたら、すぐ、どこか遠い、わからんところに、<ruby><rb>里子</rb><rt>さとご</rt></ruby>にやってしまうつもりなの。約束も出来とるらしいわ。そればっかりじゃないわ。これまで、どれだけ、子供のことで、<ruby><rb>良</rb><rt>よ</rt></ruby>ッちゃんを<ruby><rb>苛</rb><rt>いじ</rt></ruby>めたと、お思いになる？」

「苛めた、というのは？」

「ほうら、なんにも、知らんでしょう？　子供を流してしまおうとしたのよ。要之助さんが、いくら良ッちゃんにべた惚れでも、ほかの男の子を生むんじゃ、ええ気持じゃないに定まってまさあね。お父さん、お母さん、要之助さん、それに、友田喜造さんまで加わって、堕胎を強制したのよ。良ッちゃんが、泣いて、どうしても聞かんもんじゃけん、……あなたには、話されんような方法で、なお、いろいろと、……こんなこと、あなた、お考えになったことある？」

想像を絶したことであった。光丸はこのことについて、一言も話さない。

（自分たちの子供が、不自然な方法で、闇から闇に葬り去られる……）

勝則は、憤然となるものを覚えた。それは、同時に、はげしい憤りと、焦躁とを誘い、そして、

（どんなことがあっても、二人は目的を達成せずには置かぬぞ）

という、強い決意へ高められた。

光三は、さらに、声を細めて、いった。

「良ッちゃんは、もう、お座敷には出さんし、監禁同様にするらしいわ。きっと、これからは、あなたとも自由には逢えなくなる。妹に用のあるときには、あたしに連絡して頂戴。どんなことでも伝えますけん」

「ありがとう」

勝則は、光三と、別れた。

金五郎とマンとは、祇園祭の夜、息子が帰って来なかったことについて、共通の不安を感じていた。

（光丸のところに、行ったとじゃないか知らん？）

しかし、どちらもが、そのことについては触れなかった。不気味なほどに、宿命的な気持が、金五郎夫婦の受けた衝動を複雑なものにしていて、簡単に、語りあうことが出来なかったのである。人間の意志を嘲笑い、人間の方向を、あらぬ方角へ強力にねじまげる運命の巨大な力については、いやというほど、夫婦は胆に銘じていた。（なんちゅうことか）と、どちらもが思っている。もし、息子が光丸のところへ行ったとすれば、自分たちが、わざわざ、追いやったようなものではないか。光丸と別れる決心をして、旅に出ていたものを、御叮嚀にも、二人が――金五郎も、マンも、別々に、手紙を出して呼び返したのだ。

しかしながら、息子の方は、両親を恐れていた。苦悩に痩せる思いをしながらも、勇敢に、「竹の家」を訪れたようには、両親の前には膝まずくことが出来なかった。

井上安五郎の門を叩いた。<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby>方を懇請した。しかし、この思慮深い政治家は、青年の取りのぼせた希望を、おだやかに、否定した。

「勝則君、君はまだ若い。結婚は一生のことだ。そんな一時の興奮で、生涯を台なしにしてはいけない。僕はよく知っているが、芸者を女房にした者で、十人のうち九人までは、うまく行っていない。君の再考をすすめる」

原田雲井も、自分の手には負えぬ、といって、頭をかいた。

勝則は、窮した。

それから四五日経った或るむし暑い日の深夜、玉井家の表格子を、けたたましく叩きながら、大声で、案内を求める者があった。

ババンが、出て行った。

「今、開けます」

そういいながら、内側から、錠を外しているとき、時計が二時を打った。

やがて、玄関で、なにやら、いい争っている声がしていたが、ババンは、当惑した様子で、マンの寝室へやって来た。<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の外から、

「おマンさん」

「はい」

何故か眠れずに、蒲団のなかで、チンチンと鳴る時計の音を聞いていたマンは起きあがった。

「ちょっと、玄関に出てみてや。わしじゃあ、わからん」

「泥棒ですか」

「いんね」

「なぐりこみ？」

「まあ、それに似たことのようにある。はげしい剣幕で、女角力取りのげな人が、なんか、どなりござりよるばい」

マンは、寝巻のうえに、羽織を引っかけて、玄関に出た。暗い。スイッチを、ひねった。格子の外に、一見、料亭の女将とわかる、しっかり者らしい大柄な女が、血相変えて、いらいらした様子で、立っていた。表に、人力車が一台、それに乗って来たのであろう。

「あなたが玉井の奥さんですか」

突っかかるような声が、飛んで来た。

「はあ、わたし、玉井の家内ですが、……どちら様で？」

「辻木ですよ。ちょっと伺いますけどね、勝則さんはいますか」

「居る筈ですが、……なんぞ、勝則に？」

「ほんとに、居りますか」

辻木夫人は、<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>心にあふれた細い眼で、家の奥をうかがうように見た。

「夕方、沖から帰って来て、御飯を食べてから、なんか書きもんをして、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、風呂に入って寝たようにありましたけど、……」

「ちょっと、逢わせて下さい」

マンは、階段の中頃まで上って、

「勝則」と、

二階に向かって、声をかけた。

「はあい」

すぐに返事が聞えた。まだ起きていたらしい。

「降りておいで。お客さんじゃけ」

「今、すぐ」

勝則は、玄関の騒ぎを聞いていて、客が誰であるかを知っているらしかった。<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>がけで、階段を降りて来ると、心持ち青ざめた顔で、長髪をかきあげながら、辻木夫人の前に坐った。

「なにか、わたしに御用ですか」

「なにかではありませんよ。光丸を、一体、どこに隠したんですか」

「光丸？……光丸がいないんですか」

「まあ、白ばくれて、憎たらしいこと。二人いっしょかと思うとったけんど、光丸だけを隠したのね。白状しなさい」

「わたしは、なんにも知りませんですよ」

「お昼すぎ、お針の稽古に出たきり、今に帰らんというのは、あんたがそそのかして、どこかに隠したに定まっていますよ。あたしを<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>そうたって、そうは、問屋がおろさんわ。ひどいことする人ね」

「ほんとに、知らないんです」

「辻木さん」とマンも、横から、「勝則は嘘をいう子じゃありません、光丸さんのいなくなったこととは、きっと関係ありますまい。どうか、<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>を探して下さい」

「知らん筈はないがなあ……？」

狐のような眼で、勝則を睨んだけれども、いくら追求しても水掛け論と悟ったらしい。「<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なこた、しやせん」と呟きながら、また、俥に乗って帰って行った。

プッ、プウッ、とラッパの音が遠ざかったころ、表から、「ノロ甚」が顔を出した。豆腐屋は早起きする。深夜なのに、甚七の店には、もう、あかあかと電燈がともり、モーターの廻る電動音、ベルトの鳴るひびきが起っていた。

「<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、夜中に、なんごとですか」

不審顔である。

「なんでもないですよ。甚さんは、精が出ることね。蔵が建つわ」

「ぐにゃぐにゃの豆腐の蔵がね。そんなもん、百建ったって、仕様があらせん」

「そんなら」

マンは微笑して、格子戸を閉め、錠を降した。

息子を奥座敷にみちびいた。

「ちょっと、そこに坐っていなさい」

そういって、台所に立った。ガスで、小さい薬缶に、湯を沸かした。戸棚から、「<ruby><rb>正喜撰</rb><rt>しょうきせん</rt></ruby>」をとりだすと、急須に茶を入れた。茶托を二つ、茶盆にのせ、座敷へ運んだ。猫が二匹ついて来た。息子の前に坐ると、一つをさしだした。

「お茶をおあがり」

勝則は無言で、湯気の立つ熱い茶をのんだ。

マンも、両手でおしいただくようにして飲んでから、静かな語調で、息子にいった。

「勝則、お前、ほんとうに、知らんのかね」

勝則は、深くうなだれた。唇を噛んだ。それでなくてさえ、むし暑い晩なのに、勝則の額には、内心の苦渋から湧く油汗が、じとじとと、浮いて流れた。

短い沈黙の時間が過ぎる。

「お母さんには、隠さないでね」

その言葉に、はねかえるように、勝則の口から、苦しげな声が出た。

「すみません」

「知っとるんじゃね」

「はい、知っています」

「光丸さんは、どこに居る？」

「<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>に居る筈です」

「筈、というのは？」

「そういう約束で、家を出たからです」

「隠れるために逃げたのね？」

「ええ」

ここまで来れば、勝則の覚悟も定まっているらしく、母の問いにたいして、なんのためらいもしなくなっていた。そして、裁判官の訊問の口調も、きびしいながら、どこかに、被告の感情をいたわっているようなところが、いつか、出ていた。

「光丸さんが逃げて、博多に隠れるということ、お前に連絡があったの？」

「わたしたちが、逃がしましたのです」

「わたしたち？……たち、というのは？」

「みんなで、寄ってたかって、逃がしたものですから……」

「みんな？　お前一人ではなかったんじゃね」

「はあ」

「誰と誰？　話してごらん」

勝則は、ちょっと、下唇を噛んで、思案していたが、思いきったように、顔をあげた。

洗いざらい、告白した。

こういうことらしい。――光丸は、監禁同様になった。座敷牢などはないけれども、彼女の部屋がそれに近かった。しかし、光丸を縛って置くことは出来ない。腹が目立つようになってからは、踊りの方は止めていたが、髪結いと、裁縫の稽古は日課であったので、外出しなければならなかった。そういうときには、監視員がついた。

一方では、急速に、要之助との祝言の準備がすすめられた。

状勢は最後の<ruby><rb>土壇場</rb><rt>どたんば</rt></ruby>に来ていると、判断された。

「これを解決するためには、非常手段以外にはない」

勝則の友人たちの意見が一致した。

光丸と勝則とのことは、友人たちの間では、よく知られ、且つ、肯定されていた。友人たちは、この二人の恋愛を、正しい青春の情熱の結集した、純潔なものとして、誰もその成就を祈っていた。それは、また、そのまま、自分たちの青春の問題であったためかも知れない。いつの間にか「勝則・光丸・結婚期成同盟」といったようなものが出来あがっていて、全員が、これに参画した。

「一つの事業をなすためには、絶対に、組織活動が必要だ」

と、参謀長格の中村勉がいった。

中村は、選挙には落選したけれども、そのときの縁で、金五郎の次女、勝則の妹の秀子と、恋愛関係を生じていた。いずれ、勝則の次には、自分たちのために、この青春の組織が動くものと思っている。

期成同盟は、慎重に、作戦計画を練った後、猛然と、活動を開始した。

光丸は、座敷牢に閉じこめられているとしても、どんな連絡でもつく。姉光三がこちらのスパイだからである。八方眼で、地獄耳の辻木夫婦も、そこまでは気づかない。それどころか、光三は自分の方の味方とばかり信じきっている。外出時の監視員に、光三をつけるのであるから、作戦の第一歩は、すでに、成功しているといってよかった。

準備がととのうと、決行した。

正午過ぎ、光三が、光丸を裁縫稽古場に同道した。三十分ほどいた後、髪結いに行く、といって、出た。

洗濯屋の星野順一が、クリーニング工場の裏に、二台の人力車を用意していた。

若松駅や、若戸渡船場から乗ると、すぐ、ばれる。二人の乗った俥は、停車場のすこし先、金比羅山の下にある鉄道検車所に行った。そこに、鉄道員岩下喜代光が待っていた、星野から、光丸をうけとった岩下は、筑豊線<ruby><rb>飯塚</rb><rt>いいづか</rt></ruby>行の貨物列車に、女を乗せた。炭坑行の坑木が積んである、<ruby><rb>有蓋</rb><rt>ゆうがい</rt></ruby>貨車なので、光丸の姿は見えない。乗換駅の折尾で、光丸を降した。鹿児島本線の下り列車に、小倉から、パン屋の浜田陸一が乗って来ていて、岩下から、女を受領した。

博多駅、下車。

画家の青柳喜兵衛が出迎えていた。青柳は、父の経営していた「<ruby><rb>隻流</rb><rt>せきりゅう</rt></ruby>館」という、柔道の道場の裏二階に、夫婦で暮していた。そこの三畳の一室を、光丸の隠れ<ruby><rb>家</rb><rt>が</rt></ruby>に当てがった。……

「すると、その部屋に、今、光丸さんが居るわけじゃね？」

マンは、すこし呆れ顔でいった。

「ええ」

マンは、煙管を取りだして、キザミをつめた。火をつけ、胸を張るようにして、深々と、一服吸った。ほろ苦そうな顔で、

「光丸さんは、もう、妊娠何ヶ月かね？」

「六ヶ月くらいと思います」

「お母さんが、昔、お前の入っとるドン腹をかかえて、家出したり、うろうろしたり、したことがあったが、……」

突然、ガタッ、ピシャッ、と、すさまじい音を立てて、襖が開いた。

金五郎が、出て来た。

「馬鹿たれ」

その声とともに、勝則の左頬に鳴った、平手打ちのはげしい音が、深夜の空気に、しいんと、<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>した。

金五郎は、つかつかと、仏壇の方へ歩いて行った。

<ruby><rb>牀</rb><rt>とこ</rt></ruby>の間と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くろがき</span>の大黒柱を境にしてならんでいる仏壇の奥に、<ruby><rb>金色</rb><rt>きんしょく</rt></ruby><ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>たる<ruby><rb>阿弥陀如来</rb><rt>あみだにょらい</rt></ruby>が静まりかえって、これも<ruby><rb>黄金</rb><rt>おうごん</rt></ruby>の<ruby><rb>蓮台</rb><rt>れんだい</rt></ruby>のうえに、坐禅を組んでいる。その下に、朱塗りの袋戸棚がある。そこを開いた金五郎は、中から錦の<ruby><rb>袱紗</rb><rt>ふくさ</rt></ruby>につつんだ一本の刀を取りだした。紐をとくと、すらりと、引き抜いた。若いころ、<ruby><rb>道後</rb><rt>どうご</rt></ruby>の町で手に入れてから、ずっと大切にしている助広である。手入れがよいので、水がしたたり落ちるかと思われるほど、刀身が青く澄んで、光っている。

金五郎は、<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の諸肌をぬいだ。青々とした龍の<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>が、白い左腕に浮きあがった。息子の前に立ちはだかった。

「勝則」

と、怒りの眼をぎょろつかせて、息子を睨んだ。

「はい」

「おれは<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>が煮えくりかえるごとあるぞ。あれだけいうといたのに、お前がこげなことしでかして、なんもかんも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わや</span>じゃ。大庭の親方の顔も、藤本さんの顔も、おれの顔も、丸つぶれになってしもうた。おまけに、友田喜造の顔にまで、泥を塗った。みんな、お前のためじゃ。<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち斬ってくれたい」

「すみません」

勝則は、深く、首をたれた。

かたわらにいるマンは、おかしなことに、はるか遠い日の思い出の中に、引きもどされて、ぽかんとなっていた。或る一つの光景が、あざやかに、眼に浮かんで来て、奇妙な錯覚に、戸まどっていた。

（今と同じようなことが、昔、あったわ）

二十五六年も前、夫が、これと寸分違わぬ恰好で、自分の前に突っ立ったことがある。大川時次郎が来たときだ。「<ruby><rb>間男</rb><rt>まおとこ</rt></ruby>、見つけた。打ち斬ってくれる」といって、<ruby><rb>団栗眼</rb><rt>どんぐりめ</rt></ruby>をギョロギョロさせた。あのときはランプ、今は電燈、そして、金五郎が年をとっているだけの相違である。

マンは、あらためて、長い歳月の流れを思ったが、同時に、腹の底からこみあげて来る笑いを押し殺すのに、一方ならぬ苦労をした。

（また、お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんがお芝居をしとる）

隣りの部屋から、襖を開いて飛びだして来たときから、マンは、そのことを感づいていた。

（あのときも、そうやったわ）

ガタッ、ピシャッ、と、<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>鳴り震動するほどのはげしさで開けられた襖、そのわざとらしさ、おどけ好きの金五郎。

「勝則」

と、さらに、威圧的な語調で、呼んだ。

「はい」

「もう、間もなく、夜が明ける。一番の汽車で、すぐに、博多に行け」

意味がわからず、息子は返事が出来ないようだった。なお、頭を落して、下唇をしっかりと噛んでいた。

「ええな、わかったな？」

「はい」

「たしか、一番は五時十七分の筈、まちがいなく、遅れんで、乗るんじゃぞ」

「はい」

「よし、もう、二階に帰れ。成敗は<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にする」

勝則は、立ちあがった。部屋を出て行った。二階へ上る力のない足音が聞えた。

金五郎とマンとは、顔を見あわせた。どちらからともなく、プッと、ふきだした。

「ワッハッハッハッ、……」

「アッハッハハハ……」

ゼンマイの切れるまでは<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>まらぬ笑い機械のように、腹をかかえて、笑いころげた。

二人の眼には、どちらにも、キラキラと光るものが浮かんでいて、とめどなく、頬を伝わり流れた。

笑いやむと、涙をふきながら、

「どうするか？」

急に、<ruby><rb>真顔</rb><rt>まがお</rt></ruby>になって、金五郎がいった。

「お父さんの考えは？」

「おれは、もう、仕方があるまいと思うちょる。光丸と別れる気で旅に出とる者を、わざわざ呼び返して、おれたちがくっつけたようなもんじゃないか。ここまで来て、どうなるもんか」

「そうね、どうで、こうなることやったのかも知れんわ。男と女とのこと、むずかしいのね」

「むずかしいような、やさしいようなことたい。どうせ、どっかに無理が行くんじゃ。実は、おれは、この間から、勝則のことじゃあ、妙に気持がチグハグで、弱っとった。かえって、なんか、さっぱりしたよ」

「あたしも」

「それでも、やっぱり、腹が立ってたまらんけ、頬べんた、一つ、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ちまわしてやったら、気がすんだ。<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>は、例の、照れかくしの下手な芝居さ」

「でも、……大庭の親方や、藤本さんの方には、……？」

「なんとかなろうわい。どの道、あっちも、こっちも、丸く、……そんな具合には行かん。おれは、いつの間にか、ヤクザ仁義の毒に、食いつかれちょったことに気づいたよ。顔――なんでもかんでも、顔。……顔をつぶした。顔が立たん。顔に泥を塗った。顔に免じて。……今度の縁談でも――大庭親方の顔をつぶしたらいかん。くずれたら、おれの顔が立たん。……そんなことばっかり考えて、かんじんの勝則の気持は、二の次にしとった。名だかい藤本組との結びつき、……慾もあったかも知れんなあ」

金五郎は、そこにある茶を飲んだ。冷たくなっていたが、気持よく、咽喉を通った。

マンは、煙管を取りあげた。

時計が鳴りだした。二人は、期せずして、その音を聞く顔つきになった。四つ、打った。

鶏が鳴いている。

「あの時計、丈夫じゃなあ」

「やっぱり、気張って、四円七拾銭も出して、買うただけあったわね」

「まだ、何十年も持つぞ」

明治三十九年四月、玉井組の営業開始紀念に、買い求めたのである。そのことが時計の裏に書いてある。その年の暮、勝則が生まれたのであった。<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>のあらわれた金五郎夫婦の顔に、歳月と歴史とが織りなす、人間の宿命を思う大らかな表情が、共通に、あらわれていた。

「無理に、勝則を藤本と縁組みさせたら、おれが黒石家に養子に行ったときのようなことが、起るかも知れんなあ」

金五郎が、そういえば、

「あたしも、村長さんの二男坊の敬やんと、夫婦にならねばならん義理あいに、なっとったんじゃけど、……」

マンも、自分に引きくらべて、それをいうのだった。

すでに、夫婦は、息子を許す気持で、一致していた。

「辻木の方も、あきらめにゃ仕様がないわい。要之助が、<ruby><rb>山笠</rb><rt>やま</rt></ruby>で喧嘩をふっかけたために、勝則を光丸のところへ、追いやったようなもんじゃけ」

「そら、そうと、お父さん、なんで、勝則を、博多にやんなさるの？」

「一番で<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>ったあと、すぐ、青柳さんのところ宛、電報を打つつもりじゃ。ウナ電で打ちゃ汽車より早よ着く」

「どんな電報？」

「カツノリ、ミツマル、フタリトモ、モンダイカイケツスルマデ、ソコニカクレトレ――ちゅうてな」

「ウフフ、お父さんの芝居のうまいこと」

玄関で、朝刊を投げこむ音がした。

数日が、経った。

辻木家からは、幾度となく、玉井家に、光丸の行方について、厳重な問いあわせがあった、が、

「こちらも、勝則が行方不明になって、探しとる始末で、……」

そういわれて、むなしく引きあげた。

勝則と光丸との奇妙な駈け落ちが、金五郎夫婦の許可によって行われていることは、辻木家では気づく筈もなかった。無論、光三も加担している期成同盟の存在など、まったく、知らない。辻木家では、警察に、保護願いを出して、捜索方を依頼したようだった。

また、数日が過ぎた。

金五郎は、八幡の藤本組を訪れた。藤本喜八郎の前に、率直に、事情を述べて、手をついた。頭を下げた。

「とんでもないことが出来ました。どんなにして、お詫びしたらよろしいでしょうか。存分に、お叱り下さい」

腕組みしていた藤本は、畳についている金五郎の手を取って、上げさせた。

「玉井さん、若い者には勝てませんよ。実は、わたしの方から、あなたのところへ、お詫びに参上しよう、と考えて居ったところでした」

「どういうわけで？……」

「いやあ、どうも、恥かしいこッてす。わが子のことながら、不行届、まるで、親というものは<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>同然ですなあ。大庭さんの媒酌で、おたくと縁談が整うて、こんなうれしいことはないと思うとりましたが、……肝腎の本人の方が、……」

「絹子さんが？」

「もう、とっくの昔、色男を作って居りまして、……」

金五郎は、きっと<ruby><rb>眦</rb><rt>まなじり</rt></ruby>をあげて、藤本の顔を見た。浅黒い、眉の太い、精悍な長顔である。

藤本は、照れくさそうに、頭をかきながら、

「申しわけないのは、こちらでした。今日にでも、大庭さんのところへ、お詫びに出ようかと存じていたんです。いやはや」

（嘘を、いっている）

金五郎には、それが、すぐに、わかった。そして、藤本喜八郎という人物に、あらためて、心を惹かれた。前に、数度逢ったときにも、信頼するに足る人物のように思っていたけれども、さらに、その感を深くした。普通の者であったならば、かんかんに怒るにちがいない。金五郎を罵倒し、席を蹴って立つであろう。そうされても仕方がないのである。

