## 奉行に代って

「お<ruby><rb>駒</rb><rt>こま</rt></ruby>さん、相変らず綺麗だぜ」

「あら、<ruby><rb>権次</rb><rt>ごんじ</rt></ruby>さん、お前さんは相変らず口が悪いよ」

「口の悪いのは通り者だが、お駒さんの綺麗なのと違って罪は作らねえ」

「何を言うのさ、いきなり悪口を言ったり、好い<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>になったり」

二人は顔を合せさえすれば、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな調子で物を言う間柄だったのです。

神田明神前に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ささやか</span>な水茶屋を営んで居る<ruby><rb>仁兵衛</rb><rt>じんべえ</rt></ruby>の娘お駒、<ruby><rb>国貞</rb><rt>くにさだ</rt></ruby>の一枚絵に描かれたほどの美しさで、享保明和の昔の、お<ruby><rb>仙</rb><rt>せん</rt></ruby>お<ruby><rb>藤</rb><rt>ふじ</rt></ruby>にも優るだろうと言われた評判娘が、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んな廻り合せで懇意になったものか、<ruby><rb>金座</rb><rt>きんざ</rt></ruby>の<ruby><rb>後藤三右衛門</rb><rt>ごとうさんえもん</rt></ruby>に仕われて、<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を直したり、庭の草まで<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>って居る、<ruby><rb>潮吹</rb><rt>ひょっとこ</rt></ruby>の権次という三下野郎と、不思議に馬が合うのでした。

<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も、恋でも情でもあるわけはありません。お駒はピカピカするほど美しいのに、権次は<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>の通り<ruby><rb>潮吹</rb><rt>ひょっとこ</rt></ruby>で、それに年だっても、四十の方へ近かったかも知れず、家も金も、貫祿も見識も無い身軽な折助風情ですから、<ruby><rb>引手数多</rb><rt>ひきてあまた</rt></ruby>のお駒を<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしようと言う野心があるわけは無かったのです。

見てくれの美しさに似ず、<ruby><rb>気象者</rb><rt>きしょうもの</rt></ruby>で鉄火で、たった十九と言うのに、狼連を手玉に取って、甘塩で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃぶる</span>ようなお駒と、気軽で、<ruby><rb>剽軽者</rb><rt>ひょうきんもの</rt></ruby>で、捉えどころの無い権次が、<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に友情らしいものを持って居たにしても不思議はありません。

「ところで、お駒さん、内々の話があるんだが」

ひとわたり軽口を叩くと権次は案外真剣を顔になって、見事に尖った唇をペロリと<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めます。

「厭だねえ、内々の話なんか、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>で白状して<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いなよ」

「<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>くんじゃ無いぜ、お駒さん」

「当り前さ、お前さんに口説かれたって驚きやしないが、又お小遣を借せってんじゃないの」

「人聞きの悪いことを言いっこなし、ありゃお前たった一度だぜ、割前勘定が不足して、飛んだ恥を掻きそうになったからお駒さんに頼んで埋め合せをして貰ったが、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日は、お<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>附で返した<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だぜ」

「お土産まで吹聴されちゃ世話あ無い――」

「まア<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いやな、今日のは天下の大事だ、お茶らかさずに附き合ってくんな」

「天下の大事と来たね、――それじゃ聴いてやらなきゃア<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の殿様に済まないだろう、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へお入りよ、ホホホ」

「<ruby><rb>大久保彦左衛門</rb><rt>おおくぼひこざえもん</rt></ruby>の講釈と間違えてやがる、ハイ御免」

変な顔で見送って居る客をかき分けて、権次はお駒の後に続きました。店から帳場だけを隔てて、形ばかりの六畳ですが時々は<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ泊るものと見えて、<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と通りの世帯道具は揃って居ります。

「閉め切って居ると暑いね、少し開けようか」

「ちょいと待った、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>を開けるのは、一と通り話が済んでからにして貰おうか」

「だってもう四月だよ」

「四月だって五月だって、女を口説くのに開けっ放しと言う法は無い」

「本当に口説く<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>りかえ、権次さん」

「権次さんと来たね、俺はもう十ばかり若いと、口説き<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>くなるだろうよ」

「若くなくたって、顔の造作は変えられない」

「言ったね、お駒<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>」

又脱線して<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いました。

「冗談は宜い加減にして、早く用事を言ってお<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>い、店は<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>ちゃん一人で、困って居るじゃないか」

お駒はそれでも、話の本筋へ引戻しました。少し<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に坐ると、膝の間から紅いものがこぼれて、皮下脂肪の多い、滑らかな手足、――その真珠色の皮膚や、桜貝のような爪を見ただけでも、この女の恵まれた美しさが、全身に<ruby><rb>行亙</rb><rt>ゆきわた</rt></ruby>って居るのに驚かされるばかりです。

