Soranoha

古本屋

ふるほんや

中原 中也

夕飯を終へると、彼はがつかりしたといつた風に夕空を眺めながら、妻楊子を使ひはじめた。やがて使ひ終つてその妻楊子を彼の前にある灰皿の中に放つた時、フツと彼は彼の死んだ父親を思ひだした、その放る時の手付や気分やが、我ながら父親そつくりだつたやうな気がした。続いて、「俺も齢としをとつたな……」と、さう思つた。

それから彼は夕刊をみながら、煙草を吹かすのであつた。

年来の習慣で、彼は夕飯を終へると散歩に出掛けるか誰か知人を訪問するかしなければ気が済まないのであつた。しかし今晩は、出掛けるために電車賃が一銭もないのであつた。彼はズツと離れた郊外にゐたし、彼の友人や知人はみんな市内やまた他の方面の郊外にゐたので、彼は電車賃がないとなれば、誰かが遊びに来るのを待つてゐて、遊びに来た者から借りるか、それとも本を売るかしなければならないのだつた。

もうそろそろ空にも昼の明りが消えて了はうとしてゐて、電燈をめがけて飛んでくる虫も増していつた。

七時半まで誰か来ないものかと待つてゐたが誰も来なかつた。そこで彼は起ち上つて、室の隅に行つて、原稿紙の反古や本や雑誌の堆の中を探しはじめた。読んでしまつた本が二冊ばかり出て来た時に、「五十銭にはなるだらう」と呟いた。

それから約三十分の後には、彼は中野の通りを歩いてゐた。新しく出来た六間道路とその辺の者が呼んでゐる通りには、まだギャレッヂと雑誌屋と玉突場とがあるきりだつた。そのほか寿司の屋台が出てゐる日があり、今日はそれは見えなかつたが、四五本の柱にトタン屋根を張つた、一時拵への氷店が出来てゐた。長さ二町ばかりの、その暗い湿つぽい通りに、今挙げたホンの三四軒の店屋が所々にあるのは、まるで蛍でもゐるやうな感じだつた。

空には、晴れた空の一部分に黒い濃い雲形定規のやうな雲があつて、一寸欠け初めたばかりの月が、みえたり隠くれたり、可なり威勢よく渡れ亙つてゆくのが見られた。と、心持寒い風が、彼のその帽子を被つてない頭を撫でてゆくのだつた。

その通りを行き切つて、明るい旧通りへ出ると、そこから直ぐと近くにある、彼が三年前に屡々買つたり売つたりしてゐた古本屋に、チヨツと寄つてみようかといふ気が起つた。

「今晩は」と彼は云つた。

「あゝ、お珍しい……ま、お這入んなさい。」と親爺が云つた。「ゐツひ、ひひひ。近頃はどちらにお住ひで。どうです、安宅さん、みたところお元気で、御景気も好いやうですが……」

彼が茫然して直ぐに返事をしないと、親爺は急に笑顔をやめた。そしてゐざるやうにして坐布団を取ると、それを上り口に置いた。

「小父さんの方は繁盛ですか。」

「いやいや、もう安宅さん……わたしの方は商売上つたりで、もうずつとくひこみですあ。」云ひながら彼(一字不明)その面積の広い赫ら顔をシカめて、その前で手を振るのだつた。「もう駄目です、この不景気にはキリがありません。そのとどまる所を知らず――といふところです、をつホホホホ……」そして彼が上り口に腰掛けようとするのを見ると、「ま、まあ、お上んなさい」と云つた。

彼は今しがた彼の家を出掛ける時に、行かうと決めた友人の所へ、行くのならばぐづぐづしてはをれない時刻だと思ひながら、上り込んだ。

蚊ふすべをするため、ジヨチウ菊を燃したばかりだといふので、部屋の中には煙が残つてゐた。近所では、日蓮宗の信者達が集つて、お大名を称へてゐる女の疳高い声や睡さうな男の声がしてゐた。

底本 / Source edition

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2018年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/055782_000026/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/055782_000026/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/055782_000026/

中原 中也「古本屋」(新字旧仮名)、底本『新編中原中也全集 第四巻 評論・小説』角川書店、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 055782_000026, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite