## 一

銭形平次の見ている前で、人間が一人殺されたのです。それをどうすることも出来なかった平次、この時ばかりは、十手捕縄を返上して、番太の株でも買おうかと思った事件、詳しく話せば、こうでした。

「親分、今年の花見は町内に<ruby><rb>忌引</rb><rt>きびき</rt></ruby>や取込みがあって、ろくな工夫もなかったが、その代り川開きの晩は、涼み船を出して、大川を芸尽しで<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ廻そうという寸法さ。お役目を抜きにして、その晩は一と肌脱いじゃあ貰えませんか」

浜田屋の隠居が口を切りました。集まったのは、町内でお祭騒ぎの好きなのが十五六人。その席へわざわざ平次を呼んだのは、大概のことは大目に見て貰い、話の都合では、何か一と役受けさせようという魂胆だったのです。

浜田屋喜平というのは、町内の紙屋の隠居で、<ruby><rb>気儘</rb><rt>きまま</rt></ruby>に遊びたいばかりに、婿の儀八に身上を譲ったという変り者。五十歳の、恐ろしく気の若い小意気な男でした。

「それは結構だが、――私ではお<ruby><rb>燗番</rb><rt>かんばん</rt></ruby>の足しにもなりませんよ」

平次は尻ごみしました。芸達者の中へ立交って、ニタニタして暮す半宵は、あまり楽な付合ではなかったのです。

「でも、親分が居なさると若い者も何となく気が<ruby><rb>緊</rb><rt>しま</rt></ruby>っていい。迷惑でしょうが、町内付合だと思って涼み船の人数に入って下さい」

「それはもう、喜平さん」

平次は嫌とも言えません。

それから酒が始まって、趣向が一とわたり凝らされると、日が暮れる頃から一人二人と帰って、<ruby><rb>酉刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>（六時）過ぎまで隠居所に残ったのは、たった六人だけでした。

涼みの相談などは、一向気が乗らなかったので、平次は何べんか帰ろうとしましたが、隠居の喜平は折入って智恵を借りたいことがあるから、皆んなの帰った後まで残るように――と再三頼み込むので逃げも隠れもならず、ほろ苦い杯を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めております。

「喜平さん。今度は腰が痛いの、筋がつるのとは言わせませんよ。船は大きいし、酒はふんだんに積込むし、三味線は申分がないし、踊って踊って、踊り抜いて貰いますよ」

小間物屋の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>――田原屋<ruby><rb>仁三郎</rb><rt>にさぶろう</rt></ruby>はこんな事を言うのでした。これは四十七八、世帯の苦労はしておりますが、喜平に劣らぬ愛嬌者で、若い時分から無二の間柄です。

「それがいけないんで、仁三郎さん。お互に年は取りたくないネ。持病の<ruby><rb>疝気</rb><rt>せんき</rt></ruby>が<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じて、近頃は腰も切れない始末さ。気ばかり若くたって、もういけねえ」

喜平は酒が廻るにつれて痛くなった腰を叩きながら、恐ろしく苦い顔をして見せます。

「それはお困りだろう。私のところに、長崎から<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>の小間物を取寄せるついでに、疝気<ruby><rb>寸白</rb><rt>すばく</rt></ruby>の妙薬を取寄せたのがあるが、それを少しばかりお裾分けをしようかな。家の婆さんの寸白は、たった一服で治って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びっくり</span>しているんだが」

仁三郎の話は、病人には恐ろしい魅惑でした。

「そいつは耳寄りだね。一服譲っちゃ下さるまいか」

「いいとも。南蛮秘法の疝癪一服薬というのだが、――帰ったらすぐ使いの者に持たせてよこそう。寝る前に<ruby><rb>服</rb><rt>の</rt></ruby>むと、一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>経たないうちに、身体中が温まって、どんな苦しい痛みも一ぺんに忘れるから妙さ」

「有難いな。それを聴いただけでも、治ったような気がするよ。友達は持ちたいものさ」

「礼をうんと貰いますよ。――私は外に用事もあるから、皆さん、一と足先に御免を蒙ります」

仁三郎はそう言って隠居所を出て行きました。それがちょうど<ruby><rb>酉刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>半（七時）です。

その話を聴いていたのは、婿の儀八と、儀八の兄の丸屋源吉。それに番頭の新兵衛、銭形の平次――とたったそれだけ。――いやもう一人、これは後で判ったことですが、一度帰ったはずの石橋屋の久助が、何か忘れ物があって取って返し、縁側で聴くともなく耳に挟んだということでした。

間もなく、久助と源吉が帰り、儀八と新兵衛も母屋に引取り、隠居所は、喜平と平次のたった二人になりました。

## 二

「お話というのは、ご隠居」

平次は静かに顔を挙げました。

「他じゃないが、親分、婿の儀八のことなんですが」

そこまで話すと、誰やら<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>に灯を入れて、縁側へ持って来ました。

「そこへ置いて行くがいい。私は自分で入れるから」

「…………」

黙って人影は去ります。誰だったか判りません。

「ね、親分さん。――婿の儀八の身持が、近頃どうも面白くないのですよ。なアに、少々遊ぶぐらいは構やしません。一家の主人で付合もあることだから、それをやかましく言う私じゃないが、勝負事をするのは我慢がならない」

