## 一

深川熊井町の廻船問屋板倉屋萬兵衞、土藏の修覆が出來上がつたお祝ひ心に、出入りの<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>佐太郎を呼んで、薄寒い<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の月を眺めながら、大川を見晴らした、二階座敷で呑んでをりました。

<ruby><rb>酌</rb><rt>しやく</rt></ruby>は醗酵し過ぎたやうな大年増、萬兵衞の<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>でお常といふ、昔は隨分美しくもあつたでせうが、朝寢と美食と、不精と無神經のために、見事に脂肪が蓄積して、身體中のあらゆる關節に<ruby><rb>笑靨</rb><rt>ゑくぼ</rt></ruby>の寄るといつた、大變な大年増でした。

「あれまア、月が」

などといひながら、<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>の方へよち〱<ruby><rb>膝行</rb><rt>ゐざ</rt></ruby>つて、<ruby><rb>品</rb><rt>しな</rt></ruby>を作つて柱に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>むとそのまゝ『美人欄に寄るの圖』にならうといつた――少なくとも本人はさう信じて疑はない<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>の女だつたのです。

九月十三夜の赤銅色の月が、洲崎十萬坪あたりの起伏の上に、夕靄を破つて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬツ</span>と出る風情は、まことに江戸も深川でなければ見られない面白い景色でした。

「成程こいつは良い。深川に生れて深川に育つても、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こちとら</span>の長屋の縁側からぢや、お隣りの物干が邪魔をして、こんなお月樣は拜めねえ」

棟梁の佐太郎は、主人萬兵衞と一緒に一本あけて、ホロツと來た樣子でした。氣性も身體も引緊つた四十男、そのくせお<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>の新造といはれてゐる萬兵衞の妾のお常の豐滿な魅力には、妙に誘惑を感じてゐるらしく、席を立つて女の背後に行くと、頬と頬とが觸れるやうに欄干に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて、パンパンと柏手を打つのです。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とくい</span>先のお妾に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちよつかい</span>を出すのと、お月樣を拜むのとは、全く別な人格と意圖とに出ることで、一緒にやらかしても、一向良心に恥ぢないのが、この時代の<ruby><rb>市井</rb><rt>しせゐ</rt></ruby>人のモラルでした。

わけても佐太郎は、四十過ぎの分別者のくせに、好い男で浮氣者でもあつたのです。

「お月樣は明日の晩も出るよ、――さア、親方の好きな熱いのが來たぜ」

萬兵衞は後ろから聲をかけました。西に殘る<ruby><rb>夕映</rb><rt>ゆふば</rt></ruby>えと、東から昇る月の光をたよりに、まだ灯は點けませんが、お常と佐太郎の如何はしい態度は、醉つた萬兵衞からもよく見えます。

「へエ、相濟みません。折角の十三夜だから、揚幕から出たお月樣を褒めてあげなきや」

佐太郎はそんな下らない<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>をいひながら、席に戻つて杯を擧げます。

「私は知つての通り酒が弱いから、とても親方と附き合つちや行けない、――ちよいと横になるから」

二本目の徳利から、一口呑みかけた<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちよこ</rt></ruby>を下に置いて、萬兵衞はお常の膝を引き寄せて横になりました。五十を越したばかり、痩せて骨張つてはをりますが、精力的で金儲けが上手で、一代に江戸でも何番といはれた富を築いただけの<ruby><rb>強</rb><rt>したゝ</rt></ruby>かさがあります。

その時番頭の忠助は、燭臺を持つて下から昇つて來ました。これは三十五六の柄の大きい、ぽーつとした感じの男ですが、調子にはなか〱<ruby><rb>如才</rb><rt>じよさい</rt></ruby>ないところがあります。

「ちよいとお邪魔いたします」

忠助は縁に吊した三つの提灯に灯を入れて、フト主人の方を振り返りましたが、

「旦那、どうかなさいましたか。ひどくお顏色が惡いやうですが」

物々しく萬兵衞の顏をさし覗くのです。

「先刻から胸が惡くて叶はないよ。酒は親方と一本あけただけだが」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は何んともありませんがね。何んかお晝に召上がつたものでも惡かつたんぢやありませんか」

「さア、そんな心當りもないが」

主人の萬兵衞は、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたひ</rt></ruby>に脂汗を浮べて、眞つ蒼な顏をしてをります。が、酒好きの佐太郎は、それには構はず、三本目の徳利を一人であけて、四本目が欲しさうな顏をしてをります。

