## クラブ復活

「皆様、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>十五年目でこの奇談クラブの会合を開きました。世の中も変りましたが御同様私共もすっかり年を取ってしまいました」

幹事の<ruby><rb>今八郎</rb><rt>こんはちろう</rt></ruby>はそう言って見事に<ruby><rb>禿</rb><rt>は</rt></ruby>げた頭をツルリと撫で<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら続けました。

「長い長い間、私共は自由に会合して面白い話を交わすことさえ遠慮しなければなりませんでしたが、今では最早そのような気兼も苦労もなく、存分に考え、存分に働き、そして存分に楽しみ、存分に話し合って<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつかえ</rt></ruby>の無い時代が参りました。会長の<ruby><rb>吉井</rb><rt>よしい</rt></ruby>夫人も久し振りで皆様に御目にかかって、精一杯面白い話でも承わり鬱積した悩みを忘れ<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いと<ruby><rb>仰</rb><rt>おつ</rt></ruby>しゃるので、古い名簿を捜し出して、急に昔の奇談クラブの会員の方に集って頂いたわけで御座います」

今八郎は、そう言って静かに会場を見渡しました。十五年前と同じ会場――吉井合資会社の会議室は、昔のままの調度に真珠色の間接光線が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>りますが、集った旧会員達は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く半白の老人ばかりで、その中に会長の吉井<ruby><rb>明子</rb><rt>あきこ</rt></ruby>夫人だけが、まだ昔のままの若々しさで、十五年前<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て吉井明子嬢と言った時代と、<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>したる変りがあろうとも思われません。

「<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も旧会員だけでは、御老体の<ruby><rb>珍田</rb><rt>ちんた</rt></ruby>博士始め、皆様元気に変りが無いにしても、何と申してもお歳がお歳で会場の空気が地味になり過ぎますから、気分を新鮮にするために、今晩は特に若い方に十二三名参加して頂き、その方々から<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きの良いお話を承わって、大いに我々老人共のホルモン剤にいたし度いと存じます。<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず第一番の話の選手として――」

今八郎はもう一度会場を見渡した。会場の一隅に二つ三つのグループを作っている若い男女会員達は、互いに顔見合わせてクックッと忍び笑いをして居ります。それを興深く眺めている吉井明子夫人は、十年ばかり前養子を迎えて<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く吉井合資会社の経営を委ねて居りましたが、その配偶が五六年前亡くなって、再び会社の社長の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を襲い、若くて美しくて、その上明敏貞淑な女社長として令名を天下に<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せているのでした。

「<ruby><rb>誰</rb><rt>だ</rt></ruby>れ<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>れと申すより、最初に新進作家の<ruby><rb>小栗緑太郎</rb><rt>おぐりりょくたろう</rt></ruby>さんにお願いいたし度いと存じます、お話が済んだら、小栗さんから次の話し手を御指名下さるように願います」

今八郎はそう言って自分の席に復しました。代って壇に立った小栗緑太郎は、まだ三十二三の青年で、近頃新鮮な作物を<ruby><rb>矢継早</rb><rt>やつぎばや</rt></ruby>に発表して、世の中から注目されて居りますが、見たところまことに地味な男で、薄汚れた背広も、フケ<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>の長い毛も、何となく真珠色の光の漲るこの席上には不似合な<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>ですが、<ruby><rb>顔形</rb><rt>かおかた</rt></ruby>ちはさすがに聡明らしく、話の調子もテンポの遅い、極めて感銘の深いものでした。例えば、

「御指名によって、先ず私が前座を勤めます。題して“夢幻の恋”完備で濃艶で、まことに<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからぬ話では御座います。これは私の秘蔵の種で、いずれ三百枚位の中篇に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めて、うんと原稿料を稼ごうと思って居りましたが、こう首の座に直っては、今さらケチな根性を出しても居られません。悉く皆様の前で御披露してしまいます。今晩お集りになった方はまことにお幸せで――」