「思い切って話そう、お駒さん、お前は言い交した、<ruby><rb>相沢宗三郎</rb><rt>あいざわそうざぶろう</rt></ruby>様と別れなきゃアならないんだぜ」

「えッ」

「そして、今の俺にはお主に当る、金座の後藤三右衛門の総領、<ruby><rb>三之丞</rb><rt>さんのじょう</rt></ruby>様のところへ行って貰わなきゃアならないんだ」

「そんな馬鹿な事を、誰が一体私に言い付けるのだえ、生意気じゃないか、<ruby><rb>潮吹</rb><rt>ひょっとこ</rt></ruby>権次の癖に――」

お駒はカッとすると、外して持って居た赤い<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>で権次の顔をピシリと叩きました。

<ruby><rb>練絹</rb><rt>ねりぎぬ</rt></ruby>のような美しい<ruby><rb>膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>が、急に<ruby><rb>茜</rb><rt>あかね</rt></ruby>さして、恐ろしい<ruby><rb>忿怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>に黒い瞳がキラリと光るのさえ、お駒の場合にはたまらない魅惑です。

「お駒さん、腹を立てるのも尤もだが、これには深いわけがある、<ruby><rb>落付</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いて聴いてくれ」

「誰が落付いてなど居るものか、犬にでも食われて死んで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>うが宜い」

お駒がサッと<ruby><rb>立上</rb><rt>たちあが</rt></ruby>るのを、権次は裾を掴んで引戻しました。

「小唄の文句の通りだ、俺もこんな非道な事を言うより、犬にでも食われた方が増しだよ」

「何をするのさ、離しておくれ、人の裾なんか掴んで、<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>でないのだけがお前の身上だと思ったら――大きな声を出すよ」

「あ、存分に張り上げておくれ、お駒、俺は袋叩きにされて放り出されても怨みはしない、お前が相沢様と切れて、後藤の小倅のところへ切り込んでくれさえすれば、自慢じゃ無いが、痛い腹位は切っても宜いよ」

振り上げた権次の顔は、妙に突き詰めた真剣さに<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>って稀代の<ruby><rb>醜怪</rb><rt>グロティスク</rt></ruby>な<ruby><rb>潮吹</rb><rt>ひょっとこ</rt></ruby>も、もう笑える人相ではありません。

「<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んだとえ？」

「誰も聴いちゃ居ないか、お駒さん、<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>なブチまけて話そう、これは勘定奉行<ruby><rb>矢部駿河守</rb><rt>やべするがのかみ</rt></ruby>様の<ruby><rb>指金</rb><rt>さしがね</rt></ruby>だ」

「えッ」

「お駒さん、俺は駿河守様に代って、お前を口説きに来たんだ、聴いてくれ」

権次の声もすっかり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うるん</span>で、お駒は引据えられたようにその前にうな垂れて居りました。

## 不義の富を探る役目

天保四年、七年再度の大飢饉の恐ろしさは、書いたものにも故老の話にも語り伝えましたが、特に八年は窮乏の絶頂で日本全土の人間が<ruby><rb>菜色</rb><rt>さいいろ</rt></ruby>になったと言っても宜い有様、江戸から東北へかけて、文字通り<ruby><rb>餓莩</rb><rt>がひょう</rt></ruby><ruby><rb>野</rb><rt>の</rt></ruby>に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わるという悲惨な日が続きました。

大阪では<ruby><rb>大塩平八郎</rb><rt>おおしおへいはちろう</rt></ruby>の乱が二月に起り、江戸でも春から人気が沈み切って、毎日何百という<ruby><rb>飢死</rb><rt>うえじに</rt></ruby>がある有様です。

幕府の倉を開いて、窮民を賑わすとか、悪貨を<ruby><rb>鋳</rb><rt>い</rt></ruby>て逼迫した金融を緩和しようと言う議はありましたが、もう少し根本的に考えて、米価を<ruby><rb>引下</rb><rt>ひきさげ</rt></ruby>ようとか、差し当り何十万の窮民を救おうとか言う議は無かったのです。

勘定奉行矢部駿河守は、後に<ruby><rb>鳥居甲斐守</rb><rt>とりいかいのかみ</rt></ruby>に陥れられて、<ruby><rb>水野越前守</rb><rt>みずのえちぜんのかみ</rt></ruby>の末路も見ずに憤死して<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いましたが、天保年間ばかりでなく、徳川三百年の治世中にも、幾人と数える位の良吏でした。

この時は若くもあり、元気でもあり、その代り新米の勘定奉行で、<ruby><rb>睨</rb><rt>にらみ</rt></ruby>のきかなかった<ruby><rb>惧</rb><rt>おそれ</rt></ruby>はありましたが、随分辛辣と思われるほどの仕事もやって<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けました。

