Soranoha

剣難女難

けんなんじょなん

吉川 英治

武名競ぶめいくらべ血飛沫ちしぶき鹿かの子こ

一

生田いくたの馬場の競くらべ馬うまも終ったと見えて、群集の藺笠いがさや市女笠いちめがさなどが、流れにまかす花かのように、暮れかかる夕霞ゆうがすみの道を、城下の方へなだれて帰った。

この丹波の国の年中行事となっている生田の競馬は、福知山の主催になるものであったが、隣藩である宮津の京極丹後守きょうごくたんごのかみ、出石いずしの仙石左京之亮せんごくさきょうのすけなどの家中からも、馬術の名人をすぐって参加させるのが慣例であった。

その結果は、いつも小藩な福知山の城主、松平忠房の家臣から多くの優勝者を出し、もっとも大藩な宮津の京極家は、今年もまたまた一番無慙むざんな敗辱を重ねてしまった。

常に大藩の誇りを鼻にかけて、尊大で倨傲きょごうな振舞のおおい京極方の惨敗は反動的に無暗に群集の溜飲りゅういんを下げて鳴りもやまぬ歓呼となった。福知山の町人も百姓も許された皮肉と嘲笑を公然と京極方へ浴びせたのだ。こうして彼に多恨な春の一日は暮れたのである。

×

「だ、だ、旦那様ッ大変でございます」

とその黄昏に福知山の納戸頭なんどがしら正木まさき作左衛門の玄関へ、こう喚わめきこんだ男は、娘の千浪ちなみの供をして生田の競馬へ行った仲間ちゅうげんの五平であった。帰途かえりを案じていた作左衛門夫婦は、声に愕おどろいて出てみると、五平は肩先から鮮血を流して、乱鬢らんびんのままへたばっていた。

「これッ五平、如何致した、しっかり致さぬか」

「た、大変でございます――わたくしは浅傷あさででござりますが、お嬢様が……千浪様が」

と五平は抱き起されながら彼方あなたを指して舌を吊らせた。

「何? 娘が何と致したのじゃ、早く申せ」

「生田からの戻もどり途みちで、自暴酒やけざけに酔った京極家の若侍どもが、お嬢様と私を押ッ取り巻き、私はこの通り浅傷を受けた上に、千浪様を引ひッ掠さらって如意輪寺にょいりんじの裏へ連れ込んで行きました」

「うーむ、奇怪千万な狼藉ろうぜき、如何に大藩の家中は横暴じゃと申せ、故なく拙者の娘を傷つけも致すまい。これ五平、その若侍どものうちに誰か意趣でも含んだ奴はいなかったか」

「そう仰っしゃれば、いつかお屋敷へ見えたことのある京極家の指南番大月玄蕃おおつきげんばが物蔭からしきりと差図さしず致していたようでござりました」

「おおその大月玄蕃こそ、先頃から千浪を嫁にと強談ごうだん致してまいった奴じゃ。それを手きびしく刎はねつけられたので、さてこそ左様な狼藉を加えたのであろう。己おのれ憎にっくき佞者しれものめ、隣藩の指南番とて用捨なろうか」

と忿怒ふんぬのまなじりを裂いた作左衛門は、手早く下緒さげおの端を口にくわえて襷たすきに綾どりながら、妻のお村を顧みて、

「奥ッ、かならずともに心配致すな。老いたりといえども正木作左衛門、これより直ちに千浪を奪い返してまいるわ」

と袴はかまの股立ち取って駈けでようとするところへ、お村は奥から取って返して、

「旦那さま、お槍を――」

と蝋色柄ろういろえに笹穂ささほの刃渡り八寸の短槍を手渡すと、作左衛門は莞爾かんじと受け取って、ぽんと鞘さやを払い捨てるや右脇に引ッ抱えて、

「五平を介抱致してつかわせ」

とただ一言、如意輪寺裏を指して、疾風の如く飛んで行った。

二

不意に消魂けたたましい女の叫びが、如意輪寺裏の幽寂ゆうじゃくの梅林につんざいた。――もう散り際にある脆もろい梅花うめは、それに愕おどろいたかのようにふんぷんと飛片ひへんを舞わせて、香かぐわしい夕闇に白毫はくごうの光を交錯こうさくさせた。

続いて凄じい跫音あしおとと同時に、嵐のような勢いで一団の武士が一人の女を引ッかついで来た。そこには生田馬場の敗辱に気を腐らせた京極家の若侍輩ばらが、鬱憤うっぷんばらしに飲み散らした酒の宴莚むしろが狼藉になってあった。

「ここでよい――」

とその中でも逞しい武士が手を挙げると、女は鞠まりのように莚むしろの上へ下ろされた。若侍達は重大な手柄でも仕果たしたかのように、各〻めいめいの盃の前に坐ってやんやという騒ぎ方である。

「成程、いかさま稀な美人、これでは先生のご執心も無理ではござらぬ」

と云うものもあれば、

「かような美女を小藩者の冷飯ひやめし武士の自由にさせるは惜しい、大月先生のご所望を突ッぱねたとは冥加みょうがを知らぬ奴じゃわい」

などと人もなげに追従ついしょうをつくす門人もあった。

「こりゃ千浪――」と一人樹の根に掛けて離れていた大月玄蕃げんばは、冷然と一睨いちげいして、

「何もそう愕くことはない――泣くこともなかろう。そなたの父が頑固かたくなのためかような手荒も心なく致したのじゃ。のう、機嫌直して門人たちの酌しゃくでもしてやれ、今に駕でも参ったら今宵のうちに宮津の城下を見せてやる。その上明日からは福知山の何倍もある大大名、京極丹後守の指南番大月玄蕃が宿の妻に出世するのじゃ――満更そちに酷むごい為業しわざでもあるまいがの」

と千浪の側へ佞媚ねいびの顔をすり寄せて来た。

「千浪殿、お顔を上げなされい。先生ほどの男に想われたは女冥加おんなみょうが、さ、拙者たちもこれまで骨を折った褒美ほうびに酌でも致してもらわねば埋うまらぬ」

とかなりに酔った一人の門弟が、堅く俯伏して身を護っている千浪の後ろから、無理に抱き起そうとすると、

「無礼しやるなッ」

と紅唇を破った声に突き刎はねられた。

そして白い面おもてを振りあげた、千浪の乱れ髪の隙から射るような眸がきっと耀かがやいた。

「女と侮あなどって無体むたいしやると用捨は致しませぬぞ、痩せても枯れても正木作左衛門の娘じゃ、けがらわしい、誰がお汝等ことらの酌などしようぞ」

と遠山えんざんの眉まゆを逆立てたさまが、怒れる羅浮仙らふせんのように凄艶に見えた。玄蕃は憎気にくげな歯を見せてせせら笑った。そして、むんずと伸ばした手は無慚むざんに千浪の体を引き寄せて、飽くまで離さぬほどな力をこめた。

「千浪、そなたは運命の力を知らぬな。籠の小鳥が小さな足掻あがきをしたとてそれが何になる。この玄蕃も一度想い込んだからには、一念遂げずにゃおかぬ執着の深い男じゃ。よいほどに諦あきらめて素直にするがそちの得とくだぞ」

「ええ左様な戯言たわごと、聞く耳は持ちませぬッ、離してッ、離して下されまし」

と捥もぎられそうな片腕をふり切った千浪は、逸早いちはやく、踉よろめき立って飛鳥の如く走りかけた。

「それッ、取り押えろ」

と玄蕃は立ち上がりもせずに顎で指した。ばらばらと駈けだした四、五名の門人は、もう苦もなく千浪の行く手を遮さえぎって動きも取らせずに取囲んでしまった。

「こりゃ、じたばた致さずに戻れッ」

「何をするのじゃ」

ときらりと三日月に似た懐剣が千浪の手から流れて間近な一人をさっと掠かすった。あっと驚いて一同は飛び離れたが、

「小癪な女め、蟷螂とうろうの斧おのだ」

と一人が懐剣の下を潜くぐってその手を捻じ上げた。するとその時、横合からずんと繰りだした笹穂の槍尖やりさきが、その男の脾臓を咄嗟とっさに突きえぐってしまった。

「うわッ!」

と倒れる肩先へ千浪も逆手の懐剣をふり下ろしたが、繰り出た槍の手元へふと眼をやって、思わず、

「おお!」

とその人へ抱きついて行った。

三

見事、一人が田楽刺しにたおされた愕おどろきに、どッと開いた若侍達は、女一人と多寡たかをくくった油断を緊張させて一斉に真剣を抜き放った。

「卑怯者めッ、よくも不意を喰らわせた、何者だッ」

と真ッ向から圧倒的にひしひしと詰め寄った。――その向うはと見れば、これは髪に霜さえ置いた一人の老武士が血を塗った槍の穂をピタリとつけて、子を奪われた鬼子母神の怒りもかくやの血相で、はッたと多勢を睨みつけた。

「黙れッ、他領の平和を紊みだすとは天人共にゆるしがたき奸賊輩かんぞくばら、かく申す某それがしは千浪の父正木作左衛門、汝等神妙に帰国致せばよし、さなくば無辺流の槍術の奥儀を示すから覚悟致せよ」

と娘の千浪を背後にかばって、りゅうりゅうと短槍を扱しごきならして穂短かに掴んだ。

「おおさては汝が作左衛門か、貧乏大名の粥喰かゆくいが何ほどの腕立て、邪魔立て致す分に於いては嬲なぶり殺ごろしだぞ」

と真ッ先に叫び返した一人が大刀を真ッ向に振りかぶって手元に躍りこんで来るのを、一足飛びのいた作左衛門が喉笛のどぶえ狙って突き上げた手練のはやさ誤またずぐさッと刺したので、血は水玉と四辺あたりに飛んだ。

「この老耄おいぼれめがッ――」

と続いてかかって来た大月玄蕃の高弟深沢大八、作左衛門が電光の鋭さで繰り出して来た槍の千段を斜めに斬りはらった。南無三――ガラリと槍を捨てて作左衛門も腰なる一刀の柄つかに手を懸けた瞬間、一気に真ッ二つと目がけた大八が、ふりかぶった強刀を老耄おいぼれ微塵になれッとばかり斬り下げて来た――その疾風迅雷の早技に間髪を入れる隙もなかったので、あわや作左衛門も血煙りの下になったかと見えた一刹那、息を殺していた千浪が咄嗟の機智で投げつけた懐剣が流星の如く飛んで、大八の右の腕かいなへグザと突き立ったので堪らず、

「あっ――」

と下ろした太刀は斜めに外それて、機を得た作左衛門の抜き撃ちは誤またずに、蹌よろけた彼の腰車を、見事に摚どうと斬って伏せた。

二人は突かれ一人は一刀両断になったが、この間の時間は一瞬であった。此方こなたにあった大月玄蕃はそれと気づいたが悠然として、大刀の目釘に潤しめしをくれながらそれへ出て来た。そして作左衛門と三歩ばかりの間隔に立って傲然ごうぜんと柄頭つかがしらを握りしめた。

「血迷ったか作左衛門、何故あって拙者の門弟を手にかけた。仕儀に依っては用捨ならぬ」

「云うなッ、どこ嘯うそぶいて左様な白々しい音ねが出るのじゃ。汝こそ縁談を退けられたを意趣に含み、大切な娘を誘拐かどわかさんと致した不敵な痴者しれもの、その手先に働く木ッ葉どもを斬って捨てたが、何と致した」

「おおよく云った! かくなれば飽くまで千浪は腕ずくで奪とってやる、その先にいけ邪魔な汝の命は貰ったから観念しろよ」

「やわか汝如き悪人の毒刃を受けようか」

「己おのれッこれでもか!」

と大喝一声、玄蕃の腰から銀の飛龍とひらめき飛んだ三尺一寸の大業物おおわざもの。

彼の体躯は老骨の作左衛門を眼下に見るほどの大男である上、臂力ひりきは山陰に並びなき、十二人力と称せられ、しかも宝蔵院の槍術、一刀流の剣道は達人と称せられた大月玄蕃げんばである。それが渾力こんりきをこめて撃下うちおろした太刀風を、一度でもひらりとかわした作左衛門はむしろ奇蹟と云ってもよかった――が、続いて息もつがせぬ二の太刀! 同時に背後うしろへ廻った一人が柄つかも通れと作左衛門の背板を目がけて切尖きっさきを向けた。――千浪は父の命が風前の灯と見るや、我を忘れて無手で白刃を遮ろうと躍りかかったが、横から別の若侍に蹴倒されてそこへ悶絶してしまった。

時既に早く、

「エエーイッ」

とばかり五体から気合いを絞った玄蕃の太刀が、真っ向へ疾風の勢いで来た。作左衛門は咄嗟に横へ翳かざした太刀で受け止めたが、柄手つかでから腰も挫くじけるほどな圧力を受けてたじたじと乱れ足になったところ、得たりと背後うしろの男が袴腰を避けて突き出した一刀が作左衛門の脾腹を突きとおすよと見えた。

四

七日ばかりの仄ほのかな夕月は、その少し前頃から淡墨うすずみの如意輪寺の甍いらかを越して、立ち迷う夕霞の世界へ青銀色の光の雨を投げ交ぜて、春の朧夜おぼろよを整えはじめた。

羅漢堂の蔭から浮き出たような二人の影。白梅月夜にふさわしい銀作りの大小夜目ながらきらびやかに、一人は年頃三十前後の屈強な武士、一人は光綾ぬめの振袖に金糸の繍ぬいも好ましい前髪立の若衆であった。

「兄上――あの叫び声は何事でござりましょう」

「お……、この泉水の向うらしい、唯事ではない」

と二人は聖道ひじりみちに佇んで耳を澄ましたが、続いて起った矢叫びを聞くと年上の武士は、

「新九郎、斬合いじゃ早や来い!」

と云いざま、もう一散に駈け出したのであった。しかし年若の武士はちょっと躊躇ためらった気色であったが、その勢いに捲き込まれて、同じように梅林の奥へと身を躍らした。

見れば気息も奄々えんえんと疲れ果てた老武士が、血気の数名に斬り捲くられている。更にその中の一人は卑怯にも背後うしろへ廻って、今や一刀を狙い突きに構えた様子であったので、先に駈けつけた年としかさの武士は、善悪いずれにせよ武士の情け、一刀ぎらりと抜くより早く唯一声、

「ご老人ッ、助太刀申すぞ!」

と叫んで背後の曲者くせものを梨割りにズーンと斬り伏せたまま、作左衛門が受けかねていた、大月玄蕃の切尖きっさきに立ちむかって目覚しいほど縦横無尽に斬り立てて行った。

「何人なにびとか存ぜぬが忝かたじけのうござるッ」

ほッと足許を踏み直した瞬間に、作左衛門は甦よみがえった声を高く上げた。大月玄蕃と必死に斬り結んでいた助太刀の武士はそれに応じて、

「此奴は拙者が引受けた、ご老人はあたりの奴輩やつばらを追い払われよ」

と叫び返した。玄蕃は不意の強敵に、思わず五、六歩斬り捲くられたが、元より強胆無比の曲者、鍛え抜いた腕の力はまだ三尺の太刀に寸分の疲れも見せず、すぐ立場を盛り返して、りゅうりゅうと攻勢に変じて、邪魔な助太刀から先に唯一刀と脳天目がけて斬り下げた。

「おうッ!」

と武士は金剛不壊こんごうふえと受け止めたので剣の交叉から瞳をやきそうな火花が散った。続いて二合三合、かれ劣らずこれ譲らず龍攘虎搏りゅうじょうこはくの秘術と玄妙の精を闘わせば、白梅月夜も暗やみかと思えて、紛々たる花の飛雪が剣の渦に旋回する景色も物凄まじい。

一方の作左衛門は思わぬ味方に力を得て、当るに任せて必死と薙なぎ払はらい薙ぎ払いわき目もふらずに斬り廻った。騒ぎ立った五、六人の門人は乱刀を滅多矢鱈めったやたらにふるばかりであったが多勢に無勢、殊に老骨の悲しさには息疲れに迫った作左衛門、次第に押ッ取り囲まれて数ヵ所の薄傷うすでから朱を浴びたほどの鮮血が流れた。

その時、木の間隠れの彼方かなたからチラチラと低く振りかざして来る提灯ちょうちんの光が、点々と七ツ八ツ見えて来た――人声、跫音、みる間にここへ近づいて来たので、すわ福知山の家中が助太刀に来たと見た一同は、どッと崩れ立って林の奥へ紛まぎれ込んだので、大月玄蕃も隙すきを狙って脱兎だっとの如く逃げはずしてしまった。

×

作左衛門は血刀を置いて、助太刀の武士の前に両手をつき、さんばら髪の頭ずを下げて、

「危うきところをご助勢下され、何と御礼おんれいの申しようもござらぬ。拙者は納戸頭なんどがしら正木作左衛門でござる」

と火のような息に交ぜて云った。

「おおさては松平殿ご家臣でござったか、拙者はご城下柳端やなぎばたに町道場を構えております春日重蔵かすがじゅうぞうと申す浪人者でござりまするが、まず大事なくて大慶でござった」

と助太刀した重蔵も、慇懃いんぎんに礼をかえして太刀を鞘さやに納めた。その時ちょうど、ここへ押して来た十人ばかりの面々が、提灯の光を一つの影に投げかけた。そして先頭の者が、

「ややご老台、よくご無事でござりましたな。――あいや皆様、正木氏うじはご無事じゃ!」

と一同へ告げ知らせた。

「対手あいては如何致しました、憎くき京極方の振舞、目にもの見せてくれましょう」

と口々に犇ひしめく者ものもある。

この人々は、作左衛門の屋敷の近隣の者達で、後に残ったお村と五平から変を聞いてここへ寄せて来たのであった。提灯の光は更にあたりを振りてらしたが、一人は愕然として、

「おお千浪殿が気を失っている!」

と叫んだ。続いて一方の樹蔭こかげからも、

「ややっ怪しい奴が隠れおった」

と闇にうずくまっていた一人の男をずるずると引き摺りだした。

「これッ汝も京極方の武士であろう」

「胡散うさんな奴ッ、ぶッ斬ってしまえ」

と前後から刀の鍔つばを鳴らして、すんでに血祭にもしそうな有様のところを、押し分けて両手をひろげたのは春日重蔵であった。

「あいやこれは某それがしの舎弟新九郎と申す者、京極家の者ではござらぬ」

「おお貴殿は正木殿へお助太刀下された方じゃ」

「左様でござる。ご不審を受けたも尤もっともでござるが、この新九郎と申す者は拙者の弟でござりますが、性来の小胆者、その上お恥しいが武芸嫌いで太刀持つ術すべも知りませぬゆえ、かような場合に出会っても兄と共に抜合せもせず、ご覧のとおり蒼ざめて物蔭に隠れていたのでござる。かく武士の恥を曝さらしてお話申した上は、何卒ご疑念をお晴らし下されたい」

「ほほ……そりゃお気の毒な」

と一同は重蔵の言葉に衝うたれたように、しばらくは大地に顔を伏せて顫えたままの新九郎に瞠目どうもくしたが、蝶の化身けしんと云ってもいい美しい姿を見て、ある者はひそかに重蔵の愛童ではないかとさえ疑った様子であった。

五

福知山の領主松平忠房ただふさは、三万二千石という、大名の中では微々たる小藩であったが、その家格と、武士的な気魄に富んだ点から、遥かに宮津七万石の城主大名たる京極の内容のない膨大ぼうだいを蔑視べっししていた。

折から、生田馬場の馬術競べでは、見事な優越を示したので、いよいよ赫々たる武名は事実に於いて彼を圧倒した。忠房はそれに大満足を感じた。そしていよいよ家臣の武芸を激励しているところへ、今度にわかに当惑すべき大問題が湧き上がった。それには忠房の顔にも尠すくなからぬ不安の影が漂ただよいはじめた。

それと云うのは、度重なる生田の屈辱に、悲憤やる方ない京極家から、改めて両藩の剣道試合を申し込んで来たのである。武芸十八番の中でも武家の表芸とする剣道であれば松平家でも否いなみは出来ず、すぐ承諾の使者を遣やったが、小藩の松平家では充分な禄高で有名な剣士を招聘しょうへいすることが出来ないので、事実家中の武芸熱心であるにかかわらず、世間へ出して押しも押されもせぬ指南番はいなかった。ただ一人馬廻り役を兼ねた竹中佐次兵衛が真蔭流の指導者となっていたが、実はこれとて京極方の大月玄蕃、その代師範の桐崎武太夫などから比較すれば問題になる腕でないのは余りに明瞭であった。そこの内情を探った京極家で、この致命的な報復に出て来たのだと知った松平忠房は、食事もすすまぬほど苦慮していた。

「これ、誰かおらぬか!」

白襖しろぶすまの書院から、忠房のいらいらした声が響いた。次の間へ姿を見せた近侍はひそやかに、

「お召でござりますか――」

と裃かみしもの折目通りに手をつかえた。ジロリと流眄ながしめをくれた忠房は、

「生田馬場の当日から、今日で幾日に相成るの?」

と不意に尋ねた。

「恐れながら一月ひとつきと二十日余りは過ぎましたかのように心得ます」

「そうじゃ、もうじき二月は経つ、それだのに正木作左衛門は病気と申していまだに伺候せぬが、最早全快致しておろう、表役人に申し遣わせて急ぎ登城せいと伝えい」

「はッ……」

と近侍の者は旨を受けて辷すべりかけると、

「これこれ、重大事があるに依って――と特に申せよ」

と念を押した。

成程、もういつか春も四月に入っている――と忠房はその後で今更のように気づいた。まったくどれほど他念なくこの十数日を暮らしたかもそれで知れる。

明け放された塗骨ぬりぼねの障子からいながら見える春の善美を花籠に盛ったような奥庭の築山、泉水、そして重いほど咲き満ちた糸桜が廻廊の杉戸へ胡粉ごふんのように吹き散ってゆく絢爛けんらんな眺めも今の心には何の慰めにもならない。殊にこの頃は晴の当日を気構えた若侍たちが、一心不乱に稽古しているので、その撓刀しない撃ちの音が、この寂光の奥殿まで聞こえてくるほどであったが、忠房の憂惧ゆうぐは少しも軽くならなかった。

鞍馬の謡曲うたを口ずさみながら、そのじりじりとする懊悶おうもんを紛まぎらわすように黒塗の欄へもたせた忠房の後ろに待ちかねた近侍の衣音きぬおとがしたので、はッと振り顧った。

「作左は見えたか」

「はッ唯今、お表まで出仕致してござります」

「そうか――」

とつと立って殿でんの廻廊を早足に、颯々と袴さばきして接見の間へ向って行った忠房は、その時僅かにはれがましい眉を開いていた。

「作左衛門、病中大儀であったの」

と褥しとねに着座した忠房の声がかかって、正木作左衛門は平伏していた頭を僅かに上げた。如意輪寺裏で受けた数ヵ所の傷養生ようじょうが、案外なが引いたので今日まで御殿に出仕しなかったのである。

「近う――」

と忠房は即座に彼を間近くさしまねいて、近侍を遠ざけた後、主従は何か永い密談に時を費ついやしていたのであった。

六

今訪れて来たばかりの、廻国修業武芸者矢倉伝内やぐらでんないと名乗った男は、またたくうちに三、四人の門下を撃ち込んで、木剣片手に道場の中央に突ッ立ったまま、更に次の相手を促していた。

そこは福知山柳端の、直真蔭流じきしんかげりゅう春日かすが重蔵の町道場であった。折悪おりあしく高弟二、三の達者が居合さなかったので、次には重蔵が自身、矢倉伝内の対手あいてに立たねばならない順になった。

「お見事でござった。この上は春日重蔵がお対手申す――」

と身仕度を整えて木剣をとった。

「望むところ、お手柔らかに」

と伝内も緊張した。

「いざッ」

と二人は木剣の切尖を呼吸と共にジリジリと上げて、ぴたりと腰の定まったところで、エイッ、オーッの掛け声鋭くパッと左右へ飛び別れた。

重蔵は大胆な大上段に構えて、彼が撃ち込むに自由なほどの隙を与えておいた。しかし伝内もさる者、容易にその誘いに乗らず、青眼の大切だいじに取って爪先にじりに詰め寄って行くと、

「エヤッ――」

と鼓膜こまくをつんざく気合いに面を吹かれて、はッと気を張った途端、鋭い重蔵の木剣が真っ向から飛んで来た。伝内もオオッと眉間みけんかざしにがッきり受け払って、こっちからも激しくふり込んだが届かぬ先にガラリと重蔵に引ッぱずされて、あッと小手を痺しびらせた刹那、ビシリと肩先を撃ち込まれて、横のめりに腰を挫くじいてしまった。

伝内は、びっしょり汗をかいて、

「参った。恐れ入ってござります」

と平伏した。

「いや、なかなかご鍛錬のお腕前、重蔵も感服致しました」

と席を改めて挨拶すると、伝内は膝を正して、心から重蔵の腕前に敬服したらしい口吻くちぶりでしばらくこの道場に滞留して入門修業をしたいという希望を洩らした。

「大事はござらぬ、ご随意に召さるがいい」

と重蔵は気軽く承諾して、奥へ立ちかけた時、

「ご来客でござります」

と一人の門弟が取次いで来た。

「どなたじゃ?」

「ご家中の正木作左衛門様がお越しでござります」

「お……」

と重蔵はすぐ如意輪寺裏の一夜を想い起して、自身出迎えに玄関へ立って行った。――と今までいかにも神妙らしく畏かしこまっていた矢倉伝内は、ジロリと凄い上目づかいをしながら、玄関の応答に地獄耳を欹たてていた。

×

渡り廊下を通って、離間はなれへ案内された正木作左衛門の後ろから、しとやかに綾の裾を曳いてついて行ったのは娘の千浪であった。

茶室めいた切窓は、藤棚に日を遮さえぎられて座敷の中は朝のような青い静かな光線が僅かに流れていた。作左衛門は密談を遂げるには打ってつけな部屋だとすぐ思った。そして過日の礼を懇切に述べ終ってからこう口を切りだした。

「実は、傷所きずしょも充分癒りきらぬ某それがしが、今日にわかにお伺い致したのは、重ね重ねではござるが折入って尊公に一大事のお頼みに参ったのでござる。何と抂まげてお聞入れては下さるまいか」

「さて、何事でござりましょうか……」

「尊公をあっぱれ武士と見込んでのお願いは余の儀でもござらぬが……」

と云いかけて作左衛門はふいと口を噤つぐみ、

「これ千浪、暫時ざんじ遠慮致せ」

と後ろを顧みて云った。

「はい……」

と千浪は素直に立ちかけたが、勝手をしらぬ家のこととて、そこから庭下駄をはいて屋敷の庭でも彼方此方あっちこっちと彷徨さまよっているより外なかったのである。それを見送ってから、作左衛門は重蔵にむかって再び語を継ぎはじめた。

「娘の千浪を連れて参ったのも世間体を繕つくろうため、誠は作左衛門、君公よりのお旨を受けての使者でござる」

「えッ、そうとは知らずかく見苦しい所へ」

と重蔵は意外に思いながらも、また恐縮した。

「いやそれも極く密々のご内意――と申すは、かような次第でござります」

と作左衛門は扇子をついて低声こごえになった。

そして宮津の京極から剣道試合の申込みを受けた顛末てんまつ、それに当る達人のいない当惑を物語った上、この動機はあるいは佞奸邪智ねいかんじゃちの大月玄蕃が如意輪寺の不覚を報讐する底意で、宮津一藩を使嗾しそうしたのではあるまいかと個人的な考察もつけ加えた。――そこで重蔵に頼みというは当日の試合に福知山方の藩士の列に紛まぎれこんでいてもらって、見事傲慢ごうまんな宮津藩の猛者もさを撃ち込んでもらいたいことだった。それも強敵と目ざす者は大月玄蕃一人であるが、幸いに、玄蕃と重蔵は如意輪寺裏で真剣の手合せをした実験がある――あの腕を持った重蔵殿なら必ず玄蕃を撃ち破ることは至難でないと、作左衛門は君公忠房に推挙した言葉を、重蔵の前でも真率に繰り返して、彼の蹶起けっきを熱願したのであった。

しかし、重蔵は容易に諾だくの一語を与えなかった。彼の侠勇を象徴した濃い眉の下には、それを反省する聡明の眼まなこがいつまでも閉じられていた。

「貴殿の一諾を得られぬからは君公への申し訳に老い腹切ってお詫び致す。重蔵殿この一間ひとまを拝借致す」

と一徹な作左衛門は、不承知の色を見て、早くも脇差の柄へ手をかけた。

「お待ち召され!」

重蔵は驚いてその手を押えた。

「さらば作左衛門が一命を賭としてのお願い、お聞き入れ下さるか」

とのッ引きさせず問い詰めた。

「かくまでとあれば止むを得ぬこと。――宜よろしゅうござる」

と重蔵は沈痛な声で初めて大きくうなずいた。

「えッご承知下さるとか!」

「勝負は時の運ながら、春日重蔵が及ぶ限りの対手あいてには立ちむかい申すでござろう」

「忝けない、忝けのうござる……」

と飛とび退さがって両手をつかえた老骨は、それより他の言葉が出ぬほどな感激に昂たかぶらされてぼろぼろと涙を滾こぼした。

七

撓刀しないの音を聞くだけでも、身ぶるいが出るというほど、生れつきから武芸嫌いな重蔵の弟春日新九郎は、十九という男前になりながら、いまだ半元服の若衆振袖で、屋敷の奥の一間にこもって、好きな絵筆をもてあそんでいる。

武門の家に男と生れて甲斐のない新九郎の性質は、無論兄の重蔵が強く顰蹙ひんしゅくするところであったから、今日までには幾百回の強意見こわいけんが繰り返されたか知れない。しかし新九郎の天性は矯正されないどころか、絵や笛や庭いじりなどと、いよいよあらぬ方の趣味へばかりずんずん深くなって行くのであった。――所詮、弓矢の神に見放された、武門の不具者かたわものと、重蔵もこの頃は放任してあったのである。

こうして、春はいつも新九郎の部屋に長閑のどかであった。今日も窓の側の朱机に寄って、うっとりと画想に我を忘れていた時、新九郎はふとことりと静かな庭下駄の音を耳に入れた。

「誰であろう――?」

と彼は何気なく窓から半身を見せて庭面にわもを眺めた、と思いがけない人――天降あまくだったかという疑いはこんな時にであろう、笄こうがい島田しまだに春の陽を浴びて、瑠璃紺地るりこんじに金糸の千草を染め浮かした振袖へ、唐錦の鉢の木帯を背高に結んだ目ざめるような姿が、すらりと立って此方こなたにいた、新九郎と瞳を合わすと、にっこりと玉虫色の口紅を笑ませて細かい歯を見せた。

「おおあなたは――」

新九郎は思わず声をかけてしまってから真ッ赤になった。それはいつか如意輪寺の梅月夜に見た、あの血の池を見るような怖ろしさより忘れ得なかった印象の人であったから――

「いつぞやはいろいろと厚いお世話になりました……」

千浪は心もち窓に近寄って、しとやかに白い頸うなじを見せて頭かしらを下げた。

「して今日は?」

と新九郎は動悸ときめく胸を隠すような声で、やっと訊き返した。

「父上の傷手いたでもややよくなりましたゆえ、ご当家のお兄上さまに、お礼を申し上げに来ております」

と云いながら、いつか足は僅かずつ寄って新九郎の窓の外まで来てしまっていた。

「そうでござりましたか……」

と臙脂えんじと匂におい袋ぶくろの強い薫かおりが、新九郎の若い血を嵐のように騒がせた。赫かっとした熱い顔を伏し眼にして、彼は現うつつな目を絵具皿に吸わせていた。

「おや、お見事な絵を遊ばしますこと……」

麝香じゃこうを噛んだような女の息を、耳元に感じた新九郎は、今にも頬へ触れてきそうな黒髪の冷たさを想像して答いらえをするのを忘れている。

「狩野かのうではござりませぬような……その絵具のお使い方は土佐をお学びでござりますか」

「ほんの戯絵ざれえでござりまするわ」

「どう致して、お見事でござりますこと……」

千浪は何気なくむっちりした白い手を机の端に伸ばすと、新九郎はあわててその手を上から押えた。そして――見せてと甘え強しいるような千浪の力を疼うずくほど熱く感じながら、新九郎は拒こばむふりして痛いほどその手を握り返した。二人はもうどうしていいか分らぬほどな情炎に包まれて伽羅油きゃらゆのとろ火で煮られたかのような酔心地になりかけていた。――その時。

「千浪、千浪」

と呼ぶ父の作左衛門の声がした。

「は、はい……」

と慌ててそこから庭下駄の音を転ばせた千浪が、前の離室はなれの側まで帰って来ると、愕おどろいたように床下からぱっと飛び出した男が、千浪の胸にどんとぶつかった。

「あ……」

とよろめく隙に、男は脱兎の勢いで裏手へ駈けだした。と見た作左衛門が、

「怪しい奴ッ」

飛び降りて追いかけるその顔へヒュッと風を切って飛んで来た狙い捨ての手裏剣しゅりけん。はッと作左衛門が身を沈ませた瞬間に、曲者くせものは裏塀に手をかけて身を躍らせた。

「おのれッ」

とその刹那、駈け寄った春日重蔵が手練の抜撃ちに、曲者はワッと叫んで血煙りと一つになって大地へ落ちた。

「おお此奴こいつは先ほど、廻国の武芸者に扮装やつして入りこんだ矢倉伝内めじゃ!」

と重蔵はすぐ死骸の懐中を探って二、三通の書類を引き出した。

「これご覧なされい、拙者初対面から怪おかしい奴と睨んでおりましたが、案あんの定じょう大月玄蕃の間諜まわしものでござった」

「さてはさすが佞智ねいちの玄蕃めも、貴殿の腕前を知っているゆえ、早くも当日の試合に出ることをおそれて、探索を入れたのでござろう」

と作左衛門も今更敵方の周密な用意に舌を巻いたが、それと同時に、いよいよ両藩の確執が熾烈しれつになって来た暗示を受けた気がした。

果然、その翌日町の辻々に高札が立った。それに依れば、対宮津藩との剣道大試合は今年――承応元年の四月二十八日に、領地境い、由良川の広場、桔梗ききょう河原で挙行すると公示されてあった。

福知山の士民は、生田馬場以上の興奮をもってこの大試合の噂に熱狂した。宮津の城下から来た一町人は、京極方ではこれ以上の騒ぎだと云った。大藩の権勢で近国に人を派し名だたる剣客者を狩り集め、当日の場合に依っては血の雨を降らす決戦の備えさえ出来たなどと流言蜚語りゅうげんひごもさかんに放たれた。

桔梗河原ききょうがわらの怪剣客けいけんかく

一

その朝、宮津の指南番大月玄蕃おおつきげんばは、暁天から屋敷の鋲門びょうもんを八文字に押おっ開ぴらかせた。

門内には槍薙刀なぎなた木剣などの武道具が、物々しく立並べられてあった。追々と集まってくる剣客はおのおの鎖帷子くさりかたびらの着込みに、筋金入りの白鉢巻をなし、門下を併せて二、三百人余り、意気天を衝いて犇々ひしひしと詰めかけた。

今日こそ、福知山藩の誇りを一蹴し去らんずと、京極方で待ちに待った桔梗ききょう河原の大試合を決行する日だ。

玄蕃はさすがに大藩の指南番、一刀流の達人と人にも許されたほどの落着きはあった。静かに仕度を済ませて式台に現われた姿を見るに、鎖くさり着込みは下に隠し、浮織万字うきおりまんじの黒羽二重に緞子どんすの野袴のばかま、白鮫柄しろさめづかの脇差金象嵌角鍔きんぞうがんかくつばの大小をぶッちがえに差し、曳き寄せた駒にひらりと跨またがって、時刻を待つほどに目付奉行の伝令が来たので、一同はそれッとばかり長蛇の陣をなして、威風凜々、由良川の上流指して出発した。

その途中でも、玄蕃に一つの心がかりは、春日かすが重蔵の道場へ隠密に入りこませた矢倉伝内が、今に何の消息もないことであった。彼は今日の試合にも、福知山の藩士には怖るべき者はないと思ったが、如意輪寺裏で手練を知った春日重蔵が現われれば侮あなどりがたい強敵だと思った。

×

「無礼者ッ、退のきおらぬか!」

突として、前進の門下の中から激しい罵声が起って一同の足並が止まった。

玄蕃は鞍の上から伸び上がってみると、既に由良川の奔流に添って二里ばかり来たところである。何事かと手綱を煽あおって、前隊へ駈け抜けて来て、

「如何致したのじゃ! 早う進まねば時刻が遅れ申すぞ」

と大喝だいかつした。

「先生ッ」と一人の門人が寄って来た。

「あれなる浪人が、吾等の邪魔になる岩根へ腰掛けて動かぬばかりか、この態ざまは何事じゃと、嘲笑あざわろうた無礼な一言、聞き捨てなりませぬゆえ引ッ捕えたところでござります」

と喋々ちょうちょうと述べた。

「うーむ憎にっくい奴――」

と玄蕃もきっと眼を放つと、成程、年の頃は老人とは見えぬが、面おもてを隠した深編笠から、漆黒しっこくの関羽髯かんうひげをそよがせた黒紋服の一人の浪人、罵りかかる若侍どもを尻目にかけて悠然と道ばたの岩に腰かけている。

「とやこうは面倒ッ、曠はれの試合場に向う血祭りにしてしまえッ」

と玄蕃は鞍壺くらつぼを叩いて怒喝した。

「それッ打ぶッた斬れ!」

と弓弦ゆづるを離れた門弟どもや、腕の疼うずきぬいている剣客の誰彼は、我こそと大刀をぬくが早いか、前後から喚おめきかかって浪人を取り巻いた。

「白痴脅こけおどしを抜いて来たの、嗤わらわれたくらいでは気が済まずに、この上痛い目を見せてもらいたいとか? あははははは」

と浪人は左手に関羽髯を掴み、右手の鉄扇は一文字にピタリとつけたまま、編笠をゆすって笑った。

「この狂人きちがいめッ、動くまい!」

と烈火の如くになった一人が矢庭にブンと斬りこんで来た大刀を浪人はピシリと払って腰も立てなかった。

「おのれッ」

と続いて揮ふり込んで来た前後左右の乱刀をも、しばらくバラバラと蜘蛛手くもでに受け払っていたが、すッくと岩から立ち上がるが早いか、手当り次第に帯、襟頸を引ッ掴んで由良川の激流の中へ片ッ端から投げ込んだ。

奔流の泡に叫びを上げる者、岩角に血を吐く者、たちまち幾人と知れない負傷ておいを出した。その凄まじい浪人の働きに、さしもの大衆もワッと後ろへ雪崩なだれ返った。

「ええッ腑甲斐ふがいのない者どもめ」

と玄蕃はその様子を見て歯ぎしりかんでいたが、疳かんを昂たかぶらせて浪人の前へ馬を乗りつけて来た。そして、

「素浪人――ッ」

霹靂へきれきの一声を鞍壺の上から浴びせかけた。浪人は炯々けいけいたる眼光を放って、

「汝が玄蕃か、その傲慢では今日の試合も覚束おぼつかない」

と声鋭く面罵した。玄蕃はそれに耳をも触れず、大刀の柄に手をかけて、

「推参だッ」

と叫ぶより早く、身を屈ませて馬上から拝おがみ撃ちに、鬼丸包光おにまるかねみつの大刀が風を切って浪人を見舞ったが、慌てもせず摺すり抜けた浪人は、玄蕃が二の太刀を振りかぶったにもかまわず、大胆に踏み込んで、ガッキリと馬の轡くつわの根元を掴んで、エエーイッ、と一声鋭く轡を突き上げたので、馬は泡を噛んで嘶いななきながら、棒立ちになった。

「それッあの隙に撃ち込め」

と浪頭なみがしらのように巻き返した大勢は、その時どッと横合から槍、大刀を閃ひらめかして来たのを、浪人は玄蕃の一刀を後ろへ摺すり抜ぬけ、持ったる鉄扇に力をこめて、ピシリッと馬の尻を擲うったので、火牛の如く猛りだした馬は、その大衆の真ッ只中へ跳躍おどりこんだ。一同はワッと崩れ立った。

「おのれッ」

と玄蕃は力の限り手綱を引絞り、奔馬の足を喰い止めたが、憤怒の形相は物凄かった。そして、

「痩浪人やせろうにんはいずこにある! 遁のがすなッ」

と叫んだ。――が時既に遅く、はるか由良川の奔湍ほんたんの中に、流れを噛んで点々と黒く見える岩から岩へ、飛び移り跳おどり越えて行く浪人の姿が、早瀬の鮎か山燕の如く、あれあれと云う間に向う岸へ見えなくなってしまった。

二

上流の福知山からも五里半、下流の宮津からも五里半の中央に選ばれたその日の曠場はればたる桔梗ききょう河原には、五町余りの長方形に、青竹の矢来を結ゆいめぐらし、三つ扇の定紋打った幔幕まんまくの桟敷さじきには福知山の領主松平忠房が老臣近侍を左右にして居並び、別に黒の鯨幕くじらまくの蔭には試合に出る剣士の花形が鳴りを鎮めて控えていた。

それと東西に対峙たいじして、あたかもそれを眼下に見下すが如く見えたのは、豪壮華麗な宮津方の桟敷であった。太守京極丹後守の座所には、錦繍きんしゅうの帳とばりを垂れ、近侍小姓は綺羅星きらぼしと居並び、紅白のだんだら幕をめぐらしたお末しもには、白襟桃色の衣裳を重ねた女中や局つぼねたちが歌舞伎でも見るような華やかさを浮き立たせて時刻を待っていたのであった。

「松平方では早や一同も揃って見ゆるのに、玄蕃やその他の者は如何したのじゃ」

と京極丹後守は最前から侍臣を顧みて気を揉むことしきりであった。その時目付役の者から、

「早や見えましてござります」

と返事があった。

女中達は姦かしましく桟敷の幕を絞って彼方あなたを見渡していた。成程、川に添って一散に、此処へ来る一隊の先頭には、大月玄蕃の馬上姿が小さく見えて来たのであった。

大月玄蕃は、途中で思わぬ不快を求めたばかりか多くの負傷ておいさえ出してしまったので、曠はれの場所に臨む前から、一同の気勢を殺そいではと、無理に元気づけて、時遅れじと急いで来たのだ。そして、四つ目結いの定紋打った幕の中に入ってしばらく休息していると、

「大月殿、お召なされます」

と近侍の取次が来たので、おそるおそる丹後守の前に出た。

「おお玄蕃か、また生田の馬場の敗北を繰り返しては一大事、当家の名折れも取返しがつかぬこととなるが、今日の試合は大丈夫であろうの」

「ははッ、さまでにお心を煩わずらわせまするは玄蕃の不徳、しかし馬術と事違って剣法では、不肖といえども指南番の名を汚す玄蕃めが、身命を賭しても敗ひけはとらぬ所存でござりまする」

「よく申した。其方のことであれば余も大丈夫とは思うているが、実は出石いずし藩の仙石殿より余に密使が参っているのじゃ――玄蕃、近う寄れ」

と丹後守はさしまねいておいて一段と声を落とした。

「他でもないが、近頃仙石殿の客分となって滞在している者は、稀代の名人であるそうじゃ、万一福知山方にも、如何なる達人が潜んでいぬとは限らぬゆえ、其方の後うしろ楯だてに助勢致させようかと、折入って仙石殿からのご好意、聘よび寄せたものであろうかどうじゃ」

と云った。玄蕃はそれを聞くと、持前の自負心がこみあげて、己れの腕を侮られたかにむっとしたので、

「怖れながら、諸国を歩く浪人輩やからにろくな腕の者はござりませぬ。殊に多寡たかが小藩の家中を怖れたかにもなって出石藩の聞こえも如何と存じますゆえ、まず今日の試合は拙者めに万事お任せ下されば忝かたじけのう存じまする」

と云いきった。

「左様か、では任すぞよ」

と賢明な丹後守は、特にこう云って、玄蕃の覚悟を固めさせたのだ。

「ははッ!」

と彼は平伏しながら、いよいよ是が非でも勝たねばならぬ責任の磐石ばんじゃくを背負ってしまった。否それより、間違えば禄離ろくばなれ――一期いちごの浮沈にもかかわるところだ。その代り勝てば加増と名誉は知れきっている上に、自分を見縊みくびった正木作左衛門をも見返すことが出来る。或いは情つれない千浪もその耀かがやきになびいてくるかも知れない――などとさまざまな雑念にふと気を奪とられている耳元へ、ドドーンと合図の太鼓が、胸の底まで響くほど力強く打ちこんできた。

三

諸士の試合の番数ばんかずは進んだ。

矢来の外には数万の群集が、咳せき一つ立てぬほど緊張していた。松平侯、京極侯の桟敷さじきでも無論眼も放たず一勝負ごとに一喜一憂を現わしているが、厳粛そのものの如く両々対峙して水を打ッたようになっていた。

四月の空は瑠璃るりより碧あおかった。陽は爛々らんらんとこの壮観に君臨する弓矢の大武神の如く耀いている――その栄光を一身にうける、場じょうの中央に毅然と仁王立ちになった一人の剣士の面おもてには、今勝ち誇った色が満ちていた。数万の大衆も敵も味方も、彼の飛び離れた腕前に舌を巻いて驚嘆の眼を瞠みはってしまった――その剣士は余人でもない。京極方の大月玄蕃であった。

亥の下刻頃までは、福知山藩の剣士君塚龍太郎が、宮津藩の家士、玄蕃の門人など六人まで撃ち込んで旭日きょくじつの勢いを見せたが、七人目に大月の高弟桐崎武太夫が出てこれを倒し、続いて松平の家来三、四人を撃ち負かした。それと見て松平家の馬廻り役を兼ねた剣道師範竹中左次兵衛が武太夫と奮戦して見事な勝ちを取ってからは、しばらく敵する者もない優勢を示したのを、大月玄蕃が現われて一気に左次兵衛を撃ち込んでしまった。その後、三、四人の対手あいては出たが、ほとんど玄蕃と五、六合の木剣を合した者もなく今はいよいよ最後の栄冠は、当然彼の物とならねばならない。京極方では万雷の落つるような喝采かっさいをした。勝利を誇った。そして――刻一刻、時は過ぎるがもう福知山方から対手に現われる勇士も絶えた。ああ敗辱か! ついに武名隆々であった松平忠房の誇りも、玄蕃が三尺の木剣のために逼塞ひっそくせしめられたのであろうか?

その時、傲慢不遜ごうまんふそんの大月玄蕃は、片手に木剣を引ッさげたまま、鳴りを鎮めた福知山方の桟敷に向って真ッ赤な大口を開け、矢来の果てまで届く大音声で、

「やあ、松平忠房のご家中に物申す、馬扱いの儀はいざ知らず、武士の表芸たる剣道にかけては宮津京極丹後守が藩中の勝ちに極まったり。唯今までの拙者の勝負は弓矢八幡もご照覧、矢来の外の万民が生証拠いきしょうこじゃ。嚮後こうご末代武芸にかけては、きっと大口を叩かるるなよ」

と思う存分の気焔を上げて、悠然と五足いつあし六足むあし引き揚げて来た――その刹那である。

「待て! 大月玄蕃ッ」

後ろの方から轟く大音が、彼の腸はらわたに沁しみ通とおった。

「何ッ、拙者に待てとか――」

玄蕃はギクリとしたが色には見せず、立ち停まって振ふり顧かえると、松平方の武者溜りから再び、

「おお! しばらく待て」

と凜々りんりんたる声が澄んで、三ツ扇の紋幕をかなぐり上げるや、たたたたたとそこへ駈け現われて来た一人は、黒絖龍文くろぬめりゅうもんの小袖に襷たすきを綾なし、青月代あおさかやきに白鉢巻をキリッと締めて、義経袴よしつねばかまの股立高々と取った骨逞しい青年剣客――それこそ春日重蔵なのであった。

「まだ定めの刻限には相成らぬに、人もなげなる今の広言、身不肖ながら殿しんがりとして春日重蔵これにあるからは、勝ち呼ばわりは早うござるぞ」

「うむ、さては汝が春日重蔵か――」

と玄蕃は如意輪寺裏の恨みを想い起してジロリと凄い一瞥いちべつを投げながら、声だけは努めて静かに云った。

「さらば見事に玄蕃の対手あいてに立つと申すのじゃな」

「云うまでもないこと」

「よし、殿しんがりとあれば最後の秘術を見せてくれん、用意はよいか」

「多言は無用じゃ」

と一尺八寸の小太刀をとって重蔵が立つと同時に、大月玄蕃も赤樫あかがしの木剣の柄へ両手がかかった。

「いざーッ」

と重蔵の烈声。

「おおうッ」

と玄蕃の雄叫おたけび。――刹那、ぱッと左右に別れた二人のはやさは、大地を引ッ裂いて跳りでた双龍が、珠を争うかの如くにしか見えなかった。

四

その時、大月玄蕃が咄嗟とっさの構えは、赤樫三尺の木剣を天辺に翳かざし、右手めては鍔根つばねを堅く、左手ゆんでは柄頭を軽く持って、円を描いた両肱りょうひじの中から、巨眼をみひらいて敵の隙を窺うかがいながら、じりじり左右の足の拇指おやゆびで土を噛みつつ一寸にじりの攻勢に取って来たのである。

彼を巌松がんしょうの鷲わしと見れば、これは飛湍ひたんの隼はやぶさにも似た春日重蔵は、敵より遥かに短い小太刀を片手青眼に一直にして、体は変化自由の斜めにひらき、星より澄んだ双眸の睫毛まつげも瞬またたかせず、剣禅無我の切尖きっさきを、玄蕃の鳩尾みぞおちの辺りへ擬して行った。――この青眼と彼の大上段、天地二ツの剣と剣の間は、ややしばらく颱風の中心のような静かな空気を澄ませていたが、それはほんの表面に過ぎなかった。つと上段の小手が気構えを見せた先に、重蔵の小太刀が颯さっと輪を描いて、鋭く玄蕃の眉間みけんへ飛び撃ちに行った。途端、

「エエーイッ」

と唸りを生じた玄蕃の木剣もふって落されたので、戞然かつぜんと火の匂いを発して五合六合――二つの木剣が縄に捩よじれて見えるばかり激しく打ち合った間髪、エヤッと五体を絞った重蔵の気合い鋭く横薙よこなぎに捨てた真蔭の玄妙。

「アあッ!」

と玄蕃は外された木剣に引き込まれてタタタタと二足ふたあし三足みあし、斜めに大地へのめり込んだが一刀流錬磨の機智――その木剣を流れ身のまま重蔵の足許臨んで地摺りに払った。摚どうと倒れたかと見れば、重蔵は袴の裾をひるがえしてパッと跳び上がるなり振りかぶった無想妙剣の一念力、巌いわおも砕けろと玄蕃の脳天目がけて来たのを、おおウ! と窮地の豹狼の如く猛然と反跳した大月玄蕃は、必死の剣でガッキと受け止め、十字に組んだ木剣に淋漓りんりの脂汗を振りこぼしながら、火焔の息を吐いてギリギリと鍔で押して行けば、重蔵は無理とは反抗せず尺八寸の小太刀を柳の柔軟さにして扱ううちさすが不敵の玄蕃の面色もようやく蒼白んできたうえ、乱髪の隙からかがやく眼膜がんまくも赤く疲れて、気息の乱れは争われず組んだ木剣を伝わって、重蔵の心眼にありありとよめてきた。

×

重蔵は止めの一剣をつき込む隙を狙っている。その結果は心得ある者の眼には想像に難くなかった。福知山方の面々は俄かに喜色を漲みなぎらせ思わず浮腰になって伸び上がる者もあり、殊に正面の松平忠房は、初めて愁眉しゅうびを開いた顔を傍らの正木作左衛門に向けて意味深長に北叟ほくそ笑んだのであった。――それにひき代えて暗澹たる不安に襲われて、一抹の愁雲しゅううんに覆われてしまった宮津藩は、有頂天の歓喜から奈落の底へ突き墜とされたように鬱ふさぎきってしまった。

「典膳てんぜん、典膳ッ」

と疳走かんばしった声で近侍を顧みたのは宮津の太守丹後守であった。

「は、はッ……」

と目付役犬上典膳は、試合の方に目を奪われたまま、唇を噛んだ丹後守の傍へ摺り寄ったが、京極丹後守はまだ気づかず、

「犬上典膳――」

とまた呼んだ。

「ははッ、典膳めは御前おんまえにござります」

「勝負は何と見る? あれ見よ、玄蕃の面色は変ってある、お! 春日重蔵とやらの乱れぬ太刀筋を見い」

「は、何とも無念に見受けまする」

「どうじゃ勝負は?」

丹後守は歯ぎしり噛む。

「は……」

典膳はその気色に憚はばかって答え兼ねた。

「呆痴者うつけものめが! この勝負が予断できぬか、白石十太夫を呼べッ、疾とく呼べ!」

と焦じれ声はあたりに高く響いたので、すぐ辷り出た老臣が、

「お召の筋は?」

と早速に云った。

「大月玄蕃を退ひかせい! 打ち込まれぬうちに早く、早くじゃぞッ」

「はッ」

と答えるとすぐ桟敷から、試合奉行へ勝負引分の伝令が飛んだ。丹後守はいまだ落着かず、更に声を励まして叫んだ。

「霧島六弥」

「はッ――」

一人の小姓が平伏する。

「使者じゃ! 出石藩へ早馬で飛ばせい」

「はッ――」

「仙石左京之亮せんごくさきょうのすけ殿の客分として滞在中の剣客者を、疾くご加勢としてお差向け相願いたいと申し入れるのじゃ。火急の場合口上でよい」

「ははッ」

「時遅れては末世末代当家の恥辱じゃ。早や行け、必死に急げ」

「はッ――」

霧島六弥は御前を退るや、ばらばらと桟敷を駈け降り、繋つないであった栗毛の駿足に、ひらりと飛び乗るが早いか朱房の鞭を一当てくれて、ハヨーとばかり出石の仙石家へ指して霞かすんで行った――その後あと、太守京極丹後守は、依然と試合の二人へ瞳を放たず凝視みつめていたが、我を忘れたかのように、思わずアッと褥しとねから膝を辷らせた。

五

ちょうどその時は、気息奄々えんえんの乱れを見せた大月玄蕃が、残れる精力をあつめて、エエーッと最後の気合を全身の毛穴から振り絞って、春日重蔵の小太刀を鍔押つばおしに試みた時であった。

「オーッ」

と息を返した重蔵は、ガッキリこたえて弓形に腰が反そるまで丹田に渾力こんりきを集めた。エエイッ、エエイッ――続いて圧倒的な気合いが押した。時分はよしと、ぱッと受太刀を右脇へ捨てて一足跳び退いた重蔵の変化に、不意を喰くらった玄蕃は、よろよろと空を斬って燕返りに立ち直ったがはやくも重蔵の小太刀がその真ッ向うへ行って、横翳よこかざしに受けた玄蕃の赤樫の木剣は、ボキッと折れて切尖きっさき七、八寸クルクルッと宙へ刎ね飛んだ――刹那。

「待て! 試合は引かれい、上意じゃ」

と目付奉行の大声がかかった。

重蔵はハッと万斛ばんこくの水を浴びて小手を緩めたが、小太刀の勢いはそのまま玄蕃の肩先に届いた。しかし、玄蕃はほッと甦よみがえった顔で、

「参った」

とは云わず、かえっていかにも不平な表情で、

「何故なにゆえあってのご制止でござる」

と呶鳴った。

「上かみのお声がかりでござる。この勝負は引分け申す」

と目付役が答える側から、続いて京極方からばらばらと駈けつけた近侍の者が、

「大月玄蕃殿、君公のお召し急いで――」

と伝えて来た。玄蕃はそれをいい機しおに、しかし色には見せず、いかにも残念らしく引き揚げて行った。

――と、一方福知山藩の家中から、騒然たる物議の声が高く起った。家士溜りの剣士の控え場は総立ちになって、何事か罵り出した。

矢来の外の群集も喧々囂々けんけんごうごうとして、にわかに罵声不平が遠い海嘯つなみのように巻き返した。何者とも知れずバラバラと京極方へ砂礫すなつぶてを飛ばす者があり、矢来を揺ゆすって罵り返す宮津城下の町人の叫びも凄まじく雑音の中に響いた。

「奇怪千万な京極家の致し方、余りと申せば卑劣な策じゃ」

と福知山方の正面の座に、じっと事の顛末を睨みつけていた藩主松平忠房は、それへ来た正木作左衛門にそう云った。

「いかにも御意にござります。某それがしも余りの理不尽と存じ、唯今目付役人立ち会いの上、京極方へ懸合かけあいに参りましたるところ、玄蕃儀ぎ持病さし起り試合大儀の様子ゆえ、引き止めさせたなれど、その代りに別の剣士を選び、改めて春日重蔵殿と立ち合いの上、最後の勝敗を決せんと虫のよき大言を吐きおりまするが、如何致したものでござりましょうか」

「うウむ、飽くまで穢きたなき彼の振舞、蹂躙ふみにじってくれたけれど、重蔵も定めし疲れたであろう、と云って不承知を申せば、飽くまで今日の勝利は我にありと彼等が言い張るに相違ない」

「誠に是非もない儀、この上は改めて君より春日殿へ再び試合直しを仰せつけあるが宜しかろうと存じまする……」

と作左衛門が善後の処置を建策しているところへ、一人の家士が血相変えてその前へ膝支ひざまずいた。

「ご家老様、一大事でござります。早く早くおいで下されませい」

と息さえ弾はずませている。

「ご前じゃ静かにせい。して何事じゃ」

「はッ……唯今、溜りに控えた剣士方やご家中の若侍等が、みすみす勝った試合を引分けたるは不届千万と立腹して、十数人の決死組を仕立てて宮津方へ真剣で斬り込まんと殺気立っておりまする――早く、ご家老様のお声でお鎮め下さりませ」

いよいよ、事重大な成り行きとなった。作左衛門はすわこそと君公の顔をみた。忠房もさすがに面色をさッとかえて彼に眴めくばせした。

六

横暴極まる京極の専断に、勃然ぼつねんと怒り心頭に燃えた松平の家臣竹中左次兵衛、君塚龍太郎その他覇気満溢はきまんいつの若侍輩は幕の蔭に潜んでひそかに鉢巻襷の用意をした上、大刀の目釘に熱い潤しめりをくれて、すんでに決死の幕を払って熱風一陣、宮津の家中へ斬り込まんとする出会頭であいがしらへ、白足袋の跣足はだしのまま駈け込んで来た正木作左衛門が大手を拡げて、

「こは逆上召されたか各〻、この行態ぎょうていは何事でござる、お家の大事を思い給わぬか!」

と声を嗄からして喝退かったいした。

「あいやご家老のお言葉ながら、言語道断なる京極の無礼、このまま黙っては万民の笑い草でござる。君公のご恥辱を雪すすぐは臣下の本分、卑怯未練な蛆虫うじむしめらを、一泡吹かせて斬り死に致す覚悟でござる。お通し下されいッ。お止めだて下さるな」

と一同は鯉口切って犇々ひしひしと、ここ一寸いっすんも退ひかぬ気色だ。

「おお左様か、忠義の段お見上げ申した。やれッ、いざ斬り込むもよかろう」とは云いながら、作左衛門は大磐石に立ちはだかって更に云った。

「その代りには両藩必死の鎬しのぎを削り、この桔梗河原に血の雨を降らすとなれば、大公儀のお咎めは何とある? 間違えば福知山三万石のお家は断絶じゃぞ! それでも臣下の本分が相立つならこの白髪頭しらがあたまの作左衛門から血祭りにして斬り込まれい」

「こりゃご難題、是が非でも武士の面目勘弁まかり成りませぬ。お退き下されいッ」

「ならぬッ、君家の危機がお解りないか」

と双方譲らず押問答をしている騒ぎを、休息所でふと耳にした春日重蔵は、それこそ天下の一大事と愕いて作左衛門と共に、猛り立つ諸士を宥なだめて、ひとまず一同を鎮圧したのであった。

とやかくと一刻いっときばかりは、敵も味方も囂々ごうごうと鼎かなえの沸く如く騒然としていたが、やがて再び合図の太鼓がとうとうと鳴り渡ると、緊張し切った大衆は炎に驟雨しゅううが来たかのような静謐せいひつに返ってしまった。

目付奉行の伝令が、双方を駈けめぐって、第二の大試合の用意を促した。――急使霧島六弥が仙石家の客分たる稀世の名剣客を招聘しょうへいして来たと見える――京極丹後守の前には汗みどろになった霧島六弥が復命をしていた。

「大儀であった。仙石殿ご昵懇じっこんのその剣客者はいずれにある、これへ呼べ」

と丹後守の喜悦は斜めならずであった。六弥は面目を施して、座を辷るとすぐその剣客者をご前へ連れてきた――がしかし並居る一同の眼はすこぶる疑惧ぎぐに襲われた眼で、そこへ現われた異様な武士を見迎えたのであった。

髪は油の光もない茶筌ちゃせんに結び、色浅黒く爛々らんらんたる眼は七万石の主公随臣を睥睨へいげいして垢じみた黒紋服に太骨の鉄扇を右手めてに握り、左の手は胸までそよぐ顎髯あごひげを扱しごいて悠々然と座に着いた。

その姿を一目見て、あッと驚き呆れたのは大月玄蕃であった。彼は先刻さっきの試合から引き揚げて来ていたが、丹後守は何故か一言ひとことの言葉も彼に与えなかった。近侍の者からご不興のご様子ゆえ末座にお控えがよろしかろうと注意されて、にわかに片隅へ寄って悄然としていたのだ。

そして今ここに現われた仙石家客分の剣客というのを見ると、あにはからんや今朝ここへ来る途中、由良川の激流を目がけて幾人かの門弟を手玉に投げこんで翻弄ほんろうした彼かの関羽髯の浪人に違いないのである――さてはよほど手練の名人なのであろうと、玄蕃は顔を見られぬように前列の者の肩に隠れていた。

「余が京極丹後である。遠路火急を促して大儀であった。当家の武名存亡にかかる大事じゃ、充分のほどを見せて欲しい」

関羽髯の浪人は、頭ずの高い会釈をして、

「あいやお言葉ながら、剣道は元来武名の誉れを賭け争い興を沸かせて観るべき物ではござらぬ、唯これ不壊ふえに精神こころを練り一身の護りとすれば足るのでござる――がしかし、仙石左京之亮殿の外ならぬ頼み、ご懇望もだしがたく試合は仕るが、勝敗は時の武運あらかじめ勝つとはお引受け致し難い」

と膠にべもなく恬淡てんたんとして云ってのけた。

七

乾坤一擲けんこんいってき、二ツの木剣は広場の真っ唯中に組み置かれた。一方から静々と現われたのは扮装いでたち変らぬ春日重蔵、反対側から徐々と進み出たのは未いまだ名乗りを聞かぬ黒髯くろひげの武士だ。

二人は行きあった所で、きっと眼光を交わせた。

「あいや、某は京極殿の家中ではござらぬが、義によって試合申す、播州船坂山の住人鐘巻自斎かねまきじさいと申す者、不鍛練なる富田流にてお相手致す、お見知りおき下されい」

と長髯の武士鐘巻自斎は、礼譲れいじょう玄蕃の如き者の比でなかった。重蔵も会釈正しく、

「申し遅れました。拙者は直真蔭じきしんかげの末輩、春日重蔵と申す者、お手柔らかに……」

と礼を返して型の通り、木剣の柄に手をかけると同時に天颷てんぴょう一陣二人の体は、つんざく気合いと共にぱッと飛び別れ、重蔵は小太刀を鉄壁の片手伸ばし平青眼に、鐘巻自斎は同じく中段の立たて青眼に取って、戦々たる長髯を靡なびかせ、爛らんとした双眸を眉間へ寄せて唇固く息をのんだ。

春日重蔵は木剣の背みねからずッと自斎の構えを見て数十度の試合にもかつて体験のない驚異に衝うたれた。彼の立青眼はそそり立つ峰か、堅固の金城の如く、全身羽毫うごうの隙もなかった。鬢びんにそよぐ一筋の髪の毛、土を噛んだ爪先にも周密な錬磨の心が行きわたっていた。重蔵は今日まで接した名人上手の構えにも、これほど堂に入った剣聖ともいうべき神技に接したことがなかった……それはあたかも真如しんにょの月つきを仰ぐようだ。一点の欠けつ、一寸の曇りもなければ不安の揺ぎもない。真に凡庸ぼんようのありふれた達人使い手の類たぐいではない――と心ひそかに重蔵は得知えしらぬ渇仰かつごうに衝うたれたのであった。

しかし、そこには彼の恐怖めいた怯ひるみは微塵みじんも掠かすめなかった。重蔵はたとえ天魔鬼神がここに立つとも、弓矢八幡に身命を捧げて必ず勝たねばならぬ信念であった。いま自分の双肩には武名山陽に鳴った福知山三万石の重大な名誉の興亡と、決死組の人々が涙をのんでの信頼とを担になっている。神祖偃武えんぶ以来の曠はれ場所は実に今でなくて武士の一生涯にまたとあろうか――鐘巻自斎いかなる稀世きせいの剣妙であるとも、勝たねばならぬ、撃ち込まねばならぬ。一度沈思から決然と勇侠の本性へ奮い起つと、死も敢えて辞さぬところに彼重蔵の真骨頂があったのである。

一方の鐘巻自斎はまたより以上の驚嘆をもって重蔵を端倪たんげいした。今の青年剣客に珍らしい慥たしかさ、まさに上泉伊勢の面影を見るような太刀筋であると思った。ただその木剣と血走った眼膜から異常な殺気がほとばしっているのを見て取った自斎は、勝負の結果にある不吉を予感しずにはいられなかった。この殺気に満ちた鋭さで来れば、勢い自分の太刀もどんな弾はずみを生まないとも限らない。怖るべき試合だ、木剣とは云え真剣に等しい――と思わず百錬れん鉄ほど鍛えた肌に毛の根をよだたせたのであった。

八

「おお新九郎様ではござりませぬか……どう遊ばしたのでござります」

と笹色絹の裾模様に、日傘の赤い光線を浴びた美しい人が、矢来外の人の少ないところにかがんでいた若い武士へ、こう言葉をかけた。それは正木作左衛門の娘の千浪であった。福知山藩では今日の試合に公然と女の陪観ばいかんを許さなかったので、よそながら矢来の外で胸躍らせていたのであった。

「どう遊ばしたのでござります。新九郎様――新九郎様」

と千浪は屈かがんだまま面も上げぬその人をさし覗のぞいた。半元服の若い武士は春日新九郎である。彼はやっと顔を上げて、

「お、千浪殿でござったか……」

と微笑を見せたが、その顔はいかにも苦しげで、そして白琅玕はくろうかんのように蒼白かった。

「大層お色の悪い――冷たい汗が浮いているではござりませぬか。印籠のお薬をお出し遊ばせ、常、常や」

と千浪は日傘を供の女に渡して新九郎の腰に見えた印籠を取りかけた。

「いえ、大丈夫でござります、大丈夫でござります……」

「およろしいのでござりますか」

「最前から、あまり激しい試合を見たり、大勢の声にガンとして、気分が悪くなったばかりでござります。拙者はもう参りまする。ここさえ去れば落着くに相違ござりませぬ」

と新九郎は額を押さえながらそッと立ち上がって歩きだした。

その時は、ちょうど二度目の合図の太鼓が激しく鳴った時であった。千浪はいよいよ春日重蔵が京極の新敵手と最後の勝負をするのであろうと、それにも心を惹ひかれたが、新九郎の身も気づかわれたので矢来に雪崩なだれる人浪を避けて、彼を送りながら帰り途についた――千浪の心を偽らせなければ、この群集の熱狂がどれ程のことでも、ここで新九郎と別れるには耐えなかったに違いない。二人の恋は如意輪寺裏の梅月夜から、春が桜を散らすまでになったよりはやく、いつか灼熱しゃくねつして行ったのであった。

二人は熱鬧ねっとうの中を遁のがれて、ゆく春の静かな山路を福知山へ向って歩いた。少し離れた後から従いて行く女中のお常は、伊達若衆の新九郎の腰にきらめく太刀の鐺こじりと、金糸銀糸の千浪の帯とが並んで行く後ろ姿を妬ねたましく見た。

「新九郎様、もうお顔はいつもに変らぬお色になりましたが、ご気分ははれましたか」

「いつか忘れたようでござる。先ほど声をかけられた時は、まるで夢心地でござりましたが……」

「ほんにどうしたことでござりましたろう……」

「よくよく武芸事には性しょうがあわぬと見えまする――それはそうと、まだ早うござるゆえ、どこかその辺で少し憩やすみましょうか」

三人は道の傍らにあった辻堂の縁へ腰を下ろした。お常は日傘を受け取ってつぼめた。――程よくあたりに茂った糸柳は、ちょうど人目を遮さえぎるによかった。

瑠璃るりの空に弧を描いた久摩くまの峯や、群青ぐんじょうの岩絵具を盛り上げた筒井峠、由良の流れは繭糸をくずしたように山裾をめぐっていた――その広やかな視野からあつまって来る風が、この辻堂の縁へ来てさっと遅咲きの牡丹桜を二人の上へ振り舞わせる。老鶯ろうおうはその時だけちょっと啼きやんで歌口を憩やすめた。

「千浪殿、いつかはこうしてゆるりとお話致したいと思っていたが、あの……この間お常殿の手から渡した、拙者の文は見て下されたか……」

そう云った新九郎は、俯ふし目めになって袂を膝に抱えている千浪の蠱惑こわくよりほか、すべての世界を忘れていた……お常は用にかこつけて外はずしたかここに姿が見えなかった。

「はい……」

と千浪は乱菊模様の金糸を一本抜いて、爪紅をした綺麗な指尖ゆびさきへ巻いたりほぐしたりしながら、襟足まで紅淡あかうすくした。

「ではお読みなされて下さったのじゃな。そしてそなたの返事は何とでござります。返事のないのはご不承知でござるか」

「いいえ……」

とかすかに答えた千浪は血の顫おののきに上逆うわずって、男の手がふんわりと肩にからんだのも現うつつであった。

「それでは誓って下さる? 誓って下さるか」

「新九郎様、お偽りではござりませぬか――」

「偽りならよいにと仰っしゃるか」

「いいえ、誠ならどんなにうれしゅうござりましょう」

とふッさりした黒髪が新九郎の動悸ときめきへ打ぶつかるように投げられた。

お常は容易に帰って来なかった。――それでも無上の幸福感に酔った二人には、瞬またたくと思う間に陽が淡うすれて来た。いつか藍暗い夕闇の中に二人は取残されていたのであった。

――と、山海嘯やまつなみが逆落して来るような人声がして来た。桔梗河原の試合が終ったのであろう、引きも止まぬ群集が、まだ興奮を続けて、罵り騒ぎながら通り過ぎた。

その後から、凄まじい騎馬が砂煙を立って城下へ七、八騎飛んだかと思うと、一隊の武士が悄然と頸垂うなだれ勝ちに跫音も湿って帰って来た。武士達の中には滂沱ぼうだの涙を拳で払っている者、面伏おもぶせに暗涙をのんでいる者もあった。しかも何事であろう? 七、八人の足軽が白布で被おおった板の上へ一人の武士を仰向けに寝せて、静々と運んで通るのであった。

「ややッ――」

と伸び上がって見ていた新九郎は、吾を忘れてそこへ走り出した。

負まけ試合じあい音無瀬川おとなせがわ心中しんじゅう

一

山陰の天地を震撼しんかんして、丹波丹後二藩の士民を沸騰ふっとうさせた桔梗河原の大試合に、京極藩の大月玄蕃の代だい試合として現われた稀世の名剣客鐘巻自斎かねまきじさいと、福知山方の衆望を担になって死を決した春日重蔵――。この二人が勝ちと負けの刹那を現出した時は、どんな悲惨と歓喜の晦明かいめいがはっきりと両者を区別して見せたであろう。

しかし後で落着いてみても、その瞬間の手口をあきらかに瞳に映うつした者はほとんどなかった。

唯見る、二本の木剣がつんざく稲妻をほとばしらせて七、八合の搏音うちおとがしたなと思った時は、もう自斎の屹然きつぜんと立っているのに反して重蔵は仰向けに倒れていた……それ程に迅はやかった。

「ア――」

と刹那の大衆は、何の声もなかった――とまず京極方の桟敷さじきがドッと勝鯨波かちどきを爆破させ宮津城下の町人も喊声かんせいを上げてそれに和した。

それに較べて、余りに傷いたましかったのは、福知山方の極度の失望で、藩主松平忠房はじめ、並居る諸士、城下の群集もひっそりとして、冷々れいれい氷の山か、死人の群集としか見えない、悲壮な雰囲気につつまれてしまった。中で一人、正木作左衛門は狂気に近い声で、茫然とした人々を叱咤した。

「誰か駈けつけぬか! 重蔵殿が怪我なされたではないかッ」

それに醒さめて、四、五人の侍臣が桟敷から飛び降りると、剣士溜だまりの幕からも、五、六人の若侍がバラバラと試合場の中央に駈けた。

やがて、典医の介抱を受けた春日重蔵は、藩主の声に招かれて家士に抱えられたまま桟敷の下へ運ばれて来た。忠房は褥しとねを出て、悲痛な目を落しながら宥いたわった。

「重蔵――よく致してくれた」

「お離し下されい……ご、ご前でござる」

と重蔵は現うつつな声で繃帯された足をもがいた。

「大丈夫でござるか、宜しゅうござるか」

と家士たちは、紫色にわななく重蔵の唇を見て、悲涙を泛うかめながら訊き返した。忠房は見るに堪えぬ面持おももちで、

「定めし苦痛であろう。一刻も早く福知山へ送り遣わせて、充分な手当を致せ」

「はッ」

と近侍はすぐ足軽に担架たんかの仕度を命じた。忠房はその間に、典医から怪我の容態を聞き取った。その答えによると、強敵自斎の木剣のために、右足の関節骨をしたたかに打ち砕かれているとのことであった。

夕雲に染めなされた由良の血河は、秋ではないが蕭々しょうしょうに感じられて、間もなく春日重蔵は足軽の担架に乗せられてそこを出た――一行の壮士に涙ない者はなかった。五丈原頭孔明こうめいの喪もを秘して潰走かいそうした蜀兵の哀寂と同じものが、一同の胸へこみ上げてくるのだった。

――その途中のことである。恋の陶酔に他念のなかった新九郎と千浪が、辻堂の縁から転まろび下りて、この酸鼻さんびな生ける葬式に邂逅かいこうしたのは。

二

この二、三日、丹後宮津の町は祭りのような騒ぎであった。藩では橋立はしだての文珠閣で勝ち試合の恩賞と祝いさえした。

ところが、ここに惨みじめな者は、かの大月玄蕃で、当日の不首尾から閉門を申しつけられ、その上、数日後になって「武芸未熟の廉かどを以って指南番を免役」という苛命かめいを受けた。

玄蕃を見放した丹後守は、一方に鐘巻かねまき自斎の神技を渇仰かつごうして何とか自藩の指南番に召し抱えたいと思った。

「どうであった。承知致したか」

と今日も、出石に滞在している自斎の許へ使者にやった重役溝口伊予みぞぐちいよの帰城を待ち兼ねていた丹後守は、こう云って彼の返事を待った。

「残念ながら、この儀は最早もはや望みはござりませぬ」

と伊予は役目の不結果をまず暗示した。

「ふーむ。では千五百石の高禄を与えると申しても、まだ不足じゃと申しているのか」

「いえ、それならばまだしも、実は度々当家からのご催促に、仙石家でもお執做とりなし下されたのでござるが、不意に今朝姿を隠してしまった由でござります」

「何? では播州ばんしゅうへ戻ったと申すか」

「武芸遍歴の旅に上のぼるゆえ、両三年はお目にかかるまいと仙石家へ一書を残して旅立ちました」

「ほほう。武者修業に出たとか? 怖ろしい奴、まだあの上に錬磨する心意つもりであろうか――」

と丹後守も、さすが名人の心理は押し計りがたいものと舌を巻いた。

数日過ぎると、溝口伊予は再び仙石家を訪れて来て、どうしても自斎を断念しきれない主人丹後守の懇請こんせいを告げた。

「この度は是非もござりませぬが、自斎どの遍歴を終えてご当家へ立寄りの節は、是非にお執做の儀を今から願い置き申す。それまでは何年にても宮津七万石の指南番の席は空あけてお待ち致す考えでござる」

と破格な条件を残して行った。仙石左京之亮も、一藩の君主がそれまでに執心なら、むざと彼を旅立たすのでなかったにと後悔したが、後日に周旋しゅうせんを約して、ひとまず溝口伊予を帰したのである。

三

「旦那旦那、馬に乗っておくんなせえ」

「馬か、まず要いらぬの」

「そんなことを云わねえでよ。福知山へですか? 元伊勢へお出いでですかい、お安く行きやすぜ」

「要らぬと申すに。うるさい奴じゃ」

「帰り馬だから頼むんだ、ねえ乗ってくんなせえ」

「くどいッ」

と先の浪人は編笠を振り顧って、鋭く一喝した。その底力のある声に、道中ずれのした馬子も恟ぎょッと首を悸すくめてしまった。

「亭主、茶なともらおうか……」

と浪人は微笑を洩らして、向うに見えた茶屋の床几しょうぎへずいと腰掛けた。――その床几の真正面には、紫ばんだ大江山の巒影らんえいが、丹波の群峯の中に王座を占しめて、飽くまで青い五月の空から、五十鈴の流れ由良の大河を俯瞰ふかんして、鬢びんざわりよい若葉の風を浪人の肌に送ってきた。

「亭主、これから福知山の城下は何程あるな」

「左様でござりますな。まア三里でござりましょう」

と茶盆を持って来た亭主は、編笠をとった浪人の顔を見て、しばらく茶も渡さず瞶みつめて、

「旦那様はこの間、桔梗河原の試合で春日様を撃ち込んだ、京極方の先生でござりますな」

と云うのであった。それは紛まぎれもない黒漆こくしつの長髯があるので、その日の試合を見た者なら一目で知れる鐘巻自斎に違いなかった。

「はははは、そりゃ他人の空似であろう」

と自斎は寛達かんたつな笑いに紛らせて茶をすすったが、亭主はぷいと奥へ避けて、それからは自斎が言葉をかけても返事もしなかった。

「おかしな奴もある者じゃ……」

と自斎は山家者の偏屈と別に気にも止めず、四方の風光に気をとられていた。

彼は播州船坂山の住人とばかり名乗って、桔梗河原の一試合で山陰道にその名を轟ろかせ、京極丹州の切なる招聘しょうへいをも退けて、飄然とここへ相変らず粗服の旅装を現わしたのであるが、そもこの鐘巻自斎の剣法とは、如何なる奥底のものであろうか、ただ神変不可思議な霊剣の所持者とばかり見て置くのはやや飽き足らない。

当時、承応の時代に最も行われている剣法の諸流は上泉かみいずみの真蔭しんかげ、諸岡もろおかの神道無念、高弟こうてい兎角とかくの微塵みじん流、将軍家流とも云うべき柳生、宮本没後に伝わるところの二刀、新免正伝派、伊藤弥五郎を祖とする一刀流、別れての小野派、忠也派、憲法の吉岡流、その他、天道流、中条流ちゅうじょうりゅう、田宮流、無外流、鞍馬八流、心形しんぎょう一刀流、甲源一刀流、柳剛流、東軍流、卜伝ぼくでんの遺風など剣の流派は百を数えて余りある時世であったが、鐘巻自斎の剣法は、それらの俗間者流とはまったく趣を異にした天下の秘剣と云ってよいものであった。事実、自斎と同じ剣妙を会得えとくした者は天下に三人よりなかったのである。その三人を富田三家と云って、自斎がその一人であるのは云うまでもない。

しかし、この剣法の淵源えんげんは、必ずしも自斎の独創ではなかった。美濃みのの奇傑斎藤義龍よしたつの外妾がいしょうの子五郎左衛門、世を忍ぶ名を富田勢源とだせいげんと云った世よすね人びとが、宇宙の大理から感応自得して工夫を積んだ秘術で、生涯に自斎のほか二人の弟子より以外に剣の話も交じえたことのない人物であった。その開祖の富田勢源は、その後忽然こつぜんと住み馴れた美濃の住居を捨てて姿を消してしまった。ある者は死んだと云い、ある者は深山に入って剣法以上の仙術を会得する為に行ぎょうをしているとも噂した。とにかく、今では富田勢源の死生は深い謎になっている。

けれども、鐘巻自斎は師の勢源が、この世を去ったものとは決して信じなかった。そして彼は四十の年を越えた頃に、ある剣法の疑問に行当り、その解決を得なければ、真に欠点のない名人とは云われない一箇所の弱点が自分にあることを発見した。彼はそのために非常な煩悶はんもんを続けたが、どうしても会得の曙光を仰ぐことが出来ないので、彼は断乎と播州船坂山の住居すまいを閉じ、未いまだいずこにか生きておわすと信じて疑わない、師の富田勢源を尋ねあてて教えを乞うべく、大願の武者修行にさすらいはじめたのである。

その大願のある自斎には、桔梗河原の功名などは、ほんの旅情の慰さめに過ぎないのであった。ただ彼は前に云った一つの剣法の疑問をどうかして会得したい為に、旅の道々にも努めて他流試合を試み、諸流派の秘訣を窺うかがって見ることに心懸けているので、春日重蔵との試合も単にそれだけの心で引き受けたのである。ところが、重蔵に必死の気愾きがいと、侮りがたい腕があったため、思わぬ烈剣を放した結果、彼の片足を打ち折ってしまった。自斎は後になって、あたら有為の青年剣客者を、不具者にした無謀を非常に後悔した。――彼は今、急がぬ旅の足を福知山へ向け、一言重蔵の容体を慰さめようと思い立って、この街道へ現われたのであった。

その途中の茶屋で、自斎はしばらく足を憩やすめている。――と、ここへ来るまで後をつき纏って来た先刻さっきの馬子が、自斎をじろじろ見ながら、何か亭主と囁ささやいていたが、手綱を傍らの樹にクルクルと捲いて、一散走りにどこともなく駈け出して行った。

四

「親分、親分はいませんかい――」

と湧井郷わくいごうの博奕ばくち打ち――表稼業は福知山から積出しの船株持ち由良ゆらの伝吉の荒格子へ飛び込んで来たのは、馬子の権十ごんじゅうであった。

「おおちょうど在宅だが、どうした? また下らねえ揉もめごとでも背負いこんで来たのじゃねえか」

と渋い博多はかたの帯に大島紬おおしまつむぎの着流しで、それへ出て来た由良の伝吉は、苦み走った三十前後の年頃で、さすが船稼業だけあって、江戸前の遊び人と云ってもいい男前に見えた。

「親分、いつもそんな下らねえことばかりじゃねえ。一大事があるから知らせに来たんでがす」

「どうも体の懶ものういところへ、一大事たあ耳寄りだ。一体何が持ち上がったのだ」

「他でもねえがこの間の大試合でがす。とうとう宮津方の木偶でくの坊ぼうに勝ちを取られて、松平様のご領内の者は歯ぎしりしねえ者はありやせん――親分さんだって行ってご覧なすったでしょうが、まったく残念じゃあありませんでしたかえ」

「何を改まって云ってやがるんだ。こうして福知山の殿様のお荷物で飯を喰ってりゃ、瘠せても枯れても足軽の下くらいなご家来も同様、その上春日重蔵様の先代には、命まで助けられたことのある由良の伝吉だ、そんな講釈を聞かねえでも、口惜しくって男泣きをしているんだ。ええ、もう気色が悪いから、そんな話を聞かしてくれるないッ、思い出してもむしゃくしゃすらあ」

「だから親分、こうして飛んで来たんでがす。そ、その仇かたきの野郎が、このご領分の中へ図々しくのさ張って来やがったんです。これから福知山へ行くって云ってやがったから何をする気か知れませんぜ」

「ふむそうか。ではたしかに試合で重蔵様の足骨を砕いた、あの鐘巻自斎に違えねえな」

「見違えっこはありません。あんな長い髯のある侍なんて、滅多にありゃしませんから」

「よしッ。よく知らせに来てくれた。さすがてめえもご領分の町人だ、やいやい二階にいる奴らあみんなここへ降りて来い!」

と伝吉が奥へ向いて声を張ると、何事かと、二階で開帳中の乾分たちが、どかどかとそれへ出て来て、

「何です! 親分」

と渦を巻いた。

「くどいことを云ってる間はねえ。どいつも脇差どすを一本ずつ打ぶッ込んで俺の後に尾ついて来い」

「合点でがす」

と気の早い弁慶縞べんけいじまや豆絞りの連中が、思い思いに向う鉢巻、足ごしらえをしながら、

「おい、行先はどこだい、縄張り荒しか」

「そうじゃねえ、今俺あ階下したにいて聞いていたら、桔梗河原でこっちの春日重蔵様の足を打ぶッ挫くじいた、かの三国志の絵にあるような侍が、図々しくここらへうろうろ来やがったんだとよ」

「畜生ッ太ふてえ外道げどうだ。そんな野郎にご領内の地べたを一寸いっすんでも踏ませてなるもんけえ」

「そうだ叩ッ殺してしまえッ。そいつを通しちゃご城下口に頑張っている由良の身内の名折れだ」

と伝わると、唯さえ鬱憤の満ちていた折とて、縄張り喧嘩以上の殺気が漲みなぎり渡った。

「野郎ども、仕度はいいか」

と由良の伝吉は真田さなだの襷たすきに銀角鍔ぎんかくつばの脇差を落して、荒格子の外に出ると、いつか馬子の権十が他へも触れ歩いたと見えて、あっちこっちから血気の若者が、思い思いの得物をとってワイワイと集まって来た。

