## お<ruby><rb>部屋様</rb><rt>へやさま</rt></ruby>くずれ

## 一

今夜も又、この顔合せでは、例によって、夜明かしとなること間違い無しである。

<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けても、火鉢に炭をつぐ世話もいらない程の陽気だし、<ruby><rb>桜花</rb><rt>はな</rt></ruby>も今夜あたりでおしまいだろう、<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>の外には、まだ戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てない頃から、春雨の音がしとしとと降りつづいていた。

パチ……　パチリ

<ruby><rb>榧</rb><rt>かや</rt></ruby>の<ruby><rb>柾目</rb><rt>まさめ</rt></ruby>の<ruby><rb>盤</rb><rt>ばん</rt></ruby>が三面、行儀よく<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んでいた。床の間へ寄った一面は空いていて、紫ちりめんの座ぶとんだけがある。<ruby><rb>那智石</rb><rt>なちいし</rt></ruby>の白へ手を突っ込んで、

『さアて。……』

弱った顔つきを、近視のように盤へ近づけてうなっているのは、ついこの近所の山岡屋という、質屋の番頭。

質屋というと、<ruby><rb>堅気</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の中でもかちかちの<ruby><rb>吝嗇屋</rb><rt>しまりや</rt></ruby>らしく聞えるが、<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら商売になってゆくのは、<ruby><rb>盗品買</rb><rt>けいずかい</rt></ruby>だといううわさのある質屋なのである。で、そこの番頭という<ruby><rb>才助</rb><rt>さいすけ</rt></ruby>の眼もどこか鋭かった。けれど、男ぶりはちょっと好くて、年頃も、ここへ集まる中では一番若い二十四か五ぐらい。

パチ？

『なる程。<ruby><rb>妙手</rb><rt>みょうしゅ</rt></ruby>もあるものだの』

相手は医者の<ruby><rb>玄庵</rb><rt>げんあん</rt></ruby>だった。

<ruby><rb>外科</rb><rt>げか</rt></ruby>では上手と云われているが、脂ぎった五十男で、<ruby><rb>仁術</rb><rt>じんじゅつ</rt></ruby>という職業には余りに体力的な人物だった。道楽が多いらしいのである。いつも高利を借りて苦しんでいる。第一病家を廻っている時間よりも、この碁会所にいるほうが<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに多いという医者様だった。

## 二

『済まないが、今度はもらったぜ』

一局、勝敗がついたとみえ、盤の下にかくしてある<ruby><rb>賭金</rb><rt>かけがね</rt></ruby>を、<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>うように<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へしまいこんで、

『――<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うだな、<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>っ<ruby><rb>方</rb><rt>ち</rt></ruby>の風雲は』

云いながら、隣りの対局へ、横から顔をつき出したのは、<ruby><rb>横鬂</rb><rt>よこびん</rt></ruby>に黒い<ruby><rb>刀傷</rb><rt>かたなきず</rt></ruby>のある<ruby><rb>村安</rb><rt>むらやす</rt></ruby><ruby><rb>伝</rb><rt>でん</rt></ruby>九<ruby><rb>郎</rb><rt>ろう</rt></ruby>である。

これは御家人と自称している男で、三十がらみの苦みばしった骨柄であった。背が高く、手脚が長くそして、痩せているので、岡場所などを通ると<ruby><rb>売女</rb><rt>おんな</rt></ruby>たちが、

（<ruby><rb>蟷螂</rb><rt>かまきり</rt></ruby>さん――）

と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>して呼ぶ。

その蟷螂さんと対局して、今、賭けておいた幾らかの金を取られ、<ruby><rb>悄</rb><rt>しょん</rt></ruby>ぼりと、もう石を<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>した盤を、いつ迄、未練げに眺めていたのは、浮世絵師の<ruby><rb>喜多川春作</rb><rt>きたがわしゅんさく</rt></ruby>だった。

気が弱くて、闘志がなく、おまけに碁はカラ下手と来ている春作は、よせばいいのに、毎晩ここへ来なければ寝られないと云っている、来れば又、必ず<ruby><rb>鴨</rb><rt>かも</rt></ruby>なのだ。

（何の因果か）

と、自分でもこぼして居ながら、今夜もいつ迄、帰ろうとはしない。

もう更けているので、よく<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>るこの碁会所も、帰る者は帰ってしまったのであろう、座敷に居て、夜も知らないのは、こう四名だった。

後は――この碁会所の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>が一人。

今し方、夜食の<ruby><rb>鮓</rb><rt>すし</rt></ruby>が台所へ入ったから、茶を入れる支度をしているのであろう、茶の間のほうで瀬戸物の音がしている。

『かまきりさん』

そこから声がして、

『もう、お鮓を出してもよござんすか』

伝九郎は舌打ちして、

『よしてくれ、かまきりなんて呼ぶなあ。――悪党じゃあるめえし』

『ホホホホ。だって、呼ぶ人がきれいな女だと、振向くじゃないの』

『からかうのか、師匠』

『よそう、おまえさんが怒ると、ちょっと<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いからね。――お鮓は』

『まだ、山岡屋と玄庵の勝負が片づかねえから、もすこしの間、そっちへ置いといてくれ』

『だいぶ<ruby><rb>大戦</rb><rt>おおいくさ</rt></ruby>だとみえますね』

そう云いながら、碁会所の女<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は、茶の間から出て来た。<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>を切下げにしているけれど、年はまだやっと二十四、五にしか見えない。いつも<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>を着て崩したことがない。十六の頃からさる北国の大名のお部屋様として栄華をしつくして来たが、その大名の<ruby><rb>近習</rb><rt>きんじゅ</rt></ruby>の者と恋をして、やがて浮名が立つと、腹を切った男をすてて、自分ひとりで<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>から江戸まで逃げのびて来たという履歴を持っていた。

さすがに、琴、茶、花、何でも<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みがあって、絵もすこし描くし、わけて碁は生れつきの才分とみえ、大名の奥にいた頃、宗家から女で四段の許しをもらっていた。

（――お<ruby><rb>可久様</rb><rt>かくさま</rt></ruby>）

近所の者や御用聞きは、みな「様」をつけて呼んでいた。この<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>の裏町では、彼女の高貴めいた<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>だの<ruby><rb>端麗</rb><rt>たんれい</rt></ruby>な目鼻立ちが、<ruby><rb>掃溜</rb><rt>はきだめ</rt></ruby>の鶴と見えるらしく、妙な尊敬を持つのだった。

