女性というものの平凡さに、<ruby><rb>江島屋宗三郎</rb><rt>えじまやそうざぶろう</rt></ruby>は、つくづく<ruby><rb>愛憎</rb><rt>あいそ</rt></ruby>を尽かして居りました。

持った女房は三人、<ruby><rb>関係</rb><rt>かかり</rt></ruby>あった女は何十百人、武家の秘蔵娘から、<ruby><rb>国貞</rb><rt>くにさだ</rt></ruby>の一枚絵になった水茶屋の女、松の位から根引いた、<ruby><rb>昼三</rb><rt>ひるさん</rt></ruby>の<ruby><rb>太夫</rb><rt>たゆう</rt></ruby>まで、馴れ染めの最初は、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く全身の血を<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>らせるような、魅惑を感じたにしても、<ruby><rb>一度</rb><rt>ひとた</rt></ruby>び<ruby><rb>手活</rb><rt>てい</rt></ruby>けの花にして眺めると、地味で慾張りで<ruby><rb>食辛棒</rb><rt>くいしんぼう</rt></ruby>で、その上焼餅やきで口数が多くて、全く手の付けようのない<ruby><rb>駻馬</rb><rt>かんば</rt></ruby>と早変りするのです。

宗三郎は全く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うんざり</span>してしまいました。金毛九尾の狐でも<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い、<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の葉<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>に結構、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>にも<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>にも、この女性に<ruby><rb>飽々</rb><rt>あきあき</rt></ruby>した心を<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り返らせて、命までもと<ruby><rb>打込</rb><rt>うちこ</rt></ruby>ませる魅力を発散する女は無いものであろうか。

お蔵前札差の若主人として、十何大通とやらの一人に数えられ、馬に食わせ<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いほどの金を持って居る江島屋宗三郎は、根岸の寮の雪の一日を籠って、唐本の「<ruby><rb>聊斎志異</rb><rt>りょうさいしい</rt></ruby>」を読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>り<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな途方もないことを考えているのでした。

この物語に出て来る、草木禽獣の精の妖しき美しさ、火花の散るような恋の遊戯、透き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>るような清冽な肉体など、江島屋宗三郎は夢心地に考えて居りました。あらゆる女出入に飽き果てた宗三郎に取っては、<ruby><rb>狐狸</rb><rt>こり</rt></ruby>でも変化でも構わない、現世的な生活から逃離し、物的な慾望を持たない、恋の対象だけが望ましかったのです。

窓を開くと、冷たい風が<ruby><rb>颯</rb><rt>さ</rt></ruby>っと流れ込んで、宗三郎の熱した頭を心持よく冷やしてくれます。<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら雪は止んで、五六寸<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>った庭を、<ruby><rb>十六夜</rb><rt>いざよい</rt></ruby>の月が青白く照し、世界は夢の国のように、静寂に、神秘的に変貌して居るのでした。

<ruby><rb>雑俳</rb><rt>ざっぱい</rt></ruby>や漢詩なども<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りする宗三郎は、立ち上って<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の灯を吹き消しました。<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>冴え渡る月の下に、雪の夜景を満喫しようと思い立ったのです。

「おや？」

何やら、宗三郎の眼の前に、チラリと動くものがありました。

灯を入れた雪見<ruby><rb>灯籠</rb><rt>どうろう</rt></ruby>のあたり、雪を頂いた松の緑が淀んで、池の水の一角が、柔かい雪景色に切り込む<ruby><rb>刃金</rb><rt>はがね</rt></ruby>のように、キラリと光る物凄い効果だったのかもわかりません。

宗三郎はゾッと身ぶるいして、障子を締めようとしましたが、フト雪見灯籠の側に、何やら物の動くのを意識すると同時に、満月の<ruby><rb>皚々</rb><rt>がいがい</rt></ruby>たる白銀の世界に、一点漆のように、真黒に息つくものを見て取ったのです。

髪だ、――やがてそれは、高々と結い上げた、若い女の島田<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>とわかると、その髪の下に、ほのぼのと明るく、池の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見詰めている若い女の横顔のあることに気が付いたのでした。

<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>む眉、黒い瞳、赤い唇――と次第に道具立がはっきりすると、やがて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しなやか</span>な首筋、<ruby><rb>細</rb><rt>ほ</rt></ruby>っそりした肩から、ふくらんだ胸、帯から脚へ流るる線と、くっきり雪の中に<ruby><rb>浮上</rb><rt>うきあが</rt></ruby>って来るのです。