その間にも萬兵衞は胸をかきむしつて苦しみ藻掻き、<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>に這ひ寄ると、大川尻の水の上へ、したゝか吐きました。ところが、ひどく元氣だつた相手の<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>佐太郎も、その頃から苦しみ始め、これも七轉八倒の末、同じやうに吐いて、半刻ばかりのうちに、棟梁の佐太郎一人だけが死んでしまつたのです。

不思議なことに早く苦しみ出した主人の萬兵衞は、散々吐いた後は落着いた樣子で、佐太郎が息を引き取つた頃は、起き上がつてその容體などを訊ねるくらゐに元氣づいてをりました。

萬兵衞の養子の幸吉は、自分で飛んで行つて、町内の本道石原全龍をつれて來ましたが、その時はもう手遲れで、佐太郎を助ける道はなく、一應萬兵衞の手當をして歸りましたが、

「佐太郎は<ruby><rb>砒石</rb><rt>ひせき</rt></ruby>の中毒だ。<ruby><rb>石見</rb><rt>いはみ</rt></ruby>銀山鼠捕りかなんか、酒へでも入つてゐたのだらう。これは御檢屍を受けなければなるまい」

さういひ<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>した不氣味な言葉が、養子の幸吉、番頭の忠助の心持を暗くします。

「全龍先生を追つ驅けるのだ。忠助どん早く、――金で濟むなら――家から繩付を出したくない」

主人の萬兵衞は、苦しさを忘れて起き上がりました。

## 二

それから十日、<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>佐太郎の娘お萩といふのが、明神下の錢形平次の家へ、精一杯の心持で飛び込んで來たのです。

<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>といふにしては、ひどく若く見えるのは、小柄なのと、身扮の<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>なのと、それに一生懸命さの興奮のせゐでせう。

お勝手口へ來て、シクシク泣いてゐるのを、平次の女房のお靜が見つけて、なだめすかして訊くと、父親が殺されたに違ひないのに、食物の中毒で死んだことにされ、町役人も土地の御用聞も、取上げてくれないので、噂に聞いた錢形の親分にすがるつもりで、<ruby><rb>遙々</rb><rt>はる〲</rt></ruby>深川からやつて來たといふのです。

「可哀想ぢやありませんか。表口から入るのを遠慮して、お勝手口で泣いてるやうな内氣な娘なんですもの。會つて話を聽いた上で、力になつてあげて下さい」

女同士の思ひやりから、娘の<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>を直さしたり、泣き濡れた顏を洗はせたりして、お靜はお萩を夫の前へ押しやるのでした。

「どうしたといふのだ、一應話して見るがいゝ。お前は父親が殺されたと思ひ込んでも、矢張り食<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>りで死んだのかも知れない。いきなり深川まで出しや張つて、恥を掻くのも變なものだ、――尤もことと次第では隨分力になつてやらないものでもないが――」

平次の態度は、いつもの通り消極的でした。側で聽いてゐるガラツ八の八五郎の方は、<ruby><rb>居住</rb><rt>ゐずまゐ</rt></ruby>を直したり、額を叩いたり、長んがい<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を撫で廻したり、話を聽く前からもう、一方ならぬ興奮です。

お萩の話はたど〱しいものでしたが、根が悧發な娘らしく、父親の死んだ驚きの中にも、いろ〱の人の話をかき集めて、どうやらその夜の出來事を<ruby><rb>彷彿</rb><rt>はうふつ</rt></ruby>させるのでした。

「そいつは氣の毒だが、それだけぢや手のつけやうがない、――醫者はなんといつてゐるんだ」

檢屍が濟んで、<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひまで無事に運んだものを、もとに返して調べることは、御用聞風情の平次にはできないことです。

「でも、町内のお醫者の石原全龍樣が、最初石見銀山の毒死に違ひないといひながら、御檢屍のときは、お<ruby><rb>刺身</rb><rt>さしみ</rt></ruby>かお酢の物の中毒だらうといつたさうで」

「そんな馬鹿なことがあるものか」

八五郎は横合ひから口を挾みました。

「石原樣が、板倉屋からお金を貰つて、よい加減なことを申上げたに違ひないと、御近所の衆も申します」

「そいつは<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこ</rt></ruby>醫者の<ruby><rb>大藪</rb><rt>おほやぶ</rt></ruby>醫者だらう」

八五郎はまたいきり立ちます。坊主頭に黄八丈の<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>、黒<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の羽織に短かいのを一本きめて、讀めさうもない漢文の<ruby><rb>傷寒論</rb><rt>しやうかんろん</rt></ruby>を<ruby><rb>懷</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にし、幇間と仲人を渡世にしてゐる醫者は、その頃の江戸には少なくなかつたのです。

「默つてゐろよ、八、――ところで、人を殺さうとするほどの大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">それ</span>たことは、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>や冗談ではできることではない。板倉屋の主人とお前の父親を殺して、得をする者の心當りはないのか」

平次は靜かに訊ねました。

「――」

お萩は首をかしげました。が、娘心には、そんな恐ろしい<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>らみのある顏が<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>りさうもありません。

「お前にはわかるまいよ、――俺が出る幕にはまだ早い。八五郎をやつて、一應調べさして見よう」

「――」

お萩は不足さうでしたが、それでもさすがに、口には出しません。

「なア、八。お前が行つて持前の鼻をきかせるがいゝ」

「幇間醫者をうんと<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かしてみませうか」

八五郎はスタートに並んだ競馬馬のやうに<ruby><rb>彈</rb><rt>はず</rt></ruby>みきつてをります。

「そいつはお前の手には<ruby><rb>了</rb><rt>を</rt></ruby>へまいよ。それより板倉屋の内輪のことを調べてみるが宜い。その妾のお常の身持、番頭忠助の評判、養子の幸吉と主人萬兵衞の仲など、氣になることがあつたら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とことん</span>まで調べ拔くのだ。どうかすると、惡者は主人萬兵衞を殺す氣でやつたことかも知れない。<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>にも毒酒を呑ませたのは、なんかの誤魔化しかも知れないぢやないか、――幸ひ主人萬兵衞は、酒が弱いので助かつたといふこともあるだらう」

平次のコーチはさすがに行屆きます。

お萩はこれ以上平次に頼むこともならず、お靜に慰められて、しを〱と歸つて行きます。涙が乾いて、興奮が納まると、青白く<ruby><rb>引緊</rb><rt>ひきしま</rt></ruby>つた顏が、江戸娘らしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きかん</span>氣を匂はせて、多い髮も、赤い唇も、なか〱の魅力です。

「それぢや、行つて來ますよ親分」

その後ろから、懷ろを十手で突つ張らせた八五郎、照れ臭さうでもあり、嬉しさうでもあります。

## 三

「親分、困つたことになりましたよ」

あの張り切つて深川へ出向いた八五郎が、ぼんやり戻つて來たのは、それから三日目の晝頃でした。

「何を困つてゐるんだ。<ruby><rb>財布</rb><rt>さいふ</rt></ruby>でも落したといふのか」

錢形平次は相變らずの不精煙草です。

「財布なんか落したつて驚きやしませんよ。<ruby><rb>憚</rb><rt>はゞか</rt></ruby>りながら百も入つちやゐないんで」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた野郎だ、――それともあの娘に<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>かれたとでもいふのか」

「それなら、願つたり叶つたりで――實はね親分、肝心の娘が<ruby><rb>行方不明</rb><rt>ゆくへしれず</rt></ruby>になつてしまつたんです」

「何時のことだ、それは？」

平次もさすがに驚きました。事件は決して單純ではあるまいと思ひましたが、あの娘が姿を隱したとあつては容易のことではありません。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>ですよ。お萩の叔母のお紺といふ、出戻りの四十女が青くなつて飛んで來ましたよ」

「お前はどこにゐたんだ」

「八幡前の專次の家に泊つてゐると、<ruby><rb>亥刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>（十一時）過ぎに、氣違ひのやうに戸を叩くぢやありませんか。――姪のお萩が久し振りに町内の<ruby><rb>丁子湯</rb><rt>ちやうじゆ</rt></ruby>へ行つて、それつきり歸らず、氣を揉んで丁子湯へ行つてみると、お萩はザツと流して、間もなく歸つたといふんださうです。それから二た刻も經つてゐるのに、お萩はどこへ行つたかわからず、死んだ兄の佐太郎の弟子で、佐太郎の家にゴロゴロしてゐる久治と二人、心當りを精一杯に搜したが、それつきり行方不知になつてしまつたといふんです」

「今朝になつても出て來ないのか」

「へエ、さうなんで」

「縁起のよくねえことだが、殺された樣子もないのか」

「海も川も鼻の先だが、船を出して一と通り搜しても死骸は見えませんよ」

「お萩に男はなかつたのか」

「あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>ですもの、いひ寄つた男や、<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れてゐる男は何十人あるかわかりやしません」

