## 十九の<ruby><rb>海騒</rb><rt>うみざい</rt></ruby>

## 一

『はてな。……閉めて寝た筈だが』

と、<ruby><rb>若党</rb><rt>わかとう</rt></ruby>の<ruby><rb>楠平</rb><rt>くすへい</rt></ruby>は、枕から首を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げて、耳を澄ました。

――風が出て来たらしい。

海が近いので、庭木には潮風が<ruby><rb>騒</rb><rt>ざわ</rt></ruby>めいている。確かに、寝しなに閉めたとばかり思っていた庭木戸の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>が、時折、ばたん――ばたん――と大きな音を立てている。

楠平は、手燭を<ruby><rb>灯</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。そして揺れる灯を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>いながら、庭へ出て行ったが、主人たちの住む南側の母屋を見て、眼を<ruby><rb>恟</rb><rt>すく</rt></ruby>めた。

『あっ、お<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>様の部屋が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いている？』

口走りながら、楠平はそこへ寄ってみた。雨戸が二尺ほど開いているし、縁の内をそっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、暗くてよく分らぬが、何か取乱れている気配がする。

『――お嬢様、お嬢様』

ふた声ほど呼んでみた。

返辞はない。

楠平はすぐ、はっと或る予感の的中を思って、体が<ruby><rb>顫</rb><rt>おのの</rt></ruby>いた。

明日は、家中の人、<ruby><rb>曾我部兵庫</rb><rt>そがべひょうご</rt></ruby>へ<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>ぐというので、きょうも一日、<ruby><rb>曠</rb><rt>は</rt></ruby>れの荷物や、何かの支度に、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しく暮れたこの部屋だった。

『旦那様っ、旦那様っ。――お嬢様のお部屋が開いておりますが。そして、お嬢様のお声もしませぬが』

雨戸の外から、主人の寝所をたたいて彼が告げると、

『なにっ、娘が居ないと？』

<ruby><rb>田丸惣七</rb><rt>たまるそうしち</rt></ruby>の夫婦は、<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きたらしく、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に家の内には、狼狽する気配が聞かれた。

娘のお市の行状に<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>ては、田丸惣七夫妻も、薄々は一抹の気懸りを抱いていたものとみえて、

『さては、<ruby><rb>格之進</rb><rt>かくのしん</rt></ruby>めに<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かされて、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>を前に、立ち退いたものとみえる。……不！　<ruby><rb>不埓者</rb><rt>ふらちもの</rt></ruby>めが！』

と、狼狽の中に、惣七の怒りの声が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れたと思うと、<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て、

『おまえが悪いっ。女親として、知らずにおる事があるものか』

と、彼女の母親を、恐しい声で叱りとばした。

――わっと、泣き伏す声がした。お市の母が悔い泣くのである。

その泣き声を、惣七は又叱りながら、

『ば、ばかめ！　泣いていて済む場合か。遺書を見い、上方へ行くとある。わし達が<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>む迄は、何の気振も見えず、この部屋の<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>に姿が見えた<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>だ。――差しずめ、一刻も早く、手配をするのが肝要じゃ。まず<ruby><rb>斎地</rb><rt>さいち</rt></ruby>どのへ<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせに行け。岡村へも、野坂へも。――早く、早く』

## 二

――まだそう遠く迄は走っていまい。

それに<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>は、浜から出る船はない筈だから、足どりも、山越えを指して行ったに違いない。

楠平は、自分の若党部屋へもどって、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく身支度をする間に、そう考えた。

『旦那様。ひと足先に、てまえが追いついて、お嬢様を抑えて置きますから、お後からすぐ』

出がけに、外から云うと、惣七は、窓から顔を見せて、

『楠平か、楠平か』

『はい。はい』

『よく気がついた。早く行ってくれ。――浜ではないぞ。道どりは山の方らしい』

『てまえも、そう考えます』

『わし等も、手配をして、すぐ<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から行く程にな――』

楠平はもう外へ駈け出していた。主人のおろおろした声が耳に残って、いつまでも心が<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>んだ。

中津の城下は、もう何処も寝しずまっていた。<ruby><rb>小笠原家</rb><rt>おがさわらけ</rt></ruby>八万石のお城にも、ポチと小さい灯が仰がれるだけだった。

道は、山国川の流れに添って行く。町から離れ、村から遠去かるに従って、登りにかかった。

<ruby><rb>宇佐</rb><rt>うさ</rt></ruby>まで六里。小倉まで十五里半。

<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>の追分まで来て、ほっと楠平が汗を拭っていた時である。もう戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てて人気もない筈の山茶屋の陰から、人影が二つ――寄り添って<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>へ行くのが見えた。

『あっ？　……やっぱり相手は格之進』

楠平は、覚られないように、身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて追いかけた。

もう一人の方は、紛れもない主人の娘の――お市であった。

『お待ちなさいっ。――お嬢様、格之進様っ』

不意に馳け寄って、楠平は、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の袂をつかまえた。

## 三

男女は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して、彼の手を振払ったが、楠平は先へ廻って、道に立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がった。

『何とした事です。お嬢様もお嬢様なら、格之進様も又、武士にあるまじき為され方。――さ、お帰りなさいませ』

『…………』

若い男女は、<ruby><rb>恟</rb><rt>すく</rt></ruby>んだまま、楠平の<ruby><rb>甲</rb><rt>かん</rt></ruby>だかい声に、顔いろを<ruby><rb>顫</rb><rt>おのの</rt></ruby>かせていた。