<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな具合――少し調子づいた下品さで始めるのでした。

## 将軍の末の娘

因州新田の領主で一万五千石、<ruby><rb>松平淡路守清直</rb><rt>まつだいらあわじのかみきよなお</rt></ruby>の鉄砲洲十間町の上屋敷には、新たに造営した一角の女御殿があって、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に玉の如き姫君――<ruby><rb>京</rb><rt>きょう</rt></ruby>姫というのを住ませて置きました。

その新御殿の棟の上には、時に紫の雲が棚引くと言われるほど――そんな馬鹿なことは今の人間には信じられないことですが――<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>京姫の美しさは大変な評判でした。従って淡路守の寵愛もひと<ruby><rb>入</rb><rt>しお</rt></ruby>で、掌中の珠と言おうか、<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>の花と言おうか、言葉も形容も絶した扱い振りです。

尤も、それには事情のあることで、打ち明けて言うと京姫は淡路守の真の子ではなく、それは十一代将軍<ruby><rb>徳川家斉</rb><rt>とくがわいえなり</rt></ruby>の末の娘で淡路守の本家、因州鳥取三十二万五千石の城主、松平<ruby><rb>相模守慶徳</rb><rt>さがみのかみよしのり</rt></ruby>に<ruby><rb>嫁合</rb><rt>めあ</rt></ruby>わせるため、淡路守を仮親として、暫く<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>で育てて居るのでした。

十一代将軍家斉には五十幾人の子がありそれを一人一人大名高家の家柄年頃を選んでは押付け養子や、押付け嫁にしたので、嫌がるのもあり、喜ぶのもあり、当時は大変な評判になりました。が、さすがの家斉も気がさしたものと見えて、晩年の子は藁のうちから手頃な小大名などに預けて育てさせ、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>を親元にして片付けるという<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を考えたのです。

五十幾人のこどもは、将軍家斉の濫倫の産物で、中には碌でもないものもありましたが、末の娘の京姫は美しくもあり<ruby><rb>悧発</rb><rt>りはつ</rt></ruby>でもあり、その上少しお<ruby><rb>侠</rb><rt>きゃん</rt></ruby>で勝気で、冒険的な気質さえ持って居りました。

話は嘉永三年の春――鉄砲州の上屋敷の桜がハラハラと散って、築山の草も少しばかり萌え始めた頃から始ります。

「田鶴や、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>だよ、それ、危ない」

お姫様ともあろうものが、十幾人の腰元に立ち交って、ほのかに緑がかって来た芝生の上で盲目鬼の遊びに夢中でした。

腰元達は若くて元気で、お主の京姫に劣らず健康でした。中には振袖を背中に結んだの、あられもない裾を高々<ruby><rb>端折</rb><rt>はしょ</rt></ruby>ったのも交って、花籠をブチまけたような騒ぎです。芝生の上には若い女の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いきれ</span>が<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のように立って、生温かい午後の陽ざしに、人も花も、木も石も酔いしれるよう。

その中に<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>ときわすぐれて背の高いのは京姫の――真珠色の物の芽のような姿でした。色白で華奢で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なまやか</span>でさえありますが、その弱々しい外貌にカモフラージュされて、――後のこの姫の<ruby><rb>飛離</rb><rt>とびはな</rt></ruby>れた行状でも証明されることですが、――世にも魅惑的な匂いと、人知れぬ情熱とを持った、比類の無い個性の持主でもあったのです。

田鶴と呼ばれた腰元は、一生懸命朋輩を追い廻しましたが、肥っちょで少しばかり魯鈍なせいか、なかなか捉まるようなのはありません。眼隠しをしたままヘトヘトになって、一叢の<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>の蔭に<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れていると、

「田鶴さん、――私を捉まえちゃ嫌よ――黙って聴いていらっしゃい、良いことを教えて上げるから」

いきなり藪を隔ててこう<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>く者があります。

「誰？」

「誰でも<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いじゃありませんか――黙って聴いていらっしゃい――鬼になり度くてたまらない人があるんだから」