「そうですか。そんなら、おたがいさまというところでしたな」

金五郎も白ばくれて、そういった

「玉井さん」藤本は、膝を進めて、「今度のことは、子供同士の不始末、わたし等には関係のないことというてもええです。前々から、あなたとは<ruby><rb>御昵懇</rb><rt>ごじっこん</rt></ruby>に願いたいと考えて居りました。<ruby><rb>縁戚</rb><rt>えんせき</rt></ruby>になれば、この上ないとよろこんでいたとですが、破談になったからというて、無縁になるのは、残念至極です。子供たちのことは水に流して、おつきあい下さるとありがたいです」

「こちらこそ、そう願いたいと思うとります」

「辻木惣八は、わたしも、或ることで、すこしは関係があります。わたしには頭の上らないことがあります。息子さんと光丸君とのことで、辻木があくまで反対するのでしたら、わたしのところへ、ちょっと知らせて下さい。多分、お力になれるでしょう」

思わぬところに、味方が出来た。どんな<ruby><rb>詰責</rb><rt>きっせき</rt></ruby>でも、処分でも受けるつもりで来たのに、藤本は、裏切った勝則を助けようというのだった。

金五郎は、胸が迫った。無言で、藤本喜八郎と、堅く、手を握りあった。

大庭春吉も、不機嫌ではあったけれども、やはり、「もう、そこまでなっとるもんを、どうしようぞえ」と、苦笑して、怒ることはしなかった。大庭が気がねしたのは藤本喜八郎なのであったが、藤本が虚心に諒解しているので、いざこざは起らないわけであった。

「おマンが、心配しちょったが、子供ちゅうもんな、親の思うごと、ならんもんじゃなあ」と、笑う。「金五郎は、親をほったらかして、四国の田舎を飛びだした男、おマンも、同じように、広島を飛びだした女、そうして、二人の生んだ<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>が、親につらい目をさせるんじゃけ、お家の芸たい」

そんなこともいった。

金五郎は、井上安五郎に、<ruby><rb>仲介</rb><rt>なこうど</rt></ruby>を依頼した。安五郎も、勝則から頼まれたときには、反対したけれども、事態がここまで来れば、ひと骨折ろう、と、快諾した。

安五郎は、頑強な辻木夫妻を説得するためにほとんど「竹の家」に日参した。はじめはにべもなく弾ねつけていた夫妻も、遂に、観念した。光丸をやることを承諾した。これには、背後から働いた藤本喜八郎の力が、きっかけとなったらしい。藤本が、要之助に、別に、よい嫁を世話するということが、条件になった模様だ。

この話の進行中、友田喜造のいなかったことが、どれだけ、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>したか知れない。友田は持病の<ruby><rb>胃潰瘍</rb><rt>いかいよう</rt></ruby>手術のため、大阪の或る病院に入院中であった。

七月が終って、間もなく、勝則と光丸とは、潜伏していた博多の「<ruby><rb>隻流</rb><rt>せきりゅう</rt></ruby>館」道場から、それぞれ、自宅へ帰って来た。

八月十三日、仮祝言が行われた。雨のそぼ降る日の昼であった。

老松町の露地の奥に、長屋がある。そこの小さな一軒が、前から借りてあったが、それが新夫婦の新家庭になった。

子分の城三次が、渡船の中で、マンに逢ったとき、若オヤジの祝言には、町中ひっくりかえる騒ぎをしようといった。子分たちも、友人たちも、手ぐすね引いて待っていた。しかし実際は、いつどこで行われたか、誰も知らないほど、ひっそりと、式が挙げられた。

老松町の六畳の間に、七人分の料理がならべられた。近くの「つねき食堂」から、一人前四円の仕出しを取ったのである。酒も、あまりなかった。花婿も、花嫁も、普段着。勝則は<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>に袴、角隠しも、綿帽子も被らない島田の光丸は、大きな腹が隠しようがない。

列席者は、媒酌人の井上安五郎、辻木惣八、原田雲井、玉井金五郎、それに、花嫁の附きそいとして、姉の光三。

「<ruby><rb>高砂</rb><rt>たかさご</rt></ruby>や、この浦舟に、帆をあげて、……」

それは、原田雲井が<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>った。

みんなが帰ってしまった後、二人きりになると、どちらも、なんだか、ぼんやりなるような気落ちを感じていた。

「とうとう、一緒になったなあ」

「ウフフ……」

二人は知らずして、金五郎とマンとが、彦島で、はじめて、世帯を持ったときと同じ言葉を、呟きあっていた。

九月になって、家を変った。山手通二丁目に、すこし広い家を見つけて、移った。そこから、勝則は、毎朝、半纏がけで、沖の現場に通った。

朝食のとき、味噌汁を吸おうとすると、<ruby><rb>麩</rb><rt>ふ</rt></ruby>が入っている。もう、十日も、麩がつづいた。新妻は、近所の諸式商から買って来た麩の袋が、空になるまで、味噌汁に麩を入れるつもりらしい。

「おれを、金魚とまちがえとるんじゃあるまいな」

そういうと、<ruby><rb>良子</rb><rt>よしこ</rt></ruby>は、ぱっと赤らんだ。

その翌朝は、豆腐になった。その翌朝は、大根。その次は、ネギ。それから、千変万化した。

九月二十四日、男の子が生まれた。<ruby><rb>闘志</rb><rt>たけし</rt></ruby>、と命名。

昭和五年が、暮れる。

玉井金五郎、五十一歳。

同マン、四十七歳。

同勝則、二十五歳。

同良子、二十歳。

  


## 暴力

「おうい、金さん、寄って行かんかあ？」

その声で、立ちどまった。

シャツ一枚の森新之助が、<ruby><rb>鉋屑</rb><rt>かんなくず</rt></ruby>の中に突っ立って、にこにこと、こちらを見ている。右手に小槌、左手に<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>を持っているのは、それまで、しゃがんで、なにかを彫っていたらしい。

「<ruby><rb>日若座</rb><rt>ひわかざ</rt></ruby>」の再建は、着々とすすんで、<ruby><rb>普請場</rb><rt>ふしんば</rt></ruby>は活気を呈している。六月の強い太陽が新しい材木を光らし、聳え立つ高い屋根の梁に打ちつけられた、上棟式の板矢と<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>とが美しい。ひるがえる<ruby><rb>五色</rb><rt>ごしき</rt></ruby>の尾にたわむれるように、<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が一羽。

重い足どりで、うつむき加減に歩いていた金五郎は、声をかけられて、普請場へ寄って行った。チョッキの上に、「玉井組」の半纏を着ている。

「新公、お前まで、大工をやっとるのか」

「いんや、大工をしとるわけじゃない。表玄関にかける座名の看板に、ちょっと、いたずらしょるんじゃ。おれが辰の年じゃもんじゃけ、昇り龍を彫りよる」

金五郎はのぞきこんで、眼を丸くし、

「ほう、うまいもんじゃないか。いつ、そげな芸当を<ruby><rb>習</rb><rt>なろ</rt></ruby>たか」

「芸当ちゅうほどのもんじゃないよ。龍に見えさえすりゃ、ええとじゃ。……見えんかね？」

「<ruby><rb>大見</rb><rt>おおみ</rt></ruby>えたい」

「そうそう、お前も同じ辰年じゃったなあ。実は、金さん、お前の<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>の真似してな、この龍、……見てくれ。<ruby><rb>肢</rb><rt>て</rt></ruby>に、花をつかんどる」

「こりゃあ、なんの花かね？」

「まだ、形になっとらん。今、彫りよったところたい。<ruby><rb>椿</rb><rt>つばき</rt></ruby>の花じゃ」

「ふウン」

金五郎は、新之助が、女房を椿と<ruby><rb>観</rb><rt>かん</rt></ruby>じたのか、と、奇妙なくすぐったさを覚えた。自分はマンを菊と思い、勝則は良子を百合と考え、新之助は君香を椿と見ている。そして、それらの花々が、いずれも、龍と結びつけられていることに、偶然とはいいがたい宿命のようなものを、金五郎は感じた。

「いつごろ、<ruby><rb>竣功</rb><rt>しゅんこう</rt></ruby>の見込みかね？」

「まだ、半年はかかろうなあ。冬のお<ruby><rb>蛭子祭</rb><rt>いべっさん</rt></ruby>には、なんとか間に合わせたいと思うて、馬力をかけよる」

「コケラ落しには、なにをやるつもりじゃ？」

「いろいろ考えちょるが、金さんも智慧を貸してくれ」

「おれは、興行のことはわからんよ」

「北九州素人浄瑠璃大会、ちゅうのは、どうじゃろか」

「そうじゃなあ……？」

「東京か関西かの大歌舞伎を<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt></ruby>んだら？――そういう<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>もあるけんど、おれは、やっぱり、なんか地元に関係の深いもんで、蓋をあけたいんじゃ。素人浄瑠璃の会なら、知った者がみんな出られる。おれも出るよ。無論、お前にも出て貰う。玉井春昇太夫の三勝半七も、永う本式に聞かんけのう」

「おれは、駄目じゃ。じゃが、そいつは、ええ思いつきかも知れん」

「そのうち、本式に相談するけ、頼む。島崎勇次も、大賛成してくれちょる。島崎も、このごろ、義太夫を始めたもんじゃけなあ。そらそうと、金さん、島崎に逢うたら、お前からも、くれぐれも礼をいうちょってくれんか。この日若座が建つについて、島崎がどれだけ力になってくれたか知れん。お前の援助を、ありがとう思うとることはいうまでもないが、島崎の力の入れかたは、格別じゃよ」

「そうか、そんなら、今度逢うたとき、よう礼をいうとこう」

金五郎は、仕方なしに、そう答えた。けれども、実際は、このことを、新之助のように、手ばなしでよろこぶ気持には、どうしてもならなかった。それどころか、「チーハー」の島崎勇次と、森新之助との結びつきに、いいようもないはげしい不安が湧く。

新之助の方は、金五郎の気持などには頓着なく、終始、にこにこしている。焼ける前に比して数等立派な、日若座落成の日のことを考えると、楽しくてたまらぬらしい。しかし、やっと、金五郎が、先刻から、あまり晴れ晴れしていない様子に気づいて、

「金さん、大層、元気がないごとあるが、……やっぱり、争議がうまく行かんかね」

「うん、どうもなあ」

「むずかしいもんじゃのう」

「今日も、会見はお流れじゃ。肝腎の先方は、責任者が旅行中とかいうことで、話にならん。この争議がはじまってから、関係者が、よう旅行したり、病気したりする。まるで、一人角力を取っちょるようじゃ。……あんまり、気が腐るけ、「六ゾロ」にでも寄って、源公と一杯やろうかと思うて、行きよった」

「労働組合が出来ても、うまい具合には行かんとみえるな」

「勝則が、やっと、仲仕の組合を作って、いろいろやっとるけんど、……資本家というものは、なかなかなあ。……それに、例の友田喜造が、……」

「そういえば、勝則君が、労働組合で、東京の、なんとかいう劇団を招ぶとかいいよったが、今度はおれの<ruby><rb>劇場</rb><rt>こや</rt></ruby>は間に合わんわい。そう、いうちょいてくれんか」

「それは、知っとるじゃろ。……そんなら、また」

金五郎は、そこを離れた。

歩きながら、唇を噛んで、

（おれは、力が足らん）と、情なかった。

夕刻、玄関を入ると、足音を聞いて、マンが、待ちかまえていたように、飛びだして来た。

「どうでしたの？」

「今日も、駄目じゃ」

「ほんとに、はがいいのね」

マンは、歯ぎしりをするようないいかたをした。

「勝則は？」

「一ぺん帰って、御飯を食べてから、また出て行ったけど、……」

「組合の<ruby><rb>集合</rb><rt>より</rt></ruby>じゃろ。毎晩のごと、やっとる。……危いけ、夜は気をつけるごと、よういうてはあるが、……」

その夜、寝る前に、毎日の習慣の日記をつけたが、一段と肉太い字で、

「実ニ、実ニ、腹ガ立ツ」

と書いたきり、後を続ける気持が起らなかった。

（一体、どうすれば、よいのか？）

的確な行動の手段が、頭に浮かんで来ないのである。これまで、どんな事態に対処しても、熟慮して判断を下せば、強い意志力と、なにものにも屈しない実践力とで、すべてのことを解決して来た。それなのに、今度の問題は、金五郎を当惑させる。昏迷させる。

（おれは、馬鹿じゃ）

と、自信を喪失する気持にさえなるのだった。

金五郎は、日記の前のページを繰ってみた。

――三菱炭積機建設問題。

この文字は、一年間以上も、前の日記に、いたるところ、散見している。前年四月、上京したときには、三菱本店を訪問した。四度も行ったのに、四度とも玄関払いを食わされた。この問題は、年が改まってから、にわかに表面化した。

「<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>における数千の石炭仲仕は、石炭荷役をすることによって、僅かに、生きている。然るに、次々に、荷役は機械化されて、仲仕の仕事は減少した。仲仕の生活は、貧窮の底に叩き落された。このうえ、またも、三菱炭積機が建設されるということは、そのまま、仲仕の飢餓と死とを意味する」

建設中止歎願書に<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>された、この明瞭な道理によって、反対運動が起されたのである。それが、うまく運ばない。

――友田喜造。

立ちふさがる暗黒の壁の中に、金五郎は、この親分の鋼鉄の顔を見るのであった。

（友田喜造と、いよいよ、最後の対決をせねばならんときが来た）

そう、思う。もとより、覚悟していたところであった。しかし、そんなら、その「最後の対決」というのは、実際には、果して、どういうことなのか？――金五郎は、それを考えると、昏迷し、慄然とならざるを得ないのである。

去年、上京したとき、「筑紫館」で、井上安五郎に話したことがある。

「いよいよ、土壇場に来たのかも知れん。長い敵じゃったが、今度の問題では最後の対決になるかも知れんと思うとる。……わたしは、一度は死んだ男、……もう一ぺん、死んでみるのも面白い」

そういって、笑ったのであったが、今、現実に当面してみると、笑うどころではないのである。脚下に深淵が口をひらき、地獄をのぞいているような恐しさであった。

金五郎は、なおも、日記のページをめくった。丹念にメモする癖で、経過は明瞭である。けれどもどのページからも、解決の<ruby><rb>曙光</rb><rt>しょこう</rt></ruby>は見られなかった。それどころか、ほとんど、毎日のページに、憤りや、歎きや、自嘲や、ときには、放棄的な、暗澹とした文句が書き列ねてある。

二月二十五日――聯合組小頭。集マラヌタメ、流会。単独ニ重役ニ当ッタガ、「玉井君、コノ問題、アマリツツクナ」トイウ。

三月一日――路上デ、友田ニアッタ。「君ガ、昔、小頭ノ組合ヲ作ッタガ、セガレガ、又、仲仕ノ組合ヲ作ッテ、港ヲマゼクルラシイナア」トイウ。「マゼクルノデハ無クテ、オサメルツモリデショウ」「親子トモドモ、若松港ノ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ガン</span>ジャワイ」トイッタ。友田ハ胃カイヨウノ手術ケイカガヨカッタノカ、昔ヨリ血色ガ善クナッテ居ル。モウ少シ、病院ニ居レバ良カッタノニ。

三月五日――極楽寺ニテ、「若松港沖仲仕労働組合」結成式。ソノアト、スグ、三菱炭積機反対仲仕大会ニ引キナオシタ。勝則、議長。

三月十五日――公会堂ニテ、三菱問題ヲ市民ニ聞イテ貰ウ演説会。カエリニ、組合ノ旗ヲ立テテ、町ヲ走ッタトカデ、勝則以下、十三名、警察ニ検束サレタ。馬鹿ゲトル。貰イ下ゲニ行ク。旗ヲ取リアゲラレテ、翌朝、出サレタ。

四月七日――小頭組合総会。

この日に、三菱問題は、まったく新しい展開をしたのであった。金五郎は、組合長として、悲痛な宣言をした。

「昨今のような状勢では、もはや、現在数の仲仕や、小頭は、必要ありません。餓死を脱れんとしますなれば、大部分の者は、長年馴れ親しんだ仕事に訣別して、転業するの一途です。すべては機械のためです。しかし、それは今度の三菱機だけのためではありませんから、荷主全体、つまり、石炭商組合から、救って貰う外はありません」

このため、小頭組合として、三菱、三井、麻生、住友、貝島、その他を含む「若松石炭商同業組合」に対して、転業救済資金、二十五万円を要求する決議がされたのであった。沖仲仕労働組合も、全面的に、これに同調した。歎願書が作製された。

ところが、これを荷主に取り次ぐのは、請負業者である。しかも、その役目を引きうけたのは、友田喜造であった。

四月十二日――願書ヲ、友田ニアズケル。ヘラヘラト、馬鹿ニシタヨウナ笑イカタヲシテ、「途方モナイコト、イイ出スモンジャナ。君タチ、正気カ」トイウ。「頼ミマス」「小頭全体デキメタモントイウナラ、取リ次ギハスルケンド、コンナ金、アテニシトルト、アテガ外レルバイ」

この書類は、炭商組合に手交されることはされたらしい。しかし、梨の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぶて</span>同様であった。

四月十八日――返事ナシ。重役、ルス。

四月二十四日――炭商組合ニ行ク。面会謝絶。

四月二十八日――「丸金」ニテ、小頭組合評議員会ヲナシタルモ、二人シカ来ズ、流会。本気デ、コノ問題ニブッツカル気持ガ有ルノカ、無イノカ。

四月三十日――友田、旅行。

五月一日――メーデー。沖仲仕労働組合参加シタガ共働組ハ来ナイ。

五月四日――共働組ノボーシンカラ、オカシナコト聞イタ。友田ガ、炭商組合カラ金ヲモライ、小頭組合ノ二十五万円要求ヲ、テッ回サセル約束シタラシイ、ト。ホントカ、ウソカ。

五月十三日――炭商組合理事ニ会見。「イマ、研究中デス」トイウ。「ナニヲ研究中デスカ」「イロイロ」「金額ニツイテデスカ」「イヤ、ソコマデ行ッテ居ナイ」「受ケツケルコトハ受ケツケルノデスカ」「研究中デス」ハラワタ、ニエル。ヌラリ、クラリ、ナマコ問答ナリ。

五月十八日――「緑屋」ニテ、市参事会員夕食シタルトキ、井上安五郎君ガ話シタ。「玉井君、友田ガ三菱ノ幹部ト話シテ居ルノヲ聞イタヨ。虫ケラノヨウナゴンゾ達ニ、グズグズ言ワセテハ、自分ノ顔ニカカワル。虫ケラガ組合作ルナンテ、生意気ナ。今度ノ事ヲエエ機会ニ、小頭組合モ、労働組合モツブシテ見セマス。ソウ言ッテ居ッタ」実ニ、実ニ、腹ガ立ツ。

五月二十二日――会見。オ流レ。

こういう風に、争議の経過を、日記を繰りながら、ふりかえる金五郎の顔は、苦渋に歪む。舌打ちをして、下唇を噛む。

そうすると、

――友田喜造。

最後に、きまって自分の前に突っ立つ、この宿敵の像。数箇所に刀痕のある、どす黒い顔に光る<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>のような眼が、ニタニタ、嘲笑するように笑っている。

「玉井、今度こそは、貴様のグウの音をとめてやるぞ」

そういっている女のような黄色い声が、はっきりと、聞える。

（どうしたら、よいのか？）

考えていると、金五郎は、泣きたくなって来るのであった。

マンは、毎日、金五郎の顔色を見ている。はがゆくてたまらぬらしい。すこしも進捗しないことを知って、

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん、いっそ、ストライキをやんなさいよ」

そんなことを、いう。

或る日、もう日が暮れてから、金五郎は、不思議な様子で、帰宅した。

いつものように、チョッキの上に「玉井組」の半纏がけであったが、まるで、身体の中心をうしなったように、ふらふらしている。酔っぱらっているようでもあり、<ruby><rb>素面</rb><rt>しらふ</rt></ruby>のようでもある。顔色は青ざめ、眼はとろんとして、どこを見ているのかわからない。しまりのなくなった唇はたれ下がって、白っぽい舌がはみ出ている。朝、出るときには被っていた帽子も、どこかに落して来たらしかった。

「ただ今」

玄関の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>をまたぎながら、そういったらしいのだが、誰の耳にも聞きとれなかった。

「お父さん、どうしたの？」

マンのその言葉が聞えたのか、聞えなかったのか、うつろな眼で、ジロリと見て、

「ウンコじゃ」

くぐもった声でいって、ゆらゆらと、便所の方に行った。廊下の<ruby><rb>欄干</rb><rt>てすり</rt></ruby>を伝いながら、大便所の戸を開けて入った。

「変じゃなあ」

ババンも、不審そうな顔をしている。

かすかな風が庭の立木を鳴らし、池でしきりに鯉か鮒かのはねている音がする。その音が静かな夜の空気を破っているばかり、便所の方は森閑としていて、コトッという音もしない。おどけ好きの金五郎は、大便所から、わざと、家中にひびくような巨大な放屁をして見せることがあるのだが、小さなその音もしなかった。

マンは胸騒ぎがして来た。

「秀子、ちょっと行ってごらん」

秀子は、立って行った。まもなく、便所の方から、けたたましい声が起った。

「お母さん、早よ来てえ。お父さんが、死んどるう、……」

マンは、弾丸のように、飛んで行った。ババンがその後から続いた。便所の前で、秀子が、おんおん泣いている。開かれた戸の中に、金五郎が、提灯をたたんだようにくず折れているのが見えた。

「お父さん」

そのマンの声も、もう、聞えないらしかった。

「秀子、すぐ、高山先生を呼んでおいで」

秀子は、医者のところへ駈けだして行った。

ババンに手つだって貰って、重い金五郎を、便所の中からかつぎだした。廊下をずるずる引きずって、座敷につれて来た。金五郎は、かすかに<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いて、眼を引っぱりあけようとした。しかし、上下の瞼がくっついたように、離れない。そのドロッとした不気味な眼を見て、マンは、ぞっとした。

