Soranoha

新奇談クラブ

しんきだんクラブ

野村 胡堂

名人大六雲鼎

「人形の首を梟さらした、――という話、気味は悪いが、充分に面白い積りです」

第六番目に立った話の選手大滝左馬太さまたは、奇談クラブの談話室で、斯う話し始めました。

「これも今の世の事ではありません。天保十一年の晩春、十一代将軍家斉の治下で、江戸の風物は熟れた果物のように、甘酢ぱく頽廃し切った時のこと、私の為には流祖、人形師としては、古今の名人と言われた松本鯛六――一名大六雲鼎うんていは、鑿一挺で大変なものを拵えてしまったのです。これはとても小説になるような話ではありませんが、その代り事実は小説よりも奇なりで、こんな馬鹿馬鹿しい話は、小説家の頭ではとても考え出されません。名人大六雲鼎や、華魁おいらん小紫の霊を慰める為に、是非聴いてやって下さい」

大滝左馬太は斯んな調子で始めて行きます。

持ち込んだ華魁人形

「親分」

「何んだ、八」

「人形を見て下さいって男が来ましたぜ」

「何?」

柳原の顔役、左衛門の長次は拱こまぬいた腕を解いて、その分別臭い顔を挙げました。

「両国の活人形に一枚差し加えて下さるまいかてんでさ、恐ろしく丁寧な口をききますが、お貰いのような野郎ですぜ、免倒臭かったら断ってしまいましょうか」

お先っ走りの八、――木戸番と使い走りをやって居る塩辛声の八は、親分の渋い顔を見ると、縁側からこんな呑み込んだ事を言います。

「待て待て誰が免倒臭えなんて言った」

「ヘエ――」

「どうせ、素人しろうと衆のももんがあ見てえな細工だろうが、兎に角一応見て上げよう。長次が拝見いたしますって、丁寧に通すんだぞ」

「ヘエ――」

両国に見世物小屋を持って居る長次の許へは、時々飛んでもないものが舞い込みますから、もとより大抵の事では驚きません。やがて八に案内されて来たのは、未だ若い立派な男ですが、尾羽打ち枯らして見る影もない風体、三尺四方ほどに、高さ六尺にも余る素木の箱を、二、三人の子分の者に運ばせて、恐る恐る縁側からにじり込みます。

「御免下さい、私は彫物ほりもの師の松本鯛六と申す者、唯今は無理な願いを早速お聴き届け下すって有難う御座います」

年の頃二十七、八、妙にやつれは見えますが、細面に切れの長い眼、少し青白い顔も肌合の職人らしく、どう見ても田舎者や素人衆などではありませんが、其の代り身扮は如何にも粗末で、畳の上に並べた膝の上にも、克明にお辞儀をすると、正面まともに見れる肩のあたりにも、鍵裂かぎざきやら継接つぎはぎやらが、二つ三つならず算かぞえられます。

「申すまでもなく両国の活人形は、宮川光遙先生が心魂をこめて作り上げた、十二ヶ月の年中行事、先ず当代並ぶ者もあるまいと言われる結構な作だ。お前さんも其の道の方のようだから、これ位の事がお解りにならない筈は無い――多分、あの中へ立ち交っても、引けを取らないような見事な作をお持ちだろうな」

これは止めの釘、出来の悪い時断りを言う為に、長次は斯う伏線を張って置きます。

「宮川先生の御作には及びも付きませんが、私には又私だけの勘考も、自慢もある積りで御座います、どうぞ御覧下すって」

六尺の箱を部屋の隅に立てて、桐の蓋を払うと、中に納って居るのは、華魁の道中姿、顔と胴体は木彫の人形に彩色を施したものですが、衣裳も帯も髪飾も本式で、その美しさは眼もさむるばかり、物に動じた事の無いのを自慢にして居る左衛門の長次も、さすが、