お可久様も又、それを当然として、<ruby><rb>内輪</rb><rt>うちわ</rt></ruby>でこそ砕けているが、往来へ出ると<ruby><rb>頭</rb><rt>ず</rt></ruby>が高かった。

（あの<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>は元、大名のお部屋様だったのだそうだ）

（道理で、品がある）

（町女には、ああいうのは居ない）

（すごいな）

頭の高いのがよく見えるのだから<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しい。彼女が、今の家に、<ruby><rb>囲碁指南</rb><rt>いごしなん</rt></ruby>のかんばんを<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>ると、かねがね、眼をつけていたのが早速に集まった。

ずいぶん<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>をやって暮しているが、それは<ruby><rb>蟻</rb><rt>あり</rt></ruby>のように皆、甘い男たちが運んで来るらしい。もっとも初めは指南だけであったが、いつの間にか、<ruby><rb>賭碁</rb><rt>かけご</rt></ruby>が<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>らになり、そのほうの<ruby><rb>収益</rb><rt>みいり</rt></ruby>も<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>くない。そしてお可久様を張りに来ている連中も、だんだん<ruby><rb>篩</rb><rt>ふるい</rt></ruby>にかけられて、粘り強い者だけが、今では、碁盤の外の勝敗に<ruby><rb>鎬</rb><rt>しのぎ</rt></ruby>を削っているのであった。

浮世絵師の喜多川春作。

山岡屋の番頭才助

御家人のかまきり。

それから外科医の玄庵。

――と、こう四人は、その中でも、毎晩のように詰かけて、碁には負けても、そのほうでは一歩も<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かない意気を示している<ruby><rb>徒輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>であった。

## <ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の世からの使

## 一

『<ruby><rb>両国鮓</rb><rt>りょうごくずし</rt></ruby>かい、<ruby><rb>白魚</rb><rt>しらお</rt></ruby>の鮓なざ、ちょっとおつだな』

『師匠、すまないが、茶をも一つ』

次の部屋へ<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>をうつして、<ruby><rb>茶卓</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>を囲みながら、四人は笑い興じた。

そうしている表面の様子は、囲碁仲間の<ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>じさの他、何も険悪らしいものは無さそうだが、よく見ると、お可久ひとりを<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>ってうごく四人の眸には、かなり複雑なものがある。

『<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しいのう、山岡屋さん、おぬしには今月に入ってからもう七、八両がとこ奪られているぜ。もう一局行こう』

医者の玄庵は、鮓を食べ終ると、早速に又、盤の前へ戻って先に坐りこんでいる。

山岡屋の才助は、落着き払って、

『およしなさいよ。今夜はもう』

『なぜ、なぜ』

『相手を換えて、春作さんと打ってごらんなさい。どうも、玄庵さんとやれば、金はただ貰うようなもんだが、<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>の手を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>るようで、<ruby><rb>張合</rb><rt>はりあい</rt></ruby>がない』

『ば、ばかにしなさんな。さア、もう一番』

玄庵が<ruby><rb>力</rb><rt>りき</rt></ruby>み返ると、みんな笑った。そして、かまきりの伝九郎が、

『じゃあ、おれが<ruby><rb>一手</rb><rt>ひとて</rt></ruby>、御指南しようか』

『ム、<ruby><rb>幾額</rb><rt>いくら</rt></ruby><ruby><rb>賭</rb><rt>い</rt></ruby>く？』

『これだけ』

二分銀を盤の下に置く。玄庵も金を出しかけた。

――すると、お可久が、

『おや？　……風かしら？』

春作は、気の小さな眼をして、

『風じゃアありませんよ。誰か、<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>で戸をたたいているのだ』

『誰だろう、今頃。――婆やは寝かせてしまったし……』

<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら、お可久は起って行った。もう玄庵と伝九郎はパチパチ石を打ちはじめている。

戸の<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>く音がした。その隙間から<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>っぽい風が奥まで流れこんで来る。お可久は、何か暫く戸口に立って、闇の中の人影と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いていたが、やがて座敷へ戻って来ると、

『山岡屋さん……』

と、眼で呼んだ。

『え？』

『お前さんに用事の人らしいよ、行ってごらん』

『へえ……はてね？　……』

お可久に<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、山岡屋が部屋を出て行くと、碁を打っていた玄庵も、かまきりも、ジロと其の方へ眼をやった。

山岡屋は、暗い格子戸の外を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして、

『――誰だい？』

と、云った。

<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の雨だれに打たれながら、<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかむ</rt></ruby>りをした男が、その上から又<ruby><rb>赤合羽</rb><rt>あかがっぱ</rt></ruby>を被って、ぼんやり立っていた。

『あなたが、山岡屋の才助さんで』

『そうだよ』

『今、お店のほうへ参りましたら、この碁会所にいると伺いましたので、やって来ましたわけで』

『雨が吹ッ込むじゃねえか。用向きは一体何だよ』

『恐れ入りますが、ちょっと、此処ではお話し申し<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>い事なんで。――<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>まで顔を貸してくれませんか』

『馬鹿を云っちゃいけないよ、この降りに出られるものか。ここは心やすい家だから、何も気づかいは要らないぜ』

『でも、何うもその……』

煮え切らない男だった。第一風態を見ても、職業がわからない。<ruby><rb>屋敷仲間</rb><rt>やしきちゅうげん</rt></ruby>でもなし、<ruby><rb>若党</rb><rt>わかとう</rt></ruby>でもなし、<ruby><rb>凡</rb><rt>ただ</rt></ruby>の町人とも見えないのである。

お可久は、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に立っていたが、

『じゃあ、二階が空いているから、二階で話しては何うですか』

すると、雨の中で、考え込んでいた合羽の男は、

『あ。……そう願えれば』

と、救われたような顔をお可久へ向けた。

## 二

パチ――と一<ruby><rb>石</rb><rt>せき</rt></ruby><ruby><rb>布</rb><rt>お</rt></ruby>いて、かまきりが、横を向き、

『師匠、今、二階へ上って行ったのは？』

『知らない人さ』

『でも、山岡屋が一緒だろう』

『何か、<ruby><rb>内密話</rb><rt>ないしょばなし</rt></ruby>があるっていうから、二階を貸してやったまでさ』

『<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>か』

『<ruby><rb>嫉</rb><rt>や</rt></ruby>くような筋じゃない。何処の者かしらと思って、今、その男の脱いで行った合羽を見たら、裏に<ruby><rb>伝馬</rb><rt>てんま</rt></ruby>役所と黒印が<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>してあるじゃないか。ホホホホ、伝馬の牢番か何からしいんだよ』

