## 橋の袂に美女の裸身

しはんほになすはかはすなにほんはし

「<ruby><rb>吝嗇漢</rb><rt>しは（わ）んぼ</rt></ruby>に茄子は買は（わ）すな日本橋――か、ハッハッハッハ、こいつは面白い、逆さに読んでも同じだ、落首もこれ位になると点に<ruby><rb>入</rb><rt>へえ</rt></ruby>るよ」

「<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ってるぜ、畜生め、まったく御改革の今日<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">び</span>じゃ、五十五貫の<ruby><rb>初鰹</rb><rt>はつがつお</rt></ruby>どころか、一口一分の初茄子せえ、江戸ッ子の口にゃ<ruby><rb>入</rb><rt>へ</rt></ruby>えらねえ、<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んのことはねえ、八百八町、吝嗇漢のお揃いとけつからア、オロシヤの珍毛唐が風の便りに聞いて笑って居るとよ、ヘッヘッヘッヘッ」

場所もあろうに、公方様は膝元の江戸日本橋、

「一、忠孝を励むべき事……」

と天下の掟を掲げた高札の真ん中に何者の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ぞ、<ruby><rb>貼付</rb><rt>はりつ</rt></ruby>けた一枚の鼻紙、墨黒々と書かれたのは、この皮肉な落首でした。

さしも大江戸の繁華も、昨年（天保十二年）以来、老中<ruby><rb>水野越前守</rb><rt>みずのえちぜんのかみ</rt></ruby>の改革に火の消えたような有様ですが、さすがは物見高い江戸っ子、茶気と<ruby><rb>弥次</rb><rt>やじ</rt></ruby>気分は、<ruby><rb>此期</rb><rt>このご</rt></ruby>に及んで衰えた風もなく、落首を貼った高札の前は、押すな押すなの騒ぎ、その十七文字を、上から読んだり、下から読んだり、ドッ、ドッと笑い崩れ<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、胸一杯に<ruby><rb>痞</rb><rt>つか</rt></ruby>えた溜飲を下げて居るのでした。

「そら鬼だ」

「<ruby><rb>甲斐守</rb><rt>かいのかみ</rt></ruby>様出役だ」

群衆<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだれ</rt></ruby>を打って立ち分れると、その間を縫って、南町奉行<ruby><rb>鳥居</rb><rt>とりい</rt></ruby>甲斐守<ruby><rb>忠燿</rb><rt>ただてる</rt></ruby>、手附の与力、配下の岡っ引共を従えて立ち現われました。

「一人も動くな」

鷲のような眼玉に睨まれて、散り残った一団の人数、逃げも隠れもならず、首をすくめ、顔色を失って、ただおろおろと立ち<ruby><rb>縮</rb><rt>すく</rt></ruby>むばかりです。

町奉行自身、江戸の街を見廻るというのは、何年にも無い<ruby><rb>珍</rb><rt>めず</rt></ruby>らしい事ですが、御改革の徹底を、面目にかけて期して居た鳥居甲斐守は、時には微行で、時には大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びら</span>に、江戸の町々を巡って、その冷酷無残な眼を光らせたのでした。

「御公儀御政道を誹謗する不届者は言う<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>もない、<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>かたりとも御趣意に背く奴等は<ruby><rb>用捨</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>はならぬぞ、片っ端から搦め捕ってしまえ」

鋼鉄のような冷たい宣言と共に、岡っ引共の手にキラリと光る<ruby><rb>銀磨</rb><rt>ぎんみがき</rt></ruby>の十手、群衆はもう生きた心地もありません。

「絹物を着て居る奴はないか、<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>ビロウド</rt></ruby>の鼻緒、<ruby><rb>唐皮</rb><rt>からかわ</rt></ruby>の<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>入――そんな御禁制のものは無いか」

虎の威を借る下役どもは、逃げもならずに<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>える男女を、一人一人小突き廻しては<ruby><rb>取調</rb><rt>とりしら</rt></ruby>べるのでした。

結い立ての髪を解かせて、自分で結ったか<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うか、群衆の前で試される女、――<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>ビロウド</rt></ruby>の鼻緒を<ruby><rb>切取</rb><rt>きりと</rt></ruby>られて、竹の皮ですげ替えさせられた上、親を<ruby><rb>呼出</rb><rt>よびだ</rt></ruby>して手錠をはめられる小娘、――中には<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な紙入を発見されて、縄付にて、<ruby><rb>引立</rb><rt>ひきた</rt></ruby>てられる若い男もあります。

鳥居甲斐守の眼は、この凄まじい詮索に陶酔して、血に渇いた悪獣のように、キラリキラリと燃えました。禁制品を一つ見付ける<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に、頬の肉を引き曲げるような苦笑いが、橋の袖に<ruby><rb>吹寄</rb><rt>ふきよ</rt></ruby>せられた町人共を、吹き溜りの紙っ切れのように顫えさせたのです。

「これッ」

甲斐守は下役を顎で呼びました。

「<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に居る若い女、あの下着は絹ではないか、取調べえ」

「あッ」

<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>のような眼に射られると知った十八九の町娘は、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を伏せて人混みの中へ潜りました、が、<ruby><rb>飛附</rb><rt>とびつ</rt></ruby>いた手先には何んの<ruby><rb>容捨</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>もありません。<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>い加減に押し包んだ群衆の中から、ズルズルと引立てて、

「顔を上げろ」

右手に<ruby><rb>髷</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>を取り、左手を<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>い頤に掛けて、グイと顔を上げさせました。

「…………」

群衆がザワザワと波打つような美色、――少し褪せた真珠色の頬、恐怖に見開く<ruby><rb>黒燿石</rb><rt>こくようせき</rt></ruby>の眼、赤い唇の色もありませんが、非凡の美しさは、何者にも損ねられなかったのです。

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>は、いずれの者じゃ、親共の商売、名前、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに<ruby><rb>申立</rb><rt>もうした</rt></ruby>てえ」