「あッ」

と、二の句が次げません。

生え際の匂い、霞む眉、澄み渡る瞳、鼻筋が柔かに通って、唇の婀娜あだめかしさは滴るばかり、第一、顔の色艶が活々として、人形とは思えない不思議な魅力があるのです。

左甚五郎が彫った京人形――あの芝居の所作にある奇跡の人形は、多分こんなものだったかも知れません。

これが、今の世の名も無い彫物師が、鑿一挺で作り出したとは、どうして信じられましょう。

「これは驚いた、大した出来だ」

左衛門の長次、人形の値も聞かぬうちに、商売気を離れて最上級の褒め言葉を投げ出してしまいました。

これだけの人形なら血も通うだろう。脈も打つだろう。柔かそうな肌へ触って見たら、人間と同じように、体温を感ずるかもわかりません。

「お前さんはこれを幾何いくらで離しなさるんだ」

この人形の為なら、一と身代投げ出してもと言った心持で長次は切り出しました。

美しい像を諸人の眼に

「親分、この人形は金ずくでは手離せません」

「と言うと――」

「お聴き下さいまし、これには深い仔細が御座います」

彫物師の松本鯛六、少しションボリとした肩を起こして、おどおどした風に長次の顔を見上げました。

その話というのは、少し混み入って居りますが、簡単に伝えると、――吉原三浦屋の華魁おいらんで小紫、これは一代の国色で、引手数多あまたの全盛を極めましたが、昨年の春風邪の心地で床に就いたのが因もとで、暫らく今戸の寮に出養生までさせて貰って居るうち、それが癆核ろうがいに変って、秋風の吹き初める頃には到頭果敢はかなくなってしまいました。

この女は、歌も詠み、俳諧も作り、茶事音曲はもとより百般の遊芸何一つ暗いものは無かったが、病気になってからは、わけても仏法に帰依きえし、「遊女」に身を堕して、幾百千とも知れぬ男を惑わし、中には自分の為に命を捨てた者も二人三人ならずあったことを、ひどく後悔して、何んとかしてこの罪障を消滅させ、安らかに往生する工夫は無いものかと、そればかりを思い患わずらうようになりました。

臨終が近いと判ると、深く契り交した彫物師の松本鯛六を枕辺に呼んで貰って、――罪業の深さは、我乍ら空恐ろしい、私を不憫と思うなら、一生に一度の腕を揮って私の像すがたを彫り、諸人の前に曝し物にして、せめては深い罪業の一部でも償つぐなわして貰い度い、生涯に何百人とも知れぬ首を切った粂くめの平内様は、自分の木像を浅草の地内に埋めて、毎日何万の人に踏み付けられ、罪業の消滅を願った例ためしもある――。

小紫の願いは極めて真剣で、鯛六の手を握ったまま、心から引き受けたと言うまでは、何遍となく繰り返しました。

鯛六は――「引き受けた、安心するが宜い、私の腕にも生命いのちにも代えて、お前の願いを果してやろう――」そう言って、小紫の最後を安らかにしてやるより外にはなかったのです。

良材の檜を選んで、最初の鑿を下した松本鯛六は、それから半年余り、この人形一つの為に、精も魂も打ち込んでしまいました。

その代り出来の素晴らしさは、今にも動き出して、物を言うかと思うばかり、さすが物事に馴れた左衛門の長次もこの物語を聞き乍ら、人形に吸い付けられて、眼を動かすことも出来ません。

「斯う言うわけで御座います。ですから、この人形の代金を頂くとなると、千両箱を山に積んでも頭を縦に振ることでは御座いません。小紫の心持の届くように、どうか、両国の小屋の中に飾って、諸人に見せてやって下さいまし、宮川先生の十二ヶ月年中行事に立ち交るようなものでは御座いませんが、閏うるうが一と月あると思って、何処へでも差しかえて頂けば、それに越した幸せは御座いません」

長物語を了おわって、松本鯛六は、額に浮かぶ汗を拭きます。

「ああ、よく彫りなすった。ただもう恐れ入る外は無い。十二ヶ月の活人形の中へ飾るも飾らないも無い、それを出して下すったら、其の日のうちに江戸中の評判になりましょう。実に大した手際だ」

左衛門の長次は無条件で兜を脱いで了いました。金に望みがあるのと違って、これならどんな判らない興業師の仲間へでも話が通ります。

佐吉の執心と人形の争い

さて、この小紫人形を一枚、宮川光遙作の十二ヶ月人形に差し加えて見て驚きました。一方は数も多く手際も悪くありませんが、多寡たかが見世物並の凡作、こちらはたった一人立ですが、魂があって血が通って居るような出来、第一その美しさと言うものはありません。

「これは大したものだ、ニッコリ笑いかけて、物を言いそうだ」

「あれは先年亡くなった、三浦屋の小紫そっくりだ、何んか理由いわれのある作だろう」

という評判、さすがに江戸ッ子は眼が高く、たった一日で江戸中の噂になってしまいました。

翌る日からは木戸番を倍にして、青竹で新しい手摺を作る騒ぎ、その頃は珍らしい物と言ってもザラには無い時分で、さらぬだに物見高い江戸ッ子は、こんな噂が伝わると、ワッと突っかけて来ます。

