## 一

八五郎の取柄は、誰とでも、すぐ友達になれることでした。長んがい<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とぼけ</span>た話し振りと、そして<ruby><rb>桁</rb><rt>けた</rt></ruby>の<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>れた<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れが、どんな相手にも、警戒させずに近づけるのです。

その代り、時には飛んでもない者と、すつかり<ruby><rb>眤懇</rb><rt>ぢつこん</rt></ruby>になつてゐることがあります。巾着切<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>三などもその一人で、相手は御法の網の目をくゞる、<ruby><rb>雜魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>のやうな男。人の懷ろを狙ふのが渡世と言つても、五兩と<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>まつた仕事をしたことのないといふ、世にも哀れな存在だつたのです。

その巾着切の辰三は、江戸の巾着切仲間の一つの名物でもありました。それは巾着切の仕事を、一つの藝と心得て、決して田舍者の懷ろは狙はないといふ一つのフエーアプレーを信じ、兩國の<ruby><rb>如何</rb><rt>いかゞ</rt></ruby>はしい見世物の<ruby><rb>看板</rb><rt>かんばん</rt></ruby>を、口を開いて眺めて居る、田舍の人の財布などを<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>ふのは、面白くも何んともないばかりでなく、折角<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎ溜めて江戸見物に來た人達の、大事な旅費まで盜るのは、いかにも痛々しいといふのです。

で、辰三の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おとくい</span>は、キビキビした江戸つ兒に限りました。それも、<ruby><rb>氣障</rb><rt>きざ</rt></ruby>なの、贅澤なの、<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>がつたの、ノラクラ者らしいのを狙つて、煙草入を拔くか、財布をかすめるか、精一杯に二分や一兩の收入が山で、胴卷や紙入を拔いて、死ぬの生きるのと言つた、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むごたら</span>しい目に逢はせるのは、巾着切道の極意でないと、辰三は考へて居るのです。

從つて、巾着切とわかつて居るくせに、辰三は誰にも憎まれることなく、御上の役人からもお目<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぼし</span>で、細く長く、その指先の至藝で暮して居りました。多くは富裕な旦那方の煙草入、御内儀の<ruby><rb>銀簪</rb><rt>ぎんかんざし</rt></ruby>、二分か三朱の<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎに滿足して、萬々一思はぬ大金をすり取つたりすると、大骨を折つて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すられ</span>た人を搜し出し、要らない分は、窓から投げ返して來るといふ、途方もない<ruby><rb>潔癖</rb><rt>けつぺき</rt></ruby>さです。

屋外泥棒も、十兩以上は打首になつた時代です。巾着切を<ruby><rb>看板</rb><rt>かんばん</rt></ruby>にかけて居るやうな辰三が、何時までも安穩に暮らせたのは、一つは働きの方法が馬鹿々々しく義理堅かつた上に、内々は御用聞の良い顏に喰ひ入つて、<ruby><rb>諜者</rb><rt>てふじや</rt></ruby>を勤め、その方でも調法がられて居る爲でした。

さて、これで、巾着切の辰公の<ruby><rb>存在理由</rb><rt>レーゾン・デートル</rt></ruby>はわかつたとして、<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>の方は、まことに氣の毒でした。まだ三十五六といふのに、<ruby><rb>眇目</rb><rt>めつかち</rt></ruby>で<ruby><rb>跛足</rb><rt>びつこ</rt></ruby>で、虫喰ひ頭の<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>ちよろで、まことに見る影もない男だつたのです。家は元鳥越町の、<ruby><rb>八幡知</rb><rt>やはたし</rt></ruby>らずの路地の奧、全くの獨り者、シミのやうに生きて居る、不思議な存在でした。

その巾着切の辰三が、向柳原の八五郎の宿へ、ある晩、あわたゞしく飛び込んだことからこの話が始まります。

「親分、八五郎親分。大變なことがありますよ」

窓の下から聲をかけると、二階の戸が開いて、長んがい<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をのぞかせながら、

「何んだ、騷々しい、辰公ぢやないか」

などと、八五郎はすつかり良い心持になります。その受け渡しは、八五郎自身と平次の場合そつくり。

「ちよいと降りて下さいな。本當に大變なんだから」

「其處で話せねえことか。飮み屋から、馬でも<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて來たんぢやあるめえな」

それでも八五郎は、帶引締めて、十手を腰に、薄寒い師走の往來に飛び出しました。仰ぐと、<ruby><rb>利鎌</rb><rt>とがま</rt></ruby>のやうな五日月。

「そんな間拔けな話ぢやありませんよ。殺しですよ、親分」

「何？　殺しだ」

「日頃の御恩報じ、眞つ先に親分ところに飛んで來ました。手柄にして下さい」

「よし來た、場所は何處だ」

「阿倍川町の六軒長屋の奧。殺されてゐるのは、そりや、好い女ですぜ」

兩人はもう、急ぎ足に、阿倍川町に向つて居たのです。

「唯、好い女ぢやわからねえ。身許は？　藝子か、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>か、娘か、年増か」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>には何んにもわかりませんよ。フトしたことから、女の<ruby><rb>遺書</rb><rt>かきおき</rt></ruby>を拾つて、その名宛をたどつて行くと、凄い年増が、<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>り殺されて引つくり返つてゐるぢやありませんか。いや、驚いたの驚かねえの」

