## 一

「へツへツ、へツへツ、隨分間拔けな話ぢやありませんか」

ガラツ八の八五郎が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たが</span>が外れたやうに笑ひながら、明神下の平次の家に笑ひ込むのです。

世間はまだ松が<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>れたばかり、<ruby><rb>屠蘇</rb><rt>とそ</rt></ruby>の香りがプンプンとして居やうといふ時ですから、笑ひながら來る分には、腹も立ちませんが、それにしても、かう不遠慮にやられては、御近所の衆が<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶします。

「八の野郎がまた、ゲラゲラ笑ひながら舞ひ込んで來たやうだ。火鉢の中へ<ruby><rb>唐辛子</rb><rt>たうがらし</rt></ruby>でも<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>して置け」

平次は苦々しく舌打をしますが、實は久しく顏を見せなかつた八五郎を、心の中では待ち<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れてゐたのです。

「それには及びませんよ。――可笑しいの可笑しくねえの――つて、へツへツ」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた野郎だ。挨拶もせずに、笑つてやがる」

「相濟みません。尤も、元日早々御年始には來た筈で」

「挨拶は年に一度で濟む氣で居やがる。――何がそんなに可笑しいんだ。俺はもう、腹が立つて、腹が立つてたまらねえが」

「まだ正月だといふのに、何をそんなに腹を立てるんです。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はもう、面白くて可笑しくて」

「俺はまた<ruby><rb>癪</rb><rt>しやく</rt></ruby>にさはることばかりだよ。暮に拂へなかつた<ruby><rb>店賃</rb><rt>たなちん</rt></ruby>を、三つまとめて大家のところへ持つて行くと、苦しいのはわかつてゐるから、そんな無理をするには及ばない、改めて盆にでも貰ふからと、そつくり返して來たぢやないか」

「へエ、それで腹が立つんですか、親分は」

「人を見<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くびる</span>にも程があるよ。一人で腹を立てて居るところへ、八丁堀の笹野樣から、今年の正月は役向きの方が忙しくて、呼んで呑ませる折もなかつたから――と、屆けて下すつたのは、三升」

「へエ」

「<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじ</rt></ruby>つてばかり居る俺が、この酒が呑めるか呑めねえか考へて見ろ」

「そんなに癪にさはる酒なら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が身代りに頂きますよ。三升もあると、ちよいと良いお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しめり</span>になりますね」

「<ruby><rb>舌嘗</rb><rt>したな</rt></ruby>めずりをして居やがる。――その上あれを聽かないか、九月十五日の神田祭を待ち兼ねて、金があつて、暇で〱仕樣のない旦那衆が、<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の若いのを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おだて</span>て、<ruby><rb>妻戀稻荷</rb><rt>つまこひいなり</rt></ruby>の後ろの大野屋を借り受け、<ruby><rb>初午</rb><rt>はつうま</rt></ruby>の日に世直しの稻荷祭りの大騷ぎをやらかさうといふ<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>みだ」

「惡くねえ話ぢやありませんか。その話なら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>も掛り合ひがあるが」

「半月も前からの稽古で、夜も寢つかれやしない。飛んだ世直しだよ」

平次が腹を立てるのも無理のないことでした。江戸の有閑人達は、景氣が良いにつけ惡いにつけ、お祭り騷ぎをして、呑む機會を作らなければ、この世の中は張合ひがないやうな氣がするのでせう。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が笑つたのは、そのお祭りに出る<ruby><rb>所作事</rb><rt>しよさごと</rt></ruby>の話ですよ」

「そんな話なら、可笑しくも何んともないぢやないか」

「親分は――その日の所作に、坂屋のお<ruby><rb>妙</rb><rt>たへ</rt></ruby>が、新作の『江口』を踊るといふ話を聽いたでせう」

「坂屋のお妙といふのは、あの女か」

「へエ、あの女で」

この邊では、たゞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あの</span>女で通る坂屋のお妙は、妻戀稻荷の横に住む、何んとか流の踊りの<ruby><rb>師匠</rb><rt>ししやう</rt></ruby>ですが、それは滿身に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たぎ</span>る魅力を踊りにかこつけて<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らし、山の手一帶を桃色に興奮させるやうな大變な女でした。

「お妙が何を踊らうと、お前が可笑しがるわけはないだらう」

「それが大ありで、『江口の君』といふのは、昔々大昔の<ruby><rb>華魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>だ。一<ruby><rb>休</rb><rt>きう</rt></ruby>樣と掛け合ひの歌を詠んで、<ruby><rb>普賢菩薩</rb><rt>ふげんぼさつ</rt></ruby>に化けた――」

「お前の話は少し<ruby><rb>頓珍漢</rb><rt>とんちんかん</rt></ruby>だよ。普賢菩薩が、衆生濟度のために、江口の<ruby><rb>遊君</rb><rt>いうくん</rt></ruby>に現じたといふ話だらう」