木戸へは雲霞の如く突っかけますが、困った事に小紫人形の前に停滞して了って、人間の流れが一向動いてくれません。

興業元の左衛門の長次は大喜び、庭へ金の成る木を植えたような心持で、それっ切り行方知れずになった松本鯛六の行方を探そうともしません。

ところで、困ったことが二つ起こりました。一つは、日本橋横山町の呉服問屋で、その頃何十万の身上と言われた、上州屋の若主人佐吉、これが小紫在世中、世上の口の端に上るほど入れ揚げましたが、評判の活人形を見ると、すっかり捻よりを戻して、フラフラと昔のような心持になってしまいました。出入の者を頼んで、

「幾らでも構わないからあの人形を売ってくれるように」

という掛け合い、これは問題じゃありませんから、剣もほろろに断ってしまいましたが、一度や二度断られて引っ込む相手ではありません。若主人の佐吉は、日に何杯も何杯も入れ換える見物の中に交って、幾度も幾度も小紫人形の前に立たなければ承知しないという執心です。

もう一つ、これは四、五日経ってから気の付いた事ですが、小紫人形の側に居る人形は、夜の間にキッと怪我をさせられて居ります。特に男人形がヒドク、或は腕を折られたり、足を折られたり、中には鼻を削がれたり首を折られたりする有様。

其の都度、木戸番の八が飛んで来て、

「親分、大変、今度は花見人形の侍がやられましたぜ」

「何んだと」

「ありゃ親分、人形同士が嫉妬やきもちを焼くんだ、その証拠には、小紫人形の側に居る男人形が、キッとやられますぜ」

「そんな馬鹿な事があるものか。左甚五郎作じゃあるめえし」

「何しろあんなに美しいんだから、それ位の奇瑞きずいがあったって不思議はねえ」

「馬鹿野郎、人形の評判を取るのは悪くねえが、手前までそんな事を気にしちゃ、小屋の者が心細がって叶わねえ。余計な事を言うな」

「ヘエ――、だがね親分、口で言ったって言わなくたって不思議は矢張り不思議で、あっしには、何うも腑に落ちねえ事ばかりなんだ、今晩あたり、そっと見廻って見ようじゃありませんか」

「御免蒙こうむろう、人形同士が掴み合ってるところなんか見せられちゃ虫の毒だ」左衛門の長次は不愛想に言い切りましたが、充分に好奇心を動かした様子です。

妖しき魅力人形の呪い

併し、到頭、此の儘には捨て置けない事が起こってしまいました。

其の晩小屋の中に踏み止まって、真夜中の様子を見ると言った勇敢なる八が、翌る朝、大変な怪我をして、舞台の上、丁度小紫人形の足元のあたりに、気を失って倒れて居たのです。

介抱して漸く正気に返らせましたが、何んと問い詰めても、夜中の出来事は一言も漏らしません。

「ヘッ、つまらねえ目に逢っちゃったよ、あの人形は魔物だね」

と首筋を掻いて居る有様、

其の儘放って置くと、何処から伝わったか、いろいろ悪い噂が立ち始めます。

「あの小紫の人形が化けるとよ」

「ヘエ――、あんなに美しいのがねえ」

「だから、あの小屋へはマア近寄らねえ方が宜い」

と言った有様、そうなると左衛門の長次も放って置くわけに行きません。

製作者の松本鯛六に逢って、何んとか話を聞いて見ようと思いましたが、下谷の辺に住んで居ると言う丈けで、誰もはっきりした所を知っては居りません。

其の内に、十二ヶ月人形の作者、宮川光遙から「あんな華魁の人形なんかを、無断で私の作の中に交えて置くのは怪しからん、その為に十二ヶ月人形に怪我があると言う話を聞くが、そんな馬鹿な事は、あるわけのものでは無いにしても、甚だ面白くない事だ。早速取り払って貰い度い――」と言う厳重な談判です。

思案に余った左衛門の長次、兎に角変化へんげにしても妖怪にしても実現して見ないことには判りませんから、危いことを承知で或る晩ソッと小屋の中へ潜り込みました。

自分の家も同様の場所乍ら、妙にワクワクした、新米の小泥棒見たいな心持で、筵で張った粗末な桟敷さじきの下から、丁度小紫人形のあたりを見るように陣取って、遅々たる夜の歩みを、生欠伸を噛み締め乍ら見詰めて居りました。