辰三は<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>つぱい顏をするのです。

「フトしたことで遺書を拾ふ奴があるものか。お前のいつもの傳で、拔いた懷中物にあつた遺書ぢやないのか」

「へツ、八五郎親分はさすがに眼が高けえ。ま、そんなことかも知れませんがね」

辰三はムニヤムニヤと言葉尻を濁すのです。

「それ見ろ、<ruby><rb>圖星</rb><rt>づぼし</rt></ruby>だらう」

などと、八五郎は好い心持になれるのです。

## 二

「その遺書といふのを見せろよ」

「この女持の紙入ですがね」

取出したのは、緑色<ruby><rb>呉絽</rb><rt>ごろ</rt></ruby>の紙入、半分は化粧道具を疊み込んだ、それは<ruby><rb>洒落</rb><rt>しや</rt></ruby>れたものでした。辰三はそれを、自分の物ででもあるやうに、至つて氣樂に八五郎の手の上に置くのです。

「遺書はこれか」

八五郎は無造作に手を突つ込んで、半紙を小さく疊んだ、手紙のやうなものを取出しましたが、月はもう町の家並の下に沈み、店の灯も<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>くて、八五郎では讀みこなせません。

「親分に預けて置きますから、後でゆつくり讀んで下さい。兎も角も、その紙入の中に小さい名札があつて、『阿倍川町<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">久ら</span>』とあつたんで、それを頼りに行つて見ると――」

「待つてくれ、その紙入に金は入つてなかつたのか」

「小判が一枚と、二分金と、あとは四文錢が少しばかり」

「何處で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すつ</span>たんだ」

「相濟みません」

「詫びなんか聽き度くない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すつ</span>た場所が知り度いのだよ」

八五郎の聲は、少し<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>りました。二人はもう、少し息を切つて居ります。それにしても、なんと<ruby><rb>跛足</rb><rt>びつこ</rt></ruby>の辰三の足の早いこと。これでは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>の現場を見付けたところで、容易につかまる筈はありません。

「申し上げますよ。へエ、<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うなればもう、島へ送られる覺悟で」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた野郎だ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>も少し呆れてゐるんで。淺草の觀音樣の境内で、お詣りした歸り、ドカンと突き當つた女があるんで」

「お前の方から突き當つたんだらう。<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>の當つた野郎だ」

「相濟みません。でも、好い女でしたよ。ちよい〱見かける年増ですが、あんな好い女を見ると、ちよいと手輕なものを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>度くなります。商賣<ruby><rb>冥利</rb><rt>みやうり</rt></ruby>でね、いゝ形見になりますから――」

「形見だつてやがる、嫌な野郎ぢやないか」

「へツ、へツ、馬鹿野郎になつたり、呆れた野郎になつたり、罰當りになつたり、嫌な野郎になつたり、斯う安くされちや浮ばれませんね」

「贅澤を言ふな」

巾着切の辰三に對しては、八五郎も優越感で<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れ上がつて居るのでした。

やがて二人は、阿倍川町に着きました。とある路地を入つて、右も左も塀と羽目、よくも斯んな隱れ家が見付かつたと思ふやうなところに、眞つ黒な家が一つ、とほせん坊をするやうに突つ立つて居るのでした。

「この家ですよ親分、阿倍川町のお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>と言へば大した女ださうで、すぐわかつてしまひました」

「眞つ暗ぢやないか、これぢや鼻をつまゝれても、わかりやしない」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>覗いたときは、<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>が點いて居ましたよ。灯の點いた中に死骸があるんで<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶしましたが、<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>に騷ぐと、親分の手柄がフイになると思つて、向柳原まで夢中で飛んで行きましたが、變だなア」

「兎も角、灯をつけてくれ」

「へエ」

「火のない國へ來たわけぢやあるめエ」

「へエ」

辰三はヘドモドしながら、何處かへ飛んで行きましたが、やがて提灯を持つて戻つて來ました。

「<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に、相長屋の人達にさう言つて來ました。間もなく家主やら月番やら、この邊中の彌次馬が、井戸替ほどの騷ぎで寄つて來ますぜ。その前に調べて置いて下さい」

「よし來た」

斯うなつて來ると、誰がリードしてゐるのかわかりません。

辰三が覗いて見たといふ、窓は開いたまゝですが、入口の戸は一應締つて居りました。尤も鍵などは掛つて居ず、二人は自分の家のやうに呑氣に入つて行くのです。

家はたつた三間、裏長屋らしく見すぼらしい感じですが、中の調度はなか〱に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>つたもので、主人の日頃の生活も思ひやられます。死骸のあつたのは奧の八疊で、これは、まさに豪勢でした。その部屋の眞ん中に、座布團を半分敷いて、好い年増が引つくり返り、首に赤い<ruby><rb>扱帶</rb><rt>しごき</rt></ruby>を卷いたまゝ、腰から下は、<ruby><rb>前褄</rb><rt>まへづま</rt></ruby>をきりゝと合せて、<ruby><rb>寸毫</rb><rt>すんがう</rt></ruby>の亂れもないのが不思議に目立ちます。

女が<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>り殺されるとき、裾のあたりを、斯うまで綺麗に合せられるものでせうか。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>の良い佛樣ぢやないか」

八五郎はさすがに、これが一番先に氣がつきました。

「それにしても、好い女ですね」

辰三はさうは言つたものの、死骸といふものをあまり見たことがないせゐか、無氣味さうに尻ごみして、念入りに見ては居られない樣子です。

さう言へば、死んだ女の顏は非凡でした。蒼白く屍色を帶びて、やゝ佛作つては居りますが、それは絞殺死體によくある、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むくみ</span>から來る變貌で、この女の本來の美しさは、激しい苦惱の表情の底から、無氣味なまでに人に迫るのです。

鼻は高い方、<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>は半分開いて、美しい齒並が見えて居ります。クワツと見開いた眼、何んとも言へない凄い表情ですが、その凄さのうちに、邪惡な色つぽさと、不思議な魅力がこびり付いて、この女の並々ならぬ素姓を物語つて居るのです。

