裕福な家庭の、特に才能があるといふ程でもない青年が、「文学でもやつてみるか」といつた調子で、文学志望を抱いたとする。四年五年と経つても、いつかう何も書けさうもない。「書いてゐる奴等はいつたい、いかなれば書けるのであらう？」とやがてだんだん愚痴になる。おのづと「書いてゐる奴等」のアラを探しだす。「アラだらけだ！」と彼は思ふ、「あんなにアラがあるから、あのアラが契機となつて、却て奴等は仕事が出来るのであらう……」

ところでさういふ場合に彼のアラと云つてゐるものは、概ね処世的要領の稚拙の如きを指してゐるのである。つまり、彼は事文学に関して考へ乍ら、而も文学的アラを云つてゐるわけではない。かう云つてしまふと話は簡単だが、当人としては随分無理もないことである。何しろ文学的素質がないのだ、そこでアラを探すにも彼らしくアラを探すことになる。

（茲で一寸断つて置くが、ホンの少しの事が分ると、分つたことが当人にとつて余りに珍しいので却つて書けるといつたあの生々しい文学青年をも「書いてゐる奴」の中に入れて話してゐるのではない。実際文壇に出ることが容易になつた此の頃は、さういつた文学青年も少くないことで、一知半解の故に却て元気がいいといつた風の元気が、本当の元気と間違へられる風景は、毎日のやうに見受けられることである）。

扨、件の裕福な青年は、漸く、文学そのものではないかも知れぬが、文学の話をする奴は嫌ひになつてゆく。仮りに相手は文学的個性があるので、自然、文学の話をするやうになるのである場合も、その相手が嫌になる。否、相手に個性があればある程嫌になる。勿論、当人としては相手の個性を嫌つてゐるつもりはない、相手の話しぶりだの手ぶりだの、要するに相手の人間臭を嫌つてゐるつもりなのだが、そんならその話の特に個性的な部分だけでも聴くかといふと強ちさうでもない。

かうなると件の青年は、次第々々に心理的には発達してゆき、其の他の点では寧ろ退化しはじめるといふやうなことになるのである。つまり、人の顔色を見るやうな能力はみるみる発達する一方、瞑想だの理念だのは、さなきだに濃厚ではないのが、発展の余地を持たなくなり、益々衰へてゆくのである。

今、件の青年をＡとし、相手の青年をＢとするとして、二人の交游がどんな有様を呈するであらうか、以下そのことを誌してみたい。

だがいつたい、茲で心理的に見るといふのは、如何いふことであらうか？

例へば茲に一農学士があり、非常に立派な耕作法を学び、百姓に教へに行く任務を帯びるとする。その耕作法その物は、真に偉い学者が発見したものであるが、その農学士は、唯それを暗記したに過ぎないとする。そこで彼農学士が、百姓等の面前でその耕作法を述べる時、その述べる態度は甚だ心許ない。扨百姓達の方は、その態度が心許ないせゐではないが、何分嶄新なその耕作法は、聴けども聴けども分らない。やがて中の一人が、「云ふことは分らないから、一つ農学士様の話す様子を見てやらう」といふことになり、「なんだい、まるで腰抜みたいぢやないか。ぢやどうせ、云つてる事柄だつて、大したことぢやない」といふことに迄なる。――此の場合、その百姓は、農学士を心理的に判断し、その判断を、序でに耕作法その物にまで及ぼしたのである。

又、右の話の反対の場合がある。講述する耕作法その物は、かいさ詰らぬものであるが、農学士は心理的には、甚だ発達してゐて、聴いてる方では、耕作法としては何が何やら分らぬ乍ら、なんだか好いことを教へて呉れつゝあるやうに思はれてならないといふ場合である。

則ち、右の二つの場合に就いてみると、心理的優秀といふことは、必ずしも実質的優秀を意味しない。その二つの場合が、心理的といふことの全てだと云ふのではないが、先づ普通一般に見られる心理的といふことは、そんなものである。

