## 一

木も草も枯れ果てて、<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>の野は、霜の白さばかりが目に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みる。

世は<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>に次ぐ戦であった。<ruby><rb>建武</rb><rt>けんむ</rt></ruby>の平和もつかの間でしかなかった。<ruby><rb>楠木正成</rb><rt>くすのきまさしげ</rt></ruby>、弟<ruby><rb>正氏</rb><rt>まさうじ</rt></ruby>たち一族の<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい戦死が聞えた後も、乱は<ruby><rb>熄</rb><rt>や</rt></ruby>まなかった。山は燃え、河はさけび、この辺りを中心として、<ruby><rb>楠氏</rb><rt>なんし</rt></ruby>の軍と、<ruby><rb>足利勢</rb><rt>あしかがぜい</rt></ruby>との激戦は、繰返され繰返されて、人皆が、冬野の白い枯木立のように、白骨となり終らなければ<ruby><rb>熄</rb><rt>や</rt></ruby>まないかに思われた。

「……何として近づこう」

ひとり野を歩いて行く男は考えていた。

足利方の大将<ruby><rb>山名時氏</rb><rt>やまなときうじ</rt></ruby>の家来で、<ruby><rb>漆間</rb><rt>うるしま</rt></ruby><ruby><rb>蔵</rb><rt>ぞう</rt></ruby>六という者だった。蔵六の顎にも霜が生えていた。五十がらみの武者である。

蔵六はしかし武者いでたちはしていない。薬売りの持つ旅つづら一つ<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>って、それに似合う<ruby><rb>下人</rb><rt>げにん</rt></ruby>の<ruby><rb>脛当</rb><rt>はぎあて</rt></ruby>を着け、野太刀ひと腰さしていた。

「おや。……<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>が行くぞ。<ruby><rb>女人</rb><rt>にょにん</rt></ruby>のお輿らしいが」

冬木立の間を駈けぬけ、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に、野の一すじ道へ急ぎ出した。

彼が、大声して、手を振ったので、先を行く輿は、

「何者？」

と、止まったが、同時に、それを守る七名ばかりの郎党は、怪しみの眼をそろえて、<ruby><rb>長巻刀</rb><rt>ながまき</rt></ruby>を向けたり、弓に矢をつがえかけたりした。

蔵六は、次にまた、怪しい者でない由を呶鳴り立てた。<ruby><rb>京都</rb><rt>みやこ</rt></ruby>で聞えている<ruby><rb>薬師</rb><rt>くすし</rt></ruby>の店の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>だと云った。妙心寺のお書付も所持しているし、<ruby><rb>授翁和尚</rb><rt>じゅおうおしょう</rt></ruby>もよく存じ上げている。自分の家法とする<ruby><rb>金創</rb><rt>きんそう</rt></ruby>の名薬は、以前、その授翁様を通じて、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に討死遊ばした正成様の御陣へもさしあげて、お<ruby><rb>賞</rb><rt>ほめ</rt></ruby>にあずかったことがあると云った。

「して、その薬師が、この戦場へ何しに、また何用で、われらを呼びとめたか」

輿の従者たちが<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め返すと、蔵六は、家法の陣中薬を、東条の城へ献納のために来たと答え、<ruby><rb>洛内</rb><rt>らくない</rt></ruby>の商民である自分らとしては、せめてこういうことでもするしか、朝廷への御奉公の道はないので――などと云い足した。

「いかがしたものでしょうか」

従者のひとりは、輿の内なる若い女性に伺っていた。蔵六のことばを民草のしおらしい真心と聞いたか、<ruby><rb>﨟</rb><rt>ろう</rt></ruby>たけた<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>の主は、計ろうてとらせてやるがよいと、内で云った。

## 二

<ruby><rb>千早</rb><rt>ちはや</rt></ruby>、<ruby><rb>金剛山</rb><rt>こんごうせん</rt></ruby>は云わずもがなである。この辺はどんな小山も<ruby><rb>窪地</rb><rt>くぼち</rt></ruby>も、<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>や<ruby><rb>寨</rb><rt>とりで</rt></ruby>でないところはない。

だが蔵六は、折ふし途中で会った<ruby><rb>内侍</rb><rt>ないし</rt></ruby>の供に加わって来たので、難なく要塞の本拠まで入れた。後で聞けば、輿の<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>は、吉野の仮宮に仕える内侍所の女性で、何かのお使いで東条の城へ見えた途中であったという。

正成の戦死して後、ここは楠氏の<ruby><rb>本城地</rb><rt>ほんじょうち</rt></ruby>であった。十八郷の勤皇の将士の多くは、正成と共に湊川で殉じたが、なお孤塁には三千の忠精があった。<ruby><rb>巌</rb><rt>いわお</rt></ruby>のような結束があった。

「――だが、屈強な者は、目立って<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>っているな」

蔵六は、そう観た。

彼が、入り込んだのは、<ruby><rb>正平</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>二年、足利勢の細川<ruby><rb>兵部大輔</rb><rt>ひょうぶだゆう</rt></ruby>や山名時氏の軍が、<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くも年少の大将楠木正行のために、一敗地にまみれて敗走したすぐ後のことだった。

で、ここには今、戦捷の意気が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っていた。山名細川の首も近く見ようぞ。春ともなれば、<ruby><rb>尊氏</rb><rt>たかうじ</rt></ruby>の首級を、京に<ruby><rb>梟</rb><rt>か</rt></ruby>けて、<ruby><rb>神璽</rb><rt>しんじ</rt></ruby>を奉じ、主上の還幸をお願いし奉ろうぞ。そうみな希望にかがやいていた。