『今のうちにお帰りなされば、誰もまだ知らぬ事、お嬢様も傷がつかず、格之進様も御無事で済みましょうが。……おふたりの仲は、楠平も以前から、薄々はお察し申しておりましたが、お嬢様には、親御様のお口から、嫁に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ろうと誓った<ruby><rb>歴乎</rb><rt>れっき</rt></ruby>とした<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>のある身。――それを、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>は御婚礼という今夜、こんな事を遊ばしては、親御様のお立場は何うなりましょうぞ』

――すると、それまで黙っていた深見格之進は、

『これ楠平。若党の<ruby><rb>分際</rb><rt>ぶんざい</rt></ruby>で、いらざる事に<ruby><rb>出洒張</rb><rt>でしゃば</rt></ruby>るな。もう御城下を出奔したからには、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の恋は命がけ、ここは二人が、恋に勝つか死ぬかの峠だ』

『では、何うあっても』

『知れたこと！』

『……でも、お嬢様は、よもや御両親を苦境に捨てて、後は何うでもなれというお考えでは御座いますまい。口の巧い、<ruby><rb>容貌</rb><rt>かおだ</rt></ruby>ちの<ruby><rb>美</rb><rt>よ</rt></ruby>い男に限って軽薄なもの。――永い<ruby><rb>行末</rb><rt>ゆくすえ</rt></ruby>に、御後悔をなされますなよ』

『おのれ、今の言葉は、誰を指して？　――』

と、格之進は不意に刀を抜いて、楠平の横顔へ斬りつけた。

楠平は、わっと両手で顔を抑えながら五、六歩ほど<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろ</rt></ruby>めいた。

そして一度は、腰をつきかけたが、血を浴びた<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に、彼にも武士の性根が<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつぜん</rt></ruby>と眼を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>まして、

『もうこの上は！』

と、刀を抜合せて、烈しく斬返して来た。

格之進は、彼の鋭い切っ先を、何度もかわしながら、彼の弱るのを待って、滅多斬りに刀で<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>った。

お市は、自分の幼い時から、背にも負われ、手にも抱かれた召使なので、さすがに<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を向けていられなかった。

『――もう、もう、止してください。格之進様っ。止して下さい。……あっ、誰か<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>から人が来ました。はやく此処を』

『えっ、追手が来た？』

彼女のことばに度を失って、格之進は血刀を提げたまま、お市の走るのに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて駈け出した。

だが、その翌々日、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は、<ruby><rb>門司</rb><rt>もじ</rt></ruby>から<ruby><rb>赤間</rb><rt>あかま</rt></ruby>の関へ行く便船の中で、追手の者に、捕まってしまった。

然し、連れ戻されたのは、お市だけで、男の深見格之進は、島の多い海峡の瀬戸口で、追手の隙を見て海へ飛びこんでしまった。

勿論、この事は、田丸家の内輪の者だけで、極秘にされ、お市の婚礼は、急病という<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>で、延期された。

若党の楠平は、重傷だった。けれど<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>だけは取止めたので、彼の義兄で、身分の低い同藩の侍――尾形周蔵を呼んで、<ruby><rb>懇篤</rb><rt>こんとく</rt></ruby>に引き渡した。

その後、半年以上も過ぎて、お市の結婚は、極めて質素に執り行われた。――かねて正当な婚約のあった同藩の<ruby><rb>曾我部兵庫</rb><rt>そがべひょうご</rt></ruby>が、その日からの彼女の良人であった。

×　　　　　　　　　×

×　　　　　　　　　×

享保二年から八年までの歳月は、またたく流れた。

十九の年の<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>ちも、六年前の夢となって、お市は今なお水々しい二十五の<ruby><rb>御新造</rb><rt>ごしんぞ</rt></ruby>ぶり、良人の曾我部兵庫は、四十近い<ruby><rb>寡黙</rb><rt>かもく</rt></ruby>な侍であった。そして明けても暮れても、静かな<ruby><rb>海騒</rb><rt>うみざい</rt></ruby>と、<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な陽あたりの<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>、何事もない城下町では、この一家庭も、勿論、平和に見えた。ただ夫婦の仲に、子がないだけが淋しく思われる位なものであった。

## 一<ruby><rb>詫</rb><rt>た</rt></ruby>の妻

## 一

七夕も近い――夏の或る日の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れだった。

お市は、ぽつねんと、雑草に委されている庭に立って、夕方の星を仰いでいた。まだ、外も、窓も、仄明るかった。

『お市っ。――<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>はどうした？』

良人の書斎から、兵庫の声が、その姿へ、鋭く投げられた。

『…………』

星を見ていたお市の眼は、そこらの木を梢から梢へ移されたが、良人の方は見もしなかった。

『……居りません』

と、冷ややかに云ったのみで。

兵庫は、書き物に疲れた眼をあげて、<ruby><rb>筆架</rb><rt>ひっか</rt></ruby>へあらく筆を<ruby><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby>いた。

彼の周りは、書物に埋っていた。

伸びるままに委せてある庭の雑草のように、彼の身のまわりも、独り者のように、散らかって、<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>が積っていた。

『居ない？　……。それは当り前だ。そんな所に立った儘、庭木を見ていた所で、見える筈はない。外を歩いて探して来い』

『…………』

彼女は然し――その立っている所から動かなかった。

今し方、良人に代って、鷹小屋の中へ這入って鷹へ<ruby><rb>餌</rb><rt>え</rt></ruby>をやる時、過まって、鷹を逃がしてしまったのである。

鷹の<ruby><rb>糞</rb><rt>ふん</rt></ruby>だの、羽虫のにおいだのがして、その中へ這入ると、彼女はいつもむっとする。だから彼女は鷹が嫌いであり、鷹に不親切であった。