「え？　それは本当」

「誰が嘘を言うものですか、――教えて上げましょう、鬼になり度いというのは――」

「――――」

「誰も捉まえてくれない方、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>まで盲目鬼をやっていても、自分だけは捉まえてもらえないお方――お姫様よ」

「えッ」

「驚かなくたって宜いワ、そっと眼隠しをずらして、見当をつけて置いて、お姫様をつかまえて御覧なさい、それはそれはお喜びになるから」

「まア」

そう言い乍らも、何やら田鶴にも思い当るものがあります。起ち上って眼隠しを直すような振りをして、上眼遣いに覗くと、当の京姫は泉水のほとりの<ruby><rb>合歓</rb><rt>ねむ</rt></ruby>の木にもたれて、面白そうに笑い乍ら、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>を眺めて居るではありませんか。

## 男禁制の庭へ

芳紀まさに十八、蓮歩を運ぶごとに、<ruby><rb>馥郁</rb><rt>ふくいく</rt></ruby>たる香気を発散するような京姫は、――でも少しばかり駄々をこね乍ら、腰元達の手で眼隠しをさせられてしまったのです。

「鬼さん<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>、手の鳴る方へ――ワッ」

と花束を叩き割ったように、八方に散る腰元達、それを追って京姫は少しばかり迷惑そうに、実は面白くて堪らない様子で、芝生の上を縦横に跳んで居りました。

盲鬼の輪は芝生から池のほとりへ、築山の下から木立の中へと次第に展開して、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んでもない方まで移ってしまいました。腰元達はこの遊びにすっかり夢中になって、若い主人を牽制し乍ら、植込を抜けて木戸の方へ近づいて行きます。

「とうとう」

「――――」

京姫は一人の袖を掴みました。

「捉まえたよ、お前は誰、お前は？」

捜り寄る姫の繊手が、蕨の若芽のように伸びて、相手の肩から首筋へ、頬のあたりへと伸びます。

相手はあまりの事に<ruby><rb>立縮</rb><rt>たちすく</rt></ruby>んで、口もきけない様子です。

「お前は誰？　清江かえ、里美かえ」

その辺に居る<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>の腰元達が、どうしたことか一人として口を利く者もありません。押し<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>さるような恐しい沈黙の中に、京姫は妙に喰い違った心持で、いきなり自分の眼隠しを<ruby><rb>除</rb><rt>と</rt></ruby>りました。

「あッ」

たったひと声、京姫は悲鳴をあげたのも無理はありません。腰元の一人と思って首筋に囓りつくようにして掴んだ相手は何と浅葱色の紋付に本多<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>、<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を突っかけて短いのを一本差した、若い若い青侍ではありませんか。

京姫が汚いものから飛退くように飛びすさると、

「無礼者」

奥取締の老女の声と一緒でした。それを聞くと一たん飛散った腰元達は、バラバラと駆け寄って、この狼藉者を<ruby><rb>取巻</rb><rt>とりま</rt></ruby>いてしまったのです。

「<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>を何と心得る、――<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>は何者じゃ」

老女は畳みかけました。事の重大さに面喰った青侍は、大地に<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>を突いて、恐れ入った姿で肩さえ<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わして居ります。

「新参者の不案内で、思わぬところへ参りました、平に御容赦を願いまする」

そう言うのが精一杯。

「名乗れと申すに、何と申す者だ」

老女は意地悪く追及しました。

「<ruby><rb>村松金之助</rb><rt>むらまつきんのすけ</rt></ruby>と申しまする」

「ほう、よい名じゃ<ruby><rb>喃</rb><rt>のう</rt></ruby>」

お<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>は少し茶かし気味です。後ろの方で黙って見ている京姫の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>っ<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>らしい眼がそう言わせたのかも知れません。

青侍の様子は全く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかわ</span>れるように出来て居りました。年はもう二十五六にもなるでしょうか、小さくて青白くて、そして男人形のようにツルリと渋皮の剥けた、言いようもなく綺麗な男だったのです。

