この小詩集を梶井基次郎君の墓前に捧ぐ

  


## 砂上

海　海よ　お前を私の思ひ出と呼ばう　私の思ひ出よ

お前の渚に　私は砂の上に臥よう　海　鹹からい水　……水の音よ

お前は遠くからやつてくる　私の思ひ出の縁飾り　波よ　鹹からい水の起き伏しよ

さうして渚を噛むがいい　さうして渚を走るがいい　お前の<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>で私の<ruby><rb>睫</rb><rt>まつげ</rt></ruby>を濡らすがいい

## 鶯

「籠の中にも季節は移る　私は歌ふ　私は歌ふ　私は憐れな<ruby><rb>楚囚</rb><rt>そしう</rt></ruby>　この虜はれが

私の歌をこんなにも美しいものにする　私は歌ふ　私は歌ふ　やがて私の心を<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>ひ果して

私の歌も終るだらう　私は眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つむ</rt></ruby>る　翼をたたんで　脚を踏ん張つて

この身の果を思ひながら　それは不幸だらうか？　私は私の歌に聽き耽る」

## 晝の月

――この書物を閉ぢて　私はそれを膝に置く

人生　既に半ばを讀み了つたこの書物に就て　……私は指を組む

枯木立の間　蕭條と風の吹くところ　行手に浮んだ晝の月　ああ

あの橇に乘つて　私の殘りの日よ　單純の道を行かう　父の許へ

## 路傍の家

その家の窓のほとり　一つの節孔から

鼠の鼻が見え　隱れ

いま　そこを囓つてゐる

壁の中から　いそがしく食器を洗ふ音

## 理髮店にて

「鋏で切つてやつたんです　<ruby><rb>腫物</rb><rt>おでき</rt></ruby>ができたから」

憐れな<ruby><rb>金絲雀</rb><rt>カナリア</rt></ruby>よ　お前は指を一本切られた

元氣な仲間のあひだにあつて　片脚で立ちながら

思案の後でお前は歌ふ　私は耳を傾ける　稀れになつたお前の歌に

## 工場地帶

夕暮れの堀割に　ほのかに降りた冬の霧

移るともなく移つて行く　一つの船の艪の軋み

……<ruby><rb>船夫</rb><rt>かこ</rt></ruby>の動き

岸邊にたつた煙突の　をちこちの煙のなびき

## 漁家

街と街との間から　山が見える　青い靄がかかつてゐる

家と家との間から　川が見える　……舟がゆく

渚から　黒い猫が歸つてくる

南天の實で遊ぶ子ら　靴の踵をふみつぶして

## 平津

黒く光つた柱に　春が來た　その柱暦に

堤は遠く枯れたまま　あれ　犬が走る

枯れた蘆間を　犬が走つてゐる

飛びたつ鳥もない……

## 村の犬

かすかな木魂さへそへて　犬が啼いてゐる　靜かな晝の村

私はそこに立ちどまる　庭の隅　藏の前だな

一つの屋敷の奧で　犬が啼いてゐる

川向ふの葱畑から　またひよいと犬がとび出して　耳を傾ける

## 揚げ雲雀

雲雀の井戸は天にある……あれあれ

あんなに雲雀はいそいそと　水を汲みに舞ひ上る

杳かに澄んだ青空の　あちらこちらに

おきき　井戸の<ruby><rb>樞</rb><rt>くるる</rt></ruby>がなつてゐる

## 一家

鶫の群れは　石鹸工場の空を來て

川を越え　……四つ手網しづかに上る

<ruby><rb>三角洲</rb><rt>デルタ</rt></ruby>の<ruby><rb>樟</rb><rt>くす</rt></ruby>の森に降りる　枯れた梢に

