## 一

母のすがたを見ると、<ruby><rb>甚助</rb><rt>じんすけ</rt></ruby>の眼はひとりでに熱くなった。

世の中でいちばん<ruby><rb>不倖</rb><rt>ふしあわ</rt></ruby>せな人が、母の姿であるように見られた。

「どうしたら母は楽しむだろうか」

物心のつき<ruby><rb>初</rb><rt>そ</rt></ruby>めた頃から、甚助はそんな考えを<ruby><rb>幼心</rb><rt>おさなごころ</rt></ruby>にも持った。

ふと、何かの<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、その淋しい母が、笑うかのような歯を<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>にこぼすと、

「母上がお笑いになった」

と、その日は一日、彼も楽しく遊ぶことができた。

十二、三歳になると、そんな考えがもっと深くなって、

「なぜだろ？」

と、思うようになった。

自分が何をした時に、母の顔が<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうになるか、に気がつきだした。

「<ruby><rb>書</rb><rt>ほん</rt></ruby>が好く読めた時と、<ruby><rb>長柄</rb><rt>ながえ</rt></ruby>の刀で、樹がよく斬れた時だ」

少年林崎甚助は、それからよけい声を張って良く書を読み、外へ出ては、身丈に過ぎた<ruby><rb>長巻刀</rb><rt>ながまき</rt></ruby>を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>って、丈余の樹の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>を、跳び斬りに斬って落した。

古い土塀門の外に<ruby><rb>佇</rb><rt>た</rt></ruby>って、母は時折、微笑んでくれた。

その母は、またなく美しい人だった。年もまだ若かった。名は<ruby><rb>楡葉</rb><rt>にれは</rt></ruby>といった。

楡葉は若後家であった。祖先からの<ruby><rb>土豪造</rb><rt>どごうづく</rt></ruby>りの家は、羽前の<ruby><rb>大川</rb><rt>たいせん</rt></ruby><ruby><rb>最上</rb><rt>もがみ</rt></ruby>の流れに沿い、<ruby><rb>甑嶽</rb><rt>こしきだけ</rt></ruby>の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>にあった。山形から十里余、<ruby><rb>楯岡</rb><rt>たておか</rt></ruby>の<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>から北へ一里、<ruby><rb>土称</rb><rt>どしょう</rt></ruby>林崎という部落にあった。

この地方一帯は、足利家の管領<ruby><rb>斯波</rb><rt>しば</rt></ruby>氏のわかれ最上一族の勢力<ruby><rb>圏</rb><rt>けん</rt></ruby>内であった。甚助の父も、最上家の臣だった。

上杉謙信の越後本庄から最上川を<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>れば、最上領<ruby><rb>東根</rb><rt>ひがしね</rt></ruby>の<ruby><rb>砦町</rb><rt>とりでまち</rt></ruby>、また、<ruby><rb>黒伏嶽</rb><rt>くろぶせだけ</rt></ruby>や高倉の山道を越えれば、一路伊達家の仙台に通じる。武強の隣藩と境を接して、連年、ここにも戦乱は絶えなかった。

甚助は信じていた。

「わしの<ruby><rb>父者人</rb><rt>ててじゃひと</rt></ruby>は、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>で死んだのだ」

それは、父なき少年の、せめてもの<ruby><rb>誇</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りでもあった。

ところが或る時、<ruby><rb>楯岡</rb><rt>たておか</rt></ruby>の<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>町から部落へ来た馬<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>の<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて来た馬へ、甚助が他の少年たちと共に、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>すると、その中の一人の馬商人が、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を振上げて、逃げおくれた甚助のうしろからこう<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

「この<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>めッ。そげな<ruby><rb>悪性</rb><rt>あくしょう</rt></ruby>な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>しさらすと、<ruby><rb>汝</rb><rt>わ</rt></ruby>れが<ruby><rb>父者</rb><rt>ててじゃ</rt></ruby>のように、<ruby><rb>汝</rb><rt>わ</rt></ruby>れも今に、闇討ち食ってくたばりさらすぞ」

その声は、甚助の耳より魂をつき破った。甚助は、色あおざめて逃げて来た。それからもう<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の子と遊ばなくなった。

## 二

<ruby><rb>長柄</rb><rt>ながえ</rt></ruby>という武器は、戦時の用具である。平時の刀では短きに過ぎるので、いざという場合、常の刀へ、常用の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>より寸法の長い特殊な柄をすげ替えて、これを引っ<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げ<ruby><rb>持</rb><rt>も</rt></ruby>ちにして、戦場へ働きに出るのである。

別名、長巻とも<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>んでいる。

その寸法は、およそ三尺の<ruby><rb>刀身</rb><rt>なかみ</rt></ruby>へ、二尺二、三寸の柄をつける。三尺以上の刀になれば、それに三尺もある長柄をすげる場合もある。

林崎甚助は、天文十六年の生れで、その年少十四、五歳の頃は、ちょうど永禄年間に当り、戦国の英雄が諸州に<ruby><rb>覇</rb><rt>は</rt></ruby>を<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>した頃であったから、長柄の流行は、<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>を極めて、戦場ばかりでなく、平時でも引っ提げて歩く者があった。

