## 二人の昼鳶

「あッ、泥棒ッ」

<ruby><rb>井上半十郎正景</rb><rt>いのうえはんじゅうろうまさかげ</rt></ruby>は、<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>っ<ruby><rb>取</rb><rt>とり</rt></ruby>刀で<ruby><rb>飛出</rb><rt>とびだ</rt></ruby>しました。

初秋の<ruby><rb>浜名湖</rb><rt>はまなこ</rt></ruby>を渡って、<ruby><rb>舞坂</rb><rt>まいさか</rt></ruby>の宿外れ、とある茶店で<ruby><rb>中食</rb><rt>ちゅうじき</rt></ruby>を認め、勘定をする<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>りで<ruby><rb>取出</rb><rt>とりだ</rt></ruby>した紙入を、<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>の蔭から出た長い手が、いきなりさらって表口へ飛出したのです。

が、事件はそれだけではありません、その<ruby><rb>昼鳶</rb><rt>ひるとんび</rt></ruby>を追っかけて、思わず敷居を跨いだ半十郎、何がなし重大な不安を感じて、フト後ろを振り返って驚きました。

今まで神妙に弁当を使って居た町人風の第二の男が、半十郎が席へ置いた、振り分けの荷物を引っ抱えて、これは裏口の方へ逃げ出したではありませんか。

「あッ」

半十郎、紙入をさらった第一の男を断念して、振り分け荷をさらった、第二の男に<ruby><rb>必死</rb><rt>ひっし</rt></ruby>と追いすがりました。紙入の中の金は、<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>が江戸までの路用、――今の半十郎には大金でも、<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>に十三両二分しか入って居りませんが、振り分けの荷の中には、身にも世にも、命にも、面目にも替え<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>き、井上流砲術の秘巻が入って居たのです。

「己れッ、待たぬかッ」

追う武士と、追わるる賊と、七月の明るい陽を浴びて、田も、畑も、藪も、林も、真一文字に突き切りました。泥棒の足の早さも抜群ですが、二十七歳の若さを、忿怒と驚愕に燃えさかる、井上半十郎の<ruby><rb>意気込</rb><rt>いきごみ</rt></ruby>の凄まじさも<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と通りではありません。

「返せッ、それは金目の品ではない、――返さないと、己れッ、手裏剣が飛ぶぞ」

半十郎は駆け<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>を抜いてサッと振りあげました。<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>との距離は僅かに二十歩、あと五六歩詰めさえすれば、間違いもなく首筋が縫えるでしょう。

早くもその気勢を察した曲者は、中腰に身を屈めると、サッと右手へ切れました。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から木立の入口まで、身の<ruby><rb>丈</rb><rt>た</rt></ruby>け程の恰好な藪が続いて、手裏剣を防いでくれるのでした。

「あッ」

一瞬、曲者の姿は見えなくなりました。大地を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めるように、木立の中へ躍り込んだのです。

続く井上半十郎、今度曲者の姿を見掛けたら、遠慮もなくその手裏剣を飛ばす積り、突き詰めた心持で、ツと木立の中へ――。

が、木立は思いの外浅く、飛込んだ半十郎の前には、広々と明るい道が開けて、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>には若い女が一人、<ruby><rb>嫣然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>、半十郎を迎えるように立って居るではありませんか。

曲者は？　――と見ると、ほんの五六間先へ、頭を先へ押っ立てて、両手で梶を取るように、死物狂いで逃げて行くのです。

「己れッ」

振り上げた手裏剣は――不思議、宙に押えられました。

「お待ちなさいまし、お<ruby><rb>入要</rb><rt>いりよう</rt></ruby>の品はこれでしょう」

若い女は見覚えある振り分けの荷物を、半十郎の眼の前へ<ruby><rb>差出</rb><rt>さしだ</rt></ruby>したのです。

「どうしてそれを」

「御難渋の様子を拝見して、曲者の手から奪い還しました」

「――――」

半十郎は<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んとなくギョッとしました。この女の爽やかな声には、忘れ難い<ruby><rb>響</rb><rt>ひびき</rt></ruby>があったのです。

「でも、手裏剣はお<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>しなさいまし、無益な殺生でございます」

若い女はそう言って、半十郎の前に振り分け荷を捧げるように、ニッコと含み笑いを見せました。小麦色の頬に淀んだ、深い<ruby><rb>靨</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>、切れの長い眼も、紅い唇も、妙に<ruby><rb>蠱惑的</rb><rt>こわくてき</rt></ruby>ですが、前歯が二枚欠け落ちて、右の額から頬へかけて、燃え立つような赤痣、焼き損ねた名窯の陶器を見るような、痛々しさと凄まじさに、半十郎も思わず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゾッ</span>としました。

この女の美しさと醜さの、法外な不調和が、相対する限りの人に、造化の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>にする、反感のようなものを、かき立てずには<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>きません。

「――――」

逃げて行く第二の曲者の姿を見乍ら、半十郎はさすがに渋りましたが、

「さア参りましょう」

委細構わず、女は歩き出します。命より大事な、振り分けの荷物を手に入れると、<ruby><rb>今更</rb><rt>いまさら</rt></ruby>第一の昼鳶にやられた、紙入のことが気にかかります。中はたった十三両二分でも、あれが無くては、江戸への旅を続ける見込がありません。井上流砲術をもう一度世に出す為には、あの十三両二分は大した資本だったのです。

## 道連れの美女

一文無しになって尻込みばかりする井上半十郎正景は、赤痣の美女に<ruby><rb>賄</rb><rt>まかな</rt></ruby>われて、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うやら<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うやら、浜松の宿に着きました。

「どうせ私も江戸へ参ります。そのように御遠慮遊ばさずに、お伴をさして下さいまし、路用は私が――」

そう言って、女はサッと顔を赤らめました。女だてらに<ruby><rb>言過</rb><rt>いいす</rt></ruby>ぎに気が付いたのでしょう。

「御親切は<ruby><rb>辱</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けない、が、見ず知らずの方から、そうまでは――」

井上半十郎は、<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>の二階に通されても、まだこんな事を言って居ります。

「まア、お堅いことを、見ず知らずと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃっても、あれから半日あまり御一緒に参ったではございませんか、――江戸までお供をさして頂けば、私こそどんなに心強いかわかりません、女の一人旅は、本当に心細いことばかり――」

女は裏淋しく<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を伏せました、眼の上から頬へかけての痣が無かったら、この女はどんなに美しく優しく見えたでしょう。年の頃は二十四五、武家風の身だしなみにも、真新しい<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>物にも、堅実な奥床しさがあります。

それにしても、井上半十郎の古い古い記憶の下積に、この女の<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>が焼き付いているのは何んの為でしょう。

「拙者は江州の浪人者、井上半十郎と申す。それではお言葉に甘えて、江戸までの道中雑用拝借いたす、――路用を失った上は、乞食をしても古里の江州へ帰るところなれど、身にも世にも替えられぬ急ぎの用事で、江戸へ馳せ向うところ、我慢や対面にこだわっては、拙者一代の孝道が相立ち申さぬ――」

