## <ruby><rb>風</rb><rt>かぜ</rt></ruby><ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>れ異変

## 一

迅い<ruby><rb>雲脚</rb><rt>くもあし</rt></ruby>である。裾野の方から墨を流すように拡がって、見る間に、盆地の町――甲府の空を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>ってしまう。

<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに、日蝕のように<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>かった。

<ruby><rb>板簾</rb><rt>いたすだれ</rt></ruby>の裾は、大きく風に揚げられて、<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>をたたき、庭の樹々は皆、白い葉裏を<ruby><rb>翻</rb><rt>かえ</rt></ruby>して<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎ立つ――

『おう。<ruby><rb>雷鳴</rb><rt>かみなり</rt></ruby>か』

昼寝をしていた<ruby><rb>高安平四郎</rb><rt>たかやすへいしろう</rt></ruby>は、顔に乗せていた<ruby><rb>書籍</rb><rt>ほん</rt></ruby>を落して、むくりと<ruby><rb>寝転</rb><rt>ねがえ</rt></ruby>ると、

『……<ruby><rb>襲</rb><rt>く</rt></ruby>るかな？　<ruby><rb>一暴</rb><rt>ひとあ</rt></ruby>れ』

<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほおづえ</rt></ruby>ついて、廂越しに、暫く<ruby><rb>雲行</rb><rt>くもゆき</rt></ruby>でも観測しているように、呟いた。

――と。その<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の先を、白い<ruby><rb>電光</rb><rt>いなびか</rt></ruby>りが、チカッと<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて、<ruby><rb>霹靂</rb><rt>へきれき</rt></ruby>はすぐ<ruby><rb>屋</rb><rt>や</rt></ruby>の上を<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>け<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>った。

『お、大きいぞ。――これやあ、出向かずばなるまい』

平四郎は、<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きて、すぐ身<ruby><rb>支度</rb><rt>じたく</rt></ruby>した。

甲府城の森や天主には、過去に幾<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>も落雷の歴史がある。その都度、火災を起しては、苦い経験を重ねているので、大きな雷鳴の伴う風雨には、たとえ非番の者でも、即刻、お城へ馳けつけるという<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>になっている。

もっともそれは、俗に『<ruby><rb>番衆</rb><rt>ばんしゅう</rt></ruby><ruby><rb>番衆</rb><rt>ばんしゅう</rt></ruby>』と<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれる軽輩の番士役に限ってはいたが。

平四郎は、その組役の一人で、番衆長屋に住む気軽な独り者、然し、<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>はわりあいに取っていて、もう三十は超えていた。

『おい、婆や、お城へ行って参るぞ』

庭へ<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>って――

『<ruby><rb>五刻</rb><rt>いつつ</rt></ruby>を過ぎたら、お城へ泊ったと思ってよい。戸締りして、早く寝めよ』

と、云いたした。

<ruby><rb>紫陽花</rb><rt>あじさい</rt></ruby>や八ツ手が、海のように揺れている裏庭の方で、

『はい。はい』

婆やの返辞がしたが、ふと、縁先に取り込んである、一抱え程な<ruby><rb>干衣</rb><rt>ほしもの</rt></ruby>を見ると、中に、<ruby><rb>艶</rb><rt>あで</rt></ruby>やかな<ruby><rb>女着物</rb><rt>おんなもの</rt></ruby>が一枚、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れこんでいた。

『はて、こんな物は、家には無い筈だが――。婆や、婆や、何処から取り込んで来たのだ』

云っているうちに、婆やは又、次の一抱えを、持って来て、縁先へ置いた。

その中にも、<ruby><rb>羅衣</rb><rt>うすもの</rt></ruby>の<ruby><rb>女小袖</rb><rt>おんなこそで</rt></ruby>だの、<ruby><rb>扱帯</rb><rt>しごき</rt></ruby>だのがあった。

『――旦那様。それは多分、上のお屋敷からでございましょう。きのうも今日も、虫干をして居らっしゃいましたから、風に舞って、お庭の中へ、吹き落ちて来たに違いございません』

『ウム、<ruby><rb>萩井</rb><rt>はぎい</rt></ruby>家のか』

平四郎は、その衣裳を手に持って、<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>り<ruby><rb>藤</rb><rt>ふじ</rt></ruby>の<ruby><rb>刺繍紋</rb><rt>ぬいもん</rt></ruby>を見ながら呟いた。

婆やも、眼をみはって、

『たいそうお金に飽かせた衣裳でございまするの。<ruby><rb>京染</rb><rt>きょうぞめ</rt></ruby>の<ruby><rb>裾模様</rb><rt>すそもよう</rt></ruby>――』

『婚礼着だな』

『きっと、お<ruby><rb>小夜様</rb><rt>さよさま</rt></ruby>の……』

『こんなもの！』

平四郎は、それを、ふわーっと庭先へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り投げて、婆やへ云った。

『風に舞って来たとはいえ、これ見よがしな<ruby><rb>贅沢衣裳</rb><rt>ぜいたくもの</rt></ruby>、取り込んで置くには及ばん。崖の下から呶鳴って、萩井家の者に、取りに来いと云え』

庭へ捨てられた裾模様へ、もう白い雨の線が、斜めに降りかけていた。

その間にも、<ruby><rb>雷鳴</rb><rt>かみなり</rt></ruby>は、絶え間なく鳴りはためいて――

## 二

甲府の御番城は、<ruby><rb>平城</rb><rt>ひらじろ</rt></ruby>だった。

城主はない。

幕府から支配役をいいつかって、御城番として<ruby><rb>松野豊後守</rb><rt>まつのぶんごのかみ</rt></ruby>、加役として<ruby><rb>宮崎若狭守</rb><rt>みやざきわかさのかみ</rt></ruby>――<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>っちも千五百石程度の旗本が、甲府在住で、これを守っているのだった。

『やあ、お出合御苦労』

『よいあんばいに、大した事もないらしいな』

詰め合った番衆たちは、持場持場で、そう云い合った。

<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>暮れ方――雲は切れて、笛吹川の<ruby><rb>上流</rb><rt>かみ</rt></ruby>の空は、<ruby><rb>淡</rb><rt>うす</rt></ruby>い虹さえ見せた。

『これだから、夏中は非番の日でも、<ruby><rb>落々</rb><rt>おちおち</rt></ruby>休んじゃ居られぬよ』

『拙者も、きょうは大丈夫と、<ruby><rb>釜無川</rb><rt>かまなしがわ</rt></ruby>の瀬へ、<ruby><rb>鮠</rb><rt>はや</rt></ruby>を釣りに出かけて居ったところ――あの<ruby><rb>雷鳴</rb><rt>かみなり</rt></ruby>だ』

『――が、まあ無事でよかった。休みはまだ三、四日あるし』

ふだんは二日<ruby><rb>詰</rb><rt>づめ</rt></ruby>の一日休みであったが、この土用中は、交代に七日ずつの<ruby><rb>賜暇</rb><rt>しか</rt></ruby>をもらっていた。

空を見さだめて、非番の者たちは、夕虹の下を帰って行ったが、平四郎は、<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>部屋の同僚と話しているうちに、<ruby><rb>将棋</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>が初まったので、つい<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>を見てしまった。

すると、同僚の<ruby><rb>雑賀丹治</rb><rt>さいがたんじ</rt></ruby>が、

『高安。ちょっと顔を――』

と、外へ誘った。

『なんだ？　……』

『まだ<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>は知るまいな。御城内でも、内密に伏せておるから』

『知るまいとは』

『貴公が聞いたら、定めし小気味よがる事だろうと思って、そっと耳に入れるわけだが、図書係りの海野甚三郎な、何うやら、切腹ものらしいぞ』

『えっ、海野が』

『されば』

『いったい、それは<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うした<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>で』