第一に眼をつけたのは、勘定奉行配下にある、金座、銀座の役人です。これは貨幣鋳造の<ruby><rb>度毎</rb><rt>たびごと</rt></ruby>に、分一と言うものを貰う（千分の十、即ち千両の鋳造で十両ずつの所得）<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>、いろいろの役得があって、後藤三右衛門などはその私財だけでも百万両を超えるだろうと言われるほどでした。遥か後年弘化二年に金座の後藤が死罪になったのは、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>を誹謗したと言う罪名になって居りますが、実際は鳥居甲斐守等と結んで悪貨を鋳造し、不義の私財を集め過ぎた為です。

銀座の方の役人も、これに劣らず豪奢を極め、中役の<ruby><rb>小南</rb><rt>こみなみ</rt></ruby>などは、家の中が小判だらけだったとか、蒲焼を取って二分金で払ったとか、千両以上の費用で、別荘を三つも作ったとか言う噂もありました。

駿河守はこの金座銀座の役人から、窮民救済の冥加金を<ruby><rb>取上</rb><rt>とりあ</rt></ruby>げようと考えましたが、何んとしても適当な工夫がありません。勘定奉行の役目で、金座へ出張して調べることは何んでも無いが、<ruby><rb>吹屋町</rb><rt>ふきやちょう</rt></ruby>の後藤三右衛門の私宅――黄金が<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>って居るという奥倉は、役目を笠に<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>ても調べようが無かったです。金座銀座の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>は、今日の日本銀行総裁のような非常に見識があったもので、勘定奉行と<ruby><rb>雖</rb><rt>いえ</rt></ruby>ども、滅多に指を差すわけに行かず、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し調べた上で、不正の貯蓄が見当らないとなると、これは腹切り<ruby><rb>道具</rb><rt>もの</rt></ruby>です。

そこで、清廉謹直な駿河守ですが、日毎に加わる町人百姓の窮状を見兼ねて、金座銀座の役人の宅に隠密を放ち、その生活状態から、貯蓄の有無を調べさせ、本宅別荘の絵図造作までも写し取らせました。

この間の消息は「甲子夜話」などにも載って居りますが、良吏駿河守にしては、全く一代の密偵政策だったでしょう。

「何を隠そう。俺は矢部駿河守様から、金座の後藤に附けた隠密の一人――」

「えッ」

これは、お駒も驚きました。馬鹿な話ばかりして居る<ruby><rb>潮吹</rb><rt>ひょっとこ</rt></ruby>の権次が、勘定奉行の密偵とは、さすが人を見る商売のお駒にも思い及ばなかったのです。

その上、命を的に金座へ入り込んで居る権次が、軽々しく身分を<ruby><rb>打明</rb><rt>うちあ</rt></ruby>けたのが、<ruby><rb>此頃</rb><rt>このごろ</rt></ruby>の隠密制度が、どんなに厳重なものであったかを知って居るお駒には不思議でたまらなかったのでした。

「こんな事をベラベラ喋ったら、お駒さんは<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>するだろうが、<ruby><rb>皆</rb><rt>み</rt></ruby>んな駿河守様の御指図さ、俺一人の智慧じゃねえ」

「…………」

「聴いてくれ、お駒さん、外の役人の暮し<ruby><rb>向</rb><rt>むき</rt></ruby>は、二月三月の探索で、手に取るように判って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったが、<ruby><rb>肝甚</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の本尊、後藤三右衛門の暮し向ばかりは、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしても判らねえ、吹屋町の奥蔵三戸前には、大判小判が捻って居ると言うことだが、誰も入って見た者が無いんだから、世間の噂ばかりじゃ、駿河守様も冥加金の謎の掛けようがねえ」

「…………」

「俺は吹屋町の屋敷に<ruby><rb>住込</rb><rt>すみこ</rt></ruby>んで半年になるが、銀座の小南と違って、金座の後藤は<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>が宜いから、年に四両の給料の外には小判の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>も見せたことがねえのだよ、――嘘か本当か知らないが、あの三戸前の奥蔵へ入りゃア、<ruby><rb>其場</rb><rt>そのば</rt></ruby>を去らず手討だという話だ、手討にされたら化けて帰って、駿河守様へ<ruby><rb>申上</rb><rt>もうしあ</rt></ruby>げる積りで、半年越し折を狙ったがいけねえ」

「…………」

「三戸前の蔵の鍵は、三右衛門が自分で持って居て、誰にも開けさせねえことにしてあるんだ」

「…………」

権次の話が次第に核心に触れて行くのを、お駒は耳を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎ度いような心持で聴いて居るのでした。