けれど、蔵六の眼で見れば、その人々の信念にただ驚くばかりであった。彼が仕えている足利の軍隊からみれば、兵数は勿論、兵器、食糧、装備の諸具、欠乏を告げていない物はない。

農倉の<ruby><rb>稗</rb><rt>ひえ</rt></ruby><ruby><rb>粟</rb><rt>あわ</rt></ruby>は云うまでもなく、畑の物も土を<ruby><rb>篩</rb><rt>ふるい</rt></ruby>にかけたように喰べ尽している。龍泉寺の樹々も、ここの草木も、<ruby><rb>焚物</rb><rt>たきもの</rt></ruby>として焚き尽し、立っているのは、風雨に黒くよごれた幾十<ruby><rb>旒</rb><rt>りゅう</rt></ruby>かの菊水の旗ばかりであった。

わけてもここで欠乏して困っているのは、病舎にいるたくさんな負傷者に用いる陣中薬であろう。そう察して、蔵六が、献上と称して持って来た物は、案のじょう、

「よくぞ」

とばかり<ruby><rb>寨</rb><rt>とりで</rt></ruby>の人々に歓ばれた。

各所の小合戦は絶え間ないし、傷者は殖えるばかりだし、それにまた、蔵六が、<ruby><rb>薬師</rb><rt>くすし</rt></ruby>というので、

「御奉公のため、働きたいというか。<ruby><rb>殊勝</rb><rt>しゅしょう</rt></ruby>なことである」

と、そのまま、<ruby><rb>城寨</rb><rt>じょうさい</rt></ruby>のうちにいることも許された。

「しめた。ここまで事が運べば」

蔵六は、目的に向って、徐々と眼を光らし始めた。

## 三

<ruby><rb>漆間</rb><rt>うるしま</rt></ruby><ruby><rb>小</rb><rt>こ</rt></ruby>四郎<ruby><rb>綱高</rb><rt>つなたか</rt></ruby>は、こんど十七歳での出陣だった。初陣ではなく、何度かの合戦で、いつも敵の強豪を打ち、足利勢のうちでも、

「<ruby><rb>小綱</rb><rt>こつな</rt></ruby>は、一の武者よ。親まさり、主まさりよ」

と、褒められ者であった。

その小綱は、漆間蔵六の子息であった。自慢息子なのである。男の子三人のうちの次男であった。

ところが、この秋、<ruby><rb>浪華</rb><rt>なにわ</rt></ruby>附近の激戦の折、乱軍の中で、楠木<ruby><rb>勢</rb><rt>ぜい</rt></ruby>の手に、<ruby><rb>捕虜</rb><rt>ほりょ</rt></ruby>になったと伝えられた。

「よもや、彼が」

親の欲目のみではない。彼の主人山名時氏も、戦死であろうと、思っていたところ、その後、やはり楠木氏の捕虜になったが、逃げ帰って来たという者のはなしによると、

「小綱は、敵方の東条に生きている。しかも、楠木一族へ、忠誠を誓って、助かっている」

とのことだった。

それはかなり確実そうな消息だったので、山名時氏は、小四郎綱高を憎む前に、親の漆間蔵六に、

「ていよく子を渡して、敵へ内通しておるのではないか」

と、疑いの目を向けた。

次の合戦には、漆間蔵六も、小綱の兄や従兄弟たちも、戦士の籍から除外されていた。

蔵六は、<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>の最大な不名誉「<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>われ者」の汚名を、どうして拭おうかを、必死で考えたあげく、

「そうだ。小綱の首を切って来て、一門の潔白を示そう。また、小綱に考えがあってのことなら、力を協せて、敵地の子を救い、共に脱走して京都へ帰ろう」

と決心して来たものであった。

## 四

十二月の二十日頃である。

<ruby><rb>正平</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>二年の<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>も押しつまってきたが、戦雲はいよいよけわしい。正行が陣頭に立ってから、前後二度の大戦に敗れた<ruby><rb>尊氏</rb><rt>たかうじ</rt></ruby>は、それまでに味方のうちに、

――<ruby><rb>多門兵衛正成</rb><rt>たもんひょうえまさしげ</rt></ruby>が再来よ。

と、正行を怖るる声があっても、何の、まだ弱冠の小児がと、見くびっていたが、ここ敗報しきりとなって、ようやく、

「これは、<ruby><rb>嫩葉</rb><rt>ふたば</rt></ruby>のうちに、<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>んでおかぬと」

と、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に大規模な作戦を立て、<ruby><rb>高師直</rb><rt>こうのもろなお</rt></ruby>、<ruby><rb>師泰</rb><rt>もろやす</rt></ruby>を<ruby><rb>総帥</rb><rt>そうすい</rt></ruby>とする、二十余ヵ国の兵六万をもって、東条、赤坂の攻略に大挙さしむけた。

十六、七日の頃には、もう中河内の平野には、その前哨戦が<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>となった。

こえて二十一日の夜半。

前線にあった<ruby><rb>河内守正行</rb><rt>かわちのかみまさつら</rt></ruby>と、弟<ruby><rb>大和守正時</rb><rt>やまとのかみまさとき</rt></ruby>とは、東条の本城へ一度引揚げて来た様子である。