「お局様、殿方禁断の庭へ入った上は、世上への見せしめ、精一杯懲らしめてやろうでは御座いませんか、その<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>許しては、御台様への<ruby><rb>申訳</rb><rt>もうしわけ</rt></ruby>が立ちません」

若くて悪戯っ気の多い腰元の一人――里美というのでしょう、京姫の意を迎えるように、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う老女へ囁きました。

「<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも尤も、この儘許しては、取締りの私の一分が立ちませぬ、それでは皆の衆」

「ハッ」

十幾人のお腰元、事あれかしと待って居たのが、パッと寄って来ると、村松金之助を八方から取囲み、

「狼藉者、神妙にしや」

口々に<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り乍ら、赤い<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>、白い<ruby><rb>扱帯</rb><rt>しごき</rt></ruby>、黄色い帯止めと、あらゆる紐を四方から投げ掛け、恐れ入って<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずく</rt></ruby>まる青侍を、あろうことか、キリキリと縛り上げてしまったのです。

「――――」

<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>のまにやら、縁側に座を設けた京姫は、豊かに脇息を<ruby><rb>引寄</rb><rt>ひきよ</rt></ruby>せて、少し苦り切って、――その癖存分に面白そうに、美しい眉などを<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めてそれを眺めているではありませんか。

## 恐しい恋

それから<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んな事が起ったか、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる文献にも伝説にも伝わりませんが、兎に角<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く許されて庭口から表の方へ突き出されたのは、最早夕暮も近い頃で、それまでざっと一刻半（三時間）の間、村松金之助は奥庭の芝生の上で、十幾人の腰元の、小意地の悪い、その癖申分なくムズ<ruby><rb>痒</rb><rt>がゆ</rt></ruby>い、不思議な責めを味わわされたのです。

芝生の上を引廻されたり、松の大木に吊り上げられたり、幾人かのお腰元のお馬にされたり、この上もなく冒涜的な<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>を尽した揚句、

「もう許したが<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かろう、それから、奥庭へ迷い込んで粗相があったと知れては、其者の身分にも<ruby><rb>拘</rb><rt>かか</rt></ruby>わるであろう、何事も無かった<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>にして、庭木戸の外へ追いやるが宜い」

老女の指図はさすがに<ruby><rb>行届</rb><rt>いきとど</rt></ruby>きます。が、それは、京姫の物言わぬ眼が、恐しく雄弁に老女を指図して居るのを、村松金之助は見逃しはしなかったのです。

こうして村松金之助は、若い女達の体臭にむせて、お酒に酔っ払ったように、フラフラと木戸の外へ<ruby><rb>突出</rb><rt>つきだ</rt></ruby>されました。見ると全身熱湯を浴びせられたようで、我乍ら髪も衣紋も滅茶滅茶、先ず金之助はそれを直した上、出来るだけ素知らぬ顔をして表役所の方へ帰らなければなりません。

裏庭に紛れ込んでこれ<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>けの恥を受けたのですから、性根のある侍なら、何とか自尊心を満足させる方法を採るべきですが、村松金之助はそんな<ruby><rb>張合</rb><rt>はりあい</rt></ruby>のある人間ではなく、誰も気が付かなかったのを幸い、組頭に型通りの挨拶をして、その儘自分のお長屋へ帰って来ました。

お主の淡路守は一万五千石の小名ですがそれにしても村松金之助は見る蔭もないが小身者でした。食禄は足軽へ毛の生えた五人<ruby><rb>扶持</rb><rt>ぶち</rt></ruby>、家族もなく身寄もなく、ろくな友達も無い憐れな存在ですが、今年の参覲交代に、幸か不幸か選ばれてお供の端に加わり江戸のお留守居に<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>で使われて、来年の春の殿の帰国を待って居るあるか無きかの存在だったのです。

その新田藩中一等の憐れな侍が、人もあろうに淡路守養女――十一代将軍家斉の末の娘の生活の中へ、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに飛込んだのは何という不思議な因縁でしょう。