「おい辰公、手を貸しな。この佛樣を起して<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を見たいから」

八五郎は遠のいてゐる辰三を<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>で招きました。

「勘辨して下さいよ、親分。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はこの上もない臆病なんで、死骸と來ては、猫の死骸を見ても、三日くらゐは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うなさ</span>れます」

「仕樣のねえ野郎だな」

が、八五郎が一人で骨を折るまでもありませんでした。辰三が豫告したやうに、この時どつと、近併の衆と町役人と、そして<ruby><rb>夥</rb><rt>おびたゞ</rt></ruby>しい彌次馬が押し寄せて來たのです。

## 三

八五郎が、明神下の平次の家へ行つたのは、その翌る日の朝の内でした。

「八が來たのか。大層な勢ひぢやないか、まだ<ruby><rb>辰刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>（八時）前だぜ」

「驚いちやいけません。昨夜殺しがあつたんですよ。その現場へ行つて夜つぴて調べましたがね」

「待つてくれ。まさか、お前が殺したわけぢやあるめえ、<ruby><rb>端折</rb><rt>はしよ</rt></ruby>つた<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>だけでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おろし</span>てよ、其處へ坐つたらどうだ。まるで逃げ出しさうな恰好ぢやないか」

「あつしや、逃げ出しやしませんが、<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>に逃げられさうで」

「下手人の見當だけでもついたのか」

「つきましたよ。ところが、臭いのが三人もあるんで、どれを縛つたものか、親分に見て頂かうと思ひましてね」

「まア、初めから話せ。何處の誰が殺されたんだ」

平次はお勝手の方へ向いて、まだ朝飯前らしい八五郎のために、食事の用意をさせ、さて、自分で番茶などを入れるのです。

その間に八五郎は、昨夜のことを話し始めました。

「巾着切の辰三、親分も知つて居るでせう、あの變な野郎」

「知つてるよ。大した惡黨でもなく、調法だからと言つて、お前は<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>にして居るやうだが、相手はゴミのやうな男でも、人の懷中を狙つて暮す<ruby><rb>巾着切</rb><rt>きんちやくきり</rt></ruby>だ。お上の御用を承はるお前が、あまり附合はない方が宜いぜ」

「大丈夫ですよ。力づくでも智慧づくでも。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の方が一と廻り上なんだから、イザとなれば、グウとも言はせはしません。本人も間違つて大それたことをして、萬一お召捕になる時は、八五郎親分の繩にかゝる――と<ruby><rb>口癖</rb><rt>くちぐせ</rt></ruby>に言つて居るくらゐだから」

「まア宜い、それがどうなのだ」

平次に促がされて、八五郎は、昨夜の冒險を、細々と報告しました。阿倍川町のお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>といふ不思議な美女の死が、若い八五郎の情熱を掻き立てます。

「何しろ、大變な女でした。<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>り殺されても、<ruby><rb>前褄</rb><rt>まへづま</rt></ruby>をピタリと合せて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふくら</span><ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>も見せないんだから、良い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>でせう」

「馬鹿だなア、殺されながら裾を合せる人間があるものか。それは、死んだあとで曲者が直してやつたのだよ。流しや<ruby><rb>氣紛</rb><rt>きまぐ</rt></ruby>れの殺しぢやない。女の身内の者か、亭主か<ruby><rb>情夫</rb><rt>いろ</rt></ruby>か、<ruby><rb>關</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はりのあるものの仕業だ」

「あ、成る程ね」

「感心してやがる。<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>扱帶</rb><rt>しごき</rt></ruby>で殺して、死骸の裾を直して置くのは、女に未練のある奴の仕業に極まつてるぢやないか。その女の身許や素姓はわかつて居るのか」

「いづれ<ruby><rb>玄人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>あがりでせうが、人の妾なんださうで、旦那は赤松院門前町の金貸で、阿波屋浪太郎。近頃上方から江戸へ來た男ですが、こいつは大した金持で、早速人をやつて見ましたが、三日も前から房州へ取立てに行つて留守。相手は小大名か大旗本で、その領地か知行所へ行つたから、急には戻るまいといふことでした。留守は、通ひ番頭の金三郎と、小僧の壽助が預かつて居ります」

「その他に、繁々來る男はないのか」

「有りますよ。有り過ぎて困るくらゐで」

「――」

「役者の大村喜十郎、こいつはちよいとした二枚目でさ。尤も、田舍廻りの役者で、江戸の<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>舞臺を踏む<ruby><rb>貫祿</rb><rt>くわんろく</rt></ruby>ぢやありません。男のくせに、ナヨナヨとした大變な野郎で、一名は蟻地獄」

「それが怪しいのか」

「怪しいどころの騷ぎぢやありません。その死骸の側に蟻地獄野郎の<ruby><rb>定紋</rb><rt>ぢやうもん</rt></ruby>の金具をつけた、煙草入があつたんだから、文句はないでせう。唯煙草入があるだけなら、三日前に忘れて行つたといふ言ひ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のがれ</span>もあるわけだが、洒落れた煙草入の、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>は拔いた上に、<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>に煙草まで詰めてあつたんだから、こいつは文句はないでせう」

「その煙管を見たいな」

「念のために持つて來ましたよ。見て下さい、この通り」

八五郎は懷中から、女持見たいな、紫色の懷中煙草入を取出しました。煙管を拔いて見ると、吸口だけは銀を張つた、これも<ruby><rb>華奢</rb><rt>きやしや</rt></ruby>なものですが、雁首にはチヤンと、刻みの細かい良い煙草が詰めてあるのです。

「八、俺もお前も、尻から煙の出るほど煙草を好きだが、この煙管の煙草の詰めやうを變だとは思はないか」

「へエ」

八五郎にはまだ見當がつかない樣子です。

「こんなに固く詰めた煙草は、吸へるかどうか、試して見るが宜い」

「？」

「大村喜十郎とやら、田舍廻りでも、二枚目の好い男の役者に違ひあるまい。それが、こんなに固く詰めた煙草を、頬つぺたを<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>ませて吸ふわけはないと思ふが、どうだ」

「へエ」

「これは、煙草を呑まない素人の詰めた煙草だよ、――大村喜十郎は下手人ぢやあるまいよ。もう一人の男といふのは誰だ」

平次は坐つたまゝで、もう一人の無實を救ふのです。

「もう一人の男は、鐵之助といふ遊び人で、松前鐵之助と違つて、<ruby><rb>股旅</rb><rt>またたび</rt></ruby>の鐵之助といふちよいと苦み走つた、好い男の小<ruby><rb>博奕打</rb><rt>ばくちうち</rt></ruby>で」

「それを當つて見たか」

「昨夜のうちに突きとめて、見張らせて置きました。近所の<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>にもぐつて、良い加減勝ち續けて居ましたよ。宵から目が出たさうで」

「人殺しをした足で賭場にもぐつて、勝ち續けるのは、大した膽つ玉ぢやないか」

「そんなものですかね」

「もう一人、怪しいのがあつた筈ぢやないか、誰だいそれは」

「下女のお<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>といふ女で、――殺された主人のお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>と同年輩の二十二三ですが、こいつは、飯を<ruby><rb>炊</rb><rt>た</rt></ruby>いて掃除をする外には能のない、恐しい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>で、お久良のところへ、不斷どんな男が出入りするか、それも覺えちや居ません」

「その女はどうした」

「お久良に小遣を貰つて一日のんびりと近所の叔母さんのところで遊んで來たさうで、大騷ぎの最中に、ぼんやり戻つて來ましたよ」

「もう宜い。ところで、お前は辰三に預かつた、女持の紙入を持つて居るだらうな」

「これですよ」

八五郎は又懷中を<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>つて、手拭に包んだ、紙入を取出し、平次の<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>の上に載せました。それは、エメラルド・グリーンの素晴らしい<ruby><rb>呉絽</rb><rt>ごろ</rt></ruby>、<ruby><rb>翡翠</rb><rt>ひすゐ</rt></ruby>の息づくやうな飾りが付いて、金無垢の小ハゼで留めた、平次も見たことのないやうな、恐ろしく豪華なもの。中を開くと、玩具のやうな純銀の化粧道具が三つ四つ、眞ん中の深いポケツトに、小さく疊んだ半紙の<ruby><rb>遺書</rb><rt>かきおき</rt></ruby>が入つて居るのです。

疊の上に延べると、下手な字をクネクネと書いた、短かい文句、

わけがあつて、死なねばならぬこのいのち、あと〱のこと、よろしく頼み入り參らせそろ。　久良。

「こいつはお前男の<ruby><rb>筆跡</rb><rt>て</rt></ruby>だぜ」

「さうでせうか」

「その上文句も、小唄の文句のやうで、身に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つま</span>されるところはないぢやないか。お前が<ruby><rb>擔</rb><rt>かつ</rt></ruby>がれたんでなきや、辰三が一杯喰はされたに違ひない」

「だつて親分、觀音樣の境内ですつた紙入の中から出たんですぜ。巾着切にすられるのを當て込んで、<ruby><rb>惡戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>書きの遺書を用意するものもないでせう」

「ムキになるなよ。遺書などといふものは、遊び半分に書くものぢやねえ。ところでと、おや、おや」

平次はその豪勢な紙入を調べて居りましたが、急に居住居を直しで、外から射して來る朝の陽射しに、縫目などを透して熱心に調べ始めました。

「どうしたんです、親分」

八五郎はのぞいて見ました。

「珍らしい<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>だよ。この紙入には、もう一つ物を入れる場所があつたんだ。裏が疊み込みになつて居て、それを開くとそれ」

「へエ？」

「人に見られ度くない物を持つて居る女などは、斯うした隱れた物入れのある紙入を持つて居たのだらう。おや、こいつは、何んか、<ruby><rb>厄介</rb><rt>やつかい</rt></ruby>なことらしいよ」

「――」

隱れた紙入のポケツトから取出したのは、これも薄く小さく疊んだ<ruby><rb>雁皮</rb><rt>がんぴ</rt></ruby>で、その上には、

心覺えのため記し置くものなり、人に<ruby><rb>勿</rb><rt>な</rt></ruby>言ひそ。久良

十月二十日、　　　　百五十兩　　　　（蛙）

十二月二日、　　　　二百八十兩　　　（なめくぢ）

同じく、　　　　　　二十七兩

二月みそか、　　　　三十八兩

四月五日、　　　　　三百兩　　　　　（蛇）

六月十九日、　　　　十五兩

九月十日、　　　　　六十九兩

十月一日、　　　　　百四十五兩　　　（蛙）

これだけのことが、かなりの達筆で書いてあつたのです。

「これは大變ぢやありませんか、親分」

「大變な匂ひがするよ。それに、半紙に書いた遺書の下手な字と、この<ruby><rb>雁皮</rb><rt>がんぴ</rt></ruby>のうまい字とは大變な違ひだ。此方は確かに女の<ruby><rb>筆跡</rb><rt>て</rt></ruby>だ。お久良が心覺えに書いたものだらう」

「すると、どういふことになりませう」

「この金は、八口で、大した<ruby><rb>額</rb><rt>たか</rt></ruby>だ。この金高に覺えはないか」

「覺えがあるやうですね。去年あたりから江戸中を荒した、<ruby><rb>黒旋風</rb><rt>こくせんぷう</rt></ruby>とか言つた押込み、まだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つかま</span>らないやうですが、その稼ぎは、こんなことになりやしませんか」

「黒旋風――なるほど、それに相違あるまい。御南の書き役に調べて頂けば、すぐわかる。――あの泥棒は、五六人の人を<ruby><rb>害</rb><rt>あや</rt></ruby>めて居るし、<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>つた金も千兩を越すだらう」

「氣に入らねえ曲者ですね。手向つたり、逃げ出さうとする者は、女子供の見境ひもなく斬つて捨てるといふ、恐しい惡黨で、――」

「いづれにしても、容易ならぬことだ。お前一人には任されない、出かけようか」

「何處へ行くんで」

「先づ<ruby><rb>阿波屋</rb><rt>あはや</rt></ruby>だ。それから大村喜十郎と、鐵之助と、一と通りお久良と<ruby><rb>關</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はりのありさうなのを調べる、――それから、誰か一と走り、御奉行所へやつて見よう」

「巾着切の辰三は放つて置いても構ひませんか」

「斯うなるともう、巾着切などに取合つちや居られないよ。――と言つても、辰三は何にかの役に立つかも知れない」

「へエ、面白くなりさうですね」

八五郎はすつかり張りきつてしまひました。

## 四

平次は近頃になく緊張して居りました。

八五郎とつれ立つて、先づ一番に、其處からあまり遠くない、門前町の阿波屋浪太郎の家を覗くことにしました。

阿波屋の家は小さいが、よく<ruby><rb>纒</rb><rt>まとま</rt></ruby>つた、贅澤な家でした。格子づくりの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しもたや</span>で、深々と暮して居るのは、金貸といふ商賣のせゐでせう。

格子の外から聲を掛けても、なか〱人が出て來ないので、中へ入ると、

「入らつしやいませ、何んか御用で？」

四十前後のむづかしい顏をした男が、とがめるやうに、顏を出すのです。

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>から隨分聲をかけたぜ。其處に居るなら返事ぐらゐはしても宜からう」

八五郎は向かつ腹を立てて、喰つてかゝります。

「へエ、押賣りや押借りが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はや</span>るんで、お名前のわからないうちは、表を開けないことにいたして居りますが、――今日はうつかり表の格子を閉めなかつたので――」

男は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にんがり</span>ともせずに、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んなことを言ふのです。

「何を言やがる。押賣りや<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆすり</rt></ruby>と間違へられて、たまるものか。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は使ひの者をよこしたが、今日は直々にやつて來たんだ。向柳原の八五郎だよ――此處に居るのは、明神下の錢形の親分だぜ。え、おい」

八五郎は精一杯<ruby><rb>肩肘</rb><rt>かたひぢ</rt></ruby>を張るのです。

「相濟みません。でも、私共は後ろ暗い稼業をして居るわけぢやございませんので」

「な、何んて言ひ草だ。お前の主人が飼つて居る妾のお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>が、昨夜人手にかゝつて殺されたんだぜ」

「そんなことださうで。あの女には手を燒いて居りましたから、主人も存外ホツとするかもわかりません。――丁度三四日前から、房州の方へ取立てに出かけまして、あと三日もしないと戻りませんが――」

「ちよいと、家の中を見せてくれ」

八五郎の後ろから、平次が顏を出しました。

「へエ、御覽下さるのは構ひませんが、主人が留守ですから、そのおつもりで」

「――」

平次はこの番頭の苦い顏を尻目に、ズイと通りました。まことに狹い家ですが、よく<ruby><rb>整</rb><rt>とゝの</rt></ruby>つて、何から何まで一と目に見られるやうになつて居り、商賣柄の大金などは、此處には置いてない樣子です。

「商賣の方はどうだ」

平次はさり氣なく訊きました。

「つぶれが多いので、引締めて居ります。新しい口は大抵お斷りで、へエ」

「至つて無人のやうだな、女手はないのか」

「主人は女嫌ひで、私と小僧だけでございます。尤も主人がお歸りになれば、私はツイ近所の自分の家へ<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>りますが、お留守の間は此處に寢泊りして居ります」

「小僧さんは」

「あの通り、あの縁側で<ruby><rb>居寢</rb><rt>ゐねむ</rt></ruby>りをして居ります。まことに、他愛もない子で」

それは十三、四の<ruby><rb>白雲頭</rb><rt>しらくもあたま</rt></ruby>で、ひどく智能の遲れた、間延びのした小僧です。

庭を覗くと、生垣に三尺の木戸があつて、嚴重に大きな錠がおりて居り、其處から家と家の間を縫つて、裏へ出られさうにも見えますが、ガラクタが一杯に<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がつて、通せん坊をして居るのです。試みに降りて見ましたが、錠前は<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>び付いて力づくでも開かず、ガラクタも何年越しの<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を冠つて、ちよいとの手間では除けられさうもありません。

「八、歸らうか」

平次は見るだけのものを見ると、外へ出ました。

「この裏の元鳥越に、巾着切の辰公が居ますよ。<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>つて見ませうか」