<ruby><rb>牛頭山医王院</rb><rt>ごずさんいおういん</rt></ruby>の<ruby><rb>大伽藍</rb><rt>だいがらん</rt></ruby>では、正行、正時を中心として、一族の<ruby><rb>楠木将監</rb><rt>くすのきしょうげん</rt></ruby>、和田<ruby><rb>新発意</rb><rt>しんぼち</rt></ruby>、舎弟新兵衛、同紀六左衛門の子ら、野田四郎とその子ら、<ruby><rb>関地良円</rb><rt>せきじりょうえん</rt></ruby>などが、翌日も、翌々日も、軍議であった。

正行、正時の弟、三男の<ruby><rb>正儀</rb><rt>まさのり</rt></ruby>も<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>にいた。

朝廷の<ruby><rb>親衛軍</rb><rt>しんえいぐん</rt></ruby>、<ruby><rb>興良</rb><rt>おきなが</rt></ruby>親王の御陣地や、四<ruby><rb>条</rb><rt>じょう</rt></ruby><ruby><rb>隆資</rb><rt>たかすけ</rt></ruby>のほうへも、いちいち軍議が報じられ、また、御意見をうかがい、使者が走るという有様だった。

「はて。どこにも見えぬ」

蔵六は、こういう折こそ、捕虜のわが子をさがす屈強な時であると思って、出入りする将兵の顔は勿論、<ruby><rb>小者</rb><rt>こもの</rt></ruby>や百姓たちの<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>、またはどこか幽閉されていそうな牢舎、穀倉、薪小屋までさがしたが、わが子とは限らず、捕虜らしい者は見えなかった。

そのうち城内の混雑はいよいよ加わり、天王寺や八尾あたりに布陣していた人数も、一度皆、引揚げて来た。

するとまた、その人数の大部分、およそ二千余騎の兵が、一様に<ruby><rb>城寨</rb><rt>とりで</rt></ruby>から出払って、急に、東条、<ruby><rb>龍泉寺</rb><rt>りゅうせんじ</rt></ruby>、赤坂の一帯が、人まばらになったのを見た朝のことである。

<ruby><rb>城寨</rb><rt>とりで</rt></ruby>の山、東条の麓にある龍泉寺の<ruby><rb>医王院</rb><rt>いおういん</rt></ruby>の<ruby><rb>広苑</rb><rt>ひろにわ</rt></ruby>に、いつになく、鮮やかな菊水の旗と、遠目にも眼を射らるるような卯の花、緋、<ruby><rb>萠黄縅</rb><rt>もえぎおどし</rt></ruby>などの鎧、<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>、艶やかな<ruby><rb>塗弓</rb><rt>ぬりゆみ</rt></ruby>、<ruby><rb>長巻刀</rb><rt>ながまき</rt></ruby>などの揃い立った一群の兵馬が見下ろされた。

「あ……。正行、正時の兄弟だな。さては、いよいよ今朝、必死の出陣とみえる」

山の中腹にある病舎の軒下から、唯そう感じただけで眺めていた蔵六は、そのうちに躍り上がるほど驚いた。わが子の小四郎<ruby><rb>綱高</rb><rt>つなたか</rt></ruby>の姿を、偶然、その群れの近くに見たからであった。

## 五

列の左の端を頭に――

ことし二十三歳の正行。ことし二十一歳の大和守正時。ことし十九の三男正儀。

順にならんで、以下、一族の者十数名も整然と、立ち並んでいた。

「…………」

「…………」

声もない。だが、言葉にまさるものが、人々の面には澄み切っていた。

正行以下、列の人々は、今、出陣の別離を告げていたのであった。その列を前に、<ruby><rb>戦住居</rb><rt>いくさずまい</rt></ruby>の<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>をうしろに、故<ruby><rb>楠木判官正成</rb><rt>くすのきほうがんまさしげ</rt></ruby>の妻、未亡人の<ruby><rb>久子</rb><rt>ひさこ</rt></ruby>は、相対して立っていた。

その年、久子は、もう四十のうえであった。

けれど、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>の年の暮――ちょうど今頃の冬、ここから近い<ruby><rb>甘南備</rb><rt>かんなび</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>、<ruby><rb>南江</rb><rt>みなみえ</rt></ruby>の生家から、土地の名族楠木家に<ruby><rb>嫁</rb><rt>か</rt></ruby>してから、正成とのあいだに、六人の男子を<ruby><rb>生</rb><rt>な</rt></ruby>してきょうまでに至る間、片時も心のたゆむ間とてなかった<ruby><rb>故</rb><rt>せい</rt></ruby>であろうか、その<ruby><rb>毛髪</rb><rt>くし</rt></ruby>には一すじの霜もなかった。皮膚はほの赤く<ruby><rb>緊</rb><rt>し</rt></ruby>まり、田舎人のように少し肥えてすらあった。

衣服もここらの在所の女房たちが着る粗末な物と変らないのを<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>っていた。<ruby><rb>裾短</rb><rt>すそみじか</rt></ruby>に<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>っている<ruby><rb>山繭</rb><rt>やままゆ</rt></ruby>の腰帯もそれも自身の手織りなのである。

戦場の寺住居ではあったが、空地には、桑畑もあり<ruby><rb>機屋</rb><rt>はたや</rt></ruby>もあった。それを染める<ruby><rb>染瓶</rb><rt>そめがめ</rt></ruby>も備えてあった。将士の家族や百姓の女房たちに教えて、ここの<ruby><rb>兵站部</rb><rt>へいたんぶ</rt></ruby>では、平常、衣食住あらゆる物を自給自足していた。