或る日退屈なるまゝに、ＡはＢを訪ねる。

Ｂは「此の頃僕は、どうも身体の調子が悪くて」と云ふ。みれば蒼い顔をしてゐる。Ａは気の毒に思ふ。「どうも貧乏暇なしでね」とＢは云ふ。Ａは益々気の毒に思ふ。

ところでＢは文学談を始めるとする。Ａにはなんだか腑に落ちない。気の毒にみえた奴が、忽ち自分の不得手なことを始めたからだ。然しさうとは気が付かない。何しろもともとＡは文学的素質には乏しいのだ、そして、尠くも家庭内では、甚だ謂はば心理的生活を営んでゐるのだ。「今といふ今、文学談でもないだらう」、そんな気がする。

Ｂとしたら、何も格別文学談ではないのだ、彼は営んでゐるのが、だいたい文学的生活だといつたわけなのだ。然し、やがてＡの怪訝な顔を見て、では此の話をやめようといふことにする。

「ホラ見ろ、そんな話は、時候外れだらう」とＡは思ふ。若くは、「俺をやつぱり畏れてゐるな」。其の他等々々々。

ところで、心理的生活（要するに一般生活）を営んでゐる者が、文学的生活（文学でなくもともあれ何かに打込んでゐる生活）を営んでゐる者に会つたつて、あんまり話のあるものではないのだ。勝負事でも始めるか酒でも飲むしか仕方はない。そこで沈黙が続く。Ａの方では「つまらない奴の所へ来たもんだ」と思ふ。ＢはＢで、「やれやれ」と思ふ。

まづ、酒場へでも赴くといふことになる。「お二人とも、憂鬱さうねえ」と女給が云ふ。Ａは、微笑でそれに答へる。答へないＢは、そこで忽ち劣等人種の立場に廻る。尚黙りつゞけるとしても、Ａは兎も角女給なり、従つて酒場の空気なりと交流が始まる。女給はＢを、「失恋でもしたんだらう」とか、「Ａさんに頭が上らないんだらう」とか、ともあれ彼女等なりに適当な解釈を与へる。Ｂとしたことが、意外千万なだけである、従つて意外千万だといふ顔になる。「オヤ、負けん気だよ」、「怒つてるよ」と女給は思ふ。「全くだ」とＡも思ふ、「しかしま、お手柔らかに」と、表情以て友達甲斐を発揮する。

やがてＢは、其の場の空気を批判しだす。恐らくＢとしたことが、眼前に起つたことは何にもあれ批判するのがその生来なのだ。友達が前にゐるから、その批判を話し出しただけだ。もし彼が独りであつたら、記臆に蓄へるか、それとも帰つてからノートに取るなりする所だ。そして、尠くも批判が発展する限りに於て、彼は生甲斐を感ずる次第だ。

ところでＡでは、Ｂが「弁解をしだした」とか、「強がりだした」とかしか思へないのだ。女給ときたら尚のことだ。Ｂはまたそれを感ずるから、「君等の考へてることは違ふ」とかなんとかいふ、とまれ形勢は悪くなるから、それ聴く方は漸く面倒臭がりだすから、尚も云はうとすれば声は次第に金切声になるとか、怒りつぽくなるとする。

するともう、Ｂは何を云つても駄目なのだ。云へば云ふ程てんであらぬ効果を生むばかりなのだ。云へばいふ程、相手は心理的観察の対象を、益々得るといふわけだし、云ふ方は、益々話の内容自体の中に突き進むといつたわけだ。

Ｂはガツカリする。Ａは益々元気になる。やがて再び、ＡはＢを気の毒がりさへし始めるのだ。

気の毒がられては、Ｂとしては冠履転倒も甚だしいものだ。やさしくすれば、諛ふと取られ、ひどくすれば憤慨したとなる。

別れゝばいい。――さうだ、別れゝばいい。いいどころかＢは別れたいのだ。

然し別れると云つてみろ、「負けて逃げちやひやがンの」とか、「勝手な奴だよ」とか云ふことになるのだ。それではＢとしてやりきれたものではない。誤解されたことを忍んで別れるより仕方もなくなると、忍んだ故にもう一段誤解されるのだ。