勘定奉行の下役――お駒と内証で夫婦約束までした相沢宗三郎と切れて、此間から熱くなって通う、後藤三右衛門の倅三之丞の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ行けと言うのは、その吹屋町の後藤の私宅にある、三つの奥蔵の中を探れと言う頼みでしょう。

大概の事なら、真っ向から断って退けるお駒ですが、相手は矢部駿河守ではそうもなりません。何んと言う因果な通り合せか、駿河守がまだ一千五百石の小祿を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んで、火附盗賊<ruby><rb>改役</rb><rt>あらためやく</rt></ruby>をして居る頃、親の仁兵衛はフトした罪を犯して、危うく遠島にもなるところを、駿河守の寛大な処置で助けて貰った大恩があったのです。

「後藤の小倅が、毎日明神様へ参詣して、呑み度くもない茶を呑むことを、矢部の殿様は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く御存じだが、昔、少しばかり恩をきせてあるだけに、仁兵衛やお駒には頼まれないと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃる」

「…………」

「俺には、矢部の殿様のお心持はよく解って居る、――吹屋町の三戸前の蔵は、女の腕で無きゃア開けようがねえ」

「…………」

「お駒さん、余計な事は言わない、此境内からたった一ト足出て、<ruby><rb>此節</rb><rt>このせつ</rt></ruby>の江戸の街を見てくれ、両に二斗の米（米価は此時百文に二合八勺まで<ruby><rb>騰</rb><rt>あが</rt></ruby>りました）が食えるものか食えねえものか」

「――――」

権次は暗然と声を呑みました。

「<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>では<ruby><rb>蕨</rb><rt>わらび</rt></ruby>の根も<ruby><rb>田螺</rb><rt>たにし</rt></ruby>も、藁も杉の皮も食うと言うが、江戸の者は一体何を食やあ<ruby><rb>宜</rb><rt>いい</rt></ruby>んだ――昨日も昌平橋の側で三人、今日はお茶の水で二人、此界隈だけでも、何十人何百人行倒れになるか、わからねえ世の中だ。所々にお救い小屋はあるにしたところで、江戸中の困る者の口の数に比べりゃア、焼石に水だ、近いところ<ruby><rb>筋違橋</rb><rt>すじかいはし</rt></ruby>外と<ruby><rb>和泉橋</rb><rt>いずみばし</rt></ruby>の<ruby><rb>御救小屋</rb><rt>おすくいごや</rt></ruby>へ流れ込む人の数を見ねえ、一杯ずつ粥を施すんだって容易のことじゃねえ」

「…………」

「こんな事を言っちゃ何んだが、お上の御金蔵は空っぽ、<ruby><rb>買穀</rb><rt>かいこく</rt></ruby>をし度いにも金がねえ、御払米が一万石出たが、それもお湿りにもならないじゃないか、町方はせめて十万両も米を買上げて、半値に売り度いと言うそうだが、駿河守様は、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしても三十万両なくちゃ、新米の出廻るまでの<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎが付かないと仰しゃるんだ、そんな大した金は、町人からは絞りようがねえ、当てにするのは小判が唸って居る金座銀座の役人衆の懐ばかり」

「もう解ったよ、権次さん」

「えッ」

お駒はいきなり顔を挙げると、権次の饒舌を封じて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>い度い様に<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言いました。

「理窟は知らないが、向うでも隣りでも、三度の食事は愚かろくな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おも</span>湯も<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>れなくって、弱い者や年寄や子供が、バタバタ死んで行くのは私もよく知って居る。こんな時世に、色の恋のと言っては<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない、私は行くよ」

「えッ」

「後藤の小倅のところへ行って、あの三戸前の蔵の中に、何が入って居るか見届けてやるよ」

「本当かいお駒さん」

「だけどもさ、あの<ruby><rb>青瓢箪</rb><rt>あおびょうたん</rt></ruby>野郎の<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>になると思えば、私は<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい」

「お駒さん」

「何んだって又、私はこんなに綺麗に生れ付いたんだい」

「そんな事を言ったってお駒さん」

「私は泣き度い、権の字、膝を貸しておくれよ」

「御安い御用だとも」

お駒は、権次の膝の上へ身を伏せて、泣いて泣いて泣き<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>りました。身も浮くばかり――と言う形容詞は、こんな時だけが本当らしく使えます。

湯のような美女の涙が、<ruby><rb>布子</rb><rt>ぬのこ</rt></ruby>を通して太股に流れるのを、権次は手の付けようの無い心持で、我慢しました。それは、実に恐ろしい魅惑です。