「何を隱さう、八五郎もその一人だつてね」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はいひ寄られた方で」

「呆れた野郎だ。お前は長生きするよ」

「ところで、何んの話でした？」

八五郎は掛合ひ話に氣を取られて、話題を忘れてしまつた樣子です。

「あの調子だ、――お萩に男がなかつたか、それを訊いてるぢやないか」

「あの娘に夢中なのは、隨分澤山あるやうですよ。中でも首つたけの二人」

「誰と誰だ」

「板倉屋の養子幸吉と、佐太郎の弟子の久治。あの男はお萩と同じ屋根の下に住んでゐるわけだが」

「その二人は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>どこにゐたんだ」

「<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>久治は叔母のお紺と家にゐたに違ひはないし、板倉屋の若旦那の幸吉は、番頭の忠助と月末の帳合に忙がしく、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）近くまで<ruby><rb>夜業</rb><rt>よなべ</rt></ruby>をしてゐたさうです」

八五郎の話が本當なら、お萩の行方不知に關することだけは、佐太郎の弟子の久治も、板倉屋の養子の幸吉も疑はしい節は少しもありません。

「ところで、お前の方の調べはどうなつたんだ。板倉屋と<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の佐太郎を怨んでゐる者の見當でもついたのか」

平次は話題を變へました。三日前に八五郎を深川へやつたのは、お萩を見張らせるためではなくて、板倉屋の毒殺事件を調べさせ、佐太郎を殺した下手人を擧げさせるのが目的だつたのです。

「困つたことに、それが少しもわかりませんよ。板倉屋の主人萬兵衞は年甲斐もなく<ruby><rb>女癖</rb><rt>をんなぐせ</rt></ruby>が惡く、三年前に内儀が死んでからは、後添えも貰はずに亂行續きですが、金がうんとあつて太つ腹で、人に怨まれるやうな人間ぢやありません。尤もあの<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まとも</span>な廻船問屋で三年や五年にできるわけはないから、内々拔け荷でも扱つてゐるんぢやないか――とこれは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やきもち</span>半分の町内の評判ですがね」

「拔け荷か」

「それに女癖の惡いことは深川一番で、妾のお常なんかどこの馬の骨ともわかりやしませんよ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>喰ひの萬兵衞が、<ruby><rb>夜鷹</rb><rt>よたか</rt></ruby>か何んかの一番丈夫で<ruby><rb>脂臭</rb><rt>あぶらくさ</rt></ruby>くて、ブヨブヨしたのを拾つて來たんだらうといふ噂ですが、近頃その小汚いのに嫌氣がさしたやうで、出すとか出るとかブスブス<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>つてゐるさうです。尤もあのお常がまた大變な女で、少し毛並の良い<ruby><rb>雄</rb><rt>をす</rt></ruby>を見ると、すぐ尻尾を振つて<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>み付く癖があるんだつていひますが」

「大變な女だな」

「養子の幸吉は意氣地も働きもないのを取柄で貰はれて來たやうな男で、養父の萬兵衞との仲はあまり良くありません」

「番頭の何んとかいつたのは」

「忠助ですか。ノツソリしてゐる癖に、恐ろしく慾の深い男で、馬鹿見たいな悧口者ですね」

「それつきりか」

「醫者の石原全龍坊主は、思つたほどの大藪ぢやありませんが、そのうちに公儀から召出されて<ruby><rb>公方</rb><rt>くばう</rt></ruby>樣の糸脈を引くんだなんて<ruby><rb>大法螺</rb><rt>おほぼら</rt></ruby>を吹いてゐるところをみると、あんまり信用のできる醫者ぢやありませんね。その上板倉屋からは何百兩といふ借金があるやうで」

「ところで、殺された<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>佐太郎の内には弟子の久治と、お萩の叔母のなんとかいふのがゐる筈だな」

「佐太郎の妹で、出戻りの四十女。お紺といふ、ちよいと色つぽい中婆さんですがね。こいつは、江戸一番の<ruby><rb>金棒曳</rb><rt>かなぼうひき</rt></ruby>で、下女代りに兄の家の世話を燒いてをります」

「久治は？」

「これは好い男ですよ。氣前がよくて<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>が切れて、仕事が<ruby><rb>上手</rb><rt>じやうず</rt></ruby>で」

「大層褒めるぢやないか、まさか一杯おごられたわけぢやあるまいな」

「冗談で、――おごつたのは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の方ですよ、醉はして置いていろ〱聽かうと思つたが、なか〱口を割りません」