「そんなことはどうだつて構ひませんよ。兎も角も、坂屋のお妙はその江口の君とやらになつて、象に乘つて所作事をする」

「普賢菩薩なら、象に乘るのは當り前だが、今時江戸に象は居ないよ、――それを豚の子で間に合せるとでも言ふのか」

「ところが、象が居るんですよ。――親分も知つて居るでせう、金澤町の岡崎屋三十郎、昔は大した家柄だが、近頃は商賣の方がいけなくなつた上、五年越しお妙に入れあげて、近頃はその日にも困るといふ、大變な落<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちぶれ</span>やうだ」

「その岡崎屋三十郎が象になるといふのか」

「貧乏はしてゐるが、二十三貫といふ、水ぶくれの三十郎だ。裸になればそつくりその儘<ruby><rb>白象</rb><rt>びやくざう</rt></ruby>ぢやありませんか。お妙がその上へ横乘りになつて、江口の遊女姿で、精一杯の色氣を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らす<ruby><rb>趣向</rb><rt>しゆかう</rt></ruby>と聽いて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はもう、可笑しくて、可笑しくて、ウ、フ、フ、フ」

八五郎は三十郎が素つ裸になつて、象の振り宜しく、お妙に御せらるゝ馬鹿々々しさを考へて、たまらず腹を抱へるのです。

## 二

岡崎屋三十郎と、踊りの師匠のお妙との關係は、平次も一應は聽いて居りますが、八五郎の説明で、その馬鹿々々しさが強調されて行くのでした。

お妙といふのは、五六年前何處からともなく流れて來た女で、素姓も人柄もわかりませんが、その藝は兎も角として、男好きのする非凡な魅力を持つて居たので、代る〲パトロンがつき、二三年のうちに、大變な人氣を集めてしまひました。色白で背が高くて、バネの入つたやうな身體――それは、<ruby><rb>昆蟲</rb><rt>こんちう</rt></ruby>の美しさと、毒々しさと、そして限りない魅力の表現でした。

年は、何年か前から、二十五と言つて居りますが、本當のことは誰にもわかりません。皮膚は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くす</span>んだ眞珠色で、眼は赤ん坊のやうに、清純で<ruby><rb>碧々</rb><rt>あを〱</rt></ruby>とさへして居りました。こんな眼は<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>り知ることの出來ない、智慧と情慾とをかくして居ることでせう。

この女の最初の印象が、童女のやうに清らかなのは、その碧ずんで見える眼と、唇の素晴らしい<ruby><rb>曲線</rb><rt>カーブ</rt></ruby>のせゐだつたでせう。肉色に<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せてゐるくせに、右左へ卷き上がるやうに食ひ込んだ曲線の美しさは、尊い佛の慈悲の相とも見られ、三千年の<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>をたゝへた、ハガードの妖女の、邪惡な唇とも見られるでせう。

この女のために、<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>をいけなくしてしまつた男は、何人あるかわからず、この女のために、命を失つた男も何人かはある筈です。かうした女は、男の怨みが燃えさかれば燃えさかるほど、その美しさを<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>へ上げられ、男の血を流せば流すほど、その智慧が<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しくなることでせう。

「何しろ、大變な評判ですよ。あの女の命を狙つて居るのが、ちよいと勘定しただけでも、五人や三人はある中で、<ruby><rb>尻</rb><rt>けつ</rt></ruby>の毛まで拔かれたやうな、岡崎屋三十郎をこの寒空に裸にして、その背中の上で<ruby><rb>所作事</rb><rt>しよさごと</rt></ruby>をやらかさうと言ふのだから、これが無事に行きましたら、お目にかゝりたいくらゐのもので、へツへツ」

八五郎は下司な笑ひを笑ふのです。

「岡崎屋三十郎は、そんな馬鹿なことを承知したのか」

「大喜びですよ。――さうでもしてやつたら、お妙が喜ぶだらうと」

「――」

「男が馬鹿になると、手の付けやうがありませんね。――神田で何番と言はれた岡崎屋を、一とたまりもなく身代限りをさせた上、女房のお美乃は乞食同樣になり、自分も落ちるところまで落ちてしまつて、その日にも困る仕儀になつても、まだあの女の後を追つかけて、野良犬のやうに尻尾を振つてゐるとは、何んといふことでせう」

「――」

「その上二十三貫の親豚のやうに肥つた身體を、裸になつた上、生身に白粉を塗つて、赤い腹掛に<ruby><rb>涎掛</rb><rt>よだれがけ</rt></ruby>をし、<ruby><rb>立兵庫</rb><rt>たてひやうご</rt></ruby>に髮を上げた、<ruby><rb>裲襠姿</rb><rt>うちかけすがた</rt></ruby>のお妙を乘せて、振事をやるといふから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は笑つて笑つて笑つてやりましたよ。あんまり笑つたんで涙が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぼれ</span>た程で」

八五郎はさう言つて、惚れた者の哀れさを<ruby><rb>輕蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>するより、武士の情け見たいな悲痛な顏をして見せたりするのです。

「そこまで行くと氣の毒だな」

「他人の私でさへ可笑しくて、腹が立つて涙がこぼれますよ。乞食よりもひどい恰好で、取拂つたもとの店のあとに、犬小屋のやうな物置に住んでゐる、三十郎の女房。昔は岡崎屋の内儀のお美乃が、齒ぎしりして口惜しがるのも無理はありませんね」

