## 絵師の誇り

<ruby><rb>霖雨</rb><rt>りんう</rt></ruby>と硝煙のうちに、上野の森は<ruby><rb>暮急</rb><rt>くれいそ</rt></ruby>ぐ風情でした。その日ばかりは時の鐘も鳴らず、昼頃から燃え始めた寛永寺の七堂<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>、大方は猛火に舐め尽された頃までも、落武者を狩る官兵の鬨の声が、遠くから、近くから、全山に<ruby><rb>木精</rb><rt>こだま</rt></ruby>を返しました。

「今の奴、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ逃げた」

「味方を四五人騙し討ちに斬って居るぞ。逃してはならぬ奴だ」

「まだ遠くへは行くまい」

「見付かったら、朋輩の敵、<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と太刀ずつ斬るのだぞ」

<ruby><rb>背負</rb><rt>しょい</rt></ruby>太刀、ダン袋、赤い飾毛をなびかせた官軍が五六人、木立を<ruby><rb>捜</rb><rt>さぐ</rt></ruby>り、藪を分けて<ruby><rb>鶯谷</rb><rt>うぐいすだに</rt></ruby>の方へ降りて行きます。

その<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から、物の影のように現われたのは、<ruby><rb>彰義隊士</rb><rt>しょうぎたいし</rt></ruby><ruby><rb>日下部欽之丞</rb><rt>くさかべきんのじょう</rt></ruby>、二十四五の絵に描いたような美男ですが、<ruby><rb>軽傷</rb><rt>あさで</rt></ruby>を受けた上、幾人か斬った返り血が、<ruby><rb>乱鬢</rb><rt>みだれびん</rt></ruby>と、蒼い頬と、<ruby><rb>黒羽二重</rb><rt>くろはぶたえ</rt></ruby>を絞った<ruby><rb>白襷</rb><rt>しろたすき</rt></ruby>に反映して、凄まじさというものはありません。

「――――」

不敵な舌鼓を一つ、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻した欽之丞は、又も近づく人影に驚いて、木立の蔭に身を潜めました。

「畜生ッ、――俺は怪しい人間じゃねえ」

血の臭いに酔って、<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に吠え付く犬を叱り<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、<ruby><rb>桐油</rb><rt>とうゆ</rt></ruby>をすっぽり<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、降りしきる細雨の中をやって来たのは、絵師の<ruby><rb>月岡米次郎</rb><rt>つきおかよねじろう</rt></ruby>こと、<ruby><rb>大蘇芳年</rb><rt>たいそよしとし</rt></ruby>の一風変った姿です。

明治元年五月十五日の夕刻。

その時芳年は三十歳、御家人の子に生れて武士の血を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けた<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>ですが、月岡<ruby><rb>雪斎</rb><rt>せっさい</rt></ruby>に養われ、<ruby><rb>菊池容斎</rb><rt>きくちようさい</rt></ruby>、<ruby><rb>葛飾北斎</rb><rt>かつしかほくさい</rt></ruby>の風を学んで、心も姿もすっかり町絵師になり切って居りました。

<ruby><rb>浅葱</rb><rt>あさぎ</rt></ruby>の股引に<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>がけ、桐油に上半身を包んで、目ばかり出した<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>は、腰の矢立てと懐の画帳が無かったら、葛飾在から来た水見舞と間違えられるでしょう。

油のような生温かい雨が降るのに、芳年の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>は、ガタガタ小刻みに<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて、時々は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃっくり</span>をして居ります。その上<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>も不確かで、ヒョロヒョロと行っては、ぬかるみに足を取られて、泥の中へヘタヘタと坐ったりしました。

そのくせ、藪の中や道の上に、斬られて死んでいる死骸を見ると、彰義隊であろうと官兵であろうと一々覗いて、その相好と、歪んだ姿態を見極めずには居られなかったのです。

「ひどい傷だが、――仏様のような穏かな顔をして居る」

そんな無事な死顔は、芳年の興味を引かなかったのでしょう。

「これは凄い」

時々は死体の前に<ruby><rb>踞</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んで、懐から出した半紙横綴の帳面に矢立の筆を抜いて――細雨をかばい乍ら、写生の筆を走らせました。

不意に――

「居たぞ居たぞ」

バラバラと<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>っ<ruby><rb>取巻</rb><rt>とりま</rt></ruby>く官兵、ギラリギラリと<ruby><rb>幾条</rb><rt>いくすじ</rt></ruby>かの刃が芳年の眼に焼け付きました。

「あッ、お許し」

驚き騒ぐ芳年、桐油を引き<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>られて襟髪を掴まれたまま、二つ三つ小突き廻されます。

「何者だッ、うぬッ」

「お許し、お許し下さりませ。私は怪しい者じゃございません」

行儀の悪い猫の子のように<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>み上げられた芳年は、意気地無くもガタガタ顫え乍ら、両手を合せて居ります。

「怪しくないことがあるものか。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>で何をして居た」

風体は落武者とも見えません。多分戦塵のまだ納まらぬ山内に潜り込んで、掠奪を<ruby><rb>目論</rb><rt>もくろ</rt></ruby>む泥棒とでも思ったのでしょう。

「絵を描いて居ります。私は、私は芳年と言う浮世絵師で――」

「何？　浮世絵師？　<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>な事を言えい。浮世絵師と言えば、美人や、役者や、道中の景色などを、面白<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しく描いて、女子供の慰み物にするのが稼業ではないか、――どれ見せい、貴様の絵は――<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んだこりゃ、どれもこれも、気味の悪い、斬り合いや、死骸や、<ruby><rb>梟</rb><rt>さら</rt></ruby>し首ばかり、これでも浮世絵師と言うのか、怪しい奴ッ」

<ruby><rb>頭立</rb><rt>かしらた</rt></ruby>った一人の武士、芳年の写生帳をバラバラと開いて、不審の眉を顰めます。

「そ、それは違います。あなたの<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃる遊女や役者や道中絵を描くのは、泰平の世の浮世絵師、――女子供の慰みにする気はなくとも、世の中に事が無いと自然絵までが穏かになりますが、<ruby><rb>此節</rb><rt>このせつ</rt></ruby>のように、斬った張ったの世の中、耳元で鉄砲の音のする時節には、それ相応の浮世絵がなくてはなりません。この世の中に様々な姿を、あるが<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>に写して、後の世に伝えるのは、絵筆とる者の勤めでござります。――今時<ruby><rb>華魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>や役者の絵を描いて、一人で悦に入っていられましょうか」

芳年は一所懸命でした。自分に掛けられた疑惑を解くというよりも、硝煙と血潮の洗礼を受けた浮世絵師の、精一杯の誇りを――<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う高らかに言ってやり<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>かったのです。

「<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しな奴だ、言う事は一と通り筋道が立っているが――そのくせガタガタ顫えて居るじゃないか。そんな臆病者に、<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>い場面が写せると思うか」

「写しますとも、ヘエ、身体の顫えるのは<ruby><rb>疳</rb><rt>かん</rt></ruby>のせいで、私の臆病のせいじゃございません。こんな時本当に突き詰めた人間の姿を写して置かなきゃ、――私は浮世絵師に生れた<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>がありません。何んの」

「よし、それじゃ、もっと凄いところを見せてやろう、一緒について来い」

「ヘエ――」

「さア」

促されて芳年は起ち上りましたが、意気地無くも膝の<ruby><rb>蝶番</rb><rt>ちょうつがい</rt></ruby>が崩れて、ヘタヘタと綿のように<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>へ坐ってしまいます。

「た、起てません」

「ハッハッ、馬鹿な奴だ。腰が抜けたのか、そんな事で本当の戦が描けるものか」

「少し気を<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>けさせて下さい、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ治ります」

「よしよし、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも腰抜の相手になっても居られまい。誰か二人ばかり、此辺で見張って居るが<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>い、我々はもう一度落武者を狩り出して来よう」

芳年は腰の抜けたまま、松の根方に縛り付けられ、官兵二人はそれを見張るともなく残されました。

あとの一隊はバラバラと上野の森へ、暮れ残る道を取って返します。

## 落武者欽之丞

「やい、絵師」

「ヘエ――」

「俺を描いて見ろ」

「ヘエ――」

「この武者振りを一つ描いて見ろ、出来が良かったら、国への<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>にしてやる」

一人の官兵は威儀を作りました。

「縛られて居ちゃ描けません」

芳年は泣き出しそうでした。

「よしよし、それじゃ<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくの間縄を解いてやる。その代り絵の出来が悪いと勘弁しないぞ」

「それじゃ御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>ります」

「何？」

「出来不出来は<ruby><rb>臨本</rb><rt>てほん</rt></ruby>次第で、一たん筆を執った上は、私の儘にもなりません」

「俺の武者振りが悪いというのか」

「そう言うわけじゃございませんが、お気に召さないといけませんから、描くのは勘弁して下さい――死人や<ruby><rb>梟</rb><rt>さら</rt></ruby>し首と並べて描いちゃ、第一気色が悪うございます」

芳年は縛られ乍らも、頑強にはね飛ばしました。こみ上げて来る強大な自尊心がガタガタ顫え乍らも、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言わせずには措かなかったのです。

「無礼な奴だ、そんな事を言うと、痛い目を見るぞ――絵描きだと言っても、描くところを見なければその帳面の絵だって、誰が描いたか解ったものじゃない。<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>、彰義隊の落武者ではないか」

「と、<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んでもない」

そう言う芳年の後に廻って一人は<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>を鳴らしました。

「<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>、斬って捨てようか」

「フム、それも宜かろう」

二人は何やら合図をして居ります。

「あッ、お許しを。私は、彰義隊なんかじゃございません」

<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と来た一刀、縛られ乍らも危うく首を<ruby><rb>縮</rb><rt>すく</rt></ruby>めましたが、二度目の太刀は防ぎようはありません。

が、その時奇蹟が起りました。芳年の頭上に振り<ruby><rb>冠</rb><rt>かむ</rt></ruby>った一刀は宙に飛んで、

「あッ」

<ruby><rb>飛退</rb><rt>とびの</rt></ruby>く官兵の一人は、足を苅られて<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>の如く倒れたのです。