『牢番が。……牢番が<ruby><rb>何</rb><rt>どう</rt></ruby>して来たのだろう』

と、これは喜多川春作が呟いた。

玄庵の打った石へ、すぐ白を一石打って、かまきりも話に口を出した。

『おかしいな？　伝馬の者が、こんな<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふけ</rt></ruby>にこっそり訪ねて来るなんて』

『だって、山岡屋じゃ、内密で<ruby><rb>盗品買</rb><rt>けいずかい</rt></ruby>もしているというから、牢屋敷の者にだって、まんざら<ruby><rb>縁故</rb><rt>えんこ</rt></ruby>がないわけじゃないだろうさ』

『<ruby><rb>町方役</rb><rt>まちかた</rt></ruby>とか、牢役人などが、袖の下を取るのは<ruby><rb>公</rb><rt>おおび</rt></ruby>らだが――それにしても、牢番なんて下ッ<ruby><rb>端</rb><rt>ぱ</rt></ruby>までが<ruby><rb>小費</rb><rt>こづかい</rt></ruby>をせびりに来るのかなあ』

『おおかた、そんな事だろうよ』

お可久は、鮓の皿や汚れ<ruby><rb>器</rb><rt>もの</rt></ruby>を、台所へ片づけて、風呂に入った。

『――――』

かまきりと玄庵の勝負を、春作はつまらなそうに横からのぞいていた。いつでも持って来ただけの金はここで<ruby><rb>損</rb><rt>す</rt></ruby>ってしまう春作なのである。これから、火の気もない家へ帰って、一枚<ruby><rb>摺</rb><rt>ずり</rt></ruby>の<ruby><rb>彩絵</rb><rt>いろえ</rt></ruby>や<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>の<ruby><rb>挿絵</rb><rt>さしえ</rt></ruby>を描く気にもなれないのであろう。<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>んだ顔いろをしながらも、碁を眺めていたけれど、耳は、風呂場の方でする小桶の音を聞いて、湯気の中にお可久のすがたを想像しているのかも知れなかった。

――と、<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>へ立った帰りに、春作はふと<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を見上げた。ぼんやりと、上の障子に明りが映っている。

『いやにシンとしているが？』

何か<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>話らしいと云ったお可久のことばがまだ耳にあったので、ふとうごいた好奇心だった。

そっと、ふた段、三段と、<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>をしのばせて、梯子段の途中に<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と立っていた。

## 三

『ほんとに、<ruby><rb>和尚鉄</rb><rt>おしょうてつ</rt></ruby>がそう云ったのか』

『へい』

『いつ<ruby><rb>召捕</rb><rt>あげ</rt></ruby>られたんだ』

『伝馬牢へ下げられたのが、<ruby><rb>後月</rb><rt>あとげつ</rt></ruby>の<ruby><rb>八日</rb><rt>ようか</rt></ruby>でした』

『すると、お前さんは、その和尚鉄に付いている牢番なんだね』

『夜昼、一日措きに、番代りがおりますから、他にまだ二人ほど<ruby><rb>相役</rb><rt>あいやく</rt></ruby>が居りますが、その者たちには何も打明けてはございません。和尚鉄が、私にだけ話した事なんで』

『ふーむ。……何か<ruby><rb>証</rb><rt>しるし</rt></ruby>を持って来たかい』

『手紙を持って来ました』

『よく御牢内でそんな物が書けたな』

『それやあ、私が、そっと都合をつけますからね。……今夜は、私は非番なんで、実は、こっそりお訪ねに上ったわけで』

濡れている着物の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>を探って、牢番の男は、一通の手紙をさし出した。

山岡屋才助は、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>をよせて、

『ム……。こいつあたしかに、坊主の<ruby><rb>鉄雲</rb><rt>てつうん</rt></ruby>の<ruby><rb>筆</rb><rt>て</rt></ruby>だ。あの<ruby><rb>偽</rb><rt>にせ</rt></ruby>和尚も、ずいぶん悪事をかさねたから、もう<ruby><rb>年貢</rb><rt>ねんぐ</rt></ruby>にかかってもいい頃だろう』

『ですが、残念がって居りますよ。<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>、一生一度の大仕事をやった所で、縄になっちゃあ何にもならないと云って』

『此の手紙には、<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しい事は、<ruby><rb>使</rb><rt>つかい</rt></ruby>の口から聞いてくれとあるだけだが、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>は、藪から棒の話なので、半信半疑に聞いていたのだが、一体、小判で七百両の金を、何うしたって云うのか。もう一遍、よく飲み込めるように話してくれないか』

『ヘイ、その使に来たんですから、何遍でも話します。――実は、和尚鉄が、これを打ち明けて、あなたに頼むのも、何うやら今度は<ruby><rb>御処刑</rb><rt>おしおき</rt></ruby>も<ruby><rb>獄門</rb><rt>ごくもん</rt></ruby>と極りそうなんで』

『ム、軽くてもまあ、その辺だろうな』

『するともう二度と、この<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>にゃあ戻れません。――そこで折角の七百両を、あの儘にして置いちゃどうも、死ぬにも気にかかるし、同じ誰かに取られるなら、他人に渡すのは<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>だから、山岡屋さんの手に<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げて貰って、<ruby><rb>石塔</rb><rt>せきとう</rt></ruby>の一つも建って貰えれば有難いし、運よく、<ruby><rb>遠島</rb><rt>えんとう</rt></ruby>とでもなって、娑婆の風にふかれる日があったら、そのうちの<ruby><rb>幾分</rb><rt>いくぶん</rt></ruby>でも、助けて貰えれば嬉しいと――こうまあ当人が云うわけなんでございます』

『よく分ったが――<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>でその七百両の金を沈めてあるという場所は？』

『<ruby><rb>永代橋</rb><rt>えいたいばし</rt></ruby>の<ruby><rb>西河岸</rb><rt>にしがし</rt></ruby>で、橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から川<ruby><rb>下流</rb><rt>しも</rt></ruby>のほうへ、足数にして十五、六歩ほど歩いた所の川の中だそうで。――あの辺にゃ、<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>が多うございますが、その杭よりも外側へ投げこんだと云いましたが』

『金はバラでだろう？』

『いいえ、七百両みんな封金で、そいつを、<ruby><rb>餅網</rb><rt>もちあみ</rt></ruby>に入れて口を縛ってあるとの事ですから、川の水が増しても、流れて場所の変る気づかいはございません』