「お<ruby><rb>妙</rb><rt>たへ</rt></ruby>には<ruby><rb>配偶</rb><rt>つれあひ</rt></ruby>はないのか」

「木之助といふ<ruby><rb>野幇間</rb><rt>のだいこ</rt></ruby>のやうな野郎が、昔の亭主だつたと言ひますが、これも一と身上をつぶした上、上方から追つかけて來て、今では、時々お妙の家を覗いて、お小遣にあり付いて居るやうだから、大した睨みも利きやしません。尤も余つ程痛いところを握つて居ると見えて、この男が貰ひに行くと、お妙も嫌とは言へないやうで」

「それつきりか、お妙には身寄りも何んにもないのか」

「妹が一人ありますよ。お菊と言つて十八の、良い娘ですが、これは又姉のお妙の妹とは思へぬ不縹緻で、眞つ黒で、横太りで、朝から晩まで、下女代りに働いて居まさア――姉のお妙は二十五と言つても、二つや三つはサバを讀んでゐるだらうが、妹のお菊は十八と言つても、うけ合ひ二十二三には見えますよ。――尤も本當の姉妹でないといふ話もあるが、そこまではわかりません」

「――」

「外には、安五郎といふ男が一人居ます。下男だか庭掃きだか、居候だか知らないが、二十二三のこれは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のつぺり</span>した野郎だ。尤も生れは、松前とか奧州とか、餘つ程北の方で、<ruby><rb>訛</rb><rt>なまり</rt></ruby>がひどいから、話は半分しかわかりません。鼻の曲つた<ruby><rb>鮭</rb><rt>さけ</rt></ruby>みたいな野郎だが、色が白くて背が高くて、飛んだ好い男ですよ」

「それつきりか」

こんな馬鹿々々しい話を、平次は神妙に聽いて居りました。<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しく美しい踊り手お妙をめぐつて、何んとも説明の出來ない豫感があつたのです。

## 三

二月四日の<ruby><rb>初午</rb><rt>はつうま</rt></ruby>、妻戀坂の大野屋に、底拔けの遊びが始まりました。江戸の有閑人たちは、名目さへ立てば、時も處も構はずに、茶番狂言、お<ruby><rb>温習</rb><rt>さらひ</rt></ruby>、手踊り、素人芝居――と、果てしもなく享樂を追ひ求めるのでした。

それは、權力と因習に押し付けられてゐる、日頃の<ruby><rb>屈托</rb><rt>くつたく</rt></ruby>に對する、僅かな息拔きでもあり、若い娘達を集めての、戀の狩人達の冒險でもありました。

その日の番組の馬鹿々々しさと、賑やかさは、今更語るまでもないことでせう。番數も進んで、夜の<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）近くなつて、<ruby><rb>大切</rb><rt>おほぎり</rt></ruby>に出したのは、坂屋のお妙の踊る『江口の君』新作の踊りで、一休襌師には、名ある歌舞伎役者が附合ひ、一流の出語り、贅澤過ぎるほどの舞臺裝置、大道具小道具にも<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を盡して、大野屋の大廣間の幕が開いた時は、集まる客の數は百人を超し、思はず歡聲をあげたのも無理のないことです。

金糸銀糸の<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬひとり</rt></ruby>をほどこした<ruby><rb>裲襠</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>、天地紅の<ruby><rb>玉章</rb><rt>たまづさ</rt></ruby>を、サツと流して、象の背に横樣に乘つた<ruby><rb>立兵庫</rb><rt>たてひやうご</rt></ruby>、お妙の美しさは、人間離れのしたものでした。

その<ruby><rb>普賢菩薩</rb><rt>ふげんぼさつ</rt></ruby>を乘せた白象といふのは、二十三貫の大男、全身に白粉を塗つて、赤い<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>をした岡崎屋三十郎の、<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>くも淺ましい姿です。振事が眞面目であれば眞面目であるほど、人々の<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうせう</rt></ruby>は、潮が去來するやうに、夜の空氣と、<ruby><rb>囃子方</rb><rt>はやしかた</rt></ruby>の鳴物を壓して、どつ、どつと波打ちます。

その間にも普賢菩薩のお妙が、人間象の背の上で、兎もすれば安定を失つて、見物がドツと笑ふのが、囃子方の鳴物や、<ruby><rb>地方</rb><rt>ぢかた</rt></ruby>の唄を壓して、氣が遠くなるほど、夜の空氣を搖すぶります。

「たまらねえな、こいつは」

見物に交つた八五郎は、<ruby><rb>兩手</rb><rt>りやうて</rt></ruby>を揉み合せて、獨り<ruby><rb>悦</rb><rt>えつ</rt></ruby>に入るのを、並んで見て居る平次が何遍<ruby><rb>肱</rb><rt>ひぢ</rt></ruby>で突いたかわかりません。

普賢菩薩のお妙が、象から滑り落ちさうになると、あわてて、その象の首に<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>みつきます。普賢菩薩のお妙の神々しいばかりの美しさに<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べて、三十郎の象の顏が、何んと<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>く淺ましいことか。