その晩村松金之助は、夕餉の膳に向かう張合もなく、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を取っただけの着のみ着のままで、床の中に潜り込みました。頭は鉄瓶のように煮えくり返りますが、気持は妙に冴えて、その日の出来事を、どんな細かい点までも、ありありと記憶に再現することが出来るのでした。

わけてもあの顔――<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>好きらしい京姫の顔――端麗なくせに、この上もなく情熱的な顔は、どんな細かい感情の動きまでも金之助の記憶の上に焼き付いて、次から次へと場面を展開して行くのです。

妙に人を引き付ける声、大きな黒い眼、うるんだような唇、ほのかな微笑、――そう言ったものが幾度も幾度も金之助の前に現れて、五彩の糸をかがった不思議な輪の中に消えて行きます。それは捕捉することの出来ない、世にもやるせない幻影でした。

<ruby><rb>到頭</rb><rt>とうとう</rt></ruby>金之助は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんじり</span>ともせず翌朝を迎えたのです。

形ばかりの朝の食事を済ませて、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>ものように表役所へ出かけました。金之助の役目は玄関を掃除したり、お取次をしたりするのですが、その日はトンチンカンなことばかり仕出かして、朋輩に笑われたり、組頭に<ruby><rb>剣突</rb><rt>けんつく</rt></ruby>を食わされたり、全く散々の体でした。

昨日の冒険にかき立てられた心持は、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>でどんな形容詞を<ruby><rb>濫発</rb><rt>らんぱつ</rt></ruby>したところで説明し切れるわけはありません。五人扶持の見る影もない青侍が、相手もあろうに、先の征夷大将軍、淳和奨学両院の別当、もう一つ曾ての太政大臣で十一代将軍の徳川家斉――文恭院殿様の忘れ形見に恋をしたのです。世の中にこれ程馬鹿馬鹿しく、これ程不釣合なことが又とあるでしょうか。

諦める――物を妥協的に考える人には、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな調法な言葉もあるのですが、困ったことに青白い小男の村松金之助は、恐しく執着心の強い男で、「諦め」などという言葉を持たない、極めて少数の人間の一人でした。

一日勤めを休んで、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日から又勤めに出て見ましたが、自分は精一杯気を付ける<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>りでも、妙な失神状態に襲われて、時々飛んでもない失策を演じては、組頭に眼の玉の飛出るほど叱られたりするのでした。

それは<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し大した問題ではありません。一番村松金之助を苦しめたのは、胸の奥の奥に秘めてあった筈の京姫の<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>が次第に怪しくなって、やがて幾日目かには、どうしても京姫の顔を思い出せなくなってしまったことでした。

「恋人の顔――これほど世の中に不思議なものはありませんね、諸君は自分の配偶の顔を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっきり</span>記憶して居ると言い切れますか。十年、二十年つれ添った女房の顔でさえ私共の記憶には<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないのですよ。まして火のように燃える情熱の対象となった、恋人の顔――たった一度しか見たことの無い恋人の顔をどうして記憶することが出来るものでしょう」

話し手の小栗緑太郎は、京姫の話を打ち切って、いきなりこんな註を入れるのです。

「――その癖我々は、千万人の中からでも自分の恋人を見出し、百間の外へ近づいた恋人の足音でさえ聴きつけるのです。それほどの恐しい敏感を持っている癖に、退いて考えると、恋人の顔だけはどうしても思い出せないから不思議ではありませんか」

小栗緑太郎は続けました。

――青侍の村松金之助は、この恐しい悩みに囚えられたのです。それも<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby><ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる時でも、自由に逢える恋人なら、何の悩みも無かったでしょうが、提灯に釣鐘ほどの不釣合な相手で、平常は新御殿奥深く<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこん</rt></ruby>だまま姿も見せず、<ruby><rb>偶々</rb><rt>たまたま</rt></ruby>外へ出る時は、厳重に<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>された女乗物に納まって、下々の者には着物の端っこさえも見せないのです。