『餅網とは、うまい物へ入れたものだな』

『<ruby><rb>中洲</rb><rt>なかす</rt></ruby>の米屋の隠居所へ押込に入って、それだけの金を盗ったはいいが、重いので持つにも困って、女中部屋から餅網を見つけ、そいつへ金を入れて、悠々と<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで来る所を、<ruby><rb>女橋</rb><rt>おんなばし</rt></ruby>の辻番小屋から六尺に<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>られたので、まだ、逃げきれるつもりだったんでしょう。その金を、河岸から川の中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んで、<ruby><rb>一目散</rb><rt>いちもくさん</rt></ruby>に逃げ出したらしいんです。――所が、<ruby><rb>黒江</rb><rt>くろえ</rt></ruby>の辻まで来ると、運わるく、町見廻りの旦那衆にぶつかってしまったので、前と<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の両方から<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>み<ruby><rb>撃</rb><rt>うち</rt></ruby>を食って、さしもの和尚鉄も<ruby><rb>縛</rb><rt>くく</rt></ruby>り上げられてしまったわけでさ』

『白洲で、金の事は申し上げてしまわなかったのかなあ』

『<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>を云い通したんでしょう。お上でも分らず<ruby><rb>仕舞</rb><rt>じまい</rt></ruby>、米屋の隠居所でも、泣き寝入りとなっています』

『じゃあ、和尚の鉄雲は、その川の中の金を俺に<ruby><rb>引揚</rb><rt>ひきあ</rt></ruby>げてくれ――とこう云うのだな。おれに<ruby><rb>譲</rb><rt>ゆず</rt></ruby>るというんだな』

『……で、誠に何ですが、その、私も首を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けて、こういう危い使いに来たのでございますから、そこをお<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>み下すって、幾分かの所を山岡屋の手から<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けてもらえと、和尚鉄も申しましたので』

『そいつあ分っているよ。だが、嘘じゃアあるまいが、一応、ほんとに川底に、金が有るか何うかを、確めた上でなくっちゃ、お前さんにも礼はやれないぜ』

『元より、只今すぐにとは申しません。いずれ又、改めて、夜分でも、お店のほうへ上る事にいたしますから――』

牢番といえば、伝馬者のうちでも、ひどい薄給と極っていた。さだめし、女房子をかかえて苦しい生活をしているのであろう。いかにも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いじけ</span>た――<ruby><rb>恟々</rb><rt>おどおど</rt></ruby>した眼で、密談がすむと、すぐ起って、<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を開けた。

『……あっ。』

と、<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したような声をもらして、喜多川春作は、<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>の中途からあわてて、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ影をかくした。

『――誰だ、立ち聞きしていやがったのは』

山岡屋が、そこから覗き下ろした時は、勿論、誰もいなかった。

梯子段の下で、牢番の男が、

『じゃあ御免なさいまし。……お邪魔をいたしました』

と、<ruby><rb>傴僂</rb><rt>せむし</rt></ruby>のような背中を見せて、挨拶していた。

『誰か知らぬが、虫のすかねえ奴がいる。人の密談を盗み聞きなどしやがって……油断も隙もなりゃしねえ』

<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の下においてある煙草入を取って、ぽんと筒を鳴らし、梯子段を下りかけようとすると、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の閉まっている次の暗い部屋で、

『ムーッ……。ああよく寝た』

ふいに誰か、不遠慮な<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしていた。

## 四

山岡屋は、<ruby><rb>恟</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>っとして、足を<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>めた。

まるで、天から<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>かり物のような今夜の使の話なのである。<ruby><rb>有卦</rb><rt>うけ</rt></ruby>に入るというのはこんなことだろうと独りで悦に入っていたのだ。

所が、もう梯子段で、誰か、盗み聞きしていた奴がある。それにさえ、しまったと思っていると、この二階には、まだ他に寝ていた人間があったのだ。

最初から、こういう話と知っていたなら、充分に注意をするのだったし、雨などは<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わず<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へも出たのにと、今になって、後悔された。

『……いけねえ、<ruby><rb>煙草盆</rb><rt>たばこぼん</rt></ruby>の火が消えていやがる、おい、誰かそこにいるらしいが、行燈の火を、ちょっとここへ貸してくれ』

<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の中からそんな声がした。――山岡屋が開けてみると、<ruby><rb>丹前</rb><rt>たんぜん</rt></ruby>を被って、<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>いになっている男が<ruby><rb>寝呆</rb><rt>ねぼ</rt></ruby>け眼をあげ、

『おう、山岡屋か』

と、銀歯を見せて笑った。

<ruby><rb>薊</rb><rt>あざみ</rt></ruby>と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>のある遊び人の<ruby><rb>芳五郎</rb><rt>よしごろう</rt></ruby>だった。――悪い奴に、と山岡屋は眉をひそめて、

『煙草の火なら、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>を云わずに起きて来たらどうだ』

『そうさなあ。……もう朝か』

『馬鹿を云え。<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>だ』

『夜半に、何の客だ、今<ruby><rb>帰</rb><rt>け</rt></ruby>えったなあ』

『<ruby><rb>薊</rb><rt>あざみ</rt></ruby>』

『む？　……』

と、行燈の<ruby><rb>燈芯</rb><rt>とうしん</rt></ruby>へ<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>を入れて、

『――いやに怖い顔をするじゃあねえか。何だい？』

『おめえは、今の話を、聞いていたな』

『そう云われて思い出した。――夢かと思っていたが、じゃあ今ここで、<ruby><rb>密々</rb><rt>ひそひそ</rt></ruby>云っていた二人の話はあれあほんとの事か』

『それよりも、おめえは一体何だって、こんな所に寝ていたんだ』

『大きなお世話だろうぜ。おれはここのお可久の<ruby><rb>情夫</rb><rt>まぶ</rt></ruby>だもの』

『ふウム……そうか』

『――と、まあ自分だけで<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れているのさ。だが、今の話を聞いたからって、こいつあ何も俺が盗み聞きしたわけじゃねえ。おめえの方から、俺の<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へやって来て、勝手に<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りちらしたんだから、<ruby><rb>此先</rb><rt>このさき</rt></ruby>とも、何う事が成り行こうと、俺の罪じゃねえぜ。それだけは断っておくよ』

薊の銀歯はセセラ笑いながら、暗に何ものかを挑戦していた。男ぶりから云っても、悪事の腕にかけても、山岡屋の才助は、一歩の<ruby><rb>負</rb><rt>ひ</rt></ruby>け目をこの男には感じずに居られない。