「八、もう歸らうよ。こいつは見ちや居られないよ」

平次もさすがに嫌になりました。惚れ拔いて、金も見識も、見榮も命も要らなくなつた男の、世にも淺ましい見本を見せられるやうな氣がして、<ruby><rb>吐氣</rb><rt>はきけ</rt></ruby>を催すやうな胸の惡さを覺えたのです。

やがて振事が濟んで、最後の見得になりました。舞臺正面、描いた後光の前に立つて、江口の君なるお妙が、昇天の<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>の形になるのですが、鳴物につれてその座に直ると、

「あつ」

お妙の普賢菩薩が、三十郎の白象の背から、ズルズルと滑り落ちたのです。舞臺の上に飛び散る血。

「どうした、師匠」

お妙の身體を抱き起したのは、白象の三十郎でした。續いて、ドツと立ち騷ぐ人垣、鳴物も踊り手も後見も、不意の出來事に驚きながらも、この美しい<ruby><rb>犧牲</rb><rt>いけにへ</rt></ruby>を、八方から<ruby><rb>擔</rb><rt>かつ</rt></ruby>きあげたのです。

「どうしたどうした」

「目を廻したのか」

「いや、刺されたのだよ」

大勢の手で抱き起されたお<ruby><rb>妙</rb><rt>たへ</rt></ruby>は、最早頼み少ない姿です。

やゝ遠く距れて、踊りを見て居た平次と八五郎は、立ち騷ぐ人々を掻きわけて、一瞬のうちに、お妙のところへ飛び付いて居りました。

「退け〱、皆んな<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いてくれ」

平次がさう言ふのにつれて、

「まご〱しやがると掛り合ひだぞ。お妙を殺した<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>は、この中に居るに違ひない」

八五郎は、彌次馬を追つ拂ふ<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>を心得て居ります。

## 四

あとに殘つたのは、白象の三十郎と、お妙の後見をして居た、妹のお菊と、それから平次と八五郎の四人でした。

「醫者だ、醫者だ、早く、早く」

八五郎が<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>ると、大野屋の若い者が心得て飛んだ樣子です。

三十郎の腕の中に、ガツクリと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うな</span>垂れたお妙は、もう最後の<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>に、僅か生命の名殘りを止めるだけでした。不思議なことに、傷は二つ、白くて丸い右の喉笛に突つ立つたのは、ヒヨロヒヨロした<ruby><rb>楊弓</rb><rt>やうきゆう</rt></ruby>の矢で、もう一つも同じやうな楊弓の矢、これは左の眼の下をかすめて、後ろ幕の裾に落ちて居るのでした。

矢は二本共<ruby><rb>楊柳</rb><rt>やなぎ</rt></ruby>の枝で造つた本格のもの、どんな急所を射たところで、人の命などを奪れさうな代物ではありませんが。

醫者が來る前に、お妙の命は絶えました。平次はそつと喉笛に突つ立つた、楊弓の矢を引拔いて見ると、これは何んと、唯の楊弓の矢と違つて、その根は一種の<ruby><rb>鏑</rb><rt>かぶら</rt></ruby>になり、毒蛇の首のやうに、不氣味なフクラミを持つて居るのです。

醫者を待つてゐるうちにも、三十郎の悲嘆は目に餘りました。裸になつて、赤い<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>をしめて、赤い腹掛をかけ、全身に白粉を塗つた三十男が、見榮も外聞もなく、女の死骸を掻き抱いて、ワアワア泣き騷ぐのです。

それも、義理や誤魔化しで泣くのではなく、聲をあげて泣く姿は、<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>へやうもなく<ruby><rb>醜怪</rb><rt>しうくわい</rt></ruby>で、八五郎などは、

「確りしろ、大の男が何んといふザマだ」

などと、間違つたやうな顏をして、二つ三つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どやし</span>付けた程でした。

やがて驅けつけた醫者は、金澤町の<ruby><rb>奎庵</rb><rt>けいあん</rt></ruby>といふ五十年輩の坊主頭でした。お妙が死んで居るのを見て、

「あ、たうとう」

醫者に似氣ない、<ruby><rb>含</rb><rt>ふく</rt></ruby>みのあることを言ひます。

「奎庵先生、これはどうしたことでせう。楊弓の矢で、人間が頓死をする筈はなく、それに、眼の下も喉も急所は除けて居るし、この通り血がいくらも出ないところを見ると、命に<ruby><rb>拘</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はる傷ぢやないと思ふが――」

平次がさう聽くのも無理のないことでした。

「尤もだが、錢形の親分。よく見てくれ、この喉へ突つ立てた矢は、唯の矢ぢやないよ」

「？」

「矢尻が、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>の吸口のやうになつて居るだらう、――この<ruby><rb>鏑</rb><rt>かぶら</rt></ruby>の中になにか入つて居るに違ひあるまい」

「？」

「嗅いで見るが宜い、少し<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>臭いやうだ。ね、その通り。そこで、その鏑の中へ、松前のアイヌが熊狩りに使ふといふ、毒をつめたとしたら、どういふものだらう。これくらゐの傷で、人一人殺すのは、毒矢の外にないが」