「…………」

「他の事と違って、商人が<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>を打つようじゃ末の望みがない。今のうちに離縁をしようと思うが、困ったことに証拠というものは一つもない。儀八の兄の源吉は、あの通り一本調子の正直者だし、私の娘のお吉も、夫の儀八を信用しているから、証拠のないことを言ったんじゃ、私の負だ」

喜平の言うのは、全く重大でした。浜田屋の身代は、どれほどあったか解りませんが、町内でも指折りの丸持ちで、神田では分限の一人にも数えられていたのです。

「御隠居さん、そりゃ本当ですかい。儀八さんはあの通りの堅い男で、楊弓とか、大弓に凝っているという話は聴いたが、まさか博奕を打つような事はあるまいと思うが」

「銭形の親分。私もそう思ったから、最初は笑って相手にしなかった。が私のためを思ってくれる人がいろいろ証拠を揃えて、こうこうだからと言われると、まんざら嘘とは思えなくなります」

「…………」

「お願いというのはそこですよ、親分。これは、お役目の外の事で、何とも気の毒だが、昔からの町内馴染を一人助けると思って、子分衆にでも、そっと、儀八の様子を<ruby><rb>捜</rb><rt>さぐ</rt></ruby>らせて貰えませんか。儀八がそんな悪い事をする様子がなければ、これほど嬉しい事はないが、万一博奕の真似事でもするなら、これは商人の跡を取らせるわけに行きません。――なお念のために申しておきますが、月に三度は仕入と仲間の参会で、儀八は欠かさずに外へ出ます。その時儀八の様子を見てやって下さいませんか」

喜平の折入っての頼みです。手踊りが自慢で、自由に遊びたさに、四十代で隠居した男ですが、自分の跡取りの事となると、さすがに物を真剣に考えるのは、その頃の江戸の町人らしい手堅さです。

「ちょいと訊きますが、御隠居さん。それは一体誰が言ったんです」

「…………」

「儀八さんが<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>へ入ると、誰がお前さんに証拠まで揃えて教えたんです」

平次の不審は、行き<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>らざる隙間もありません。

「それだけは勘弁して下さい。相手は私の身体と、浜田屋の身上を案じて、そっと教えてくれたんだから」

「が、そいつが判らないと、手の付けようがありませんよ」

しばらく押問答しましたが、この一事に触れると、喜平は<ruby><rb>田螺</rb><rt>たにし</rt></ruby>のように口を<ruby><rb>緘</rb><rt>とざ</rt></ruby>して、一言も密告者を明かそうとしません。

## 三

「御隠居様。田原屋さんから、お薬を届けて来ましたが」

縁側から声を掛けたのは、番頭の新兵衛でした。年の頃二十七八、これは子飼いの忠義者です。

「それは有難い。よく忘れずに、今晩の役に立てて下すった。お蔭様で、楽に寝られるだろう」

「ヘエ――これでございます」

番頭の新兵衛は、紺と白と二重の薬包紙に包んだ一服の粉薬を、小さい盆の上に載せて持って来たのです。

「お手紙はなかったのかい」

「何にもございません」

「そうか」

「使いの者に駄賃でも――と思いましたが、お薬を置いて帰ってしまった様子で」

「よいよい」

喜平は番頭を母屋へ帰すと、さて平次を相手に今の話の続きを始めました。

「ところで、何刻でしょう親分」

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby><ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつつ</rt></ruby>（八時）が鳴りましたよ」

「それじゃ御免を蒙って、お薬を頂くとしようか。床へ入ってから楽な方がいい」

「どうぞ」

隠居の喜平は少しは茶のたしなみもある手さばきで、湯呑へ<ruby><rb>微温湯</rb><rt>ぬるまゆ</rt></ruby>を一杯汲むと、南蛮の秘薬という粉薬を一と口に含みました。

「ひどく苦い――舌がピリピリするが、これで効くんでしょう」

そう言いながら、<ruby><rb>生温</rb><rt>なまぬる</rt></ruby>を湯呑一杯飲みほしてしまいました。

「それでは、御隠居さん」

話の潮時と見て、平次は立上がりました。

「とんだお引止めしました。儀八のことは、くれぐれも内緒に願いますよ」

「承知いたしました。では」

立ちかけた平次は、思わず坐り直したのです。

「ウーム」

「どうかしましたか、御隠居」

見る見る喜平の顔は鉛色に変って、額からはタラタラと油汗が<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>み出します。

「苦しいッ」

がばと畳に崩折れると、唇を噛んで、滅茶滅茶に胸をかき<ruby><rb>毟</rb><rt>むし</rt></ruby>りましたが、

「あッ」

クワッと吐いたのは、恐ろしい生血です。

平次もあまりの事に仰天しました。後ろから喜平の背を押えて、

「大変ッ、早く、早く」

そう言うのが精々だったのです。

浜田屋は上を下への騒動でした。婿の儀八と、その女房のお吉は、真っ先に飛んで来て、いろいろ介抱しましたが、猛毒にあてられたものと見えて、手の下しようがありません。

間もなく町内の本道（内科医）が、坊主頭に湯気を立てて飛んで来ましたが容体を一と眼見ると、

「これは困ったことだ。後で面倒なことが起るかも知れません、もう一人医者を立会わせて下さい」

と言い出します。

すぐ店の者を走らせて、隣町からも本道を呼び、立会って診ましたが、この時はもう救いようもなく浜田屋の隠居喜平、五十歳を一<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>に、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）少し過ぎには息を引取ってしまいました。