<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と――顔いろを読んでいたが、折れて、

『<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにき</rt></ruby>。……何もそう俺は<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>っているんじゃねえ。おめえの枕元で、あんな話をしたというのも、これや<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱ</rt></ruby>り、おめえにも運があったと云うもんだ、どうだ。この仕事は、<ruby><rb>乗</rb><rt>のり</rt></ruby>で行こうじゃねえか』

<ruby><rb>薊</rb><rt>あざみ</rt></ruby>は、うすい笑をのぼせて、あっさりと、首を振った。

『いけねえ。そいつア断る』

『なんだと』

『山岡屋、てめえ、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を<ruby><rb>斜</rb><rt>しゃ</rt></ruby>につかんで、何うする気だ。――七百両を<ruby><rb>乗</rb><rt>のり</rt></ruby>でゆけば、取り分は半分になる。勿体ねえから嫌だというんだ。おらあ一人であの金を<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げるんだから』

『ふ、ふざけた事をいうな』

『何を<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>り立つすじがあるか。てめえの金じゃあるめえし……』

『ようし！　……。おれも山岡屋だ。取れるものなら取ってみろ』

『一割もくれというなら、手伝わせてもやろうが、さもなけれや、<ruby><rb>虻</rb><rt>あぶ</rt></ruby><ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>とらずになるぜ。はははは、どれ、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ行って、<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>でも洗おうか』

二階の荒っぽい話し声を、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>でも変に感じたのであろう。玄庵もかまきりも、碁をやめて、天井を仰いでいた。

だが、そこへ下りて来た薊と山岡屋は、もう何も気色ばんだ顔いろはしていなかった。

『よう、又夜明かしか』

薊は、にやにや云うし、山岡屋は

『おや、春作さんは、もう帰ったんですか』

と、見廻して坐りこんだ。

その春作は、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>から上ったお可久と、台所部屋の隅で、何かヒソヒソ話していたが、やがてそっと傘を借りて帰って行った。

## 波紋魚紋

## 一

『――嘘かな？』

山岡屋は、小舟の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>から、落ちこみそうに、川の中を覗き込んでいた。

独りで<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いで来た貸船を、永代橋から少し<ruby><rb>下流</rb><rt>しも</rt></ruby>の所を約二十間ほどの間、あっち<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>っ<ruby><rb>方</rb><rt>ち</rt></ruby><ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ廻って、

『はてな、たしかに、この辺だと云ったが？』

朝の空があまり晴れているので、雲が水面に映って見にくいのである。けれど水はよく澄んでいた、白い瀬戸物の<ruby><rb>破片</rb><rt>かけら</rt></ruby>だの、俵だの、傘の骨などはよく見える。

『も少し、真ん中のほうかしら』

考えてみると、<ruby><rb>河床</rb><rt>かわどこ</rt></ruby>は、<ruby><rb>河心</rb><rt>かしん</rt></ruby>へ向って、だんだんに深くなっているので、雨ふり<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>の<ruby><rb>水嵩</rb><rt>みずかさ</rt></ruby>が増した時などには、其の方へだんだん移動してゆくのが自然だった。

<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>を入れてみると、だいぶ深い。彼は、夢中になって、突っ立てては船を移した。底の<ruby><rb>沼土</rb><rt>ぬまつち</rt></ruby>が、むらむらと浮いて、水はいちめんに暗くなる。然し、流れが早いので、又すぐに澄み返った。

『……あっ、あった』

棹は水面へ抛ってしまった。そう深くも見えない所だ。青々と水が<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>を描いている。両手を眼にかざして覗きこむと、<ruby><rb>雑魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>の影さえ透いて見えるではないか。

封金の封紙が洗い流されてしまっているので、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい山吹色の黄金が、<ruby><rb>素裸</rb><rt>すはだ</rt></ruby>で水に<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>がれているのだった。

『ウーム、<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>、<ruby><rb>網袋</rb><rt>あみぶくろ</rt></ruby>に詰っている』

いくら見ていても<ruby><rb>見飽</rb><rt>みあ</rt></ruby>かない山岡屋の顔つきだった。今にも、何とかして引き揚げてしまいたいが、対岸に、船番所のある事、河岸をゆく往来の者が、ともすると立ち止まること、物売り船や<ruby><rb>荷足船</rb><rt>にたり</rt></ruby>が絶えず上下しているので、すぐ感付かれてしまいそうな事――

『……駄目だ、昼間は』

勿論、昼間行動できない事は考えていたので、用意の為、袂に入れて来た白い碁石を、彼は、金の沈んでいる附近へ、夜の目印の為、ザラザラと船べりから<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いた。

そして、何食わぬ顔して、永代橋の下を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ戻ってくると、

『山岡屋、山岡屋』

欄干の上から呼ぶ者がある。

ハッと、彼は、薊の顔を思い出した。だが、橋を片手に、仰向いてみると、それは芳五郎ではなくて思いがけない外科医の玄庵だった。

『お、先生ですか、どちらへ』

『おまえこそ、何をしているんだ。だいぶ熱心らしいが』

『――お天気がよいので、<ruby><rb>気散</rb><rt>きさん</rt></ruby>じに、<ruby><rb>雑魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>でも釣ろうと思いましてね』

『うそを云え、雑魚ではあるまい』

『えっ』

『聞いたぞ』

『だ、だれに』

『まあいい』

『先生っ、ちょっと、話がありますから、待っておくんなさい』

あわてて、船を岸へ寄せ、山岡屋は<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ飛び上ってみたが、もう玄庵のすがたは、橋の上に見えなかった。

## 二

ふしぎな現象である。急に、お可久の碁会所へ、常連の寄りが悪くなった。

もっとも、来る事は、相変らず朝となく夜となく来るが、顔が合っても、誰も、碁を打たなくなったのである。一分二分の<ruby><rb>賭博</rb><rt>かけ</rt></ruby>にも、昂奮が失くなった様子なのだ。

『はてな？』

かまきりの伝九郎は考えた。

彼だけはまだ何も知らないので、この現象が<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>でならなかった。

『――おかしいぞ。春作が、いやにそわそわしている。玄庵の奴も、来ても、妙に腹に一<ruby><rb>物</rb><rt>もつ</rt></ruby>という風だ。……山岡屋が誰よりも変だし、<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>のするどい薊の眼にも、何かこの頃、<ruby><rb>思惑</rb><rt>おもわく</rt></ruby>があるらしい』