「権十ッ、案内しろ!」

と伝吉が真ッ先に駈け出すと、

「それッ、親分に続け」

と乾分を加えたその人数が、疾風はやてに押される潮うしおのように、砂煙を残して行った。

茶屋の軒から、二足ふたあし三足みあし立ちかけた鐘巻自斎が、ワッと近づく人声に、何事かと解げせぬ顔で見ていたのは、殺気立って来る由良の伝吉の禍いを待っているのと同じことになった。

「やい武士さんぴんッ、うぬあ京極方に味方して、春日様の足を打ッ挫いた痩浪人やせろうにんだろう。この先へ行くことあならねえからそう思えッ」

と仁王立ちに大手を拡げた伝吉は、後しりえに五、六十人の人数を曳いて、自斎の前を塞ふさいでしまった。彼も憤然とした。

「何ッ! 天下の大道、誰が歩くに致せ差閊さしつかえがあろうか」

「いけねえいけねえ。たとえ天下の往来であろうと、てめえだけは通すことはならねえ、その地境じざかいから一寸いっすんでも踏み込んで見やがれ、胴と首の生別れだぞッ」

と伝吉はガッキと柄に力を入れた。

「さても呆れた暴れ者め、旅人の妨げ致すからには、汝等こそ用捨はいたさぬッ」

「何をッ」

と血気な伝吉は、抜くが早いか命知らずに自斎の真っ向へ飛びかかった。

「慮外者めッ――」

と怒喝どかつ一番、前半に帯びていた自斎の鉄扇が右手めてに持たれて、ピシリと白刃しらはの中段を払い退けた。

「うぬッ」

と横にのめッた伝吉は、青筋を立ててもう一度必死に斬り込んだ。するりと抜けた鐘巻自斎は、一方から脇差を振りかぶって来た乾分七、八人の中へ突入して、たちまちバタバタと鉄扇で叩き伏せた。投げられる者、将棋倒しょうぎだおしになる者、凄まじい砂煙が白刃ばかりをきらきらみせた。

「ワーッ、打ぶッ殺せッ、逃がすな」

と多数の激昂が、倒れる者の後から後から車返しに自斎の前後を十重二十重に囲んだ。

二度斬り込んで、二度とも苦もなく刎はね飛ばされた由良の伝吉は、無念の眦まなじりで隙を狙っているが、味方の多数に遮られて近寄ることが出来ない。

自斎の鉄扇は時を経るほど、縦横無尽の快速を加えた。大海原の狂瀾がいかに寄せても返しても、揺ぎもせぬ岩根のようだ――。そのうち緩まどろいと思ったか、鉄扇を捨てて無手を翳かざした自斎は、飛燕の如く身を屈めると、もう渦を巻いてる多勢の思わぬ所へ姿を現わし、寄る奴当る奴の襟首えりくびとって、人を人へ投げつけはじめた。

「駄目だッ駄目だッ」

とそれに怯ひるんだ者の弱音に、浮足立った烏合うごうの群はしばらくジリジリに押し戻していたが、どッと崩れ立つと一人も残らず雲霞と逃げ散ってしまった。

追う気もなく、騎虎の勢いで自斎が四、五丁駈け散らして来たが、益もないことと思い返して、そこから見えた川床へ、渇いた喉を潤うるおしに降りて行った。

すると、その後から篠しのに掴まって一人の男が、音を忍ばせてずるずると尾けて行く――見れば由良の伝吉だ。

自斎もそれには気づかなかった。河床の岩に両手をついて、底の水草が透すきとおって見えるほどな清冽な流れを見た。そして片手を濡らして汗ばんだ鬢の毛を撫でつけ、流れへ臨んで少し身を逆さかにしながら口そそごうとした途端。

「こん畜生ッ」

と腕に覚えの由良の伝吉が、無念をこめて真背後まうしろから、鍔もと深くふり下ろした二尺八寸の大脇差。

ヒュッと風を切ったも目瞬まばたきするより早かった――がそれより目に止まらなかったのは、切尖の下りた間髪に、くるりと巌いわの横へ抱きついた自斎の神速――同時に、ドボン! と河中へ水煙りが上がって、飛沫ひまつの水玉が自斎の全身へ滝のようにザッと降った。――見れば、自斎がいた跡に八、九寸深く切り込んだ大脇差が、巌へ喰いこんだまま主ぬしを失って残っていた。

「大胆な奴じゃ……」

と自斎は河へ眼をやった。投げ込まれた由良の伝吉は、浅瀬の岩に引ッかかって、仰向けに浮きつ沈みつして見えたが、どこかを岩で打ったらしく、まったく気絶している様子である。

「こやつ一人は最前から、町人に似気なく骨っ節の強い男じゃが、このまま抛って置けばいつか気がつくであろう……」

と自斎は独り頷いて、そこを立ち去った。

しかしこのために、彼は福知山へ行くことは思い止まった。この様子では城下の者は、より以上興奮をしているに違いない。そこへ春日重蔵の容態を見舞うのは、かえって彼に皮肉と苦痛を与えに行くようなものだと、深く反省したからであった。

そこで、路を代えた鐘巻自斎は、鬼おにヶ城じょう峠を越えて梅迫うめさこから綾部を廻り、京都路へさして行ったらしいが、後の消息はこの地方に絶えてしまった。

五

柳端の春日重蔵の道場は、この頃、竹刀しないの音もしなくなって、ひっそりとしていた。

奥の一間には重蔵が足を療治して寝ていた。

「残念だ……残念だ、この足さえ満足に立てば」

と、彼の男泣きに呟やく声が、時々囈言うわごとのようにそこから洩れた。ある時は狂者のようになって。

「も一度この足を満足にして、鐘巻自斎を打ち込まねば、切腹して死ぬにも死なれぬ」

と叫び狂うことさえあった。

藩主からは時々典医を見舞によこした。正木作左衛門も余暇ひまさえあれば来て慰めたが、弟の新九郎は、さすがに気が咎めるのか、相変らず奥に籠って人に面を合せたことがない。

その新九郎には、また新九郎の懊悩があった。或いは兄の重蔵以上の苦しみかも知れない。

この頃、千浪は目立って新九郎に元のような態度を見せなくなった。彼女は明かに恋を裏切って来ているのだ。――今日こそ、どんな手段をしても千浪に会わねばならないと彼は心を決めた。

「兄上――」

と新九郎は、閾越しきいごしに重蔵の居間へ華やかな姿を見せた。

「何じゃ」

と横臥した重蔵は、苦痛に瘠せた蒼白い顔をわずかにこっちへ向けた。――定めし肚では、この新九郎が武士らしい武士ならばと思うのであろう。

「兄上――ちょっと外出致しまする……」

「どこへでも参るがよい……」

と、重蔵は投げるように云ったが、

「まア待て、ここへ来てくれ」

と不意に云い直した。

「何かご用でござりますか」

「そのほうは兄がこうなっても、口惜しいとは思わぬか」

「は……」

新九郎は俯向うつむいてしまった。

「いやさ、聞けば足軽や町人でも、今度のことは、残念じゃ、無念じゃと云うているそうじゃが、そちが女子おなごならまだしも、天晴れ武門の若者でありながら、この場合、そのような派手な衣裳の袖を振って歩いたら、世間の人が何と云おうぞ――お父上の名を思え! 兄の心にもなってくれ。新九郎ッ、なぜそちは女に生れてくれなかった」

と重蔵は唇をわななかせた。

「…………」

新九郎は手を膝に組んで、人形のように素直にうなだれたままである。兄に対しては口ごたえもせぬほど彼は素直であった。それが重蔵には、頼りにならぬ弟と、いつも諦めさせる姿であるのだ。

しかし、今日は重蔵もひどく興奮していた。

「その年になりおって、撓刀しないの持ち方も知らぬ弟、不具の兄、二人揃って笑われ者になりおるより、新九郎ッ兄の頼みじゃ、腹を切れッ」

「げーッ」

と彼は身慄みぶるいして飛び退こうとしたが、袴はかまの裾は床から伸ばした兄の手にかたく掴まれてしまっていた。

「騒ぐことはない。武士の家に生まれたは汝にとっては不倖せ、生恥かいて何の面目があろう、死ね! 頼みじゃ」

「あッ、兄上ーッ」

「ええッ情けない奴め!」

と枕元の脇差へ重蔵が手を伸ばした隙に、新九郎は色を失ってばたばたと玄関から表へ逃げだしてしまった。

六

夜更よふけの拍子木が廻った。正木作左衛門の角屋敷の黒塀へ、貼はりついたような人影が、身動きもせずに佇たたずんでいた。それは春日新九郎であった。

彼の頭には今、千浪に会うという一念より他なかった。今日、出がけに云われた兄の言葉も、世間も、武士道も、そんな意識は一切、恋の熔鉱炉ようこうろへ流れ込めば燃える単一な情炎の色よりほか何物でもない。

今宵こそ千浪の部屋へ忍び込んで、この間から幾通もお常の手から渡した手紙に、返事もない不実を責めよう――と見廻ったけれど、越えられそうな場所がないので、彼はしょんぼりと塀に倚りかかって、彼女の姿を見る手段を考えていたのである。

ポトリポトリと若葉が降らす雫しずくの音に、夜の静けさは増して行った。――とかすかに、ギーと啼くような木戸の音がして、屋敷の中から星月夜の薄暗がりへ、そっと抜け出して行く者がある。

新九郎は、ハッと動悸を高めて、物蔭へ身をひそませたが、向うへゆく後ろ姿が、どう見ても千浪の細ほっそりした型かたちに間違いないので、時やその他の不合理を疑う余裕もなく、すぐ身をひるがえして後を追って行った。

さきの影は、女とも思えぬ迅さであった。新九郎は、途中でふと千浪ではないかしらと遅疑おくしたが、音無瀬川おとなせがわの縁へりへ出た時、川面の水明りでいよいよ彼女に間違いないことを知った。

それにしても、千浪はこの夜更けにどこへ行くのだろう? しかも一人で――新九郎は眩めくるめくほどの嫉妬を感じた。淫婦めッと心に罵りながら、他の男と密会するところを突き止めた上の覚悟まで考えながら走りつづけた。

×

そそり立つ神代杉じんだいすぎの真っ黒な影が、星の空を狭めているので、男山八幡の広前は漆うるしのような闇であった。ただかすかに拝殿の古御簾ふるみすを洩れる灯影が、階下に跪ひざまずいた一人の女の祈念へ、ほのかな神々しさを流していた。

半刻はんときあまりも、一心不乱の祈願をこめた女は、やがて立ち上がって小刻みに戻りかけると、

「千浪殿――」

と物蔭から出て来た男が、犇ひしと女の片手を握りしめた。

「おお! 新九郎様」

と千浪は、それが曲者くせものであるより以上に愕おどろきの眼をみはった。

「どうして貴方はこれへお出いででござりました」

「いや、それよりそなたこそ、どうして拙者につれなく召さる。いつかのお言葉、ありゃ反古ほごか」

と痛いほど、握った手を強く振りながら云った。

「にわかに打って変ったこの頃の素振りはどうしたもの? さ、それ聞きに参ったのじゃ」

「…………」

「言葉もないのは変心致されたな!」

と声のあとから熱い息が弾はずんだ。明るい所であったら、その眼も怖ろしく血走っていたろう。

「…………」

「なぜ拙者にばかり物云わすのじゃ――ああ騙だまされた、愚かな男はそなたに騙されていたのじゃ。――淫婦! 淫婦め」

と激した新九郎が、とんと胸をついたので、千浪は、よろよろと倒れるなり、ワッと声をあげて泣いてしまった。

「何を泣く? ても白々しらじらしい……」

「し、新九郎様ッ――あなたはお情けないお方でござりますのう」

と、千浪は胸の底から衝き上げるような声で、

「お手紙をお返しせぬのも、お目にかからぬようにしている辛さも、唯々お身のお為を思う私の一念でござりますものを……淫婦の、騙されたのとは、あ、あんまりな、お言葉でござりまする……」

「こりゃ異いなこと、何が、それが拙者の為じゃ」

「さ、ようお考え遊ばしませ。お兄上様のこの度のことから、世間は何と考えましょうぞ。重蔵様程のご舎弟ゆえ、今にきっと兄上に代って天晴れなお腕前になるであろう。兄に代って鐘巻自斎を打ち込むであろう――そして福知山方の誉れを取り返す者は、新九郎様でなくてはならぬと思うが真まことでござりまする。それを微塵みじんもお心にないは、余りと申せば腑甲斐ない、武士に珍らしい腰抜けじゃと、父さえ蔭で申しまする……それを聞く私の切なさ……く、く、口惜しさ……」

と嗚咽おえつに交じった千浪の言葉は、女らしいうちにも抉えぐるような鋭さがあった。

「そのお心の醒めるよう、誠の武士の魂が甦よみがえりますようと――この男山八幡へ、父上の眼を偸ぬすんで、夜な夜な祈願をこめるのも、飽くまで誓った良人と思えばこそでござります。新九郎様、これでお疑いは晴れる筈でござります」

「ああ拙者は恥かしい男のう……」

「そこへお気がつきましたら、どうぞ重蔵様にも勝る剣士、鐘巻自斎にも優れた名人におなり遊ばして下されまし」

「……が、我ながら、どう気を取直しても、生れつきの臆病と見えて、剣つるぎの音を聞くだに身が縮む。何でそのような大望が果されよう……」

「その弱いお心が悪魔でござります。殿御の一心で出来ぬことがござりましょうか」

「たとえ何ほど申されても、剣術嫌いは天性じゃもの……それより新九郎が切なる頼みじゃ、千浪殿、どうぞ拙者と死んで下され」

「エエッ」

と千浪が、愕きに身を反そらしたのを、逃げると思ったか新九郎は固く袂を掴んで、

「そなたと死ぬなら怖ろしくもこわくもない。拙者の望みもそなたよりない今じゃ! 生きて武士の約束に縛られるより、二人でなら美しい夢見るように死んで行ける。それが増しじゃ、どうぞ拙者の手を取って、この世から遁れてくれ」

「…………」

「よ、千浪殿――」

と物の怪けにつかれたかのように、狂おしくなった新九郎は、生れて初めて抜いた己れの脇差を、ギラリと千浪の胸へ擬ぎしながら、

「刺し違えてくれい」

と、自分も仰向いて、白い喉を示した。

七

その日の夕暮、同じこの男山八幡の境内を、参詣するでもなく、うろついていた一人の浪人があった。――面貌おもては深い熊谷笠くまがいがさに隠して唇元くちもとも見せないが、鉄納戸てつなんどの紋服を着た肩幅広く、石織の帯に大鍔の大小を手挟たばさみ、菖蒲革しょうぶがわの足袋に草履がけの音をぬすませ、ひたひたと一巡りしてから、どこともなく立ち去った様子であったが、夜更けてからまた同じ姿の輪廓を、星明りに浮き立たせて来て、魔魅まみの如く千浪の影に添っていた。

無論、そんな気配けはいは、夢にも知らぬ二人であった。

「ち、千浪殿、刺し違えて下されい――」

と新九郎の声は悲痛そのものであった。右手めてにかまえた切尖きっさきは千浪の胸の前で、ただわくわくと顫ふるえていた。

「そうじゃ! いっそ……」

と千浪はその刃から、一寸も退のいてはいなかった。どこまでも失わない理性を澄ませて、新九郎のふるえる脇差の手頸を握った。そして自分の右手は懐剣をギラリと抜き持って、もう死顔になっている男の喉へピタリと向けた。

「乳の下を……乳の下をお外はずしなさりますな」

きらりと――互いの白刃が綾に閃ひらめいたかと見えた刹那、ぬッとそれへ現れた浪人の片足が、二人の腕を下からぱッとすくい上げた。

「あッ」

ともぎ離されて仰向けになった二人は、雲突く男の影と三悸みすくみになって、しばらくじっと無言の闘争を張りつめていたが、千浪は懐剣の柄を固くして、

「なに意趣あって足蹴あしげにしやッた! 御身は一体何者じゃッ」

と木魂こだまするほど、鈴の声を強く投げた。

「千浪――」

と熊谷笠のうちからも、その時はじめて錆さびた声音が洩れた。名を呼ばれて千浪は恟ッと、

「な、なんじゃと?」

と、眸をみはった。

「そちが忘れている筈はない。如意輪寺裏の梅月夜に、敢えなく見遁した大月玄蕃じゃ」

「えッ」

「これッ、今宵は、金輪際こんりんざい逃がさぬぞ、元と違って、今の玄蕃は、三界流浪の浪人、腕ずくでもそちを連れて他国へ走り、想いを遂げる覚悟で先頃からつけていたのじゃ!」

「ええ聞くもけがれ! この千浪には、春日新九郎という誓ったお方がありますわいの」

「おおよい良人を選ばれた。兄重蔵を不具かたわにされても、仕返しも出来ぬ腰抜け武士、丹波丹後に評判な臆病侍の新九郎がそちの良人か――あはッははははは」

今まで石のようになっていた新九郎は、この大月玄蕃の面罵を受けて、かつてない反抗的な血がじくじくと骨の髄ずいから吹き出して来るのを覚えた。その血潮は、ふだんの柔弱を滅却して、敢然と、彼の気愾きがいを立派に叩き直した。

玄蕃は飽くまで憎面にくていに睥睨へいげいしている。

「そんな男に心中立てするより、死にたいという新九郎は、一人で勝手に死なしてやるがいい。千浪、そちには身共が用がある、くだらぬ命をむざむざ捨てさす訳には行かぬぞ」

「慮外な言葉、誰がお身如きにこの身の指図を受けようぞ! 死んでも悪魔の妻にはならぬ」

「それは女の月並文句、強い男の腕で抱きしめられたら、もう羽翼はがいの力も抜けて、今の言葉は忘れるだろう。玄蕃に従え」

「いやじゃッ」

「身共と一緒に、こう来るがよい」

「無礼しやるなッ」

――と千浪はとられた腕を振りもぎって、右手めてに隠していた懐剣の柄もとおれと胸元目がけて突いて行った。

「猪口才ちょこざいな」

と、玄蕃は体たいを開いて、閃光を目当てに、グッと腕頸うでくびを掴んだ。千浪は必死に、

「新九郎様ッ、悪人の刃てにおかかり遊ばすな!」

「ええこの邪魔者ッ、うぬから先だ」

と玄蕃は、鬼丸包光かねみつの大刀を抜き打ちに、新九郎めがけて、颯さっと斬りつけた。

「あッ――」

と新九郎は目をつぶって、右手めての脇差を夢中で横にふった時、ガッキと散った火花が眸を焦やいた。

「騒ぐな!」

――玄蕃の目からは嬰児あかごにひとしい新九郎が、立ちよろけた胸先へ、二度目の太刀が風を切った時、アッとさけんだ彼の手を、ふわりと千浪の手が握った。それも夢心地で、飛鳥の如く、二人は、闇を衝いて駈けだしたのだった。

「おのれッ!」

と玄蕃は、木の根に躓つまずいた間に、七、八間も離れた二人の影を怒気凄じく追いかけた……たたたたたと闇の底を打って行く跫音の先に、轟ごう――と岩に湍せく水音が聞こえた。

そこは、音無瀬川の断崖であった。

紫紐むらさきひも・大願だいがんの元服げんぷく

一

静かに、無数の渦を描いて、音無瀬おとなせの水が憩やすらかによる鷺ヶ淵は、まだ峯間みねあいから朝の陽も覗かないので、ほのかな暁闇の漂う中に、水藻の花の息づかいが、白い水蒸気となってすべてを夢の世界にしていた。――その寂寞せきばくを破って、本流から矢のように淵へそれこんだ小舸こぶねの上で、二人の男が大声を飛ばし合った。

「やいやい、そう艫ともを突くない艫を! 見ろッ、舸ふねが廻っちまったじゃねえか」

「突きゃあしねえよ、何か舸脚ふなあしに引ひッ搦からんだようだぜ、兄哥あにき、俺が岩に舫もやっているからちょっと見てくんねえ」

「何? 藻もだろう。こんな所へ突ッぱいりゃあ、碌な事あありゃしねえ……おやッ」

「何だ! どうしたい?」

「兼かねッ、早く手をかせよ、人間だ人間だ」

「えッ仏様か――」

と二人が舸縁ふなべりから身を逆さかにして、ズルズルと手繰たぐり寄せたのは麻葉あさのは鹿かの子の扱帯しごきであった。

「女だ……女らしいぜ兼、も少し舸ふねを後へ突いてくれ、下になっちゃった」

とグルリと一つ舸を廻すと水藻の網を被った死骸がゆらゆらと浮いて出た。

「それッ」

と二人は手を揃えて、やっと舸の中へ拯すくい上げて見ると、女と思いきや前髪立ちの美少年で、水に浸ひたされて蝋より白くなった顔に、わずかな血の痕が黝くろずんでいた。

「兼、いい男だなあ」

「だけれど今の扱帯は女物じゃねえか。きっと対手あいてがあるに違えねえ」

「そんなことを云って死骸の数ばかり多く助けたって仕方がねえ、この男だけでも何とか早く息を吹返させる工夫をしなきゃならねえ――兼、こうしよう、とにかく舸を着けて、親分の家へかつぎこんだ上、出直してから女の方を探そうじゃねえか」

「いい所へ気がついた。じゃ少しも早くだ!」

と鮮やかな水馴棹みなれざおは、たちまち舸を本流へ出して、向う岸へと突ッ切って行った。

二

春日新九郎は、何の機会はずみかぽかりと眼を開いた――そしてその瞳をだんだん大きく瞠みひらいていた。瞬きもせずに――

まず眸の真上に杉柾すぎまさの天井が見えた。長押なげしには槍、床には紫の杜若かきつばた、白衣びゃくえ観世音の軸へ、切り窓から朝か夕かわからぬが、とにかくこの世の光が射していた。正しくそれはこの世の光だ、白衣観世音も槍も杜若もたしかにこの世の物に違いない……して見ると自分もまだそのなかの実在かしら? 死んではいないのか。

しかし、たしかに自分は死んだのだ。大月玄蕃の毒刃に追われて千浪と抱き合ったまま音無瀬川へ身を投げた――その記憶まではあるが、後のことは何の覚えもない――そしてふと気がついて見ると、仰向けになって寝ている体を、柔かい絹布けんぷが包んでくれてる。この絹布も一体誰の情けの物だろう。

と、みしりみしり、廊下を踏む音がして来た。

「おう、お気がつきなすったようでごぜえますね」

と静かに襖ふすまを開けて入って来たのは、主あるじの由良の伝吉であったのだ。

「先程、好い按配に薬が落ちたから、一刻もたったら気がつくだろうと、医者が云って帰りましたが――どうでごぜえますご気分は」

「は……はい、これはどなたか有難うございます」

「お顔の色ももう大丈夫、どうか気を大きくご養生なせえまし。ここは湧井郷わくいごうで、わっしは由良の伝吉という者、昨日の朝乾分こぶんの奴が、鷺ヶ淵から貴方をお救い申して来たのでごぜえます――見れば柳端の先生のご舎弟、わっしあびっくり致しやした。これには深いご様子もごぜえましょうが、何より体を癒なおすのが第一、その上で及ばずながらとっくりとご相談対手あいてになりやしょう」

「……忝けのうござる……」

新九郎は、千浪のことがちょっとでも知りたかったが、胸につかえて、云い出せなかった。

体は日に増して恢復して行ったが、心の苦悶は肉体と反対に日夜、慚愧ざんきの牛頭ごず馬頭めずに苛責せめられた。殊に千浪の死骸さえ分らないと聞いた時、彼は、舌を噛もうとさえ思ったが、その時、率然と、新九郎の耳底から、生ける恋人の顔がよみがえって来た。

(女の一心さえ恋を遂げます。男の一念で成就せぬことがありましょうか、何故あなたは不具かたわになった兄上に代って一度でも鐘巻自斎を打ち込み、松平の名誉を上げ、福知山の人々の悲憤を晴らしておやりにならぬのです! それが腰抜け武士、臆病侍と、世間の嘲笑の的まとになってるあなたをも、一番生かす道ではありませんか)

「そうだ! 拙者の行く途みちはそれだ!」

新九郎は心で叫んだ。翻然ほんぜんと大悟した彼は、無明むみょうの闇やみから光明の中へ、浮かみ出したような気持がした。

思い立っては矢も楯も堪らなかった。情死しんじゅうの片残りという不甲斐ない身を、一日も晏如あんじょとしている恥かしさに耐えなくなった。

その夜新九郎は、ひそかに三通の書面を認めた。一通は伝吉へ、一通は千浪の父作左衛門へ、最後のは不遇な兄重蔵へ宛てたものであった。

そして、旅仕度も着のみ着のまま、彼の姿は、暁方あけがた近くに、伝吉の家の裏木戸を出て、行方知れずになった。

三

「親分へ、飛んでもないことが出来ましたよ」

と夜が明けてから、新九郎の部屋を覗いた女房のお藤が、顔色を変えて伝吉へ告げに来た。

「朝ッぱらから、何を慌てていやがるんだ」

「だって親分、新九郎さんが見えませんよ」

「何?」

と伝吉もさッと蒼くなった。

「裏木戸が開けッ放しで、この手紙が残してあるだけですよ」

とお藤からそれを手渡された伝吉は、腰が抜けたようにどッかと大胡坐おおあぐらをかいて、封を切る手さえふるえていた。

てっきり、千浪の死を慕って行った。――彼の直覚はそう閃めいたのであった。ところが一字一字、読んでゆくうちに、見事その直覚は裏切られて、はらはらと感激の涙さえこぼしてしまった。

「偉い!」と彼は呻うめくような感嘆の声を上げて、

「お藤、それから、野郎どもも、まあここへ来てこの手紙を読んで見ろ!」

と伝吉は一人の讃嘆では物足らずに、一同を呼び集めた。

「どうだ、男はこう来なくっちゃ本物じゃねえ。新九郎さんは武者修行に出たんだ。たとえ五年が十年でも、鐘巻自斎を一本打ち込まねば、胆きもを舐なめても修行を続けると書いてある。見上げた者だ、恐れ入った」

と、彼はひそかに、前から乾分たちに新九郎は見込みがあると云った先見の誇りを感じた。そしてにわかに出支度して、

「お藤、俺あすぐ手紙を持って正木様と重蔵様お二人を欣ばせて来るから――」

と雀躍こおどりせんばかりに福知山の城下へ急いだ。

真ッ先に柳端の春日重蔵の道場へ来てみると、意外にも空家になっている。隣家で訊ねると、重蔵は武芸者として再起の望みのない体を悲嘆の余りと、弟新九郎の噂に対する申訳に、剃髪ていはつして如意輪寺の沙門しゃもんとなってしまったということであった。伝吉は止むなく、その足で正木作左衛門の屋敷へ行き、庭先へ廻された。

「おお伝吉か、先頃は千浪の不始末、其方にもいろいろ手数てかずを煩わしたの」

と縁先へ出て会った作左衛門は、おそろしく窶やつれていた。

「どう致しやして、せめて千浪様のお死骸なきがらでもと、随分手分けを致しましたが、その甲斐もなく定めしお心残りでごぜえましょう」

「いやいや、不義の娘に未練はない。ただ気の毒なは重蔵殿じゃ、思うても腸はらわたが煮え返る……」

「それについて旦那様、たった一つのお欣びがごぜえます――委細はこれをご覧なせえまし」

と伝吉は携たずさえて来た一通を差し出した。

「何じゃ? こりゃ不義腰抜けの新九郎から拙者への書面か――ええかような物は見る気もせぬ」

と作左衛門は手に取ろうともしなかった。

「まあとにかく、読んでだけはお上げなすって下せえまし」

と伝吉の言葉に、作左衛門は不承不承袂たもとから眼鏡を出して読みはじめたが、手紙を置くと、はッたと膝を打って、

「うーむ、やりおったやりおった」と表情しきれぬほどの喜びを溢れさせて、

「これでこそ武士! 春日重蔵殿のご舎弟じゃ、天晴れ鐘巻自斎に勝る腕前にもならば、君公きみをはじめ、福知山藩全体の大きな誉れ、娘の千浪も名分が立つと申すもの……」

と作左衛門の欣びは尽きなかった。

そして慌ただしく奥へ入った作左衛門は、一封の小判と印籠、それに来国俊らいくにとしの大刀を添えて伝吉に差し出した。

「折入っての頼みじゃが、定めし世馴れぬ新九郎が、永い武芸修行は困難であろうと存ずる……今朝立った道はおおかた京都路であろうゆえ、其方の足で追い着いて、大儀ながらこの三品を渡して遣わしてくれぬか」

と、わが子にも等しい思いやりで云うのであった。

「承知致しました。定めし新九郎様もお喜びでござりましょう」

「ただ、面会の節は、必ず一念成就致せ――と、この一言いちごんを餞別に伝えてくりゃれ」

「へへッ、確かに承知致しました。したが、重蔵様へのもう一通は? ……」

「おう、それは拙者が如意輪寺へ参ってお手渡し致そうぞ。重蔵殿もこの由、お聞きになったら定めしご本望のあまり、嬉し涙に暮れるであろうわい」

やがての後、作左衛門は如意輪寺へ駕を向けた。その時、もう由良の伝吉は身軽な旅仕度となって、新九郎の後を追って京都路へと急いでいた。

四

承応元年六月初旬はじめの暁あけがた。

由良の伝吉の裏木戸から、再生の一歩を踏み出した春日新九郎は、但馬街道を東にとって、生野から兎原うはら越えして檜山宿辺りへ来るまでは、ほとんどわき目もふらずに歩いた。

もし、怪しむ者あって、「汝は何処いずこへ?」と聞いたら、彼は言下に、「鐘巻自斎に一剣を見舞う為」と明答したであろう。――それ程、緊張はりつめた気持であった。

埴生村はにゅうむらの村はずれで、茶店に腰かけて空腹すきばらを癒いやした時、新九郎は初めて旅にふさわしからぬ己れの仕度に気づいて、草鞋を買い袴はかまの股立ちをからげたりしていた。

奥を覗くと、ちょうど茶店の亭主が髯を剃あたっている様子、新九郎は頷いて小腰を屈かがめた。

「ご亭主、折入って頼みたい儀がござるが……」

「はあ、何でごぜえますな」

「誠に恐れ入るが、その後で拙者の前髪をおとしてはくれまいか」

「へえ! 月代さかやきをお取り遊ばすので?」

と亭主は怪訝けげんな顔をした。

「そうじゃ、世話であろうがやってくれい、前髪姿では道中とかく馬鹿にされるでの」

「宜しゅうござります。じゃこちらへお掛けなせえまし、その代り素人しろうとでがすから痛いのはこらえて下さっしゃい」

と亭主は剃刀かみそりを研とぎ直なおした。

十九という歳としまで半元服で、前髪振り袖で暮らした軟弱な記念を、この日に剃り落すということは、新九郎に大きな意義があった。どんな武家の元服の場合より、偉大な覚悟を持っての元服であった。

「どうでがす。痛かあごぜえませんかな?」

「いや、よう剃れる剃刀じゃ……」

と新九郎は、惜し気もなくバラバラと膝に落ちてくる黒髪に、感慨無量の眼を落していた。――青々とした月代が、見る間に綺麗に剃り上がった。髷まげは根元を紫紐でキリッと結んで、ふっさり後ろへ切り下げにした。

そこへ、どかどかと五、六人の百姓が、喚わめきながら駈け込んで来たが、新九郎の姿を見て、

「おおお武家様がいた。お武家様がござらっしゃる」

と口々に云った。中の一人は新九郎の足許へ平つくばって、

「お見かけ申してお願ねげえがごぜえます。この村の者でがすが、今向うへ行く三人連れの侍がありますだ。そいつらは、この先の斑鳩嶽いかるがだけに巣を喰っている山賊も同じような悪郷士で、私どもの娘を二人召使に寄こせと、抜刀ぬきみで脅して山へ引ッ張って行こうとするのでがす。お武家さま、どうぞお助けなさって下さいまし、お助け下さいまし」

とその親らしい百姓は、眼さえ濡らして騒いでいる。しかし、一人前の武芸者と見られて、哀願された新九郎は内心はッとしないではいられなかった。対手あいては三人の悪郷士、自分はまだ剣道のけの字も覚えのない身だ。

「そりゃ気の毒なことじゃ。よし、娘は拙者がとり戻して進ぜよう」

彼は勇敢にそう云いきってしまった。

すべては自分の腕を鍛える修行だ。今日からは、浮世のあらん限りの困苦を甘んじて受難する身だ。必死となれば大月玄蕃の鋭い白刃しらはさえかわしたではないか。――と新九郎は、この冒険に向う欣よろこびに顫ふるい立った。

「ではお助け下さいますか。有難うがす、みんなよ、お武家様が行ってやると仰っしゃるだ」

「有難うごぜえます。どうぞ二度と村へ足踏みしねえように懲こらしてやっておくんなさいまし」

「案内致せ」

新九郎は大刀を握りしめて立ち上がった。しかし、さすがに三人を対手あいてに斬合うとなれば、いわゆる、初陣の時の武者ぶるいというような肉のしまる気持を覚えないではなかった。

×

この埴生村はにゅうむらは、亀岡二万石の領地端れの僻村へきそんで、小大名の行政も行届かないところから、それをつけ込んで斑鳩嶽いかるがだけに山荘を構えている雨龍あまりゅう太郎という乱世時代からの郷士が、一族一廓をなして領主もないがしろな横暴を振舞っている。

表面は生野銀山の加奉役と触れているが、実は千坂ごえの旅人を脅かしたり、銀山から京師を荒らしまわる強賊であるという噂が専らであった。

今も、泣き叫ぶ二人の娘を、腕ずくで山荘へ連れ帰ろうと、村端れまで引ッ張って来た三人の凄い浪人体の者は、後ろからワッと鯨波ときの声が起ったので、振り返ると一人の若い侍を真ッ先に十数名の百姓が得物えものを持って追いかけてくる様子に、早くも松の木に娘を縛りつけた三人は、来たらば微塵みじんと身構えていた。

見る間に駈け寄ってきたのは春日新九郎、青額あおびたいに紫紐の切下げ髪は余り美貌過ぎて、不敵な郷士の度胆どぎもを奪うには足りないが、勇気は凜々りんりんとして、昔の新九郎とは別人のように、

「やあそれなる浪人輩ろうにんばら、白昼良民の娘を誘拐かどわかすとは不敵至極、渡さぬとあれば用捨はならぬぞ」

と大刀を閂かんぬきに構えて、云い放った。

「黙れ青二才ッ、誘拐すとは何事だ、召使に致すため連れて行くのが何で悪い」

「要らざるところへ出しゃばると、その細首を叩き落すぞ」

と三人は歯を剥むいて罵った。

「ではどうしても渡さぬと申すか」

「馬鹿めッ、くどいわ」

「欲しくば腕ずくで来い!」

「おお腕ずくで取る!」

と、新九郎は一足退のいて、大刀を抜き放ったが、錬磨のない腕前の悲しさ、鯉口を切るか切らない先に、敵の一人が抜き撃ちに、

「真ッ二つだぞッ」

と叫んで躍りかかって来た。はッと新九郎の足は、我れ知らずもう一足飛び退いたところを、横合から大勢の百姓が、

「それッお武家様に加勢しろ」

とバタバタとふり込んだ竹槍が、盲ら当りに、一人の郷士の腰を払いつけた。

「己おのれ不埒ふらちな奴めッ」

と打たれた郷士は新九郎を捨てて、どっと百姓の群へ突き進んで、まえの一人を袈裟けさがけに斬り捨てた。

「わッ太助が殺やられたッ」

と血に脅えた一同は、意気地もなく蜘蛛くもの子と逃げ散ったが、新九郎一人は抜き放った一刀を両手で握って、前へ突き出したまま、退く気色を見せなかった。

「やあこの青侍め、剣術を知らねえな」

と郷士の一人は構えを見て充分に見くびりながら、

「なぶり斬りには打ってつけな奴だ」

と真ッ向から斬り下げて来た鋭さ、新九郎はここぞと持った刀でピュッと横に打ぶッ払った一心の力、グワンと音がしたかと思うと、対手あいての刀は七、八間も横へすッ飛んで行った。

後の二人は烈火の如く憤った。三尺近い大刀を新九郎の左右から振りかぶって、

「小僧ッ、観念しろ」

とばかり斬りつけた。新九郎にそれを防ぐ秘術はない。――あなやと見る間に、彼は咄嗟にばらばらと駈け抜けて、五、六間けん向うで、また一刀を前のように持って、こっちへ向き直った。そして、

「いざ来い!」

と、叫んだ。

「こやつ、卑怯な」

と二人は続いて斬りかかった、新九郎も矢車のように、刀を振りまわした。剣道の法則から見れば全然滅茶苦茶ではあるが、彼は必死だ、先に踏み込んで来た一人の刀をハタキ落す。アッと拾いかかるところを、新九郎はここぞ狙いどころと、その背へズーンと斬りつけたが、敵のからだに刀が当ると、背みねが返って肉は切れなかった。しかし一念の力に郷士はワッとへたばった。新九郎ものめり込んだ。

「この野郎」

とその隙を後の二人が柄手つかでに唾つばをくれて、八方から斬りつけようとするところへ、傍らの雑木林の樹蔭で、最前から様子を見ていた一人の六部が、杖に仕込んだ無反むぞりの太刀をキラリと引き抜いて駈け寄りざま、電光石火に郷士の一人を梨割りに斬って捨て、あッと愕おどろく次の奴を、返す一刀で、腰車を横に一文字、見事に薙なぎ払った。

五

この瞬間の早技には、新九郎が一太刀の助けさえ入れる隙がなかった。

彼は六部の鮮やかな腕前に感嘆して、足許から逃げ出した残る一人の郷士を追い撃ちに切りつけたが、二度とも切尖きっさきが届かず、その間に遠く逸してしまった。

「あいやお武家、一人や半分の鼠賊そぞくは追うことはござらぬ」

と、六部は、新九郎の後ろから呼んだ。

「これは思いがけないご助勢下され、忝かたじけのう存じまする」

新九郎は立ち戻って、丁寧に会釈をした。

「幸いに、お怪我けがもない様子、何よりでござった」

「有難う存じまする。お恥かしい次第でござるが、まったく剣道の心得なき某それがし、貴殿のお助太刀なくば、すでにも危ういところでござった」

「いやいや、最前とくとお見受け申すに、法はずれながら其許そこもとの切尖には、云うに云われぬ天質の閃きがあるやに存ずる。必ずとも一念にご出精あれば、天晴あっぱれなお手筋になられましょう」

「これは恥じ入るお言葉でござる。しかし、失礼ながら六部殿の唯今のお腕前、これも並ならぬお方とご推察致しまするが」

「いかにも、かかる姿でこれへ参ったも深い仔細のある儀でござるが、とにかくあれなる娘二人を助け返した上、ゆるりとお打ち明け致そう」

と、六部と新九郎は樹に縛くくられていた二人の娘をほどき、猿轡さるぐつわを解いて家へ帰させた。

「まずそれへお坐りくだされい。ここなれば人目もござらぬ……」

とその後で、六部は雑木林の中へ新九郎を導いた。そこには彼の笈おいが置き残されてあった。六部はその傍に坐って、

「実は何をお隠し申そう、拙者は亀岡の有馬兵部少輔ありまひょうぶしょうゆうの家臣、戸川志摩とがわしまと申す者でござる」

と名乗った。新九郎はさもある人と頷いた。志摩は言葉をつづけて、

「そこもともお聞き及びであろうが、当地の斑鳩いかるが嶽に山荘を構えている雨龍太郎と申す奴、多くの浮浪人を狩り集めて、悪業至らざるなき風聞でござるが、とても代官などには取締りもつかず、主人兵部少輔と苦心の上、実は一策をめぐらして、かく拙者が姿を変え、きゃつらの様子を探りに参った次第でござる」

と物語った。新九郎は戸川志摩の大胆さに愕おどろかされたが、危地を救ってくれた恩人の目的に、何とか自分も力を添えたいと思った。

「それは容易ならぬご使命でござります。ところで如何でござりましょう。拙者は丹波浪人の春日新九郎と申す者、武芸未熟を恥じて修行の旅に出たばかりの者でござるが、その山荘の探索にご同行下さりませぬか、及ばぬながらも唯今のご恩報じ、二つには、大きな修行ともなろうと存じまする」

「そりゃ願うてもなきこと、同藩の者には臆病者ばかりにて、誰一人同行致そうと申す者もなかったが、今そこもとがご一緒にお出で下さるとあれば百人力の強みでござる」

と戸川志摩も大いに欣んで、万事をそこで諜しめし合せ、やがて二人は道中の道づれでもある如く装って斑鳩嶽の麓ふもとへ辿たどった。

×

「おい仙太! まだ見えねえか」

と山袴に蔓巻の刀を打ぶッ込こんだ、八、九人の荒くれ男が、五ツ抱えもある杉の大樹を取り巻いてさっきから二度も三度も叫んでいた。

「まだ影も見えねえ!」

とその返事は、数丈上の梢の天頂てっぺんから下へ投げられた。

「不思議だなあ。やい五介ごすけ、てめえは確かにその六部と侍が麓へかかったのを見たのか」

と下に簇むらがっている男の中でも、図抜けて背の高い柿色の道服に革鞘の山刀を横たえた髯むじゃらな浪人が、一人の乾分こぶんを我鳴がなりつけた。

「ええ嘘じゃごぜえません、たしかにこの斑鳩嶽の上りへ来たのを探って来たんでがす」

「ふーむ。じゃもう来なくッちゃならねえ筈だがなあ……」

と少し静まり返っている。

「来たッ――」

と頭の上で物見の仙太の声がした。

「何ッ来た? ――」

と一同はにわかに引き緊まった顔をしていると、上から雷獣のように樹を辷り降りて来た仙太が道服の浪人に向って、

「洞門の小頭、この先へ二人の奴がやって来やした。早く手配りをしなくっちゃあ……」

と口ぜわしく云った。

「そうか。じゃみんなうまく姿を隠していろい」

と洞門の小頭と呼ばれた浪人は、一同を指揮してから、自分も熊笹の中へ姿を没して、戦そよぎもさせずに森しんとしていた。

それからしばらく、斑鳩嶽のこの山路は鳥の羽音もしなかったが、やがて何か話しながら通りかかって来た二人は、云うまでもなく六部姿の戸川志摩と春日新九郎とであった。

「新九郎殿、この分ではどうやら今宵は、山の中で日が暮れそうでござるぞ」

「たまには山に伏すのも一興でござりましょう」

「しかし、どこか夜露を防ぐところだけは目つけたいものでござるな」

と二人の声が間近になるまで、充分ためていた洞門の権右衛門はそれへ跳おどり出して、

「やい、用があるからしばらく待て」

と立塞がった。

「何じゃ、何者じゃ、そのほうは?」

「何者でもねえ、この斑鳩嶽に、その人ありと知られた雨龍の一族、洞門の権右衛門だ。よくも最前は埴生はにゅうの里で一門の者を手にかけたな」

「おお、良家の娘を誘拐かどわかそうとする理不尽りふじんな奴、それを、斬り捨てたが何と致した」

と戸川志摩は怯ひるむ色もなく云い返した。権右衛門は青筋立てて、

「おのれ云わしておけば好きな囈言たわごと、さあ、俺等の一族に指でも指した奴は、嬲なぶり殺しにするのが雨龍一族の掟おきてだ。引ッからめて頭領かしらのところへ吊して行くから観念しろよ」

「だまれッ、罪を裁くは、領主の司権じゃ。汝等如き鼠賊そぞくが掟呼ばわりは片腹いたい」

「斑鳩嶽一帯は雨龍の領土も同然、この山中に踏み込んで要なき繰くり言ごとだ。それッ」

と、洞門が片手を挙げて合図をすると、潜んでいた数十名の手下が、ばらばらと二人の前後を取り囲んだ。

「新九郎殿ッ、ぬかり給うな」

志摩は叫んで、仕込みの一刀、真一文字に振りかざしてどッとその中へ斬り込んだ。

「お案じあるな!」

と新九郎も腰なる秋水をギラリと抜いて、例の滅多打ちにふり廻した。一人二人の技わざの争いと違って多勢を対手に廻すと、この滅多打ちは意外な奇功を奏した。彼はたちまち近寄った二、三人を迅速に叩き伏せた。

すると梢の上に身を忍ばせていた賊の一人が、頃合いを計って樹上からばらりと投げたのは蜘蛛手取りの縄羂なわわな新九郎の頭からかぶせてグッと手繰たぐったので、彼はアッと叫んで摚どうと仰向けになった――そこを得たりと、乗のしかかった荒くれどもが、たちまち新九郎の両手を後ろへ廻して、鞠まりの如くに引ッくくってしまった。

「あッ、しまった!」

と一方で縦横無尽の怪腕をほしいままにしていた戸川志摩は、新九郎が縄羂なわわなの計に墜ちたと見ると、すぐ自分も太刀を納めて、

「さッ、縛れッ。この上は拙者も共に雨龍太郎の面前へ案内致せ」

と両手を自身後ろへ廻して、威猛高いたけだかに云い放った。

六

「歩けッ亡者め、もっと早く歩かねえか」

と二人の縄尻を持った雨龍の手下どもは、地獄へ凱歌を上げる獄卒のように、新九郎と戸川志摩を引ッ立って間道から間道を辿たどり、やがて蘭谷あららぎだにの豪族雨龍太郎の山荘の石門を潜くぐった。

鬱蒼たる樹木の路が、石門からやや小半丁も続いた所に、自然石の石垣築づきで小大名などは及びもつかぬ古い鉄門がある。その奥に緑青ろくしょうを吹いた銅瓦あかがねがわらの館が、後ろに聳え立つ神斧山しんぷざんの岩石に切組んで建ち、あたかも堅固な城廓の態ていをなして、見る者の眼を愕かせている。

「開けてくれ、洞門の権右衛門が二人を生捕って来た」

とその鉄門の扉を叩くと、中からギーと開けて、棒を持った番人がいちいち人数人相をあらためた上一同を入れて再びギーと閉めてしまった。

戸川志摩は心のうちで、「ああこの要害ではとても代官や領主の力ぐらいで殲滅せんめつすることは思いもよらぬ怖るべき一族だ……」と密ひそかに舌を巻いている。

「ご苦労だった。汝等わいらああっちで休んでいいから、仙太と五介は縄尻を持て」

と権右衛門はそこで多勢の者を退しりぞけ、自分が先に立って奥庭と覚おぼしき所へ廻って来ると、とある橋廊下の上から、

「おや……」

と思いがけない優しい声がしたので、その下へ来た新九郎と志摩は、何気なく振り仰ぐと、洗い髪に大絞りの浴衣ゆかたを着て、西施せいしを粋いきにしたような年増の阿娜女あだものが、姿とはやや不調和な、塗ぬりの勾欄こうらんに身をもたせて、不思議そうに美しい眼をみはっていた。

「権右、何だい、その人たちは? ……」

「あ、こりゃ姐御あねごでしたかえ」と洞門の権右衛門はちょっと足を止めて、

「こいつらあ今日埴生で、一族の者を二人まで手にかけやがったので、頭領かしらがおそろしくご立腹なすって生捕って来いと云うんで、ふん縛ってきたところでごぜえます」

と手柄顔に云った。

「まあ見りゃあ優しそうな侍に、一人は六部のようじゃないか……」

「こういう奴が油断がならねえんです。いずれ今日明日のうちにゃあ、例の所で嬲なぶり殺し、岩屋の苔こけの肥こやしになるんでさあ」

「可哀そうに……」

「憐れをかけると癖になりやす。やいッ歩け」

と権右衛門は突慳貪つっけんどんに、新九郎の背中を小突いてまた向うへ引ッ立てて行った。

橋廊下の阿娜あだな女は、片肱かたひじのせた欄干に頬づえついて、新九郎の後ろ姿をいつまでもじっと瞳の中へ溶とろけこむほど見送っていた。

「ああじれッたい! あんな男のを見ると、また山の中が嫌になるもんだねえ……」

呟きながら、横へさした黄楊つげの櫛くしで、洗い髪の毛の根を無性に掻きながら、黒曜石こくようせきの歯をならべた鉄漿おはぐろの唇くちから、かすかな舌打ちをもらしていた。

七

黒木の太柱に神代杉ずくめの原始的な館やかたではあるが、襖ふすま、衝立ついたての調度物は絢爛けんらんなほど贅ぜいをつくした山荘の一室に、雨龍太郎は厚い褥しとねに大胡坐おおあぐらをかいて、傍らにいる一人の浪人を顧みて、こう云った。

「客人、唯今これへ二人の亡者もうじゃを召し出して白洲を開くから慰みにご覧なさるがよい」

「ほう、亡者と申すと何者のことでござろうな」

と浪人はちょっと解げしかねた顔を見せた。――肩幅の広い見るからに一曲ひとくせありげな人物である。

「おわかりないのは道理じゃ。里で申す罪人を――山では亡者と呼んでおります。ひとたび雨龍の面前に引き据えた者は、生きて帰さぬ掟からそう呼ぶのでござる」

「成程、ではこの場で首を刎はねられるのか」

「いや、いつもは洞窟へぶち込んで手下の好きにさせるのだが、幸い客人は一刀流の使い手、世が世の時には指南番までしたという腕前を見たい。――この場で腕試しに二人の胴なり首なり斬ってお見せ下さらぬか」

「ははははそりゃいと易いこと、拙者が腕前をお見せする為ならば、縄目にかけた死骸同様な奴を斬るは本意でござらぬ。一人一人に得物を持たせて、尋常の太刀打ちの上、見事真っ二つにしてご覧に入れよう」

「さすがは一流の剣客者たるお心がけ、そりゃいっそ見物みものでござろう。あっぱれお手のうちを見届けた上は客人の望み通り、一族の師範としてこの山荘に生涯おいでなさろうともお心次第と致すことに約束致そう」

「これは千万かたじけない……お、あの木戸口へ見えた者どもでござるかな」

と浪人が指さす庭先へ、ぎょろりと瞳を向けた雨龍太郎は、

「そうだ」

と大きく頷いて待ち構えた。

「お頭、やっと引ッからめて参りました」

とそこへ春日新九郎と戸川志摩の縄尻を持たせてついて来た洞門の権右衛門が、

「坐れッ」

と二人を雨龍の正面に引き据えて、自分も傍へうずくまった。

「うむ。ご苦労だった。――こいつらか。やいッ面つらを上げろ」

と雨龍太郎の声は山寨さんさいを揺ゆるがすように落ちて来た。

「その生ッちろい若蔵は知らぬが、六部の方はどこかで見たことのある奴だ。はてな、やいッ、汝はただの六部ではあるまい。いや余人は知らずこの雨龍の目は掠かすめられぬ。それ権右ごんえ、奴の肩をはぐって見ろ」

「へい」

と洞門が立ち上がって、戸川志摩の襟を掴んで肩先を脱いで見せた。

「それ見ろ、あまねく諸国をめぐる六部なら、肩に笈摺おいずるの痕が見えぬ筈はない。ははあ読めた。うぬは亀岡藩の諜者ちょうじゃだな。仮面めんを脱げッ、この馬鹿野郎めが!」

と大喝して、はッたと志摩を睨み据えた。

戸川志摩は雨龍の眼力にはッとしたが、見現わされた上はかねての覚悟、早くも臍ほぞを決めて、眦まなじりを釣り上げ、きっと睨み返して云った。

「おおよくぞ見た! いかにも拙者は有馬兵部少輔の家臣戸川志摩じゃ。領主のご威光を怖れぬ汝等一族の悪業は天人ともにゆるさぬところなれば、以後改心致して上かみの命に従えばよし、さもなきに於いてはかく申す某それがしが天誅てんちゅうを加えるから覚悟を致せよ」

「黙れ黙れッ。自由もきかぬ引かれ者の小唄、今その舌の根を引き抜いてやる……客人、用意はよいか」

と雨龍は眴めくばせした。

「拙者の仕度は宜しゅうござる。彼奴きゃつに何なり得物をお与え下さい」

と浪人は後ろを向いて、手早く下緒さげおを襷たすきにとり袴の股立ちとって立ち上がった。

「権右、そいつの得物を渡してやれ」

「へい」

と洞門は手下の者にいいつけて、戸川志摩から取り上げておいた仕込みの一刀を志摩に渡すと、雨龍は冷やかに見下ろして、

「やい、六部に化けた有馬の家来、当り前なら膾斬なますぎりに致した上、塩漬の首を亀岡に突ッ返して家中に以後の見せしめとするところだが、今日は格別のお慈悲で打物を持たせてやるから、腕に覚えのある限りこの客人と立ち合って、侍らしく斃くたばるがよい。権右、その六部の縄を解いてやれ」

「お頭、大丈夫でごぜえましょうか」

「よし、拙者が引き受けた」

とぱッと縁先から飛び下りた浪人は、その時まで戸川志摩の蔭にじっと俯いていた新九郎が、ふと顔を上げたので、互いに面を見合せたが、

「やッ己おのれは? ……」

と浪人は、立ちすくんで愕然がくぜんとした。――と同時に新九郎も、

「おお汝は大月玄蕃げんばであったの!」

と手を縛られたまま両膝で立って、意外な声をほとばしらせた。

「おう玄蕃だ。汝はすでに音無瀬川に飛び込んで死んだとばかり思っていたが、さては悪運強く今日まで生きのびておったのか」

「うーむ、今はあの時の新九郎ではないぞ! この両手さえ自由になるなら、一太刀なりと千浪の怨みを酬いてくりょうものを……」

「えいッ、うぬあ邪魔だッ」

と洞門の権右衛門は、その時新九郎の縄尻をグイと引いたので、彼はあっと後ろへよろめいてしまった。

その態ていを、心地よげに見流した玄蕃は、

「はははは福知山名代の腰抜けが、人並みな広言は片腹痛い。じたばたせずとも大月玄蕃が一刀流の切尖きっさきで、この六部から片づけるから、神妙に汝の番を待っていろ。今日こそ冥途めいどへ届けてやる」

と冷罵した。そして、

「六部ッ、立ち上がれ」

ときっぱりと向き直った。

戸川志摩はくわッと眼をみひらいて、

「その方どもから我に刃やいばを持たすとは、天のご加護、汝等の悪運の尽きるところじゃ――」

と静かに左の片膝を立て、左の手に鞘さやの七分三分のところを掴んでジリジリと起ちかけた。

「世迷い言は無用だ。いざ! 来い」

「むッ、下郎覚悟ッ」

さっと立ち上がる途端に、戸川志摩の左手からカラリと鞘が抜き捨てられるや、右手はそれより早く流星の尾を曳いてキラリと一閃、敵の真眉間まみけんのぞんで切っさき下りに斬りつけた――時すでに大月玄蕃も手馴れの鬼丸三尺の剛刀は抜く手も見せず、発矢はっしと右脇へ受け払って来た――

刃金はがねの冴え音、剣の火花――新九郎は我を忘れて身をにじりだした。

毒婦どくふ笑わらい恋こいの投なげ槍やり

一

お延えんは立膝たてひざの前へ、鏡台を引き寄せた。

風に吹かれた洗い髪の、さわさわとしたのを両手でたくしあげて、無造作な兵庫くずしに束ねた根元を南京ナンキン渡りの翡翠ひすいで止めた。そして、臙脂皿べにざらを唇くちへ摺すると、お鉄漿はぐろ光りの歯の前に、年増ざかりの肉感の灯が赤く点ともされたように見えた。

「こうして見れば私だって、まだ満更捨てた年じゃないもの……考えると馬鹿馬鹿しい、何だか急にこんな山の中で年をとるのが嫌になって来たよ……」

お延はこう呟つぶやいて鏡台を向うへ押しやった。――いまの境遇は、この蘭谷あららぎだにの豪族、雨龍太郎の妾として、贅沢三昧、姐御姐御と多くの配下に立てられているのだけれど、何と云っても斑鳩嶽いかるがだけの山奥の単調さは免まぬがれない。ふいと嫌気がさして来たら、慾も得もなく身ぶるいがするほど、いまの境界が嫌になった。

しかし、それがどこまで根深いものかは疑わしい。お延のこんな心持も、つい今し方、この山荘へ捕われて来た、新九郎の姿を見てから起った浮気性の気迷いであるから。

「洞門の言葉では、岩屋で殺すのだと云っていたけれど、どうしたかしらあの若い侍は?」

浮気にしても、余り熱っぽいお延の眼は、どうしても自分の部屋に落着けなかった。

ふらふらと最前の橋廊下まで来て見たが、何の様子も知れないので、お延は我れ知らず廊下から廊下を伝って、館やかたのどん詰りまで来た時、発矢はっしと、激しい剣の音がしたのを聞いた。

「おや、どうしたのだろう……」

とお延はするすると駈け寄って、黒木の柱につかまりながら首をのばして差し覗くと、今しも奥の広庭で、この間うちから山荘に滞在していた大月玄蕃が、六部姿の戸川志摩を対手あいてに、雨龍太郎の面前で、必死の勝敗を決しかけていたところなのであった――その傍らに春日新九郎が、縄目も解かれずその勝負を気づかって身をもがいている様子である。

二

「ええいッ――」

と大月玄蕃の激しい気合が、その時山荘の水の音まで止めてしまった。

「おおウーッ」

と続いて六部姿の戸川志摩は、無反むぞりの戒刀を平青眼ひらせいがんに取って、玄蕃の大上段の手元へジリジリと詰めて行った。

有馬兵部少輔しょうゆうの内命をうけて、単身この山荘を探りに来たほどの戸川志摩だ。充分腕に覚えはある。大月玄蕃も心密かに、油断ならじと思ったか、迂濶うかつにこの太刀は振り下さず、心気を凝こらして志摩の隙を狙っているが、鵜うの毛けでついた隙もない。

その正面の一室から、二人の勝負を見詰めていた雨龍太郎も、侮あなどりがたい志摩の腕前に万一玄蕃が殪たおされでもしたら、野に虎を放したも同様、その場を去らせず斬り捨てねばならぬと、大刀を側へ引き寄せて、縁先まで座を進め、洞門の権右衛門へもチラと目くばせしておいた。

その途端に、えいッと一声、いずれから打ち込んだか、玄蕃と志摩の剣と剣が、激しく火花を散らして上下に斬り結び出した――と見る間に玄蕃の斜め下しに捨てた太刀を、ひらりとかわした戸川志摩は戒刀の切尖鋭く一文字に玄蕃の胸板目がけて突き込んだ。

間髪さっと手元へ引いた玄蕃の太刀は、それを鮮やかにチャリンと払いのけたが、虚をすかさず続いてもう一歩、踏み込んだ志摩の高嶺構えに振りかぶった戒刀が、玄蕃の真っ向へ行くよと見えたので、玄蕃も素早くポンと二足ばかり飛び退いて、八方構えの青眼堅固に取り直すと、戸川志摩は何思ったか、それへは斬り下さずクルリと身を振り変えて、咄嗟とっさ、軽燕けいえんに身を躍らせて、雨龍太郎の脳天目がけて、飛び斬りにズンとふり下した。

「――あッ」

と不意を喰らった雨龍太郎は、すぐ大刀を抜き合せたが志摩の鋭い切尖に、顳顬こめかみから頬を掠かすられて朱あけに染まって横倒れになる。

「天誅てんちゅう覚えおったか!」

と戸川志摩が二の太刀振りかぶって、真ッ二つと目がけた刹那、右から大月玄蕃、左から洞門の権右衛門、同時に二人の太刀が志摩の肩先と左腕へズズーンと斬って下げられた。

「うう! む!」

と後ろへ反そって摚どうと殪たおれた戸川志摩は、無念ッと最後の叫びを上げたまま息絶えた。

「お頭領かしら、どうしやしたッ」

と権右衛門はすぐ雨龍を抱き起した。彼は黒血にまみれた頬を押えながら、

「な、なに傷は浅え、それより早くその若蔵わかぞうを片づけっちまえ」

と新九郎を腭あごで指した。

「合点でがす。じゃ玄蕃様――」

「心得申した」と大月玄蕃はつかつかと新九郎の側へ歩み寄って、

「こりゃ新九郎、いよいよそちの番になったぞ、男山八幡の折とは違って逃げ口はないのだから、その心算つもりで勝負をしてしまえ」

志摩を斬り下げた血刀で、新九郎の縄目をバラッと斬りほどいた。

「むッ」

と新九郎は無念の形相を玄蕃に向けて、しばらく睨み返していたが、縄に噛まれていた手頸の痺しびれが容易にとれなかった。

「どうしたッ、腰が抜けたか!」

「な、何を!」

と新九郎は唇を噛んだ。

「血を見て腰が抜けたのだろう。ここな意気地なしめがッ」

と土足を上げて新九郎の横鬢のあたりをバッと蹴飛ばして来たので、勃然ぼつぜんと奮いたった新九郎は、咄嗟に身をかわしてその足をグッと掴んで捻ひねりあげた。

「うぬッ」

と玄蕃は足を取られながら、右手の一刀を斜めにかぶった。その一瞬、新九郎は渾力をこめてドンと彼を突き放したので、さすがの玄蕃もとんとんと二足三足よろけて行った隙に、志摩が落した戒刀を拾い取った新九郎は、ガバとはね起きて振りかざした一念の意気込み鋭く、さっと玄蕃のよろけたところへ斬りつけたが――

「猪口才ちょこざいだッ」

と片手伸ばしにブンと払った玄蕃の強力に、アッと新九郎は中途から持った刀の重みに引かれて横に片膝ついてしまった。技倆の差は争われない。

「口惜しかったら生れかわって来るがいい」

玄蕃は充分な余裕を持って、倒れた新九郎を据物試しに斬り伏せようとした時、

「お待ちよ!」

と鈴音を張った女の声が後ろでした。

三

大月玄蕃はその声に、はッとして小手を緩ゆるませた。玉の声は続いて叱るように、

「お待ちったらさ、そのお方を斬ったら私が諾きかないからそう思いな」

とそこへ来たのは、お延であった。洞門の権右は意外な顔をして、

「姐御、こいつあ今日……」

と云いかける口を押えつけて、

「お黙りよ! お前たちは引ッこんでおいで」

とお延の寄りもつかれぬような血相に、玄蕃も苦虫を噛んで身を退いてしまった。

「お延、わりゃあ何で男のすることを止め立てする」

と雨龍太郎はきっとして彼女を咎めた。

「いけませんか。私の恩人だから止めたのが悪うござんすかえ?」

「何? われの恩人だと。そりゃどうした訳だ」

「いつかお頭領にも話したことがあるじゃございませんか――去年舞鶴へ行った時に、私が路銀を落して帰れなくなったところを、名も所も云わず貸して下すったその時のお侍様というのは、そこにいる方なんでございます」

「ふーむ……」

と雨龍は新九郎を見直した。お延はその猜疑さいぎの目を紛まぎらわすように彼の傍へ摺り寄って、白い顔を遮らせた。

「ねえお頭領かしらえ、私にとってはそうした恩のある方なんです。事の間違いで手下の一人や二人傷つけたかあ知りませんが、何も居候の侍なんかに嬲なぶり殺しにさせなくったって、いいじゃあありませんか」

と玄蕃の方へは、余計なことをと云わぬばかりの流眄ながしめを見せた。そして、雨龍へは顔の下からさし覗くようにして、甘い息に男を耐えなくまでした。

「そうじゃありませんかい。私が気がつかなければ知らぬこと、現在恩のあるお方が殺されるのは見ちゃあいられませんからね……それよりまあお頭領は、早く顔の傷でもどうかしなくっちゃ……権右ごんえ、お前たちゃ頭領の怪我を何で平気でいるのさ。早く奥へお連れして、手当をしなくっちゃしようがないじゃないか、こんなどころの騒ぎじゃありゃあしないよ!」

とお延は女が勝手を切って廻すように、てきぱきと云って、この場の雰囲気を推移させるのに努めた。――女の力もある場合には怖ろしい司権者となるものだ。雨龍太郎は邪魔者が入ったのでにわかに顔の傷が痛み出したのと、お延の魅力に力負けがして、

「たとえどんな恩人であろうが、このまま追ッ返すことあならねえが、そのうちに身共がもう一度調べるまで、どこかへ厳重に抛ほうり込んでおけい」

と云い捨てて奥へ遁のがれてしまった。

四

春日新九郎は、今日で七日あまりも陽の目も見ぬ頑丈な座敷牢の隅で、つくねんと膝を抱えて暮らして来た。

そのお蔭で、彼は故郷を出てから夢中であった過去のことを、静かに瞑想してみることが出来た――今憶えば、病み上がりの柔弱な体で、よく大胆にこの冒険が敢えて出来たと思えるのだった。あまつさえろくに刀の抜きようも知らないで、たとえ一瞬間でも、大月玄蕃に刃向えたと思えた。――自分は正しく生まれかわっている。我は解脱げだつした春日新九郎であると、彼が強い自信を持ったのは、この時であった。

しかし――と新九郎の考えはまた、現在の身の上に来て、ちっとも判じがつかなくなった。

「一体今日まで七日もここへ抛り込んだままで、雨龍太郎は自分を殺す気なのだろうか。どうする心算つもりなのだろう。もっとも雨龍に殺す意志がなくても、玄蕃はきっと前からの行きがかりで、自分を殺すように使嗾しそうするだろう――しかし、判らないのはここにいる雨龍の妾らしい女の振舞いだ。自分はあんな女を舞鶴で助けた覚えもないし、恩をかけた覚えもない。何だってあんな出鱈目を云って自分の命を救ったのだろう……」

こうした空想の糸は限りもなく手繰たぐり出された。新九郎はやがてその空想に疲れて顔を上げると座敷の隅の短檠たんけいが、冥途よみの灯あかりのように仄白ほのじろくなって行った。

「ああ暁方近くなったのだな……」

と彼は思った。どこかで水のせせらぎが、夏の夜も寒いほど清く聞きとれる。伽藍がらんの中にいるような寂寞である。

すると、コトリと座敷牢の外で、錠の触れる音がした。そして、一寸二寸ずつ静かに徐々じょじょと開けた者がある。

「誰じゃ……」

新九郎は油断なく身構えた。

「シッ……」

――それは女の声である。と思う間に、一尺ばかり開けた重い戸の間から、身体を竦すくめて入って来たのは、お延であった。

「お……」

と新九郎は、そこへすっきり水際立った、寝巻姿の阿娜あだなのに目をみはった。

「お侍様、お寝よれないと見えますのねえ」

お延は後をぴったり閉めて、馴々しく新九郎の近くへ寄って、ふわりと坐った。

「これはどなたかと思ったら、先日お助け下されたお女中でござったの」

「まあ頼もしい。私を覚えていてくれましたかえ」

お延はジッと男をみつめた。

「何で忘れるものでござろう。しかしどう考えてもそなたの云うようなことは覚えがないが……」

「ほほほほほ」とお延は黒豆のような鉄漿歯おはぐろばを紅の唇くちから笑み割ってみせて、

「あんなことは出鱈目ですよ。ただどうかしてあなたを助けたい一心で、思いついたばかりの嘘でさあね……」

とまだ顔のどこかで笑っていた。

「え、それまでにして何故あって拙者をかぼうて下さるのじゃ。それが拙者には解げせませぬ」

「まあそんな野暮は止しましょうよ。女が男を命がけで助けたら、どんな心を持っているかぐらいはおよそ察しがつくじゃないの」

とお延は新九郎の青額に、気も魂も吸い込まれて、ゾクゾクと疼うずくふるえを緋縮緬ひぢりめんにつつんでいつかぴったりと寄り添って来た。

「憎らしい、何にも解らないような顔をしてさ……ねえ、解ったでしょう」

「こりゃ、戯れを……」

「真剣ですよ。誰がこんな夜夜中よるよなか、よっぽどでなくて来るもんかね。もうこんな山住居ずまいは、ぶるぶる嫌になったのも、みんなあなたの罪です――と云ったらびっくりするかも知れないけれど、蛇性へびしょうの女に見込まれたのが因果、私を連れてここを逃げておくんなさいよ」

「ええッ」

と新九郎はゾクリとした。

「シッ……大きな声は禁物よ。何も今が今じゃないけれど、多分二、三日うちには雨龍が、傷の療治に町へ行って留守になる筈、いい時分を計って忍んで来ますから、あなたもそのつもりでいて下さいねえ」

新九郎は女の入れ智慧に、その時初めて、空しく死を待つ身でない――そして、今は地獄の境にある身を気づいた。もう手段は択えらんでいる場合ではなかった。

「おお、そりゃ真まことか? ――」

と思わず膝を詰め寄せた。

「疑り深いね……」

とお延は新九郎の心を、もうまったく掴んでしまったような恋馴れた誇りに、自分も現うつつになって、

「年上の女房は亭主を可愛がるものですよ」

と蕩とろけるほどな年増としまの肌目きめを、怖ろしいほど見せつけて、これでもかこれでもかと蠱惑こわくな匂いをむしむしと醗酵はっこうさせながら、精根の深い瞳の中へ年下の男のなめらかな悶えを、心ゆくまで吸い込んでゆく――新九郎の総身の血は磁石じしゃくに触れたように荒れ狂った。その誘惑は、玲瓏れいろうに引き緊まった処女の千浪の比ではない――何んという明けッ放しな、そして女の爛熟しきった麻酔だろう。彼は思わず、クラクラとして、危うくお延のふッくらした脂肪あぶらざかりの腕かいなの中へ抱き込まれようとした――いや獅噛みついて白い乳房を噛み破ろうとしたまで熱い血に挑まれた。

「これ、人に気取られては一大事じゃ」

「誰がこんな夜更けに来るもんかねえ……」

「でも……」

新九郎は拒む言葉に窮した。より自分の堅固が怪しくさえ思われたので、彼は無言にお延の粘りこい手を振りもいだ。

「そんなに羞はずかしいかえ……」

お延はしどけない妖姿を、グイと仰向けに反そらして顔を短檠たんけいに届かせた……フッ……短檠の灯は吹き消された。

「あ……」

新九郎は身を竦すくませた。するすると闇を探ってきたお延の温ぬくい――刎ね返されないような魅力の腕が、新九郎の頸を深く抱きしめた。そして愉楽の夢に弾はずんだ息が熱ッぽく男の横顔をまさぐってくるのだった――とその時、遠くの渡り廊下を、静かに摺すってくる人の跫音が此方こなたへ近づいてきた。

「あ、誰か――」

「じゃ今度ね……二、三日うちに……」と暗の中でうごめいた。

お延は囁やいた後で新九郎の頬へ烙印やきいんのような熱い唇をつけて素早く外へ姿を消した。

五

蘭谷あららぎだにを取り囲んだ、神斧山しんぷざんの肩から、青白い妖星が、谷間を覗き込んでまたたいている。

宵のうちは、ぽちりと赤く、蟒うわばみの眼かと見えていた山荘の灯も、いつか滅して物凄く夜更けて行くうち、何者か? 館やかたの築地ついじの破れから、ひらりと外へ跳り越えた二つの人影。

と見た番人が、鋲門びょうもんの袖からばらばらと駈け出して、むんずと一人に組みつきながら、

「だ、だ、誰か来いッ」

と絶叫した。

「えい邪魔なッ」

と男の影は身を捻ねじって、どたんと前へ投げつけたが、番人は屈せず刎はね起きて、

「野郎ッ」

と再び飛びかかって行こうとすると、横からすッと寄った女の影が、逆手に持った短刀を、音もさせずに一閃ひとひらめき、

「やかましいよ!」

「わアッ」

と番人は虚空をつかんで摚どうとたおれた。

「あなた、早く――」

女は男の手をとった。轟ごう――と闇をゆする峰颪みねおろしに紛まぎれて、二つの影はあららぎ谷からいずくともなく走り出した。

×

その夜山荘には、雨龍太郎が留守であった。彼は、面部の傷がいよいよ悩むので、外科医の療治を受けに、昨日山を降りたのである。それと大月玄蕃は、この山中も面白くないと見切りをつけたか、雨龍に暇いとまを告げて前日ここを立ち去っていた。

留守を預かった洞門の権右衛門は前から、雨龍の妾お延に横恋慕していたので、今宵こよいをまたとない機会と北叟笑ほくそえんで、夜更けてからお延のいる部屋の橋廊下を越えて忍び込んだ。

すると、お延の部屋の薄暗がりから、両刀をぶッ違えに差した黒い影が、のそりと出て来て権右衛門とはたと行き会った。そして、

「何者だ」

と向うから激しく咎めてきた。

「てめえこそ何だッ。何しにうろついていやがるんだ」

権右衛門はそれに乗のしかかって咎め返した。

「やッ、貴様は洞門じゃないか」

権右衛門はハッと思って透かして見ると、雨龍の甥おいで非常な腕ききなところから、投げ槍小六と異名されている郷士の一人であった。

「小六じゃねえか、留守を預かっている洞門の権右衛門が見廻って歩くに不思議があるか」

「ふふん、そう云えば聞こえがよいが、貴様は伯父の留守を幸いに、お延を口説きに忍んで来たのであろう」

「何だと、そりゃてめえのことだろう」

洞門は小六がお延に云い寄ったことのある事実を知っていた。小六は洞門の横恋慕を察知していた。二人は怖ろしい嫉妬の燃え上がった眼を睨み合せた。

「お延はこの部屋にはいないぞ、洞門、貴様どこかへ隠したな」

「何? いないことがあるものか。詰らねえ嘘を云うと、てめえの腹の底が知れるぞ」

「白しらを切るな。どこへ隠した」

「何ッ」

と権右衛門は、小六の血相が真剣なので、部屋の中へ入ってみると、お延の姿はどこにも見えない。そればかりか、取り散らかした小道具の中の目ぼしい物はみんな失くなっている。――権右衛門は小六をジッと横目で睨んで一途いちずに彼を疑った。

「やい小六、てめえお延を逃がしたな」

「何を云うのだ。こうなりゃ拙者の本心も聞かしてやるが、伯父の留守を幸いに、お延を連れてこの山を逃げ出すつもりに違いなかったが、いくら探しても影も形も見えないのだ。貴様が隠したに相違ない、お延を拙者に渡してしまえ」

「飛んでもねえことを吐ぬかすな、留守を預かる権右衛門だ。お延に指でもさすと承知しねえぞ」

「ではどこまでも渡すと申さぬなッ」

「知れたこッたい!」

「よし――」と小六は片足退ひいて身を屈かがませた。

「洞門ッ、命は貰った!」

ビュッと銀蛇の光りが、小六の腰からほとばしった。

「ふざけるなッ」

と権右衛門も脇差を抜き合せたが、腕は段違い、たちまちしどろに斬り込まれて、ばたばたばたと逃げだした。

「意気地なしめッ」

追いかかった小六が後ろから飛び斬りにさっと背中へ割りつけた一刀。

「ワッ――」

と権右衛門は、橋廊下の欄干てすりから下へ、もんどり打って墜ちて行った。

「もうこうなれば愚図愚図してはおれぬわい」

小六は血刀を納めて、伯父の雨龍太郎の部屋へ忍び込んで、有金を胴巻に捻じこみ、この山荘から逐電する心算つもりで跫音あしおとを忍ばせてそこへ出て来ると、にわかに四辺あたりに物騒がしい声が沸き立った。

「さてはもう感付いたか、破れかぶれだ。斬りまくって逃げ延びよう」

と彼は胆太く構えていると、どたどたと飛んで来た手下の一人が、

「おお小六さん、大変でがす」

と云ったのが小六には他人ひと事のように聞こえた。彼は空とぼけて、

「何だ。どうしたのだ」

と白々しく云った。

「逃げやした。逃げっちゃいました」

「誰がだ、はっきりと云え」

「座敷牢へ抛り込んでおいた若い侍と、姐御らしゅうがす。築地の破れを跳び越えて、間道伝いを一散に落ちて行ったんでがす」

小六は意外な恋仇に出し抜かれて、聞くより嫉妬に煽あおられた残虐ざんぎゃくな相を現わし、

「よしッ、拙者が追いかけて仕止めてやる」

とぶるぶる身をふるわせながら、更に、

「貴様達は人数のある限り、松明たいまつを振って、谷から裏山を隈なく探せッ」

といいつけた。

そして自分は異名をとった手馴れの投げ槍、気合をかけて手から放せばつばさを生じた飛龍の如く敵の胸元を射貫くという、四尺九寸の樫柄かしえを小脇に引っ抱えて、二人の後を血眼で追いかけたのであった。

六

「まああれをご覧なさいよ、何て馬鹿馬鹿しい騒ぎをしてるんだろうね……」

とお延は新九郎を顧みて笑った。

二人は今、九十九折つづらおりの岩角に腰かけていた。

ここは山荘の間道から外それた、但馬街道の切所せっしょへかかる峠の中腹であった。その高い所から見渡すと、遥か蘭谷あららぎだにから神斧山の峰谷々の闇を、点々と走る松明たいまつの光りが、狐火のように見え隠れするのであった。

「誰があんなのろまに捕まるもんかね、そんな愚図なお延さんじゃないんだから――今頃はさぞ小六も洞門の奴も、あの松明の中に交じって、血眼になって騒いでいるのだろうよ……」

とお延は口のうちで呟やいた。そして側に黙然としている、新九郎の膝へ手を乗せて、

「お前さん、くたびれたのかえ」

とこの暗澹くらやみな山中で見てもなお飽くまで艶な顔を覗かせた。

「いや……」

と新九郎は冠かぶりを振ったきり、お延の媚こびに顔を反向そむけた。彼はただ山荘を遁れる手段に、お延に手をとられてここまで来たが、これから先、この妖婦の手から逃げることは、鉄壁の山荘を越えるより難かしい気がした。

「えお前さん、どうしたのさ、怪我でもしたんじゃないのかえ?」

女は、真に憚はばかりのない闇の場所では、思い切って大胆な真似をするものだと――新九郎は身を捻ねじらせた。

「そうじゃ、怪我をしたのだから触ってくれるな」

と彼は女の言葉を幸いに嘘を云った。

「どこを? どこをさ……」

「岩角で足をしたたかに打ちつけたのじゃ」

「まあ危ない――でも、もうじき夜が明けそうだから、そしたら里へ下りてゆっくり手当をさせますよ。ねえ、それまで辛抱できるでしょう……」

とお延は新九郎が痛いと云った足のところを擦さすり始めた。

そうだ、早く夜が明ければいい! 新九郎も心のうちでそう願った。夜が明けたら里へ下りてお延にきっぱり自分を諦めるように話そう――新九郎には、まだ淫婦の中年の恋が、どんなに執拗で強いものか、それを充分噛み分ける経験はなかった。

二人はしばらく無言になった。果てしもない渺茫びょうぼうの闇へ瞳をやって、朝の光りを待ちこがれていた。

すると、いつか遠く低く、丹波連峰の黒い影が、明るみかけて来た空へ、波状にうねった山脈線だけを描き出してきた。

「おッ……あの赤い火! 日の出かと思ったらそうじゃないよ……」

とお延はその時不意に、身を乗り出して叫んだ。新九郎もはッとして女の指先へ眼をやってみると、成程、はるか暁闇の空を掠めて重畳ちょうじょうの山間から、一抹の赤い光りがぽッと立ち昇っているのだ。それは太陽の君臨する前触さきぶれかとも見えたが、たちまち団々たる黒煙の柱が空へ巻き上がってきたので、あきらかにそうでないのが知れた。

「火事ではないか」

「いい気味! 山荘が焼けているのだよ……」

お延はニタリと凄い微笑を泛うかめた。新九郎もさては後の混乱に紛まぎれて、手下の者が火を失しっしたのであろうと思い合せ、あの火焔の底に白骨とされる戸川志摩の死が無意味でなくなったのを欣んだ。そしてひそかに彼の冥福を念誦ねんずしていた。

「もう行きましょうかね。足許も見えて来たようだから……」

とお延は新九郎の手をとった。

「では出かけるかの」

「足が痛やめるでしょうけれど、里へ行けば駕があるから急がずに歩きましょうよ」

お延は努めて新九郎の機嫌をとっていたが、新九郎にはかえってそれが耐えられない苦痛だった。

左は谷、右は絶壁の下り道を、お延は新九郎の手を寸時も離さなかったが、とある曲り角へ来た時、彼は恟ぎょッと立たち竦すくんで、

「あッいけない!」

と二足三足後ろへ押し戻した。

「どこか、隠れる所がないかしら? 隠れ場所はないかしら……」

お延の愕きは唯事ではなかった。新九郎は何事が起ったのか、しばらくわからなかったが、やがて五、六間けんばかり前へ、麓から急ぎ足に上って来た黒頭巾の男を見た。

七

九十九折つづらおりの一筋道、逃げる横道も隠れる場所もないので、お延が狼狽うろたえている間に、黒頭巾の男は息せわしく摺すれ違うまで側へ来たが、二人の姿を見ると、先も突ッ立ってしまった。

「やッ、わりゃあお延じゃないか!」

くわっと頭巾のうちから、炬かがりの如き眼をみひらいた男は、雨龍太郎なのであった。彼は昨夜ゆうべ麓の刈石かるいしで泊っていたが山荘の火の手を見て、すわ一大事と駈け上がって来たのである。

「うーむ、さてはその青二才とぐるになって、山へ火をつけて逃げのびて来たのだ。己れ恩知らずめッ、ここで会ったが天命だ。二人共素ッ首を抜いてやるから覚悟しろ!」

「あれッお頭領かしら、待って――」

「えいやかましいこの阿女あまッ」

雨龍太郎は憤怒の形相ぎょうそう凄まじく、左手ゆんでに捻った大刀の鯉口、ぱッと柄手に唾をくれるや右手をかけてぎらりと一閃、お延を目がけて飛びかかった刹那――ブーンと風を切って上から飛んで来た一筋の投げ槍、あッと血飛沫ちしぶきが散ったと思えば、雨龍太郎は見事胸元を突き貫かれて摚どうと仰向けに殪たおされていた。

お延は牡丹色の返り血を浴びたので、自分が斬られたと錯覚さっかくしたのか、ふらふらと岩角の上へ横倒れになってしまった。

新九郎はこの隙こそ、毒婦の手から遁れるところと思って岩蔭から身を起した時、飛鳥の如く頭の上から岩根づたいにするすると跳び下りて来た一人の男――それは手練の投げ槍を飛ばした小六であった。

「お延、お延――」

小六に抱き起されたお延は、真っ蒼な顔を振り上げたが、それが新九郎でなかったばかりか、雨龍の眼を偸ぬすんで、ほんの浮気な淫たわむれ対手になっていた小六であったので、ぎッくりと身を刎ね起して逃げようとするのを、

「これどこへ行くのだ、何を逃げる?」

と小六は手強く取って押さえてしまった。

「もうこうなればお互いに身の思案をきめなくっちゃあならぬ。かねて二人で話したこともある通り、江戸表へでも高飛びして暢気のんきに暮らすとしようじゃないか、どうだお延」

「小六さん、私ゃあ少し考えが違うんだよ」

「そんな寝言を聞く小六じゃない。貴様は若い侍と乙おつな気味きあじになったそうだが、この小六がなければ知らぬこと、無分別な浮気沙汰をいつまでもしていると、しまいには身の破滅だぞよ」

「いいよ! 構わないでおくれよ! どうせ茨ばらがきお延と云われるほど、持ちくずした私の身だもの、好き放題なことをして、野たれ死にするのは本望なんだよ」

「馬鹿をぬかせ、まだお互いに先のある身だ。悪いことは云わぬから、拙者と江戸へ行こうじゃないか、どんな贅沢、綺羅な暮しも都へゆけば仕たい三昧というものだ」

「嫌だよ。行くなら一人で行っておくれよ」

「何だと、じゃあこれほど云っても?」

「お前が邪魔になったんだよ!」

とお延は妲己だっきの本性を現わして、扱帯しごきの下から引き抜いた匕首あいくちを逆手に、さっと小六に斬りつけてきた。

「洒落しゃれた真似をさらすなッ」

と突きかかった閃めきを、小六は軽く片身外しにかわしておいてぽんとお延の匕首を叩き落して、自分の手に持ちかえてしまった。

「ええ口惜しいねえ! 離しておくれってばッ」

「駄目な事だ。いくらもがいてもこの小六が逃がすものか。さッ、来なければ奴うぬ一突きだぞ」

「わ、私を殺すと云うのかい」

「ぞくに云う、可愛さあまって憎さが百倍よ」

「…………」

「どうだお延、まだ貴様も三十前だぞ……」

「小六さん――私ゃあお前さんには、どうしてもかなわないねえ……」

「して、どう腹をきめたのだ」

「行くよ、どこへでも連れてっておくれなさいよ……」

とお延は妖媚ようびにもたれかかった。

「そう来なくてはならぬ筈だ。じゃお延、ここらでまごまごしちゃあいられない。せめて若狭路わかさじへでも入ってからゆっくりしよう」

と小六は強い力で、お延の手を曳いたまま歩きかけたが、さすがにお延は新九郎に後ろ髪をひかれるかして、小六の腕かいなから身みを反そらして振り顧った。

「む。まだあの若侍に未練を残しているな、いッそその迷いの種を、目の前で打ぶッ斬ってやるから見ているがいい」

と忘れかけていた残忍な嫉妬の眼は、再び夜叉やしゃのように燃えて、そこの岩蔭から、潜んでいた新九郎の姿を見出してずるずると金剛力で引き摺り出した。

新九郎は南無三と、渾力こんりきをこめて振りほどこうとしたが、小六の力は盤石ばんじゃくの如く彼に動きも取らせなかった。

「お延、貴様の好いたいい男もこうなっては、態ざまがあるまい。脳天から鼻筋かけて、真ッ二つにして見せるから小六の腕を見物しろ!」

と力まかせに新九郎の衿頸えりくびを突ッ放しておいて、ぽんと一歩退さがった小六が、腰を捻ひねった途端に抜きかざした大刀、あわやと見る間に新九郎目がけて真ッ向うに斬り下げて来た。