## 四

医者は間違いもなく中毒死だと言います。平次は見ている前で喜平に死なれたのですから、その毒が、先刻田原屋から届いた、疝気の薬の他にないことをよく知っております。

番所と、八丁堀と、それから自分の宅へ入を走らせて、まず何より相棒でも子分でもある、ガラッ八の八五郎を呼出さなければなりません。

「朝までは口止めした方がいい。騒ぎの大きくならないうちに調べ上げたいから」

店へも、お勝手へも、<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>に居る人数へも、一々厳重に口止めをして、さて、第二段の活動に移ろうとしました。

ちょうどその時、――

「田原屋さんからお使いですよ。先ほど旦那とお約束したお薬を持って参りましたという口上で」

店に居た小僧の長六が、離屋にうろうろしている番頭の新兵衛に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きます。

「それどころじゃないよ。薬をお願いした本人の旦那が亡くなったんだ。何とか言って帰してしまいな」

「ヘエ――」

小僧の長六が帰って行く後ろから、

「待ってくれ、小僧さん。使いの方はまだ居なさるかえ」

平次は追っかけて訊ねます。

「ヘエ――。その薬は呑みようがあるから、旦那に御目に掛って申上げると言うんです。それに手紙を持っているようですよ」

「俺が会おう」

平次は小僧をかき<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けるように店へ顔を出しました。薬を持って来たというのは、十七八の中僧で、ぼんやり臆病窓の外に立っております。

「お前さんかえ。田原屋さんの使いの方は？」

と平次。

「ヘエ、――お薬はこれで、旦那の手紙が添えてあります。お薬は水で召上がって下さい。熱い湯で召上がると苦味が出ますから――とこう申しました。左様なら、お休みなさいまし」

「あ、ちょいと待ってくれ。――お前さんは確かに田原屋の奉公人だろうね」

「ヘエ――、<ruby><rb>巳之松</rb><rt>みのまつ</rt></ruby>と申します」

「ここへ使い来たのは、今日は二度目だろうね」

「いえ、今始めて参りましたが」

「一刻ばかり前に田原屋から来たのは、ありゃ誰だえ」

「そんなはずはありませんが」

「薬はこれで二度来たんだが、お前は知らないのかえ」

「とにかく、田原屋からは私の外に使いを出したはずはございません」

「…………」

平次は唸りました。

「浜田屋さんが寝る前に上げたいから、と手前どもの主人が申します」

そう言う田原屋の手代は、若くて正直そうで、何の策があろうとも思えません。

「とにかく、入って貰おうか。――少し訊きたいことがあるが」

平次はそう言って、表戸を開けさせました。

「あ、銭形の親分さんで」

「気の毒だが、筋の通らねえことがあるんだ。ちょいとここで待っていて貰おう」

平次は<ruby><rb>膠</rb><rt>にべ</rt></ruby>もなく冷たく言い切って、巳之松の持って来た薬包を開いて見ました。

同じように紺と白の二重包み。――これはその上丁寧に紙袋に入れて、「せんきの妙薬」と書いてあります。紙袋は小間物屋の店使いの品らしく、文字はまだ乾いていないところをみると、番頭の<ruby><rb>禿筆</rb><rt>ちびふで</rt></ruby>で、ちょいと走り書にして使いの者に持たせたのでしょう。

押し開けると手紙というのは半切が一枚。これも禿筆の走り書で、――先刻の礼を言って、薬を送る――とあるだけ、かなりの達筆ですが、薬という字の<ruby><rb>艸冠</rb><rt>くさかんむり</rt></ruby>を忘れて、楽となっているのは、愛嬌です。

「親分、――御用は？」

そこへ疾風のごとく飛込んで来たのが、ガラッ八の八五郎でした。

「八、ちょうどいいところだ。田原屋へ行って、主人がどんな顔をしているか、探って来い。それからこれも町内だ。石橋屋の久助と丸屋の源吉が、宵から何をしたか捜るんだ」

「お易い御用だ」

「安請合をするな、そのうちの一人が、人殺しの下手人かも知れないぞ」

「えッ、人殺し？」

「だから油断をしちゃならねえ。俺はここに捜してみたいことが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>とある。――これだけ器用な細工をされちゃ、時が経つと解らなくなる。抜かるな、八」

「へッ、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りながら八五郎兄さんだ。抜かるのは親分の前だが、銭形の御屋敷の路地だけで――」

「馬鹿野郎ッ」

「有難えな、――その馬鹿野郎ッ――てえのを聴かないと、仕事の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きっかけ</span>がねえ」

ガラッ八はそんな事を言いながら、気軽に飛んで行きました。

## 五

離屋へ帰って来ると、娘のお吉は死骸に<ruby><rb>取縋</rb><rt>とりすが</rt></ruby>って、少し調子っ外れに泣き喚き、婿の儀八は苦り切ってそれを眺め、番頭の新兵衛は、ただおろおろするばかりで、取止めもありません。

この毒殺が、あまりに手際がよかったので相手の智恵の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しさに、さすが平次も、煮えくり返るような<ruby><rb>忿怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>と、それとはおよそ似もつかぬ、一種の感歎をさえ覚えるのでした。

これは一つの犯罪の傑作とも言うべきでしょう。冷たくて、残酷で、正確で、そのくせ、人を馬鹿にしたところがあります。これだけ巧妙に仕組まれた、スマートな犯罪に対すると、捕物の名人平次も、「手も足も出ない」といった、一種の位負けを感じないわけには行きません。

「この毒薬は本草学にも毒草譜にも、ないものだ。多分、オランダ人からでも手に入れた、南蛮物の大毒薬であろう」

「左様――少しでも残っていると都合がいいが――」

二人の本道の話を聴くと、平次はハッと気がつきました。先刻喜平が呑んだ毒薬の、薬包紙がそこに残っているはずだったのです。

紺と白と二枚重ねになって、山の高くなるほど、よく畳まれた紙――それは世にありふれた品には相違ありませんが、馴れた平次の眼には、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の間にも、折目の異常に高かったことと、包紙の紺がかなり汚れていることが、まざまざと焼きつけられております。

「おや？」

死体の側に湯呑と盆はありますが、あとで医者に見せるつもりで、そッと取退けておいた、紺と白の二重薬包紙が失くなっているではありませんか。

「親分さん、何をお捜しになるんで――」

婿の儀八です。二十五六、若くて好い男で、その上、この騒ぎの中にも、一番冷静に見えます。

「薬の包紙ですよ。ここに置いたはずだが」

「新兵衛どんが捨てたのが、それじゃありませんか」

「えッ、私が何を捨てたんです？」

飛出しそうな眼、おどおどした落着きのない顔、指先などがブルブル<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて、新兵衛の顛倒した様子は、全く眼も当てられません。

「親分さんは、薬の包紙が見えないとおっしゃるんだよ」

「そんなものは知りませんよ。と、とんでもない」

「…………」

平次と儀八は、何とはなしに眼を見合せました。

間もなく町役人と見廻り同心の出役があって、型の通りの検屍が始まります。喜平の毒屍はあまりに明らかで、それを始めから終りまで見ていた平次は、日頃の名声があるだけに、一番立場の悪いものになってしまいました。

「毒薬は田原屋の仁三郎から届けたものなら、考えることはあるまい。それを挙げて引っ叩いたらどうだ、平次」

同心南沢鉄之進は言います。若くて野心的で、仕事の能率は上げますが、その代り安全率の少ないのが欠点といった男です。

「田原屋から、ツイ今しがた<ruby><rb>真物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>の薬に手紙を添えて届きました。使いの手代に訊くと、前の毒薬は、田原屋から出たのではないと申しますが――」

「なるほど、それでは考えなければなるまい。毒薬を包んだ薬包紙があるだろう」

「それも見えません。先程までここにありましたが――」

平次は新兵衛の顫える顔を見やりました。

「それでは下手人は家の中に居るわけだ。――離屋へ薬を持って来たのは誰だ」

「私で――」

新兵衛の顔の蒼さ。

## 六

母屋へ引揚げて、同心南沢鉄之進は、平次と二人額を<ruby><rb>鳩</rb><rt>あつ</rt></ruby>めました。

「疑えば、皆んな変な人間ばかりでございます。一人ずつ呼んで訊ねてみましょう」

「そうするがいい。最初は誰だ」

「婿の儀八から願います」

儀八は間もなく、南沢鉄之進と平次の前に引出されます。

「儀八、近頃<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>へ行くそうだな」

顔を合せると、平次はいきなり取って置きの疑問を叩きつけました。

「とんでもない、親分さん。――以前は楊弓に凝ったこともありますが、近頃は<ruby><rb>賭事</rb><rt>かけごと</rt></ruby>と名のつくものは、子供の玉ころがしも振り向いて見ないようにしております」

「それは感心なことだ。――が、喜平旦那が死ぬ半刻前までそれを気にしていたよ。誰が一体そんな事を喜平に焚きつけたんだ」

「一向にわかりません」

儀八は冷たいほど静かです。

「お前さんとここの養子の口を争った者があったはずだが――」

「そんな事もありました。でも、もう五年も前のことで」

儀八の答からは、平次も何の手掛りも<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みようがありません。

「それは何だえ」

「ヘエ――」

儀八はあわてて<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を押えました。

「出すがよかろう。素直にしないと、ためになるまい」

飛びついて力ずくで見るのが嫌だったのでしょう。平次はツイ<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>ずくで物を言います。

「…………」

儀八は始めて冷静を失いました。サッと顔色を変えると、投出したように、板敷に崩折れました。

「…………」

南沢鉄之進が<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をしゃくったのは、儀八の身体を調べてみろというのでしょう。平次は静かに儀八の身体を押えて、先刻から気にしている袂の中味を出させると、鼻紙に交って出たのは、現にこの儀八の口から、新兵衛が取捨てたと言った、紺と白の二重になった薬包紙でありませんか。

「これはどうしたわけだ、儀八」

「…………」

儀八は一言もない姿です。

「平次」

南沢は平次を顧みました。縄を打って引立てさせる積りでしょう。

「も少しお待ち下さいまし。この男より、もっと怪しい奴があるかも知れません」

「呼んでみるがいい」

南沢の許しを受けると、儀八を若い手先に預けて、今度は番頭の新兵衛を呼出しました。

「番頭さん。なんだってお前は、婿の儀八が博奕を打つなんて、ありもせぬ事を大旦那に焚きつけたんだ」

平次は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のっけ</span>からこの調子でした。あまりに多勢の容疑者の中から、一刻も早く本当の下手人を嗅ぎ出さなければ、事件は外貌が簡単なだけに、かえって際限なく混乱して行きそうだったのです。