その恋の相手、京姫を一と眼見たいという大それた望みが、村松金之助をさいなみました。

## 怪しい修験者

散々悩み抜いて、骨と皮になった村松金之助は、或る日フト「どんな望みでも叶えさせてやる」という評判を取った、浅草山の宿の修験者<ruby><rb>大寿院</rb><rt>だいじゅいん</rt></ruby>の話を小耳に挟みました。

それは恐しい邪悪な<ruby><rb>売僧</rb><rt>まいす</rt></ruby>であったにしても、もう一度京姫の顔が見度いという<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>は、何の望みもない村松金之助に取っては兎にも角にも救いの神でした。

全部の貯えを持って、山の宿まで飛んで行くと、祈祷料が高いので、あまり信心が無いものか、大寿院という修験者は直ぐ逢ってくれました。虎髥の生えた五十男で、何様<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>ての外の物凄い人相です。

五人扶持でも侍の切れっ端には相違ない金之助、最初はさすがに打ち明け兼ねましたが、大寿院の巧みな口に説き落されて、ツイ自分の望みを打ち明けました。まさか将軍の姫君とは言いませんが、「主筋の姫に恋愛して、近寄る工夫も顔を見る術も無いが、何とかしてひと眼逢い度い」という切なる望みを打ち明けたのです。

大寿院はカラカラと笑って、

「それはいと易いことだ、私が祈祷をして進ぜよう、それから今晩休むとき、この薬を<ruby><rb>服</rb><rt>の</rt></ruby>まれるがよい」

こう言って一服の薬を与え、それから揉みに揉んで半刻あまりも祈祷をしてくれました。

その晩村松金之助は、大寿院から貰った薬のせいか、床に入ると直ぐ安らかな眠りに入り、眠りと共に、不思議な夢が絵巻物のように発展して行ったのです。

昔イランの国に不思議な行者があり、旅人を誘って眠らせた上、<ruby><rb>極楽</rb><rt>パラダイス</rt></ruby>を見せると言って豪華な宮殿に伴ない、歓楽の限りを尽くさせて、邪教を広めたという事実があります。旅人を甘夢に誘った薬品は、ハシシ（hashish）という麻薬であったと言われますが、大寿院の使ったのもこれとよく似た薬品で、祈祷と言ったのは、一種の催眠術の暗示に過ぎなかったのですが、当時の人はそんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からくり</span>を分る<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>もありません。

その晩の村松金之助の夢は、どんなに怪奇妖艶を極めたことか、――真珠色の雲の中に、京姫と手を取り合って、心のまま睦び戯れた長い長い夢、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝ハッと眼を覚した村松金之助は、なまぬるの湯に一と晩浸っていたような、不思議な興奮と疲労のうちに、言うに言われぬ甘美な哀愁の残滓を反芻していたのです。

夢――何という現実らしい夢だったでしょう。それは妖艶で悩ましくて、存分に刺戟的であったにしても、妙に物淋しい<ruby><rb>清純</rb><rt>プラトニック</rt></ruby>でさえあるものでした。

その<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る晩は暗示も効力を失って、ただ薄黒い悪夢と、それよりも不愉快な不眠が続いただけ、その<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る晩も、その<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る晩も。そして村松金之助は、京姫の顔の飢に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さいなまれ</span>て、居ても起ってもいられない焦燥に悩まされているのでした。

思い切って山の宿の大寿院を訪ねたのはたった四日目でした。又も同じ祈祷と薬とそしてその晩の甘美な夢と――。

しかし夢から醒めた虚脱状態が続くと、三日目の大寿院訪問をして居りました。

有金を全部大寿院に注ぎ込むと、今度は朋輩から借り集め、それも八方<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がりになると、次には身の廻りの物を売り始めました。一回の祈祷料五両、それだけの大金を出すのは、五人扶持の村松金之助に取って全く容易なことではありません。