「どげしたとかなあ」

ババンは、もう、おろおろしている。

「毒を盛られたとかも知れん？……畜生」

気の立っているマンは、涙も出ない。歯を噛み折るほどの口惜しさだった。

高山医師が、やって来た。ちょっと診察して、

「<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>中毒です」

と、いった。

「河豚？」

マンは、唖然とした。呆然となった。あッと口が開いたまま、ふさがらない。

医師は、応急手当をした。ゴム管を口中から、胃袋までさしこんで、吐瀉させた。薬をのませ、幾本も注射を打った。

「勝則は？」

と、ババンが、マンの顔を見た。

マンは、答える気力がない。

「勝則が居らんのに、もしものことがあったら、……？」

「もう、大丈夫です」と、医師が笑いながら、いった。「眠ってしまわないように、注意しといて下さい。時間が経過したら、もとに戻ります。すこし冷やした方がよいでしょうね。変ったことがあったら知らせて下さい」

そういって、帰った。

二時間ほど後、金五郎は意識を回復した。正常のいろがかえった<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>で、夢から醒めたように、あたりをキョロキョロ見まわす。マンの顔を認めた。

「マン」

と、呟くように、呼んだ。

マンの右手が、いきなり、金五郎の左頬に飛んだ。そのはげしい音が、しゅうんと、家中に<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>した。

「アイタッ、なにするか」

金五郎は、びっくりして、頬に、手を当てた。

「なにするかじゃないですよ。なんですか。河豚に酔うて死にかかったりなんかして。……今を、どんなときと思うとるの？　どこで、誰と、河豚食うたのか知らんけんど、死んだらどうするとですか？　この、大事な大事なときに」

マンの眼に、涙があふれて来た。

「<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>の日のためばっかりに、どんなことでも、<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えて来たとじゃないですか。これまで、堪えきれんようなことも、随分あった。それを、歯を食いしばって堪えて来たのは、なんのためなの？　数千人の働く人たちの大きな問題のために、小さい争いを避けて来たのよ。そんなこと、あたしがいわなくたって、百も二百も承知しとる癖に、<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>なんて食うて。河豚はいつも食うて、当らんことを知っとる筈なのに、どんな河豚を、どうして食べたの？　今ごろの河豚、食うもんがありますか。それとも、敵方から、計略で食わされたとですか？　この大切な問題の最中に、一番責任のあるあなたが、こんな考えのない、……仲仕の代表、玉井金五郎が河豚中毒で死んだ。……そういわれてもええの？　笑いもんになっても、ええの？　おお、恐し」

逆上したように、しゃべりつづけていたマンは、眼を真赤にし、ワア、ワアと、大声を立てて泣きだした。

<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>の水の色が、<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>に濡れた後、やがて、夏雲を映すようになった。

戸畑側の<ruby><rb>新川</rb><rt>しんかわ</rt></ruby>岸壁には、三菱炭積機が、着々と、工事を進められた。

港には、なにごともないように、日夜、船舶が出入した。

聯合組の隣りに、「若松港汽船積小頭組合」の事務所がある。その看板とならんで、三倍も大きな、「争議本部」の新しい板札がかかげられた、小頭組合の裏にある「玉井組詰所」の二階に、「若松港沖仲仕労働組合」の看板がかかっている。赤地に、スコップ、<ruby><rb>雁爪</rb><rt>がんつめ</rt></ruby>、<ruby><rb>櫂</rb><rt>かい</rt></ruby>、を組みあわせて図案化した組合旗が、ひるがえっている。明治建築の名残りをとどめている「石炭商組合」の事務所は、そこから、一町とは離れていない。これらの建築の間を、このごろは、連日、あわただしげに、多くの人々が右往左往し、殺気に似たものがただよっていた。

「この争議はどうなるとじゃ？」

「石炭商が強硬で、てんで、話にならんらしいわい」

「資本家は、おれたちゴンゾが<ruby><rb>乾干</rb><rt>ひぼ</rt></ruby>しになろうが、のたれ死にしようが、なんとも思わんのよ。痛うも、<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>うもねえとじゃ」

「人間と思うちょらん」

大籠、モッコ、ロープ、バイスケ、などの置いてある、石炭でよごれた岸壁附近で、沖仲仕たちは、三々五々、しきりと、評定をする。そして、どこの組でも、最後になると、申しあわせたように、

「友田喜造じゃ。あいつが、ほんとうのおれたちの敵じゃ」

という、歯を噛む呟きに落ちつくのが、常であった。

労働組合では、書記長の勝則が、同志たちと、<ruby><rb>謄写版</rb><rt>とうしゃばん</rt></ruby>刷りの「組合ニュース」や、ビラなどを次々に作って、仲仕たちの闘志をあおることに努力していた。しかし、その団結は、いつでも、共働組の一角からくずれてしまう。

「お父さん、どうも、共働組の仲仕は――労働組合に入ると、命がないぞ。……という風に、友田の子分連中から、脅迫されとるらしいですよ。どうしても、結束が出来ません」

勝則は、沈痛な顔をした。

「昔から、同じ流儀じゃ。小頭の足なみも乱れて来た。……どげしたら、ええか……？」

金五郎は、腕組みして、絶望的な表情を浮かべた。大抵のことにはへこたれぬのであるが、この問題には、頭が<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>く。

（友田喜造が、話してわかるような男なら、ええとじゃが、……）

談合ということが、絶対不可能であることは、長い経験で、いやというほど、身にしみている。どんな話しあいをしてみても、けっして実行しないし、寝返りを打って、相手をおとしいれてしまう。その苦杯を幾度なめたか知れない。

マンは、相かわらず、いても立っても居られないほど、はがゆくてならぬ様子だ。

「お父さん、あれよ、ストライキ、思いきって、ストライキをやんなさい。そうせにゃ、片づきゃせん」

自分が采配でも振りたげに、いらだつ語調でいうのだった。

「おれも、それを考えんことはない。勝則とも話しとる。……じゃけど、それは、藪蛇の危険がある。もし、共働組が抜けたら、……いや、かならず裏切る。……そしたら、今度こそ、洗いざらい、根こそぎ、港中の仕事は、友田一派に取られてしまう。友田の思う壺じゃろうけなあ」

「友田の鬼奴」

マンは、そこに友田喜造がいるかのように、口惜しがった。

六月十六日になって、金五郎は、日記に、

「今日モ駄目、炭商組合トノ交渉ハ無要、敵ハ友田、友田サエ居ラナケレバ」

そう書いて、妖しく、<ruby><rb>団栗眼</rb><rt>どんぐりめ</rt></ruby>を、ギラギラ、光らせた。

六月十八日、一つの事件が起った。

「若松港沖仲仕労働組合」の名で、東京から、劇団「左翼劇場」がよばれた。公演は六月十九日夜、六時半、会場は旭座、ということが決定された。なお、劇団は、小倉、八幡、門司、等で、公演する予定だった。だしものは、「太陽のない街」（四幕寸場）、「プロ裁判」（一幕）の二つ。労働組合では、特に、ガリ版で、「組合ニュース号外」を印刷した。劇団について解説し、「一人のこらず、働く者のための演劇を見に行け」と書いた。料金は、一般が、一等一円五十銭、二等一円、三等六十銭であったが、組合では、三十銭の「労働者券」を発行した。

金五郎が、笑って、

「おれも仲仕じゃけ、三十銭で、ええじゃろ？」

勝則にそういって、マンと二人で、当日を楽しみにしていた。

勝則夫婦は、前年末、山手通りの新居から、<ruby><rb>正保寺町</rb><rt>しょうほうじまち</rt></ruby>の家に帰って、両親と同居していた。

公演の前日、劇団員四十名ほどが、若松に来た。それぞれ、三ヶ所に、分宿した。

俳優十人ばかりを、玉井組の大伝馬船に乗せて、勝則は、洞海湾内を案内した。

半纏姿の勝則は、櫓をこぎながら、

「あれが、問題の三菱炭積機です」

いちいち、現地について、争議の経過を、ひととおり、説明、報告した。

「やっぱり、日本一の石炭港だけあるわね」

女優の一人が、断髪を潮風になぶらせながら、感歎するように呟いた。

戸畑側の<ruby><rb>新川</rb><rt>しんかわ</rt></ruby>岸壁に、貝島炭積機とならんで、三菱炭積機工事が、着々と進んでいる。それは、巨大な鋼鉄の昆虫に似ていた。海上には、三井の「ローダー」、三菱の「ポンツウン」などの沖積機械が浮かんでいる。それらの上を、多くのカモメが白く羽ばたきながら、悠々と飛びかい、或るものは、獲物を見つけて、さッと、海面に向かって、急降下して行った。

船に乗っていたのは、佐々木孝丸、滝沢修、松本<ruby><rb>克平</rb><rt>かっぺい</rt></ruby>、嵯峨善兵、島公靖、その他の人々だった。

公演準備事務所として、<ruby><rb>裏仲町</rb><rt>うらなかまち</rt></ruby>にある「玉田美粧院」の二階八畳が借りてあった。昔は「<ruby><rb>女髪結</rb><rt>おんなかみゆ</rt></ruby>い<ruby><rb>処</rb><rt>どころ</rt></ruby>」という看板がかかり、お京や染奴の髪を結ったことのあるおナツの店であったが、今はパーマネントもやる近代的な美粧院になっていた。

そこへ、栗田銀五があらわれた。

「玉井は居らんか」

そういうと、もう、二階の階段をあがって来た。

青白い顔はいっそう青ざめ、ひきつったように、全身を貧乏ゆるぎさせている。剃刀のように鋭い<ruby><rb>白眼</rb><rt>しろめ</rt></ruby>勝ちの瞳は、殺気をたたえていて、はげしく、<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>った。白っぽい<ruby><rb>単衣絣</rb><rt>ひとえがすり</rt></ruby>に、<ruby><rb>白縮緬</rb><rt>しろちりめん</rt></ruby>の帯をしめている。勝則の前に、<ruby><rb>中膝</rb><rt>ちゅうひざ</rt></ruby>で坐った。<ruby><rb>後手</rb><rt>うしろで</rt></ruby>にして、両手でつかんでいるカンカン帽が、カラカラと鳴っている。

席には、組合員や、劇団員が、七八人いた。この地方で、古くから演劇運動をやっている<ruby><rb>河原重巳</rb><rt>かわはらしげみ</rt></ruby>や、中村勉も、いた。

「なにか、御用ですか」

と、勝則は<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「用とはなんか。この芝居、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>、旭座に、血の雨が降ってもええ覚悟なら、やってみれ」

「どういうわけです？」

「おれに、わけを訊くのか。フン、<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>、たけだけしいちゅうは、お前等のことじゃのう。吉田の大親分に当てつけた芝居を、この若松で、やりきるなら、やってみい」

「それは、なにかの誤解ですよ」

「誤解？　糞くらえ。大体、太陽のない街、なんて、どこの世界にあるか。外国にはあるかも知れん。いんや、日本のどこかにも、ひょっとしたら、あるかも知れん。おりゃあ、<ruby><rb>学</rb><rt>がく</rt></ruby>がないけ、よそのこた知らん。しかし、この若松には、ちゃあんと、太陽があるんじゃ。吉田磯吉という<ruby><rb>大太陽</rb><rt>おおたいよう</rt></ruby>が、昼でも、夜でも、ギラギラと、かがやいとるんじゃ。馬鹿にするな」

返事が出来なくなって、黙った。「それに」と栗田は、懐から、一枚の印刷物をとりだして、「これを見りゃあ、お前等の魂胆は、一目瞭然じゃないか」それは、解説や、配役を印刷した、公演に関するリーフレットだった。「フン、やることが荒けねえのう。……おい、これは、なんじゃ？――会社の犬、吉田？　犬の吉田が、スキャップを抱きこむ？……スキャップ、ちゅうのは、裏切り者ちゅうことじゃろうが。……その犬の吉田が、おしまいにゃあ、争議団員から、袋だたきに逢う？……ようもまあ、仕組みやがったもんじゃなあ」

勝則たちは、おどろいた。意外のいいがかりである。原作も、脚本も、そうなっているのであって、けっして、作中の「吉田」と、「吉田磯吉」とを結びつけたわけではなかった。偶然の一致だ。呆然となっていると、

「こげなこた、みんな、玉井金五郎の奴の<ruby><rb>差金</rb><rt>さしがね</rt></ruby>にちがわん。金五郎の方には、別に、挨拶をする。なんでも、ええ。明日、やるなら、やれ」

吃りながら、そういい捨てると、立ちあがった。ふるえる手で、カンカン帽を頭にのせ、歩調をとるようにして、出て行った。

勝則は、自転車に乗って、海岸通りの「争議本部」に走った。父に報告しておこうと思ったのである。しかし、金五郎はいなかった。

「今日は、市会の方ですよ」

聯合組小頭の三崎清次郎が、そういった。三崎に概略を話しておいて、また、玉田美粧院に帰った。

午後五時から、老松町にある会館「昭和クラブ」で、座談会が開かれることになっていた。ところが、定刻すこし前から、会場の周囲を、怪しい人物たちが徘徊しはじめた。いずれも、<ruby><rb>遊人体</rb><rt>あそびにんてい</rt></ruby>で、時間とともに、人数が増える。懐中に、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>か、日本刀かを隠してでもいるように、妙な恰好をしている。この状況が、「玉田美粧院」へ報告されて来たので、座談会は中止した方がよい、ということになった。二階に集合して、これから出かけようとしていた俳優たちは、行くことを<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めた。河原重巳や、中村勉たちも来ていた。

すると、日が落ちて、すこし表が暗くなって来たころ、にわかに、美粧院の前が騒然として来た。

「座談会は、どこじゃ？」

「こっちに変ったのか」

「上がれ、上がれ」

どよめきと、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>き声とともに、大勢の暴力団が、土足のまま、二階に押しあがって来た。

八畳一間しかないので、逃げることが出来ない。二三人、屋根から、飛び降りた。

「来やがれ」

「畜生」

「吉田大親分を犬ちゅうたのは、どいつか」

口々に、勝手なことをいいながら、暴漢たちは、さんざんに、あばれた。組合と、劇団側とが無抵抗なので、あばれ放題である。一人が謄写版を投げた。電燈の笠にあたって割れた。電気が消えた。別の一人が、蓄音機をかかえあげた。両手でさしあげて、振りかぶった。それまで、レコードは廻っていたので、高い暴漢の手のうえで、「メーデーの歌」が鳴りつづけた。

「くたばりやがれ」

巨漢は、ポータブルを投げ落した。誰にも当らなかった。それは、わざと人のいない場所を目がけて投げたことが、明瞭だった。彼等が真剣になぐりこみをかけて来たのなら、全滅したかも知れない。しかし、奇妙なことに、大仰のわりに、被害は少かった。攻撃が緩慢であったからだ。兇器をふりまわす者もなかった。山本<ruby><rb>安英</rb><rt>やすえ</rt></ruby>、その他の人々が、すこしずつ、怪我をした。

暴漢の間をすり抜けた勝則は、玉田の裏にある長尾医院の電話を借りに行った。額と、首筋のところを血が流れていた。警察に、電話をかけた。なかなか出なかった。やっと、通じた。

「そうですか。すぐに、行きます」

その返事があったのに、警官隊は、長い時間、やって来なかった。ようやく、十人ほど、来たときには、暴漢たちは逃げ去った後だった。

「お前等、いかんじゃないか」

まるで、遊びごとのような<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいいながら、お座なりのように、二三人、検束して行った。

警察で、暴力団は、非常な優遇をうけた。豚箱ではない畳敷の道場のまんなかに、蒲団を敷いて寝た。にぎりずしやら、饅頭、煙草、酒などの豪勢な差入れがあった。

しかし、栗田銀五の一の子分、<ruby><rb>加賀新七</rb><rt>かがしんしち</rt></ruby>は不服である。小柄ではあるが、全身、胆ッ玉といわれている、<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>で、面白いところのあるこの博徒は、口を尖らして、署長にいった。

「警察から頼まれたけ、やったとに、どうして検束するとですかい？」

「いや、<ruby><rb>外聞</rb><rt>がいぶん</rt></ruby>があるんでなあ。まあ、お客さんとして歓待するから、そういうな」

後になって、明瞭になったことであるが、すべては計画的なのであった。……

吉田磯吉の方から、警察署長にたいして、「ああいう芝居を、なぜ、やらせるか」という抗議が出た。警察としては、適法の興行を不許可にすることは出来ない。そこで、署長は、こっそり、友田喜造に、「なんとかして、公演不能になる方法」を、依頼した。友田は、栗田銀五に命令を降した。栗田は、子分を動員した。――という次第であった。

このため、六月十九日の公演は、中止された。

これを知った金五郎の瞳に、怪しい燐火が燃えた。破れるほど、唇を噛んだ。

（友田喜造が正体をあらわした。すでに、今度の争議にたいして、おれたちの――いや、沖仲仕全部の敵として立つ腹を定めたにちがわん）

それを、疑うことが出来なかった。

七月、八月、となっても、問題は、すこしも、進展しなかった。進展するどころか、長びくことによって、奇妙な倦怠感がただよい、歩調はみだれて、後退、悪化する危険を生じた。

マンは、毎朝、食事のとき、金五郎と勝則とを<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しった</rt></ruby>する。

「こんなことで、どうするとですか。あんただちが<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>められとるとよ。どうせ、大したこた、しきらんと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たか</span>をくくられとる。向こうは長びかせといて、<ruby><rb>有耶無耶</rb><rt>うやむや</rt></ruby>にしてしまおうという考えじゃ。その作戦に引っかかっとる」

「こっちでも、そのことは、わからんことはないとじゃが、……」

「お父さん、あれよ、あれ、ストライキ、もう、その一手よ」

「それがなあ、……」

「勝則、お前、なんのために、仲仕の組合作ったの？　こういうときに、ストライキやらんで、組合の役はないじゃないか」

「それは考えとるんですが、……」

「はがいいのねえ。……こんなときのためばっかりに、いろいろなこと、我慢して来たとに、……」

無念そうなマンの眼に、涙が浮かんで来る。

会議と、会見とは、なお、幾度となく、つづけられた。すべてが、徒労に終った。

各新聞の論調は、ほとんど、仲仕側の要求を正当なものとして、支持した。

原田雲井の「若松新聞」は、連日、石炭商側の非を鳴らした。そして、「<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>にも、請負業者中のスキャップ、吸血鬼ともいうべき暴力団長と結託して、哀れなる沖仲仕の<ruby><rb>膏血</rb><rt>こうけつ</rt></ruby>をしぼる」などと書き、暗に、友田喜造を諷した。「九州民報」では、高野貞三が、さかんに、論陣を張って、「全若松市民は、飢餓に瀕して、洞海湾の藻屑とならんとする、数千の沖仲仕救済のために起て」と、輿論の<ruby><rb>喚起</rb><rt>かんき</rt></ruby>に努めた。

八月十七日、争議本部で開かれた小頭組合総会で、遂に、<ruby><rb>怠業</rb><rt>サボタージュ</rt></ruby>を行うことが決議された。

「この作戦の結果如何が、争議の勝敗を決定します。各組は、一人も残らず、足なみを乱さぬように願いたい」

争議団長の金五郎は、それから、列席していた共働組の小頭、<ruby><rb>高司清市</rb><rt>たかつかさせいいち</rt></ruby>にいった。

「高司さん、わかりましたな？」

「よくわかっていますよ。小頭組合が全体で定めたことを、どうして、わたし等が破るもんですか。……なあ、みんな」

高司は、そこにいた七八人の共働組の小頭をかえりみた。

「そうとも、そうとも」

「団結は崩さんよ」

金五郎は、軽く、頭を下げた。

「ありがとう。最後の戦いじゃ。あんた方が一致して下さりゃあ、この争議は勝ちです」

翌十八日から、怠業が実施されることになった。人員と時間とを制限して、作業能率を半減すること。

ところが、結果は、まったく、金五郎の予想を裏切った。いや、予想どおりであったというべきか。

聯合組、三洞運輸、山九組、大高組、共盛組、等の小頭と仲仕は、すべて、決議を守ったのに、共働組だけが、従前どおりの作業をした。当然の結果として、荷主は、協定を無視して、仕事を、続々と、怠業しない共働組へ持って行く傾向を示した。

秩序は混乱し、不穏の気が、海上にただよって来た。

金五郎は、狼狽した。

（友田喜造の命令じゃ）

わかりきっている。

夕刻、金五郎は、勝則とつれだって、帰って来た。にこにこしている。手にぶら下げていた竹の皮包みを、マンに渡して、

「上等の牛肉を、うんと買うて来た。今夜は、家内全部で、すき焼きじゃ。久しぶりで、一杯やるけ、酒の<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>もつけちょいてくれ」

そういって、風呂に入った。

「暑いのに、お父さんがすき焼なんか思いたって、……」

マンは笑ったが、大きな丸い飯台に、<ruby><rb>牛鍋</rb><rt>ぎゅうなべ</rt></ruby>を中心に、一家が揃うと、賑やかで、楽しかった。

総勢十三人である。――金五郎、マン、勝則、良子、<ruby><rb>闘志</rb><rt>たけし</rt></ruby>、繁子、<ruby><rb>里美</rb><rt>さとみ</rt></ruby>、<ruby><rb>千博</rb><rt>ちひろ</rt></ruby>、夏休みで東京から帰って来ている政雄、それに、中村勉と結婚した秀子が、この六月に生まれた<ruby><rb>共子</rb><rt>ともこ</rt></ruby>を抱いて、やって来ていた。これに、ババンと女中とが加わる。

「おい、お<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さん、一杯、飲め」

金五郎は、マンに、盃をさした。マンがそれをあけて、かえそうとすると、

「勝則にやれ。勝則は、順々に廻せ。飲めても飲めんでも、みんな、盃を取れよ」そして、盃が廻るのを眺めながら、「面白いのう、おれとお母さんとのたった二人から、これだけ増えたとじゃが、……まるで<ruby><rb>蛆</rb><rt>うじ</rt></ruby>が湧いたようなもんじゃなあ」

そんなことをいって、おかしそうに、笑った。

子供たちは鍋をつつき、酒を飲む者は盃をやりとりした。

「よし、お父さんが、いっちょ、ゴンゾ踊りを見せてやろ。昔、ここに居るババンの永田組で、お母さんと二人で、ゴンゾして、働いちょったんじゃ。……お母さん、歌えよ」

「なにを歌うの？」

「わかっちょるじゃないか。ゴンゾ歌よ、文句はどれでもええ」

いくらか赤くなった金五郎は、立ちあがった。<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>の<ruby><rb>諸肌</rb><rt>もろはだ</rt></ruby>をぬいだ。<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>の見えないように、長袖のシャツを着ている。