「宜からう」

グルリと町を一と廻り、丁度反對側の路地の奧に、<ruby><rb>蛆</rb><rt>うじ</rt></ruby>の湧きさうな、辰三の獨り住居がありました。

「辰、居るか」

八五郎が聲を掛けると、

「おや、八五郎親分、昨夜の今日で、すつかり朝寢をしましたよ。待つて下さい」

ゴトゴトとやらかして、暫らくして出て來たのを見ると、一應は顏見知りの平次も、この男の見<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すぼら</span>しさに、ものの哀れを感ずる程でした。

「錢形の親分だよ」

「へ、存じて居ります。この邊に住んで、錢形の親分を知らないものはありやしません」

なか〱のお世辭ですが、<ruby><rb>眇目</rb><rt>めつかち</rt></ruby>で、<ruby><rb>跛足</rb><rt>びつこ</rt></ruby>で少し<ruby><rb>傴僂</rb><rt>せむし</rt></ruby>で、まことに見る影もありません。

それに、今起きたばかりといふのに、惡い方の左の眼は眼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やに</span>だらけ。

「お前は旅役者の大村喜十郎の家を知つてるだらうな」

「へエ、存じて居ります。ツイ三味線堀で」

「案内してくれ」

「へエ」

「ところで、此處から裏へ出る近道はないのか」

「金貸の阿波屋の主人が、<ruby><rb>癇性</rb><rt>かんしやう</rt></ruby>で、用心が惡いとか言つて、野良犬の通り道まで<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでしまひましたよ」

「そいつは念入りだな、――尤も、その壁をつき拔けさへすれば、阿波屋の裏口あたりへ、バアと出られさうだな」

「冗談なすつちやいけません。家はこの通り痛んで居ますから」

壁を叩く平次の<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を、辰三は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわて</span>て止めました。

そこから三味線堀へは一と丁場、役者の大村喜十郎の長屋はすぐわかりました。

「この奧ですが」

辰三の教へてくれた路地を入ると、これはいくらか<ruby><rb>優</rb><rt>ま</rt></ruby>しの小ぢんまりした住居で、主人の喜十郎の外に、召使の婆さんが一人、これもヨタヨタして居ります。

「私が大村喜十郎でございますが」

八五郎が訪づれると、<ruby><rb>擬</rb><rt>まが</rt></ruby>ひものらしい<ruby><rb>唐棧</rb><rt>たうざん</rt></ruby>、眉の薄い、顏の長い、<ruby><rb>鉛毒</rb><rt>えんどく</rt></ruby>で青白くなつた男が、丁寧に招じ入れました。

「私は明神下の平次だが、――親方はこの煙草入を知つてるだらうな」

「あ、錢形の親分さん。その煙草入は間違ひもなく、私の持物でございますが」

「そのお前の煙草入が、阿倍川町のお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>の死骸の傍に落ちて居たのだぜ」

「お久良が殺されたことは、今朝聽きましたが、その側に、私の、私の」

大村喜十郎はすつかり青くなつてしまひました。

「どうした、親方。言ひわけがあるのか」

「その煙草入は三日前、淺草の仲見世で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">す</span>られた品でございます。夕方の人混みの中で、相手の人相にも氣がつきませんが」

「ところで、物事を<ruby><rb>隱</rb><rt>かく</rt></ruby>さずに、正直に言つてくれ。お前はお久良と親しくして居たさうだな。近所の衆は皆知つて居るぜ、隱すな」

「へエ」

「そのお久良が殺されたんだぜ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>の鐵之助でなきや、お前だらう――と、驚くな、世間ではさう言つて居る」

「と、とんでもない、私にそんなことが――尤も、お久良殺しの下手人なら、私は見當が付いて居ります。――恐ろしい人間でございます」

「それを言つてくれ」

「待つて下さい。私は、それを申し上げるのは命がけで」

大村喜十郎は、入口の格子に手をかけて、用心深く外を眺めましたが、サツと顏色を變へて引つ込み、それつきり<ruby><rb>田螺</rb><rt>たにし</rt></ruby>のやうに默り込んでしまつたのです。

「さア、誰がお久良を殺したのだ。それを言つてくれ」

「――」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>もないことぢやないか」

「――」

大村喜十郎は急に默り込んでしまひましたが、そつと婆やさんが平次に茶を出した<ruby><rb>塗盆</rb><rt>ぬりぼん</rt></ruby>の上に指先で、

――今夜、そつと申上げます。――

と、怪しい<ruby><rb>假名</rb><rt>かな</rt></ruby>で書くのです。

この上は、何んと説いても口を割りさうもないので、平次と八五郎は諦めて、路地の外に出ました。

「やくざの鐵之助は――」

「これも、ツイ其處で」

路地の入口に待つて居た辰三は、心得て犬つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ころ</span>のやうに先に立ちます。<ruby><rb>跛足</rb><rt>びつこ</rt></ruby>で<ruby><rb>眇目</rb><rt>めつかち</rt></ruby>な犬の樣に、それはいかにも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みじめ</span>な姿でした。

鐵之助は喧嘩早さうな猛烈な男でしたが、昨夜すつかり儲けて良い心持になつて居り、お<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>の殺されたことにも、あまり關心は持つて居ない樣子です。

「あの女は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やたら</span>にピンシヤンするからですよ。<ruby><rb>青瓢箪</rb><rt>あをべうたん</rt></ruby>の役者野郎に夢中になつて、働き者の旦那の阿波屋を大事にしないから、あんなことになるんで」

と言つた調子。

「お前は、阿波屋の主人と<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>にして居たのか」

「お<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちよつかい</span>を出す男なんか、相手にするわけはありません。でも、太つ腹で、働き者で、大した旦那でしたよ。身體の弱いのが玉に<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>で、いつでも<ruby><rb>頭巾</rb><rt>づきん</rt></ruby>を冠つて居ましたが、町内では夏頭巾と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>されたくらゐで」