亡き良人の位牌、また、一族の誰彼と、数限りなく本堂の壇にならんでいる護国の英霊の前に、朝暮、<ruby><rb>陰膳</rb><rt>かげぜん</rt></ruby>を参らせる時のほかは、めったに<ruby><rb>裲襠</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>の<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>を曳いてはいなかった。

ゆうべも殆ど眠っていない。

かねて覚悟の日。

（こたびは生きて還りませぬ）

と門立つ子らに対しても云うべきことは平常に尽してある。この<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>においては、涙もないのである。

むしろその子らにも、生きて還らぬ部下たちにも、一椀の温かい汁でも――と彼女はつい今し方まで、<ruby><rb>下部</rb><rt>しもべ</rt></ruby>たちを指図し、自身も<ruby><rb>大厨</rb><rt>おおくりや</rt></ruby>に立ち働いて、<ruby><rb>水仕</rb><rt>みずし</rt></ruby>の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をしていたのであった。

先には、まだ<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>いうちに、二千余騎の将士が、白い息を吐いて、ここを発し、今また、正行以下が最後の別れを告げて立たんとするのであった。

――泣くまじ。

と思うほど、母の眼、子たちの眼、一族の人々の眼は、あやしき熱さにかすんだ。

見送る母の側には、久子をまん中にして、ことし十六の<ruby><rb>正秀</rb><rt>まさひで</rt></ruby>、十四の<ruby><rb>正平</rb><rt>まさひら</rt></ruby>、十一の<ruby><rb>朝成</rb><rt>ともしげ</rt></ruby>の三児が、立ち並んでいた。

「――では母上」

正行は、すこし頭を下げ、

「これより<ruby><rb>出立</rb><rt>いでた</rt></ruby>ちまする。父君の御遺訓、母うえが日常の御<ruby><rb>庭訓</rb><rt>ていきん</rt></ruby>、<ruby><rb>御旗</rb><rt>みはた</rt></ruby>に生かして<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>す日は今です。ふたたび、お膝の許に、正行が身、生きては還りますまい。長いお<ruby><rb>愛</rb><rt>いつく</rt></ruby>しみ、死してもわすれませぬ。<ruby><rb>母者人</rb><rt>ははじゃびと</rt></ruby>にも、ようようお年、この後は正行をお<ruby><rb>愛</rb><rt>いつく</rt></ruby>しみ下されたように、御自身のおからだを御いたわりくださいまし」

人々は皆、<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を垂れたが、久子は常と変りなく、

「はい」

うなずいて見せた。

正行はまた、

「これより吉野の御所に伺候して、よそながら今生のおん<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を申しあげ、直ちに、賊軍のうちへ駈け入ります。弟正時は召しつれますが、正儀は御所より戻します。留守後々の事、正儀によう申してありますれば、お心づよく思し召されませ」

「そなたも、心おきのう」

列は正行を先にして、総門のほうへ進んで行った。門の外に、馬のいななきや、<ruby><rb>戛々</rb><rt>かつかつ</rt></ruby>と<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>のひびきが聞えた。

「これ、ここで。――大人しゅう、ここに居やい」

追いかけて、駈け出そうとする少年の正平や正秀を、久子は両手にひき寄せた。ここの水入らずな袂別のすむのを、さっきから待ちかまえていた僧衆や、下部らや、百姓の女房たちや、留守に残る将兵たちが、いちどにどっと、総門のほうへと、送りに<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れて行ったからである。

正秀、正平のふたりは、母のそばに<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えていたが、まだ幼い朝成は、母の手をかいくぐって、

「わしも。わしも行く」

と、駈け出した。

それを追って、

「あっ、<ruby><rb>和子</rb><rt>わこ</rt></ruby>様。和子様」

急いで抱き止めて戻って来た若い郎党がある。四男の正秀と同い年ぐらい。つい近頃、子供らの<ruby><rb>傅人</rb><rt>もりと</rt></ruby>に抱えられたという<ruby><rb>小冠者</rb><rt>こかんじゃ</rt></ruby>である。

<ruby><rb>寨</rb><rt>とりで</rt></ruby>の山の中腹に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで、じっと、此方を眺めていた、蔵六の眼を突然愕かせたものは、その小冠者の姿だった。

親の眼である。遠くではあったが、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れはない。それこそ彼がこの<ruby><rb>城郭</rb><rt>じょうかく</rt></ruby>のうちに<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>で求めていた捕虜のわが子、小四郎綱高であった。

## 六

<ruby><rb>年暮</rb><rt>くれ</rt></ruby>もない、正月もない。

天日は<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>く、人々はうつつだった。

人に病のあるように、天地にも災厄があり、国体にも患いの時代がある。かかる有るまじき世をも超えなければ、真の国礎は万代にすわらぬものとみゆる――と時の民ぐさは<ruby><rb>喞</rb><rt>かこ</rt></ruby>った。

年は明けた。日本じゅうの憂いの中に。

<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>い木枯らしの<ruby><rb>矢叫</rb><rt>やたけ</rt></ruby>びは、元日とても吹き<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んだ。低い冬雲の乱流する下、<ruby><rb>葛城連峰</rb><rt>かつらぎれんぽう</rt></ruby>から飛ぶ粉雪の果て、