## 身を捨てて人を助けよう

「相沢さんはそれを御存じかい」

泣き疲れて、<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく静かにして居たお駒は、半刻ばかり経つと不意に頭を挙げました。すっかり涙で洗われた顔は、新鮮な<ruby><rb>李</rb><rt>すもも</rt></ruby>のように紅くなって、十九娘の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むせ</span>返るような魅力が何んとも言いようの無い匂いを<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らします。

「それは御存じだとも、相沢の旦那も一緒になって捜索したが、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>り吹屋町ばかりは手が付けられねえ、<ruby><rb>到頭</rb><rt>とうとう</rt></ruby>我慢が出来なくなって、お前を頼むことに話が<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>ったのだよ」

今まで、美女の涙を膝に享楽して居た権次は、夢から呼び覚されたように<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言いました。

「それほど知って居なさるなら、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うして御自分で<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らっしゃらないのさ」

「こんな事をお駒さんに言う顔が無いと言うのだよ」

「意気地が無いんだねえ」

「えッ」

「そうじゃ無いか、外に良い女が出来ての切れ話なら、人に頼んで言わせる筋もあるだろうが、それほどの役目を引受けて、江戸中の人を助ける為に切れるのを、私は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だと言うとでも思ったのかい」

「冗談、冗談じゃ無いよお駒さん、相沢の旦那は気が弱かったんだ、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>それだけの事だよ、自分の口から、お前に切れてくれとは言い<ruby><rb>憎</rb><rt>にく</rt></ruby>かったんだ」

「そうかねえ」

妙に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぐわない</span>心持、お駒は襟に顎を埋めて、<ruby><rb>考込</rb><rt>かんがえこ</rt></ruby>んで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いました。

「相沢の旦那を悪く思っちゃいけないよ、お駒さん」

「悪くは思わないが、意気地の無い人だと思うよ」

「…………」

「そんな武士が<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にあるんだい」

「お駒さん」

「黙っておくれ、――自分の女を人に取られているのに、指を食えて引込んで居るような男を、私は大嫌さ」

「お駒さん」

「権次さん、黙って居ておくれ、腹でも立てなきゃア、私は後藤の小倅のところへ行く張り<ruby><rb>合</rb><rt>あい</rt></ruby>が無い」

「…………」

「畜生ッ」

権次は慰めようもなく、黙って女の取乱した様子を見守るばかりです。

「お駒さん、無理もない事だが、相沢さんには罪が無い」

「黙ってお<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>よ、権の字、お前さんもお節介だねえ、隠密などになったり、色事へ口を利いたり、畜生っ、惚れてやるから」

「あッ」

権次は<ruby><rb>飛退</rb><rt>とびの</rt></ruby>こうとしました。お駒の見幕があまりに凄まじかったのです。

「権の字、私は<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい」

「お駒さん、気を<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>り持ってくれ」

「相沢さんは勘定奉行与力で、二百石取の大身だろう、夫婦約束をしたって、水茶屋の娘の私とは<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>に釣鐘、末遂げられるものとは思っちゃ居ない。――邪魔なら邪魔と、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うして御本人の口から言ってくれないんだえ」

「お駒さん、それは無理だ、相沢さんは、お前を捨てる積りもなく、厄介<ruby><rb>払</rb><rt>ばらい</rt></ruby>をする積りで<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた細工でも無い――」

「解って居るよ権の字、だから、私は自分の勝手であの後藤の瓢箪野郎のところへ行くんだ、私は自分の身を捨てて江戸中のいや日本中の困って居る人を救えや宜いんだろう、相沢さんが何んだい」

「…………」

「さア、帰ったらそう言っておくれ、相沢さんには、私の方から切れてやるって」

お駒は立上って、夕明りのほのかに射して来る窓へ寄りました。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>には鏡台が一つ、上へ掛けた被いを取ると、<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>かせたばかりの鏡の中に、少し<ruby><rb>腫</rb><rt>はれ</rt></ruby>っぽくはあるが、涙に洗われて<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って美しくなった自分の顔が映ります。

もう、後藤三之丞が、お詣りに来る時刻だったのです。

## 吹屋町の屋敷へとお駒の望み

「あら、後藤様」

「大層今日は愛想が好いな、お駒」

「誰も居ないから」

「ウ、フ、フ」

金座の後藤三右衛門の倅三之丞、少し病弱で青白くはありますが、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>から見ても、立派な若侍です。供の者が一人、それを店先に休ませて、自分だけは、例の通り、ズイと奥へ通ります。

「それに、いつもより綺麗に見えるのは<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>う言うわけだ」

羽織の裾を払って、長いのを側へ置くと、扇を斜に、少し気取った<ruby><rb>構</rb><rt>かまえ</rt></ruby>になるのでした。年の頃二十五六、何んと言っても若い三之丞です。