「どうして、そんなものを？」

平次もあまりのことに、二の句が繼げません。

「毒は――南蠻物でなければ、アイヌが使ふといふ、<ruby><rb>鳥兜</rb><rt>とりかぶと</rt></ruby>の根を煉つて、膏藥のやうにしたものだ。――それを誰がやつたか、其處まではわからない。では、あとのことは、錢形の親分に頼みましたよ」

醫者の奎庵は、一人呑込んで立去つてしまひました。

「親分、お客樣をどうしたものでせう。これだけ多勢居るんだから、皆んな調べたひにや、夜が明けてしまひますよ」

舞臺の不氣味さを<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けて、家中の隅々に、思ひ〱に集まつて、言葉少なに樣子を見てゐるのが、ざつと百二三十人もあつたでせう。八五郎がさう言ふのを聞いて、多勢の眼が平次の方に向ひました。

「皆んな歸してくれ、いつまでも引留めちや氣の毒だよ」

「大丈夫ですか、この中に下手人が交つて居るに違ひないんだが」

「大丈夫だとも、出來心でやつた人殺しぢやない。あとで<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>つたところで、差支はあるまい」

「さうでせうか」

八五郎は不安でしたが、それでも平次がさう言へば、一應歸す外はありません。

## 五

多勢の客を歸したあとが、平次の舞臺でした。殺されたお妙と、深い關係のあるものだけ、五六人を殘して、平次の調べは其處から始められたのです。

大野屋の大廣間、晝から外神田一圓を見おろして、なか〱の景色ですが、火鉢を一カ所に集めて、殘された人達は、寒々とした顏を集めて居ります。

平次はその隣りのいつもは<ruby><rb>樂屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>に使ふ八疊を借りて、一人づつ呼出して見ました。

第一に呼出されたのは、當夜の<ruby><rb>勸進元</rb><rt>くわんじんもと</rt></ruby>で、この<ruby><rb>催</rb><rt>もよほ</rt></ruby>しの金主で、お妙のパトロンになつて居る、神田鍛冶町の金貸、佐渡屋金兵衞。これは五十五六のいかにも迷惑さうな、そのくせやゝ高慢な感じのする<ruby><rb>禿頭</rb><rt>はげあたま</rt></ruby>でした。

「いやもう迷惑なことで、――あの女は浮氣で剛情で、手のつけられない女でしたが、御存じの通り、千人に一人といふ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>で、親分の前だが、大した女でしたよ」

非凡な素質に惠まれた、稀代の妖婦お妙を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>つて、佐渡屋金兵衞は惜しさうに<ruby><rb>舌嘗</rb><rt>したな</rt></ruby>めずりをするのです。

こんな野郎があるから、世の中が面白くないんだ。――さう言つた心持で、<ruby><rb>禿茶瓶</rb><rt>はげちやびん</rt></ruby>を睨んで居る八五郎は、飛びかゝつて横つ面でも張り倒しさうな氣組でした。

「そのお妙を怨んでゐる者も少なくないやうだが」

平次が穩かに訊くと、

「そりやもう、お妙を殺したいほど怨んでるのは、私の知つてるだけでも五人や六人ぢやありません。先の亭主の木之助などは、いつか一度は殺して見せると言つて居たさうで、その癖時々お小遣をせびりに來るのだから、内々はお妙大明神だつたかも知れませんよ」

金兵衞の話は妙に行屆いて、氣になるほど機微を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ちます。

「それから？」

「象になつた岡崎屋三十郎さんはあの通り、お妙のために、大きな<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>を潰した上、女房にも別れ、恥も外聞もない身になりながら、いまだにお妙にヘバリついて、泣いたり口説いたり、この寒空に裸になつたり、――惚れた男といふものは、淺ましいものですね。尤もあれはお妙を殺す氣なんかありやしません。燒いて粉にして酒で飮む方で、へツ、へツ」

「――」

金兵衞がヘラヘラ笑ふと、八五郎はでつかい<ruby><rb>拳骨</rb><rt>げんこつ</rt></ruby>を拵へて、夜の空氣の中に、<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りを生ずるほど振り廻して居ります。

「お妙を一番怨んで居るのは、三十郎さんのお神さん、もとの岡崎屋の内儀のお美乃さんでせうよ。あれだけの店まで賣つて、その跡に小屋をかけ、乞食のやうな暮しをして居るのですから」

「下男の安五郎と、妹のお菊は？」

「安五郎も、お妙に氣があるんでせうな。給金なしで、あんなに働いて居るくらゐだから。お菊の方は、ありや、妹といふのは嘘で――顏を見たつてわかるでせう。妹分といふことにして、下女の仕事をさせて置くのは、人を使ふ秘傳ださうで、これはお妙が自慢をして居りましたよ。――時々貰い物の菓子か、お<ruby><rb>菜</rb><rt>かず</rt></ruby>のお<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>わけでもやれば、給金がなくても、喜んで働いてくれるとね。――尤も、禿頭の私がその眞似をしたところで、私共の店では、奉公人は三日と居付いちやくれません、綺麗な女は得ですね。へツ、へツへツ」

ヘラヘラ笑ひを殘して、金兵衞が去ると、八五郎は楊弓の矢を二本持つて來て、眼の色を變へて平次にさゝやくのです。

「ね、親分。この矢を<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>の下でよく見ると、<ruby><rb>矢筈</rb><rt>やはず</rt></ruby>の下の<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>の上に、金文字で『岡三』と書いてありますよ」