然し何しろ今、Ｂの声は金切声だし、Ａを憎まないまでも、ニコニコは出来ないのだ。心理的なＡとして、どうみたつてＢが劣勢だとしか思へはしない。

そして、かういふ誤解といふものが、長い間には、どのやうな所まで増大してゆくものか、それは頗る大した増大なのだが、かゝる誤解は、特殊的なものであるので、世間一般からは、顧みらるべくもなく、Ｂはそれを、創作にでもするよりほか、致し方もないことだ。

おまけに、Ａは今後益々その志望に於て衰耗してゆくであらうし、Ｂは尠くも、文学の点でだけは発展してゆくであらう。

「あんな奴が、段々偉くなりやがる」、ハテ面妖なとＡの方で思ふのだが、Ｂとしたら、変な話ぢやないか。自分が其処で暮し、其処で耕した所から花が咲いたのに、別の所で暮し、別の所で耕してた奴が、その花を面妖がるのが変な話でなくてなんとしようぞ。

## 二

右には文学だけを中心に話したのだが、人には文学だけではなく、生計といふこともあるから、今度はその生計を中心に話を進めてみよう。

先刻の誤解が度重り、Ｂがなんとか伸理解明せんものとする。然しどうもＡには呑込めぬ。「さてはＢ君、俺の金がツケメかな」とＡ君が試みに思ふとする。それが則ち茲に云ふ生計の場合だ。

でまづ或る時Ａはカマを掛けてみる。例へば、「君の暮しが、もつと楽だつたらいいだらうなァ」。Ｂは無邪気だ。Ｂといふ人間全体として何も無邪気ぢやないまでも、文学にしか頭が向かないところから、その他のことでは、尠くも不慣れくらゐのことはある。そこで思はず、Ａのカマに掛かり、ニツコリしたり、或は、急に不慣れな問題が跳出したので、表情が激変したりする。そこで「ナールホド」といふことにＡの方ではなつてしまふ。

でもＢの方では思ひもかけないことなので、えてしてそんな時ウツカリとしてゐる。

が、Ｂが実際「金がツケメ」でない以上、いつかまた、なんとなく乍ら、Ａの方では、「さう邪心がある程でもない」と思ふ。で、また更めてカマを掛けてみる。偶々今度は、「欲しいのは金よりも時間だよ」とＢが力説する。斯くて、カマは幾度かその後とも掛けられる。その結果は、「要するに御当人ウヤムヤなんだ」といふことになる。「金は欲しいんだらう。然し根が風癲（フーチヤン）だから、何かほかのことが頭を占めてる時は、金なんて忘れてるといつた塩梅だな」。何しろ個性のある人間といふものは、個性のない人間からみると、フーチヤンと見える理由があるのだ。個性のある人間の、慾の対象は、一般的ではないからだ。

Ｂとしてからが、金は欲しいに決つてゐる。寧ろ必要の度から云へば、Ａよりも必要に決つてゐる。それに金のことなぞ念頭にあるやうではやり切れない性質の仕事をしてゐるから、一層金は、金の方で足が付いてやつて来て呉れる方がいいに決つてゐる。

で、問題は、カマを掛ける資格が、Ａに不足してゐたといふことなのだ。――廊下にチョークで条を引いといて見給へ。その廊下を歩く限りの人が、その条の右か左かを通るんだ。右を通つた奴に、「ア、奴は右だ！」と云つたとて、右も左もあるものではない。多くのカマはその条に似てゐる。

斯くの如き場合の斯くの如き誤解は、実に局外者の想像に余るものだといふことは、どれ程云つても云ひ足りはしないだらう。

右は、Ａが金持でＢが貧しい場合だが、もしそれが反対であつても、必竟ＡがＢを、「あんな奴でも偉いのかなァ」と思ふ、つまり<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあひ</rt></ruby>の上でＡがＢより優勢になることは同前なのだ。何故なら、個性といふものが、独自の働きをするものであるからは、対人圏に於て、或ひは人中に於て、所謂「パツとしたもの」、則ち雄弁なものではないからだ。

## 三

次のやうな場合がある。題してみるなら、心理派の悲劇と個性派の悲劇とでもいふのであらうか。

ＢはＡに自分の近頃の文学上の困難を語る。Ａは割合聴いてゐる。さて話し終る。Ｂはニガリ切つてゐる。何しろ困難の話だ。ところでＡはいつになく和んでゐるのだ。話し終つて、顔を上げて、Ａの顔を見ると、Ａは和んでゐるのだ。