飼い馴れている鷹であるから、本来逃げる筈のものではないが、彼女の姿を見ると、鷹も<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>るのであった。<ruby><rb>過失</rb><rt>あやま</rt></ruby>ちの<ruby><rb>因</rb><rt>もと</rt></ruby>は、そこにあった。

それを良人の兵庫は、叱りはしなかったが、

（探して来い）

と、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から云っているのだった。

（馴れた者が、口笛をふくなり、手をあげて呼べば、鷹は<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>に降りてくる。おまえも、鷹匠の妻ではないか）

とも云うのである。

だが――彼女はその命に従がえなかった。

星を見ていた……。

ここに居ない、遠くの人が思い出された。

そして現在の自分に、ほろほろと理由なく泣けて来る――

『まだ其処に居るかっ』

兵庫の声は、烈しくなった。

『もう年老いて、猟には使えぬ古鷹だが、年来、わしが<ruby><rb>餌</rb><rt>え</rt></ruby>飼いして来た鷹だ。それに人に馴れ過ぎているので、この家を離れれば、すぐ心ない<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>たちに捕まるか、猟師に撃ち殺されてしまうだろう。――余り暗くならぬうちに、早く見つけて来い』

『……御無理です』

『なに、なぜわしの<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けが無理か』

『女などに、鷹を捕まえて来いなどと仰っしゃっても』

『<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>が逃がしたのではないか』

『逃がしたから、その<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>を責めて、困らしてやろうというお考えですか』

『誰が、妻の困るのを見て嬉ぶものがあろうぞ。そなたも鷹匠の妻でないか、もう五、六年も朝夕わしのする事は見て手心も知っている筈。――今渡した鷹笛をふいて、<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あなたこなた</rt></ruby>と、庭木の多い屋敷を歩いて居れば、きっと鷹が聞きつけて降りて来る』

『……そ、そんな、見ッともないことが』

『何が見ッともないのか』

『御自身で探していらっしゃれば、よいではございませぬか』

『十日以内には返上すると約束して、他家から拝借した「<ruby><rb>放鷹故実</rb><rt>ほうようこじつ</rt></ruby>」を、こうして今、懸命に写しておるので手が離せぬ。……アア<ruby><rb>行燈</rb><rt>あかり</rt></ruby>もまだ<ruby><rb>灯</rb><rt>つ</rt></ruby>いていないの。<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>の用意はわしがするから、さがして来い、鷹を探して来い』

すぐ側にある行燈を引き寄せたが、掃除の届かない油皿にも<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>が溜っていて、付木の火を移すと、バチバチと火花が<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねた。

## 二

いつのまにか、お市の姿は、庭から消えていた。

鷹を探しに外へ出て行ったものとばかり思って、兵庫は又、机に<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>みこんでいたが、ふと、彼女の部屋に物音がするので顔をあげてみると、お市が鏡台に向って、いつもの夕化粧をしている姿が、萩戸を透かして見えた。

『居るのかッ、未だ！』

こう呶鳴ると、彼は無意識に、机の上の物を掴んで、彼女の部屋へ抛りつけた。

それは、<ruby><rb>朱墨</rb><rt>しゅずみ</rt></ruby>を<ruby><rb>卸</rb><rt>お</rt></ruby>ろす<ruby><rb>丸硯</rb><rt>まるすずり</rt></ruby>だった。萩の<ruby><rb>簀戸</rb><rt>すど</rt></ruby>を突き破った硯は、<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>にぶつかって、彼女の坐っている側に<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>った。

『――今、行きかけている所です』

お市は、見向きもせず、櫛の手をうごかしていた。くわっとした兵庫も、彼女の声の底に、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>にない冷たさと落着きぶりを感じたので、黙って、見まもっていた。

――次に、お市は箪笥を開けていた。閉めたり開けたりする<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>の<ruby><rb>環</rb><rt>かん</rt></ruby>の音がだんだん荒っぽくなる。

着物を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>え、帯を締め、そして何か手廻りの物を包み初めた様子に――兵庫は、

（又、始まったな）

と、<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>って、舌打した。

『……お話がございますが』

と、彼女は、改まって、良人の前へ来て坐った。

『……なんだ』

『お<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>をくださいまし』

『…………』

『<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>は、妻よりも、鷹の方が可愛いいお人なんですから』

『…………』

『この部屋も、鷹の<ruby><rb>書</rb><rt>ほん</rt></ruby>でいっぱい。家の中も鷹の抜毛や餌でいっぱい。何処を向いても鷹臭いほどです。――貴方がいちばん御機嫌のよい時は、餌をやりながら、鷹と独り言に話しをしている時でしょう。――鷹になさる程な優しい顔を、妻にはした事のない貴方です』

『わしは、藩の鷹匠だ、書物を見るも、鷹を飼うも、わしの天職――わしの御奉公。――当りまえな勤めではないか』

『ですから、わたくしは、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>を去って参ります。どうか、お暇を下さいまし』

『<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い事だ。……おまえが来てからも、この家の行燈の灯皿には、いつも虫の死骸や塵が沈んだままだ。居ても居なくても、何の変りはない』

『よ、ようござんすね。……では』

『だが、待て』

『御未練ですか。武士のくせに』

『はははは。――イヤそう思って居てもよい。<ruby><rb>其女</rb><rt>そなた</rt></ruby>の出て行く出て行くもこれで何度か』

『はい、今日こそは、出て参ります。此の家へ嫁いで来てから、わたしはただの一日でも、倖せだった事はないのですから』

『仕方があるまい……』

『ど、どうしてですか』

『そうして、一日一日でも、親に為した不孝の罪を償うのが、せめて<ruby><rb>其女</rb><rt>そなた</rt></ruby>のとる道ではないか』

『…………』

お市は、ちょっと青ざめた唇を、きりっと噛んで、詰め寄りながら、

『それは一体……何の……何ういう意味ですか』

『自分の胸に問え』

『父の惣七も、私の母も、<ruby><rb>実家</rb><rt>さと</rt></ruby>は無事に暮しています。何が、わたくしが不孝をして、親たちを』

『やかましい』

『いいえ、いいえ』

『だまれ。惣七殿が御無事なのは、わしたち夫婦が、何事もなく、いや何の風波も無いように、世間へ見せているからではないか。――あの好人物な惣七殿を初め――其女の一家が、わしの胸一つで、気の毒な事になると思えばこそ、わしは<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の時、何事もいわずに婚儀をしたのだ』