「木場の廻船問屋、<ruby><rb>増田屋惣兵衛</rb><rt>ますだやそうべえ</rt></ruby>の娘、<ruby><rb>藤</rb><rt>ふじ</rt></ruby>と申します」

娘は蚊の鳴くような声で、これ<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>け言うのが精一杯でした。

「なに？　廻船問屋？　フム、此頃まで株式仲間と組んで、江戸大阪の廻船に、不当の利潤を<ruby><rb>貪</rb><rt>むざ</rt></ruby>ぼり、今は入牢吟味中の増田屋惣兵衛の娘か、――そのような者の娘なら、定めし着類持物に贅を尽して居るであろう、――その帯を解けッ、――何を遠慮する、若い女とて、御布令の前に容捨がなろうか、肌に着く物まで、厳重に取調べえ、<ruby><rb>絹片</rb><rt>ぬのぎれ</rt></ruby>一つあっても非曲だぞ」

二人の手先は、十手を口に<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えると、左右から飛付きました。

「あれッ」

「騒ぐな」

最初に帯、グルグルと解くと、<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を、下着を――、<ruby><rb>筍</rb><rt>たけのこ</rt></ruby>の皮を剥ぐように、一枚、一枚剥ぎ取られて行きます。

群衆はあまりの事に口を<ruby><rb>緘</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んで、太古の林の如く静まり返り中にはそっと顔を反けたものさえある様子。お藤は喪心したように、人形よりも無力に、さるるが<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>に立って居りました、か弱い娘の力で、抵抗したところで<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うなるものでしょう。

時は天保十三年三月、<ruby><rb>橋梁</rb><rt>はしげた</rt></ruby>に虫の這うのも読める真昼、所は江戸の日本橋、数百人の好奇の眼の前に、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て人目に触れたことの無い、神秘そのもののような、世にも美しい<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>の玉の肌が、真珠に刻んだ塑像のように、<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うところ無く、春の陽に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>されたのです。

「見ろ、襦袢は絹だ」

勝ち誇る手先共の声とは別に、橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の人間の吹き溜りは、<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と打ちの波が寄せたようにザワめきました。あまりの美しさあまりの<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしさに、思わず声を揚げたのでしょう。

次の瞬間、お藤は大地にヘタヘタと<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れました。

「これ、坐ってはならぬ」

抱き起す手先の<ruby><rb>腕</rb><rt>かいな</rt></ruby>、松の古木のような、逞ましいのへカッと一塊の血潮が――。

「あッ」

娘は舌を噛んだのです。グイと顔を挙げさせると、唇を漏るる血が、顎から首筋へ、真珠色の胸へ、真紅の網を掛けたように流れるのでした。カッと見開く眼には、恐ろしい苦悩が燃えて、怨みの瞳は甲斐守の、さすがに驚き騒ぐ顔に釘付けになります。

次第に濃くなる死の色――。

橋の袂の群衆はあまりの物凄まじさに、役人の目をかすめて、散々バラバラに逃げうせました。もう、それをとがめるほどの者もありません。

## 奉行と老中を怨んで

文化文政度から天保の初めへかけて、甘酸っぱく爛熟した江戸文化は、手の付けようの無い軟弱浮華なもので、此儘で行ったら、お膝元の江戸は言う迄もなく、日本国中どうなる事かと思う程でした。が、それを一挙に矯正しようとかかった、老中水野越前<ruby><rb>忠邦</rb><rt>ただくに</rt></ruby>の、世に<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う「天保の改革」も、その峻烈極まる反動的な物凄さで当時の人心を極度に顫え上らせたのです。

その改革の大波に捲き込まれて、<ruby><rb>入牢</rb><rt>じゅろう</rt></ruby>、追放、<ruby><rb>欠所</rb><rt>けっしょ</rt></ruby>、手錠に処せられた、大町人、役者、芸人の数も<ruby><rb>少</rb><rt>すくな</rt></ruby>くはありませんが、木場の増田屋惣兵衛などは最も手ひどい目に逢った一人で、町奉行鳥居甲斐守に睨まれて入牢、家財は埃一つ残らず没取、娘のお藤は<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る十三年三月日本橋の袂で舌噛み切って死んで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったのでした。

妹のお<ruby><rb>豊</rb><rt>とよ</rt></ruby>は一つ違いの十八歳、姉に優る美しさと、<ruby><rb>辰巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>っ子らしい<ruby><rb>気象</rb><rt>きしょう</rt></ruby>を謳われましたが、役人の目を<ruby><rb>憚</rb><rt>はば</rt></ruby>かって、寄り付く親類縁者も無いのに業を煮やし、柳橋から芸者になって出て、たった一人の病身の母親を養って居りました。

が、その母親も死んで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いました。

三七日を済ませたのは九月十三日、お豊は後の名月に誘われるように、フラフラと両国橋の上へさ迷い<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でました。世界の果てまでも、此儘行って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>い<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いような、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やるせ</span>ない心持にさいなまれて居たのです。

両国の東西橋詰を賑わした、名物の水茶屋も取払われ、月見船はおろか、橋の上から、月を眺めて居るような、心に<ruby><rb>余裕</rb><rt>ゆとり</rt></ruby>のある人間さえ一人もありません。

「お豊、――お豊」

「あッ、<ruby><rb>要</rb><rt>よう</rt></ruby>さん」

「<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>だったのか、<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んだ<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぺい</rt></ruby>をしたぜ、家へ行って見ると、<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を<ruby><rb>灯</rb><rt>つ</rt></ruby>けっ放しで空っぽだろう――お隣で聞くと、母親の三七日を済ませて、がっかり気を落したものか、物に憑かれたように、大川の方へフラフラと行って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったと言うじゃ無いか」

要さんと言われた若い男は、欄干に寄って、お豊と肩を並べると、そっとその手を後ろへ廻しました。

差し覗くと、月明りのせいもあったでしょう、真っ蒼な顔、

「どうしたんだお豊」

「私にも解らない」

「<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もだよ、江戸で十本の指に折られた大分限が、御改革のお蔭で半歳経たぬうちに身上を<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>い、父親は入牢、姉さんは自害、たった一人の母親にまで死に別れたんだもの――」

「…………」

「だがなお豊、不運はお前ばかりじゃない、絵草紙、錦絵は<ruby><rb>御法度</rb><rt>ごはっと</rt></ruby>、彫職の俺などは上ったりだ、元の植木屋に返ったところで、ろくな仕事があるわけは無し、明日から何をして行けば<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いか、見当も付かない始末よ、親の代からの借金は山程あるし、――俺はもう死んでしまい度い」

彫物師の<ruby><rb>要次郎</rb><rt>ようじろう</rt></ruby>はお豊に劣らず気が<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けて居りました。

「要さん」

「一緒に死んでくれないか、お豊」

「要さん」

お豊は<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と、要次郎に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付きました。名月を見る人も無い橋の上に、二人はもう、死ぬ事より<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>には考えて居なかったのです。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">天とう</span>様が、何んだって<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う俺達に祟るんだろうなア」

「おや？」

「役人方の見廻りだよ、月見船でも出す者は無いかと、<ruby><rb>鵜</rb><rt>う</rt></ruby>の目鷹の目さ」

河岸の騒ぎ――、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわただ</span>しい人の足音を遠く聞いて、要次郎は苦笑を<ruby><rb>漏</rb><rt>もら</rt></ruby>しました。

「要さん、父さんを牢へ入れたのも、身上を仕舞わせたのも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">天とう</span>様のせいだろうか」

「…………」

「姉さんにあんな<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい<ruby><rb>死様</rb><rt>しにざま</rt></ruby>をさせたのも、要さんの職を取り上げたのも、みんな、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">天とう</span>様のせいかねえ」

「そりゃ物のたとえだ、こんな時世に生れ合せたのが互の不祥さ」

「それで、お前は胸を<ruby><rb>擦</rb><rt>さす</rt></ruby>って居られる<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>り？」

「…………」

「一体<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>の誰がこんな御時世にしたんだろう、何んにも知らない若い娘が、真昼間の往来で裸にされるような、――それがお上のお慈悲だろうか、――御老中とか、お奉行とか言いやがって……」

「お豊」

「いえ、言わして下さい、人に聞かれたって構やしない、親の敵、姉さんの敵、――お前さんにも仕事を取上げた敵――」

「…………」

お豊は要次郎の胸を離れると、月下の町を浜町の方へ去り行く役人の後ろ姿を見送り乍ら、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言うのでした。

「私が男なら、乞食になっても附け狙って、姉に恥をかかせたあの鳥居の奴を討ってやる、<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に江戸の人達を、こんな目に逢わせる老中――」

「お豊さん、お<ruby><rb>願</rb><rt>ねがい</rt></ruby>だから気を鎮めておくれ」

「要さんはツイ今しがた、死に度い――と言いなすった、私も死に度いと思った、だけど、死んで化けて出る当があるわけじゃなし、そんな<ruby><rb>張合</rb><rt>はりあい</rt></ruby>の無い心中などをするより、どうせ死ぬなら憎い<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>に引っ掻きでも宜いから<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて、万に一つの<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>でも晴らしてやり度い」

「お豊、つまらねえ事を言うな、相手は御老中やお奉行、こちとらは側へも寄れるこっちゃ無い、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>り諦めて、一緒に死んでくれないか」

「いや、いや、女の私でさえ、こんなに<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいのに、お前さんは何んとも思わないのかえ、――それでも江戸っ子？　――私は要さんをそんな意気地の無い男とは思わなかった……」

火を吐くような言葉を、男の顔に<ruby><rb>浴</rb><rt>あび</rt></ruby>せると、お豊は百年の恋も<ruby><rb>褪</rb><rt>さ</rt></ruby>め果てたように、クルリと背を向けて、欄干の上に顔を伏せました。ガクリと砕ける島田<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>、白い<ruby><rb>項</rb><rt>うなじ</rt></ruby>には、冷たい月の光が無心に淀みます。

## 長襦袢は燃立つ緋縮緬

水野越前守出現以前の、<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れ切った江戸の豪勢さは、物の本などに詳しく出て居ります。例えば「遊女の下駄に<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>を設けて、その中に足を拭く<ruby><rb>白縮緬</rb><rt>しろちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>巾</rb><rt>きれ</rt></ruby>を入れ、太く白い鼻緒に、赤い<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>を入れて、ちらちら透いて見えるのを贅にしたとか――駒下駄の上に<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>を張り、廻りを総<ruby><rb>金蒔絵</rb><rt>きんまきえ</rt></ruby>にし、台の中に湯を入れて、寒中でも足の冷えぬようにしたとか、――雪駄の廻りを赤銅で縁取り、裏に真鍮の<ruby><rb>象嵌</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>を入れ、舟などに乗って、それを仰向にすると、その象嵌が美しく出た――」と言った、履物だけで言っても、こんな無法な贅を尽した世の中だったのです。

水野越前守は、そのだらけ切った江戸の町人に<ruby><rb>三斗</rb><rt>さんど</rt></ruby>の<ruby><rb>醋</rb><rt>す</rt></ruby>を喰わせたのでした。

「なにさ、御触は御触、骨休めは骨休めだ、御政道にも裏表がある、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>にそれ、<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しくな、日夜御政道の為に御辛労遊ばす御奉行様へ、<ruby><rb>時偶</rb><rt>ときたま</rt></ruby>は陽気なところをお目に掛けて、結ぼれたお心をお慰め申すのが、お上への御奉公と申すものだ、さアさア、私が承知だ、弾いたり、騒いだり」

<ruby><rb>金座御金改役</rb><rt>きんざおかねあらためやく</rt></ruby>、<ruby><rb>後藤三右衛門</rb><rt>ごとうさんえもん</rt></ruby>、<ruby><rb>禿</rb><rt>は</rt></ruby>げ頭を叩いて、鳥居甲斐を取巻いて居ります。

「後藤、ちと賑やか過ぎるぞ、外へ聞えはせぬか」

鳥居甲斐さすがに後ろめ度いのでしょう、脇息に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて、左右の美女の大群をニヤリニヤリと見廻し乍ら、こんな事を言って居るのでした。

「飛んでもない、風俗取締係の者が数十人で屋敷を堅めて居ります。――町人共が怪しんだら、<ruby><rb>狸囃</rb><rt>たぬきばやし</rt></ruby>が始まったと言え――と<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言い付けました。ヘッヘッ」

向島小梅に新築した、後藤三右衛門の別荘落成祝いは、町奉行鳥居甲斐守を正客に、腹心の者を集めて、町芸者数十人を<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>らせ、天下御免のドンチャン<ruby><rb>騒</rb><rt>さわぎ</rt></ruby>でした。

後藤三右衛門は、先祖代々の御金改め役ですが、わけても当代三右衛門は、<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る商才に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けた男で、鳥居甲斐守と結托して悪質の貨幣を鋳造し、物価を釣り上げて、一代に暴富を積んだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したたか</span>者です。

改革以来料理屋出合茶屋は上ったり、芸者の弾く三味線さえ忍び駒をかけて居たのが、江戸総取締のお奉行の許しが出たのですから、一座は割れ返るような騒ぎ――。

鬼のように思われた正座のお奉行様も、閻魔が飴を<ruby><rb>舐</rb><rt>しゃ</rt></ruby>ぶったように、ニタリニタリと笑って居ります。

「後藤、後藤」

「ヘエ、ヘエ」

三右衛門はにじり寄りました、何んかお気に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>ったのではあるまいかと思ったのでしょう。

「あれは何んだ、あの女は？」

「芸者でございます――が」

甲斐守の<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>す方を<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>し乍ら、三右衛門は恐る恐る応えました。

「あれでも芸者か、先刻から見て居ると、あの<ruby><rb>妓</rb><rt>こ</rt></ruby>一人、歌も唄わず、三味も弾かず、時々予の方を睨んで、フ、フンと言い乍ら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すまし</span>て居るようじゃ、そのくせ、<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりょう</rt></ruby>は抜群だが――」

「御意」

三右衛門はバネ仕掛けのように飛上りました。金座の役人ともあろうものが、何を<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>ったか、若い芸者の後ろから飛付くように、グイとその肩を掴んだのです。

「あッ、何をするのさ」

振り向いたのは十七八、並ぶ者なき美しさですが、手酌で<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>った酔が発したものか、ポーッと<ruby><rb>上気</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せた頬の色、キリリと眼を釣って睨み上げた凄艶さ、

「お前は何んの為に来た」

「<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>だねえ、人の肩に障ったりして」

「何？」

三右衛門の手を払い退けると、其儘スーッと立ち上りました。

「敵討に来たんだよ、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いておくれ、お前さんの禿頭と来た日にゃ、この節出来の、悪い小判の色そっくりだよ」

「や、女<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>ッ」

追いすがる三右衛門を突き飛ばして、驚き騒ぐ朋輩芸者の中を、ツ、ツ、ツ、ツと潜ると、正面鳥居甲斐守の前、三尺とも<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>てぬところへ、片膝を立てて、トンと坐りました。裾を洩るる赤い襦袢、それが、甲斐守の眼に沁みるような絹ではありませんか。

「モシ、御前様え、――いやさ鳥居の鬼奉行様は、お前さんなんだねえ」

「こらッ、何んと言う無礼ッ」

掴みかかる三右衛門を、甲斐守は眼で制しました。

「予が鳥居なら、何んとする」

氷のような冷やかさ。

「鳥居甲斐なら言い分がある――、私の姉さんは、たった一枚しか無い絹物の襦袢を着て居たばかりに、お前さんの為に、日本橋で裸にされ、舌噛み切って死んで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったよ、よもや知らないとは言うまい」

「…………」

甲斐守もギョッとしました、これが増田屋のお藤の妹とは、夢にも思わなかったのです。

「私も絹の襦袢を着て居るよ、――姉さんのは、それしか無いから、仕方無しに着たんだが、私のは<ruby><rb>眺</rb><rt>あつら</rt></ruby>えて<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>えて飛切りの緋縮緬さ、三両二分とかかったよ、自慢じゃ無いが、私ほどの綺麗な肌を、ゴツゴツの<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>で包まれるとお思いかえ、――さア、裸に剥いておくれ」

お豊は膳をハネ飛ばすと、鳥居甲斐の膝へ、グイグイと身を摺り寄せるのでした。

「…………」

甲斐守は薄笑ってそれを見詰めて居ります、あまりの無法な情景に、<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくは停める者もありません。

「鳥居の御膳、イヤサ、江戸潰しの御奉行様、贅沢禁制のお触れは、まだ<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>にはなりますまい、さア、私を裸に剥いて縛っておくれ、鳥居様遊興のお座敷から、縄付きにして<ruby><rb>突出</rb><rt>つきだ</rt></ruby>して貰えば、私は本望だよ」

「…………」

「えッ、裸に剥く元気も無くなったのかえ、見やがれ、江戸っ子のお豊姐さんの肌を拝ましてやらア、憚り乍ら湯文字まで御禁制の絹だよ、眼を<ruby><rb>瞶</rb><rt>つぶ</rt></ruby>すなッ」

スックと<ruby><rb>起上</rb><rt>たちあが</rt></ruby>ったお豊、三右衛門以下の止める間もありません。一つ<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>ると、<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て用意をしたものか、<ruby><rb>襲</rb><rt>かさ</rt></ruby>ねの晴着が肩を滑って、燃え立つ長襦袢の緋縮緬、右手には腹を合せた二挺<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>が、数十基の燭台の灯を受けて、毒蛇のようにキラリと光ったのです。

「姉の敵、親の敵、覚悟しあがれッ」

凜とした声が、盛宴の席を圧します。

## 罪は悉く越前守

それから一刻ほど後、

同じ後藤三右衛門の別荘の<ruby><rb>構内</rb><rt>かまえうち</rt></ruby>、特に造らせた離屋の一室に、鳥居甲斐守と芸者お豊は、人交えもせずに相対して居りました。中に挟んだ<ruby><rb>手焙</rb><rt>てあぶ</rt></ruby>りが一つ、横から照す絹行灯に、知らない者には、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>ある仲とも見えたでしょう。

「それでは、御前様、好き好んで、こんな御政道の手伝いを遊ばしたわけじゃ無いと仰しゃるので――」

「そうとも、その通りだよ、――誰が好きでこんな非道なことをするものか、みんな上からの指図で、嫌々乍ら、お上の手足になったのだ、下々の怨の声を聞く時の辛さ切なさ、この胸がよくも張り裂けない事であったと思うよ」

鳥居甲斐はホッと吐息を洩らしました。

「…………」

「私も、鬼でも蛇でもない、――現にお前の姉が死んだ時も、何遍この頭を下げて、<ruby><rb>詫</rb><rt>わび</rt></ruby>に行こうと思ったことか、――役目の手前それも出来ない苦しさを考えてくれ、その代り、この後はどんな力にもなってやろう、昔の増田屋に返す<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>はなくとも、お前の身はきっと立つようにしてやる」

「それでは、私は誰を怨めば宜いのでしょう」

お豊の胸には、何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">天とう</span>様のせいにして、情死しようと言い出した要次郎の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おもかげ</span>が浮びます。

「高い声では言われぬが、――この御改革の元は御老中の水野越前守様じゃ。俺はその指図通りに動く人形も同様」

「…………」

お豊の眼には、また<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>とした復讐の熱意が燃えます。

「自体、越前守様望みが大き過ぎたのじゃ、肥前<ruby><rb>唐津</rb><rt>からつ</rt></ruby>から、遠州浜松に国替を<ruby><rb>願出</rb><rt>ねがいで</rt></ruby>たのも、ただ老中になり度い為――、老中になれば今度は大手柄を立てて、昔の<ruby><rb>柳沢出羽守</rb><rt>やなぎさわでわのかみ</rt></ruby>のように、幾十万石の大大名にも出世し度い、――限り無い慾の恐ろしさ、下々の難儀も顧みず、<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に手荒な改革を思い立たれ、それを手柄と思って居られる、今度は<ruby><rb>印旛沼</rb><rt>いんばぬま</rt></ruby>の<ruby><rb>埋立</rb><rt>うめた</rt></ruby>てじゃ、江戸十里四方の土地の召し上げじゃと、出来ない相談を<ruby><rb>持出</rb><rt>もちだ</rt></ruby>して、御老中若年寄始め、御三家諸大名を驚かして居る」

何んと言う舌でしょう、越前守のやった一番無法なことは、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く自身の発意と煽動だったことも忘れ、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く<ruby><rb>上下</rb><rt>しょうか</rt></ruby>の人心の去りかけた越前守を、裏切ろうとする甲斐守だったのです。

「そのような悪いお方の下に、使われてお<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>なさる御前様は？　なぜ思い切って奉行をおやめになりません？」

お豊は激しく突っ込みます。

「それを思わぬでは無いが、越前守様が老中では、幾人奉行が代っても何んにもならぬ、予なればこそ、容捨も手加減もあり、越州様<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめし</rt></ruby>より手緩く手緩くといたして居るが、万一酷烈無比な奉行が後釜に据って、此上町人<ruby><rb>苛</rb><rt>いじ</rt></ruby>めをしたら何んとする」

甲斐守は自分の言った嘘に陶酔して、両眼に涙さえ浮べて居るのでした。

「よく判りました、御前様」

「わかってくれるか、予の苦衷がのう」

「悪いのは越前の野郎一人」

江戸っ子のお豊は心機一転すると、もう甲斐守を怨む心などは<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>もありません。

「これ、声が高い、――が、一日置けば、一日の害毒、――ああ、私がもう少し若かったら、潰してならぬ家名を持たぬ身分であったら……」

鳥居甲斐は幾度も幾度も長大息しました。

「御前、――私ではお役に立ちませんか、私には潰してならぬ家名も、母親も、妹もございません」

「この御政治向さえ変れば、長い間入牢して居る、その方の父が助かる見込みもあろう」

「鳥居の御前様、どうぞ私に」

お豊の美しい顔が、激情に輝やきます。

「待て――」

甲斐守は、起上って唐紙を開け放すと、元の座に帰って来ました。さすがに頬も<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>って、暫らくは荒い息を鎮めて居ります。

深沈として<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>け行く向島の春の夜。

それは天保十四年三月、お藤が死んでから<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>一年の後のことでした。

## 越前守に毒を盛る者

西丸下、水野越前守の屋敷に、此程から新参の腰元が一人増えました。

天下の老中の屋敷に腰元一人増えたところで、何んの問題もないわけですが、越前守は衆に先んじて、改革の趣意を徹底させる勇猛心で、表高六万石、実収十五万石という堂々たる大名であり乍ら、その生活は二三千石の旗本にも及ばぬ質素なものだったのです。

従って、若く美しく、立居振舞のキビキビした腰元が一人増えたことは、女気の少ない江戸上屋敷を、どんなに明るく賑やかにしたことでしょう。

名前は豊、年は十九、鳥居甲斐守の口添で雇った、本当にそれは花のような娘でした。下町育ちで、言葉使いは少し<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>たない代り、天成の<ruby><rb>輝</rb><rt>かが</rt></ruby>やく美貌に、愛嬌は<ruby><rb>溢</rb><rt>こぼ</rt></ruby>るるばかり、一と月足らずのうちに、屋敷中の者から豊、豊と眼を掛けられるようになりました。

水野越前守のブラブラ病いは、それから間もなく始まりました。多勢の医者にも診せましたが、ただ五臓の疲れと言うだけ<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>した事は一向判りません。多分、長い間政務を励んだ心労が発したのでしょう。

「恐れ乍ら、その御膳部、<ruby><rb>御差控</rb><rt>おさしひか</rt></ruby>え下さるよう」

用人<ruby><rb>堺藤兵衛</rb><rt>さかいとうべえ</rt></ruby>、敷居際に平伏しました。余程<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわて</span>たものと見えて、ハアハア息せき切って、容易に次の句が続きません。

「何事じゃ」

越前守は箸を取った儘、顔を振り上げました。側には御寵愛の腰元豊、少し離れて差控えて居ります。

「御毒見番<ruby><rb>武田幾之助</rb><rt>たけだいくのすけ</rt></ruby>、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かの腹痛に苦しみ居ります」

「何？」

「御膳部に何にか良からぬ物を入れた者があるかと存じます」

「馬鹿な」

「此程より、殿御不例も、何様<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て疑わしき事にござります」

「つまらぬ事を申すな、――幾之助の腹痛は時候<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>りでもあろう、深く詮議して、罪の無い膳部係の者を陥れてはならぬぞ」

水野越前は、さすがに箸を捨てましたが、その上の追及を好まない様子です。

「万一、御屋敷中に不心得の者が居りましたならば、殿御身の上は<ruby><rb>申迄</rb><rt>もうすまで</rt></ruby>もなく、家中一同の難儀、ひいては天下の大事にござります」

堺藤兵衛怪しき膳部を睨んで<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>も引こうとはしません。

「当屋敷に、予が命などを狙う者がある<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>は無い、――天下の政治を行えば、下役の者の手心に過られて、下々の怨を買うことは無いでもあるまいが、かりそめにも家臣の中に、主の命を縮めようと言う者があってはならぬ――、予は命よりも恥を思うぞ、老中が家臣に毒を盛られてはならぬな」

「ハッ」

「万々一にも左様の不心得者があれば、予の不徳のいたすところ、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>のような用心をしても、その毒手を免れようは無い、――捨て置くが宜い」

「と申しても」

「万一詮議粗漏の為、罪の無い係の者に腹などを切らせてはならぬ。幾之助さえ助かれば仔細は無い、重ねて申してはならぬぞ、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>、膳部係の者によく申聞けて、余人の<ruby><rb>立入</rb><rt>たちい</rt></ruby>るのを許してはならぬ。女子供と<ruby><rb>雖</rb><rt>いえ</rt></ruby>ども油断は禁物だぞ」

「ハッ」

堺藤兵衛はその儘引下るより外にはありません。

事志と違い、<ruby><rb>怨嗟</rb><rt>えんさ</rt></ruby>の府となった水野越前守も、自分の屋敷内から、主殺しの大罪人を出すに忍びなかったのでしょう。

腰元のお豊は、畳に額を埋めて、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも何時までも差控えて居ります。

間もなく膳部は係りの者の手で、ソッと調べられました。当時の事でよくは判りませんが、猛毒○石らしい白い粉が、飯の間に交って居たのを、かすかに見たとも言われて居ります。お毒見役武田幾之助は、毒薬の量が少なかった為か、それとも根が丈夫だったせいか、さしたる事もなく平癒しました。

## 樹上の鋏樹下の太刀

その事を一段落に、越前守の健康は一日一日と<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>しました。

「<ruby><rb>秋日和</rb><rt>あきびより</rt></ruby>の庭は<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>の風情だろう、豊、<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>をせい」

「ハッ」

「他の者は遠慮をするがよい」

水野越前は、お豊に太刀を持たせて、泉水を<ruby><rb>遶</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り、築山を越え、屋敷から遠い、巨木の木立の中へ入って行きました。

燦々と木の間を降る秋の陽、振り袖に持ち添えた太刀から、お豊の円い首筋に落ちて、得も言われぬ艶めかしさです。

「好い日和じゃのう、紺碧の空が透き通って、まだ<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>には早いが、――小鳥が楽しそうに鳴いて居る」

越前守は支那出来の<ruby><rb>陶榻</rb><rt>とうとう</rt></ruby>に腰をおろして、心<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>に<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻しました。中年者の分別を<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か置き忘れたような、上品な邪念の無い顔を見ると、これが老中筆頭の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>け者で、日本国中を<ruby><rb>顧上</rb><rt>ふるえあが</rt></ruby>らせた、天保改革の主とはどうしても思えません。

「御前様」

豊は恐る恐る声をかけました。

「何んじゃ、誰も<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>には居らぬ、遠慮なく申して見い」

「空は美しく晴れ渡り、小鳥は楽しげに<ruby><rb>囀</rb><rt>さえ</rt></ruby>ずって居りますが、人は――」

お豊はゴクリと<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を呑みました。

「…………」

それを聴くともなき、水野越前の茫洋たる顔には、木の間を漏れて赤々と陽が射します。

「八百八町の男女、――日本国中の人々は、<ruby><rb>一昨年</rb><rt>おととし</rt></ruby>以来、空の晴れも知らず、小鳥の声も聴かず、明日の日が<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うなるかとそればかりを恐れて居ります」

「…………」

「贅沢禁制は結構でも、心持が沈んで、笑いも喜びも無くなっては、誰が<ruby><rb>生業</rb><rt>なりわい</rt></ruby>を励むものでございましょう。――このように悲しい世の中には、一体誰がしたのでござりましょう」

越前守の後ろに廻ったお豊は、その太刀の柄に手を掛けて、もう鯉口を切って居たのです。

丁度其時、越前守の真上の樹の枝には、一羽の巨大な怪鳥――いや、怪鳥とも見える一人の庭師、息を殺して下を窺って居りました。顔を茂りに隠して、手には大きな<ruby><rb>虎鋏</rb><rt>とらばさみ</rt></ruby>、その怪鳥の<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>とも見える刃が下を向いて、越前守の頭の上を狙って居るのでした。

お豊の指が動く、――虎鋏は庭師の手を、<ruby><rb>将</rb><rt>まさ</rt></ruby>に離れんとする一刹那、

「愚か者めッ」

低いが、底力のある一喝が、越前守の唇を漏れました。自然に備わる威力に打たれたのでしょう、太刀と虎鋏は、<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>り<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>なく<ruby><rb>光鋩</rb><rt>こうぼう</rt></ruby>を納めます。