マンは、すでに、ただならぬ夫の気配を感づいていた。

（なにか、大変なことを考えとるのにちがわんわ）

それがなんであるかは、明確に知ることが出来なかったけれども、けたたましい金五郎のおどけ振りに、マンは、異様な不安と、胸騒ぎとを覚えた。こんなに楽しいわけがないのである。争議の経過は、金五郎の意に反することばかりの続出で、最近は、一日として、明かるい顔をしたことがない。特に、この数日、<ruby><rb>怠業</rb><rt>サボタージュ</rt></ruby>の失敗のために、土壇場に近い苦境に立っている筈だ。それをよく知っているマンには、今夜の唐突な金五郎のはしゃぎようが、恐しいのであった。

（なんのお芝居をしとるのじゃろうか？）

苦しくなると、芝居をする夫であるが、今夜の演技の意味は、マンには理解出来なかった。

「さあ、歌え」

バイスケに見立てた朱塗の盆を持って、金五郎は催促する。

マンは、心をこめて、歌いだした。

あたしゃ仲仕で、

<ruby><rb>半纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>育ち、

長い着物にゃ、

縁がない……

滑稽な恰好で、金五郎が天狗とり荷役の真似をする。

見物はよろこんで、<ruby><rb>大喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>。

マンは歌いながら、涙が流れた。

狂気じみた<ruby><rb>団欒</rb><rt>だんらん</rt></ruby>の馬鹿騒ぎが、夜おそくまで、続けられた。

寝室に引きとってから、金五郎は、明けがた近くまで、なにか、しきりと、書きものをしていた。終ると、そっと、手金庫を開けた。森新之助からあずかった、ブローニングのピストルを取りだした。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん、まだ、起きとるの？」

隣室から、マンの声がした。そういうマンの方が、夕方からの夫の行動が気がかりで、ずっと眠れずにいたらしい。

「うん」

<ruby><rb>生返事</rb><rt>なまへんじ</rt></ruby>すると、金五郎は、あわてて、ピストルを、寝巻の懐に隠した。

「もう、朝よ。寝不足が一番身体に悪いわ。おやすみなさい」

「それがなあ」と、金五郎の声がおどけ笑いを含んで、「こないだ、お前から<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>たれた頬べんたが<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>いて、寝られん」

「なにいうとるの？」呆れたように、そういったが、急に、マンの声も、妙にいたずらっぽくなって、「そんなら、お父さん、ええ痛み<ruby><rb>止</rb><rt>ど</rt></ruby>めの<ruby><rb>呪禁</rb><rt>まじない</rt></ruby>、教えてあげようか」

「教えてくれ」

「腕の<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>を、痛む方の頬べんたにこすりつけて――お京、お京、お京。……と、三べん、いうてごらん。じき、疼くのが<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>まる」

「<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>なこと、いうな。……さあ、寝ろう」

金五郎は、電燈を消した。拳銃を枕の下に敷いて、蒲団にもぐりこんだ。

（女房の奴、彫青をお京が彫ったこと、とうとう、知ったらしいな……？）

去年の選挙のとき、マンがお京と逢った<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>は、なにも聞いていない。金五郎の方から、聞くのもすこし気味が悪かった。マンは、逢ったことだけは隠さなかったが、内容については<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も語らず、「お父さん、今度、お京さんが来たら、ぜひ、逢うてあげんといけんばい」と、いうばかりだ。きっと、あのとき、お京から、彫青のことを聞いたものにちがいない。しかし、一大決心をしている現在の金五郎にとっては、もはや、そんなことは、どうでもよかった。先刻から、幾本も書いた遺書のなかには、お京宛のも一本ある。

大体、健康な金五郎は、寝つきはすこぶるよい方で、横になったかと思うと、すぐに<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>をかくのが癖であったが、このときも、まもなく、<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>のような大鼾が、暁近い空気を震動させて、湧き起った。

翌朝、いつもと同じように、機嫌よく、子供たちと、朝食をした。

「お父さんの<ruby><rb>作夜</rb><rt>ゆんべ</rt></ruby>の「ゴンゾ踊り」、面白かったわ。また、見せてね」

御飯を食べながら、女学生の繁子がいった。<ruby><rb>里美</rb><rt>さとみ</rt></ruby>も同意見とみえて、姉といっしょに、父の顔を見た。

金五郎は、にこにこと、

「よしよし、いつでも見せてやるぞ。今度は、もっと面白い「ダンブロ踊り」ちゅうのんを、踊ってみせる」

「ダンブロ」は汽船の船槍を称する仲仕言葉、石炭荷役をするハッチの掃除を、担当している組があるが、その組のことを、正しくは「<ruby><rb>穴繰口</rb><rt>あなくりぐち</rt></ruby>」、俗に、「ダンブロ口」と称していた。

マンは金五郎の顔を凝視した。夫の胸を領している非常の決意が、どんなものであるかを知ろうと努めた。しかし、顔色を見ているだけではわからない。

「勝則」

金五郎は、息子を呼んだ。

「はい」

「これをな」と、書類の束を、風呂敷に包んだものを渡して、「お前、厳重に、あずかっといてくれ。今日は、十時から、争議本部で、小頭組合の評議員会をすることになっとる。お前も行っといてくれ。無論、おれも行くが、もし、行かなんだら、その書類を開けて、万事、お前が処理をしてくれ。ええな？」

「承知しました」

八時すこし前、金五郎は、「小頭組合」の半纏を着て、家を出た。

今日も暑そうな上天気らしい。すでに、入道雲が純白の頭だけを、<ruby><rb>高塔山</rb><rt>たかとうやま</rt></ruby>の背後にのぞかせている。しかし、朝のうちはひいやりとした。いつ見ても、軍艦が山上に乗りあげたように見える頂上の松林に、強い風があたって、波の音のように鳴っている。

正保寺町から、旭小路に出て、<ruby><rb>安養寺</rb><rt>あんようじ</rt></ruby>に寄った。鐘楼の横の大銀杏が、風にざわめいているほか、境内は静かである。墓地に行った。<ruby><rb>盂蘭盆会</rb><rt>うらぼんえ</rt></ruby>の名残りの提灯や、お供え物が、方々の墓に、いくつも残っている。「玉井家累代之墓」と彫られた、<ruby><rb>花崗岩</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>の墓標の前に立った。合掌した。

（おれも、やがては、骨になって、ここに入るのじゃが、……）

すでに、葬られている子供たち――<ruby><rb>夭折</rb><rt>ようせつ</rt></ruby>した国子、一枝、死産児、などのことを考えた。

背後で、下駄の音がした。

「玉井さんじゃないですな」

と、声をかけられた。

長身の住職が、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>を手に、にこにこと、立っている。

「これは、<ruby><rb>方丈</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>さん、お早ようございます」

「早いお詣りですな。なんごとです？」

「いえ、別に、……」といったが、和尚がなんのために出て来たかに気づいて、「方丈さん、鐘つきですか」

「はい、八時を鳴らそうと思いまして……」

「わたしに<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>かせてくれませんか」

「そうですか」と、檀徒総代のもの好きを笑いながら、「よかったら、どうぞ」

「八つ、鳴らすとでしたかな？」

「五つほどで、ええです」

金五郎は、鐘楼に登った。

高台になっているので、一望の下に、若松市街が見えた。いつも見なれた、住みなれた自分の街の風景を、金五郎は、日ごろとはまったく異った感慨で、しみじみと、見わたした。ちかちかと、眼にしみるようである。これが見おさめになるかも知れない。

吊り下げられてある<ruby><rb>撞木</rb><rt>しゅもく</rt></ruby>を、手にした。軽く反動をつけてから、力まかせに、<ruby><rb>梵鐘</rb><rt>ぼんしょう</rt></ruby>に<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っつけた。

ゴワアアン、……

鼓膜が割れるほどのとどろきが、はねかえって来た。後は、ウォン、ウォン、と余韻を引いて、爽やかな鐘の音が、朝の空気をゆりうごかして、全市にひろがって行く。

金五郎は、なにか、胸のひらけるような気持で、二つ、三つ、と撞き鳴らした。

「うまいもんですなあ」

和尚が、笑って、見ている。

五つ撞いて、鐘楼から、降りて来た。

「玉井さん、今年も、組合の「<ruby><rb>川施餓鬼</rb><rt>かわせがき</rt></ruby>」をやりますか」

「やります」

「争議中じゃから、どうじゃろうか、と思って……？」

「争議には無関係でやりますよ。いや、きっと、それまでには、争議もかたづきましょう」

「今日が二十二日じゃし、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>四五日しかありませんばい」

「なんとかなりますよ」

石段を降って来ると、崖の下に、囲いをして、二つの石碑が建っている。一つには、「大庭<ruby><rb>隠岐</rb><rt>おき</rt></ruby>守種景之墓」――慶長年間、高塔山の頂上に城を築いていたという若松城主の碑。もう一つの丸い自然石の表には、「三界之万霊」とあり、両側に、「<ruby><rb>飢死</rb><rt>きし</rt></ruby>」「<ruby><rb>横死</rb><rt>おうし</rt></ruby>」と彫ってある。年代が書いてないけれども、随分、古いものらしい。

（ゴンゾは飢死で、おれは横死か？）

そんな皮肉を、胸のなかで呟いて、通りすぎた。

ゆっくりした歩度で、<ruby><rb>安政</rb><rt>あんせい</rt></ruby>町にある友田喜造邸の前に来た。

卵色の高い塀で囲まれた、宏壮な屋敷である。下部は大きな岩でかためられて、大江山の鬼の岩屋を思い出させる。広い庭があって、森林のように、鬱蒼と、樹木が繁茂している。

（猛獣やら、毒蛇やらが、居るかも知れん）

金五郎の頭に、自然のように、そんな考えが浮かんだ。

（じゃが、猛獣より、毒蛇より、人間の方が、よっぽど恐しいわい）

ペンキ塗りの「友田組」という大きな看板を、睨むように見た。

金五郎は、門前に、ちょっとたたずんで、ここへ来る途中、前を通った<ruby><rb>岡部亭蔵</rb><rt>おかべていぞう</rt></ruby>宅を思いだした。共働組や、請負師組合では、岡部の方が責任者で、地位も上なのだが、実権は友田が握って、横暴のかぎりをつくしている。甘い汁を吸うことも、これと比例しているとみえて、家も、友田邸の方が、親分の岡部邸より、十倍も大きい。

（岡部氏と交渉出来るのなら、争議も、こんなには、こじれはせんじゃろうが、……）

今さら考えても始まらぬことを、考えずには居られなかった。

「よし」

と、金五郎は、うなずいた。行動のはずみをつけるための無意味な呟きだった。

チョッキの下の腹巻に入れているピストルを、上から、たしかめるように、おさえてみてから、鉄格子の門をくぐった。植込みの間の長い<ruby><rb>石甃</rb><rt>いしだたみ</rt></ruby>を進んだ。犬が吠えだした。みごとなシェファードが、建仁寺垣の傍から、金五郎に向かって、歯と舌とをむきだしている。

玄関に、立った。

「おごめん」

すぐに、取次ぎが出て来た。四十歳くらいで、色の青白い、角刈りにした男、着物のうえから、「友田」と襟に入った半纏を引っかけている。

金五郎の顔はよく知っていて、

「こりゃあ、玉井の親分さん、早いお越しで……」

馬鹿にしたようないいかただった。

「友田の大将に、ちょっと……」

「まだ<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>んで居んなさるですよ」

「起して下さい――玉井金五郎が、折り入って話したいことがあって、おうかがいした。……ちゅうて、……」

「そんなら、こっちで、……」

金五郎は、応接間に通された。

友田が在宅であることは、あらかじめ、確かめてある。友田の方も、いるときには、居留守を使ったり、玄関払いを食わせたりすることはなかった。昔の金五郎とはちがうのである。

豪奢をきわめた部屋である。龍を刺繍した<ruby><rb>絨毯</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>のうえに、さらに、虎の皮が敷いてある。調度や、壁かけなども、高価なものばかり、しかし、それらはただ雑然と飾られてあるだけで、配列とか、調和とかに、すこしも考慮の払われていない趣味の悪さが、露出していた。応接間の横は、事務所になっているらしい。待っている間に、そこへ、急速に、人数の集まる気配を、金五郎は、感じた。

二十分ほどが、経った。

廊下に、スリッパの足音が聞えた。

扉が、開いた。

「やあ、お早よう」

黒襟をかけた丹前姿の友田喜造があらわれた。<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>のような眼を細めて、にこにこしている。友田は扉をしめて、<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>に、安楽椅子に腰を下した。

扉の外には、子分たちがひしめいている。

「お早ようございます」

挨拶すると、金五郎は、友田と息のかかる近さに寄った。

「友田さん、先日から、争議のことでは、お世話になっとります」

「いや、どうも、うまく運ばんでなあ、君たちには、気の毒に思うとるよ」

友田は、白々しく、頭をかいた。

「友田さん」

金五郎は、声を落した。

「うん？」

「わたしは、大きな声を出すのは嫌いですけ、静かに、話をしましょう。どうやら、あなたの子分連中が、外で、様子をうかごうとるようにある。これくらいの声なら、なにを話しとるか、わからんでしょう。ざっくばらんに話して、簡単に切りあげましょう。……友田さん、今日は、最後の話しあいに来ました」

「ふウン、最後ちゅうのは？」

「今度の争議、絶対に、うまく運ばんことが、わたしにはわかりました」

「ヘエ、そら、また、どうして？」

「あなたが、居るからです」

友田の鳶のような眼が、ギョロッと光った。嘲侮するように、金五郎を、見た。鼻で笑って、返事をしない。

「友田さん」

押しつける語調で呼ぶと、金五郎は、腹巻から、ピストルをとりだした。腰のところに低くかまえて、銃口を、まっすぐに、友田の胸板に向けた。

ぎょっとして、友田は身体を引いた。クッションの柔かいビロードの安楽椅子が、深々と、友田の痩躯を包んでいる。身うごき出来ない。

「わたしは、射撃の名人です。絶対に外れっこはありません。そのつもりで、わたしの話を聞いて下さい」

金五郎の語調は、落ちついていた。

友田は、凝結したまま、口をきかない。赤黒い顔が、次第に、青味を帯びて行く。

「友田さん、あなたが知っとるとおり、わたしは喧嘩ぎらい、これまで、人に向かって、兇器をふりまわしたことはありません。これが一生にただ一度、そして、最後です。わたしは、あなたを殺します。あなたがいなくならなければ、この争議はかたづきません。あなたは、話しあいの出来る人じゃない。それは、あなたとつきおうた、この二十年間の経験で、わたしは、はっきりと、胆に命じました。もう、わたしは覚悟しました。裸一貫、ゴンゾから身をおこした玉井金五郎は、ゴンゾとして一生をすごし、ゴンゾとして終るのが、宿命です。今、数千人の沖仲仕のために、その数千人の沖仲仕の敵であるあなたを殺して、自分の一生を終るのは、本望です。あなたとしても、また、これまで多くの人々を苦しめ、今、また、飢餓に瀕して、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いでいる沖仲仕を、死につき落そうとして居るとですから、そのゴンゾたちの恨みを一身にうけて、成仏するのは、きっと、本望でしょう。あなたは、ゴンゾを虫けらとよくいうけれども、ゴンゾも、立派な人間です。いや、自分の身体一つを粉にして働くゴンゾは、世間の金持なんかより、どれだけ純真か知れん。その沖仲仕たちの、死ぬるか生きるかという今度の争議、あなたは、その仲仕たちを殺そうとして居るとですから、ゴンゾのわたしが、あなたを殺すのです。玉井金五郎は、正義で、生きて来ました。また、<ruby><rb>誠</rb><rt>まこと</rt></ruby>で、一生を貫いて来ました。今、その正義と誠とで、あなたを殺し、ここに、一生の幕を閉じます」

「待て、玉井」

と、友田喜造が、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くように、いった。

友田は、金五郎の決心の深さを、見抜いた。芝居で、他人を脅迫したりするような男ではないことを、日ごろから、よく知っている。

（本気で殺しに来た）

それを、はっきりと、悟った。

「待ちません。待ったところで、あなたを生かして置けば、絶対に、問題は解決しません」

「待て」

友田は、立ちあがろうとした。

「動いてはいけません。<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>して逃げようとしても、騙されません」

「騙しはせん。逃げはせん」

「そんなら、そこへ、腰かけて下さい」

友田は、ぐったりと、また、力なく、安楽椅子に落ちた。

「玉井、おれを、殺すな」

「殺します。あなたがいなくなれば、問題は、急転直下します」

「問題を、進めるごと、解決するごと、おれが、努力する」

「そんなことは、信用しません」

「そんなら、どげしたら、ええんじゃ？　お前の気のすむごと、おれは、する」

金五郎は、ちょっと、考えるようにした。すぐに、チョッキのポケットから、数枚の紙片をとりだした。

「では、こうしましょう。ここに持って来た書類に、署名、<ruby><rb>捺印</rb><rt>なついん</rt></ruby>して下さい。これは、ストライキ決議と、その指令書です。この争議を一挙に解決するには、もはや、ストライキによる外はありません。こういう過激な手段をとりたくはなかったのですけれど、万策尽きました。ストライキをやるとすれば、請負師組合、小頭組合、労働組合、三者の歩調が乱れては、成功しません。これまでなにをやっても失敗に終ったのは、いつでも、あなたの共働組が抜けるからです。いや、共働組の小頭も、仲仕も、わたしたちと同調したいと思っている者が大部分なのに、あなたが脅迫して、裏切らせるのです。でも、昔のことはどうでもええです。今度の争議には、一致して貰いたいと思います」

「よし、わかった」

「多くはいいません。あなたが命が惜しいなら、この書類を読んで、名を書き、判をついて下さい」

金五郎は、右手に拳銃を擬したまま、左手で卓のうえに置いた数枚の紙片を、友田の前に押しやった。万年筆と、印肉とを添えた。

観念した友田は、ふるえる手で、署名をし、親指で、<ruby><rb>拇印</rb><rt>ぼいん</rt></ruby>を押した。

金五郎は、手にとって、

「結構です。ありがとうございました。これで、争議解決の目安が立ちました。もっとも、ストライキをしても、炭商組合側がどう出るかわかりません。でも、荷主が強硬じゃったのは、あなたを味方にしとったことが大きな理由だったようですから、話が変って参りましょう。ストライキ後の交渉には、どうか、協力願います」

「骨折る」

仕方なさそうに、友田は答えた。

「これは、写しとして、お手元に残して置きます」四枚のうち、二枚を卓のうえに置き、残りをポケットに入れた。「それから、申し添えて置きますが、ここへ来る前、わたしは、家族や、子分たち、知己、友人、その他に、<ruby><rb>遺書</rb><rt>かきおき</rt></ruby>を残して来ました。あなたを殺し、自分も死ぬつもりじゃったからです。子分たちは、十人ほどで、決死隊を作っています。もし、あなたが、今のことを、その場<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れだけにして、争議を裏切ったり、わたしに危害を加えたりすると、十人の子分が、どんなにしてでも、あなたを生かしては置かぬことを、承知おき下さい。……失礼しました」

金五郎は、ピストルを腹巻に入れると、扉を排して、外に出た。

廊下の外や、事務室には、大勢の子分たちが、緊張した様子で、群がっていた。しかし、応接間内の出来事については、なにも知らないらしく見うけられた。ドアに耳をくっつけたり、鍵穴からのぞいたりして、中の様子をうかがうようなことは、誰もしなかったのであろう。もし、そうしていたら、どんなに、金五郎が声を低めて、隠密行動をとったにしたところで、暴露していたにちがいない。

（危いところじゃった）

と、思った。そのときになって、慄然とした。

誰一人、金五郎が友田喜造をピストルで殺しに来た、などとは、気づきもしないのだ。日ごろから、金五郎の喧嘩ぎらい、柔和で、温厚な気質はよく知られている。いわば、暴力団からは<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>められている。それが<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>した。ただ、争議のことで、連絡か哀願かに来たものと定めて、深くは、金五郎の言動に注意しなかったのである。

出て来た金五郎を、人相のよくない連中が、凄味をきかせて、睨んでいた。けれども、応接間にいる親分から、なんの指令も出ないので、手出しはしなかった。

「お邪魔いたしました」

金五郎は、悠々と、子分連中の間を抜けて、玄関に行った。靴をはき、また、長い<ruby><rb>石甃</rb><rt>いしだたみ</rt></ruby>を歩いて、鉄門の外に出ると、フウウッ、と、全身が風船玉のようにふくらんで縮んだような、巨大なためいきが、ひとりでに出た。

「なんちゅうことか」

泣きそうな顔で呟いて、海岸の方に歩きだした。足が重い。いつも見なれた街が、まるで、知らぬ他国のような白々しさで、眼に映る。街の人々の顔も、異国人めいて感じられた。多くの視線が、すべて、嘲笑の矢になって、全身を刺すようだ。

金五郎は、眼を伏せ、うなだれて、歩いた。

（おれの一生は、終った）

下唇が、血の出るほど、強く、噛まれていた。

「争議本部」では、評議員たちが待っていた。十時をすこし過ぎている。

「勝則」

と、息子を、廊下に呼びだした。

「なんですか」

「<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>、あずけた書類をくれ。今日の会に出られなんだら、お前に開けて貰おうと思おうとったけんど、出られたけ、もう、ええ」

「そうですか」。

勝則は、ちょっと、父の顔を見たが、風呂敷包みを取って来ると黙って渡した。

「勝則」

「はあ？」

「友田喜造に、逢うて来たよ」

息子は、無言で、父の顔を見た。瞳の奥のものを読みとろうとする、鋭い<ruby><rb>眸</rb><rt>まなざし</rt></ruby>だった。

金五郎は、なにげない口調で、

「膝をつきあわせて、腹の底を打ち割って話したら、よく、わかってくれたよ。もう、この問題を解決するのには、ストライキしかないということにも、同意してくれてな、……ほら、これに、署名して、判をついてくれた」

内ポケットから、二枚の書類を出して、示した。

それを受けとって読んだ勝則の、疑いぶかそうな表情に気づいて、

「今度は、絶対に、裏切るようなこたない。早いがええけ、明日の早朝からでも、ストライキに入ろう。お前も、労働組合の方を、すぐ、準備にかかってくれ」

金五郎は、狼狽するように、早口で、それだけいうと、逃げるように、会議室に入った。

評議員会が、開かれた。

「明八月二十三日、午前三時を期して、総<ruby><rb>罷</rb><rt>ひ</rt></ruby>業を決行する」ことが、決定された。

秘密指令が、ただちに、各組に、飛ばされた。二つの組合は、手落ちのないように、準備を整えた。

（もし、今度、共働組が、……いや、友田喜造が裏切ったならば、それこそ、<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>はじまって以来の大騒動になる）