『そ、そんな、偽った気持――わたくしは嫌いです』

『何を云う。誰が、偽った気持など抱きたかろう。――だが、わしはお前の両親に、頼むと、手をつかれた事があった』

『知りません。父が貴方と婚約した事すら、わたしに黙ってしたのですから』

『いや、まあ聞け。武士として、頼むと、手をつかれる程、辛い事はない。其女はいつも口癖に、わしには愛がないように申すが、それは<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>みというものだ。いちど自分の持った女――無智なら無智で<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>と思う――まして惣七殿が泣いて手をつかえた親心もある。きょう迄わしは、一度でも、其女を憎いとはしていない。<ruby><rb>飯櫃</rb><rt>めしびつ</rt></ruby>でも使い馴れる迄はクセのあるもの。わが妻と成しきる迄は、そのクセも抜こう、磨きもかけよう。――そう考えて努力して来たが、その大きな愛が其方にはまだ分らぬ』

『分りました。――そうです、わたくしなどは、どうせお<ruby><rb>飯櫃</rb><rt>ひつ</rt></ruby>ぐらいにしか、貴方には考えられていないのですから』

『今に分る。もっと長く長く、わしと<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>ているうちには』

『そんな<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>はもう……。思うだけでも、身がふるえます』

『不幸が其女を誘惑するのだ。惣七殿の為にも、其女の為にも、わしという者は、大樹の陰ではないか。――逃げた鷹はぜひもないが、不幸になる人を見のがすわけには行かぬ』

『そんな事を云って、又わたくしの気を<ruby><rb>鈍</rb><rt>にぶ</rt></ruby>らせ、真綿で首を<ruby><rb>縊</rb><rt>くく</rt></ruby>るように、じりじりと、<ruby><rb>復讐</rb><rt>しかえし</rt></ruby>なさるので御座いましょう』

『――<ruby><rb>復讐</rb><rt>しかえし</rt></ruby>？』

『そうです！　貴方の優しいのは、<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>から優しいのではない。針をかくした<ruby><rb>莿茨</rb><rt>とげいばら</rt></ruby>。なぜ胸にあることを、男らしく云って、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つとも蹴るともなさらないのです』

『……はははは、もう落着け、鷹も探しに行かいでもよい。よく落着いて、もういちど考え直せ』

『いいえ、嫌です、嫌です。何と云われても、もうもう私は……』

良人が冷静な<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしを澄ましている程、彼女の眼は、涙に<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り上った。そして物狂わしく、自分の居間へ駈け戻ると、包んでおいた身のまわりの物を抱えて、玄関から外へ出て行った。

前の日、一人の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>は、<ruby><rb>諫早</rb><rt>いさはや</rt></ruby>の家に急用が起って帰り、勝手元にいる老婆は、耳が遠いし、気がついても、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>もの事だと思っているらしい。

兵庫は又、机に向い直して、筆を執りかけた。

――すると、彼女の跫音が、門を踏み出したか、<ruby><rb>未</rb><rt>ま</rt></ruby>だかと思われるのに、

『あれッ』

と、<ruby><rb>消魂</rb><rt>けたたま</rt></ruby>しい叫びが一声、そとから聞えた。

『……？』

兵庫は、執りかけた筆を<ruby><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby>いて、耳を澄ましたが、ふと眉をひそめて起ち上った。

## 忘れぬ意趣

## 一

この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の屋敷はみな小さい。

従って、狭い小路が、幾筋も曲がっていたし、どの家も、簡素を超えて、貧しげな侍ばかり住んでいた。

今――ばたばたっと夕闇を<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろ</rt></ruby>めくように駈けて来た旅の浪人者があった。物に衝き当った<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>のように、お市が、門を出て来た出会い<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>に、そこの土塀にぶつかって、ばたっと<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れたかと思うと、

『た、助けて下さい。――お<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り申す！　……何、何処へな、お<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>い願いたい』

と、彼女の裾をつかんで叫んだ。

赤土の肌の崩れている土塀には、夕顔の<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>がいちめんに這って、白い花が無数に<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>の微風に息づいていた。彼女の側にも、浪人の体にもその弱々しい蔓や白い花が、<ruby><rb>千断</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>れて落ちた。

『あっ……？』

と、お市が身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くと、若い浪人は、固くつかんでいる裾の手を、猶更かたく、

『お、お、お慈悲に――暫くの間、御門内に』

と、這って来る。

見ると、その若い浪人の背筋は、<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いた魚の背みたいに真っ赤な肉がはじけていた。仄暗いので、血とも見えない液体が、黒々とそこから満身にながれて、手をついた跡にも、血しおの手型がべったり残っている。

――きゃっと、彼女が思わず悲鳴を揚げて、門の内へ逃げこんだのは、その時だった。ウーム、ウームと、外には、<ruby><rb>気息奄々</rb><rt>きそくえんえん</rt></ruby>な<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>の<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きが、不気味に<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>くなっていた。