『貴公に取っては<ruby><rb>恋敵</rb><rt>こいがたき</rt></ruby>――まあ隠さんでもいいさ――その海野甚三郎が、切腹ものとは、耳よりな話じゃないか。萩井家のお小夜どのを挾んで、甚三郎と<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>のあいだに、<ruby><rb>紛争</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>のあった事は、おれも薄々知っていた』

『そうか、海野が切腹となるのか』

『いや、まだ決まった事ではないが、九分九厘までは……という破目になっておるのだ。もっと詳しい事を聞かせたいが』

と、見廻して、

『そうだ、<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>れへ行かないか』

と、<ruby><rb>櫓門</rb><rt>やぐらもん</rt></ruby>のある<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の陰へ誘った。

## 三

三日ほど前から、御番城の<ruby><rb>蔵方</rb><rt>くらかた</rt></ruby>では、武器係り、道具係り、図書係りなど総勢で、例年のように、御蔵の風入れにかかって、毎日、虫<ruby><rb>干</rb><rt>ぼし</rt></ruby>に忙殺されていた。

事件は、つい<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>のこと。

御蔵奉行の<ruby><rb>岩瀬志摩</rb><rt>いわせしま</rt></ruby>が、台帳にあわせて、順々に、検分してくるうち、図書係り海野甚三郎が持場の品が一点、不足している事実を発見した。

しかもそれは、この甲府城の宝物中でも、代表的なもので、<ruby><rb>曾</rb><rt>か</rt></ruby>つては、将軍の台覧にも供え、元禄年中の城主<ruby><rb>柳沢吉保</rb><rt>やなぎさわよしやす</rt></ruby>も、<ruby><rb>垂涎</rb><rt>すいせん</rt></ruby><ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かなかったといわれる――<ruby><rb>土佐光吉</rb><rt>とさみつよし</rt></ruby>の歌仙図に<ruby><rb>近衛信尹</rb><rt>このえのぶただ</rt></ruby>の<ruby><rb>讃</rb><rt>さん</rt></ruby>のある――紙数にすればわずか十二、三枚の薄い<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>だった。

（あれが紛失したと！）

居合した者は青くなって、

（一大事だ。何と、<ruby><rb>幕府</rb><rt>おかみ</rt></ruby>へ云い訳を――）と、騒ぎ立った。

奉行の岩瀬志摩は、

（詮議の<ruby><rb>邪</rb><rt>さまた</rt></ruby>げになる。ここにおる者以外への口外は、一切差し控えられたい。――係り海野甚三郎は、お品の出るまで、退城はならぬ）

と、云い渡した。

で――昨日から、甚三郎は、一室に閉じこめられ、紛失した歌仙本の行方には、密々、厳しい捜査が行われているが、今日に至るも、<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とん</span>と分らぬらしいというのである。

×　　　　　　　　　×

×　　　　　　　　　×

『虫干の御蔵収めは、後四日。――その四日のうちに、紛失物が出なければ、甚三郎は、切腹するしかない。――まあ事情は、こういう<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>だが』

と、雑賀丹治は、薄ら笑って、

『そんな<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>にある甚三郎を、悪く云うではないが、日頃からいやに君子ぶッて、<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い男を鼻にかけ、<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>いはしない奴だから、誰も同情する者はない。――この事件を、知っている者は、あいつ近頃、お小夜どのとの縁談で、ふわふわしているから、こんな失態を起したのだろう――と誰も皆、云っておる』

ちょうど、<ruby><rb>五刻</rb><rt>いつつ</rt></ruby>の<ruby><rb>鼓</rb><rt>こ</rt></ruby>が、<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>で鳴った。

『ふーム、そうか。……そういう<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>か』

とのみ<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、平四郎はただ聞いていたが、平四郎は、決して愉快そうな顔いろではなかった。

『どれ、帰ろうか』

丹治と別れて、彼は、帰途についた。

城の<ruby><rb>乾門</rb><rt>いぬいもん</rt></ruby>では、果して、奉行の下役が詰めていて、退城の者を<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>め、いちいち<ruby><rb>体調</rb><rt>からだしら</rt></ruby>べをして通した。

平四郎も、<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>められた。

『何か、御城内に、変った事でもあったのでござるか』

知らぬ顔して聞くと、

『いや、ちと……』

と、口を濁して、役人たちは、真相に触れることを避けた。

## 葉隠れ恋

## 一

――見たことか。人の思いでも。

同僚の前では、そんな顔は見せなかったが、平四郎は心のうちで、そう思わないこともなかった。

甚三郎とは、お互いに、終生、解けない宿怨に結ばれている仲である。

『萩井家のお小夜も思い知ったろう』

星になった夜空の下を歩きながら――彼は苦笑した。

――あの甚三郎さえなければ、お小夜は、自分の妻となっている筈の女だ。

（ちょうど、こんな、星の夜だった……）

と、彼は今も思い出される。

一夏、笛吹川の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>で、<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れかけている少女を救ったことがある。乳母らしい女のさけび声に、馳けつけてみると、それは御番城の兵学教頭、萩井十太夫の娘。

身を<ruby><rb>挺</rb><rt>てい</rt></ruby>して、激流の中から彼が救い上げて来た娘は――その頃まだ軽かった。十四ぐらいな愛くるしい<ruby><rb>少女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>で、お小夜という名は、後に知ったのである。

（娘の恩人だ）

と、いうので、それ以来、平四郎は萩井家の家族から、特別親しく扱われた。

お小夜も、年<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>つほど、親しみを見せ、又、妙齢の美しさを増して行った。

――それはもう、七年前になる。

然し今では、萩井家の家族は何うか。

彼女が、自分を見る眼は何うか？

以前とは、まるで違う！

ひと頃は、彼女の<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>に――と、堅い約束こそしないが、口に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らさぬばかりに、萩井家の家族は皆、自分を遇したものだった。

自分も、いつか心に、彼女を未来の妻として、抱いていた。

その為に、勉強した。誰よりも励んだ。兵学も、剣道も、弓道も。――やがて萩井十太夫の後を継いでも、

（彼なら恥しくない）

と、云われる迄、自分を<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>えて置こうとしたのも、その希望があるからだった。

## 二

海野甚三郎は、そうした折へ、忽然と、帰って来た。甚三郎は、長崎へ遊学していた者である。新しい<ruby><rb>蘭学</rb><rt>らんがく</rt></ruby>も、西洋兵学も、砲術も、あらゆる新知識を<ruby><rb>蓄</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えて帰って来たばかりか、家すじも、平四郎と比較にならないし――何よりは又、彼は美貌で挙止も正しく、品行もよかった。

（甚三郎様、甚三郎様）

萩井家の家族たちは、皆、彼の知識や新しい話に傾倒した。

わけて、お小夜は、彼に依って、<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>の春を、訪れられたように、急に、容子まで変って来た。

そのうちに、間もなく、甚三郎は正式に、縁談を持ちこんだらしい。異議なく<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>まって、この五月には挙式を――と云う噂だったが、十太夫がふと病床に就いたので、秋までに延期されたのだった。

だが。

平四郎にとっては、延びようと、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>になろうと、それはもう、萩井家から云わせても、<ruby><rb>関</rb><rt>かかわ</rt></ruby>りのない他人でしかない。

<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と又、平四郎の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>は、萩井家の崖下で、心の外に置こうとしても、何かにつけて、崖上の屋敷の様子は、手に取るように映るのだった。

未練がましく、近くに住んで居たくないとは、重々思う事であったが、崖下の番衆長屋は、いわゆる組屋敷で、勝手に転居する事も許されない――

<ruby><rb>怏々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>と、楽しまない日を、幾月もうそこで暮したことか、人知れず<ruby><rb>葉隠</rb><rt>はがく</rt></ruby>れに燃えて腐って、やがて散るしかない――<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の花の悩みのように。