このことは、金五郎と、勝則の、そして、組合の幹部の胸のなかに、共通に<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>っていた不安であった。不安というより、戦慄をともなうような恐怖といった方が近かった。

（審判のときを待とう）

考えてみても、そのときまでは、どうなることでもない。

夜になって、金五郎は、一人で、弁財天浜に出た。岸壁につないである玉井組の小伝馬船に乗った。

灯の明かるい聯合組の事務所から、長身の新谷勝太郎が出て来た。

「オヤジ。網打ちですか？」

「うん」

「英雄、閑日月あり――ちゅうところですな。今夜は、一人？」

「うん」

漕ぎだした。

中ノ島の横を抜け、ぐんぐんと、港外へ出て行った。闇夜である。<ruby><rb>切戸</rb><rt>きれど</rt></ruby>の燈台が見えて来た。

（玉井金五郎の馬鹿野郎）

胸壁を破るほどに、胸中にうずまいているはげしい自嘲の念が、金五郎を絶望的にする。

（なっちょらん。貴様は、駄目じゃ。――大馬鹿、阿呆、<ruby><rb>抜作</rb><rt>ぬけさく</rt></ruby>、唐変木、<ruby><rb>兵六玉</rb><rt>ひょうろくだま</rt></ruby>、低能……）

あらゆる言葉で、自分を罵倒した。

（三十年近くを苦しみ抜いて来て、最後が、こんなことか）

泣きべそをかいている金五郎の顔に、潮をふくんだ夜風があたる。手がしびれるようであったが、なにかから脱出するように、金五郎は、切迫した思いで、腕のかぎり、櫓を押していた。切戸を廻ると、波が荒くなって来た。風も強い。黒々とした波がうねって、凄いようである。海の底が鳴っている。

金五郎は、ポケットから、ピストルを取りだした。沖に向かって力まかせに投げすてた。闇夜にも、黒い<ruby><rb>条</rb><rt>すじ</rt></ruby>をえがいて飛んだ拳銃は、コポッという短い音とともに、海中に消えた。

（人を暴力団というけれども、お前も暴力団じゃないか）

友田喜造を、ピストルで脅迫したのである。一大決心をし、生命を賭しての<ruby><rb>措置</rb><rt>そち</rt></ruby>であったのだが、疑いもなく、暴力行為だ。あらゆるものを犠牲にし、多くの人々のために、誠心から、この挙に出たことに、悔いはなかったのに、外見にあらわれた行動のうすぎたなさ、愚劣さは、金五郎を打ちのめした。

（気負いたっていた、友田喜造との最後の対決というのが、こんなことだったのか？）

なにか、外に、方法がなかっただろうか。暴力以外の方法は、なに一つ、考えおよばなかったとすれば、もはや、自分は軽蔑すべきヤクザにすぎない。これだけの人間だ。小人物だ。ここに、玉井金五郎の一生は、終りを告げた、といってよい。力ない手で、櫓をあやつる金五郎の両眼から、熱湯のような涙があふれ出た。ダラダラダラと、とめどなく、滝のように、頬を伝い流れた。<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>したい。

金五郎は、<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>に立った。港に背を向け、黒々と荒れる<ruby><rb>外海</rb><rt>そとうみ</rt></ruby>に向かって、胸を張った。

「馬、鹿、野、郎、……」

一字ずつ、区切って、声をかぎりに、絶叫した。声は暗い海に呑まれて、なんの<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>もかえっては来なかった。

「<ruby><rb>魚</rb><rt>さかな</rt></ruby>でも、とるか」

そう呟いて、面白くもなさそうに、ところどころに、<ruby><rb>投網</rb><rt>とあみ</rt></ruby>を入れた。気乗りもせぬ打ちかたをしているのに、不思議に、いくらでも入る。大漁である。

腕時計を見た。午前三時。はっとした。眼が光りだした。また、力のかぎり、港内に向かって漕ぎだした。

中ノ島の横まで来ると、さかんに、夜業をしている一隻の汽船が見えた。

「友田」と入った提灯がいくつも<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>っている。

「<ruby><rb>寿満丸</rb><rt>すままる</rt></ruby>」という船名が、夜荷役のため、明かるいライトをつけているので、舳に、はっきりと、白く読まれる。

（やっぱり、……）

金五郎は、全身、硬直する思いがした。

寿満丸に、荷物炭二七〇〇トンを、徹宵、積込作業をすることは、調査して、はじめから、わかっている。しかも、それが、共働組でやることもわかっていた。金五郎は、投網打ちに出たとき、この寿満丸のことは、最初から、念頭にあったのである。

時計を見た。――午前三時四〇分。総罷業決行の時間を、四〇分も過ぎている。この時間には、港湾中、一切の沖積荷役を停止して、引きあげる約束になっているのであった。金五郎は、非常の決意を眉の間に渡らせて、小伝馬船を、寿満丸に漕ぎよせた。

<ruby><rb>艀</rb><rt>はしけ</rt></ruby>は三番ハッチの舷側に着いている。沖仲仕たちが、艀のなかで働いている。スコップ、雁爪を持って、一トン入りの竹の大籠に、石炭をすくいこむ。それは、甲板上のウインチ機械によってまき上げられる。<ruby><rb>空籠</rb><rt>からかご</rt></ruby>が降りて来る。それに、また、満たす。大籠は三つあって、次々に、廻転していた。金五郎たちが若い時分にやった、小籠を両方にふりわけ、<ruby><rb>歩板</rb><rt>あゆみ</rt></ruby>を上下する原始的荷役は、大正七年ごろから、すべて、この、大籠をウインチでまき上げる機械荷役に変化しているのだった。

金五郎は、艀に、飛びあがった。

「責任者は、誰な？」

切迫した面持で、仲仕にきいた。

「<ruby><rb>高司</rb><rt>たかつかさ</rt></ruby>さんです」

「どこに居る？」

「デッキに居ったようにありますが、……」

「ちょっと」と、金五郎は、まきあげられようとする大籠を<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めた。

満載されている石炭のうえに、飛びあがった。左手で籠のロープを握り、デッキの上に向かって、右手をあげて、合図した。ゴトゴトゴト、という、ウインチの音とともに、金五郎の乗った大籠は、空間に浮いた。ゆらゆらと、高く、つりあげられた。

「デッキに降してくれ」

<ruby><rb>合図方</rb><rt>あいずかた</rt></ruby>の仲仕にいった。

大籠は、甲板の上に据えられた。

金五郎が飛び下りると、ふたたび、大籠はまきあげられ、三番ハッチの底深くに、降されて行った。「ダンブロ」の中にいる仲仕が、ワイヤの先を、籠の裏底につけてあるチェーンに引っかけて、石炭を転覆させる。カアーッという石炭の音。そのまま、空籠がつりあげられ、また、舷側の艀に降されて行く。

「高司君は、居らんな？」

両手で、ウインチ番へ合図をしていた巨漢の仲仕は、うさん臭そうに見たが、

「知らん」といった。

金五郎は、船上を見わたした。方々に、いくつもかかげられてある「友田」の提灯が<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しい。そのちらちらする蝋燭の明かりが、自分を嘲笑しているように思われた。

ボーシンの姿を見つけた。

「高司のオヤジは、どこに居るじゃろか？」

「さっき、船長と<ruby><rb>船橋</rb><rt>ブリッジ</rt></ruby>に上がりよったですがなあ。……ああ、います、います。やっぱり、ブリッジに」

金五郎は、細いタラップを登った。

深夜の洞海湾を、登りながら、左右に眺めた。

（おれの命の若松港）

ふと、感情が、胸をすぎた。

「高司君」

と呼びかけた。

友田直系の小頭、色が黒く、精悍な風貌の高司清市が、ふりむいた。

「こりゃあ、玉井さん、どうして、ここへ？」

「高司君、いま、<ruby><rb>何時</rb><rt>なんじ</rt></ruby>と思うとりますか」

「さあ、もう、おっつけ三時じゃないか知らん？　そう思うて、いま、船長と打ちあわせしよったとですが、……」そういいながら、懐中時計をとりだして「やっぱ、そうじゃ。あと十分ほどで、三時になる。……そんなら、船長、時間が来たら、さっき話したように……」

「わかりました」

この港には常連の船長は、古くから、金五郎の顔も、よく知っている。歩みよって来て、

「玉井さん、大変ですなあ。お骨折りでしょう。いま、高司さんからうかがいました。前から、沖仲仕の争議については、僕等も深い関心を持って、なりゆきを注目していたんですが、いよいよ、<ruby><rb>今暁</rb><rt>こんぎょう</rt></ruby>、午前三時からゼネ・ストに入るそうで。正直いうと、汽船の方は、このまま、荷役をほったらかして引きあげられると困るんです。二七〇〇トンの炭を、まだ七〇〇トンほどしか積んでいませんからなあ。でも、仕方ないです。おたがいですから。海員組合が仲仕ストのスキャップになるわけにもいかんです。三時になったら、<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>をたたきますから、どうぞ、それを合図に、引きあげて下さい」

金五郎は、気あい抜けがした。てっきり、共働組が、またも、友田の命令で、裏切ったと信じきっていたので、しばらくは、ぽかんとなるような気持だった。金五郎の時計は、ちょうど一時間、進んでいたらしい。合わせるとき、うっかりしていて、まちがったものであろう。

「玉井さん、心配せんでも、ええですよ。友田の親分から――三時には、まちがいなしに、引きあげれ。……そういう命令が来とりますけ」

高司清市のその言葉を聞いて、はじめて、金五郎は、安堵した。よろこびが、おさえきれず、

「久しぶりで、ウインチを使うてみるかなあ。高司君、ええでしょ？」

「ゴンゾの本性、あらわしましたな」

<ruby><rb>悪気</rb><rt>わるげ</rt></ruby>でなく、そういって、笑いながら、承諾した。

金五郎は、ウインチ機械のところに来て、仲仕と交替した。

「へえエ、小頭組合長のウインチ番で、仕事やるのか」

仲仕たちも、笑った。新しい気合が出た。

金五郎は、ハンドルを握って、たくみに、ウインチを使った。ゴト、ゴト、という音とともに、もうもうと、まっ白い蒸気がふきあがる。正確な手さばきで、石炭を積んだ大籠が、危なげなく、昇降した。

（おれは、こうやって、現場で、仕事をしとるときが、一番、楽しい）

金五郎は、白い湯気の中に突っ立って、胸のひらけるような思いを味わっていた。

<ruby><rb>船橋</rb><rt>ブリッジ</rt></ruby>のうえから、船長が、パイプをくわえたまま、にこにこと、眺めている。

カン、カン、カン、カン、……

<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>が、鳴りだした。

「仕事、やめえ」

高司清市が、どなった。

それから、数分の後、整然と、現場をすてた仲仕たちを乗せて、大伝馬船は、<ruby><rb>寿満</rb><rt>すま</rt></ruby>丸の舷側を離れた。深夜の黒い波を切って、若松側の岸壁に向かって、漕ぎ進んだ。「友田」の提灯にとりかこまれて、憂鬱そうに、金五郎が、その<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>に立っていた。金五郎の乗って来た小伝馬は、<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>に<ruby><rb>曳航</rb><rt>えいこう</rt></ruby>されている。

八月二十三日、午前三時を期して決行された沖仲仕の総罷業によって、洞海湾内のすべての沖積荷役は停止された。港は、死んだようになった。

争議本部には、米俵が積みあげられ、女仲仕の手によって、炊きだしが行われた。

マンは、炊きだし隊長である。

一日が、過ぎた。

二日が、過ぎた。

マンは、争議団の台所を引きうけて、いそいそとしている。前から、さかんに、ストライキを力説していたので、すこぶる満足らしい。

「さあ、何日でも、何十日でも、頑張るばい」

米俵の山を見あげて、にこにこ顔である。

ならべられた五升釜に、ぐらぐらと、米が煮える。それを眺めながら、マンは、

（昔、これとよう似たことがあったが、……）

ふと、遠い思い出に、ひたることがあった。

（そうじゃ。江崎満吉が、なぐりこんで来るという晩じゃった）

金五郎から、手出しするな、といわれて、台所で、大釜に、<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>をたぎらせていたのである。暴漢どもが<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>して来たら、<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>で、それを<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っかけてやるつもりだった。

（あれから、もう、三十年近くがすぎた）

胸にしみる歳月の流れである。

金五郎の顔を見ると、

「<ruby><rb>兵粮</rb><rt>ひょうろう</rt></ruby>の心配はしなさんな。あたしが居りゃあ、大丈夫。しっかり、交渉の方を進めて下さい」

夫の肩をたたくようにして、激励した。

「面白がっちょるのう」

金五郎は、仏頂面で、そういう。マンは、ストに入っても、憂鬱そうにしている金五郎の様子が、腑に落ちない。

（どうしたとか知らん？）

首をひねってみたが、わからなかった。

港内の全作業が停止した、という破天荒の<ruby><rb>椿事</rb><rt>ちんじ</rt></ruby>によって、争議は、急転直下、解決した。

沖仲仕の総罷業は、洞海湾内のみでなく、石炭を掘りだす<ruby><rb>炭坑元</rb><rt>やまもと</rt></ruby>をはじめ、鉄道、桟橋、汽船、帆船、沿岸諸工場、関門地方から、阪神方面にまで、さまざまの影響をおこして、問題は重大化したのである。水上警察署が、調停に乗りだして来た。

石炭商組合は、二万円以上は出せないといっていたが、二十六日になって、四万円にせりあげた。なお、さまざまの複雑な経緯を経てではあったけれども、解決をみたのは、二十七日、午前十一時である。二十五万円要求にたいして、六万円と、争議費用、三千円、計六万三千円というのであった。この金額が、調停案となったとき、

「玉井、どうするな？」

友田喜造に、そういわれて、

「それで、手を打ちましょう。いろいろ、ありがとうございました」

と、友田の前に、頭を下げた。

罷業は、ただちに、解除された。

港は、生き返った。

「おめでとう」

大庭春吉、森新之助、井上安五郎、原田雲井、藤本喜八郎、その他の人たちから、祝いの言葉を述べられたが、金五郎の渋面はとけなかった。

（友田喜造を、ピストルで脅迫したための成果が、なんで、うれしかろうか）

憂鬱は深まるばかりだ。

無論、この争議に働いたのは、金五郎ばかりではない。請負業者、小頭、仲仕の多くの人々が、苦心して、協力した。しかし、その中心には、いつでも、金五郎がいた。

善後策のため、いくたびか、会合が開かれた。

この六万円によって、大量整理が行われた。多くの小頭と仲仕たちとが、なれ親しんだ港の仕事をはなれて、転業した。

玉井組も、一号、二号、三号、とあったうち、三号を減らした。

「まずまず、勝ったうちね」

マンは、にこにこしている。

「勝ったのか、負けたのか、わかるもんか」

相かわらず、金五郎は不機嫌だった。

（争議には、勝ったかも知れんが、おれは、人間としては、<ruby><rb>大敗</rb><rt>おおま</rt></ruby>けした）

一生涯、消えることのない悔恨である。

八月二十八日、「<ruby><rb>川施餓鬼</rb><rt>かわせがき</rt></ruby>」が、行われた。

<ruby><rb>洞海湾</rb><rt>どうかいわん</rt></ruby>で殉難した死者を祭る年中行事である。小頭組合が出来てから間もなく、金五郎が発案して、組合主催で始めて以来、今では若松名物の一つとなっていた。安養寺の和尚が、争議中なので、出来るかどうかと心配していたが、やはり、ストのため、例年より、二日遅れた。「川施餓鬼」が来ると、金五郎は、マンと二人、古い<ruby><rb>小方</rb><rt>こかた</rt></ruby>名簿を繰ってみるのが、毎年の習慣だ。

「玉井組を始めてから、随分、人も変ったわねえ」

と、マンが、感慨をこめて、いえば、

「随分、若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>も殺した」

金五郎は、死んだ子分のことを、瞼のうるむ気持で、追懐する。

石炭の沖積は、危険な作業である。ことに、小籠の<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ荷役が、ウインチ捲きになってから、急激に遭難者が増した。ロープが切れて落下した大籠の下敷きになって、死んだ者は多い。死ななくとも、不具癈疾者になった者は、数知れない。

金五郎は、名簿から、数十人の死んだ子分の名を書き抜き、安養寺の和尚に、<ruby><rb>卒塔婆</rb><rt>そとうば</rt></ruby>をつくって貰った。

夕刻になると、花火が打ちあげられる。弁財天浜に、街の人たちが集まって来る。その多くの人々の手には、燈籠提灯がぶら下げられている。岸壁には、十隻ほどの川舟がつながれている。どの舟にも、<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>に竹の櫓が組まれてあって、それに、ずらりと美しい燈籠提灯が吊られる。<ruby><rb>盂蘭盆会</rb><rt>うらぼんえ</rt></ruby>のための提灯なので、どれにも、戒名が書いてあり、紋章が入っている。

「さア、皆さん、お乗り下さい」

羽織袴姿で、金五郎は、組合の人たちといっしょに、参詣人の世話をする。

川舟には、どれも、きれいな<ruby><rb>茣蓙</rb><rt>ござ</rt></ruby>が敷いてある。街の人たちは、男女老若、指図にしたがい、<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>を手に持って、乗りこむ。舟底に、坐る。親船は一段と大きく、高い。<ruby><rb>給水船</rb><rt>みずぶね</rt></ruby>なので、甲板が平である。その前部に、大きな祭壇が設けられ、さまざまの供物が飾られている。立ちのぼる線香の煙。この船には、初盆の遺族、来賓、主催者等が乗り、十数人の僧侶がならんで、読経をする。<ruby><rb>銅銭</rb><rt>どら</rt></ruby>、鉦、木魚の音。

「出発」

金五郎は、親船の<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>に立って、船団を曳航する小蒸気船に、合図をした。

一声の汽笛とともに、舟の列が、港の中心に向かって、動きだす。進みはじめる。

「美しいなあ」

金五郎は、かたわらのマンを、かえりみた。

「ほんとに」

まったく、それは美しかった。

夜の洞海湾を、ゆるい速力で進む船列は、どの舟にも、一杯に、華麗な燈籠提灯の<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>かりがみなぎって、波にその光をうつしている。やがて、湾内を一巡し、中ノ島の横を抜けて、切戸の燈台の見えるあたりまで、出て行く。

そのころになると、人々の手によって、蝋燭のついたままの提灯が一つずつ、海に流される。上部と下部とは丸い舟のようになっているから、提灯は沈まない。光を学んだ数百の燈籠が、<ruby><rb>人魂</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>の楽しい舞踊かのように、プカプカと、ゆれながら、海上をただよう。

「また、来年、おいで」

そういって、金五郎とマンとは、死んだ子分たちの卒塔婆を、海に流した。

（自分たちも、いつか、こうして、海に流される）

それは、共通した夫婦の感慨であった。

読経の声とともに、なお、船は海上を経めぐった。「餓鬼に施す」ために、供物をはじめ、いろいろなものが、海に投じられた。

  


## 結章

  


## 市街戦

降りしきる<ruby><rb>牡丹雪</rb><rt>ぼたんゆき</rt></ruby>のなかを、いそいそした足どりで、原田雲井がやって来た。

「やあ、玉井さん、お早よう」

「早かったなあ」

「善は急げ、ちゅうことがあるけんなあ、気も変りやすまいけんど、使いを<ruby><rb>貰</rb><rt>もろ</rt></ruby>たら、じき、やって来た」

「さあ、奥へお通り」

庭に面した座敷に、案内した。

十畳の部屋もせまいほど、一杯に、ずらりと、日本刀がならべてある。長いもの、短いもの、黒、白、朱、<ruby><rb>螺鈿</rb><rt>らでん</rt></ruby>、いろいろな<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>と、<ruby><rb>柄巻</rb><rt>つかまき</rt></ruby>、<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>――二百四五十本もあるであろうか。

原田は、突っ立ったまま、細い眼を、音のするほど<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>って、

「ほう、こげん集めとらっしゃったな？」

「ぼちぼちのつもりじゃったとに、長い間には、<ruby><rb>蓄</rb><rt>た</rt></ruby>まるもんじゃなあ。実は、久しぶりに、こうやって取りだしてみて、自分でも<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れとったところじゃ」

「これを、みんな、わたしに下さるとな？」

「うん、寄附しようと思うて、……」

「豪勢じゃ。ありがたい」

「家主と喧嘩ばっかりするのもええけんど、まあ、きれいに、一ぺん、払いなさい。それから、新聞の方に廻しても、<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>しにはなるじゃろ？」

「いんや、折角じゃけんど、家主にゃ払わん。あげんか<ruby><rb>悪家主</rb><rt>あくやぬし</rt></ruby>は、徹底的に<ruby><rb>膺懲</rb><rt>ようちょう</rt></ruby>してやらんと、庶民が迷惑する。屋根瓦ば、<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎおったばって、ブリキを張っちょるけん、家の心配はなか。……玉井さん、ありがと。これで、原田も、もう一旗、挙げられる。「若松新聞」の赤字ばかたづけといて、日刊四ページにする。市会にゃ出られんでも、街の市会を、わたしの新聞でつくって、徹底的に、市政批判をやるつもりじゃ。いよいよ、民政党の<ruby><rb>外道</rb><rt>げど</rt></ruby>され、絶対多数をとって、また、悪だくみばっかりしよるごたるけん」

「まあ、寄附した以上は、あんたの好きに委せにゃ、仕様がない。ただ、この刀、若松では売らんようにしてな」

「それは、心得ちょる。この暴力団の街に、これだけの武器をばらまいたら、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>、小倉に知りあいの骨董屋が居るけん、すぐ、今日にでも、金に代えて貰うつもりじゃ」