が、越前守は二人の男女を叱る積りでは無かったのでしょう。愚昧な娘を教える父親のように、悲しくも愛憐の色を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えた眼に、チラリとお豊を顧み乍ら続けました。

「<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>まで世上の人は、太平の夢を見るのじゃ、――踏んだ大地の崩れるのも知らずに、――」

「…………」

「予は、腐り果てた江戸の風俗を此手で解きほぐし、新しい大江戸を建て直そうとしたのじゃ、――日本国中津々浦々まで響けと、この越前は世を<ruby><rb>警</rb><rt>いまし</rt></ruby>める鐘を<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>いたのじゃ、――<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>共は自分の身を焼く恐ろしい火の揚るのを知らずに、警めの鐘を呪うのか、鐘撞き男が憎いというのか」

越前守の眼には、涙さえ光って居ります。

「御前様」

お豊は<ruby><rb>憑物</rb><rt>つきもの</rt></ruby>を振り払うように、身を顫わせました。

「この大国難の前に、一人、二人の犠牲のことを考えて居られようか、馬鹿なッ」

言い切って振り仰ぐ越前、その頭の上へ、巨大な虎鋏がサッと落ちて来たのです。

「あッ」

それを辛くもかわした越前守は、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>でお豊の手が太刀を引抜いて居たことに気が付かなかったのでした。

「姉の敵ッ」

## 恩こそあれ怨は無い

「あッ、待った」

庭木戸を押し破って飛込んだ老人、自分の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を、お豊の手の太刀にサッと投げ掛けました。

「父さん」

「豊」

それは入牢中とばかり思われて来た増田屋惣兵衛の、元に変らぬ元気な姿ではありませんか。

「飛んでもない、越前守様をお怨み申上げてはならぬ」

「…………」

「御改革が悪いのではない、下役の方々の手加減が悪かったのだ、――わけても鳥居甲斐守――」

「…………」

静かに木の下を離れた水野越前守は、惣兵衛を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなめ</span>るように見て居ります。

「殿様は江戸の為、公方様の為、下々の為に遊ばされた事だ、――現にこの<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>も、御奉行鳥居甲斐守様に利潤の多いのを睨まれて牢にぶち込まれ、非違が無いと解っても容易に許されず、毎日泣いてお上を怨んで居るところを、日頃御恩になった水野の殿様の御声掛りで許され、今日は内々お前に逢わせてやると<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃって、特別の思召で、此奥庭まで通して頂いたのだ、お豊、殿様はお前の素性も、お前の<ruby><rb>仕</rb><rt>し</rt></ruby>た事も<ruby><rb>皆</rb><rt>み</rt></ruby>んな御存じなのだよ、そればかりではない――」

「…………」

惣兵衛は驚き呆れる娘の手から太刀を奪い取って鞘に納め乍ら、一生懸命に<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う続けるのでした。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>の父親の<ruby><rb>惣五郎</rb><rt>そうごろう</rt></ruby>は、水野様御先代が肥前唐津に御在城の頃、御出入をしたことのある身分だ、水野様には海山の御恩こそあれ、毛程の怨も無い、今度も鳥居甲斐守の<ruby><rb>御指金</rb><rt>おさしがね</rt></ruby>で危く打首にもなるところを、殿様の御言葉一つで助かった<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>だ、――神様のような越前守様を、夢にも怨んではならぬ、お前の姉の仇は鳥居甲斐守様だ――」

「父さん」

「お豊お詫を申上げろ、要次郎も降りて来い、何んと言う無法なことをするのだ」

老人はお豊の頭を大地に押えて、樹の上の要次郎を叱り飛ばしたのでした。

此場の様子を、涙ぐましく眺めて居た越前守は、何やら物を言い度げに二三歩進みます。

が、丁度其時、思いも寄らぬ大事件が、水野家門前へ展開したのでした。

<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わめく</span>声、物を<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>る音、――それは一陣の風のように、近づいて来るのです。

「あれは何んだ」

越前守の顔色もさすがに変りました。

「殿、大事<ruby><rb>出来</rb><rt>しゅったい</rt></ruby>」

堺藤兵衛は木の間を駈けて来ると、越前守の前に手を突きました。

「何事じゃ」

「殿、御老中罷免と洩れ聞き、あの通り暴民共が押し寄せました」

「何？」

越前守は驚きを押し包むと、天を仰いで長嘆しました。外には、津波のように、罵り騒ぐ声々。木立を圧して<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで響いて来るのです。

## 罵詈と礫の中に

誰にも言わずに居ましたが、水野越前守忠邦は、天保十四年<ruby><rb>閏</rb><rt>うるう</rt></ruby>九月十三日のこの日老中を<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めさせられたのです。

原因は？　片腕と頼んだ鳥居甲斐、自分の非曲が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばれ</span>そうになって、急に寝返りを打ったのと、節倹令に不平満々たる大奥の女共が動き出した為で、遂に大大名から将軍家まで引込み、越前守病中<ruby><rb>引籠</rb><rt>ひきこもり</rt></ruby>の機会を利用し、<ruby><rb>到頭</rb><rt>とうとう</rt></ruby>老中から引摺りおろして<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったのです。

事情を知らぬ江戸の町人共は、滅茶滅茶に越前守を怨んで居ました。老中罷免と聞くと、即刻西丸下の屋敷を引払うものと早合点して、数千の弥次馬、<ruby><rb>罵詈</rb><rt>ばり</rt></ruby>と<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>の雨を降らせ、辻番所を微塵に粉砕して、水野屋敷の表門へ迫ったのです。

「開けろ開けろ」

「殿様の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を見せろ」

と言う騒ぎ、放って置いたら、本当にどんな乱暴をするかも解りません。

「<ruby><rb>憎</rb><rt>に</rt></ruby>くい町人共、眼に物見せてくれよう」

「当屋敷を何んと心得る」

「斬って出よう」

「<ruby><rb>応</rb><rt>おう</rt></ruby>ッ」

あまりの恥辱に、家中の若侍達は憤然として起ちました。二人が四人になり、八人になり、十六人になり、忿怒は<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじかぜ</rt></ruby>のように屋敷の中を吹き捲って、命もいらぬと言う血気の武士、<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>っ<ruby><rb>取</rb><rt>とり</rt></ruby>刀で二三十人、辛くも<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>した表門の内に駆け寄ったのです。