「何んだと」

「岡崎屋三十郎は、まだ暮しのよかつた頃楊弓に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>つて、かなりの腕前だつたさうですよ。あの野郎ぢやありませんか」

八五郎の鼻は<ruby><rb>蠢</rb><rt>うご</rt></ruby>めきます。

「いや、背中にお妙を乘せて居て、楊弓を射られるわけはない」

「さう見えばさうですが」

「お前は岡崎屋三十郎の家を知つてるだらうな」

「知つてますとも」

「あの内儀をそつと連れて來てくれ。嫌がるかも知れないが」

「やつて見ませう。お妙が殺されたんだから、せめて、その<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>でも見てやれとか、何んとか言つて」

「餘計な<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>をするな。――どうしても嫌だと言つたら、亭主の三十郎が、お妙殺しの疑ひで、縛られるかも知れないと言へ」

大呑込みで八五郎は飛んで行きます。

續いて、お妙の前の亭主であつたといふ、木之助が呼出されました。

これは七つ下がりの<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>を引摺るやうに着て、小紋の羽織を引つかけた、三十二三の青黒い男で、昔は隨分好い男でもあつたでせうが、病身と貧乏に押負かされて、ヒヨロヒヨロになつて居る癖に、色氣と慾だけは、存分に身について居ると言つた感じの男です。

「お妙があんなことになつて、良い氣味でしたよ。――さう言ふと私が下手人見たいですが、――飛んでもない。あの時私はお帳場で、大野屋の番頭さんと話して居たんですから、どんな口を利いても、疑はれる心配はありません。――あの女は、あんな最期を遂げるのも約束事ですね。浮氣で慾張りで、男をゴミほどにも思つて居ませんでした。現に、お菊や安五郎はうまい事を言はれて、三年越し唯で奉公してゐるし、あの女の爲に身代をいけなくした男は何人あるか、勘定しきれません。――私はあの女の弱い尻を知つてゐるので、大きい聲で言ひ觸らされるのがいやさに、蚊の涙ほど<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>いで居ましたが、水の手がきれさへすれば、私だつて殺す氣になつたかもわかりません」

木之助の言ふことは、まことにヌケヌケして居りますが、その口幅つたい言ひ草から考へても、下手人らしくはありません。

## 六

下男の安五郎は、見事な男でした。少し<ruby><rb>縮</rb><rt>ちゞ</rt></ruby>れつ<ruby><rb>毛</rb><rt>け</rt></ruby>で、背が高くて色白で、<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の跡が青々として、なか〱の男前です。

言葉はひどい<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>りで、半分は聽き取り兼ねましたが、そのメラメラと燃えるやうな眼や、唇の赤さなど、男にしては珍らしい特徴です。

「お前は何處の生れだ」

「<ruby><rb>松前</rb><rt>まつまへ</rt></ruby>で生れましただよ。――江戸へ來て二年になりますだ。給金は貰はねえが、時々お小遣は貰ひました。――師匠さんは、良い人だつたよ、誰にでも親切で――」

ボツリボツリと噛んで吐き出すやうな言葉です。

「奉公人なら身許引受人はある筈だが」

「そんなものはゐねえだ。給料を貰わねえから、身許なんか、何んだつて宜かんべえ」

なるほど、さう言つた理窟もあるでせう。

その次に呼んだのはお妙の妹と言ふお菊でした。十八九、――どうかすると二十歳以上にも見える頑丈な娘で、横肥りの赤ら顏の、申分なく<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>いくせに、何處かに娘らしさがあり、その<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>さが、妙に人の好感を誘ひます。

「房州の生れですが、親はありません。奉公してから三年になりますが、お師匠さんはよくして下さいました。『私は一人ぽつちで親も姉妹もないから、妹分になつて、お互ひに助け合つて行かうぢやないか』とお師匠樣が言つて下すつて、それから三度の食べ物も、一緒に頂きました。そして私も、給金を頂かずに、働くことにいたしたのでございます」

この話の中には、何やら<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないものがありますが、平次はそれはそれとして、

「お前は下男の安五郎をどう思ふ」

突然こんなことを訊くのです。

「さア、別に」

「お前達の間に、何にか約束があつたのではないかな」

「いえ」

お菊は眞つ赤になつて、平次の引留めるのも構はず、隣りの部屋に逃げ込んでしまひました。

その隣りの部屋、皆んなが待機してゐる、曉近い大廣間には、此の時、一と騷ぎが始まつて居りました。

「嫌、嫌だといふのに、この人は何んといふ解らない人だらう。貧乏はして居ても、私はまだ三十前だよ。こんな<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>をして、人の前へ出られるかどうか、考へて見ておくれ」

さう言つて、入口の戸に<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>みついたまゝ、必死の抵抗を續けるのは、二十五六の見すぼらしい女でした。みすぼらしいといふにも程度がありますが、<ruby><rb>二子</rb><rt>ふたこ</rt></ruby>の柄も<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>もわからぬ腰卷の上に、ヨレヨレの<ruby><rb>印半纒</rb><rt>しるしばんてん</rt></ruby>を引つかけて、猫の百<ruby><rb>尋</rb><rt>ひろ</rt></ruby>のやうな三尺帶、髮は<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>だらけで、蒼黒く痩せた顏は、この世の者とも思へぬ凄まじさです。