彼ら一家は休んでゐる

## 廐舍

梅散り　廐に蠅が生れ

曳き出された馬の腹に

小川の反射がゆらいでゐる

私の影は　葱畑の葱の上

## 新緑

林の上の碧い空　繭のやうな白い雲

新緑のみづみづしさは　繪のやうだ　……夢のやうだ

私は吊橋の上に佇つて　わが身の影を顧みる

自分の眼が　信じられなくなつたから

## チューリップ

蜂の羽音が

チューリップの花に消える

微風の中にひつそりと

客を迎へた赤い部屋

## 百舌

槻の梢に　ひとつ時默つてゐた　分別顏な春の百舌

曇り空を高だかと　やがて斜めに川を越えた

<ruby><rb>紺屋</rb><rt>こうや</rt></ruby>の前の榛の木へ……　ああその

今の私に欲しいのは　小鳥の愛らしい　一つの決心

## 水村

木立から木立へ移りながら　<ruby><rb>惡企</rb><rt>わるだく</rt></ruby>みする春の百舌と

支柱にかけた竪網の　風に搖らぐ瀬戸の<ruby><rb>錘</rb><rt>おもり</rt></ruby>と

それらいづれも　雀の聲をまねてゐる

とある屋敷の<ruby><rb>橙</rb><rt>だいだい</rt></ruby>に　そして雀も啼いてゐる

## 午前十時

午前十時　家鴨小屋の戸が開く　堰が切れた！

屋敷の裏の狹い空地へ　彼らは溢れ出る　躓きながら

彼らは溪流のやうに　眞白になつて走りこむ

滿潮の堀割へ！　歌ひながら　羽ばたきながら

## 藤浪

そこにとまらうとして　花の前でひと搖り搖れる　蜜蜂の羽音……

勤勉な昆蟲よ　私の半生も　どうかお前に學びたい

さうしてやがて　私の日の<ruby><rb>終焉</rb><rt>をはり</rt></ruby>にも　私は自分を想ひたい

そこに潜りこんで　ひと房の藤浪に　隱れてしまふお前のやうだと

## 桃花源

青い山脈

白い家鴨

貸ボートにペンキが塗られ

綻びそめた桃畑

## 畎畝

家鴨が三羽　畝を越える

土くれをころがしながら

鶺鴒が隣りの畑へ

ついと逃げる

## 春日

葱畑の前の床屋

鏡の前の黄水仙

赤い手套が落ちてゐる

路をうつすその鏡に

## 庭前

「何ごとぞ　紅梅を蹴る小鳥あり

思ひあがるや　人を怨むや」

「めつさうな　とんだこと

知らなかつたよ　女流歌人のお宅とは」

## 椎の蔭

椎の蔭　苔むした土藏の屋根に　鶺鴒がきて

なぞへを歩む　ステッキを振りながら

右に二歩　左に三歩

落し物を　さがしてゐる

## 鐵橋の方へ

嘴の黒い家鴨が一羽　靜かに<ruby><rb>水脈</rb><rt>みを</rt></ruby>をひろげてゆく

うつらうつらと　低い堤を私は歩む

私たちはしばらく　鐵橋の方に向つて進む

同じ速度で

## 朝

電柱の頭に　雀が啼いてゐる

つぶらに實つた茄子畠　土藏の壁に

朝日がさして　そのまぶしさにしやがんでゐれば

旅にある身が夢のやう　たち上るのも惜しくなる

## 晩夏

二枚の羽を一枚に合して

草の葉に憩ふ　小さな蝶

君の名は蜆蝶　蜆に似てゐるから

わが庭の踊子　ゆく夏の裾模樣

## 蝉

蝉は鳴く　神さまが<ruby><rb>龍頭</rb><rt>ねぢ</rt></ruby>をお捲きになつただけ

蝉は忙しいのだ　夏が行つてしまはないうちに　ぜんまいがすつかりほどけるやうに

蝉が鳴いてゐる　私はそれを聞きながら　つぎつぎに昔のことを思ひ出す

それもおほかたは悲しいこと　ああ　これではいけない

## 虻

詩を書いて世に示す

しかも私は　世評など聞きたくない

この我儘を許し給へ　私は虻のやうに

羽音を殘して飛んでゆく

## ある寫眞に

それは夏の終り　二度目に孵つた燕の雛の　軒端に騷がしい頃であつた

かうして私たちが　この前庭の　樅の木の下に　ひとかたまりに寄り合つたのは……

君は笑つてゐる　君はうつむいてゐる　君は借りもののベレをきてゐる

さうしてあなたは　子供を抱いて　頸をかしげて　うら若い母の姿

## 新秋

石には虻　障子には蝶　しばし彼らも休んでゐる

薄の穗波　磁石の針　私の朝の感情も　今ひとつ時搖ぎやむ

それらの上を飛び去つて　山の端に入る白い雲

唸りながら　飛びながら　宙にとどまる熊ん蜂

## 黄葉

この清麗な朝の　この山峽の空の靜けさ　もの足りなさ……

なぜだらう　私の耳が私に囁く　お前一人がとり殘されたと

なぜだらう　橡の<ruby><rb>黄葉</rb><rt>もみぢ</rt></ruby>の鮮やかさ　はや新雪の眩ゆい<ruby><rb>立山</rb><rt>たてやま</rt></ruby>

ああ　彼らは旅立つた　この峽の燕らは

## 空山

休みなく歌ひながら　せつかちに枯木の幹をノックする　<ruby><rb>啄木鳥</rb><rt>きつつき</rt></ruby>

お前を見てゐる私の眼から　あやふく涙が落ちさうだ

なぜだらう　なぜだらう　何も理由はないやうだ

風の聲　水の音

## 夜明けのランプ

宿をめぐる<ruby><rb>小雀</rb><rt>こがら</rt></ruby>の歌　さあ起きよう

友よ　こんどは君の眠る番だ

棚の上に　君のベッドに君を還さう

……夜明けのランプよ

## 夜の部屋

夜は初更　ランプは暗い

その跫音をきくうちに　私の額にとびのつた

曲者！　刺客！　お前の髭が私を<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>る

ああ　冬の夜の<ruby><rb>伴侶</rb><rt>とも</rt></ruby>　蟋蟀よ

## 空林

<ruby><rb>山毛欅</rb><rt>ぶな</rt></ruby>のかげ　枯草に彼は臥てゐる　雲を見てゐる

彼は私に會釋をする　さうして煙管をとり出だす

どこの村の男であらう　<ruby><rb>媒鳥</rb><rt>をとり</rt></ruby>の<ruby><rb>鷽</rb><rt>うそ</rt></ruby>は啼かないで