織田信長は、その頃、自己の歩兵隊に、刀の長サ三尺、柄四尺という長柄を揃えて持たせて、敵陣へ<ruby><rb>突貫</rb><rt>とっかん</rt></ruby>させて、いつも敵の一陣を<ruby><rb>縦横</rb><rt>じゅうおう</rt></ruby><ruby><rb>刺撃</rb><rt>しげき</rt></ruby>して駈け<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>したということである。もっとも、それから間もなく鉄砲が渡来して全国に行き<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>ったので、後には、第一陣鉄砲隊、第二陣長柄隊というふうに、戦術の編制は変って来たが、とにかく甚助の少年頃には、ふと物置小屋を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いても、長柄の<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びたのが一本や二本は転がっている程だった。それほど普及された兵具であった。

<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>切りに、甚助が持ち馴れたのも、父の代に、戦場から束にして分捕って来た物のような中の一本であった。

それも、何のためか知らないが、母の<ruby><rb>楡葉</rb><rt>にれは</rt></ruby>から、

「枯れ木を拾うは百姓の子ぞ、そなたは、<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>の木を、長柄で<ruby><rb>伐</rb><rt>お</rt></ruby>ろして来やれ。長柄も背丈も届かぬ梢も、心して跳んで<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>って見やい。それしきもの斬れねば、殿様の御馬前に立って、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>の<ruby><rb>場</rb><rt>にわ</rt></ruby>で人勝りの働きはならぬぞい」

と、云い聞かされて、七ツ<ruby><rb>八歳</rb><rt>やつ</rt></ruby>頃からし始めたことであった。雨さえ降らなければ、日課のように、

「甚助。<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を<ruby><rb>伐</rb><rt>お</rt></ruby>ろして来やい」

母は、いいつけた。

よく斬れると、遠くで、見ている母が微笑んでくれる。それが<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさに、甚助は、高い樹へ、高い樹へと、次第に望みを大きく育てて、長柄を小脇に、仰いで迫った。

## 三

大同年間からあるという部落でいちばん古い杉木立がある。そこに熊野神社が<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>ってあった。部落の名をそのまま林崎明神ともよんでいる。

<ruby><rb>禰宜</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>山辺守人</rb><rt>やまのべもりと</rt></ruby>は、<ruby><rb>時鳥</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>や<ruby><rb>仏法僧</rb><rt>ぶっぽうそう</rt></ruby>の<ruby><rb>啼音</rb><rt>なきね</rt></ruby>ばかりを友として、お宮の脇の小さい社家に住んでいたが、甚助の姿が見えると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かたこと</span><ruby><rb>木履</rb><rt>ぼくり</rt></ruby>の足音をさせて出て来た。

麦餅や、<ruby><rb>麹飴</rb><rt>こうじあめ</rt></ruby>などつつんで、

「甚助、菓子やろう」

と寄って来る。そして甚助の、鳥の巣のような頭を撫でて、一話しするのが、禰宜の守人にとっては、一日のうちで、人間と話をする唯一な時間のようであった。

ところが、その<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>に限って、甚助は、

「お菓子、要らない」

と、首をふって、守人をいぶからせた。

「喰べたくない」

と重ねて云うのである。

長柄を横に置いて、<ruby><rb>朽</rb><rt>く</rt></ruby>ちた<ruby><rb>鳥居</rb><rt>とりい</rt></ruby>の下に腰をおろし、眼すら、ぽつねんと、雲へやって、菓子を見ないのであった。

「そうかい」

守人は、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いなかった。

顔をのぞいて訊ねた。

「甚助。どうかしたのか。この頃は、樹の梢へかかって、見事に枝を<ruby><rb>伐</rb><rt>お</rt></ruby>ろす姿も、ちっとも見かけないが」

「おじさん、どうしたんだろ」

「わしが訊いてるのだよ。どうかしたのかと」

「おらにも分らない。――この頃は、いくら樹へかかっても、今までは切れたぐらいな高さの梢も、急に斬れなくなってしまった」

「それはふしぎだな」

「だから、もう、樹を伐るのは、<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>になった。……だけど、<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>って見せないと、おっ母さんが、笑ってくれない」

「甚助、おぬしももう、十四だな。この頃は、よその子とも、遊ばぬのう」

「つまらないもの」

「考え事が胸にでき<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>り始めたのじゃろ。何か、人にも云えぬ考え事が」

「ああ、無いこともない」

「そのためだ。わしに話してごらん」

「<ruby><rb>神主</rb><rt>かんぬし</rt></ruby>さん」

甚助は、ふいに立って、<ruby><rb>守人</rb><rt>もりと</rt></ruby>の胸へ、抱きついた。しゅくしゅくと泣き出したのである。

「なんだ、なんだ、男のくせに」

「おらの……おらのお父さんは、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>で死んだのじゃないのかい。神主さんは、年<ruby><rb>老</rb><rt>と</rt></ruby>っているから、おらが<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>の時分のことでも知っているだろ。話して、話して。よう、誰にもいわないから、俺にだけほんとのことを話してよう……」

守人も、眼を上げていた。

麦がよく伸びる頃の昼間の月に、<ruby><rb>禽</rb><rt>とり</rt></ruby>の音が澄んでいた。

## 四

<ruby><rb>禰宜</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>守人</rb><rt>もりと</rt></ruby>に連れられて、甚助は、家へ戻った。