「ええッ己れごときに」

と新九郎も必死、必死。

一人の人間の真の偉力は、死と生の間一髪、地獄の千仭せんじんへ半身墜ちかけた時、猛然と奮い起ってくるものだ。――新九郎の危機一髪の瞬間がそれであった。彼は真っ向から来た小六の白刃のもとへ身を衝いて行きながら、腰の一刀を抜きざま横一文字に薙なぎ払って行った。

相討ち! それは武士の本望だという気だ。

「あッ畜生」

と小六はその大胆な横薙ぎに、思わずまた一歩退ひいてしまった。

新九郎は無二無三に、彼の撃ち込む隙間すきもなく斬って斬って斬り捲くった。しかしそれは何の技巧のない、術も息も欠けた血気の精力に過ぎないから、見る見る心臓が破裂するばかり息づまって来たのは是非もない。

太刀は乱れて来た、――重くなって来た。

鞍馬八流の剣法も、投げ槍に劣らぬ手練の小六は、早くも新九郎の未熟を見てとり、ほどよく受けつかわしつしておいて、ここぞと思う時になって、天魔鬼神も遁がさぬ八流の極意、滝おとしの必殺剣を疾風の迅さでエエッとばかり斬り下げて来た。

「あッ――」

と新九郎は額かざして横一文字に、ガッキと懸命に受け止めたが、小六の強刀に骨も砕けたかと思われて、よろりと腰を割ったが不覚、踵かかとの土を踏みくずして、どッどどどどどとばかり底も知れない断崖へ真っ逆さまに墜ちて行った。

「む、ざまを見ろ」

と小六は駈け寄って、小気味よげに谷底を覗いた。松、柏かしわ、雑木の枝が、縦横に交じえている下には、真ッ青な渓流の水が透いて見える。しかしその水までは何百尺あるかほとんど計り知れない千仭の谷底であった。

「あ――可哀そうだねえ……」

とお延も小六の側へ寄って、目のまわるような下を覗いてみると、岩から枝へ、枝から岩へと落ち転げて行った新九郎の姿は、無残にも渓流まで落ちない中途で、藤蔓ふじづるに掴まったまま、宙にぶら下がってしまった。

「野郎ッ、止めを刺してくれる!」

残忍飽くを知らない小六は、雨龍太郎の死骸に突き立っていた槍を引き抜いて来て、崕がけに臨んだ岩角に片足をかけた。

「むッ」

と小六は口一文字に結んで、生血の滴したたる四尺九寸の投げ槍の柄を、りゅうと右の眦まなじりの上まで石突き高に引きしごいて、穂先下りに目の下の新九郎の影へ狙いを定めた。

「お前さん、それだけは止しておくれよ――」

お延は見るに忍びなかった。小六の肱ひじに取り縋すがって哀願の声をふりしぼった。

「後生だから……罪もない人じゃあないか」

「ええ退どけ、邪魔だ!」

と、お延が悲しむほど、彼の嫉妬は募つのるばかりだ。

「止しておくれ、後生ッ、小六さん――」

「えいッ、吠ほえ面づらかくな」

どんと片足あげてお延を蹴離した投げ槍小六は、やッと一声鋭くかけて、目にも止まらぬ手練の槍を手から放した。

武芸者ぶげいしゃ鬼門きもんの荒道場あらどうじょう

一

鞺々とうとうと流れる渓流に脛すねを洗われながら、一人の若者が鉤鈎かぎばりをつけた三尺ばかりの棒を巧みに操あやつってぴらりぴらりと閃ひらめく山女やまめを引ッかけては、見る見る間に魚籠びくを満みたしていた。

彼は余念がない。一心にじっと水底をみつめていると突として、頭の上からブーンと風を唸らせて飛んできた光りが、さっと若者の耳を掠めたかと思うと、前なる早瀬の岩の上へ、凄い勢いで突き立った――あッと見れば何事であろう。それは血塗られた短か柄えの槍ではないか。

「何だーッ?」

と若者は仰天して流れから飛び上がった。その途端に、またも側の河原蓬かわらよもぎの中へどさりと上から落ちて来たものがあった。

「うーむ」

と蓬の中からはずみを喰って、ごろごろとそれへ転がり出したのは、一人の若い侍――春日新九郎であったのだ。

「ややッこりゃお侍様どうなさりました」

若者はすぐ抱き起こして流れの水をすくって呑ませた。新九郎は落着いてふとわが身を省りみると、天の加護と云おうか、さしたる怪我もしていなかった。してみると、断崖から小六が槍を投げ飛ばした刹那新九郎も運を天に任せて藤蔓ふじづるから身を放したのが、この奇蹟となったのであろう。

「ここはどこでござろう?」

「よく何ともござりませんでしたな。この渓流の出るところが保津川ほづがわの上流でござります。わしはこれから一里半ばかり下の深谷村の儀助ぎすけというものでござりますが、まあわしの家ところで少しお憩やすみなさるがようがすだ」

と儀助は新九郎の無事であるのを、むしろ怪しんでいるくらいであった。

「ではお言葉に甘えて、ご厄介になりたいが」

「ええご遠慮はございません。わしも飛んだ命拾いをしたようなものでがす」

と儀助は魚籠びくを肩にかけて案内して行った。新九郎もさて立ち上がってみると、さすがに骨と肉とが離れるような疼痛とうつうをどこともなく覚えるのだった。

二

「儀助殿、たいそう竹刀しないの音が聞こえるが、この近所に道場でもござるのか」

新九郎は今日で三晩親切なこの家の世話になっていた。もう体もしっかりしたので、今朝は早く出立する心算つもりで起きぬけたところであった。

「へへへへ何ね、道場というほどでもございませんが、剣術好きの村の若い衆が寄って、叩き合いをやってるのでがす」

「それはなかなか熾さかんなことじゃの、して誰か師範をする武芸者があるのか」

「へい、村のご浪人で高島十太夫という関口流の先生が手を取って教えています。如何でございます、お武家さまも一つご見物なすっちゃあ」

「面白かろう、ぜひ案内を頼む」

と新九郎は儀助に従ついて来てみると、かなりの空地に砂場を作って、えい、や、とうの掛け声さかんに竹刀木剣思い思いに闘わせていた。

するとその中でしきりに、打て、踏み込め、外はずせと大声で指揮していた高島十太夫という浪人が新九郎の姿を見てつかつか歩み寄って、

「卒爾そつじでござるが、ご修行者とお見受けしてお願い申す、かく自流ばかりでは一同上達も致しませぬ。ご無心ながら皆の者へ一手ずつのご指南を仰ぎたいものでござる」

という言葉。

「これは、なかなか他人ひと様へ、指南などおつけするほどの腕前ではござらぬ。平にご用捨を」

と新九郎は率直に断ったが、十太夫は謙遜とばかりとって容易にきき入れない。すると、側にいた儀助が、

「じゃ、お侍様の代りに、わしが一つ出ますべえ」

と云った。十太夫は苦笑いして、

「そちは絶えて稽古に来たこともない男だが、多少は覚えがあるか」

とのっけから蔑みくだしていた。

「剣術はだめでがすが、槍なら行けます」

「馬鹿を申せ、刀槍は元これ一道より出たるものじゃ、神道流剣法より分派して樫原流の槍術となり本間派の管槍もそれから出ている。なかんずく宝蔵院の僧胤栄は上泉信綱の刀法の妙と、大膳大夫盛忠の長槍の心をあわせて宝蔵院流を編出あみだしたほどである。何で槍術の心得なき奴が槍など使い得るものではない」

「さあそんな小難かしい講釈は分らねえが、とにかく槍ならやれますだ。造作はねえ」

「はて文盲もんもうの野人は度しがたい者だ。よしそれほど剛情を張るなら試してやる。あ、これ、裏坂の仁作、この儀助を一つ懲こらしめてやれ」

「ようがす。さ儀助来い」

と骨たくましい若者が、

「竹刀しないでは手ぬるい、木剣で行くぞ」

と構える。

「よいとも、汝われが持つなら何でも同じだ」

と儀助は渡された稽古たんぽ槍を突きつけたが、これはいかに修行の浅い新九郎の眼にも滑稽なほど、槍の構えにはなっていなかった。ところが、やッと儀助が一声かけると、槍のたんぽは電光の迅さで、どんと仁作の胸元を突いてしまった。

「参った」

と大上段に構えたところはよかったが、一太刀も振らないうちに引き退る。

次の者も次に出る者も、儀助の槍は不思議に一突きで敵を倒した。それはまったく槍術の心得も剣術のけの字も知らぬ構えであったが、とにかく、庄屋の息子から小作の若者まで総なめにしてしまった鋭鋒は当るべからずである。

「ああ錬磨の力は怖ろしいものだ。儀助の如き者ですら自然の熟練を経ればあの妙を得るものか……」

と黙然と感嘆していたのは新九郎であった。

新九郎は儀助の一本突きが、職業の岩魚いわなや鮠はやを突くあの息でやっているのを観破したからである。彼は大いに得るところがあった。

「儀助ッ、いざこの上は拙者が対手だ。少し烈しく参るから左様心得ろ」

と業を煮やした高島十太夫が手馴れの木剣をりゅうりゅうと振り試して云い放った。

「やあ今度は先生でがすか、先生まで負かしちゃあ済まねえでがす」

「己れ馬鹿を申せ、汝等如き田夫に敗おくれをとって武士と云われるか、さあ来い」

「じゃあ行きますぜ」

と儀助は鳥刺しが竿さおを持つような型で、大上段にふりかぶった高島十太夫の眉間を狙って稽古たんぽ槍をつけた。

「エーイッ」

と十太夫は威嚇いかくの気合いを放った。

「くそッ、この鮠はやめッ」

十太夫は愕いた。人を鮠だと思っている。しかし、儀助にとっては、人間を鮠だと見るのが槍の極意だ。いまや烈火の如く憤いきどおった十太夫が、木剣も挫くじけろと打ち込んできた途端、

「畜生ッ鮠め」

と突き出した儀助の穂先が、狙い違たがわず十太夫の額へ、ポンと当ったので、あッと叫んで十太夫は仰向けにどんと倒れた。

「どうでがす、先生」

「ま、参った」

と彼は苦々しい顔で袴の土を払っている。それを見た新九郎は、まったく感に耐たえてしまった。かかる技わざに立ちむかっておくのも、いい修行となるであろうと思った。

「あいや儀助殿、しばらく待ってくれい」

「やあお侍様、お恥かしいことでがした」

「いやいや、驚き入った腕前じゃ。一つ拙者に指南してくれぬか、立合って見てくれい」

「では一つやって見ますべえ」

「断っておくが、拙者はまだ竹刀も木剣も持ったことがないゆえ作法は知らぬぞ」

「へへへそんな嘘を云っても油断はしねえ」

「いや、まったくじゃ」

と新九郎は木剣を持って進んだ。

事実、新九郎自身が告白した通り、彼は生れて初めて木剣に手を触れたのである。故郷を出奔してから、思わぬ遭難で真剣の滅茶振りはやったが、尋常に木剣をとって、剣道らしい法式を試みるのは今日が実に処女試合であるのだ。

鮠突きの槍術と、初めて木剣を持った新九郎との処女試合は、これこそ奇観でなければならぬ。

三

「エーイッ」

と新九郎はまず臍下丹田せいかたんでんから気合をしぼって、木剣を片手青眼に持った。と云っても、具眼の者から見たら、すこぶる怪しいというより乱暴な構えであったに過ぎない。

新九郎も、最初に試みた気合が、自身でも何となく空虚な、響きのない気がしてならなかったので、更にえいッ、えいッと二、三つづけて汗ばむまでふりしぼった上、片手の木剣を伸びるだけ伸ばしてじっとその尖さきへ眼をつけた。

儀助は稽古たんぽ槍の石突を右の後ろへ深くしごいて、左は軽く、本物の槍にすれば千段の先辺りまで穂短かに持ち、一足退さがって新九郎の鳩尾みずおちを狙ったが、青眼の木剣が伸びてくるので、だんだんに穂を上げて真眉間へぴたりとつけた。

同時に新九郎も、木剣の尖さきをジリジリ上へ上げて行った。彼は儀助の早突きの微妙をすっかり呑みこんでいるので、最初の一本突きさえ外せば、かならず勝てるという自信を持っていた。

「やッ」

と儀助の小手が動いた。

新九郎はハッと柄手つかてを引き締めたが、儀助は大事を取って突いて来なかった。しかしその緊張で新九郎の体たいは、おのずから片身向いの斜めに変った。この体たいの構えは、片手青眼の木剣とぴッたり合致して、真の刀法にかなっていた。新九郎自得の妙通である。

試合の息競いきぜりが少しく長いので、周囲の者も手に汗を握り出した。殊に高島十太夫は新九郎の不思議な――つまり自分たちの型に嵌はまった法式剣術からすこぶる不可解な変化のし方に驚異の眼をみはっていた。

すると、狙い澄ました儀助の稽古槍は、二度目に声も音もなく、目にも止まらぬ迅はやさでさっと新九郎の顔へ飛んで来たなと見えた時、ひらりと身を沈ませた新九郎が、一心こめて、ポンと木剣を上へ刎はねた。

「しまった」

と儀助は弾みを喰った槍穂を下げて、しごき返して二本突きを構えかけた時、とんと踵かかとを蹴って手元へ飛び込んだ新九郎が片手伸ばしにふり下した木剣が、見事に儀助の肩口へピシリと極った。

「参った。ああ苦しかった!」

と儀助は火のような息を吐いて、汗みどろな胸へ風を入れながら、

「旦那様は鮠じゃあない。偉いもんでがす」

と真から驚嘆していた。新九郎は予測しなかった勝ちがむしろ自身で不思議に思えた。

と、そこへ怖る怖る出て来た高島十太夫は、最前と打って変った慇懃いんぎんさで挨拶に来た。

「これは驚き入った唯今のご手練、如何なるご高名の方でござるか、願わくばお明しが願いたい。拙者は高島十太夫と申す者でござる」

「申し遅れました。元より拙者とても皆目の盲剣術、唯今のは怪我勝ちでもござろうなれど、ご挨拶でござれば名乗り申す。拙者は丹波福知山の浪人、春日新九郎と申しまする」

「さては福知山の? ……」

と聞くより十太夫は飛び退のいてはっと平伏した。新九郎はくすぐられるようなおかしさを噛み殺していた。

「ではかねてご高名なる春日重蔵殿のご舎弟ではござらぬか。拙者も数年前にしばらく柳端のご道場にて重蔵先生のご指導受けた者でござる」

「ほほほう、それは不思議、兄重蔵をご存じの方でござったか」

「いかにも。して若先生は、これよりご城下へのお戻りの途次でもござりまするか」

「いやいや、拙者はお恥かしけれど、生来兄重蔵とは打って変って柔弱者でござったが、ちと心魂に徹することござって、翻然ほんぜんと心を改め、過ぐる頃より武術修行を思い立ち、これより日本国中のあらゆる名人達人を訪ずれて、教えを乞わんため家を出たばかりでござる」

「おおさてはお兄上重蔵殿の、汚名をそそぐご心底と、十太夫ご推察申した」

「ではそこもとも、あの経緯いきさつはご承知であったか」

「武芸者として、桔梗河原の大試合を知らぬ者がござろうか。拙者もその日の試合は拝見致した」

「それではお包みするまでもない。ご推察通り如何にもして、かの鐘巻かねまき自斎を一度なりと打ち込まんものと、かくは流浪るろうの身の上でござる」

「あっぱれご苦心のお志、十太夫お見上げ申した。実はその鐘巻自斎は、ちょうど試合過ぎて十日ばかり後たしかに当地を通り過ぎました」

「えッ、して何処いずこへ向って発足致したでござろう」

「この但馬街道を東にとり、京都へ向ったようでござるが、かの鐘巻自斎と申すは、海内でも屈指の名剣客者、余程の腕前ならでは、立ちむかいがたき強敵ゆえ、失礼ながら若先生にも、焦らずに充分のご修行が専一かと心得まする」

「ご芳志忝けのう存ずる。とにかく拙者も一度は京地へ参り、洛内の名人を尋ねて修行の心底でござるが、これより京都へ参る途中において、尋ぬべき達人の門戸はござりますまいか」

「左様……京坂江戸の三都には、音に聞えた一流の名手も星の如くでござるが、京都までの途中としては……」

と十太夫はしばらく小首を傾げていたが、思い出したように、

「おおただ一名、怖るべき達人がござる」

とはたと小膝を叩いたのであった。

四

高島十太夫が新九郎に語り出した稀代の人物というのは、この山村の渓流を下ること九里ばかりの園部そのべの町に、すばらしい道場を張っている大円房覚明だいえんぼうかくめいという者のことであった。

彼は京都聖護院の御内みうちの修験者であるから、元より武人ではないが、また世間にありふれた凡庸ぼんような山伏とは異なって、羽黒山に籠っては七年の行を遂げ、妙見山に入っては十年の間、切磋琢磨せっさたくまの工夫を積んで、金剛杖と戒刀をもって天下無敵の玄妙を自得したのである。

それを名づけて大円鏡智流だいえんきょうちりゅうと呼び、妙見を下山の後、近畿中国の隈くままで巡歴して、到る所の剣道家の道場を踏み破り、みずから役えんの小角しょうかくの再来だと称している。それ程であるから、京地の武芸者を初め諸国を渡る武芸修行も、大円房の道場は鬼門にして、たれ訪れる者もないという話であった。

新九郎は聞き終って、寸時も早くその大円房とやらの腕前が見たいと思った。

「これはよいお話を承わった。どうせ京へ上る足ついで、是非その道場を訪れて見ましょうわい」

「しかし、随分ともご用意あって参らぬと、尋常の武芸者と違って、怖ろしい荒業あらわざを致すという噂でござりますぞ」

と十太夫は特に注意した。

「いや、左様な変った武術者に会うも、修行の一つ、必ずご懸念下さるまい……では拙者はこれにて発足致す。儀助殿、十太夫殿、またご縁もあらばお目にかかり申す」

「随分ご出精をお祈り致しまする」

「じゃ旦那様、これでお別れでがすか……」

と儀助は物淋しそうであった。

一同は春日重蔵の舎弟の若先生と聞いて、俄かに敬意を表して、高島十太夫と儀助を先頭にして、村端むらはずれまで新九郎の壮図を見送って行った。

五

青い藺笠いがさに夏の陽を除けて、春日新九郎が園部の町に入ったのは、その日も日暮れ近かったが、彼は疲れも厭いとわずすぐその足で、修験者覚明の道場を尋ねて来た。

来て見ると、彼はまずその広大な構えに驚かされた。正面袖門つきの入口には欅けやき尺二の板に墨黒々と「天下無敵大円鏡智流刀杖指南、役えんの優婆塞うばそく聖護院印可しょうごいんのいんか覚明かくめい」とあり、その傍には、(命惜しき者は試合望むべからず)と書き流されてある。一方道場と覚しき一棟は、腰瓦に白壁の塗籠造ぬりごめづくりに武者窓が切ってあった。

新九郎はその前へ来て、ちょっと立たち竦すくんでしまった。と云って、その構えに怯ひるんだ訳では更々ない。彼は武芸者が他流試合を求める場合の作法や挨拶を考え浮かべていたのである。

「頼む――頼む――」

やがて彼は型の通り、玄関へこう訪ずれた。

「どなたでござる?」

と玄関へ出た取次は、修験の弟子かと見るに尋常の小侍であった。

「ああご修行の武芸者でござるか」

と小侍は新九郎の風体ふうていを見て、扱い馴れた口をきく。

「いかにも斯道の先生を尋ねて廻国致す者でござるが、当家のご高名を承って、一手のご指南に預かりたく推参致してござる。宜しくお執次とりつぎのほど願わしゅう存じまする」

場馴れない新九郎は、廻りくどいほど丁寧に申し入れた。小侍は奥から取って返して、

「お通り下さい。ただし唯今師のご房には、奥にて勤行ごんぎょうの折でござるゆえ、暫時これにてお控え下さい」

と待たされた所は道場を隔てた控え所、そこでやや小半刻も待っていると、

「他流試合を望まれた武芸者はそこもとか」

と声高に云いながらそれへ出て来た者があった。

「いかにも拙者でござりまする」

と新九郎はふと見上げると、額に兜巾ときんをつけ柿色の篠懸すずかけを身にまとった、これこそ本物の修験者であった。

「ああ左様か――」と山伏は横柄な口調で、蒲柳きゃしゃな新九郎の物腰をじろじろ見ながら、

「当道場の掟は定めし存じの上で参られたのでござろうな」

と改まるのであった。

「は、ご道場の掟と申しますると?」

「それ知らぬとは駈け出しのご修行じゃな、後に臍ほぞを噛むが気の毒ゆえ、さらば一応申し聞かせよう。そもそも、武家に武芸十八番の約束ある如く、当道場の戒刀金剛杖かいとうこんごうづえにも流法約式がきまっている。まず試合を受ける者が心得置くべきことは、当家四天王の者を打ち破らざるうちは、大先生のお手は下さぬこと、得物は金剛杖か栴檀刀せんだんとうをもってお相手する。ただし武芸者方は各〻の得意とする、槍なり木剣なり薙刀なぎなたなり何でもご自由でござる。その上とくとお断り申しておくのは当流はお武家方の板の間泳ぎのなまくら剣術と事違い、すこぶる荒業でござるゆえ、たとえ如何なる怪我を致すも、試合の上なら用捨はござらぬ。まずざッと右の通りでござるゆえ、片輪になるがお覚悟なら、これより道場へ案内申すが如何でござる」

と人もなげな申条もうしじょうに、新九郎は内心むッとしたが、いまだ初心のこととどこまでも下手に、

「委細承知致しました。何分ご指導のほどを……」

と丁寧に云うと、

「ではこう尾ついておいでなさい」

とやっと道場へ案内される。そこにもやはり一人の門弟も試合っていない。ただ見る檜ひのき八間四面の磨き抜いた道場に、槍、木剣、薙刀が厳いかめしく掛け並べてある外に、他の道場ではちょっと見馴れない金剛杖と無反むぞりの戒刀木太刀が、二段ばかりずらりと掛けてあるのが物々しい。

とこうする間に、正面の席の左右へ銀燭が据え置かれると、叱ッ叱ッという警蹕けいひつの声と共に、開け放たれた襖の奥からゾロゾロと六、七名の柿色の修験者が現われた。

各〻両手をついて寂しんとしていると、悠々然と上座の褥しとねへついて威風四辺あたりを払った人物は、赭顔あからがおの円頂に兜巾ときんを頂き、紫金襴しきんらんの篠懸すずかけに白絖しろぬめの大口を穿うがって、銀造りの戒刀を横たえたまま、どっかと胡坐こざして、炬かがりの如き眼光鋭く、じろりと新九郎を睥睨へいげいした様子、これなん大円房覚明と見えた。

六

「ああお訪ね下された修行の方は貴殿でござるか、身が聖護院の印可をうけた、当道場の主あるじ覚明でござる」

と大円房は尊大に言葉を下した。

「これは初めて御意を得申す。拙者は丹波浪人の春日新九郎と申す若年者、願わくば一手ご指南に預かりとう存ずる」

と新九郎は、初めての他流試合に臨んでこの強敵に会いながら、自若じじゃくとした態度を保った。

「おお当道場の掟は、最前門人よりお聞かせ申したに依って充分お含みでござろうほどに、お望みに依って大円鏡智流の金剛杖をもってお対手あいてをさせん。やあやあ阿念あねん、御身一本春日殿と手合せ致して見い」

と梵鐘ぼんしょうの如き声で末座の一人に腭あごを向けると、はッと答えて潔いさぎよくそれへ出た一人の修験の門輩、柿色の袖を捲まくして一礼をなし、

「春日殿とやら、大先生のお言葉によってお対手仕る。いざご用意召されい」

と云って自分は手頃な金剛杖をとった。新九郎も手早く用意の襷鉢巻の身仕度終えて、二尺七寸の蛤刃はまぐりばの木剣を択えらび、型の如く道場の中央へ進んで一揖いちゆうなし、パッと双方に離れるが早いか、阿念と呼ばれた山伏は、金剛杖を三分に握り占めて横身に構え、春日新九郎は一歩退ひいて、片手流しに持った水月の斜め青眼、これぞ鮠突はやつき儀助の奇手を破った、新九郎自然自得の妙構えである。

「エエエッ」

と阿念は双もろに開いた足を、ジリジリと詰めて身を伸ばして来た。新九郎はこの山伏が棒振り芸、何事かあらんと心気しんきを澄ませて片手の木剣に一念こめて、飛鳥の如く手元へ跳り込んだ途端、ピュッと刎ね返って来た金剛杖の陰の横すくい、ぽんと払えば続いて陽に真ッ向う下ろし、はッと身を沈めてガラリと横へ打ち捨てると、弾みを喰った阿念の身がよろりとなった。得たり、

「ヤッ」

と一声鋭く、小手を撃った新九郎の木剣に、ひどい勢いで杖は板敷へ叩き落された。

「参った」

と阿念はすごすごと退いた。大円房の面には苦々しい色が隠されなかった。

「吉祥房きっしょうぼう――」

名だけ呼んで顎でしゃくる。

「はッ」

と即座に現われた次の相手は、七年八年の行法は修したかと思われる眼光鋭い大男、道場の板面に向って、ややしばらくりゅうりゅうと金剛杖を振り馴らして、どっしどっしと新九郎の前へ進んで来た。

並んで立つと新九郎の方が首だけ丈たけが短い。

「いざ――」

と息を計った吉祥房の容子ようすは、前の阿念とは段違いの身ごなし。新九郎も充分に大事を取って、ヤッと裂帛れっぱくの息を打ち合せて左右に跳び別れた。

新九郎は相変らず片手青眼の一本、吉祥房は金剛杖の端を左手に押さえ、右手は後ろへ長く伸ばして、片膝折りに新九郎の全身へ眼を配って来た。

「おおッ」

と吠えるような気合いと共に、吉祥房の右手がすッと端へ辷すべると同時に、四尺五寸の杖は九尺の大輪を描いて、ブーンと風を切って飛んで来た。その毛ほどの先に、新九郎は逸早く吉祥房の胸元へ、

「エーッ」

と一文字に突いて行ったので、杖は空を打って板敷きへピシリと刎ね返った。

「残念!」

と吉祥房は、新九郎の突きをさっと体斜めにかわして、その隙に手繰り戻した金剛杖を、兜巾ときんの頂きへ振りかぶって、

「微塵になれッ」

とばかり打ち落したやつ、ガキリ横にかざした木太刀で受けた新九郎、右側へ薙ぎ捨てて、とんと一足踏みこんだが早いか、例の縦横無尽の筆法で息も吐かせずに打ち捲くした。この勢いにさすがの吉祥房もジリジリ下がりに追い詰められ、あわや道場の羽目板を背負った刹那、最後の渾力こめて打ち込んだ一刀、あッと叫んだかと思うと金剛杖の先をぽんと突いて、ひらりと新九郎の肩を跳び越えてしまった。

「あッ――」

とこの離はなれ業わざにさすがの新九郎も、驚いて振り顧る途端、既に夜叉王の如く眼を怒らした吉祥房の杖が唸うなりを生じて頭上へ来た。型の剣術には不馴れでも、真剣に覚えのある新九郎、こんな場合にはすぐ必死の無念無想になる。最後だ! と思ったから捨身になって、両手に握った柄を臍へそに当ててズンと押して行った間髪の差、吉祥房の杖が新九郎の頭こうべを砕くより早く、彼の脾腹ひばらを木剣の尖さきでドンと衝き当てたので、さすがの吉祥房も杖をふりかぶったまま、ずでんと仰向けに倒れて、ウームと気絶してしまった。

七

この大胆不敵な勝負を見た大円房覚明、みるみる怒気心頭に発して、声荒ららかに、

「すぐ続けッ。無明房むめいぼう――いや、この上は手早く四天王の方々より一名出られい!」

と叱咤しったした。声に応じて進み出た者は、これなん大円房が四天王の随一人、河内房了海かわちぼうりょうかいという六尺豊かの大山伏であった。

「あいや春日殿、某それがしは当道場の四天王の一人、河内房と申す者、金剛杖の馳走ばかりにては定めし貴殿も飽きつらん。拙者は鏡智流の独壇とする戒刀型の木太刀をもってお対手申さん」

と倨傲きょごうに云い放った。変った物は何でも望むところと新九郎は勇気凜然。

「それこそ望むところ、願わくば戒刀の秘訣を拝見致したい」

「おおよく申されたり。臍ほぞを噛んで後に吠え面づら掻かかるるなよ」

と河内房が引ッ提げて来た革袋から抜き出したのは、鉄の如く磨き澄ました、栴檀せんだん造りの無反三尺の木太刀、これぞ優婆塞うばそくが常住坐臥に身を離さぬ戒刀になぞらえて、作りなしたる凄い業物わざもの。悪鬼怨霊あっきおんりょう、天魔鬼神も挫ひしぐという大円鏡智流の手並やいかに。

「いかに春日殿、お仕度はよきや」

「ご念におよび申さぬ」

と二人の面上、早くも一脈の殺気満々。

「ええッ」

と新九郎は木剣を引いて下段に構えた。同時にオオッと、栴檀刀を大上段にかぶった河内房は、柄頭つかがしらを兜巾ときんの辺りに止め、熒々けいけいたる双眼を新九郎の手元へあつめて、両腕の円のうちから隙もあらばただ一挫ひとひしぎにとにじり寄った。それに圧せられず、新九郎もここぞ天の試練と木太刀にあらん限りの精をこめたが、元より新九郎の技倆は、円熟な百練の技ではない。真に起死回生の解脱げだつから、大願の一心と不敵な胆で総身を埋めてしまった、いわば一念と度胸で行くだけであるから、河内房の老練な眼から見れば全身ほとんど隙だらけである。

しかし、その隙だらけの新九郎へ、戒刀をとっては宇内うだいの山伏の中でも音に聞えた河内房が、なかなか易たやすくは打ち込んで行かれなかった。その理由は、新九郎のいわゆる一心大胆が遮さえぎるのでもあろうが、河内房の老練な眼から見た新九郎の構えというものは、実に彼の内心を寒からしめるものがあったからである。

それは何であったか? 河内房は新九郎の如何なるところを見て慄然りつぜんとしたのであろうか?

八

河内房了海は、さすが大円房の四天王随一と云われた人物だけあって、あらゆる行法に長たけ、殊に人物を観みるにかけては透徹とうてつの眼識をそなえていた。

今彼が新九郎の機微きびから見出したものは、実に薄衣に包んだ名刀が、晃々こうこうたる光りをうちに隠して現われないような彼の天才である。面おもては女の如く美で、中肉中背の骨格は何らの研磨を物語っていないが、新九郎が自然に備えた黒耀こくようの瞳、柳の臂力ひりょく、体の屈折など、髪の先から足の爪までほとんど神が一人の剣聖を、この世へ試みに送り出した者かと思えるほど整っている。しかもそれはいまだ何ら俗剣術の型にはまっていないからすべてが自然であって、すべてが怖るべき天才的の閃めきに見えた。

「後世実に怖るべき奴――」と、刹那に河内房が恟ぎょッとしたのはこのためである。しかし、かかる奴はいずれ後には当流の大敵、いまだ技の未熟であるこそ幸い、うんと懲こらして、あわよくば腕の一本ぐらいは挫くじき折ってくれんと、窺うかがいすまして新九郎の右小手の隙へ、

「ヤッ」

と一声栴檀刀せんだんとうを打ち込んだ。ひらりと素速く身を竦すくめた新九郎は、その時、下段の太刀を疾風と捲いて、ブンと勢い鋭く河内房の毛脛けずねを薙なぎつける。猪口才ちょこざいなと跳ね上がった河内房は、再び大上段から新九郎の肩口へビシリと拝み打ちに来たのを、ヤッと払って返す太刀と敵の三の太刀がガッキと火の匂いを発して十字にぶつかる。陰陽一上一下、続け打ちに五、六打合ううち、思いがけない河内房の足がツと新九郎の内股へ入って外輪そとわにぱッと蹴離したので、木剣にばかり気をとられていた彼は、

「アッー」

と叫んで斜めによろめいたところを天飈てんぴょうの如き河内房の強力で、新九郎の小手を強したたかに打ち込んだ。

「参った」

と新九郎の無念の声。河内房は耳に触れぬ振りをして、続けざまにピシャリッピシャリッと五、六本続けて打ち込んだので、新九郎は摚どうと仰向けにたおれてしまった。

「こりゃ理不尽な……」

と刎ね起きた新九郎の額には、無慚な血潮が滲にじんでいた。

「何が理不尽、それゆえ前もって当流の掟おきては申し聞かせてある。未熟な腕前で他流試合を望みなど致すから、かような目にも会うのだ! 馬鹿めッ」

と河内房が続けて栴檀刀せんだんとうをもって擲なぐりかけて来たので、新九郎はむッと引っ掴んで、

「己れッ無礼な!」

と蒼ざめた顔色に髪を乱して睨みつけた。

「やあ河内房、痩せ侍の吠え面見るも笑止、引ッ掴んで表へ抓つまみ出してしまえ」

と大円房は憎態にくていな嘲笑を泛かべながら下知した。と、ばらばらと立ち上がった柿山伏の門輩どもは、一人の新九郎の手を取り足をすくって玄関口より引き摺りだして、

「ざまを見ろッ、いい笑われ者だ」

と思う存分の罵詈ばり悪口をかぶせて、どんと門外へ突き出してしまった。

九

春日新九郎はしばらく無念のあまり、倒れたまま、はッたと大円房の門を睨みすえた。

「おのれ悪山伏めら、この新九郎が上達の暁には覚えておれよ……」

とすごすご塵を払って立ち上がった。既に夜に入っていたので、通る人目にこの醜態を見られなかったのは、せめてもの僥倖ぎょうこうであった。

無念無念でかたまっていた新九郎は、どこをどう歩いて来たかしばらくは気づかなかったが、鼕々とうとうという水音にふと面を上げて見ると、ここは保津川の川縁かわべり、彼方あなたの青巒せいらんから一面の名鏡ともみえる夏の月がさし上って、大河に銀波を縒よっていた。

その涼しさに、新九郎も冷静になった。彼の嚢中のうちゅうは宿銭にも乏しかったので、今宵はここの河原蓬よもぎを衾ふすまにして夜を明かそうと心を決めた。そしてごろりと身を横たえながら、澄み渡る真如の月の冴えを見つめて、ただ想うのは剣つるぎの工夫、ああ如何にしたら名人になれるであろう。いつになったら鐘巻自斎を打ち込むことが出来るだろう。それを思えば大円房の如きは心にかけるほどのことでもない。むしろ武神が我れを鞭打つ激励ではないか。

新九郎はそう心をとり直して、月そのものの、清らかさに返った。夜は更ふけた。露ふりこぼす河原の青芒あおすすきに、そよそよと吹く風も冷たい。するとそこへ、ざッと水を切って来た一艘の屋形船がある。涼風に灯を吹き消されたか、はためく草の中は真ッ暗であるが、中に蠢うごめく三、四人の黒い影が、船を岸に着けると、すぐ総かがりで一人の女を抱き上げて来る様子。

「はてな……」

と新九郎は物蔭に身を潜めていると、浅瀬の水をザブリザブリと踏んで来る男の群は、必死にもがく女の力を押さえきれずに、岸へ着くとすぐ、どっかと猿轡さるぐつわをはめた女の体を抛りだした。

「こん畜生め、怖ろしい力を出しやがる」

と一人の男は、あたりに人影が見えないのに安心し、腰を下ろして一服という様子であった。

「おいおいお嬢さん。お前が幾らじたばたしたところで、男の腕から逃げられるものじゃあねえ。いい加減に往生しねえ」

「そうとも、大体親分が助けてやった命じゃねえか。いわば命の大恩人だ、そのお方の云うことをきかねえから、今までてめえにかけた入費の代りに、祇園ぎおんへ売り飛ばしてくれるのだ。それが嫌なら親分の妾になれ」

「どうだいお嬢さん、ここらで考え直しゃあ間に合わねえこともねえ。うんと云って俺の云うことに従うか」

「畜生、まだ強情に冠かぶりを振ってやがる。やいッどうだ」

と寄ってたかって声も得立えたてない女を、びしびしと苛さいなんでいる有様、見兼ねた新九郎は前後を忘れてばらばらと躍り出した。

「これ町人ども、見れば繊弱かよわい女を捕えて、何と致すのだ」

「な、何だと」

中で屈強な長脇差の男が、グイと両腕の袖をまくり上げて凄い血相。

「余計な差出口を叩きやがるな、てめえたちの知ったことじゃねえから引ッ込んでいろい」

「控えろ! かかる狼藉ろうぜきを致しながら無礼な雑言ぞうごん、捨て置かぬぞッ」

「利きいた口くちを聞くねい。やいッ野郎ども、この邪魔者から先へ大川へ叩ッ込んじまえ」

「己れッ」

と新九郎は早くも身構えて、

「青二才覚悟!」

とのっけに脇差を振り込んで来た奴の、手先を掻い潜ってどんと体当たいあて。

「洒落た真似をしやがった。それッ畳んじまえ」

と一同は一足開いて、ギラギラと月に射返る大脇差を抜きつれて、新九郎を押ッとり囲んだ。

愛慾流転あいよくるてん奇遇きぐうの辻つじ

一

いつみても、臙脂えんじいろの毒の花に、甘粘あまねばい蜜をたたえているようなお延えんは、湯上がりの濃粧のうしょうを籠行燈かごあんどんに浮き立たせて、肱ひじかけ窓から、前の小六を流しめに見ていた。

畳四、五尺離れて、小六は酒を飲んでいる。手酌で――むッつりと、酌つげとも云わず、注さそうかとも云わない。唯チビリ、チビリと。

ここは大津の宿、唐崎屋という旅籠はたごの下座敷で、簾すだれの目より細かい琵琶湖のさざ波をなでてくる涼風が、中庭の篠しのを漉こして、座敷のむし暑さを絶えず吹き掠かすめてくれる。したが、お延と小六の間に、べッとりなすられた気まずい空気は、容易にさらりとしそうもない。

ピチリと、苦しそうに盃の口を鳴らした小六は、やや冷ひやかすような口吻くちぶりで、女に顔を向けた。

「どうした? だいぶ根よく鬱ふさぐじゃないか」

「当りまえさ」

お延はそれをきッかけに、一層不平な色を、ありありと、男の眼へ見せつけた。

年増としまの恋の、熱と手練をくだいて、連れだした新九郎を、むざと、この男に引き裂かれて、もう自分では、鼻についている悪縁の縒よりへ、再び綯ない込まれてしまった運命の不服と、もう一つはかなり纏まとまった路銀を、山から逃げてくる途中で落してしまった災難――この二つは、みんな小六のせいの如く考えられて、お延の現在いまを無性に焦立いらだたせているのであった。

「当り前? ……また不貞ふてくさっていやがるな」

「だってそうじゃないか、考えてもご覧なさいよ。江戸へ行くまでには、まだ何百里っていう道のりだよ、大津くんだりで、鐚銭びたせんもなくなっちゃッてどうするのさ」

「どうにかなるよ。世の中はそんな融通ゆうずうの利きかねえものじゃない。愚痴を云ったって始まるもんか」

「七日とたまった宿銭だって、払う工夫のつきた今だよ。太平楽に酒ばかり飲んでいて、この先どうする気でいるのさ。アーアこんなことなら、危ない命の綱渡りまでするんじゃなかったよ。山荘やまにいて姐御姐御と立てられていた方が、どんなに幸せだったか知れやしない……」

「お延ッ!」

ガチャリと、膳へ盃が落ちてわれる――ともう、小六の脇の下から、急所を狙う蝮まむしの鎌首かまくびにも似た太刀の柄頭が、ピタリと向ッていた。

「もう一度云って見ろッ。もう一度、その不貞腐れを小六の前で云って見ろ!」

「云うともね! わたしゃいいますよ」

「云えッ」

とガタガタと、疳かんにふるえた小脇の鍔鳴つばなり、手もガッシリと柄を握って睨みつける。

「その舌の根を動かして見やがれ、真ッ二つだ。さッ、吠えろ!」

「あーッ、わたしゃ……忘れられない!」

お延はそう云って、しどけなく酔った女の囈言うわごとのように、肱つき窓へ俯伏うっぷして叫んだ。

二

「新九郎さんのことが忘れられないよ!」

「な、なんだと、気狂いッ」

「ああッ恋しい――新九郎さんがわたしゃ恋しい」

「うぬ!」

まッ黒な嫉妬ねたみにつつまれた小六は、忿怒ふんぬに晦くらんだ力まかせ、可愛さあまったお延の姿へ、きらりと抜き浴びせて行った。

「あれッ――」

壁の隅へ、飛び退いたお延を追って、ぬッと、引ひっ提さげ刀で小六が立上がった時、廊下仕切りの簾すだれの外を、涼やかな浴衣のかげが、チラと通り過ぎたので、彼は慌てて抜刀ぬきみを背中へ廻して坐ってしまった。

「こ、小六さん……」

とお延は動悸どうきを押さえながら、真ッ蒼になって居竦いすくんでいるところから云った。

「お前さんは、どうしてそう酒癖が悪いんだろうね……、その刀を鞘に入れておくれよ」

「畜生め」

と小六は、ガブガブと左の手で、燗徳利かんどくりからあおりながら、睨みつける。しかし恐怖におののく妖花の姿を見ると、その瞳は、いつかお延の甘い蜜糖みつとうにとろけて、背中へ廻した大刀を、再びふりかぶる勇気も挫くじけてしまう。

要するに、小六の殺伐さつばつなる刃物は、お延を繋つないでいる強い鎖であり、お延のもつ豊醇ほうじゅんな年増美は、男をとろかす毒液であった。そして情熱でもなく、夫婦愛でもなく、不思議な悪縁の糸に結ばれ合って、互いに離れることも、殺すことも出来ないで、自暴やけの底に、のた打ち廻っているのが姦夫かんぷ淫婦いんぷの浅ましい実相じっそうであった。

しばらくすると、どっちからともなく折れて、お延は小六に機嫌直しの酌をすすめている。

「ほんとに男は怒りッぽい。女の愚痴は、先を案じるからですよ。つまり、お前さんの身も思うからじゃありませんか」

「だからよ、俺だって、まんざら考えのないこともないのだ。いろいろ魂胆は砕いているのさ」

「何か、いい分別はないものかしらね……」

「お延……」

と小六は、その時矢庭にグイと女の肩を引寄せて、何かヒソヒソ囁ささやいた。

「えッ」

とお延は蒼くなって、あたりを見る。

「厭いやか?」

と小六の眼は鋭くお延の顔を射た。

「厭じゃないけれどさ……むこうが侍じゃ、ろくな金も持ってやしまいと思うのさ」

「ところが、夕方宿料を払っているのを、俺がこっちから睨んだところでは、まず、ざッと二、三百両がとこの路銀は持っているらしかった」

「へ……だが、もしやり損なったら?」

「その時は、俺が踏ふん込ごんで一太刀よ。お前の仕事に外はずれはあっても、投げ槍小六の腕に狂いはないから安心しろ」

「したが、あんまり気味のいい仕事じゃないね。対手あいてが侍と来たひには、枕さがしも命がけだよ」

「叱ッ……」

と小六は、お延が肩をすぼめて云う言葉を制して、凄い眼差まなざしを、廊下の跫音へ振り向けた。

三

ぐッすりと、夢の果てまで、眠り落ちた短夜みじかよの真夜中過ぎ――部屋の窓から、ひらりと、外庭へ跳びおりた小六は、ややしばらく姿を隠していたが、再び窓口へ顔を出して、低い――聞きとれないほどな声で、何かをお延に合図する。

お延は、さすがに胴ぶるいを禁じ得ないかして、片手で乳を抱き締めながら、そッと間あいの仕切りを開けると中は闇、そこは空間で、隔てた次の間には、目星をつけた侍の鼾声いびきがする。

するすると、蛇身じゃしんのようにうねり寄って、二度目の襖を、ジリ、ジリ……と、一、二寸ずつ開けた時、お延は思わず、喉をゴックリさせて、息を吸い止めながら、中を窺うかがった。

戸閉とざざさぬ「戸閉とざざさぬ」はママ縁から、吹き込む夜更けの冷たい風に、青い波を縒よっている蚊帳かやの中なる夢心地は、前後不覚の態ていであった。

白い悪魔の手は、苦もなく蚊帳の裾から忍びこんで、枕元の一包みを掴んだ――ニタリと、凄絶な笑えみを片頬に見せたお延は、同時に、音もせず身を退ひいたが、どうしたのか、次の部屋までくると、着物の裳すそがピンと張ってしまった。

「? ……」

恟ぎょッとして振り顧ったが、蚊帳の中の侍は依然たる様子。だのに、引いても、もがいても、裳すそは何物かに食い止められて、お延の体は、それより一寸も退のッ引ぴき出来なかった。

「ちょッ……」

と軽い舌うちをして、手探りで撫で廻すと、閾しきいと裳を縫ぬい止めに、突き刺さッていたのは一本の小柄。

「あッ――」

とお延は驚いて、力任せに引きちぎろうとした途端――

「女ッ、待て!」

と耳をつんざいた一喝。

「こ、小六さん――」

とお延の喉を衝き破った声と一緒に、縁側から躍り込んだ投げ槍の小六、ふりかぶった大刀をきらりと一閃いっせん、蚊帳かやの吊手の落ちるのと共に、ズンと中を目がけて斬り下ろした。

「むッ」

と叫んだのは、刀下の人ではなくて、どこをどうすくわれたのか、どんと、お延の側まで投げつけられた小六の呻うめきだった。

「不埒ふらちな奴やつだ」

と飛び起きるが早いかその胸元を取ッちめた侍は、黒漆長髯こくしつちょうぜんの偉丈夫、音声容貌、かの鐘巻自斎かねまきじさいにまぎれもない。

音無瀬河原から、忽然こつぜんと姿を消し、福知山の城下へ入ろうとして果さず、由良の伝吉を激流の瀬へ投げこんだまま、いずこともなく立ち去った鐘巻自斎を、平凡な田舎武士ざむらいと見て、枕さがしの毒手を伸ばしたのは、まったく、奸夫奸婦の運のつき、眠り獅子の髯ひげへ、浅慮あさはかにも手をやったに等ひとしかったのである。

「シッーしばらく。しばらくお手をッ……」

と組み伏せられた小六は、ばたばた畳を足掻あがきながら呻うめいた。

「意気地もない分際で、人の閨ねやを窺うとは、底の知れぬ呆痴者たわけものめが、必定、その女を手先にして渡り歩く道中稼ぎであろう。諸人のため、代官所へ引き渡すから左様心得ろ」

「しばらく、ご立腹はさることながら、決して左様な者ではござらぬ……お延、お詫び申せ、お詫び申せ」

「お武家様、まことに私の心得ちがい、どうぞ、おゆるし下さいまし……この通りでござります」

毒婦の機転は、巧みに小六の調子をうけて、ほとんど、涙にむせぶような哀音で、口から出まかせに自斎の前へ、縷々るるの詫び言をくり返した。

二人は舅しゅうとの仇かたきを尋ねる者で、永い流浪の生活に困こうじ果てている身だというようなこと。仇が江戸にいるという手がかりを得たが、路銀もここへの払いも尽きたので、ふと、大望を果したい一心で、怖ろしい出来心に駆られたというようなこと――それはまるで、嘘でこね上げた哀れッぽい詭弁きべんを武骨純朴な鐘巻自斎は、すッかり信じて二人の罪をゆるして懇々の諭しを与えたばかりか、五両の金まで恵んだ上、密ひそかに居室へ帰してしまった。

危ない命拾いをした二人は、定めし後で、擽くすぐり笑いを洩らしたろうが、鐘巻自斎自身は、若い男女を、危険な十字路から救ったように愉快であるらしかった。そして彼は、夜が明けるか明けないうちに宿を立って、朝霧の大津の町を、湖水に沿って歩いていた。

と、この朝早くから、もう宿次しゅくつぎの駕、飛脚屋などが、雑鬧ざっとうしている立場たてばの茶店から、じッと異様な眼で、自斎の姿を見るより、軒を離れて突ッ立った旅姿の男がある。

四

脚絆素わらじ、銀の脇差の一本落し、身軽に裾を端折はしょって、背中へは、桐油紙とうゆでくるんだ細長い物を、斜はすかいに背負い込んでいるが、長さ、反そり工合ぐあいからみて、中身の品は確かに刀らしく見える。

その男は、余人でもない、由良の伝吉であった――正木作左衛門から託された一言と、餞別はなむけの品とを、春日新九郎に渡したい一念で、丹後から京都路へ追いかけて来たが、八方の街道口、宿場、立場へ頼んで、手分けをして尋ねている甲斐もなく、ついに、今もって巡めぐり会あうことができない。

その筈、新九郎は途中から、思いがけない波瀾に遭遇して、まだ、京都の土は一足も踏んでいなかったのだ。

しかし、自分が先を越しているとは、まさかに思いつかない伝吉は、今日は大津から小浜街道へ伸のして見ようかどうしようかと、捜索の方向に迷っていたところを、フイと、眼先を掠かすっていったのが忘れもしない、怨敵おんてき鐘巻自斎の姿であるから、われ知らず刎ね上がった。

「野郎、こんな所に?」

と、伝吉は何の思慮もなくスタスタ後を尾つけだした。しかし、今となっては、どこまでも春日新九郎と、尋常の勝敗を決しさせるべき大切な対手あいてである。元より、迂濶うかつな手出しをする気はないのだが、この場合、指をくわえて、彼の姿を見のがすのはいかにもむざむざな気がしたのである。

宿はずれを急いで、ちょうど、柳ヶ崎の間の松原へさしかかった時、

「もし、ちょっとお待ちなすっておくんなさい」

振り顧った鐘巻自斎は、不審いぶかしそうな顔で、

「何じゃ」

と、鷹揚おうように足を止めて待ち構えた。

「お珍しゅうございます。鐘巻自斎様、わっしは由良の伝吉でごぜえます――とだけでは、お覚えはございますめえが、つい後月、丹後の湧井郷わくいごうで、河の中へお前さんのために、逆とんぼを打って、抛り込まれた野郎です」

「おお、あの時の血気者か。して何ぞ用か」

「血気者はおそれ入りました。用と申しましても、藪から棒にはお話がしきれません。済みませんが、そこらへ、お掛けなすッて下さいませんか」

「よかろう……」

と自斎は気軽く、伝吉の所望を入れて、波うち際へ腰を下ろした。

さて、こう面と対むかって、開き直ってみると、磊落らいらくには見えても、さすがに富田とだ三家、随一人の名剣客、素町人の頭ずを圧するような威風を備えているが、町人種の中でも、ひと節筋骨の鍛えが違う由良の伝吉も、またそれに圧倒されているような男ではない。

「用と申す趣は?」

短いが重味のある一問、名人の眸ひとみと、胆ッ玉の光を現わしている伝吉の眼とが、まずもって、ガッチリ火花を散らすように出ッくわした。

「お引き止め申して相済みません。実は、烏滸おこがましゅうございますが、さるお人に代って、お願ねげえ申したいことがあるんでごぜえます」

「ほう……? 拙者に願いというのは何か」

「いつ何刻でも、此方から仕合を申し込んだ時には、場所がら問わずに、決して嫌と云わねえという約束がして貰いてえのです」

「変ったことを申す奴じゃ、しかし、その当人の姓名も明かさず理不尽な頼みではないか」

「こいつはご尤もです。ではお話申しますが、生命いのちのある限り、お前めえさんから一本の勝ちを取らねえうちは、男一匹になれねえという者は、何をお隠し申しましょう、春日新九郎様と仰っしゃるお方です。さ、どうか誓っておくんなさい」

「待て、春日新九郎? ……重蔵殿の間違いではないか」

と自斎はかがやかしい眸を更にじっと向けた。

「いえ、新九郎様と仰っしゃるのは、その重蔵様のご舎弟でごぜえます。ここまで申し上げたら、どんな意気地か、武士道の止むないところが、おおかたお察しがついたでございましょう」

「む、では重蔵殿のご舎弟は、兄に似つかぬ臆病者とほのかに承っていたが、この自斎に向って雪辱の仕合を致したいとまでに、奮い起たたれたのか」

「お眼力、間違まちげえのないところです。わっしも及ばずながら、どこまでも新九郎様の後ろ楯となって、五年十年はおろか、おめえさんの命がある限り、此方の命がある限りは、きっと打ち込むだけの腕前におさせ申して、桔梗河原の敗けを取り返す心意つもりですから、どうか、今からご合点しておいておくんなせえまし」

「む! そうなくてはならぬ」

と会心の笑みを洩らした自斎は、そこで、明快な一諾いちだくを与えた。

「伝吉とやら、そちの気骨、新九郎殿とやらの意気組み、自斎大いに気に入ったぞ、いや、失礼じゃが気に入った――いかにも、今の頼みは承知致した。ただし、広言ではないが、富田流三家の秘法に達した拙者を打ち負かすほどの腕前にならるるには、尋常一様なことでは難かしい……と云って、武士と武士、剣にかけては、決して恵めぐみはかけぬ心底しんてい、必ず充分な腕を鍛えて来られねば相成らぬ」

「云うまでもございません。じゃ一筆書いてもらいましょうか。幸い、新九郎様へお渡しするこの品と一緒に差し上げれば、何よりよいお餞別はなむけでごぜえますから」

「しかし、もう一ツ断っておきたいことは実は拙者の身の上も、ご生死のつまびらかならぬ、恩師富田五郎左衛門先生の行方を尋ねて、ある剣法の懐疑の一点をお糺ただし申さねばならぬので、かく諸国を経巡へめぐっているのだ――じゃによって、住地ところを定めて、新九郎殿の来るのを、待っている訳には参らぬ」

「それは百も承知です。どうせまだ、これからご修行の新九郎様も、永い苦行の旅をお続けなさる体です。ただ後日の証しるしに一札いっさつお貰い申しておけば、一つは励み、一つはわしも後ろ楯の的まとが立つというものでごぜえます」

「認したためてやるは易いが、折あしく、矢立やたて懐紙かいしの用意もないが……む、金打きんちょうしてとらせる」

八幡、熊野の誓文より、重しとする、武士の金打。これ以上の誓はない。

五

それから二日おいた三日目には、京都七条口から発して、丹波街道の沓掛宿くつかけじゅくから、老坂峠おいのさかとうげの切所せっしょを一散に急いで行く、由良の伝吉の姿を見出すことができる。

なぜ、にわかに伝吉が、この街道を丹波に向かって急いで来たかというに、顔馴染かおなじみの飛脚屋が、原山峠から園部へ出る間で、たしかに、春日新九郎に会ったということを耳にしたからであった。

針葉樹の茂みから、涼やかに洩れる夏の陽も、七刻ななつ近くに仰がれる峠の一筋道、由良の伝吉は、ふと行く手にあたって、二人の旅人が肩をならべて行くのに目をとめた。

「はてな、見たような奴だが……」

と足早に追い着いたところで、振り顧ると右の一人が、慌てて、饅頭笠まんじゅうがさのツバを持って顔を隠した。

おかしな挙動を――と、伝吉は行き過ぎた足を戻して、不意に、

「もし、煙草の火を一ツお貸し下さいませんか」

素知らぬ振りを努めている男の前から、笠の下を覗き加減にして煙管を出した。男はそれに往生した様子で、

「や、由良の親分じゃございませんか。妙な所でお目にかかりましたなア」

と初めて、気がついた様子をわざとらしく、誇張して口を切った。

伝吉が見たようなと、思ったのも道理で、その男は、同業だが仲の悪い、宮津方の用達元締もとじめをしている、舞鶴の新造の身内で、独鈷どっこの仁三にざという者だった。

「おお、どうも似た後ろ姿だと思っていた。そして、そっちにいるのは?」

「え、何、こっちの衆は、稼業違いの者なんですが、旅は道連れ、舞鶴まで帰けえる人だっていうから一緒になったまでのことです」

と仁三は、狼狽うろたえ気味で、言葉を濁しているうちに、伝吉がジロリと一方の顔を見ると、山陰地方の食い詰め者で、所払いになった、痣あざの久六きゅうろくという名うてな悪女衒わるぜげん、いよいよ変な同行、こいつは何か魂胆のある旅だと睨にらんで、それから道づれになりながらも、いろいろ鎌をかけたが、仁三も容易に尻尾は見せない。

浄法寺並木から、亀岡の城下、そろそろ陽が暮れかけてきたにかかわらず、どっちも宿を取ろうとは云わない。ただ、仁三の方では、しきりに、伝吉と別れよう、撒まこうとする、気振けぶりが見える。

「親分、ご都合もございましょうから、どうか、先へお急ぎになるとも、また亀岡へ戻って、宿をお取りになろうとご自由にどうか……」

「おめえたちの方は?」

と伝吉は逆手さかてに出る。

「わっしどもは、どうせ素すなしの旅ですから、旅籠銭助けに、歩く心算つもりでごぜえます。とても親分方と、おつき合い申す訳にはめえりません」

「じゃ、俺もぶらぶら歩くとしよう。夏の夜旅というやつも洒落たものだ」

「へ、でも……」

と仁三と久六と、ちょっと厭な目交ぜをしたが、伝吉は涼しい顔で、折から明るみかけた月を後ろに澄まして行く。

すると、とある森蔭の辻堂の縁に、なにかガヤガヤ喚わめきながら、街道を見ていた五、六人の影――いち早く仁三の姿を見ると、バラバラと駈け寄ってきた。

「おッ仁三兄いじゃねえか。どうしたんだ」

「約束の時刻に来ねえので、どんなに番狂いしたか知れやしねえ。おや久六、なぜ駕を持って来ねえんだ。ちぇッ、どこまでドジに出来てやがる」

と、のッけから、散々に我鳴り立てるので、独鈷の仁三が、しきりに眴めくばせした効かいもなかった。

「そっちの来るのが遅いために、船から玉を上げていると、この先の河原で、飛んだ無茶な侍が邪魔に入へえってしまったじゃねえか」

「グズグズしていると、また、そいつが、ここへ追ッかけて来るところだ。それにしても、駕の用意をして来ねえなんて頓馬があるものか」

「オ、おい。まア待てよ……」

と仁三は堪りかねて、手で一同を制しながら、

「由良の親分が、老坂から道連れでツイそうは行かなかったんだ」

と顎をしゃくって身をそらす。

「何、由良の伝吉がどうしたッていうんだ」

とズイと前へ出たのは舞鶴の新造で、よほど何かに、逆上あがっていると見えて、無作法な抜刀ぬきみの引ひッ提さげだ。いや、新造ばかりでなく、他の者すべて物々しい脇差を抜き払っていたのだ。

「おお舞鶴じゃねえか。こんな所へ出張って来て、大そう仰山ぎょうさんな支度、何か喧嘩でいりでもあったのか」

「何であろうと、てめえに打ちあける筋じゃねえ。邪魔になるから、さッさと通るなら通ってくれ」

「ふふん……」

と伝吉は冷笑して、ジロリと鋭い眼をあたりに配ると、辻堂の縁に、酷むごい姿にされた猿ぐつわの女が身をもがいている。

「読めた――いや邪魔だろうが、ここを退どくこたあできねえから、そう思ってくれ」

「何だとッ」

と殺気をうごかせた抜刀ぬきみの影。

「仁三、邪魔者から先に畳んじまえッ」

と叫んで、新造が身を退ひくと、入り代って、

「命は貰った!」

とふり込んでくる脇差の乱れ打ち、閃々せんせん、たばしる氷雨か、石火の稲妻。

「何をッ」

と同時に、身を屈かがませて、横薙ぎに抜きつけた伝吉の大脇差。腕に正法な鍛えこそないが、満身の胆たんと、まずもって、命を剣の先に捨ててゆく、彼一流の斬り合い。

「うぬ!」

後ろ袈裟げさを狙った、女衒ぜげんの久六の道中差。かわして、のめり流れた背中へ、ピュッと一太刀浴びせつけた。

「さッ、来い」

返り血に染まった伝吉は、いよいよ鋭気を増して、辻堂を後ろに、五人の穂芒ほすすきを前に受けた――と、密かに、辻堂の縁を廻ってきた舞鶴の新造は、一段高い足場から、卑怯な欺斬だましぎり――前の敵に気を奪われている伝吉の脳天を狙って、音もさせずに大脇差をふりかぶった。

その足許には、ほとんど、生色もない白い顔を、乱れ髪の中へ、俯伏せた若い女性が、剣の音も、修羅の火花も、うつつのように倒されている。

六

川波の鼓つづみ、蓬よもぎの虫の音。月かげの銀を、鱗うろこに縒よって寄せて、保津川の夜は、まばゆくひそやかに冴え返っていた。

不意に、一ひとむらの青芒あおすすきの中から、むッくりと、身を起した若い侍――それは春日新九郎であった。

「ア痛……アつつつ……」

新九郎は片手に抜刀、片手に血みどろな膝を押さえて、草むらから汀なぎさの水ぎわまで転げ出した。

ゴクリと、一口吸った河の水は、時にとって回生の霊味がある。そして血糊ちのりの上から、膝の傷口を捲きしめると、彼の精気は再び月光の世界に、はっきりと蘇生よみがえってきたが、同時に、あたりを見廻して、いまし方の、無慚な不覚が、彼の血潮の中にむらむらと無念を燃え立たせてきた。

あたりには、すでに船の影も、その船から、猿ぐつわをはめた女を拉らっしてきた、荒くれ男どもの姿も見えない。どこへ行った?

新九郎は血眼になった。

「いかに、たしなみのない腕にせよ、対手あいてが多勢にせよ、武士が町人どもの手込めにあって、この態ざまとは、吾ながら浅ましい……」

新九郎は歯ぎしりを噛んだ。あの女を助けてとらせたい為に、五人の町人を向うに廻して、斬り結んでいたのは、今となってみれば夢中。いつか自分は手傷をうけて、気を失った際に、対手は逃げてしまったのだ。

「こんなことで、かりそめにも、鐘巻自斎を打ち込むことができようか」

彼は、よろばいながらも、懸命の力で立ち上がった。何かにつけて、新九郎を鞭打つ対象は、「鐘巻自斎」の四文字であった。

河原を抜けて、街道へ出ると、一筋の見渡される月明り、その小半丁先にあたって、点々と黒い人影、しかも晃きらめくものは、たしかに乱れ入れ合う剣つるぎの光だ。

「あッ、あれだ」

膝の傷手いたでを、噛みこらえて、まッしぐらに駈け出した新九郎の鬢びんの毛けは、風を衝ついて、後ろへ流れる。

七

「面倒だッ」

命知らずに、伝吉の構えた手元へ、鋭く斬り込んだ独鈷どっこの仁三、パチン! 火花に眼を射られて、身を反そりかえした胸先へ、

「むッ」

と金剛力をこめた伝吉の一刀、わッと血煙りが立ったが最期、血をみた狼、ガッキガッキ滅多撃ちに詰めかかる。

受けるは一本刀、さすがの伝吉も、ジリジリと一足一足斬りまくられて、危うく辻堂の縁の角へぶつかるばかりになった時。

待ちかまえていた舞鶴の新造が、ここと、握り直した脇差を、真ッ向にかぶった、途端に、

「おのれッ」

と不意に、新造の脇腹を突いた流星一閃、

「わッ」

と朱あけを飛ばして、縁から落ちた新造と共に、突き刺した者も、折り重なって、どッとそこへ倒れてしまった。

「あッ、親分が――」

と叫んだ他たの者は、気を落してバラバラと逃げだした。それを、七、八間、追い散らしていって悠々と戻ってきた由良の伝吉は、その時、はじめて新造の死骸しにがらから血刀を抜いて、身を起している一人の侍に不審の眼をみはったのである。

むこうも、何者か? という様子で、ジッと伝吉の姿を見透かしてきた。月を背負った伝吉の顔は暗いが、侍の姿は、正面から、ありありと浮き出されている。

しばらく、互いに瞳を磨といで、歩一歩と近づいた時。

「や!」

双方、同時に、そう云ったまま顔を見合せて立ち竦すくんでしまった。

「伝吉ではないか」

「新九郎様? おお! やっぱり新九郎様でごぜえましたか」

伝吉は意外のあまり――嬉しいあまりしばらくはぼんやりしてしまった。

「ええ、まア何ていうお変りようです……僅か見ないうちに、そのお姿、前髪もおとり遊ばして、まったく見違えてしまいました」

「して、そちは何の為に今ごろこの辺りに参っているのじゃ」

「新九郎様、くわしいお話はとにかくも、貴方様の書き遺したお手紙をみて、兄上様は云うまでもなく正木作左衛門様のお喜びといったら、とても、口にも云いつくされねえばかりです。そして、正木様ご自身のお手から、是非、新九郎殿に渡してくれと頼まれたお品がこれでござります」

と伝吉が、背中へ掛けている、桐油紙づつみの品を解きながら、辻堂の縁へ歩み寄った時、再び、はッとしてそこを見た。

新九郎も瞳を吸いつけて、思わず襟もとから、ゾーと水を浴びたように竦んでしまった。

忍しのぶ竹枝ちくし男女ふたり虚無僧こむそう

一

夜風に身ぶるいした大樹の梢から、バラバラと月光の村雨むらさめが降りこぼれた。――そこの辻堂の縁には新造身内のために、誘拐かどわかされてきた女が、縛いましめられた体を雫しずくに打たれたまま抛ほうり置かれているのであった。

やや久しくじっと瞶みつめていた新九郎は、梢を洩るる月光が、女の顔に揺れ動いた刹那、さっと色をかえて、なおも眸をこらしている。と同じように、由良の伝吉も、息をのんで見透かしていた。

なぜ、二人がこうまで愕おどろいたかと云えば、猿轡で、顔の半ばはつつまれているが、その女の、眉、生えぎわ、どこともないすべての線が、千浪に生写しであったから。

けれど、この地上にどんな奇蹟があり得ようとも、千浪が世にいる筈はない――と新九郎も固く信じきッているし、伝吉もあれほど手分けして、死骸まで探したくらい。もとよりその人が、現世にあろうなどとは夢にも思わないところだ。

露にも思いはしない、信じもしない――しかし、今、二人の眸に映うつっている実在は、あくまでそれを裏切っている。見よ、千浪に瓜二つというよりは、ほとんど、その人の変り果てたと同じ姿が、利きかぬ手足を踠もがいて、縁の上で、しきりに猿ぐつわを外はずそうとしているではないか。

伝吉は吾に返って叫んだ。

「踠もがきなさんな。今わっしがとって上げますから」

走り寄って、縛いましめを切りほどき、猿ぐつわを外してやると、待っていたように、女は、わッと声を立てて、そこへ泣き伏してしまった。

「おお、そちは千浪じゃないか!」

何で彼女の声を忘れていよう。新九郎は弾はじかれた如く寄ってその姿を抱き起こした。

女は泣き止まない。いよいよ咽むせび、いよいよ嗚咽おえつするばかり、袖の奥深くへ面をつつんで、ワクワクと身をもみ悩む新九郎に、いつまで、はっきりと顔を見定めさせなかった。

「ええッ、やッぱり千浪様でございましたか」

と伝吉も仰天する。新九郎は心の底から絞しぼるばかりな声――死者を呼びかえすような力で云った。

「これ、そなたは千浪ではないか。身は春日新九郎じゃ。人違いか、まことに、泣いていずとはっきりその顔を見せてくれい」

「し、新九郎様ッ――」

女の腕かいなは、その時いきなり、ひしと彼を抱き竦すくめてきた。途端に、新九郎は茫然と、辻堂の床へ五体をくずしてしまう。ああ夢、夢でなくて、何で千浪のこの声、この力が、ありありとこの身に感じられる訳がない――と現うつつの耳に、

「お、お懐なつかしゅうございました……新九郎様、ああ貴方あなたはどうしてここにおいでなされます? ……」

咽むせびながら、再び云った言葉は、夢ではない。正しく千浪であった。そして、彼女も同じように、現世の月がありありと照る下に、恋人の姿を見た驚きに衝うたれて自失しているのだった。

二

大月玄蕃の毒刃におわれて、新九郎と相抱いたまま、音無瀬川の千仭の闇へ、身を捨てた二人は、変転の波、数奇さっきな運命にあやつられつつ、ここに、ゆくりなくも巡り会った。

それにしても、千浪がどうして助かったかと云えば、あの夜、数時の後に、ある荷船の篝火かがりびに見出された。その船持ちが、舞鶴の新造だったのである。

気を失っていた彼女が、そこで救い上げられたとは、後に知ったことであった。新造の親切も、初めは並ならぬくらいであったが、狎なれるに従って、その親切は、千浪の美貌を手馴てなずけようとする仇あだな野望と変ってきた。千浪は獣けものの檻おりをおそれた。新造はいよいよ露骨に迫ってくる。彼の女房もまた、怖ろしい嫉妬の眼を千浪に向けてきた。一つ軒の下に、浅ましい嵐の渦が絶え間なく起ってきた。

舞鶴の新造は、その結果、別に一軒の家を借りて、千浪をそこへ引き移した。しかし彼女には武士の娘という見識けんしきと、貞操を護る懐剣とがあった。魔ものの爪が伸びようとすれば、咄嗟に死を示す。それにはさすがの毒牙も持て余した。色より慾に引ッくり返った新造は、乾分の仁三を女衒ぜげんの久六の所へ走らせ、手筈をきめて、京の色街へ、千浪を売り飛ばそうと企たくらんだ。それが彼の腹癒はらいせであった。そして、ここまで無理無態に運んできたものである。

月光を辿って来たこの街道は、こうして、新造自身にとれば地獄の道を指して急いだことになり、千浪と新九郎にとっては、意外な浄土が再び二人を迎えたような帰結になった。浮世の輪廻りんねはどこまで変転極まりなく、どこまで霊妙不可思議世界、すべてはこれ、人の世にして人の測り知るところではない。

この七日ばかりの間は、千浪と新九郎にとってどんなに、恵まれた日であったろう。

亀岡の城下の、とある旅亭に落ち着いた三人は、互に種々くさぐさの物語をしつくしたが、新九郎はその翌日から、膝にうけた太刀傷と、五体の疲労で、大熱を起してしまった。

千浪は自分の身を忘れていた。真心の看護みとりは、むしろ溢れるばかりな、幸福感に包まれるものであった。その甲斐があって、新九郎は日ならずして、床を払った。

再び別れねばならぬ日が来た。伝吉は二人の心を察し抜いているが、いつまでもこうしてはいられない、互いの身である。

その朝、由良の伝吉は淋しく、もの改まった。

「では新九郎様、いろいろお話し合い致した通り、ひとまずわっしは、千浪様をお連れして、福知山へ帰ることに致します。どうか貴方様には、後々へお気をひかれることなく、一念、ご修行に出精をお頼み申します。伝吉めも、こればかりが願いでございます」

「おお、伝吉も千浪殿も、どうかその儀は安心いたしてくれ。今は昔の新九郎ではない」

「それから、この一封の路銀、ならびにこの一腰は、どちらも正木作左衛門様からの、お心こめたお餞別はなむけでございます」

「忝けない。不埒者の新九郎へ、かほどまでのお心づくし、徒あだやおろそかにお受けは致さぬ。きっと鐘巻自斎を打ち込んで見せねば、故郷の土は生きて踏まぬと、お言ことづて致してくれい」

伝吉が前へ置いた、来国俊らいくにとしの一刀を押しいただいて、早くも、情愛の紲きずなを思い断きって、果知れぬ旅出の支度にかかる。

うら悲しくもあり、嬉しくもあり、千浪の胸は、不思議な涙と興奮に揺れ返っていた。あれこれと側から心づける何かの用意も、我が手でしながら、吾にもあらぬ心地。

由良の伝吉はまた別に、いつの間にか認したためておいた一封を出して、新九郎に手渡した。

宛人あてにんは、江戸薬研堀やげんぼり、生不動与兵衛いきふどうよへえ様。

花の大江戸で、いま売り出しの名は、当時、関西にまで響いている生不動、伝吉が情を明かして、春日新九郎の一身を頼んだ添え状。

腰には国俊の逸作、ふところへはその一通を納めて、江戸表へ指して立つ春日新九郎と、千浪を連れた伝吉とは、間もなく、亀岡の城下端れで、西と東へ、名残りのつきぬ袖を別った――

三

大きく巡る歳月の流れは目立たず、ここに、いつか二年の春秋が流れた。そして、次に迎えられてきた世の中は承応三年。

初鰹はつがつおも過ぎ、時鳥ほととぎすにも耳飽きて、袷あわせを脱いだ江戸の夏は、涼み提灯ぢょうちんの明りに、大川ばたから色めき立って、日が暮れると一緒に、水へ水へと慕って出る人がおびただしい。

「じゃ船へ入へえるものはこれだけかい。何も他に忘れ物はあるめえな利助」

「大丈夫、酒も料理の重箱も、すッかり行った筈だ」

「よしきた。じゃ親分、船を突っ放しますぜ」

涼みごしらえの山一丸で、一人の男がこう云いながら、舳みよしの繋もやい綱づなを解きかけていると、

「待て、まだ肝腎な者が来ねえじゃねえか」

と胴の間の簾腰すだれごしから、姿を出した者がある。

思い切り大柄な浴衣に、紫紺緞子しこんどんすへ銀糸の入った帯を派手に締め、来て見よがしの唐犬額とうけんびたいという風装つくりは、云わずと知れたこの時代の町奴まちやっこ。薬研堀の生不動与兵衛であった。

「てめえたちは、料理や酒ばかりに気を取られやがって、新九郎様がお見えにならないのを知らねえのか。利助ッ、待っているから、もう一度飛んで行って、早くお誘い申して来い」

「気がつきませんでした。すぐお連れ申してめえります」

と乾分こぶんの利助が、ほど近い薬研堀の部屋へとって返して行った。

春日新九郎が、この江戸の土を踏んでから、かれこれ一年半余りになる。伝吉の添状で、生不動も胸三寸へ快く引きうけ、その後二、三の道場へも就いてみたが、どうも思わしくないので、この頃は武者修行に出ようか、旅に名師を求めて見ようかなどと、しきりに悶えている様子だった。

「そう焦ったところで、どんな名人でも、にわかに腕が上がるものじゃありません。江戸は広うごぜえますから、まア気永に好い先生を見つけ出して、それからみッしりのご修行が肝腎でごぜえますぜ」

生不動は今日もこう宥なだめて、浅草川へ涼みに誘ったところだった。新九郎もその時は、お供をしようと云っておきながら、間際になって姿が見えない。で、利助が急いで見に戻ってくると、長部屋の板の間で、しきりに、エイッ、オッという気当て声が響いている。

「驚いたな、まだやっているんだ……」

と呟きながら覗き込むと、福野流体術の相伝そうでんを受けたという部屋の用心棒――浪人金井一角を対手あいてにして、汗みどろに揉み合っている。

「新九郎さん、新九郎さん――」

四、五度呼んだが、双方隙を睨み合っていて、耳にも入らない。と、いきなり金井一角のすくいにかけられた新九郎の体がドッと叩きつけられた。新九郎が刎ね起きると、また投げつけ、叩きつけ、さらに手強く投げつけた。

「勝負はそれまで。それまで。金井さんも新九郎様も、どうか早く船へお越しなすッておくんなさい」

利助が、いい機しおを引き分けたので、二人は初めて気がついた様子。起き上がって支度もそこそこに、見附前の河岸へ出て行った。

歩きながら、利助はいつもの冗戯じょうだん半分にこう云う。

「口惜しいな、新九郎様はどうしてそう弱いんですえ。熱ッぽいにゃ驚きやすが、いまだに金井さんの体術にかなわねえなあわっしも業腹で堪らねえ、早く腕を上げておくんなせえ」

「馬鹿を申せ。新九郎殿は技こそ備わらぬが、こう一心では、間もなく拙者の上を越されるに違いない」

と一角は気の毒そうに謙遜する。

「こう並んだ後ろ姿をみても、新九郎様と金井さんたあ骨格からしてでかい違いだ。どう見ても山村座の若衆という姿だ。すれ違う女の眼で、こっちへ黒目を流さねえ奴はありゃしねえ、柔術やわらと剣術にゃ不向きに出来ているんだから、こいつあどうも仕方があるめえなあ」

「無駄口を叩くなと申すに」

「いやいや、利助の云う通りに違いない。今日で五十日も工夫していますのに、何としても金井殿の体術が破り得ぬようでは……」

と新九郎は足を運びながらも、涼み船の遊楽などは頭にない様子で、ひたすら柔術の工夫に熱している。その一念な態さまは、往来の者の眼にも、ややおかしいくらいに見えるのだった。

「おお新九郎様。さんざんお待ち申しておりました。たまにはすこし、肩の凝こりをほごさなくッちゃいけません」

舷ふなばたに立っていた生不動は彼の姿を見ると気が済んだ様子で、すぐ繋綱もやいづなを解いて棹さおを突かせた。

今しも、紺色の水が、満々と暮れかけている大川の中へ、一同を乗せた山一丸も漕ぎ出して行く――

慶安時代から流行はやりだした船涼みは、その頃全盛で、岸には船宿の軒行燈のきあんどん、川には屋形や伝馬の灯が縒よれ合って、絃歌の飛沫しぶきに川波の鼓、紫幕立て槍の旗本連もあれば、金襴縁べりの御簾みすを下げた大身のお忍船しのびもまま見える。

酒と云っては 香りにも「酒と云っては 香りにも」はママ咽むせる新九郎は、独り舷ふなべりに頬杖ついて、この美景に見惚れていた。すると、すぐ眼の前を流れ行く一艘の尾形船から、こっちへ向って、不意に、

「あらッ――」

という嬌なまめかしい声。

四

「お――」

新九郎は思わず半身乗りだした。

しかし、向うは下って行く船、こっちは溯のぼって行くところ、見る間に間はずッと開いてしまう。

が、声を投げた女は屋形の外に立っていたので、新九郎の瞳にありありと映った。ぱっと冴えた浴衣着に、人魚のような洗い髪を吹かせてニッと笑った――それはお延に違いなかった。お延の方もはっきりと新九郎を見たらしい。再び声をかける間もなく船と船の間が遠ざかったので、手から、ヒラヒラと何か投げた。それは赤地に草模様を銀摺ぎんずりした女扇だったが、川風にクルクルと舞って、あらぬ方角へ飛んで行った――と、簾を垂れこめていた小形の船の主ぬしが、その扇を拾い取ったらしい。

「よウよウ新九郎様、お安くないところを見せつけやすね」

と胴どうの間まに宴を張っていた生不動いきふどうの乾分は、今の様子を見てドッと囃はやした。新九郎は不快な色を包んで軽く笑っていた。蘭谷あららぎだにが焔となった夜、執拗しつような山荘の妖婦、投げ槍小六――それはどれ一ツとして、快い憶い出であるものはない。

一刻ばかり経つと、俄かに冷たい風が吹きつのって来た。そしていつの間にか、あれ程な船の灯が川から影を消して、三味の流れも唄の声もない一面の寂寞せきばくに返ってしまった。

「あッいけねえ、お船手屋敷から暴風報しけじらせの貝が鳴って来た。親分、今のうちに早く船を引ッ返しましょうか」

舳みよしに出た乾分の駒蔵が、慌てた声でこう呶鳴ったが、命知らずを看板にしている町奴、殊には興に乗じている最中だから、そんなことに耳をかける者もない。船はもう隅田を越えて、綾瀬に近い所まで溯さかのぼっていた。

すると、川上から帰りを急いでくる三艘の伝馬てんまがあった。灯あかりを伏せているので、何者が乗っているか見定めがつかなかったが、故意か流れに押されてか、三艘とも、山一丸の胴の間へ、ドドンとばかり舳を突っかけて来た。

「アッ何だ」

と生不動を初め、船中残らず、揺り倒されて驚く途端に、今まで、酔いつぶれて寝込んでいた用心棒の金井一角がむッくり、起き上がったかと思うと、不意に船中の灯を取って、川の中へ投げ捨て初めた。

「おい何をするんだ」

乾分の利助がその手を押さえたが、既に船中は真ッ暗、おやと驚く刹那に大刀を抜き放った一角は、近寄って来た利助から真ッ先にグザと一太刀浴びせつけた。

「やッ、裏切りやがッたな!」

「廻し者だッ」

と総立ちになる途端、三艘の伝馬船の船底から、バラバラと躍り出した喧嘩仕度の町奴、手に手に脇差を抜き払って、

「生不動ッ、命ゃあ貰ったぞ」

と口々に叫んで、引き寄せた山一丸へ斬り込んで来た。

「あッ、笊組ざるぐみだ!」

「うぬッ」

生不動の乾分、じゃばらの百介、並木の駒吉、その他七、八人も、押っ取り刀で舷ふなべりへ出た。

揺れ返る船の舳みよしに立って角鍔かくつばの一刀を引ッ抱えた生不動は、破われ鐘がねのような声を、伝馬の中に向って叩きつけた。

「やい笊組の虫けらども、それほど生不動の命が欲しけりゃ、なぜ尋常に渡りをつけねえ。冷飯食いの痩せ浪人、金井一角を住み込ませて置いて、今夜の罠わなにかけようたあ、町奴の風上にも置けねえ奴らだ。さッ、生不動の利剣で片ッ端から血祭りにしてくれる。束になってかかッて来い」

「えい、そのご託たくはあの世で吐ぬかせ」

「そう云うてめえは荒神十左こうじんじゅうざと臂ひじの久八きゅうはちだな」

「おお、笊組の怨みは汝うぬの胸にある筈、ここらで観念してしまえッ」

「洒落しゃれたことをッ」

「何ッ」

と笊組の町奴荒神の十左衛門と臂の久八が、生不動を目がけて大刀だんびらをふりつけて行くと、同時に真ッ暗な胴の間、艫ともの方でも、凄まじい斬り合いが現出した。

折から、バラバラとこぼれてきた大粒の雨足が、疾風はやての前ぶれぞと思う間もなく、ドーッと川波を蹴荒していった一陣の異風、途端に、水神の森から、空を真ッ二つに裂さいて走った稲光り。

その時、二人の強敵に気を奪られていた生不動の後ろから、するすると迫って行ったのは、笊組の廻し者金井一角、寄るより早く、声もかけずに、

「むッ」

と一息、力の限り斬り下げようとした間髪、その手に跳びかかって、組みついてきた何者かがある。

「邪魔だッ」

「己れ卑怯であろう」

「む、貴様は春日新九郎だな。及ばぬ腕で邪魔立てすると、その細首を引ンねじるぞ」

「やわか!」

と新九郎は、恩ある生不動の危機と見て、猛烈に一角の喉輪のどわを攻めつけた。その猪突によろりとなった金井一角は、新九郎の腰帯を掴んで、身をねじかえそうとしたが、刹那、既に片足を船板から踏み外してしまっていた。

「あッ――」

というのも浪飛沫なみしぶきの底へ、シッカと組み合った二人の体は、たちまち、荒れ狂う濁流の底へ見えなくなった。

五

流れて行くのか、下へ下へと沈んでゆくのか、新九郎はその瞬間夢中だった。ただ、一角の襟をつかんだ双手だけは離さなかった。

大きな底波は、思うさま二人の体を翻弄ほんろうした。水練の覚えのない新九郎は、たちまち眼もくらんで二、三度水を呑んだが、一角は水技にたけている上、福野流の体術の心得が充分あるので、喉輪を締められながらも、足技を試みて、右手には素迅く短剣を逆手に持つ。

水中ながら、きらりと敵の脇差が眼を射たので、新九郎も必死を超えていた。幾たびか水に喘あえぎながら、彼も脇差を抜いて、滅茶滅茶に一角へ突きかけたが、浮きつ沈みつする間に、息を計った一角は、巧みにその切尖きっさきを避けておいて、新九郎の片手を握り、グイと襟から離して体を自由にした。

その時、もう半ば意識を失った新九郎の体は、一角に振り廻されて、水中でグルリと大きくとんぼを打った――泳ぎながらあらん限りの力を短刀にあつめた一角は、

「畜生ッ」

と、下から新九郎の胴中を見澄まして、グイと狙い突きに突き刺した。

――切ッ尖三寸新九郎の脾腹ひばらをえぐったかと見えた時ゴーッという濁流の渦が、真ッ黒な物をそこへ押し流してきた――上の荒川から運ばれてきた朽木でもあったか、二人の体へドンとぶつかったまま流れ去ったので、さすがの一角も短刀の手を狂わせたばかりか、新九郎の腕を離してしまった。そして、新九郎はと云えば、ほとんど無意識に、体へぶつかった巨木へ抱きついていたのである。

間もなく、彼はすべてが分らなくなった――

水の上の世界は更に凄惨である。吹きすさぶ嵐は鳴りも止まず、水魔の躍り立つ川面かわづら一帯は、篠つく大雨にただ真ッ白に煙っている。

六

笊組ざるぐみ一まきと生不動いきふどうとの、かなり根深い確執は、江戸侠客の本尊仏、幡随院長兵衛ばんずいいんちょうべえの死からその端を発している。

長兵衛が横死を遂げたのは慶安の四年であるから、歳としを繰くれば、今年は幡随院歿後ちょうど四年目にあたる。

笊組の荒神十左、臂ひじの久八なども元は唐犬組や夢組とともに、幡随院一ひとまきの町奴だったが、奉行神尾備前守が、裏面からの運動に迫られて、旗本争闘に与くみした町奴を、残らず召捕る手配にかかった。その詮議せんぎの峻烈しゅんれつさに唐犬組や夢組も、散りぢりばらばら御府内朱引内から足を抜いてしまった。