「とんでもない。――それは田原屋さんでございますよ」

「何？　田原屋？　どうしてお前さんはそれを知っているんだ」

「大旦那と田原屋さんが、四五日前から、コソコソ話し合っておりました。聴くともなしに聴くと、そんなお話で――。もっともお二人は無二の仲で、何でも打ち明けておいででした」

「フーム、それなら、お前はこの盆の帳尻は、どう合せる積りだったんだ。よっぽど<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>い込みがあるようだが――」

「何とも申訳がございません。大旦那が生きても死んでも、誤魔化す積りは毛頭ございません。伯父に相談をして、何とかいたします」

番頭の新兵衛は見事に平次の舌に引っ掛りました。ブルブル顫えている、気の小さい様子を見ただけで、儀八と違って、どんな言葉の<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>へも陥ちるだろうと見当をつけたのです。

「費い込みはどれほどだ」

「十三両二分ほどで」

「…………」

大した金ではありませんが、年に四両の給金から見れば、分不相応の穴でもあります。

「それじゃ他の事を訊くが、大旦那と養子の儀八とは、仲が悪かったはずだね」

「そんな事はございません。格別仲が好いわけでもございませんが、まず世間並の方で」

「儀八の兄の丸屋の源吉と大旦那は」

「あれは悪うございました。――何でも、源吉さんが<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった金の融通をして貰ったのが因で、近頃は通り一ぺんの付合はいたしましたが、互いに顔を見ないようにしていらっしゃいました」

疑わしいのは、これでもう一人増えたわけです。

「最初に持って来た薬は、誰が受取ったんだ」

「長六でこざいます」

「呼んでくれ」

「ヘエ――」

「いや、番頭さんはやはりここに居て貰った方がいい。他の者に呼ばせるから」

平次が部屋の外に首を出して呼ぶと、小僧の長六は、横っ飛びに入って来ました。

「何か御用で、親分」

「最初の薬は誰が持って来たんだ」

「知らない男ですよ、親分」

「知らない男？」

「町内の者じゃありません。町内の者なら、私の知らない顔はないはずで」

「どんな男だ」

「使い屋かも知れません。――<ruby><rb>浅葱</rb><rt>あさぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>股引</rb><rt>ももひき</rt></ruby>に<ruby><rb>素草鞋</rb><rt>すわらじ</rt></ruby>を履いて<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかむ</rt></ruby>りをしていました」

「この暑いのにかい」

「だから<ruby><rb>可怪</rb><rt>おか</rt></ruby>しいんで、――親分の前だが、あんな人間が堅気の家の敷居を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐのは変じゃありませんか」

長六の言うのも無理のないことでした。女郎の手紙などを持って歩く吉原あたりの使い屋は、仕事の性質上、相手を呼出して渡すのが普通で、店の中へノコノコ入るような事はまずなかったのです。

「その使い屋の顔は見なかったんだね」

「ヘエ――、半分ぐらいは見えましたよ」

これではどうすることも出来ません。

## 七

「親分、ずいぶん待ったでしょう」

ガラッ八は<ruby><rb>子刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>（十二時）近くなって、ようやく帰って来ました。

「どうした八、何か解ったか」

「解ったかは情けねえ。――三軒へ入り込んで、目の色まで見て来ましたよ」

「皆んな平気な顔をしているのか」

「平気なのは丸屋の源吉だけで、――いい気味だ――って<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かしましたよ」

「田原屋は？」

「驚きましたよ。自分の約束した薬で死んだと聞いて、ああ困った、どうしよう――と言いながら、フラフラと立上がって」

「身振りは沢山だ。それからどうした」

「石橋屋の久助はガタガタガタガタ顫え出しましたよ。あんなのは人殺し癲癇で――」

「下らない事を言うな。三人ともここから真っ直ぐに帰ったのか」

「田原屋の旦那だけは、隣町の大津屋へ行ったそうです。急ぎの仕入物を打合せて、京都へ荷為替を組む打合せがあったそうで、これは間違いがありません。大津屋へも行って、確かに田原屋さんが来て、一刻近くも奥に居なすった――と聴いたんですから」

「他の二人は？」

「そのまま寝たそうですよ」

「それを見た者があるだろうな」

「そう言うと、丸屋の源吉は怒りましたよ。寝るのに一々証人を立てる奴があるか。そう言ったが気に入らなきゃ、枕にでも訊けッ――て、親分の前だが、ありゃ少し気が変ですぜ。いきなり寝間へ行くと、枕を叩き付けて、そう言うじゃありませんか」

「フーム」

平次は腕を組んでしまいました。

「投げた枕に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とが</span>はない――って、唄の文句はよく言ったもので、親分」

「黙らないか、際限のない」

「でもここまで言わないと解りませんよ」

ガラッ八の報告は、決して無駄ではなかったのです。この一本調子な源吉は、ずいぶん喜平を殺しかねない事情を持っていたのです。

でも、――平次は何となくそれを信じる気にはなれなかったのです。枕まで<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出すような、ムキ出しの男が、こんなに巧妙な殺しの計画を、何の支障もなく、極めて手際よく運べる道理はなかったのです。

夜の明けるまでには、どんな事をしても下手人を捜し出そうとした平次ですが、ここまで来ると、ハタと行き詰まってしまいました。眼の前には大きな<ruby><rb>屏風岩</rb><rt>びょうぶいわ</rt></ruby>が、通せん坊をしているような心持だったのでしょう。

<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝。

「こんなわけでございます。あんまり渦の中へ入り込んで、かえって私には解らなくなってしまいました。どうしたものでございましょう」

平次は与力の笹野新三郎を、八丁堀の組屋敷に訪ね、自分を投げ出して相談したのです。

「なるほど、その様子では、一人縛れば、皆んな縛らなければなるまい。が、そんなことで弱音を吐くのは、日頃のお前にも似気ないことだな」

「ヘエ」

「婿の儀八が、薬の包紙を隠して、それを番頭のせいにしようとしたのは、どういうわけだ」

笹野新三郎は、吟味与力の筆頭で、若いが俊敏な頭の持主でした。

「儀八は、毒薬を送り届けたのを、日頃養父と仲の悪い、兄の源吉の仕業と思い込んだらしゅうございます」

「なるほど、ありそうな事だな」

「兄を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>う積りで包紙を隠しましたが、急場のことで、捨てる場所もなく、袂へ入れましたが、捜されるとすぐ見つかります。そこに居合せたのは、自分と番頭と、女房のお吉と、医者二人だけ。思案に余って、取乱している番頭の新兵衛に、一時疑いを向け、それから薬包紙を取捨てる積りだったと申しております」

「なるほど、一応理屈は通る。が、やはり一番怪しいな」

「あんな白々しい悪事を働く人間は、儀八のように、自分へ疑いを向けておくでしょうか、旦那」

「それだよ。一番怪しいだけに、儀八に罪はないかも知れない。ところで、一番怪しくないのは、誰だ」

「田原屋から薬を届けることを知っている人間のうちで、一番怪しくないのは、石橋屋の久助でございます」

「とにかく、薬をもう一度調べることだな」

「包紙に残っているのは、南蛮物の〇〇でございました」

「売った店はないか」

「神田中にはございません」

「二度目に田原屋から来た薬を調べたろうな」

笹野新三郎は変った事を言いました。

「あッ、そこへ気がつきませんでした。有難う存じます」

平次は天来の暗示に勇み立って、ろくな挨拶もせずに立上がります。

「これこれ、もう帰るのか」

「ヘエ、今度は下手人を縛って参ります」

そういう平次の姿はもう縁側の方へ消えておりました。

## 八

平次は浜田屋へ帰ると、まだそこに頑張っているガラッ八を呼出し、何やら耳打をして、外へ出してやりました。

「長六どん、ちょいと聞きたいが――」

平次の目顔の合図を読むと、小僧の長六はチョコチョコと物蔭へ顔を持って来ます。

「親分、御用は」

「皆んな変りはないか」

「ヘエ――大変りですよ。御新造さんは取乱して泣いてばかりいるし、番頭さんはウロウロして、箸で歯を磨いたり、<ruby><rb>楊枝</rb><rt>ようじ</rt></ruby>で御飯を食べたり」

「儀八さんは？」

「若旦那は何にも言いません。一番平気な顔をしていますよ」

平気な表情の底に、どんな不安と暗さが流れているか、平次にもこれは判りません。

「ところで、最初の使いと二度目の使いの間、家のあたりで誰か見かけなかったかい。外から店を見張っているものがあったはずだが、気がつかなかったかい」

「そういえば、変な奴がいましたよ、親分」

「どんな人間が」

「暗くてよく判りませんでしたが、乞食ですよ」

「見たことのある乞食か」

「いえ、あんな奴は始めてで、――四十ぐらいで、<ruby><rb>無精髯</rb><rt>ぶしょうひげ</rt></ruby>を生やして、天水桶の蔭へ丸くなって、半刻ばかり動かなかったんです、――が、何か見た事のある人間のような気もしますよ」

長六の記憶は次第に<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ります。

「無精髯を取った顔を考えてみるがいい」

「あッ、あの使い屋ですよ。身体の恰好から、頬冠りも、股引も」

「そんな事もあるだろう。それからどうした」

「そのうちに、大旦那が死ぬ騒ぎが始まると、どこともなく行ってしまいましたよ」

「その乞食と使い屋は同じ顔か」

「それが不思議なんで、着物はよく似ていましたが、顔がまるっきり別なんで、先の使いは髯なんかなかったようですよ」

「髯は付けられるな。小僧さん」

「ヘエ――」

「その男が――誰かに似てはいなかったかい。<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えば、丸屋の旦那とか――」

平次は大変な事を言い出します。

「そんな事はありませんよ、親分」

「よしよし、物の譬えを言ったまでだ」

平次はそう言うと、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>に眼を配って、自分を取巻く家の中の空気への反応を調べている様子でしたが、大した事がなかったものか、その足ですぐ町内の本道（内科医）を訪ねました。

「昨夜の薬は判りましたかえ」

「何でもない。これは白山千鳥の根と<ruby><rb>烏瓜</rb><rt>からすうり</rt></ruby>を粉末にして、外に二つ三つの薬味を併せたただの痛み止めですよ」

医者の言うことは少し予想外でした。

「南蛮の薬でしょうか」

「いや、漢方の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ありふれた</span>薬だ。その代りこれなら馬の<ruby><rb>糧食</rb><rt>かいば</rt></ruby>ほど呑んでも大した毒にならない」