Ｂとしてはアテ外れだ。文学を志望しながら、一向に進捗しないＡとして、ありさうなこととは考へられても、然しＡは猶、文学を諦めようとしてゐるのではないし、今は割合よく聴いてさへゐたのだ。そこでＢはＡに不服を唱へ出す。するとＡが答へるのだ、「だつてさういふ困難が出て来るだけでも幸福ぢやないか。それで不満なのだつたら、困難も出て来ない、困難だといへば文学全体が困難な俺なぞは、どうすれあいいのだ」。そして如何にも尤もなつもりなのだ。

Ｂとしたら、又してもガツカリだ。例へばボートの選手が、クラッチがいたんだンで俺は負けたんだ、さもなけあ勝つに決つてたんだがと嘆くとする、するとボートの漕げない奴が、クラッチのいたんだことを経験出来るだけでも仕合せだ、それで嘆くなんて、てんで漕げもしない俺なんざ、そいぢやァどうして呉れるんだといふのと同しぢやないか。話にも何にもなりはしない。

話にもならないなら、Ａにそんなこと話す方が悪いと、云ふ人もあるであらうが、それあさうに違ひなくとも、ＡとＢとの縁といふものはともあれあるのだし、実際の場合、やつぱりＢが悪いといふのは妥当でない。Ａが話を<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>で聴いたのだ、その方が悪いに決つてゐよう。それに、ボートのことに例へて話せば、明々白々のことになつて、まさかＡとてそんなにまで馬鹿でもあるまいと思へるだらうが、事個性的な仕事の志望者達の間では、極めて至当なこととして、「ぢや、てんで漕げない俺はどうしてくれる」が通用することは決して珍しくないのである。

一般世間のことだつてそんな例はある。「大学を出たのに職がない」といふと、尠くも近親は周章てるが、「腕はあるのに職がない」なぞと云はうものなら、「威張つてやがらァ」ではないか。

蓋し黄金万能主義的傾向に属することなのだらうが、Ｂの方では、Ａより貧しい条件の下に働いてゐるのに、Ａの方では、いつ知らず「俺の方が<ruby><rb>元金</rb><rt>もと</rt></ruby>がかゝつてゐるのに……」といふ不平を抱いてゐるのである。

ところでＢの方が不平を抱く時は、悲劇なのだが、Ａの不平は悲劇でもない。ＢはＢの内部から起ることに立脚して不平が起れば起るのだが、Ａは偶々文学といふ彼にとつて外部的な物を捉へようとして、それが捉へられないといふ不平なのだ。而もその不平たるや、独りで文学を思ふ時と、Ｂが面前にある時とだけのものであつて、一般生活、つまり彼の畑に帰れば、あつてなきが如きものでさへあるのだ。何サ、女給と三人の時は、女給の考へ方に寧ろ近いぢやないか。却々瀟洒な不平だよ、高級でいらつしやいますね。

而も、文学志望で文学が書けぬといへば、尠くも近頃は「困つた」と思ふが、「いいものを書いてゐるが認められぬ」といふことは、「まあまあそのうちなんとかなるよ」と、それも甚だ好い気な調子で肩叩かれる。

## 四

我が国民はどうも論理性に乏しいだの、妥協的だの、低俗プラグマチックだの、近頃ではまた、「低い意味のリアリスト」だのとも云はれてゐるが、民族に於ける論理性は、蓋し個性を尊長するところから発展するのであり、話の内容如何に関らず、その話しつぷりが温しくさへあればいい心理派こそ、論理性に対する、柔和にして蔓り易い敵なのである。

「議論するなら勝手にしやれ、あとでゲンコの雨が飛ぶ」――茲に、低俗プラグマチックの、象徴がありはしないか。議論の内容如何に拘わず、議論することそのことが癪だといふ、女ならでは夜の明けぬ、悲しむべきことではあるまいか。

心理派たる勿れ。<ruby><rb>問題</rb><rt>トピック</rt></ruby>を持たずしての心理的慧眼とは、文章なくての修辞の如きに過ぎまいではないか。

（一九三六・八・一五）