餌壺の粟をひろつてゐる　籠にかかつた晝の月

## 瀧

それの向うの　一つの尾根の高みから　炭燒きの煙が揚る……

耳鳴りほどの<ruby><rb>谿谷</rb><rt>たに</rt></ruby>の聲　薪を割る杳かな木魂

一羽の<ruby><rb>鶸</rb><rt>ひわ</rt></ruby>の飛びすぎる　<ruby><rb>狹間</rb><rt>はざま</rt></ruby>の奧の絶壁に

五寸ばかりに躍つてゐる　瀧

## 一つの風景

ここに私は憩ひ　ここに私はたち上る

行かう　行かねばならぬ

それは林である　それは朝である

赭土の路が　山の麓を繞つてゐる

## 雉

身を以て　虹をかけ

七彩の雉がまひたつ　雪の山から

青空に

頸をのべ

## 頬白

日が暮れる　この岐れ路を　橇は發つた……

<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>の裏に頬白が　啼いてゐる　歌つてゐる

影がます　雪の上に　それは啼いてゐる　歌つてゐる

枯木の枝に　ああそれは<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>つてゐる　一つの歌　一つの<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>

## 早春

――馭者は煙草を喫ひながら

旅籠のある丘を降る　からの橇馬車

櫻の枝に　頬紅さした<ruby><rb>鷽</rb><rt>うそ</rt></ruby>の群れ

啾々と　呼びかつ應ふ……

## 雪景

丘の上に　濕けたからだを<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>してゐる<ruby><rb>斑牛</rb><rt>まだらうし</rt></ruby>

そのうす赤い乳房の下から　谿が見え　町が見える

今橇馬車が橋を渡る……

火ノ見櫓に　風見の矢

## 雉

遠い山　平野　脚もとの小さな町　川　橋

まるみある雪の襞から　七彩の十字架なして

いまこの眺望を劈くもの

澤を渡る　雉

## 千曲川

通りがかりの挨拶の　私のまづい口笛に

梢から<ruby><rb>鷽</rb><rt>うそ</rt></ruby>が應へる　あちらを向いたまま

彼の妻がまづにげる　やがて彼も繁みに隱れる

遠く　霧の斷え間に千曲川

## 「檸檬」の著者

谿を隔てた　山の旅籠の私の部屋

その窻の鳥籠に　窻掛けの裾がかかつてゐる

白い障子に影をうつして　女が一人廊下を通る

ああこのやうな日であつた　梶井君　君と田舍で暮したのも

## 鞍部

丘の上に　蜜蜂ほどに呻つてゐる　發電所

その上の　鞍部に一つ小屋が見える

小屋の軒端に人が出る　馬が出る

そこの窪みに　靜かに雲が捲いてくる

## 訪問者

春はいま　蜜蜂の訪問時間　彼らは代る代る

私の窻に入つてくる　さうして一つ一つ　私の持物を點檢する

外套　帽子　辭書　麺麭　梨　<ruby><rb>肉叉</rb><rt>フォーク</rt></ruby>……

さうして訣れの挨拶に　私の耳を窺きにくる

## 故郷の街

ああまた　鐵橋を渡る貨物列車　堤の草に山羊が二匹

川蝦を釣る子供らは　渚に竿をならべてゐる

その淼々たる水の彼方　煤煙深い街の上に　いま三日月は落ちかかり

ランプをともす外輪船……

## 鯉

夜の園生の　寂寞に鯉が跳ねる

何事か覺束なげに　私の心は歩みをとめる

さうして耳を澄す　この平凡な夜の　感慨に

何でもない　私の心よ　行くがいい　お前の路を

  


## 後記

六月三十日、六蜂書房より梶井基次郎全集下卷を受取る。夜半「書簡」の處々を拾ひ讀みしてゐるうち、思はず心を動かし、卷を蓋ふて寢に就かうといく度か試みては、また机の前にかへつて飜讀する。さうして枕に就てからも、耿々としてもの思ひ、遂に眠をなさず天明にいたる。彼と私の交游は、僅かに數載を越えなかつたが、今また事にふれて、まことに思出は縷々として限りがない。ああ、疏慵にして才薄き私の如きものが、やうやく今日この處まで、たどたどしき道のりを歩み來つた過去を顧みるにつけても、彼の友誼により、その策勵に扶けられること甚だ少くなかつたのを忘れ得ない。この感慨は、何かしら私をして、底薄暗い千仞の谿間をのぞきこむやうな思ひをさせる。またそれらの過去の日は、的皪として冰霰のやうに、私の眼前にある。

七月一日、たまたまこの小詩集を編んで校を終つた。野草閒花、摘んで以て彼が墓前に供ふと云爾。

信州上林の客舍に於て

三好達治