「旦那がお見えになったからでしょう」

「ウ、フ、フ」

「それに、今日はあのいつぞやのお返事を申上げようと思って、朝からお待ちして居りました」

お駒は側へ坐ると、なよなよと上半身を曲げて、三之丞のノッペリした顔を下から見上げるのでした。

「それは<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがた</rt></ruby>いな、吉か、半吉か、まさか凶ではあるまいな」

「吉か、凶かは存じませんが、旦那様のお<ruby><rb>覚召</rb><rt>おぼしめし</rt></ruby>もよく解りましたし、父とも相談して、いよいよ御言葉に従うことにいたしました」

「え、本当か、それは、有難いな、いよいよ話が決れば、この水茶屋の株などは人にやって<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>って、お前の好きなところへ一軒」

「あの、お言葉中ですが」

「何んだお駒」

「旦那様の御側へ置いて下されば、妾、手掛はおろか、召し<ruby><rb>使</rb><rt>つかい</rt></ruby>でも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うことでは<ruby><rb>御座</rb><rt>ござ</rt></ruby>いませんが、なるべくは、吹屋町のお屋敷の方へ置いて頂き度う御座います」

「それは又異な望みだな、窮屈ではないか」

「それも覚悟して居ります、女と生れて、旦那様のような立派なお方と契った冥利に、金座のお屋敷にたった一日でも住んで見度いので御座います」

「フーム」

家門に対する自負心があるだけに、お駒の望みが、三之丞には尤もに聞えました。

「<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うした物で御座いましょう旦那様、どんなに不自由なく暮しても、世間並の囲われ者では、私は厭で御座います」

「待て待て吹屋町へ入れることを、ならぬとは言わぬぞ、一応父上へ申上げて、近いうちに<ruby><rb>吉左右</rb><rt>きちそう</rt></ruby>を知らせるとしよう」

「旦那様、お<ruby><rb>願</rb><rt>ねがい</rt></ruby>で御座います」

お駒は一生懸命でした、ツイぞ側へ寄ったことも無い三之丞の膝に<ruby><rb>取縋</rb><rt>とりすが</rt></ruby>って、それをグイグイと動かし<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、あらゆる媚と我儘と、魅惑と香気を撒き散らします。

## 蔵へ行き度い願い

話は思いの外トントン拍子に進みました。二十六まで独身を通して、お駒より外の女には、振り向いても見ようとしなかった三之丞の一克さが、頑固な父の三右衛門を動かして到頭「召使」という名儀でお駒を容れることになったのは、それからたった三日の後だったのです。

お駒は手軽に吹屋町に<ruby><rb>乗込</rb><rt>のりこ</rt></ruby>みました、が、宏大な屋敷の中に入って、幾十人の召使の中に立ち<ruby><rb>交</rb><rt>まじわ</rt></ruby>ると、<ruby><rb>今更</rb><rt>いまさら</rt></ruby>お駒の美しさが目に付きます。

鉄火者という評判を取ったお駒が、思いの外素直に仕えるので、三右衛門も少し予想外な心持でした。

二日、三日、五日、と日は経ちます。

凶作の後の恐ろしい<ruby><rb>餓</rb><rt>うえ</rt></ruby>は、江戸中を濡れた灰のように冷たく不活溌にして<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いましたが、吹屋町の後藤の屋敷は、栄華と歓楽が渦を巻いて居りました。

お駒は召使と言う名儀でも、実は若旦那の三之丞の愛妾でその存在は次第に火の如くはっきりして来ましたが、まだ、奥の三戸前の土蔵に近づくことなどは夢にも及びません。

七日目、

お駒はとうとう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しびれ</span>を切らして<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いました。

「旦那様」

お駒の愛撫の疲れでウトウトして居た三之丞は、不意に甘い夢から引戻されました。

「何んだ、お駒か」

<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら床の中から<ruby><rb>抜出</rb><rt>ぬけだ</rt></ruby>したお駒は、<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>一つで三之丞の枕元に坐って居たのです。

<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の灯が<ruby><rb>片面</rb><rt>かたおも</rt></ruby>を照して居るせいもあるでしょう、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>るような美しい顔が、妙に<ruby><rb>引緊</rb><rt>ひきしま</rt></ruby>って、畳に突いた片手は、ワナワナと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えて居ります。

「私は、眠られません」

「ジッとして居ると眠られるよ、今頃起き出す人間は無い」

三之丞の調子は寝そびれた子供をあやすようですが、お駒は、少し根の<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んだ島田を大きく振って、

「いえ、私は大変な<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼせ</rt></ruby>性で、こんな時は、水を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>るか、穴蔵へでも入らなければ眠られないのです」

「なら――」

三之丞は少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかい</span>気味に半身を起しました。この情熱そのもののような女は、それ位の特異性を持って居るかも知れないと思ったのです。