「よし〱、そんなことで澤山だ。お萩はいづれどこからか出て來るだらう。少し氣ながに見張つてゐるがよい」

「親分は？」

「俺は外に御用がある。大急ぎでそれを片づけて、明日、――遲くも明後日は行つてみる」

「さうですか」

「お萩を搜すのは、張合ひのある仕事ぢやないか。不足らしい顏をするな」

平次にからかはれながら、八五郎はまた深川へ取つて返しました。が、<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し事件はこれからが本當の山だつたのです。

## 四

平次はその翌々日の朝、ようやく身體の明いたのを幸ひ、八五郎との約束を果す氣になりました。

深川の熊井町に着いたのはもう<ruby><rb>巳刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）過ぎ、大川沿ひに建つた廻船問屋の板倉屋を覗くと、

「あ、親分、大變なことになりましたよ。今明神下まで飛んで行かうと思つたところで」

八五郎は鐵砲玉のやうに板倉屋の店から飛び出しました。

「どうした、八。借金取りにでも會つたのか」

「そんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つまらねえ</span>話ぢやありませんよ。こちらへ來てみて下さい」

八五郎は平次の手を引いてグングン川沿ひの庭の中へ入つて行くのです。

「どこへ行くんだ」

「これですよ、幸ひまだ檢屍前だ。川から揚げて半刻も經つちやゐません」

裏木戸寄りの凉み臺の上に水死人を載せて、さすがに<ruby><rb>荒筵</rb><rt>あらむしろ</rt></ruby>は遠慮したらしく、浴衣を掛けてあるのを取ると、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた中老人の死骸が、秋の陽の下に淺ましく<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>されるのでした。

「これは？」

「板倉屋の主人ですよ」

色好みで金儲けの上手だといはれた、板倉屋萬兵衞が、水死人になつて、自分の家の數寄を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らした庭の凉み臺に、檢屍の役人を待つてゐるのです。

「首筋から肩へかけて、大變な傷があるぢやないか、――それも生きてゐるうちに、<ruby><rb>鳶口</rb><rt>とびぐち</rt></ruby>のやうなもので突かれた傷らしいな。肉がはぜて、ひどく血も出た樣子だ」

平次は萬兵衞の死骸を丁寧に調べてをります。商人らしく地味な<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>單衣</rb><rt>ひとへ</rt></ruby>を着て、帶はきちんと締めてをります。さすがに衣紋は崩れて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みぞおち</span>のあたり、ひどく脹れてゐるのが目立ちます。

「でも、溺れて死んだには違ひありませんね。廻船問屋でもしてゐるくらゐで、泳ぎは自慢だつたさうですが」

「これだけの傷を受けちや、少しぐらゐ水の心得があつたところで、自由に泳げまいよ」

「ところで不思議なことがあるんですがね」

「何んだ」

「死體の着てゐる單衣の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から、こんなものが出て來たんです」

八五郎は懷中紙の間から、小型の<ruby><rb>黄楊</rb><rt>つげ</rt></ruby>の<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>櫛</rb><rt>ぐし</rt></ruby>を一つ出して見せました。そんなに古いものではありませんが、不思議なことに、その櫛の中程、齒へ堅く挾んで、五六本の長い柔かい髮の毛が、キリキリと巻き附けてあるのです。

「この櫛は誰のだ」

「誰のともわかりませんよ。まだ見つけたばかりで」

「いづれわかるだらう、――こいつは飛んだ證據になるかも知れないよ」

平次は死體から離れると、板倉屋の家の<ruby><rb>周圍</rb><rt>まはり</rt></ruby>を一と廻りしてみました。

さすがに見事な構へで、二階座敷が大川へ乘り出してゐるところは、十何日か前の晩に、<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の佐太郎と主人の萬兵衞が中毒騷ぎを起した座敷でせう。

塀の外の道は僅かに一間足らず、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろく</span>な<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>もないので、夜分などは川へ落ちないとは限りません。裏木戸の中には二た戸前の土藏が<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>を並べ、わけても一つは四十坪もあるでせう、如何にも嚴重で堂々として、板倉屋の富を物語つてゐさうです。

土藏と土藏の間に大きな物置があり、覗くとその中には、船の道具が雜然と並べてあります。

「八、これをどう思ふ」

平次はその奧の方から<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の手頃な<ruby><rb>棹</rb><rt>さを</rt></ruby>を拔き出しました。