やがて子刻ここのつ、上野の鐘が五月雨さみだれの空に籠って聞えて来ると、見馴れた場所柄とも思えぬ、不思議な不気味さが犇々と長次の身に迫ります。

舞台の正面、丁度自分の頭の上のあたりに、有明の籠行灯が一つ、すっかり灯心を引いて、僅かに物の形が見える程度にしたのが、高々と柱の上に掛けてあります。平常ふだんなら、物の形などの見える灯ではありませんが、夜更けになって眼が馴れると、それが皎々こうこうとして、舞台の上を蟻の這うのも見えそうですから不思議です。

斯うして見ると、人形ほど不気味なものはありません、なまじ人間の形をして居るだけに、この無生物の木偶でく達は、気取ったのも、笑ったのも、怒ったのも、妙に空々しくて、間が抜けて、我々の世界とは全く違った別な世界に生活して居るような、言いようのない不気味さに人を圧迫するのでした。

このグロテスクな大集団の中に、たった一つ生命があるとしたならば、それは松本鯛六の彫った華魁――小紫のありし世の姿です。その表情の艶あでやかさや、目鼻立の美しさの外に、此の人形だけには何んかしら、生命の通うものでなければ持って居ない温かさと、冴えとがあるのです。たとえば、側へ駆け寄って、愛撫してやり度いような、不思議な衝動が、こんな物には馴れ切って居る筈の、左衛門の長次の胸までワクワクさせるのでした。

誰も見て居る者は無い、――そっとあの人形に近づいて、あの柔かそうにさえ見える手を撫でて見ようかしら、あの温かそうな唇に触れて見ようかしら――、そう言った恐ろしい誘惑が長次をさいなみ始めるのを、何うしても防ぐことが出来なかったのです。

長次は隠れ場所から一歩踏み出しました。と、華魁人形の唇が赤々と自分を迎えて、最早踏み止まることなどは思いもよりません。若い盛りの者が、久し振りの恋人に逢うような、間をせかれた男が、無理な首尾をして、逢瀬を楽しむような、何んとも言えない不思議な恍惚に引き入れられて、夢心地に華魁人形に飛び付きました。

無生物の持つ魅惑――これは又何んと言う怪奇な恋でしょう。

長次は妻子も、年齢としも忘れて、人形の誘惑の前に全身を投げ出してしまいました。その手――檜を彫って、泥絵の具を塗った筈の手は、柔かに長次の背後に廻されて、木と綿とで出来て居る筈の胸には、明かに鼓動を感じたのです。

そればかりではありません。長次の唇に感じた、人形の唇は、間違いもなく温かい人間の唇だったのです。

暫らくは、世界が其の儘太古の混沌に還ったような、妖しい夢心地が続きました。これは又、何んと言う不思議な抱擁でしょう。

が、俄然として、夢は破れました。長次の身体は強したたかに床の上に投げ出されて、何拠か挫いた様子、――暫らく起き上ることも出来ません。

木偶の身の代が五百両

「両国の活人形いきにんぎょうは大層な人気と聞いて、実は蔭乍ら喜んで居りましたが、あまりのなつかしさに、見ては反って悪いと思い乍ら、堪え兼ねて今日ちょいと覗いて見ますと、急に取り払われたそうで、あの華魁人形が見えません。何うしたわけで御座いましょう」

思い悩む体で、松本鯛六は斯う申しました。彫物職人とも思えない人品や水際立った男振りは、尾羽打ち枯らして居ると言うものの、さすがに全盛を極めた小紫の思われ人と言ったおもかげがあります。

「いや、その事でお前さんをお待ちして居たんだ、――こんな事を申しちゃ何んだが、あの人形には、どうも怪しい事がありますね」

「ヘエ」

「その為に宮川先生の十二ヶ月人形が、幾つ壊されたかわからない、そればかりでなく、木戸番の八って野郎は目を廻すし、私までが腕を挫く騒ぎ、いやはや、面目次第も無いが、あんな不気味な事が続いちゃ、どんなに人気があったところで、私の小屋へ並べて置くわけには行きません」

「ヘエ――」

松本鯛六は少しあっけに取られた形です。何が怪しい事で、何が不都合なのか、まるで見当も付かないのでしょう。

「ところで、此の間からあの人形をどうしても譲ってくれと言う人があります。金に糸目を付けないから強たってと言う執心、一応も二応も断りましたが、何んと言っても聴きません。人橋を架け、黄金の雨を降らせての強談ごうだん、私も斯んな弱い稼業をして居る身体で、これには全く弱り入りました。兎に角、作人のお前さんに聴かなければ、何う仕ようもないが、お前さんの行方がどうしても解らない――」