「己れッ」

飛付くもう一人の官兵の前へ、石垣を這い上ってスックと立ったのは、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>姿を隠した日下部欽之丞の満身に返り血を受けて、地獄の底から<ruby><rb>跳出</rb><rt>とびだ</rt></ruby>した、幽鬼のような物凄い姿です。

二人の官兵はよく闘いましたが、一人は足を苅られ、一人は不意を喰って、死物狂いの欽之丞の敵ではありません。真にあッと言う間に、左右に斬って落されました。

二人の官兵を片付けた欽之丞は、芳年の側に寄って、夕闇の中からその顔を<ruby><rb>差覗</rb><rt>さしのぞ</rt></ruby>きました。

「気を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>ったのか、馬鹿な奴」

冷たい<ruby><rb>笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>が頬に淀んだのもほんの暫らく、次の瞬間、欽之丞の手は、芳年の縄を解いて、その着物を剥ぎ始めます。

「あッ、お助け、命ばかりは――」

芳年は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く気が付きました。

「命は取らぬが、その方の着物が入用なのだ、暫らく借りるぞ」

武装を脱ぎ捨てた欽之丞は、芳年の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を着流し、脇差だけ一本、深々と懐に呑み、幸い道端の水溜りで、ザッと手足や顔の血潮を拭き取りました。

心持髷を直して、芳年の手拭を取上げて<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ると、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うやら<ruby><rb>彼</rb><rt>こ</rt></ruby>うやら町人らしくなります。

「それ、これは礼だ」

ポンと<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出したのは小粒が二つ三つ、

「あ、もし、お武家様」

芳年はその小粒には目もくれず、襦袢一つの姿で泥の中に<ruby><rb>起上</rb><rt>おきあが</rt></ruby>りました。

「何んだ、金が不足か」

振り返った欽之丞、<ruby><rb>弥蔵</rb><rt>やぞう</rt></ruby>さえも<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて、<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>りの中に匂う顔は、歌舞伎芝居の花道で見るような男振りです。

「その帳面だけは返して下さい、――そいつは、私の命から二番目で」

「これか」

無意識に懐にねじ込んだ帳面を取出すと、欽之丞はポンと<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>ります。

「あ、泥が附くじゃありませんか」

絵師の憤懣が、ツイ軽い抗議になりますが、欽之丞はそれを耳にも掛けず、夕闇の濃くなり行く上野、谷中、道灌山かけての木立の中を見て居ります。

「待て待てッ、怪しい奴」

不意に藪を分けて一人、日下部欽之丞の行手に立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がりました。<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>の陣羽織、細雨を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぐ陣笠、<ruby><rb>抜刃</rb><rt>ぬきみ</rt></ruby>のままの一刀を側構えに、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>の油断も無い気組です。

「ヘエヘエ、私共は土地の者でございます。戦見物と申しちゃ悪うございますが、一生に一度の事と存じまして、ツイ、ウカウカと深入りいたしました。お見逃しを願います」

日下部欽之丞は腹からの町人らしい滑らかな調子でした。江戸侍の器用さでしょう。

「もう一人の男は<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>じゃないか」

「連れは落武者に剥がれました」

日下部欽之丞ケロリとしてこんな事を言うのです。

「頬冠りを取れ」

「ヘエ――」

「頬冠りのまま武士に挨拶する奴があるか」

「ヘエ――」

欽之丞の左の手は挙りました。頬冠りを取ると見せて、右手は早くも懐の申の脇差の柄に――

「え――ッ」

紫電一閃、

「わッ」

羅紗陣羽織の肩から鮮血を吹き上げて、相手は倒れたのです。

「お助けッ」

芳年も、あまりの事に肝を潰して、欽之丞の足許に這いました。

「馬鹿<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>ッ、何んと言う声だ、斬られたのは貴様ではないぞ」

「ヘエ――」

「其方の住居は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>だ」

血刀を拭い乍ら、欽之丞は訊ねました。

「あ、浅草の馬道でございます」

「大して遠くはないな、――今晩一と晩俺を泊めろ」

「――――」

「いやか」

生血を拭いたばかりの刀が、芳年の眼の前へ、思わせ振りに動きます。

「と、飛んでもない」

「では、案内せい、――こんなところに長居は無用だ」

「――――」

「さア」

促され乍ら、芳年は<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に釘付けになりました。夕闇の中に絶え入る、今斬られたばかりの武士の相好が、芳年の興味を<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と捕えたのでしょう。

<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら取出した帳面、それをガタガタ顫える膝の上に<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べて、芳年は矢立の筆を噛んでいたのです。

## 悪い相談

それから四五日、江戸には血生臭い風が吹き続きました。

その風に憑かれでもしたように、大蘇芳年は、朝から晩まで、街から街へと、物騒な噂を追い歩いて居たのです。

小塚ヶ原の刑場は言うに及ばず、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>の長屋の裏で、彰義隊の落武者が、薩長の<ruby><rb>巡邏</rb><rt>じゅんら</rt></ruby>兵に見付けられ、縛られ、斬られる有様を、吐気を催すような嫌悪と、病的な熱情とで、一々画帳に納めなければ承知しなかったのです。