「そんなら」

原田は、新聞販売所の小使をつれて来ていた。表に、車力が待たせてある。全部の刀を、車力に積んだ。帆布カバーで、上を掩って、

「処分したら、お礼と報告に来ます」

雪にまみれるのもかまわず、車の後を押して、帰って行った。

金五郎は、縁側に出た。

一本だけ残した助広を、すらりと、抜いた。庭の雪と、降る雪とが、すみきった刀の肌にうつって美しい。生きて呼吸をしているようである。

マンが、いつか、かたわらに来ていた。

「それは、残したのね」

「これだけは、離されんよ」

「やっぱり、やるか知らん？」

「きっと、やる。どうも、一ぺんは正面衝突せにゃ、おさまりそうもない。困ったもんよ」

「お父さん、巻きこまれんようにしてね」

「そう思うとるもんじゃけ、刀を思いきって、原田君にやってしもうたんじゃ。……じゃが、新公が、どうなるか……？」

思えば、奇妙なめぐりあわせになっている。

昔、江崎満吉から、なぐりこみをかけられたとき、森新之助から借りた二本の日本刀で、危機を抜けることが出来た。

昨年の争議のときには、なんの気もなくあずかった新之助のピストルが、解決の手引となった。巨大な二つの義理を負ったといってよい。さすれば、新之助から、刀を貸せといわれれば、むげに、断わることが出来ないのである。

はたして、<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>は実現した。

数日後、新之助が、島崎勇次をともなっておとずれて来た。

「やあ、玉井さん、お寒いことで、……」

島崎勇次は、笑顔をつくって、なにげない様子で、そう挨拶した。

しかし、金五郎は、警戒した。この精悍な博徒の、もともと、肺患から来る、不健康な青白い皮膚に、不気味な<ruby><rb>鳥肌</rb><rt>とりはだ</rt></ruby>が立ち、歯が、ときどき、ガチガチと鳴っているのを見れば、ただごとではないことがわかる。なにかの非常の決意をしていることは、疑いを入れなかった。

「お揃いで、なにごと？」

そうたずねたが、用件はわかっていた。

（決闘をする気じゃ）

最近、「チーハー」賭博は、数回にわたって、挙げられた。闘鶏場も、鉄火場も、開帳のたびごとに、不意討ちを食った。売りだしかけていた島崎の縄張りは、ほとんど、壊滅に瀕している。日若座の事件以来、友田一派の攻勢と、圧迫とは、露骨になった。島崎の「男の顔」が立たなくなっているのである。

十日ほど前の深夜、島崎勇次の家に、一箇の屍骸が、人力車で送りとどけられた。それは、島崎の可愛がっていた子分の一人であったが、全身を、<ruby><rb>膾</rb><rt>なます</rt></ruby>のように、斬りきざまれていた。俥ひきは、ただ、<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>神社の裏で、四五人の抜刀した<ruby><rb>遊人体</rb><rt>あそびにんてい</rt></ruby>の男たちから、

「この男を、チーハーの親分の家まで、つれて行け。行かんと、命がないぞ」

刀で、そうおどかされて、ふるえながら、運んで来たにすぎない。俥の蹴込みは、血の海になっていた。

「玉井さん、折り入って、御相談があって来たとですけんどなあ」

「いうて下さい」

「実はな」と、新之助が、声を落して、「金さん、お前、ドスを、仰山、集めちょったろうが？　それを、<ruby><rb>勇</rb><rt>ゆう</rt></ruby>さんが貸して貰いたいというとるんじゃ。いんや、譲って欲しい、ちゅうて、……」

「ありゃ、それは、惜しいことした。一本もないごと、……いんや、例の助広一本だけ残して、……原田雲井君にやってしもうたよ。ほんの二三日前たい」

「やった？」

「原田君の「若松新聞」が、つぶれかかっちょるというもんじゃけ。あの男は、新聞がなかったら、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>が爪をもがれたようなもんじゃでなあ。おりゃ金は持たんし――刀でも売んなさい。……ちゅうて、みんな、寄附してしもうたよ」

「ふウン、……？」

新之助は、鼻の奥で返事をしたが、その眼には、疑いぶかげな色がちらついていた。

「新さん、ほんとのことですよ」と、横から、マンがいった。

「金さん、あれは？」

「なんな？」

「ピストル」

「ありゃあ、捨てた」

「捨てた？」

「お前はいらんちゅうし、おれも、持っとっても、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なこたないけ、思いきって、海の中に投げこんでしもうたよ」

「ほんとですよ」と、また、マンがいった。

新之助は腕組みして、唇を噛んだ。そのひきしまった浅黒い顔には、苦渋のいろが、漲っている。

島崎勇次も、意外の面持で、露骨に、仏頂面になった。

庭には、音もなく、牡丹雪が降り積む。<ruby><rb>飛石</rb><rt>とびいし</rt></ruby>も、瓢箪池も、燈籠も、区別がつきかねるほど、なにもかも、深々と、白かった。松の枝にのっている雪が美しい。

「金さん」

「あン？」

「お前は、のんきそうにしとるけんど、<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>じゃないとばい。友田一派は、勇さんをかたづける序に、どさくさにまぎれて、今度こそは、お前の息の根をとめることを定めとるらしいど。油断しちょると、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>になるばい」

二人は、不機嫌な様子で、帰って行った。

日若座のこけら落し、「北九州素人浄瑠璃大会」の日も、朝から、雪が降りつづけた。

新築された劇場は、多くの美しい花輪で、飾られた。そのなかには、「日若座さんへ・吉田磯吉」という、一段と目立つ、巨大な花輪があった。しかし、その子分たちの名は一つも見えない。吉田の花輪を取りかこんでいるのは、井上安五郎、原田雲井、大庭春吉、藤本喜八郎、玉井金五郎、島崎勇次、松川源十、「猫婆さん」――つまり、反吉田派の花輪ばかりだった。

金五郎は、その理由を、新之助から聞かされた。

「友田一派は、今度の大会から、みんな抜けてしもうたんじゃよ。こういう<ruby><rb>芸事</rb><rt>げいごと</rt></ruby>まで、片肱張らんでもよかろうに、世話人が集まって、<ruby><rb>駒場</rb><rt>こまば</rt></ruby>係りが二日間の出演順を定めてしもうて、いよいよ、幕をあける段になってから、急に、出らんといいだした。はじめから、ケチをつける計画じゃったことは、わかっちょる。それで、間際になって、また、番組をやりかえるやら大騒ぎした」

「それで、おれの番が、二日目の昼にくりあがったとじゃな」

「辻木惣八は、お前も知っとるとおり、可祝という芸名で、若松じゃあ一二を争う語り手、本人は出たがっとったのに、友田が命令をくだして、差しとめてしもうた」

「じゃけど、吉田親分の花輪だけが来とるというのは？」

「吉田さんは、いま九大の病院に入院しちょる。二十年ほど前に、やっぱり、大学病院で、<ruby><rb>胃癌</rb><rt>いがん</rt></ruby>の手術をしたんじゃが、今度は肋膜炎で、だいぶん、ひどいらしい。その吉田さんが、新聞で、日若座のこけら落しの記事を見たちゅうて、花輪をとどけてくれたんじゃ――こげな、新しい<ruby><rb>劇場</rb><rt>こや</rt></ruby>が建つちゅうようなこた、敵も味方もない、若松全体のためにええことじゃけ。……病院で、寝とって、そげいうたちゅうが、……子分どもは、親の心、子知らず、たい」

不穏の噂が街に飛んでいたが、第一日目は、なにごともなく、終った。

のど自慢の天狗連中が、プログラムにしたがって、次々に、得意の<ruby><rb>芸題</rb><rt>げだい</rt></ruby>を語った。

<ruby><rb>真打</rb><rt>しんうち</rt></ruby>として語った矢野津ノ子の「<ruby><rb>双蝶々廓日記</rb><rt>ふたつちょうちょうくるわにっき</rt></ruby>・八幡引窓の段」を、金五郎は恍惚となって聞いた。まだ二十五六歳の青年であるが、その語り口の巧妙さはほとんど<ruby><rb>神</rb><rt>しん</rt></ruby>に入っていると思われた。

三味線を弾いているのは、女の<ruby><rb>豊沢玉輝</rb><rt>とよざわたまき</rt></ruby>。金五郎や新之助の師匠である豊沢<ruby><rb>団助</rb><rt>だんすけ</rt></ruby>の未亡人、その<ruby><rb>撥</rb><rt>ばち</rt></ruby>の冴えも、あざやかだった。

「新公、あれは、どこの<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>な？」

「ありゃあ、お前本物じゃよ。小倉の男じゃが、天才とか、神童とかいうんじゃろうなあ、十二歳のとき、竹本津太夫に見こまれて、一度は大阪「<ruby><rb>文楽</rb><rt>ぶんらく</rt></ruby>」につれて行かれて、津ノ子という芸名を貰うて、跡を継いだこともあるんじゃよ。元老じゃ。なんか、師匠と喧嘩して、飛びだしたちゅうこっちゃが、……」

「あんなのにくらべると、おれたちのは義太夫のうちに入らんのう」

「そうよ。ただ、声を出して、うなっとるちゅうだけよ」

そんなことをいって、笑いあった。

第二日目も、前日に倍する雪が降った。客も倍加して、盛大だ。

プログラムが進んで、金五郎の出番になった。

「これが、晴れの舞台の語りおさめじゃ」

水色の肩衣をつけ、袴をはいて、手に扇を持った金五郎は、<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>で、そういって笑った。

好きで、熱心にやってみたけれども、素質がないらしく、上達しないので、金五郎は、もう、こういう会には出まいと思っていたのである。外ならぬ親友の祝いなので、出演する気になったのだった。

舞台一杯に、「玉井春昇さんへ」と染め抜いた紺の<ruby><rb>幔幕</rb><rt>まんまく</rt></ruby>が張りめぐらしてある。昔、子分連中がくれたものだ。

三味線は、豊沢玉輝。

芸題は、一つおぼえの「<ruby><rb>艶姿女舞衣</rb><rt>はですがたおんなまいぎぬ</rt></ruby>、三勝半七酒屋の段」。

ビビン、ビン、ビイン、という三味の音に乗って、金五郎が、

「……<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>には、園がうき思い、かかれとてしも<ruby><rb>烏羽玉</rb><rt>うばだま</rt></ruby>の、……」

そこまで、語ったとき、突然、一発の銃声がした。金五郎は、<ruby><rb>見台</rb><rt>けんだい</rt></ruby>のうえに、うつぶせになった。浄瑠璃本のうえに、タラタラと、血が落ちた。

その瞬間まで、金五郎は、お京のことを考えていた。

昔、江崎満吉との仲なおりの席上、「飛鳥」の舞台で、お京の糸で、この芸題を語ったことがある。そのときの思い出は、「三勝半七酒屋の段」を語るたびに、つねに、金五郎の胸の奥底を、チクチク<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>かせるのが例であったが、今日も、眼をうすくとじて、よい気持そうにうなりながら、お京の幻影を胸にえがいていた。

（お京は、どうしとるか知らん？）

しかし、その遠い感傷は、銃声によって、瞬時に、ふっとんだ。同時に、右耳に焼けるような熱さを感じ、そこから流れ落ちる赤い血を見た刹那、

（四国の田舎で、これと同じようなことがあったが、……）

黒石家に養子に行きながら、白痴女ヤスを嫌って、離縁になった直後、果物に群がるカラスを追う鉄砲に、実弾をこめて、誰かから射たれた思い出が、あざやかに、浮かびあがった。そのときも、同じ右の耳を負傷した。

場内が、どよめいた。

しかし、数秒も経たぬうち、金五郎は、見台から、顔をあげた。左手に持った四角折りの手拭で、右耳をおさえると、平気な顔で、

「……世の味気なさ、身一つに、結ばれ、とけぬ片糸の……」

顔を紅潮させ、一段と、声を張りあげて、語りつづけた。

仰天して、思わず<ruby><rb>撥</rb><rt>ばち</rt></ruby>を休めていた豊沢玉輝も、落ちついた金五郎につれて、ふたたび、ヤ、オ、ビン、ビビン、ビイン、と、三味線を弾きはじめた。

騒然となりかけた場内も、次第に、静まった。

けれども、この一発の銃声が合図であったかのように、日若座の外には、すでに、すさまじい決闘が展開されていた。

日本刀、竹槍、猟銃、ピストル、鎌――いろいろの武器を持ったヤクザたちが、眼を光らして、街中をかけまわり、各所で、果しあいが行われている。

街の店は、大あわてで、大戸を下したり、ガラス窓をしめたりした。いたるところで、発砲のたびに、戸に当る音、ガラスの割れる音がした。

金五郎を射った男らしい、半白頭の五十がらみの博徒が、一散に、劇場から、飛び出して行った。その後を、青鉢巻の若い男が追っかけた。近づくと、背後から、長い刀をたたきつけた。半白頭は、雪のうえに転がったが、ピストルを乱射しながら、逃げて行った。

青鉢巻は、右手のドスを、血を洗うかのように、道傍に立っている雪ダルマの胴に、ズベッと、さしこんだ。二三度、しごいた。引き抜くと、

「ワアイ」

意味のない叫び声を発して、一散に走りだした。

雪は降りやまない。まっ白な道路のうえに、<ruby><rb>椿</rb><rt>つばき</rt></ruby>か、<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>かの花びらをまいたように、点々と、血痕がついている。それは、花が散りしくように、次第に増えて行き、或る街角には、真紅の花束を投げすてたように、かたまっていた。

友田部隊と、島崎部隊との人数はわからない。少くとも、両者合して百人に近い暴力団が、戦闘に従事しているように思われる。青い鉢巻をしていることで、島崎勢であることだけは、判別できた。

友田喜造邸は、要塞化しているらしかった。屋上には、機関銃が据えられていると、噂された。

栗田銀五の家は、露地の奥にあった。その入口に銃口を向けて、内側の柱に、猟銃がくくりつけてあった。<ruby><rb>引鉄</rb><rt>ひきがね</rt></ruby>をひきさえすればよいのである。なぐりこんだ島崎隊の数人が、この猟銃の散弾を、真正面から浴びた。

「……去年の秋のわずらいに、いっそ死んでしもうたなら、……」

なお、金五郎が語っている間に、森新之助は、抜刀して、日若座の裏口から、雪の街へ、飛び出していた。

「<ruby><rb>勇</rb><rt>ゆう</rt></ruby>さん、……勇さん、……」

新之助は、島崎の姿を求めて、乱戦のなかを右往左往した。

短刀を口にくわえ、赤ダスキをかけた「猫婆さん」が、花札を、ビュウ、ビュウ、と、目つぶしの<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>のように、風を切って投げながら、街を練り歩いている。目標が友田勢であることはいうまでもない。もし、それが当れば、剃刀をぶっつけられたと同じだ。十数匹の猫が、川野ノブの後をついて行く。

「眼のいらん<ruby><rb>者</rb><rt>もん</rt></ruby>は、こっち向け」

菊、牡丹、<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>、<ruby><rb>菖蒲</rb><rt>あやめ</rt></ruby>、桜、梅――十二月の花々が、雪のなかを飛んで、雪のうえに落ちた。

「猫婆さん、危いばい」

胡蝶屋豆八が、電柱のかげから、声をかけた。

「危いのは、お前じゃい。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に帰って、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>のなかにでも入っちょれ」

ドテラを着ているノブは、ギョロギョロ、あたりを見まわす。

明治町と三内町との角で、

「来やがれ」

「来やがれ」

刀の切っ先をつきあわせたまま、二人の博徒が、睨みあって、立ち往生している。どちらの額からも、<ruby><rb>生汗</rb><rt>なまあせ</rt></ruby>がダラダラと流れ落ちているが、もう二十分近くも、刀を合わせたきり、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ、同じ言葉を投げあっているだけだ。その言葉も、今はくぐもった<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声に変っている。

二人は、次第に、腰を低めて、雪の地面へ坐りこんでしまった。それでも、刀だけはなお突きあわせて、まだ、

「来やがれ」

「来やがれ」

肩を大きく波打たせて、呟く。

「連歌町遊廓」という石柱の立っているところで、一人の奇妙な武者が、出たり入ったりしている。<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>、<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>、兵隊靴、右手に日本刀、左手に槍、背に猟銃、腹巻にはピストルをさしこんでいて勇ましい。あたりをうかがい、誰も見えないと、

「どいつでも、こいつでも、来てみれ」

肩怒らして、大声でどなる。四方を<ruby><rb>睥睨</rb><rt>へいげい</rt></ruby>する。見物に対する虚勢らしい。戦闘員がやって来ると、悠々と石柱のかげに引っこむ。兜の下に黒い面をかぶっているので、どちら方かわからない。

形勢は混沌としている。

栗田銀五は負傷して、一の子分の加賀新七が、屋根づたいに、親分を背負って逃げた、という噂が飛んだ。

「島崎が死にもの狂いになっちょるもんじゃけ、友田は、家のなかに隠れて、ぶるぶる、ふるえちょるということばい」

どこから出るのか、そんな報道が、街の人々の口を賑わせている。

「警察はなんしょるとかな？」

「警察の手にゃ負えんよ。軍隊が出動して来よるちゅう話じゃった」

「死人が何人あったじゃろか？」

「さあなあ？……」

高山病院の手術室に、森新之助は、瀕死の姿で、横たわっていた。背に射ちこまれた弾丸を<ruby><rb>摘出</rb><rt>てきしゅつ</rt></ruby>するのである。

玄関から、五六人の抜刀隊が、雪の土足で、踏みこんで来た。白鉢巻組である。

「こら、医者、森新之助を出せ。ここへ、先刻、かつぎこんで来た筈じゃ」

「出しません」

「あいつは島崎勇次の兄弟分じゃけ、かたづけてしまわにゃならん。折角、死にかかっとるとを、助けるこたならんど」

「助けます。わたしは、どっちがよいか悪いかは知らない。しかし、人命を守るのが医者の使命です。患者を見殺しにすることは出来ません」

「そんなこというと、貴様の命もねえど」

「自分が殺されても、患者は救わねばなりません」

手術室を探していたがわからずに、抜刀隊は出て行った。

大喧嘩がはじまった情報は、たちまち、狭い若松の街中に伝わった。

<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>気味のマンは、家に引きこもり、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>に入って、猫のノミをとってやっていた。寝こむほどではないけれども、すこし熱もあるので、招待されていた日若座のこけら落しも、夫の晴れの舞台姿も、見に行くことを遠慮していたのである。

四五匹の猫が、咽喉仏をゴロゴロ鳴らして、あたたかそうに、蒲団のうえで、眠っている。ノミをとって貰っている三毛猫も、気持よさそうにしていて、眼をあけない。

「お<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、大きな<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>が起っちょるばい」

そういって、知らせてくれたのは、豆腐屋の「ノロ甚」だった。ふうふう、息を切らしている。

勝則は、東京に行って、留守だった。

子分連中は、ボーシンの松本重雄をはじめ、みんな、沖の現場に仕事に出ていて、誰もいない。

「市街戦が始まって、うちのオヤジも、巻きこまれちょるごとある」

マンの顔色が変った。炬燵を出た。眠っている猫たちをおどろかさないように、そっと蒲団から抜けると、大いそぎで、着物を脱いだ。金五郎の半ズボンをはき、玉井組の半纏を着た。

ゴム長靴をつっかけて、表に出た。雪がはげしく降っている。

<ruby><rb>小方</rb><rt>こかた</rt></ruby>長屋の横手を走った。すぐに、谷口政吉の家である。こういう大雪の日は、仕事を休むことをマンは知っていた。

マンは、まっすぐに、<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>に行った。赤毛のボロ馬に鞍をつけて、ひきだした。

その物音に気づいたか、政吉がやって来た。馬泥棒とでも思ったらしい。

「政やん、ちょっと、馬を<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>る」

マンは、そういうと、身をおどらして、馬に飛び乗った。走りだした。

呆気にとられた政吉は、ぽかんと口をあいたまま、叔母の姿が、降りしきる雪のなかに消えて行くのを、いつまでも、見送っていた。

馬に乗るのは、三十年ぶりだった。故郷の田舎にいたときは、毎日のように乗ったものである。マンは、<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>をにぎって、一散に、街の方に、馬を飛ばした。蹴散らされる雪といっしょに、花札や、<ruby><rb>骰子</rb><rt>さいころ</rt></ruby>が弾ねとんだ。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さあん、……お父さあん、……」

喧嘩をしている博徒たちには、眼もくれない。ただ、夫の姿を探した。なかなか見つからない。喧嘩の集団は方々に散らばっている。しかし、よく映画で見られるような派手なチャンバラ風景はどこにも見られない。剣道の心得などはまるでない博徒たちが、武器をやたらにふりまわしているだけなので、刀を二合も三合も合わせるということはない。度胸のよい方が勝つのである。

マンが馬を飛ばして行く姿を、街の人々は呆気にとられて見た。顔見知りの者も多く、マンは、逢うたび、

「うちの人を見なかったですか」と、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

三内町で見たとか、雪の中にたおれとったとか、友田の子分にとりまかれて斬られよった、とか、いろいろにいう者があって、マンは気も転倒せんばかりだった。

必死で、街中を駆けめぐった。明治町の角で、やっと、発見した。

どうしたのか、金五郎はフラフラしながら、雪のなかをよろめき歩いている。あたかも、いつか、<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふく</rt></ruby>に酔って帰ったときのように、半ば正気をうしなっているらしい。浄瑠璃の肩衣は脱いでいるが、袴はつけている。<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>だ、刀を抜きつれた白鉢巻の男たちが、四五人、金五郎を遠まきに囲んで、金五郎の動く方向に、動いている。

マンは、その中に、馬を突っこんだ。

「お父さん」

馬上から叫ぶと、身体を屈して、金五郎の腕をつかんだ。どこから、そういう力が出たのか。金五郎の身体は、軽々と、馬上に引きあげられた。これまで、マンの生涯に鍛えられ、蓄えられて来たすべての力は、この一瞬のために、あったのかも知れない。

夫婦を乗せた馬車馬は、尻株に刀を投げつけられて、いななきながら、雪のなかをひた走りに走った。

夫をしっかりと抱いているマンの眼に、銃剣を持った兵隊たちの姿が映った。ラッパの音が聞えた。

家に帰った。

ババンをはじめ、「ノロ甚」や、近所の人たちが集まって来た。仕事を休んでいた子分の数人も飛んで来た。みんなの顔は憂色につつまれている。

金五郎はかつぎこまれて、蒲団に横たえられても、人事不省のままだった。子分が高山博士を呼びに走ったけれども、なかなかやって来ない。青ざめた顔は紙のようである。額と首筋にうすく血がにじんでいる。

マンは鉄瓶の水を口に含んだ。プッ、プウッ、と二度に、夫の顔にふきかけた。それでも、金五郎は蘇生しない。

マンは、なにかうなずいた。夫の股間に右手をさし入れた。それに思いと力とをこめた。

「ウ、……ウウン、……」

金五郎は<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いた。やがて、眼を開いた。

  