「長崎でなきゃないといったようなもので――」

「とんでもない。――これを長崎仕入の積りで買わされたら大変な馬鹿を見たわけだ。こんなものはどこの<ruby><rb>生薬屋</rb><rt>きぐすりや</rt></ruby>にもありますぜ」

「ちょうど田原屋の<ruby><rb>唐物</rb><rt>とうぶつ</rt></ruby>みたいなもので――」

「何だい、それは、親分」

「へッ、こっちの事で。<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>ですよ」

平次は面喰らって飛出しました。

その足ですぐ田原屋へ――。

「おや、親分、浜田屋は気の毒なことをしましたね――。私の上げた薬の間違いでなくてホッとしましたが、それにしても、細工が憎いじゃありませんか」

仁三郎はこれから浜田屋へ行こうといった心構えのところでしたが、<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りもなく平次を迎えてくれます。

「でも、大抵下手人の見当はつきましたよ」

「それは有難い。たった一と晩で、巧みに巧んだ悪者を挙げるのは、さすがに銭形の親分だ。死んだ喜平さんも、さぞ喜ぶことでしょう。――あれは御存じの通り私とは寺子屋からの仲好しで、少し道楽は強かったが、あんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">アク</span>の抜けた洒落者は滅多にありませんよ」

仁三郎はそう言いながら、平次を居間の方へ導き入れました。女房は早く亡くなりましたが、二十八を<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>に九人の子福者、唐物、小間物から、風邪薬に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しもやけ</span>薬、<ruby><rb>紅白粉</rb><rt>べにおしろい</rt></ruby>まで売って、一と通りはやっているものの、内福で有名な浜田屋などと違って、内輪はかなり苦しそうです。

「二番目の息子さんが、浜田屋へ養子になるという話もあったようですが、――あれはいつの事でした」

「鎌次郎の事ですか。――あれは世間の噂で、私と喜平さんはあんまり親し過ぎて、この上の縁まで結ぶと、かえって万一不縁になった時、イヤな思いをしなきゃなりませんから、私の方から引下がりましたよ」

「総領の嫁さんは？」

「これもまだですよ――。丸屋から貰うはずでしたが、何分、あの兄貴の源吉さんが、気象の荒い男で――」

「源吉さんと言えば、浜田屋さんから借りがあって、近頃面白くなかったという話ですが――」

「それも聴きました。――が、まさかそんな事で、浜田屋をどうしようという源吉さんじゃありません。あの男は気が短いから、カッとなると何をやり出すか解らないが、根が善人ですよ」

「…………」

「私は貸しも借りもないから、こんな時は気楽だが――」

落着いた様子や、丸屋の源吉を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>う心持などは、さすがに年輩らしい鍛錬があって、平次の疑いも挟みようはありません。

平次はそのまま帰りました。いや、門口で外を掃いている小僧を見かけると、もう立止まって、

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>巳之松どんが使いに出る前、誰か来なかったかい」

気軽に肩を叩きました。

「来ませんよ。旦那は留守だったし、店は早仕舞だし」

「いや、旦那が帰って、巳之松が出るまでの間だ」

「頬冠りをして、無精髯を生やした男が、店先でウロウロして、旦那に叱り飛ばされていましたが、それっきりですよ」

「有難うよ。――乞食には用事がない。誰も来なきゃ、それでいいのさ」

平次はそれっきり、振り向いても見ずに、帰ってしまいます。石橋屋へ行くと、久助は何がなし不安にさいなまれる様子で、ブルブルもので平次を迎えました。

「親分さん。――下手人は私じゃありませんよ。私は浜田屋さんから金を借りた覚えも、倅を養子に貰われ損ねたこともありません。お願いだから、変なことを考えないで下さいよ。私には親も子も、女房もありますから、ね」

こういった調子です。

「石橋屋さん。恐ろしく用心深いんで、私の方が面喰らいますよ。女房子があるから人を殺さないってわけにも行かないでしょうが、まアお前さんは大丈夫な口らしい」

「有難い、親分さん」

平次はそれを聞流して丸屋へ、――そこはまたとんでもない空気でした。

「やい、岡っ引め、俺が怪しいって<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かしたのは誰だ。冗談じゃねえ。酒は飲むが、薬と素人浄瑠璃は大嫌いな俺だ。毒薬なんか頼まれたって人に盛るかい、間抜けめ」

こういった源吉の前へ、平次は素知らぬ顔を持って行ったのです。

「威勢がいいね。源吉さん」

「朝っから<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>っているんだ。それで威勢が悪かったらお目に掛らねえ」

「薬と素人浄瑠璃は変な取合せだね」

「どっちも<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り間違えば人殺し道具だからよ。洒落の判らねえ岡っ引じゃねえか」

「ハッハッ、これは参った。ところで源吉さん、ツケツケ物を訊いてすまねえが、浜田屋さんとは金の取引があるそうで」

「へッ、取引じゃねえ。引だけだ」

「引と言うと？」

「ちょいちょい引いてみるが、なかなか取らせちゃくれねえ。死んだ者の悪口を言うようだが、あの喜平<ruby><rb>親仁</rb><rt>おやじ</rt></ruby>は、思いのほか判らねえ男さ。たった三十両ばかりの借りを、月に二度ずつ催促されちゃ、俺だって気が滅入るだろうじゃないか。お蔭でこの半歳の間に、酒が五合ばかり強くなった」