「<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>は。――勝敗は？」

と、留守の東条の人々は、河内の野を、心配にみちた眼で、見まもっていた。

兄の正行が出陣の折、吉野の仮宮まで、行を共にして、そこから別れて<ruby><rb>城寨</rb><rt>とりで</rt></ruby>へ帰って来た三男の正儀は、戻るとすぐ、母の居間に姿を見せて、

「母うえ。お欣びなされませ」

と、復命した。

正儀の伝えに依れば、後村上天皇には、正行が、よそながら今生の御いとま乞いにと伺候した心のうちを、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くお察しになって、冬風のふせぎも粗末な仮御所の<ruby><rb>階</rb><rt>きざはし</rt></ruby>の下、間近まで、正行を召されて、<ruby><rb>御簾</rb><rt>ぎょれん</rt></ruby>をさえかかげられ、

「<ruby><rb>朕</rb><rt>ちん</rt></ruby>は汝を<ruby><rb>股肱</rb><rt>ここう</rt></ruby>とたのむぞ」

と、親しく仰せられたという。

「ありがたい、<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない、<ruby><rb>御諚</rb><rt>ごじょう</rt></ruby>ではござりませぬか」

語りながら正儀が、鎧の袖を顔へ押当てて涙すると、母の久子も、この日頃、一しずくも見せなかった涙を、一度にはふりこぼして、

「勿体なや」

急いで膝を、吉野の仮宮のほうへ、正しく向けかえ、伏し拝んで、

「……そして、正行は」

「余りの<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ多さに、兄は、何のお答えもよう申し得ませぬようでした。やや後ろに離れて、わたくしどもまで、涙にむせびつつ、<ruby><rb>俯目</rb><rt>ふしめ</rt></ruby>に<ruby><rb>兄者人</rb><rt>あにじゃびと</rt></ruby>のほうを見てありましたところ、母うえが着せてあげた<ruby><rb>赤地錦</rb><rt>あかじにしき</rt></ruby>の<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>、<ruby><rb>萠黄縅</rb><rt>もえぎおどし</rt></ruby>の<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>、太刀のこじり、いつまでも、石のように、ひれ伏してありましたが、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに<ruby><rb>顫</rb><rt>わなな</rt></ruby>いていたように見られました」

「欣しさに。……さこそ、さこそ」

大きな歓びに会うたびに、久子は、良人正成を胸によび起した。そして、心のうちで、

（かようにござりました。こういたしました）

と、在りし日の通りに、歓びを、また自分のつとめを、胸のうちで報告した。

何かまた、それとは反対に、子たちに落度があり、自分のつとめに欠けたと顧みられる節のある時も、

（ふつつかを致しました。これからは心いたしまする）

と、胸に詫びることも、良人が世にある日の通りであった。

ここに移り住むまでは、<ruby><rb>観心寺</rb><rt>かんしんじ</rt></ruby>にもいて、また、良人とは<ruby><rb>道契</rb><rt>どうけい</rt></ruby>のふかい妙心寺の<ruby><rb>授翁和尚</rb><rt>じゅおうおしょう</rt></ruby>とも親しく、自然、彼女も信仰に<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>かったが、<ruby><rb>有憂無憂</rb><rt>うゆうむゆう</rt></ruby>の<ruby><rb>仏華</rb><rt>ぶつげ</rt></ruby>は<ruby><rb>後世</rb><rt>ごせ</rt></ruby>のながめであった。<ruby><rb>修羅</rb><rt>しゅら</rt></ruby>の矢たけびを、<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>の外に聞き、六人の育児、一族の融和、それから着る物、<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>く物の欠乏などとも、年月長く闘って、内助にかくれきりながら、しかも強く、敵の矢風の中に立つよりも強く、生きて生きて生きぬいて来るまでには、世の常の<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>のねがいとは<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>うものがあった。

彼女の胸に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>って今もかわらぬ根本のものは、やはり良人正成の満身にながれていたものであった。ひとつ血の夫婦が、良人の世にあるうち、常に<ruby><rb>語</rb><rt>かたら</rt></ruby>い合っていたことは、この国に生れた<ruby><rb>幸</rb><rt>さち</rt></ruby>であった。無窮な国体のうえに生を<ruby><rb>保</rb><rt>も</rt></ruby>つ安心であった。大君の恩であった。これも<ruby><rb>大御民</rb><rt>おおみたから</rt></ruby>のひとりびとりぞ、と見まわす家庭と家の子らであった。

久子は、正成に嫁してから、かねがねおぼろに抱いていた考えを、さらに<ruby><rb>慥</rb><rt>しか</rt></ruby>と、信念づけられた。子を<ruby><rb>生</rb><rt>な</rt></ruby>し、世が騒がしくなるほどに、またその信念は、よけい強められて行った。

末子の<ruby><rb>朝成</rb><rt>ともしげ</rt></ruby>を生んだ翌年。<ruby><rb>延元</rb><rt>えんげん</rt></ruby>の元年五月。

湊川に戦死した良人の首級を、やがて敵方から送られ、その変り果てた面を、観心寺の一室に迎えて、仰ぎ見た時も、あのまま泣き絶え果ててもしまわずに、心と心とで、語りあうかの気もちを抱き、生ける時の夫婦以上の誓いをも、その<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>ひそかに成し得た意志の力も、後に思えば、やはり生前良人から知らず知らず<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けていた国本の大義に明らかな眼があいていたお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>であった。それと、<ruby><rb>武夫</rb><rt>もののふ</rt></ruby>の妻たる日頃の覚悟と、<ruby><rb>弥陀</rb><rt>みだ</rt></ruby>の御さとしの助けであった。