守人から何か聞くと、彼の母は、いつにない改まった眼で、わが子を見、

「口を<ruby><rb>嗽</rb><rt>すす</rt></ruby>ぎなさい。手を洗っておいでなさい。そして、お仏間へ来るがよい」

と、云った。

甚助は、云われた通り、<ruby><rb>身躾</rb><rt>みだしな</rt></ruby>みを作って、後から仏間へ行ってみると、母と守人が<ruby><rb>寂</rb><rt>じゃく</rt></ruby>として坐っていた。

御先祖の壇には、<ruby><rb>御灯</rb><rt>みあかし</rt></ruby>があがっていた。

「きょう初めてはなすが、<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>は、<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>の父は、人手にかかってお果てなされたのです」

母は、水のような声で、子に告げた。泣いてもいなかった。しかし、泣いている以上なものを、甚助は、その母の眼に見た。

それきり多くを母自身は語らなかった。

若くて美しかったその頃の彼女自身が、良人の横死の一原因であったせいもあろう。

が、あらましは、事情に<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しい<ruby><rb>守人</rb><rt>もりと</rt></ruby>が、<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んで<ruby><rb>喞</rb><rt>ふく</rt></ruby>めるように聞かせてくれた。甚助が生れたその年のことだというから、天文十六年のことにちがいない。

<ruby><rb>坂上主膳</rb><rt>さかがみしゅぜん</rt></ruby>という武士のために、<ruby><rb>楯岡</rb><rt>たておか</rt></ruby>の藩祖の<ruby><rb>菩提寺</rb><rt>ぼだいじ</rt></ruby>のすこし<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>手町の辻で斬られたのであった。原因は<ruby><rb>意趣</rb><rt>いしゅ</rt></ruby>、その<ruby><rb>詳</rb><rt>つまび</rt></ruby>らかな事実は、おまえがもっと大人になれば自然分ってくる。母御もまた、話す折があろうと、守人は云った。

「わかったか」

「わかりました」

甚助は、そこでは泣かなかった。

青白い栗の花が咲いている<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>の横に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで、独り眼を横にこすっていた。父の林崎<ruby><rb>重成</rb><rt>しげなり</rt></ruby>が乗用したという馬も老いて、数年前に死んでいた。

## 五

元服したばかりの十五の甚助は、ひたむきに、何ものかを求めて、旅へ立った。

勿論、母のゆるしを得て。

世間も知らないそんな<ruby><rb>若冠</rb><rt>じゃっかん</rt></ruby>の子を遠くへ見送るのに、当時の若い母親は<ruby><rb>健気</rb><rt>けなげ</rt></ruby>であった。しかも戦乱に次ぐ戦乱の世であった。

その年はちょうど<ruby><rb>川中島</rb><rt>かわなかじま</rt></ruby>の大戦の翌年であった。

「<ruby><rb>大胡</rb><rt>おおご</rt></ruby>のお城はどこですか」

上州へ来た甚助は、そこの城主、<ruby><rb>上泉伊勢守秀綱</rb><rt>かみいずみいせのかみひでつな</rt></ruby>をさがした。

「お城はないよ」

土地の者は云った。

「伊勢守様も、もう都の空だよ。大胡城は去年、上杉勢に攻め落されて、石垣と<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>け<ruby><rb>木杭</rb><rt>ぼっくい</rt></ruby>しか残っていない。そこに今あるのは、上杉家の<ruby><rb>侍衆</rb><rt>さむらいしゅう</rt></ruby>のお陣屋さ」

こう聞いて、甚助は<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく、<ruby><rb>常陸国</rb><rt>ひたちのくに</rt></ruby>へ志した。大永年間の人で、鹿島神流の中興の祖松本備前守を初めとして、天真正伝神伝流の開祖、<ruby><rb>飯篠</rb><rt>いいざさ</rt></ruby>長威斎もすでに遠い古人であるが、常陸の産であると聞いている。近くは、土地の土豪、塚原土佐守<ruby><rb>卜伝</rb><rt>ぼくでん</rt></ruby>が、そこに住んでいると聞いている。

だが、訪ねて行ってみると、その卜伝も、

「御遊歴中」

とて、留守であった。

戦雲の世には、人も雲のように、諸国を去来していた。武芸者はわけても旅が生活だった。修行は遍歴にあった。

伊勢守秀綱とか、土佐守卜伝とかは、たとえ<ruby><rb>野</rb><rt>や</rt></ruby>に在っても、土地の豪族なので、弟子郎党など四、五十人も召連れて、小姓の<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>に鷹をすえさせ、<ruby><rb>乗更馬</rb><rt>のりかえうま</rt></ruby>など美々しく<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>かせて遊歴した。

しかし、笠一つ、剣一腰で、<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>に会っても、<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>す<ruby><rb>着更</rb><rt>きが</rt></ruby>えさえも持たない武芸者もある。

雑多な時代の流れの中に、甚助も、一つの色だった。誰も怪しみはしなかった。この若冠な小修行者が、父の復讐を念じ、将来の大志を抱いているとは誰も見なかった。

四年経って帰って来た。

母の顔は、同じだった。

すぐ<ruby><rb>禰宜</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>山辺守人</rb><rt>やまのべもりと</rt></ruby>が来た。家を立つ時と同じように、仏間に坐って、母と守人の前に手をついた。

「御修行は積んだかの」

母が<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「四年だけのことは致して参りました」

「<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>の消息は」

「ほぼ知れました」

「どこで見届けました」

「母上が仰せられた通り、やはり京都に住んでいました。松永久秀殿の<ruby><rb>御内</rb><rt>みうち</rt></ruby>に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるらしゅう思います」

「<ruby><rb>顕門</rb><rt>けんもん</rt></ruby>に隠れていたのでは、近づく<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もないと思うて、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>へ帰って来られたか」

「いいえ、<ruby><rb>坂上主膳</rb><rt>さかがみしゅぜん</rt></ruby>へ出会うのは<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いことです。けれども強豪主膳を討つことは、決してたやすくはございませぬ」

「まだ、腕に、<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と自信はできぬとお云いか」

「敵に勝つにはまず、敵を知るにあると申します。坂上主膳は、その後、京都に<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れてからも、風評のよくない男ではありますが、彼の武勇は、松永久秀が珍重して召抱えたのでも分ります。<ruby><rb>先</rb><rt>さき</rt></ruby>つ年、久秀が室町の<ruby><rb>御館</rb><rt>おやかた</rt></ruby>を<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>うて、将軍義輝公を<ruby><rb>弑逆</rb><rt>しいぎゃく</rt></ruby>し奉った折なども、坂上主膳の働きは、<ruby><rb>傍若</rb><rt>ぼうじゃく</rt></ruby>無人な<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>ぶりと云われております。いわゆる彼は悪人ながら、<ruby><rb>最上家</rb><rt>もがみけ</rt></ruby>にいた頃から鳴っている通り千軍万馬の士です。なんで甚助のような小冠者の細腕にようこれを<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>すことができましょうか」

母は、子の言葉に、またたきもせぬ眼をして聞いていた。

守人は、

「ううむ。成人したのう。やはり旅の風は人の子に世を歩む道を<ruby><rb>誡</rb><rt>おし</rt></ruby>えてくれる」

と、云って<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いた。

## 六

永禄十一年、彼が二十二歳の春だった。その二月<ruby><rb>中旬</rb><rt>なかば</rt></ruby>頃から、五月末までの間、まる百ヵ日、彼は家に寝なかった。また、<ruby><rb>帯</rb><rt>おび</rt></ruby>を<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>かなかった。

林崎明神の神殿の辺りは、真昼、<ruby><rb>木洩</rb><rt>こも</rt></ruby>れ<ruby><rb>陽</rb><rt>び</rt></ruby>がすこし<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>す時の<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>は、昼も暗かった。<ruby><rb>守人</rb><rt>もりと</rt></ruby>の住む社家の勝手元には、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れると、一椀の<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>が出されてあった。それが甚助の食事であった。夜が明けると、また一椀、盆にのせて出されてある。

守人は、姿を見せない。努めて見せないことにしていた。勿論、母の<ruby><rb>楡葉</rb><rt>にれは</rt></ruby>も、ここへは近づかなかった。

ここは今、熊野<ruby><rb>権現</rb><rt>ごんげん</rt></ruby>の聖地であると共に、林崎甚助にとって、生死を<ruby><rb>超脱</rb><rt>ちょうだつ</rt></ruby>した剣の道場だった。

彼は、百日の<ruby><rb>参籠</rb><rt>さんろう</rt></ruby>を誓願したのだった。

朝夕一椀ずつの<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>を守人から恵まれる<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>、何も口にしなかった。七日、二十七日は、まだまだ鋭気もあったが五十日、六十日となると、肉は落ち、<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>は澄み、皮膚は<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>を持ちながら<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>のように白くのみあった。

――<ruby><rb>喝</rb><rt>か</rt></ruby>アっ。

――ええおうっ。

異様な声が、杉木立に<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>した。

月の晩も。風の昼も。

――えやーつッ。

神殿の<ruby><rb>広前</rb><rt>ひろまえ</rt></ruby>に、彼は、三尺余もある長刀を、<ruby><rb>革紐</rb><rt>かわひも</rt></ruby>で帯にくくし、われとわが影を、月の白い地上に睨んでいた。

革紐の帯をなであげて、<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>が、<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>にふれる。<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>が、軽く<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>をうつ。

瞬間。

上体が折れる。満身の毛穴から、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を破って、声が発しる。

一<ruby><rb>揮</rb><rt>き</rt></ruby>、風を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>つ。

その時はもう、風か影か、空を一<ruby><rb>颯</rb><rt>さつ</rt></ruby>した大刀は、彼の腰間の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>に吸われているのだった。肉眼では、その<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>の剣のうごきは、見て取れないくらい<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>かった。

この<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>を、彼は、<ruby><rb>暁天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>から夕べまで、また、<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>から深夜まで、一日何百回、行の熟達につれて、何千回もくり返して行った。

疲れれば、拝殿の破れ<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の下にある、一枚の<ruby><rb>莚</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の上に、身を横たえた。眠りから醒めると、すぐ大地に立った。

日の出るたびに、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの大杉の幹へ、一太刀、刀痕を入れた。その刀痕の数が日の数であった。