「…………」

「そのうちに相手は、顔役、遊び人は申すまでもなく、御用聞きや岡っ引きまで使って、権柄けんぺいずく、金ずくで攻め立てる。私も悉く持て余して、確とした事は、いずれ作人の松本鯛六さんと相談の上で決めることにして、兎に角、人形だけを渡して置きました」

「エッ」

鯛六の顔色が卒然として変りました。唇も手もワナワナと顫えて、座にも堪えない有様、長次はそれを見て見ぬ振りで、

「その代り、相手も金に糸目はつけない、即座に渡したのが五百両――」

長次は後ろへ手を延ばして、用箪笥の抽斗ひきだしから取り出したのは、二十五両包みの切餅が二十、累うず高く畳の上に重ねて、鯛六の方へ押しやります。この頃の五百両と言えば、今の金にして二、三万円にも当る大金、これだけ出せば――と言う腹が、長次の素振りにもほの見えます。

「先ず取り敢えず、これだけ納めて下さい。後は又後で、話の仕よう一つで何んとかなりましょう」

「…………」

「言う迄もない事だが、あの人形は出来が良いと言ったところで、大抵世間相場と言うものがあります。高くて精々五十両、折と相手が悪かったら、十両とも五両とも踏まれるところだが、相手は無理を承知で買い度いと言うのだから、五百両も出したってわけだ、ねえ、鯛六さん」

黙りこくった松本鯛六の顔を見て居るうちに、長次の言葉は段々荒々しくなります。左衛門橋に住んで居るから左衛門長次と、二つ名前を持って居りますが、打ち明けると、祭文語りから延のし上げて、両国の小屋持になった長次、今では親分とか親方とか言われて居りますが、根が根で、金の事となるとツイ悪党の地が出てしまいます。鯛六の前に並べた五百両だって、決して相手から受け取った全部ではありません。この男の気象から言うと、キット幾分は棒先を切って居りましょう。

「親分、それは無理だ、小紫の罪障消滅の為、あれを諸人に見せてくれと言ったが、あの人形を売ってくれと言った覚えはありません。五百両が千両でも、私はあの人形を手離す気は無いのです。その証拠には、両国の活人形の中に出しても、私は決して分をくれともかすりが欲しいとも申しません。金ずくで無い私の心持はそれ丈けでもよくわかりましょう――、親分どうかあの人形を取り返して下さい」

「あれほど言っても、お前には判らないんだね」

「判らないのは其方そっちだ、金なんざ欲しくはない。貧乏はして居ても松本鯛六、あの人形に身売をさして、栄華を見ようとは思わない、サア直ぐ返して下さい」

鯛六もツイ荒い口調になります。

「何を? 判らねえにも程があったものだ、あんな木偶でくに五百両も出そうてえ酔興な人間があるんだぜ、五十両でも御の字だろう。手前の言い草じゃねえが、その上この長次は、分をくれともかすり欲しいとも言うわけじゃねえ。――」

「だから、先刻から言ってるんで――私は金なんざ欲しかありません。五十両も五百両も私に取っちゃ同じことだ、あの人形を返して下さい」

「解らねえ木偶じゃ無えか、宮川先生の十二ヶ月人形を痛めた上、八の野郎に目を廻さして、俺の腕を挫いたんだ、あの華魁人形はその腹癒せに、叩き割って薪にして仕舞ったと言ったら何うする積りなんだ。薪代が五百両だ、驚いて気が違っちゃいけねえ」