「お前は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、何處に居た」

「冗談言つちやいけません。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>かお久良を殺すものですか。もう一と押しで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なびき</span>さうになつて居たんですもの」

斯う言つた鐵之助です。

「でも、念の爲に――」

「佐竹の<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>で、夕方から曉方まで、張つて張つて張り通しましたよ。あんな勝目は<ruby><rb>開</rb><rt>けい</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びやく</span>以來で、一と晩に二十五兩と勝ちましたぜ。誰にでも訊いて下さい、小便に立つのが惜しかつたくらゐで」

まことに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざつくばらん</span>です。

それから三人は、阿倍川町のお久良の家にやつて來ました。町役人と近所の衆が、どうやら入棺をすませ、お通夜の支度までしてくれましたが、身寄も知合ひもないものか、引取手は言ふ迄もなく、線香をあげに來る者もありません。

「元鳥越の阿波屋さんの世話になつて居ると聽いて、二度も三度も人をやりましたが、主人が留守だとかで、覗いて見るものもありません。金持などといふものは、薄情なものですね」

家主の親爺が、平次に説明するのです。それにしても、その頃の江戸の町人連は、今の人が考へるやうな<ruby><rb>冷淡</rb><rt>れいたん</rt></ruby>なものではなく、五人組や月番が主になつて、何くれと世話をして居ります。

「阿波屋さんの來るのを、見かけた人もあるだらうが、口はきかなかつたのか」

「飛んでもない。隱れるやうにお通ひで、顏が合つても、そつと<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>けて通つたくらゐです。でも立派な旦那でした。<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>も顏も。身體が弱いさうで、夏も<ruby><rb>頭巾</rb><rt>づきん</rt></ruby>を冠つて居ましたが」

近所の人達は口を揃へて斯う言ふのです。

下女のお紺は二十二三、少し<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>りない女とは聽きましたが、全くの<ruby><rb>白痴</rb><rt>はくち</rt></ruby>で、使ひ走りも覺束なく、<ruby><rb>炊事</rb><rt>すゐじ</rt></ruby>と掃除が精一杯、こんなのは反つて、お妾の下女には打つてつけかも知れません。親は巣鴨の百姓、近所に叔母があるので、その後見で奉公して居ると言つた心細い女です。

## 五

その晩平次は、大村喜十郎の、塗盆の文字を思ひ出して、三味線堀の家を訪ねましたが、何處へ行つたか、夜中まで待つても歸らず、

「何んでも、立派な旦那でしたよ。親方の迎ひに來て、つれ出しましたが、まだ宵のうちで、外は薄明るかつたやうです」

<ruby><rb>雇</rb><rt>やとひ</rt></ruby>婆さんの話はこれだけ、何處を搜しやうもありません。

平次は、八五郎だけを殘して歸りましたが、翌る朝<ruby><rb>卯刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>（六時）過ぎ、八五郎の『大變』が明神下の平次の家へ飛び込んだのです。

「どうした、八。あの役者は戻つたか」

「戻るわけはありませんよ」

「何？」

「今朝三味線堀に死骸が浮かんだんですもの。念入りに横腹を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゑぐ</span>られて」

「何んだと」

「行つて見て下さい」

八五郎は荷が勝過ぎて泣き出しさうです。

「よしツ、今日は間違ひもなく曲者を擧げてやる」

「曲者？　親分はお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>や大村喜十郎を殺した下手人がわかつてゐるんですか」

「わかつて居るつもりだ。――お前は元鳥越へ廻つて、巾着切の辰三を誘つて來てくれ。下手人の顏見知りの者がほしい」

「誰です、その下手人は？」

「阿波屋浪太郎だよ」

「あツ、成る程、房州へ行つたといふのは嘘で」

「當り前だ。――ついでに言つて置くが、曲者は三味線堀の現場に來て居るに違ひない。俺が右手をあげて<ruby><rb>髷節</rb><rt>まげぶし</rt></ruby>を叩いたら、――宜いか、相手は誰でも構はない。お前のすぐ側に居る人間を三味線堀に突き飛ばせ」

「へエ？」

「縛らうなどと、手柄をあせつちやいけないよ。お前の手にをへる曲者ぢやない。いきなり水の中へ突き飛ばすに限る」

「やつて見ませう」

八五郎と平次は、別々に三味線堀に向ひました。

平次が行き着いた時は、死骸は引揚げられて、土地の御用聞達が彌次馬を追つ拂つて居ります。蠅のやうな群衆は、役者の水死を珍らしいものでもあるやうに、追へども追へども去りません。

暫くすると、八五郎と巾着切の辰三が來ました。

「親分、見當がつきましたか」

八五郎はキヨトキヨトして居ります。大村喜十郎の死骸よりも、平次が指揮する曲者の顏を一刻一瞬も早く見付け度い樣子です。が、平次はなか〱定めの合圖を送りませんでした。町役人や、土地の御用聞を相手に、全く無駄と見える<ruby><rb>應酬</rb><rt>おうしう</rt></ruby>を交して居るのです。

「親分」

八五郎は我慢のならない聲を掛けました。どう見たところでその邊には、下手人と思はれる阿波屋浪太郎の姿はありさうもなく、心細いことに、彌次馬は次第に追ひ散らされて、八五郎の傍には、誰も居なくなりさうです。いや、巾着切の辰三は、薄馬鹿見たいな顏をして立つて居りますが、これが、好い男の金持の阿波屋浪太郎でないことは、隣り町に住んでゐる八五郎がよく知つて居ります。