<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りと、犬のように、人の顔つきを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いでいたが、分らない。

お可久に聞いても、笑っているだけなのである。

すると、或る夕方。

『伝九郎さん、一杯、<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>ってくれませんか』

と、山岡屋が誘う。

どこへ引っ張ってゆくかと思うと、深川の<ruby><rb>櫓下妓</rb><rt>やぐらしたおんな</rt></ruby>まで呼んで、この男にしては、<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>しかねる散財だった。

『時に、折入って、頼みがあるが』

と、果して、その晩の帰り途、こう切り出しての話に、

『うまく行ったら、百両やるが、乗らないか』

『途方もない儲け話だが、何だい、それは』

『一人、<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ってもらいたいのだ』

『人間をか』

『当りまえだろうじゃないか』

『待ってくれ、百両で人ひとり……。相手に依るなあ』

『薊だ』

『……えっ、あいつを』

## 三

<ruby><rb>書肆</rb><rt>ほんや</rt></ruby>からは<ruby><rb>頻々</rb><rt>ひんぴん</rt></ruby>と矢の催促をうけるので、<ruby><rb>版木彫</rb><rt>はんぎぼり</rt></ruby>と<ruby><rb>刷</rb><rt>すり</rt></ruby>をひき<ruby><rb>請</rb><rt>う</rt></ruby>けている<ruby><rb>彫兼</rb><rt>ほりかね</rt></ruby>の<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>はきょうも、絵師の喜多川春作の家へ来て、画室に坐りこんでいた。

『困りましたな。もうこの三月の初めにゃ、とっくに刷も<ruby><rb>綴</rb><rt>とじ</rt></ruby>も出来て、版元へ納まっている筈なんですぜ。――絵が出来ないばかりに、彫にもかかれず、手前どもの職人の手も<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いちまっているんです』

『すまない、今日は描く』

『その今日が、四十日も持ち越されちゃあ』

『きっと、今日いっぱいには』

『お邪魔でも、待たせておいて頂きましょう。もう、手ぶらじゃ帰れませんから』

『そんな事をいわないで、今日――今夜だけ、待っておくれ。――今夜こそ、<ruby><rb>徹夜</rb><rt>てつや</rt></ruby>をしても、きっと描き上げてみせるから』

『ほんとですか』

『大丈夫』

――だが、彫兼が帰ると、春作は、机に、ぼんやり頬づえをついた儘、半日も、何か考えこんでいた。

（そうだ）

われに返ったように、<ruby><rb>雁皮紙</rb><rt>がんぴ</rt></ruby>へ絵筆を執り出したが、いくら描いても、<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>を作るばかりだった。そしてしまいには、無数の女の顔を、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに描き初めた。その女の顔は皆、お可久に似ていた。

『……あの七百両の金が手に入れば』

筆をおくと、そんな事を考えた。恋の為に、金の魅力だった。然し、彼にはそれを自分の物にするだけの自信がない、勇気がない、悪智がない。

あの事を、耳にした晩、春作はすぐ、台所部屋のすみで、お可久にその秘密を話してみたが、お可久は、大してそれに昂奮もしなかった。ただ、

『春作が、それを手に入れたら、<ruby><rb>夫婦</rb><rt>いっしよ</rt></ruby>になってあげてもいいね。江戸を売って、京都あたりでちんまりと暮してみたい。もう、こんな碁会所なんて<ruby><rb>懲々</rb><rt>こりごり</rt></ruby>だから――』

そんな事を<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いたきりだった。春作は、<ruby><rb>幾晩</rb><rt>いくばん</rt></ruby>も幾晩も、永代河岸を歩いてみた。だが、河の中へ入ってゆく気になれなかった。水が怖いのではなく、世間の眼と世間の灯が、いつも<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>で気になった。

『ああ、わしのような<ruby><rb>気怯</rb><rt>きおく</rt></ruby>れ者は、何をしたって、生きて行く力が足りない。体は弱いし、絵は<ruby><rb>上手</rb><rt>うま</rt></ruby>くならないし……。悩むために生きているようなものだ』

ふらふらと<ruby><rb>引窓</rb><rt>ひきまど</rt></ruby>の下へ行ったのである。夕方の星が、四角な狭い口から白っぽく見えた。春作は、引窓の綱にすがって、<ruby><rb>泥竈</rb><rt>へっつい</rt></ruby>の上に乗った。

首へ綱をかけ、足を外した。――死んだと思った途端に、上の横竹が折れたのか、古い綱が切れたのか、春作は、流しの手桶の上へ、ひっくり<ruby><rb>転</rb><rt>かえ</rt></ruby>っていた。桶の水をかぶったので、思わず、大きな声を上げたらしい。

『おやっ、何うなさいましたか』

と、<ruby><rb>隣家</rb><rt>となり</rt></ruby>の女房が、駈けて来て、抱き上げてくれた。

## 四

<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>をつかみ、解けかけた帯の端を左の手で持ちながら、<ruby><rb>薊</rb><rt>あざみ</rt></ruby>の芳五郎は、<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>のように、<ruby><rb>木場</rb><rt>きば</rt></ruby>の材木置場の隅へ逃げこんで行った。

すぐ、後から追い込んで行ったのは、かまきりの伝九郎だった。青い月が空にある晩で、元よりこの辺は人通りもなかった。

『野郎っ。出て来い』

かまきりは、大刀を<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げて、材木の下を覗いた。

横たわっている材木の<ruby><rb>枕木</rb><rt>まくらぎ</rt></ruby>の奥に、薊は、<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>みこんでいた。

『かまきり、何だって俺を。……何も俺に<ruby><rb>意趣</rb><rt>いしゅ</rt></ruby>も恨みもあるめえに』

『所が、大有りだ。てめえは、お可久を狙っているだろう』

『お可久の事なら、俺は、手をひいてもいい。何も、女<ruby><rb>旱</rb><rt>ひで</rt></ruby>りをしているわけじゃなし』

『いや、何うあっても、<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>の生命は欲しい。出て来いっ。うぬ、出て来ねえなら』

刀を突っ込んで、闇を<ruby><rb>掻廻</rb><rt>かきまわ</rt></ruby>すと、

『待ってくれ、かまきり』

『遺言があるなら、今のうちに云え』

『おめえは、山岡屋に頼まれて、俺を殺してくれと云われたのだろう』

『それが何うした』

『読めた。おめえは、お人好しだ。何も知らねえんだ。<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されているのだ』