実に無法、この上四の五の言えば、袋叩きにして往来へ放り出しも仕兼ねまじき気組です。

人形を尋ねて野良犬の様に

小紫の人形の行方を探して、まる三日三夜、鯛六は両国から左衛門橋のあたりをさまよい暮しました。

野良犬のように迫い廻され、叩きのめされ乍らも、あの心血を注いで作った人形の事を思うと、夜もおちおち眠られません。

四日目の夕方、両国の小屋の側にある水茶屋の軒下に佇んで居ると、水茶屋の娘が薄々事情を聞いて不憫に思ったものか、

「横山町の上州屋へ行って御覧なさい――」

たったこれだけを囁いてくれました。

鯛六の弱り抜いた足は、エレキを掛けられたように動いて、驀地まっしぐらに横山町の上州屋へ、

「――私は松本鯛六――あの小紫の人形を返して下さい――」

前後の考えもなく店口から飛び込んだのは、商人の一番忙しい黄昏たそがれ時でした。

「何んと仰しゃるんです。そんなものは此処には御座いません」

番頭や手代達の言葉を耳にもかけず、

「主人に逢わせて下さい、お前さん方では話が解らない――」

無理にも飛び込みそうにする鼻の先へ、ヌッと立ちはだかったのは、町内の鳶頭、

「物貰いなら神妙に裏口から来あがれ、忙しい店先へ来て強請がましい事を言やがると、溝板に面型を捺させるぞ」

「強請ゆすりや、押借じゃ無い、人形を返して貰い度い、主人にそう言ってくれ、彫物師の松本鯛六が、あの人形を受け取りに来た――と」

「何を言やがる、ほりものが見たかったら、俺の張飛を拝ましてやらア」

クルリと双肌もろはだを脱ぐと、鯛六の襟髪を掴んで、溝板の上へ犬っころ投げに叩き付け、少し斜めに、背中一面に朱入で彫った張飛の刺青ほりものを覗かせて、見得を切ります。

鯛六はそれ以上争う気力はありませんでした。起き上ると埃も払わず、其の儘野良犬のように、夕闇の路次の奥に身を隠してしまいました。

「気を付けろ、間抜け奴」

いきなり鯛六へ突き当った人間があります。長絆纏に白木の三尺、手拭を頬冠りした、どうも見た事のあるような男、何んの気もなくヒョイと覗くと、向うも気が付いたらしく、あわてて顔を反けて道を反それます。

木戸番の八――小紫人形を何うかして、目を廻したという男、――そう言った淡い記憶が鯛六の頭に蘇がえりましたが、それが何うして、人目を忍ぶ風情にブラブラして居るのか、其処までは考えません。

亥刻よつ近い時分まで、其の辺をほっ付き歩いて居た鯛六は、何んの気もなく上州屋の裏木戸を押すと、其の儘スーと開きます。頬冠りをした先客が入った事などは元より知る由もありません。鯛六は誘われるように其の中の闇に消え込みました。

土蔵の中に男女の争い

上州屋の裏には、土一升金一升の場所柄も構わず、土蔵と土蔵との間に挟まれて、数寄を凝した六畳ほどの離室はなれがあります。もう真夜中近い時分でしょう。襖紙からかみを開けて、いそいそと入って来たのは、主人の佐吉、まだ二十四、五の若々しい年輩で古渡り唐桟の袷に紺博多の帯、月代さかやきの跡青々と、下しもっ膨ぶくれのおっとりとした美男です。

と、見ると、床の側に置いた、華魁人形の箱は、蓋をハネ退けられて、中は空っぽ、

「あッ」

思わず顔色を変えて立ち縮すくみました。

千金を積んで漸く手に入れた稀代の人形、これが無くなっては、佐吉は生命が無くなったも同様です。

話は少し遡りますが、此の人形を手に入れてからの佐吉の様子は、全く正気の沙汰とも思えませんでした。離室はなれの床の側わきに飾って、間がな隙がな、其処へ入り込んでは、飽くことも知らず人形と戯たわむれて居るのです。

或る時は座敷の中ほどに坐らせて茶を立てました。或る時は酒肴を用意して、人形と差し向いに、差しつ押えつ、不思議な酒宴に夜を徹しました。或る時は小唄音曲を人形に聴かせ、或る時は鴛鴦えんおうの如く押し並んで、喃々と語り明かしました。

人形の頬と、佐吉の頬とが触れ合うばかりに、二人は膝を交えて囁き交す風情の妖しさ美しさ、偶々たまたま悪戯心に差し覗く丁稚小僧などは、あまりの事に気も遠くなったり、声を立てたりしました。

佐吉の妻のおさよは、打ち付けて諫いさめもならず、唯おろおろとするばかり、偶々嫉妬やきもちがましい事を言っても、相手が人形では反って物笑いにされてしまいます。先代から使われて居る大番頭は、苦り切って幾度も開き直りましたが、この無生物の恋に溺れ切った若主人は、まるで相手にしようともしません。

狂態は日に日に募りました。人形と佐吉は、斯うして、本当の夫婦も及ばない、艶こまやかな愛情に任ね切って、どうかすると、佐吉の膝の上に人形が乗って居たり、二人は犇と抱き合って居たりするところを見せ付けられて、雇人達は思わず仰天することもありました。