これでは手のつけようがありません。店の者に聞いても、昨夜浜田屋から真っ直ぐに帰ってから外へ出ないのは確からしく、顎や頬を見ても鍋墨の痕も火口の屑も残ってはいなかったのです。

## 九

「親分、判りましたよ」

ガラッ八は<ruby><rb>雀躍</rb><rt>こおどり</rt></ruby>しながら飛んで来ました。その日の昼頃です。

「<ruby><rb>華魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>上がりの<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>を抱えているのは誰だ。解ったかい」

「大判り」

「あの使いの男は、やはり吉原の使い屋か何かだろう」

「親分、恐れ入ったぜ。頬冠りに<ruby><rb>浅葱</rb><rt>あさぎ</rt></ruby>の股引、素草鞋を履いて、手紙を持って歩くのは、なるほど使い屋だ。――それから人の家の前へ立って、呼出しでもかけるように、ウロウロ中を覗くんだから、身分を名乗っているようなもので――」

「しょっ引いて来たか」

「南沢様の御手の者に預けておきましたよ」

「よしッ大出来だ。それじゃ、昨夜の<ruby><rb>関係</rb><rt>かかり</rt></ruby>あいになった者を皆んな集めろ。婿の儀八と、番頭の新兵衛と、田原屋と丸屋、石橋屋の主人だ」

「合点」

四半刻（三十分）経たないうちに浜田屋の離屋に人数は揃いました。ちょうど来合せた同心南沢鉄之進の前に、<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>く坐ると、

「皆様にちょいと引合せる男があります。下手人をよく知っているという生証人で――」

平次の声の下から、ガラッ八が庭へ引立てて来たのは、浅葱の股引、素草鞋を履いた四十恰好の男です。

「この男が、昨夜毒薬を持って来ました。そして」

平次は立上がって、いつの間に用意したか、<ruby><rb>両掌</rb><rt>て</rt></ruby>に塗っておいた鍋墨を、その男の頬から顎にグイグイとなすってやりました。<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち変る人相――。

「この男が、店の外で、毒薬の効くのを待っていたんです。家の中であの騒ぎが始まると、引返して下手人に知らせ――」

平次はここで言葉を切って、一座を見渡しました。

「…………」

恐ろしい沈黙が、鉛のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のし</span>かかります。

「下手人は、毒の効いたところを見届けて、二度目の薬を届けた。同じ人間が、毒と薬と二服届けようとは、誰も考えない」

平次はこれだけの事を、何の巧みもなくスラスラと言ってのけたのです。

「ば、馬、馬鹿なッ、私が下手人だというのかッ」

田原屋仁三郎は猛然と立上がりました。が、一座の顔に、何の同情も動かないところを見届けると、フラフラとよろけるように、壁際に崩折れて、五十男らしくもなく、シクシクと泣き出しました。不断の落着き払った様子などは<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>もありません。

「気の毒だが――下手人は田原屋仁三郎だ。――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>は二度目の薬に添えた手紙を見た時から気がついていたよ。小間物や薬まで売る田原屋がどんなに取急いだにしても、薬という字の艸冠を落して、楽という字を書くはずはない――人でも殺して顛倒した時でなきゃ――」

「出来心だ、親分」

仁三郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うめき</span>ます。平次は委細構わず続けました。

「それから、毒薬は前から紙入に入れて持って歩いたはずだ。紺と白の二重薬包紙は折目が切れるほど山が入って、少し埃が付いている。出来心ではない」

「…………」

「喜平さんを殺す<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>がないので、今まで縛らずにいたが、幼友達で世間体は無二の仲で、一人は金が出来て、一人は貧乏で、一人は遊びたいだけが望みの楽隠居で、一人は九人の子の振り方もつかないのに、二番目の息子の養子の口まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はね</span>られ、総領の嫁の口も、浜田屋の親類の丸屋から断られた。喜平さんと仲が好かっただけに、昔から張り合って来た友達だけに、憎さが一倍だったろう。何にも殺す理由がないと思ったのは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>の考えの至らなかったところだ」

「…………」

「婿の儀八さんが賭場へ出入りすると喜平さんに言いつけたのも仁三郎だ。喜平さんはそれを気にして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>に婿の出先の様子を捜ってくれと言いなすった。捜ったところで真面目な儀八さんが賭場などへは出入りするはずはない。その時の気まずさを考えてかねて企んだ通り、毒をやる気になった」

「…………」

「隣町に居る仁三郎の妾は吉原者で、近所に使い屋をした男が居るのを知っていて、それに金をやって細工をした。それに相違あるまい」

「…………」

仁三郎は畳に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めり</span>込むように崩折れます。

「別に怨みがあるわけでもないのに、――そんなとき人を殺すほど突き詰める人間の心が恐ろしい。――さア神妙にお縄を頂戴せい。――仁三郎」

平次の声も妙に濡れております。

＊

「親分、――田原屋が下手人とは驚いたね」帰り途、ガラッ八はいつものようにこう言います。

「今度のは絵解きに及ぶめえ。なア八」

「仁三郎が、何だって浜田屋の隠居を殺す気になったんでしょう。俺にはそれが判らねえ」

八五郎は長い顎を曲げて、考え込みました。

「俺にも解らねえよ。人の心の中ばかりは、神様でなきゃア見透しがつかねえ。怖いな、八」

「…………」

二人の足の重さ――。