良人には、出て行くと云って、踏み出した<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>だし、門の外には、その不気味なものが仆れているので、お市は、そこに立ち<ruby><rb>恟</rb><rt>すく</rt></ruby>んでいた。

――と。手燭の明りが<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>して、

『何うした？　……』

と、兵庫の声が<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>でする。

さっきも今も、兵庫の声には、少しも変りは無かったが、お市は、未練に思われるのが口惜しかったので、

『ええ今……今行くところです』

と、云った。

兵庫は、薄く苦笑したが、門の外の呻き声に、

『やっ？　……誰じゃ』

と、<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>の影へ、手燭をかざした。

## 二

もう意識を失いかけて、<ruby><rb>昏倒</rb><rt>こんとう</rt></ruby>していた<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>の若い浪人は、兵庫のことばと、手燭の明りに、又びくびくと全身の肉を<ruby><rb>痙攣</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせて、

『武士のお情に！　……お、お<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>い下さいませ』

と、絶叫する程な力で、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな声をしぼりながら、兵庫の足もとを、血しおの手で拝んだ。

兵庫は、夕顔の花より血の気のない――その浪人の顔を見て、愕然としたが、

『<ruby><rb>斬合</rb><rt>きりあい</rt></ruby>か』

と、一<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>、訊ねた。

『そ、そうです。相手は……相手は五、六人もの人数』

『ひとりか、おん身は』

『…………』

頷くと、其儘、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がくり</span>としかけたので、兵庫は急いで手を伸ばした。そして、傷負の体を、引っ抱えるなり、庭の奥へ、駈けこんで行った。

お市は、その隙に、もう二度と兵庫とは顔を合せない覚悟で――ついと門の外へ踏み出しかけたが、途端に、ばらばらと駈けて来た跫音と共に、

『あっ、この家だっ』

『血しおがこぼれている！』

と、口々に喚いて、門の前に立ち塞がった侍たちの<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>を見て、今度は、より以上、<ruby><rb>恟</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>ッと<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまった。

『――それっ』

と、五人の中のひとりが云った。その男の白刃には、ありありと血しおが<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れていた。

<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の者も、総て<ruby><rb>抜刀</rb><rt>ぬきみ</rt></ruby>を引っ<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げているのだ。どの顔も皆、<ruby><rb>眦</rb><rt>まなじり</rt></ruby>をつりあげ、<ruby><rb>革襷</rb><rt>かわだすき</rt></ruby>をかけ、<ruby><rb>股立</rb><rt>ももだち</rt></ruby>を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>って、尋常な血相ではなかった。

その儘、彼等はどやどやと、門の中へ押し込んで来ようとした。すると、飛鳥のように、庭の奥から引っ返して来た兵庫が、

『待てっ、何処へ行くか』

と、門の口いっぱいに、両手を拡げて、立ち塞がった。

『やっ？』――と、その姿に初めて、

『ここは、曾我部どののお<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>だったか』

と、気着いたように、一同は、土塀の夕顔を見まわした。

『されば親代々、お<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>を<ruby><rb>賜</rb><rt>たま</rt></ruby>わって、ここに住居しておる曾我部兵庫。小さくとも、貧しくとも、侍の家は一<ruby><rb>城廓</rb><rt>じょうかく</rt></ruby>です。誰のゆるしを受けてこの門内へ、踏み込もうと召されるか』

『ただ今、この内へ、傷負の浪人が逃げ込んだ筈――討たでは措かれぬ憎ッくい<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>、お渡しください』

頬に古い大傷のある男が喚くと、それに続いて、他の侍たちも、

『年来<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>け狙っていたところ、漸く、時節が参って、この中津の御城下へ立ち入ったことを知り、唯今、<ruby><rb>笠懸</rb><rt>かさか</rt></ruby>け松の辻で見つけ、一太刀浴びせて、取り逃がした者でござる』

『どうか、その曲者を、突き出していただきたい』

『吾々の手に、お渡しください』

『それがお手数とあれば、われわれが勝手に引っ捕えます故、<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>、お住居の中を<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>す事、御用捨にあずかりたい』

と、口々に云う声も、殺気立っていた。

兵庫は、依然として、手を拡げた儘、

『いや。その儀は成らぬ。お断りする』

と、云った。

断乎とした言葉でそう答えた。

## 三

兵庫の一<ruby><rb>蹴</rb><rt>しゅう</rt></ruby>に会うと、さなきだに気負い立っている五名は、

『なに！　なぜ成らぬか』

と、詰め寄った。

『何とあろうが、いちど侍の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の下に、助けてやると、抱え入れたからには、それを渡しては、武士の信義に外れる』

『異なことを申される。あの曲者と、<ruby><rb>抑</rb><rt>そも</rt></ruby>、何の縁故があって、そのような<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>い立てを召さるか』

『縁も、<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆかり</rt></ruby>もない路傍の人間なればこそ、猶更のこと。各〻の手に、委ねるわけにはゆかぬ』

『分らぬ！』

と、頬に大傷のある男は、味方の者たちを顧みて、絶叫した。

『この曾我部兵庫どのが――あんな事を仰せられる。わし等と共に、あの曲者を、一太刀恨んでもいい人なのに！』

『きっと、われわれが何者か、この門内へ逃げた浪人が誰か、まだ何も御存知ないのだろう。格之進も変っているし、おぬしの顔も、その大傷で変っているからな』

『そうだ。名乗れ名乗れ。――そして、仔細をよく話してみろ』

顔に大傷のある男を中心に、五名の侍は、がやがや云っていたが、<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て、