そう言って、片手を畳の上に落した半十郎の真剣さ、少し華奢ですが、秀でた眉目も、二十七の若さと、頼もしさにハチ切れそうです。

「まア、そんなにまで仰しゃらなくとも」

女は妙に湿りました。

「大事な荷物を奪い還して頂いた上、路用まで用立てて下さる恩人の、せめて御名前が承り<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>い」

「江戸、小石川の生れ、武家には育ちましたが、仔細あって町人となった、――<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>――と申すのが私の名前で御座います」

「お静殿――と言われるか」

「孝道の為の御出府と仰しゃると、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>り親の敵討というような――」

お静は声を潜めました。井上半十郎の素朴を様子は、物語の敵討の主人公らしく見えたのでしょう。

「いや、敵討と申すわけではないが」

「――――」

「別に隠す事では無い、恩人のお静殿に、<ruby><rb>打明</rb><rt>うちあ</rt></ruby>けるのも何んかの因縁、――残らずお話申そう」

井上半十郎は<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻し乍ら、始めました。

話は今から<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>五年前、正保三年九月十三日の出来事――。

## 両家の血の争い

幕府大筒役として千石を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>む井上<ruby><rb>外記正継</rb><rt>げきまさつぐ</rt></ruby>は、同役<ruby><rb>稲富喜太夫直堅</rb><rt>いなどめきだゆうなおかた</rt></ruby>（六百五十石）と、五貫目玉五十丁<ruby><rb>撃</rb><rt>うち</rt></ruby>の事から争いを構え、

「出来る」「いや出来ぬ」「見事拙者がやってお目にかけよう」「何んの貴殿如き」と、<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>しもなく意地を張り続けました。

時の<ruby><rb>御持筒役頭</rb><rt>おんもちづつやくがしら</rt></ruby>は千八百石<ruby><rb>長坂丹後守信次</rb><rt>ながさかたんごのかみのぶつぐ</rt></ruby>、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て<ruby><rb>慶元</rb><rt>けいげん</rt></ruby>再度の戦いに、長坂血槍九郎と名乗って、旗本変名組に勇名を馳せた、戦場万馬往来の<ruby><rb>古武夫</rb><rt>ふるつわもの</rt></ruby>です。組下の両名家、井上、稲富が争いを続けていては、世上への聞え、部下の示しも<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>と、自分の宅へ二人<ruby><rb>呼寄</rb><rt>よびよ</rt></ruby>せ、部内の<ruby><rb>重立</rb><rt>おもだ</rt></ruby>った者を立会として、和解の宴を催しました。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>までは無事でしたが、長坂丹後守の処置に<ruby><rb>偏頗</rb><rt>へんぱ</rt></ruby>があったのと、酔が言わせる過言が祟って、激怒を発した井上外記は、席上組頭なる主上の長坂丹後守と、競争相手の稲富喜太夫を斬って捨て、自分もまた、同席の<ruby><rb>小栗長左衛門</rb><rt>おぐりちょうざえもん</rt></ruby>、<ruby><rb>奥山茂左衛門</rb><rt>おくやましげざえもん</rt></ruby>に討ち留められ、<ruby><rb>其場</rb><rt>そのば</rt></ruby>で三人共相果ててしまったのです。

この始末は「<ruby><rb>寛政重修諸家譜</rb><rt>かんせいちょうしゅうしょかふ</rt></ruby>」<ruby><rb>並</rb><rt>ならび</rt></ruby>に「<ruby><rb>二川随筆</rb><rt>ふたかわずいひつ</rt></ruby>」に詳しく見えましたが、私の<ruby><rb>争</rb><rt>あらそい</rt></ruby>は厳重な<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>で、長坂家は断絶、井上外記の子半十郎正景、稲富喜太夫の子<ruby><rb>喜三郎直久</rb><rt>きさぶろうなおひさ</rt></ruby>は、共に士籍を削って追放、これで一応事件は片付きました。

<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し井上家は代々江州鍛冶の名家で、外記は井上流砲術の祖と言われた人物、一方稲富喜太夫は、有名な稲富<ruby><rb>一夢斎</rb><rt>いちむさい</rt></ruby>の嫡流で、これも砲術の方では海内屈指の名家です。

公儀に<ruby><rb>於</rb><rt>お</rt></ruby>かせられても、この両名家の断絶を<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>んで、五ヶ年を限って、両家争いの元なる五貫目玉五十丁撃の<ruby><rb>術</rb><rt>わざ</rt></ruby>を磨かせ、将軍御前に技を闘わせた上、五貫目玉五十丁撃に成功した者に、家名再興を許すという内意があったのです。

外記の<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>井上半十郎と、喜太夫の子稲富喜三郎は、父親同士の争が表沙汰になる<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>は、何んにも知らずに、水魚の交りを続け、その上、喜三郎の妹<ruby><rb>繁代</rb><rt>しげよ</rt></ruby>は、半十郎の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>になって居たのですが、親同士が殺し合うような事件が起ってからは、友情も恋も滅茶滅茶。稲富喜三郎兄妹の行方は、それっきり<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として判りませんが、井上半十郎の方だけは、父祖の墳墓の地、江州国友村に隠れて五年間、井上流砲術の完成に若い命を打込んだのでした。

「<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>なわけ、――五年目の九月十三日までは、余すところあと<ruby><rb>二</rb><rt>ふ</rt></ruby>た月、父井上外記が丹精した井上流砲術の秘巻に、拙者五年の間の研究を書き加えたのが、この振り分けの荷物の中に入って居る、この荷物が身にも世にも替えられぬと申したのが無理であろうか」

物を隠すことさえ知らぬ井上半十郎は、お静が奪い還してくれた振り分けの荷物を指して<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>く語るのです。

「で、――その五年の間の工夫で、五貫目玉五十丁撃が、間違いもなく出来るでしょうか、井上様」

お静の息も思わず弾みます。ツイ乗り出した膝、赤い<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>がこぼれるのをそっと押えました。

「拙者五年の苦心は、大筒の<ruby><rb>尾栓</rb><rt>びせん</rt></ruby>の<ruby><rb>螺線止</rb><rt>ねじど</rt></ruby>めであった、今までの大筒は、五貫目玉を<ruby><rb>強薬</rb><rt>つよぐすり</rt></ruby>で撃ち出すと、たった一発で尾栓が破裂したが、これからはもう、その心配は無い――が」

井上半十郎の顔はサッと曇ります。大筒の尾栓は大丈夫でも、半十郎は江州鉄砲鍛冶の家伝を継いで、五十丁撃の猛烈な威力を持って居る、火薬<ruby><rb>焔硝</rb><rt>えんしょう</rt></ruby>の製法には自信が無かったのです。

## お静か繁代か

「五貫目玉を、五十丁の先まで<ruby><rb>射出</rb><rt>うちだ</rt></ruby>して、的の黒星を打ち抜く火薬は、日本広しと<ruby><rb>雖</rb><rt>いえ</rt></ruby>ども、作り手はたった一人しか無い、それは――稲富――」