馬道の留守宅では、押かけ女房のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>が、これも押かけ<ruby><rb>落人</rb><rt>おちうど</rt></ruby>の日下部欽之丞を介抱して、世間を狭く暮して居りました。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は、<ruby><rb>園花</rb><rt>そのばな</rt></ruby>と言って<ruby><rb>千住</rb><rt>こつ</rt></ruby>で勤めた女で、<ruby><rb>年</rb><rt>ねん</rt></ruby>が明けると、大した歓迎もしない芳年のところへ<ruby><rb>轉</rb><rt>ころ</rt></ruby>げ込み、女房気取りで三月四月も納まっていると言った<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の女でした。

「本当にあの晩ほどびっくりしたことは無いよ。襦袢一枚のあの人の後から、彰義隊へ入ったという欽さんが、のそりと入って来るんだもの――」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は、芳年の留守の間、狭い六畳の、日下部欽之丞の枕許に坐り切りで、根が生えたように、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う話し込んでいるのです。

「俺だって驚いたよ。此春年が明けて、千住から消えたお前が、場所もあろうに、俺が逃げ込んで来たヘボ絵描きの家の、長火鉢の前に納まって居ようとは、お釈迦様でも気が付くわけはねえ」

欽之丞は、そんな<ruby><rb>伝法</rb><rt>でんぽう</rt></ruby>な口をききます。腕はよく出来ますが、旗本の冷飯食いで、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の園花とは、二年前からの<ruby><rb>深間</rb><rt>ふかま</rt></ruby>だったのです。

「でも、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うして逢えたのも、深い縁じゃないかねエ欽さん、――いくら私が図々しくたって、旗本のお屋敷へ、誓紙起証を振り廻して<ruby><rb>乗込</rb><rt>のりこ</rt></ruby>むわけにも行かず、仕様ことなしに一番甘そうなお客の絵描きの家へ轉げ込んだのさ。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ落武者になった欽さんが飛込んで来るなんて、草双紙にも滅多に無い筋じゃないか、――あの通り世間は物騒だし、幸い<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は<ruby><rb>朴念仁</rb><rt>ぼくねんじん</rt></ruby>で二人の仲に気が付かないから、五年でも十年でも、<ruby><rb>神輿</rb><rt>みこし</rt></ruby>を据えて逗留しておくれよ、ね欽さん」

長い<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を吸い付けて布団の中へ入れると、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>は横っ坐りに、肘はもう、男の布団へやわやわと重しになるのでした。

「傷はもう<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ったぜ、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うしていた日にゃ、人間の造作が<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>むよ、後生だから起してくれ」

<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をポイと<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>って、欽之丞は枕へ頬杖を突いたなりに、下からお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>る風情を見上げるのです。

「あれさ、お前、起き出した時は、追い出される時じゃないか、それに縁側やお勝手でウロウロされちゃ、近所の人の手前もあるし」

「その近所に、飛んだ綺麗な娘が居るじゃないか」

「まア、呆れたよ。もうあれを見たのかい、――でもあれだけはお<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>しよ。お<ruby><rb>浜坊</rb><rt>はまぼう</rt></ruby>と言って、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>のくせに飛んだ<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>れっからしさ。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>が良いか知らないが、うちの朴念仁にポーッと来て居るんだって、ホホ」

「ヘエ――、芳年師匠、芸道ばかりと思ったら、そんな腕もあるのかい」

欽之丞は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>までも面白そうです。

「そう言うけれど、私はつくづくあの人が怖くなることがあるよ」

「あんまり物驚きをする柄では無いようだが、――何が一体怖いんだ」

「あの通り、絵を描くより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に望みの無い人だし、臆病なほど大人しいから、踏台に<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>よかろうと思って連れ添って見ると――」

「――――」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>はごくりと<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を呑みました。

「あの通りの良い腕を持ち乍ら、右から左へ金になる、<ruby><rb>華魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>や役者の絵を描くのが大嫌いで、たまたま筆を取るかと思えば、不気味な<ruby><rb>無慚絵</rb><rt>むざんえ</rt></ruby>ばかり――、そんなものが金になるわけが無いから、家の中は<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>まで経っても火の車さ」

「――――」

「上野の<ruby><rb>戦</rb><rt>いく</rt></ruby>さが始まると、その病は<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じるばかり、毎日目の色を変えて飛出しては、斬り<ruby><rb>合</rb><rt>あい</rt></ruby>があった、<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>し物があったと、三里も五里も歩き廻って、暗くなってから、狐が落ちたような顔で帰って来るんだもの」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>はそう話し続け乍ら、何んとなく胴顫いを感ずる様子です。

「私はつくづく愛想を尽き果てたよ。幸い飛込んだお前さんは、私の為には渡りに舟さ、迷惑だろうけれど、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へなと連れて逃げておくれ、ね欽さん」

「俺もそれを考えないわけじゃ無いが、何んと言っても、まだ探索の目が厳しいから、一と足路地を出たら、どんな事になるか解ったものじゃない。それに<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ行くにしても先立つものは金だ」