その後で、二代目長兵衛顔をしている荒神と臂の両人だけが、なぜこの江戸で全盛振りを示していられるかといえば、この両人だけが幡随院歿落と同時に、一まきの者へ寝返りを打って、奉行の手先となって御用を勤めたのみか十手を預って召捕の手まで貸したからであった。

各地に潜伏している者達は、後にこのことを知って歯ぎしりを噛んだが、一足江戸の土を踏めば御用と声がかかるばかりでなく、幡随院の境内で、尼に等しい暮らしをしている、長兵衛の後家お金きんに累るいを及ぼすので、遥かに怨みをのんでいるという有様である。

ただ、ここに一人生不動だけは、長兵衛と交際つきあいこそあったが、親分乾分の縁はなかったので、この災禍から免がれていた。そして、密ひそかに後家のお金へ月々の扶養を送り、遠地に隠れている乾分の便りを仲継ぎして、時節到来を待たしてある。そのために、手広い長兵衛の稼業縄張へ十左と久八が蝕くい込んで行くことができない。是が非でも、生不動一ひとまきをぶっ潰つぶそうと、彼等が絶えず隙を狙っている目的はここにあった。

ところが、生不動一人さえ容易ならぬ大敵だのに、彼の両側には、こんがら重兵衛、せいたか藤兵衛という、膂力りょりょくのすぐれた二人の乾分がいて、事ごとに手をやくばかりだった。

そこで、苦肉の一策を浪人金井一角に授けて、半年も前から薬研堀の用心棒に住み込ませておいたところへ、今夜、ちょうどこんがらもせいたかも連れずに生不動が綾瀬へ涼みに溯るという報らせを受けた笊組は、手ぐすね引いて山一丸を取巻いたのだった。しかし、その結果は、意外な嵐に敵も味方も見定めがつかず、船も散り散りに押し離されて、遂に与兵衛を討ち洩らしてしまった。

生不動の身内では、利助が金井一角に斬り斃たおされた他は、百介も駒吉も薄傷うすでを負っただけだったが、大切だいじな預り人春日新九郎一名が、その夜以来、まったく消息が知れなかった。

「親分、心配したものじゃありません。新九郎様から、この通り飛脚がめえりました」

「なに新九郎様から?」

今も今とて、それに胸をふさがれていた生不動与兵衛は、駒吉が持ってきた書状を、取る手遅しと裏をかえして見ると、春日の姓だけは同じだが下の名が違っている。

「はてな?」

と所書ところがきから読み直して見ると、

「丹州福知山在、如意輪寺境内月巣庵、春日重蔵」

と明らかに認したためてあった。

「間抜けめ、これはかねてお噂に聞いていた、新九郎様のお兄上、重蔵様から来たお手紙じゃねえか。そそッかしいにも程があらあ」

「済みませんでした。わっしも新九郎様のことが、胸先に引ッかかっていたもんですから春日という字だけを見た途端に、てッきりと思い込んでしまったんです。そして親分、その手紙は何でごぜえましょうね」

「さあ、これも新九郎様の宛名になってるから、滅多に封を切るこたあならねえ」

「だけれど、わっしが小耳に挟んでる話じゃ、新九郎様が、鐘巻自斎とかいう者を、剣道の上で打ち込まれねえうちは、お兄上とは、会いもしなけりゃ、便りもできねえ仲だということじゃありませんか」

「そうだ、その重蔵様から、初めて飛脚が来たところを見ると、こいつは何かよほどな一大事が、持ち上がったんじゃねえかと思われるのよ」

「ところがその新九郎様が、今日で三日も生死が分らねえと来ているんだ。親分、重ね重ね心配が降って湧きやしたね」

「こんがらもせいたかも、手分けに行っているんだろうな」

「ええ抜かりはねえ筈です。河岸筋の御番所から船宿の手まで借りて捜しています。今日見つからなければ、あのごた騒ぎの中で、笊組の奴に叩っ斬られたものと見るより他はねえと云って出て行きました」

「む……」

と生不動は、答えるでもなく太息といきを洩らして、重蔵の飛脚状を前に、いつまでも腕ぐみの中へ顔を埋めていた。

七

江戸に、この事あった二月ふたつきほど前である。

いつも日蔭に心をおく大月玄蕃は、相変らず、眉深まぶかな編笠に面おもてを包んで、同じ頃な年配の武士と肩を並べながら、越前福井の城下をブラブラと歩いていた。

四月とは云え、東都と違ってこの辺は、北日本の海からくる風がまだ冷たかった。玄蕃は袷あわせ支度に、浪人とは見えぬ美々しい大小、緞子どんすの野袴という拵こしらえで、右手に鉄扇を持った風采は、今でも宮津藩の指南番席頭せきがしらであった時代の面影がないでもない。

「はての? ……」

ふと呟いた玄蕃は、ぴたと足を停めて、編笠の目堰めせきから、じっと何かをみつめだした。

そこは城下第一の御用旅舎はたご、本陣鍵屋の前であった。見ると、店さきに七ツ八ツの菰梱こもごりが積んである所へ、福知山松平家の御用札が打ってある。いや、それよりもっと強い力で、玄蕃の眸をやきつけた文字は、別に軒へ掛けだしている「正木作左衛門様御用宿」という一行であったに違いない。

決して愚か者でない玄蕃が、あたら自ら、指南番の栄位を棒に振ったのも、盲目的な中年の恋が因もと、千浪に意地を賭けたがためだ。しかも、その意地も通らず、桔梗河原でも武名を失墜おとした憤りは、毒焔の如く、玄蕃に生のある限り胸の底に燃えている。

「大月氏おおつきうじ、何を目にとめておられるのだ」

とつれの武士が不審がるのを捨てて、

「一足お先へお越し下さい。身共はすぐ後から追いついて参るから」

と鍵屋の横手へ廻って、そこにいた番頭に、何事かを問いただしていた。そしてまた肩を並べた二人は、やがて城下端れの、佗びしい浪宅へ姿を隠した。

そこの主あるじは大草額平おおぐさがくへいという者、すなわち、玄蕃と一緒に歩いていた浪人で、何かの縁から、玄蕃は雨龍の山荘を下って以来、ここに同宿して、空むなしい日を送っていたものと見える。

「時に大草氏、不意のようでござるが、身共はいよいよ近いうちに、ここを出立致そうと思い決めた」

家に入った玄蕃は、編笠を片隅に抛ほうりだすと、すぐこう云って、何か決意の色を示した。

「そりゃ余り急ではないか、拙者も其許そこもとも、どうせいつまで北陸の田舎城下で、浪人暮らしでもあるまいから江戸表へでも乗り出そうとはかねて相談していたところだが、何で今日に限って、にわかにそう急せき出されるのじゃ」

「往来中では話せぬゆえ、ここまで黙って参ったが、実は飛んだよい行きがけの駄賃ができた。そこで急に腹を決めた次第」

「ふウむ……その行きがけの駄賃というのは?」

「秘中の秘、滅多に口外ならぬことじゃが、他ならぬ其許そこもとゆえ打ち明け申す――そちらの窓を見て下されい」

と玄蕃は裏口の方を見廻して、さて、再び席へかえると、一段と声を密やかにして、何事かを大草額平に打ち明けはじめた。

八

七日ほど前から、本陣鍵屋に宿泊していた正木作左衛門は、当地へ来た役目も無事におわったので、明日あすは福知山へ帰藩することになっている。

役儀表は、主君忠房の音物いんもつをもたらして、福井の城主松平越前守のご機嫌伺いであった。元来福知山の松平家と福井の松平家とは、姻戚関係のある親藩であったから、この使者は、年に一度は必ずある例になっている。

「藤三郎、今日はご用明きの身となったによって、夕暮まで他出致そうと思う。明朝出立の用意、手ぬかりないようにしておいてくれい」

作左衛門は自分の部屋で、無造作に出支度をしながら云った。若党の藤三郎は、ちょっとそれを手伝った後で、畳をすべって両手をついた。

「ではお供廻りの用意を致させましょうか」

「それには及ばぬ。まことはここから近い鯖江さばえの町に、私の儒学の恩師牛石ぎゅうせき先生がおいでになる。もう滅多にお目にかかれぬ間がらゆえ、十年ぶりでお顔を拝して参ろうと思うのじゃ。槍の挟み箱のという仰々しいことはごくお嫌いな先生、それに暇どりするゆえ、一人で駕で行ってくる。結局その方が私も気楽じゃ」

「でもござりましょうが、せめてお駕わき一人は、是非お供にお連れ下さりますよう」

「む、折角の心配じゃ。では五平でも連れて参ろう」

と云っているところへ、次の間外そとに女中の声がする。

「伝吉様と仰っしゃる方が、お目にかかりたいと申します」

「また来たか――」

と作左衛門は軽く笑った。それは小荷駄御用を引きうけた由良の伝吉で、他ならぬ作左衛門の使者であるため、乾分こぶんに任せず、自身でここまで従ついて来たのであった。

伝吉は別旅籠をとッていたが、昨夜ゆうべも酒の相手によばれて、深夜まで作左衛門と四方山話よもやまばなしをして帰った。その間にも彼は、新九郎が名剣士と折紙打たれた暁には、千浪と夫婦にするという一言の言質を取ろうとして、折にふれ噂にふれ、それとなく二人の身の上を匂わせた。その度に作左衛門の老いの眼はかすかに潤うるんだ。殊に昨夜ゆうべはホロリと一滴の涙さえこぼしたのを、伝吉は初めて見て自分も悲しくなったほどしみじみとして夜を更ふかした。

だが今朝は、作左衛門が出がけであるため、二言ふたこと三言みこと軽い言葉をかけられたのみで、彼は本陣を出て行く駕をなぜか知らぬ淋しい心もちで見送った。

鯖江さばえの旧師を訪ねて、その駕が再び福井を指して戻って来たのは、ちょうどとッぷり日が暮れた頃だったが、四里とはない道のりなので、駕屋はただ一息の足どりで、闇街道ひた走りに飛んでくる。

ほどなく、福井の灯がチラチラ見えだした。駕は一散に、浅水あさみずの並木から真ッ暗な土橋へかかった。と不意に、川添いの水車小屋から、ばらばらと躍りだした黒覆面の影! ややと驚く駕屋の鼻先を槍の飛閃が掠かすむ途端に、駕尻はドスンと地べたに抛ほうりだされてしまった。

「どッ泥棒!」

叫んだ奴は槍先に突き抜かれたか、闇を反そって小川の中へ落ち込む。その隙に後の片棒と仲間ちゅうげんの五平は、足を宙にして逃げ出した。

九

「老いぼれ、これへ出ろ」

と黒装束の槍さきが、ズバリと駕の中へ入った刹那に、千段を掴んだ作左衛門が、眼まなこをいからせてそこへ突ッ立った。

「人違い致すな。何者じゃ!」

「正木作左衛門と知って附けた槍さきだ」

「何ッ」

と老いてはいても剛気な太刀風、抜くより早く槍の手もとに跳び込んで行ったが、その時ひらりと樹立の蔭から現われた黒い影が、抜く手も見せず、作左衛門の後ろから、ズーンと大刀の重みをかけて斬り下げた。

「あッ――」

さすがの作左衛門も摚どうと倒れた。曲者くせものは土足でその胸板を踏みつけながら、

「やい作左衛門、苦しいか」

と憎態にくていにせせら笑った。

「むッ……な、なに者だ。卑怯者めが」

「ふッふふふふ……そのくらいな世よまい言ごとはぬかしたかろう。この声がまだ分らないか、やい、大月玄蕃の声を忘れおッたか!」

「やッ、げ、げ、玄蕃とな!」

ともがく手足を、更に一人の黒装束――大草額平が押さえつけ、玄蕃は存分な毒罵を与えた上、喉笛狙って止刺とどめの一刀を突き向けた。

「残念じゃッ! 千浪! 千浪――」

二声呼んだ吾が子の名が、彼の最期の叫びだった。その声は、よしやどんなに遠くに隔っていても、きっと、きっと、千浪の夢に届いたであろうと思われた。その後の騒動は云うまでもない。ただ幸いなことには、小川に落ちていた駕屋の口から、大月玄蕃が手を下したということだけは明瞭になった。また松平家から急使が立たないうちに、由良の伝吉は向う鉢巻で駕の中にブラ下がり替り肩三人つきの早打ちに乗って、エイヤエイヤ福知山指して急がせた。それが当夜の真夜中子ねの下刻げこく(一時)であった。

悲報の早駕が、如意輪寺の門前についたのは満まる二日目の夕方である。境内の月巣庵に障子から仄ほのかな灯あかりが洩れていた。

鐘巻自斎の木剣のために、片足不具となった春日重蔵は、今は弟の愛人千浪に侍かしずかれて、朝夕新九郎の上達を一念に祈っている他、苦楽の塵を捨てていた。

「重蔵さん、千浪さん、何だか門前へ早打ちが着きましたよ。何でしょう、何でしょう」

と一人の小坊主が縁先へ駈けてきて、二人の静かな住いを驚かした。

「えッ早打ち? ――」

と千浪も重蔵も縁先へ走り出した。そこへ半病人になった由良の伝吉が、駕屋の背を借りて来たが、来るより早くベタリとなった。

「おお! 伝吉ではないか」

と二人は眼をみはる。

「重蔵様ッ……千浪様。ざッ残念でごぜえます」

と悲調を帯びた伝吉の一句に、千浪の胸は聞かないうちから早鐘をついた。

千浪にとって、涙に暮れ、涙に明けた一月あまり――ちょうど作左衛門の三十五日に、如意輪寺の月巣庵から、跛行をひいた春日重蔵と、旅装たびよそおいの千浪とが、住職その他に別れを告げて出て行った。

弟の新九郎には鐘巻自斎を打ち込むまでの大任がある。足こそままにならぬが、千浪に助太刀して大月玄蕃を討つくらいなことは、我とて出来ないことではないと、重蔵は奮然と、再び昔の武芸者に返って庵いおりを立つのである。

その間際に、あらましの事情を書いて、新九郎へ飛脚したのが、生不動与兵衛の家に着いたあの書状であった。

城下端はずれには、由良の伝吉が、数多の乾分を連れて見送りに出ていた。双方、僅かな言葉のうちに万感をこめて別れを惜しんでいると、騎馬を飛ばして来た一人の武士が、ヒラリとそこへ降りて慇懃いんぎんにこう云った。

「春日重蔵殿、ならびに正木殿のご息女、上使でござります。ただし公おおやけではござらぬ」

「は」

二人は意外な念に衝うたれて土下座した。家中の使番石渡勘太夫は、非公式に、領主の内意を伝えて、一包みの餞別はなむけを置いて去った。それは一封の金子と、松平忠房の花押かきはんを据えた仇討の免状であった。

領主の城を伏し拝み、由良の伝吉と袂を別った二人は、数日後に、如意輪寺住職の紹介を持って、京都寄竹派きちくはの普化宗ふけしゅう明暗寺に行って虚無僧こむそうの入宗許可を受け、重蔵も千浪も同じような鼠甲斐絹ねずみかいきに丸ぐけ帯、天蓋尺八という姿になった。

永い道中、千浪の美しい姿と、跛行をひいた重蔵の武芸者姿は、あまりに人目立つからであった。そこで宗名も、重蔵は庵号をそのまま取って月巣と呼び、千浪は竹枝ちくしと仮に名づけて、行く行く玄蕃の踪跡そうせきを尋ねながら、中仙道を大廻りして江戸に入る心算つもりで、木曾路から信州路へ入り、ようやく碓氷峠うすいとうげにまで辿たどりついて来た。

同じ日、同じ時刻ごろ、一方の長野街道から来た二人の浪人者は、宿の辻で見た、虚無僧姿に、恟ぎょッとした様子だったが、いつか送り狼の如く刀の目釘をしめしながら、その後を尾つけて行く。

千浪と重蔵とは、互いに、不自由な足と、弱い足をいたわり合いながら、密ひそかに近づいている魔の跫音を夢にも知らず、だんだんと碓氷の深路へさしかかった。気のせいか、啼く鳥の声も、どうやら心にかかる凶韻きょういんを含んでいるよう――

ここにまた、奇怪な旅侍が、峠の巌頭に腰を据えていた。彼は今朝からほとんど半日の間、何者を待っているのか、何の瞑想に入っているのか、とにかく、立ちもせず身動きもせず、正面の浅間あさまの噴煙けむりと向い合ったままじっとしていた。痴者か、隠士か、狂人か、何しろ不思議な侍と云うより他はない。殊に目立つのは、その者の深編笠の紐の辺りから胸へかけて真ッ黒な長髯がそよいでいることであった――と、彼の心耳に何が触れたか、初めてすッくと立ち上がって、熒々けいけいたる眼光を八方に配り出した。

伽羅きゃらの闇やみ謎なぞの御方おんかた

一

「千浪どの、あれ、あの鳥の声をお聞きか」

「まあ、珍しい鳥が啼いておりますこと」

「声は深山みやまに聞く者もあるが、かつて、形は見た人がないと言い伝えのある仏法僧ぶっぽうそうはあれでござりましょう」

「そう伺いますと、一層、山の深さが身に沁しみて参ります。重蔵さま、明るい所へ出るのはまだなかなかでございましょうか」

「もう程なく、頂いただきの平たいらへ出る頃。栗の樹ばかりの木下闇も、かなり長い間でござったの」

「ちょうど私たちの身の上にも似ております……」

碓氷峠の細道、八丁常闇とこやみの陽の目知らず。

互に道を助け合いながら、来る者は、虚無僧の竹枝と月巣――すなわち千浪と春日重蔵のふたりであった。朽葉を踏むわらじの緒、脚絆までが、清水に濡れて、夏とは云え、氷室ひむろを辿たどるような山気が冷々と迫る。

と、程なく、行く手に見えはじめた一道の明り。くわッと照ったお花畑が二人の眼を射たかと思うと、一叢ひとむらの夏草から、むッくり起ってきた深編笠の侍。二人の前にぴッたり足をとめたが、会釈もせず、辞ことばもかけず、無言のまま、泰然と己れの姿を見せつけた。

「ご免なさいませ」

何気なく、天蓋のふちを持ちながら、袖ぎわを会釈して、摺りぬけようとすると、それに連れて一足退がった侍は、重蔵の胸板を、片手でどんと押し返した。

「あ――」

身をかわしたが、片足ままにならぬ重蔵、思わず、よろりとなるのを、支え止めた千浪は、さッと美しい蘭瞼らんけんをいからせて、

「何をなさるのじゃ!」

努めて、男らしく云い放ったが、憤りも凜りんとすんで、女性の肉声は争われない。深編笠の侍は憎らしいほど落着き払って、

「おう、珍らしくも懐かしい声を聞いた」

と云った。

「えッ」

「千浪ッ。またそれなるは春日重蔵であろう。こう申す者は、その方たちが現在尋ねている大月玄蕃だ。何と慕わしかろうが」

いかにも彼らしい傲岸な態度。

「ややッ、玄蕃とな?」

「汝うぬらから仇呼ばわりされて、逃げ廻るような身共ではない。尺八袋の筋金はたしかか」

「おおッ」

早くも天蓋を刎はねて、片足不自由ながら身構えた重蔵、同時に千浪も、忍び差しの一刀、きらりと抜いて言葉せわしく、

「父の作左衛門を騙し討にしやった大月玄蕃、ようも!」

叫ぶより早く、突いて行った。女ながら一念の太刀、咄嗟に抜き合わせた玄蕃は、胸の前で、カッチリ左へ受け流した。

「急せくなッ、こっちから待ち受けていたのだ」

玄蕃の大刀は、千浪と重蔵の間へ七分三分の兵字構えとなる。と、重蔵の冷々たる小太刀は、焦らずさわがず、するすると寄るよと見る間に、

「義によって助太刀ッ」

裂帛れっぱく一声、身を剣につれて、飛弾の如く玄蕃の鬢のあたりへさッと飛んだ。この、怖るべき真蔭流の太刀味は、すでに桔梗河原の時に、骨身にまで舐めさせられている玄蕃は、敢えて逆らわず、ぽんと、一、二間飛び退きながら、

「む!」

柄糸へ精魂しぼって、構え直した。と、その時まで、寂せきとしていた前後の岩の蔭から、ばらばら姿を現わした十四、五人の街道人足。そして、かねて合図を諜しめし合っていた大草額平は、その真ッ先にあった。

「それッ、女を先に片づけてしまえ」

千浪の身体からだは、たちまち、真ッ黒な荒くれどもの中に埋まってしまう。額平は一刀を抜きしごいて、重蔵の後ろから不意に斬りつけた。

「あッ」

と一方に気をひかれた重蔵は、額平の太刀を引ッ外して、千浪の側へ駈け寄ろうとすると、

「えい、もう観念してしまえ」

玄蕃と額平が左右からそれをさえぎる。いかにもがけばとて、目に余る人数ひとかず、ことに二人が必死の強剣、それをあしらうだけでも、今では容易ならぬ春日重蔵。ああ、彼に一本の足さえ満足であったならば――

澄みきッた山の空気。その刃金はがねの打音は、意外な所にいる人の心耳へ響いて行った。

かの、天狗の評定岩ひょうじょういわの上にあって、今朝から黙然と、浅間の煙を見つめていた長髯の武士は、その時、何に驚いたか、にわかに立って手にせる笠を、目の下の崖へヒラ――と投げ落した。が、青葉の茂みに呑まれた笠は、何の応こたえもなかった。

「はて?」

と、身を屈めた彼は、評定岩へピッタリ耳をつけ、ややしばらく、この静寂な天地に起りつつある何事かを、一心に、念索ねんさくしているものの如くであった。

二

吠えかかった山犬の群むれは、たちまち、千浪の得物を打ち落し、次に、彼女の体を、濤なみがしらへ泛かべたように、軽々と引ひッ担かついで、例の、陰々とした樹下闇このしたやみの細道へどッと走りこんだ。

ここに、その物音とは別に、天狗の評定岩から傾斜している、栗の密林を、雷鳥か、鼯鼠むささびかと怪しまれるような迅さで、悪魔の群へ向って、ザザザザザザッと駈け降りてきた人影。

と、何の異変?

「あッ」

と前駆の一人が絶叫してぶっ倒れた。つづいて、ドタッ、ドタッ、陽の目見ずの闇を、縦横にきらめいてきた大刀の青光り。

「いけねえッ。邪魔が入った」

「たたんじまえッ」

千浪の体を抛り出すがはやいか、剣光を目あてに、わッと打ってかかったが、たちまち一人の敵に、タタタタと後しりえに押し戻された荒くれどもは、ただ渦を巻いて狼狽うろたえ騒ぐばかり。その間にも、右へ左へ、颯々と血飛沫ちしぶきの雨が走る。

「手ごわいぞ、油断するなッ」

と喚おめくのを聞くと、残る者たちはにわかに怯気おじけづいて、わらわらともと来た方へ蜘蛛くもの子となって逃げ散った。

一方では、大月玄蕃の陥し穴に墜ちた春日重蔵が、二人の強剣に挟まれた形となって、まさに火を降らしての苦闘の最中であった。が、何せよ、五体ままならぬ重蔵、ともすると、鉄壁の構えに一毛の破綻みだれを生じて、無念や、一ヵ所二ヵ所と、虚無僧衣ごろもを染めてゆく、掠り傷の血痕けっこんが増して見えた。

「もうこっちのもの」

と、玄蕃が密かにニタリとした時、不意に、どッと此処へ雪崩れ返ってきた先の人数は、嵐に追われたように八方へ逃げ隠れた。玄蕃は恟ぎょッとして、

「何か」

と振り顧った時、目の前へすっくと立った怪偉な武士、この態ていを見ると、

「虚無僧、助太刀してとらすぞ」

一声投げて、驚く玄蕃の真ッ向へ、さッとはげしい太刀風を鳴らしてきた。

「やッ?」

大月玄蕃は、その姿を一目見るなり、色を失ってバラバラと逃げ出した。残された大草額平は、重蔵の追撃に退ひくこともならず、戸惑いしているところを、やッと一声、後ろから斬り下げられ、更に、重蔵に胸板を割られて、摚どうとばかり血煙りの中に斃たおれた。

「侍の分際として卑怯な奴どもではある。虚無僧、深傷ふかでは受けなかったか」

「これはどなた様か、ご助勢忝のうござります」

「清水を尋ねて、早く小手の掠り傷をお洗いなさるがよい。おお、ちょうど拙者が持もち合あわしている傷薬、これをおわけ申そう」

印籠の秘薬をとって、掌てのひらにのせた黒髯の武士は、その時、ふと自身の前に両手をついている瞳とばッたり見交わして、

「おお」

双方同時に、呆れたような驚き声を出した。

「春日重蔵殿ではないか」

「鐘巻自斎氏うじでござりましたか」

そこへ一足遅れてきたのは千浪であった。二人は改めて自斎に心からの礼を尽くしたが、鐘巻自斎は、見事な長髯を左の手で掴んだまま、変ったふたりの姿に黙然たること久しかった。

「重蔵殿、ここで其許そこもとにお目にかかったは自斎が何よりの欣び、一言お詫び申したい。それは桔梗河原の試合に、思わぬ弾みから、まだうら若い貴殿を、あたら一生の片輪者としたことでござる。定めし拙者をお恨みでござろう」

「いや、もっての他」

重蔵はキッパリ云った。

「あれ以来、如意輪寺の禅房に身をゆだねた某それがし、時に、未熟な技わざをかこつこともござるが、何で貴殿に怨恨うらみを含みましょう。が――しかし、弟新九郎は、拙者が不具となったが動機で、身持を改め、貴殿から一本の勝ちをとらねば止やまじと意気ぐみ、長い修行の旅に出ております。それもまた武士道の意気地、よくぞ思い立ってくれたと、密かに欣んではおりまする」

「そのことは、大津の宿端れで、由良の伝吉という者からも詳くわしく承り、いつにても新九郎殿が望みの時機に、立ち合うという金打きんちょうまで与えました。ところで、不審なのは其許と千浪殿、不自由な足をひきずり、また女子おなごの身で、虚無僧姿の旅とは、どうした次第でござる」

山陰さんいん晴はれの試合場では、終生の恨みをのんで別れた敵ながら、今ここで、親しくその人物に直面してみると、謙譲にして威容、しかも武士道的な襟度、床ゆかしむべき真の大剣客であった。

「アア吾、この人に及ばなかったこと当然である」

深く衝うたれた重蔵は、密かに、この人にして初めてあの精妙剣がある筈と頷うなずいた。そして、今は何の疑念も抱かず、玄蕃を仇敵と狙う経緯、千浪の身の上など、詳しく打ち明けたのであった。とくと聞き終った自斎は、自分も、老師富田先生を尋ねる旅先で、玄蕃の姿を見かけた時は、きっと引ッ捕えるか、あるいは、何らかの手段をとって知らせようと誓った。そして、

「ご舎弟の新九郎殿が、一日も早く、拙者の剣前に勇ましい姿をお見せなさる日を待っている。お会いになったら、そうお伝え下さい」

と最後に云った。

間もなく、三人の姿は、袖をつらねて、碓氷の峠を降くだってきた。途中松井田で、自斎は尋ねる剣友があるからとて別れを告げ、千浪と重蔵とは、再び世を忍ぶ天蓋の下、一管の尺八に、流転を託す虚無僧となりすまし、玄蕃の足蹟に気をくばりながら中仙道の宿駅を次いで、江戸の朱引内しゅびきうちへ近づいて行く。

三

銀河の星の数ほど、隅田川にあつまった涼み船の灯を、一瞬に吹き荒らして、晦瞑かいめいの濁流としてしまったあの夜の嵐は怖ろしかった。

物がたりは、ここから支わかれて、春日新九郎の身に移ることとなる。が、その夜その一つの船から奔流の底へ巻き込まれた彼は、既に、しっかりと、生命を意識している人ではなかった。

×

「おお、何という怖ろしい浪でございましたろう」

「浪より、あの風の激しかったこと。ようお帰りなさいました」

「憶い出してもゾッと致します。それに衣きものもビッショリ濡れているせいか、私はまだ歯の根が合いませぬ。オオ寒さむ……」

「それより御方様おかたさまは?」

「案のほか、お船の縁へりに倚よったまま、平気なご様子で、凄まじい稲光りを眺めておいでなされました」

「まア、日ごろは、露にも耐えぬお優しいのにも似ず……」

「やはり、氏素性というものは、こうした時に争えぬものでござります」

嵐が鎮まって後、人を馬鹿にしたような月が冴えだした頃、やや流れも緩ゆるんだ波うち際に、若い女たちの声が、甦よみがえった歓びにはしゃいでいた。

そこへは、一艘いっそう屋形が着いたばかりであった。大川もずッと下流しもの、浜町端はずれのその寮からは、船を見るとすぐ、案じていた老女や腰元らしいのが走り出して、ズブ濡れになった朋輩ほうばいを引き上げたり宥いたわったりしていた。

「これ、やかましいお話は後ほどになさらぬか。そして、早く御方様を連れて、お召めしの衣もの、お風呂の支度など、急がねばお体に触さわりますぞえ」

「はい」

老女にたしなめられた腰もとたちは、やッと落ち着いて、屋形の中へ声をかけた。屋形船といっても、これは、一見して、普通の町人用のものとは違った造り、金鋲きんぴょう御簾みすづけの絢爛けんらんな三挺櫓ちょうろであるが、暴風雨は公平に、この高貴なご料をも、さんざんに揉み悩ましたものと見えて、紫のまん幕、金襴きんらんぶちの御簾みすまでが、無惨に吹きちぎられていた。

「御方様。お迎えの者が出ております」

寮の用人とも見える侍が、舷ふなべりにひざまずいてこう云うと、破れた御簾のうちから、妙なる答いらえが低く洩れて、御方の姿が、半ば月の光に照らし出された。

「おお、よい空になりましたこと……」

呟つぶやいたまま、うっとりとして、三叉の銀波、佃つくだの芦あしの洲などに眼を取られて、すぐ桟橋へ上がろうともしなさらない。

月のせいばかりとも思われぬその顔は、白琅玕はくろうかんを浮き彫にしたような、好ましい白さと、くッきりした線を描いている。芳紀としのほども、美しさに過ぎて、幾つぐらいとも計りがたいが、蘭瞼細腰らんけんさいようの羅うすものすがたは、むしろ天女に近いと云ってもいい。

ただ、この人に一点難を探せば、左の眦めじりやや下がった所に、白魚の瞳ほどな黒子ほくろがポッチリとあること――ともう一ツ、いぶかしいのは、緑の黒髪、何の故あってか、ポッツリ切って、冷やかなお下げにしていることである。

「御方さま。お冷えにおなり遊ばすといけませぬ」

侍女こしもとたちが、声をそろえて、ややしばらくの恍惚を醒さますと、御方は振り顧ってニッコリ笑みこぼれる。

「そなたたちも冷たかろうに――もう上がりましょう、誰か妾わらわの手をとッてたもる者はないか」

「さアみんなして……」

腰元たちは、半ば興がッて手を伸ばしたが、その時、何に押されたのか、御方の船がどんと揺れて水を見た多くの者が、

「きゃッ」

と叫んだまま、桟橋の上に散らばった。侍と老女は、何事かと、びっくりして、舷ふなべりを覗いた。

「や、水死人」

「忌いまわしい、御方様のお目に触れぬうち、早く、早く」

「突き流すのでござるか」

「お問い遊ばすまでもないこと……」

老女は顔を扇子に隠して、苦々しくこう云うと、侍は艫ともの船子ふなこに、同じような口調で、はやく突き流してしまえといいつけた。

水死人、その声だけで、誰しも眼を反そらし、よく見もしない中に、御方と呼ばれる女性にょしょうだけはじっと舷のかげに漂っている無気味なものをみつめていた。

四

浜町はまちょう菖蒲河岸あやめがしの御船御殿というのは、将軍家船ふねお成なりの節に、御台所みだいどころづき大奥の女中たちが、よそながら陪観ばいかんするお数寄屋であったが、いつからか、そこにあでやかな一人の貴婦人が棲むようになり、侍かしずく老女や、多くの腰元たちと共に、佃、品川の海の眺めを静かに、小さな女人国とも云える――大きな女世帯とも云える、不思議な、生活を営んでいた。

棲む人の色と共に、家の名も変って、お船御殿の名は、誰云うとなく、菖蒲御寮あやめごりょうと呼び慣わされて来たが、その寮の主あるじ、切下げ髪の美しい女性が、そもそも、何人であるか、どういう素性の貴人であるかを、好事癖こうずへきの江戸の人が、今に至って知らないというのも、これまた不思議の一つと云えよう。

そのくせ、御方のまばゆい姿は、堺町さかいちょうの勘三郎芝居の御簾みすのかげ、浅草寺せんそうじの四万六千日、愛宕あたごの花見幕、綾瀬の月見、隅田の涼み船と――ほとんど、江戸人行楽の盛り場という盛り場で、見かけないという例ためしがないほど、平民的である。にもかかわらず、その豪奢を見つつ、奉行所の眼も光らなければ、借りたおされた鼈甲屋呉服屋があるということも聞かず、ましてや、由縁ゆかりもない町人風情が門扉もんぴのうちを知るよしもなかった。

御方は今、朝の風呂から上がって、麝香じゃこうや、白檀油びゃくだんゆの匂いと覚えるものが、ぷんと鼻をうつばかりな化粧の間まに入って、心しずかに、いやが上の装いを凝こらしている。

「御方さま」

「何かえ?」

鏡の前から振り顧って、後ろに、手をつかえた老女の水瀬みなせを見た御方の顔は、もう曙あけぼのの花が露を払ったような身じまいを済ましておられた。

「ただ今、蘚伯せんぱくさまが、いつもの通り、診みてお帰りになりました」

「そうでしたか。そして、今朝あたりのご容子は」

「もうお薬も要いらないほどと仰っしゃられました」

「まア、そんなに早く……」

水瀬みなせの辞ことばから察するに、どうやら寮のうちに、誰か寝ている病人があるらしい。けれど、医師の蘚伯せんぱくがよいと云ったのを、御方は何故か、不足らしい色を見せて聞いたのであった。

「おおそれから、妾わらわが頼んでおいた品は?」

「蘚伯さまがしきりに考えているのを、無理に説いて貰っておきました。強い蘭薬らんやくということでござりますゆえ、分量を間違えぬようにと、くれぐれ申し残しましてござります」

「何の、蘭薬というても、いろいろな薬を京都で扱うている覚えもある、心配はありませぬわいの」

「ではこれへ置きまする」

老女の水瀬が退がってゆくのを見届けてから、御方は、そこに残されてある、銀紙包みの秘薬をとりあげ、ちょっと香を改めてから、蝶貝象嵌ちょうがいぞうがんの手筥てばこの底へ、心の笑みと一緒にひそめてしまわれた。

五

剣難。

悪魔が作ったようなこの二ツの文字。

春日新九郎は、今しみじみと、初めてこの二字に宿命されている自分の生い立ちを考え、共に、間違いなく、その宿命へ入ってゆく不可思議さに、愕おどろきとおののきとを禁じ得ない。

こう考えている新九郎の身は、今何処いずこにあるかと云えば、菖蒲あやめの寮の御方の部屋から、わずか、四間けんの渡り廊下を隔てた、利休好みの離室はなれに静坐しているのだ。

嵐の夜に、この寮の裏で御方に救われてから、すでに十日余りとなる。老女や侍女から、この屋敷の輪廓を、およそ聞き知った新九郎は、一日も早く帰りたいと思ったが、容態にかこつけて、御方の許しが容易に出なかった。

ところへ、今朝見舞ってきた蘚伯があとは養生次第と云ったので、それを機しおに、吾から床を払ってしまった。そして久し振りに、和やかな白帆の行く川尻を眺めていた。と、眼はそれにありながら、新九郎の頭脳あたまには、いつか剣難の二字をはっきりえがいて、種々、ことごとに、思い当りながら、なお十か九ツごろの、おさない昔にまで、その追憶が走って行った。

そうだ、その頃には、まだ新九郎の母なる人がこの世にいた。クリクリとして、美しいお稚子ちご人形のようであった新九郎は、その母に連れられて、城下端れへ宮詣りに行ったことがある。

何のお宮であったか、今は新九郎も憶おもい出すことができない。けれど、その帰り途に、子供心に怖ろしいと思った老人の前に立って、ギラギラする天眼鏡で、さんざん顔を見られたことを覚えている。後に思えば、それは、つまらぬ売卜者うらないしゃであったらしい。彼の母は、そういうことに、特別な信念を持つ人であった。

それからというもの、母は新九郎を人なきところへ呼んでは、訓誡の語調で、沁々しみじみとこう云い聞かせるのだった。

「新九郎や、お前の相そうというものは、怖ろしい剣難の相と、剣難より怖い、女難の相というものを持っているのですとさ。お分りかえ、決してお忘れでないよ。人と喧嘩をするではありません。気を優しくしなければいけません。剣とはつるぎという文字、剣のさきにかかって、非業な死を遂げることがないようにお母様も方々の神様に祈りました。だから、お前もよく身をつつしまねばなりませんよ」

涙さえ含んで、幾度となく繰り返す母の真情。その前に、じっと俯向うつむいて聞いていた新九郎は、今に至っても、空そらんじているほど、その時の母の言葉が脳裡に深く彫り込まれた。

「剣難とは、そんなに怖ろしいものか、ああ私はそれで死ぬ相を持っているのかしら」

後になって、こう思いだしたのが、そもそも、彼が臆病者となった重因だった。

腰抜け武士、腑甲斐ふがいなし、何と罵倒されようが、その恐怖というものは、十九の歳としまでとれなかったけれど、それと共に、「剣難より怖ろしい女難」と誡いましめられたことの方は、まだ異性に何らの考えもなかった年頃だったので、脳に沁みつかなかったか、まったく忘れて今日に至っている。菖蒲あやめの寮の奥で、今こうして、自分の運命の奇あやしさに思い入りつつある現在の新九郎も、女難という方には、更にうッかりしているのだった。

「まア、よくよく性しょうを失っておいで遊ばすと見える、ホホホホホホホホホ」

不意に嫋美たおやかな笑いこぼれ。新九郎はハッとして振り顧ると、簀戸すどの向うに透すいてみえた姿は、たびたび枕元へ来て、優しい言葉をかけられた寮の主あるじの御方である。

「いつそこへお越しなされましたか、さあ、こなたへ」

新九郎は生真面目である。

「春日さま。貴方は誰に断わってお起きなされました」

御方がそこへ入りながら、微笑んでこう云うのを、真から、立腹されたと思った新九郎は、顔あからめて、慇懃いんぎんに云い訳する。

「段々とお手厚いご恩をうけながら、誠にわがまま千万ではござるが、前にも、お話し申してある通り、定めて縁故の者どもも案じていようかと思われますゆえ、今日はお暇いとまをいただいて、後日改めてお礼に出る所存でござります」

「おおご尤も……」

御方はまだ微笑を消しきらないで、姉が、弟を見るような、軽い戯れを帯びた言葉を使われる。

「ですけれど、それ程お前様を案じているお人というのは、一体、どなたさまをお指しなのじゃ」

「永らく世話をうけている宿の主あるじ。ご承知もござりますまいが、生不動与兵衛と申す者でござる」

「仰っしゃいませ、妾わらわは、ちゃんと知っておりますぞえ」

「ええ、まったくほかの口実ではござりませぬ」

「それ程に、巧みな逃げ言葉を遊ばすなら、妾も今日は見せて上げるものがござります。春日様、お前様もこれを見ては、もう綾にする作り言葉もございますまいが」

金繍きんしゅうの帯の間から、御方が抜きとって、さッと開いたのは、赤地へ銀摺りした女持ちの小扇。

「はて?」

新九郎が不審そうに、小首を傾かしげると、御方は指さして、また悩ましいまで媚こびに満ちて笑いこぼされる。

「あんな、誠しやかなお顔をして、これを知らぬという筈がありましょうかえ、春日さま、お前様は、嵐の夜の前に、首尾の松の下で摺れ違った船から、阿娜あだな女に、この扇を投げられたのではありませぬか。それが風の加減で、妾わらわの船へ落ちてきたもの……遠くも隔たっておらなかったので、妾はその時の態さまをありありと見ていましたのじゃ。そして、心憎い首尾をする恋仲よとも思いましたぞえ」

「もっての他」

新九郎は慌てて打ち消しながら、あの宵に、チラと見たお延の姿をやっと憶い出した。

「夢にも、恋仲などという女ではござらぬ」

「ホホホホ。仰っしゃる忙せわしさは、よう妾に読めております。その女子おなごに逢いたいため、早くこの寮から逃げたいお心……」

「何としてそのようにお弄なぶり遊ばされる。新九郎近頃もって迷惑つかまつります。逃げたいなどという所存は」

「ないと仰せ遊ばしますか」

「…………」

「春日様。いいえ、もうお前様とは格別お親しゅう思っている妾、新九郎さまと呼んでもおかしゅうござりますまい。新九郎様」

「…………」

彼はかすかに顫ふるえていた。

「どうなさりました」

ズイと寄り添ってきた御方の身動きの匂いは、男の好む、あらゆる香餌こうじを含んでいるような魅力をもって、新九郎に眩惑めくるめくまで迫ってきた。

六

解けぬ謎ほど解いてみたい。

美しい惑星とは、御方のような女性を指すのではあるまいか、みやびた言葉づかいと云い、品位と云い、また﨟ろうたけた姿。どこと云って、非点の打ちどころもない貴女でありながら、新九郎に迫った、今の眼眸まなざしのうちには、男でも面を向けていられないような情炎が――とびついてくるような熱慾が――歴々火となって燃えて見えたではないか。その刹那には、麗うるわしい黒髪も、蘭花に似たる睫毛と眸も、また左の眼の下の黒子まで、御方のものすべてが、情血をたぎらせている一ツの女肉としか見えず、男の牙きばにかかッて、食い破られ、苛さいなまれたい慾ばかりに、のた打ちまわっているようにも思われる、いや、どうしても、御方は飢えている。何ものかに狂い焦れているに違いない。

その深い謎は、御方の素性なり境遇なりが、あきらかになるに従って解けてくる。で、ここでは、敢えて豊麗な御方の肉を剥いで見ることはしばらく待とう。

「きッと。きッとお前様は、この寮を逃げて行きたくないと云い切りますかえ?」

御方の声も真剣である。新九郎は返辞に詰まるばかりでなく、眼の前の絢爛と、伽羅とも何ともつかぬ強い香りで息苦しくなった。

「お前様が、ほんとうにこの寮に長くいてくれる心算つもりなら、五人扶持、十人扶持も取らせましょう。いえ、もッと贅沢三昧ぜいたくざんまいにもさせてあげましょうぞえ。この間から、それとなく事よせて云うた妾の心もここまで云うたらおよそ分りそうなもの……」

「な、成りませぬ!」

新九郎はほッとした息で云った。

「え、ならぬとえ?」

「それの成らぬ新九郎の身の上でござります」

「な、なぜじゃ」

御方は吾にもあらせぬ焦せき方かたで、新九郎の手をとって熱にふるえる。それをまた一方では、世にも怖ろしいものに掴まれたように、腕を縮めるのだった。

「ならぬという訳を聞かしてたもれ。さ、それ聞かいでは、妾の心がしずまりませぬ」

「この上は、かくすほどのことでもござりませぬゆえ、拙者の身の上をお打ち明け申します。その釈明が立ちましたからには、何卒、勝手でもお別れ願いとうござる」

新九郎は先にこれだけの念を押しておいてから、かいつまんで、大望ある事情わけがらを話したのである。

さすがに御方もどこまで純情潔白な新九郎の物語には、すくなからず衝うたれた様子。が、それで諦めたらしい色は微塵もなかった。むしろ、いっそう慕わしい者、男らしい侍という思慕を強めたくらいであった。

「分りました。もう無理は云わぬこととしましょうぞ、その代り、妾の頼みも聞いてたもれ。今宵だけはせめて寮に泊って、明日は朝なと、昼なと、いつでもお戻りなされたがいい」

「重々のご恩義に甘えて、お礼の申しようもござらぬ」

「けれど、これがお別れでは妾は厭じゃ、また折にふれては、訪ねてくれると、固い約束いたしおかねばなりませぬぞえ」

「それはもう、お尋ね致す段ではござらぬ」

「誓いの印しるしに、妾がこれを預かっておきます」

「ア、それは」

新九郎が慌ててさえぎる隙もなく御方は側にあった大刀を持って、ツイと橋廊下の彼方へ姿を隠してしまった。

しかし、他ならぬ腰こしの刀もの、一時の戯れに過ぎまいと、彼は深く気にも懸けなかった。そして日が暮れる頃おい、常の通り食事後の服薬一服、水と共にゴックリのんで床につく。

ところが、何ぞ知らん、新九郎が夢にも気づかぬ聞に、その粉薬がいつの間にか、御方の手で、蘚伯秘剤せんぱくひざいの眠り薬とすり代えられてあろうとは。

蘭薬の効ききめは覿面てきめん。枕に顔をつけると一緒に、新九郎の頬から髪のあたり、生色失せて真っ白となった。ひとしきりグッと前後不覚になったような乱れ寝息、それが熄やむと魂魄肉体こんぱくにくたいを抜けうせた如く昏々果てしもない麻酔の沼へ陥ち込んでいった様子。

夜気冷ひんやりとしてきた子ねの刻こく過ぎ、更け沈んだ離室はなれの灯は、丁字ちょうじに仄暗く、ばさと散った蛾がの翼から、粉々と白いものが新九郎の顔に降った――と、魔魅あやかしのすり抜けてくるよりも密やかに、橋廊下を、辷ってきた影は、しばらく、簀戸すどの外にたたずんで、中の気配をうかがっていた。そこの簀すの目めに、ぼうと映って見えた姿は、まぎれもない寮の御方である。

冷たい蝋色鞘ろういろざやの大刀を、片袖で胸へ抱き、片手で簀戸を開けた御方は、魔女か、蛇身かのように、新九郎の側へするすると寄って、その口もとへそっと手をやった。

鹿島かしまの使者ししゃ孤剣こけん飄客ひょうかく

一

この頃江戸の町には奇怪な見世物が流行はやっていた。時代に投合したものか、市人しじんの趣向に適したものか、とにかく大変な人気である。

しかしここで奇怪というのは、三ツ目小僧や南蛮なんばん渡りの鳥類の類いが珍らしいという意味ではない、時代の風教、殊に武道の上からみての奇怪至極な見世物小屋。芝の神明前、神田護持院の空地、浅草寺附近などの野天で、人だかりがしているなと思えばそれだ。何かと覗いて見ると、だんだらの鯨幕くじらまくを張り廻し、人寄せの陣太鼓を山鹿流やまがりゅうもどきに叩いて、飛び入りの武芸天狗を歓迎している賭け剣術であった。

「おおここにあるのも賭け試合の人寄せか。武術をもって博技ばくぎとするのみか、野天で見世物にするとは何たること」

「かような世のさまも、江戸ならでは見たくも見られぬことでござりませぬか」

「したが、いかに身過ぎの為とは申せ、余りと云えばあさましい浪人ども」

浅草二天門のお火除ひよけ地に立って、苦々しげにこう呟いた虚無僧は、昨日中仙道からこの江戸表へ入った春日重蔵と千浪とであった。二人は何気なく群集の肩越しに覗いてみると、ここの賭け剣術はまた一風変ったところでさかんな人気を呼んでいるらしい。

型の通りな鯨幕が一文字に張ってある側わきには、小屋主こやぬしの楽屋らしい蓆囲むしろがこいが見え、その前には一本の棒杭を打って、新木の尺板に墨黒々と、

=日下ひのした無敵叡山えいざん流投げ槍の開祖。西塔さいとう小六対手あいて。=福野流体術金井一角対手=と記し、その下には、三本勝負一本どり金弐拾両、二本どり五拾両、三本どり百両などという細目さいもくが認したためてある。

ドーン、ドーン、ドーン、景気づけの山鹿流が怪しげに鳴ると、向う鉢巻の男が弓の折れを持って看板板を叩きながら気狂いじみた喚わめき声ごえを揚げはじめる。

「さア出ないか出ないか出ないかッ! 小六先生を打ちのめす者はこの中にはいないかいないか! 腕に覚えのある者ならお武家町人の選り嫌いなく飛び入りご勝手、八年八月比叡山に籠って日下ひのした無敵の工夫を凝らした類るいと真似のない投げ槍の極意を見ておくのも後学の為だぞ、うまく行って小六先生を打ち込んだら三方に盛り上げてある小判の山が攫さらって行ける。どッちに転んでも損のない賭け試合がたった二分だ。銀一枚で小判の掴み取り、相手嫌わず八百長なし、遠くは飯篠長威斎いいざさちょういさい、中古は上泉伊勢守、近くは荒木又右衛門、どんな名人上手が来ようと、決して後ろを見せないのが当場の掟。さアここに捨ててある小判を持って行き手はないか、腕に覚えのお方はないか、これで出なけりゃ江戸の恥だぞ、お膝もとの男の名折れだぞ! さア出た出た出た出た出た!」

この長文句を淀まずつかえず、滔々とうとうとしゃべりつづけた客呼びの声に酔って、群集は今に飛び入りがあるか賭け試合がはじまるかと去りもやらず犇ひしめいていた、その人いきれの中に立って天蓋を押さえていた千浪は、正面の掛けビラに瞳を吸いつけて、

「もシ……」

と、そッと傍かたえの人の袖を引いた。

「あれに貼ッてある目録の名をご覧なさいませ」

「おお賭け試合の勝ちビラと見えて、いろいろな剣客の名が見えるが、どうせ衆愚を騙たぶらかす山師の客引き、あてになるものではござるまい」

「いいえ、試合のことを申すのではござりませぬ。右から四枚目の名を……」

と云いかけて千浪はにわかに口をつぐみ、あたりの人に油断のない眼を配った。そう云われて、重蔵も初めて四枚目の目録を見ると――投げ槍三本試合に於いて一本どりの名誉。一刀流大月玄蕃殿――という文字が紛まぎれもなく下がっている。

「や」

思わず喉のどから出る声を押さえて、笠と笠のうちで頷うなずきあった二人は、そのままグングンと人混みを掻き分けて、客呼びの男の前まで泳ぎ抜けて来た。

「これ若い者、少々ものを訊きたいが」

「エ、飛び入りですか」

「いやいや、賭け試合を望む者ではない。ちと訊ねたい儀があるによって、小屋主の小六殿に会わせてもらいたいのじゃ」

「ちぇッ」

客呼びの男は忌々いまいましそうな舌うちを鳴らして、

「この忙がしい汐時しおどきに、悠々と会ってなんかいられるものか、夕方出直して見るがいいや」

「でもござろうが、折入って一言ひとことお訊ね申したいのじゃ、必ず長くはお邪魔申さぬつもり」

「うるせえな、駄目だって云うのに!」

「そこを曲げてこの通りに頼み申す。火急のことゆえ夕刻までは待ちかねるのじゃ、是非何とか取り計らってもらいたい」

「やかましいやいッ、この物貰いめ!」

「何?」

とかなり気の練れている重蔵も、この口汚い罵ののしりように、思わず拳を握って天蓋のうちから睨みつけた。と、あたりの弥次馬から先にどっと気勢を揚げて、

「あ、喧嘩喧嘩」

「虚無僧と喧嘩だッ」

とばかり凄まじい雰囲気をつつんで来たので、さなきだに鼻ッ張りの強い若者は、浴衣の片袖を捲まくり上げ、二の腕の入墨を覗かせながら啖呵たんかを浴びせて来た。

「何がどうしたと、やいッ、物貰いだから物貰いと云ったに不思議があるか」

「黙れ、云わしておけば口の減らぬ素町人」

「やいやいやいッ、大きなことを云うない、大きなことを! 素町人たあ誰に向って吐ぬかしゃあがった。こう見えても只の小屋人足たあ違って、浅草笊組ざるぐみの大親分臂ひじの久八の身内で風鈴の源七とか何とか云われる男だ。物貰い風情の虚無僧ぼろんじに素町人と云われちゃ勘弁ならねえ、かアッ、これでも食らやがれ」

とばかり不意に源七が拳を固めて打って来たのを、危うく片身流しに引ッぱずした重蔵は、刹那の勢いに吾れ知らず右手めての尺八をキッとふりあげた。

「ア、重蔵様!」

千浪はおどろいてその手に縋すがりついた。と重蔵もハッとして、笠のうちを覗いてきた彼女の瞳に瞳を落すと、その目は無言の辞ことばをもって(こらえて下さい、対手あいてが悪うござります、場所が悪うござります、大望のある身です)――とさまざまな意味を瞬間に訴えていた。

「ああ浅慮あさはかな……」

とすぐ思い返した重蔵は、尺八の手を緩めて、源七の前に小腰を屈めた。

「あいや源七殿とやら、この方が口不調法な頼み方、気に障ったらどうかゆるしてもらいたい」

「おきゃアがれ、今ふり上げた尺八はどうしたんだ。好きなご託を並べておきながら土壇場になってゆるせもねえもんだ。さッ擲なぐれるものなら擲ってくれ、俺も笊組ざるぐみの風鈴の源七だ、尺八ぐれえに脅えたと云われちゃ、男が立たねえ、擲れッ、やいッ擲らねえか」

群集の環視かんしにつつまれて、退のッ引きならない破目に立った重蔵と千浪とは、今や、どこまで足許をつけ込んでくるこの無頼ならず者の難題にまったく当惑してしまった。と、蓆囲むしろがこいの蔭から、

「小屋の前で止しておくれよ、どっちが悪いのか知らないけれど、こっちの商売が上がったりじゃないか、ほんとに騒々しいッたらありゃあしない」

とそこへ出て来た一人の女。

その阿娜あだな声と阿娜な姿の持ち主をふと見ると、いまだに投げ槍小六との悪縁の糸に絡からまれ、しかもその絆きずなはきれずに旅から旅へのしがない生活を続けた後、この江戸三界まで転落してきたお延であった。

二

三坪ばかりな蓆囲いは暑そうに見えるが、裏口の一方を風入れに開けて、お火除地ひよけちの夏草から来る涼風をうけているので、他目はためで思うよりは凌しのぎ易やすいらしい。

商売道具の玉槍を、長いのから短いのまで、七、八本ばかり掛けてあるほか、あとは酒盃さけさかずきやら女の扱帯しごきから銭入れの笊ざるなどが雑多に散らかっている。すなわちこの囲いの中が投げ槍小六の楽屋なのだ。

当の小六その者は、薄色の麻の小袖に襷たすきをかけ、革袴かわばかまの股立ち取り、客呼びの源七が合図の太鼓と一緒に、いつでも賭け試合の対手あいてに飛び出せるばかりに身拵えをして、破れ扇を、バタバタさせていた。

「どうも今日はさっぱりいい鴨がかからないナ」

「何しろこの頃は、江戸中に何十箇所とふえたそうだから鴨の方でも少しくたびれ気味となったのも無理ではない」

こう云ったのは小六ではなく、彼の前にいぎたなく胡坐を組んでいた二人の浪人。

一人の方は、賭け試合の看板名に前座を勤めている金井一角で、小六がこの小屋掛けの地内を臂ひじの久八から借りた縁引をもって、小遣い稼ぎに割り込んだものである。が、一角は先に笊組の諜者いぬとなって、隅田川で生不動の身内を鏖殺みなごろしにしようとした企みの手引きをしたことがあるため、なるたけ顔を見せないようにしているのだ。もっとも賭け試合を望んでくるほどの者は、たいがい奇怪な投げ槍の秘術を見たいがためそれを所望するのが九分以上であるから、金井一角が福野流の体術をもって対手に立つような場合は滅多にない。

ところで、もう一人の浪人は何者かと見れば、これなん、春日重蔵と千浪とが、血眼で尋ね求めている当の怨敵大月玄蕃である。もともと、小六と玄蕃とは雨龍の山荘にいた時代からの古馴染ふるなじみであるのを思えば、ここに大月の姿を見ることも、さしたる奇蹟でも何んでもない。が、各〻太い線を持った三浪人が、期せずしてこの怪しげなる、楽屋を同じ巣として集まったことがすこぶる妙にも観察される。

「こう不印ふじるしではうまい酒にもありつけない」

小六は銭笊ぜにざるを振って、中の二分銀を数えた。

「まだ今朝からやッと二両二分の稼ぎ、小屋代を引き源七の手当を引き、臂ひじの久八に地代を取られた日には残るところがない」

「いくら流行はやりものにしたところで、余り廃すたりが早過ぎる。ひとしきりは毎日二分銀がこの笊に溢れるほどに盛さかったものを」

「ははははは奢る平氏久しからず」

玄蕃は二人の喞かこち言ごとを聞いて側で笑っていた。同じ浪々の境界、等しく兇悪性を持った三人の中にあっても、大藩の指南番であっただけに、やはり彼が一番光っているのは止むを得ない。

「お前さん――」

そこへ蓆むしろの間から、お延の姿が半身見えた。

「何だ」

「小屋の前へ、お前さんに是非会わしてくれという者が来て、今源七と揉め合っているんだけれどどうしたものだろうね」

「何、拙者にぜひ会いたいという者が?」

「ああ、景気の悪い日には碌なことが舞い込みやしない」

「して其奴そいつは、武士か町人か、そして人態にんていは?」

「虚無僧ぼろんじだよ」

「え、虚無僧」

とやや慌て気味に立ち上がったのは、今まで他事よそごとに聞き流していた玄蕃だった。

「二人か」

と小六もにわかに引き緊った顔をする。

「ええ。どうするんですよ一体」

「その二人連れなら会ってやる。だが待てよ、おお玄蕃殿、案の定やって来たらしいが……」

「てッきり彼奴きゃつ。では身共はしばらく姿を隠しておりますゆえ、巧く例の口実で……」

「よろしい。じゃあここへ連れて来い」

小六がお延に云い渡すと、大月玄蕃はそそくさとそこに掛けてあった熊谷笠を外し、何か二言三言云い残すが早いか、金井一角と共に風の如く裏口から抜け出してしまった。

蓆一重にからくりがあるとは夢にも知らず、間もなくお延に連れられてきた重蔵と千浪は、すすめられた楽屋の空箱に腰を据えて、投げ槍小六とピッタリ向い合った。

「拙者が浪人西塔さいとう小六と申す者、即ちお恥しいがこの掛小屋の主でござる。してご用向きとは」

襷、股立ちを外して、小六も言葉から改まった。

「初めて御意を得ます。またお忙しい中をご迷惑なるお願い立て、おゆるしおき下されたい」

と二人は同時に、軽く頭ずを下げたが、後は重蔵一人が辞ことばをついで、

「宗法でござれば天蓋はご免こうむります。これなるは京都寄竹派の普化僧竹枝ふけそうちくしと申す者、また某それがしは同宗の月巣げっそうと呼ぶ者でござります」

「ご丁寧なご会釈、どうぞそのまま」

「表の者からもお忙しいと承わったに依り、早速お願いの筋を申し入れるが、実は、この幕の正面に貼り出されている目録のうち、大月玄蕃と申す者の名が見えましたが」

「おおあの大月氏うじのことですか」

「左様でござる。まことはその玄蕃を尋ね歩いているわれわれ両名、目録の名を一目見るより躍り立ったほどでござります。その者の住居すまいご存じなればどうか教えていただきたい。厚かましゅうはござるが武士のお情け、かくの通りお願い申しまする」

「や、それはしまった!」

小六は膝を丁ちょうと打って、

「もう一足早かったら、大月氏とここで会えたものを」

「えッ、ではいつ頃ここへ見えましたか」

「つい今朝ほどでござった。見るからに眼の鋭い一名の浪人が試合を申し込んで参った。ところがまことに稀代な一刀流の達者で、遂に拙者も一本の勝ちを取られたゆえ、あの通りの目録を貼り出したのでござる。今承わればその人こそ貴殿の尋ねる大月玄蕃で、そうと知ったらなお詳しいことも聞いておくのでござったのに」

「さほど僅かな違いであったとは、残念千万、して玄蕃めは――いや大月氏は、どこを宿と致しておりますかお聞き及びはござりませぬか」

「されば深いことは存ぜぬが、今日一日江戸見物を致した上、奥州路へ発足、仙台の城下へ参って一刀流の町道場を開くとか申しておりました」

と聞くより、千浪と重蔵は胸の血を高鳴らせて、言葉忙しく小六に礼を述べ、火除地の人混みを分けて、互に何か希望に満ちた囁きを交わしながら、いずこともなく立ち去った。

その後ろ姿を見送って、

「うふッ……」

口を押さえて笑ったのは小六である。

「ああ罪だ罪だ。あんな人達を騙だますのは本当に寝ざめが悪い。今の様子じゃ大月さんの後を追って奥州路の果てまでも行きかねない……」

お延は妖婦に似もやらず、いつにない仏心ほとけごころを起して、しみじみと呟つぶやいていた。小六はせせら笑って、

「おいおい、柄にもねえ寝言を云うな。そう来なくちゃ折角玄蕃から頼まれた甲斐がありゃあしない。これでまんまと彼奴あいつらを方角違いの長い旅へ追いやったから、まずしばらくは安心というものだ」

「お前さんの量見方りょうけんかたにも呆れるねえ、自分を仇かたきと狙っている訳でもないものを、飛んだお世話やきをして嬉しがってる気が知れないよ」

「女の分際で余計な差し出口を叩くまい。拙者と玄蕃と一角の三人は、今度改めて義兄弟の誓いを結んだのだから、これから先は善悪とも、飽くまで互に助け合わねばならぬのだ」

「義兄弟にでも何にでもなるがいい、どうせ私にかかわったことじゃなし」

お延は隅にあった酒徳利から冷ひやのを茶碗に注ついで、グ、グ、グ、グ、グ……と一息に飲み干して、後は蓙ござの上へ人魚のように足を投げだした。そして荒すさみきった心の奥に、自暴酒やけざけの酔がどんよりと濁ってくると、お延はついこの間、思いがけなく隅田川で会った春日新九郎の姿を現うつつにそこへ描いて、

「あの人も江戸へ来ているのに、一体どこに来ているだろうねえ……アア会いたい! もう一度しみじみ会って……」

熱に浮かされた病人のように、独りでかき口説いたり、黒髪を毮むしったり、果てはシュクシュク啜すすり泣いたりしだした。

「馬鹿野郎、またお株をはじめやがった」

小六はべッと唾を吐いて、忌々しそうに眉を吊り上げ、お延の肩を蹴飛ばしかけたが、その時表の方で客呼びの源七が、またもやしゃ嗄がれ声ごえを振り立てはじめたので思い止まった。

「さア出ないか出ないか! 江戸の男には腕ッ節の強い者はいないのか、小六先生を破るほどの者はいないか! たッた二分銀一枚で小判の山の掴み取り、さア飛び入りはないか、飛び入りはないか」

武芸を売り物同様な浅ましい声を振り絞って、源七がしばらく喚いていると、やがて見物の中から賭け試合の申し込者がでたとみえて、楽屋の小六に報らせの太鼓がドーン、ドーン、ドーン。それと同時に一分銀が何枚か景気よく銭笊の中へザラザラと舞い込んだ。

「先生お支度を願います」

と表からの声、

「心得た」

小六は職業的に緊張して襷たすきをし直し、手早く外はずしとった玉槍の穂先で、蓆の裾をポンと刎ね上げ、そこから幕の表の方へと立ち現われた。その姿を見ると一緒に、

「投げ槍、投げ槍」

と沸きあがった群集のかけ声、

「叡山流しッかり!」

「飛び入り! 構わねえから打ち込んで三方の小判をこっちへふり撒まいてくれ」

ワーッ、ワーッという熱ッぽい声に浮かされた見物は、木戸銭なしの賭け試合に時間を忘れて揉み合っている。

三

どこかの町道場の門下か、あるいは旗本の子弟でもあるらしい三人組の若侍は、噂の賭け試合に奇勝を博さんものと意気込んで来たが、小六の投げ槍の手練に遭って、入り代わり立ち代わり、たちまち無残な敗れをとり、あたら一両二分の金を巻き上げられた上に、すごすごと逃げるが如く帰ってしまった。

潮時しおどきはここぞとばかり、客呼びの源七は弓の折れで立看板を叩きながら、いよいよ喚き捲くし、いよいよ胴間声を嗄からして景気づける。すると一方から、

「退どいてくれ。退いてくれ」

「ご免、ご免」

と人浪を掻き分けてきた骨節ほねぶしの強そうな六部姿の町奴まちやっこ二人、ばらばらッと幕の中へ飛び込もうとする様子なので、客呼びの源七は慌てて二人の袖を引ッ掴んだ。

「おいおい、賭け試合をするならするように、ここへ二分ずつ置いて行ってもらいてえものだ」

「やかましいやい糸鬢いとびん野郎めッ、二分や三分の端た金に吝しみッたれた騒ぎ方をするな、さ、木戸銭は先にくれてやるから、こっちの対手あいての一角を出せッ」

「金井一角を出せッ」

云うが早いか、懐中ふところから掴み出した一朱金小粒銀まじりの金を、源七のしゃッ面つらに叩きつけて、試合場の真ン中まで五、六足に駈け出した。源七は驚いて、

「ま、待った! 勝負は一人一人だ」

と帯ぎわを掴んでずるずると引いて来るのを、

「えい、うるせえ虫けらめ」

グワンと鉄拳をびんたに食わせて、町奴の一人が突ッ放すと、一方が受けて、

「うぬあ邪魔だからしばらく外で見物していろ」

と云うや否や、源七の襟がみを掴んで、青竹の仕切りの外に押し合っている見物の中へブーンと投げ飛ばした。

と見た投げ槍の小六は眦まなじりを裂いて樫の玉槍を二人の闖入者ちんにゅうしゃの前にピッタリとつき付けた。

「待てッ何者だ、その方たちは?」

「何者でもねえ見た通りの町奴、生不動の両童子と唄われたこんがら重兵衛にせいたか藤兵衛のご両人様だ」

「さては聞こえた無頼漢あぶれものぞろい、腹を合わせてこの小屋荒しに来おッたな」

「槍術売りの芸人侍めッ、きいた風も大概にしやがれ、看板通りの約定金を払ったお客様に、小屋荒したあ口が過ぎる。さ俺たちの対手あいてには望みがあるんだ。福野流の金井一角をここへ出せ」

「犬侍の一角を出せッ、隅田川の仕返しに素ッ首を引ン抜いてくれるから勝負に出せッ」

生不動の名と共に、音に聞いたせいたかとこんがらが、怒れる両童子その者の如き勢いで詰め寄ったが、小六も曲者、びくとした気ぶりも見せず玉槍を構えたまま、

「そいつはご苦労千万だが、金井一角は今日はいない。また改めて出直して来い」

「飴あめでも食らえ!」

こんがらは一笑のもとに突ッ刎ねて、

「そんな甘手に乗って帰けえるほどなら、初めッからここへ面つらは出さねえ、たしかに楽屋にいると睨にらんで来たからにゃあ、このボロ小屋の蓆むしろを一枚一枚引ンむいても、引き摺り出さずにゃおかねえのだ」

「云わしておけば無礼な奴、おらぬといったら金輪奈落こんりんならく一角はいない。足もとの明るいうちに帰れ帰れ」

「よし、じゃどうあっても匿かくまい立てするんだな」

「面倒くせえッ、せいたか! 楽屋へ踏ん込ごんじまえ」

「合点!」

バラバラッと蓆囲いを目がけて躍り込んで行くと、物蔭に隠れていた熊谷笠の大月玄蕃が、いきなりドンとこんがらの鳩尾みずおちを狙って突き出した当身あてみの拳けん、

「むッ」

とよろよろと一人が倒れたのを知ったせいたかは眼まなこをいからして物蔭の侍に斬りつけようとしたが、途端に、小六の手から離れた投げ槍がブーンと風を切って飛んだ。

蘭谷あららぎだにの山荘にいた頃から、鍛きたえに鍛えぬいた小六が、必殺の怒気をこめた投げ槍、わざと石突きの方を尖さきにして飛ばしたのが、狙いたがわずせいたかの横鬢に当ったので、彼は、

「ワッ」

と叫んだまま、顳顬こめかみの骨が砕け飛んだかと思えてクラクラとなってそこへ倒れた。

「ざまを見やがれ」

さっき見物の中へ投げ込まれた源七と玄蕃と、共に帰ってきて物蔭にかくれていた金井一角などがたちまちせいたかとこんがらを荒縄で縛り上げ、ことさらに、大衆の前へズルズル引き摺ってきて、蹴る撲なぐる唾を吐きかける、至らざるなき侮辱を与え、それにも飽かず今度は源七の持っていた弓の折れでピシリピシリと皮肉の破れるほど打ちすえた。

「あ、ひどい畜生、三人がかりじゃ耐たまらない」

「両親分が殺される、誰か薬研やげん堀へ報らしてやれ」

見物は興に過ぎてかえって興を醒さました。気の小さい者は見ているのも無残そうに目をおおって逃げだしたが、たちまち何者か、一方の仕切り竹をミリミリッと蹴破って群集注視の中へ躍り込んだ者があった。

「やッ」

物音に振り顧った小六がきっと見ると、深編笠に黒紬くろつむぎの単衣ひとえ、革の野袴を穿うがった大兵な侍が、愕くうちに早くもつかつかと側まで来てしまった。小六はハッタと睨んで、

「やあ何奴、許しもなく仕切り竹を踏み破ってこれへ参るとは不作法千万」

「ゆるさっしゃい、この中に拙者の知り人が一名おったゆえ、つい気を急せいてのことでござる」

「何、知り人が?」

と一同で疑わしげな眼を向け直す間に、すばやく、ツツツと小六と源七の間を摺り抜けてきた侍は、右手めての鉄扇を左の手に持ち直し、いきなり身の悸すくむような雷鳴一声、

「大月玄蕃ッ動くまい!」

「あッ――」

うッかりしていた右腕を不意に掴み取られた玄蕃は、思わず恟ぎょッとして間近にその人を見れば、南無三、編笠の内からゆったり垂れた、脅威の長髯は一目で知れる鐘巻自斎。

四

「悪い奴に――」

と心の底で怯おびえをとった大月玄蕃は、さすがに反向そむけた面おもてにも生色を失ってしまったが、幸せと熊谷笠に顔を包んでいたので、

「不躾け至極な人違い、大月玄蕃などとは思いもよらぬ云いがかりを申す奴だ。この手を離さっしゃい」

と言葉鋭く云い切って白ばッくれた。

「何、云いがかりとか。ははははは汝が玄蕃に非ずしていずこに大月玄蕃と呼ぶ者があろうか。二年前には桔梗河原で、近くは碓氷峠で見受けた汝の姿を、ここで見損じるような拙者ではない。見つけ次第に引ッ捕えて報しらせようと、重蔵殿に約してあるのじゃ。玄蕃ッ、汝も武士の片われではないか」

「む、むウ……」

「山陰切っての一刀流の達者と呼ばれ、一度は京極殿の指南番まで勤めた堂々たる剣客ではないか、なぜ左様な卑怯をする。かりそめにも剣をとって諸士の範たる武士が見下げ果てたる下司根性げすこんじょう、恥かしいとは思わぬか!」

「へへッ……」

自斎の威圧と理に屈伏して、呻うめくが如くこう叫んだ玄蕃は、

「そう仰っしゃられては面目次第もござりませぬ」

声さえ悲壮なふるえを帯びてガックリと首を垂れてしまった。その様子を見た自斎は、いささか不愍ふびんにも覚えて掴んでいた小手を緩め、

「迷夢が覚めたか、善悪は別として、天命なるものを知り、終りを知ることこれ武士の第一義じゃ、とにかくここは人中、拙者と共に宿所まで同道してもらいたい」

「は……」

いかにも神妙そうに小腰を屈かがめた玄蕃は、自斎に小手を離された途端に、

「ばッ、馬鹿なことを!」

打って変った毒口を投げつけるが早いか、身を躍らしてきた豹変の抜き討に、鬼丸包光の大刀を横ざまにさっと払ってきた。

「アッ」

と不意をうたれたのは間近く居合せた小六、一角、源七の三人、冷ひやりと水を浴びたような心地で飛びのいたが、より神速に玄蕃の切ッ尖さきから転じていた鐘巻自斎は、応変自在、鉄扇をいつの間にかピッタリ一文字に構えて、しかも躁さわがず迫せまらずじっくりと玄蕃の姿をみつめてこう云った。

「あわれむべし大月玄蕃! 不憫や魔道に落ちて救われざる似非えせ剣客、それ程までに致しても命が欲しいとはよくよくな奴」

「黙れ黙れッ、気儘きままに云わしておけば好き勝手な囈言たわごと、汝おのれ如きに身の指図を受けようか」

「よし多言は要いるまい。さらば引ッ吊るして重蔵殿に引き渡してくれるまでじゃ」

「えい耳うるさいッ、各〻手を貸してくれ!」

玄蕃は左右に助太刀を頼んで、自分はふりかぶった太刀を八幡微塵と斬り込んだ。が、体もくずさぬ自斎の鉄扇は、さしも一刀流の豪剣を中段からピシリと刎ね返し、空むなしく閃光の輪を描いてのめり込んだ玄蕃の肩先をしびれるほどに一打ちくれた。

「つッつッつッ!」

玄蕃は歯がみをして地に下がった太刀を持ち直したが、自斎の鉄扇に眼まなこを射られて思わず、タジタジと踏み退くほど心が怯ひるんで、今は矢も楯もなく以前の蓆囲いへ向ってバラバラと逃げ込んだ。

「待て!」

跳びかかッた自斎の左手ゆんでは、早くも彼の熊谷笠のふちを掴んだ。

「卑怯もの!」

「しまッた」

ベリベリッと破れた笠が自斎の手に残ったかと思うと、玄蕃は脱兎の如く蓆を衝き抜いて裏口へ逃げ出し、同時に一刀を抜いてきた金井一角が後ろから不意打ちに、

「素浪人ッ」

と斬りつけてきた。

「何ッ」

自斎の体がクルリとこなたへ向き変ったかと思えば、鉄扇に呼ばれて誘い込まれた金井一角は、二の太刀を斬り辷すべったまま危うくも猛虎の懐ふところへ飛び込んできた。

「えいッ!」

とばかり雷霆らいていの一撃。あッと小手から太刀を取り落した一角は、対手が鉄扇と見て身を泳がすが早いか、自斎の体に猛然と組みついた。しかし、彼の得意な福野流の乱取りは施すまでに至らず、月波浮身げっぱふしんの妙変にヒラリと五体を沈めた自斎が、

「おうッ」

と二度目に刎ね返ったかと思えば、一流の柔術やわら取り金井一角ともあろうものが、ほとんど蹴上げられた鞠の如く、七、八間も彼方あなたへ投げ飛ばされてウームと悶絶してしまった。

その時であった、楽屋へ飛び込んで本槍の鋭い穂先を払った投げ槍の小六が、自斎の後ろを狙って田楽刺でんがくざしと、

「えやーッ」

ひょうッと投げ放した練達の飛槍、穂尖ほさきの閃光流星の一文字にツイと走って、あなや、鐘巻自斎の喉笛を突き貫ぬいたかと見えたが、カラリと響いた鉄扇の音を弾はじいて、風を含んだ投げ槍はくの字にそれたまま仕切りの外の群集の方へブーンと流れて行った。

さなきだにこの騒動で、先刻から鼎かなえの沸く如く揉み合い叫び合っていた弥次馬は、頭の上に飛んで来た真槍の光りに仰天してワーッと雪崩れ返ったまま小屋前十二、三間のところまで海嘯つなみのように逃げくずれた。

「おのれッよくも渡世の邪魔をいたしおッたな」

必殺自信の投げ槍に仕止め損なったと見た小六は、無念そうにこう叫びながらバラバラッと自斎の前まで駈け寄って腰の大刀を抜き払ってきた。

危ういかな投げ槍の小六、山陰きっての一刀流覇者大月玄蕃さえ、たッた今二の太刀を諦めて逃げたほどの鐘巻自斎に、いかに盲蛇に怯おじずと云え、吾から蟷螂とうろうの斧をふるッて、飛びかかッた向う見ず、

「おお……」

来れと体をそのままに構えた鐘巻自斎、

「汝がこの小屋の投げ槍小六と申す奴よな。神聖なるべき武芸を大道にさらすのみか、博技の道具にして市人に悪害を流す憎ッくい曲者くせもの、武門の神に代って小屋もろとも踏み潰し堕落武士の見せしめとしてくりょう」

「えッ舌長したながな広言ッ」

べッと柄糸に唾をくれた投げ槍小六が、一閃二閃とつづけ打ちに斬ってかかッた太刀風に、はッと気がついて飛び起きた金井一角は、それと見るなり前の太刀を拾って自斎の左右から烈々と火を飛ばして行った。が、それは瞬間であった。尺一寸か二寸に足らぬ自斎の鉄扇は、二本の白刃を迎えて神速神変の妙を極め、見る間に、二人の太刀を捲き落し、逃げるを打ちすえ、小屋丸太を引き抜き、りゅうりゅうと振って蓆囲むしろがこいや仕切り竹を叩き壊しはじめた。

それまで、自暴酒やけざけに酔って、楽屋の蓙に正体なく寝くたれていたお延は、ミリミリッ、グワラグワラという凄まじい物音と共に囲いを剥はがれたので、

「あッ」

と魂を消して刎ね起きたが、その眼の前を裏口から脱兎の如く逃げ出して行った小六と一角の姿を認め、狂女のように髪振り乱して後ろから走った。

騒然たる物音と叫喚の後は、一陣の黄塵こうじんがもうもうと巻きあがって、西へ東へと散って行く群集と共に消え去ったが、更に再び、ここを目がけて鬨の声を作って押し返して来た一団の人影があった。

陽は既に暮れかけている。あたりは旋風の跡の如き狼藉をきわめ、浅草寺せんそうじの屋根越しから黄色い夕月がぬッとのぞいていた。

「こんがらの兄い!」

「せいたかの兄弟」

嵐のように殺到した一団の人影は、各〻大刀だんびらを引ッさげて滅茶滅茶に踏みこわされた小屋の跡を右往左往しながら二人の者の名を呼んだ。

察するにここに駈けつけてきた抜刀組は、見物の中の何者かの報しらせに依って、こんがら、せいたかの危急を救いに来た生不動一ひとまきの町奴に相違ない。

案の定じょう彼等は、荒縄に縛られたまま苦悶していた二人の兄弟分を見つけ出して、すぐ連れてきた駕に乗せた。しかし、当の怨敵と首を狙ってきた金井一角、投げ槍の小六、笊組の三下共は既に一人としてそこに影を見せていなかった。ただ、そこで目についた物は、たッた一本取り残されてあった看板柱で、一同がふと見上げると、裏をかえして掛け直したらしい板面に、墨痕淋漓ぼっこんりんりと書き流された達筆な文字。

当節堕落の似非武芸者えせぶげいしゃども、刀槍をもって博技売芸の沙汰あること武術の穢罪えざいこれに如しくはあるべからず。遂に醒めざれば即ち鹿島香取剣神の御罰まずこの通りたるべきもの。

月    日鹿島かしまの使者ししゃ孤剣こけん飄客ひょうかく

この筆者が鐘巻自斎であることは云うまでもない。

五

三叉みつまたの女屋敷菖蒲あやめの寮は、大川筋の水明りから明けて、絵絹ににじませたような芦あしの洲すや寮の屋根などが、ほのぼのと夢のままに浮かんできた。

綿のような霧の中から、すくすくと伸びて見えるのは寮の裏にあたる男松おまつ女松めまつ、そこから吹き込んでくる朝の涼風すずかぜは、まだ起きもやらぬ長廊下をそよそよと流れて、奥の数寄屋に見える水色の絽蚊帳ろがやを波うたせていた。

そして、深い深い眠りに落ち入ったまま、絽蚊帳の裾が寝顔をなぶりぬくのも知らず、昏々として醒さめざる人は春日新九郎であった。

ああ醒めざる人、この人は今何を夢みているのだろうか。国元に起った正木作左衛門の変も知らず、兄の重蔵と千浪とがこの江戸表に昨日今日来ていることも知らなかろう。

仮に新九郎の夢を憶測すれば、それは終生の雄敵ゆうてき鐘巻自斎の像かたちか、分れ難きを分れている可憐な千浪の姿であらねばならぬけれど、今朝の新九郎は、夢みている人にしては余りに淋しい寝顔である。それは淋しいと云わんよりむしろ石の如く冷たく蝋ろうの如くに生色がない。これはどうしたものであろう。

寮の主あるじの御方が、医師の蘚伯せんぱくにもらった南蛮の睡薬。それを平常の散薬と思って寝しなに服のんだがため、かくは死んだように眠りに落ちているのである。無論、新九郎自身は、寮の御方が夜半に枕元に坐って一刻もの間うっとりと自分をみつめていたことも、既に、夜明け近くに、御方自身が四隅に蚊帳の手を吊って忍びやかに立ち去ったことも、気配すら覚さとらずにいるのだった。

カラカラ、カラカラと母屋の雨戸を繰る音がしだした。と間もなく、廊下を渡ってくる、跫音がする。侍女こしもとである。新九郎の寝ているのを見て静かに蚊帳を払い、簀戸すどを開け払って思うさまは風を入れて立ち去った。で、彼の枕元に近い所を、人なき白帆がゆるゆるとさかのぼって行くのも見えてきた。

「ム……ム、ム……」

爽やかな風に醒めたか新九郎は二、三度軽い呻きをもらして、やがて、パッチリと眼瞼まぶたを開き、幽界からこの世に返ったものの如く、しばらくあたりの朝を見廻していた。

「オ、今日こそはここから帰る日だ……」

醒めた途端に胸をかすめた新九郎は、いつもの心算つもりでムックリと身を起したが、その弾みにくらくらと眼がまわって、顳顬こめかみを押さえたまま枕に額を乗せて俯伏うっぷしてしまった。それが睡薬の名残と知らない新九郎は、眩暈めまいをこらえてまた起き直り、ふと枕元を見ると、昨日、御方に持ち去られた筈の国俊くにとしの一刀が、いつの間にかちゃんと置いてあるではないか。

「おお、では今日こそ帰れという謎か」

新九郎はほッと安心してその一刀を膝の上へ取り寄せたが、彼はまたいぶかしそうに眉を顰ひそめた。鍔、柄糸、鞘の長さ、それらは自分の愛刀と見違えるほど似ている刀だが、どこかに持ち心地の違うところがある。

「はてな? ……」

小首を傾かしげながら鯉口を切って抜き払った新九郎は、思わずアッと驚かされた。それは将軍家御用鍛冶かじの初代康継やすつぐ、まぎれもない葵紋あおいもんが切ってあった。更に白茶の柄糸の中にも燦然さんぜんたる肉彫にくぼりの三つ葵が目貫めぬきとなっている。いずれにせよこのような刀は、常人の手にある筈の物でなく、千代田城の御納戸品おなんどひんか、貴顕の拝領物かでなければならぬ。ああどこまで寮の御方の身柄こそ謎である。

「春日様、お目ざめでござりますか」

老女の水瀬みなせがいつの間にかそこへ来て微笑していた。解きがたい謎に迷っている新九郎ははっとして、

「おお水瀬様か、取り乱しております」

慌てて床を払って坐り直すと、老女も静かに前へ来て、御方から昨夜ゆうべ聞いておいた言伝づてを話しだした。

「昨日貴方さまのお刀を預りましたは、決して悪意でも悪戯わるさでもござりません。嵐の夜に大分水に浸しみておりますゆえ、御方様のお心づきでお出入りの研師とぎしに手入れにおやり遊ばしたまでのこと、その間のお差料さしりょうには、お部屋に置きましたものをどうぞお使い遊ばして下さりませ。そのうち手入れの出来る頃にお越しになれば、いつでもお引き換え申そうから、お気を悪くせぬようにとのお言葉でござりました」

世間というものに馴れず、人に疑いというものを抱かない新九郎は、それをも御方の純な親切と思って、幾度か礼をくり返しふたたび来る日を約して、十幾日目かで寮の門から外へ出た。

この上は一刻も早く、生不動の与兵衛に無事な顔を見せようと勇み心地に寮を出た新九郎は、朝まだき大川端を急いでくると、ちょうど矢の倉手前、両国の渡し舟に近い河岸ぶちに、悄然しょうぜんと立ち竦すくんでいる二人づれの虚無僧を見た。

なにが故か、二人の虚無僧はじっと大川の水をみつめていたが、天蓋のうちでハラハラと涙流したものの如く、そッと涙を拭い、二人とも同じように川に向って合掌した。そのすぐ傍をすり抜けた者は云うまでもなく新九郎であった。

夢寐むびに見みる雄敵ゆうてきの現あらわれ

一

この家から、早立ちの客を二人送り出して後、生不動の乾分こぶんたちは、毎朝の吉例どおり、荒格子をきッきと研みがいたり、水を打ったり、間口十一間へ浪目に箒ほうきの痕を立てて行ったり、目まぐるしく、勇み稼業の表を浄きよめだした。