世上良師多し。　　　　<ruby><rb>世転</rb><rt>せてん</rt></ruby><ruby><rb>縹渺</rb><rt>ひょうびょう</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>

師縁求めて求め難し　　<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>かず<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに<ruby><rb>神</rb><rt>しん</rt></ruby>に会わん

上泉伊勢守を訪ねて伊勢守に会わず、塚原土佐守を訪ねて土佐守に師事し得ず、その<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>、当代著名の人、富田勢源、戸田一刀斎などの、高名を慕い、住居を追う間に、いつか四年の歳月を空しくした甚助は、<ruby><rb>翻然</rb><rt>ほんぜん</rt></ruby>、

――直ちに神に会わん、

と、<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>ったのであった。

自然は<ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby><ruby><rb>師</rb><rt>し</rt></ruby>だ。一冊の書物に師となることばがあれば、一木一草にも師となる声はあろう。そう考えて、彼は自嘲の一詩を旅の記に<ruby><rb>賦</rb><rt>ふ</rt></ruby>し、<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>の<ruby><rb>産土神</rb><rt>うぶすながみ</rt></ruby>の前に<ruby><rb>額</rb><rt>ぬか</rt></ruby>ずき、<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>にかえったような心で、

「我に、前人<ruby><rb>未踏</rb><rt>みとう</rt></ruby>の剣の極理を授けたまえ」

と、すがった。

彼の誓願は、

「人の末流を汲まんより、われ<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら一流の祖たらん」

というにあった。

諸国の剣人の実状を見、また、いよいよ<ruby><rb>剣磨</rb><rt>けんま</rt></ruby>の時代の必然を、社会に視て来たからであった。

勝敗は髪一すじである。

<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の遅いか迅いかで勝敗はすでに決する。

剣のあつかい、間あい、<ruby><rb>心胆</rb><rt>しんたん</rt></ruby>の工夫をした達人は<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>しとしない。

けれど、勝負に立つ、まず間髪の勝目を電瞬にとる工夫をした者はかつてない。

<ruby><rb>刀</rb><rt>とう</rt></ruby>はすべて鞘にある。

刀が鞘を脱する時、勝負はすでにつきかけている。いや、勝目を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>む<ruby><rb>機</rb><rt>おり</rt></ruby>があるはずである。

抜刀の法だ。<ruby><rb>練磨</rb><rt>れんま</rt></ruby>だ。

それを研究しよう。究めて<ruby><rb>神</rb><rt>しん</rt></ruby>に入り、そこの極理を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>もう。

甚助の誓願にかかった<ruby><rb>端緒</rb><rt>たんしょ</rt></ruby>は、実にそこにあった。

## 七

初め、木の皮も喰いたいような<ruby><rb>飢餓</rb><rt>きが</rt></ruby>に襲われた。それがやむと、時折、胃ぶくろが暴れて苦悶した。それに馴れると、<ruby><rb>妄念</rb><rt>もうねん</rt></ruby>が起った。肉体の疲労が、自分の踏む足にもわかった。そこを超えると、自己が分らなくなった。

五、六十日頃から、ようやく、

「苦行のかいがあったか」

と思われるように、頭脳は<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>え、心は清澄に、<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>もわれながら、見事になって来た。

しかし、それは、技のみであった。

「心は？」

と、訊ねてみると、<ruby><rb>空漠</rb><rt>くうばく</rt></ruby>だった。何も得てない気がした。

「これでいいのか」

迷い出した。一心不乱がみだれかけた。壁に突き当ったように技も進まない。われとわが身がふがいなくなって死にたくさえなった。

そこを超えて、

「何を」

と、魔とも人とも思われない<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>になった頃、大杉の幹の刀痕は、九十を超えていた。

「もう百日」

とも思わなかった。甚助は発狂していたかも知れないのである。一刀、一刀、また一刀、<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を斬っては<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>におさめる時の<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい彼の気合は、もう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃ</span><ruby><rb>嗄</rb><rt>が</rt></ruby>れ果てて、何ものか世にあり得ない野獣の<ruby><rb>咳声</rb><rt>しわぶき</rt></ruby>のようだった。<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>はやぶれ手足は血によごれていた。百日も<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>を入れない髪には落葉の骨がたかっていた。雨露にまみれた<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>、小袖、それも傷ましく<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>び果てている。そこからかなり<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>てている甚助の家へまで、近頃は、夜になると、最上川の水音より明らかに、彼の狂わしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃ</span>嗄れ声が<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>いて行った。<ruby><rb>楡葉</rb><rt>にれは</rt></ruby>は、共に寝なかった。

いや遂には、

「百日の間は顔を見せぬ」

と、子へも、<ruby><rb>守人</rb><rt>もりと</rt></ruby>へも、固く約した事も制しきれなくなって、守人の家まで忍んで来ていた。しかし、守人は、

「今あなたが、甘い涙などそそいだら、あなたは何のために、甚助どのを、あそこまで、きつい心で育てて来たか、意味のないことになりましょう」

と、窓を閉じて、固く一室に止めた。

それでも彼女は、破れ戸の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から、時折、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ったり、耳をすましたり、<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えていたが、そのうちに、何思ったか社家の裏から馳け出して、最上川の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>に、衣をぬぎ捨て、月よりも白い肌、<ruby><rb>烏羽玉</rb><rt>うばたま</rt></ruby>より黒い黒髪を、<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>みもなく、川水に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>し、また川水を一心に浴びて、そこから見える<ruby><rb>神居</rb><rt>かみい</rt></ruby>の森へ、夜もすがら、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>をあわせていた。