「<ruby><rb>正儀</rb><rt>まさのり</rt></ruby>」

やがて静かに、久子は呼びかけた。この正月を迎えて、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>となった正儀のすがたをじっと見てである――

「一天の大君さまの御口ずから、臣下の<ruby><rb>正行</rb><rt>まさつら</rt></ruby>へ、汝を<ruby><rb>股肱</rb><rt>ここう</rt></ruby>とたのむぞと<ruby><rb>御諚</rb><rt>ごじょう</rt></ruby>あそばされたことは、まこと正行のほまれ、亡き父君にも、御満足に在すらめとはふと思うたが、深く思えば、この御国に、こうした畏れ多いことのあってよいものか。――お<ruby><rb>汝</rb><rt>こと</rt></ruby>もはや二十歳ぞや。父君の御遺訓、よも忘れはあるまいの。朝廷への御奉公にかけて、兄たちに劣るまいぞ。留守は、お<ruby><rb>汝</rb><rt>こと</rt></ruby>が総大将、母は、どこまで家の母じゃ。<ruby><rb>士</rb><rt>つわもの</rt></ruby>たちの指揮、心がまえ、忠義一すじの鍛え、皆お<ruby><rb>汝</rb><rt>こと</rt></ruby>が軍配と徳にあること。きょうよりはなおなお、心して<ruby><rb>賜</rb><rt>た</rt></ruby>も。その身を、父君や兄達の亡き後の三世の忠義に備えておかれよ」

「わかりました。よくわかっておりまする」

<ruby><rb>正儀</rb><rt>まさのり</rt></ruby>も<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び泣き、彼の母も、ほかに従者や幼い者がいなかったせいか、いつになくしばしば袖口を<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>にあてた。

正儀は、母のそのすがたが、<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな慈愛の樹のようにながめられた。

その大樹は、年経るごとに、枝を伐られ、葉をふるい落されてゆく。<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の正成、良人の弟正氏、また、<ruby><rb>里方</rb><rt>さとかた</rt></ruby>の兄<ruby><rb>南江正忠</rb><rt>みなみえまさただ</rt></ruby>と、次々に戦死し、一族遠縁の人々までも、それからそれへと<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>から去って行った。

右の枝を伐られ、左の力を<ruby><rb>捥</rb><rt>も</rt></ruby>がれても、樹は傷む顔も見せない。老いのつかれも口に出さない。きっと来る春を信じて大地に立ち<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている。

だが――さすがに。

二十余年を積んで良人に恥じぬ若人と育てあげた正行と正時を、還らぬ戦場へ送ってからは、<ruby><rb>正儀</rb><rt>まさのり</rt></ruby>には、母の<ruby><rb>年輪</rb><rt>としわ</rt></ruby>が改めてかぞえられた。<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>しと<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>かぬ樹のすがたに、自分のほうが泣けて来てたまらなかった。

そんな一日のうちの<ruby><rb>一刻</rb><rt>ひととき</rt></ruby>もあったが、<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>を出て、東条の山から、雪もよいの河内方面の空を見やれば、矢たけびか、枯野の風か、びゅーっ、びゅーっと、きのうもきょうも、天地は灰色の<ruby><rb>晦冥</rb><rt>かいめい</rt></ruby>につつまれていた。

「どうあろう？　戦の様子は」

「兄たちは」――と思いはすぐ遠く駆ける。

<ruby><rb>留守寨</rb><rt>るすとりで</rt></ruby>の兵たちも、総門の方に、馬のいななくのを聞けば、

「すわ。お使いぞ」

と、刻々、待ちうけている前線からの伝令と見て、われがちに駈け出した。

## 七

誰の眼も、眸の先に光りものがちらついて、気が<ruby><rb>逆上</rb><rt>あが</rt></ruby>ったように、血走っていた。

夜来からの<ruby><rb>城寨</rb><rt>じょうさい</rt></ruby>の混雑は、六日の明け方までつづいていた。

味方の敗戦、それから<ruby><rb>四条畷</rb><rt>しじょうなわて</rt></ruby>の全滅、一族数々の人の名が、討死討死と、次々にここへ聞えて来たのである。

折弓や血刀を杖に、血と泥にまみれた虫の息で、這うが如く、引揚げて来た味方の者たちから報じられたのであった。

「騒いではなりません」

正儀の制止にも余って、<ruby><rb>城郭内</rb><rt>じょうかくない</rt></ruby>の<ruby><rb>躁</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎがしずまらないので、明け方には、遂に、兵の<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>にはめったに姿を見せたことのない久子自身が出て行って、何かの指揮や処置に、正儀を励ましている様子であった。

出てゆく折、末子の<ruby><rb>朝成</rb><rt>ともしげ</rt></ruby>が、眼をさまして、母の姿を追いかけたので、

「小綱、<ruby><rb>和子</rb><rt>わこ</rt></ruby>を見ていて<ruby><rb>賜</rb><rt>た</rt></ruby>も」

<ruby><rb>傅役</rb><rt>もりやく</rt></ruby>の<ruby><rb>小冠者</rb><rt>こかんじゃ</rt></ruby>にあずけて行った。

「和子様、和子様、さ、<ruby><rb>狩衣</rb><rt>かりぎぬ</rt></ruby>を召しませ。おかぜをひきますぞ。そして小綱と、きょうも<ruby><rb>竹山</rb><rt>たけやま</rt></ruby>へ<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じて、遊びましょう。よい竹伐って、竹馬を作りましょう」