井上半十郎はよく知って居ります。それだけの焔硝を作り得る者は、名人一夢斎の<ruby><rb>裔</rb><rt>すえ</rt></ruby>、喜太夫の倖、稲富喜三郎の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にはありません。

「まア、そのような御心配遊ばしたものでは御座いません、江戸までいらっしゃるうちに、また何んか良いこともありましょう」

お静がそう言い乍ら手を叩くと、<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て言い付けてあったものか、宿の女中は精一杯らしい料理と、銚子盃を持って来ました。

「これは？」

驚く井上半十郎の前に据えて、

「まア、御過ごし遊ばせ」

お静は自分で銚子を取上げます。片頬の痣は<ruby><rb>灯</rb><rt>ともしび</rt></ruby>に背いて、半十郎の方から見えるのは、トロリと渦巻く片靨と、水のように澄んだ左の眼だけ、何んとなくそれは、高貴にさえ見える美しさです。

「お静殿は、江戸小石川の生れと言われたが、――小石川ではなくて、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しや、本郷の産れではあるまいか」

半十郎は盃を挙げました。この女の顔――<ruby><rb>艶</rb><rt>あで</rt></ruby>やかなうちに<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>む、深沈たる美しさと、<ruby><rb>醜</rb><rt>みに</rt></ruby>くい赤痣や、欠けた前歯の奥に隠された、一種の清らかさには、どうしても忘れられないものがあったのです。

「いえ、私の生れは小石川の第六天、育ったのは遠州、――まア、そんなに私の顔を御覧になっては」

お静は片袖を<ruby><rb>眉庇</rb><rt>まびさし</rt></ruby>に、痣のあたりを娘らしく隠すのでした。

「ところで、お静殿、――拙者は一人で勝手に頂く、その間に風呂へ入られてはどうじゃ、疲れが直って、<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んだ良い心持であろう」

「井上様は？」

「酒が腹へ入ってから、湯でもあるまい、拙者は止すとしよう、――それに」

井上半十郎は、振り分の荷物を顧みて、苦笑いをしました。

「井上流砲術秘巻」を片時も自分の側から離す気は無かったのです。

「それでは、御免下さいまし」

お静は丁寧に一礼して、風呂場へ降りて行きました。

やや<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>し、井上半十郎には、怪しい物思いが附き<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>います。大事な荷物を奪い返してくれた上、江戸までの路用を持つと言う、法外な好意を寄せてくれる女、――別に疑いも<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うもするわけではないのですが、何んとしても、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かで一度ならず見たことがあるような気がしてならないのです。あの凄まじい赤痣に記憶はなくとも、透き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>る美しい声や、深沈たる黒い瞳は忘れようの無い魅力的なものでした。

「お待たせいたしました」

お静は湯から上って、一陣の薫風と一緒に入って来ました。

「あッ」

井上半十郎、思わず声を立てます。

薄化粧の顔に、赤痣は火の如く燃えて、半面の醜くさが強調された代りに、左半面の美しさは比類もありませんが、半十郎の驚いたのはそれではなく、この女の顔が、風呂で洗い浄めて、情熱に<ruby><rb>燻蒸</rb><rt>くんじょう</rt></ruby>すると、曾て半十郎の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>だった繁代――あの稲富喜太夫の娘で喜三郎の妹だった繁代に、何んとなく似通ったところのあるのに気が付いたのです。

武家と武家との縁組は、恐ろしく儀式張ったもので、井上半十郎と繁代は、<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>とは言っても、ほんの二三度行きずりに顔を見ただけ、若い者同士らしく、お互に思いは焦したでしょうが、見合いをしたこともなければ、口をきいたことも無い仲だったのです。

が、似ているというのは、恐らく他人の空似でしょう、繁代の前歯が二本までも欠けている<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はなく、第一、こんな醜い赤痣が、五年や六年の間に、繁代の玉を伸べたような額や頬を冒す筈もありません。

「お静殿」

「ハイ」

「もしや、繁代殿とは言われなかったかな」

「まア、井上様、それは、どなたの御名前でございます」

「いや何んでない」

井上半十郎は盃を置いて、ツイ腕を組んでしまいました。

「繁代――可愛らしいお名前ではございませんか、私が、その繁代だったら、どんなに嬉しゅうございましょう」

静かに<ruby><rb>行脚</rb><rt>いざ</rt></ruby>り寄って来た女、井上半十郎に寄りそうように、銚子を取り上げました。

「まだ、お酒がございます、お過しなさいまし、井上様」

美しい方の頬を見せて、一方の空いた手は、そっと、半十郎の膝の上へ――湯上の温もりが、着物の上から、熱鉄のように男の肌に通ります。

「違う、違う」

半十郎は頭を振って、盃を取上げました。喜三郎の妹、才色兼備と言われた繁代に、こんな媚態がある筈はありません。

## 女は秘巻を盗んで

<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝、<ruby><rb>駅路</rb><rt>うまやじ</rt></ruby>の物音に眼を覚した半十郎、フト床の側に<ruby><rb>引付</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>けて置いた筈の、振り分けの荷物を見て驚きました。

「あッ」

中結いの真田紐を解いて、二つとも滅茶滅茶に引っ掻き廻してあるのです。

飛付くように調べて見ると、命より大事な井上流砲術秘巻が、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ行ったか影も形もありません。

「無い」

あまりの事に、暫らくは茫然として<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を眺めるばかり、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く気が付いて、滅茶滅茶に手を叩くと、番頭と下女と、泡を喰って飛んで来ました。

「どうなさいました、旦那様」

「泥棒が入った、この通り、荷物を掻き廻して、命にも代え難いものを盗って行った、早く、宿役人に訴えて、取り戻してくれ」

井上半十郎は立ったり坐ったり、廊下を覗いたり、欄干から外を見たりして居ります。

「そんな筈は御座いません、が、旦那様、帳場には一と晩私が頑張って居りましたし、戸締りには何んの変りもございません、一体盗られたと仰しゃるのは、何んでございます、小判で？　それとも小粒？」

命より大事と言うと、番頭は金を盗られたに決めて居る様子です。

「いや、そんなものではない、大事な書き物だ、巻物になった伝書だよ」

「それはお気の毒様でございます」

そう言い乍らも番頭は、金で無くてよかった――と言った安堵の色になります。

「<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れは<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うした、――隣の部屋に休んだお静殿は？」

<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>騒</rb><rt>さわぎ</rt></ruby>にも顔を出さぬ、お静のことをフト思い浮べたのでしょう。

「あの方なら――ツイ今しがたお発ちになりました」

「えッ」

「旦那様に<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しく<ruby><rb>申上</rb><rt>もうしあ</rt></ruby>げてくれ、先を急ぐから、――と仰しゃって、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も、<ruby><rb>御旅籠賃</rb><rt>おはたごちん</rt></ruby>はお二人分余分に頂戴いたしました、ヘエ、どうも<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがと</rt></ruby>う存じます」