近頃は、兵書、剣道の修行も抛って、くさくさすれば、町へ出て、居酒屋の<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>を占めた。――そんな事から二、三の同僚のうちでは、

（まあ、我慢せい）

とか、

（お小夜ばかりが女じゃなし、もっといいのを持って見返してやるさ）

とか、同情する者もあった。

けれど彼の意中には、そんな程度の言葉では、慰めきれないものがある。――又、今日聞いた甚三郎の破滅を知っても――猶々、慰めきれないものがある。

それは、お小夜の心だった。

何うして、彼女が、自分に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>いて、甚三郎へ傾いて行ったか――。恨みつらみは、親の十太夫にもない、家族たちにもない、甚三郎にもない。

<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>、彼女のそれにあった。

## 三

帰りがけ――その晩も、いつもの居酒屋に立寄って、平四郎は、

『亭主、<ruby><rb>冷酒</rb><rt>ひや</rt></ruby>でよい、一杯くれい』

薄暗い片隅の<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>に腰かけて、黙然と、<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をついていた。

誰か、後でコソコソ話し声がするので、何気なく振向いてみると、土間から上って、三畳ばかり敷ける小部屋に、<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>を置いて、飲んでいる二人の浪人者の腰だけが見えた。

『――だって、何うせ京都へは上らなければなるまい』

と、一方が小声でいう。

『それやあそうだが……』

『してみれば、山越えして、<ruby><rb>奥多摩</rb><rt>おくたま</rt></ruby>から<ruby><rb>武州</rb><rt>ぶしゅう</rt></ruby>へ出るなんて、<ruby><rb>嶮岨</rb><rt>けんそ</rt></ruby>な道をとって、しかも廻り道したりするよりは、江戸表へ寄らずに、真っ直に京都へ出てしまおうじゃないか』

『<ruby><rb>中山道</rb><rt>なかせんどう</rt></ruby>を取ってか』

『いや、そう行くのは、誰も考える所だから、裾野へ出て五湖を横ぎり、東海道へ突き抜ける』

『ウム、だが何っ<ruby><rb>方</rb><rt>ち</rt></ruby>にしても、もういちど、<ruby><rb>市之丞</rb><rt>いちのじょう</rt></ruby>様に会った上で――』

と、云いかけた時、一方の浪人が、

『<ruby><rb>叱</rb><rt>しっ</rt></ruby>……』

と、目くばせして、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を<ruby><rb>小突</rb><rt>こづ</rt></ruby>いた手が、衝立の陰にちらと見えた。

平四郎は、耳にも止めない様子をして、

『亭主、きょうの酒は、いつもの酒とは少し違いはせぬか。――もう一つ、<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>いでみてくれ』

その間に――二人の浪人は、土間の<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>へ手を伸ばして、

『<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>は置いたぞ』

やや<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>て気味に出て行った。

## 四

市之丞。――確にそう聞えた。妙に、その名が、平四郎の耳へ残った。

（この城下で、市之丞と名乗る者は？　……）

と、考えていると、

『旦那、召上ってみて下さい。<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>を代えてみましたが』

と、亭主がそれへ、<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>でなみなみと、次のを<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>んで来てそっと渡す。

『おやじ』

『へい』

『今出て行ったのは、毎度ここへ見える客か』

『いいえ、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の雨上りに、飛び込んできたフリのお客でございます』

『江戸者のようだな、言葉や<ruby><rb>物腰</rb><rt>ものごし</rt></ruby>が……』

『左様でございます。けれど、何かお話の様子では、青沼の<ruby><rb>光沢寺</rb><rt>こうたくじ</rt></ruby>に泊って居るような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でございましたが』

『光沢寺といえば――一蓮寺の別院だな』

『はい、左様に聞いておりますが』

『ふウ……む』と、何か独り頷いて、

『亭主、きょうのも又、お帳面だぞ』

『へいへい、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも』

平四郎は、ぶらぶら帰って来たが、<ruby><rb>五刻</rb><rt>いつつ</rt></ruby>過ぎたら寝ろといっておいたので、婆やはもう戸締りを固くして寝ていた。

戸を軽く叩いて、呼び起しているまに、彼は、崖上の萩井家の<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>の辺りから、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに、琴の音が流れて来るのを聞いた。

『……オ。お小夜はまだ、知らないと見える』

平四郎は崖を仰いで、ふと唇を噛んだ。

婆やが、眠たい顔して、戸を開けた。平四郎は家に這入るとすぐ、

『昼間、風に吹かれて、紛れ込んで来た女小袖は、萩井家へ返してくれたか』

『はい、お返しいたしました』

『誰が取りに来た？』

『わたくしが持って行って、裏門にいる小者へ渡してやりました』

聞くと、平四郎は不機嫌に、

『だれが届けて<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わせといったか。崖の下から<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>って、取りに来いと云ってやれと、<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けておいたではないか。――何で<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>から持って行くような弱味がある。<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>の高下はあるが、萩井家も武家なら、高安平四郎も武家だ。――ばかなッ』

と、珍らしく<ruby><rb>老婆</rb><rt>としより</rt></ruby>を叱って、<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れるように、寝床へ横になってしまった。

## 宿怨の<ruby><rb>介錯人</rb><rt>かいしゃくにん</rt></ruby>

## 一

<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>は、極秘の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に行われているらしい。

萩井家でさえ、知らない様子なのである。

（もう後三日。――もう後二日）

と、平四郎は心のどこかで、朝夕、海野甚三郎の身に迫る死期を数えていた。

寝転んで、<ruby><rb>書</rb><rt>ほん</rt></ruby>を読んでいる間もふと、ニタリと、悪魔的な<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みが<ruby><rb>自</rb><rt>ひとり</rt></ruby>でに<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>の辺へのぼってくる――

（俺は何も知らぬ間に、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>がしてくれた<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>だ。天の<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>す事だ。思えばよくしたもの……）

と、思う。

――琴の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>は、毎夜聞えた。――音は澄んでいて、乱れていない。何う聞いても、清純な<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>の指から<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>ぶ音であった。

『だが、思えば、可哀そうな』

と、平四郎もふと思わぬでもなかったが、強いて、自分の心を、残酷に持って、

（いや、当然だ。おれの苦しんで来たことに較べれば）

と、<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>ての<ruby><rb>快哉</rb><rt>かいさい</rt></ruby>を――その八絃の夢が<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>れて、お小夜が<ruby><rb>怨歎</rb><rt>えんたん</rt></ruby>する日の<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>さを――<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>も今日も、ひそかに待ちつつ、土用の休み日を暮していた。

## 二

もう今日は、<ruby><rb>虫干仕舞</rb><rt>むしぼしじまい</rt></ruby>。蔵収めの日であった。

同時に、詮議の日数も、その日限り。

（分ったか。無い儘か？）

紛失した歌仙本の安否よりも――実は海野甚三郎の生死のわかれに興味を抱いて、平四郎は、その日から、城へ詰めた。

城内へ来てみると、いつぞやは知らない顔をしていた者も、今日は、公然と、

『盗賊は一体、外の者か、内の者か？』

『元より、外部の者だろう』

『いや、外部から忍び込んで、盗まれたとすれば、吾々も共に落度ではないか』

『下手人が城内にあるとすれば？』

『いう迄もなく、図書係りの甚三郎を疑うしかあるまい』

『だが、<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>んな物を、盗んでどうするか』

『金になるさ』

『なるかな？』

『しかも莫大な金になる。<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>の茶道具屋の手にでもかかれば、あの一枚でも、数百金に売れようというものだ』

などと、詰所を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いても、何処へ行っても、首を集めてその噂に持ちきりの<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>だった。

紛失の歌仙本は、遂に、<ruby><rb>其日</rb><rt>そのひ</rt></ruby>に至るも、下手人が知れなかった。

――そこで、城番の松野豊後守は、係り役甚三郎に、自決を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>し、その由を、江戸表へ急報すると共に、彼も又、幕府のお叱りを待つ、となったのだ。