「何を言ふんだ。お前の亭主の三十郎は、お妙殺しの下手人で、縛られかけてゐるんだぜ」

「嫌だつたら、嫌さ。私はもうあの人の顏なんか、見たくもない。處刑臺に乘りや、宜い氣味ぢやないか、畜生ツ」

女だてらにこんな口をきいて、入口の敷居の前に坐り込んだまゝ、必死と八五郎に反抗するのです。

## 七

その時平次は、岡崎屋三十郎の調べを始めるつもりで、大廣間に入つて來ました。白象になつた三十郎は、さすがに肌寒かつたものか、小女が持つて來てくれた、自分の着物を肩に引つ掛け、お妙の死骸の側に、首うな垂れて居ります。

大の男が<ruby><rb>痴呆</rb><rt>ちはう</rt></ruby>と醜體の限りを盡して、たいして恥入る風もありませんが、それでも時が經つにつれて、曉方の風が身に沁みると、いくらかは本心を取戻した樣子です。

「錢形の親分、――聽いて下さい。皆んな申し上げますが」

三十郎は平次の顏を見ると、急に正氣づいたやうに<ruby><rb>膝行</rb><rt>ゐざ</rt></ruby>り寄るのでした。

「どうしなすつた、岡崎屋さん」

平次は少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わざ</span>とらしく丁寧に應へました。

「私を縛つて下さい、錢形の親分。お妙を殺したのは、この私でございます」

三十郎は立ち上がつて、平次の袖に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付かうとしましたが、興奮して見當が外れたものか、空を泳いで、ペタリと尻餅をつくのです。

「何を言ふのだ、三十郎さん」

「私は、お妙の<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>に、勝手にされ過ぎました。この上あの女を生かして置いちや、生きながら地獄の底まで<ruby><rb>陷</rb><rt>お</rt></ruby>ち込むに違ひないと思ひ、一と思ひに、手馴れた楊弓で射殺しました。お妙を殺したのは、この三十郎に間違ひもありません。その證據は楊弓の矢には<ruby><rb>金蒔繪</rb><rt>きんまきゑ</rt></ruby>で一々私の名が『岡三』と描いてあります。さア、この私を、――私を縛つて下さい」

三十郎は一生懸命でした。<ruby><rb>藻掻</rb><rt>もが</rt></ruby>くやうに平次に縋りついて、赤ん坊見たいに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わめく</span>のです。

「何を言ふのだ、楊弓の矢はお妙の眼の下をかすつただけだぜ」

「いえ、もう一本の矢が――」

「その矢は、<ruby><rb>鏑</rb><rt>かぶら</rt></ruby>になつた<ruby><rb>矢尻</rb><rt>やじり</rt></ruby>が重いから、楊弓ぢや飛ばない」

「それを私は、手に持つて、お妙の<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>の喉へ突つ立てました。私が」

「その矢を、踊りを踊る間、何處に隱してゐたんだ」

「私の、象の腹掛の下へ」

「嘘を言つちやいけない。腹掛の下に隱せば、矢尻の毒が腹掛へ附く筈だ。矢の根は<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>のやうにベトベト<ruby><rb>粘</rb><rt>ねば</rt></ruby>つて居るぜ」

「でも」

「お妙を背中に乘つけて、楊弓を射られるわけはないし、毒矢を隱す場所がないとわかると、――」

「いえ、私が殺しました。あの阿魔は、踊りが濟めば掴み殺して、一緒に地獄へ落ち込む氣で居ました」

三十郎は今度は本當に、身を顫はせて泣くのです。

が、その時、もう一つの事件が發展しました。入口の敷居際で、八五郎と爭ひ續けて居た、三十郎の女房のお美乃は、遙かに三十郎の樣子を見ると、八五郎の手をかい潜つて、今度は、<ruby><rb>尻切半纒</rb><rt>しりきればんてん</rt></ruby>のまゝ、自分から進んで大廣間に飛び上がるのです。

「お前さん、――私だよ、私だよ。家から楊弓を持出して、あの女を射たのは。私はあの女の眼を<ruby><rb>射潰</rb><rt>いつぶ</rt></ruby>して、片輪にしてやりたかつたのだよ。皆んな踊りに夢中になつて居る隙に、私は雨戸の隙間から、あの女の眼を狙つたのだよ。――眼には當らなかつたけれど、あの女は、たうとう死んでしまつたぢやないか、天罰だよ、天道樣は無駄には光つちや居ない。サア、あの女を殺したのは、亭主なんかの意氣地無しぢやない、この私だよ。錢形の親分、縛つておくれ。<ruby><rb>磔刑柱</rb><rt>はりつけばしら</rt></ruby>を背負はされたつて、私は<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>には思はない」