## 死と夢

梅の木はないのに、庭にウグイスが来て鳴いている。ボケの花でもまちがえたのであろうか。澄んだ声が、冷たい朝の空気をふるわせる。これも、なにかの勘ちがいをしたのか、まだ、冬眠から醒めるはずのない青蛙が一匹、鯉、鮒、金魚のたくさん泳いでいる瓢箪池の岸で、手をついたまま、置物のように動かない。

「梅にウグイス――というが、梅もないのに、間抜けなウグイスじゃなあ」

縁側で、<ruby><rb>投網</rb><rt>とあみ</rt></ruby>の修繕をしながら、金五郎が笑った。

「ヤブウグイスよ。あたしとひとつこと、贅沢いわんで、どこでも歌うとたい」

キザミ煙草をおいしそうに吸っていたマンは、そういって笑ったが、ふっと、いたずらっぽい<ruby><rb>真顔</rb><rt>まがお</rt></ruby>になって、

「お父さん、梅がなけりゃ歌わん、ちゅう、頑固な<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>のウグイスが居ったけんど、憶えとる？」

「知らんなあ」

「知らんはずはないが、……」

（お京のことをいうとるんじゃ）

金五郎にも、マンの皮肉はわかっていた。けれども、白ばくれて、

「さあ、誰じゃろか？」

「お江戸の方角に、居るはずじゃけんどなあ」

「わからん」

「オキヨウキトク「スグオイデコウ」五ロウ」――こういう電報が来たのは、金五郎とマンとが、久しぶりに、のどかなさしむかいで、そんなとぼけた会話をとりかわしているときであった。

「お父さん、行ってあげなさい」

そういうマンの許可を得て、金五郎は、その夜の急行で、上京した。

数日が、経った。

君香が、手土産を持って、たずねて来た。

「おマンはん、しばらくのお別れに来ました」

「お別れ、って？」

「なに、ちょっとの間だすけどな、一二ヶ月、うちのと、別府温泉に。背中の弾丸はとれたけど、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>が大切や、高山先生がいやはるよって、養生だす。それに、喧嘩のほとぼりもさまして来う思て。今度の喧嘩は、向こうから仕掛けて来たことやさかい。こっちにお咎めはないというても、やっぱりなあ。ほんまに、若松て、うるさいとこや」

「ほんとにねえ」

「金さんは？」

「東京に行ったわ」

「なんしに？」

「あいびきに」

「あいびき？　おかしなこと、いやはるな？」

「お京さんが死にかかっとるんじゃと。電報が来たわ。それで、あたし、見舞にやったの」

「阿呆らし。無茶しやはる人やなあ。おマンはんの突飛には馴れとるけど、そら、いかん。お京はんが、どれだけ金さんに惚れはってたか、おマンはんは知らんのや」

「知っとるわ」

「知っとってやったなら、なお無茶や。焼けボックイに火がつく、ちゅうことがあるよってな。それに、お京はんの危篤なんて、ほんまか嘘か、わからへん。たしかめもせんで、命がけで惚れとる女子のとこへやるなんて、危いことしやはるなあ」

「取られたら、あきらめるわ」

「あんなのんきなことばっかり、……」

それから、なお、十分ほど、再婚した百合香の幸福らしい様子や、別府から帰ったら、快気祝いを兼ねて、日若座で、東京大歌舞伎の興行をやるつもりでいることなどを話して、帰って行った。

仕事や組合の方は、金五郎がいなくても、勝則が代理で、遅滞なくやっていた。勝則は、小頭組合の書記であるとともに、労働組合の書記長でもあるので忙しい。

雨のはげしく降る日の夜、大川時次郎が、おとずれて来た。

「オヤジは？」

「東京に行ったわ」

「ふウン」時次郎は、ちょっと、張りあい抜けした表情を浮かべたが、「実は、長崎の高島炭坑で沈没炭引きあげの相談をうけてなあ、わし一人の手に負えんもんじゃけ、オヤジの力を借りようと思うて来た。早いがええけ、こげな天気のなかを飛んで来たんじゃが、……そうな、上京したな」

マンは、酒の燗をつけて出した。さしつ、さされつしながら、

「時やん、田舎で、あんたから、馬乗りを教えて貰うとったおかげで、うちの人を助けることが出来たわ」

しんみりした語調で、マンは、いった。

「一緒に、<ruby><rb>帝釈峡</rb><rt>たいしゃくきょう</rt></ruby>の方までも、遠乗りしたことがあったなあ」

時次郎も、遠い日を夢みる瞳になる。マンにはげしい思いをかけていた時次郎も、今は、四人の子の親である。

マンが、泊って行きなさい、とすすめたけれども、

「また――<ruby><rb>間男</rb><rt>まおとこ</rt></ruby>、見つけた。<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち斬ってくれる。……なんて、いうて、オヤジが飛びだすと困るけ、帰ろう」

そんなことをいって、笑いながら、吹き降りの中を、帰って行った。

また、四五日が経った。

なにか、政治上の大切な用件がある模様で、井上安五郎や、原田雲井が、数回、おとずれて来た。急ぐらしく、金五郎がいないと困るといい、「至急、帰若するよう、電報でも打って貰いたい」といわれた。

しかし、マンは、電報を打たなかった。

金五郎が帰ったのは、上京してから、半月ほど後である。一人ではなく、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の五郎をつれていた。

「お京さんは？」

「死んだ」

金五郎は、ぽつんと、投げすてるように、一言いったきりである。仏頂面をしていて、東京でのことを、なに一つ、語ろうとしない。

「五郎さんを、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に引き取ることにしたけ、頼むばい」

その言葉の意味も、マンにはよくわからない。

（なにか、あたしに、話されんことがあったとじゃないか知らん？）

疑惑が、かるい嫉妬をともなって、マンの心に湧いた。マンも女である。考えはじめると、夫の不可解な沈黙が、矢も楯もたまらぬ焦躁となって、心をみだした。にわかに、君香のいった言葉がよみがえって、

（もしや？）

と、思う。

「ようし」

と、マンは、呟いた。

深夜になって、マンは不思議な活動を開始した。

金五郎の寝息をうかがうと、廊下の壁にとりつけてある電燈の元のスイッチを切った。一時に、家中の明かりが消えて、暗黒となった。

手さぐりで、便所に行った。大便所に入り、いつもとは逆にしゃがんで、誰かを背負うように、両手を後にまわした。眼をとじて待つと、しばらくして、背に重味を感じた。なにかが、背に乗ったようである。そのままの姿勢で立ち、台所に行った。深夜の静寂を、かるい足音だけが破る。まっ暗の中を足でさぐりながら、井戸端に降りた。井戸の縁に、腰かけた。背中が軽くなる。便所の神が、井戸の神のところへ行ったらしい。

マンは、待った。しいんとした暗黒のどこかで、猫がうごめいている。背筋に、冷たい風がしみこむ。あいびきに行った便所の神は、なかなか、帰って来ない。凄さで、全身が凍るようである。歯を食いしばって、じっとしていると、また、背中が重くなった。マンは、両手を後にまわして立ちあがった。

便所に帰って来た。前と同じようにしゃがむと、背中がスウッと軽くなる。

マンは、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>の便所草履を一つ持った。足音を忍ばせて、金五郎の寝室に入った。

まっ暗で、なに一つ見えない。雷のような金五郎の大<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>が、深夜の空気をふるわせているだけだ。

膝でにじりよったマンは、夫の身体を手さぐりすると、そっと、草履を、胸のうえに乗せた。

そして、息をのんで、なにごとがはじまるかを待った。

マンは信心深く、神仏をよく祭ると同時に、さまざまの<ruby><rb>呪禁</rb><rt>まじない</rt></ruby>を行うことに長じている。今、マンが奇怪な行動をしたのも、その呪禁の一つだ。男が隠れてなにをしたか？――それを知るための不気味な方法である。

深夜、暗黒と妖怪との恐怖に耐えて、便所の神と、井戸の神とを逢わせてやることが出来たならば、その礼に、ふたりの神が、男の秘密を引きだしてくれるのである。便所の草履を胸におかれると、男は、無意識に、ベラベラと、一切のことをしゃべってしまうというのであった。

マンは、待った。かたわらに、猫が来て坐ったようである。

時計が、二時を打った。

金五郎の鼾がとまった。かすかな<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声がした。

全身、硬直する思いで、呼吸を殺していると、

「お京は、死んだよ」

間のびした、舌のもつれているような語調の声がおこった。顔は全然見えない。

ぽつんと切れたが、

「可哀そうな女じゃったよ」

という次の言葉から、ダラダラと、独白がつづきはじめた。

「おれは、久しぶりで、お京に逢うたとき、びっくりした。あんまり若うて、美しゅうて、一つも年を取っとらんもんじゃけ、不老不死の<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>かと思うた。そしたら、それは、お京ではのうて、娘のお<ruby><rb>葉</rb><rt>よう</rt></ruby>じゃった。ようもまあ、似たもんじゃ。お京の若いときと、ひとつもちがわん。

病気のお京は、おれに、いうた。

――金五郎さん、今ごろになって、あたしは、こんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なり</span>で、あなたに逢いとうはない。でも、やっぱり、死ぬ前に、一ぺん逢えてうれしい。

そして、泣いた。

おれは、眼をこすってみた。これが、あの、昔のお京じゃろか？　まるきり、しなびた<ruby><rb>胡瓜</rb><rt>きゅうり</rt></ruby>のごとなって、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せんこん<ruby><rb>骨</rb><rt>こつ</rt></ruby>、ふた眼とは見られん。じゃが、お京にはちがいなかった。

それで、おれも、いうた。

――お京さん、わたしも、あんたに逢えてうれしい。

そしたら、お京が、いうた。

――金五郎さん、<ruby><rb>彫青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をもう一ぺん見せて。

おれは、左腕を出した。

――美しいわ。二十五年前に彫ったときと、ちっとも変ってない。あたしは、これを彫ってから、二度と彫青を彫らなかった。でも、あたしはおマンさんに負けた。この龍のつかんでる菊の花、おマンさんなのね。

お京は、そんなこというてから、傍に居ったお葉に、筆と針とを持っておいで、といいつけた。

おりゃあ、死ぬ間際に、お京が、約束の右腕に、降り龍でも彫るのかと、びっくりした。ひやひやしとった。

そしたら、違うとった。お京は、ふるえる手で、おれの左腕の龍の鱗に彫りこんどった、「京」という自分の名を、消してしもうたんじゃ」

そこで、ちょっと、言葉が切れた。

しいんとなる。それこそ、真の闇であって、なに一つ識別することが出来ない。秒を刻む時計の音に、ときどき、ミシミシ、と、家のどこかが鳴る音だけだ。

金五郎の声が、また、暗黒のなかで、おこった。息苦しそうな調子である。

マンは、全身を耳にした。

「おれは、お葉から呼ばれて、別室に行った。お京の家は浅草の<ruby><rb>千束町</rb><rt>せんぞくちょう</rt></ruby>にあった。なにをしとるやらわからんような、植込みの深い、黒板塀の家で、古い建物じゃけんど、割方、大きな二階家じゃ。稽古場のあるところを見ると、お葉が踊りの師匠でもやっとるんじゃろう。

お葉はうす化粧して、銀杏返しの髪を結うとる。おまけに、元禄の着物を着て、それが、昔、お京の着とったもんちゅうことは、じき、わかった。なんば親子というても、こげえも似るもんじゃろか？　そっくり、……というよりも、若いお京がおれの前に居るごとあって、おれは胸がドキドキした。おれは、思うた。

（おれが芝居気があって、よう、つまらん芝居をするが、お葉も、大層、芝居気があるわい）

ところが、芝居気じゃなかった。お葉は真剣になって、おれを<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>くんじゃ。

――あたしはお葉ではありません。お京です。母の身がわりになって、母の思いをとげます。去年、母にいいつけられて、はるばる、若松までも行ったけど、選挙騒ぎで、望みがかないませんでした。選挙がすんだと思ったら、母が悪いという電報が来たために、あわてて帰京し、今日まで、延び延びになりました。でも、今日、こうやってお逢い出来れば、望みを果すことが出来ますわ。

お葉は、妖しげに、眼を光らかし、火山のごと、熱い息をはいて、おれの手を握った。

――金五郎さん、去年、若松に行ったとき、おかみさんに逢いました。

――それは、マンから、聞いた。

――なにもかも、話してしまいましたわ。母との逢いぞめ、なれそめ、彫青のこと、母のその後のこと、……洗いざらい。

――彫青のことは、お葉さんが話したのか。おれは、あんたのことは知らんで、今日まで、お京さんが若松に来たもんとばっかり思うとったよ。

――でも、一つだけ、話さないことがあったわ。それが話されるもんですか。母のいいつけで、あなたを口説いて、あなたの子供を産む、ということ。あたし、あなたを見て、母が命がけで惚れたわけがわかりました。あたしも、あなたに<ruby><rb>心底</rb><rt>しんそこ</rt></ruby>から惚れました。母があたしに乗りうつったのです。ねえ、金五郎さん、あたしの、……いや、母の、……いいえ、お京とお葉という、哀れな二人の女の一生の願いを、かなえさせて頂戴。

お葉は、そういうて、おれに抱きついた。お葉の身体は、七輪のごと、熱うなっとった。眼に一杯、水がたまっとる。

おれは、困って、黙っとった。

――金五郎さん、母は死にかかってます。死ぬ間際まで、一度はあなたとの思いをとげる日を夢にえがいています。もし、あなたがあたしのいうことを聞いて下さらなかったら、母は死んでも死にきれないでしょう。あたしは母に報告する義務があるんです。あなたは母の一生を台なしにし、今また、その母を見殺しにして、あたしの一生をも台なしにしてしまおうとなさるの？　それでも、男なの？　人間なの？　血が通ってるの？　<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>があるの？

おれは、おかしなことに、そんなときに、鍛冶屋の清七のことを考えだしとった。清七がカンのにぶい奴で、朝、頭をたたかれて、夕方になって、アイタというほどのろくさい男じゃが、おれの方がよっぽど、カンが鈍い。おれは、二十五年ぶりに、アイタ、というようなもんじゃ。

お京から、おれは、オンテレ・メンピン、女房が<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いのじゃろう、といわれたことがあるが、このとき、おれは考えた。

（女房に操を立てて、お京、お葉――二人の女を殺してしまうことが、果して、人間の道じゃろか？　男の道じゃろか？）……」

マンは、ゴクッと、唾をのんだ。まるで、猛獣が、相手の出よう一つで、襲いかかるような姿勢で、暗黒のなかに、凝結していた。

金五郎も、生唾をのみこんだ気配だった。

突然、天井裏を、猫が鼠を追って走った音がした。マンは、その音が、雷鳴のようにひびいて、ぎょっとした。身体がふるえ、動悸が打つ。

不気味な沈黙が、ちょっとの間。

「しかし」と、金五郎は、また、低い声で、つづけた。「おれは、考えなおした。そして、お葉にいうた。

――ようく、わかった。わたしも人間じゃ。男じゃ。血も通うとれば、<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>もある。あんただちの望みをかなえてあげたい。じゃけど、今はいけん。九州に帰って、女房の許可を貰うて来るけ、それまで、待っておくれ。

――おかみさんが、許可なんてするもんですか。

――いんや、マンは、わかった<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>じゃけ、きっと、許してくれる。女同士、あんただちの気持がわかるにちがわん。

――いやいや、今、今。

なおも、お葉は、<ruby><rb>火達磨</rb><rt>ひだるま</rt></ruby>のごとなって、しちくどう、おれを説き伏せようとした。けれど、とにかく、一度、九州に帰ってからということで、話が折り合うた。

それでも、翌朝、お京には、お葉の口から――とうとう、お母さんの永い間の一念を果した。……という風に報告した。おれがそげな風にいわせたんじゃ。そしたら、病床のお京がにっこり笑うて、

――これで、やっと、おマンさんに勝ったわ。

と、いうた。

（なんちゅう寂しいことか）

そう思うて、おれは涙が出た。

おれは馬鹿たれで、やることなすこと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へま</span>ばっかりを一生涯つづけて来たが、またしても、哀れな女に大嘘をついてしもうた。それでも、その嘘で、お京が浮かばれるちゅうんなら、まあ、悪い嘘でもなかろうかと、勝手に慰めとるだけのことよ。

お京は、死んだ。<ruby><rb>死顔</rb><rt>しにがお</rt></ruby>が笑うとるようで、美しかった。死ぬ間際に、般若の五郎さんは自分が死んでから、東京に置いとくと、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なことはせんけ、おれのところに置いてくれ、ちゅうもんじゃけ、つれて帰ったんじゃ。……お京は、死んでしもうた」

金五郎の言葉がやんだ。しいんとなる。

呼吸をひそめていたマンは、息苦しい沈黙に耐えかねて細い声でいった。

「もう、いうことはないの？」

「咽喉がかわいた。ラムネをくれ」

マンは、びっくりした。

けたたましい笑い声が、暗黒のなかで、爆発した。飛びあがった猫が、一散に逃げて行った。金五郎は転げまわって、笑っているようである。

マンは、夫が発狂したのかと思った。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さん、……あなた」

夫の身体をゆすぶった。それでも、笑いがとまらない。

しかし、金五郎は、はじめから、全部、知っていたのである。マンの<ruby><rb>呪禁</rb><rt>まじない</rt></ruby>の方法は、前に、何度も聞いている。自分の国にも似たような魔術がある。やはり、便所の草履を男の胸にのせ、下帯を投げて、それを巻きとれば、それにしたがって、べらべら、しゃべりだすというのである。しかし、金五郎はそんなことは信じない。けれども、呪禁好きのマンに追随して、おかしさをこらえながら、得意の芝居を打ったのであった。

（でも、よかった）

と、思う。まともには話しにくいことである。深夜の奇怪な対決が、悲劇を喜劇的にすることによって、たしかになにかを<ruby><rb>雲散霧消</rb><rt>うんさんむしょう</rt></ruby>したのである。

数日後、金五郎宛、東京から、電報が来た。

「オヨウトフウフニナルコトニナツタ」オヨウトノレイノヤクソクハトリケサレタシ」カラシシノ十ロウ」

般若の五郎がこれを読んで、

「おれよりも、倅の奴の方が<ruby><rb>上手</rb><rt>うわて</rt></ruby>だ」

と、笑った。

五郎は、玉井家の庭番のような形になった。

数年が、過ぎる。

昭和十一年正月、吉田磯吉、永眠。

「吉田天皇」と称されていた磯吉大親分は、昭和七年、衆議院議員を勇退していたが、十一年一月、虫状突起周囲炎を手術した結果が思わしくなく、中旬、にわかに、病状悪化した。

金五郎は、吉田邸に、見舞に行った。今度は玄関払いを食わされなかった。

「玉井君、よう来てくれた」

と、弱りはてていた吉田磯吉は、病床に伏したまま、心からのように、金五郎を見ていった。

「ほんとに長い間、いろいろ、お世話さまになりました」

「まるで、もう、おれが死ぬみたいな挨拶じゃなあ。いや、今度はおれも覚悟しとる。玉井君、君とはじめて逢うたときのことを、おれはよう憶えとるはい。下関の彦島で……そうじゃ、もう三十年も前になる。上海コレラ騒ぎのときじゃった。あんとき、なんぼか骨のありそうな若い<ruby><rb>衆</rb><rt>し</rt></ruby>じゃと思うとったが、とうとう、一生、おれに楯をつき通したなあ。おれが死んだら、君がさぶしかろうよ」

「親分、それはちがいます。親分は、わたしは尊敬しとりましたのですが、子分衆が、……」

「子分がどげした？」

「あんまりようない人が居って、あなたは大変損をされました」

「なにいうか。おれの子分は、みんな、ええ奴ばっかりじゃ。そんなこというなら、もう帰れ」

一月十七日、鬼籍に入ったとき、享年七十歳であった。

同じ年の二月十九日、玉井組創立三十周年紀念の宴が催された。金五郎は派手にやることを好まず、自宅で、ごく内輪の者ばかりを招いて内祝をした。それでも、百人に近い客だった。子分たちは別にやったのである。

大庭春吉が司会をやり、金五郎と話しあって、いやがるババンを正面の座に据えた。永田ヨネはびっくりして尻ごみしたが、かつがれるようにして、大黒柱を背に坐った。小さくなっている。

「玉井組の根本は永田組、そのババンのために、打ちこみます」

大庭の音頭で、「<ruby><rb>蛭子</rb><rt>えびす</rt></ruby>打ち」がされた。

「エーイ、シャンシャン、エイ、シャンシャン、エーイ」

めでたい席にはかならず附きものの、若松独得の打ちこみである。

ババンの眼にみるみる涙があふれ、顔を掩うと、うれし泣きに泣き出した。

金五郎の眼からも、マンの眼からも、噴出するように、水がほとばしり出た。

にぎやかで打ちとけた饗宴がはじまった。

福岡県会議員に出て、県会議長となっている井上安五郎も出席した。次には代議士におし出そうということになっている。原田雲井が「高砂」を謡った。

三十年前、はじめて、「玉井組」の看板をかかげたとき、金五郎の家の二階に下宿して、ゴロゴロしていた八人の子分は、みんな健在である。そして、すこしずつ、えらくなっている。

――玉井組の<ruby><rb>大助役</rb><rt>おおボーシン</rt></ruby>になっている松本重雄、小炭坑主の大川時次郎、割烹「六ゾロ」の松川源十、八幡製鉄作業主任の谷俊次、<ruby><rb>山九</rb><rt>さんきゅう</rt></ruby>組小頭の城三次、聯合組<ruby><rb>甲板</rb><rt>デッキ</rt></ruby>番の新谷勝太郎、船具商の岡野清七、豆腐屋の山本甚七。

――支那大陸。

――ブラジルの天地。

金五郎とマンとの壮大な青春の夢は、「猛獣のうようよしているジャングル」として、敬遠していた若松の小世界に、埋もれてしまったけれども、今は、もはや、それにも悔いはなかった。

同じ夢を抱いた森新之助も、「飛鳥」と「日若座」との経営者として、おさまっている。

祝宴から一週間後、二月二十六日、東京において、軍隊の叛乱事件が起った。多くの政府要人が襲撃された。大雪であった。首都には戒厳令が<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>かれたが、恐しいなにごとかの<ruby><rb>兆</rb><rt>きざし</rt></ruby>が、この事件によって、国民を不安にした。