『あいや兵庫どの。これにおる男は、顔の大傷のため、お見違いなされたか知らぬが、以前、田丸様に若党奉公しておった楠平と申すもの。それがしは叔父の太左衛門でござる』

『てまえは、楠平の義兄の尾形周平というもの』

『拙者は、従兄弟の中根倉八』

『友人の沢井又兵衛』

と、順に名乗りかけてから、

『逃げ込んだ卑怯者は、六年前、御当所を<ruby><rb>逐電</rb><rt>ちくてん</rt></ruby>した深見格之進でござりますぞ。楠平にとっては、云わずと知れた年来の怨み重なる奴なれど、旧主の田丸家に取っても、又、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>にとっては<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>のこと、捨ておかれぬ畜生ではござりませぬか。――それを<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>う尊公の量見が分らぬ。いざ、お渡しください』

と、前にも増して強硬だった。

云われる迄もなく、兵庫は<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くから知っていたので、その間も、何の表情もうごかさない。――そしてただ一言、

『いや、成らぬ。何と云われようが、武士の<ruby><rb>然諾</rb><rt>ぜんだく</rt></ruby>、<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>を渡すことは断じて相ならぬ』

と、同じ言葉を、重ねただけであった。

楠平の義兄、尾形周平は、さっきから眼を燃やして、兵庫の顔を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけていたが、

『もう、こんな分らぬ人間に、物を云うな。云うだけ無駄だっ』

と、<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って、

『駈け落ち者の片方を、女房に持って、何ともせぬ神経へ、われわれの武士道を、云って聞かせても始まるまい。――この上は、刀にかけても、渡さぬというのか否か。それだけ聞こう』

と、身を開いて、ぱっと<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を構えながら云い放った。

周平が、そうしたので、他の者も、さっと身構えを変えた。当然、相手がふいに、抜打ちに来るものと計ってである。

だが兵庫は、眉も動かしてはいない。ただ微かに苦笑を<ruby><rb>唇元</rb><rt>くちもと</rt></ruby>にながして、

『元より、刀にかけても！』

と云った。

『――う、うぬッ』

周平が振り込んだ<ruby><rb>一薙</rb><rt>ひとな</rt></ruby>ぎは、斜めに、門の柱へ斬りこんでいた。――途端に、中へ隠れた兵庫の影の代りに、門の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>が、風を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んで、どんと閉まった。

『叔父御、背を貸せ』

と、周平は、太左衛門の背に足をかけて、直ぐ塀の内へ躍り込もうとした。

『まあ待て、まあ待て』

太左衛門は、背をかわして、彼やその他を、抱き止めながら、

『<ruby><rb>理不尽</rb><rt>りふじん</rt></ruby>に乗り越えては、兵庫めが云う通り、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>の落度になり、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>には思う<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぼ</span>に<ruby><rb>篏</rb><rt>はま</rt></ruby>るわい。忌々しいが胸を撫でて――。な、これ……此処は胸を撫でて』

と、何か<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

四名は、<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だんだ</span>を踏みながら、門を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけて、

『――かッ』

と、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐きかけ、そして、<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>ともなく立ち去った。

## 鷹小屋の<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き

## 一

楠平やその友達や、尾形一家の者が立ち去って行くらしい跫音に、曾我部兵庫は、ほっとして、家の中へ這入りかけたが、ふと、暗い大地を振向いて、

『お市』

と、呼んだ。

お市は、そこに居るか居ないか分らないように門の脇に、身を沈めたまま、平たく<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>っ伏している。

『――冷えるぞ』

それも常の声だった。

『…………』

突然、お市は、<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>しはじめた。肩は波を打って、泣きじゃくった。

『――泣いている間に、<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>はことぎれるぞ。はやく鷹小屋へ行って手当をしてやれ』

云い捨てて、兵庫は家の中へかくれ、又、机の前に、黙然と坐った。

――坐ったが、然し彼もさすがに、筆は持てなかった。

地の下に、<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みみず</rt></ruby>が泣きぬいて、星の美しい夜となった。夜となれば暑い夏も、ずっと<ruby><rb>冷々</rb><rt>ひえびえ</rt></ruby>して、人間の心からも、<ruby><rb>焦々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>したものを<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>ってゆく。

『……うううむ。……ううム……』

庭の隅の鷹小屋から、時折、苦しげな太い<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きがながれてくる。それは、お市と兵庫の、六年間の苦しみを、一時に<ruby><rb>踠</rb><rt>も</rt></ruby>がき苦んでいるような呻きだった。

お市の耳へも、それは聞えてゆくに違いない。捨てて置けば、出血は止まるまいし、刻一刻と、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>が縮められてゆくことも知れきった事である。

そのうちに――がたんと、裏の方で、物音がした。

兵庫は、すぐ窓を開けて、

『誰だっ』

と、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めた。

『あ……<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>いたしました。<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の<ruby><rb>由松</rb><rt>よしまつ</rt></ruby>でございます。<ruby><rb>諫早</rb><rt>いさはや</rt></ruby>の病人が<ruby><rb>快</rb><rt>よ</rt></ruby>くなったので、唯今戻って参りました』

『オ……由松か』

『御用を<ruby><rb>欠</rb><rt>か</rt></ruby>いて、相すみませんでした』

『いい所へ戻ってくれた。早速だが、<ruby><rb>金創薬</rb><rt>きんそう</rt></ruby>の有合せがあるか』

『ございます』

『それと、<ruby><rb>片口注</rb><rt>かたくち</rt></ruby>へ<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>をなみなみ<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで、<ruby><rb>晒布</rb><rt>さらし</rt></ruby>と一緒に、鷹小屋の前へ持って行ってやれ。――外へ置いてくればいいのだぞ、中へは這入るなよ』

『へい』

由松は、不審な顔をしながら、とにかく<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けられた品を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えて、裏庭の奥へ運んで行った。