「本當か、矢つ張りお前がやつたのか」

「さア、私はもう、――」

お美乃はこの時始めて、側に居る亭主の三十郎を意識したやうに、すがり付いて、大泣きに泣くのです。

暫くの間平次は、三十郎とその女房の、感情の激動を眺めて、何んにも言はずに居りました。五六人殘つた關係者は、大廣間の隅に引つ込んで、劇の一と<ruby><rb>齣</rb><rt>こま</rt></ruby>を眺めるやうに、この不思議な夫婦の演出を見て居ります。

「もう宜い、――二人共歸つてくれ」

「？」

「お妙を殺したのは、二人のうちの、<ruby><rb>何方</rb><rt>どつち</rt></ruby>でもないよ。二人は何處へも行かずに、あのもとの岡崎屋跡の小屋へ歸るのだ。一文<ruby><rb>商</rb><rt>あきな</rt></ruby>ひでも始めるなら、お妙へ入れ揚げた講中へ、奉加帳を廻して少しくらゐの<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>は集めてやるぜ。――今までのことは夢とあきらめて、今日から<ruby><rb>新規</rb><rt>しんき</rt></ruby><ruby><rb>蒔直</rb><rt>まきなほ</rt></ruby>しに踏み出すんだ」

「――」

三十郎とお美乃は、平次にさう言はれると、始めて自分に立ち<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>つた樣子です。

「それぢや」

二人は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うなづき</span>合ひました。そして、手を合せて平次の方を拜んで居る三十郎を、女房のお美乃が引立てるやうに、縁側から霜の降りた曉天の往來へ、いそ〱と姿を隱すのです。

「八、もう歸らうか」

「へエ？」

それを見送つて平次も立ち上がりました。

「夜の明けきらねえうちに歸つて、熱い茶でも呑んで寢るとしようか」

「下手人はどうするんです？　親分」

「この裁きは、閻魔樣に任せるよ。どりや」

平次は八五郎を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して、人々の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けゞん</span>な顏に見送られるやうに、霜の道を踏み出すのでした。

×　　　　　　×　　　　　　×

道々の八五郎の不服らしさ。

「大丈夫ですか、親分。お妙を誰が殺したんです。下手人は？」

「もう宜いよ八。下手人は手に手を取つて逃げ出してしまつたよ」

平次は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けろり</span>としてこんなことを言ふのでした。

「すると、あの、三十郎とお美乃の――」

「いや違ふ。三十郎は何んにも知らないし、お美乃はお妙の眼を射潰したかつただけさ。楊弓の矢は外れて、お妙は顏をやられただけだ。――<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>の手ぎはぢや、少し遠過ぎたから、無理もないが」

「すると曲者は？」

「楊弓の矢尻を<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>へて、毒を仕込んだ<ruby><rb>鏑矢</rb><rt>かぶらや</rt></ruby>で、お妙の首筋を刺した人間が下手人さ」

「へエ？」

「あの鏑矢は重いから、楊弓では四五間もある庭先から飛ぶ筈はない。三十郎は裸に赤い腹掛一つで、あんな重くて長いものを隱し持つてる筈はないし、あとは、お妙の側に居たのは誰だと思ふ」

「さア？」

「氣がつくまい。――踊りの後見をして居た、お菊だよ」

「あの妹分の？」

「妹分といふことにして、三年も唯でコキ使はれた上、深く言ひ<ruby><rb>交</rb><rt>かは</rt></ruby>した好い男の安五郎を横取りされると、十八や十九の娘でも、ツイ<ruby><rb>取逆上</rb><rt>とりのぼせ</rt></ruby>せるよ。松前から來た安五郎が、熊狩の毒を持つて居るのを知つて、それをそつと持ち出し、岡崎屋の三十郎が、いつかお妙のところへ持つて來て忘れて行つた、楊弓の矢の根を、<ruby><rb>鏑矢</rb><rt>かぶらや</rt></ruby>の根と入れ換へて、その中に毒を仕込んだのだらう」

「それぢや、引つ返して、あの安五郎とお菊を縛りませう」

「止せ〱、二人はもう奧州街道へ踏み出したよ。松前へでも落ち延びて、熊の子と一緒に暮す氣だらう。――俺が三十郎夫婦を調べて居る頃、手に手を取つて逃げ出したやうだ」

「すると親分」

「お前は默つて居ろ。餘計なことを言ふと、俺がまた笹野の旦那に小言を言はれる」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れたものですね」

「俺も呆れて居るよ」

「もう一つ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わから</span>ねえことがあるんだが、――毒を仕込んだ、<ruby><rb>鏑矢</rb><rt>かぶらや</rt></ruby>の根は、何處から持ち出したんでせう」

「お宮へ行けば、鏑矢の一本や二本は何處にでも奉納してあるよ。深川の三十三間堂へ行つて見ねえ、半堂や四半堂に使ふ、子供<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">づかひ</span>の鏑矢まで<ruby><rb>納</rb><rt>をさ</rt></ruby>めてあるぜ。毒を射込むには、あんな良いものはありやしない」

「成る程ね」

「本矢は持つて歩けねえから、鏑矢の根だけ取つて、楊弓の矢に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はめ</span>たのさ」

「器用なことをやつたもので」

「側に居る者を殺すんだから、それくらゐの工夫は要ることだらうよ」

平次の家はすぐ其處、女房のお靜は寢もやらずに、二人の歸りを待つて居るのでせう。