「それなら幸い――」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は、少しばかり隠して持っている、自分の虎の子のことを考えて居ました。

「<ruby><rb>三河島</rb><rt>みかわしま</rt></ruby>には縁家がある。今日芳年が出る時、一筆書いて持って行って貰ったから、今にも帰って来たら、何とか返事があるだろう」

日下部欽之丞は、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら、床の上に起直って居りました。二つ三つ受けた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かすり</span>傷は、もうすっかり癒って、此儘函館へも飛べそうな心持です。

「それじゃ、私が一緒に行けないではないか。あの人に行先まで教えてしまっては、命の鍵を握られているも同様、それに、二人の仲を薄々嗅ぎつけた様子だから、後腐れのないように、バッサリやって、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か遠くへ飛ぶ工夫が肝心だと思うが――」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の肝の太さ、あまり気の進まぬ日下部欽之丞を説き伏せて、底の知れない悪魔の淵へと誘い入れる<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>りでしょう。

## 隣の娘お浜

「ちょいと」

ひそやかな声に<ruby><rb>呼止</rb><rt>よびと</rt></ruby>められて、芳年は思わず足を淀ませました。今日は不思議に早く帰った路地の入口、共同井戸の前に、白い顔が自分を見詰めて居たのです。

「お浜さんじゃないか、何んか用事かい」

芳年は気軽な調子で<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う立ち止りました。世帯摺れはして居りますが、十九になったばかりのお浜には、娘らしさが、顔にも姿にも、声の爽やかさにも充分過ぎるほど匂って居たのです。

「今入って行くのは、お止しなさいよ、迷惑する人が二人あるようだから」

その娘の口に含んだ毒が、妙に芳年を焦立たせます。

「何？」

「ね、芳年さん、人のことだけど、私はもう、腹が立って腹が立って、あの彰義隊の生っ白い二本差を、いっそ屯所へ訴人してやろうかと――」

「シッ――」

二人は継穂もなく、黙って顔を見合せました。

「お前さんが、あんまりお人よし過ぎるんですよ。あんな恩知らずの畜生は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なぶり</span>殺しにでもされて――」

「なぶり殺し？」

「首は三尺高い木の上に<ruby><rb>梟</rb><rt>さら</rt></ruby>され、死骸は犬の<ruby><rb>餌</rb><rt>え</rt></ruby>にでもなりや宜いに――」

お浜の<ruby><rb>怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>は際限もなく爆発します。芳年をいとしと思う心が、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うまで極端に働いて、全く違った方角へ忿怒の形で発展して行ったのでしょう。

「<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り殺し、――<ruby><rb>梟</rb><rt>さら</rt></ruby>し首、――そして死骸は犬に――」

芳年の空想力は鼓舞されました。無慚絵の素晴しい題材が、お浜の言葉の上に、<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>と築き上げられて行くのです。

「足りない、まだ足りない」

江戸人の心を恐怖のドン底に投込んだ、私刑、暗殺、<ruby><rb>押込</rb><rt>おしこみ</rt></ruby>、<ruby><rb>斬合</rb><rt>きりあ</rt></ruby>い、――そして最後に彰義隊の戦争から、寛永寺三十六坊の炎上、八百八町の落武者狩までの、血と焔の印象が、まだまだそんな事では表現し切れなかったのです。

「何が足りないと言うんです、え？」

「凄さが足りない」

「え？　――お前さん、<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>りして下さいよ。あんな二本差なんか、芋侍に<ruby><rb>引渡</rb><rt>ひきわた</rt></ruby>しさえすれば、それでお仕舞なんだから」

お浜には、芳年の心持が解る筈もありません。日下部欽之丞とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の関係を言い当てられて、フラフラと気が変になったのであるまいか――お浜はそんな事を考えるのが精一杯だったのです。

「放って置いてくれ、お浜さん、俺にも少しは考えたことがあるから――」

解ったような、解らないような事を言い捨てて、芳年は自分の家へ入って行きました。

「――――」

その臆病らしい姿、作り笑いさえ浮べた横顔を、お浜はどんなに腑甲斐のないものに思ったのでしょう。

御家人の子に生れて、その描く絵と同じように、骨っぽい男らしい人柄を見上げる心持で居たお浜は、近頃の芳年の意気地のない態度に、言いようのない憤懣を感じて居たのです。

「<ruby><rb>皆</rb><rt>み</rt></ruby>んなあの女のせいだよ」

お浜の眼には、恥というものを、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに置き忘れて来たような、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の<ruby><rb>白粉焼</rb><rt>おしろいやけ</rt></ruby>のした顔が、はっきり浮ぶのでした。

## 恐ろしい予感

「日下部さん、御安心なさい。三河島の御親類じゃ、日下部さんが無事と聴いて、大喜びでしたよ」

芳年の言葉にも態度にも、何んのこだわりもありません。

「それは<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがた</rt></ruby>い」

日下部欽之丞は、ツイ今しがたまで、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>と、よからぬ事を企んでいたことなどは、綺麗に忘れてしまった様子です。