事件は、そうして、その朝、全貌を衆に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>したのである。

――甚三郎が切腹する！

これも人々を驚かせたに違いない。

何処よりも真っ先に、彼の家には、夜明け方、使が走った。

萩井家へも、誰かが駈けた筈である。

（<ruby><rb>惜</rb><rt>お</rt></ruby>しい人間を――）

と、彼の才気や新知識を、<ruby><rb>哀傷</rb><rt>いた</rt></ruby>む者もあった。

（才人才に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>る――じゃないかな？）

と、密かに、歌仙本の行方も、彼の<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>らしく、疑いの目で見る者もある。

半日は、騒ぎに暮れ、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎは、城内は重い空気につつまれ、夕方からは、城全体が、死ぬ者の死の座のように、冷ややかな夜気の中にあった。

その中では、誰も皆、<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>が地につかないように歩いていたが、唯一人、高安平四郎だけは、<ruby><rb>終日</rb><rt>ひねもす</rt></ruby>、冷然と、<ruby><rb>乾門</rb><rt>いぬい</rt></ruby>の番衆小屋に腰かけて、人の噂に口を入れなかった。

## 三

<ruby><rb>真夜半</rb><rt>まよなか</rt></ruby>の九ツ<ruby><rb>刻</rb><rt>どき</rt></ruby>（午前零時）――までには、もう一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>（二時間）ほどしかない。

<ruby><rb>正九刻</rb><rt>しょうここのつ</rt></ruby>に切腹と聞いているので、

（近づいて来たな）

と、口には誰も出さないが、番衆小屋の人々も、皆、無口になった。

どんな人間に対しても、その死となれば、日頃の<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>や感情を超えて、誰もが、一種冷ややかな厳粛感に打たれてくるものとみえる。

『高安<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>、交代だ。――休むがいい』

乾門は、四人ずつ交代で、<ruby><rb>四刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>から明け方までの入れ替りだった。

平四郎は、黙々と頷いて、<ruby><rb>内曲輪</rb><rt>うちぐるわ</rt></ruby>の休息所の方へ歩いて行った。

――すると、後から馳けて来て、

『高安』

と、呼び止める者があった。

振向いて見ると、奥役の<ruby><rb>頼母木与四郎兵衛</rb><rt>たのもぎよしろべえ</rt></ruby>であった。

与四郎兵衛は、胸と胸のつくほど近く寄って来て、

『平四郎。聞けばおぬしは、萩井家の道場でも、<ruby><rb>据物斬</rb><rt>すえものぎ</rt></ruby>りでは、第一の腕だそうだな。……嫌な役目だがひとつ引受けてくれんか』

『何ですか』

『<ruby><rb>介錯人</rb><rt>かいしゃくにん</rt></ruby>だ』

『……？』

『――嫌だろう。誰も嫌がって承知せんのだ。何といっても、日頃から一つお城に勤めていた同僚の首を斬るのだからな』

『甚三郎殿の介錯ですな』

『ウム』

『拙者で御不足がなければ勤めましょう』

『やってくれるか』

と、与四郎兵衛は<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>した容子で、

『じゃあ、奥の丸へすぐ来てくれい』

と、先に立った。

## 四

そこは、武器<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の下で、昼間でも暗い、板敷の部屋だった。

ほかの部屋から持って来たらしい<ruby><rb>絹行燈</rb><rt>きぬあんどう</rt></ruby>が一つ、ぼうと燈っていた。

『甚三郎殿』

頼母木与四郎兵衛が、<ruby><rb>頑丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な板戸を開けて、中へ云うと、

『はい』

と、割合に落着いた返事が聞えた。

甚三郎の声である。

数日、陽の目を見ず、ここに坐ったきりなので、色はよけいに白く見え、心もち<ruby><rb>憔忰</rb><rt>しょうすい</rt></ruby>して、日頃の美貌が、よけい<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>に<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて見えた。

『もはや、時刻でござりますか』

と、与えられてある一枚の畳のうえから云った。

『いや――時刻はまだ――半刻の余もござるが、<ruby><rb>介錯人</rb><rt>かいしゃくにん</rt></ruby>の事でござる』

『<ruby><rb>寔</rb><rt>まこと</rt></ruby>にお<ruby><rb>手数</rb><rt>てかず</rt></ruby>で……』

『番衆の内より、高安平四郎を選びました故、左様御承知ねがいたい』

『えっ』

甚三郎は、髪の毛まで<ruby><rb>顫</rb><rt>おのの</rt></ruby>かせて、

『平四郎が、私の介錯人ですとな？』

『お望み<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>もあろうが、勝手はゆるされませぬぞ』

『はっ……。だが、お訊ねいたしとうござる』

『何か』

『それは、平四郎から申し出たことでございまするか、それとも又』

『いやいや、然るべき者がないので、立会人の吾々から頼んだことじゃ』

<ruby><rb>些</rb><rt>いささ</rt></ruby>か、心を安らいだように、甚三郎はがっくりと首を垂れ、

『……あ、左様でござりますか』

『まだ、時刻もある故、その間に、お<ruby><rb>書遺</rb><rt>かきのこ</rt></ruby>しておく事でもあれば、それへ<ruby><rb>料紙</rb><rt>りょうし</rt></ruby><ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>を上げてあるから、何なりとも』

『御好意<ruby><rb>辱</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けない。それぞれへ、先程から一筆ずついたして置きました』

『お、左様か。――では』

と、与四郎兵衛が引き退がろうとすると――

『あ、もし。……暫く』

『何ぞまだ……？』

『お願いがござります』

『仰っしゃってみるがいい』

『<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>の儀ではありませぬが、介錯人が、腕に聞えのある高安平四郎とあれば、私も<ruby><rb>身躾</rb><rt>みだしな</rt></ruby>みして、立派に死にたいと存じます』

『いや、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もなおことば』

『<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>ては、甚だ恐れ入るが、妻の許まで、使を<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せて、<ruby><rb>水装束</rb><rt>みずしょうぞく</rt></ruby>を取寄せたいと存じますが、お許し下さいましょうか』

『はて、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>に、妻がござったか』

『萩井十太夫殿の娘小夜は、十太夫殿の御病気のため、挙式は取り<ruby><rb>遅</rb><rt>おく</rt></ruby>れましたなれど、自分の云い交した妻に相違ございませぬ。――その小夜の許まで、<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>かお使を願いたいのです』

『自分の一存では計らいかねる。お待ち下さい』

と、与四郎兵衛は退がった。

## <ruby><rb>水装束</rb><rt>みずしょうぞく</rt></ruby>

## 一

『お城からお使でござりまする』

<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え声で、取次の者は、<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>の外から告げた。

<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>暗い彼女の部屋は、萩戸と目の細かい<ruby><rb>絵簾</rb><rt>えすだれ</rt></ruby>に囲まれながらも、冷ややかな香のけむりと、密やかな<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>を今朝から閉じこめていた。

『……はい、何ですか』

人の気配に、お小夜は、強いてきっとした声で振向いた。

『御城内から、使の者が見えて、甚三郎様の<ruby><rb>水装束</rb><rt>みずしょうぞく</rt></ruby>を取りに参りましたが』

水装束――云う迄もない死装束――彼女はぎくっとしたが、<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>、落着きを失うまいと努めながら、

『承知しましたと云って、使を返して下さい』

『お品は』

『後から私が自身でお城まで持参いたします』

取次が去ると、彼女は、次の化粧部屋へそっと移った。

彼女は、鏡台に向って、眉を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>り、そして歯も染めた。

自分の所へ、死装束を取りによこしたのは、甚三郎もすでに、自分を妻として、検死や立会へ届け出たにちがいない。

（妻としてなら、死に<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>に、一目の別れを許して下さるかも知れぬ。……もしそれが<ruby><rb>能</rb><rt>かな</rt></ruby>わぬ時は、せめて、死骸をここへ戴いて帰って来ましょう）