見定めると五六寸も積った<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>の雪の上へ、<ruby><rb>鷺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>のような真白な女が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふんわり</span>と立って居るのでした。白無垢の<ruby><rb>褄</rb><rt>つま</rt></ruby>をさばいた下からチラリと長襦袢の<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>が燃えて、桃色珊瑚を並べたような爪先が、雪の上にキチンと揃った美しさは、何に讐えようもありません。

鈴木春信の描いた鷺娘の妖しい美しさを、宗三郎はフト思い浮べましたが、春信画中の美女は、襟が水色で、帯は漆のように真黒だった筈です。ところが宗三郎の眼の前十数歩のところに立って居る美女は、<ruby><rb>八朔</rb><rt>はっさく</rt></ruby>の遊女のように、全身悉く真っ白な中に、髪と<ruby><rb>瞳</rb><rt>め</rt></ruby>の黒さと、唇と<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>の紅さだけを点じたのが、比類を絶した凄まじい効果になって、まさに「聊斎志異」の中から脱出した、一番怪奇な妖精としか思われなかったのでした。

「どなたか知らぬが、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ入ってはどうじゃ、外は少し寒過ぎるようだが――」

宗三郎は思い切って声を掛けて見たが、女は左横顔を見せたまま、身じろぎもしません。

四半刻、半刻、いや一刻も経ったことでしょう。月はやがて中天に昇りましたが、雪中の女は塑像の如く立ち尽して、眉の毛一本動かそうとはしなかったのです。

窓を開けて、この神秘的な活人画に見入って居る宗三郎の心が、妖しくも乱れて行くのを<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うすることも出来なくなりました。二十八歳になったばかりの、充分に健康で、思い切り冒涜的で、そしてかなり不人情でさえあった宗三郎は、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら温かい部屋を<ruby><rb>抜出</rb><rt>ぬけだ</rt></ruby>し、庭下駄を突っかけたまま、夢心地に深い雪を踏みわけて、女の側に立って居りました。

近寄ると、体温をさえ感じさせます。いやそれどころでなく、女は寒さのためか、それとも心の動揺のためか、小刻みな胴<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶるい</span>をさえして居るのでした。

が、その端麗な美しさは、寒さも怪奇な事情をも超えて宗三郎を驚かしました。左半面しか見せない女は、――雪を払うた庭石の上に立って、雪見灯籠にもたれたまま、凍え死にかけて居るにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、その曲線の美しさを燃焼させて、宗三郎の理性を滅茶滅茶にするだけの力はあったのです。

宗三郎は矢庭に女に<ruby><rb>飛付</rb><rt>とびつ</rt></ruby>くと、庭石から<ruby><rb>引</rb><rt>ひき</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おろす</span>ように、自分の胸に<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と抱きしめました。無抵抗に宗三郎の腕に倒れた女は、宗三郎の近づく顔の前に、始めてその右半面を見せたのです。

「あッ」

宗三郎は飛退きました。始めて見た右半面は、左半面の玲瓏とした美しさに似ず、赤黒く焼け<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れて、見る眼も恐ろしい<ruby><rb>引釣</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>りだらけの顔だったのです。

「あ、お<ruby><rb>絹</rb><rt>きぬ</rt></ruby>」

宗三郎は雪の中を這い廻り乍ら、辛くも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うめき</span>声をあげました。

<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>ては両国の水茶屋の看板娘、国貞の一枚絵になったお絹は、宗三郎に引取られて江島屋の二度目の女房になりましたが、三年前の蔵前の大火事のとき、逃げ場を失って危うく死にかけた宗三郎を、猛火の中から救い出して、自分は半面の<ruby><rb>大火傷</rb><rt>おおやけど</rt></ruby>を受け、その醜い大火傷の故に、宗三郎に捨てられて、大川に身を投げて死んだ筈です。

宗三郎――耽奇の猟色に溺れた江島屋宗三郎は、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝庭の池の中から、溺死体になって発見されました。

白装束の雪女の姿は、根岸の寮の<ruby><rb>召仕</rb><rt>めしつかえ</rt></ruby>達も確かに見たと言います。それは妖怪でも変化でもなく、確かに人間であったに相違ないが、天保年間の人達は、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで詮索するほど物事を科学的には考えなかったのです。

<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>一つ、お絹には、姉によく似たお<ruby><rb>仙</rb><rt>せん</rt></ruby>という妹があり、同じ両国の水茶屋に奉公して、艶名を謳われて居りましたが、姉を変死させた江島屋の宗三郎を、ひどく怨んでいたことだけを伝えて置きましょう。<ruby><rb>火傷</rb><rt>やけど</rt></ruby>の跡などは絵の具と膏薬でどんなにでも偽装が出来ることで、手足に油を塗って凍傷を防ぎ、巧みに宗三郎の好奇心さえ囚えることが出来れば、此大芝居は案外簡単に打てるのです。