「あツ」

平次の手が頭の上にあがりました。八五郎の傍に曲者が居るといふ合圖です。が、左右前後を見廻しても、曲者らしい者は一人も居ず、辰三がたつた一人、<ruby><rb>水面</rb><rt>みづも</rt></ruby>を眺めてぼんやりして居るのです。

「八、馬鹿ツ」

平次の叱咤が耳許に聽えます。八五郎の頭には、初めて智慧が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めきました。曲者はこの<ruby><rb>跛足</rb><rt>びつこ</rt></ruby>で<ruby><rb>眇目</rb><rt>めつかち</rt></ruby>の、不景氣な巾着切の外にはありません。

「野郎ツ」

八五郎は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>に構へを直すと、力任せに、辰三を突いたのです。<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>は三味線堀の水、間違ひもなく、その水の中に落ちたと思ひきや、

「あ、ブブ、ブ」

どぶんと水に落ちたのは、突いた方の八五郎で、危ふく身をかはした辰三は、平次の方をチラリと見ると、サツと逃げ出すのです。

「待てツ」

珍らしく平次の手から錢が飛びました。その錢は辰三の左の頬を打つと、辰三は思はず、惡い方の眼をクワツと開いて、

「馬鹿<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>ツ」

<ruby><rb>動搖</rb><rt>どよ</rt></ruby>み打つ群衆の中へ、サツと飛び込むのです。

平次と群衆が、その跡を追つたことは言ふまでもありません。三味線堀は幸ひに淺く、彌次馬に手を引かれて、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く岸に這ひ上つた八五郎は、濡れて足に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まる袷を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かなぐり</span>捨てて、獵犬のやうにその後を追ひました。

<ruby><rb>跛足</rb><rt>びつこ</rt></ruby>だつた筈の辰三は、跛足でも何んでもなく、その逃げ足の素早さには、平次も彌次馬も追ひ付けさうにありません。が、三味線堀からは遠くない元鳥越の、路地の奧へ飛び込んだことは、誰の眼にも見えて居ります。

「親分」

<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く八五郎も追ひつきました。

「八、宜い<ruby><rb>鹽梅</rb><rt>あんべえ</rt></ruby>だ。お前は多勢の人達と、この路地を入つて、辰三の家を搜せ」

「親分は」

「俺は他に見度いところがある」

辰三の家を彌次馬と八五郎に任せて、平次は表通りを大廻りに、反對側の門前町の、阿波屋の店へ入りました。

「あ、錢形の親分」

番頭の金三郎の驚くのを、眼で<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>つて、奧の方を<ruby><rb>凝</rb><rt>ぢつ</rt></ruby>と見て居ると、六疊の床に掛けた、<ruby><rb>壽</rb><rt>じゆ</rt></ruby>老人を畫いた安物の大幅が動いて、その後ろから、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を持つた、巾着切の辰三が、ヌツと顏を出したではありませんか。

「<ruby><rb>黒旋風</rb><rt>こくせんぷう</rt></ruby>、もう澤山だらう、お繩を頂戴しろツ」

その前に立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がつた平次。

「何をツ」

それは激しい爭ひでした。が、豫てこの大捕物を豫期した平次は、久し振りの錢を飛ばして、その匕首を封じ、大骨折で組敷いたことは言ふまでもありません。

「あ、こんなところに拔け穴があつたのか」

その時、壽老人の幅の後ろから、遲まきの八五郎が顏を出して、まだ夢から覺めないやうに、眼などをこすつて居るのです。

×　　　　　　×　　　　　　×

阿倍川町のお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>の家から、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびたゞ</rt></ruby>しい小判が出て來ました。蛇、蛙、な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めくぢ</span>の暗號は、地下に埋めた小判の<ruby><rb>目印</rb><rt>めじるし</rt></ruby>に置いた、庭石の恰好で、この暗號のない金は、<ruby><rb>黒旋風</rb><rt>こくせんぷう</rt></ruby>の辰三とお久良が、盜るに従つて費つたものでせう。

黒旋風の辰三は、大村喜十郎と仲のよくなつたお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>を殺しましたが、その盜んだ大金を預けてある場所がわからないために、平次を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おびき</span>出して千兩に上る金の隱し場所を探させるために、八五郎を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">をとり</span>に使つたのです。

阿波屋浪太郎は辰三の變裝で――いや、辰三が浪太郎の變裝と言つた方が適當でせう。繃帶で膝を卷いて<ruby><rb>跛足</rb><rt>びつこ</rt></ruby>と見せ、左の眼に<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>付け油を塗つて、<ruby><rb>眇目</rb><rt>めつかち</rt></ruby>と見せたのです。平次が八五郎に合圖をして、それを三味線堀に突き落さうとしたのは、<ruby><rb>僞</rb><rt>にせ</rt></ruby>の跛足を見破るため、左の頬を錢で打つたのは、僞眇足の眼を開かせるためでした。

大村喜十郎が殺されたのは『阿波屋浪太郎と、巾着切の辰三と同じ人間』と見破つて、それを平次に教へようとしたのを、辰三が<ruby><rb>覺</rb><rt>さと</rt></ruby>つたためで、大村喜十郎のこの樣子を覺つたのは、路地の中で待つて居た辰三の外にはありません。平次はこの時、はつきり辰三の正體を見破つたのです。

辰三が、弱氣の巾着切と見せかけたのは、大盜の正體を隱すためで、善人らしく立廻つて柄にもない僞善的なことをするより、小盜人の<ruby><rb>諜者</rb><rt>てふじや</rt></ruby>と見せたのは、辰三の<ruby><rb>惡賢</rb><rt>わるがし</rt></ruby>こさでした。八五郎の甘さがそれにうま〱と引つかゝつたのです。