「――――」

井上半十郎の胸の中には、恐ろしい<ruby><rb>疑</rb><rt>うたがい</rt></ruby>がムラムラと湧き起ります。

「それから、旦那様に――江戸へいらっしゃるのを断念して、江州へお帰り遊ばすよう――とも仰しゃいました」

「あの女だッ」

そう迄念入に言う以上は、井上流砲術秘巻を盗んだのは、あの女――お静に紛れもありません。

「あの方が<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うかなさいましたか」

「あの女が巻物を盗んで行ったに相違ない、さては――矢張り？」

お静とは仮の名、真は稲富喜三郎の妹、曾ては自分の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>であった、繁代の世を忍ぶ姿であったでしょう。兄喜三郎に頼まれて、井上流砲術の秘伝を盗む為に、二人の手先まで使って、あんな細工をしたに違いあるまい――己れ憎い女<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>ッ、――井上半十郎思わず拳を<ruby><rb>掴</rb><rt>にぎ</rt></ruby>って起ち上りました。

「そう仰しゃれば、おかしなことがございます、昨夜お休み前まで、顔半面あんなひどい赤痣でしたが、今朝お発ちになるところを見ると、痣どころか、<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>一つ無いじゃありませんか。――それはそれはお綺麗な方でございましたよ」

下女の話は奇っ怪です。

「それは本当か」と井上半十郎、

「多分絵の具で書いた痣でございましょう、あんまり変って居るので、ツイ申上げますと、――道中は物騒だから、姿を変えて歩いたけれど、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>からはもう家も近いから、そんな細工も要らない――と、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んなことを仰しゃいました。赤い絵の具を洗い落した後の美しかったこと、本当にお目にかけ度いようでございましたよ」

下女の説明を空耳に、井上半十郎は大急ぎで旅仕度を調えました。此上は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>までもあの女の後を追っ駈けて「井上流砲術秘巻」を奪い返さなければなりません。

「ところで女は<ruby><rb>何方</rb><rt>どっち</rt></ruby>へ行った」

朝の食事の代りに、握り飯を三つ四つ用意させ、鳥の立つように、門口へ――、半十郎は上り下りの街道を、途方にくれて眺めます。

「江戸の方へいらっしゃるかと思いましたら――左へ折れて、二俣街道へ入った様子でございます」幸い、好奇な下女が、旅の女の変った様子に、門口まで見送って、暫らく<ruby><rb>行手</rb><rt>ゆくて</rt></ruby>を見定めていたのでしょう。

「有難い、――その二俣までは何里だ」

「五六里もあるでしょうか」

「その先は？」

「<ruby><rb>秋葉</rb><rt>あきば</rt></ruby>様への近道になります、その先は信州の<ruby><rb>飯田</rb><rt>いいだ</rt></ruby>で」

井上半十郎はそれ以上は聴いて居りませんでした。一脈の不思議な糸に<ruby><rb>操</rb><rt>あや</rt></ruby>つられるように、朝の二俣道を、北へ北へひた向きに駆けるのです。

## 女を追う怪しの心

父井上外記が、江州鍛冶の名家に生れ、一代の研鑽を傾け尽して編んだ伝書に、父に劣らぬ天才半十郎が、五年間、心血を注ぎ尽して、工夫改良を書き込んだ「井上流砲術秘巻」は、命よりも大事なことに何んの不思議もありません。二た月後に迫った晴れの御前試合に、首尾よく五貫目玉五十丁撃に成功すれば、井上家は元の一千石に取立てられ、次第によっては、幕府の大筒を預って、御持筒頭の栄位を<ruby><rb>贏</rb><rt>か</rt></ruby>ち獲ないものとも限りません。横死した父の<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>を晴らし、一度取潰された井上家を起して、立身の<ruby><rb>階段</rb><rt>かけはし</rt></ruby>に足を踏み掛けようという、孝道第一の<ruby><rb>首途</rb><rt>かどで</rt></ruby>に、企みに企まれた罠に<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちて「秘巻」を敵の手に奪い取られたことは、井上半十郎泣いても泣き切れないほどの心持だったでしょう。

道芝の露を踏んで、心ばかりは先に立ちますが、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>まで行ってもお静らしい姿も繁代らしい姿も見えません。

「二十四五――武家風に見える旅の女は通らなかったであろうか」

半十郎は見行く度に、幾度も幾度も訊ねました。

「あ、あの綺麗な女でしょう、――それならほんの十丁ばかり先へ行きましたよ」

誰でもそう言ってくれますが、不思議なことに、どんなに足を速めても、<ruby><rb>追付</rb><rt>おいつ</rt></ruby>く様子は無かったのです。

日が高くなり、<ruby><rb>飢</rb><rt>うえ</rt></ruby>と疲れが少しずつ加わるにつれて、井上半十郎の焦燥は次第に濃くなりました。自分は間違いもなく「井上流砲術秘巻」を追って居るには相違ありませんが、心の中を占めているものは、あの、<ruby><rb>雁皮</rb><rt>がんぴ</rt></ruby>に書いて鳥の子で裏打ちし、金襴で装幀した砲術の巻物ではなくて、半面の赤痣を洗い落したお静――いや五年前、<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>という空しい名を解消する折もなく別れた繁代の、世にも気高く美しい姿だったのです。

あの繁代――少し<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>で打ち解け難く見えた五年前の繁代が、あんなに物柔かに、世慣れて、<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしく、<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>っぽくさえなったことは、何んと言う<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい、が、頼もしい変化だったでしょう。

敵同士は敵同士、<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>は許婚、別れるものなら別れるように、もう一度本名の繁代を名乗らせて逢って見度い、――昨夜の親しい取なしは、伝書を奪い取り度さの<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>であったにしても、膝に置いた温かい手の感触には、<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>心の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おののき</span>を感じたことを、井上半十郎は忘れ兼ねたのです。

あの眼の深い悩み、――声の柔かい魅惑、何も<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>もが、一つの妖かしとなって、半十郎の魂を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り寄せるのでしょう。赤痣を拭き取った繁代の素顔が、今ではもう、「井上流砲術秘巻」より十倍も大きな魅力となって、グイグイと引寄せます。

二俣へ着いたのは丁度昼頃、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>から天龍川を<ruby><rb>遡上</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>ったものか、右へ秋葉山の近道を辿ったものか、それとも左へ<ruby><rb>気賀</rb><rt>きが</rt></ruby>へ出たものか、暫らく考えて居ると、男の子が二三人、<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ路のほとりで、<ruby><rb>飯事</rb><rt>ままごと</rt></ruby>をして遊んでいるのがありました。

「二十四五の旅の女の人が通った筈だが――<ruby><rb>何方</rb><rt>どっち</rt></ruby>へ行ったか、教えてくれ」

井上半十郎は静かに声を掛けると、

「天龍を<ruby><rb>遡上</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>ったよ」

<ruby><rb>洟垂</rb><rt>はなた</rt></ruby>れの男の子が答えます。

<ruby><rb>遡上</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>る――そんな<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>づかしい言葉を、男の子が使うでしょうか。

「嘘だろう」

井上半十郎思わず<ruby><rb>威猛高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>になります。