不意に――その恋人の人形を失った佐吉の驚きはどんなでしたろう。

真っ青になったまま声も立てず、暫らく離室の内外を見廻しましたが、其の辺には影も形もありません。

一歩外に出て見ると、縁側に白々と落ちたのは、人形の差して居た鼈甲べっこうの簪かんざしです。ハッと思って、五、六間先の廊下をすかして見ると、

「あッ」向うに動くのは、人形を抱えて走る、女房おさよの後ろ姿ではありませんか。

おさよが人形を土蔵の中に引き入れて、その美しい顔へ匕首あいくちを振り上げた時、佐吉は危うく後ろから飛び付きました。

「何をする馬鹿ッ」

匕首をもぎ取って突き飛ばし、人形を抱き起こそうとする佐吉の手に、犇々と絡み付いたのはおさよの必死の腕でした。

「口惜しい、口惜しい、私はこんな、こんな木偶でくに見返られ――て」絶え入るばかりの泣声、おさよもさすがに堪え兼ねたのでしょう、兎もすれば夫の手を振りもぎって、人形の顔を踏みにじろうとします。

「馬鹿ッ、お前などは女の屑だが、この人形は此の世に二つと無い宝物だ、音無しく退いて居ないと、打ち殺すぞッ」

佐吉の声も土蔵の外まで突っ走りました。

「えッ、殺せ殺せ」

「おッ、殺さなくて何うする」その時土蔵の蔭、右と左の小闇には、二人の人間がそれを聴いて居たのです。

下手人は夫かそれとも人形か

佐吉の妻のおさよは、その翌朝土蔵の中に無惨な死体になって見出されました。其の側に突っ立って居るのは、等身大の華魁人形、しかも右の手には、血紅斑々たる匕首を握って居たのです。

夫の佐吉は宵の内に口争いをして、自分の部屋に入って寝て何んにも知らず、多勢の雇人は虱つぶしに調べられましたが、これぞと言って疑わしい者もありません。事件は其の儘、今の言葉で言えば迷宮入になろうとしましたが、越えて翌々日、南町奉行所へ両国の小屋に木戸番を勤めて居る、塩辛声の八と言う者が、恐れ乍らと訴えて出ました。

其の口上は、上州屋佐吉が華魁人形の不思議な魅力に溺れ、女房おさよの嫉妬を制し兼ねて、女房の手から匕首を奪って刺したに相違ないと言うのです。自分も同じ人形の美しさに引かされ、それを盗む積りで忍び込んで居るうち、思わず夫婦喧嘩から女房殺しの現場を逐一見て取ったという申し立て、立派に筋が通りますから、採り上げないわけには行きません。

その日のうちに佐吉は繩をうたれ、お白洲に引き出されて、あらゆる吟味を受けましたが、夫婦喧嘩をした事は本当だが、女房を殺した覚えは無いと言い張って、何うしても白状しません。訴人に出た木戸番の八は、八五郎なのか八太郎なのか、自分の名前も本当に判らないような無籍者、そんな者の言葉を何処まで信用して宜いのか、係りの役人にも意見は区々まちまちでしたが、何分本当の下手人が現れなければ、佐吉を下手人と見るのが当時の調べの行き方で、こればかりは如何いかんともなりません。

佐吉の母親をはじめ一家一族は、上州屋の身上を傾けても、佐吉の命を助けようとしましたが、やがては、それも無駄と言うことがわかりました。

この間の経緯いきさつには、面白い話も沢山ありますが、それはグイと端折って、いよいよ、上州屋の佐吉は、女房殺しとしてお所刑しおきになろうと決った日の夕方、南町奉行所へ駆け込み訴えをしたものがあります。

それは、彫物師の松本鯛六、自分で作った華魁人形の奇跡の数々を陳じた上、あの晩自分は、仔細あって上州屋の庭先に忍び込んで居たが、おさよを殺したのは決して夫の佐吉では無い、佐吉がおさよと喧嘩をして引き上げた後、おさよが嫉妬の余り匕首で人形を刺そうとして、反って人形に刺されたに相違ないと言うのです。

人形が人を刺す? そんな事がある可き筈は無い、――と言うのは今の人の智恵で、文化文政度の、人間が夢みるようなロマンチックな空気を呼吸して居た頃は、こんな事は何んの疑いもなく受け容れられたのです。

それに、この人形の奇跡は両国界隈で一時評判になった事でもあり、木戸番の八は人形欲しさに入り込んで、佐吉の狂態にムラムラッとして、ツイ斯んな事を言ってしまったと解されない事もありません。

一つは上州屋の身上を半分減らしたという運動も効を奏したのでしょう。一と通り形式的な取り調べがあって、二日の後には佐吉は免ゆるされ、訴人をした木戸番の八は、無宿牢へ叩っ込まれてしまいました。