あやしすかしながら、<ruby><rb>狩衣</rb><rt>かりぎぬ</rt></ruby>を着せて、<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>から降りかけた時だった。

「小四郎っ」

ふいに、<ruby><rb>物陰</rb><rt>ものかげ</rt></ruby>から躍り出て、<ruby><rb>漆間</rb><rt>うるしま</rt></ruby><ruby><rb>蔵</rb><rt>ぞう</rt></ruby>六が前に立った。

「あっ、父上」

愕然と、立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>む子の処へとびかかって、蔵六は、彼を大地へ組み伏せた。

「お、おっ、おのれは」

骨肉への憤りは、自分が自分へ怒るように残酷の度も見失って、ぐいぐい<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をしめつけていた。けれど云わんとすることは、感情の火に、口ばかり渇いて出ないのである。

その父の形相にひさかえて、

「何をなさるんです。父上、お怒りのわけを承りましょう」

<ruby><rb>凍</rb><rt>い</rt></ruby>てた大地へ、顔をこづかれていながら、小綱の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>はむしろ憎いほど落着いていた。

子の落着いている眼を見ると、蔵六は、はっと親に回った。大人げないことを自省した。殊に、無意識に右手に抜いていた脇差に気づいて、それをどうする気だったろうと、<ruby><rb>慄然</rb><rt>りつぜん</rt></ruby>とした。

ゆるむ父の手を押しいただきながら、小綱は身を起して、

「いや、お怒りのわけは、解りました。より先に、私が、楠木家に<ruby><rb>随身</rb><rt>ずいしん</rt></ruby>して、なぜ武士の道をたがえたかのようなことをしたか、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を申し上げましょう」

大地へ、坐り直して云った。

「父上も、どうか、落着いて、お坐りください」

「こうか。――さッ申せ、聞こうっ」

蔵六は、肩も膝も四角に<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らして坐った。父親たるの顔を厳と示した。

「あれは、<ruby><rb>去年</rb><rt>こぞ</rt></ruby>の十月<ruby><rb>中旬</rb><rt>なかば</rt></ruby>でした。<ruby><rb>浪華</rb><rt>なにわ</rt></ruby>の御合戦の際、暗夜とはいえ、不覚にも、私は楠木勢のために、<ruby><rb>擒人</rb><rt>とりこ</rt></ruby>となりました。けれど、恥とは一時の思いでした。今では、よくぞ<ruby><rb>擒人</rb><rt>とりこ</rt></ruby>になって、真の人の道と、武士の道を、踏み迷わずにすんだと、天恩に謝しておりまする」

「な、なんだと」

「しまいまでお聞き下さい。あの折の合戦は、足利方の惨敗でした。四天王寺のあたりから駈け崩され、ふかい暗夜を、押しもまれて、退く<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>すがらも、しばしばふいの伏勢に襲われ、渡辺橋の断崖から、淀川の早瀬へ、墜ちた者が無数でした。私もその中の一人で、深い<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>へ<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちこみ、寒さは寒し、重い具足や<ruby><rb>身拵</rb><rt>みごしら</rt></ruby>え、すんでに凍え溺れるかと思ったところを、繩梯子にすがれと、断崖の上へ、助け上げられたのであります。――味方ではありません、楠木方のほうにです」

「そして」

「見ると、河に墜入って、救われた足利方の兵、百二、三十名もおりましたろうか。一団になって、陣所へ曳かれ、さては首切られるかと、覚悟定めていましたところ、いとうら若い大将、楠木河内守<ruby><rb>正行</rb><rt>まさつら</rt></ruby>殿でした。<ruby><rb>下知</rb><rt>げち</rt></ruby>なされて、幾ヵ所にも、<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>かせ、さて、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>る敵のわれわれへ云われるには――（あわれや<ruby><rb>兵</rb><rt>つわもの</rt></ruby>ばら、武士は相見互いと云い<ruby><rb>習</rb><rt>なら</rt></ruby>わすぞ。勝つも敗けるも時の運なれ。賊軍とはいえ、主のために働いてのこと、妻もあらむ、子もあらむ、はやはや都に帰れ、縁あらばまた、戦場にてまみえんものを）と、こう仰せられまして、火にあたれ、肌着を<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>せ、薬はいかに、<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>を喰べよと、<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>には馬まで下されて、放たれたのでござります」

「ふーむ……」

「泣きました。命知らずの<ruby><rb>強者輩</rb><rt>つわものばら</rt></ruby>も、さすがは正成公の<ruby><rb>御嫡子</rb><rt>ごちゃくし</rt></ruby>よと、泣かぬ<ruby><rb>擒人</rb><rt>とりこ</rt></ruby>とてはなかったのです。そして半分は、京都へさして帰りましたが、残る半数は、その場で降伏を誓い、正行様の旗本で働きたいと云い出しました。私も、その一名でした」

「なに、降伏したのか。降伏を」

「はい」

「恥を知れ。この父や一族どもの、御主人を裏切って、おのれ、二君にまみえる気でか」

「いえ、父上」

小綱は、<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って云った。

「そのことについては、私も苦しみました。けれど楠木様に召仕われてからは、<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>りてわが武士道と、さらりと悩みも解けました。――二君とは誰と誰。この<ruby><rb>日本</rb><rt>ひのもと</rt></ruby>には、君たる御方は、主上御一人しかないはずであります。足利殿は、また足利殿に加担の衆は、そこの根本の理に<ruby><rb>晦</rb><rt>くろ</rt></ruby>うござります。故に、彼等の戦は乱です。名は<ruby><rb>賊子</rb><rt>ぞくし</rt></ruby>です。――父上がもしここへ来られなかったら、いつか私は、父上を賊徒の陣から救い出しにゆく考えでおりました。<ruby><rb>武夫</rb><rt>もののふ</rt></ruby>の家に生れて、武夫の道をふみはずし、賊の汚名をきて朽ちては、口惜しゅうはござりませぬか」