「嘘じゃないよ、――そう言って教えたんだもの――」

そう言う男の子の<ruby><rb>掌</rb><rt>たなそこ</rt></ruby>を見ると、キラリと小粒が一つ、お静の繁代は、半十郎に追われると知って、里の子に違った道を教えさしたのでしょう。

「よしよし」

井上半十郎は、強いてもとがめず、其<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby><ruby><rb>光明村</rb><rt>こうみょうむら</rt></ruby>の方へ、秋葉山の近道を取って進みました。

この辺から、半十郎の胸は予感に波打ちます。心なしか、行手の藪蔭、木立の隙間、百姓家の角などに、時々チラと若い女の後ろ姿を見掛けるような気がしたのでした。

「あッ、繁代殿」

<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に追い付きました。光明山の麓道、滅多に人の通りそうもないところで、ツイ五六間先を、お静の繁代が歩いているのを見付けたのです。

「あッ」

驚く繁代、振り返った顔は、痣の痕もなく、玲瓏として輝くばかり、

「待った、言うことがある」

飛び付いた半十郎の手が、危うく女の帯に掛ろうとするところを、

「何をしやがるッ、<ruby><rb>巫山戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>た野郎だッ」

横合から飛込み様、二人の間を<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>てたのは、江戸者らしい旅人が三人、半十郎の弁解に耳も<ruby><rb>仮</rb><rt>か</rt></ruby>さず、道中差を引っこ抜いて斬ってかかったのです。

「あッ、理不尽、その女にはわけがある、邪魔立てすな」

辛くもかわして、繁代を追いますが、後から迫る道中差が三本、<ruby><rb>執念</rb><rt>しつこ</rt></ruby>く絡んで女を追わせません。

「何を言やがる、旅の女にふざけた事なんかしやがって」

三人共思いの外の腕利き、井上半十郎<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>もすればあしらい兼ねます。

そのうちに女は姿を隠した様子。

漸く邪魔者を追い払った時は、その辺にはもう影も形もありません。

## 秋葉の奥の罠

三尺坊から秋葉山までは、たしかに女を追いましたが、それから裏山の道は、日が暮れて、すっかり判らなくなってしまいました。

朝から何里歩き続けたことでしょう、その上山道へ迷い込んで、二た刻あまり、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>を<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>う通ったか、見当も方角も解らなくなった井上半十郎、思わず道路の岩角に腰をおろして、油のような濃い闇の中にホッと溜息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>きました。

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>チラと<ruby><rb>振返</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った繁代の顔には、昨夜とは又違った、深刻な悩みのあったのを、半十郎は見のがさなかったのです。

「砲術秘巻」もさること乍ら、もう一度繁代に逢って、その本心を聴かないうちは、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へも持って行きようのない、突き詰めた心持に、半十郎はなり切っていたのです。

満天の星は次第に鮮やかになって、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>の<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>から、泉の湧くような虫の声、初秋の淋しさは、骨の髄まで沁み入ります。

「おや？」

遥かの峰の上に、灯の<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>くのが見えたのでした。

井上半十郎は漸く救われた心持になりました。心も<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>も綿の如く疲れ果てているのに、気が付いて見ると、昼頃から一食も<ruby><rb>摂</rb><rt>と</rt></ruby>らずに、繁代の幻に引かれて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さ</span>迷い歩いていたのです。

藪を潜り、木立を分け、岩角を踏み砕き、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から灯までは、ほんの十町ばかり、半十郎は半分は這うようにして進みました。<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとえ</rt></ruby>山賊の棲家であろうとも、<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られる物のない心易さ、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで行けば、一飯一食の<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>位にはあり付けそうに考えたのでした。

灯はもう、十間ばかり先になりました。思わず駈け出した足が、サッとさらわれました。

「あッ」

こんな山の中に、縄を張って、罠を仕掛けてあったのです。

「捕えたぞ」

バラバラッと飛んで来たのは、荒くれた山男――と思いきや、都振りの武士が三四人、どこやら<ruby><rb>撲</rb><rt>う</rt></ruby>って起きも上らずに這い廻る井上半十郎を、キリキリと縛り上げてしまいます。

「何をするッ、拙者は江州の井上半十郎、手籠にされる<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>は無い」

半十郎悲憤の声を絞りましたが、追い付きません。

「黙れッ、その井上半十郎と知って縛ったのだ、煮て喰うとは言わぬッ」

ピシリ縄尻で叩いて、<ruby><rb>雁字</rb><rt>がんじ</rt></ruby>がらめの半十郎を、灯の側まで引っ立てます。その灯の漏れたのは、秋葉山の奥の奥、<ruby><rb>門桁山</rb><rt>かどけたやま</rt></ruby>寄りの密林に囲まれた山の上で、人間などの滅多に近寄らぬ神秘境に、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>細工で建てた荒木の小屋でした。

「御主人、獲物は罠に落ちましたぞ」

外から声を掛けるのは、半十郎を引立てた三四人の武士、

「それは辱けない」

中から一刀を提げて全身を現わしたのは、思いの外の若い男、灯に背いた小袖の折目も正しく、<ruby><rb>山家住居</rb><rt>やまがすまい</rt></ruby>の者とは見えぬ物腰です。

「それでは、これにて御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>る、――今夜のうちに駿府に向い、一日も早く江戸へ馳せ帰って、この旨を<ruby><rb>牛込</rb><rt>うしごめ</rt></ruby>の先生へ申上げるとしよう」

「<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るべく御披露を願い度い、五貫目玉、五十丁撃の大筒は間違いもなく作り上げ、<ruby><rb>駿府</rb><rt>すんぷ</rt></ruby>へ二門、江戸へ五門、京都へ二門、船積にて送り届けることと致そう」

「日限は」

「多分九月の初め――八月中には一門だけ見本を造り、この山上にて試し撃をいたすとしよう、その間に地金の用意、万端お頼み申すぞ」

「心得申した」

「さらば」

三四人の武士は、縄付の半十郎を濡れ縁に差し置いたまま、謎のような問答を交して<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>ともなく立ち去ってしまいました。

## 貴公の大筒俺の焔硝

「井上半十郎、久し振りだなア」

残る<ruby><rb>庵</rb><rt>いおり</rt></ruby>の主人は、雨戸を一枚押し開けて、灯の中へ顔を持って行ったのです。先程から半十郎の胸に渦巻いていた疑念は、主人の顔を一と眼見ると、一ぺんに解けてしまいました。

「や、<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>は矢張り」

「<ruby><rb>応</rb><rt>おう</rt></ruby>ッ、稲富喜三郎だよ」

二人は灯を挟んで、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と顔を見合せたのです。主人の喜三郎は三十前後、半十郎の華奢な色白な知識的なのとは反対に、少し力んだ顔、鋭い眼、浅黒い顔の色、顴骨稜々とした偉丈夫で、野心の為には、どんな事でもやり遂げ兼ねない、風格の持主です。

「井上半十郎と知って、手籠にしたか、稲富」

「いかにも」

「卑怯だろう」

半十郎はハタと睨みました。疲れ切った<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を縛り上げられて、五体の節々はメリメリするほど痛みますが、それより曾ての朋友喜三郎が、こんな卑怯な方法で自分を手籠にした激怒が胸にこみ上げます。