「で、――馬道よりは近所が遠いだけでも身を隠す都合が宜かろうから、すぐおつれするようにと、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言うお言葉でございました。世間が物騒だから、お返事を口移しで、書いたものは持って参りませんから――」

「それで結構、飛んだ御苦労であったな、早速支度をして、今夜にも出かけるとしようか」

欽之丞はもう、まだ癒らぬ首の傷のことも忘れて、床から飛起きて居りました。

「いえ、夜は<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って物騒ですよ。私は諸方を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほッ</span>つき歩いて、其辺中の官兵の屯所は、一つ残らず<ruby><rb>顔馴染</rb><rt>かおなじみ</rt></ruby>だから、私と一緒にお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でなさい。とがめられたら、私の弟子ということにしましょう。陽の当るうちの方が、どんなに安心だかわかりません」

「<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>、そう言ったものかも知れぬな」

日下部欽之丞は支度を始めました。<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>を広く取って、根を下げた町人<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>、芳年の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>、手拭はわざと肩に、脇差は鍔を外して懐に隠し、突っかけ<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>で、芳年の後に続きます。

「ね、欽さん」

「――――」

門口まで追って出たお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>、芳年が一と足先へ行ったのを確かめて、

「わざと途中で手間取って、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>の無いところで――」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は手刀で、そっと物を切る<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をして見せます。

「それが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>――」

「待ってますよ、暗くなったら、直ぐ迎いに来て下さい。解って欽さん」

「――――」

欽之丞はうなずくと、一と足先に行った芳年の後ろ姿を追いました。

<ruby><rb>未刻</rb><rt>やつ</rt></ruby>から<ruby><rb>申刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>頃まで、

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は坐っても起ってもいられない心持でした。長火鉢の前へ行ったり、門口へ出たり、お勝手を覗いたり、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を吸ったり、茶を呑んだり、溜息をついたり、

「欽さん」

<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んか<ruby><rb>邪</rb><rt>よこし</rt></ruby>まなことを念ずるような心持で、不思議に胸騒ぎに悩み続けたのです。

ヒョイと見ると、垣の間から白い顔、

お浜の<ruby><rb>狷相</rb><rt>ずるそう</rt></ruby>な眼と、人を馬鹿にしたような――その癖、男好きのしそうな赤い唇が見えるではありませんか。

「何んだい、お前は？　昨日も<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>も、雌犬のように、変なところから覗いたりして、いくら棟割長屋だって、垣の中は人様の城郭だよ、風の悪いことしやがると、水ブッ掛けるから」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は気が立って居りました。

「芳年さんは、まだ帰らないの？」

お浜の調子の邪念の無さ。

「それが<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたと言うのだえ？」

ツイ釣られるともなく、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>も縁先へ泳ぎ出しました。

「だって、ツイ<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>で彰義隊の落武者が捕まって、斬ったとか斬られたとか、大変な<ruby><rb>騒</rb><rt>さわぎ</rt></ruby>をしたようだから、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>に何んか変りが無きゃ宜いと思って――」

お浜の調子のさり気ない滑らかさは、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>に取っては、此上もない威嚇でした。が、――あんなに用心深い支度をして行った欽さんに、万に一つ間違いなどある筈もありません。あの人が訴人するか、屯所へ引渡したのなら別だけれど、あんな臆病者に、そんなことが出来る筈も無し――<ruby><rb>盛上</rb><rt>もりあが</rt></ruby>って来る恐怖を、無理にも押付けて、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は乾く唇を噛みました。

「彰義隊の落武者？　そんな者に掛り合いは無いよ。余計なお節介をするより、さっさと自分の家へ帰って、内職の楊枝でも拵えるが宜い、馬鹿馬鹿しい」

「そんなら宜いけれど――」

お浜は煮え切らぬ事を言い乍ら、臆病な狐のように、振り返り振り返り帰って行きます。

「畜生ッ、何んて嫌な奴だろう」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は縁側から引込みました。

が、その時丁度、格子を開けて、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>になく、ノソリと入って来た、大蘇芳年の蒼い顔と、眼を<ruby><rb>外</rb><rt>そら</rt></ruby>しようもなく、ハタと逢ってしまったのです。

「あッ」

恐ろしい予感が、水のようにお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の背筋を走りました。

## 血に狂う美女

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>、居たか」

<ruby><rb>洞</rb><rt>うつ</rt></ruby>ろな声、眼はギラギラと瀬戸物のように光ります。

「お前さん、何んて顔だい、――あの人が<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しや？」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の言葉は喉の中で消えました。

「<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>で官兵に捕まったよ」

「えッ」

「上野で散々官兵を斬ったことを知って居る者があって、其場でなぶり殺し同様」

「じゃ、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱ</rt></ruby>り」

「これを見ろ」

芳年は、ポンと画稿を投げました。

手に取って見る<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>もありません。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の膝の前でパッと開いたのは、矢立の墨一色で描いた、至って粗末な略画乍ら、紛れもない町人姿にして出してやった日下部欽之丞が、多勢の官兵に取巻かれ、乱刃の下に斬りさいなまれている<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>の形相です。