## 八

「…………」

蔵六は、大きな<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きばかりして、いつまで、胸に<ruby><rb>拱</rb><rt>く</rt></ruby>んだ腕を解こうともしなかった。

――その時、ふと気づくと。

<ruby><rb>城寨</rb><rt>とりで</rt></ruby>の山々は急に湖のような<ruby><rb>寂寞</rb><rt>しじま</rt></ruby>になっていた。<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>もさせぬ静かな一すじの列が、水の流るるように、総門のほうからここへ上って来るのが見えた。

その列の先に見えた人は、<ruby><rb>葛城</rb><rt>かつらぎ</rt></ruby>の峰の雪よりも真白い<ruby><rb>喪服</rb><rt>もふく</rt></ruby>を着、白木の台に白い<ruby><rb>覆布</rb><rt>おおい</rt></ruby>をかけたのを捧げていた。<ruby><rb>覆布</rb><rt>おおい</rt></ruby>の下には、血にそんだ<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>の<ruby><rb>草摺</rb><rt>くさずり</rt></ruby>の片袖と、<ruby><rb>血糊</rb><rt>のり</rt></ruby>によごれた黒髪とが<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せられてあった。

今し方、戦場から拾われて来た<ruby><rb>正行</rb><rt>まさつら</rt></ruby>と、弟正時の<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>かと思われた。

喪服して、それを出迎え、捧持してくる女性は、いうまでもなくその正行、正時を生んだ母なる人である。

<ruby><rb>正儀</rb><rt>まさのり</rt></ruby>、正秀、正平、留守の兄弟たちも、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>きがちに母に従って来た。従者や老臣は涙を拭うていたが、<ruby><rb>久子</rb><rt>ひさこ</rt></ruby>の面にも、兄弟たちの眼にも、涙はなかった。むしろ次々に自分らもやがて赴く殉国の日を思うて、強烈な意志と誓いとを、悲痛な眉のかげに<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えていた。

「母さま。――何？　何？　それ何？」

いきなり駈け寄って行った末子の朝成は、母の喪服へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って訊ねた。

「お兄様たちが、お帰りになったのじゃ。大人しゅうそなたも来やれ」

「どこへ。どこへですか。母さま」

「お父君が、いつもお<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>で遊ばすお部屋に。――そして、湊川でおかくれ遊ばした叔父様も、みな揃うて、天子様のほうに向い、なお、残る子らには、正儀がおりまする。正秀もひかえておりまする。また、正平や朝成も成人して、御所のお護りに参りますると、おこたえ申しあげるのじゃ。そなたも席に欠けてよいものか。母に従うて来やい」

「あい」

朝成は、よく解った顔して、大きく頷いた。

「…………」

屋の内深くへ、すべての人々がみなかくれた後も、まだ解らぬ<ruby><rb>面持</rb><rt>おももち</rt></ruby>して見送っていたのは漆間蔵六であった。

だが、そのうちに突然、両手で顔を蔽うと、彼は声をあげて泣き出した。天を恐れ地へ詫びるように<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>した。

そしていきなり小綱の手を固く握りしめ、

「この眼に、この眼に、わしは初めて、ほんとうの人を見た。いや神を見た、<ruby><rb>日本</rb><rt>ひのもと</rt></ruby>という国を見た。――小四郎、さッ急ごう、京都へだ」

「いやです。私は帰りません。正儀様の<ruby><rb>御旗</rb><rt>みはた</rt></ruby>の下に踏みとどまります」

「なにまたすぐに帰って来るのだ。妻、おまえの兄弟たち、縁者の<ruby><rb>輩</rb><rt>ともがら</rt></ruby>、ひとりとして賊名の中に見捨ててよいものか。漆間蔵六とて、語らいあえば四、五十名の<ruby><rb>士</rb><rt>つわもの</rt></ruby>は連れて来られよう。そのまに正儀様の御旗も、他へお移しになろうが、何処までも馳せ参ずる所存だ」

「では、父上も」

「礼をいう、小四郎、よう<ruby><rb>導</rb><rt>みちび</rt></ruby>いてくれた。そうだ、そちを連れては、京都の世間がうるさい。わしひとりで行って来る。子に手を引かれるのは恥かしいが、お味方に参じた節は、お<ruby><rb>取做</rb><rt>とりな</rt></ruby>しを頼むぞよ」

観心寺、龍泉寺、<ruby><rb>天野山金剛寺</rb><rt>あまのざんこんごうじ</rt></ruby>、<ruby><rb>峰</rb><rt>みね</rt></ruby>谷々の<ruby><rb>寨寺</rb><rt>とりででら</rt></ruby>で、護国の<ruby><rb>鐘</rb><rt>かね</rt></ruby>が鳴りひびいた。正行、正時の霊を弔う鐘であった。折から降り出した満天の<ruby><rb>散華</rb><rt>さんげ</rt></ruby>は、白い春の雪と<ruby><rb>化</rb><rt>な</rt></ruby>って――。