「なア安、昨夜ゆうべ泊った虚無僧の一人の方は、まるで岩井半四郎そのままじゃねえか。世の中にゃあんないい男もあるものかしら」

「べらぼうめ、だから人様が汝のことをのん竹と云うんだ。あれは正真正銘の女じゃねえか」

「女にしても上美女じょうたぼだ。すると一緒にいたのが良人だろうか、あんな跛行と連れ添っているたあ何てえこッた。俺に白羽の矢を立てりゃ、何時なんどきでも博奕打ちの足なんか洗ってしまって虚無僧になるものをなア」

「やいやい、あんまりでか声で馬鹿を云ってると、また親分に朝ッぱらから拳骨を頂戴するぞ。あの足の悪い方は新九郎様の血を分けたご兄弟じゃねえか」

「えッ、では噂に聞いていた兄様あにさんか。それじゃ新九郎様の経緯いきさつを聞いて、定めしお力落しをなすッたろうなあ」

「昨夜はお二人と親分とで、一晩中物語をしていたらしいが、それにしても新九郎様は一体どうしたんだろう。死んだ者にしても死骸ぐらいは大川尻から上がりそうなものじゃねえか」

「やッ兄哥あにき、むこうから来たのは新九郎様らしいぜ。や、そうだ、新九郎様に違えねえ」

「いい加減にしやがれ、幽霊にしたところで、死んだ者が朝ッぱらからのこのこ来てたまるものか」

「だッて、ああ新九郎様だッ」

乾分ののん竹は、いきなり竹箒たけぼうきを抛ほうり出して、与兵衛のいる茶の間まで一息に飛び込んで来た。

「親分親分、今新九郎様が帰けえって来ましたぜ」

「なに、新九郎様が? ――」

与兵衛は声と一緒に腰を立てかけたが、報らせて来た人間が、乾分の中でも鈍物ののん竹というしろものなので、そのまま一笑に附し、

「竹、てめえ何か勘違えをしたのじゃねえか」

とあり得うべからざることに思い直した。

のん竹はどこまでも真剣に眼を剥いて、

「いえたしかに新九郎様に違ちげえねえんで……今表を掃いているってえと、むこうから、神隠しにでも会ったように、ぼんやり歩いて来る者があるから、オヤッと思って見るとそれでさ。嘘だと思ったら親分自身で、早く門口へ出てご覧なせえまし」

よもやとは思うけれど、あまりのん竹が生真面目に云うので、与兵衛もつい誘い込まれて茶の間を出て行くと、ちょうど、門口から多勢の乾分たちに愕おどろかれながら入ってきた春日新九郎と、出会いがしらにバッタリ顔を見合せた。

「与兵衛殿、いかいご心労をおかけ申した」

「おお新九郎様でごぜえましたか、よくまアご無事でお帰けえりなさいましたなあ」

「騒動の起きた当夜、拙者は金井一角と引っ組んで大川へ墜ち、すんでに命のないところでござったが、菖蒲あやめの寮の不思議な女主人あるじに助けられ思わず今日までの無沙汰の段、ひらにご勘弁願いまする」

「お詫びなさる筋合はござりません。あ、それよりは新九郎様、貴方のお帰りなさるのが、たッた一足遅うござりましたわい。せめてもう一刻も早かったら、お兄上の重蔵様と千浪様のお二方に、ここで落ち会いなさることができたものを」

「ええッ、何と仰っしゃいます。では兄上と千浪殿が江戸表へ参られましたとか」

「昨夜ゆうべ不意にお越し遊ばして、いろいろなお物語。聞けば千浪様の父御の仇、大月玄蕃という奴を尋ねるため、お二人様とも虚無僧にまで身を落して、これから奥州街道を下って行く心算つもりじゃと、今朝ほどこの門から立っておいでなされたばかり」

「や! では拙者がここへ戻ってくる途中、大川へ向って掌てを合せていた二人の虚無僧、解げせぬことを致しておると見流して参ったが、さてはそれが……」

「それこそ重蔵様ではございましたろう。貴方様の変事をお話し申したところお二方の力落しは云うまでもなく、千浪様のお嘆きは傍はたで見る目もお痛いたわしゅうごぜえました」

「アア知らなんだ!」

と嘆声を洩らした新九郎は、俄かにキッとなって、腰の刀ものを引ッさげて立ち上がり、

「たッた今そこで見かけたばかりの兄上、よもや遠くへは参るまい。奥州街道と云えば浅草見附から千住街道へ一本道、後をお慕い申して一目なりとお目にかからねば相済まぬ。与兵衛殿ご免!」

と語調もせわしながら立ち上がった春日新九郎は、云い捨てるが早いか、そこにあった突ッかけ草履、真一文字に生不動の家から戸外おもてへ駈け出した。

二

鐘巻自斎の膺懲ようちょうに会って、浅草お火除地ひよけちの興行小屋を滅茶滅茶にされた投げ槍小六は、笊組ざるぐみの一門に面目ないと思ってか否か、その夜のうちに、お延、大月玄蕃、金井一角の都合四人づれで身の廻りの物だけを取りまとめ、久八の部屋から逐電ちくてんしてしまった。

武州岩槻いわつきからくる道と、千住からくる葛飾かつしかの往還とが、ここで一路ひとつになって奥州街道となる幸手さっての宿に入り込んだのは前の四人で、高野橋の袂、網屋という旅籠はたごの一室に陣取り、川魚料理を肴さかなに、その翌日は昼から自堕落な酒宴に浸っている。

「お延さん、小六殿には悪いが三人の中に唯一人の女気だ。もう少しこっちへ出て酌でも致してくれぬか」

金井一角が小六の方を横目に見ながらこう云うと、お延は忌々いまいましそうに舌うちして、

「真ッ平ですよ。私ゃお前さんの女房じゃなし、また大月さんのご家内である訳でもなし、まして……」

「まして小六殿という良人のある身か。いや、これは痛い所でお惚言のろけを聞くものだ」

「ちぇッ、だからくさくさするッて云うんですよ。誰が小六さんなんかを亭主だと思っているものかね。変な弾はずみで、お互にこうなっているだけの悪縁さ」

男を前にして自暴やけにせよ、何にせよ、あられもない手酌を続けて云うお延の言葉も、この頃は小六の方で耳馴れたか、いちいち刀を引ッつかんで立ち上がるようなことはない。

しかし、さすがに小六の眉間がピリと動いたのでその苦にがい気配を早くも察した大月玄蕃が、巧みに話をそらしてしまった。

「ところで小六殿、話は別だが、これから一体どこを打って廻る心算つもりかの?」

「折角盛さかった賭け試合も、あんな野放図もない腕ききにあっちゃあたまらないが、まだ田舎廻りをすれば随分面白いことがあろうというものだ。先まずこれから、宇都宮、大田原の城下などを振り出しに奥州路から中仙道へ折れ、あわ好くば四国西国をも一巡して来ようかと存じておる」

「成程それもよかろう。しかしこの宿を立たぬうちに、拙者が頼んでおいた例の一条、あれから先に片づけてゆかねば、永い道中何となく気がかりで相成らぬが」

「ご心配あるな、この金井一角もその儀はとくと含ふくんでおります」

「そういうときには、不意打ちの世話も要らぬ投げ槍の極意で、小六もきっと腕をお貸し申そう」

「そう聞いて玄蕃も安堵あんどいたした。しかしもう今夜あたりはこの宿へかかって来る筈だが……」

玄蕃が二人を組させたこととは、云うまでもなく重蔵と千浪を、再びここで返り討ちにしてしまおうとの魂胆らしい。浅草の小屋へわざと自分の名を掲げておき、二人を奥州街道へ釣り出そうとした苦肉な策を思い合せれば彼の毒刃がどこまで執拗なのか、真に慄然りつぜんたるものがある。

が仇かたき持ちの心理はまた別なものに相違ない。幾ら自己の腕に自信があり、当の対手あいてが婦女幼少の輩やからであろうと、生涯、影を追って尾け狙われているということは、誰にしても耐えられない不安、たまらない不快に違いない。

大月玄蕃ほどの者が、前には大草額平を騙かたって碓氷うすい峠に彼を擁ようし、その失敗にも懲りず、再びここで二人を絶ってしまおうとする焦り方は、たしかに前の気持に近いものである。

してみると、仇討というものは――

仇かたきを討たんとして、怨霊おんりょうのごとく、狙つけまわしている間が、切実なる復讐の間で、斃たおして、仇の喉三寸に刺刀とどめを貫くことは、仇の罪業をゆるし、同時に彼を救ってやることになる。

それはさておき、翌晩一人の駕屋が手ぶらで網屋へ入り、奥にいる玄蕃に会って、夕方から二人連れの虚無僧が、小淵の不動院を出てこの宿へ向って来ると告げて行った。

これは前もって、玄蕃が駕かきに金を握らせて置いたものであるらしい。不動院からはこの宿までの間には、一軒の宿屋もない筈、従って、いやでも夜道をかけて来なければなるまい。彼は密かに陰険な悦えつを洩らして、投げ槍小六と金井一角の両助太刀を誘い出し、かねて足場まで見ておいた柳堤に身を隠した。

玄蕃と一角は、覚えの一刀を前落しに押さえて草むらに隠れ、小六は手馴れの短槍をとって、堤の上からただ一突きと息をのんで待ち構えている。

たまたま走る夜駕の灯も絶えて、初更を過ぎかけたこの街道は、刻一刻と、夜涼の静寂しじまに澄み切って、時折、空には飛ぶ星、地には撩乱りょうらんの露草に啼きすだく虫の音があるばかり。

と――月見草のやさしい中に、怖るべき魔人の剣が潜んでいようとは、よもや、夢にも知ろう筈がない尺八の音色――、それに連れて、ピタリ、ピタリ……としずかに夜露の土を気まかせに踏んで来る天蓋の影二ツ。

「来おったな! あの人影はたしかに虚無僧、春日重蔵と千浪の二人だ」

密ひそかにプツリと切る鯉口、リュウッと槍の空からしごきをして竦すくめる双眸、人の魂を吸うような冷たい風が、そよそよとあたりの闇に吹き漂っている。とは知らず、歩一歩と、彼方あなたの影はここへ近づいてくる。

吹きつつ来るのは何の哀曲か、地上の露を払い、天の星を澄ますような音色――それは、聞く人各〻の心に依って、流々るるの身をかこつ調べとも聞かれれば、また、仇を求める一念の送りとも聞こえ、あるいは、作左衛門の魂魄やはかなき変を聞いた新九郎の為に、兄と恋人とが手向ける譜ふとも聞かれるのである。

「えーいッ!」

いきなりさっと柳絮りゅうじょの闇を破った物凄い小六の掛け声。と見る間にピラピラッと闇を縫って飛んだ投げ槍――ああ悪魔の毒槍。

「むむウーッ」

無残、槍の手ごたえと共に、ぱッと血の香を漂わせたところから、ただ一声の唸きが揚がり、一方の虚無僧は、胸板の真ん中を縫われた槍の柄を掴んだまま、摚どうと仰向けに大地へ仆れた様子。

「それッ後はご両所」

堤の上から、小六が声をかけると同時に、

「オオ心得た」

と白刃を躍らせて現われた玄蕃と一角は、物をも云わず、残る一人の虚無僧を挟んで斬りつけた。人一人を一気に葬った血飛沫は、昏々とあたりを迷って容易に去らない。しかも、残虐に飽かない魔人どもは、更に残る一命に迫った。ああ既にそれも危ない。

前に斃たおされたのは千浪の方か重蔵の方か、いずれにせよその一人が、豪剣怖るべきこの悪剣客どもの切ッ尖を迎えて遁のがれることは難中の難である。

三

ほとんど、魂をおう狂気の人の如く、千住街道を急ぎ足に、先から先の人を追い抜けて来た春日新九郎は、やがて粕壁かすかべの立場たてばあたりまで、遂にそれらしい人にも会えず、がッかりすると同時に足も精根も疲れ、陽もどッぷりと暮れ落ちてしまった。

「ああどこまで千浪殿とも兄上とも、縁のうすいこの身であろう……ここまで来て会わずに帰るも残念、と云って、このまま行く雲をおうような旅もつづけられず」

茫然と路傍に立った新九郎は、疲れた体を進める道に迷っていた。と、里の者らしい人々が此方へ来た。新九郎はその人達を見ると、また一縷いちるの未練をつないで、およその風姿なり恰好かっこうを話し、この街道でそれらしい人を見かけなかったかと訊ねてみた。こうして訊ねる言葉も、今日一日で幾十遍くり返したことであったか知れない。

「そうさのう……」

百姓らしい男は、しばらく小首を傾かしげていたが、何か思い当ったように、

「む、お見かけ申しましただよ。あの人たちに違いなかんべい」

と新九郎の胸をどきッとさせた。

「それもたんと前のことじゃあねえ、つい今し方のこッてがす。小淵の不動院の林から、この街道の先へ出る抜け道を、ぶらぶら行かしゃったお二人づれの虚無僧がありましただ」

「おお、それじゃそれじゃ! して二人の者は、この街道をどう向いて参ったであろう」

「あの抜け道を行けば杉戸へ出るのでがす、その先はずッと幸手さってまで宿屋がごぜえませんから、きっと夜道をかけるつもりでがしょう。そうすれば、なアにこんな平街道ひらかいどう、とッとと走って行けば追いつきますわい」

「いや忝けない」

新九郎は、欣よろこびほどの礼を云う遑いとまもなく、再び疲れた体に鞭打むちうって、並木から並木つづきの街道を一心に走りつづけた。

三本木から杉戸あたりを過ぎると、もう一軒の家もなく、右はだんだんに柳を植えた堤どてとなり、左は草深い一面の原。

「はッ……」

思わず火のような息を吐いて足を休めると、初めの熱汗は極度の疲労で冷汗ひやあせとなり、しばらくは、空を仰いで星月夜の涼風を入れる気力もない。

と、今まで気がつかなかった尺八の音が、かすかに行手の先を辿って行くようである。

「あれじゃ! もう近い」

にわかに気力が甦えって来た。彼はまた四、五丁も一気に走った。尺八はいよいよ近く聞える。もう一息――と思いつつ駈け出して行くと、糸が断きれたように、ぷッつりと音が絶えた。

「オウーイ」

新九郎はそこから声を揚げはじめた。

「オウーイ。オウーイ」

答えはない。尺八の音も再びしない。

彼はハッと胸を轟かせた。何か怪しげな物音を一ツ聞いた。そう思って耳を澄ませば、時折、剣と剣の合うような冴え音。

「何か異変が? ――」

と思い当った新九郎は一段足を空にして行くと、たしかに二、三人の足音がバラバラと彼方あなたへ逃げて行くのを聞いた。そして、危なくつまずくほどな間近に、一人の虚無僧が朱あけになった連れの者を、抱き起こしている悲壮なさまを目前に見た。

それは男らしい骨格、さては斃たおされたのは千浪だったか。

何せよ一足遅かった。ああたッた一足で恋人の玉の緒を絶ってしまった! ――と新九郎は吾を忘れてそこへ飛びつき、

「兄上ッ」

いきなり袖に縋ってしまった。

四

「何ッ?」

不意を衝うたれた虚無僧は、死骸を捨ててパッと飛び退き、同時に一刀の切きっ尖さきをピッタリ新九郎に向けて、すこしも油断のないかたち。

「兄上、お人違い遊ばすな、新九郎でござる、弟の新九郎でござります」

「待て、其方は何を申しているのじゃ」

「や、や、そのお声は?」

「人違いとはそちらのことではないか。身共に新九郎と申すような舎弟はない」

「違った!」

新九郎は張り詰めた心を、体と共に一遍にそこへくずして、ピッタリと両手をついてしまった。

「失礼仕りました。まったく、同じ普化僧姿の者を尋ねて参りましたゆえ、夜目でもあり、かたがた心急こころせいた余り人違いの無作法、真ッ平ご免下しおかれましょう」

「いやご丁寧なる詫わびで痛み入る。身共こそ狼藉者の片割れかと存じて、抜刀ぬきみを向けた慌てようは面目ござらぬ」

「して、ここに無残なご最期を遂げられているお方は?」

「同門の友でござるが、何ら怨みを受くべきいわれもなく、不意にあの堤の上から投げ槍を飛ばしてただ一突きに殺やられました。拙者へは同時に二人の曲者くせものが迫って参りましたが、今思い合せると、貴殿が遠くから呼ばわった声を聞いて、さては助太刀が参ったかと愕き、急に逃げ去ったものでござろう」

新九郎は、前に人違いと知って失望したが、今は人違いに感謝しなければならなくなった。

投げ槍の使いてはたしかに西塔小六。一人は悪に繋がる大月玄蕃、その魂胆のあるところは、察知するに難くない。

「承れば、このお人こそお気の毒千万、実は貴殿に狼藉いたした者こそ、拙者の兄ともう一人をここに待ち伏せ致しおった曲者に相違なく、同じ普化僧のお姿ゆえ、てッきりそれと見違えたものでござろう。何卒不慮の禍いと思し召されて、おゆるし願いとう存じます」

「いやいや、これは全く宿命でござる。今思い合せても、奇異な心地が致しますが、打ち明けてお話し申せば、今日の昼、この先の不動院で拙者と同宗の二人の者に出合い、ややしばらく打ち解け話をしながら、不動院の縁に四人で腰かけていたことでござった」

「もしや一人は片足の不自由な?」

「左様でござった。そして一人は女にも見まほしい人体、宗名は月巣、竹枝と申しおった」

「おお、それこそ拙者の尋ねる人々でござった。してそれから何と致しましたな」

「まア聞かれい……」

虚無僧は傍らの切株へ腰を落し、宗友の冷たい空骸なきがらに瞳を落しながら、口重そうに次の話をしはじめた。

その虚無僧も、まことは武士であった。

しかも、柳生家やぎゅうけとならんで、将軍家指南役の大職にある小野派三代目忠雄ただおの高弟、夏目大之進という者であった。

故あって、大之進は小野門から姿を隠していたが、ちょうど、旧友の鵜飼うがい六太夫が一月寺の普化僧となっているのを幸い、自分もその群に交じっていた。

ところが、今度計らずも小野家へ帰参が許されたので、旅先から戻り、一月寺へ鑑札かんさつ尺八を返納して江戸へ入ろうとしたところ、その途中不動院で今日落ち合ったのが重蔵と千浪の二人づれだった。

同宗の誼よしみで、四方山よもやまの話をしているうちに、不動院の院主という老人がそこへ来合せ、話に花が咲き出した。院主は梅花堂の心易しんえきをよくする者で、千浪と重蔵の運命を占って、言下に、

「其許そこもとたちの尋ねる者は、志して行く土地にはおらぬ。まして行く手にあたって怖ろしい殺気がある。西へ避けろ、上州路へ廻れ」

と云った。また、鵜飼の運命を見ると、老人は何故か口をつぐんでしまった。そして一言、

「後ろを振り顧らずに、一散に江戸へお帰りなされ」

と暗示めいたことを告げた。

しかしその時は、座興ぐらいに思って鵜飼も大之進もそこを立って来た。けれど、千浪と重蔵とは、老人の占言せんげんがあるばかりでなく、何となく賭仕合かけじあいの小屋で聞いたところに疑念を抱いていたので、不動院からにわかに道筋を変え、上州路へ折れてしまったのである。

一方、夏目と鵜飼の両名は、そのまますぐに江戸へ急いでしまえば、この奇禍にも遭わなかったろうに、不動院を出ると間もなく、鵜飼六太夫の方から口を切り、幸手さっての網屋で今宵は別盃を酌もうと云い出し、抜け道をとってそっちへ廻った。と街道を歩きながら六太夫が、

「大之進殿、今日かぎりでこの尺八も捨てるのだ。一ツ別盃の前に別れの一曲を吹こうではないか」

と興に乗じて云いだした。

「縁起でもない、別れの曲は止したがいい」

「では何なりと、気任せの調べ合せはどうじゃ」

「よかろう」

二人はすぐ歌口をしめして吹き合わせた。そして、長い並木も短く思えて興に吾を忘れてくると、突とつ、寸善尺魔、闇を切って飛んできた投げ槍の禍い――

………………

大之進から、こうつぶさに話されたので、新九郎は己れの姓を名乗り、身の上の一端を明かさなければ悪い気がした。やがての後、二人は不動院を叩いて、老院主に顛末てんまつを話し、近所の百姓の手を借りて六太夫の空骸なきがらを埋葬した。

事の行きがかり上、新九郎はその最後まで大之進に力を添えていたので、遂に、重蔵の後を追いつくことは、一時諦めなければならなかった。

五

武者窓から痛い氷雨ひさめが吹き込み、木剣から火をほとばしらせる冬が来た。

凜烈りんれつ肌を破る寒気こそは、人を火の如く真剣にさせる。冬の道場こそは、木剣を持つ手から、血も吹きこぼれ、五体からは焔も立つ、真に剣道へ精進する侍ばかりが、厳冬氷のような研磨の床に雄叫おたけぶさまは壮絶の極みである。

ここは小石川大曲おおまがりの小野忠雄ただおの道場。そして門弟三千と称されている中の最下級に、春日新九郎も半年前から名を連ねている。

ここへ入門の世話をしてくれたのはかの夏目大之進で、生不動与兵衛とも無論了解の上であった。

新九郎は初めて名師に会った感謝に充みち、修行の一道に邁進まいしんしたが、何せよ格式の高い将軍家の指南道場、新九郎のような末輩は、時たま試合の陪観ばいかんを許されるの他、滅多に道場の床に立って高足の教えを乞うようなことはできなかった。

それのみならまだしも、玄関式台の拭き掃除、訪客の取次、荷担にないで水汲む類の業わざまで、仲間たちと一緒にやるのが門僕の掟であった。

「アー冷たい……」

氷柱つららのような縄釣瓶なわつるべで、井戸から荷担へ水を汲み込んでいた新九郎は、馴れぬ業にヒビあかぎれとなった両手を口へ当てハーと息を吹きかけていた。

ポン、ポン、ポン。あちらで手を叩く音がする。新九郎はハッとして、

「おお師範代がお眼ざめになったらしい。ただの召使根性のようなこのざまを見られては恥辱」

胸にこたえて荷担の天秤てんびんへ肩を当てた。

短い革袴かわばかまに稽古着一枚、これがその昔、孔雀くじゃくのような振袖姿を、春風に吹かせて歩いた新九郎かと思えば涙ぐましくもなる。

危うげな足どりで、やっと勝手の水瓶みずがめの前まで担かついで行くと頭の上から、師範代の梶新左衛門が、

「横着者めが、なぜ水をきらしておくのじゃ、とッとと顔を洗う水を汲んで来い」

寝起きの不機嫌に任せて呶鳴りつけた。

「いつにないお早いお眼醒め、まことに不覚を致しました。唯今すぐ……」

脚高の盥たらいへなみなみと水を張って、新左衛門の前へ捧げて行くと、

「えいッ」

不意に気合をかけられた新九郎は、あッとおどろいて飛び退いたが、もう、頭から盥の水をザーッと全身に浴びせられていた。

「あ……」

烈寒の中に立って、氷の衣きぬを着た新九郎は、思わずブルブルと身を顫ふるわせた。

「寒いか、馬鹿者めが、剣道の家にある者が、そんな油断でどうするのじゃ、気をつけいッ」

「はい、ご教訓のほど身に徹してござります」

「早く汲み直して来い」

「唯今」

と新九郎が、慌てて汲みかえたのを持って行くと、再び、耳をつき破るような気合、はッと思う間もあらばこそ、溝どぶ板の凍った上へ、骨の挫くじけるほど、ドスンと投げ飛ばされてしまった。

「あはははは、こいつは所詮しょせんものにならぬわい」

梶新左衛門は聞えよがしに嘲笑して奥へ入ってしまった。その後ろ姿をきッと睨んだ新九郎は、眦めじりに紅べにをさいて、

「ち、畜生ッ……」

と悲痛な声を唇から洩らしたが、雄敵鐘巻自斎の名をふと脳裡に描くと共に、彼はその誤まっている怒りを知って、

「梶様、忝のうござりました」

両手をついて、密ひそかに伏し拝んでいたのであった。彼はこうして梶新左衛門の峻烈な鍛えをうけ、夢寐むびの間にも鐘巻自斎の名を念頭に描いて、血の出るような修行をつづけていること一年余月、やっと、道場の床へ月に三、四度は上ることができるまでになった。

ある日、一人の剣客が小野忠雄をこの道場に訪ずれてきた。

滅多に他流試合の申し出を容いれないこの道場が、珍しく今日はその剣客と一門の逸足とが試合てあわせすることになった。のみならず、あまり異例なのに門人達がおどろいたのは忠雄自身も場合に依っては木剣を把とるということ、また、今日の試合こそは、後学のため、何者も見て置くべきであると触れ出されたことだった。

「大先生ご自身が、それまでに敬っているお客とは、一体何流の何者でござろうか」

「奥の間まにあって、先刻ご酒を召し上がっていた様子でござるが、名前は確しかと承っており申さぬ」

「不思議なこともあるもの、まず小野派開闢かいびゃく以来のことじゃ」

「何せよ道場へ出て試合となれば分るであろう」

さまざまな噂をしながら、その日この門に居合せた程の者は、一人残らず、大道場の東西に居流れて、治郎右衛門忠雄と客なる者の出席を待ち構えている。

春日新九郎も、遥か道場の末座にあって、熱心に瞳を輝かせていた。

試合に立つ高弟の人達の支度もすみ、木剣の用意その他の支度もすッかり整った頃、主人あるじと同時に道場の正前へ現れて、一同に立派な会釈をした一人の剣客。それこそ疑問の客であった。

ふと瞳を向けた新九郎は、

「あッ――」

思わず口のうちで驚き声を洩らした。意外! すくなくも新九郎にとってこの上の意外はない。一同に会釈をして後、しずかに床へ降りて来た剣客こそ、年来の雄敵と思いつめながら、間近く見ることはここに初めてな鐘巻自斎だ。

桔梗河原の矢来の外から唯一度見たことのある黒漆の長髯、逞しい五体、燦々さんさんたる二つの眼まなこ。

新九郎の血相はまったく物凄い緊張に充ち、体は石のように硬くなって、ただ、高鳴る胸の音を自分でも知るほか、双の眼は自斎その人の一挙一動に吸いついている。

叫ばす「叫ばす」はママ、狂わずとも、その容子は決して尋常な昂奮ではない。が、僥倖ぎょうこうなことには、一同の眼も好奇心に駆られて、彼方あなたへばかり注がれだしたから、誰あって、末席の新九郎が、怖るべき殺気の忿念ふんねんにつつまれていようとは気がつかない。

勝負は進んで、高弟の二、三人が鮮やかに打ち込まれ、小野派の錚々そうそうたる中でも、梶派一刀流の別派を工夫し出したほどの梶新左衛門までがさまで激越な火も散らさず、鐘巻自斎の精妙剣に敗れてしまった。

この上は治郎右衛門忠雄が出るか、あるいは自斎をして恣ほしいままな名をなさしめて別れるか。

「アアさすがは富田とだ三家の随一人、鐘巻自斎殿の剣となればこうも神技に近いものか、忠雄つくづく感服仕った」

初代忠明から一刀流の覇を唱えてここに三代の宗家治郎右衛門も、心から嘆声を洩らして誉めたたえたが、やおら、自身で道場へ片足を降ろそうとした。

「忠雄先生、軽はずみをなさるまいぞ」

「いや、ご迷惑ではござろうなれど、先生の如き神髄の剣法を見て、ただ、真如の月と仰ぐばかりでは物足りぬ心地が致す。自身も一手お試合を願っておこう」

「お言葉ではござるが、儂みのような浪々武士とは違い、将軍家御指南の宗家、その儀は迷惑、平にご用捨にあずかりたい」

「そう仰っしゃられては二言がござらぬ。こうなると芸術精進に家格はかえってさまたげ、まだ名人の境を果てなく進まれる貴殿のご境界が羨やましい」

「思わぬ無作法を仕った。ではこのままお別れ申します」

「またご出府の節は必ず訪ねられい」

「忝のうござる、ご一同、ご免――」

門人の一人がさし出した笠を受け取って、静かに二歩、三歩道場から出ようとすると、不意に一同の耳を劈つんざき、自斎の肺腑はいふにも沁み入ったであろうほどな、大喝一声。

「待てッ、鐘巻自斎待てッ」

「や?」

何者の声かと一同胸をドキンと衝うたれたが、誰も彼も、その見当にその人を見出した者がない。ただシーンと互に息をのんで、しばらくは、目と目の狼狽うろたえ合い、と再び、

「鐘巻自斎しばらく待たれいッ!」

タタタタタッと一気に、自斎の前まで夢中に躍り出して来た若者を、末輩の春日新九郎と知った一同は、

「や、無礼者めが、な、何でここへ!」

「身のほど知らずめッ」

後ろから羽交締はがいじめに抱き止める者、腕を捻じとる者、足を持つ者、さながらに刃傷にんじょうでもあるような喧噪けんそうを起して、ドドドッと後ろの方へ一、二間も退ひき戻した。

「狂気したか新九郎、木剣を引ッさげて自斎殿に何とする気じゃ」

「乱心者めが、気を鎮しずめい、気を鎮めい!」

新九郎は眉間に一脉いちみゃくの青い凄味を湛たたえて、

「お放し下され、不肖ながら春日新九郎、決して乱心な致さぬ、血迷いも仕りませぬ、互いに名乗れば分ること、お手をお放し下さい」

「黙れ、汝こそその木剣を何故離さぬ」

「いいや鐘巻殿とここで会ったは何よりの機しお、是非とも一手立合うのじゃ。あいや鐘巻殿、かねて由良の伝吉へ誓った言葉はよもやお忘れあるまいが」

「おお忘れぬ!」

つかつかと歩み寄った鐘巻自斎は、門人たちに支ささえられている面色凄愴せいそうの新九郎の面おもてをじっと見て、

「む、さては御身が重蔵殿の舎弟、春日新九郎であったか」

「そうじゃッ! 試合たちあえ」

「おお心得た」

自斎はポンと笠を投げて、再び道場の真ン中へ立ち戻る用意をした。

蜘蛛手縢くもでかがり冥府めいふの駕かご

一

「春日新九郎! 心の準備はよいであろうな」

白面蒲柳はくめんほりゅうの彼を睥睨へいげいして、ふたたび道場の床に立った鐘巻自斎、その声はにわかに峻烈となり、木剣を把とらぬ先に、対手あいての肺腑はいふを抉えぐりぬいて響いた。が、谺返こだまがえしに、

「念には及ばぬことだ! いざッ」

と叫んだ新九郎にも、一念の迸ほとばしるところ、おのずから凜々りんりんたる気魄があって、彼の圧倒へ全力をこめて反抗した。

「いや!」

自斎は二度までも、焦心せきこむ新九郎の出足を挫くじいて、

「身支度ではないぞ、形の支度ではござらぬぞ、心の用意、即ち修行という鍛えはたしかにしておいたかと申すのじゃ」

「要いらざることを云うなッ。事改めて申すまでもないが、汝の悪剣のために泥塗られた福知山方の汚名、また、不具となった兄重蔵の怨み、二つながらこの新九郎が木太刀の髄ずいにこもっているのじゃ」

「おお、それゆえ何時なんどきでも望みの時に立合おうと、かねて誓いを致してやった」

「その日は今日だ! 修行の長い短いばかりで、勝敗の決まっているものではあるまい。新九郎が一心の木太刀で、今という今こそ、兄の重蔵同様、汝の脛すねを打ち折ってくれねば熄やまぬのだ。誓いを果たせッ、いざ約束の試合を致せッ」

「むむ面白い――」

自斎は泰然と頷うなずきを見せ、

「技わざと技の試合では興味もないが、御身の一心勝つか、儂みの鍛錬が勝つかの試合――いかにも望みを容れて立合ってやろう。じゃが――鐘巻自斎、剣をとっては何ものにも微塵も仮借かしゃくいたさぬぞよ」

「云わでものこと、多言は無用じゃ」

「むッ。では――」

「やッ」

双龍は床を衝うって左右に分れた。

自斎のとって中段に構えた木太刀は、反そりの凄い二尺八、九寸、新九郎は常に手馴れの木剣を小野派下段の型どおりに構え、ジリ……ジリと精根を柄にしぼって、ここ、乾坤一擲けんこんいってき、真剣以上の捨身でつめ寄る。

彼は鍛錬悟入の域に澄んだ水月の名太刀。これは、ただ一念一心に燃ゆる焔ほのおの火剣である。人の最念力が彼を破るか、剣の練妙がこれを破るか、心ある者が心して観れば、この試合こそ、またとない意味深いものである。それかあらぬか、小野忠雄は息をのんでこの様子を睜みまもり、代師範の梶新左衛門もまた吾を忘れてしまった態てい。

が、そのほかの者の目には、ただ奇異なる対照が映るばかり、試合と同時に鳴りこそしずめているが、肚では、新九郎の余りに己れを知らぬ振舞を憎み、覚束ない初太刀の構えを嗤わらっている。

「エーイッ」

突とつ、自斎の怖るべき気当が、あやうく新九郎の総身をふわりと泛うかし立てるように響いた。同時に小野門の大半が居並んでいるこの大道場は、人なき如く、シーンと厳粛な空気に凍ってしまった。

「ヤッ! えやッ」

と新九郎が必死の気当返し、ここに自斎を倒さなければ、何の面目、何の生甲斐、何の男ぞ! という気組み。

と――鐘巻自斎の木剣の尖さきが、一分、二分とあたかも月の上るくらいな静けさ遅さで、正眼からそろそろと上段へ変ってゆく。

「行くな――」

と誰の眼にも怖ろしい予察が泛ういた。

二

真ッ向、自斎の木剣が兵字ひょうじに振りかぶられた。

円を描いた双手のうちから、いよいよ、熒々けいけいたる眼光が、新九郎の一点にそそがれている。と鐘巻自斎は心の裡で、

「ああ研みがけば光る名玉――」

思わず舌を巻いて驚嘆したのである。けれど自斎がこう考えるほど、彼には余裕があって、新九郎には余裕がない。やはり修行の差は争われぬもので、彼の五体は大山の前の小石の如くであった。しかし、大岳のような自斎の眼から見て、唯一ツの光りが歴々とあったというのは、怖ろしい天才の閃き! それであった。

「はッ……」

その時、思わず新九郎が洩らした気息の乱れ、木剣の顫ふるえも見えて来た。

「エーイッ」

二度目の気合をうけると、彼はまだ一太刀の刃交はまぜもせぬうちに、タラタラと鬢や額の根から冷たい膏あぶらの汗。面は蒼白。

あわれや、眼も血走ってくる。

「無念!」

焦心あせれど打ち込む隙がない。唇にも一点の血がにじむ、その頃には面色すべて生色を失なって、ここに生きながら精根尽きて、枯木のように立たち竦すくんでしまったかと見えた刹那。

「お!」

自斎の眼にとまった一点の露。それは必死無念の新九郎の瞼にかすかに泛かんできた涙だった。あるいはそれ、血か肉かも知れない。

武士が剣をとって敵と会いながら、まつ毛に泛かす涙! 自斎が思わず、

「おお」

と叫んだのも道理、これほど悲壮なる涙はない。

「かくまでに無念と思いつめている大願の試合をむざと打ち込んでしまうのは余りに不愍ふびんである。自分から一本の勝ちさえとれば、彼の本望が達するのだ。ここでわざと負けてやるのも武士の情けではあるまいか……」

と自斎は密ひそかに思ったが、またすぐに、

「いや、そうでない!」

と考え直し、

「研みがけば光る名玉に、情けの曇をかけるのは武士の情けに似て非なるものだ。この天才を完まったき人物にするものは即ち敵だ。真の情けは最後まで新九郎の敵になってやる所にある」

自斎は咄嗟の間に固く信じた。同時に、グイと伸びかかった籠手こての気構え。もう勝敗の数は誰の眼にも歴然、新九郎の脳骨が微塵となるか、五体を砕くか、木剣を投げて降伏するか、その一つより他にはない。

「エエイッ!」

切羽詰まった危機に立った時、初めて、春日新九郎の唇から、死身になった気合が出た。その怖るべき念力には、さすがの自斎も思わず、打ち込みの機を外はずされた。途端に、パッと躍り込んで来た新九郎の木剣が、電撃の鋭さで対手あいての眉間を目がけて行ったが、より速く、自斎はヒラリと身をかわした。と、その目の前へ、足を泛かして来た新九郎の体が空を打った勢いで、

「ちッ、ちッ、ちッ!」

と、唇を噛み破りながらのめり込んだ。あッと見る間に、その頭上へ霹靂へきれきの大喝。

「未熟者めッ!」

狙いすました自斎の木剣が、あやまたず新九郎の肩先へピシリとふり下ろされた。

「あッ」

と腰をくだいた新九郎は、再び強情に刎ね起きようとしたが、その先に、またもや激しい木剣の唸うなりが耳朶みみたぶを火のように熱くして、彼の双眸からは、血とも涙とも分たぬものがジッと滲にじみだし、脳髄の奥からガーンとしてしまった。

三

「出しゃばり者の態ざまを見るがよい」

「片腹痛い身のほど知らずめ」

「いやよい気味だ、よい見せしめじゃ」

鐘巻自斎が小野忠雄の門から飄然ひょうぜんと出て行くと、門下の大衆も、ただ一人の新九郎に、八方から罵詈ばり嘲笑を存分に浴びせかけて、思い思いに退場して行った。後にたッた一人取残された新九郎は、板敷の隅に蒼白い面を伏せたッきりで、じっと、あらん限りの苛責かしゃくと無念とを怺こらえていた。すると誰やら、

「おい新九郎。おい!」

と、権柄けんぺい高く呼ぶ者がある。ふと顔を上げてみると、広い道場に残っている者は、いつか自分一人と、そして、目の前に梶派一刀を工夫した梶新左衛門が、怖ろしい眼まなこに険を立って睨み据えているのみだった。新九郎は初めて吾に返った様子で、

「おお梶様でございましたか、面目次第もござりませぬ」

と、彼の足もとに両手をついた。

「ばか野郎!」

新左衛門の面罵は例に依って痛烈、更に仮借かしゃくがない。

「貴様ばかりは、多少見込みのある奴と思っていたが、いやはや呆れ果てた呆痴者たわけもの、対手もあろう、場所もあろうに、忠雄先生さえ一歩を譲って、畏敬されている鐘巻自斎殿にかかって、今の態ざまは何事だ」

「ご立腹はさることながら、それには段々と深い仔細があることでござります」

「黙れ黙れ。多くの先輩をないがしろに致したさえ、言語に絶えた僭越。その上に小野派一門の恥さらしを致しおって何言い訳がある。弁巧べんこうは無用じゃ」

「この新九郎が短慮の罪は、幾重にもおゆるしの程を……」

「その詫言わびごとはもう遅い。忠雄先生にももっての外のご立腹。破門せいというお言葉であるぞ」

「えッあの破門でござりますと?」

「おお見せしめのため破門いたす。たッた今道場を出て失うせい、その面つらを見るのも小癪こしゃくにさわる!」

「あ!」

絶望の底へつきのめされた新九郎は、くらくらと暗い眩暈めまいを感じたかと思った間に、梶新左衛門に襟がみを引ッ掴まれ、不浄門から戸外おもての方へ突き出されてしまった。

「梶様、お願いでござります。新左衛門様ッ」

新九郎は不浄門の扉とを外から叩いて叫んだ。折角、小野派の門に入って、二年近い間というもの、夢寐むびにも、修業の念を忘れずにきたのに、今ここで破門されては大望の上の大蹉跌だいさてつ、どこに再びこれ程の名師を求め得よう。のみならず、今までの忍苦はすべて水泡に帰してしまわなければならぬ。

「梶様! 新左衛門様! どうぞ先生にもう一度のお取りなしを願いまする。新九郎が一生のお願い、これからは必ずとも道場の掟を守り、血気に逸はやって今日のような不始末は仕りませぬ」

と、声を嗄からせど、扉とを叩けど、再び中から答いらえる者はなかった。ああ、何という無情な仕打ち、武士の情けを知らぬ人々。世間はこれ、新九郎にとってみな鬼か蛇か。

彼は茫然とそこに立ち暮れていた。すると、

「もし、新九郎様じゃごぜえませんか」

不意に肩を叩いて云った者がある。びっくりして振り顧って見ると、一文字の笠に道中合羽、わらじ脚絆という扮装いでたちの見馴れぬ男が二人立っていた。新九郎は小首を傾げながら、

「はて、誰方でござりましたかの?」

「こんな風態ふうていをしていやすから、思い出せないのもご尤もです。わっしは生不動身内のこんがら重兵衛ここにいるなあせいたか藤兵衛でございます」

「おう、ご両所であったか」

新九郎は二人の笠の裡うちをのぞいて見るなり、なつかしそうに摺すり寄って、

「まことにしばらくでござった、拙者もここの道場へ入って以来、薬研堀やげんぼりの方へは絶えて無沙汰を致したままでござるが、親分与兵衛殿も変りなくお暮しでござるかの」

「じゃ貴方は、この道場の外のことは、今日まで何もご存じないのでございますか」

「と申されるのは、何か異変でもござりましたか」

「新九郎様、生不動の親分は、もうこの世の人じゃありませんぜ」

「えッ、あの丈夫な与兵衛殿が?」

「いくら達者な親分でも、暗殺やみうちに遭ったんですからどうしようもございません。その経緯いきさつも話してえが、こんな所で立ち話はできねえし、どこかそこらまで、ご一緒にと云いてえところだが、貴方もやっぱりこの道場でご修行のお体、そう身儘にもなりますまいなあ」

「ところが、面目次第もない話でござるが、拙者は今日限りこの道場から破門をうけました……」

新九郎は悄然として云った。そして、掻かいつまんだ理由わけを話しながら、二つの笠の間に挟まれて、何処へ落ち着く目的あてもなく歩きだした。

四

いつか夕暮となっていた。旅扮装たびいでたちのこんがらとせいたかは、新九郎の身の上を聞きながらぶらぶらと本郷台へかかって来た。そこから見ると、浅草川を中心に下町の灯がチラチラと美しく眺められた。

「あ、いけねえ、道を曲がろうぜ」

「どうしたんだ」

とせいたかが笠のつばを押さえて前後を見廻した。

「笊組の用心棒金井一角と二、三人の三下が彼方むこうから来やがった。ここで見つけられちゃ面倒だ」

「そいつあまずいや」

二人ともプイと左の坂道を急ぎ足に降くだりだした。新九郎は密かに怪しんだ、生不動の両腕と云われて押しも押されもせぬ達者が、何で笊組の用心棒などに道を避けなければならぬのだろう。と、思ううちに、いつか不忍池しのばずの前まで来ている。せいたかは池にのぞんだ小粋な蓮見茶屋の軒先へこんがらと一緒にかかって、

「新九郎様、ここで腹拵えをしながら、ゆっくりお話しいたしましょう」

グングン先へ入ってしまった。艶なまめいた白粉の女も見える、桃色に灯った籠行燈、咽むせるような酒の香におい――新九郎は門口で躊躇ためらっていた。

「お連れ様、どうぞお上がり下さいまし」

女の声にせかれて、馴れない場所へ恟々おずおずと入りかけると、後ろにあたって、バタバタという跫音が遠のいて行った。ひょいと振り顧って見ると、自分達を尾つけてでも来たような怪しい男が、一散に闇の中へ駈け出して行くのがちらと見えた。それにもはッと気をとられているうちに、

「さア此方こちらへ――」

と蓮見茶屋の女は、手を取らんばかりにして、新九郎を奥へ誘い入れた。通された小座敷へは、やがて酒や肴が運ばれて来る。せいたかは頃合を待って、

「姐さん、用があったらこっちで手を叩くから、済まねえがちょっと彼方あっちへ遠慮していてくんねえか――」

と酌の女を追いやってから、

「さて、新九郎様、今日思いがけなくお互いが落ち合ったのは全く親分のお引合わせだと思いやす。生不動一ひとまきの者のために、どうかここで、一肌脱いじゃあ下さいませんか」

「こんがらからもこの通り、折入ってお願い申しやす。それにゃあ先まず、今度の変事の経緯いきさつからお話し申さなくちゃお分りになりますめえが、実は貴方が小野の道場へ行ってから、生不動一ひとまきが散々ちりぢりばらばらになるような大変が起ったのでごぜえます」

と二人が酒を酌みながら、交〻こもごも話しだした事の顛末てんまつ。新九郎は聞く度ごとに眼を瞠みはった。その実相というのはこうであった。

去年の春の暮であった。生不動与兵衛は乾分の並木の駒吉とじゃばらの百介を連れて、大和巡りの旅に出た。と聞いた笊組の臂ひじの久八は、

「与兵衛を討つのはこの機会ときだ」

と意気込んで密かに江戸を立ち、見え隠れに前の三人を尾つけ出した。その一味には、久八の兄弟分荒神の十左、その他三人の腕利きが加わっていた。

しかし、さすがに江戸で生不動と云われている程の与兵衛には、道中五分の隙もないので、久八も十左も手を出すことが出来ない。そして東海道をうかうかと尾行廻つけまわして、空しく桑名の城下まで来てしまった。

「駄目だ、どうしても彼奴あいつを尋常に討つことあできねえ」

荒神の十左は根が尽きてここから、引き返そうと云いだした。ところへ、町をぶらついて来た一人の乾分が、思いがけない味方を引き込んで来た。それは、投げ槍の小六、大月玄蕃、金井一角の三人、お延も一緒についていた。

この四人は、浅草火除ひよけ地ちの賭試合かけしあいの小屋を立ち退のいた後、奥州街道で春日重蔵を返り討ちにしようとしたが、人違いだったので、そのまま旅から旅の漂泊さすらいを重ね、中仙道を経て、四国西国で賭試合の小屋がけをつづけ、各所で得た悪銭を懐にして、もう余熱ほとぼりも醒めた頃と、再び江戸へ帰ってくる途中であった。

「江戸へ帰ったら、生不動の縄張を譲って、一方の親分株を持たせるから、一つ俺たちに腕てを貸してくんねえか」

臂ひじの久八は事情を話して話を持ち込んだ。身を持ちくずした遊侠武士には、持って来いの仕事である。小六も玄蕃もすぐ引きうけた。金井一角は元からの用心棒、何の否やもなく密議はまとまった。

それから十日ほど後、江戸に残っていたこんがらとせいたかは、石薬師の宿役人しゅくやくにんから意外な悲報を受け取って東海道を急いだ。そして、宿手前の杖つえつき峠の山中に惨殺されていた親分の与兵衛と駒吉百介の死骸とを渡されたのである。生不動の死骸には、胸板を見事に突き抜かれていた槍傷があった。

宿役人の調書や、桑名の宿屋から聞き出したことなどで、下手人の見当はすぐついた。こんがらとせいたかは親分乾分三人を荼毘だびに付して遺骨を抱えて江戸へ帰り、その四十九日の夜に、浅草藍染あいぞめ川の笊組へ仕返しの斬り込みを試みようと、密かに用意しているところへ、先を越して、町奉行朝倉石見守の手が入った。

それも臂ひじの久八が要路へとり入って、密訴をしたためである。たださえ、町奴の争闘が睨まれていたところなので、生不動の一ひとまきで重なる者はどんどん召捕られてしまった。こんがらとせいたかの二人だけは辛くも網をくぐって江戸表を落ち、一時、秩父ちちぶの在へ姿を隠して時節の来るのを待っていた。とある日のこと、

「せいたか、聞けば江戸表の方じゃ、笊組に肩を持っていた町奉行の朝倉石見守が代替りになって、今度あ石垣左近将監様のお係りになったそうじゃねえか」

とこんがらが云いだした。

「む、そんな噂も聞いたなあ」

「もう親分の一年忌も済み、笊組の奴等もすッかり油断している頃合だ。ぽつぽつ江戸へ帰って様子を見ちゃどうだろう」

「俺も考える度に腕が疼うずいているんだ。お前がそう云やあ一日もこうしちゃあいられねえ」

二人はすぐ旅の支度にかかった。そして秩父の在から川越街道を経て、ちょうど、今日江戸へ入ったところ――、偶然にも春日新九郎に出会ったのであった。

「新九郎様、飛んだ長物語を致しましたが、訳というなあそうした次第でございます」

こんがらは話し終って、冷たくなった盃をグイと乾した。

「江戸の近くへ来て様子を探りゃ、今では生不動の一ひとまきと名のる者は一人もいず、薬研堀の縄張は投げ槍の小六と大月玄蕃が二つに割って、でけえ面をしてのさばっているとやら、話を聞くだけでも口惜しくって為方しかたがねえが、幾ら仕返しをしてえにも、此方はこんがらとこのせいたかのただ二人じゃ心細い。どうか生不動の親分と貴方との、生前の交誼よしみをお思いなすって、小野派の道場で鍛えた腕をお貸しなすっておくんなさいまし」

「いや其許そこもとたちのお志はよく分った。及ばずながら、新九郎も、きっとお力を貸し申そう」

腕ぐみから顔をあげて、彼はきッぱりこう云った。与兵衛からうけた恩義を思えば、こう云うのが当然である、何の躊躇ためらいもない筈だ。――が、答えて後、新九郎は密ひそかに頼みにされる自分の腕を危ぶんだ。今日の始末を考えても――鐘巻自斎からただ一刀に打ち据えられたような腕前、そんな腕前を貸したところで、果たしてこの人たちの力になり、生不動の霊へ報恩の助太刀ができるだろうかどうであろうかと――

五

「そのご返辞を聞いて、俺わっしたちは百人力の気が致します。話が決まったら、町奴に湿ッぽいなあ禁物、景気よく飲んで、派手に一つ騒ごうじゃありませんか」

せいたか藤兵衛は手を叩いて、酒の代りを呼び、女たちにいいつけて、しきりに新九郎へ盃をすすめた。けれど彼は生来の酒嫌い、またこうした遊蕩な場所にも馴れず、破門の一条も胸につかえているので、心の暗鬱が一層それを親しませなかった。と、顔色を読んだこんがら重兵衛は、

「世間は広うございますぜ、小野派ばかりが剣術の司つかさでもあるめえし、もっと腹を大きくお持ちなせえ。そして稀たまにゃ男らしく、グンと酒でも仰飲あおらなけりゃ、生身が続くもんじゃありません」

「それはそうだ!」

新九郎の境遇が、町奴一流の言葉を不思議に真理の如く聞いた。

「拙者は余り処世にも気の持ちようにも狭量せますぎた。この人達の伊達寛達だてかんたつに学ぶところがある」

と思い直して、二つ三つ盃を唇につけだした。

ここに初めて、酒の味を知った新九郎に、不思議や酒の味は甘かった。芳醇ほうじゅんな薫かおりは昼の無念を掻き消し、五臓に沁しみてゆく快感は、再び彼を晴々とさせた。新九郎は怖々こわごわながら、盃の数を重ねて、

「酒も好いもの!」

と、吾にもあらず呟いた。と、その時、ばたばたと梯子を上がって来た茶屋の女が、

「あのうお客様。唯今八、九人づれのお方が、案内も待たないで上がってしまいましたが、本当にこちら様のお連衆つれしゅうなのでございましょうか」

「おいおい、俺たちにそんな連者つれはねえ筈。滅多な野郎をここへ通しちゃいけねえぜ」

「でもお止め申している間に……あらッ!」

女が飛び出す途端に、のッそり部屋の入口から中をのぞいた一人の男。こんがらはいきなり、

「やッ、てめえは笊組の三下だな!」

杯洗をとって素迅くその影へ投げつけた。ザッと座敷一面に散った水玉と共に、フッと行燈の灯が消える。同時に闇にあたってガチャン! と瀬戸物の砕ける音。

部屋の外に立った男は、飛んできた杯洗をかわしながら、後ろへ手を振って、

「慥たしかにこんがらとせいたかだッ!」

と大声を上げた。

「それ踏ン込め」

合図に応じて、次の間の襖を蹴破るが早いか、いきなりそこへ斬り込んできた笊組のあぶれ者。女たちは仰天してきゃッと悲鳴を上げながら遁にげ転んでゆく。新九郎は壁を後ろに飛び退いて、愛刀を素迅く横に抱えながら闇を見透した。

「せいたか! 油断するなッ」

「嗅かぎつけて来やがったか。さッ、来やがれ」

二人とも脇差をギラリと抜いて、部屋の左右へ飛び別れ、真ッ先に飛び込んで来た者をただ一太刀に斬り下げ、ドッと廊下へ飛び出す。そこで、物凄い音が、二ツに分れて斬り合いながら、旋風つむじのように二階の屋根から戸外おもての方へ飛び降りて行った。

「えい、いつまで手間を取っていやがる。どれ一つ止刀とどめを刺しに出かけようか」

その時まで、柱の蔭に立って指図をしていた一人の浪人者は、呟きながら大刀の鞘を払って、ノッソリ、倒れた襖を踏んで新九郎の目の前を通り過ぎた。

「や!」

新九郎は思わず息をのんだ。金井一角だ。まぎれもない影! やり過ごして四、五尺。

「エエイッ」

と抜き討ちに足元へ払いつけた。

「あッ!」

一角は動顛どうてんして後ろへ倒れたが、同時に大刀をピッタリ構えて、くわっと相手を睨みつけながら、

「やッてめえは春日新九郎だな!」

たかの知れた奴と、咄嗟に見くびった金井一角は、足に受けた初太刀の傷を忘れて、猛然と刎ね起き、

「この青二才め」

と奮念の大刀鋭く斬りつけた。

しかし、今の新九郎は、彼が知っていた頃の春日新九郎とは、一段腕前が違っていた。その理由を知らない金井一角は、初めから、手間暇とらずに真っ二つと自信しているが、一、二合火花を散らすうちに、案に相違した相手の太刀風。ともすると受身になる。

「己れ! こんな奴に!」

歯噛みをして、憤怒の形相もの凄く、秘術を尽くして対むかったが、こはいかに、新九郎の五体は鉄壁のよう。しかも見ては烈電の如く斬り込んで来るのみか、刻ときをたつほどいよいよ冴えてくるばかりだ。

「こんな筈はない! こんな筈はない!」

一角は幾度も心のうちで絶叫したが、事実、息もつかせず捲くし立ってくる太刀風をどうしようもなかった。

もう後ろは廊下のどん詰り、前には息さえ乱れぬ新九郎の太刀。ここ、切羽詰まった金井一角は、隙を見て、いきなり屋根の上へ飛び出し、隣り境の塀から彼方むこう側へ躍り越えてしまった。

「待てッ」

つづいて新九郎も、血刀を咥くわえて跳び降りた。隣も同じような割烹梅茶亭という家で、そこは、池泉、燈籠、築山などの数寄をこらした広い庭だった。

「卑怯な奴、金井一角待て!」

地へ足をつけるが早いか、新九郎は大刀を片手に振りかぶって、一角の影をグルグル追い廻した。庭は広いが、逃げ口に戸惑いした金井一角は、捨て身になって踏み止まった。

「うぬッ!」

吠えるように叫んだ死にもの狂い。初めの勢いよりは一段鋭さを増して、縦横無尽に暴れて来た。それを綾なす新九郎は、自分でも不思議なほど楽だった。こう来るな、こう外はずすな、という手元が一々はっきり予察できた。生不動の家にいた頃は、彼の柔術やわらに対って十度が十度とも勝てなかった自分に、いつこういう力がついたのだろうかと怪しまれるばかり。と――新九郎は一角の狂いを見澄まして、一足踏み込むや否や、

「えいッ――」

と気合鋭く袈裟けさがけに斬ッて下げた。偶然か、当然か、息と技と名刀の斬れ味がピッタリ合って、金井一角はわッと苦鳴を上げて仰向けに仆れた。しかも一太刀で絶命した。

「むウ……」

返り血を浴びたまま、新九郎は吾を忘れて呻うめいてしまった。いつまでもいつまでも、茫然と自分で斬った一角の死骸を不思議な昂奮につつまれながら見入っていた。

「不思議ではない、拙者はこれだけに上達したのだ、小野派の門で苦しんだ光が初めて現れたのだ……」

と思った時、彼はつつみ切れない歓喜に思わずニタリと微笑んだ。

梅茶亭の樹この間まを洩れる月かげがあった。絶世の美男新九郎が髪を乱した微酔の面に、点々の返り血を染めてニヤリと笑んだ姿を見る者があったら、恐らく、美しいと見るより凄かったに違いない。

すると、彼方あなたに静かな灯影ほかげを見せていた二棟つづきの離亭はなれ。その一方の障子がスーッと開いて、銀のような総髪白髯の一人の老人が、

「おい、お若い侍、ちょっと用があるから待ちなせい」

と錆さびを含んだ声を投げた。新九郎は振り顧って血刀を袴で拭いながら、

「用があると云われるのは拙者のことか」

「そうだ」

銀の総髪は、やおら縁端へ出て来て庭下駄を突っかけ、黄金鏤ちりばめの太刀を杖にして腰掛ける。その間に、老人と同席していた数名の若侍が、バラバラと飛んで来て新九郎を彼の前に引き据えた。

六

「若いの。お主ぬしの名から聞こうではないか」

奇怪な老翁は怖ろしい横柄な言葉づかい。新九郎は、むッとした。金井一角を見事に斬った自信力は、かなり彼の意気を強くしている。

「拙者の名を問うなら、まず其許そこもとの名から承わろう」

と昂然と云ってのけた。

「ふふん……」

銀の髯は小憎い笑いを洩らして、

「聞かしてやろう。俺は赤坂氷川下に巣をくってる、深見重左衛門、この髯を異名にして、髯の重左ともいう男だ。青二才、てめえはなんと吐ぬかす武士さんぴんだ」

「春日新九郎と申す者じゃ。したが、何の理由いわれがあって、腕ずくでお止めなされた」

「春日新九郎? ……聞いたこともない奴。その理わけはそこにある。何で汝うぬこそ俺の門人、また俺に縁故の深いざる組の金井一角を斬り倒した。しかし、ここでは充分な懸け合いが出来ぬから、俺の邸へ連れて行くからそう思わっせい」

「先生、駕が参ったそうでござります」

そこへ一人の侍が告げてきた。

「もう来たか。じたばたしないうちに、この青二才を先に打ぶち込んでしまえ」

深見重左衛門の頤おとがい一つで、七、八名の侍が自由に動く、新九郎に酒の気と血の勇がある。かねてから名を聞いていた赤坂の武士侠客がどんな難題を吹っかけるのか、ままよ、行く所まで行って見ろと、彼等の指図を待たず、梅茶亭の門に置かれた辻駕の中へ身を入れた。

「若いにしちゃあ覚悟がよいわい」

深見重左衛門も別な一挺へどッしりと乗る。ポンと肩を入れる息杖いきづえ、同時に、七、八名の侍は各〻袂から黒布を出して覆面し、太刀の鍔下を握って、駕の前後に四人ずつ分れて蹤つく。

「氷川下じゃ、急げよ」

何となくものものしい声。駕屋は、

「合点です!」

とばかり、御成街道の月を踏んで急ぎだした。

山手組の武家侠客。寺西閑心と並んで吾儘わがまま無類と云われた豪の者深見重左衛門。この男が、此奴こいつと睨んだ者はどんなことがあろうとも、その場で斬り捨てない代りに、必ず邸へ攫さらって行って、存分な殺し方をすると、当時の町奴にも怖れられていたものである。

既に今も、新九郎の一命を乗せて、怖ろしい蜘蛛手くもでかがりの駕は、冥府めいふの門へ息杖を振り込んで行く――

×

ぽん、ぽん、ぽん……手を叩く音がする。柔らかい肉の音だ。女中の返辞が長く通る――するすると、奥の部屋から橋がかりの離亭はなれへ女中が渡って行く。

今、深見重左が立ち去った所と、背中合せの棟であった。

「お呼びなされましたか」

「先程頼んでおいたお駕と使いの者は?」

「はい、ちょうどただ今参りました。お支度がよければいつでも宜しゅうござります」

「では、別に誂えましたお料理の方も……」

「はい、相違なく、後からお屋敷へお届け申します」

「好よしなに頼んでおきまする。左様なればこのお手紙を、使いの者に持たせて大急ぎで、南町奉行のお役宅付、本間才次郎という与力衆にお渡し下さいますよう」

「畏まりました」

女中は、扱い馴れぬ手紙に目をみはりながらそこを辷すべって行った。その跫音が遠退とおのくと、部屋の中から妙にも麗しい声の主が、

「水瀬みなせや、用事が済みましたら、少しも早うここを立ちましょうぞ」

さやかな絹ずれの音と共に立ち上がった様子。見れば、灯影を横にすッきり立った雪の姿は、まぎれもない菖蒲あやめの寮の御方である。

白鷺の白さをあざむく白縮緬しろちりめんの小袖に、公卿くげ紋の雪頂笹ゆきのせざさを紫に染め、帯は蜀江しょっこうか西陣か見分けもつかぬような絢爛けんらん。もの云うごとに玉虫色の唇は、妖魅ようみの如き美しさを湛たたえる。

帰り支度を取り仕切った老女の水瀬は、もう一人の腰元と共に、部屋の戸口に手をつかえて、

「さ、お越し遊ばしませ……」

御方はただ頷いて、ススススと、橋がかりの離亭はなれを出て、大座敷から玄関へとさしかかる。ともうそこへは、梅茶亭の主人あるじ夫婦から召使がズラリと並んで、下へも置かぬ送りよう。

駕も、町の四つ手とは違って立派な女駕。それが三挺、一同の送り言葉を後にしてゆるゆると三橋の方へ指して行った。すると間もなく、御方の駕の中で、扇子と掌てのひらを打ち合すような怪しい音が二ツ三ツ洩れた。

諜しめし合しておいたことでもあるのか、その音を耳にとめると、老女水瀬は同じく駕のうちから、

「これ駕の者――」と声をかけ、

「にわかに御方様がお急ぎの用を思い出してじゃ。この御成道を真ッ直ぐに、小川町から牛ヶ淵の方角へ息もつかずに急いでくりゃれ」

「でも余りお駕が揺れましては」

「大事ない――」

と、今度は、御方自身が後の言葉をついで、

「どのように揺れようとも会釈は要らぬ。そして、先に七、八人の侍が行く影を見やったら、猶予なく追い着いて、その駕の棒を、先方の群へぶつけるのじゃ」

「えッ……」

駕の者は、思わず足を竦すくませた。

「ホホホホホホ。何を怯おくれていやるのじゃ、駕の中には妾わらわがおります。怖いと思うたら、先の者へぶつけた途端にそちたちは逃げるがよいぞ」

「へい、では一息にやッつけましょう」

「おお飛ぶように急いでたもれ。褒美は寮へ戻った上、存分に遣わしましょうぞ」

言葉が切れると一緒に、駕は濤なみにのせられた如くギッシギッシと揺れはじめた。引扉ひきどの簾すだれに月影が透いた時、その中にある御方は、美しい眼を細く閉じて、いかにも心地よげに見えた。

花旋風はなつむじ両面りょうめんの夜叉やしゃ

一

声と足と息杖の相拍子あいびょうしをとって、にわかに行く手を急ぎだした三挺ちょうの女乗物――

見る間に、神田川の堤どてを横切って、小川町から護持院ヶ原へ入っていった早さ。あれでは、肩に棒を当てている者、乗っている者共に、定めし楽でなかろうと思えたが、時折、先の駕の中から、これでも不足のような御方の声が、激越な調子で外へ洩れて飛ぶ。

「まだか! まだ追い着かぬか。駕の者たちは何していやるのじゃ、御成街道で四、五町ほどの隔てしかなかった先の群へ、いつまで意気地なく駈け寄れぬのじゃ!」

これは焦心じれる方が無理である。下情しもざまのことに通じぬ人とすれば無理はないが、こなたは急ぐに不利な女駕であるし、先のは、飛ぶべく軽快にできている四ツ手駕。しかもそれには、敏捷びんしょうな黒装束の若武士わかものが、九人も駕わきの翼となって、駈ければ駈けるほど勢いよく行くものを、どうして、重い塗棒の女駕が事急に、四、五町の幅を追い縮められる訳のものではない。

ましてや、彼の群へこの女乗物の棒先を突ッかけろ、というような、御方の注文はすこぶる至難だ。それに引き更かえルビの「かえ」はママえて先の方は、さのみ焦心あせりもせず疲れも見せず、また御方のような追手があるのも無関心の態ていで、たちまち護持院ヶ原を走り抜け、やがてもう牛ヶ淵の濠端から、富士見坂の上り勾配こうばいへ差しかかろうとする。

と、変はいつも不測な所から起る。――後ろから来る御方の喧嘩仕掛けより早く、不意に足もとの物蔭から、バラバラバラッと躍り出した二人の男が、いきなり深見重左の駕先を押し返し、ただ事ならぬ勢いで、

「待てッ」

「駕を下ろせッ」

と叫んで突ッ立った。

「何だと!」

さなきだに殺気立っている黒装束の九人は、それと見るが早いか、新九郎の警固を離れて、そこへ駈け寄って来るなり各〻柄頭つかがしらをきめつけて言い罵った。

「狼狽うろたえ者めが、人違いして後悔いたすな」

「この月明りに誰も知る山手組の面々が眼に入らぬか」

「氷川下の深見重左先生。このお駕に指触れて見ろ、その分にはさし置かんぞ」

すわと云えば、八面乱刀、膾なますに斬って捨て去りそうな勢い。二人の男も背中合せに、大刀の鯉口を握り締め、互いにきっと身を護り合った。

「おおその氷川下に用はねえが、二番目の駕に急用があるんだ」

「春日新九郎の駕を俺たちに渡して通れ」

「不埒ふらちなことを申せッ」

云わせも果てず黒装束の一人が勃然ぼつねんとした声で、

「こっちに糺ただす筋があればこそ連れ参った春日新九郎だ。汝等如き奴に渡して堪たまるものか」

と云う下から他の者も、

「そういう貴様たちは何者だ、次第によっては腕ずくで渡してやろう」

と嘲笑あざわらった。

「む、対手あいてに取って不足のねえ山手組、たしかに腕ずくで受取ってやろう」

「素町人の大言壮語は片腹痛い。嬲なぶり斬ぎりだぞッ」

「洒落たことを吐かすな。こう見えてもこんがら重兵衛の筋金すじがねからは火を吹くんだ!」

「せいたか藤兵衛が命限り根かぎり薙なぎ廻るから覚悟をしろッ」

云うが早いか、抜き捻ひねった長脇差の拝み撃ち――どッと両面へ斬り込んで行く。剣を度胸で使う男伊達おとこだて一流の早技だ。

「それッ二人ばかりの素町人、片づけるに手間暇が要いるものか」

抜きつれ抜きつれ、こんがらの前後、せいたかの左右から、喚わめき返して斬り交ぜて行った。

「や? ――」

その騒ぎに、ふと眼を醒さましたのは、二番目の駕にもたれていた春日新九郎、彼は今宵飲んで知った酒の美味うまさに、思わぬ深酔をしていたものか、いつか、身冥府みめいふの迎えに運ばれて行くのも現うつつ、トロトロと快い睡りに誘い込まれていたところ。

「お、あの声はこんがらとせいたかだ。さては拙者が梅茶亭を出るのを見て、逸早く先廻りして助け出そうという心底? ――」

かりそめの誓いを千鈞せんきんの重きに感じて、この山手組の大敵の中へ、たッた二人で飛び込んで来てくれた義気任侠――新九郎はその心意気に衝うたれて、いきなり駕の中から大刀を引ッ抱えて飛び出し、目の前に見えた黒袴の足許を抜き討ちにさっと払いながら立ち上がって、更にまた一人を後うしろ袈裟げさにズーンと斬って下げた。

「あッ」

振り顧った黒装束は、ピュッと眉間みけんへ来た新九郎の切尖きっさきに、よろめきながら、

「新九郎が出たぞッ、後ろを気をつけろ」

と絶叫しつつ、真ッ赤な顔を押えて仰向けにぶっ倒れた。電閃でんせんの隙に、三太刀三人を斬って捨てた新九郎は、血脂ちあぶらをのせた四度目の太刀を振りかぶったが、途端に、何者とも知れぬ早技で、

「若蔵ッ――」

鋭い一喝と共に、片足をパッとすくい上げられた。彼は思わず、とん、とん、と後ろずさりによろめくと、そこへぬッくと駕の垂れをはねて、眼の前に現われた白髯の老武家侠客があった。即ち、深見重左衛門。

針を植えたような眉の蔭から、熒々けいけいたる双眸を此方こなたへ向けて云った。

「おい若わけえの、取るにも足らぬ生兵法なまびょうほうの細腕立ほそうでたては止めちゃあどうだ。強たってじたばた埃ほこりを立てると、大人気ないが、深見重左が王義明致流の極妙で、汝うぬの五体を立竦みにしびれ殺してくれるぞよ――」

ピタリ新九郎の胸元へ突きつけて来たのは、剣にあらず槍にあらず、ただ一本の竹の細杖。

しかも刃もなく、錵にえもなく光もない竹杖ちくじょうが、ひと度髯ひげの重左に、

「はッ」

と気魂を吹き込まれると、剣気村正の如く、王義明致流の秘妙を脈々と伝えて敵へ迫ってくる。新九郎は、真剣の鋩子きっさきより鋭く見えた竹杖の先に、思わずジリジリと追い詰められて、八双上段の大刀を、まったくやりどころなく歯を食いしばってしまった。

「うぬ!」

彼の忿念ふんねんは刻々と燃えて、握りしめた柄刀つかに、微かな鍔鳴りがガタガタと聞かれだした。金井一角をさえ真ッ二つにした腕――三太刀振って三人を外さなかった春日新九郎だ。という自信は、咄嗟に彼の強味となって、

「エエーイッ」

いきなり深見重左の鼻柱へ、鍔も届けよと飛びかかった。が、同時にツイと引かれた竹杖が、怪しくも虚空にブーンと鳴って、よろけ込んだ春日新九郎の背中へ、天飈てんぴょうの如くふり下ろされようとしたが、新九郎もここ必死、斬り辷った身をうねらせつつ、片手払いに薙なぎ返かえした。と、ブルルッと奇怪なしびれが柄手つかでに伝わったかと思う間に、

「やッ」

と重左の気合が竹杖にかかって、太刀はガラリと空くうへ絡からみ上げられ、八、九間も彼方あなたの大地へズーンと突き立っていた。

「新九郎、取って来い!」

「何ッ」

五体に颶風ぐふうを起して、無念と、やにわに組みついてゆくが早いか、重左はヒラリと楊柳ようりゅう流しに体たいを開き、同時に振りかぶった稀代の竹杖に怖るべき殺気をブーンと孕はらませた。あわや新九郎の皮肉はその一下に寸裂されるかと見えたが――途端に、

「わッ――」

という駕方の喊声かんせい。そこへ雪崩なだれ押しに突ッかけて来たのは、月光にきらめく鏤金螺鈿るきんらでんの女乗物。――一足遅く追い着いてきた菖蒲あやめの寮の御方が女だてらの喧嘩買いと見えた。

二

彼方あなたではこんがらにせいたかと残る六人の黒装束が必死の太刀撃ち。ここでは重左と新九郎が龍攘虎搏りゅうじょうこはくのまッ最中、男でさえも近寄りがたい閃々せんせんたる剣火の旋風つむじへ、意外や、時ならぬ落花とばかり降り込んで、駕の裡うちから美しい姿を抜け出させ、きっとその前へ水際立たせた寮の御方。

続いて後の二挺ちょうからも、老女の水瀬と侍女こしもとが走りだして、更に、その﨟ろうたけた艶あでやかさを引ッ立てる根締ねじめのように、御方の裳すそに添って油断なく懐剣の柄を握りしめる。

「おお皆の者、無用な血を浴びて可惜あたら命を棄てまいぞ、まずその太刀を双方とも退ひいたがよい。強たって退ひくの退かぬという者あらば妾わらわが対手あいてじゃ!」

御方の真白い手に、懐剣の緋房がハラリと解ける。声はりんりんと金鈴きんれいを振るに似て、威はあだかも従者に君臨するような言葉づかい。

「あ、何者? ――」

と、さすが向う見ずな、山手組もせいたかも、天降あまくだった天女の高飛車たかびしゃに度胆を抜かれて、退ひくともなく御方の駕の左右にさっと引分けられてしまった。が、横紙破りの髯の重左は、どうして、そんな生温なまぬるいことで滅多に手を退く男でなかった。

「黙らッせい。どこの女中共かは知らぬが、蔭間かげまや御守殿ののさばり出る幕ではない。退けというのはお身共のこと、さッさと道を避さけて通らッせい」

「それ程気の小さい女子おなごなら、何で、梅茶亭からわざわざここまで追い着いて来るものではない」

「何、梅茶亭からこの重左を追って来たと?」

「そうじゃ、妾の邸に召使う若侍へ、無理難題を云いかけて連れ去ったゆえ、それを取り戻そうため追い着いて参ったのじゃ。公沙汰おもてざたに致せば山手組を根こそぎから総崩れとなそうやも知れぬ。がそれまでに事好みな騒ぎをするのも妾の本意でない。素直にここでその者を返して賜たも」

「返せとは誰を?」

「春日新九郎を――」

「あ、あなたは?」

とその時御方の面をさしのぞいて叫んだ新九郎は思わずいつかのことを口走るところであったが、御方のあわただしい眴めくばせにグッと後の語句をのんで、険けわしい二人の雲行きを側からじっとみつめていると、重左は老骨の頑固さを、くわッと瞋いからせた眼に現して、

「たわけたことを云わっせい。余人ならば知らぬこと、山手武家侠客の総元締をする重左が、そんな甘い女のけれんに乗るものか、春日新九郎の体が欲しくば、日を改めて氷川下の邸へ自身で推参しろ、その時は生首か骨ぐらいは遺物かたみがわりに返けえしてもくれよう」

「では飽くまで妾の家来を帰さぬと云いやるのじゃな」

「知れたことだわ!」

一喝に突ッ刎ねたのはまだいいが、例の杖がそれと共に、御方の玉の顔容かんばせへピュッと唸って行った。何かは堪ろう、蝶の羽翼はがいの紛々と砕けたような、敢あえない姿をその下に倒したかと見れば、意外、御方の眉はきっと上がった途端に、燕をそらす柳の手もと、ヒラリとかわして御方の手に重左の杖はしっかと握りとられてしまった。

新九郎はその刹那に、ゾッと寒くなるような驚異に衝うたれて御方の手元をみつめた。菖蒲あやめの寮に優雅みやびた起居おきふしをしていて、風にも堪えぬほどなよやかに見える御方、その女に、どうしてこんな秘練の妙手があるのだろうか? ――しかも御方は、重左の杖を引かせもせずに押さえつけて、色さえ変らぬ面おもてに、白芙蓉しろふようが湛えている露にも似た微笑みをいッぱいに見せている。

「ホホホホホホホ、これが山手組の武家奴やっこを総元締めなさる深見重左のお腕前てのうちか、世間には稀たまには出て見るものじゃ、音に聞えた氷川下の老侠客、もう少し鋭い味のあるお方と思うたが、女子おなごの持つ木綿針にも足らぬ刺しよう、王義明致おうぎめいち流とやらはこんなものでございますかの」

「うぬ、よくも存分にこの重左を罵ったな」

「いいえの、もういつまで其方そなたどもをかもうてはおられぬ。さ新九郎、猶予することはないぞ、妾わらわの駕に早う乗って邸へ帰ったがよい」

「ならぬッ。こうなれば山手組の意地としても、其奴そいつを渡すことは金輪際ならぬわい」

「おお何とでも沢山吠えやい、好きに意気地を張って見やいの。やがてすべてを裁いて下さるお上のお手先が程なくここへ来るであろうから」

「な、何だと?」

さすが剛愎ごうふくの武家奴も、御方の腕の冴えや落着きように、先刻からすくなからず舌を巻いていたところへ、この無気味な暗示を投げられたので、何とは知らず恟ぎょッとしたらしかった。しかもそれは徒いたずらな脅おどし文句ではなかった。

御方の言葉が終ると一緒に、思わず八方を見廻した六人の黒装束が、

「や、や、や! あの物音」

愕然と居所を失って狼狽うろたえだした。見れば六、七町の彼方あなた、牛ヶ淵の濠端添いを真っ直ぐに、高く低く無数の御用提灯が燦きらめき出し、心なしかワッという鬨ときの声こえと共に、戞々かつかつと鳴って来る騎馬与力の蹄ひづめの音さえ間近く大地を刻んで来た。

三

梅茶亭を出る前に、使いに書ふみを持たせて密告してやった奉行与力の者が、早くもここへ駈けつけて来たなと知って、御方の小憎い笑靨えくぼに、勝ち誇った色がありありと泛かぶ。それとは反対に、まんまと繊手せんしゅの術中におとされた深見重左は、憤恚ふんいの形相を黒装束の者どもに向けて、

「まだ間があるッ、その暇に此奴こいつらを片っ端から血の池へ並べてしまえ!」

と喝令して、自分も細竹の杖を投げ捨てざま、銀造りの強刀をギラリと抜いて、

「女ッ動くまいッ!」

と、まず御方の真ッ向へさっと一太刀見舞って行った。

「無礼しやるなッ」

丹花の唇を洩れた御方の威ある声音。カラリッと受けはずした懐剣の鮮やかさ。

「新九郎も油断しやるなッ」

「おおッ」

躍りかかった重左の横わき、新九郎の小野派鍛えの太刀風もあなどりがたく切りつけた。同時に老女の水瀬、侍女こしもとの懐剣も、御方の身を護って重左を防いだ。一方では群鴉ぐんあに似たる黒装束が再び堰せきを切ってこんがらとせいたかを対手に火を降らして斬り結ぶ。

と――もうそこへ乗りつけて来た騎馬与力と同心三名が、この態さまを見るより早く、

「それッ、無頼あぶれ者を引ッ縛くくれい!」

と声を励まして二、三十名の捕手をドッと乱入させた。承応の江戸中侠客狩り以来、いまだに残るところの武家侠客や町奴の輩で、横行見るに忍びぬ者がある時は、何時何時いつなんどきでも「御用」を掛けるのが町奉行施政の方針となっていた。で、常から睨まれていた山手組は、否応なく十手の雨の的となって、たちまち二、三人はそこに召捕られ、残る者は皆散々ちりぢりに逃げ失せてしまった。今は、深見重左にどれ程王義明致流の腕前があろうと、また天魔の勇があろうとも施ほどこす術すべはなかった。彼は最後の一太刀を御方目がけて投げつけざま、

「覚えていろ! この返報はきっと思い知らしてやる」

と捨科白すてぜりふを云って、あたりの十手をバラバラと薙ぎ退けながらたちまち姿を隠してしまった。御方は逃げて行くそれに何の未練も持たず、騎馬の与力を振り顧って、

「それへ来やったのは渡辺か村越か」

と訊ねた。新九郎はまたしても愕かされた。それはまったく上役人へ対するような言葉ではない。だのに馬上の与力は無礼咎とがめもせず、ヒラリと鞍壺くらつぼから飛び降りて小腰を屈め、

「は、お役詰の当番小田切千助でござります」

「大儀であった。山手組の無頼者あぶれもの達に召使の者がすんでのこと攫さらい行かれるところであったが、もう散々に逃げ失せた様子ゆえ、どうぞ後にかまわず引き上げて賜たもれ」

「しかし、とかく物騒の絶えませぬこの頃、殊に夜中のお出ましは相成るべくはお控え願いとう存じまする」

と千助は釘を差すように云った。

「いつも事々に世話をやかせて気の毒じゃのう。これからはちと慎みましょうわい。ホホホホホ。のう新九郎様、ちょうどよい駕が明いてある。これへ乗ってとにかく今宵は妾わらわの寮へお越し遊ばすがようござります」

「でもそれは……」

彼は遠慮ともつかずただ一応だけの生返辞をしたが、内心では、すくなからず御方の振舞に好奇心を抱き、この女ひとに近寄って、この女ひとの本体の相すがたを見極めたいような気持もしていた。御方はその辺の否いなみに取合わず、

「と仰っしゃっても、一度は嫌でもお越し遊ばさねばなるまいが。それいつか、妾の愛刀をお身様に渡し、新九郎様の来国俊らいくにとしを妾が預って置いた。あれも、疾くに研師とぎしから手入れができて届いておりますわいの。あ、もし小田切さま、とにかく妾はこれにて駕をいただきますゆえ、そちらもどうぞ自由に引き取って賜たもりますよう……」

「ではご免を――」

与力の小田切千助が、それを機しおに馬へ移ると、同心捕方とりかたの面々も、今召捕った四、五人を引ッ立って、意気揚々と引き上げだした。すると、それを一目見た新九郎が、

「あッ」

と叫んで、捕手の列に向って走り出そうとすると、御方の手は素早く袂たもとを掴んで、

「何も騒ぐことはござりませぬわいの。ここはどうあれ、妾わらわの口一つで、後からきっと二人は助けてとらせまする。さ、新九郎様も早うこの駕に乗って、一先ひとまず寮へ参られた上のご思案となさりませ……」

捕手の列の中には、乱闘に紛まぎれて山手組同様な無頼者あぶれものと睨まれたこんがらとせいたかが、無残や、手縄てなわ十手囲いとなって引ッ立てられて行ったのである。

四

小野宗家を破門され、生不動には死なれ、さし当ッて寄家よるべもない身となった新九郎は、そのまま菖蒲あやめの寮の恋、金泥がこいの一室に贅沢ぜいたくな食客となって、御方の手で、こんがらとせいたかを助け出してくれるという言葉を信じて幾日かを過ごしている。

けれど御方は、あれ程手をくだいて新九郎を寮へ連れて来ながら、彼を綺羅な一室に擒とりこにしてから滅多に訪れて来ることもなく、また広い屋敷うちなので、優婉あでやかな姿を庭先に見せることも極めて稀であった。

新九郎は何だかそれが物足らなくなった。ある日は無性に悩ましく、ある夜は燃えるように御方の白い肌が恋しかった。その懊悩おうのうと無聊ぶりょうは、いつぞやの酒の美味あじを思い出さして、侍女こしもとのすすめる儘に、近頃は二合、三合と酒の手を上げて、五、六合も過ごした夜でも、ほろりとなったくらいにしか覚えなかった。

人の飲む酒の香を嗅いでも、眉を顰しかめた新九郎が、境遇の転落に依るか、性格の一変か、とにかく別人のように酒に親しみをもちだした。

「なあに、酒を呑んでも大望さえ立派に成し遂げれば悪いことはあるまい。大月玄蕃を一刀両断に鐘巻自斎を一本打ち込みさえすれば文句のないことだ……」

酔後には独り云い訳のように呟つぶやくのだった。今もそうした気分の後で、新九郎はふと広い奥庭へ眼をやった。と、常に灯を見たことのない東の離亭はなれに、黄色い灯ほかげが洩れている。

「はてな……」

彼はそれをジッとみつめた。そして何を耳にとめたか。

「男の声だ、この寮には拙者の他に男気のない筈だが……」

と呟きながら、ふらふらと庭下駄を突っかけて、植込みの蔭から蔭へ忍んで行った。

「おおたしかに男の声がする、それに御方もいるらしい……」

新九郎の胸さきへ、むらむらと怪しい嫉妬しっとが燃え上がった。何の故の嫉妬か、彼は今、それさえ省かえりみていられなかった。蝙蝠こうもりの如く、ピタリと窓の下へ身を寄せて、小障子の隙からそっと中をさしのぞくと、仄ほのかな絹行燈の影に、骨格の逞しい総髪の男が後ろ向きに坐っている。プーンと洩れてくる酒の薫り、朱の塗膳、銀の銚子、衣桁いこうの乱れ衣ぎぬ、すべてが媚なまめいて取り散らされている中に、御方は男と向い合って艶あでやかな笑顔を微酔に染めていた。

「ではどう遊ばしても、覚明かくめい様にはここ四、五日うちに京の方へお戻りでござりますかいの」

「今も申した通りじゃ。中仙道を勧進に廻った甲賀房と河内房の二人が、間もなくここへ訪ねて落ち合う約束、さすれば、嫌でも一先ずお暇申さねば相成らぬ」

「まあ何という膠にべもないお言葉。殿方の薄情けを真にうける女子は浅慮あさはかかも知れませぬが、妾はどうあっても、そんな近い日にお帰し申すのは嫌じゃ、覚明様、その心意つもりでおいでなされませの……」

と媚嬌びきょうを含んだ声はまぎれもない御方ではないか。新九郎はこの如菩薩にょぼさつの本相を見極めんとして近づきながら、また昏沌たる謎の渦に巻き込まれてしまった。と、後ろ向きになっていた総髪の男は、微かな人の気配を耳鋭く知って、

「あッ、誰かいる――」

と窓の方を振り顧った。その顔! おおその眼眸まなざし! 線の太い顔骨の男、新九郎は一目見て、躍り立つばかり仰天した。それこそ、彼が修行に出た第一歩に、強したたかな目に会わせられた修験の山伏だ。亀山の城下に、

「大円鏡智流刀杖指南、聖護院印可覚明」

という大看板をかけた、武芸者鬼門の荒道場と云われた修験道場の主あるじ大円房覚明。

新九郎は飛ぶように自分の部屋へ帰って来た。そして、何の縁故で覚明がここにいるのか、御方の怪訝いぶかしい行状、あれやこれや、考えれば考えるほど不思議な疑念に包まれてしまった。敢えて事俄かにその謎を解く要もないのだが、新九郎の胸にも自分で気づかぬ嫉妬の焔が燃えていて、彼をその夜は寝かせなかった。

「よし、今度御方と顔を合せたら、必ずその本体をあばいてくれよう――」

心密かに待ち設けていると、ちょうどそれから四日目の夜であった。新九郎は夕方六、七合の酒を過ごして、ややいつもより赤い顔をしているところへ、御方の衣ずれが爽やかに鳴って、春のような笑い声を先に、