獄門にかけた首に溢るる法悦

佐吉に代っておさよ殺しの下手人として縛られたのは、松本鯛六作名妓小紫の人形、道行姿の艶やかな人形を、雁字がらめに縛り上げ、裸馬に乗せて鈴ヶ森へ引き出した時は、江戸中煮えくり返るような騒ぎでした。

昔の名奉行大岡越前守は、辻の地蔵様をさえ縛らせた位ですから、それより後の遠山左衛門尉が、華魁人形を獄門にしたところで何んの不思議もありません。

調べも申し渡しも悉く正式、人形の口書? を取って、拇印まで捺させたと言うのですから、正気だか茶気だか、此の時の名奉行、遠山左衛門尉の心持ばかりは凡人にわかりません。

土壇場に据えて、人形の首を打ち落した時は、竹矢来の外の群衆は、ドッとばかり、歓呼とも悲鳴とも、わけのわからぬ声をあげました。時は天保十一年の五月十日、一代の名妓と謡われた小紫は、死んで一年目に人形に彫られて、その首を獄門台の上に曝されてしまったのです。其の晩獄門台に忍んで来た一人の男、番人の眼をかすめて、首尾よく人形の首を盗み取りましたが、追い詰められて九死一生と言う場合、品川の町外れの闇の中から出て、そっと救い出してくれた者があります。

案内されるままに、森蔭の庵室に入って、灯の下に顔を合せて見ると、助けた方は彫物師の松本鯛六、刑場から首を盗んだ男というのは、言う迄もなく上州屋佐吉の煩悩ぼんのうの姿です。

「重ね重ねの御恩、何んとも御礼の申し上げようはありません」

と佐吉が畳にひれ伏すと、鯛六はそれを押し止めて、

「いやいや彼あれも此れも、皆私が至らぬから起こった事、死んだ小紫にも済まない事を致しました。鑿を執った私の心の中に未練があったばかりに、一生懸命になればなるほどあの人形には見るほどの男を迷わす不思議な妖気があったのでしょう、彫物師の恥で御座います」

へり下って、松本鯛六は、うな垂れます。

「それにしても、人形が私の女房を殺したと訴え出て、人形の首を獄門に曝すような事になすったのは、何う言う訳で御座いましょう、差支えが無かったら仰しゃって下さい」と佐吉、

「御不審は尤もですが、あのように仇めかしい人形を彫って、散々諸方に罪を作らせては、自分の像すがたを曝し者にしてくれと言った小紫の心持に反そむくばかりでなく、反かえって小紫の罪業を重ねたようなもので御座います。そこで、人形の首を斬らせて、獄門台に曝させるようにしたのは、せめてもの私の志、これであの世の小紫の罪業も尽きたことで御座いましょう、――御覧なさい、その首の人相を――」

言われて、膝の上の人形の首を灯に向けると、嘗つてありし仇めかしさも艶やかさも消え失せて、眉を垂れ、眼を伏せ、神々しい法悦が、限りなく美しいうちにも一杯溢れて居ります。

佐吉も今は迷いの夢が覚めたのでしょう、そのまま人形の首を床の間の経机の上に押し直すと、二人は掌を合せて黙祷の首を垂れました。

「華魁人形の話はこれでお仕舞です、松本鯛六はその後大六雲鼎と号して、人形彫りの稀代の名人と言われましたが、作品が作品で、下町辺に集中して居た為に、大方は安政大地震の時焼け失せてしまいました。名人の遺作が無くなるほど惜い事はありませんが、洋画家柳敬助氏の遺作全部が、三越で展覧会開催中、大正十二年の震火災に逢って、一点残らず焼け失せて了った例もありますから、これも又致し方がありません。人形の奇跡は何処まで信用して宜しいか、それは学者の研究にお任せしましょう」大滝左馬太は、斯うして第六話を了りました。

底本 / Source edition

底本:「奇談クラブ(全)」桃源社
1969(昭和44)年10月20日発行
初出:「朝日 第三巻第六号」博文館
1931(昭和6)年6月1日発行
※冒頭の罫囲みは底本では波線です。
※誤植を疑った箇所を、「新奇談クラブ1」日本小説文庫、春陽堂、1932(昭和7)年12月29日発行の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:江村秀之
2020年9月28日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/056130_001670/

野村 胡堂「新奇談クラブ──06 第六夜 人形の獄門」(新字新仮名)、底本『奇談クラブ(全)』桃源社、1969年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 056130_001670, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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