まだ五月の末だったので、川水は冷たかった。渓谷の奥ふかくには雪さえ残っている頃である。彼女は、<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えたまま、<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れていた。夜の白んだのも知らなかった。

同じように。

その夜明け頃。

甚助も、大刀を持ったまま、熊野権現の前に、平べッたくなっていた。完全に呼吸もしていなかった。肌も、死人のような色をしていた。

陽がさし昇った。

<ruby><rb>巨杉</rb><rt>おおすぎ</rt></ruby>の梢から金色の<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>が、甚助の背へぽとぽと落ちた。美しい毛艶の<ruby><rb>神鴉</rb><rt>しんあ</rt></ruby>が、ふた声ほど、高く<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いた。

「甚助どのの母御が、最上川の水に浸って、気を失うてござらっしゃる」

<ruby><rb>河往来</rb><rt>かわおうらい</rt></ruby>の船子たちが知らせて来た。それはちょうど、朝の<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>炊</rb><rt>た</rt></ruby>いて、守人が、神殿の前に仆れている甚助の姿に気づき、驚いて、手当をしていた時だった。

幸いに、二人とも、<ruby><rb>蘇生</rb><rt>そせい</rt></ruby>した。元より母の<ruby><rb>楡葉</rb><rt>にれは</rt></ruby>のほうが<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>は早かった。楡葉は気がつくと、寝食も忘れて、子の枕元に坐ったきりだった。

甚助も日ならずして恢復した。

<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>を払って起きた日に、彼は、身の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>をそそぎ、衣服を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>えて、

「母上、一緒に行って下さい」

と、云った。

「どこへ」

「神前へ、お礼<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りにです」

<ruby><rb>楡葉</rb><rt>にれは</rt></ruby>は頷いた。そして心<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに、わが子が百日の参籠とあの精進の結果、何ものか神霊の<ruby><rb>示顕</rb><rt>じげん</rt></ruby>を得て、志す剣の工夫のうえに、一つの光明を掴み得たにちがいないと思った。

「<ruby><rb>守人</rb><rt>もりと</rt></ruby>様、<ruby><rb>神灯</rb><rt>みあか</rt></ruby>しをお願いいたします」

社家へ声をかけると、守人も来て、神前に<ruby><rb>菅莚</rb><rt>すがむしろ</rt></ruby>を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べ、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の坐った端へ、自分も共に坐って、<ruby><rb>拍手</rb><rt>かしわで</rt></ruby>をうち鳴らした。

「…………」

祈念をこめて、神へ心から<ruby><rb>額</rb><rt>ぬか</rt></ruby>ずき終って後、楡葉は甚助へ問うた。

「何ぞ、神さまの、<ruby><rb>御霊現</rb><rt>みしるし</rt></ruby>をうけたかや」

「いいえ、べつに」

「百日のあいだに、何もなかったかの」

「八、九十日から先は、一切夢中でございました。何も覚えませぬ。精も力も尽き、<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>と仆れて夢中の霧につつまれたように気を失ったのが、ちょうど百日目の<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>でございました」

「それだけか」

「それだけです」

母はやや失望の色を<ruby><rb>泛</rb><rt>う</rt></ruby>かべた。けれど甚助の胸には、口で言い現し難い何ものかが実は宿っていた。けれどそれを説明する言葉がなかった。

「行って参ります。――母上、もう一度お暇を下さい。こんどは、坂上主膳へ出会って参ります」

数日の後、彼はふたたび、旅へ立った。<ruby><rb>腰間</rb><rt>ようかん</rt></ruby>の一水は、伝家の銘刀<ruby><rb>来信国</rb><rt>らいのぶくに</rt></ruby>の三尺二寸という大剣であったという。

## 八

京都へ上るその途中だった。やがて木曾路へも近い一夜、信州岩村田の土豪北山半左衛門の家に泊った。

「お客様、逃げて下さい。はやく、はやくたいへんです」

<ruby><rb>真夜半</rb><rt>まよなか</rt></ruby>のことなのだ。

<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の子息北山半三郎が寝室へ来て、甚助をゆり起し、<ruby><rb>顫</rb><rt>おのの</rt></ruby>きながら云うのだった。

「――<ruby><rb>茨組</rb><rt>いばらぐみ</rt></ruby>がやって来ました。木曾の宿々から善光寺いったいを荒して廻る茨組です。家財や金さえ<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>ってゆけば立去るでしょうが、お怪我があるといけませんから」

茨組という名は、街道いたる所で甚助も聞いていた。応仁の乱以後、室町幕府の<ruby><rb>紊乱</rb><rt>ぶんらん</rt></ruby>につけこんで、京都に<ruby><rb>簇出</rb><rt>そうしゅつ</rt></ruby>した浪人くずれの<ruby><rb>無頼者</rb><rt>ならずもの</rt></ruby>の一団である。