「新九郎様、やっと奉行所から報しらせがあって、近いうちにこんがらとせいたかは放免すると申して参りましたぞえ」

と、いつもながら眩まばゆいような姿を見せて来た。新九郎はむッくり寝そべっていた体を起こして、

「御方――」

とその袖をとらえてきっと見上げた。今日こそ酒の勢いで、この女ひとの化身ばけの皮をひん剥かずにはおかぬという気組みが、眼の裡にありありと燃えていた。

「ちとお訊ね申したい儀がござる。お差しつかえなくば、今宵はここでゆるゆるとお話が願いたい」

「まあにわかに改まって何事でござりますかいの……。して、妾にお訊き遊ばしたいとは?」

「他でもない、御方の素性を打ち明けて欲しゅうござる。この新九郎には菖蒲あやめの寮のお暮しと云い、またお前様の振舞と云い、何とも腑ふに落ちぬことばかりじゃ」

「何かと思えばおやすいお訊ねじゃ。したが新九郎様、妾の素性や菖蒲の寮の内幕を知った上で、お身様は卑怯に逃げて行くようなことはござりますまいの? ……」

御方の蘭瞼らんけんは剣のような鋭さで、その時じっと新九郎の顔を射て来た。

「拙者も武士じゃ、お前様の秘密を知った上で、裏切るようなことはきっと致さぬ」

彼も昂然とそう云わない訳には行かなかった。

五

御方は満足らしく頷うなずいて、言葉しずか、息薫かんばしい京訛なまりで、自分の生立ちを物語りだした。恐らく奇しき今の境遇は、幕府要路の者の他、世間でも余り知る者はあるまい――と自ら前措まえおきをしておいて。

小袖に着けてある公卿紋くげもんの雪頂笹ゆきのせざさが示すとおり御方の生家は、京都の堂上冷泉れいぜい中納言家の分家で、俗に下しも冷泉と云われる太夫為俊たゆうためとし卿であった。

彼女は下冷泉家の息女第一の姉姫で、実の名は光子てるこの御方、その妹姫は三つ違いで通子みちこと云った。共に艶色絶世で、今出川北御門の桂かつらよ橘たちばなよともたたえられていた。そのうち所司代からの内達で、姉妹のうち一人を江戸城の大奥へ御中﨟おちゅうろうとして差し上げまいかという下相談があった。光子の御方はすぐそれへ行くことを望んで出た。けれど父の為俊卿は、その時すでに、伊勢の神官藤波家へ光子を娶めあわす約束がしてあったので、彼女の乞いを容れなかった。

その結果、当然妹の通子が選ばれて、行装美々しく江戸表へ向った。将軍家づきの御中﨟として、大奥に仕える身となった通子は、間もなく、天麗の美質を家綱に見出され、その愛妾となり、四代将軍の寵を一身にあつめ、千代田城に時めく栄耀えいようの人となった。

それに引更ひきかえて、光子てるこの御方が嫁いだ藤波家は、伊勢の神職の公卿で至って侘わびしい家庭だった。のみならず選ばれた良人の教忠のりただ卿は、非常な病身である上、下冷泉家で借財があったため、御方の父が嫌いやと云えずに、嫁がせたのだという事情も後に知った。

御方は、財宝の贄にえとなった身の不遇を呪のろい、父の為俊卿をも恨めしく思った。そして、その頃はもう千代田城に栄華を尽している妹の文便ふみづとを見る度に羨うらやましくてならなかった。が、冷たい夫婦仲、心に染まぬ家庭の人となっている間も一年余りに過ぎなかった。良人の教忠卿が病歿して御方は生家へ帰されたのだ。

縹緻きりょうといえば、妹の通子にも劣らぬ光子の御方は、こうした不運から若い黒髪をぷッつり切って、切下げ姿の淋しい花となったが、それ以来、御方の性格がガラリと一変して、京都の盛り場へ出歩いたり、女だてらに木太刀を取って遊侠の徒に交じったり、手のつけられない乱行を擅ほしいままにした。これが町人の娘ならとにかく、かりそめにも名門の姫君なので、父の為俊卿も心を痛めること一通ひととおりでない。その結果、同門の一族協議の末に、仁和寺にんなじのさる高僧に頼んで、光子の御方を尼として、嵯峨野さがのの奥へ行い澄ませようと謀った。

御方はそれを洩れ聞くと共に、飄然ひょうぜんと京から姿を隠してしまった。そして、間もなく江戸城の大奥へ妹の通子を訪ねて来た。その時は、僅か老女の水瀬と一人の侍女こしもとしか連れていなかった。

「では、どう遊ばしても、京都へお戻りなさらぬお心でござりますか?」

妹のお通の方は、突然場所もあろうに大奥へ訪ねて来た姉を迎えて心配そうに訊くのだった。

「嫌じゃ、たとえどのような事があろうと、二度と京へ帰る心はない。それに、妾の気持が江戸の町にも合っている。ここで気儘気楽に世を送りたいのじゃ、何とかよいように計らって賜たもれ」

「お身の上をお察しすれば、そのお心持もご無理とは思いませぬ……。ま、ご心配遊ばしますな、及ばずながら通子が何とかお力になりましょう程に」

そう云っておいて、お通の方は姉の身の振り方を家綱に頼んだのである。

堂上の姫で、吾儘わがままで、勝気で、世を拗すねている御方の始末には、さすがの家綱もちょっと当惑した。が他ならぬお通の方の姉でもあり、京都の生家へ対する義理もあるので、それとなく、表役人に云い含ませ、隅田川のお船見屋敷を住居すまいに与えて、年千余石の賄料まかないりょうさえつけてくれた。それでこそ、御方は菖蒲の寮のしたい三昧も充分な訳であった。

殊に御表の役人や諸大名は、大奥の人々へ先ずもって名を知られるのが出世の大事であったので菖蒲の寮の御方が、お通の方の姉君であると知ると、何かと門前へ取り入って来た。為に、要路の人々へも御方の羽振りが利きけて、事あれば大奥へも立ち入り、間には鋲乗物びょうのりもの、遊山や芝居見物に人の眼をみはらせている。それのみか、いよいよ放恣ほうしに流れた御方は、時折市中で吾儘ぶりを発揮したり、女だてらに旗本組と喧嘩沙汰を惹ひき起したことすらあるので、奉行所の与力同心たちも、光子てるこの御方が江戸へ来たため、どれ程以前より役儀の気苦労が殖ふえたか知れないとこぼしている。

新九郎の抱いていたすべての疑惑はこれで氷解した。

が――まだ一つ残っているものがある。それは離亭はなれに匿かくまわれている修験武芸者の覚明である。あれと御方とはどういう関係なのだろうか? それを問い訊して行くと、さすがの御方もややろうばいの態を見せたけれど、すぐ妖艶な笑みにその色を隠してしまった。

「ではお前様は、いつかあの男のいるのを垣かきのぞきなされてじゃな」

「いかにも見受けました。彼奴きゃつこそ、大円鏡智流の戒刀を使う聖護院の覚明と申すやつ」

と新九郎もきッぱり云って御方の瞳をみつめた。

「や、どうしてそれまでのことをお知りなされているのじゃ」

「いや、それより御方と何のご縁故でござるか、まずもって先に承り申そう」

彼も容易に糾問きゅうもんの緒口いとぐちを逃がさなかった。御方は新九郎がやや嫉妬めいて、ここまで口を衝ついて来たのを、思う壺まで手繰り得たものとして、

「どこまでそれをお知り遊ばしたいのでございますか?」

と澄んだる水の如く云った。

「おお知らいでは都合の悪いことでござるゆえ」

「それは?」

「彼奴きゃつへ果し合いを申し込む所存!」

と新九郎は早口に、彼のため忘るべからざる辱しめを受けている仔細を話し、

「巡り会わねば知らぬこと、覚明の姿を見てはそのままには致しおけぬ、昔は知らず、どうやら鍛えた新九郎の腕前のほどを思い知らしてくれねばならぬ」

「なるほど、それは果し状をつける値打がござりますわいの、及ばずながら、見証けんしょうの役目は妾がお引受けしましょう程に、立派におやりなされませ」

「して、御方と覚明とのお関係かかりあいは?」

「何の仔細がありますものか、あれは妾がほんの当座のなぐさみ者、情夫みそかおがわりに眼をかけてやった下人げにんに過ぎませぬわいの」

「えッ?」

新九郎は脳天を鉄槌てっついでガンとやられたほど愕がくりとした。いや自分の耳を疑った。そしてしばらくは口もきけずに、御方の顔をまじまじとみつめているのみだった。

六

「淫魔だ! ここは怖ろしい妖花が男の生血を啜すする伏魔殿!」

と、気のついた時は、新九郎の体も粘ねばい巧緻な淫女の蜘蛛くもの巣に、手も足もすべての自由を奪われていたのだ。

御方は、放胆に外面げめんをかなぐり捨てた。しかしその下の相すがたは更に妖あやしいまで美しい。艶なる魔魅まみ、誘惑の毒壺から、紅あかと紫色の焔が燃えているような瞳――

「おどろくことはない。お前様はもう女を知らぬ男ではないのですぞえ。初めてこの寮で体を養生なされていた頃、妾が一念で摺り変えた眠り薬を、それとも知らずに飲んで夜な夜な深い夢をご覧ろうじたであろうが」

「あ? ――」

新九郎は息づまるような声を思わず裡うちに引いてふるえた。

「その夢がどんな夢であったか、思い出すことがござりますかの? ……」

おおそう云えばあの頃、熱に浮かされたような怪しい悪夢の薄ら覚えがあるようでもある。ああ、ではその幻の裡に――と思うと彼の全身は憤恚ふんいの火となって包まれた。

「ああ怖い顔、そのように睨んでは嫌じゃ、止めて、やめて……」

と云いながら、御方はいきなりフッと籠行燈かごあんどんを吹き消した。不意に落ちた闇の帳とばり……新九郎がはッとして跳びのく音に添って、御方の影も豹のように追いかかった。

「怒ったのでござりますかえ? ゆるして賜たも」

「畜生! 悪魔! 夜叉やしゃ!」

刎ね飛ばそうとする新九郎の悶え。

「おお、妾は夜叉じゃ、恋の夜叉じゃ!」

恋に狂うた女と、凜々りりしい武士の魂に生きようとする男とは、しばし、如法にょほうの闇やみに争い続けた。

七

翌日、二人の修験者が、菖蒲の寮の離亭はなれへ覚明を訪れてきた。この者達は、三年に一度くらい大峰の修築をするとか、役えんの行者ぎょうじゃを祀まつるとか、いい加減な名目を設けて、諸国の手蔓を手繰たぐって勧進の悪銭をあつめ廻る輩やからだった。

「おお待ち兼ねていた。中仙道の方の金寄りの工合はどうであったな」

「今年はあの地方の飢饉ききんとやらで、いやはや散々な悪首尾でござりました」

と甲賀房、河内房の二人が、審つぶさに実況を告げて、その後のこと、

「して大先生の方の受持はどうでござりますな」

「されば、ほかの所はやはり思うように参らぬが、唯一軒、ここという金のなる木があるのでな……まずザッとこれ程じゃ」

と笈おいの中の包みを開いて、五ツの封金を並べて見せた。

「え、御方一人で五百両のご寄進でござるか」

「さればよ、覚明の腕で取るのじゃ……」

と魁偉かいいな容貌に、いやらしい笑みをニタリと見せた。二人の弟子はすぐに、

「あああ、さては強請ゆすったな……」

と胸に頷き合った。

光子の御方が、京都綾小路の有名な剣客、長谷川宗喜から、小太刀の妙髄をうけたと評判のあった頃、ある行き懸りから大円房覚明の道場へ手合せに来たことがある。その時、覚明は例の不可思議な戒刀の秘術をふって、光子の御方を悶絶させた。のみならず、後の介抱に事寄せて、御方の体を自由にした。ということを、この二人だけが薄々知っていた。

「覚明様、妾わらわでござります。それへ参りましても大事はござりませぬか」

そこへ不意に、御方の声が障子の外でしたので、覚明は慌てて金を隠し、居ざんまいを直した。

「さ、何のご遠慮が要りましょうぞ」

「お身様たちの立ち際に、不意な用ができましたのじゃ」

御方は開けた扉口とぐちから半身見せて、

「妾にはとんと解げせぬことでござりまするが、とにかくこれを読んでご覧ろうじませ」

「はて、何事でござろうか? ……」

覚明は御方の手から渡された一通の書面を手にして、眼を落すと共に、さっと顔色が変った。

「果し状――」

「え、果し状?」

と、甲賀房、河内房の二人も側から顔をのぞかせた。

「や、春日新九郎という奴からじゃ?」

「御方、このような者はとんと拙者の記憶にござらぬが、何ぞ人違いではあるまいか」

「いや、たしかに覚明様を見届けての上と云い張って、あれ、既にあすこの庭先――広芝の真ん中に鯉口切って待っているのじゃ」

「猪口才ちょこざいな奴! 大先生、唯一太刀に斬っておしまいなされ。行きがけの駄賃という喩たとえもござる」

「おお、造作のないこと。では久し振りに、生胴いきどうで拙者の戒刀の斬れ味を、御方にお目にかけようか」

やおら、鴨居かもいに顔のつく程な巨躯を起した覚明は、常住の護剣、金剛杖に仕込んである四尺余寸の戒刀をとって庭先へ出向いた。

「おお覚明!」

その姿を見るが早いか、南縁の沓脱石くつぬぎいしに腰かけていた五分月代さかやき優やさがたの浪人が、バラバラと彼の前へ駈け寄って来た。

新九郎はこの寮へ来てから、髪も伸びるままにしていたのを、今朝、御方が鏡台を出して、前を五分月代に、後ろの切下げを折り大髻おおたぶさに結い直してくれたのである。二人の間は、昨日とまるで打って変って打ち解けていた。

「おお、この方ほうがどんなに似合うか知れませんよ、それに一人前の男らしくもある。昨夜ゆうべから本当の男一匹になった新九郎様、お気に入りましたかいの?」

言葉もズッと砕けて、新九郎の顔へ自分の顔を摺り寄せて鏡に映した。そして、

「さ、長い間の人質ひとじちも、お返し申しますぞえ」

とすっかり手入れの出来た来国俊らいくにとしを渡してくれた。それを見た刹那、新九郎はふと千浪や兄の面影を思い浮べたが、御方に焦せかれ、一刀を小脇にして庭へ飛び降りた。

「あはッはははは」

覚明は彼を睥睨していきなり笑い出した。

「この覚明に果し状をつける程の奴、余程腕に、覚えのある者かと思った。汝は三、四年前に、拙者の道場で打ちのめされた腰抜け侍だな」

「おお、その腰抜け侍の新九郎が、改めての返報だ。果し状は伊達にはつけぬぞ……」

「優しおらしいその言い草、望みに任せて孔雀明王の血祭りとしてくりょうッ」

「洒落たことを! さッ、そっちに馬鹿な面をしている柿色の虫けらどもも、束になってかかッて来い」

姿のせいで口調がそう響くか、ここにわかにキビキビとした新九郎の浪人伝法。名乗りを気合に、抜き渡した一刀は、研とぎ上がってまだ手も触れず、青味がかった金肌に打ち粉の見える来国俊。

この勝負、何と見るか、御方は長縁にあってニタリと薄ら笑みを洩らした。女性にょしょうの前での果し合いは一倍凄味を帯びるものだという。

如法にょほうの闇やみ瞋恚しんいの夜烏よがらす

一

指を切った僅かな血にも、女ばかりは恟おびえがちな寮に、魁偉かいいな優婆塞うばそくと美男の浪人が、果し合いの白刃を抜き交わしたので、老女や多くの侍女こしもとは唯あれあれと、一所ひとところに群れ寄って、廊下は時ならぬ花壇かだんとなる。

「ああ危ない、今にも新九郎様がただ一太刀に斬り下げられてしまいそうな……」

「いくら意気地の上と云いながら、鬼のような、あの大円房を対手に廻すとは余りな無法」

「どうにかして今のうちに、引き分ける工夫はないか……」

などと、侍女たちの黄菊白菊、白刃を見ただけでもう種々さまざまな戦おののき声ごえ。

その中に囲まれながら、光子てるこの御方だけは今にもそこへ流れる血汐を、楽しむような眼まなざしで、庭先に対峙している二人の太刀構えを、じっと眺め澄ましていた。

その時、大円房覚明は、無反むぞりの戒刀を兜巾ときんのいただきまでふりかぶって、炬かがりのような双の眼まなこに必殺の気を漲みなぎらせ、

「おおウッ」

と、獣けものの如き喚おめきをあげ、剣前何ものも無碍むげ、いきなり新九郎の平青眼を踏み割るが早いか、さっと、脳天から褄先つまさきへかけて斬り込んできた。

「来たれ――」

と、既に心得ていたらしい新九郎の片はずし。流電の剣を横に払って、太刀風鋭く、小野派乱行の斬り返し、

「えいッ、えいッ、えやッ」

息もつかせず大円房を追いつめた。が、彼は、

「小癪こしゃくな青二才め、いつか人並みな真似ごとをするようになったな――」

くらいに思ってか、少しも慌てず、虚実、鮮やかに受け払って、最後に、新九郎の疲れを待つらしい、老獪場馴れの曲者。

「新九郎! もう汝の面おもては死相に変ったるぞ」

一声、浴びせかけた冷罵れいばを機きッかけに、阿修羅の怪勇、鏡智流自在の腕前を、一度に現わしてきた切きッ尖さきの鋭さ――

「見ろ、さすがは大先生。それに引き更えて、あの素浪人のしどろもどろの態ざまはどうだ」

覚明の後ろに控えていた二人の弟子山伏は、聞こえよがしに云い放った。

侍女たちは色を失う。御方ならずとも、美男の方に勝たせたいと祈る女の心理は一つらしい。が――勝負の形勢は、ここ逆転して、今にも危うく見えたのは新九郎の命。

彼の剣はただ火だ。熱がある。気が迸ほとばしる。天才の鋭さを持つ。けれど、そこに何らの懸け引きがない。新九郎は初手しょての斬り込みに、案の定、たちまち精根を疲らしてしまった。

そこへ、得たりと、踏み込んで、

「この一刀が受けられるものなら受けて見ろ」

たしかに、鍔つばまで充分届いた大円房の烈剣。

「あッ!」

唐竹割りとなったか。避けんとして退のいたが不覚、新九郎はドンと仰向けざまに倒れた――倒れたが彼も非凡、いや無意識、跳びかかッて来た覚明の足もとをさっと横払いに薙なぎつける。

大円房は、元より鏡智流の達人、天下無敵と称して世に憚はばからぬほどの者。それを食くうような不覚のあるべき筈はないが、どうした弾はずみか、

「わッ」

と一声、脆もろくもそこに血煙りをあげてぶったおれた。刎ね起きた新九郎、何の猶予もなくブツリと止刀とどめを刺して、

「いざ、そこに残る木ッ葉ども、師の仇と思わばすぐ続いて来い!」

甲賀房と河内房の二人に、ピタリと剣尖を向け直すと、二人は意外の余り度を失ったか、抜き連れても来ず、バラバラと庭先から駈け出し、猿ましらのように塀を越えて逃げ失せた。

「新九郎様、お見事でござりましたこと……」

御方は、すぐ庭下駄を穿はいて、ホッと一息ついている彼の側まで歩み寄って来た。

「お欣び下さい。まずこの通り討ち止めてござります」

「そりゃ、誰の刃やいばで?」

「え、誰の刃でとは?」

「ホホホホホホ。お前様が、捨身で足を払った前に、妾わらわの手から飛んでいた物がお分りないようでは、まだまだ真の剣客の域は少し遠うござります」

御方は笑いながら、微かにぴくぴくしている大円房の側へ寄って、死骸の脇腹に突っ立っていた一本の懐剣を引き抜き、血糊のりを拭ってピタリと自分の帯の鞘へ納めた。そして、

「あ……」

と、呆れ顔の新九郎へ、声を低めて囁ささやいた。

「恋の助太刀……恋の助太刀でござりますぞ。これで妾は、お前様を三度みたび救った命の親、妾を捨てたり、他に女を拵こしらえたりなどなさると、お前さまとて用捨はしませぬ、きっとこの懐剣が肯ききますまいぞ……」

「御方様」

間近にくる侍女こしもとの声。何気なく振り向いて、

「何じゃ」

「こんがらにせいたかとか申す者が、新九郎様はこちらかと訪ねておいでになりました」

「おお、折よく二人も奉行所からゆるされて来たと見える。果し合いの勝祝いじゃ。新九郎様、眺めのよいむこうの部屋でこんがらやせいたかも寄せて、ゆるりと寛くつろぐと致しましょうわい」

また今日も、新九郎の一日は、御方の甘い媚こびと、陶酔の酒に暮れそうである。

二

ここ、めきめきと、江戸市井しせいの中に、男を売り出した一人の遊侠がある。姿は、唐犬額びたいの伊達とは違って、黒羽二重の紋服に、業刀わざものらしい二本の大小、りゅうと長めに落して、いつも二人の乾分を連れ、深編笠の目堰めせきから、チラとのぞける面おもざしは絶世の美男子、それでいて剣法は上手、喧嘩と云えば弱きを助け、盛り場、賭場では金切れが綺麗、まず武家侠客の上品無類と、浮気な女にまで持もて囃はやされる。その名は御曹子おんぞうしの新九郎。

品が好くて、腕が冴えている、というところから、異名が通ったものらしい御曹子――それは春日新九郎だった。

「天才ほどあてにならないものはない」と世人は云う。けれど本当は、「世に天才ほど怖ろしいものはない」という方が至当らしい。独り剣道のみならず、画家であれ、彫刻師であれ、大工であれ、商人であれ、学者であれ、その天稟をうけた者ほど、一面、悪い方へ転落すると、はてしもない奈落へ墜ちる。

寮の御方の手にかかってから、新九郎の心持はどうやら、その悪い方向へ、急転直下に変りはじめた。光子てるこの御方はまた、自分の快楽けらくの為に、一念に、新九郎を堕落の淵へ淵へと導く。かれが大望を忘れて、放縦救うべからざる人間になり切るのを、御方はひたすら望んで熄やまぬのである。そしていつまでも新九郎の美貌の蜜を吸って、さびしい自分の生活をまぎらわしていたい慾望。

その為に、御方は前にも、随分手をくだいたが、近頃は、こんがらとせいたかが寮へ舞い込んで来たのを幸いに、屋敷の中へ遊侠の徒を出入りさせ、新九郎に伊達寛達な風をすすめて、天晴あっぱれ、彼をして一人前の遊侠に仕立ててしまった。

女、金、酒、そのどれ一つにも淋しからず、寮にあれば酒肉の快楽、伊達姿で歩けば衆目に見迎えられ、道場破り、果し合いに顔を売るほど、御曹子の親分親分と立てられる気持は悪くない。

今では、自身でそれを得意とするほど、新九郎の心も姿も境遇もグングン堕落して行った。ここ僅か半年ばかりで、彼はまったく変り果てた人間になった。

怖ろしいものは、青春の道に熟うれている毒の木の実、一度その甘き毒に触れ、飽くなき歓楽の陶酔に溺れてしまった春日新九郎は、あれ程までに邁進まいしんして来た大願も、千浪が真心も、前世の夢の如く忘れんとしている。

それにしても、義理の助剣に、不自由な足を引摺る彼の兄重蔵と、薄倖な千浪とは、いつまで、この頼み甲斐ない人情の浮世小路に、侘わびしい尺八を吹き流さねばならぬのだろう。

×

「御曹子の親分、この通り、丁肩ちょうがたズラリと五十両の駒が揃いました。親分一人の向うを張って布しいた陣、ささ駒を並べておくんなさい」

と、眼を血走らせているのは袁彦道えんげんどうの胴元、盆蓙ぼんござの周りには、十四、五人の男が、同じように、生唾なまつばを呑んで、よからぬ弄なぐさみに夢中の態てい。ここは紀州屋敷の仲間ちゅうげん部屋で、夜ごと大きな賭博が開帳され、公然と、大名の門をてら箱が出入りする遊び場所、新九郎はこの浅ましい人間どもの中に挟まって、じっと腕をくんでいる。

「どうしたッてんです。御曹子の親分ともある者が、嫌に今夜は渋るじゃありませんか。ようがすか勝負」

「待て――」

新九郎は慌てて胴元の手を押え、

「実あ、まだ二百両ぐらいはある気で、半肩へ声をかけたが、いつの間にかすっかり懐中ふところがはたけてしまった。面目ねえがこの勝負は待ってくれ」

「冗戯じょうだん云っちゃいけねえ、博奕と喧嘩は待ったなしだ。この頃日の出の勢いで売り出した親分が、賭場の作法を知らねえじゃ通るめえ。丁肩へこの通り揃えた駒をどうしてくれるんだ」

「む……」

と、真から困った態てい。

何と云っても、こんな社会に日の浅い新九郎は、どこか鷹揚おうよう、菖蒲の寮という金の尻押しがあるに任せて、よい食い物にされていた。今夜も、例に洩れず百五十両ほどの持金を取られた揚句がこの始末。折悪しく、その時に限って、こんがらとせいたかも居合せなかったので、どう極りをつけてよいか全く当惑していた。

「場所が白けら、おい、早くどうにかしてくんねえ。伏せた賽さいと揃えた駒をどうするんだ」

「この一番は拙者が悪かった。どうか勘弁してくれい」

「笑わしちゃいけねえ、勘弁で済むくらいなら、はじめからガミガミ云やあしねえんだ。お、お前の大小を金のかた代りに張りねえ」

「さ、こればかりは……」

さすがの新九郎も、武士の魂を賭場の駒がわりにするまで性根が腐っていないらしい。が、胴元も張手も、こっちの足もとを見抜けば見抜くほど、仮借かしゃくもなく恥はずかしめてくる。

「皆さん、ちょっとご免なさいまし」

場が白けているところへ、隣り部屋から女の声がして、スッと中の仕切戸が開いた。

「おお、姐御でしたか――」

「大層話が難かしそうですね……」

と、ふわりとそこへ立膝で坐った阿娜者あだもの。頭巾で顔を包んでいるので、誰とも分らないがチラと場の駒と、新九郎の様子を見較べて、

「女の出る幕じゃないけれど、いつまでない袖を振れの何のと云っていたところで、どうなるもんじゃありゃしない。五十両のかたは、私がこのお方に貸すとするから、綺麗に勝負して見たらよいじゃないか」

「え、姐御が、御曹子へ貸すって云うのか」

「あい、それで不足はないだろう」

帯の間から、器用にポンと投げ出した五十両の封金。

「勝負」

俄に活気づいて、胴元が壺を開けると、賽は皮肉、押売りされた新九郎の方へ目が出て、彼はホッと危地を遁のがれた。

「やや今の女は? ……」

そこで初めて、吾にかえったように、あたりを見たが、不思議な阿娜女あだものは、いつの間にやら姿を消して、もうその部屋にはいなかった。

三

百両の金を掴んで、紀州部屋を出た新九郎が、今の女にそれを返す心算つもりで、宵闇の屋敷小路を急ぎ足に来ると、

「もし、私を尋ねておいでなさるんじゃありませんか」

と、佇立たたずんでいた頭巾の女が、薄暗い物蔭から、彼の姿を呼びとめた。

「お」

振り顧って見ると、紛まぎれもない今の阿娜者。新九郎は礼と共に百両の金を差し出しながら、

「見ず知らずの此方に、よく気前よく貸してくれた。元金の五十両は今の返し、後五十両は目の出た金、どうか受け取ってもらいたい」

「おや、改まったご挨拶で痛み入りますね、だが新九郎さん……」

「おお拙者をご存じの方だったか」

「知らなくってどうするものじゃない。お前さんもしばらく見ないうちに、大層頼もしいご人態にんていになりましたねえ」

「はて、そういうお前は?」

「お延えんですよ。蘭谷あららぎだにの山荘で、初めて会った時からザッと五年越し、いまだにお前さんを想いつづけている私を忘れちゃ、幾ら何でも可哀そうじゃありませんかえ」

闇に紛れて、ピッタリ寄り添って来たお延は、五、六年前から、すこしも年をとらないような年増としまの色香を、仄ほのかに頭巾の裡からのぞかせて、いきなり、痛いほど新九郎の手を握りしめる。

「ねえ新九郎さん、御曹子の親分さん……」

「往来中で見っともない。まあこの手を離してくれ」

「あたりは淋しい屋敷町――と云ったところで、何もここで口説こうとは云いませんよ。実のところは、お前さんに一大事を報しらせたいばかりに、やッと紀州屋敷を尋ねあてて来たのです」

「何、拙者に一大事を報らせる為?」

「ええ、もしや新九郎さんは、近いうちにこんがらとせいたかの二人を連れて、秩父の三峰みつみねへ出かける下相談をしませんでしたかえ」

「不思議な。どうしてそんな内輪話まで知っているのだ」

「お前さんも薄々は感づいていましょうけれど、笊組ざるぐみの久八だの、大月玄蕃や投槍の小六などは、いまだに絶えず寝刃ねたばを研といで、新九郎さんの隙を窺うかがっているのですよ。そして、今度こんがらやせいたかを連れて、秩父へ出かけるということをどこからか聞き込み、前に生不動を殺やったと同じ手段てだてで、怖ろしい罠わなの支度をしていますのさ」

「では浅草の笊組には、また大月玄蕃だの、投槍などの、悪浪人が、いつか旅から帰って来ているのだな」

「そうですよ。昨夜チラとその悪相談を小耳に挟んだので、どうかしてお前さんに告しらせて上げたいと、種々手を廻して、やっと尋ねあてたのが紀州屋敷。聞けばこの頃は毎晩のように、賭場へ顔を見せるというので、明るいうちから隣部屋で待ち兼ねていたのでござんす」

「よく親切に報らせてくれた。しかし、拙者も御曹子などと云われるまで、身を持ちくずしてしまったが、そのお蔭には、喧嘩斬り合いの場数を踏んで、今じゃあ、玄蕃や小六などに滅多な敗ひけは取らぬ心算つもりだ。決して心配してくれぬがいい」

「僅かな間に、お前さん程見違えた人はないねえ。ところで、この百両は一体どうする心算?」

「どうもこうもあるものか、そっちで出して目の出た金、黙って納しまっておけばよかろう」

「そんな水臭い量見は、私にゃどうしても持てないから……じゃこうしよう、どうせ拾ったも同様なこの金をないものにして、久し振りに、どこかで飽きるほど遊んでみようじゃないか。と云っても、悪女の深情けでは、そちらが余り気がすすまないだろうけれど……」

「そう云うお前には、確か投げ槍小六という男がついている筈」

「憎らしい。あんな男に心中立てするくらいなら、誰が今みたいなことをわざわざ知らせに来るものかね、ちったあ私の気持を察して下さいな……」

肩を並べた二人の影は、いつか歩くともなく道を捗はかどって、山の手から外濠の方へだらだら下っていた。すると、不意に新九郎が、

「あ……」

悪寒さむけにでも襲われたように立たち竦すくんだ。

「おや、どうしたんですえ? 真っ蒼な顔をしてさ」

「お延、ありゃ尺八の音じゃないか」

「おおかた、外濠をうろついている、宿なしの虚無僧でしょうよ」

「…………」

新九郎は魔魅あやかしの声でも聞くように、宙に眼を吊らしてしまった。いかにもそれはお延が言う通りな虚無僧の尺八、縷々るるとして咽むせぶような哀音が、彼方あなたの闇に迷っている。

「駕に乗ろう、何だか急に寒くなった。拙者は虚無僧の尺八を聞くと、妙に気が滅入めいってしまう癖がある」

「変な人――」

お延は笑ったが、男が自分の首尾をうけ入れている様子に満足して、いそいそと駕を見つけた。そしてその晩から、二人の姿が、しばらく雉子町辺の遊び風呂屋に隠れた。

が――新九郎の一点の良心は、恐らく彼をして心まで楽しませなかったに相違ない。

まさか、外濠の薄ら寒い夜を、寂しげに吹き迷っている尺八の主ぬしが、兄の重蔵と千浪ではなかったろうが、つねには眠っている良心が、その時、何らかの暗示に呼び醒さまされて、強い苛責かしゃくをうけずにいなかったのである。

四

「どうだったこんがら、兄哥あにきの居所は、どこかで見当がついたかえ」

「さッぱり様子が知れねえから不思議よ。がまあ、上がってからゆっくりの相談としよう……」

菖蒲の寮の裏口、――そこはこの頃、新九郎を中心として、こんがらやせいたかその他雑多な輩ともがらが出入りするため、人目立たぬように、特に新しく設けた潜り戸だった。

さりとは、光子の御方ももの好き過ぎるが、京都にいた頃から、自体、そうした遊侠気分、町奴などに伍するようなことが好きな性質とて、女ばかりな寮の一廓を荒くれ男の賭場同様にしても、格別突飛なこととも思わぬらしい。

で、寮の片隅に、母屋とかけ離れた別の一棟、そこが裏口から出入り自由となっている。今も外から帰って来たこんがらの重兵衛は、待ち兼ねていたせいたかと一言ひとこと二言ふたこと云い交わしながらその家やの中へ上がり、さて歩き疲れにがっかりした態さまで、対むかい合あいに腕こまぬく。

「おかしいじゃねえか。今日もまる半日、足を摺古木すりこぎにして尋ねまわったが、兄哥の行方は皆目知れねえ、ただ例の紀州屋敷」

「む、あすこは新九郎さんがよく顔を出す定賭場じょうとばだ。そこでなにか噂を聞かなかったか」

「五日ほど前の晩に、浅草笊組ざるぐみにいるお延という女と一足違いに、慌てて帰ったという話だけ聞いたが、その後はてんで、顔を見た者もねえということだ」

「すると兄哥は、この寮のあんな美いいお方に想われながら、まだ他に女を拵えているのかしら」

「よもやとは思うが、元の春日新九郎たあまるで人間が変ってしまった兄哥のことだから……俺にもそいつばかりは保証ができねえ」

「今日もチラと侍女こしもとに様子を聞くと、御方さまも、ここ四、五日新九郎さんが帰けえらねえため、ひどく嫉妬やきもちを起して不機嫌だそうだ。そう聞くと、こっちは廂ひさしを借りている居候。何だか気がひけて人寄せもできやしねえ」

「そりゃいいとしても、明後日あさって立つ約束になっている、秩父の交際つきあいはどうしたものだろう。行かねえなら行かねえように、寄居よりいの親分や秩父の身内へ、断り状を出さなければなるめえが……」

と、二人は途方に暮れていた。

「今晩は、今晩は――」

折から門で訪ずれる者がある。顔を上げるとあたりはもう黄昏たそがれていた。

「誰だ」

とせいたかが内から呶鳴ると、

「駕屋でございます。雉子町きじちょうの扇屋から、御曹子の親分のお手紙を持って参りました」

「扇屋というなあ丹前風呂の扇屋か」

「そうです、お迎えの駕を二挺持って参りましたから、手紙のお二方にすぐ来てくれるようにというお言伝てでごぜえます」

「暢気だなあ、人の気も知らねえで」

とせいたかとこんがらが、使いの手紙を受け取って読み下すと、相違ない新九郎の文字、取り急ぎ相談したい用件があるから、すぐこの駕で来てもらいたいという文意。

尋ねあぐんでいたところなので、二人は猶予なく迎えの駕に乗って扇屋へ急いだ。すると、せいたかとこんがらが出て行った後へ、庭伝いにそっと入って来た人影がある。

行燈あんどんの下に、投げ捨ててあった文殻ふみがらを拾って、じっと、瞋恚しんいの眼まなこで読み下している人――それは寮の主あるじ、光子てるこの御方だった。

ビリッと手紙を裂いて、庭の面おもてへ抛り捨てた御方は、気色ばんだ面を上げてあたりを見まわしたが、ふと壁の釘に掛けてある新九郎の着更きがえ、黒羽二重の衣類に目をつけて、手早く、それを自分の身に着け、男帯を上から締めて、いかつい大小まで腰に差した。

姿は細く、肩は円いが、髪は切下げであるし黒小袖に大小の男姿、打ち見たところ、優しい武家という形。

ニヤリと、独りうなずいた御方は、一足おくれて裏口から、こッそり闇の中へ紛まぎれて行った。

五

一方、程もなく、扇屋の門へ着いた二挺の駕。

こんがらとせいたかは、すぐ湯女ゆなに案内されて奥の一間へ通る。ここは当時の出合茶屋を兼ねた遊び風呂で、四、五日前から、そこに耽溺たんできしている新九郎は、屏風囲いのむッとするような酒の香の中に独りで杯をあげていた。

「兄哥あにき、随分人に気を揉ませるじゃねえか、こんな所に潜り込んでいるんだもの、いくら探したって分りッこはありゃしねえ」

「おおこんがらにせいたかか、飛んだ苦労をかけて済まなかったが、これにはまた仔細もあること、まあ一杯やりながら聞いてくれ」

さすがに新九郎もやや決きまりが悪そう。そこにいたのは彼一人であったが、部屋の隅には、女柄の湯上がり着がしどけなく脱ぎ捨ててある。それを見ると、二人の方がちょっとてれて、

「御方様の前へは気咎めがして、一人じゃ帰り難いから、連れて帰ってくれという一件でしょう」

「いくらこの新九郎が腐ったからといって、そう安ッぽく拙者を見縊みくびるな。ここへ呼んだ相談というのは、かねがねお前達二人が、拙者に助太刀を頼んでいた生不動親分の仕返し、その望みを、今夜見事に果させてやろうという所存だ」

「えッ兄哥、そいつはほんとでございますか」

「誰が嘘ッぱちに、こんなことを云うものか。実はふとしたことから、笊組の世話になっていたお延という女に知り合って、そいつが今夜、手筈の首尾をしようというのだ。俄かにお前達に知らせた仔細というのはその為だ」

「俺たちの頼みを、兄哥が忘れずにいてくれたのは有難ありがてえが、どうもそいつあちょっと二の足を踏みますぜ……」

「何故? 今になって怯おくれを取るのか」

「冗戯じょうだん云っちゃアいけません、そんな意気地なしじゃねえ心意つもりだが、聞けば、今夜の手曳きをする女って奴が、笊組の世話になっているお延だというじゃありませんか。ほかの者なら頷けるが、その女が何でこっちの為になるようなことを働くのか、どうも俺わっしにゃ合点が行きません」

「なるほど、その疑惑うたがいは尤もっともだが、あのお延と拙者とは、前から深い仔細があるのだ。少し甘いところは辛抱して、その来歴を聞いてくれ」

二人に杯をわけて、新九郎が話し出すところは、云うまでもなく、五年前に彼がお延に恋されて、雨龍の山荘から助け出されたこと。

その後お延が、投げ槍小六と一緒に、流転るてんの境涯をつづけながら、心だけは、幾年たッても、新九郎を忘れずに今日まで一念で来たことは、紀州屋敷で会ってから、この扇屋へ落ちついた晩に、お延の口から艶なまめかしく話された述懐だった。

中年の恋が叶って、盲目的となったお延が、じぶんの実意を見せるために、笊組ざるぐみの一門や、大月玄蕃、投げ槍の小六などを、欺だまし討ちにする手曳きをしよう、と云い出したのはその翌日のこと。

向うで、奸策を巡らしている裏をかいて、こっちから不意討ちを仕掛けるのは妙だと、新九郎も乗り気になり、お延はその為に、時々浅草へ帰って様子を窺った。そして、今日の昼もちょっと扇屋へ姿を見せて、

「新九郎さん、うまい機おりが見つかったよ。臂ひじの久八が、今夜この先の丹前風呂へ、みんなを連れて遊びに来るというんで、私にも一緒に来いと云ったから、帰る時刻になったらまた知らせに来るよ。だからお前さんは、それまでにしっかり身支度をして待っていておくれ、なアに、対手は大勢でも、私がうんと飲まして置くから大丈夫――」

と新九郎に囁いて帰ったのだ。

お延が、それまでに打ち込んでいる仔細を話されて、こんがらもせいたかも初めて安心した。そしていよいよ今夜こそ、生不動の仕返しに、笊組の目星い奴等を、鏖殺みなごろしにしてくりょうと、いきまきながら、杯を廻している。

すると――襖一重の隣り座敷に、先刻から耳を澄まして、新九郎の話を偸ぬすみ聞きしていた一人の侍。

黒の頭巾に黒羽二重の小袖、沈鬱な面を俯向け勝ちに、酒肴しゅこうを取っても、それには手を触れずじっと身を石のように、居ずくまっていた。

六

しばらくすると忙せわしなく、とんとんとんと梯子段を踏んで上がって来た人の気配。新九郎の部屋の外に止まって、

「あら、お客様?」

と、阿娜あだッぽい声をさせた。

「いや、別に仔細のない者ばかり、遠慮はいらぬから入るがいい」

と新九郎が中から云うと、

「じゃ、皆さんご免なさい……」

身をすり入れて来たのはお延であった。

少し酒の気があるせいか、五年越しの恋が成就して若い男を持ったがゆえ、俄かに上ッ調子になって来たのか、派手派手しい厚化粧をポッと桜色にさせて、様子もどこか浮き浮きと、

「あの……かまわないかしらねえ……?」

「何を」

「さっきの話さ、私ゃ今夜は落着いていられないんだから」

「あのことなら、ここにいるのは拙者の味方、何も憚はばかることがないどころか、腕を疼うずかせて待っていたのだ。早く様子を話してくれい」

「ああそうでござんしたか。今笊組の連中が、この先の小桜屋へ五、六人連れで来ているところ……であの首尾を告しらせに、こッそり一座を抜けて来たものですよ」

「忝けない、して人数は? 帰る時刻は」

新九郎を初めこんがらもせいたかも、思わず膝を乗りだした。と――部屋仕切りの唐紙に、サラサラと微かな衣ずれがどこかでしたが、誰もそれとは気づかなかった。

「一座の者は、笊組の臂の久八をはじめ、身内の荒神十左、花笠の源吉、それに大月玄蕃と投げ槍小六が交じっての五人ですが、ちょうど何かの相談があるとやらで、氷川下の髯の重左も、多勢の侍を連れて来ていました」

「や、深見重左も参っていると?」

「ですが、驚くことはありませんよ。その重左の組とは、小桜屋の前で別れて、もう半刻ばかり後に、笊組は柳原土手から浅草見附の方へ帰る様子ですから、ぬからずにその途中で待ち伏せしていておくんなさい、私ゃまたこれから帰って、何喰わぬ顔をして、久八や玄蕃にうんと酒をすすめておくから……」

「よし、じゃ一足先に廻って、銀杏稲荷いちょういなりの物蔭に隠れているぞ」

「そこで私が頼んでおくのは、誰を斬り遁のがそうとも、あの投げ槍小六だけは、きっと殺ばらして下さいよ。彼奴あいつに付きまとわれていたおかげに、五年もお前さんと会うことができなかったんだから……」

と、新九郎に眼で含ませて、お延は間もなくその部屋から出て行く様子。

その跫音は一人であるべきに、お延が梯子段を下りると、すぐ、後からまた一人の跫音が、ミシリミシリと静かに下りて行った。

ほかにも、客出入りのある奥二階とて、新九郎と他二人は、格別それに何の疑いも抱かず、最後の杯をやりとりして、いざとばかり、身仕度に勇み立つ。

新九郎は、大円房覚明を斬って、まだ生々しい血脂ちあぶらの曇っている来国俊らいくにとしをスラリと抜き、揉み紙で一ひとしごきして、燈下に刃こぼれを検あらためている――

七

扇屋の暖簾のれんから、小走りに出たお延は、風呂屋町の賑やかな人通りに交じって、程遠からぬ小桜屋の方へ急いで行くと、

「もし、もし、そこへ行くお方」

誰やら、後ろから呼びかける者がある。

「あい、私かえ?」

「いかにも」

側へ寄って来た者を見ると、濡れ烏のように艶つやのある絹で、黒ずくめに覆面した細づくりな侍。チラと町の灯に見えた目元の肌が、雪より白かった。

「何のご用ですえ?」

お延はツンとして云った。

「お手間はとらせぬが、ちとお話し申したい儀があるに依って、しばらく体を貸して下さらぬか」

「見ず知らずのお前さんに、私ゃ何も聞くようなことはございませんよ。それに何だね、話ぐらいなことに体を貸せの何のと……、ちぇッ、いけ好かない人だ」

「不意に申したのでは、お腹立ちも尤もじゃ」

罵られながら、侍は怒りもしないで、なお丁寧に、

「某それがしは、春日新九郎殿――今では御曹子の新九郎と云わるる方に、以前一、二度お目にかかったことのある者、その御曹子殿のお身にかかわる、一大事を耳に挟んで参ったのじゃが、なんと報しらせて上げてはくれまいか」

「えッ……」

お延は胸をギクリとさせたが、また疑わしく思い直して、

「その新九郎さんと、私が懇意だということを、どうしてまたお前さんはご存じなんですえ」

「今し方、扇屋の奥二階でチラとお見受け申したのじゃ。しかし、拙者の口から新九郎殿へ、直じかにはちと話し難い事情……女に絡からんでいることゆえ、やはり女の口から伝えてもらいたい」

「え、女のことで? ……」

お延の眼が、たちまち嫉妬に燃えあがる。侍は呟くように、

「何にせよ、あの人じんには、他にも深い事情わけがらのある女がござってのう……」

胸に手を入れて案じ顔。

「なるほど、この人混みの中で、立話しのできないのはご尤も、どこへでも参りましょう」

お延は弾んだ声で云った。

「や、では暫時来て下さるか」

「おやすいこと」

「それは忝けない。どこぞ静かな所でさえあれば……」

と侍は人中を縫って、雉子町の横を抜け、紅梅河岸の太田媛ひめ神社の中へ入った。

寂寞せきばくとした、拝殿の階段きざはしに腰かけたが、覆面の侍は、いつまでたっても、黙然として、唯じっとお延を睨みつけているような態さま。

「急ぎの用を控えているんですから、早く、その……新九郎さんと深い訳のある女とやらの仔細を聞かせて下さいな」

お延は、少し気味悪くもあり、また気も急せいているので、焦じれッたそうに口を切った。

「その新九郎に深い訳のある女というのは……」

侍は重々しく言葉を濁す。

「ええ、一体その女というのは?」

「その女はな……」

「どこにいる――どんな女でございますかえ?」

「実は、かく申す某それがしだ」

「な、な、何ですッて?」

「お延! ようもようもそちは、妾わらわの男を取りやッたな」

「あ――あれッ」

くわッと睨まれた眼のおそろしさに、思わず声を揚げて、バタバタと逃げ出したお延――その後ろへ、豹の如く躍りかかッた覆面の侍は、姿の優しさに似ず、おそろしい手技で、お延を捻じ伏せ、両手を縛からめあげた上、ギリギリと顔へ猿轡さるぐつわを巻いて、境内の大樹の幹へ縛りつけてしまった。

「こりゃお延! 妾の思いは、後で存分知らしてくりょう程に、しばらくそこで、この先そちが苛さいなまれる、苦患くげんの闇をみつめておるがよい」

憎念の語気するどく云い捨てるが早いか、真白い手に、刀の鯉口を握りしめて、彼の姿は魔か風かのように、そこを走り去ってしまう。

と――その頃から、瞋恚しんいの人の胸にも似る乱れ雲は、まだ春寒い如法闇夜へ、ポツリ、ポツリと、冷たい雨をこぼしてきた。

荒すさみゆく御曹子おんぞうしの悩なやみ

一

半開きの傘に首を入れて、白い素跣足すはだし、尻からげ、小雨に暗い柳原土手を、一散走りに飛んできた一人の侍。

――と、すぐまた、つづいて来た二人の男がある。

先の侍の後から、一枚の蓆むしろを頭に引っ張り合って、これも韋駄天いだてん、銀杏いちょう稲荷の鳥居の中へ、濡れ燕のように駈け込んだ。

「おお冷てえ、どうやら、酒も醒めそうだ」

「おまけに、ここへ着いたら小降りだぜ、いやに依怙地えこじにできてやがる」

脱とった蓆を抛りだして、空を仰いだ二人は、今し方まで、風呂屋町の扇屋にいた、こんがら重兵衛にせいたかの藤兵衛。

一足お先に、傘をつぼめて、狐格子の前に腰を据えていた侍は、ちょっと、綺麗な定九郎とも見立てられる身拵え、二本差の浪人伝法には、ちと優し過ぎて、凄味を殺す片靨かたえくぼを見せながら、

「春さきだけに、浮気の雨というやつだろう。まだ笊組ざるぐみの奴等が通ったらしい様子もねえからゆっくり一息入れるとしよう」

答えるまでもなく呟いた声。

それは、こんがらにせいたかが、生不動の仕返しに、力と頼む御曹子の兄哥あにき――即ち春日新九郎であった。

「おお、ところで、今のうちに……」

と新九郎は、思い出したように、一封の金を出してそれへ置く。

「久八の首を掻っ切ったら、お前たちは、また当分の間、江戸から足を抜いていた方が身の為だ、すぐ高飛びしてしまいねえ。これは拙者の餞別はなむけ。路銀の足しに納めておいてくれ」

「冗戯じょうだん言っちゃいけません」二人は意外な顔をして、

「生不動親分の無念ばらしさえすれば、奉行所へ曳かれようが、嬲なぶり殺しになろうが、思い残りのねえ二人です。助太刀をして貰った兄哥を残して、何で、高飛びなんかが出来るものですか」

「馬鹿を申せ、命の取り代えも対手あいてによりけり、久八なぞの安首に剰つりを取られてたまるものか。後の始末は、菖蒲の寮の御方に、どうにでもして貰うから、拙者のことは心配せずに、どこへでも立ち退きねえ、時節が来れば、またどこかで廻り会わねえものでもない」

「兄哥、このご恩は忘れません……」

「べらぼうな、男同士の間には、恩の貸し借りはねえ筈だ。早く胴巻へ金を捻じ込んでおくがいい。あ――来たらしいぞ!」

「え?」

と、二人も慌てて、狐格子の前に立ち、背伸びをして、真っ暗な彼方あなたを眺めると、また降りこぼれて来た雨の中を、五ツの傘が連れ立って来る影と、ぽっちり見えた朱あか文字の小提灯。

まさしくそれは、風呂屋町を出て来た笊組ざるぐみの臂ひじの久八きゅうはち、荒神十左こうじんじゅうざ、投げ槍の小六ころく、大月玄蕃おおつきげんばなどの輩ともがら。ここに刀の目釘を湿して待つ者ありとも知らずに、いずれも、大酔の足どり危うげに近づいてくる様子。

お延と新九郎との約束は、鳥居の前までさしかかって来た時、お延が、わざと小提灯を消し落す――途端に、こっちから斬って出る手筈である。

が、そのお延は、新九郎と諜しめし合せて帰る途中で、覆面いでたちの御方に攫さらわれてしまったのでこの一行には交じってない筈。――新九郎は夢にもそれを知らなかった。

二

ぱらぱら、ぱらぱら、ぱらぱら……

傘に弾はじける雨の音。

「大月先生、見附まで行けば、駕がありましょうから、それまでご辛抱なすっておくんなさい」

声が高いので、あきらかに、それは臂の久八と知れた。答えた声は大月玄蕃である。風呂屋の名入りの傘を持ち、高足駄を蹌踉そうろうと踏んで、

「いや、こんな晩に駕は野暮じゃ、小六殿、いつ通っても神田川は気持がいいのう」

「殊に、この酒の気のある顔へ、ぷッと吹っかける雨の味が堪りませぬわい」

「それはそうと、お延さんは一体どうしたのでしょう」

と提灯を持って、先に歩いていた乾分の者が、投げ槍の顔をふり顧ると、小六はべッと唾つばを吐いてさも苦々しそう。

「あいつはこの間から、少し様子が変っている、今度姿を見せやがったら、片輪になるほど打ちのめしてくれなきゃならぬ」

「と言う口が、いつもお延さんの姿を見ると、がらりと、打って変ってしまうのだから怖ろしい」

久八がまぜ返すと、あとの四人が、憚はばかりもない高声でどッと笑った。そして、銀杏稲荷の鳥居の前を過ぎかけた――

機会は目前に過ぎて行く。新九郎はお延の合図を心待ちにしていたが、その様子がないので、後ろにいるせいたかとこんがらへ、

「こうなりゃ五分と五分だ。男らしく名乗りかけろ」

と、駈け合図を言い捨てるが早いか、自分から真っ先に、ばらばらと躍り出して、

「待て、笊組の一門どもしばらく待て」

大刀、閂かんぬきに構えて、精いっぱい呼び止めた。

「何だと」

恟ッとしたらしい声で、五つの傘がくるりとこっちへ振り顧った時、続いて、ぬっくと姿を突き出したこんがらとせいたかが、

「やい、臂の久八、荒神の十左、その他の駄武士ださんぴんもよっく聞け。よくも汝等うぬらは、生不動を欺だまし討うちにして縄張を奪とりゃあがったな。因果応報、親分供養の無念ばらしに、今夜こそ片ッ端から、てめえたちの素ッ首を、土手の泥濘ぬかるみへたたき落してくれるから覚悟をしやがれ」

「わはははは、馬鹿野郎め」

臂の久八は、つぼめた傘を片手に持ち代えて、

「誰かと思や、汝等わいらは生不動の乾分共だな。意気地のねえ親分を持ちやがって、その見すぼらしい態も気の毒だが、古風なことを吐かしやがると、神田川のどん底を舐なめさせるぞ」

「えい、世囈言よまいごとは冥途で称となえろ」

「野郎、お町奉行の十手預り臂の久八に指でも差しやがると、その分には置かねえぞ」

「押問答無用おしもんどうむよう、こんがらもせいたかも何を愚図愚図しているんだ、こっちは拙者が引き請うけたから、その野郎を血祭りに上げてしまえ」

新九郎が励ます声に、おおと、弾はじかれて大刀だんびらを引き抜いた二人、ぱッと足許から泥水を刎はねて、

「久八、後ろを見せるな!」

と、ばかり斬りつける。

「洒落っくせえッ」

二本の脇差を叩き払って、スポーンと投げつけたから傘が、血の雨を呼ぶ修羅の合図。

「それ、親分を討たすな」

すばやく、横に廻って、突け身の白刃を鉄壁と持つ荒神の十左。槍こそなけれ、三尺余寸の大刀を抜けば、腕に筋金が入ると誇る投げ槍の小六、三方づつみに押っ取り囲んで、今にもこんがらとせいたかを膾斬なますぎりにするかの勢い。

と、また一方では、かねての底意。ついとそこを離れた春日新九郎が、大月玄蕃の影をおって、寄るなと見る間にとんと胸元を突き返した。

「玄蕃、てめえと拙者と一騎打だ!」

ぐいと、鯉口の腕をひねって詰め寄ると、

「や、汝は春日新九郎だな」

さすがの大月玄蕃も、はっとしたらしいが、すぐ、見くびり抜いた嘲笑を声に交ぜて言い放った。

「音無瀬川のくたばり損ないめが、江戸三界までうろつき廻って、生不動の冷飯食いになっているとはかねがね噂に聞いていたが、ここで会ったが百年目じゃ、望みに任せて大月玄蕃が一刀流の太刀風を食らわしてやろう」

「やかましい! 駄武士ださんぴんめ」

昔に変る伝法口調。――あの前髪振袖の柔弱者が、どうしてこんな荒っぽい剣侠肌な人間に変ったろう――と玄蕃もこれには度胆どぎもを抜かれた。新九郎はまた、昔怖れた玄蕃を、今は眼下に見て、びくともしない。

「ここで会ったが百年目とはこちらから申す言葉だ。音無瀬川ではあの恥辱を、また恋の成らぬ意恨を含んで、正木作左衛門を闇討ちにした極悪人、千浪に代って、この新九郎が今宵の助太刀ついでにその首貰った」

「身のほど知らずの広言、見事参るか!」

「往生際に、生れ変わった新九郎の腕前を見知っておけ!」

「猪口才ちょこざいなッ」

と、玄蕃が大刀を抜きかけた瞬間には、もう、真眉間まみけん狙って、ぴゅッと飛んできた新九郎の居合の切きッ尖さき、雨の粒さえ割るかと見える来国俊に風が立つ。

「あっ」

余りに彼を侮って、抜きおくれた大月玄蕃は、鞘の走りも間に合わず、危うく、太刀先三寸の下をかわして、そのまま入身の横払い。

「えい!」

胴に入れば必ずや殺す、怖ろしい継身つぎみの太刀。

「何を」

と踏み開いて、横に描いた閃光の過ぎるや否、再び斬りつけ、斬りつけ、玄蕃の急く息を刻み込んだ新九郎の太刀、それはいよいよ小野派一刀流の鍛えに、自然の磨きと感得を加え、更に彼の天稟てんぴんの冴えに研ぎ澄まされた名剣手、破門当時からくらべれば倫りんを絶した上達である。が、大月玄蕃、また正伝一刀流の達者、殊には老妙、いかに今の新九郎でも、そう、無下むげにはこれを斬って伏せることも難かしそうに見えた。

その時、眼を移して七、八間離れたところを見ると、今しもこんがらとせいたかが、臂の久八、荒神十左、投げ槍の小六達に、三面を囲まれて、どうやら返り討になりそうな苦戦、こんがらもせいたかも刻々、掠り傷の痕あとを増して、炎を立てているような朱身あけみとなった。

提灯持ちの乾分は、事急と見て、逸早く、この場を逃げ出して、氷川下の深見重左へ変を告げに飛んで行ったらしい。

「わッ」

不意にそこから流れた絶叫。

捨身になったせいたかが手際よく、右側の荒神十左の片腕を斬ったのだった。――が、彼が荒神を斬った途端に、追いかぶさった投げ槍小六、重ね打ちに、三尺余りの大刀をふり下ろして、せいたかの肩から背すじにかけて、後ろ袈裟にばさりと斬り据えた。

「うーむ」

と虚空へ脇差わきざしを揮ふりかざしたまま、無残、せいたかは五体を弓のように折ってぶっ斃たおれる。

残るはこんがら一人と三人、どう贔屓目ひいきめに見ても、早く、新九郎が玄蕃を片づけて、助勢に加わらぬ限りはこの勝負、到底こんがらに勝ち目はない。

折から、細かい宵の雨は、また霧のように霽れ上がって、柳の森の濡れた上へ、ぼんやり浮いた月の暈かさ――その光りに、土手の道も仄白ほのじろく見えだした二、三町先から、ここへ指してまッしぐらに駈けつけてくる黒い影。

瞬くうちに、つい、そこまで近づいて来た者を見れば、さっき、紅梅河岸の闇へ、お延を攫さらって行った男装の美女。それは、紛まぎれもなく怖ろしい瞋恚しんいにもえて、身を夜烏の黒覆面に包みなした、菖蒲の寮の御方ではないか。

三

たとえば一羽の岩燕が、淵ふちの小魚を狙い下りたように、剣と剣の渦の中へ、身をひるがえした御方の手には、いつの間にやら、玉ほとばしる尺四、五寸の細身の太刀が抜かれている。

寄るにも音なく、打つにも声なく、いきなり、投げ槍小六の横鬢へさッと一太刀、返す勢いは矢よりも迅く、片腕失った荒神十左の腰車を払って、体は浮船、刃やいばは飛電、水もたまらず捨て斬りに摚どうと放した。

「ぷウッ……」

と唇へ流れ込んだ血を吹いて、不意の助太刀をくわッと睨んだ小六が、追い討ちの大刀だんびらをふりかぶって飛びついたが、御方はそれに眼もくれず、今度は、こんがらの真正面の敵臂ひじの久八へ斬りつけて、戞然かつぜんとたッた一合、見る間に、相手の鍔つばを割って、ばらッと柄手の指を斬り落す。

それに力を得て、こんがらの太刀は俄かに鋭くなったが、久八と小六は、不意を衝かれた上に、各〻薄傷うすでをうけ、しどろもどろの浮足となる。――と見る間に、御方はたちまちツイとそこを離れて今や、鍔競つばぜりの食い合いとなって勝負果てしなく見えた大月玄蕃と新九郎の傍へ衝つき進み、寄るが早いか、やッと、密やかな含み気合。

真白い腕から、火の輪のような一閃が、玄蕃の横へひゅっと飛ぶ。

「あッ」

と、不意の強敵に、おどろいた大月玄蕃。

新九郎と食い合った鍔がっきり、身を捻じかわそうとしたが刹那、鵜うの毛のゆるみを生じて、たたたたたたと岩押しに押してきた対手あいての剛剣。堪らず、無理に引っぱずして、ツイと抜ける。抜けたところへ息もつかせず御方の二の太刀がさっと閃めいた。受ける間には、後ろから新九郎の浴びせが来る。ここ、さすがの玄蕃も、進退極まって、ばらばらッと四、五間駈け出し、再び構え取りを改めて見たが、ひとたび、逃げ足立った心の破れ、またたちまち斬り立てられて、今度こそ、本気になって逃げ出した。

「卑怯な奴、待て待て!」

と罵りながら、新九郎は、どこまでもという血相で、玄蕃の後をおいかけて行く。

と、御方は、またくるりと踵きびすを返して、投げ槍の小六を手初めの一刀両断に斃たおし、続いて臂の久八へ向って来たので、こんがら重兵衛は、ここぞと勇気百倍、一念力をふるって、久八の真っ向から、唐竹割に拝み落した。

「わッ」

と、断末の血煙りが、濛もうとして霧のように立つ、そしてしばらくは血腥ちなまぐさい風が、柳の樹かげに漂ってあたりを去らぬばかり。ほっと息を入れて、初めてそのところの黒い影を見た重兵衛。

「どなたさまか存じませぬが、思いがけないお助太刀、有難うございました」

と血刀置いて額ぬかずいた。御方は、ただ軽く頷いて見せたが、調子を変えた作り声で、

「ご丁寧な礼には及ばぬこと、仕返しの意気地、天晴れなお志と見て助太刀いたした。少しも早く、その者の首を切って、生不動の親分とやらに手向けておやりなされ」

「や、どうしてそれをご存じでございますか」

御方は、つと、覆面の顔を反そ向けて、

「とにかく、ここは急いで立ち去るが御身の為じゃ、くどいことは訊いて下さるな」

こんがらはそれに取りつく言葉もなく、久八の首を切って片袖につつみ、兄弟分せいたかの遺物かたみの髻もとどりを懐ふところに入れ、前もって、新九郎に言い渡されている言葉通り、夜に紛れて、江戸から高飛びしてしまった。

四

昨日今日、忍しのぶヶ岡おかの花の雲は、八百八町どこからも、薄紅色の衣をたなびかせた天女のように見えはじめて、遠くの富士と一対いっついの美景になった。

鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春。――その大江戸の花はここ三日と、出るわ、出るわ。町方の女房娘、若衆芸妓の花見小袖、目かつらの道化、渋い若旦那、十徳の老人、武家は編笠、町奴は落し差し、猫も杓子しゃくしも、ぞろぞろと東叡山とうえいざん上野の丘へ登って行く。

寛永初年、将軍家の開基以来、江都随一の花見場所となったこの山は、小唄浄瑠璃じょうるり仕舞しまいなどもお構いなし、山内、花時に限って、無礼講、武家も町人も女も男も、毛氈もうせん花むしろの上には階級なく、清水堂のほとり、寒松院の並木、吉祥閣の下、慈眼堂の前、いたる所、花ある所、さんざめく小袖幕のかからぬ所はない有様。

「旦那、旦那、何しろこの雑沓で、えらく混み合いますから、もし、ご無礼があっちゃいけません。お寝みになるなら、すみませんが奥へ入っておくんなさい、もし、旦那……」

屏風坂びょうぶざかの下り口、慈眼大師の石垣へ、葭簀よしずを掛けた一軒の茶店で袖無しを着た茶店の親爺が、山では珍らしくない、酔よいどれ武士の鼾いびきを揺り起している。

「旦那、私の方の都合ばかりでなく、この店先じゃ、騒々しいことも堪りません、どうぞ、ちょっとお眼をお醒ましなすって……」

「うるさい」

亭主の手を突っぱねて、寝返り打った途端に、がたりと、縁台が倒れかかったが、酔どれの侍は、それに抱きついて、前後不覚、下界の花をよそに、魂を夢睡むすいの国に遊ばせている。

「困ったなあ、二本差だけに、うっかり起すこともできない」

亭主は、しかたなく、その寝相を眺め入ってしまった。

「よほど飲んだとみえますね」

と居合せた二、三人の客が同情した顔で云う。

「何しろ、私の店だけでも、一升二、三合は飲やりましたからね、たまりませんよ」

「この蒲柳きゃしゃな体で一升からとは驚きましたね、どうです、正体なく寝ているけれど、浪人者には勿体ないような美いい男じゃありませんか」

「なあるほど――」

それに気がついた時、誰の眼も、しばらく侍の寝顔の美に衝たれてしまった。

すると、俄かに店の前を行く人足が早くなって、わらわら、同じ方角へ駈け出してゆきながら、

「喧嘩だ、喧嘩だ」

「斬り合いだ、果し合いだ――」

と物々しい触れ散らし、茶店にいた客たちも、その騒ぎに釣出されて、人浪の赴くまま、一散に駈け出して行ってみると、ちょうど、寒松院ヶ原にある枝垂しだれ桜ざくらの下で二重三重の人の垣、事件はそこで起っているものらしい。

「黙れッ、片輪なら何故片輪のように、人出のない所を歩いておらん」

「武士たる者に突き当ったのみか、あまつさえ不敵な口答え」

「それへ直れ、新刀あらみ試しに致してくれる」

と、猛り立った連つらね文句もんく、いずれも、鐺こじり大地へつく程な長刀ながものを差し、肩肱かたひじいからしている七、八人連れは、山手組の武家侠客、深見重左の身内であろうと、周まわりの見物が囁いていた。

その足もとに蹲うずくまって、大地に天蓋を摺りつけて詫びているのは、鼠木綿の見すぼらしい虚無僧で、一人は、片輪と罵られている通り、脚絆の足を不自由そうに曲げ、連れの一人は、顔は見えぬが円肩まるがたの優しい物ごし。

さっきから、土足をうけても、唾つばをかけられても、どこまでも下手に出て、

「ご立腹はさることでござりますが、何せよ、ご覧の通り、取るに足らぬ虚無僧風情、それに、お武家の胸先に突き当ったのも、全く、足の不自由なため、人に押されて蹌よろけたのでござります」

「どうぞ、この通り、お詫びは幾重にも致しまする程に、おゆるしなされて下さりませ」

若い方の虚無僧も、優しい声音で両手をつく。

「や、此奴」

と、乱暴にも、いきなり前へ進んだ一人の武士が、天蓋のふちをむずと掴んだ。

「こいつ、女でござりますぞ」

「何、女? そりゃ珍しい」

「比丘尼びくにや女順礼は多いが、女の虚無僧は風変りで、酒の酌には一興じゃ」

「やい片輪、貴様の女房か娘か知らぬが、罪の償つぐないにこの女虚無僧をしばらく貸せ」

「さ、来い」

「来なければ偽にせ虚無僧として、寺社奉行の手に引き渡すぞ」

と、何を拒こばむ隙も与えず、若い虚無僧の手を取って、理不尽に引っ立てようとする様子。連れの一人は驚いて、

「あ、しばらく」

と、不自由な足を、杖に縋すがって起こしかけると、一人の武士が、

「邪魔するな」

はッたと睨んで、虚無僧の杖をグイと引いた。と、引いた途端に、杖は鞘のように、スルリと抜けて、虚無僧の手には、冷々れいれいたる隠し刀の抜身が残った。

「あッ」

驚いて跳び退こうとしたがもう遅い。

堪忍袋の緒を切って、きっと、唇を噛んだ虚無僧は、飛鳥の如く躍りかかって、その一人をまッ二つに斬り据えた。

「や、この命知らずめ」

たちまち、乱離らんりの白刃に、わッと揚がる動揺どよみ声ごえ、不具の虚無僧と女虚無僧は、背中合せに、互の身を庇かばい合いながら、七、八人の荒くれ武士を向うに廻して、きっと構えをつけ澄ます。

落花紛々、その下にも、今にも散らされそうな二つの命――

「ああひどい目に会った」

「あんな所へ寄り集たかって盲滅法の飛ばッちりでも食った日にゃ、いい面の皮だ」

ほうほうの態で、大師堂の茶屋へ帰って来たさっきの客は、ちょっとのぞいて来た虚無僧と侍の斬り合いを亭主に話して聞かせたが、その話がまた、輪に輪がかかっていかにも物々しい。

「へえ、じゃ何ですか、対手は山手組の侍八、九人で、こっちは女の虚無僧に足の悪い連れですって、おやおや、それじゃとても助かりっこはないでしょう」

「もう今頃は、枝垂れ桜の肥こやしになって、桜の根方に斬り殺されているだろうさ」

「やれやれ、虚無僧だけに何となく罪っぽいのう……」

と、不意に、むくり蝮まむしのように首をもたげた縁台の浪人が、凄い眼で、亭主の顔を睨みつけた。

「お目ざめなさいましたか、お冷ひやでも差上げましょうか」

と、亭主も、ちょっと気味が悪かった。

「ああ、夢ではなかったか……」

起き直って腰かけた浪人は、一同を見て、

「町人、今其方たちは虚無僧と言ったな」

「へい、申しました」

「一人は女の虚無僧、一人は足なえの虚無僧、それが、山手組の悪侍に斬り囲まれていると言ったのは真まことか、拙者は、夢のように聞いていたが、本当であったのか」

「まったく、それに相違ありません」

「そうか!」

不意に鯉口を掴んで、縁台を離れた浪人の眼は、怪しいかがやきを帯びて爛々らんらんと赤く血走った。

「亭主、早く一杯注つげ」

気を呑まれて、うろうろした亭主が五郎八茶碗に注いで出すと、べッと吐いて、

「水ではない、酒だ、酒だ」

注ぎ代える間に下緒さげおを取って、手早く、襷たすきとした浪人は、てんてこ舞いして亭主が出した酒を、ガブ、ガブ、ガブ……と一息に呑み干した。そして最後の一口を、刀の柄糸へ、フーッと酒の霧を吹っかけて、

「亭主、茶代は後でくれるぞ」

と言い捨てるが早いか、あれよと見る間に、花吹雪の霏々ひひと乱れる中を衝いて、寒松院ヶ原へ足を宙にして駈けつけた。

五

今しも八面鉄刀に囲まれて、去のくも退ひくも出来ない危地に墜ちた二人の虚無僧は、居竦いすくみのまま、八、九本の切ッ先に五体蜂の巣とされるであろうと思われた。

そこへ、韋駄天いだてんの足音、同時にただ何ということなしに、ワーッと遠巻きの見物が、鬨ときの声こえを揚げる。

「ええいッ」

ものの見事、駈けつけざまに、一人の武士を斬り伏せた浪人の腕の冴え。

「や、何者だ」

ガチャガチャと乱れ立った山手組の武士を、虫けらのように見下して、ほんのり、眼元を桜色に染めた浪人は、姿に似気ない大音を張りあげて、

「拙者は誰でもねえ、親分なし乾分なしの一本立ち、御曹子の新九郎だ。この虚無僧には、少し縁引のある某それがし、義に依って助太刀するから、束になってかかって来い」

「や、御曹子の新九郎だとッ」

「その男なら、こっちから尋ねていたところ、事ついでに素ッ首を刎はねてやるから覚悟をしろ」

「何を」

と、雄叫びを揚げるや否、右に大剣、左に小剣、バラバラと斬って廻った。その迅業はやわざに、たちまち、右に二人、左に一人、朱を流して打ぶっ仆れた様を見て、かなわぬと見たか、残る四、五人の山手組は、思い思いに八方へ逃げ散った。

「ちぇッ、口ほどにもねえ奴らだ」

来国俊の血糊ちのりを拭って、そのまま、行き過ぎようとすると、ばらばらと追いすがった二人の虚無僧が、左右の袖を掴んで、

「もしや其方そちは新九郎ではないか」

「新九郎様、おお、新九郎様に相違ござりません」

「珍しや新九郎、かく言う拙者は兄の重蔵、これにおるのは千浪であるぞ、そちは、嵐の夜に、隅田川から行方知れずになったと聞いたが、よう無事でいてくれたのう」

咄嗟のことであったので、二人は、夢かとばかり、声さえ、ともすると涙まじりになる。

「な、なにを言うんでえ!」

案に相違して、突つっ慳貪けんどんに、両袖を払った新九郎は顔を上に反向そむけて、わざと、言葉まで常より荒い伝法づかい。

「なるほど拙者あ、新九郎という者にゃ違えねえが、お前たちを見るのは今が初めて、江戸生れの武家侠客で、名さえ、御曹子の新九郎という者だ。人違いをしねえがいい」

「え、では同名異人でござったか……」

「いえいえ、姿も言葉も、まったく昔とは変っておいで遊ばすが、たしかに春日新九郎さまでござります。それを見違えるような千浪ではござりませぬ……それを、それを……知らぬとは何という情つれないお言葉……」

「ああ、見っともねえ、人が助けてやりゃつけ上がって、人中で泣かれちゃ堪らねえ、何と言おうが、拙者あ春日新九郎なんて、そんな優しおらしい人間じゃあない。もう、女と酒に身を持ちくずして、大望も遂げ損なえば、兄者人あにじゃひとや思う人にも、顔を合せられねえ堕だ地獄の人間だ、さ、離してくれ、後生だから離してくれ」

声はあやしく顫おののいたが、涙の顔は決して見せない。

「ま、どうしたことを仰っしゃります。新九郎様、私はどうでも……お兄上様の前で、そ、そんなことを仰っしゃられたものではござりますまい」

「ええうるせい、離せったら!」

「あッ――」

と、突き飛ばされた千浪と重蔵が、再び、起き直って見た時は、ほとんど、気狂いの走るように姿を消して行った新九郎の影がもう遥かになっていた。

その姿を、しばらくじっと見送っていた千浪は、とうとう涙の堰せきを切って、わッとそれへ泣き伏してしまった。

何と重蔵が宥なだめても賺すかしても、千浪の涙は止まらなかった。果ては、顔へ袖を当てたまま、二月堂の後ろへ駈け込んで、そこで、思うさま、泣いて泣いて泣きぬいた。

重蔵も腕をくんで、泣くまで泣かせておいてやろうと思った。それがせめてもの情けである。いい加減な慰めがこの年月の彼女の艱難にだけでも、露ほどの、宥いたわりになりはしない――と思うのだった。

それにしても、今のが新九郎であるとすれば、僅か四、五年の間に何という恐ろしい性格の変りようであろう。あの腕の冴えを持ちながら、いまだに鐘巻自斎を打ち込んだという噂も聞かず、殊に、賤しい言葉づかいや、身ごなしの荒々しさ、そして、女の、酒のと、忌いまわしい謎めいたことさえ言っていた。

いつか、山は眠りに入るように森としてきた。寛永寺の森に、夕鴉ゆうがらすの寒い羽ばたきが聞える。あたりの桜も、淡墨色に暮れて来た。千浪は、泣き死んだように、花びらの中に顔を埋めている……もう動きもせずに泣いているか――と重蔵は腸はらわたを掻き挘むしられるような思いがした。

「そこにいるのは、さっきの虚無僧さんかえ」

ぽっかり提灯ちょうちんの明りが、鼻のさきへ現れた。

「はい、虚無僧の者でござります」

「私は、この先の、大師下の茶屋の者だが、先ほど、お前さん方に助太刀した御曹子の親分が、これを後で渡してくれと言って、置いて行きなすった」

と、懐ふところから一通の手紙を出して重蔵に渡した。

「有難う存じます。恐れいりますが、事のついでに、その灯りをお見せ下さいませぬか」

「おやすいこと……」

と、茶屋の亭主が、提灯をそれへ置くと、千浪も泣なき腫はれた顔を上げて、重蔵と共に、繰りひろげられる手紙の文字に息をのんだ。

女地獄おんなじごく燃もゆる大川おおかわ

一

新九郎の置手紙を、茶店の亭主から受けとった重蔵は、すこし顫おののきながら、その封を切った、――封をきると共に、うす墨の文字を流した巻紙が、夜風にばらばらと四、五尺膝から吹かれてゆく。

千浪は、慌てて、提灯の明りへ袖屏風そでびょうぶをかざした。上の梢から、雪くずれのように落花が散る、それがやむと、明りの揺らめきも真っすぐになって、乱酔の走り書を読み下してゆく重蔵の声が低くつづいた。

………………

こう認したたむるも、恥かしの限りに候えど、所詮しょせん、お目止まり候上はと、不面目をしのび、あいそづかしの懺悔ざんげ一筆告げ参らせ候

先刻、計らざるご対面、あと定めし、ご立腹と存じ候えど、浅ましの新九郎が境界、どの面つら下げてお名乗り申すべくもなく、悩乱狼狽の後ろ姿、憫あわれ笑止しょうしともお見のがし下されたく候

よくよくの生来にや、私めあれほどまでの立志堅固もいつか破れ、かく堕落し果てたる身の姿、吾ながら男甲斐なきを嘆じ候も、今はなかなか鐘巻自斎を打ち破ること、日輪をのぞむが如き大望と知り、なくては過ごせぬ酒浸さけびたりのまま、その儀はふッつり断念仕り候

結句、堕落の腐肉を町奴道に捨てて、泥土に踏まるる花ともなれ、その日その日を遊侠のしたい三昧ざんまい、身に勝ちすぎた非望に苦艱いたすより、気儘気随きままきずいの世渡りこそ、太く短かく面白しと浮世を悟り候てより、流るる歳月を知らず、自棄酒やけざけの味も忘れかねつつ、ついに今日、変り果てし醜骸しゅうがいをお目にふれ候こと、寔まことに天の冥罰みょうばつ、そら怖ろしと酔心を冷ひやし候といえども、乞食三日の譬たとえの如く、到底今となっては真人間に成り難き新九郎にござ候。あわれ外道とも思おぼせ、腰抜けとも思せ、犬畜生ともお蔑さげすみ下されたく候

さりながら、大月玄蕃だけは、かならず私の腕にて刺止しとめ申す自信これ有り候ゆえ、お身ご不自由なる兄上様は郷里月巣庵にてご安養のほどひたすらねがい上げ奉り候

また千浪殿も、拙者ごとき者は、世に亡き者と思い諦められ、ご帰国の上、他家へのご縁をお求めなさるべく、この二つだけは、外道げどうの奈落ならくより新九郎が本心の合掌、卑怯ながら涙願熱望つかまつり候

新九郎

御兄上

千浪どの

二伸、今生こんじょうの拝顔も怖らくは今日を限りと覚え候、お情けには、武士を捨てたる野良犬の後をお尋ね下さるまじく、さらばご息災を蔭に祈りて、無恥の酔言を書き捨てて茶屋よりこのまま消え去り申すべく候

………………

読み終った時、春日重蔵の顔色はまッ蒼。

吾にもあらぬ憤怒ふんぬの眦まなじり、ビリビリッと寸裂した手紙を、蛇のように足に絡からめたまま二、三間よろめき出した。

「あ、もし――」

千浪は自分の泪なみだを忘れて、ぴったり、その胸へ抱だき縋すがった。

「ど、どこへおいでなさるのでござります。もし重蔵様、どうなされたのでござります……」

「ちちッ……」

重蔵は身を顫ふるわせ、血の出るほど、糸切歯で唇を噛みしめたまま、

「し、知れたこと、新九郎の後追いかけて、彼奴きゃつの迷夢を覚さましてくれる。醒めぬものなら、兄が情けで一刀両断」

「ま、待って……お気を鎮めて下さいませ」

「えい、お離しなさい、千浪殿そこ離して」

「ご不自由なお体して、何でそれがなりましょう、しばらく、もうしばらく新九郎様のご様子を見て上げて下さいまし」

「ああ! 拙者は、ただそなたが不憫ふびん、そなたが気の毒――それだけだ、それだけじゃ、唯それだけにこの腸はらわたを掻きむしられる……」

「…………」

「申すに事をかいて、大望は捨てたの、浮世は悟りすましたのと、兄を兄とも思わぬ不敵な奴、ああ腹が立つ……やわか、大月玄蕃を討つに、新九郎のごとき腰抜けの手を借ろうぞ、ええ、この足が、この片足さえ満足であったら、千浪殿にもこうまでうき目を見せまいものを」

「もう、もう何も仰っしゃって下さりますな」

「おお……そなたはどこまで因果者であろう、弟のような者に、縁を結んだばかりに、四年越しのこの艱難かんなん、その実も結ばず花も咲かず、鼠木綿の襟垢えりあかに、女子おなごの妙齢としごろをこの流転……、千浪殿、千浪どの、弟に代って重蔵が、こ、この通りお詫びいたしますぞ」

「滅相もない、何もかも運命でござります、そのうちには新九郎様とても、きっとお眼が醒めましょうに」

「――と、思いたいは骨肉の情でもあるが、あの態では、再び真面目な武士に立ちかえれも致すまい……」

と言いかけて、重蔵は俄かに足の関節を押さえながら、歯を食いしばって、

「あ痛つ、あつつつつ……」

「お! 余りご無理を遊ばしたので、またお足が痛んで参りましたか、ちょっとお待ちなされませ、今すぐ薬を塗りかえて差しあげまする」

千浪が彼の繃帯を直している間に、さっき二人に提灯を貸して、その間しばらく、どこかへ行っていた茶店の亭主が戻ってきた。

薄々、今の様子を見ていたか、茶店の亭主は親切に力づけて、二人を下谷地蔵長屋の自分の家へ連れてきた。

そして、思いがけなく、二人はそこに幾日かの雨露を凌しのがして貰った。

二

赤坂土橋のお濠から、虎の門まで、溜池ためいけ通りは、その頃、夏月遊賞の名所で、多くの蓮を植え、近江鮒おうみぶながピンピン波紋を描いていた。

片側は榎並木えのきなみき、ところどころに一膳飯屋、牛の草鞋わらじをぶら下げた家などがあり、人通りもごく稀なので、今しも、蹌々踉々そうそうろうろうと、千鳥足を運んでゆく一人の浪人にも、誰あって、鞘当さやあてをする心配がない。

ところが――心配がないどころか、白昼とはいえ人通りの稀なのを幸いに、榎の木から榎の木の蔭へ姿を隠しながら、酔歩の浪人を尾つけ狙って行く侍が七、八名。知ってか知らずか、人なき大道を、一歩は高く一歩は低く小声誦ずさみのそそり節でゆく者は春日新九郎であった。

また、彼を尾けている侍どもは、氷川下の深見一ひとまきで、上野以来の恨みと、笊組の怨敵、氷川の縄張り近く、白昼大手をふって通る彼の姿を、何とて見のがす筈がない。

早くも、先へ廻った一人が、ばらばらと駈けて来て喧嘩の押売り、どんと突き当ると、新九郎が風を通してヒョイとかわす。

「あっ」

と、身を泳がせながら、侍の腕が新九郎の鐺こじりをぐいと掴んだ。酔っているのですぐ足が浮く、新九郎は蹌々よろよろと後ろへ引かれた。

「しめたッ」

と、また一人が飛び出して喉輪へグッと閂かんぬきを入れる、と思うと、見る間に八方からばらばら押しかぶさった人数、真っ黒に揉み合った。

大酔していると見て生け捕る算段。

「御曹子、神妙にしろ」

「じたばた致すな、貴様を尾つけまわしていた山手組だ」

「こうなれば、袋の鼠、素直に往生してしまえ」

各〻、手捕り足取り、ある者は刀の下緒を解いて口に扱しごき、あるものは髻たぶさを掴んで押さえつけた。

「卑怯な奴めら……」

新九郎は大地に倒されながら叫んだが、その姿も見えない程、多勢の体に乗のしかかられていた。

「卑怯なとは汝のことだ。臂ひじの久八きゅうはちその他の身内を騙だまし討うちにした覚えがあろう。のみならず、生不動の冷飯食いの分際で、近ごろ侠客風を吹かすばかりか、先日は忍しのぶヶ岡おかで、この山手組へ生意気な腕立て」

「罰当りめ、覚えていたか」

「今日こそ深見の屋敷へ引っ立てて、思う存分目にもの見せてくれるのだ」

「ええ、何を汝うぬらに……」

「この野郎、半殺しにして引っかついでしまえ」

「ちっッ!」

仰向けざまの新九郎が、寝ながら不意に抜き払った居合の妙。

「あっ!」

と、油断の面つらを切ッ尖に撫でられたのがたしかに二、三人、顋あごを押さえてパッと飛び開いた。――開くと一緒に剣と共に刎ね起きた新九郎は、肩にからんで離さぬ奴を峰越しに前へ落して、弾はずみを食らわした一刀両断、頸から乳へ斬り下げた。

「さっ来い! 御曹子の新九郎は生きているぞ、酔っちゃいるがこの初鰹はつがつおは、汝うぬらの手掴みにはちと難かしい、それとも見事料理してみる気なら、庖丁を揃えてかかッて来い、どいつ此奴の用捨はねえ」

国俊の一刀、八方眼に狙つけ澄すまルビの「すま」はママまして血顫ちぶるいした。

「猪口才ちょこざいな奴――」

とは言ったが、抜き連れた六、七本の刀が、どれもこれも気を呑まれて、ビクともしない、それも瞬間、機先を制して新九郎が、彼等の一角へ天飈てんぴょうの剣をふり込んで行った。