こう<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に思い出したからである。

お城までは、さして遠くもない。わざと<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>一人連れず、彼女は、甚三郎の死装束を、白木の衣裳<ruby><rb>蓋</rb><rt>ぶた</rt></ruby>へ乗せて、心づよくも、歩いて行った。

病床にいる父へも、何も告げなかった。十太夫の容態は今朝から<ruby><rb>快</rb><rt>よ</rt></ruby>くなかった。

まだ、杯も挙げないうちに、この悲嘆である、<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>のような涙がこみ上げたがっていた。けれど、十太夫の娘だった。兵学教頭の家庭に仕込まれたお小夜であった。――もう胸には次の大事をいっぱいに考えつめていたのである。

（<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>のお方に、<ruby><rb>邪</rb><rt>よこしま</rt></ruby>な<ruby><rb>行</rb><rt>おこない</rt></ruby>がある筈はない。誰か、甚三郎様を<ruby><rb>墜</rb><rt>おと</rt></ruby>し入れよう為に、計ったことじゃ、たとえ甚三郎様の<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>い後も、きっと、その下手人を見出して、お怨みをお晴らし申しあげねばならぬ。それが私の生涯の勤めになった……）

大手へ行く町通りを避けて、<ruby><rb>乾門</rb><rt>いぬい</rt></ruby>の<ruby><rb>搦手</rb><rt>からめて</rt></ruby>へ行く草原の中の町を、夜露に裾を濡らしながら、うつつに歩いてゆく彼女だった。

――すると、野中のひょろ長い樹の下から、誰か、人影がうごいて、彼女の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から近づいて来たかと思うと、

『小夜どの。小夜どの』

と、呼びかけた。

彼女は、何かしら、ぞっとした。

高安平四郎の声――とすぐ感じたからである。

## 二

城内から使の出た後、平四郎も又すぐ、

『<ruby><rb>躾</rb><rt>たしな</rt></ruby>みの<ruby><rb>一腰</rb><rt>ひとこし</rt></ruby>を差し代えて参ります故――』

と、立会衆の<ruby><rb>控</rb><rt>ひか</rt></ruby>え部屋へ断って、わが<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>へ、刀を取りに帰ったのである。

――だが、果して、それが目的だったか、又は、彼女をここに待ち受けるのが目的だったかは分らない。

然し、打ち見た所、平常の腰の<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>とは、確かに違って、寸長な見るからに<ruby><rb>反打</rb><rt>そりうち</rt></ruby>の烈しい刀を横たえては居た。

『どなたかと思ったら、平四郎様でございましたか』

『暫くお目にかからなかったが、<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>は計らずも、一生に、又とあるまじき、不思議な役目を仰せつけられた。――<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>も、この平四郎も』

『…………』

彼女は、胸に抱いている水装束の台へ、ふと、眼を落したが、

『貴方に、不思議なお役目とは？』

と、涙も見せず問い返した。――いや、平四郎の姿を見た途端に、涙とは反対な、むしろ抗争的な強い意志が、ぐっと胸に立ち直っていた。

平四郎は、薄ら笑いに、歯を見せて、

『これが不思議な<ruby><rb>宿縁</rb><rt>しゅくえん</rt></ruby>でなくて何としよう。――海野甚三郎の介錯人は、かくいう平四郎に<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けられましたぞ』

『げッ……。あなたが……あの甚三郎様の御介錯を』

『お小夜どの。今、<ruby><rb>茅屋</rb><rt>ぼうおく</rt></ruby>から取って来たこの<ruby><rb>備前長船</rb><rt>びぜんおさふね</rt></ruby>は、自慢ではないが、すばらしく斬れますぞ。御安心なさるがよい』

『…………』

彼女の涙は、遂に、理性の<ruby><rb>堰</rb><rt>せき</rt></ruby>を突き破った。肩をふるわせて、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>くと共に、思わず地へ<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>んでしまった。

けれどそれは、この<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>になって、甚三郎の死を悲しむ涙などではなかった。もっと強い、反抗的な、<ruby><rb>呪咀</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>をこめた――口惜し涙であった。

『あなたは……平四郎様！　……あなたはよくも、そんな事を、私の前で仰っしゃられます』

『云われないで何うしましょう。海野甚三郎に対して、一寸の恩もなければ、友達の<ruby><rb>誼</rb><rt>よし</rt></ruby>みもない』

『けれど……そうして御自慢なさる<ruby><rb>据物斬</rb><rt>すえものぎり</rt></ruby>のお腕前は、一体、誰から教えられたのでございますか』

『……ム。それは貴女の父十太夫殿からだったなあ』

『又。……今誇って仰っしゃった、備前長船も、誰から戴いた刀だと思し召すか。それも、父の十太夫が……私が幼い時、笛吹川で溺れる所を、助けて戴いたお礼にと――貴方へ贈った物ではございませぬか』

『それを、覚えておられたか』

『忘れて何といたしましょう』

『――ならば、生涯、口が腐っても云うまいと思ったが、平四郎も一言申すぞ』

『オオ、仰っしゃいませ！』

『……いや。……止そう』

と、平四郎は、感情の儘、こみ上げかけた声をふと落して、

『……大人げない。はははは』

相手が、冷ややかになると、彼女はむしろ<ruby><rb>赫</rb><rt>かっ</rt></ruby>として、

『卑怯な！　卑屈な！　……。その通り、何も仰っしゃれないではございませんか』

『云えないと思うか』

『ええ、私には、何も云われる覚えはございませんもの』

『じゃあ云うが――小夜どの、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>はよくも、この平四郎を<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>ったな』

『え……弄ったとは』

『まだ、甚三郎が長崎表から帰らぬうちの事……よう胸に手を当てて思い出してみるがよい』

『思い出す事？　べつに、あなたとの間に、そんな、心にふかく刻まれた憶い出は何もございません』

『ないっ？』

『ええ……ありませぬ！』

『では……では<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>か――』と、平四郎の声の方が、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えを帯びて、むしろ彼女よりは、<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しく聞えるほど<ruby><rb>甲走</rb><rt>かんばし</rt></ruby>った。

## 三

『忘れもせぬ――』と、眼をふと<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いで、

『そうだ、<ruby><rb>其女</rb><rt>そなた</rt></ruby>が十六の春、お父上の十太夫殿も、家族もあらかた、花見に出て留守だった。<ruby><rb>其女</rb><rt>そなた</rt></ruby>は<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>の床に、瞼を<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>らして寝ておった。――そこへ拙者も留守を頼まれて<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しい<ruby><rb>看護</rb><rt>みとり</rt></ruby>をしていた時、其女は、この平四郎に何というたか』

『その事は覚えていますが……そんな言葉は忘れました』

『忘れた？』

と、早口にたたみかけて、

『――では、その夏、荒川の堤へ、螢狩りに行って、あの帰るさ、<ruby><rb>闇路</rb><rt>やみじ</rt></ruby>を戻りながらの言葉は』

『みんなして、笑いさざめきながら、冗談を云い合って帰りました』

『何！　冗談だと？　……。ウーム……冗談』

平四郎はもう、自分へ云って自分で答えるように<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いて、

『すると……其女がこれ程の言葉は皆、<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れ事であったというのか』

『もしも、何か貴方のお心に、恋として残るような言葉でも云ったことがあったでしょうか』

『――もうよい。アアそんなものか』

平四郎は、何か、悪夢から醒めたように、<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と、<ruby><rb>空</rb><rt>うつ</rt></ruby>し身になって星を仰いでいたが、

『小夜どの。……よく判っきり云ってくれた。では、其女はこの平四郎を、<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>も、好きだと思ったことはなかったのだな』

『ええ……。ただ、父から、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>の御恩人じゃ、忘れてはならぬ、有難く思わねばならぬと、何かにつけて云われていたので――何うしたら、それが貴方に映るかと』

『……ふ、ふ。そうか。それだけのものか』と、<ruby><rb>自嘲</rb><rt>じちょう</rt></ruby>して――

『それが、拙者を<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り物にした証拠だ。だが小夜どの、きのうは<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の身、今日はわが身。――天は公平だな、あははは』

『今のお言葉は、それ見た事かという意味でございますか』

『元よりの事』

『解りました。さては、卑劣な<ruby><rb>謀</rb><rt>たくら</rt></ruby>み事をして、甚三郎様を<ruby><rb>墜</rb><rt>おと</rt></ruby>し入れた下手人は……？』

『なにッ』

『いいえ！　貴方でございましょうが。問うに落ちず語るに落ちる、今の言葉、貴方の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>にちがいないっ』

『――で、あったら、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うするか』

『もう、恩人とは云わさぬ。女ながら、萩井十太夫の娘、縄を打ってお城へ――』

『はははは。その細腕で』

『おのれっ』

お小夜は、抱えていた装束台を、小袖ぐるみ、相手の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ投げつけて、次の<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、短い刃を抜くや否、身を<ruby><rb>挺</rb><rt>てい</rt></ruby>して、斬りつけて行った。

## 四

平四郎は、<ruby><rb>喝</rb><rt>かっ</rt></ruby>と、気当てを返して、

『<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た真似をするなっ』

と、身をひらいた。

刃のような彼の<ruby><rb>平掌</rb><rt>ひらて</rt></ruby>が、彼女の手元を強く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はた</span>いた。

懐剣は、草むらへ飛び、彼女の体は、平四郎に手頸をつかまれて、前へ泳ぎかけた。

『<ruby><rb>其女</rb><rt>そなた</rt></ruby>の惚れた男とは、少し骨の筋がちがうぞ。――介錯人の使命をうけたのを幸に、甚三郎の細首を落して無念をはらし、明け方迄には、他国へ逐電と考えていたが、もうこう口を割ったからには、お城へも戻れまい。女を討ったと云われては、末代まで、高安平四郎の恥になるから、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>だけは助けてくれる。はやく城内へ戻って、好きな甚三郎でも、<ruby><rb>助太刀</rb><rt>すけだち</rt></ruby>に連れて来い。尋常の勝負なら、青沼の光沢寺で待っていてやる』

『……オオ。云やったな！　……。では<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>に、紛失物の下手人は』

『もうここ迄云ったら、誰の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>か、推量がつくだろう。――早く、御城内へ訴えに馳けて行け。<ruby><rb>九刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>を過ぎると、間にあわぬぞ』

云いながら、平四郎は、彼女の体を、勢よく草の中へ突き放した。

――女の力！　及ばぬ腕！　口惜しさに、彼女はいちど、わっとその儘、泣き崩れたが、

『ま！　まてッ――』

叫んで、再び起ちかけた時は、もう平四郎の姿は、草露の光る彼方へ、跳る<ruby><rb>魔形</rb><rt>まぎょう</rt></ruby>のように、馳け去っていた。

## 荒川づたい

## 一

『<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたのであろう？』

立会の者の控え部屋では、当夜の検死を初め、役人たちが、顔を見合せていた。

『もう、<ruby><rb>九刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>に近かろうが……』

『平四郎も戻らぬし』

『水装束もまだ届かぬというが』

云っている間に、その九刻は、髪切虫の啼く音のように、時計の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>からギリギリと聞えた。

『いつ迄、待っても居られまい。――死罪の者に対して、<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>を与えなどしては、江戸表への御報告も偽りになる』

当夜の立会人のひとり――城番加役宮崎<ruby><rb>若狭守</rb><rt>わかさのかみ</rt></ruby>の子息市之丞がそう云って、真っ先に、執行に立った。

それに<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れられて、

『では、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>の望みだが、水装束も間にあわぬな』

『小袖はよいが、介錯は誰がいたすな』

などと口々に呟きながら、時刻と、市之丞の言葉に促されて皆、起ち上った。

『平四郎の戻りが間にあわねば、ぜひもない、介錯はそれがしがする』

この中では、市之丞が若かった。――で当然の意気らしく、それは響いた。

然し、御城番の次席である若狭守の次男なので、家柄としては、この中の誰よりも高い。それを老人達は、やや<ruby><rb>憚</rb><rt>はば</rt></ruby>かって、

『いや、市之丞様のお手を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わさぬ迄も、誰か、居らぬ事はござりますまい。――誰か、即刻呼んで、申しつけますれば』

『いや、もう時刻がない』

市之丞は、大股に控え部屋を出、武器の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の下まで歩みかけた。

――と。そこへ<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく、

『お待ち下さい。甚三郎の切腹、暫く、お待ち下さいっ』

息を<ruby><rb>喘</rb><rt>せ</rt></ruby>いて馳けて来た与四郎兵衛が、切腹部屋の前まで出揃った人々を見て、手を振った。

『何で留めなさる』

一人が、強くたしなめた。

『いや、下手人が、分ったのでござる！』

与四郎兵衛の言葉は、絶叫するようだった。

『――われわれは、まんまと、その下手人に、<ruby><rb>騙</rb><rt>たば</rt></ruby>かられたのじゃ。折角、御城内にいたものを、<ruby><rb>逸</rb><rt>いっ</rt></ruby>してしもうたのだ』

『――して、誰だ？　下手人とは』

市之丞は、眼を光らして、問い詰めた。

『されば高安平四郎と相分った』

『何、平四郎――が』

皆、意外な顔を見あわせて、

『然らば、紛失物を奪ったのは、平四郎の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と仰せあるか』

『甚三郎に、恨みがあって、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>が<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>ったことだと申す』

『――誰の口からそれが知れましたか』

『今。御城門へ訴えて来た、萩井十太夫殿のお娘――小夜どのがそう申すのじゃ。しかも、その訴えによれば、平四郎自身が、小夜どのに、自己のやった<ruby><rb>復讐</rb><rt>しかえし</rt></ruby>を誇って、そのまま<ruby><rb>逐電</rb><rt>ちくてん</rt></ruby>したとも云う。――これは<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りであろう筈はない』

## 二

他に、下手人が出た以上、海野甚三郎にはもう、下手人の嫌疑はない。

然し、責任はまだ、充分にある。

それは、真実の下手人を、捕えることだ。人々の意見は、そこで即決を見て、すぐ甚三郎を、切腹部屋から出した。

そして、立会人と共に、すぐお小夜に会わせ、猶つぶさに、彼女の口から、真相を聞き取らせた。

『――では平四郎は、尋常に勝負するなら、青沼の光沢寺で待つといったか。確かに、そう云ったか』

甚三郎は、何度も、お小夜に確めた。

人々も、そこを大事と、耳を<ruby><rb>欹</rb><rt>そばだ</rt></ruby>てた。

お小夜は、<ruby><rb>有</rb><rt>あり</rt></ruby>の儘に、

『はい、まだ貴方の死を見ないで去るのが、心<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>りのように、確かに、そう云って、逃げ<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>きました』

と、答えた。

『それっ、すぐ手配をすれば――』

と、役人たちは、先を<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いて、すぐそれぞれの支度に急いだ。

討手の人数は、忽ち<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>った。

日頃、平四郎と余り<ruby><rb>誼</rb><rt>よし</rt></ruby>みのない若侍のうちから、約二十名ほど<ruby><rb>選抜</rb><rt>すぐ</rt></ruby>って、それに、練達な役人が三、四名付き添い――宮崎市之丞を、先に立てて甲府城から馳け出した。

それより一足先に、海野甚三郎と、お小夜の二人が、青沼村をさして、急いでいた。こう二人は、当然、討手の誰よりも真っ先に向わなければ、一分が立たない立場にある。

城下<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れから、荒川に添って、山地へ向いながら小一里も行くと、右側の小高い所に、一<ruby><rb>宇</rb><rt>う</rt></ruby>の寺が見える。

まだ、明け方には、間があったが、水明り星明りに、何処となく<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>青い明るさのある道だった。

## 北斗の<ruby><rb>顫</rb><rt>おのの</rt></ruby>き

## 一

――それよりは、やや先に。

お小夜を突き放して、住み馴れた甲府の深夜も、<ruby><rb>惜気</rb><rt>おしげ</rt></ruby>もなく捨てて馳けた高安平四郎は、真っ暗な光沢寺の山門を風のように<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>っていた。

<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>へ廻って、

『起きろ。起きろ』

ほとほととそこの戸を揺すぶる。

寝ぼけ<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>の<ruby><rb>納所僧</rb><rt>なっしょそう</rt></ruby>が、

『どなたで？』

と、見上げた。

『江戸の者だが――』<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に云って、

『泊っているだろう？』

と、訊ねた。

皆まで訊かずに、

『あ……御浪人方のお連れで』

『そうだ』

『どうぞ……』

すぐ、<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>をつけかける手を制して、

『坊主』

『はい』

『この光沢寺は、一蓮寺の別院だな』

『左様で――』

『一蓮寺は、御勤番加役、甲府在住の宮崎若狭守どのの<ruby><rb>菩提寺</rb><rt>ぼだいじ</rt></ruby>だな』

『仰っしゃる通りでございます』

『――すると、この光沢寺と、宮崎家との縁故も、だいぶ浅くないな』

『はい。何かにつけ、お世話になっておりまする』

『江戸から来ている――おれ達の連れの浪人達は、そんな筋から、ここへ寝泊りしているのじゃないか』

『よく……存じませんが、何しろまあ、どうぞ』

『いや、ちょっと聞いておきたいのだ。御加役の御子息、市之丞どのは、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>見えられたえ』

『今朝ほども、お見えになりました』

『今朝ほども――か。<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>』

『蚊がひどう御座いますから、どうか、中へお這入り遊ばして』

『奥に泊っている浪人たちは、何と申す名だな』

『えっ……御存じないので』

『忘れたのだ。まだ浅いつきあいだから』

『お一人は、<ruby><rb>菅馬之助</rb><rt>すがうまのすけ</rt></ruby>様、御一名は、<ruby><rb>服部太蔵</rb><rt>はっとりたぞう</rt></ruby>様と仰っしゃいます』

『どこにいる』

『この広い廊下を突き当って、右の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れの広間を御寝所にしていらっしゃいますが、お起し申して参りましょうか』

『それには及ばん。――おい坊主ちょっと出い。<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出い』

『な……なんでござりまするか』

平四郎は、僧侶の襟元をぐいと掴みよせて、怖しい眼で<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけた。

『怪我をしない所へ行っておれ。そして、静かにするのだぞ。声を立てたら、斬り捨てるぞよ』

## 二

柳町の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>に飲み歩いて、今し方、大酔して帰って来るなり、寝汚なく夜具の上に身を抛り出した二人だった。

――でも、油断のない男とみえて、服部太蔵がふと、

『おい、馬之助、馬之助』

と、連れの菅馬之助の耳を引っ張った。

ううむ……と<ruby><rb>寝呆</rb><rt>ねぼ</rt></ruby>け声を出して、何か、云いかける口を、叱っ、と抑えて、

『おかしいぞ。――おいっ、眼をさませよ。何か、<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>の戸があいて、人声がするようだ』

と、囁いた。

<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く、菅馬之助も、首を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げて、

『人声が？　……何処に』

『もう聞えなくなったが』

『耳のせいだろう』

『風の音にも、心を措くという奴だな』

『金儲けとなれば仕方がない』

『<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>は立とうぞ。足もとの明るいうちに』

『だが、あれだけ持っていた所で、路銀がなくっちゃあ』

『今夜は、事が決まると云っていたから、明日はお見えになって、路銀もくださるだろう』

『……おやっ？』

『……？』

二人とも、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を溜めた。みしりっと、廊下の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きしみ</span>が、<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>に伝わって、何か神経を尖らせられたからである。

――と。障子のすぐ外であった。

『馬之助。太蔵。路銀をやろう、顔を貸せ』

『――げっ？』

<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きて、あわてて、大刀を抱えこみながら、

『だ、だれだっ』

『この辺の遊び人だ。顔を貸してもらいてえ』

遊び人と聞いたので、頭から呑んで、

『こらっ、誰に断って、<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来たか』

馬之助が、がらりと、障子をあけて顔を出す途端に、

『<ruby><rb>冥途</rb><rt>あのよ</rt></ruby>の<ruby><rb>草鞋銭</rb><rt>わらじせん</rt></ruby>。それっ』

ぴゅっん――と細い<ruby><rb>刃金</rb><rt>はがね</rt></ruby>でも唸るように刀が鳴った。馬之助の首はわずかに胴へ皮を余して、でんと、廊下へぶっ仆れた。

『――あッ』

仰天して、服部太蔵が逃げかける背へ、平四郎は跳びかかって、ぶんと、肩先へもう一つ入れた。

うーむと、服部太蔵は、仰向けにひっくり<ruby><rb>転</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。然し彼の浴びたのはミネ打ちであって、単に、眼を<ruby><rb>眩</rb><rt>くらま</rt></ruby>したに過ぎないらしい。

平四郎は、太蔵の体を、横抱きにして、元の庫裡から、何処ともなく、出て行った。

――然し、それから後、間もなく、彼の姿は再び、本堂の前に現われた。そして、正面の階段に、腰をおろして、白い<ruby><rb>北斗</rb><rt>ほくと</rt></ruby>のまたたきを、無言で見つめながら、何ものかを心待ちに待ち構えているふうであった。

## 三

『――おうっ、<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>れに、人影が』

今、此の寺の石段を<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ登って来た<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は、一歩、山門を這入るとすぐ、そう云って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎく</span>と足を<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>め合った。

いう迄もなく、お小夜と、海野甚三郎のふたり。

白く、冴え切ったお小夜の決死の顔に反して、甚三郎の方は、むしろ土気いろに、体も<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばり、どこか微かに<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えていた。

切腹部屋から出された瞬間から――彼は、ふたたびもう、死というものを、思うのも怖しくなってしまった。

わけて、お小夜の姿を見てから、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に、未練な――生への執着が――堪らなく強くなっていた。

それに、武道にかけては、自信がない。

いわんや高安平四郎を相手にしては。

――だから、今、平四郎のすがたを、本堂の階段に見ると共に、

（まだ、<ruby><rb>後詰</rb><rt>ごづめ</rt></ruby>は来ないか）

と、山門から<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を、無意識にふり顧った。

平四郎は、意地悪く、

『来たか！』

と、彼方から<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>へ声をかけた。

声をかけられてはもうそれ迄だった。

『オ！　居ったな、高安平四郎』

<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>して、左右から駈け寄っても、平四郎は、腰かけている階段から、動こうともしなかった。

『待っていたのだ』

そう云って、底気味のわるい眼で――<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>っ<ruby><rb>方</rb><rt>ち</rt></ruby>から先に刀の<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>にするか――と舌なめずりして見較べるように、

『相思相愛、死ぬも生きるも、一<ruby><rb>蓮托生</rb><rt>れんたくしょう</rt></ruby>と、ふたりして追って来たな。――だが、こう見るところ、男の甚三郎には<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えが見える。長崎仕込みの軽薄才子――もし生きて添っても、その構えでは、<ruby><rb>末始終</rb><rt>すえしじゅう</rt></ruby>が心もとない』

『な、なにを云うぞ。この<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>になって、<ruby><rb>世囈</rb><rt>よま</rt></ruby>い言を』

『ふン……後の加勢が来るあいだ、世囈い言を聞いていたほうが、其っ<ruby><rb>方</rb><rt>ち</rt></ruby>に取っては、無難ではないか。――今度はお小夜に一<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>云おう』

と、少し膝を向けかえて、

『<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>ってくれ、おれは何という<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>の痴人か。<ruby><rb>其女</rb><rt>そなた</rt></ruby>の一<ruby><rb>顰</rb><rt>ぴん</rt></ruby>一<ruby><rb>笑</rb><rt>しょう</rt></ruby>を、みな自分勝手に受け取って、独りで恋をし、独りで悩み、独りで迷い、<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>の果に――又これからも、生涯独りで<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>い出そうとしている』

『……もう……もうそんな<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り言、聞く耳はないっ。甚三郎様に罪を着せる為、盗んだ品を、これへ出して、武士らしく、そなたこそ腹を切ったがよい』

彼女は、<ruby><rb>健気</rb><rt>けなげ</rt></ruby>に、詰め寄った。

眼にも入れない容子で、平四郎は、云いたい事を、云い続けた――

『そこで、凡痴なおれは、腹の底から、甚三郎も又<ruby><rb>其女</rb><rt>そなた</rt></ruby>も、恨みに思ったこともあるが、一日一日、おれの描いていたおれの幻は消え――わけても<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、草原の中で、正直な其女の気持を聞いてからは、朝の月みたいに、恋の相手は消えてしまった。――そして唯、今も胸に残っているのは、笛吹川から抱き上げた頃の――十三、四歳のあどけない小娘だけだ。その小娘は、たとえ<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>われても、永遠におれは愛する！　……愛さずにいられない！』

と、怪しく<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶった声を顫わせて、

『……では、甚三郎の御家内、お小夜どの、倖せに送るがよい。――又、お小夜どのの良人甚三郎へも云おう。どうか末長く、可愛がってやるがいい。<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>とおてまえは才子肌だ、男にすら、今度のように<ruby><rb>鼻毛</rb><rt>はなげ</rt></ruby>を抜かれる。まして女には、長いうちに<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うあろうか。こんな女房を持って、浮気をしては罪だぞ。その時は、平四郎がゆるさんぞ。――』

と、ぬっくと起ち上ったかと思うと、

『では、おさらば』

と、二人を捨てて、右の廻廊の方へ、ずかずか歩き出して行った。

## <ruby><rb>灯皿</rb><rt>ひざら</rt></ruby>の罪

## 一

何やら、謎めいた言葉に、お小夜も、甚三郎もやや<ruby><rb>呆</rb><rt>あ</rt></ruby>っ気にとられていたが、平四郎が逃げる気と勘づいたので、はっとしながら、

『――待てっ、御番城の宝物を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて、その儘、巧みに逃げようとて、そうはさせぬ』

と、甚三郎は、大きく呶鳴りながら、廻廊の上へ、<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね上って、背後から抜打に斬りつけた。

ばっ――と、刃風を顔の前へ<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>して、

『云い残した』

と、平四郎は、彼の小手先を、ぐいと掴んだ。

『お小夜どの』

と、次に、突いて<ruby><rb>蒐</rb><rt>かか</rt></ruby>ろうとしている血相へ振向いて、

『紛失した歌仙本は、確かに、この寺の奥の客間にある筈。血まみれの中を後でよく<ruby><rb>検</rb><rt>たしか</rt></ruby>めてみるがよい。――<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>、不審な事、分らぬ点は、この床下へ、ふん<ruby><rb>縛</rb><rt>じば</rt></ruby>って突っ込んである浪人へ問い<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>すがよい。――<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の口書は、いずれ密封の上、江戸表の<ruby><rb>評定所</rb><rt>ひょうじょうしょ</rt></ruby>へ一通、御城番松野<ruby><rb>豊後守</rb><rt>ぶんごのかみ</rt></ruby>どのへ一通――各〻へ二通に<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めて、後から飛脚でお届けするつもり』

と、伸び上って、

『おお、後詰が来たな。――あの中には、御加番宮崎若狭守のせがれ市之丞も居ることだろう。あれも<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>の悪い凡痴の一人』

と、笑って又、

『お小夜どの。<ruby><rb>其女</rb><rt>そなた</rt></ruby>のような、あどけなくて、美しい<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>は、ちょうど、夏の夜の虫を焼く<ruby><rb>絵行燈</rb><rt>えあんどん</rt></ruby>のようなもの――<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>に罪はないが、焼かれる虫にも無理はないのだ。――ただ市之丞のような<ruby><rb>佞物</rb><rt>ねいぶつ</rt></ruby>は、焼いても飽き足らぬ佞物だが……』

もうその時、早くも、廻廊の横へ、裏手へ、

『逃がすなっ』

討手の声――そして跫音の<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れ、――喚き、<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>めき。

――さらば！

と、云っている間もなかった。

どどどどっ……と廻廊の一角へ馳けて、ひらりと<ruby><rb>欄</rb><rt>らん</rt></ruby>を越えた平四郎の影は二、三名の者を刎ねとばして、裏山の闇ふかく――いやもう<ruby><rb>小禽</rb><rt>ことり</rt></ruby>の声に明けかけた水色の<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>の中へ、溶け入るように紛れてしまった。

## 二

『しまったっ。――早く、近道を登って、先を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>げっ』

市之丞は、<ruby><rb>馳</rb><rt>か</rt></ruby>けて来て、追い惑う侍たちを、<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>した。

『うぬっ』

<ruby><rb>暁闇</rb><rt>ぎょうあん</rt></ruby>の大地から、不意に誰か、彼の足をつかんだ。

市之丞は、もんどり打って、

『あっ、何をいたすっ』

云わせも果てず、海野甚三郎は、彼の上へ、馬乗りになって、

『下手人ッ、召捕った』

と、呶鳴った。

市之丞は、もがきながら又、怒りの眼をつりあげて、

『ば、ばかなッ。わしを下手人とは、何を申す。――発狂したか、甚三郎』

『だまれっ。かねて不審なかどもあるにはあったが、よもや御加番の子息がと、打ち消していたのが不覚だった。――それがしを罪に<ruby><rb>墜</rb><rt>おと</rt></ruby>し入れ、自滅させようと計った<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>は、確かに、汝に相違ないっ』

意外なことばに、役人や討手の侍たちも、ばらばらと駈け寄って来て、一時は、まったく甚三郎の発狂かと怪しんだが、お小夜も共に、信念をもっていうので、

『では』

と、言葉にまかせて、床下を捜すと、<ruby><rb>俵縛</rb><rt>たわらくく</rt></ruby>りに縛られた浪人の服部太蔵が引っ張り出されて、

『市之丞様、もう運の<ruby><rb>尽</rb><rt>つき</rt></ruby>だ。あっしゃあ、平四郎に責められて、もうすっかり<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ってしまいましたぜ』

と、泥を吐いてしまった。

彼の自白に依って、総ては、明白になった。

市之丞も又、かねてから、お小夜を恋していた一人だったのである。

だが、お小夜はそれも、平四郎に対するのと同じように、何の警戒もしなかったし、甚三郎に向って、べつに注意もしていなかった。

――けれど市之丞としては、多年の恋に、<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>を煮やし、あらゆる術策を尽した上の――自暴自棄なのであった。その果に、彼女の良人と選ばれた甚三郎を、自滅させる為に、二人の浪人を雇って、歌仙本を盗めと<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かし、城内へ忍び込む手引までしてやったものである。

だが、市之丞の<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>た手口も、洗ってみると、極めてまずい、坊っちゃん仕事でしかなかった。――やはり焼け死ぬ虫は<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>には違いないが、無心の絵行燈の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>皿の方に、むしろ罪ふかいものがある。無心であっても、罪ふかい灯のまたたきに、<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>は心しなければならない。

（昭和十三年八月）