「卑怯かも知れぬ――が、お互に<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をし度くない方便だ、まア許せ半十郎」

喜三郎の面は夜の水のように無表情です。

「これが、五年目で逢った旧友のすることか、稲富、恥を知らぬか」

「旧友？　――<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>そんな事もあったな、井上、だが、今では父親同士が殺し合った、不倶戴天の敵ではないか、俺と貴公の間にはもう、友情など言うものは無い筈だ」

「友情は無くとも恥はあるだろう、――其方も武士なら、妹を使って、『井上流砲術秘巻』を奪わせて、平気で居られるか」

「――――」

「二た月後に迫る、砲術の御前試合に勝ち度さに、妹に<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をさせ、相手の『秘巻』を奪い取って済むと思うか、恥を知れッ、犬<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>ッ」

井上半十郎は縛られたまま、縁の上ににじり上って、涙を含んだ悲憤の<ruby><rb>睚</rb><rt>まなじり</rt></ruby>を裂きました。

「貴公には、俺の本意が解らぬよ、井上」

「卑怯者の本意など、解ってたまるものか、其方はそれで本望だろうが、兄の卑怯な<ruby><rb>望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>の為に、道具に使われた繁代殿、恥を恥とも思わぬ<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>枕捜しの真似をさせられて、女心がそれで済むか」

「――――」

稲富喜三郎は黙って井上半十郎の爆発する激怒を見やりました。これほど迄に<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>られ、<ruby><rb>恥</rb><rt>はずか</rt></ruby>しめられ乍らも、高々と腕を組んだ喜三郎の逞ましい顔には、何の悔も無いのが不思議です。

隣の室からは、女の啜り泣く声が聞えます、曾ての<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>半十郎に、<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>枕捜しとまで罵られて、繁代は身も世もあらぬ思いだったでしょう。<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び入る泣き声は、激情に引千切られて、絶えも入るように、切々に聞えるのでした。

「井上、――貴公の言うのは、一応尤もだが、この稲富喜三郎、それ程卑怯者でないことは、長年の<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>で、大方は知って居る筈ではないか」

喜三郎は静かに口を切りました。

「これが卑怯でないと言うのか」

自分の縛め、浅ましくも雁字がらめに締め上げられた姿を眺めて半十郎は肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>やかします。

「まア、聴け、井上、親同士の争、――それもこの稲富喜三郎は、ありようは心に掛けて居るのでない」

「何？」

「第一、この九月十三日の砲術試合に、俺は出る気は毛頭ないのだ」

「――――」

「俺の望みは外にある、それも追って言おう、が、井上、貴公は江州鍛冶の名家に生れ、鉄砲鍛冶の父祖の衣鉢を継いで、五貫目玉、五十丁撃の大筒を作り上げた筈だ」

「――――」

「俺は忍びの者を江州に入れて、何も彼も探っている。大筒の尾栓の<ruby><rb>雌栓</rb><rt>めねじ</rt></ruby><ruby><rb>雄栓</rb><rt>おねじ</rt></ruby>の切りよう、あれは見事だな井上――」

あまりの事に、井上半十郎暫らくは言葉もありません。

「が――、貴公は大筒は見事に造り上げたが、五貫目玉を五十丁の遠方まで撃ち込む、強力な焔硝を作る自信はあるまい」

「――――」

「俺は、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り乍ら稲富一夢斎の裔だ、五十丁撃の強薬は充分に出来たが悲しいことに、大筒の尾栓が切れぬ、俺の作った強薬を用いると、稲富流の大筒は、尾栓が<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>葉</rb><rt>ぱ</rt></ruby><ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>だ」

井上半十郎も、この間の微妙な関係はよく知って居ります。が、それを言い出した稲富喜三郎は、一体何を<ruby><rb>目論</rb><rt>もくろん</rt></ruby>でいることでしょう。

「貴公の井上流の大筒に、俺の稲富流の強薬を用いさえすれば、五貫目玉五十丁撃は楽々と出来る筈だ」

「――――」

「繁代に貴公の『秘巻』を奪い取らせたのは、貴公の大筒に、俺の強薬を試み度い為だ、――貴公を<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へおびき寄せて、卑怯なようだが罠で生け捕ったのは、井上流大筒の試し撃が済むまで、貴公の智恵を借り度い為だ、書いたものだけでは、心もとないではないか。<ruby><rb>喃</rb><rt>のう</rt></ruby>、井上」

何んと言うこと、その真意は知りませんが、言い放って稲富喜三郎は、カラカラと笑い飛ばすのです。

「――――」

井上半十郎は無念の唇を噛むばかり、隣室の泣き声は次第に弱って、虫の声がそれを押し包んで行くのでした。

## 大筒は出来た

それから一と月余り、山の中には世にも不思議な日が続きました。

井上半十郎は物置のような一と間に入れられ、時々引出されて、大筒の尾栓鋳造に手伝わされますが、多くは三人の獰猛な男に監視されて、逃げ出すことなどは思いも寄りません。

繁代は赤い書き痣を洗い落して、世にも美しい昔の姿に還りましたが、半十郎を<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>いた一夜の罪に恥じ恐れたものか、それからは滅多に姿も見せず、たまたま不用意に顔を合せても、ヒラリと隠れて半十郎の悩みを増すばかりです。

が、恋する者の敏感さで、半十郎は繁代の顔や全身から、深酷無残な苦悩を察しないではありません。近づく折があったら、たった一言「許す」と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささ</rt></ruby>やき度い衝動に駆られ乍らも、半十郎の常識と体面が必死とその奔出する熱情を押えるのでした。

炭焼竃と見せて、<ruby><rb>渓間</rb><rt>たにま</rt></ruby>に築いた炉は、一ヶ月足らずの苦心で成就し、何者とも知れぬ武士や人足の運び込んだ地金の銅と鉄は、毎日毎日熔かされ、<ruby><rb>鋳</rb><rt>い</rt></ruby>られ、鍛えられて、次第に井上流五貫目筒が出来上って行きます。

この工程を見ているのは、井上半十郎に取っても、決して不愉快なものではありませんでした。強薬に自信の無いことが<ruby><rb>判然</rb><rt>はっきり</rt></ruby>わかると、九月十三日の御前試合などは忘れてしまって、井上流の大筒完成に向って、ただ精進を重ねる名匠<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の半十郎になり切っていたのでした。

「出来たッ」

井上半十郎が歓喜の声をあげたのは、八月の中旬、青銅五貫目玉撃ちの大筒が、物の見事に樫の砲架の上に乗ったのです。

「有難い、これでよし、――ところで、井上、最早、尾栓が打ち砕けるようなことはあるまいな」

稲富喜三郎は改めて訊ねます。

「断じて、その心配は無い、井上流の秘術を尽した大筒だ、これで五貫目玉が撃てなかったら俺は死んでも構わぬ」

「それを聴いて安心した。――が、少しばかり仔細がある。試し撃のすむまで、貴公は縛られていて貰い度い」

稲富喜三郎変なことを言い出しました。

「何を言う、稲富」

井上半十郎が反抗する隙もありません、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に手伝っていた二人の荒くれ男、稲富喜三郎と力を<ruby><rb>協</rb><rt>あわ</rt></ruby>せて、あッと言う間に半十郎を縛り上げてしまいました。腕は多少あっても、非力で華奢な半十郎、三人の大男に捕まっては、何んの抵抗も出来ません。