「門を開けッ」

「一挙に出るのだ」

<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>へ手を掛けた者があります。

「待て待て、そんな無法は許さぬぞ、万一町人共を斬って<ruby><rb>騒</rb><rt>さわぎ</rt></ruby>を大きくすれば、殿御一身の御迷惑――」

堺藤兵衛大手を拡げて<ruby><rb>立塞</rb><rt>たちふさ</rt></ruby>がりましたが、

「何を老ぼれ、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>け<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>け、恥を知らぬか」

「いや退かぬ、万一の事があれば、お家の大事、老中御罷免だけでは済まぬぞ」

必死と絶叫する堺藤兵衛も、多勢の若侍の力には抗しようがありません。

「それッ」

閂を抜くと、門の扉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さっ</span>と開きました、が、若侍が飛出す前に、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>から<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うして現われたか、主人の水野越前守忠邦、八文字に開いた扉の前に立って、

「ならぬ、――町人共の血を流してはならぬ、鎮まれッ」

凜とした声、<ruby><rb>炯々</rb><rt>けいけい</rt></ruby>たる眼差し、日頃主君を畏敬して居る家中の若侍共は、冷たい水をブッかけられたように、一度に興奮から醒めて<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を垂れました。

「予が<ruby><rb>直々</rb><rt>じきじき</rt></ruby>逢ってつかわす」

水野越前守には、恐れも恥も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やましさ</span>もありませんでした。たった一言に家臣を<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めると、振り返って群衆の方へ、その鋼鉄のような冷たい顔を向けたのです。

が、町人共の恐れたのは、今は老中の権威を滑った、失意の越前守一人でなくて、切って出ようとした向う見ずの若侍共でした。<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うなる事かと暫らく<ruby><rb>鳴</rb><rt>なり</rt></ruby>を鎮めたところへ、二十幾条の刃に入れ代って、当の水野越前守忠邦、静かに門の外へ立って、冷たく上品な顔を挙げたのです。

「あれが江戸潰しだ」

「水野の殿様だ」

「やっ付けろ」

<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみ</rt></ruby>がえった町人共の忿怒と共に、罵詈と礫の雨が、門の扉を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にして、町人共を説破しようと言う水野越前の面上へ降り注いだのです。

「待った皆の衆」

飛出したのは要次郎でした。

「何を犬<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、引込んで居ろ」

「いや、引込んで居られるものか、――悪いのは水野様では無い、水野様が無慈悲な方なら、そんな乱暴を許すものか、お願いだから退いてくれ」

要次郎の顔は青白く人混みの中に浮きます。

「何を言やがる、手前も水野の家来だろう、これでも喰えッ」

バラバラと飛んでくる礫、その一つは要次郎の額を打って、タラタラと血潮の糸を引きます。

「静まれ静まれ南の御奉行様の御出役だぞッ」

人波を別けて、悠然と現われたのは、暴民鎮圧に向った南町奉行鳥居甲斐守忠燿、青毛の馬に跨がり、裏金の陣笠を夕陽に輝やかせ、鞭を挙げて高々と叱咤します。

「鎮まれ、鎮まれッ」

その時でした。鳥居甲斐守の叱咤の声に誘わるように、群衆の波の底から、一と<ruby><rb>叢</rb><rt>むら</rt></ruby>の焔のように飛上った女があります。

「<ruby><rb>其奴</rb><rt>そいつ</rt></ruby>だッ、悪者はその甲斐だ」

「何を言う」

それは言う迄もなくお豊でした、高く挙げた指は、馬上の甲斐守の顔をピタリと指します。

「私の姉を殺し、父親を牢に入れ、家を潰した上、私を騙して、水野様を殺させようとした大悪人は<ruby><rb>其奴</rb><rt>そいつ</rt></ruby>だ」

お豊の声は礫と漫罵の中に甲走ります。

「無礼者ッ」

「気違いッ」

人波に乗込んだ甲斐守の馬蹄は、あッと言う間にお豊を踏み<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にじり</span>ました。が、次の瞬間、気力一つで起直ったお豊、髪を振り乱し、唇を噛み切り、滅茶滅茶に衣紋も崩れて、見る影もない凄まじい姿乍ら、たった今、老臣堺藤兵衛に<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>められて、水野越前が入ったばかりの門の扉へ、要次郎と一緒に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">二つ大の字</span>に立塞がりました。

「江戸の敵、日本一の大悪人」

言葉は千切れて飛んで、ワナワナと顫える指は、執拗に鳥居甲斐守の苦り切った顔を追います。

「馬鹿ッ」「<ruby><rb>撲</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち殺せッ」

バラバラと飛ぶ礫、棒、石、――その中に全身碧血に染んだ二人は、必死と門を守りました。一瞬でも油断をしたら閂を差す前に暴民が殺到して、一挙に屋敷へ乱入したことでしょう。そうなれば水野越前の命も、浜松藩の家祿も<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うなった事か判りません。

「お豊」

要次郎は血だらけな顔を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねじ</span>曲げました。

「要さん」

「死のう」

「え、丁度一年目ね」

両国で心中の相談をしたのは去年の九月十三日だったのです。

「お豊、まだ俺を意気地無しと言うか」

要次郎の頬を苦い<ruby><rb>笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>がかすめます。

「え、見上げたわ、――私は嬉しい」

お豊も血染の頬を歪めてニッコリしました。が、顔を挙げると、もう一度馬上の甲斐守をハタと睨んで、

「犬、お前も長いことは無いぞ」

「江戸の敵」

そう言う要次郎の声も礫と罵詈と、馬蹄の<ruby><rb>響</rb><rt>ひびき</rt></ruby>に葬られて行きます。今に遺る落首が一句、この時の凄惨さを物語って<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言いました。

ふる石や瓦飛込む水野<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>。