そこに一棟の鷹小屋がある。

這入るなとは主人に云われたが、戸が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いているし、何やら、人の気配がするので、由松は暗い中を覗いてみた。

白い顔が、傷負の側から振向いて、あっと、軽い声を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした。

由松も吃驚して、

『ヤ。御新造さまでは御座いませんか』

と、さけんだ。

お市は、手を振って、

『叱っ……静かにしておくれ』

『そこに、<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>か、怪我人が居らっしゃるのでございますか』

『わたしの<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>を裂いて今、手当てしているところです』

『晒布も、金創薬も、焼酎もここへ持って参りましたが』

『え？　<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うして』

『旦那様のおいいつけで……』

『……あ。……そう』

<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と、首をたれて、お市は<ruby><rb>俯</rb><rt>うつ</rt></ruby>向きこんでいたが、もう女の特有な度胸がすっかりすわったように、言葉のふるえも消えて、

『ここへ持って来ておくれ』

『へ、へい……。けれど、旦那様が、中へは這入るなと仰っしゃいましたが』

『かまいません』

『では――』

『それから、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>になったら、済まないけれど、<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>、そっと裏口の木戸へ呼んで来ておくれでないか』

『<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まりました』

『竹筒に水を入れて、駕へ<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>っておいておくれ。それから中に、<ruby><rb>油単</rb><rt>ゆたん</rt></ruby>や小蒲団をかさねておくようにね』

『では、その怪我人のお方を』

『別府の<ruby><rb>温泉</rb><rt>ゆ</rt></ruby>まで、<ruby><rb>療治</rb><rt>りょうじ</rt></ruby>にお連れするんです』

『旦那さまのお耳へは』

『何もかも御存じなのだから、云うには及びません。――もうすぐにお寝みになるだろうし』

『……ほんに』と、由松は庭木を透かして、

『いつのまにか、お部屋の明りが消えております』

『じゃあ、今のうちに、はやく駕を頼んでおいておくれ。<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>になって、無いと困りますから』

由松は、何処かへ、出て行った。

## 二

もう<ruby><rb>九刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>（十二時）過ぎ――

海騒もない、静かな<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>だった。

沖の水平線だけが、月光色の帯のように、ぎらぎら明るかった。

『御新造さま。……参りました』

『駕？』

『へい』

『旦那さまは』

『あれなり、ずっと、お寝みのようでございますが』

『……じゃあ、ちょっと、手をかしておくれ。……そっと、そっと抱いて上げないと』

『かなり<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>の御様子でございますな』

『でも、すっかり洗って<ruby><rb>晒布巻</rb><rt>さらしまき</rt></ruby>をしましたから、だいぶお顔が<ruby><rb>快</rb><rt>よ</rt></ruby>くなって来ました』

由松は、何気なく、<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>を抱き起して、自分の肩に負いかけたが、ふとその浪人の顔を見て――

『あっ、この男は』

と、思わず口走った。

お市は、顔を<ruby><rb>反向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けながら、

『お前も、この人の顔を、見知っているのかえ』

『知……知らねえで、何としましょう。……御新造さま！　お、おまえ様というお方はなあ……』

『もう、何も云っておくれでない』

『――云いますめえ、<ruby><rb>追</rb><rt>おっ</rt></ruby>つかねえことだ』

由松は、<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を曲げて、顔の涙をこすりながら、<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>を肩に、とぼとぼと歩きだした。

『……ア、由松や。表門ではなるまい。駕は裏の木戸へ来ているのでしょう』

『うんにゃ』――と由松は首を振って、

『宵から、裏の浜辺に、<ruby><rb>不審</rb><rt>おか</rt></ruby>しな人影が、張番みてえに立っているので、わざと、表へ廻しておきましただが』

『えっ、外に誰か、立っているって？』

『仕方がござりますめえ。この塀の中にいれば、誰にも、指一つ触らせる旦那様ではねえのに……おまえ様が好んで出て行かっしゃる地獄の道だに』

『……いいよ！　……もうわたしは、覚悟をしているのだから』

門の前には、駕が二つ、忍びやかに待っていた。それも由松の気くばりとみえて、<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>には、黒い<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>が巻いてあった。

傷負は、そっと、一挺の内へ寝かされた。由松は、鼻をすすって、地を見つめていたが、

『さ、御新造も、はやく……』

と、人目を<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて<ruby><rb>促</rb><rt>うな</rt></ruby>がした。

『ありがとうよ――』

彼女は、奉公人へ対しても、初めて、心からそんな礼を云った。そして、

『もういいから、中へ這入っておくれ』

と、云った。

由松が中へ姿をかくして、門の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>を閉めても、彼女はまだ、六年住んだ家の屋根や<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>や樹を見まわしていた。そして、駕屋の眼にも触れないように、門の土塀に這っている夕顔の<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>を、そっと<ruby><rb>千断</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>って、袂へ入れた。

『駕屋さん――やってください。一挺は病人ですから、揺れないように』

駕は、傷負を<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>りながら――でも軽い<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みをつけながら――駈け出した。

お市は、駕の中から、もういちど、草だらけなわが家の門を振り向いた。

## <ruby><rb>蔓草</rb><rt>つるくさ</rt></ruby>の道

## 一

中津の城下から南へ向って、道が町屋から離れると間もなく、<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>でも応でも、浜辺の並木へかかるしかなかった。

『待てーッ』

いきなり横合の<ruby><rb>樹陰</rb><rt>こかげ</rt></ruby>から跳び出した人影がある。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃ</span><ruby><rb>嗄</rb><rt>が</rt></ruby>れ声ですぐ老人であることは分ったが、手には、槍を引っ<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げ、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を高く<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>し上げて、まるで<ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしゃ</rt></ruby>のような<ruby><rb>権</rb><rt>けん</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まく</span>だった。