「えッ、畜生」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は画稿を叩き付けて、いきなり芳年に武者振り付きました。

「あッ、何をするんだ」

「お前と言う男は、何んと言う卑怯者だい。私とあの人の仲を疑って、力ずくで叶わないから芋兵に、訴えて召し捕らせ、こんな<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい目に逢わせやがったろう」

「俺がそんな事を知るものか、離せ」

「わざわざ陽のあるうちに連れ出したのは、これを絵に描き度いために違いない。三月でも四月でも、一緒に住んだお前の心持が、私に解らないと思うのかッ」

「馬鹿なッ」

「お前は上野で官兵に斬られるところを、あの人に助けられたと言ったろう。一旦かくまった恩人を訴人して、義理も人情もない、それでも江戸っ<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>の端くれかい。畜生ッ、意気地なし、そのくせ、いけ図々しく、こんな<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい絵まで描いて来やがって、ぬけぬけと私に見せるなんて、何んて根性だろう、外道ッ、鬼ッ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は半狂乱でした。揉みも揉んだ姿で、芳年の首へ胸へ、<ruby><rb>髻</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>へと武者振り付くのです。

「俺じゃない――誰か訴人をしたに違いないが、この芳年じゃ無い」

「それほど潔白なら、何んだって、こんな無慚絵なんか描いたんだ。人の死ぬのをヌケヌケと見ていて宜いものか悪いものか、思い知らせてやるから、畜生ッ」

小格子で年一杯叩き上げたお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は、妖艶で取廻しの良い女でしたが、その代り、執拗で病的で、意地っ張りで気違い染みた女でした。

「待ちなよ、俺だって人の殺されるのが面白いわけじゃないが、今の時世を写すには、こんなものでも描くより外に仕方が無い。天下後世に、俺の芸道を遺すためには、油汗を流し乍ら、歯ぎしりして、無慚絵を描くのだ」

「まァ、何んと言う曲った根性だろう。地獄の鬼だって、そんな<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい事ばかり追い廻しちゃ居まい――それほど芸とやらが大事なら、<ruby><rb>美事</rb><rt>みごと</rt></ruby>私も成敗しておくれ。お察しの通り欽さんは私の命まで<ruby><rb>打込</rb><rt>うちこ</rt></ruby>んだ深間さ。それがどうしたんだい、畜生。さア、殺しておくれ、立派にやっておくれよ」

半狂乱のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は、芳年に<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を摺り寄せて、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>構わずわめき散らすのでした。

「馬鹿ッ、宜い加減にしないか。俺はそんなことで、人を殺す<ruby><rb>量見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>などは微塵も無い。気に入らなきゃ出て行くが宜い。どうせお前が勝手に飛込んで来た家じゃないか、死のうと生きようと、お前の好きなように――」

芳年もツイ持て余し気味に、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の絡み付く<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をおし<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けました。

「私一人で死ねと言うんだね、――ようし、あの人を訴人したお前の前で、見事死んで見せよう、驚くな」

いきなり台所へ駆け込んだお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>、芳年がそれを追う隙もありません。キャッと言う悲鳴、――研ぎすました出刃庖丁で、我とわが喉も胸も、顔までも掻き切って、満身鮮血を浴びたまま、よろぼいよろぼい這い出して来たのです。

「あッ、何んと言うことをするんだ」

「さァ、この、私の顔をよく見ておくれ。この顔を、この姿を、――お前の筆で描けるものなら描いておくれ」

宙に泳ぐ手、<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>返しの根はガックリ抜けて、血潮の網目を引いた拳に、黒髪がバラリと絡みます。

女の顔は、美しいだけに凄まじいものでした。<ruby><rb>引釣</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>る眉、ギラギラと死の苦痛を映す<ruby><rb>瞳</rb><rt>め</rt></ruby>、血みどろの頬も唇も痙撃して、綺麗な歯並が、締木にかけたようにギリギリと鳴ります。

「この顔を見て、お前が夜寝られるか寝られないか、――よく見ておくれ。欽さんを訴人した上に、この私まで、――手に掛けなくても、なぶり殺しにしたお前だ――」

「待て、言うことがある。何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>も間違いだらけだ、――あれ、あれを聴け」

芳年は血に狂う手負いのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>を辛くも抱き止めて、二軒長屋の隣家――お浜の家のたたずまいを指します。

生垣一つを隔てて、明けっ放した庭先の夕陽に、何も彼も手に取るよう。この時お浜の家には、隊長に従って官兵が七八人、ドカドカと入って来たのでした。

## 描き出す怨女の悪相

「日下部欽之丞を訴人した、浜というのは其方か。女乍ら、賊軍の大物を討たせた手柄は抜群だ。追って褒美の御沙汰はある筈だが、取あえずお上のお言葉だけを伝えて置く」

そう言う官兵の隊長の声が、近所合壁へも聞えよがしに、凜々と響き渡るのです。

「――――」

それを聴いたお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>、芳年の腕の中に、必死の眼を見開きました。