最後に、浅葱色の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>一枚と小倉の袴が一着だけ残った時、村松金之助は組頭に呼出されました、そして「勤め向宜しからざる儀<ruby><rb>有之</rb><rt>これあり</rt></ruby>」という条件で、永の<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>になったのです。

村松金之助は藩中の朋輩達に後ろ指を差され乍ら、トボトボと鉄砲洲の屋敷を引払いました。<ruby><rb>差</rb><rt>さ</rt></ruby>して行く当てもなく、<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>より懐中には一文の貯えもありません。

金之助の足は自然に山の宿に向かいましたが、こうなってはもう大寿院も相手にしてくれる筈もなく、行く先は手近の隅田川の底より外には無くなってしまいましたが金之助にはまだ一つ、大それた望――死ぬ前にもう一度京姫の顔が見度いという望があったのです。

## 相寄る心

それから幾日か過ぎました。江戸はすっかり青葉と<ruby><rb>鰹</rb><rt>かつお</rt></ruby>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほととぎす</span>の季節になり切った頃、京姫の上にも、いよいよ淡路守の娘分として、因州鳥取三十二万石の城主、松平相模守に嫁ぐ日は廻って来たのです。

いよいよ明日は輿入という前の晩のこと、京姫は何やら誘われるような心持で、フラフラと席を起って、涼風を容れる為に開けて置いた縁側から、庭下駄を突っかけたまま、月の明るい庭に降り立ちました。

輿入の<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>に紛れて、誰も気の付いた者はありません。

月の光の下を、芝生から池のほとりへ、築山の裾から植込の中を抜けると、

「あッ」

曾て表の青侍が迷い込んだ木戸のあたりに、何やらフラフラと動くものがあるではありませんか。

京姫はこの恐る<ruby><rb>可</rb><rt>べ</rt></ruby>き<ruby><rb>闖入者</rb><rt>ちんにゅうしゃ</rt></ruby>が、男性であることを意識し乍ら、不思議に恐れる気持が無くなってしまいました。それどころで無く、妙に引寄せられるような心持で、一歩、二歩、その不気味な物の蔭に歩み寄ったのです。

「――――」

相手も姫の顔を見た様子ですが、さして驚く風もなく、木戸の柱に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れたまま、がっくり首を落しました。

「お前はいつぞやの――」

京姫は絶句しました。それは紛れもなく<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>ぞや<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に迷い込んで、腰元達に<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>りものにされた青侍の、見る影もなく痩せ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さらばえ</span>た姿ではありませんか。

「姫君様、お許し下さいませ。――もう一度顔を拝し度さ、――命に賭けて参りました」

「ま、お前も」

姫は走り寄ると、そのまま命の最後の灯を燃やし尽くして、大地の上に崩折れそうな男の手を取ったのでした。

将軍家斉の娘が、餓えて焦れて死にかけている痩浪人の手を――、それはもう夢ではなく、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じいほどの真実性を持った現実です。

「<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがと</rt></ruby>う御座います、姫君様、村松金之助生まれて始めての生き甲斐で御座います」

村松金之助は、木戸の柱に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付いたまま、命を絞るような涙を流しているのです。

数年前に死んだ父家斉と、<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>つかしい白髪頭の家来達の外に、男というものを見たことの無い京姫は、この不思議な男――<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>ぞやの闖入者、――小柄で綺麗で、男人形のように清潔な感じのする村松金之助を今の今まで忘れずに居てくれたばかりでなく、気に染まぬ婚礼話の進行中に、ほのかなそして<ruby><rb>邪</rb><rt>よこ</rt></ruby>しまな記憶と、次第に募る思いをさえ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なつかし</span>んで居たのでした。

京姫はあまり物を言いませんでした。がその月に照らされて美しい顔の表情は、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる言葉よりも雄弁に、瀕死の村松金之助の眼に、並々ならぬものを<ruby><rb>焼付</rb><rt>やきつ</rt></ruby>けたのです。

「お姫さま、――私は夢ばかり追って居りました、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな事とも存ぜず」