昭和十二年七月七日、日華事変勃発。

このときから、時代はまったく新しい歴史をくりひろげるのである。そのなかに、どんな夢が生まれるか、また、崩れるか、そんなことは、無論、わからない。

玉井金五郎、五十八歳。

玉井マン、五十四歳。

  


## あとがき

『花と龍』は、読売新聞に、昨年六月二十日から今年五月十一日まで、三百二十四回連載された小説である。

私はその最終回の最後の行をかいて、ペンを置いたとき、不覚の涙を落した。終戦後、小説を書き終って涙が出たのは、この『花と龍』と、『青春と泥濘』との二つだけだ。その涙の意味はちがうけれども、どうしても書かなければならなかったものを、やっと書くことが出来たという、よろこびともつかず、悲しさともつかず、さびしさをもまじえたような或る感情が、生来だらしのない泣き虫の私を泣かせるのである。無論、この作品は不備や不満だらけであるが、この後、人から君の代表作はと訊ねられたとき、その一つにこの作品をあげることの出来るのは作家としての本懐である。

この小説は私の両親の伝である。玉井金五郎が父、マンが母、そして勝則が私である。庶民としての父の一生を書きたいことは、長い間の私の念願であった。今ようやくそれを果し得たのであるが、そのときはもう父はこの世にいない。昭和二十五年九月九日、脳溢血でたおれて、鬼籍に入ってしまった。享年七十二歳であった。『花と龍』は父の在世中書きたかったのであるが、そして、親不孝ばかりして来た私のせめてもの罪滅ぼしにしたかったのであるが、いってもかえらぬことになってしまった。もっとも父が生きていたら、この小説をよろこんでくれたかどうかはわからない。

母マンが健在で、もう七十になる。若いころ鍛えて来た身体なので、どうかすると私たちより元気だが、この『花と龍』をどんな気持で読んでいたことであろうか。好きなキザミ煙草をくゆらしながら、女房の良子に、「勝則が、なんもかんも、尾鰭をつけて書いてしもうて」と、苦笑しながら述懐していたということである。それでも、他人には「勝則が、玉井組が<ruby><rb>無</rb><rt>の</rt></ruby>うなって、お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>さんも死んでしもうでから、日本中に宣伝しよる」などと語ってうれしそうにしていたということである。

『花と龍』は、小説としてのフィクション、母のいう尾鰭が多少はついているけれども、骨子はすべて事実にもとづいている。しかし、いわゆる伝記小説というものではなく、あくまでも純粋の小説として書きすすめ、文学というものをつねに念頭において努力した。けれども、実名で書いたため、その困難さはいいようがなかった。作中に出て来る人物たちの関係者、末裔はなお多く生存しているので、どうしてもどこかに当りさわりが出来て来るのである。小説とモデルという問題は元来なにかとうるさいものだが、この『花と龍』でもあまり機嫌のよくない人があったかも知れない。しかし、それはやむを得ないことで、昔の話ではあり、個人感情をまじえぬ文学的表現という立場からしたことなので、宥恕を乞いたいと考えている。連載中、脅迫めいた注意をうけたこともあるけれども、かまわず所信にしたがって筆を進めた。

吉田磯吉親分の名はなお古い人たちや、政治家仲間では知られている。父玉井金五郎は終生「吉田一派」といわれる街のボスたちと対立して来たけれども、いつも、口癖に、「吉田さんは川舟の一船頭からあそこまでなった人だから、やっぱりひとかどの人物だった。子分によくないのが居ったので、損をしている」という意味のことを洩らしていた。私も同感なので、作中の吉田磯吉氏を書く場合には単なる暴力団長、悪漢の総元締のような人物にはすまいと心がけた。現在の若松市長吉田敬太郎氏は磯吉親分の嫡男である。敬太郎氏は一ツ橋大学を出て洋行したこともあるインテリ紳士で、厳父の風格とは正反対だ。若松の前市長は父の盟友井上安五郎氏であったが、一昨年の市長選挙で、吉田候補とたたかい、敗れた。このときの選挙戦など、「花と龍余聞」になりそうな面白い話があるが、いつか機を見て書きたいと考えている。井上安五郎氏は、最近、頬癌という厄介な病気にかかり、東京大学病院で数回手術をうけた。現在は小倉歯科大学の附属病室に入院加療中だが、経過良好で、退院も間近いと聞いている。老来かくしゃくたるものがある。岡部亭蔵氏の息子宏輔君は私と田町小学校の同級生、現在は若松港運会社の社長として活躍している。その弟の得三氏は前にも衆議院に出たことがあるが、この四月選挙にも福岡県二区から立候補して当選した。花田準造親子の息子英男君も私と小倉中学の同級生、現在は長崎市の病院に勤務、その弟の武人君は若松の市会議員、花田組、劇場稲荷座を経営している。その他、作中人物の関係者は少くない。

『花と龍』はもっと沢山かきたいことがあったのであるが、あまり下手の長談義になっても困るので、多くの素材を割愛した。大正時代を飛ばしたので、自然に、明治篇、昭和篇という前後篇二部の形になってしまった。大正時代のことは機会をあらためて書くつもりだ。小説は昭和十二年七月七日、日華事変をもって結びとした。その年の九月十日、私は召集を受けて出征した。杭州湾敵前上陸以後、昭和二十年八月十五日、祖国の敗北の日まで、私は方々の戦線をさまよい、その間に、『土と兵隊』『花と兵隊』『麦と兵隊』の三部作をはじめ、多くの戦記文章を書いたのだが、昭和十七年、破天荒のことが起った。「玉井組」がなくなったのである。父が一生を賭けて来た玉井組は、国家総動員法による企業整備にもとづき、個人企業として強制的に解散せしめられた。巨大な権力と命とで否応はなかった。しかし、父は歯をくいしばり、涙をのんで、「お国が勝つためにそれが必要なら仕方がない」といって、愚痴をこぼすことはしなかった。けれども、父がそれ以後めっきりと元気がなくなり、急速に衰えを見せはじめたことははっきりと私たちの眼に映った。晩年は政界も退き、世話好きの好々爺となってみずからの狭い世界にとじこもっていた。若いころの花々しさは遠い時代の夢のようであった。しかし、私はこの父の晩年のさびしげな姿もいつか書きたいと考えている。

この小説が連載されている間、実に多くの人々から便りを貰った。私は毀誉褒貶は度外視して、ただがむしゃらに身体をぶっつけるようにして書いていただけだが、庶民玉井金五郎とマンとの生きて行く姿のなにかが、読者の共感を呼んだように思われる。私の才能と力のなさで、不充分であったにもかかわらず、金五郎とマンとのひたむきな生きかたが人間本来の姿をどこかに止めていたせいであろうか。作者にとってはよろこばしくありがたいことであった。三百二十四回というような長期間にわたったのもそういう読者の激励と支援のたまものであった。また、読売新聞が貴重な紙面をこんなにも長く裂いて下さったことにたいしても感謝の念がおさえきれない。

なお、『花と龍』はあくまで金五郎とマンとの物語なので、勝則は出来るだけ控え目に書き、どうしても必要な場所以外には顔を出させないように留意した。若松港のゼネ・スト前後は勝則にとっての大切な時期なので、別個の長篇にしたいという意図を持っている。

戦争で玉井組がなくなったばかりか、昭和二十年六月二十五日、強制疎開によって、私たちの生まれ育ったなつかしい正保寺町の家も引きたおされてしまった。現在は山手通の家に住んでいるが、そこの柱には、例の八角時計が古ぼけた姿でかけられてある。しかし、ネジをかければまだちゃんと動く。明治三十九年は私の生まれた年、玉井組の初まった年、そして、この四円七拾銭の柱時計がその記念に買われた年であった。この時計の音をききながら、毎日、老母マンが相かわらず好きなキザミをのみながら、遠い日をなつかしむ目つきで、顔の皺を増やして行くのである。

英国戴冠式と、世界ペン大会とのためヨーロッパに行くことになって、若松を出発したとき、「お父さんが生きとったらどんなによろこぶことじゃろか」といって、母は涙をためた。私も涙が出た。今夜、八時半のエール・フランス機で羽田から発つ。明後日の朝はもうパリーだ。幾度か戦線に出発するため、父母の見送りをうけたが、今度は命の心配はない。鉄砲も刀も持たず軽い背広の手ぶらである。そして、私は母のための土産をなににしようかと考えた。口紅も香水もいらない母だ。そこで私は父への思い出もふくめて、パリーで「懐中ランプ」を買って来ることに定めたのである。

ヨーロッパの旅は約二ヵ月だから、帰国するころは『花と龍』上下二巻が美しい本になっているころであろう。早く母に見せたい。――駄目だ。また涙が出て来た。泣き虫で仕様がない。父も母も泣き虫だったが遺伝らしい。もうペンを擱こう。

昭和二十八年五月二十七日。東京にて。

  


## 解説

火野葦平

『糞尿譚』以来、郷里若松を舞台にした小説はたくさん書いたけれども、その中で、『花と龍』は一番長い作品であると同時に、私としても力をこめたものである。父玉井金五郎と母マンとの生涯を書きたいということは、久しい間の宿願であったが、読売新聞に連載を依頼されたので、やっと思いを果すことが出来た。この小説は、昭和二十七年六月二十日から二十八年五月十一日まで、三百二十四回、連載された。

しかし、この小説が書かれる機縁を考えてみると、当時の読売新聞文化部長細川忠雄氏に感謝しなければならない。パージが解除された直後、池上徳持町の家（長谷健と同居生活時代）に訪ねて来た細川氏は、読売にも連載を書いて欲しいといったが、すでに、ひとつのプランをたずさえていたのであった。

昭和二十五年九月九日、父は七十歳で、脳溢血のため永眠した。私は方々の新聞雑誌に、父の思い出を書いた。そのうち、『新潮』の「一市井人の一生」と、『面白倶楽部』の「血風若松港」とがやや長い文章であったが、細川氏は後者を読んだものらしい。『面白倶楽部』には藤掛寅七君がいて、私はときどき頼まれて、小説を書いていた。しかし、父の思い出は小説ではなく、回想記風なものなので、「父恋いの記」というおとなしい題をつけておいたところ、雑誌が出てみると、「血風若松港」となっていてびっくりした。いかにも、「血煙荒神山」まがいのすさまじいギャング小説みたいである。たしかに、父が生きて来たころの若松は西部劇そこのけの暴力世界が展開されていたので、血風は吹きすさんでいたけれども、それを書く場合には、私としては冷静に批判の眼をもってしたいと考えていた。封建的な前近代性を肯定するのではなく、これに抵抗する側から書くのでなければ、人間と文学の純粋さは損われてしまう。実際に、運命の太い絆で、グイグイと人情の谷間へ引きずりこまれ、暴力世界に投げこまれながら、頑強に、父はバーバリズムとたたかって、庶民の仕事師として生き抜き、素朴ではあるが、富や権力におもねらない正義感を抱いて、一生を終ったのである。花やかではなかったけれども、男らしい生涯であったと思う。しかも、自己反省を絶えずおこない、ときに、自己嫌悪にすら陥っていた。

私はそういう誠実な父の人間性を見失うまいと心がけ、親分と称されていた父を、ヤクザ世界のボスか英雄のようには書きたくなかった。任侠とか、仁義とか、<ruby><rb>男伊達</rb><rt>おとこだて</rt></ruby>とかいうものとはちがっていたからである。しかし、父はたしかに太ッ腹で、豪胆だった。といって、けっして荒っぽい所業はなく、むしろ、温雅といった方がよかった。おまけに、神経のこまやかなところがあり、涙もろく、私たち子供たちに対しては、やさしく慈愛深かった。父は無学ではあったが、機智に富み、小さい私たちに、よくデタラメなお伽ばなしを聞かせた。お化けの話も得意だった。

いま考えると、天性のストリー・テラーであったようで、ひょっとしたら、詩やロマンを愛する私の資質も、父から受け継がれたのではないかと思うときがある。絵も好きで、自分で武者絵を描き、タタミ二枚ほどもある大凧を作ってくれたこともある。物干につながれ、天高くあげられて風に唸っていたのが、まだ瞼と耳とに残っている。一度、糸が切れて、一里も先に落ちたが、私の名が書いてあったので、拾った人が届けてくれた。アメリカまで飛んでも大丈夫帰って来るぞ、と、父は笑っていた。それはまったくヤクザの親分などではなく、一箇の子煩悩の好々爺であった。

細川忠雄氏もこういう父に共感したのかも知れない。いっそ、「玉井金五郎伝」という題にして、父の生涯を書いてはどうかというのであった。

私もありがたいことに思い、同時に、日ごろの念願が達せられるのをよろこんで、それに決めたが、題はあまりに面映ゆいので、「花と龍」とした。父の左腕にあった彫青の図柄から思いつき、父と母とを龍と花とに象徴したのである。

私は九州男児といわれているが、九州人としての血はない。この小説に書いたとおり、父は四国、母は広島、その混血児である。しかし、北九州の若松で生まれ、そこで育ち、現在もそこに住んでいて、九州的性格が身についたようである。若松は石炭積出港として日本一であるが、大宅壮一氏が『日本の裏街道を行く』の中で書いたように、「暴力地帯として日本のナンバー・ワンとはいえぬまでも、ビッグ・スリーの中には入る」といわれた時代がたしかにあった。そういう荒くれた世界の中で、喧嘩ぎらいの父は玉井組統領として生き、私は文学や絵を愛するロマンチックな少年となって生長したのである。しかし、私も、早稲田大学英文科を中退し、福岡二十四聯隊除隊後は玉井組の半纏を着て、石炭仲仕とともに若松港で暮らした。それは、マルキシズムに心惹かれて労働運動をするためであって、その一端は、『花と龍』の中に、ストライキの章として書かれている。しかし、新聞小説であったために、思想的な面は伏せられ、外面だけしか書かれていない。

『花と龍』は玉井金五郎が主人公なので、私は出来るだけ顔を出さないように心がけたのである。しかし、このストライキとマルキシズムとの問題は、私の青春のもっとも重大なテーマであるので、別の長篇にしたいと考え、現在、「青春の岐路」の題下に、『世界』に、今年の一月号から連載中である。私は赤い思想に染まって一度は文学を捨てたが、その思想の誤りを悟って転向し、ふたたび文学に帰って、「山芋」「河豚」「糞尿譚」等の作品を書いたのであった。「青春の岐路」では、その彷徨の時期に取り組み、人間と思想の問題を他面から追求してみたいと考えている。

作品は発表の形式によって、いろいろの制約を受ける。特に、数百万の部数を持つ大新聞である場合、なんでも自由勝手に書くというわけには行かない。私は、朝日新聞に三回（『花と兵隊』『美しき地図』『陸軍』）、毎日新聞に二回（『海と兵隊』『赤道祭』）書き、読売新聞にははじめてであったが、この日本の三大新聞には、それぞれ顕著な特色があることを感じた。

読売はすこぶる庶民的な新聞で、その意味では、『花と龍』は打ってつけの題材であったかも知れない。いつかは書きたいと思っていた父母の伝なので、私も全力をぶっつけるようにして書きすすめて行ったが、読者からの反響も強く、たくさんの手紙をもらった。このため、はじめ半年位という約束で書きだしたものが次第に伸びて、一年近くになったのである。それでも、なお、書きたいことが多かったが、あまり長談義になるので、やむなく、大正時代を端折って、明治篇、昭和篇の二部にしてしまった。いつか、大正篇も書きたい意図を持っている。

この作品の登場人物は、すべて実名になっている。それだけに書きにくい点があった。無論、実録でも伝記小説でもなく、多分に小説としてのフィクションが織りこまれているけれども、骨組は事実にもとづいているので、方々にさしさわりが出来た。よく書かれているモデルは黙っているが、敵方として登場する人物たちはあまりきげんがよくないわけである。敵味方を感情的に書いているのではないとしても、やはり、玉井金五郎が対立した吉田磯吉一派の人たちは、面白くないにちがいない。

吉田大親分は昭和十一年に他界したが、次の御曹子の敬太郎氏は現在、若松市長である。吉田一家の四天王といわれた人たちももう一人も生存していないが、二世はみんな若松において第一線で活躍している。岡部亭蔵氏の息子の岡部宏輔君は、私と田町小学校の同級生で、現在は第一港運会社社長、商工会議所会頭をはじめ、多くの要職についている。花田準造氏の息子の花田英男君は小倉中学の同級生で、今、長崎市立病院勤め、その弟の花田武人君は花田組やマーケットを経営し、市会議員である。しかし、ありがたいことに、こういう人たちが、『花と龍』に対して理解を示してくれて、これが東映で映画化され、若松で長期ロケーションがおこなわれたときには、気持よく協力援助してくれた。

この作品は父の生前に書きたかったのだが、ひょっとしたら、父は生きていたら気に入らなかったかも知れない。母は苦笑しながら、「勝則が、なんもかんも、尾鰭をつけて書いてしもうた。玉井組が無うなってから、日本中に宣伝しよる」と、誰彼に話していたという。裸一貫で、玉井組を結成した父は、この仕事に命をかけていたのに、昭和十七年、太平洋戦争勃発後、国家総動員法による企業整備のため、個人企業である玉井組は強制的に解散させられてしまった。巨大な権力と命令で、否応はなかった。父は歯を食いしばり、涙をのんで、「お国が勝つために必要なら仕方がない」といって、泣き言はいわなかったが、それ以後、父がめっきりと元気がなくなり、急速に衰えたことは明瞭に私たちの眼に映った。しかも、昭和二十年六月末、敵の空襲に備えるためと称して、父の一生の営為の成果である正保寺町の大きな家は、強制疎開させられ、わずか二日間で、跡かたもなく引きたおされてしまったのである。そのときも、父は、「お国が勝つためなら」と、同じことをいっていたが、そのさびしげな様子は見るに耐えられなかった。

『花と龍』三百二十四回目の原稿を渡してまもなく、私はヨーロッパに旅立った。アイルランドのダブリンで開かれた第二十五回世界ペン大会に出席し、イギリスのエリザベス女王戴冠式を見学した後、三ヶ月ほど、スペイン、モロッコ、フランス、イタリア等を経めぐって帰国した。パリの読売支局で、日本から送られて来た読売新聞を見たとき、臼井吉見氏が文芸時評で『花と龍』を批評しているのを読んだ。石川達三君の『青色革命』、丹羽文雄君の『恋文』、それに、『花と龍』の三つの新聞小説を比較して、『花と龍』がもっとも成功していて、尾崎士郎氏の「人生劇場」とならんで、この方面の代表作となるにちがいない、と書いてあった。私はうれしかった。『花と龍』は新潮社から単行本として刊行されたが、その後、新潮文庫に入れられたとき、亀井勝一郎氏も、解説の中で、「火野文学の一特徴とも云える野生を帯びた息の長さが、これほど端的にあらわれた作品はあるまい」「この作品の重要性は、それが火野氏にとって一度は必ず書かれねばならない性質のものだという点にあるだろう」「火野文学全体を通じて、この意味で、『花と龍』はひとつの峠となるもの」という風に、好意ある理解を示してくれて、ありがたかった。その他、多くの批評があらわれて、ともかく、『花と龍』が私の代表作の一つとなったのである。無論、欠点はたくさんあり、それを指摘する者もなくはないが、その不備の点は私にも納得が行くので、それは別の形で、（「青春の岐路」のように）、空白を埋め、整備したいと考えている。思想とともに、恋愛問題も、大切な青春物語として、もう一度、書きなおしたいテーマの一つだ。

父金五郎が死んで八年になる。母マンは七十五になって、なお元気だ。好きな煙草をのむことと、孫たちの世話を焼くことと、古い八角時計にネジを捲くこととを仕事にしている。この時計は『花と龍』の中に出て来るもので、裏には、父の字で、

新仲町　玉井組

明治三十九年四月二日求之

本品ハ請負業開業紀念トシテ

愛智時計店ヨリ買収セリ

一金四円七拾銭也

営業開始ハ二月十九日

と書いてあるが、まだ、かすかながら読みとれる。この年、私は生まれたのである。つまり、玉井組と、私と、時計とが同年のわけだが、玉井組は消滅し、母と私と時計とはまだ残っている。この時計は精工舎製だが、私はその頑丈なのにおどろいている。いまでもシッカリと秒を刻み、大きな音を立てて鳴る。しかし、母の話によると、苦労もしたらしく、米代のカタにとられたり、税金の抵当になって差し押えされたことがしばしばという。その一枚の貼紙が裏側になお残っている。

この時計のほか、父は、私たちになんの財産も残さなかった。しかし、父の生きかたと、「正しい者は最後には勝つ」という口癖とは、私の精神の上にたしかに或る投影をした。それは銭金に換えられぬ大きな遺産といえよう。勿論、父にも短所があり、私も親不孝のかぎりを尽したが、魂のどこかで触れあっていたものがあったにちがいなく、いま『花と龍』を書くことによって、その責の一端を果し、この作品を父の霊に捧げて、心安まるものがある。作家がほんとうに書かずには居られなかった作品を完成したという点でも、私は満足だ。最後の行を書き、ペンを置いたとき、涙が出た。

作中の勝則と良子とは結婚以来、すでに二十八年、子供七人（男、女、男、男、男、女、男）はみな健在で、すでに、息子と娘は結婚し、昨年三月、娘には孫が生まれた。『花と龍』を子供や孫たちがどんな気持で読むか、その感想を聞いてみたいものである。

若松も変った。戦争がそのもっとも大きな原因だったが、今はもう暴力地帯のビッグ・スリーなどという汚名は返上しなくてはならない。前近代性や非文化性が一掃されたわけではないとしても、昔のような親分同志の拮抗や、大出入りは跡を絶った。むしろ、平和な港となったといってよいだろう。高塔山は公園となり、街も次第に美化されて近代都市としての外貌を備えはじめた。さらに、近く、若松と戸畑とをつなぐ大鉄橋工事が開始されようとしている。洞海湾の入口にかかるこの吊橋は、東洋一の規模を有するものといわれているから、完成の暁は、港の様相を一変する壮観を呈するだろう。石炭仲仕も荷役会社の従業員として最低賃銀を保証されているので、昔日のような荒々しさはない。作品中のゴンゾ唄を知っている者も稀になった。『花と龍』の序章に出て来る母の郷里、狐の鳴く谷の村は、一昨年の町村合併で、庄原市内になった。こういう意味では、『花と龍』は一種の歴史小説といえるかも知れない。

（昭和三十三年一月二十五日）