『お市！　これへ出ろっ。<ruby><rb>他人手</rb><rt>ひとで</rt></ruby>を待つまでもない、肉親の父惣七が成敗してやる。――出ろっ、出ろっ。その後で、不義者の相手も<ruby><rb>刺止</rb><rt>とどめ</rt></ruby>を刺してくるるから』

惣七の後ろには、宵の五名も、その儘のすがたで、ずらりと立ち<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んでいた。

もう霜になった<ruby><rb>鬂</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせて、惣七は、

『ようも家名を<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>し、良人の顔に泥をぬりおったの。――うぬ、出てうせねば！』

槍を繰り引いて、垂れ籠めている駕の内へ、ずばっと突き入れようとした時、並木の陰から、<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>っと迅い人影が、彼の側へ跳んで槍の手元をつかんだ。

『<ruby><rb>御老台</rb><rt>ごろうだい</rt></ruby>。あなた迄が、何をなさる』

『あっ――お身は兵庫どの』

『あなたに、こんな事をさせる程なら、拙者も永い<ruby><rb>忍苦</rb><rt>にんく</rt></ruby>はしませぬ。こうした事の生れる初めに、あなたも父として何も落度はなかったか、拙者も良人として足らぬ所はなかったか。それも考えてみなければなりますまい』

『ない、わしに落度はない。町人なら知らぬ事、武士の娘に――又武士の間に、そんな<ruby><rb>斟酌</rb><rt>しんしゃく</rt></ruby>はないことじゃ』

『武士。――仰せられたその武士へ、では何で、お市を嫁がせる前にあなたは、頼む！　と拙者に手をついたか』

『……む？』

『武士には、一<ruby><rb>諾</rb><rt>だく</rt></ruby>を重んじるという事がござりますぞ。事情を打明けて、この娘、頼むと仰せられたあの涙を、なぜ今お持ちなさらぬのか。よろしいお<ruby><rb>娶</rb><rt>もら</rt></ruby>い申そうと、その時云った<ruby><rb>然諾</rb><rt>ぜんだく</rt></ruby>を、拙者はまだ、胸から捨ててはおりませぬ』

『…………』

『いや一諾の、信義のと、<ruby><rb>肩肱</rb><rt>かたひじ</rt></ruby><ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>った<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>ばかりではない。<ruby><rb>瑕</rb><rt>きず</rt></ruby>のある玉も、身に帯び馴れれば捨て<ruby><rb>難</rb><rt>かね</rt></ruby>る。ましてや<ruby><rb>何</rb><rt>いず</rt></ruby>れに動くもただ感情に動く女、無智なれば無智なほど<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>にも存じて――今日までは何とかして、あなたに与えた然諾を、裏切るまいと努めて来たのに』

『もう、仰せられな。――勿体ない、勿体ない。そう云われては、この惣七、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>う<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びてよいやら、途方にくれる』

『お詫びは、今も申した通り、兵庫からせねばなりませぬ。折角の一諾も、お引き請け<ruby><rb>効</rb><rt>が</rt></ruby>いもなくて』

『な、なんの。――お身から詫び言など』

『この上は、お慈悲です。二人の然諾も、恨みも解いて、この駕を、行きたい道へやって下さい。――それが縁あって一時良人と<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>かれたそれがしが、お市への唯一つの<ruby><rb>餞別</rb><rt>せんべつ</rt></ruby>』

『いや、わしの一量見にはゆかぬ。あれに居らるる五人の衆の心も<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かねば』

惣七は、親心に、もう槍の向け場を失っていた。

兵庫は<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に、五名の影に向って、

『この通りお願いしまする』

と、云った。

そして又、

『その中に、楠平どのは居るか』

と、訊ねた。

## 二

『はい、これに居りまする』

と、楠平は一足前へ出て云った。

『おぬしが受けただけの傷は、いやもっと心にまで深く、格之進に与えたではないか。その上、<ruby><rb>刺止</rb><rt>とどめ</rt></ruby>まで刺すのは武士の情ではない。――のみならず、それでは、旧主の惣七どのを、是が非でも、わが<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>を成敗せねばならぬ<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>に立たせてしまう』

『……分りました。貴方のお言葉で、小さい意地や男の体面のほかに<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>の武士道とは、大きな<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も優しい愛のあるものだと分りました。――もう何事もわすれます。どうぞその駕、お通しくださいませ』

『かたじけない』

兵庫は、それを惣七に伝えるつもりで、駕のそばへ戻って来たが、ふと見ると、お市の乗っている底から、血しおのながれが、無数に地を走っていた。

『しまった！』

兵庫は、駈け寄るなり、駕の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たれ</span>を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね上げたが、もう間にあわなかった。<ruby><rb>吾儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>で、容易に意志を曲げない女だけに――<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら喉を突いた短い<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>も、襟へ抜けるほど深く貫いていた。

そして膝には、夕顔の<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>に、まだ<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れていない二、三輪の白い花が乗っていた。

『……兵庫どの。娘はやはり武士の娘に違いはなかったのじゃ。わしが悪かったかも知れぬ。いや悪かった、悪かった。……ゆるして下され』

大地へ手をつかえた惣七は、<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>える嗚咽を、<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くも<ruby><rb>老</rb><rt>おい</rt></ruby>の肩骨にふるわせて、いつ迄、顔を上げ得なかった。

『――それ』

と、眼くばせ交すと、楠平を初め五名の者は、すぐもう一つの駕を取巻いて、中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたが、その格之進は自刃もしていなかった。

――すでに、ここ迄来る途中で、彼の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>は終っていたからである。

（昭和十三年六月）