「それでよし、お前達二人は、的の方へ行って見ているが宜い、あと丁度一刻（二時間）経てば撃つ、あまり的の側に寄って怪我をするな」

「心得ました」

二人の助手――武士とも<ruby><rb>山樵</rb><rt>やまがつ</rt></ruby>ともつかぬ荒くれ男は、一礼して向う長根の的の方へ行ってしまいます。谷を隔てて五十丁と言いますが、歩いては二里にも余るでしょう。暫らく、二人は黙って相対しました。砲架の上に載せた、巨大な大筒を中に、縛られた井上半十郎と、試し撃の成績ばかりに気を揉む稲富喜三郎と、別々な心持で、初秋の山一つ<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に、白々と見える的のあたりを眺めて居たのです。

すぐ後ろの小屋の蔭からは、時々白い顔が覗きました。この一と月、あまり半十郎の前に姿を見せなかった繁代が、このキナ臭いほど緊張した、クライマックスの空気に誘われて、それとなく、二人の様子を見ているのでしょう。

「井上」

「――――」

喜三郎は改まった物の言いようです。

「試し撃の前に言うことがある、命を賭けての話だ、聴いてくれるか」

「――――」

## 謀反の下心

「他ではない、――今から五年前、お互の父親同士が、砲術のことから、争いが<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じて、其場で斬り死にした。武士として心得違いではあったに相違ないが、<ruby><rb>原</rb><rt>もと</rt></ruby>をただせば、大筒役としての役目の大事を考えお互の工夫を土台の言い争いで、深くとがむべき筋合のものではない」

喜三郎は変な事を言い出しました。

「――――」

「然るに、公儀の御<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とがめ</span>は峻烈を極め、井上稲富両家は断絶、士籍を削って追放――我等はその家を興し度さに、こんな山の中にまで入って、人外の暮しをする有様――」

喜三郎の声には涙があります。

「――――」

「非道ではないか井上」

「――――」

「豊家を亡ぼし、無辜の民を殺し、<ruby><rb>加藤</rb><rt>かとう</rt></ruby>、<ruby><rb>福島</rb><rt>ふくしま</rt></ruby>、その他の大小名を取潰した、<ruby><rb>徳川</rb><rt>とくがわ</rt></ruby>家の横暴無道、眼に余ることばかり」

「――――」

「俺はつくづく徳川家の粟を<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>む気は無くなった。砲術で帰参などは<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>ての外、――それどころか、一と思いにこの大筒で、徳川幕府を撃ち砕く気になったよ」

「稲富」

あまりの事に、井上半十郎言葉も続きません。

「盟主は牛込に道場を構え、大名高家も及ばぬ勢威を張り、数千の門下を養う<ruby><rb>由比正雪</rb><rt>ゆいしょうせつ</rt></ruby>殿」

「えッ、それは本当か」

「盟友、同志、雲の如く、その上、これは極内だが、御三家の俊傑、紀州<ruby><rb>頼宣</rb><rt>よりのぶ</rt></ruby>様、<ruby><rb>秘</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに御加担、近々事を挙げる運びになっている」

「――――」

井上半十郎思わず<ruby><rb>起上</rb><rt>たちあが</rt></ruby>りましたが、雁字がらめに縛り上げられた上、自分の造った砲架にくくられては、この謀反人を眼前に見乍ら、どうすることも出来ません。

「井上流の大筒と、稲富流の焔硝は、その為に役に立ったのだ。この二つの秘伝を併せ、七門の大筒を鋳て、京、駿府、江戸の三ヶ所に事を起せば、不平の大名は風を臨んで来り加わるは定、徳川を打ち亡ぼし、我等が由比殿を押し頂いて、天下に号令する日も遠くはあるまい、井上、――解ったか」

「己れッ、謀反人」

半十郎は必死と身を揉みますが、いましめの縄は益々固くなるばかり。

「騒ぐな、貴公の大筒も役に立つ時が来たのだ、この大筒で五貫目玉が撃てると解れば、気の毒だが、貴公の命に用事は無い、――この稲富喜三郎の天下を取った姿を見せないのは心残りだが、どうせ両立し難い俺と貴公だ、後腐れのないように、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>で命を絶ってやる」

「己れッ」

「が、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>は殺さぬ、貴公の発明した大筒その尾栓が命にかけて確かかどうか、試して見るのが今より外には無い、丁度幸い、貴公をその大筒の尾栓にくくり付け、稲富流自慢の強薬で、五貫目玉を撃出して見る、尾栓が破れて、貴公の身体が微塵になれば、自業自得、大筒の悪いせいで、誰を怨みようもあるまい、若しまた、尾栓が無事で、貴公の命が助かったら、――その時はまた其時の考えようがある」

稲富喜三郎はズイと寄ると、縄付のままの井上半十郎を引っ立て、争い続くる半十郎をヘシ曲げるように、五貫目玉と強薬を装填して、口火を点ずるばかりに用意した大筒の尾栓に括り上げました。

「卑怯者ッ」

井上半十郎は血走る眼にハタと睨みましたが、今更争う愚かさを考えたか、思い直して眼を閉じました。尾栓は万に一つも破裂の心配はありません、その点は自信に充ち満ちた半十郎ですが、五貫目玉を発射した後で、いずれは生け置かれる自分ではないでしょう。

野心家で、その上卑怯者の稲富喜三郎が、謀反の陰謀を語り聞かせた上、自分の命を助けようとは、想像も出来ないことだったのです。

「よいか井上、観念せい」

火縄の匂いがプーンと鼻を打ちます。眼を開くと、近々と寄った喜三郎の片頬、嘲り笑いが渦を巻いて、眼には残忍な光が、地獄の焔を切り取って来たように、キラリと<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めきます。

## 撃ち貫く的の黒星

「兄上」

たまりかねた繁代、恥も外聞も忘れて飛出しました。<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付いた兄の手、危うく口火から、火縄を遠ざけるのが精一杯、

「邪魔だッ、――半十郎はお前にも敵の片割れ、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>で見物せい」

ハタと<ruby><rb>突飛</rb><rt>つきとば</rt></ruby>しましたが、必死の力は思いの外強く、繁代は兄の腕を離れなかったのです。

「兄上、それはあんまり、――親同士の怨を忘れ、井上流の大筒と、稲富流の焔硝を併せて、天下の為五貫目玉五十丁撃の大業成就の為、井上様の伝書を奪い取れ、――井上様の火薬は五十丁撃の力は無いが、正面からかけ合っては、稲富流と力を協せるとは言うまい――と仰しゃった兄上のお言葉を誠と思い、恥を忍んで、井上様から伝書を盗み取りました」

繁代の顔――汗と涙に燻蒸して秋の陽に咲いたよう。

「えッ、黙らぬか」

「いえ、それはあんまりでございます、――伝書を奪い取れば、井上様は<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで<ruby><rb>縋</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来るに相違ない、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>を誘い入れて、両家の怨を解き、力を協せて五十丁撃の大筒を作り、公儀に<ruby><rb>願出</rb><rt>ねがいで</rt></ruby>て、井上稲富両家とも立つように――兄上は仰しゃいました。私はそれを本当と思い込み、前歯を二枚欠いた上、顔に痣まで描いて、あんな恥かしいことを致しました、それが井上様の御幸福になることとばかり思い込んで――」

繁代の言葉は涙に濡れて暫らく絶えます。

「えッ、止さぬか、女の愚痴だ、俺はもっともっと大きな事を考えて居たのだ」

「それが大それた謀反の<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>とは、どうして気が付きましょう。先頃から出入の人達、――私が井上様から秘巻を奪った<ruby><rb>後前</rb><rt>あとさき</rt></ruby>の手伝い、――腑に落ちないことばかりと思って居りました」

繁代はかき口説き乍ら、一生懸命、兄の手の火縄をむしり取ろうとするのです。

「えッ、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>けッ、馬鹿<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>ッ、――もう約束の一刻だ」

「兄上、――せめてその謀反だけは思い止って下さいまし、三代に<ruby><rb>亘</rb><rt>わた</rt></ruby>る徳川様の御恩、それも忘れて由比とやらに加担したら、父上様あの世でどんなに御歎き遊ばすことでございましょう」

「――――」

「それから、井上様もお気の毒でございます。怨は親同士で果し果された筈、お願いでございます、井上様をお助け下さいまし、兄上、――兄上様、昔のお優しかった心持に返って、この私の為に、井上様をお助け下さいまし、お願い」

兄の首に、胸に、腕に、涙と共に絡み付く繁代は必死の思いでした、が、野心と怨に燃え立つ、兄の喜三郎を止めようはありません。

「えッ、邪魔だッ」

ドンと一つ突飛ばして、大輪の牡丹の如く<ruby><rb>崩折</rb><rt>くずお</rt></ruby>るる妹を尻目に、火縄はサッと動いて、大筒の口火に点じました。

――ダ――ン――

山の大気を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>がす轟音、煙の末を遥かに見やると、間もなく谷を隔てた向う峰の的のあたり、秋草の上にヒラヒラとなびくのは、首尾よく的の黒星を撃ち貫いた合図の赤い旗です。

「おッ、当った、五貫目玉は、首尾よく五十丁先の的を撃ち貫いたぞッ」

踊り上って喜ぶ喜三郎、繁代はそれに目もくれず、

「井上様、ご無事で――」

大筒に這い寄って、尾栓に括られたまま、何んの怪我も無かった井上半十郎に縋り付きます。

「有難い、大筒は無事だ」

自分の身体の危なかったことよりも、井上流大筒の無事を喜ぶ半十郎の顔には、縛られ乍らも歓喜の色が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>るのでした。

「繁代、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>けッ、大筒が無事と解れば、井上半十郎にもう用事は無い」

稲富喜三郎左に妹を押し退けて、右手に一刀ギラリと秋の陽を受けます。

「あッ、兄上、それはあんまり」

「この口は<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がなければならぬ、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>かぬかッ」

観念の眼を閉じた井上半十郎の首筋へ、喜三郎の兇刃は、幾度も幾度も臨むのです。

「兄上ッ」

争い続ける繁代の力が、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>まで続くことでしょう。次第に押しのめされて、今は根も力も尽き果てた繁代、フト見ると、

「あッ」

兄喜三郎の刃はもう、大筒の尾栓に縛られたままの井上半十郎の喉へ、――

繁代は物を考える隙もありませんでした。もがく手に触ったのは、兄が今しがた捨てたばかりの火縄、輪になって、ポッポと<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>るのを、見当も定めずサッと<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>りました。

何も彼も、天の摂理と見るべきでしょう。この投げた火縄が、局面をすっかり変えてしまったのです。

## 新妻の名はお静

――ガン――

と天地も崩るる音、<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>は目の前にカッと大気を<ruby><rb>劈</rb><rt>つん</rt></ruby>ざいて、巨大な綿を束ねたような白い煙が大地から湧き上ると同時に、石も、木も、人も、土くれも、一ぺんに八方へ飛び散ります。

繁代の<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>った火縄が、たまたま稲富流の強烈な焔硝を充たした焔硝箱の中に落ちたのでした。

繁代が人心地付いたのは、それからほんの暫らく経ってから、見ると、小屋も大筒も<ruby><rb>吹飛</rb><rt>ふきとば</rt></ruby>されて、山の形が変ったかと思うほどの有様、後は<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って静寂になって、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>には虫の声も<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って居ります。

「あッ」

見ると、兄の喜三郎は、吹き飛された大きな石に打たれ、一と握りの肉塊となってこと切れている有様、繁代は暫らく呆然として居りましたが、気が付いて、大筒と一緒に、砲架から転げ落ちて、草叢の中に横たわっている井上半十郎を起して見ました。縛られ乍らも、大筒の蔭になっていた為に、気を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>っては居りますが、これは<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>が無事です。

大急ぎで<ruby><rb>掬</rb><rt>く</rt></ruby>んで来た水、ほんの少しばかり含ませて、

「井上様」

呼びかけると、漸く眼を開きます。

「お、繁代殿」

<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら解かれた縄、半十郎は夢心地で<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻しました。

「兄は、石に打たれて死にました。井上様」

「えッ」

振り返って見ると、一塊の血泥になった稲富喜三郎の死骸、井上半十郎は思わず息を呑みました。

「お許し下さいまし、あれは、私の本意ではございませんでした――それからもう一つのお願いは、兄の謀反の企てを、このままお忘れ下さいますように」

「――――」

「井上様さらばでございます、私は、今でも――」

ハッと思う間に、落ち散る兄の刀を拾い上げた繁代、いきなり自分の喉笛へ、それを持って行ったのです。

「あッ、待った繁代殿」

「――――」

「死んではならぬ。――<ruby><rb>皆</rb><rt>み</rt></ruby>んな過ぎ去ったことだ、――怨も、恥も、謀反も、何も、彼も――」

半十郎は疲れ果てた<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を起して、繁代の手から、刀を奪い取るのが精一杯でした。

半刻の後、二人は追われるように山を降りました。的へ行った、兄の仲間が帰って来る前に、兎にも<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>にも姿を隠さなければならなかったのです。

井上流と稲富流の伝書を持った半十郎と繁代が、江戸へ入ったのはそれから十日ばかり後のこと。御前試合が首尾よく済んで、井上半十郎が召し出され、稲富流を併せて砲術家として栄えたのは、又後のことです。

由比正雪の陰謀が発覚して、一味は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く捕えられた頃、井上半十郎は新妻を迎えました。その身元は誰も知りません。前歯が二本欠けた、世にも美しい女、――お静というのはその名です。