「聴いたか、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>、――あれで、何も彼も解ったろう。改めて言うまでもないが、――俺は<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>の絵描きだ。世の<ruby><rb>態</rb><rt>さま</rt></ruby>、人の姿は描くが、訴人や企らみをする柄ではない、――俺の言葉も耳に掛けず、お前は飛んだ早まったことをしてくれたじゃないか」

「――――」

「どうせ勤めをしたお前だ。馴染も深間もあったところで、俺はそんな事でヤキモキするものか」

静かに説く芳年、隣の庭からは官兵が引揚げて、お浜のいそいそとした姿が、それを送って出た様子まで手に取るよう。

「お前さん」

「解ったか、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>」

「堪忍しておくれ、私は――」

今死ぬお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の眼には、初めて油のような涙が<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み出しました。

「解ったらそれでよい。傷は浅い。静かに手当をするが宜い」

「いえ、私は助からない。助かり度くもない、――お前さんに済まないけれど、私は、私は欽さんの後が追って行き度い」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は声もなく、芳年の膝の上に、身を顫わせて泣くのです。

「それも解っている、どうせこの俺とは浅い縁だ」

「堪忍して」

「可哀想に、――お前という女は」

「お前さん、――たった一つの願い、聴いてください」

「何んだ」

「お前さんは此間から、殺しも斬合いも<ruby><rb>梟</rb><rt>さら</rt></ruby>し首も描いたが、女の、怨女の末期は手本が無いと言って居なすった」

「――――」

「幸い、この私の浅ましい姿、――息のあるうちに、描いて下さい、――せめてもの恩報じ」

芳年の膝を降りたお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>は、最後の力を絞り出すように、柱に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>ったまま、フラフラと立ち上るのでした。

「それはいけない、――お前の顔に怨は消えた。死ぬ苦しみはあっても、怨女の悪相は無くなってしまった」

まこと、法悦に似たものが、血みどろなお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の顔を、仏作ってさえ見せているのです。

が、形勢は一瞬にして変りました。

此時、隣の物音に気の付いたお浜が、官兵を送り出した<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に、庭の木戸を押し開けて、ヒョイと入って来たのです。

「あッ」

目の前に展開した、血みどろの光景に、お浜は逃げることも忘れて釘付けになりました。

「畜生ッ、お前が訴人したんだね、――この怨み、覚えてお出で」

お浜の顔を見ると、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>に<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみが</rt></ruby>える怨み、柱に絡んだ<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が<ruby><rb>醜</rb><rt>みに</rt></ruby>くく歪むと、眼も、口も、一瞬蒼白い<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>を潜ったように、深怨無残の悪相が、メラメラと燃え上るのでした。

「助け――てエ」

あまりの事に、お浜は狭い庭の上に這いました。眼は縁の柱に<ruby><rb>伸上</rb><rt>のびあが</rt></ruby>る手負に吸い付けられて、娘の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>はあまりの恐怖に<ruby><rb>蟲</rb><rt>むし</rt></ruby>ほども動きません。

「<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいッ」

キリキリと鳴るお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よつ</span>の歯、風の無いのに、サッとなびく黒髪、柱に絡んだ手が緩むと、手負の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が、ゾロゾロと<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れて、庭のお浜を覗き加減に、ワナワナと<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>を差伸べます。

最早、背に迫る死の手、お浜をつれて、八寒地獄の底までも行く積りでしょう。

芳年は思わず画帳を取上げました。死の一瞬手前の、怨女の悪相が、名筆に従って、サラサラと描き上げられて行くのです。そのかみ、猛火の中のわが娘を見たという、仏画師<ruby><rb>良秀</rb><rt>よしひで</rt></ruby>のように、――人の世の掟を超えた、芸道三昧の恍惚境にひたり切って、――浮世絵師芳年の顔は、名ある高僧のように澄み切ったのでした。

大蘇芳年の傑作「英名二十八人衆句」は<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うして出来上りました。徳川末期の江戸を彩った、血みどろの世界が、「<ruby><rb>団七九郎兵衛</rb><rt>だんしちくろべえ</rt></ruby>」になり「<ruby><rb>稲田新助</rb><rt>いなだしんすけ</rt></ruby>」になり、「<ruby><rb>直助権兵衛</rb><rt>なおすけごんべえ</rt></ruby>」になり、そして怨を含んで殺されて行く「<ruby><rb>笠森</rb><rt>かさもり</rt></ruby>お<ruby><rb>仙</rb><rt>せん</rt></ruby>」の美女殺戮の図となったのです。

芳年の無慚絵が持った境地、その生々しいリアリズムは、明治画壇に大きなスタートを与えました。それが<ruby><rb>水野年方</rb><rt>みずのとしかた</rt></ruby>となり、<ruby><rb>落合芳幾</rb><rt>おちあいよしき</rt></ruby>となり、<ruby><rb>輝方</rb><rt>てるかた</rt></ruby>、<ruby><rb>英朋</rb><rt>ひでとも</rt></ruby>、<ruby><rb>年恒</rb><rt>としつね</rt></ruby>、<ruby><rb>年英</rb><rt>としひで</rt></ruby>となり、そして巨匠<ruby><rb>鏑木清方</rb><rt>かぶらぎきよかた</rt></ruby>となったことは言う迄もありません。