「――――」

「明日の御輿入と承わって、やっとの思いで<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで辿り着きましたが、最早精も根も尽き果てました」

「あれ、死んではいけない、――私と一緒に――」

京姫はこの死に行く男と一緒に、一体<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ行こうと言うのでしょう。

「その<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめし</rt></ruby>は有難う御座いますが、それでは私の一分が立ちません、さらばで御座います」

「お待ち、私も一緒に行こう」

「飛んでもない、姫君様」

「でも私は、明日の祝言が嫌で嫌でならないのだから」

徳川の家を護ろうとする大きな政略の犠牲となって、見も知らぬ鳥取の城主へ嫁ぐのは、京姫に取っては我慢の出来ない恐しさでもあり、そしてやるせない憤懣でもあったのでしょう。

この男と一緒に、江戸の<ruby><rb>陋巷</rb><rt>ろうこう</rt></ruby>の真ん中へでも、人里離れた山の奥へでもと、<ruby><rb>一図</rb><rt>いちず</rt></ruby>に思い込む京姫の望みは、素より遂げられる筈もありません。

その間に御殿の中は騒ぎ始めました、多分姫の姿が見えないのに気付いたのでしょう。

姫は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く気を取り直すと、そのまま<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めり</span>込むように崩折れた村松金之助を励まし後日を約束してその場から立去らせ、<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>を返して騒ぎ立てる人々の中へ、いとも<ruby><rb>冷</rb><rt>つめた</rt></ruby>い――がこの上もなく美しく取りすました顔を持って来るのでした。

「この先まだまだ話が続くのですが、私に与えられた時間は尽きました。私は“夢幻の恋”という題目に<ruby><rb>相応</rb><rt>ふさわ</rt></ruby>しい一節だけを申し上げて、あとは簡単にこの物語の筋を通して置きます」

話し手の小栗緑太郎はこう言って、キナ臭い顔をして聴いている会員達の顔を見廻し乍ら続けました。

「――家斉の末の娘が鳥取に嫁いで、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>と<ruby><rb>駈落</rb><rt>かけおち</rt></ruby>したという有名な秘話は、皆様も何かの機会にお聴きになったことがあると思います。この話は徳川時代では飛離れた自由恋愛の一例で、京姫の淫蕩を非難される意味に語り伝えられて居りますが、私の調べたところでは、必ずしもそうとは限りません」

村松金之助は新御殿の庭から外へ、どんなに骨を折って脱出したか、それは言うまでも無いことです。入る時は案内知った金之助に取って、左して困難は無かったのですが、疲れ果て飢え果てた金之助が、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>から脱出する六つかしさは、真に命がけの冒険だったのです。

でも、京姫の新しい記憶を、しかと胸に畳んで、虫のように這って、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日の朝日の出る<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>には、どうやらこうやら屋敷の外へ脱出しました。

それから金之助は<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>乍ら京姫の輿入を見送った後、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに残る脇差を売って飢を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎ、暫く時機を待って居りましたが、間もなく<ruby><rb>伝手</rb><rt>つて</rt></ruby>を求めて、上八代州河岸の松平相模守屋敷に仲間に身を落して住み込んだことは言う迄もありません。

「――松平相模守――鳥取三十二万石の城主の奥方、十一代将軍家斉の末の娘が、こうして仲間風情と駈落することになったのでした。その駈落が不成功に終り、仲間姿の村松金之助が、鉄砲で打ち殺されたのは又後の話。そして京姫は祖先の千姫と同じように、一生暗い運命を背負わされて、美しさを<ruby><rb>伊皿子</rb><rt>いさらご</rt></ruby>の化物屋敷に埋め、世の嘲笑と指弾の的になって淋しい一生を終りました。封建時代の自由恋愛が、どんなに恐しいものであったか、青侍と将軍の娘の胸にも、赤い血が通い合うという、――これが奇談でなくて何でしょう」

小栗緑太郎はそう言って壇を下りました。