しかし、その京都や<ruby><rb>浪華</rb><rt>なにわ</rt></ruby>でも、近頃は取締りが厳しくなった。近畿や地方の都会でも、信長とか、朝倉家とか、徳川家などの武将が、自己の領政に厳密な改正を加えている折なので、浮浪人や暴徒の横行する世間はだんだん狭められていた。

で、自然、武将の勢力や統治の行き届かない片田舎へと、<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>組なども流れて来た。同時に彼等の持前とする<ruby><rb>殺戮</rb><rt>さつりく</rt></ruby>と兇暴な<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>も、野に返った野獣と同じで、とても人間の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>とは解し得ないことを平然とやって歩いた。

「お静かになさい。騒ぐことはありません」

甚助は、<ruby><rb>信国</rb><rt>のぶくに</rt></ruby>の一腰を横たえて、裏戸を開け、<ruby><rb>墻</rb><rt>かき</rt></ruby>を<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>って、表の土塀門のほうへ迫って行った。

信濃の名物という月がその晩も<ruby><rb>煌</rb><rt>こう</rt></ruby>として中天にあった。外から窺っていると、<ruby><rb>大槌</rb><rt>おおづち</rt></ruby>や<ruby><rb>棍棒</rb><rt>こんぼう</rt></ruby>で打ち壊したらしい門内へ、およそ三十人ばかりの賊がなだれ込んで、土蔵を破壊し、全家族を<ruby><rb>縛</rb><rt>くく</rt></ruby>し上げ、手燭を持ち廻って、大がかりな<ruby><rb>掠奪</rb><rt>りゃくだつ</rt></ruby>にかかっている様子であった。

どんな人間どもかというと、その頃の世相を見て書いた「<ruby><rb>室町殿</rb><rt>むろまちどの</rt></ruby>物語」に依ると、<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>組の風俗をこんなふうに写してある。

ソノ装束ハト見レバ、<ruby><rb>茜染</rb><rt>アカネゾメ</rt></ruby>ノ下帯、<ruby><rb>小玉打</rb><rt>コダマウチ</rt></ruby>ノ<ruby><rb>上</rb><rt>ウハ</rt></ruby>帯ナド、幾重ニモマハシ、三尺八寸ノ<ruby><rb>朱鞘</rb><rt>シユザヤ</rt></ruby>ノ刀、柄ハ一尺八寸ニ巻カセ、ベツニ二尺一寸ノ打刀モ同ジ拵ヘニテ仕立テ、ソギタテ<ruby><rb>鑓</rb><rt>ヤリ</rt></ruby>、<ruby><rb>掻</rb><rt>カイ</rt></ruby><ruby><rb>持</rb><rt>モ</rt></ruby>テルモアリ、髪ハ掴ミ乱シテ、荒繩ノ鉢巻ナドムズト締メ、熊手、<ruby><rb>鉞</rb><rt>マサカリ</rt></ruby>ナド前後ヲカタメ、常ニ同行二十人バカリニテ押通ルヲ、「アレコソ、当時世ニ聞ユル茨組ゾ。辺リヘ寄ルナ、物言フナ」トテ人々<ruby><rb>怯</rb><rt>ヲ</rt></ruby>ヂ怖レテ道ヲヒラキケル。

悪党でも派手を誇る時代だったから、それは洛内の見聞であったろうが、いずれはそんな部類の雑多な<ruby><rb>扮装</rb><rt>ふんそう</rt></ruby>をしていたにちがいない。それと武器は<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>の長柄が最も多く、槍、山刀、<ruby><rb>鉞</rb><rt>まさかり</rt></ruby>、<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>なども持ち歩いていたらしく思える。

やがて屋内の悲鳴や物音が少しやむと、その<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>の中から、三人、四人と外へ出て来た。目ぼしい家財を担いで来るものもあり、金や女を盗んで<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れながら、出て来る男もあった。

甚助は、ふいに、前へ立って、

「待てっ」

と、云った。

待て――と聞えた時はもう、彼の大剣の左右に、二つの死骸が一度に<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>されていた。仰天して逃げ込もうとした男も一名は後ろ<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>に、一名は腰ぐるまを払われて、醜い胴を地へ転がした。

刀を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>って、また待った。

次の三人も、一<ruby><rb>颯</rb><rt>さつ</rt></ruby>に斬った。

甚助は、心で、

（母上。これです）

と、叫びたかった。

林崎明神の神前に<ruby><rb>額</rb><rt>ぬかず</rt></ruby>いて、母から、百日の参籠と精進のうちに、何か、神の<ruby><rb>御霊現</rb><rt>みさとし</rt></ruby>はなかったかと問われた時、云い現わすべき言葉がないので、

（べつに、何も覚えませぬ）

と答えたが、その云い現わせないものを、彼は今、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れない事実の上に、また、無意識な行動の上に、間違いなく自己の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>として、現わしていることを思ったのであった。

「何だ？」

「どうしたと？」

門外の異変に気がついて、<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>組の総勢一かたまりとなって、やがて甚助の前後へ、真っ黒に躍りかかって来た。

<ruby><rb>信国</rb><rt>のぶくに</rt></ruby>の刀は、月下に十数箇の死骸を積み、大地を<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>い血に光らせた。