と、ちょうどその時、汐見坂の上から、小きざみに駒を煽あおってきた遠乗り姿の侍が二人、快い蹄の音をさせて溜池のほとりへ下りてきた。

一人を、多勢で取り囲んでいる場合、助太刀は無論一人の側かわへつくので、山手組の侍は、それを見ると逃げ足早く散って、榎坂の樹木の中へたちまち姿を消してしまった。

「はははは、意気地なしめ……」

対手あいてが逃げても、新九郎はまだ血刀をぶら下げたまま、ひょろり、ひょろりと四、五間歩きだしていると、後ろから水を浴びせるような声で、

「寄れい!」

騎馬の侍が鞍つぼから呶鳴りつけた。

酔眼朦朧もうろうという風で、何気なくひょいと馬上の二人を振り仰いだ新九郎は、ぐわんと鉄槌てっついにでも打たれたように、

「あっ――」

と言って、大地へ五体を竦すくみつけてしまった。二、三間行き過ぎた侍も、それを奇異に思ったか、駒を止めてじっと彼の姿を見つめ、

「はて、どこぞで見かけた男……」

と呟いた。それは、小野派一刀流の宗家小野忠雄と、高弟梶新左衛門であった。

「む、そやつはご破門になった春日新九郎と申すもの」

「春日? ――おういつか鐘巻自斎先生に名乗りかけたあの若者か――ああ、変っているのう」

「先生のご先見に違たがわず、生兵法の腕を慢じて身を持ちくずし、意気地の大望も忘れ果てたとやらの風聞、この態ざまではそれもまったくと見えまする」

「むう、武士の風上にもおけぬ奴――」

小野忠雄は、いかにも憎々しげに土まみれな新九郎を睨みつけて、

「かような者に、一両年でも、小野の道場を踏ませたかと思えば心外千万、見るも胸がむかつくわ、かッ!」

と馬上から青痰あおたんかけて、梶新左衛門と共に、ふり向きもせず馬を飛ばして立ち去った。

三

ややあって、新九郎はむっくり顔を上げた。横鬢よこびんへかけられた痰を拭いて、よろりとまた立ち上がった時には、さすがに生色がない。刀を鞘に納め、まだ幾分の千鳥足で、無言のまま、あてなき道をどこへ行く気か、一歩一歩重そうに運んでゆく。

まったく、新九郎の足は、西へ向けても東へ向けてもあてがない、希望がない。ただ一つの隠れ家である菖蒲あやめの寮へも、今は帰ることのできない事情がある。そこには、御方が怖ろしい嫉妬を燃やして彼を待ち構えている。

この春さき、こんがらとせいたかの為に助太刀して、臂ひじの久八と投げ槍の小六を討った夜、新九郎は大月玄蕃を追いかけて行ったが、遂に姿を見失ってしまったので、再び柳原土手へ引っ返して来てみると、そこには、せいたかの死骸だけあって、もう人影はなかった。

で、その夜、何食わぬ顔をして、菖蒲の寮へ帰ったが、御方の凄まじい嫉妬にいたたまれず、彼は、隙を狙って寮を逃げ出した。

逃げだしたが、一度ひとたび、御方の甘い香にふれ、お延の濃艶に蝕むしばまれている新九郎は、到底、その淋しさに耐えなかった。

そこで、酒だ、酒だ、すべてを忘れるものは酒だ、と物狂わしく飲みつづけて、侠客出入りの部屋から部屋を転々としているのが今の境遇。

が、酒に麻痺させている良心も、この間は、思いがけない千浪と重蔵に会って冷水三斗の苛責かしゃくをうけ、今は、旧師小野忠雄と先輩梶新左衛門の眼に触れて、武士最大の恥かしめをうけた、これをしも、彼は口惜しいと思わないのだろうか、無念とは思わないのだろうか。

いやいや、今、葵あおいヶ岡おかの下を力なく行く新九郎の眸ひとみには、ほろりと落ちかけている一点の泪なみだが見える。その泪こそ、おそらく彼の良心から、本当に滲にじみだした口惜し泪でなくてはならない。

彼は口惜しいのである。どうしていいか分らないほど口惜しいのだ。たった一本、ああ、たった一本、鐘巻自斎から勝ちをとることができれば、晴れて故郷にも帰れるし、家名も立つし、武士の面目を完うされるのみか、多くの者を見返してやることができる。――が、その一本の勝ちは、余りに人力の届かぬ所にあり過ぎる。

対手あいては一世の名人、小野忠雄すら一歩をゆずる鐘巻自斎、とても駄目だ――と思ったのと、御方の腕に巻きこまれたのとほとんど同時だった。新九郎の若い血は、当然のように、その甘い歓楽に溺れこんで、大望を忘れようとし、御方からもそう仕向けられてきたのである。

しかし、眠れる良心は、時折、俄然として醒さまされる。けれど、彼自身剣の深さを知れば知るほど、鐘巻自斎の非凡が分り、名を思いだすだけでも怖ろしい感じに衝うたれ、何と思おうが駄目だと観念してしまった。いや、そう諦めるよりしようがなかった。

「そうだ、拙者は千浪と抱き合って、音無瀬川へ身を捨てた時に、あのままこの世へ甦えらなかったら幸せであったのじゃ……、でなければ、昔ながらの新九郎でいれば、江戸三界でこう苦しむこともなかったろうに、いっそ死ぬか、死んでどうなる……」

と思いながら、じッと地べたをみつめてゆくと、御方の﨟ろうやかな姿やお延のあの艶めかしさが、足もとへ絡からむように泛ういてくる。

「酒だ、酒がさめた、酒が醒めた!」

彼はこう叫んで、不意にもの狂わしく走りだした。

×

どこをどう飲み歩いていたか、新九郎は、それから四日ほど後の夕方、またも、人通りの多い日本橋の袂たもとに倚よりかかって泥酔していた。

「何だと思ったら、珍しくもねえ酔どれの侍か」

「そうくさすない、上野の丘で山手組を八、九人も向うへ廻して、可哀そうな虚無僧を助けた御曹子の新九郎だ」

「え、これが御曹子の親分か、姿にも似ず大層な腕前だそうだが、怖ろしい飲んだくれだな」

「どうしたんだい寝ているのかい」

などと、物見高い閑人ひまじんが、輪を作って囁ささやき合っていると、不意に顔を上げた新九郎が、酒乱のような真まっ蒼さおな面おもてに、鋭い目を吊るし上げて、

「うるさいッ」

弥次馬は恟ぎょっとしたが、場所が日本橋となると野次馬も一筋縄の手輩てあいでないと見えて、

「ほい、寝てるんじゃねえや」

と散っても失せない。

「うるさい奴めら、打ぶった斬るぞ」

今度は立って、脅しに柄を握ってみせると、さすがに、これには驚いたと見えてワッとそこを開いた。

「あはははははは……」

新九郎は大口開いて笑いながら、日本橋の欄干にすがりつつ、あぶない足どりを辿たどって来たが、晩春の川風に遭って、俄かに快くなったか、そこに腰を辷すべり落して、うつらうつらとしはじめた様子。

またすぐ弥次馬が盛り返してくる。そのうち、自身番から番太郎が駈けてきて、新九郎の側へコツン、コツンと六尺棒の突き音をさせながら、

「ご浪人、歩かっしゃい、ご浪人歩かっしゃい」

と、当らずさわらずに急せき立てている。すると、

「もし、ご免遊ばしませ……」

と優しい声。

「おや?」

弥次馬は一斉に目をその方へあつめてしまった。見ると、御守殿風な女中に上品な老女、何かしばらく番太郎に囁いていたが、そのうち、塗骨ぬりぼねの小扇をかかげてさしまねくと、一挺の駕が、

「ご免、ご免、ご免」

と、馴れたもの、人を人とも思わず掻き分けて来る。

そして、酔いつぶれている新九郎を駕へ入れ、垂れの外から細曳ほそびき一本廻して、さっさとどこかへ行ってしまった。

群衆は何のことだと言いたそうに、思い思いに散って行く。と――その中に立って、

「忌々いまいましい女郎めろうめ、横から出て思わぬ奴にさらわれてしまったわい」

と舌うちをして見送った者がある。

金襴をあざむく美々しい衣裳に白ぐけの羽織紐ひもをさげ、面おもては朧富士おぼろふじの目堰笠めせきがさにつつみ、手には細い竹杖をついていた。それは山手組の頭領髯ひげの重左。

「はてな、ことに依ったら今のも、いつか梅茶亭の戻りに新九郎を横奪りしたあの女郎かも知れぬ、む……」

深見重左はクルリと笠を廻して、連れている四、五人の武士の中から一人を腭で招き寄せた。

「あれへ行く二人の女、どこへ入るか先の先まで見届けて来い。よいか、見届けたらすぐ氷川下の屋敷の方へ――待っているぞ」

「心得ました」

重左の片腕と頼まれている押田仙十郎は、素迅く人混みを縫い抜けて、今しも、石町通りから本町横へ外それてゆく二人の影を見え隠れに尾ついて行った。

四

深見重左は、刎頸ふんけいの交まじわりをゆるしていた臂ひじの久八きゅうはちが、その客分投げ槍の小六と共に、新九郎等のために殺害されたと聞いた時、既に、彼を狙うの殺意は、充分胸に醸かもされていた。

「見つけ次第に、あの青二才を打ぶっ斬ってしまえ」

と配下の者に言い渡しておいたが、上野の丘ではかえって散々な目に遭い、溜池ではあの失策、いつか山手組の悪名は町に高く、一本立ちの素浪人、御曹子の名に箔はくをつけて行くばかりとなった。

今は折よく、日本橋の袂で、重左自身が彼の姿を見つけたのであったが、場所がら人目も多いので、しばらく手を引いている間に、思いがけない鳶とんびに油揚あぶらげをさらわれた形となったのだった。

夜の九刻ここのつごろ、押田仙十郎は宙を飛んで氷川下の屋敷へ帰ってきた。すぐ奥へ通って、吉左右きっそうを待ちかねている重左の前へ出た。

「おう仙十郎、ご苦労であった、シテ様子は?」

「しかと見届けて参りました。やはりお察しの通り、あの女中どもは、菖蒲の寮の召使で、一人は水瀬と申す老女でござりました」

「む、案の定だな」

重左は、麻のような髯ひげをしごきながら、底光りのする眼を晃かがやかした。

「そして、新九郎の駕もたしかに寮へ入ったかの」

「その駕は裏門から中庭へかつぎ込まれ、充分様子は分りませぬが、何しろ泥酔しているので、一先ひとまず一室へ寝かしたらしい気配でござる」

「それだけ見極めがついておれば、もうこっちのもの同様。寮の女郎めろうにも梅茶亭以来の怨みがあるところ、それこそ誂あつらえどおりな潮時と申すものじゃ」

重左はこう言って、すぐ、屋敷に居合す者を残らず呼び集めた。いずれも、武家あがりの浪人伝法、小普請こぶしんのしくじり、郷士出のあぶれ者、すべて無職の浪人が重左を主体にして山手組と名乗り、町奴、旗本組の一派と三角対峙になっていた。

燭ともしびと共に、それら異体な人物が、二十人余りずらりと居ならんだ。伝法あぶれ者揃いでも、こういう席となると一種厳粛な気分が漂い、森として無駄口一つ叩く者がない。

重左は熒々けいけいとして鋭い眼まなこを座中にくばり、錆さびのある声で静かにこう言いだした。

「今夜から明け方までの間に、打ぶち壊こわす屋敷が一軒、叩ッ斬る人間が二人ある。押田に任せておくから、万事ぬかりのねえようにやってくれ」

承知しましたという意志の表示に、一座がシーッと無言のまま頭を下げる。この辺は、同じ侠客でも町奴の親分とは大分貫禄が違う。

「そこで、対手あいてを怖れる訳ではないが、ちと公儀の大奥へ縁引きのある女、殊に屋敷は御上地ごじょうちのお船見屋敷だ、そこを打ぶっ壊せば幾ら木偶でくの坊に等しい奉行でも、黙って見ている訳にゆくまい。で、この重左は、例の通り鎌倉の大安寺へ行って、しばらく保養をしているから、てめえたちも江戸から足を抜いた後、時折遊びに来るがいい、なあに、ほとぼりのさめるのは一年か一年半だわ」

後は酒になって、盃が巡廻じゅんまわりになる、随分急でもあるし、命がけの仕事にかかる前だが、至って落着きすましたもの、屋敷の金を残らず分配して各〻肌につけ、そろそろ刀の目釘めくぎを改め、足拵えにかかっていると、頭領、重左は、例の竹杖を持って、駕に乗り、後は一同に任せて一足先に氷川下を出る。

彼の行く先は、この前、江戸中侠客狩りのあった時、二、三年身を潜ませていた鎌倉の大安寺で、まったく保養に行くぐらいな気持である。

重左が落ちてしまうと、さあ後は大変、氷川下の屋敷は野武士の陣屋のようになる、まだ時刻はすこし早いというので、酒をあおる、太刀どすを抜いて小手調べに柱を斬る、覆面や黒装束にとりかかる、まるで夜討ち仕掛けの有様、血に餓えている狼の舌舐したなめずりを見るようであった。

五

「水……水……、水を持って来い!」

まっ暗な部屋の中で、ごろりと転がりながら、新九郎はこう唸うめきだした。

「水をッ」

焦やけるような喉の渇かわきと、自分の呶鳴り声に醒めて、彼はむっくり身を起こした。

「はてな? ……」

度を過ごした大酔の後で、誰もが戸惑とまどうように、新九郎も、ここがどこか、どうしてどうなって来ている自分かを、しきりに考え出そうと努めたが、あたりは暗いし、寂せきとして物音もないので、ほとんど思い当る所がなかった。すると、

「お水をこれへ置きまする……」

優しい女の声音がしたので、新九郎は細目に開けた障子の方へ身を伸ばして、顫ふるいつくように水さしへかぶりつき、ただ一息に目をつむって飲み干した。

「ああ甘露――」

舌うちして呟くと、後ろの方で、

「ホホホホホホ……」

「や?」

「新九郎様、やっとお目が醒めましたそうな」

「あッ、御方」

ふり顧ってこう言ったまま、新九郎はしばらく呆れ果てていた。そこには、光子てるこの御方がいつの間にか立っている。間もなく燈あかりが運ばれてきた。薄絹張りの行燈に照らされて、この部屋が寮の一室であることが彼にもはっきりと分った。

「御方、どうして新九郎はここへ参っているのでござろう――とんと今日ばかりは覚えがない」

「貴方は憎いお人でござります」

御方の顔色は、酔いざめの新九郎の目に、剃刀かみそりの如く冷たく鋭く見えた。

「水瀬や女中どもに手分けをさせて、どれ程尋ねたことやら知れませぬ。これ程まで、心をくだいている妾わらわを捨てて、お前様はどこへ逃げるお心意つもりでございますかえ?」

「逃げる? ……何で拙者が」

「いいえ」御方は姿の美しさと、怜悧りこうな眼ざしに彼のうろたえざまを畳みかけて、

「分っておりますわいの、お前様は、あのお延という女の行方が知れぬので、どこにも落ちついていられないのでござんしょうが……、風呂屋町に隠れて、媾曳あいびきしていたあの女が、いつぞやの夜から見えなくなったので、それが苦になるのじゃ」

「…………」

新九郎は俯向うつむいてしまった。御方の粘りづよい、濃い油のような嫉妬は、彼の酒の名残まですッかり醒ましてしまった。

「ホホホホホ……」御方は何を思い当ってか独りで笑った。

そして、

「どうあろうと、妾はお前様という者を忘れることはできませぬけれど、憎いやつはそのお延、恋の恨みを晴らさずにはおきませぬ」

「御方、そのような女、この新九郎には覚えがない、何か思い違いでござろう」

「きっと、お前様は知らぬと仰っしゃるか」

「毛頭、おぼえのない女でござる」

「これでも――」

御方はついと立った。そして、荒々しく一方の襖ふすまを開けた。

「あッ――」

新九郎は愕然として、薄暗い隣り部屋へ声を放った。おお、そこに猿轡さるぐつわをかけられて、縛いましめられている女の影は、まさしく、あの夜から行方の知れなくなったお延である。

お延は身をもがいている、けれど声を立てることも、新九郎の側へ寄ることもできなかった。御方の怖ろしい復讐の念は、それを快く眺めるのである、いやそれのみか、侍女こしもとに酒の用意をいいつけて、お延のもがく目の前で、新九郎と甘い恋の囁きを見せつけようとまでする。

その時だった、不意に表の方で、キャッという侍女の悲鳴が上がった。途端に、老女の水瀬が色を変えて駈け込んできた。

「御方さま、狼藉者ろうぜきものの乱入でござります、狼藉者が、あれ、あれッ……」

と告げながらけたたましい声を上げてしまったのは、もうそこまで、覆面抜刀の荒くれ武士が、襖障子を蹴破って入りこんできたためであった。

「この寮にいる御曹子の新九郎と、女主あるじの女郎を出せ、山手組が出向いて来たのだ。匿かくまい立てする分には片っ端から鏖殺みなごろしだぞ」

大刀だんびらきらめかして、そのうち四、五人は、早くもこの部屋へなだれ込んで来たが、

「えい、性懲しょうこりもねえ痩犬め、新九郎はここにいる」

といきなり鞘を払って、真っ先の一人を、両足もろに薙なぎ倒した新九郎の手練に、さすがの命知らずも、たじたじとして迂濶うかつに閾しきいを越せずにいる。

御方はその隙に、床脇の小太刀を取ってスラリと抜いた。と思うと、もう飛鳥の如く廊下へ走りだして、瞬間に二つ三つの絶叫を揚げさせた。ドタドタドタという足音が、嵐のようにくずれ去る、御方は衂ちぬられた小太刀を振って一散に追いかけ斬りかけて行った。

新九郎も反対の出口へ斬って出ようとした。すると、後ろから忍び足で、押田仙十郎が、

「御曹子、命は貰った!」

と不意討ちに一閃の光りを浴びせた。

「何をッ!」

横に払うと、どすんと仙十郎の体が襖へ倒れて行った。見向きもせず、駈け出そうとしたが、ふと気がついて隣の部屋にもがいているお延の側に駈け寄り、彼の縄目をぷつりと切ってやった。

「あっ、新九郎さん! ……」

お延は口の布ぬのをはずすと一緒に叫んだが、新九郎はもう庭先に跳び降りて、七、八人の山手組を相手に必死の火花を散らしている。

かつて新九郎は雨龍の山荘でお延に命を救われたことがある、今縄目を切ってくれたことは、その時の恩返しかあるいは、御方より心から自分を思ってくれているのかしら? ――あたりの物音が凄まじいので、お延は何を思慮していることもできない、とにかく、この寮を逃げ出そうと、身繕みづくろいをしながら、その部屋を走り出ようとすると不意に、横手から火の粉まじりの熱風がボーッと吹っかけてきた。

「火がついた!」

お延は、寮の出火をみてニタリとした、逃げるに都合が好くなったことより、彼女は、憎い御方の災禍わざわいを狂喜したのだ。

六

山手組のあぶれ者が、投なげ松明たいまつでも抛ほうりこんだのか、蹴倒された行燈が燃えひろがったのか、とにかく、まっ赤な焔は見ている間に寮の部屋へ燃え移ってゆく。

「いい気味、いい気味!」

お延は、この二月あまり押しこめられていた牢獄の焼けるのを見て、手を叩きながら勝手口へ出た。そこも既に火が来ていた。おまけに塀が高いので、物置小屋の前を抜けて裏庭まで夢中になって走りだした。

そして彼女が、雪見燈籠を足がかりにして、塀の上へ手をかけようとした時、濛々もうもうと立ちこめてきた煙をくぐって、夜叉のごとく追いかけてきた寮の御方は、

「おのれ!」

と叫びざま、お延の帯を掴んで引き落した。

「あっ!」

逃げようとしたが、それより御方の手練の小太刀の方が早かった。肩から背すじへ斜めに、水も堪らぬほどな切れ味が見えた。お延は、虚空をつかんで、血しぶきと煙の中にどうと斃たおれた。

「憎いやつ!」

御方はその胸元へぷつりと切きッ尖さきを落した。その頃はもう、寮の建物はほとんど大紅蓮だいぐれんにくるまれて、まっ赤な光りの中に躍る影が、敵やら味方やら見分けもつかない程であった。

が――御方は何となく胸が晴々してきた。嫉妬も瞋恚しんいもみなその紅蓮となって燃えきってしまうような快さに酔った。

ただ、ふいと気がかりになったのは新九郎の安否。果たしてあれ程の白刃の中を、斬り抜けてくれたかしら? ――と案じだすと、御方はもう矢も楯もなくなった。お延の血に洗われた小太刀を持ち直して、愛熱の化身そのもののように、焔の中へ愛人を救いに走った。

けれどもうそこには叫喚の声もなく、人影もなくなっている、ただ何ものも焼燼しょうじんする大紅蓮の舞躍があるばかりだ。御方はぜひなく、裏手の石垣から小舟に降りて大川へ逃げのびた。その大川の水も、湯になるかと思われる程赤々と揺れ返っていた。

×

もと将軍家のお船見屋敷であり、今は家綱の愛妾お通みちの方の姉にあたる光子てるこの御方の住居が、一夜に焼失してしまったことは、江戸でも近来の椿事ちんじと誰もが驚いたらしい。驚いたのは、火事そのものでなくて、その原因であった。菖蒲の寮には侠客が出入りしていたの、御曹子新九郎が匿かくまわれていたの、または御方自身の行状にも、いろいろ風評のあった所なので、火事も自然ただの火事とは思われず、風評まちまちとなっている。

「その晩、山手組が斬なぐりこみをやったのだそうだ――」

この噂は専もっぱらである、奉行所の手はすぐ氷川下へ廻ったというが、一人も召捕られた者はなかった。

知れないのはそればかりでなく、当夜から御方の落ちた先も、新九郎の所在も一向知れなくなった。公儀では大奥縁類の者からボロの出るのを好まず、御方の行方も深くは詮議せんぎさせないらしい。

こんな噂が、行く春の江戸を賑わしている最中、下谷の地蔵長屋を立って、遍路の尺八を吹き流しながら、春日重蔵と千浪は、再び巷ちまたにわびしい姿を見せた。

尋ねる仇の玄蕃も、たしかにこの江戸にいる様子であり、弟の新九郎にも是非もう一度会わねばならぬと、重蔵はまだ幾らか痛む足を引きずって、江戸の横丁、裏小路の隈なきに至るまで日ごと日ごとに歩いているその一日のこと。

「千浪どの、どうやら午ひる近い陽あし、あれに見える葭簀よしず茶屋で憩やすんで参ると致しましょう」

「お待ちなされませ」

千浪は遠くから、神田濠ぼりの一膳飯屋の軒先を眺めて、

「何ですか、大層奥が混んでいる様子、席が空いているかどうか、ちょっと様子を見て参ります」

「いやいや、それまでには及びませぬ」

と、重蔵が止める声を聞き流して、千浪は小走りに飯屋の奥をのぞいてきた。

「大儀でござった……」

と、重蔵がふと見ると、天蓋の裡の千浪の顔は、どうしたことか、ただならぬ色をして、息さえすこし弾はずんでいた。

「どうなされた、気分でも悪くなられたか」

「いいえ、重蔵様、早くこちらへ」

千浪は、気忙きぜわしなく眼を配って、何も言わず、重蔵の袖を引いて砂利場の蔭へ身を隠した。

苛責かしゃくの遠音とおね痴蝶ちちょうの隠かくれ家が

一

日蔭の身に離されぬ面隠つらがくしの笠を眉深まぶかにして、頤あぎとの紐を結びながら、今、神田濠の茶屋をスタスタ出て行ったのは大月玄蕃だった。

砂利場の蔭に身を潜めていた千浪は、その時そッと重蔵の袖を引いて眴めくばせした。――碓氷峠以来何年ぶりかであきらかに見る仇かたきの姿――重蔵は思わずあッと出る声を押えて、千浪にうなずき返すや否、無言のままタッタと後を尾行つけだした。

と言っても、重蔵は例の跛行びっこなので、ややもすると蹌よろめくようになる。それを心なき往来の者は指差して笑っていた。しかし彼自身は一心一念、苦痛も見得みえも何物も顧かえりみる暇いとまはない――片足を無理に急がすおかしさはその時かえって涙ぐましいものだった。

先の玄蕃は何も知らぬ様子で、常盤橋ときわばし御門外まで歩いて行ったが、やがてちょっと立ち思案をしてからとある屋敷小路から三軒目の門内へツウと隠れてしまった。

一足遅れに、そこへ駈けつけて来た千浪と重蔵は、

「あっ、しまッた」

と屋敷の前に立って、何気なく門標を見ると、溝口伊予みぞぐちいよとしてあった。

「溝口……溝口伊予……はて何処かで聞いたような名であるが? ……」

重蔵は幾度も呟いていたが、何を思い当ったかフイと門前を離れて、

「千浪殿、こりゃ玄蕃の隠れ家ではないゆえ、再び彼が門内から戻って参るに相違ない」

「では、しばらくどこかへ身を隠しておりましょうか」

「おお……」

二人は小路を走り出してあたりを見たが、これという隠れ場所もないので、角屋敷の塀の横へピタリ添って待構えていた。

一方、溝口家の屋敷門をくぐった大月玄蕃は、取次に案内されて奥の一間へ上がり込んでいた。

彼は、臂ひじの久八や投げ槍の小六が、柳原土手で敢あえない最期を遂げると共に、没落した笊組を見捨てて潜伏していた。ところへ、ふとこの頃、玄蕃が元指南番の職を奉じていた宮津の城主京極丹後守が今度江戸詰づめとなって出府したという噂を聞いた。

玄蕃は、長の浪々でようやく衣食には窮迫して来たし、この先どうしたものかと思案していたところなので、機おりこそよしと、早速江戸家老の溝口伊予へ嘆願書を出して、再度帰参の取なし方を頼みこんだのであった。そして今日はその吉左右きっそうを聞きに来たのであった。

「はて、巧く行ってくれればいいが……」

と待ちあぐねていると、やがて京極家の臣溝口伊予が入って来た。元なら同藩の親友だが、今では江戸家老と只の素浪人、大月玄蕃もさすがに退目ひけめを感じながら一別以来の挨拶を済ました。

「この度はまた、厚顔あつかましいお取なしを願い出、赤面至極に存じまするが、何分よろしくお力添えの程お願い申し上げます」

「いや何、決してご斟酌しんしゃくなさる程ではござらぬ。そりゃ殿様にも、四、五年前桔梗河原で福知山方とご当家との意地試合に、肝腎な其許が惨敗いたしたまま、国表を逐電ちくてんされてしまった当座は、並ならぬご立腹であったには相違ないが、鐘巻自斎先生のご助力があったため、以来すッかり福知山の松平家で腰を折ってしまったので、自然、貴殿へのお憎しみも薄らいでいるところじゃ」

「いやもう、あのお話を持ち出されましては、玄蕃、冷汗背を流れまして、帰参のお願いどころか、穴にも入りたい心地が致しまする」

「勝敗は時の運、いつまで苦に悩むことはござらぬ。で拙者も、先日来のお手紙に依って、早速殿にお身の上を嘆願いたしたところが、案ずるより産むが安しで、殿にも、ウム大月玄蕃か、あれも捨てた腕前ではないに、いまだに浪人致しおるとは不愍ふびんな奴、旧禄通り召抱えてつかわせい――という有難いご諚じょうじゃ」

「えッ、では返り新参の儀叶いましたか、へへっ、ひとえに伊予殿のご尽力忝のう存じます」

「ついては明後日、牛込赤城下のお上屋敷へご同道申すゆえ、朝のうちに当屋敷までお足労下さるまいか……」

「承知仕りました。何分当日は、ご前よしなにお口添えを願っておきまする」

と、玄蕃は如才なく面談を切り上げて、間もなく溝口伊予の屋敷の外へ再び姿を現して来た。

彼は、ほくほく顔して、歩きながらも独りで悦に入っていた。

「ふふん……、物は試しと持ちかけた話が、こうとんとん拍子に行こうとは意外だった。どうやら運が向き変って、この分では一陽来復、昔の全盛を返り咲きさせるのも近いうちだわい……」

心に悦びがあるので、自然足どりも浮き浮きして、およそ十四、五間、屋敷小路を出て来ると、不意に曲り角から、

「待て!」

――と女らしい凜りんとした声。

「大月玄蕃、しばらく待て!」

つづいて呼び止めたのは春日重蔵。一人は言うまでもなく千浪である。ばらばらと駈け寄った。

「な、なにッ……」

目堰笠めせきがさの裡の玄蕃の顔、思わずサッと蒼味あおみざして、耳から垂れた鬢びんの毛がぶるると少しふるえた容子ようす――

二

「ややッ」

思わず二、三歩飛び退いて、笠の前縁まえぶちをグイと押えた玄蕃は、二人の虚無僧を見るや咄嗟とっさにそれと分っていたが、わざと声を作って、

「えいびっくりいたしたわ、此方は大月玄蕃などと申す者ではない、人違いするな」

白しらを切ってクルリと身をかえすや否、大股にサッサと歩き出した。

「卑怯であろう玄蕃、今日ばかりは逃がしはせぬ!」

千浪は白鞘の柄つかを握って、燕のように駈け抜けた。重蔵も懸命に追いすがった。が、当の玄蕃は更に足を飛ばせて一石橋いっこくばしの方へ逃げ出した。が、やがて、頃合い計ってピタリと立ち止まったかと思うと、

「さッ来い、返り討にしてくれる」

振り顧りざま、抜き放った、鬼丸包光かねみつの太刀、唸りを生じて、いきなり真っ先に来た千浪の天蓋てんがいへザクリッと割りつけた。

「あッ――」

とおどろき声を放ったのは、千浪自身よりは後から来た重蔵の方だった。必然、そこに血煙りが上がったかと思ったが、咄嗟に彼女がよろめいたため、玄蕃の切ッ先はその紐根を切り払ったのみで、二つに裂かれた天蓋は千浪の面おもてを現してクルクルと川の中へ舞い落ちて行った。

「おのれ!」

跳びかかった重蔵は、千浪と切ッ尖を揃えて左右から激しく斬り込んだ。こうなると作法通り仇討名乗りをする間もないので、往来の者はただ一途いちずに、ソレ喧嘩だ喧嘩だ――と騒ぎ始めた。

玄蕃は心の裡で、碓氷峠で手心の知れたこの二人、返り討ちにして出来ないことはあるまいと思ったが、帰参の福運を目の前にして下手な蹴けつまずきをやっては詰らないし、また白昼往来の多い場所がらなので、ふいと太刀を退ひいて飛びしさったと思うと、隙を狙ってまたばらばらと逃げだした。

すると、その時ちょうど、大手前の方から真っ直ぐにお練りで来た大名の一列がある――先払いの徒士かち侍、二本萌黄羅紗もえぎらしゃの道具金紋先筥さきばこ、蜒えんとして半町にわたる行列、今しも外濠の橋を渡りかけて半ばは町へ入っていた。

とも気づかず、抜刀ぬきみを鞘に入れる間もなく駈けてきた大月玄蕃が、思わず、駕わきの侍にドンとぶつかった。ふと見ると、引ひッ提さげ刀がたなの浪人が、血相変えて行列を摺すり抜ぬけようとしたので、

「無礼者ッ」

と、股立ちとった侍が、ドンと玄蕃の胸板を突っ返した。

「あッ、真っ平ご用捨下されい」

「抜刀を手にしてお駕近くへ駈け込むとは不埒ふらちな奴、それっ、この狼藉者をお遁のがしなさるな」

「いや、まったくもって、何気なく走り込みました者、平に……平にご用捨願いたい」

「ならぬッ」

バラバラと玄蕃を取り囲んだ徒士かち侍が、否応なく折重なって、両の利腕ききうでをグッと抑えとってしまった。

ところへ、一足遅れて、喘あえぎ喘ぎ追いついて来たのは千浪と重蔵であった。既に玄蕃がこの失態をしていたので、二人はすぐ刀を鞘さやに納め、行列の近くへ寄って慇懃いんぎんに両手をつかえた。

「場所がらをも弁えず、まことに率爾そつじではござりまするが、事火急のお願い、何とぞお聞き届け願わしゅう存じまする……」

「ウム、こりゃこの浪人を追って来た虚無僧であるな。して願いとは何事じゃ」

「それなる浪人は、仔細あって某それがし等が、永年仇と狙つけ廻して、今日図らず出会いましたる曲者。甚だ勝手ではござりまするが、ご慈悲を以て私共へお下げ渡し願いとう存じます」

「なに、ではこの浪人はお身等の仇であると申すか、ウーム……こりゃ如何いかがしたものであろうか……」

と、駕わきの徒士が立ち淀んでしきりに処置を講じていた。――と、六尺の足を止めさせていた殿の駕内から、何か低い合図があったと見えて、一人の家来が厳おごそかに膝まずいてお駕の覗窓戸のぞきどをスーと開けた。

どこの太守であろうか、江戸城退出の帰りと見えて、式服の半身がその中に見えた。額の青さ色の白さいかにも秀麗な殿である。ジイとこなたへ眸を吸いつけていたが、やがてのこと、

「オオ……」

と乗り出さんばかりに駕戸から声をかけて、

「そこに在るのは春日重蔵、ならびに正木作左衛門の娘ではないか」

「やや、そう仰せられますのは? ……」

土下座をしていた千浪と重蔵は、意外な大身から意外な言葉をかけられて、両手をついたまま畏おそる畏おそる訊き返した。

「両名の者、予を見忘れていやるか、よう面おもてを上げて見るがよい……」

「おお」

「憶い出したか」

「へへッ、郷国福知山のご領主にあらせられる松平忠房公。何でお見忘れしてよいものでござりましょう」

「ウム……」

忠房はニッコリ頷いて、

「さても、思いがけない所でそちたちを見かけたものじゃ。千浪も……重蔵も……永年辛労の程察し入るぞ」

「恐れ入ってござりまする……」

「したが、その分ではいまだに作左衛門を討った仇かたきにも巡り会わぬものと見える。どうじゃ、仇討本懐を遂ぐるのはまだか、よそながら、予もその吉報を明け暮れ待っていたのであるぞ」

「殿――」重蔵は思わず膝行にじりだした。

「その仇大月玄蕃は、今図はからず追い詰めてお供先に捕われましたあの浪人でござります。何分、お取計い下し置かれますよう……」

「何と言やる、ではあの浪人が仇大月玄蕃であるとか、ウウム……成程、過ぐる年桔梗河原に於いてそちと試合を致した京極家の指南番、たしかに予にも覚えがある。こりゃ、其奴を遁のがさぬように縛からめ上げて屋敷へ引っ立てい」

「あッ――」

玄蕃は、胆を天外に飛ばして逃げかけたが、たちまち八方からふり出された六尺棒に脛すねを払われてドスーンともんどり打ってしまった。

忠房は、小気味よげにそれを見やって、

「駕を上げい」

「はっ」

――行列は再び水のように流れ出した。

千浪と重蔵は、ややしばらく路傍に踞うずくまったまま、殿の行列を見送っていたが、やがて、駕わきを離れた一名の家来が走り戻って来て、

「もしご両所、七日の後に愛宕あたごのお下屋敷へそッとお越しあるようにと、殿より密ひそかのご内意。お分り召されたか」

早口に囁ささやいて、またスタスタ供揃いの中に姿を交ぜて行ってしまった。

三

その日、増上寺参詣さんけいを名として、大奥を出た将軍家の愛妾お通みちの方の駕は、山内の休所で供の者を減らし、ほんのお忍び同様な二、三人で愛宕あたごの裏坂へ向って行った。

社参なら供揃いのまま来る筈、花も散り牡丹畑もない葉桜時のこの山へ、はて何しに来たのかと思うと、駕を出たお通の方は、侍女こしもとに日傘をささせ、女坂の中段から右の平地を斜はすに切って、そこに一軒ある古風な生垣に蠣殻かきがらかぶせの屋根門をスウとくぐった。

藤棚の日蔭へ盆栽を持ち込んで、パチン、パチン、鋏はさみを鳴らしている植木屋の弥平やへいは、ヒョイと入って来た人を見て、挨拶もせず奥の方へ駈け込んでしまった。

「もし、御方様、御方様」

「弥平ではないか、何を慌てていやるのじゃ」

「どうしてここをお知りなされたか、大奥のお妹君さまが、あれへおいでなされました」

「え、通子が来やったと? ……」

母屋から離れた二間ふたまつづきの茶室の内で、こう軽く驚いていたのは、菖蒲あやめの寮が焼けて以来、その行方を疑われていた光子てるこの御方――

この愛宕の裏山に住んでいる植木屋の弥平は、永年菖蒲の寮に出入りして、格別目をかけられていた者であった。で、御方は寮を失ってから間もなく、この人目離れた茶室に身を落着けていたのである。

それはいいが、御方は例の強い執着で、火事の夜に別れた新九郎の居所を一心に探させた。新九郎は相変らず酒から酒へ飲み歩いていた。そして、御方はまたやすやすと新九郎をこの愛宕の草深い隠れ家へ連れ込んでいる。

現に、今も大小を枕にして、次の部屋に酔い伏している男は、その新九郎なのである。

「まあ……」御方は当惑の舌うちをして、

「あれ程、妾わらわのいることは密かにしていたのに、どうして尋ね当てたのであろう」

「そう言えば四、五日前、大奥の者らしいお方が、しきりと垣の周りをうろついておりましたゆえ、お妹君様もお行方を案じて、懸命にお探しなされていたものでござりましょう」

「とにかく、妾は今の体で妹に逢いとうない、ここにはいないと言ってよいようにして帰して賜たも」

「あ、でも、もうこちらへズンズンお入りなされてしまいました」

と、弥平が狼狽うろたて「狼狽うろたて」はママいる間に、池の八ツ橋の上からお通の方が、

「おう、お姉上さま……」

と声をかけてしまった。御方も身を隠す暇がないので、ツイと縁先へ出て座敷の障子をピタリと閉めながら、

「お通様か……」

と冷たく言った。

「ようご無事でいて下さいました、菖蒲の寮が焼けた夜から、皆目お行方が知れぬとやらで、どんなにお案じ申していたか知れませぬ」

「いいえ、この光子は、滅多にそんな不覚はしませぬ、決して案じて賜もるな」

「それはとにかく、このような侘しい家においででは、定めしご不自由でござりましょう。また上様うえさまにお願いして、どこぞへ美々しいお屋敷を建てて戴きまする」

「何の、もう前のような暮しは懲々こりごりじゃ。どうぞしばらくの間は、何も構わず、ほっておいて下されいの、我儘な姉を持って、定めしそなたさまも大奥で肩身が狭かろうが……」

「…………」

お通の方は睫毛まつげに水晶のような涙を泛かべた。――姉妹ふたりとも下冷泉家の息女、玉の如き麗色に劣り優りはないが、今の境遇と気性は怖ろしい隔たりである。

将軍家綱の寵を一身にあつめているお通の方も、御方の切下げ髪を見たり、悪い噂を聞いたりする度に、その身が針で刺されるように辛い。――どこまで淪落りんらくして行く姉であろう、どこまで荒すさんで行く心であろう――一つはそれも心配でならないのだった。

今日、お忍びでここへ尋ねて来たのも、妹ながらすこしは意見をのべるつもりであったが、逢って見ると姉の強い気性に押されて、お通の方はただ涙ぐんでしまうばかり……そのうち、侍女こしもとから時間を注意されて、すごすごと蠣殻門を出て行った。

「はたから見れば栄耀えいようの身じゃが、あの通子もかえって妾より苦労であろう……」

御方はあとを見送って呟いたが、ふと、その考えは新九郎のことに移ると、ただもう恋に他愛のない女性にょしょうに返って、ガラリと元のように障子を開けひろげた。

模様のような葉洩れ陽が、畳に細かい影を揺れさせた。さっき、昼の酒に酔い倒れていた新九郎は、起きて窓口にぼんやり凭もたれかかっていた。

「おや、いつの間にお眼覚めでしたえ?」

御方は、すっかり下世話の女房気どりになって、新九郎のそばへ摺り寄った。窓の下はすぐ小笹の崖で、崖の下は何屋敷か怖ろしく森しんとした裏門口にあたっている。で、ここにこうして美男美女の一対いっついが、狭い窓口に顔を寄せ合っていても、誰に見られるおそれもない。

「酒の気が離れると、貴方は死人のようにお鬱ふさぎなさるのが癖じゃ……ねえ新九郎様、こうしているのを楽しいとは思いませぬかえ?」

「また少し頭が痛む――ああ、どうも痛い」

新九郎は青白い――この頃は殊に青白い顔を、しきりに振り動かしている。

「新九郎様、貴方は今の話を聞いておりましたろうが」

「聞いていた、――けれど、それで頭が痛む訳ではない、今朝の酒が悪かったらしい」

「いいえ、今の話に引き較べて、吾身の兄弟を憶い出していたのでござんしょう。――けれど、妾もあの通り、可憐いとしい妹を振り捨て、受けられる栄華をも捨て切って、身も命も貴方に投げ出しているのではございませぬか。ねえ新九郎様、もう誰にも心を惹かれずに妾とたッた二人だけの世の中になって、この儘どこかの隠れ家に永く暮らすと覚悟を決めてくださいませ」

「アアくどい……いつも同じことをそう何度も繰り返さなくとも分っているに――何と踠もがいたところで、もうどうなる新九郎でもありゃしねえ」

「定めし、憎い女とお思いなさりましょうね……」

「憎い? ふふん……憎い奴は新九郎の腐った性根だ、えい、また酒で殺してやろうか」

手を伸ばして、膳の上にあった残り酒を引寄せると、御方は慌ててそれをさえぎりながら、

「まあ、幾ら何でも、そうはお毒でござりましょうぞ」

「毒であろうが何であろうが、頭の痛みもこれさえ飲やれば癒るのだから、野暮な止め立てをしてくれるな」

引ったくるように徳利を取った新九郎は、グウ……と一息に飲やりかけたが、その時俄かに、物に襲われたような顔をして、ジッと聞き耳欹たててしまった。

墓場のような静けさ――新九郎の瞳がその刻一刻に異様な怖れを帯びて、額から冷たい汗がタラタラと流れ落ちて来さえした。

「おお、おお……どこかで尺八の音がしてやしないか。それとも拙者の気のせいかしら……」

「ほんに近い所で、貴方の嫌いな尺八を吹きだした者があるようでござります」

「あの音を聞くと、思い出す者があって、心の底を苛責かしゃくの鞭でさいなまれる……御方、一体どこから聞こえて来るのだろう」

「あ、あんな所に二人の虚無僧ぼろんじが――」

「なに、虚無僧が?」

窓口から乗り出して、御方の指さす崖下へ眼をやった新九郎は、その時偶然に、下から天蓋を仰向かせていた二人の虚無僧と、かなりの距離はあったがバッタリ顔を見合せた。

彼は生色を失って、障子の蔭へ無意識に身をすくめてしまった。そして、

「閉めてくれ、閉めてくれ……」

と叫んだが、御方は一層窓に身をもたせて、二人の虚無僧から疑惑の眸をはなさなかった。

四

尺八の音はすぐ途切れた。

崖下の広い屋敷の奥から、一人の侍がピタピタと歩いて来た。見ると、三日前に松平侯の駕わきを離れて、千浪と重蔵に殿の内命を囁いて行ったかの侍。

とすると、ここは松平忠房の愛宕の下屋敷であろう。そして今、裏門に立って尺八の訪れをしたのは、その約束に依って来た千浪と重蔵であるに相違ない。

ギイーと裏門が二尺ばかり開いた。

「お待ち兼ねでござるぞ……」

低い声で中の侍が迎え入れた。二人は目礼だけで案内の後から奥へ従いて行った。

「その儘で苦しゅうないという殿の仰せ、ずッと書院の方へお通り召され」

「はッ」

二人は恐懼きょうくしながら、近侍に従ついて長廊下を巡って来た。お錠口へ来ると、しばらくここでお待ちをと言ったまま外に残されていた。

風流結構を極めた下屋敷に立って、千浪も重蔵も垢じみた鼠木綿が吾ながら見すぼらしく思えた。そのうち、ふと横手廊下づきの一部屋鉄窓造りの座敷牢らしい所から物音がしたので、フイと、のぞいて見ると薄暗い中に一人の武士が縛いましめられて唸うめいている。

「おおありゃ大月玄蕃じゃ」

「殿様のお情け、仇かたきを討たせてくれる思し召しでござりましょう」

「そして、これ見て安心せいと言わんばかりに、ここへ待たせておかれたものか……ともかく千浪殿、本懐を遂げる日は目前に迫りましたぞ」

欣び合っていると、前の侍が、再びお杉戸口を明けて奥の書院へ案内した。

松平忠房、もう一間に着座して待ち兼ねていた。下座遠く手をつかえた二人を見て、仇討詮議せんぎの労苦をねぎらわれ、また、重蔵には特に桔梗河原での奇禍を心から慰藉いしゃされた。

二人は、ただもう有難涙に暮れるばかり……君とは言いながら、まことの慈父にめぐり逢ってやさしい言葉をかけられたような心地がした。

ややあって忠房は、

「ウム、そちに会ったを幸いに、是非聞きたいと思うていたが……」

と褥からやや膝を進ましてたずねだした。

「その方の弟、春日新九郎と申す者、以前は福知山でもきつい臆病者の折紙つきであったそうじゃが、そちが鐘巻自斎のために片足を挫くじかれたみぎり、奮然と江戸表へ立って武芸修行の一念に向いおったあのたのもしい若者は只今、如何致しておろうの?」

「は、はい……」

重蔵は、ギクリと胸板を刺しぬかれたような苦痛をおぼえた。

「聞くところによれば、新九郎は身を粉こに砕くまでも、鐘巻自斎以上の腕前となって、彼奴きゃつに二度の試合を申し込み、兄の恨みまた、桔梗河原で当家が受けた、あの無残な恥辱をすすがねば死すとも帰らぬという意気込みで修行いたしてくれるということ……それ聞いた時のこの忠房がうれしさは、何に譬たとえんものもなかったぞ」

「…………」

重蔵はどう答えていいか、まったく、五体を冷汗に凍らせて、穴があれば消えてもしまいたい心地である。千浪とても、最前から顔を上げ得ないで、ただ心の底へ潸々さんさんの泪なみだをのんでいる。

忠房は二人の苦しい胸の裡を知る筈もなかった。

「――いや、そのうれしさは予ばかりではない。当家の家臣一統がひたすら新九郎の上達を、指折り数えて待っているのじゃ。鐘巻自斎の力を借りて、卑怯な勝ちを制した宮津の京極家は、その後ますます近国へ羽振りを利きかし、あまつさえ、先頃も江戸城内で、将軍家を初め諸侯列席の所に於いて、喋々ちょうちょうと当時の自慢話をいたし、この忠房に満座の中で、赤恥をかかせおった。――その時の無念さはどうあろう。今に見よ京極丹後守、新九郎が苦節を積んで上達の暁にはと、予はジッと耐えていたのじゃ。重蔵、そちの弟に出会った節は、この一言きっと伝えてくれい、そして、一層芸術に出精いたすようそちからも呉々も励ましてもらいたい」

「へへッ……」

――何として忠房のこの言葉に対して、新九郎は大望を放擲ほうてきし、女と酒に身を持ち崩してしまったと言われよう――重蔵は君を欺あざむく大罪と知りながら、なお、どうしても赤裸々な弟の行状を語ることができなかった。

「おお、余談が先になったが、千浪の仇かたき大月玄蕃は、当屋敷の座敷牢へ投げ込んであるゆえ、今日にも仇討の儀随意であるぞ」

「重々のお情け、心魂に徹して忝かたじけのう存じまする」

「誰ぞおらぬか、用意の品を両名にとらせい」

「はっ」

次の間から、ツツと近侍の者が捧げて来た男女二組の白服、白襷だすき、見事な差刀さしりょうが添えてそれへ置かれた。

「曠はれの祝いじゃ、支度をするがよい――」と忠房は重蔵と千浪を促してから、

「こりゃ、若侍ども八、九名参って、大月玄蕃を引き摺り出せ。場所はかねて申しつけおいた奥庭の芝原――」

いいつけていると、摺り足の音忙せわしく一人の家臣が取次口へ跼ひざまずいた。

「ご前、ご来客でござります」

「なに、下屋敷へ不意の来客とは不審、誰が見えられたのじゃ」

「御老中秋元但馬守様、ならびに、京極家の溝口伊予殿お揃いでござります」

「フーム……」

忠房は俄かに重苦しい顔色を見せて考え込んだ。

五

京極家の江戸家老溝口伊予は、約束の日に大月玄蕃が姿を見せなかったので、不審に思っていると、京極家とは呉越の宿怨ある松平忠房が、路上から玄蕃を拉らっして行ったという事実をふと聞き込んだ。

そこで昨日から、両家の間に激越な懸合いの使者が往復していた。京極家からは、

「たとえ後日に仇討をさせるまでも、当家で抱え約束を致した大月玄蕃、一いったんは是非ともお渡しを願いたい」

という口上。

「いや彼は松平家の臣正木作左衛門を暗殺やみうちして立ち退いた奸賊、当方で処分いたすに不審はないはずである。しかし仇討の当日お立会いなさるのはご勝手なれど引渡すなどとは以ての外」

松平家は再三の使者をみな手きびしく追い返した。

しかし桔梗河原この方一層傲慢ごうまんの度が高まっている京極家が、そのまま指を咥くわえて引っ込む筈がない。

「よし、では武力にかけても取返してお見せ申すぞ」

と威嚇を試みれば、売り言葉に買い言葉、

「おお弓矢にかけても渡すことは成り申さん」

と松平家でもまた断乎として最後の使者を突ッ刎ねた。

交渉険悪になって、既に昨夜は両家の間に、血の雨が降るかとさえ思われたが、老中の耳に入って調停され、とにかく一時事なきを得たのであった。

ところへ、今日また改めて、溝口伊予と老中秋元喬朝あきもとたかともの微行しのびの訪れはそも何事? しかも、今玄蕃を討たせてしまおうと用意をしかけた折も折。――忠房は舌うちをして客殿へ入った。

そこで主客三名の談合数刻。やがて、忠房は面白からぬ気色で元の書院へ帰って来た。そして家臣の者へ苦々しい語気で、

「残念ではあるが是非がない、大月玄蕃めを、一時溝口伊予へ渡してやれ!」

「や、では俄かにご当家が譲ることに相成りましたか」

家臣たちは無念そうに拳こぶしを握った。ましてや千浪と重蔵は、むしろ茫然としたさまである。

「御老中秋元殿は、京極家とは姻戚の間がら、それを頼んで執拗しゅうねく掛け合いに参ったのは丹後守の反間苦肉じゃ。否と申せば、公儀上席の御老中の顔を潰つぶすようにもなるで、無念ながら今日の所は渡してつかわせい……」

と、いいつけた者を立たせてから、忠房は宥なだめるように重蔵と千浪を間近く招いてこう云った。

「したが……両名とも決して案じることはない。今日玄蕃を引渡したのは、折角御老中のお顔を立てたまでのこと、これで先方の一分も立ったことゆえ、明夕溝口家から丹後守の屋敷へ玄蕃が出向く途中を待って仇討いたしくれいという先方の頼みじゃ。僅か一日延びるだけのことゆえ、不承でもあろうが得心いたしてくれよ」

「勿体ないお言葉、何で異存がござりましょう」

「ウム、その心算つもりで、明日までは悠々英気を養っておくもよかろうのう、重蔵」

「それ承りまして、ほッと安堵仕りました」

「もっともである、千浪も眉を開いたようじゃの……はははは、とにかく、今宵は心祝いの酒なと酌くみながら二人の尺八でもゆるりと聞き澄ますであろう」

「お恥しい身過ぎの業わざ、お耳をけがすまででござります……」

「いやいや、その呂律りょりつには重蔵の義心があろう、妙たえな調べには千浪の孝心貞節もこもるであろう、予はその妙韻みょういんを聞きすましたい、是非、何がな一曲奏すさんでくれい」

間もなく、静かな愛宕の下屋敷では、夜と共に清楚な宴が設けられた。喨々りょうりょうとして水のせせらぐに似た尺八の哀韻、それは二人の数奇さっきを物語るかのように、呂々転々の諧調を極まりなくして、心なき詰侍つめざむらいの者さえ泪なみだぐましい気持に誘われた。

×

新九郎は昨夜熱病のように唸うなされていた。

いつも、酒の力で前後不覚になる彼が、夜もすがら悶々として側にいる御方を怪しませた。

耳をおおえども眼をつぶれど、すぐ崖下から聞えてくる尺八の呂律は切々として新九郎の胸に迫るのだった。

彼の良心は、その密ひそやかな音にピンピンと鞭打たれ、五臓の血を絞しぼらるるばかりに苛責かしゃくされた。彼はゆうべ一夜で八大地獄を彷徨さすらうほどな苦患くげんをおぼえた。夜が明けても、新九郎は窓に心を奪われて悩乱を続けている。そしてふと夕暮刻どき、昨日の裏門を出て行く兄の姿と千浪の影を再び見た。

彼は、フラフラと茶室の縁から草履を突っかけた。――が、咄嗟に御方の眼を怖れてあたりを見廻したが、折よく、その姿がなかったので、崖伝いにザワザワと二人の後を慕いだした。

六

昨日、溝口伊予が玄蕃を引取って行った時の約束では、「たとえ一刻でも、彼の身柄を引取れば京極家の面目は立った訳ゆえ、玄蕃が丹後守へお目見得に出向く途中、外桜田の弁慶堀に待ちうけている、随意に本懐を遂げられたい」という手筈。

そして、場所、時間まで言い残し、双方とも助太刀介添かいぞえのことなし――とまで極っていた。で、愛宕の下屋敷を辞した春日重蔵と千浪は、定めの刻限に弁慶堀へ来て、附近の羅漢堂に腰を下ろし、今や遅しと玄蕃の来るのを待ち構えていた。

もう、とっぷり夜に入っていた。

後をつけて来た新九郎は、まさか今ここで仇討のあるということは知らないのであるが、昨夜と言い、今夜と言い、何か仔細あり気な兄の行動に、しばらく羅漢堂の裏に影を潜めている。

ひそひそと交わしていた二人の会話で、新九郎もさてはと胸を躍らせた。二度とこの醜い自分の姿を見せまいと思っていたが、せめて一期いちごの詫わびに助太刀して立去るも遅くはないと考えた。

「オオ重蔵様――」

その時、千浪が溌剌とした叫びをあげる。

「来たな!」

――と新九郎も物蔭で来国俊らいくにとしを握りしめた。

「千浪殿、玄蕃の駕が見えましたかの」

「おおたしかに、今むこうから来る駕提灯かごじるしは、溝口伊予の四ツ目菱、それを目あてに斬りかかれという殿の仰せでござりました」

「ウム、来たわ、千浪殿支度はよいか」

「はい、かならず女と思うて、私に心を惹ひかれて下さりますな」

「よく言われた、ああせめてそなた程の意気があの新九郎にあるならば、鐘巻自斎を打ち込むことも出来ぬ業ではなかろうに……」

何かにつけてつい口に出る愚痴の一言ひとこと。

と、待つ間もなく、人魂のような灯りを振り照らしてタッタと急いで来た黒漆こくしつの塗駕ぬりかご、前後に四、五名徒士かちがついて、一散に羅漢堂の前を走り抜けようとした。ばらばらと駕前に立ち現われた千浪と重蔵。

「あいや、大月玄蕃の駕をそれへ止めい!」

「正木作左衛門の娘千浪、これにて汝を待ちうけてある、いざ、今宵こそ尋常に恨みの刃やいばをうけい」

「春日重蔵、義によって助太刀いたす。最早天命遁のがるる道はない、武士らしゅう名乗り合って討たれてしまえ!」

その途端に、ガタリと駕扉かごどを開けた音がして、ヌッと首を出したのは、大月玄蕃とは似ても似つかぬ白髪鬢しらがびんの老武士。

「こりゃ、そこな呆痴者たわけものめが、何を聞き馴れぬ世まい言を並べているのじゃ」

「やや!」二人は足許がのめり込むほどのおどろきに衝たれた。

「この方は京極丹後の重役村松瀬兵衛と申す者、その大月玄蕃とやらは、とうに伊予殿の屋敷を抜けて逃亡致してしまったわ。ははははは、さても悠長千万な、そんなことで仇討などできるものか、馬鹿馬鹿しい……」

毒口をたたいて、呆れる二人を尻目にかけながら、前より早く塗駕を飛ばせて行った。

仇あだばらし胸むねの朝映あさばえ

一

その夜愛宕あたごの下屋敷では、脇息きょうそくにもたれて松平忠房が、さっきから自鳴鐘とけいばかり睨んで、仇討の首尾如何にやと、しきりに気懸りな様子である。

当の大月玄蕃は、宵の五刻いつつ前に外桜田へかかっている筈。――だのに、今はもう、それから一刻半も過ぎているが、千浪も春日重蔵もいまだにここへ帰って来ない。

「悪くすると対手あいてのために、返り討ちにされたのではないか? ……」

と思うと、忠房はじっとしていられなくなった。近習に様子を見せにやるのももどかしいと思ったか、微行しのび頭巾に無紋の服、二、三人の若侍を連れて、騎馬ぞろいで外桜田の方角へ一鞭当てる――

来て見ると、弁慶堀の附近には、一向仇討のあったらしい様子もない、忠房は不審に思いながら、なお羅漢堂の方へ駒の足を緩ゆるめて行くと、前なる闇にそれらしい人影。

「おお、それにいるのは、重蔵に千浪ではないか」

声にびっくりして、先の影はバラバラと近寄って来たが、微行頭巾の姿を見上げるや否、はっと、馬前に身を沈ませて、

「こは、思いがけない殿様のご微行、いかにも千浪と重蔵めにござります」

と平伏した。

「ウム、両名とも無事なところを見ると、首尾よう今宵の本望を遂げたと見ゆるの」

忠房の晴々した独り合点に、二人は身の縮むような恥しさと無念を感じた。

これ程までに力を入れてくれる君に、不首尾な結果を告げるのは、何とも心苦しいかぎりだが、さりとて、包んでもおけない京極家の不埒ふらちな処置しょち。――今、毒々しい捨て言葉を投げて行った、丹後守の家臣村松瀬兵衛の言い草では、大月玄蕃が溝口伊予の屋敷から逃亡してしまったとあるが、事実は裏に裏のある彼等が予定の行動らしい。――で重蔵は、不本意を忍んでありのままを忠房に告げた。

忠房は馬上のまま、意外な手違いを聞くと、

「なに、では遂に仇の玄蕃は影も見せず、あまつさえ丹後守の老臣ずれが、そのような悪口吐いて立ち去ったか……」

落胆どころの程度でなく、鬢髪びんぱつおののくような怒りをなした。

「まこと玄蕃が逃亡いたしたものなら、予が下屋敷へなり、または即刻この場へ使いを馳せて詫びるが当然、それさえないところを見れば、ますます当家を見くびって、面当つらあての匿かくまい立だてを致すと見える」

「仰せの通り、前後の様子から察しまするに、此方こなたへは夜と偽って、当の玄蕃めは既に昼のうちに丹後守の屋敷へ移っているのではないかと考えられまする」

「言語道断、この忠房としては、桔梗河原の敗れをそそがんとするも、また、そちたちの仇討を援助するも、皆武門の正義に依るのじゃ。しかるに京極方に於いて、飽くまで大藩の威権をふるい、無礼姑息こそくな策を弄ろうする分には是非もないこと、明日登城のみぎり、事公になるまでも将軍家のご正判を仰ぎ、きっと玄蕃めを再び当方へ申し受くるであろう」

千浪も重蔵も、忠房の熱と、恩情に衝たれて、思わずはらはらと落涙した。君恩の勿体なさ、まこと、戦国の世でもあるなら、この君の為に死ぬであろうと思われる。

心の裡で、何か決したもののように、重蔵はややあって忠房の姿を見上げた。

「陪臣の仇討ごときことで、大公儀のご正判まで煩わしましては余りに畏れ多い次第、何卒今宵はこのままお暇下しおかれとう存じまする」

「玄蕃が浪々のうちはとにかく、京極家という後ろ楯のついた今日、当家を去って誰を力に本懐を遂げる心意つもりじゃ」

「こうなりましては、何の手段もござりませぬ。ただ正義を冠かんむりに武士道を楯に、八幡照覧あるところ、運を天に任せるより他ござりませぬ」

「ふウむ……」

忠房はちょっと小首を傾かしげる。

「これより私一人にて、京極の屋敷に推参なし、正邪の理を説き、玄蕃を尋常に渡すや否や、まことを尽して懸合いを試みまする」

「しかし、彼に理非曲直を聞き分ける襟度もなく、飽くまで玄蕃を匿い立て致す時には何とするな」

「元々この重蔵は、ご城下住ずみの一浪人、表向き君のご家臣たる者ではござりませぬゆえ、よも後日の累るいをご当家へ及ぼすことはなかろうと存じられます。それこそ幸い、万一の場合には、その場を去らず斬って斬って斬り捲まくり、当の玄蕃に一太刀の怨みを加えて相果てまする覚悟、ただ心残りなは千浪殿の身の上、私亡き後は何卒よしなにご加護のほど願わしゅう存じます」

「さすがは健気な言い分――」

忠房は鞍壺をポンと叩いて、聞くだに胸が清々すがすがしいといった様子に見えたが、すぐ、

「しかし重蔵」

と、言葉を更えた。

「はッ」

「その意気は頼たのもしいが、この忠房は同意せぬぞ。なぜかと申せば、先には充分な用意もあろうし、そちは足さえままにならぬ体、彼等の乱刃に遭わば膾なます斬りにされることは余りに明白じゃ。また只今そちは、城下住ずみの一浪人と申したが、桔梗河原の試合この方、忠房は家重代の家臣とも思うている。たとえ当家に後日の累るいがあるとなしとに関かかわらず、決してそちを見殺しにはならぬ。とにかく、無念ではあろうが、今宵は一応下屋敷へ戻って千浪と共に篤とくとあとの思案をし直したがよかろう」

忠房は近習にも言い含めて、無理に二人を愛宕の下屋敷へ連れ戻った。――後は寂寞せきばくとした闇の風音、しばらく来かかる人もない。

と――羅漢堂の後ろから、静かに姿を現わした者がある。さっきから、じっとそこに息を殺していた春日新九郎だった。

今夜という今夜、彼には珍しく酒の気もなかった。酒の気のない新九郎は、昔ながらの純情な人間だ。

「ああ、お痛わしい……、兄上、千浪殿」

爪先伸びをして、遠い闇の裡を見送ったが、忠房主従の影も二人の姿も、もう間近い所には見えなかった。

始終のいきさつは、最前からの様子や、途切れ途切れの話し声で、新九郎にも残らず読めていたことであろう。

「千浪どの、兄上、おお兄上――その大月玄蕃は、新九郎がきっと討って差し上げますゆえ、どうぞ一日も早く、郷里へ帰って静かに余生をお送り下さいまし」

人目もなし、聞く人もない闇の裡に、新九郎は心の底から良心の叫びを上げた。そしてその後ろ影を伏し拝んでいたが、やがて、雨気あまけを含んだ一陣の風が大地を払って吹き去った途端に、彼の姿も一散に風の行方へ走り出していた。

二

足軽あしがる仲間ちゅうげんなどの屋敷者相手と見えて、麹町こうじまちの淋しい横町に、まだ一軒の酒売店が起きていた。

縄すだれに樽床几たるしょうぎ、土間には八、九名の客が、酒のうん気の中にやんやと騒いでいる様子。

そろそろ油が心細くなりかけた軒行燈の下に、四、五本の六尺棒が寄せかけてあるのや、縁台の上に笠、提灯箱、法被はっぴなどが、雑然と抛り出してあるところを見ても、およそこの中に騒ざわめいているお客様の種は知れる。

ここは、丹後宮津城の主あるじ――すなわち松平忠房と確執ただならぬ相手の、京極丹後守の上屋敷に近い所だ。邸内のお長屋に住む侍だけでも五十余名、足軽小者は二百人を数えようという大世帯、従ってこの居酒屋は、優に一軒の華客とくいで商売になっているとみえて、仲間一組、足軽二組の顔ぶれは、ほとんどいずれも京極家の者らしい。

「しかし秋山、貴公は今日返り新参になられた、大月玄蕃様のお顔を見受けたかい」

「ウム、夕刻殿様へお目見得で、お錠口へかかる時チラと見受けたよ、大分永い間ご浪人していたそうだが、さすがに昔山陰で鳴らしたご指南番、どうしてなかなかお立派なものだ」

「殿様は先程中屋敷へお越しになって、後は一同へご酒しゅ下され、ご家老の溝口様も村松様も大分破目をはずしたらしいから、今夜のご酒宴は、今が盛りの頃だろう」

「それを思うと吾々は、殿様を中屋敷へお送りした上、手銭手酌で、味気ない安酒宴やすざかもりのご満悦が下らなくなるな。アア巧く一つご指南番にでもなりたいものだ」

「はッははははは、腕前さえあれば、百石千石も望み次第、遠慮なしになるがよいではないか」

「なれぬと思うて嘲弄ちょうろうするな、不肖ながら秋山大助、今でこそ足軽を致しているが、一朝いっちょう事ことある場合には」

「楊子削ようじけずりの腕前で、拾い首ぐらいはして見せるか。わはははははは」

足軽組の方でこんな声が湧き立った時、その話を耳にして、片隅からひょいと後ろを振顧った一人の浪人がある。

見ると、外桜田から姿を消した新九郎だ。

さっきは酒の気がなかったと思うと、今はもうここで一升あまりペロリと飲やって、耳朶じだを桃色に染めている。

「アアいけねえ、少しこぼれて来やがった……」

とば口にいた仲間態ちゅうげんていのが呟つぶやいた。

「なに降って来たか?」

今までしきりにしゃべっていた足軽の秋山大助という男。それを聞くと何か用事を思い出したと見えて、そそくさと、壁に吊るしてあった合羽を引っかけ、竹の子笠を申訳に頭へ乗せてヒョロヒョロ門を出て行く様子。

と――うっかり居眠りの頬杖を醒さまして、びっくりしたという顔で、新九郎も鳥目ちょうもくを払い、泥酔した足どりですぐまたそこを出て行った。しかし、その千鳥足も、六、七間軒を離れるとピッタリ地について、前に行く秋山大助の影をじっと見透かした。

雨と言っても、ほんの微かなこぼれ雨、大助は表詰の者と見えて、通用門には入らず、ずっと石垣の塀腰をまわって、表門の方へ小唄誦こうたずさみにフラついて行く。

「うむ!」

きっと身固めをした春日新九郎、スススス……と闇を小走りに行ったなと思うと、秋山大助の襟がみをむずと掴んで、

「待て!」

と後ろへもんどり打たせた。

「あッ……」

「えいッ」

当て身の一突き――大助は苦もなくそれで横倒れになる。新九郎はあたりを見廻して、合羽、竹の子笠、門鑑の三つを引ひっ剥ぱいで、素早く自分の体に纏まとった。

「うウい……」

またよろよろとした足どりで、鋲門袖びょうもんそでつきの見るからに厳いかめしい京極家の表門へ差しかかった。

「ご門番、ご門番、う、うウい……、お、お願いでござる」

袖門の戸を遠慮なく叩いた。

「何者じゃ」

「ああ、きつい酩酊、ご門番はいかがされた。――お願いでござる。お願いでござる……」

「うるさい奴じゃ、何者か名を申さぬうちは開門ならん」

「足軽、秋山大助でござる……」

「秋山大助、また飲んだくれて帰りおったか」

口叱言くちこごとを呟きながら、潜り門をギイーと開けた。

三

横にかぶった竹の子笠、肩に掛けたばかりの合羽姿を、よくも見ないで、門番は例の呑んだくれな足軽かと苦笑して通してしまった。

春日新九郎は、してやったりと心の裡うちで欣よろこびながら、ツウと門内へ入ってしまうと、さすがに京極家の中屋敷、一町ひとまちを縮めたような広さである。

右手に続いた墨塗羽目の建物は、表役人の詰部屋つめべやと見えて、金網窓には灯あかりもさしていない。その腰壁の下を悠々と通って、ややしばらく行くと中門、そこでまた手間どる狂言は面倒と、隙を見て傍かたえの楓かえでの木から、ひらりと築地塀ついじべいをおどり越え、奥庭深く入り込んだ。向うを見ると、雪の間、青嵐せいらんの間ま、秋錦しゅうきんの間、小さな燭が晃々こうこうとかがやいて、今しも、酒宴の終ったところか、鉤の手ての廻廊を退がって来る侍の影が点々とお錠口へ流れてくる。

植込の中を匍はって、あっちこっちの様子を見てきた新九郎は、橋廊下の下を潜って退さがり所の前近くまで来ると、そこは御殿から酔いつぶれて帰る侍達が大分な混雑。ちょうど小雨がこぼれて来たし、各〻裃袴かみしもはかまなので、同じ邸内のお長屋へ帰るにしても、傘よ履物よと誰彼の名を呼んで犇ひしめいている。

物蔭に屈かがんで、新九郎がふと見ると、その人々とはやや懸離かけはなれた廊下に、黒龍紋の裃にきらびやかな袴をつけた侍が、今詰部屋から取って来た一刀を左手に提げて、奥庭の雨景をうっとり眺めていた。

姿こそ、昨日の素枯すがれた浪人とは、生れ変ったように違っているが、たしかに、それは大月玄蕃だ。――玄蕃は五、六年目ぶりで、思いがけない栄達に巡り会って、その満足と誇りに自ら酔っているのであろう。

「ウーム、いたな!」

新九郎はジリジリと、蟇がまのように身を動かした。そして、思わず刀の柄を折れよと握り締めていたが、ふッと思い返してまた後退あとずさりに体を隠した。

「ここではまずい――」

そう思ったのだ。

そして、しばらく様子の変化を待っていると、他の者は召使の迎えもあり、馴染みの小者もあるので、傘や履物はきものを調ととのえさせて長屋へ戻って行くが、玄蕃は江戸詰の小者にまだ知られていないので、やや当惑しているのだという風が読めた。

新九郎は、笠を眉深まぶかにかぶり直して、こっそり退出所のまえへ紛まぎれた。そしてあり合せた傘と履物を片手に掴み、ばらばらと庭先を駈け抜け、玄蕃の立たち竦すくんでいる前へ来て片膝を折った。

「大月様――」

「ウム、何じゃな」

「雨具のご用意を致して参りました」

「おお大儀じゃ」

玄蕃は何の気もなく、沓くつぬぎに揃えられた穿物はきものへ足を入れながら、

「困り抜いていたところをよく気がついてくれた。この後のち目めをかけてつかわすであろう、其方は何と申す者だ」

「足軽、秋山大助と申します」

作り声ではあるし、笠を眉深にした顔は暗いので、玄蕃も、これが春日新九郎とは、夢にも思わぬのであった。

「ウム、秋山大助というか、拙者も今日より、当分ご邸内に住まうことに相成った。お役の閑ひまを見てまた遊びに参るがよい」

「有難う存じまする、まだお屋敷内の様子もご案内なかろうと存じますゆえ、その辺までお送り申して参りましょう」

「夜更けているのに気の毒じゃの」

玄蕃は、新九郎が翳かざしかけてくれた傘に身を入れて、広い邸内をどう行くとも知らず歩き出した。――彼が案内知らずならこれもまた勝手知らず、とうとう、奥庭の真っ暗な小道へ入ってしまった。

新九郎に取っては、もっけな場所へ出たのであるが、玄蕃は、少し不審を抱きはじめて、

「これ、大助」

と立ち淀んだ。

「へい」

「昼のうち承ったお長屋の方角とは、どうやら少し方角が違いはせぬか」

「ははははは、少しどころか、ここはまるっきりの見当違い」

「して此方を、それと知りつつ、一体何処へ案内する気じゃ」

「おお、八大地獄へ導いてつかわすのだ!」

「な、なんだとッ」

「珍らしや大月玄蕃、柳原土手では取逃がしたが、今宵こそ遁のがれぬところ、悪運尽きた百年目と観念して、その昔の腰抜け侍春日新九郎に討たれてしまえ」

地声を現した新九郎は、大音声と共に竹の子笠を刎はね捨すてて、来国俊らいくにとしの鯉口こいぐちを前落しに引っ掴み、ジリジリと玄蕃の前に詰め寄った。

「ややッ――さては」

と、驚愕の余りに、足駄を踏み辷すべらしてよろよろとなった大月玄蕃は、さすがにさっと血の気をなくして動顛どうてんしたが、咄嗟とっさに裃かみしもの前をばらりッと刎ねて、

「ウーム、さてはおのれは新九郎であったか、姿を変えてこの邸内に入り込み、此方の不意を狙うとは卑怯至極」

「いいや卑怯とは汝のこと、今宵弁慶堀で仇討の作法を踏むと誓言を立てておきながら、約束の場所にも臨まず、京極家の廂ひさしに隠れて生き永らえようとする卑怯者。兄と千浪に代ってこの新九郎がその首貰いに来たのだ。さッ、四の五を言わずに、潔いさぎよく勝負をしろ」

「黙れ黙れ、たとえ何と申そうが、其方と勝負はならぬ」

「なに勝負はならぬと?」

「おお、昨日までは天涯無禄てんがいむろくの浪人であったが、今宵は既に京極丹後守が家臣じゃ、私の身にして私の体でない大月玄蕃、汝ごときあぶれ者と怨恨沙汰の太刀打ちは断じて相成らぬ。強たってこの玄蕃と勝負を所望いたすなら、お役向きから正当な順序を踏んで参るがいい」

「ええ喧やかましいやいッ」

新九郎は叩きつけるような伝法口調になって、

「こっちのお慈悲で、武家作法を踏んでやりゃあつけ上がって、卑怯未練な逃げ口上、春日新九郎と名乗ればこそ、尋常な勝負をしようというものだが、あぶれ者の御曹子と出変れば、順序も糸瓜へちまもあるものか、嫌といおうが拝もうが助けておくことはならねえんだ」

「おのれ場所柄をも弁わきまえずに、その鯉口を切って見よ、家中の詰侍や表役人を呼び立てて、この邸内より遁のがしはせぬぞ」

「ちぇッ、どこまできたねえ世まい言を並べているんだ、いい加減に往生をしてしまえ」

「待てッ、待て新九郎!」

「ふざけやがるなッ」

「待てッ」

「ええいッ!」

と喉を破った一喝とともに、鞘さやを躍り出した国俊の烈閃れっせんが、抜き合わす間もなく、玄蕃の鼻柱へかけてさっと来た。

四

わずか五年前には、山陰無類の腰抜け者と言われた新九郎が、今では武士と侠客両面の浪人伝法となり、その当時、剣名四隣を圧した大月玄蕃なるものが、臆病未練な悲鳴を揚げる――変れば変るものである。

殊に今宵の玄蕃には、折角立身出世の戸端口とばくちに来て、下手をやっては詰らない、できるだけ逃げて栄耀えいようをするに如しくはなし、という一つの弱気が先に立っていた。

それに、柳原土手で、はしなくも新九郎と白刃しらはを合せた時に、かなり度胆を抜かれているので、それ以来、重蔵と千浪に尾つけ狙わるるより、新九郎の名に臆していたところだった。おまけに、その時もひどい雨、今夜も小雨、玄蕃にとっては何だかいやな辻占つじうらだ。

その気持があったため、玄蕃は散々逃口上を試みたが、その舌先の効目ききめもなく、新九郎が真っ向へ第一刀を振り込んで来たので、なおさら彼は後手ごてになり、危うく身をかわしながら、包光かねみつの大刀を横に払って、

「方々、曲者くせものでござる、曲者でござる!」

必死の大声をふり絞しぼって、詰侍の来援を求めた。

しかし、塀の中とは思われぬ程な広さ。御殿の方へも表口へもその声は届きそうにもなかった。

新九郎は平一文字ひらいちもんじにとって構えた剣尖を、玄蕃の胸板に突きつけて、ツツツツと二、三間追い詰めて行ったが、

「往生際の悪い奴めがッ」

いきなり颯然と銀光の輪を描いて、躍りかかりに斬りつけた。――はッと思うと、玄蕃は背後うしろに大樹の幹を背負って、退のきもならず、かわしもならぬ絶体絶命となっている。もうこれまでだとなると、彼は猛然と捨身になって右肩の上に発矢はっしと刃を受けるや否、横に飛び退いて身を沈め、猿臂えんぴ伸ばしにピューッと新九郎の足許を地摺りにすくった。

飛燕の如く新九郎の体が跳ぶ――

斬り辷った大月玄蕃は、あだかも抜手を切って泳いだように体と刀が蛇身に伸び込んだ。

「えいッ」

と同時に新九郎の気合、パチンと紫色の火花が散る――と思うと二、三合、シュッシュッと刀競かたなぜりに縒より合って、あわや鍔競つばぜり――双方必死の足技あしわざを試みつつ、タタタタと押しつ押されつの息喘いきあえぎ、昼なら玉なす脂汗がどっちにもギラギラ見えたであろう。

こうなると大月玄蕃には、衆を恃たのむ卑怯な心も失せ、真の自力に胆を据えて、さすがその昔一刀流で山陰随一と言われた腕前侮あなどるべからざるものがある。

「ええい!」

面を打つ含み気当きあて。

「おおッ」

と新九郎の気合返し。鍔と鍔は鋲びょうを打ったようにガッキリ食い合って、互いの顔と顔の間で、十字に絡からんだ剣尖のみが、ただかすかな光のふるえを刻んでいるばかり――

すると、その時あなたの築山辺りに、ポチリと泛かみ出した提灯の影、また泉水の八ツ橋にも、あっちこっちの木蔭からも――。

「玄蕃殿がお見えなさらぬ。大月氏は如何なされた」

しきりに呼び立てている家中の侍、見る間にここへ指して近づいて来る気配である。新九郎は焦心せきだした。来国俊の刀も折れろ、後藤祐乗ごとうゆうじょうの鍔つばも割れろとばかり、むッと渾力こんりきを柄にあつめて最後の一押し。

「たッ……」

と玄蕃も押しこらえる。はずすか押負けたが最後、対手の刀がズバリと来る間髪の争いである。と、もうすぐそこへ提灯を振って来た一人の侍が、この態を見るや仰天して、

「おのれッ」

横合から、新九郎を据物斬りに狙って来た。そのままじっとしていれば、人形の如く真っ二つになるのは必然だ。しまった! と思ったが是非なくピューッと退ひいて跳び下がると、案の如く玄蕃の大刀が押し落しにつけ入って胸板へズンと来た。

瞬間の変化に、虚空を斬った横合いの侍は、玄蕃の太刀の背へ重ね打に刃を落した。その咄嗟に新九郎は奮然と立て直って、あっと、逃げ退く小侍の脇腹へ横薙ぎの一刀をくれ、返す血刀を揮って玄蕃の正面から息も吐かさずに斬りつけ斬りつけして行った。

受ける、躱かわす、跳びさがる――、さすがの彼も新九郎の獅子奮迅ししふんじんを扱あしらい疲れて、またジリジリと浮腰になった刹那、木の根の濡苔ぬれごけを踏んでふらりとなったところへ、雷霆らいていの一剣あやまたず大月玄蕃の横鬢から頬へかけて糸のような一筋の紅を掠かすった。

「ぷウッ……」

玄蕃は、唇から血を吹いて物凄い形相。そして左の掌てで傷口を押さえ、鬼丸包光を右の片手使いに持って、眼まなこは爛々らんらん、ジリ、ジリ、と片足さがりになって行く。彼の鋩子きっさきが一寸さがれば一寸、二寸さがれば二寸、あたかも闇の中に二本の銀蛇がつながっているように、極く僅かずつ移って行く。

五

「大月玄蕃殿の姿が見えぬ」

という声は、誰の口からともなく、今度は、

「奥庭に曲者が入り込みましたぞ、お出合いなされ、お出合いなされ」

という物々しい叫びと変った。

折から、太守丹後守は、宵に中屋敷へ行っていて、家老溝口伊予がお留守の殿詰とのづめをしていた。

伊予は、時ならぬ騒動を知るや、

「素破すわ、変事!」

と、青嵐の間の長押なげしから、手槍をとってバラバラと長廊下へ現れ、近江八景を模したという奥庭を見渡すと、足軽や若侍たちの右往左往する提灯が、さながら蛍を散らしたよう。

「これこれ、それへ参るは石谷伴六ばんろくではないか」

声せわしく呼び立てた。

「おおご家老様」

駈け過ぎようとした一人の若侍が、息を喘せいてそれへ引っ返して来た。

「曲者は多人数か、ただしは一名か」

「相手はどうやらただ一人のようでござります」

「狼狽者うろたえものめが、小屋敷ならいざ知らず、七万石のお上屋敷にあって、ただ一人のためにこの混乱とは何事じゃ、門番表詰の役人足軽共は何しておった」

叱り飛ばしているところへ、また、血相を変えて飛んで来た若侍の四、五人。ばらばらと廊下先へ両手をついて、

「ご家老様、一大事が出来しゅったいいたしました」

「なに、曲者の他に、また何ぞ椿事が起ったか」

「いえ、その曲者の所為しょいでござる。只今奥庭の広芝に於いて、大月玄蕃様がご最期を遂げられました」

「やや玄蕃が!」

「しかも、胴体ばかり無残に打ち捨てられてあって、首は曲者が持ち去った形跡でござります」

「ウーム……」

溝口伊予は動顛どうてんのあまり、しばらく言葉も口に出ない様子であったが、やがて手槍を引っ提げたまま、若侍どもに明りを持たせて奥の広芝へ来て見ると、首のない玄蕃の死骸が、醜みにくくそこに横たわっている。

当の相手は、首を掻ッ切った上、それを包み去ったものと見えて、玄蕃の定紋付きの片袖がちぎり取られてあった。

吾から玄蕃の返り新参を推挙して、松平家に対する太守丹後守の横意地を煽あおった溝口伊予は、一時の驚愕が過ぎると同時に、次にはこの処置と殿へのご前態ぜんていをどうしていいかに迷い出した。

殊に、その下手人まで取逃がしたとあっては丹後守の機嫌斜めなること明らかだ。

「それッ、一刻も早く手分けを致して曲者を探し出せ」

彼は、自己の危急存亡であるように騒ぎ出した。

提灯の火は邸内の藪畳やぶだたみから植込の中まで潜り、六尺棒は御殿の床下まで叩き廻った。そして、いよいよ曲者は高塀を躍り越えて、屋敷の外へ逃げ出したということが明白になるや、溝口伊予自身も騎馬立ちとなって、数名の家中とともに、辻々の番所を駈け巡り、生首を抱えた曲者を見かけなかったか否かを片っ端から詮議せんぎしだした。

仄ほのかに夜があけかけて来た頃には、小雨もやんで、朝焼けの雲が品川沖に流れて見えた。

ちょうど、溝口伊予や七、八名の騎馬侍が、山手を下って芝の辺りへかかって来ると、まだ人通りもない町並に、一軒の酒屋が戸を開けていた。――酒屋の者は、物々しい馬蹄の音を聞くと慌てて戸を締めようとする風なので一同は、それッとばかり馬から降りて店の中へ雪崩なだれ込んだ。

抜身脅しの詮議の結果、もう一刻程前に、血と泥と雨にまみれた一人の浪人が、この店を叩き起して、一升しょう枡ますの冷酒に舌うち鳴らした上、料紙と硯すずりを借りうけ、何か認したためたものを小袖づつみの生首の髻もとどりに結びつけて、たッた今愛宕あたご通りを左へ曲がって行ったということが仔細に分った。

そして、その浪人というのは、御曹子の新九郎だという註までつけ加えたので、さては、春日重蔵の弟の所業しわざであったかと、溝口を始め京極家の若侍どもはひとしお歯ぎしりして息いきりたった。

朝焼あさやけだ! 朝焼だ! 空が血のようだ。

春日新九郎は気が狂いそうだ。

何だか滅茶滅茶にうれしい、うれしくってうれしくって彼は気が狂いそうだ。

京極家の上屋敷を蹂躙じゅうりんしてやった。玄蕃の首を叩ッ斬った。仇かたきを取った。酒を飲んだ。朝焼だ。道まで真っ赤だ。

朝風衝いて新九郎はどんどん走った。玄蕃の首を横に抱えて夢中に走った。駈けてるうちに、このまま歓喜の雲に乗って天上するようなうれしさだった。

兄の重蔵にこの首を見せたらば――また千浪にこの首を見せたならば――どんなに二人が満足するだろう、うれし涙をこぼすだろう。

けれど、二人に会うことは出来ない。

上野の寒松院ヶ原で巡り会った時、面目なさの余り、二度と今生では会うまいという手紙を二人の手に届けてある。玄蕃を討ったからと言って、過去の罪が消える訳でもなし、自分が堕落から解脱げだつしたことになるのでもない。

会わなくともいい、このまま二人に会わなくとも、これで幾分か自分の気が安らぐ。大月玄蕃さえ世に亡き者となれば、兄は郷里の月巣庵で余生を長閑のどかに送るだろうし、千浪は家中のよき聟がねを選んで、正木家の家名を再興するだろう。そして仁慈に富んだ忠房公は、二人の半生を護って下さるだろう。

それで満足だ。終生会わなくとも、兄と千浪がそうなってくれさえすれば自分は満足だ。

うれしいぞ、うれしいぞ、こんなうれしい朝はない。

そして自分は、どうせ腐れ縁となった御方とは切れぬ仲だ。なるようになって、終るように終るだけのことだ。昨夜やッたことが自分の器量いっぱいなのだ。この上、鐘巻自斎を打ち込むなんていうことは、三度も生れ変らなければ出来ッこない。