「お願いで御座います、旦那様、私を裏の三戸前の蔵のどれかへ入れて下さい」

「それはならぬ」

三之丞も少し驚きました。

「<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしてで御座います」

「あれは、父上のお<ruby><rb>許</rb><rt>ゆるし</rt></ruby>が無ければ、誰も入ることが出来ないことになって居るのだよ」

「こんな夜中でも？」

「夜でも昼でも」

「あ、あ」

お駒は投げ出したように言って、クルリと後ろ姿を見せました。

「寝ないか、お駒」

「どうぞ、お休み下さいまし、私は、どうせ眠られはしません」

「弱ったなア」

暫らく言葉が絶えました、が、お駒は身動きもせず、三之丞はその美しい後姿から目を離そうともしませんでした。

「あのお蔵の中には、何が入って居るので御座いましょう」

「さア」

お駒の<ruby><rb>問</rb><rt>とい</rt></ruby>が不意だったので、三之丞も少しギョッとしました。

「世間の噂では、大判小判が一杯だと申しますが」

「さア」

「一と目、私に見せては下さいませんか」

「そんな解らぬことを言わずに、眠る工夫をしたら<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うだ」

「私はどうせ眠られはしません、こんなに火のように熱いんですもの――」

お駒は三之丞の手を取って、自分の胸へ差し入れました。大して熱いとは思いませんが、高鳴る心臓の鼓動が、男の手に響きます。

「それが<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたと言うのだ」

「私は、この熱い肌を、金で冷やして見度いので御座います」

「？」

「この焼けるような<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を、山吹色の<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>で包んで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>って腹の底から冷え冷えして見たいのです」

「馬鹿なことを」

「そうさせて下さいまし、旦那様、私はこんなに、焼けるような心持で、もう我慢が出来ません」

お駒は自分の言葉に勢い付けられたように、立ち上ると三之丞を床の中から引出しました。

「これ、何をする」

「旦那様、蔵へ参りましょう、私は栄耀も栄華も望みでは御座いません、此お屋敷へ上ったのは、たった一と目、何万両というお金が見度かったので御座います」

「…………」

「蔵の中へ入れてお金を唸らせて置くなんて、随分勿体ないことでは御座いませんか、さア、参りましょう、私は、大判小判を<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>中に浴びて、この火のような心持を<ruby><rb>覚</rb><rt>さま</rt></ruby>し度いのです」

「…………」

「でなければ、私を帰して下さい、明日と言わず、今<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ、――私は明神様の水茶屋へ帰って、木の床の上へ寝てこの<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を冷やします、絹の夜具なんか、もう、見るのも厭――」

お駒は三之丞へ絡み付いて、離れようともしません、何んと言う素晴らしい情熱の体温でしょう、三之丞は唯もうおろおろするばかりでした。

## 黄金の滝に

お駒は到頭三之丞を説き伏せて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いました。二人は二羽の蝶のように、父親の寝部屋に忍び込むと、そっと枕元に這い寄って、<ruby><rb>手筐</rb><rt>てばこ</rt></ruby>の中の鍵と、柱に掛けてある手鍵を<ruby><rb>持出</rb><rt>もちだ</rt></ruby>しました。

「シッ、静かに」

奥に並んだ三戸前の土蔵まで辿り付くうち、三之丞は何べんお駒をたしなめたことでしょう。

お駒はすっかり有頂天になって、執念深く三之丞に絡み付くのでした。

廊下が尽きるところに、金網の掛った、有明が<ruby><rb>灯</rb><rt>つ</rt></ruby>いて居ります。三之丞はそれを外して左手に持つと雨戸を開けて、真ん中の土蔵の戸前に掛ります。

大一番の<ruby><rb>海老錠</rb><rt>えびじょう</rt></ruby>を外して、<ruby><rb>塗籠</rb><rt>ぬりごめ</rt></ruby>の扉を開くと、中は二重の板戸、それは手鍵一つで、わけも無く開きます。

「騒ぐんではないぞ」

お駒をさし招くと、籠<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を持ったまま、三之丞は中へ入りました。

最初は、心の激動に何んにも見えませんでしたが、少し落付くと、蔵の中の光景は、想像以上の素晴らしいものだったことに気が付きます。

左右に杉なりに積んだのは、千両箱の山、これが何百あるとも見当が付かないのに、正面は、封をしない小判と大判が本当に砂利のように積んであるのです。

中に交った延べ板、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なまこ</span>、地金、砂金の袋などは、その砂利の中の石とも材木とも見られるでしょう、それが大地から掘り出したばかりの、純良無垢な山吹色で、行灯の灯に<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>と光るのですから、その壮観は言葉にも及びません。

「どうだお駒」

少し得意そうに、籠行灯を捧げる下から、

「あッ」

お駒は唯悲鳴のようなものを挙げて飛出しました。

いきなり、黄金の山を駆け登り、その上に二三度転がって、あとは両手ですくい上げて、大判小判の滝を頭の上からザクリザクリと<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>るのでした。

<ruby><rb>閃</rb><rt>きら</rt></ruby>めく黄金は、美女の肌を洗って、床に、壁に、窓に、<ruby><rb>鏘然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>と鳴ります。

お駒が<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼせ</rt></ruby>性で、金に<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を包み度いと言ったのは、元より当座の口実でしたが、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな素晴らしい黄金の山を見るとその約束を果して、黄金の乱舞をやらずには居られないような心持になるのでした。

## 血潮に染めた二十万両を

<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>其時、後藤三右衛門は、眼を覚しました。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>からともなく響いて来る黄金と黄金と触れ合う音が、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んなに<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かであったにしても、馴れた三右衛門の夢を驚かすに充分だったのです。

本能的に枕元の手筐を見ると、蔵の鍵がありません。

ハッと思って挙げた目に、柱に掛けてあった筈の長鍵も無くなって居ることに気がついたのです。

三右衛門は、たしなみの帯を締めて、一刀を帯に落すと、<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>の手槍を取って廊下へ出ました。

雨戸が一枚開いて居ります。

音は真ん中の蔵の中から、――と思うと躊躇はしません、板戸に手を掛けると、

「旦那様、危のう御座います」

<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>から出て来たか、中間姿の男が立塞がります。

「何んだ、権次か、<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>が入って居る、お前は引返して皆んなを起して来い」

「旦那様は？」

「俺は中へ入って見る」

後藤三右衛門、充分胆が据って居ります。

「それは危う御座います、旦那様」

権次は<ruby><rb>尚</rb><rt>な</rt></ruby>おも蔵の戸前から離れようとしません、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>から三右衛門を入れたら、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んな事になるかわからなかったのです。

「えッ、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>け退け」

<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し三右衛門はもう我慢をしませんでした、権次をかき退けると、樫の板戸を開けて、中へ、

「あッ」

中は淡い灯に照されて、黄金の雨、黄金の洪水です。

「己れッ、<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>」

黄金の洪水を<ruby><rb>禦</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>して、あらゆる狂乱を続けて居るお駒を見ると、三右衛門の手槍は、サッと伸びました。

「あッ」

薄桃色に上気した美女の肉体が、黄金の山の上へ<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>れると、胸から赤い血潮が、滝の如く吹き出すのでした。

「権次、権次さん」

お駒はそう言って、顔をあげましたが、土蔵の外に、何やら物の気配を感じると、又ガックリ血潮の中へ崩折れて、其儘息は絶えて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いました。

黄金の音、――続く絶叫、自分を呼ぶ声などを聞いて、権次は何遍か蔵の中へ飛込もうとしましたが、思い直して一散に門の外へ飛出して<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いました。

行手は勘定奉行、矢部駿河守の屋敷、自分の頭をカキ乱して、ゼイゼイ息を切らし乍ら、権次の<ruby><rb>潮吹顔</rb><rt>ひょっとこづら</rt></ruby>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さめざめ</span>と泣いて居りました。

<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝勘定奉行与力相沢宗三郎は、権次を案内に、吹屋町の後藤三右衛門屋敷へ乗込んで来ました。

「仁兵衛娘、駒、親許の承諾を得、仮親を立てて、拙者の妻に申受くることに相成った、奉公中気の毒であるが早速引渡して貰い度い」と言う口上です。

三右衛門も、倅三之丞も申開きが付きません。奉公人を手討にするのはよくある例で、金蔵へ盗みに行ったと言えば事が済むようなものですが、その金蔵は数十万両の金が、血潮に染んで居ては、検視の受けようが無く、第一、権次が勘定奉行の隠密と解っては、争う余地もありません。

三右衛門は、黙って、即座に二十万両を上納しました。

これは歴史にも有名な話、続いて隠居願を<ruby><rb>差出</rb><rt>さしだ</rt></ruby>しましたが、そこまで追及する積りは無かったので、それは差許されませんでした。

お駒の血潮で彩られた二十万両は、右から左へ窮民を救うの資に当てられ、天保の大飢鐘の始末も、これで一段落付きました。

矢部駿河守は後町奉行に転じて、天保十三年憤死し、相沢宗三郎は<ruby><rb>終</rb><rt>おわり</rt></ruby>を知らず、<ruby><rb>潮吹</rb><rt>ひょっとこ</rt></ruby>の権次は坊主になったと言うことです、お駒に膝を濡らされて以来、よくよく骨身に徹して世の中がつまらなくなったのでしょう。