かなわじと余の者は怖れて逃げたが、その騒動も片づいて、翌日、北山家を辞し去った彼を、道に待っていたらしいその夜の茨組の男三名が、

「しばらく」

と、並木の蔭から呼びとめた。

## 九

呼び止めた男は、<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>組の沼沢甚右衛門、<ruby><rb>葦沢</rb><rt>あしざわ</rt></ruby>弥兵衛、<ruby><rb>桜場隼人</rb><rt>さくらばはやと</rt></ruby>などだった。見れば大地へ姿を揃えて平伏している。そして誠意を示して云うのだった。

「御門下の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>に加えていただきたい。――とお<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り申すからには、今日以後、悪行を<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めて<ruby><rb>完</rb><rt>まった</rt></ruby>き武士となるよう志すことを、三名、神に誓い申しての上でござる」

甚助は、<ruby><rb>乞</rb><rt>こい</rt></ruby>を許した。しかし、誓約に<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めて後日の再会を約し、なお行くと、また彼を追って来た者がある。岩村田の近郷に住む田宮平兵衛という郷士だった。

「願わくば拙者をお弟子として<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れ給え」

切実な願いなので、田宮だけは供にした。やがて京都へ着いた。そしてあらゆる苦心と手引を経て、松永久秀の<ruby><rb>幕下</rb><rt>ばっか</rt></ruby>にいる父の<ruby><rb>讐敵</rb><rt>しゅうてき</rt></ruby>坂上主膳と出会うことができた。

主膳を斬った際も、信国の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>が、彼の手に鳴ったせつな、実にただ一刀しか<ruby><rb>費</rb><rt>つい</rt></ruby>やされなかったということである。唯、遺憾ながらその場所や、当時の実状など、史録には明確を欠いている。

<ruby><rb>居合</rb><rt>いあい</rt></ruby>という言葉は、後世にできた<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>び方であろう。彼の創始した抜刀法――後に<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えたところの林崎<ruby><rb>夢想流</rb><rt>むそうりゅう</rt></ruby>とは、純正剣道の一流であって、本流の剣に、剣とは不可分な抜刀の神息をふきこんだものに<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>ならないのである。

彼に随身した田宮平兵衛は、後に、

――<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に八寸の徳、みこしに三<ruby><rb>重</rb><rt>じゅう</rt></ruby>の利。

という有名な居合の名標語を吐いた人で、抜刀田宮一流の別派を興し、当時の達人ともいわれて、林崎夢想流<ruby><rb>麾下</rb><rt>きか</rt></ruby>の第一人者と目されるに至った。

また、<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>組から脱した沼沢甚右衛門は、<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>の<ruby><rb>真壁</rb><rt>まかべ</rt></ruby>に、<ruby><rb>葦沢</rb><rt>あしざわ</rt></ruby>弥兵衛は武州<ruby><rb>牛久在</rb><rt>うしくざい</rt></ruby>に、<ruby><rb>桜場隼人</rb><rt>さくらばはやと</rt></ruby>は三州<ruby><rb>挙母</rb><rt>ころも</rt></ruby>村に、それぞれ一道場を持って大いに道風を興したとある。

なお、林崎甚助自身は、各地を遊歴して、自然、門流のひろまる一方、後年またさらに、鹿島神宮の<ruby><rb>武林</rb><rt>ぶりん</rt></ruby>に入って、天真神道流の<ruby><rb>研鑽</rb><rt>けんさん</rt></ruby>に身をゆだね、元亀何年かには、越後の上杉謙信の幕将、松田尾張守に随身して、戦場をも馳駆したらしいが、謙信の<ruby><rb>歿後</rb><rt>ぼつご</rt></ruby>は、<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として、その足蹟も定かでない。

晩年は奈良に住んでいたという説もあるし、鹿島で終ったという説もある。五十何歳かで郷里林崎で病歿したともいわれている。いずれにしろ半生は確説もない。しかし、彼の林崎夢想流は、不滅の<ruby><rb>光茫</rb><rt>こうぼう</rt></ruby>を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して行ったし、その誕生の森、林崎明神は今もそのまま現存している。

夢想と流名に<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えても、彼の百日<ruby><rb>参籠</rb><rt>さんろう</rt></ruby>には、何らの奇蹟的なはなしも伝えられなかった。けれど奇蹟のないところに、彼の真実な魂の神化があった。肉体を百日の精進に燃えきらして仆れるまでに至れば、ひとり林崎甚助<ruby><rb>重信</rb><rt>しげのぶ</rt></ruby>のたましいばかりか、誰の精神でも、どんな道に於ても、神の夢想をつかむことができよう。

「甚助。ようしやった」

彼の母は、京都から一先ず帰郷した甚助を迎えて、初めて、心から<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>んだ<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>顔を子へも見せたろうと思われる。

「生涯の満足は今だ」

母の一笑に、甚助もまた、そう思ったにちがいない。だが、若くして美しかった<ruby><rb>楡葉</rb><rt>にれは</rt></ruby>は、亡夫の<ruby><rb>讐怨</rb><rt>しゅうえん</rt></ruby>を子の討ちはらしてくれた報告を聞いてから<ruby><rb>幾年</rb><rt>いくとせ</rt></ruby>もなく、病の床について世を去った。

甚助重信が、孤剣、白雲の人となって、郷土を離れたのは、そのためであると云われている。