新九郎は息もつかずに走りながら、胸の裡でこんなことをちぎれちぎれに考えた。

またたくうちに、愛宕の松平忠房の下屋敷まで駈けて来た。そこで彼は、あらましの次第を髻もとどりに書きつけてある玄蕃の首を如何にして、兄と千浪の手へ渡そうかと思い惑った。

門番を叩き起して託すがいいか、それともそッと塀の中へ抛り込んで置こうか? ……

彼が、松平家の鋲門の前を、とつおいつして迷っている頃、早くも、芝田村町の角を曲った京極家の家臣七騎は、閃々せんせんたる手槍、抜刀ぬきみの片手綱で、愛宕を指して驀まっしぐらに飛ばして来ている。

さして行ゆく二度にどの大望たいもう

一

追手の武士七人の駻馬かんばは、瞬たく間にそこへ近づいて来た。――と見て、新九郎は引ひっ提さげていた玄蕃の首を門前から松平家の囲いの中へ塀越しにポンと投げ込んでしまった。

こうしておけば、必ずやこの下屋敷の中にいる兄と千浪の手へ、それが渡されるに違いないと思った。――とむこうから、

「おッ曲者はあれだ」

「遁のがすな! 斬ってしまえッ」

と劈つんざくような声。

途端に、面前十間と隔てぬ所へ、蹄を止めた京極方の武士達が、バラバラと馬の鞍壺から跳び降りて、大刀の鞘を抜き連れるや否、左右正面の三方包み、鉄刀の矢来を作ってかかって来た。

鋲金具の屋敷門を後ろ楯に、水の垂たるるが如き国俊の一刀を、ピタリと青眼に取って向けた新九郎は、眼まなこを剣尖から三方に配りながら、

「さッ来い――」

と息をひそめて待ち構えた。

しかし、さすがにその計りがたい鋩子きっさきへ、吾から命を落しに来る浅慮あさはかな者もなく、やッ、おッ、の喚わめきばかりで、しばらくは七本の刀影がギラギラと相映じているのみだった。

「ええ、何を猶予しているのじゃ」

討手の先頭である溝口伊予は、その時、自身から真っ先に新九郎へ一太刀入れた。同時に刃交ぜの機が熟したか、どッと雪崩なだれかかった乱刀が、一瞬にして新九郎の五体を隠し、剣鳴戞然けんめいかつぜん、凄まじい白光乱裏はっこうらんりに血飛沫ちしぶきの虹がピュッと走った。

すると、不意に松平家の袖門が中からさッと開いて、樫の六尺棒を引っ抱えた仲間ちゅうげんや若侍達が、口々に、

「それッ、ご門前に於いて立ち騒ぐ浪人ばらを片ッ端から打ちのめしてしまえ!」

と叫びながら、京極家の者と名乗るにも耳をかさず、当るに任せて滅多打ちに撲り立てた。

あわてふためいた京極方は、散々になって追い廻されたが、新九郎の身は反対に、六尺棒の渦に巻き込まれたまま袖門の中へ吸い込まれてしまった。でも、彼は無理に外へ躍り出そうとしたが、咄嗟に、門の扉は固く閉められ、内から厳重な閂かんぬきをかッて追手の襲撃に備えるように見えた。

溝口伊予は烈火の如く怒って、再びそこへ引っ返し、激しい声で呶鳴り立てた。

「やあ心得ぬ仕打ち、如何なるわけで狼藉者を匿かくまい立てなさる。吾々は京極丹後守の家臣、尋常にその者をお渡しなさい」

すると、松平家の者もまた、門の中から声に応じて、

「いや、断じて渡すことは相成らん。いつまでもその辺にまごまご致していると、龍吐水りゅうどすいを浴びせかけるから左様心得ろ」

「おのれ、無礼な挨拶、強たって渡さぬと申すなら、宮津七万石の威光をもっても、必らず下手人を申し受ける手段をとるがどうじゃ」

「おお面白い、宮津の城主が何者だ、ご当家たりとも関ヶ原以来いまだかつて武門におくれを取った例しのない松平家。どんな手段でも勝手にとって参るがいい」

「ウーム、よくも広言を吐ほざいたな。きっと出直した上にはこの下屋敷を踏み潰つぶしてくれるから覚えておれ」

溝口以下の者は、足摺あしずりをして口惜しがったが、手負いを交ぜた七人の小勢では、何とも施す術すべもないので、捨科白すてぜりふを言い残したまま駒を返して引き揚げてしまった。

二

春日新九郎ただ一人のために、麹町こうじまちの上屋敷を荒された上、玄蕃の首を掻かれて見事に鼻を明かされた京極家の家中が、溝口伊予たちの帰邸と共に、一層激昂げっこうしたのは当然であった。殊に血気の漲みなぎり立っている若侍などは、早くも戦いくさのように騒ぎ立って、松平の下屋敷へ殺到すべく息巻きだした。

多年、積もり積もって来た両家確執の火が、ここに噴煙を揚げてしまったので、老臣の分別や重役の支ささえも何らの効かいなく、得物を取って宮津武士の百人余りは今しも愛宕へ差して海嘯つなみの如く襲よせようとしていた。

けれど、そんな大騒動をお膝もとで起すことは、江戸の周囲が見遁みのがしているところではない。急はすぐ八方に知れて、このことを松平方へ早打ちする役人もあり、また、辰たつの口くちへ報ずる者もあって、丹後守とは縁戚の老中秋元但馬守は、真っ先に駈けつけて来て一同を鎮撫ちんぶした。そして但馬守が再度松平家へ出向き、非公式にこの解決の結びをとることになった。

一方、愛宕の下屋敷の奥では、松平忠房が無理に新九郎を招いて逢っているところであった。忠房は深い事情を知らず、ただ彼が単身京極家へ斬り込んで、玄蕃の首を引っさげてきたことに無性な快を感じ、積年の溜飲を一時に下げている態ていである。

けれど同席の重蔵は、玄蕃の首を見ても一向に喜ばず、またこの上は早く郷里へ帰って静養するようにと希ねがう、新九郎の情愛をも受うけ容いれない風に見えた。

そして、言葉もかけず苦にがりきっているその眼づかいは、あたかも――

「お前のような弟に仇かたきを討って貰ったとて、この兄はちっとも嬉しくはないぞ。そちの本当の使命は、鐘巻自斎を打ち込んでみせることではないか。卑怯者め、心得違いな奴め、恥知らずめ、醜い奴め、早くご前からその浅ましい姿を失せおらぬか」

と蔑さげすむごとく、叱る如く思われた。新九郎も、その無言の笞しもとを、心の髄ずいへピシピシと感じた。

ところへ喬朝たかともの使いが来た。内外には、京極方の侍が、何十人となく後を慕って来たらしく、物々しい動揺どよみ声ごえが奥まで聞こえてきた。

喬朝の使者も、新九郎を縄つきで渡すか、あるいは、切腹させるかの二つの条件を前提として、更にこう附け足して言った。

「もし、ご承知のない場合は、血の雨を降らすまでもと京極家では息巻いている。両家の善悪はとにかく、かりそめにも、御府内でそんな大事を惹き起すようになっては天下の不祥事。また、松平家ともあるものが、微々たる浪人者を使嗾しそうしたようで世間の聞こえもどうかと思われる。殊に、喬朝は老中たるの役儀がら、すぐ登城して将軍家の上聞に達し、善後の処置を致しおかねばならぬと思いますので、よくよくご熟考が願いたい」

口上はいかにも穏当な調停に似ているが、実は非常な強迫を含んでいる。

なぜかと言えば、京極家贔屓びいきの喬朝が、決して公平である筈がない。殊に、これくらいなことで、一にも将軍家、二にも将軍家とお上かみの名を振りかざしてくるのは、老中の職権にあるぞと言わんばかりな威嚇でなくて何物でもない。

と言って、売られる喧嘩を買うことには、言い分も立つが、老中の調停を退けて、京極家と血の雨を見ることは、自ら非を求めるようにもなる。

忠房は、家臣が応接している使者の口上を、襖ふすま越しに聞いていた。そして、とにかく、こう答えさせて使者を返すことにきめた。

「今日は他に取り込みごともござりますゆえ、いずれ明朝には、必らず当人に腹切らせて首をお渡し申すでござろう」

それを聞くと、使者は、余りたやすく要求をきかれたのに、かえって不安を覚えたらしく、

「では、明朝は相違なく、拙者と京極家の者が立会いに参りますが、ご異存はないのでござるな」

「承知いたしました。きっとお待ちうけ申しまする」

「神妙なご挨拶、定めし、御老中にも満足なさることでござろう」

とは言ったが、使いの者は、案外腰の脆もろい松平家の態度に呆れもし、またいささか疑念をも抱いて帰った。

使者が帰ると、忠房は忘れたように、酒肴を命じて春日兄弟をもてなした。いつもなら酒を飲むというより、酒に吸い込まれて行くような新九郎も、今の話を洩れ聞き、兄や千浪を前にしては盃をとる気力もなかった。

「新九郎、なぜ過ごさぬのじゃ」

「はっ……」

「重蔵もちと相手をしてやったらどうじゃ。京極家からあのような懸合いが参ったからとて、別段驚くことはない」

忠房は快活に笑った。

「日が暮れたら、夜に紛れて新九郎は当屋敷を落ちのびてしまうがよい。これは玄蕃めを匿かくもうた京極の策を同じようにし返してやるのじゃ。ははははは。後はこの忠房が引き受けた。必ずとも心配いたすな」

「殿様――」

その時、新九郎はズイと膝を進めた。

「お、何じゃ」

「お別れでござります……、初めてお目通りを得ました新九郎も、また今宵を限りにお別れと相成りまする」

「ウム別れじゃの……したが、そちは必ず、当家の迷惑を顧慮して、京極家などへ身を捨てに参るなよ」

「えっ……」

新九郎は、胸の裡を見透みすかされて、思わずはッと頭ずを下げた。

「よいか……たしかそちには、鐘巻自斎を打ち込んで、桔梗河原の汚辱をそそいでくれる大役があった筈じゃ。予はそれだけが心待ちでならぬ。それまで、如何なる恥かしめを京極家から受けてもジッと忍んでいる忠房じゃ」

「は……はい」

新九郎は面を上げることができなかった。――いや、彼自身の苦痛より、側にいた千浪と重蔵の方が、より以上の苦痛を覚えているであろう。忠房はさらに新九郎を見据えて、

「聞いての通りな次第で、そちの身には危険が迫っている。殊に大事な大望を抱く体、この上とも修行に精進してくれい。そして夜に入ったら、密かに裏門から遁のがれ出よ、オオ、これは重蔵と千浪にきっと頼んでおくぞ、それまでは打ち寛くつろいで積る話など致すがよい」

忠房はこう言って、奥の居間へ姿を隠してしまった。――と、重蔵も千浪に眴めくばせして、素気なく席を立ち上がり、引き止める間もなくスススと廊下のむこうへ出て行ってしまった。

あとにただ一人取り残された新九郎は、寂然と腕うで拱こまぬいたまま、しばらく瞑目めいもくしていたが、やがて何思ったか、銀の銚子から大盃へ手酌で幾杯となく飲み干した。

新九郎はさっき心の裡で、密かに死を決したのだ。潔いさぎよく京極家へ命をくれて、松平家の禍いを未然に防がなければなるまいと思い詰めているのである。

にもかかわらず、鐘巻自斎という名を聞くと身が竦すくむほど怖ろしい。自斎の風貌を思うだに総毛立つ心地がする。ましてや彼の剣前に立って、勝ちを制することなどは、新九郎に取って死より難く死より恐怖なのであった。

夜来の疲れが出たのか、酒に性根を現してきたのか、彼はやがて袖部屋の隅にゴロリと身を横たえて、雷のような鼾いびきと共に手枕の夢心地よげに寝込んでしまった。

忠房から、夜半にこの屋敷を落すようにいいつけられていた重蔵も千浪も無論彼を起しには来なかった。で新九郎は、身動きもせず夜明けまで寝込んでいたが、やがてムックリ起き上がると、庭へ出て泉水に嗽うがい手水ちょうずを使い、すぐむこうの数寄屋の一室へ入って、心静かに切腹の身仕度をした。

と――暁方の仄明ほのあかりを密ひそやかに忍び寄って来た何者かが、縁の隅から様子を窺うかがって、

「新九郎様……新九郎様……」

と二声ほど呼んだ。

「お……、千浪殿か」

彼は、それが女の声なのを知ってこう言った。千浪が来てくれたなら幸いである。彼女も決して自分の最期を止めはしまい。松平家の存亡の為、また忠房の信頼を裏切っている謝罪だけでも今新九郎の死すべきわけは充分にある。それと、何より彼の菩提心に気懸りとなるのは身の不自由な兄の半生。その後事を千浪に篤とくと頼んで併せて彼女に無情つれなかりし永年の罪も一言ひとこと詫びたい――と思った。

「千浪殿か」――と呼んで、新九郎は抜きかけた脇差を押しのけ、しばらく聞き耳を澄ましていたが、それっきり何の答えもないので、また重ねて、

「お呼びなされたのは千浪殿ではないか」

と低声こごえになって縁の外をさしのぞいた。すると、

「いいえ……」

さやさやと寄って来た媚なまめかしい姿の影が、不意に新九郎の腕頸うでくびを握りしめた。

「…………」

彼は恟ぎょっとして身を退ひいた。

そこへ寄って来たのは、意外にも光子てるこの御方だった。どうして御方がこの屋敷へ入り込んで来たのか、彼には皆目見当がつかなかった。

三

「もし……」御方は更に身を摺り寄せて、迫るように男の瞳をみつめた。

「お前様は、何で自害なされます? いいえ、その事情は大概分っておりますが、妾わらわという者を置いて勝手に死んでよいものでございますか」

「分っている? ……」

新九郎は怪しむ如き色を濃くして反問した。けれど、一昨日おととい彼が隠れ家を抜け出した時から、男の行動を尾行つけもし、また崖上の恋の隠れ家から下屋敷の様子を残らず探っていた御方には、事実およその成行きが想像されているに違いなかった。

「ええ、何もかも分っておりまする。お前様の心では、ここで死ぬのが花とも本望ともお思いなさるか知らぬけれど、捨て残されるこの光子はどうなるのでござりますえ。……新九郎様、二人の仲はそんな約束でありましたか」

御方はまた例の執拗にして粘り強い恋の糸を繰り出して、新九郎の意志をも身をも巻き悩ます。そして、男はいつもその魅惑に弱かった。

「今となって、松平家の為に命を捨てたところで、お前様の汚名が失せ、立派な武士道が立つ訳でもござりますまい。それはほんの、千浪とやらいう女子おなごと兄上への申し訳、世間の義理に縛られて死ぬに過ぎませぬわいの。オオ阿呆らしい、人は知らずこの光子は、新九郎様をそんなことで死なすことではござりませぬ。さ、妾と共にすぐこの屋敷を逃げて下さいませ」

「え、ここを遁のがれ出せと?」

「元より、お前様が武士道を捨て世間を捨てる代りに、妾も栄耀や屋敷を振り捨てて、どこぞの片田舎に隠れて楽しく暮らす約束ではござりませぬか」

「オオ、そりゃたしかに約束もした……武士を捨てようとも言った。……だが、いかに新九郎が未練者でも、今となって何でそんなことができるものか」

「いいえ、できぬことはござりませぬ。世間を捨てた恋の二人に、義理もなければ絆きずなもない筈、もしお前様が強たってと仰っしゃるなら、妾は忠房様なり兄上なり、また元の許婚いいなずけとやらいう千浪というお女ひとに逢っても、きッと立派に新九郎様の身を、申し受けて帰ります」

恋の盲目は何をするか分らない――殊に御方は公卿出の気位きぐらいと、江戸で別扱いの吾儘わがままに勝った人、まったくそんなこともやりかねないのである。新九郎は咽のどを締められるような強迫を感じた。

と思うと、御方はまた手を代えて、さまざまに掻き口説いたり、見るも悩ましい姿態しなを見せた。男が悶々と悩み惑う時、年上の女はあらん限りの力で煩悩ぼんのうの誘惑をつづける。

新九郎は遂に弱い男であった――彼は勝てなかった。

「ままよ、御方の言う通り、なまじ半端な武士道を立てて見たところで、一度極道へ落ちた新九郎が、どうなるものでもありゃあしない……」

ふっと気が変って見ると、一途いちずに死ぬのが馬鹿らしくなった。いつか夜もすっかり白んで、庭樹の間から朝の陽が薄々と洩れはじめている。

「お! 姿を隠すなら今のうちだ」

新九郎は、不意に自暴やけらしく言って立ち上がった。

「えッ、では妾の云う通りにしてくれますか」

「愚図愚図していると、今朝は御老中の使者と京極家の侍が、拙者の首を受け取りに来る筈だ。それに、また兄上や千浪の姿を見ると所詮生きちゃあいられない気になるからの……オオ、それはさて措おき、どこから抜け出したものだろう」

「この奥庭を突き抜けると、あの崖下で竹の垣根囲いになっている所がありまする。妾もそこから忍んで来たことゆえ、出るには何の造作もないこと」

「だが、屋敷の者が起き出してはこと面倒、そう極まったらすこしも早く行くとしよう」

数寄屋の縁を降りた二人が、斜めに庭を突ッ切って急ぎだすと不意に後ろから、ばたばたとそれを追いかけて行った者がある。

五、六間やり過ごして、新九郎の後ろへ跳びかかるが早いか、いきなり柄音つかおとをさせて、

「新九郎! 覚悟」

とばかり抜き討ちに斬りつけた。

「やッ!」

ひらりと身を捻った新九郎は、目の前へさッと落ちた白刃を見るや否、相手の利手ききてを小脇にグイと捻じ取ってふと気づいた。

「や! 貴方は兄上」

「オオ、重蔵じゃッ、新九郎……そちは、そちは……ええ何という浅ましい奴じゃ」

重蔵の声は抉えぐるように新九郎の胸を衝うって、手に持つ刀の柄がガタガタと鳴り響く。

「これ、そちは一体、何が故に大月玄蕃などを討って当お館やかたへ姿を出したのじゃ。いやさ、いつこの兄や千浪殿が、そちに仇かたきを討ってくれと頼んだか! 拙者はな、足こそ不自由な身なれどもまだ自堕落じだらくな汝らに代だい仇討をしてもろうて、喜ぶような者ではないぞ……」

あらん限りの力をこめて言うので、重蔵は息も喘あえぎがちのかすれ声――

「――のみならず、前後の弁わきまえなきために、当お館へ大難をおかけ申し上げたるのみか、のめのめとご前にのさばり出して、ようもようもその醜い姿をお上に見せおったものじゃ。……殿様はまた、よもやそちが江戸表へ出て、あのような堕落侍になりおろうとはご存じなく、臣下に過ぎたお情け深いお言葉を何と聞いた! それをまた、側で聞いているこの兄の辛さ、千浪殿の胸の切なさ……」

声涙ともに下って、彼は後を咽むせび消してしまった。極度に昂ぶった声音も、その時凄愴な語調に落ちてくる。

「……したが、昨日きのうの様子では、切腹して罪を詫びんとするらしい気振りが見えたので、この兄も心の裡で、オオまだ微かな本心が残っていたか、せめてそうでも致してくれたら、すべてをお上に懺悔ざんげしてご寛大を願おうものと存じていたに、最前からの様子は何じゃ、それでも其方そちは人らしい皮をかぶっていると思うか」

「兄上、面目次第もござりませぬ……」

新九郎はじっと首を垂れて、兄の腕頸を抱えたまま、その手に持つ白刃の鎬しのぎへはらはらと悔いの涙をそそぎ流した。

御方も共に、いつか物蔭に身を隠して、秋の虫の音を聞きでもするように、樹の幹へ背をもたせかけて、思わず耳を澄ましたのも、重蔵の胸衝つ言葉の力であろう。――彼はまだ存分に言い足らぬが如く、すぐ新九郎に言い返して、

「面目ないという了見があったら、なぜせめて最期だけでも見事にせぬのじゃ。たかが一婦人の艶色に溺おぼれて、お館の難儀も顧みず、また武門も義理も踏みにじって女と共に失うせようとは何たる人非人。アア、もうこの上に言う勇気もない。汝を逃がしては松平家にご難題のかかるは必定じゃ。新九郎、兄が成敗いたしてくれるゆえ観念いたせ」

「あ、兄上、しばらくご猶予下さいませ……」

「だまれ、未練な奴めが」

振りほどかれて、足許へ伏しくずれる新九郎。

重蔵は構わずさッと大刀をふり上げて、真っ二ツになれと斬り下げた。新九郎は無意識に身をかわした。

「兄上ッ」

と片手を構えて何か言おうとすると、

「おのれ、兄に手むかいするか」

重蔵は更に仮借かしゃくなく、肉親の弟へ、向け難き刃を烈々と向けて、今は狂気のようになった。

足こそ不自由なれ、その昔は大月玄蕃に対峙した重蔵の切ッ尖、息をつく間もない上に、新九郎は兄がその足をつまずかせてはと思い、間違って怪我けがをしてはとハラハラしながら避けているのでたちまち木の根へ追い詰められ、かえって自分が蹌よろけたところへ、いきなり重蔵が躍りかかって、彼の倒れた上へ馬乗りになってしまった。

「これッ、弟――」

重蔵は左手でしッかと新九郎の喉首のどくびを抑さえ、右手に剣の切ッ尖をピタリと向けた。

「眼めを開けい……眼まなこを開けてこの切ッ尖を見ろ! そちの迷夢を醒さましてくれる」

「兄上……」

喉を締められながら、下から蒼白い顔を向けた。

「か、観念仕りました……ご成敗下さい」

「ウム、覚悟がついたか」

「千浪殿を他家へ縁づけて下さいまし。兄上にもご壮健に……もう心残りはござりませぬ」

「よく申した、今生の別れに兄の面おもてをよく見ておけよ」

「はい……」

今ぞと見上げる弟の眸と、兄の眸とがジイとみつめ合った刹那――

逆手さかてに持っていた重蔵の大刀が、キラリと光を動かしたかと思うと、新九郎の顔から胸板へかけて、サッと鮮麗な血潮が流れた。

四

新九郎は玉の緒のきれた現うつつを覚えて、流るる血をわが血かと感じたが、同時に、吾にあらぬ苦悶の声がしたので、はッとおどろいて身を動かすと、跨またがっていた兄の重蔵が、脇腹に大刀の切ッ尖を深く突き入れたまま蹌よろりと倒れ落ちたのである。

「おおッ!」

新九郎が真ッ赤な姿で、兄の体を抱き起しているところへ、息をきって駈けて来たのは千浪であった。――なおその後から、太守の忠房も小士こざむらいの報らせに近侍を連れて大股に歩いて来る。千浪は重蔵の自刃を見ると声を揚げて泣き伏してしまった。そこへ、近侍が駈けつけて重蔵の耳に口を当て、殿のおいでになったことを告げると、彼は血汐の中から気丈な顔を上げて、忠房の方へ目礼した。そして、

「し、新九郎……新九郎はおらぬか……」

と苦しげな息で弟を招いた。新九郎は跳びつくように、

「兄上、この弟をご成敗なさらずに、なぜご自害なされたのでござりますぞ」

その前へ両手をついた。

「どう思案いたしても、そ、そ、そなたを殺すことは出来ぬからじゃ……兄の切腹は、今思いついたことではない、昨日から……こ、こころの裡で覚悟していたことなのだ……」

「えっ、では兄上には、昨日からこの新九郎に代ってお命を捨てるお心でござりましたか」

「弟ッ……」

重蔵は朱あけの手を伸ばして彼の体を引き寄せた。

「お前を生かしておいて、こ、この……兄が死んで行く気持が分るか。それは……鐘巻自斎を打ち込んでご当家の恥辱をそそぐ者は、ど、どうしても、この世の中にそちより他にないからだ。拙者は不具……残念ながら覚束おぼつかない……そちが今の兄の切ッ尖を受ければ既にこの世の者ではないのじゃ。死を賭してかかれば、たとえ鐘巻自斎に如何ような神技があろうと勝てぬという筈はあるまい。ましてや、お前にはまだまだ光の出きらない天稟てんぴんがある。それが惜しい……それが女や酒のために曇っているのが惜しゅうて殺されぬ。兄の血潮でその曇りを拭いてくれ、いいか、いいか、臨終いまわのきわに一言誓いを立ててくれ……」

「…………」

「新九郎、返辞はできぬのか――兄を犬死させる気か」

「兄上ッ」新九郎は男泣きにかぶりついて、

「致します、きッと致しまする」

「うむ! ……」満足らしく微笑した重蔵は、脇腹の血刀を抜いて、吾と吾が喉へ持って来ながら、

「それでこそ私の弟、あの世で楽しみにしておるぞ」

「必らずご覧下さいまし。今日という今日、新九郎の永い迷夢も醒さめ果てました」

「オオ……皆様、おさらばでござる」

がくり俯伏うつぶした時には、もう喉笛を見事に切って、春日重蔵はまったく息が絶えていた。抱き起して死骸を検あらためた家中の侍は、その懐ふところから一通の遺書を見つけて忠房の前へ出した。

白扇を開いて、涙の顔を隠していた忠房、それを取って読み下くだすと、新九郎が今日までの行状の事実、それを危ぶんでいた罪の詫び、千浪が後事などがあらましに認したためてあった。そして末行には自分の首をもって新九郎の身代りとなし、時節の来るまでご隠忍あるようにと今日の結果までを案じてあった。

千浪と新九郎の歎きは言うまでもなく、忠房も家中の侍も、みな重蔵の誠忠と弟に対する恩愛の深さに貰い泣きした。

間もなく老中秋元喬朝たかともの使者、京極家の溝口伊予その他の者が、万一を慮おもんぱかって、堂々たる人数でこの下屋敷へ出向いて来た。

ところが、今日も案外容易に、下手人の首を渡したので、京極方ではいよいよ松平家が威光に怖れたものと得意になった。無論、首は検分の形式をとって受け取ったのだけれど、誰も深く新九郎の相貌を知る者はなく、およそのうろ覚えで受け取って行ったのは、実は兄の重蔵の首だったことは言うまでもない。

その一時の混雑のうちに、御方はいつか裏崖から植木屋弥平の隠れ家へ戻っていた。そして彼女はその日の午後に、ちょうど駕をもって迎えに来た姉の「姉の」はママ通子の方と同道して、鋲びょう乗物に姿を隠し、打ち沈んだまま江戸城の大奥深くへ入ったのである。

この騒動の噂も下火になったころ、愛宕あたごの下屋敷からこッそり出て行った一人の侍があった。

銀杏いちょう形の編笠を白の真田さなだで腮あごにむすび、黒の紋服に身軽な行膝袴たっつけばかま、草鞋わらじ鉄扇てっせんの拵こしらえまで、すべて真新しい武芸者姿。

それは新九郎だった。――武家侠客御曹子の名を翻然ほんぜんとかなぐり捨てた春日新九郎であった。

彼は小半丁ちょう来る間に、二、三度下屋敷の方を振り顧って、心のうちの別れを告げた。そこにある松平忠房や、千浪や、兄の霊にこの先き五年か十年か二十年か、自分にも分らぬ永い別れを告げて立って行く――

鐘巻自斎! 鐘巻自斎! 今日からその名が怖ろしいものであってはならない。彼の指して行く行くてはいずことも分らないが、目ざす生涯の対手あいての名は富田とだ三家の名人鐘巻自斎だ。

大妻籠おおつまご無極むきょくの太刀風たちかぜ

一

信州美濃の山境、木曾の妻籠峠つまごとうげに、この二、三年前から、不思議な行者がこもりはじめた。

大妻籠の峰から落つる男滝おだき女滝めだきを浴びて、りんりんたる鈴を振っているかと思うと、忽然と五社明神の森に隠れて、三尺余寸の木剣を打ち振り、大樹の枝をパキン、パキンと飛び打ちに引っ裂いている。

初めは、いかに気合いを劈つんざかせても、細い小枝さえ離れなかったが、一念の妙通と言おうか、この頃では、地上七尺も跳び上がって、樫かしの太枝をやッと打つと、あたかも、名刀を以て裂いたようにキクリと斬れる。

月晃々こうこうたる霜の夜も、雨あめ蕭々しょうしょうたる夏の朝も、行者の必死な練磨は間断なくつづいた。時には鳥獣を対手あいてに技を試み、ある時は飛魚を狙って術の会得えとくをあせる様子。何さま深い事情があるらしいが、心なき里の者は、ただ稀代な変り者もあるものだと嗤わらっていた。

ところが、つい近頃、変り者にまた一人の変り者がふえた。

それはこの木曾路を通りかかった江戸弁のいなせな旅人で、前からの知り合いか、妻籠峠で旅合羽を捨て、山稼ぎの馬子の群に入って、ひたすら行者の世話をして侍かしずいている。

「あの変り者は兄弟かしら、それとも主従だろうか」

「いや、気狂い同士で気が合ったのだろう」

などと、里の噂にまた花が咲く。

が、行者は相変らず一心不乱、旅の者から馬子になった男も、日ごとに麓ふもとの立場たてばへ来て稼ぎ、夜は五社明神の森へ帰って、行者に仕えること主しゅの如くであった。

×

その日はちょうどジリジリ照りの土用太郎。

広瀬の宿しゅくから追分へつづく並木の蔭を、大股に辿たどって行く武芸者がある。丈は六尺に近く、涼やかな編笠に面おもてを隠し、胸にそよぐ長髯ちょうぜんは刀の鍔つばまで垂れていた。

と、すぐその後から、追い着くように急ぐ女二人の旅人。

「お、今、チラとこっちを見た姿容すがたかたちは、たしかにあの者でござります」

「と仰っしゃったところで、会わせたいお方がここにいないでは、何もならないではござりませぬか」

「でもせめて、落ち着く先の居所だけでも聞いて、新九郎様にお知らせ申したいものでござります」

「さ、その新九郎様の行方は、こうして二人で尋ねている矢先、アアままにならぬもの……」

追い疲れたか、ホッと足を緩めていると、道中つきものの駕屋が、目ばやくこの美しい二人を見つけて群がった。

「もし、お女中がた、どうせ妻籠越えにかかるんでしょう。駕を使っておくんなさい。男なら馬もいいが、あなたがたじゃ駕より他にありませんぜ」

「要りません、麓の立場でゆるゆると休んだ上のことにする心算ですから」

「じゃ立場までやッて、息次ぎとしようじゃありませんか。オイ、早くもう一挺来い、乗って下さるとよ」

「これ、要らぬと申しているのに」

「要らねえたッて、大妻籠四里の山の中を、女の足で歩く訳にも行きますめえ。さ、乗っておくんなさい」

「うるさい下郎じゃ、そのような駕には乗らぬ」

「なに下郎だと」

「…………」

年上女らしい女は、口をつぐんで、クルリと後ろ向きになり、並木の風を入れている。

「やい、てめえは何様か知らねえが、下郎と言ったなあ聞き捨てにならねえ、さ、ここにいる仲間一同へ両手をついて詫びればよし」

「さもなくば何としやる気? ――」

「おや、この女あまめ、怖ろしい権式を持ちゃあがッて、こうするんだッ」

飛びかかって紅緒の笠べりをバリッと掴むと、女は下からポンと小手を払って、あッと見る間に腰をすくって、大の男をもんどり打たせた。

「うぬッ、洒落たまねをッ――」

続いて唸り込んだ三本の息杖、カラリッと虚空に鳴ったのは女の杖に弾き返された一本が、クルリと宙に舞って飛んだのだ。

「あ痛ッ」

眉間みけんを押えて一人が倒れると、その上へまた見ぎたなく投げられた荒くれ男。立ち上がったが意外な手練に度胆をぬかれて、

「畜生、覚えていやがれ!」

と、捨て科白ぜりふを言い残して一目散に逃げ出した。

「ホホホホホホ、これで雲助どもを揶揄からこうたのは、今度の旅で三度目じゃ」

年下の方を振り顧って、動悸もさせずに笑ったのは、むしろ艶あでやかというよりは凄い女。――でも少しほつれた鬢びんの毛を梳すき上げるため、日除笠ひよけがさの緒おを解といたのを見ると、これなん、菖蒲あやめの寮の光子てるこの御方。

連れはと見ると、意外にも、千浪であった。

松平忠房の下屋敷を最後として、皆ちりぢりになってから早くも三年の月日が過ぎている今。千浪も虚無僧当時の乙女でなく、御方も早や三十路みそじに近い色香の薄らぎ。

「ほんとに、貴女様のお手並で、気強い道中ができまする」

「なんの、対手がいつも駕かきずれの者ゆえよいようなものの、大勢の山賊にでも出会うたら、とてもこうは参りますまい」

「私のために、思えば飛んだご苦労をかけまする」

「いえいえ、これが妾の罪ほろぼし、重蔵様のご最期の言葉に、初めて迷いの夢をさましたこの身が、ふッつり新九郎様を思い切ったという証あかしを立てる、いわば自分の為に過ぎませぬ」

と、御方の言葉は、生れかわっているように違っていた。

弟思いの重蔵の一死に、新九郎が溺れかけた淵ふちから奮然と醒めたように、御方も、あの時物かげで始終の様子を聞いて、心から浅ましい迷いを醒ましたのであった。

自分独りの愛慾のために、新九郎を日蔭者にさせ、許婚いいなずけの千浪に、あの困苦をさせた、罪の怖ろしさに気づいた。

御方は、その後千浪に文ふみを便りして、我が罪業を詫びた。千浪もそれに女らしい返辞を書いた。そして、二人はいつか親しい間になって、二度の大願に江戸を去った新九郎の本懐を心待ちにし合っていた。

もう三年……そして、新九郎の消息は更にない。

千浪の淋しい姿に痩せが見えた。御方は自分からすすめて、二人で旅に立つことにした。――今は自分の愛慾もなく煩悩ぼんのうでもない旅なのである。

「オオ、思わぬことに暇どって、さっきの侍を見失ってしもうたが、いずれ立場へ行けば追いつかぬこともありますまい」

「ほんに、では千浪様、そろそろ参るとしましょうか」

笠を持ち直して急ぐ先に、間もなく、この木曾街道第一の難所、大妻籠おおつまごの姿が孔雀石をもりあげたように聳そびえている。

二

先に立場へ着いた長髯ちょうぜんの侍は、茶屋の葭簀よしずも潜らずに、すぐ片手の鉄扇を上げて、馬子の溜りをさしまねいた。

と、吾れ勝ちに客を争う馬方が、手綱を振って五、六組も出て来たが、侍は中でも一番不馴れらしい馬方を指して、すぐ、鮮やかな身ごなしで鞍に乗った。

「まだ陽ひは高いゆえ、そう急いで参らなくともよい」

「へい、登りの二里さえ越してしまえば、後は夕月を見てからでも、楽に落合の宿しゅくへ入られます」

「ウン、山中の幽翠を、鞍に揺られながら、この炎日を忘れて行くのが楽しみじゃ」

「そりゃもう、女滝めだきの裾あたりへ行くと、夏でも寒いくらいでございます。じゃ仕度はようがすか」

「おお、やってくれい」

ピシリと、手綱のこぶしで一鞭くれると、馬はやがて妻籠の緑蔭に隠れて行く。

羊腸ようちょうたる道を静かに蹄ひづめの音が辿る。馬上の侍は懐中ふところから一冊の古書を取りだして読み初めた。チラと下から表紙をのぞくと、「剣秘不識篇けんぴふしきへん」としてある。

馬方の眼が、キラリと光って、その文字と編笠の下から垂れた長髯とを見較べている気振り。でも、しばらくは黙々と山の中腹まで来たが、

「お侍さん」

と、不意に歯切れのいいところで振り顧った。

「何じゃ」

武士も疲れた眼を休ませる。

「失礼だが、旦那は剣術使いというやつだね。年中、やッとうを商売に、諸国を遍歴している武芸者でしょうが」

「ふふ……まあそんな者かも知れぬな」

「ところで、ご生地はどちらでございますねえ」

「つかぬことを訊くではないか」

「ええ、ちょっと心当りがありやしてね」

「播州船坂山におった者じゃが……何か、そちもあの辺の者でもあるか」

「なアに、わっしはこれでも江戸ッ子です。――すると旦那は、今から七、八年前、桔梗河原の大試合に、春日重蔵という対手の者を打ち込んで、その片足を打ち挫いたことがありゃしませんか」

「おう、よう存じておるの」

「じゃ、てめえは鐘巻自斎だな?」

馬方の男は、いきなり手綱をグイと曳き詰めて、馬上の侍をハッタと睨んだ。と同じように、長髯の武士――即ち鐘巻自斎も、読みかけの「剣術不識篇」を懐ふところに納めて、この奇怪な男をしばらくじっと見すえている。

「いかにも拙者は、その時の鐘巻自斎に相違ないが、それが一体何といたした」

「ウム、てめえが自斎らしいたあ、その髯と風態で立場から感づいていたんだが、はッきり分った以上は、もう一寸すんも馬はやれねえ」

「だまれ、この山中へさしかかって、馬を出さぬとは理不尽な言いがかり」

「いけねえいけねえ、何と言おうと、汝が鐘巻自斎と聞いちゃ、一刻もこの馬は貸しておけねえんだ。さ、今に目にもの見せてやるから、鞍を降りてしばらくそこに待っていろ!」

言うが早いか、馬方は猪いの鼻はな台だいの平地を斜はすッかけに駈け出した。

と、行く手に鬱蒼うっそうたる一ひとむらの夏木立。ドウッと万雷がとどろくような音が、その密林の下から響いて来る。大妻籠十七峯の流れをあつめて落つる女め滝男お滝の霧しぶきは、その近くの草木を濡らして、満山の風を呼んでいる。

「待てッ」

自斎は鋭い声を投げた。道中馬の背から跳んだ彼の体は、疾風を衝いて怪しげな男の後ろへ追いかかった。

馬方は雑草の根に足をすくわれて、一、二度勢いよく転んだが、脱兎の如く逃げ廻って、ばらばらと女滝の岩頭に駈け登った。

「オーイ!」

彼はそこで必死に誰かを呼ぼうとしたが、追いついて来た自斎の猿臂えんぴが、ムズと彼の帯際を引っ掴む。男はチェッと舌うちして、その小手を払おうとしたが、やッという気合いを聞くと同時に、彼の五体は苦もなく草むらの中へ投げつけられていた。

「これッ、仔細を言え、何ぞわけがあろう」

「その訳は今知らしてやる!」

「待てッ、まだ逃げるか」

「べら棒め、逃げるんじゃねえから待っていろ」

二度目に掴まれた襟元を引ッぱずして、あッという間に男は女滝の滝壺たきつぼ目がけて、ポーンと跳び降りてしまった。

が、彼の体は、猿ましらのように途中の梢に引っかかった。そして枝から下の枝へ、スルスルと降りて行くよと見る間に、たちまち姿が見えなくなった。

「はて、山稼ぎの賊とも見えぬが、不思議な奴……」

自斎は編笠のふちを押さえて、上からそれを見降ろしていたが、サッと足もとから吹き上げてくる一陣の冷風と共に、白霧濛々もうもうと立ちこめている滝壺のあたり、耳を衝つごとき振鈴の音がりんりんと響いてくるのを聞いた。

三

一方、雑木の茂みの中を辷すべり落ちるようにして、下へ降りた男は、崖がけの根っこに片手を支ささえて滝壺の中を見降ろしながら、

「もし、新九郎さま、新九郎さま!」

と、息弾はずませて呼び立った。

「おう!」

と答えた声は、白浪泡あわを噛かむ滝壺の底。

巌々がんがんたる岩と岩との間、水晶の簾れんを懸けたような女滝を浴びつつ、今しも痩せたる一人の行者は、一念一心に右手めての鈴を振りながら、禁慾鍛身たんしんの苦行三昧。

「おウい、新九郎さま――」

轟々ごうごうと鳴る水音に、男は片手を口に蔽おおって再び呼ぶ。

はたと振鈴の音がやんだ。

「何じゃ、こんがら!」

「早く滝壺から上っておいでなせえ」

「鋒ほこヶ峰みねの山肩に、あの日輪が蔭かげる時刻までは、たとえ身が凍ろうとも上がらぬ心意つもりじゃ」

「その毎日の行ぎょうは、わっしも知っておりますが、今日は番外、一大事が湧いて来たんですから」

「なに、一大事と?」

「こんがらの重兵衛が、こう焦せき立てるからにゃ、唯事じゃありませんぜ」

「ウム、ではとにかく、それへ参って聞くとしよう」

白衣の行者は、やおら滝壺を這い上がって、水を含んだ黒髪を絞って後ろへ束ね、袖から雫しずくを垂らしながら、男の側に蹌よろめいて来た。

毎日、滝を浴びては陽ひに照らされ、密林に木剣を揮ふるっては雨露にさらされているこの行者は、面もほとんど朽葉色くちばいろに焦やけて、肉は落ち骨は尖って、まったく見る影もない枯巌枯骨こがんここつの姿である。

ただ、一ひときわ異常なのは、熒々けいけいたる二つの眸ひとみ。それはまた人を射るごときものであった。

「唯事でないとは心もとない、一体何事が起ったのじゃ」

鈴を膝に乗せて木の根へ掛けた。

「新九郎さまの御一念が、天に通じたというものか、今日、麓ふもとの立場から乗せた侍が、どうもかねてお話に聞いていた奴に違ちげえねえと思って、今この上で当りをつけて見ると、やッぱりそいつじゃごぜえませんか」

「えッ! では鐘巻自斎が」

「そうです。さ、新九郎さま、この上は一刻も早く、上へ登って尋常の勝負とお出かけなせえ、憚はばかりながら、こんがらの重兵衛が後ろ楯に控えております」

「ウーム、忝けない……」

思わず合掌して天を拝した行者――それは言うまでもなく春日新九郎だ。

ああ、人は昔に変らぬ新九郎だが、兄重蔵の一死に迷夢を醒さまして、江戸愛宕あたご下の松平家を去ってここに三年、人知れぬ密林の切磋琢磨せっさたくまに剣の妙髄みょうずいを工夫し、女滝男滝の水に打たれて禁慾苦行の難道に、いまほとんどその相貌さえ変り果て、昔の寮の御方を悩ませた、あの水々しい美男の面影はいずこにかある。

「対手あいても音に響いた鐘巻自斎、逃げることもありますめえが、何しろ、一刻も早くおいでなせえ」

と、先に立ったこんがら重兵衛とは、新九郎が御曹子の売り出し当時、兄弟分せいたかと力を協せて、親分生不動の仕返しをしたかのいなせだ。

柳原土手の小雨の晩、新九郎の腕を借りて、首尾よく笊組ざるぐみの久八や小六を叩ッ斬った時、こんがらは対手の荒神十左に斬りたおされた兄弟分せいたかの髻もとどりをふところに入れて、江戸表を高飛びしていた。――その後、彼は旅から旅を流浪していたが、ふとこの木曾路へかかッた時、不思議な姿に変り果てた当時の御曹子の兄哥あにき――春日新九郎に出会ったのだ。

こん度はこッちで恩を返す番だ――こんがらは旅合羽を脱いで、新九郎が大願を遂げるまでこの山に籠ると決めた。そして、昼は馬方になって宿からこの大妻籠を帳場として稼ぎ、夜は、里から買って来た食べ物などを齎もたらして新九郎と一緒に山住居やまずまいをして来たのである。

時こそ来れと、二人が勇み立ったのも当然。

山陰の一城下を出て、江戸の五年は空しくもあれ、重蔵の死後、この山奥に隠れて艱苦かんく三年の甲斐あって、今日ここに鐘巻自斎が来るとはまったく天の与え。新九郎は草むらに忍ばせてある国俊の一刀を白衣の腰に落し、右手めてに常用の木剣を引ッさげて、こんがらの後からすぐに駈け上がった。

「オオ、あれだ!」

元の所へ攀よじ登って来ると、こんがらの重兵衛、思わず大声で彼方の人影を指さしたので、先でも気がついたか、ひょいと編笠をこっちへ向けた。

「ウム、たしかに自斎」

バラバラと駈け寄った新九郎、いきなり抜き討ちをかけるような勢いで、

「しばらく!」

呼び止めておいてから、更に四、五尺の前まで近づいた。

「拙者をお呼びか――」

と不審な色。笠の目堰めせきをぴたりと向けて、じっと見澄ます自斎には、変り果てた新九郎を、その昔、小野の道場で出会ったあの青年とは思いも付かぬらしかった。

四

吾ながら、腑甲斐ふがいなしとは思うが、ここ千載一遇せんざいいちぐうの大事と思えば、新九郎の五体はおのずからブルッと顫ふるえてやまぬ。

「あいや鐘巻自斎! かく申す者は、小野忠雄の道場にて、見参げんざんいたしたことのある重蔵の弟春日新九郎じゃ。かねて約束の二度目の試合を所望いたす、いざすぐこの場に於いて支度をいたせ」

「おお!」

自斎はハタと袴はかまの膝を打って、

「月日の経たつまま、いつか忘れ果てていたが、いかにも何処やらに覚えのある新九郎――して、その後の修業は充分に積んでおいたか」

「言うまでもないこと。不肖ふしょうながら新九郎も一匹の男じゃ! ここに姿を現して試合を望む以上、きっと汝に打ち勝つ自信あればこそ。オオ、多言は無用、支度をせいッ」

「ウム、さらばその後の上達ぶりを見てやろうか」

自斎は悠然と編笠の紐を解く。

ギラリと輝く明眸、茶筌ちゃせんに結ゆい上げた逞しい赭顔しゃがんが現われる。左の掌てで、黒漆こくしつの髯を軽く抑えて、ズイと一足前へ出た――

出た途端に、右手めての鉄扇が、ピュッと新九郎の眼の前へ一文字をつけ、

「支度は済んだ、いざ、参ろうぞ!」

気殺! まず気をもって対手の胆を挫ひしぐ破われ鐘がね声ごえ。

が――新九郎の今日までの鍛練、さすがに、そのくらいなことでは竦すくみはしない。

「むッ、参るぞ!」

ブーンと右手めての赤樫あかがしが虚空に唸って、地に落ちるかと思うと中段にピタリと止まる。

見事につけ澄ました平青眼。

自斎の鉄扇も片手構えの相青眼。

剣尖けんせんと扇の先は、触れず着かずの微妙な間あいを保って、双方ブルとも動かなかった。

「アア気が揉める、ただの喧嘩なら飛び出して後ろへ廻るがそうも行かねえ」

彼方あなたに離れて、二、三間の所を、ウロウロしているのはこんがら重兵衛。この鐘巻自斎を、たった一本打ち込みさえすれば、福知山一藩松平家の名誉恢復となり、重蔵の忠死空むなしからず、新九郎もかがやく武門の栄光を負うことになるのだと聞いているので、いッそ、石でも打ぶつけて加勢してやりたい気組。

「後生ごしょうだぜ。後生一生だ! うまくポンとやってくれ、頼ま、頼ま、新九郎の兄哥あにき、おっと、南無八幡大菩薩さま!」

言ったところで縁の下の力瘤ちからこぶ。

「えーいッ」

その時、不意に木魂こだました自斎の気当。――が、鉄扇がひらめいた訳ではない。

見ると、不動縛しばりになった如く、新九郎は面おもてに朱をそそいだまま、髪の生え際に玉の汗を泛かせている。しかし、自斎その者も、決して児戯じぎをあしらうようなものではない。一分一厘の隙にも細心を払って、眼気を対手あいてにそそいでいるのだ。

「新九郎、もう勝負はついているぞ」

「なにッ」

「そちの疲れは七分の疲れ、拙者はまだ五分の余裕を持っている」

「だまれ、左様なことで勝負があったとは言わせぬ」

「真に、小野の道場で見た時よりは、驚くばかりの上達ぶり、必死の剣気、自得の工夫もたしかに見えるが、アア、まだまだこの鐘巻自斎を打ち込むは無理」

「ううむ、飽くまで拙者を見くびりおるな!」

憤然と打ち込もうとすれば、自斎の影は尺の鉄扇の影に隠れてまったく見えぬ――と、ツイとその鉄扇の邪魔がとれた。

「おおッ!」

真っ向に振りかぶった赤樫の木剣。自斎の手元へ五体と共に躍り込んでふり落すと、パチンと虚空に刎はねつけられた。

「無念ッ――」

と身をひねって横に薙なぐ。はッと風を切って木剣が横一文字、新九郎はその勢いの浪に浮かされた如くフワリとなったかと思うと、エイッという裂帛れっぱくの声を頭上に聞いて投げつけられた。

「ははははは……」

と同時に高らかな笑い声。

ああ自斎は遂に、鬼魔か、神人か。

「ウーム、もうこれまで」

と跳ね起きた新九郎、いきなり腰の真剣を颯然と抜いて、物をも言わず斬りつけて来た。

「不愍ふびんや新九郎、とうとう逆上いたしたか」

かい潜りながら自斎が言った。

「狂気ではない、この上は真剣の果し合こそ望むところ、汝の命をとるか、この新九郎が真っ二つになるかまで!」

猛り立った彼の魂は、あたかも来国俊に乗りうつッたかのように、縦横無尽と風を斬ッて、ほとんどまばたきの隙もない。

「やッ、いよいよ本ものになりやがった」

こんがらもこの有様を見ると、馬の背につけておいた藁苞わらづとの道中差を押ッ取り、いきなり駈け寄って鐘巻自斎の横合から、

「野郎、覚悟をしろ!」

とばかり斬りかけた。

乱刀二本の光を潜って、ピタリピタリと鉄扇できめつける自斎、まったく人間技ではない。

見る間に、こんがらは当て身を食った。その上、死力をこめて行く国俊の太刀も、どうした早技か、鉄扇に搦からみ落されて、あッと驚いた途端には、跳び込んで来た自斎に新九郎の身は横捻じに組み締められて、彼がポンと離すと共に、新九郎はグタリとなってそこに倒れてしまったのである。

気絶させた二人を置き放して、自斎は編笠を拾い取り、スタスタそこを立ち去ろうとしたが、ふと立ち止まって、懐ふところから前の「剣秘不識篇」の古書と矢立をとり出し、挟み紙にサラサラと何事をか書きのこして、それを新九郎の懐に差し込んだまま、道を急いで大妻籠おおつまごの峰へ向った。

山ひだは濃い紺色をしッくりさせて、十七峯の空は、いつか夕雲華やかに流れ、木の間洩れの陽が山路を赤く染めている。

五

「おウい、行者殿、行者殿」

誰か耳もとで呼ぶ声に、ふと気がついた新九郎、まだ気が張り詰めているので、思わずムックリ眸を上げて見ると、眼の前にいるのは自斎ではなくて、麻の道服を纏まとい手に藜あかざの杖を持った一人の老翁。

「かねてから、仔細ありげに思うていたが、さてはそういう大望を抱かれているお身の上であったか……、ウーム、しかしこれは容易ならぬことじゃ」

五社明神の階段きざはしに腰かけて、こう呟きながら童顔の眦まなじりをつぶった老翁は、即ちここの荒れ宮を守る神禰宜かんなぎの橘左典たちばなさでんであった。

「お訊ねのまま、狂人がましき修業のわけをお話し仕りましたが、二度まで対手あいてに不覚をとっている始末、何とも面目がござりませぬ。必ず里の者へも、この儀はご吹聴下さらぬように願います」

導かれて、ここへ来た新九郎とこんがらは、左典の前に額ずいて、問わるるままに、つい大願苦行の目的を洩らしてしまった。

よそながら、常に新九郎の様子へ眼をつけていた老禰宜ねぎの左典、今日も、通りがかりに自斎と彼との試合を見ていたので、聞くごとに頷いて、さて、静かにこう言った。

「わしも若い頃は、少し木剣いじりを致したことがあるので、剣道の奥儀というものに達し難いことだけは知っている。殊に、播州船坂山の鐘巻自斎と言えば、富田とだ流三家と言われた名人の随一、まず尋常一様なことで、彼に打ち勝つことのできぬのは道理でござる」

「では、如何なる苦行を積み、琢磨たくまの功を経ましても、所詮この大望は遂げられまいと仰っしゃりますか」

「さればさ……」

左典は何か思案顔に、童顔の眦まなじりを神々しくふさいで、夕星ゆうずつのきらめきだした空を仰ぐ。

拝殿の破やれ神簾みすのかげに、今二つの御灯みあかしがついた。榊葉さかきばのかげに光る鏡を掠かすめて、下げ髪水干すいかんの巫女みこが廊下の上へ静かに姿を立たせた。

「禰宜様、ご用がおすみなされましたら、奥のお方がお目にかかりたいと仰っしゃります」

「おお、あちらにも誰かお客人か」

「はい、悪い雲助に悩まされて、山駕に召されぬ旅のお女中が二人、一夜の宿を借りたいと仰っしゃいますので、裏のお小屋へご案内しておきました」

「そうか。女ばかりの旅では定めし難儀、ご親切にいたしてあげい」

「はい」

「わしは、もうしばらく後に奥へ行く……」

と左典は巫女の言伝てを返して、また新九郎の方へ向き直った。

「されば、御身が十年の修業を積めば、彼自斎も十年の工夫を進め、御身が二十年の奥儀に至ればかれまた二十年の奥儀を積む理ことわり。従って後より名人の域を追い越すには、余程非凡な修業と超人の克己が要いりましょうぞ」

「ご尤ともなお言葉、もとより粉骨砕身の苦患くげんは否むところでござりませぬが、ただ如何にせばその域にまで達しられましょうか。あわれ未熟な新九郎を不愍ふびんと思おぼしてご教訓願わしゅうぞんじます」

「オオ、その謙譲な心こそ、まだお身の腕が伸びる何よりの証拠。とは申せ、わしには何らの力もないが、その一心に愛めでて五社明神の神力をお授け申そう。今宵から二十一日の間、夜の五更にここへ訪ねて来られい」

左典のいう神力とは何であるか、新九郎にもよく解せなかったが、仙味を帯びた老禰宜の風格には衝うたれるような威厳があった。

「では、今宵の五更にまたお目にかかる……」

左典は客に会うべく奥へ消えた。後に残った新九郎は、何か神の示現でもうけたような気がして、しばらく恍惚としていると、側からこんがらが、

「新九郎様、何やら書物のようなものが、懐ふところから落ちそうになっていますぜ」

と注意した。

「えっ……」

覚えのないことなので、ふと手をやって見ると、「剣秘不識篇」の一冊。

「はて、どうしてこんなものが、自分の懐に……」

と、怪しみながらパラパラと中を開いてみると、挿み紙の走り書きに、自斎の残した数行の文字。

=新九郎殿へ申す。今日のお働き実に見事みごと。まさに大円満の明鏡は研みがき出されんとす。さりながら血気にはやる暴勇。功を急ぐの短所。ともすると一点の瑕瑾かきんたらんかをおそる。自愛一層の精進せられよ。余は、足かけ七年尋ね廻りし恩師富田五郎左衛門先生にも遂に巡りあわず、空しくこれより郷地播州船坂山の草庵に戻らんとす。ただ待つものは貴下の三度の訪れなり。さらば。

真夜中である。夏ながら大妻籠の山中、肌寒いような冷気にふと眼がさめる。裏小屋に泊った千浪と御方は、思わず枕から顔を上げた。

「何でございましょう、あの音は?」

「オオ、激しい気合の声もする……」

ポン、ポン、凄まじい木太刀の音、丑満うしみつの静寂を破って何とも厳粛な気にうたれる。

二人は不思議に思って蚊帳かやを抜け出した。鷹の巣山の真上に皎々こうこうたる月がある。木剣の音は拝殿の前、二人はその床下の蔭に添ってそッと広前をさしのぞいた。

見ると、白昼の如き神前に、神禰宜かんなぎの左典と白衣の人が上段下段に木太刀をつけて、火を摺するような荒稽古。

「まだ気力が足らん! 神心の凝念ぎょうねんが足らん! 剣と心の一致が足らん! 無念無想になれ、わしを鐘巻自斎と思うて打ち込んで来い」

左典は鋭い声で叱咤しったし、かつ励ます。

「えいッ――」

と新九郎は必死! おのれ鐘巻自斎! その意気込みで真っ向に打ち込む。

痩躯そうく鶴の如き左典の身は、ヒラリと剣尖けんせんをかわして、その途端に藜あかざの杖がブーンと新九郎の横面に飛んだ。

「やッ――」

と、受けたがその隙もなく、

「それ、無風剣……」

音もなく来る二の太刀。パキンと、引っぱずすとすぐ三の太刀。

「左風剣!」

「えいッ」

「右風剣!」

息もつかせず一刀ごとに追い詰めて、あわやと見る間に、藜の杖を横一文字に、サッと払った左典。

「えいッ、無極刀!」

その鋭さに、新九郎はハッと気竦きすくみを覚えて日頃鍛練たんれんの梢こずえ斬りの飛躍の呼吸をもって、咄嗟とっさに上に跳びかわそうとしたが、ほとんど、その隙もなく左典の返した上段刀が颯然さつぜん来た。

「新九郎ッ、そちが自斎に打ち込まれた太極たいきょくの太刀はこれだ!」

「なにをッ」

木剣を眉間のあたりに半月に構え、左典の太極剣を発矢はっしとうけたが、その途端に、三尺赤樫の木太刀は、パキンと真ん中から折れて、尖さきの破片ばかり、あたかも独楽こまを舞わしたように、クルクルクルと、虚空を飛んで、此方こなたにいた千浪と御方の上に危なく落ちて来ようとした。

「あっ――」

身を避けながら、思わず軽い声を揚げると、それに気づいた左典と新九郎が、ひょいとこっちへ振り向いた。

恋こいと剣つるぎ解脱げだつの涼衣すずぎぬ

一

「やや、あれにおるのは? ……」

御方が目をみはると、千浪もびっくりしたさまで、

「オオ尋ねるお人じゃ、新九郎さま、新九郎様ではござりませぬか」

思わず呼ぶと、月影を透かして、ジッとこっちを見た新九郎、ハッと今の身を忘れて、手の木剣をカラリと捨てた。

「千浪殿か――おお御方も!」

ばらばらと駈け寄ろうとする、――と後ろからその襟がみを掴んだ神禰宜かんなぎの左典、雷いかずちのような気合をかけて新九郎を大地へ投げつけ、その利きき腕うでを捻じ上げて、脊骨のくじけるほど踏み押さえた。

「試合なかばによそへ心を奪われるばかりか、師礼を弁わきまえぬ不所存者。そのような不覚な心で上達がなろうか。ここな馬鹿者めがッ」

丁々ちょうちょうと打って懲こらした上、千浪と御方を無理に誘って、自分の住居に誘い入れた。

床ゆかしき短檠たんけいの明り、百巻の兵書、何さまただの神禰宜かんなぎの部屋づくりとは見えぬ。今、あれ程激しい稽古をつけて汗ばみもせず毛皮の上にゆたりと坐った左典、千浪と御方を近く寄せて、何やら懇々こんこんと一刻あまり説きさとした。

「おお、では新九郎さまには、それ程までにご苦行なされて、自斎を打ち込むご一心でござりましたか……聞くだに嬉しいことでござります」

「その一心不乱の矢先に、お身達が姿を見せるのは悪魔の訪れも同様、何ごとも新九郎の為じゃ、このまま逢わずにお帰りなさい」

「一時のお痛わしさは後の欣び、夜の明け次第にここを立ち去りますが、今仰っしゃった新九郎さまへ秘剣をお授け下さるというお言葉は、まったくのことでござりまするか」

「なんで偽りがあろう、その儀は必ず、左典が引受けた。江戸へ帰って吉報をお待ちなさるがいい」

「アア、有難う存じます……」

千浪は我が達成のように欣んだ。そして、朝の光を見ると間もなく、御方と共に大妻籠の峰を降りた。

江戸表へ帰り着くと、千浪はすぐ愛宕あたごの下屋敷へ戻って、松平忠房にありのままを物語り、やがて来るべき日の手筈は、御方の方からすべて打ち合せて来る筈だと言った。

×

彩画をほどこした銀泥ぎんでいの襖、調度の物の絢爛けんらんさ、いま大奥の一間に囁ささやき合っているのは、家綱の寵妾ちょうしょうお通みちの方と、一人は久しく見えなかった姉の光子てるこの御方だった。

「さあ、他ならぬ姉上様のお願いでござりますが……」

と、お通の方はさし俯向うつむいて当惑の色がある。

「大奥の者が、ご政道向きに口を出すことは、上様のきついご禁物でござりますから、そのようなことはお耳に入れてみてもどうかと存じまする」

「いえ、決してご政道に触れることではありませぬ。かえって松平家と京極家との永い確執かくしつを解くよい折ともなりましょう。のうお通さま、わがまま者の姉が一生一度の頼みと思うて賜たも……」

「それ程までに仰っしゃるなら、女の力でどうなるか存じませぬが、今日にも、吹上ふきあげのお数寄屋へお越しの節、そッと上様のお気色を伺ってみましょうわい」

――こんな密ひそかな大奥の力が働きかけたためか否か、それから間もなく、大府師範の小野忠雄が家綱に召され、また老中秋元喬朝たかともにそれとなく京極家の噂があったりした。

しかし、それは当座でしばらく何の沙汰もなかったが、初秋の訪ずれそめた万治三年八月の二十日、御府外駒場野のお鷹地へ、将軍野遊のことが表役人へ仰せだされた。

例年やる駒場野のお鳥追とりおいは、秋の末頃であるのにと、誰もが怪訝いぶかしく思って当日の様子を聞き探ると、野遊は表向きのお触れで、当日鷹地の御用狩屋で、京極丹後守の家中を代表する某剣客と松平忠房の方からすぐり出された某なにがしとが、将軍家のご前で未聞の野試合をやるのであるという噂が洩れた。

「京極家の某剣客とは誰であろう」

「イヤ、それよりも松平家にそんなすぐれた者があるだろうか」

「将軍家の出遊までうながした当日の野試合、定めし無双な剣客がお見出しに預ったのだろうが、松平家と京極家との対抗は、どうやら意味がありそうな張合いではないか」

両家のもつれを知る者は、これは只事の試合でないと、噂はいやが上に立って、在府の大名旗本の間、後には市中の町人にまで未曾有なことに喧伝けんでんされた。

二

播州ばんしゅう船坂山ふなさかやまの隠れ家へ帰って、一月ほど前に旅装を解いた鐘巻自斎は、落ちつく間もなく、また再び旅衣を着つけなければならなかった。

江戸の小野忠雄から急状が着いたのである。とにかく、この状着次第に出府してくれとのこと、用向の判断はつかないが、事態ただごとならぬ様子だけは文面に溢あふれている。

「不思議じゃの……」

自斎は寛々かんかんたる例の姿で、道中を急ぎながら考えた。

「ことに依ると、富田五郎左衛門先生の居所でも知れたというのかな……足かけ七年山と言わず、峰と言わずお行方を尋ねあぐんだ五郎左衛門先生に、一目お逢い致すことが出来れば、富田流三剣の一秘刀、永い間求めている謎が解けるのだが……今度のこの便りであってくれればいいが」

思いきや、その想像は外はずれていた。

彼が江戸に入った足で、すぐ小野派宗家の道場を訪ずれて、忠雄から聞いたところは、実に京極家の剣客として駒場野の御前試合に出よとの将軍家内命であった。

「して、対手あいて方は?」

自斎はまッ先にそれを訊ねた。

「その昔、当道場にもしばらく居たことのある春日新九郎と申すもの」

「ウム、果たして彼でござったか!」

膝を打って快然と、

「余人とのことならば、たとえ将軍家のお声であろうと仰せは受けぬが、その新九郎となれば異存はござらぬ。確しかとお引きうけ仕った」

自斎江戸入りの知らせをうけて、京極家では賓客の礼をとって迎えの行列を出した。太守丹後守家中一同、揃って下へもおかぬ歓待。

「何とぞ大先生のお力をもって、当日、京極家の武名をご維持下さいますよう、その代りとしてこの度野試合にお勝ち下さいました節には、終生先生のご書料として五百石の蔭扶持かげぶちをお送り申す心底でござります」

などと、老臣からの含みもあった。

「無論勝たねばならぬ!」

と自斎は思った。が、名利ではない、桔梗河原の時と違って、今度は天下の諸侯諸士が環視の晴れ場所。

柳生、小野、また江戸の名だたる剣客もよそながら注目しているであろう場所。やぶれを取っては富田三家の恥辱、また仮借かしゃくがあっては新九郎の不為ふため、いずれにしても正しき剣の優劣を明らかにせねばならぬ。

程なくその日が来た。駒場野の御用屋敷からお鷹地の広野には、白い葵あおいを染め抜いた紫の幔幕まんまくが張り渡されてある。大番組の警士を初め渋谷三郷の代官、柵の内外に厳しい固めをつけておく。

既に将軍家は、未ひつじの下刻げこくに着御ちゃくぎょ、随行の大名お鳥見組の諸士、近侍旗本のひしひしと詰め合った南面のお幕屋に着席している。半刻のご休息があって、一番太鼓がドーンと入る。二番太鼓……貝の音が吹き渡る。

素破すわ! 両剣士への合図か――と思うとそうではなかった。鷹匠頭たかじょうがしらが引率する鳥見組十二列が静々とご前へ現われて、厳粛なうちに華やかなお鳥追の式礼を済ます。野遊というお出触れの手前このことがあったらしい。

かくて、まさにその日の八刻半やつはん。

旗本近藤甲子之助きねのすけ、野試合奉行を承わって床几しょうぎにかけ、京極家の控え所、松平家の溜りに向けて二人の武士を走らすと、初めて人をもって埋められた駒場野のお狩地、人なきごとくシーンとしてしまった。

三

青芝を撫でるソヨ風に、きッと鉢巻を結んだ鬢びんの毛けをなぶらせて、彼方かなた四ツ目扇の幕屋から、悠々と歩を運んで来た偉丈夫が見えた。――鐘巻自斎である。

時も同じに、松平忠房の鯨幕くじらまくをヒラリと刎はねて、颯爽たる姿を現した痩せぎすの青年は、すなわち春日新九郎。水浅黄の小袖に短か袴、昔に変って色黒く、眼鋭く、大妻籠から下山してきた野人の風骨そのまま、鐘巻自斎と、面と面を向いあわせて、ピタリとそこに踏み止まった。

審判見届けとして、双方から介添の家臣が来て、東西の床几に腰を据えると、近藤甲子之助が立って厳かに二人へ言った。

「今日の試合は、其許そこもとたちの武名をご上聞あらせられて、ご野遊のお序ついでをもって仰せつけられたものゆえ、勝敗いずれにござろうとも、これをもって必らず怨恨を残されては相成らぬ」

これは審判床几にいる両家の家臣に聞かす意味が多い。二人は平伏して遥かなる将軍席へ目礼した。

「ご両所とも、お支度あってよかろう!」

甲子之助がサッと奉行床几に戻る。

途端に、自斎と新九郎は、置かれてある木剣の柄を掴んで、ギラリと、互いの眸を見詰め合った。無量の感慨――一念の熒光けいこう――眼に漲みなぎって黙礼の会釈は舌火を飛ばすに優る凄味。スックと立った途端に二本の木剣から風のごとき唸りを生じた。

「エイ――ッ」

と、持ったままの下段青眼、春日新九郎がまず先にくれた気当のつんざき。

「おおッ!」

大上段、満月に肘ひじを構えた鐘巻自斎は、山の如く森林のごとく、静かに自若じじゃくとして新九郎の剣勢をみつめた。

その時、松平忠房と京極丹後守は、各〻の幕屋から外に出て、この勝負にジッと固唾かたずをのんでいた。――思いぞ出ずる九年前の桔梗河原に、春日重蔵が片足を打ち挫くじかれたあの時の光景……

爽やかな風が二剣士の裾を払った。袖はひるがえったが剣は微動だもしない。――と思うと颯然! 自斎の大上段が寸のびにふり下ろされた。まさに富田流の鉄甲摧破てっこうくだき、受ければ受けた木剣は粉となって飛びそう、あっ――と思わず観者かんじゃの声が上ずる――その時、スッと新九郎の体がかわった。自斎の木剣がブンと耳を掠った。

「おッ」

と引く手に乗って新九郎、ポンと踵かかとを蹴った息合い、二尺七寸の木剣を無双にふりかぶって敵の真っ向へ跳び上がった――

彼が大妻籠で自得練磨の梢斬り! 心得たと左足を引いて受け払った自斎の手ぎわもさすが、ポンポンと二、三度の打ち音、すさまじく響いたかと思うと、またもや自斎の声。

「エイッ」

腰車を横に必殺の無極刀――むッ、富田三家の秘刀! 五社明神の神禰宜左典かんなぎさでんが、あかざの杖で見せた太刀息と同じもの――と思う間もあらばこそ、つづいて自斎の振り込んだ太極刀の打ち、パキン! と木剣が鳴ったかと思うと、ただ渦か旋風つむじのように見えた二人の間から、

「むッ、参った!」

と筒抜けに響いた一声。

同時に、二人はポンと飛び離れた――そして、鐘巻自斎の鉢巻の間から、タラリ! ――と一筋の血が頬を伝わって流れた。

四

「福知山城下の浪人、春日新九郎殿、鐘巻自斎殿を打ち込みなされた!」

試合奉行の近藤甲子之助が、声高く御前に勝名乗かちなのりをあげて引き下がると、彼方かなた、松平家の幕屋をはじめ、諸侯近侍の中から我を忘れたようなワーッという称讃のどよみが揚がった。

「すさまじい試合じゃったの」

と、周囲へ囁かれた将軍の面にも包まれぬ喜色があった。すぐ立座りつざ行装触ぎょうそうぶれ、潮うしおのような人が動いて帰城となったが、松平家の幕屋と京極方の二所ばかりは、悲喜転倒のありさまで、薄陽うすびの暮るるころまで人影が去らなかった。

かがやく栄光の冠をいただいた春日新九郎は、忠房の前に引き退がって手を取られたのも、入りかわり立ちかわり来て浴びせかける讃辞をも、ただ夢中に聞いていた。――そして頭はいまだに鐘巻自斎と立ち合っていた時の昂奮につつまれ、あの怖るべき太極刀の必殺をどうして遁れたか、どうしてあの瀬戸際に残ったか、ほとんど奇蹟のように思いつつ、いつか自分の身は、どッぷり暮れた松並木を駕に揺られているのである――

そうだ、彼はこれから松平家の下屋敷に開かれる祝宴に赴くのである。吉報はすでに下屋敷へ飛んで、そこに今日の勝敗を神かけて待ちぬいている千浪や、また今度のことではるばる福知山から飛んで来た、由良の伝吉とも久しぶりで会うことになっている。

祝福された勇士を乗せて、駕は一文字に風を切って走った。間もなくさしかかる青山の権田原、松の片側並木は見附の前までつづいている。――と風か、非ず。

タタタタタと不意の足音――

いきなり駕先の一人が大袈裟おおげさに斬り下げられた。

「待てッ、その駕待てッ!」

ザクリッと提灯を斬って落した大刀の影に、パッと火の粉が闇へ上がる。あッ――わッ、という声と一緒に、駕の中へズバリと入った真槍の穂尖ほさき。

「むッ」

ケラ首を掴むが早いか、素早く外へ躍り立った新九郎。

「人違いいたすな、拙者は春日新九郎であるぞ、はやまって後悔するな」

言いも敢えず、群がり立った黒覆面の中から、

「だまれだまれ! その御曹子新九郎は三年前に、京極家に対しての申し訳に切腹いたした筈ではないか。しかるに偽せ首を渡して、のめのめと再び大手を振って通るとは不埒ふらちな奴、今こそ成敗いたすから覚悟をしろ」

「ウウム、さてはまたも今日の遺恨を含んで失せた京極家の奴ばらであったか。いまだ懲こりずに待ち伏せて、新九郎を討って取らんとは笑止千万!」

「何をッ、宮津文珠もんじゅの荒侍、汝ら一人を討ち取れずに何とする」

「おお、その儀なれば、絶えて久しく鞘さやの眠りにある来国俊らいくにとし、錆拭さびふきがわりに斬ッて斬ッて斬り巻くってくるるぞよ」

「ええ、舌長な広言、それッ、彼奴の細首を打ち落せ!」

と罵って、後ろへ身を隠したのは紛まぎれもない京極家の溝口伊予。

途端にドッと吹雪のような白刃――真っ黒におどり立ち、新九郎の身を押ッ包んで八方閃々。エイッ、オッ、の激声は足を浮かすばかりである。

「是非がない――」

抜くや国俊!

寄ったる一人を真ッ向満月、ザーッと一太刀に斬り落し、そのまま寸延びの片手払い、返り血と共に胴斬り輪切り、たおるるやつを踏み越えて、追い袈裟げさ摺すり上げ腰車、右へ小手斬り左へ捨て打ち、身をひるがえせば梢斬り! 見る間に血は河となり修羅にのた打つ手負いの数、小気味はよいが目も当てられない。

だが、宮津文珠の荒侍――命知らずをすぐッて来た京極方もなかなか退ひかぬ。自暴やけと遺恨と衆を恃たのんで、新手新手を入れ代えてくる。

「ええ面倒!」

一人をバラリと唐竹割りにして、素抜きに持った左剣の小刀、横から寄るのをピューッと薙ないで右手めては上段の八方構え。

「いざ来い!」

と体勢をここに改めて、ホッと一息入れた時、たちまち一方の暗中に、鐘巻自斎の声が響いた。

五

あの体躯で地響きをさせながら、韋駄天いだてん走りに飛んできた鐘巻自斎は、この気配を察するより大刀を抜き払って、

「やあ、前もって公儀よりお諭さとしあったにかかわらず、今日の試合に遺恨を構えて待ち伏せいたす京極家の卑怯者めら、今まで客分の礼を受けた誼よしみに、鐘巻自斎が真剣をもって教導いたしてくれるから左様心得ろ!」

例の破われ声ごえで叫ぶと等しく、黒い姿を目じるしに、寄れば遁がさず斬りはじめた。

「や、自斎先生が? こりゃどうしたこと、同士打ちでござる、対手あいては新九郎、対手は新九郎でござるぞ!」

転げつ、逃げつ悲鳴を上げてうろたえたが、自斎は耳をかすどころでなく、尚さら斬り巻くる。

「武門の真まことを知らぬ京極家の家中ども、命が惜しくば退散いたせ! 尚また帰った上は主人丹後守へも確しかと申し置くがよいぞ。今日目撃したであろう勝負がよい見せしめ、以後浮薄な慢心を慎つつしんで家来どもにも真の武芸を出精させいと! よいか!」

ワッと逃ぐるを追って呶鳴りつけた。

そして、拭きしごいた太刀を鞘に納め、新九郎の前につかつかと寄って来たが何思ったか、袴はかまのひだを取って大地へピタリと坐ったのである。

「新九郎殿――」

「お、鐘巻氏うじ」

はっと思えば、ヒタと両手をついた鐘巻自斎、いと慇懃いんぎんに頭かしらを下げて、

「九ヵ年ご苦心の甲斐あって、今日のご勝利、心から祝着申し上げる」

「何と言われる? 天下の人満座の中で、敗れを取った其許が、この新九郎へよろこびを言われるとか? ……ウウム、ご追従ついしょうじゃな」

「いや、決して追従ではござらぬ。富田流三家の一格をゆるされ、天下に名人として目されたこの自斎が、若年の貴殿にやぶれたるはいかにも恥辱、心外千万、恩師富田五郎左衛門先生が世に在おわしまさば何とお詫びの致しようもないことでござる――しかし、それにも増して、貴殿に打ち込まれたことの嬉しさ! 嘘でかようなことが言えようか、新九郎殿、自斎は改めて、お詫びいたす」

「滅多なことを……」

新九郎は慌てて片膝をついた。

「既に貴殿を打ち込んで、立派に武士道が立った以上左様にまでご卑下されては痛々しい……」

「否、そうでない。桔梗河原で拙者が無用な武芸立ていたしたため、兄上重蔵殿の一生を葬ったのみか、噂に聞けばご自害なされたそうな……それを聞くにつけ、ある時は、故意に其許へ勝ちを譲って進ぜようかと思うたことも再々であったが、イヤ、それではかえって貴殿の不為と、今日まで三度の立ち合いごとに、いつも心を鬼にして、大妻籠でもあの始末、必ず悪く思って下さるまい」

「おお、ではそのお心意つもりで、あの剣書も拙者のふところへお残し置き下されたのか」

「何かのご会得えとくになろうかとも存じての……」

「ああ自斎先生!」

彼は思わず先生と呼んだ――

「それまでのお心とは知らず、一念の為とは言え、今日までの無礼不作法……」

「しばらく。その辞儀を言われに参ったのじゃござらぬ。――実は拙者にとって不思議に絶えぬ一ツの謎、それを貴殿に聞きたい為、暮るるを待ってお慕い申して参ったのじゃ」

「なに、ご不審のこととは?」

「今日の立合いに、貴殿が拙者を打ち込んだあの最後の一太刀――、そも、如何なるご工夫のものか、どう考えても不可思議な太刀」

「お訊ね申されては恥かしい。何をお隠し申そう。あの刀法こそは、先頃大妻籠でお別れ申した後、五社明神の神官左典と申す老人より教えられた清明心極せいめいしんきょくの太刀と承わりましたもの……」

「な、なに、清明心極の大刀とな――ウーム……」

と、自斎は、新九郎の顔をみつめたまま永く唸うめいてしまった。

六

彼はまた改めて、新九郎へきっと膝を寄せて来た。そして、ほとんど唾つばをのむように、

「して、そのご伝授をうけた神官の姓名、またお年頃は?」

と問いつめた。

「聞けど笑って、そのことに、お答えのあった例ためしがござらぬ」

「フーム……では何ぞ風貌のうちに、目立つような特徴でもなかったでござろうか」

「そう問われて見ますと、真っ白い右の眉毛の上に、星のような一点の黒子ほくろ――と、も一つ、お若い時の太刀傷か、耳の後ろに微かな痣あざがあったと心得まする」

「ヤッ、耳の後ろに痣が? オオ! 新九郎殿、それこそ拙者が七ヵ年の間、尋ねに尋ねてお行方を求めていた富田五郎左衛門先生! すなわち、富田三家を生み残された当流のご開祖じゃ」

「ええ、ではあのご老体が? ――」

「まぎれもなきこの自斎の恩師、そも拙者がお授けうけた伝巻に依って、無極刀、太極刀の二秘法は会得いたしたが、清明心極の疑惑になやみ、何とぞそのご解受かいじゅをうけんものと、尋ねあぐみながら今もってついに巡り会えぬ心極の秘法」

「では自斎先生が永ながの年求められていたのは、清明心極の疑義でござりましたか」

「いかにも、それを授けられた其許こそ武運に恵まれたご果報者じゃ。ああ、なつかしや老先生……それと知れば心極の太刀で、今日新九郎殿に打ち込まれたのは、その昔先生からお手をもって打たれたような心地がいたす……」

計らざりき、二人は知らぬ間に、同門の兄弟弟子となっていたのだ――新九郎は、改めて「剣秘不識篇」の情けの書を、鐘巻自斎の手に返した。

それには、新九郎の筆で、老師から口伝くでんをうけた心極刀の秘密がすッかり書き加えてあった。自斎が七年の熱欲もここに達し、富田三秘の剣、無極、太極、心極はこれで彼の手にも完全した。

そこへ、再び夥おびただしい人馬が殺到した。

駕わきに附いていたこんがら重兵衛が、急を松平家に知らせたための迎えであった。しかし、今宵の祝宴は、事情に依ってお見合せになるということも伝えた。

その事情とは、将軍家帰城と共に、京極家へ閉門の沙汰が下ったためであった。のみならず、駒場野からの帰途待ち伏せて、新九郎を討たんとした家中の狼藉も目附役人の知るところとなり、やがて厳しい叱責となるらしい模様だから、この際、得意に乗じて、一方で祝宴をあげることは慎つつしまねばならぬ――という太守忠房の深慮なのであった。

「それゆえ、不本意ながら、今宵はお兄上の菩提寺品川寺ほんせんじへ一先ひとまずお越しなされて、明日ご郷里へお立ちなさるがお身の為であろうと――これも殿よりのお心添えでござる」

と、使者の一人が言い足した。

「もとより、過去の恥こそ多けれ、人らしきことも少なき新九郎、華やかに今宵を過ごすはかえって心の傷み、品川寺へ参って、兄重蔵の霊に対面いたすこそ望ましいところでござる」

新九郎も異議なくうける下から、自斎も身支度をしながら、

「この上は拙者も、すぐ播州へ戻る心底、明日は重蔵殿のご墓所へもお別れを告げて参るであろう」

「では、そこでご再会申しまする。しかし、今宵のお宿は」

「小野忠雄殿の道場を借りる考え。是非とも心極受得しんきょくじゅとくの欣びを話してやりとうござる」

と、自斎は小野家へ、新九郎は品川寺へ、松平家の者に送られて行った。

七

秋浅く、色づきかけた楓かえでの下を、まだ掃き清めたばかりの朝――。品川寺の式台へ、早や訪れた人が二人。

嬉しさに寝もやらず、明くるを待ちかねて愛宕あたご下から駕を立たせた千浪――珍しくも匂やかな髪を結ゆい映えて、襟あしの白粉おしろいもクッキリ、虚無僧ごろのやつれを癒なおして、唇にも、呪いの闇を払った曙あけぼのを象徴する一点の口紅べに。

彼女と一緒について来たのは、今度のことで、三百里を飛んで来た由良の伝吉である。式台へかかって来意を告げると、すぐ奥へこんがらの重兵衛が知らせる、新九郎が来て手を取って引上げる。嬉しいことも懐しさも、ただ夢心地という他はない。

「春日さま、またご来客でござります」

何を話し合う間もなく、品川寺の小坊主が、廊下口へ来てこう取り次いだ。

「ご苦労でござる、して客殿は?」

「御殿山のご庵室からと仰っしゃったばかり……お姿は尼僧のようでいらっしゃいます」

「はて、尼僧に存じ寄りもないが……」

と顔を見合せたが、

「とにかくここへお連れ申してもらいたい」

「畏まりました」

退ひき下がった小坊主が、間もなくそこへ一人の尼僧を案内して来た。綸子りんずの頭巾、紗しゃの衣、象牙のような手くびにかけた水晶の数珠じゅず、白粉気おしろいけのない姿にも、露をたたえた白蓮の香があって、尼僧にしては余りに艶えんで余りに美し過ぎる。

「あっ――」

一目見た時、新九郎が思わず声を上ずらせる。千浪もびッくりして、

「オオ、あなた様は!」

と、姿に不意を衝うたれてしまった。

「新九郎さま、およろこびに参りました」

蓮花の白弁びゃくべんをたたむが如く、衣をさばいて両手をついた人こそ、何という奇しき意外な発心ほっしん、菖蒲あやめの寮の御方ではないか。

「もう貴方様に、逢わぬがよいと心には誓いましたものの、今日をかぎりのお別れ、それに、ただ一ツ心にかかることもありまして……いえ、妾わらわの煩悩ではありませぬ、おいとしい千浪さまの身をお願いに……新九郎さま、どうぞ昔のお誓いをかなえて上げて下さいませ」

「アア御方様!」千浪は思わず摺すり寄って、

「そのために、このお姿を贄にえとなされたのでござりますか。今さら何と申してよいやら、お詫びの言葉もござりませぬ」

「いいえ、何のそのためでありましょう、この涼しさになったのは、大奥にいる妹のためと妾自身のためより他にありませぬ。オオ、お庭先へまた大分お人が見えた様子、妾は、重蔵様へ一輪お手向けして、これでお別れ申しまする……」

と、芙蓉ふようを盛った花桶をさげて、悲恋の涙を水晶の数珠に隠しながら淋しい姿で立ち去った。

引きもやらずくる人々、松平家の使者、また鐘巻自斎、それと小野忠雄、高弟の梶新左衛門も連れ立って来た。

その梶新左衛門には、新九郎が修業の当時、極寒氷の水を浴びせられた恩人である。その小野忠雄には、彼が酒色に沈湎ちんめんしていた頃、赤坂溜池のほとりで、馬上から青痰あおたんをかけられた恩人である。にもかかわらず、二人の武士は武士の礼を取りに来たのだ。

松平家の使者は、出立に際して、郷士扶持ごうしぶち三百石の殿の墨付を餞別はなむけとした。家臣として迎えられぬのは京極家と公儀との手前、今日までの事情、是非のないことだが、忠房の心にはそれにも増したものがある。小藩福知山家の三百石は優なる破格だった。

間もなく、春日新九郎と千浪、由良の伝吉とこんがら重兵衛の四人は、数多の人々に見送られて品川寺を出立した。

昨日までの敵鐘巻自斎も、今日は途中までの道づれとなって、一行の中に豪快な笑い声を交ぜて行く――歩きながら、品川寺の裏垣の方を振り顧って、千浪は、二度三度ホロリと泪なみだを拭いた。

「オオ、袖ヶ浦の凪なぎにのぞんで、兄上のお墓石しるしが見えるわ……」

と新九郎も立ち淀んでジイと眸をうるませる。

墓が見える――秋草の中に。

白い綸子りんずに顔をつつんで、水晶の念珠を持った愛慾の墓。

かくて、その人々の過ぎた人生の街道、剣難の辻女難の追分へ、次にはどんな若い武士がさしかかるであろうか。

底本 / Source edition

底本:「剣難女難」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日第1刷発行
2009(平成21)年12月1日第20刷発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1925(大正14)年1月号~1926(大正15)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「呟《つぶや》い」と「呟《つぶ》やい」の混在は、底本通りです。
※「必ず」と「必らず」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2016年9月9日作成
2019年12月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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吉川 英治「剣難女難」(新字新仮名)、底本『剣難女難』吉川英治歴史時代文庫、講談社、1990年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 056151_001562, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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