薊は、材木の奥へ、<ruby><rb>蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>のように身を<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けた儘、そこから必死の弁をふるって、山岡屋が和尚鉄の沈めた七百両の金を河から揚げようとしている<ruby><rb>目企</rb><rt>もくろ</rt></ruby>みをすっかり<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>り立てた。

『おめえに、幾らその<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>け前を出すと云ったのか知らねえが、金なら俺がやろうじゃねえか。二人で組んで、和尚鉄の金を、山分けにしてもいい。お可久へも、おれはもう手を出さねえから、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>だけは助けてくれ』

薊からそう聞いて、かまきりは、初めてこの頃の事態が<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けた。そして、百両で自分を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>ろうとした山岡屋を憎んだ。

『そうか、じゃあ今の話に、嘘はねえな』

『嘘だと疑うなら、これから山岡屋へ行って、二人で坐りこんで対決してもいい』

『おもしろくなった。薊、もう安心して出て来るがいい。実は、山岡屋から殺してくれと頼まれて、<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>に、喧嘩<ruby><rb>仕掛</rb><rt>じかけ</rt></ruby>を吹ッかけたのだが、もうやめて、その代りに、和尚鉄の金には、俺の息もかかっていると思ってくれ。百や二百の<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>け前じゃ承知しねえぞ』

『いいとも、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>さえ……。ああ、冗談じゃねえ、あぶなく死神に取ッ<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれるところだった』

『今の話を、もうちっと詳しく聞きてえが』

『いくらでも話すが、おら、もうこんな寂しい所じゃ』

『大丈夫だって云うのに、何も好んで人殺しなどはしたくねえ。ただ、その七百両の一件だが』

『<ruby><rb>蛤鍋屋</rb><rt>はまなべや</rt></ruby>へでも行って、飲みながら話すとしよう。こう、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>くびが、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までもぞくぞくしやがっていけねえ』

『口ほどもねえ悪党だ』

『こう見えても、おら、割合に気が小いせえんだ』

と、着物の土を払いながら、かまきりの<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ廻ると、不意に、相手の脇腹へ抱きついた。

『わッ！　……。ち、ち、畜生っ』

かまきりの伝九郎は、全身でもがいた。薊の<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>は彼の<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>にふかく入った儘離れなかった。狂う程かまきりは自ら血をしぼって。その血は、月に青光りして、あたりの<ruby><rb>鋸屑</rb><rt>おがくず</rt></ruby>に斑々とこぼれた。

## 白い碁石

## 一

自分が見廻らない時は、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>を番に立たせておいて、山岡屋は、永代河岸を警戒させていた。

それでも尚、彼は不安であったとみえ、そこから近い<ruby><rb>菖蒲河岸</rb><rt>あやめがし</rt></ruby>の<ruby><rb>団子屋</rb><rt>だんごや</rt></ruby>の二階を借りて、たいがいは其処へ来ていた。

あれから、何度も船を出して、<ruby><rb>鈎縄</rb><rt>かぎなわ</rt></ruby>を下ろしてみたり、<ruby><rb>継竿</rb><rt>つぎざお</rt></ruby>に引っ掛を付けて、探ってみたりしたが、場所は、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と思いのほか<ruby><rb>水深</rb><rt>すいしん</rt></ruby>があって、そんな楽な手段では揚りそうもなかった。

医者の玄庵が、<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りと、この辺を徘徊した。永代橋の上から考えこんで見ている姿も何度も見た。まだ陸にも川にも往来の少い夜明け方小舟で、何かやっている所も、一度や二度ならず、山岡屋は見つけた。

<ruby><rb>五月雨</rb><rt>さみだれ</rt></ruby>になると、川は殆ど毎日濁って、水もずっと<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えていた。当分は手も出せない濁流だった。

山岡屋は、ぶらりと、玄庵の門へ訪ねて来た。

『先生、ひとつ<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>て下さいませんか。どうも又、持病のせいか、<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>が重くて』

と、力のない顔いろをして云った。

『陽気がわるいでの……この<ruby><rb>入梅</rb><rt>にゅうばい</rt></ruby>では』

玄庵は、すぐ処方してくれた。碁盤を出して、<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>んだが、山岡屋は、今日は碁もすすまないと云って、

『<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>でしょう、こんな日には、少し気散じに、<ruby><rb>辰巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>へでも行って陽気に騒いでは』

と、外へ誘った。

好むところと云わないばかりに、玄庵は支度にかくれた。そして<ruby><rb>煎薬</rb><rt>せんやく</rt></ruby>を自分で<ruby><rb>沸</rb><rt>た</rt></ruby>てて来て、

『これを一杯飲んでゆくがいい。すぐ頭が軽くなろうで』

と、すすめた。

山岡屋は、煎薬をのんで待っていたが、いつ迄、玄庵の姿が出て来ないので、

『先生、まだですか』

起ちかける、がくっと、両手をついて、首の根を前へ折るように垂れてしまった。――ご、ご、ご、ご、……とその唇から黒い血を吐いているのである。何か叫ぼうとするらしく畳へ爪を立ててもがいていた。

## 二

縁日へ行ったと婆やがいうので、玄庵は、二階で待っていた。初夏の若葉のにおいがする晩だった。

『婆や、この頃は、山岡屋も、かまきりも、ちっとも顔を見せんのう』

『ほんとに、皆様が、ばッたりなんでございますよ。とてもこれでは、商売にならないというので、私にも、とうとうお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>が出てしまいました』

『ほ。ここを<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>うって』

『あ……お帰りなさいました』

婆やと入れちがいに、お可久は、縁日で買って来た<ruby><rb>葵</rb><rt>あおい</rt></ruby>の鉢を持って上って来た。

それから、酒が出て、玄庵は<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>くまで話しこんでいた。頻りと玄庵は今夜は彼女に返辞を迫った。お可久の返辞次第では、今の高橋の門戸をたたんで、大阪へ出て、家を持とうというのだった。そして、近いうちに大金が入るから、それを<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>にともつけ加えて云う。

『泊っていらっしゃいな……』

お可久のほうからそういった。玄庵は、杯を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>くと横になってしまった。

――だが翌日になっても、翌々日になっても、玄庵の姿は、この家から出て行かなかった。

その代りに、<ruby><rb>薊</rb><rt>あざみ</rt></ruby>の姿がチラチラ見えた。婆やは、風呂敷づつみを持って、暇乞いをして自分の家へ<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>がって行った。――翌晩、薊は、お可久にも手伝わせて、畳を上げて床下を掘っていた。血みどろになった玄庵の死体が、蒲団ぐるみ、土の下にかくされた。<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の白い斑点も、畳の下の秘密となった。

碁会所だったそこの小門に、やがて、貸家札が貼られた。――それから数日の後である。もう夏めいた月の冴えであった。

大川は、しいんとしていた。水は、透きとおっていた。

旅すがたをした男女が、永代橋の上に立った。

『だいじょぶかえ、芳さん』

お可久が川をのぞいていうと、薊は、自信のある声でいった。

『おれの生れ在所は、天竜川のふちだ。天竜川からみれやあ、こんな川は、まるで<ruby><rb>泉水</rb><rt>せんすい</rt></ruby>みてえなものだ。泳ぎにかけちゃ、こう見えても、<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れじゃねえが、夏場よくこの<ruby><rb>河岸筋</rb><rt>かしすじ</rt></ruby>で師範している何とか流の先生にも<ruby><rb>負</rb><rt>ひ</rt></ruby>けはとらねえつもりだが』

『おや？　……。春作だよ』

『何、春作。……春作が何処へ来たって』

『叱っ』

お可久は、男の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をひいて、知らぬ振を装おいながら、橋の欄干の外へ顔を出していた。

ひょいと、振向くと、成程、喜多川春作が来るのだった。その春作の挙動も、此っ方を憚っているらしく思われる。橋を越えても、頻りと、河岸ぷちを行ったり来たりしている。

<ruby><rb>薊</rb><rt>あざみ</rt></ruby>は、近づいて行った。いきなり声をかけると、非常に驚いた様子で、春作は逃げかけた。跳びかかって、薊は、彼の両手を縛り上げた。

『何しに来やがった。<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>なんぞが、野心を起したって、無駄なこった』

『わ、わたしは何も、決して……。そ、そんな大それた野心を持って居るんじゃありません。ただ……』

『ただ？　……何だ』

『お可久さんに、一言、話をしたいと思って、あなた方が今夜、花屋を出る所からお後を慕って来たんです』

『何だと、俺たちを<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て来たって。……はははは、呆れけえった男だ、おれとお可久と、こうして仲よく旅立つ姿を見ても、腹も立たずに、指を<ruby><rb>咥</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、後から見ていたのか』

『私は、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>、お可久さんに最後の事を云いたかったんです。それで、諦めるつもりだったんです』

『こいつにゃあ、刃物を出す気にもなれねえ。お可久、おれが川から金を揚げてくる間、何とか一言云ってやんねえ、生霊が取ッ<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>くといけねえや』

『いやだよ。私は……』

『罪ほろぼしと思ってよ』

薊は、春作の体を、橋の欄へくくりつけて、そこへ、自分の帯を解き初めた。

<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>わらじは元より、着物をすべて脱ぎ捨てる。そして、腹巻一つの真っ裸になると、魚のように、身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるが</rt></ruby>えして、川の中へ<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り込んだ。

## 三

大きな波紋の下に、薊のすがたは暫く沈んでいた。

天竜川育ちと、自分でも<ruby><rb>豪語</rb><rt>ごうご</rt></ruby>していたが、彼の水の中の動作は鮮やかであった。

水深の底の底まで、月明りが届いていた。そこらにこぼれている白い碁が数えられる位なのだ。薊は幾度も身を逆しまにして、そこに眠っている黄金の網の袋へ、手をのばした。

何十回目かで、彼は、遂につかんだ。

『七百両』

と、水の中で彼の心臓はさけんだ。

だが――それを<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっか</rt></ruby>と抱え込むと、今度は、体が彼の思うように浮かなかった。金が、何尺か<ruby><rb>河底</rb><rt>かてい</rt></ruby>の沼土を離れたと思うと、再び、体のほうが、金の力に持ってゆかれて、ぶくぶくと底へ引き込まれる。

『七百両だ』

そればかりを、薊は思っていた。水は、真っ黒に濁って、彼をつつんだが、彼は<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んでいる物を死力をもって掴んでいた。

## 四

夜明が近くなる――

<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>、一刻と<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>っても、薊は浮いて来なかった。

遂に、二刻も経った。

『死んじゃったのか知ら？』

お可久は、ぞっとした。青い青い水面のさざ波は、魔の<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>を思わせた。

『――お可久さん、お可久さん、後生です、この縄を解いて下さい。そして、私はもう諦めているんだけれど、町画師の春作という<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しがない</span>男が、昔、江戸の裏町の隅ッこで、<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と、お前さんを想いつづけていたという事だけを覚えていておくんなさいね。……それだけだ私が、云いたかった事は』

『春作さん！』

お可久は、彼の繩を解いて、そして、手頸を引っ張るようにして叫んだ。

『おまえと暮しましょう。他国へ行って』

――だが、その時、永代橋を踏み鳴らして、ここへ一瞬に駈けつけて来た町方と捕手は、逃げかけるお可久を追いつめて、

『おふさ！　もう<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>かめん</rt></ruby>はきかねえぞ』

と、高手小手に<ruby><rb>縛</rb><rt>から</rt></ruby>めてしまった。

その人々の<ruby><rb>騒々</rb><rt>ざわざわ</rt></ruby>と云っている言葉を綜合してみると、お可久という名も、大名のお部屋様だったなどという事もみんな嘘で、ほんとは、日光山の中院の僧の隠し子で、土地の宿屋の娘という事になっていたが、性来の<ruby><rb>毒婦型</rb><rt>どくふがた</rt></ruby>の女で、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を飛び出してからは上方は勿論、長崎から諸国を流れあるいて、行く先々で、豪華な悪の生活をしていたという<ruby><rb>札付</rb><rt>ふだつ</rt></ruby>きの女であるらしかった。

春作は、<ruby><rb>裸足</rb><rt>はだし</rt></ruby>のまま、本所の家まで走ッて帰った。生きている顔いろもなかった。

戸を閉めきった儘、彼は、二日も外へ顔を出さなかった。けれど、<ruby><rb>彫兼</rb><rt>ほりかね</rt></ruby>のおやじが、その日も又、催促に来て、外から戸をたたいた。

『あ、描けているよ』

春作は、ふた晩も寝ていない眼をして、十数枚の<ruby><rb>画稿</rb><rt>がこう</rt></ruby>を、すぐそこへ持って来て渡した。

『え、ほんとですかい？』

と、彫兼すら眼をみはって疑った。

（昭和十一年三月）