「先の方が濡れてゐますね」

八五郎は尤もらしく顏を寄せます。物置の奧に入れてある棹が、心持濡れてゐるのは不思議ですが、八五郎にはそれ以上のことはわからない樣子です。

「<ruby><rb>石突</rb><rt>いしづき</rt></ruby>に血が附いてゐるぢやないか。よく見るがいゝ」

「あツ」

この邊りでは滅多に使はない、鐵の石突の着いた<ruby><rb>棹</rb><rt>さを</rt></ruby>ですが、その先の<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>に交つて、明かに洗ひ殘した血の痕がみえるのでした。

「人にいふな、<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>のこともこの棹の血も内證だぞ」

「へエ」

平次は外廻りはそれくらゐにして、家の中へ入ると、先づ妾のお常を呼び出して貰ひました。

「昨夜のことを<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく訊きたいな、御新造」

平次は六疊の縁側にかけたまゝ、遠く主人萬兵衞の死體を見ながら、かう始めるのでした。如何にも氣の置けない態度です。

「<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）時分でした。主人は何時ものやうに、土藏から家の廻りを見廻つて來るからと、提灯をつけて出て行きました。――その提灯は今朝藏の戸前の外に消したまゝ、ありましたが」

「確かに燃えきつてはゐなかつたのだな」

「新しい<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>を入れて行きましたが、一寸くらゐ減つてゐるやうです」

この女は恐ろしく無智らしい癖に、妙に行屆いたところがあります。

「夜の見廻りは丁寧で、どうかすると半刻もかゝることがありますが、それにしてもあんまり遲いので、<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>（十二時）近くになつてから、幸吉さんが樣子を見に出かけましたが、どこにも見えなかつたさうで、間もなく戻つて參りました」

「その前には誰も外へ出なかつたのか」

「これは主人を搜しに出たわけではありませんが、番頭の忠助どんが、――外で人聲がするやうだと、裏木戸を覗いた樣子でしたが、――なんでもない――といつて四半刻ほど見廻つてから歸つて來ました。<ruby><rb>亥刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>（十一時）過ぎだつたでせう」

「それから」

「一と晩大騷ぎをしましたが、なんにもわからず、たうとう朝になつてしまひ、八五郎親分も來てくれましたが、晝近くなつて、あの通りの姿で<ruby><rb>永代</rb><rt>えいたい</rt></ruby>の下に浮んださうで」

お常はそれでも涙を拭く眞似などをしてをります。

「お前とは仲が良かつたことだらうな」

平次の問ひは唐突でした。

「いえ、――近頃は喧嘩が絶えませんでした。どうかしたら私は近いうちに追ひ出されたかも知れません」

この女は恐ろしく正直です。が、考へて見ると仲が良かつたといつたところで、誰もそれを保證してくれる筈はなく、どうせ仲の惡さが知れるものなら、自分の口から正直にいふ方が、<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>いのかもわかりません。

「主人を怨んでゐるものはなかつたのか」

「飛んでもない。太つ腹な良い人でしたもの」

お常は強く否定します。

「この<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>に覺えはないか」

平次は八五郎から受取つた、死體の袂にあつたといふ<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>き櫛を見せました。

「いえ、少しも」

お常は極めて自然に無造作に頭を振ります。

## 五

養子の幸吉は小柄で一應は小才がきゝさうですが、こんなのは案外正直で、世間並で平凡過ぎる人間かもわかりません。

養父の萬兵衞と仲の良くなかつたことは、本人の幸吉も<ruby><rb>承認</rb><rt>しようにん</rt></ruby>してをりますが、あとはお常のいつたこと以上はなんにも知つてゐず、この男の賢さは附け燒刄で、個性も洞察も<ruby><rb>推察力</rb><rt>すゐさつりよく</rt></ruby>もなんにも持つてゐないことを、やがて平次も知り盡してしまひました。

「お萩が<ruby><rb>行方不知</rb><rt>ゆくへしれず</rt></ruby>になつた晩、お前は確かに店にゐたことだらうな」

「番頭と帳合に忙しくて、夕方から一歩も外へは出ません。忠助どんに訊いて下さい」

「その時主人はどこにゐたのだ」

「土藏の中でせう」

「何？」

「大きい方の土藏の中を修復して、書畫<ruby><rb>骨董</rb><rt>こつとう</rt></ruby>などを片付けるのださうで、一と月も前から<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の佐太郎一人だけを入れて働かせてをりました。私も番頭もお常さんでさへも、土藏へは入れないことになつてをりました」

「それはどういふわけだ」

「金銀などを扱ふから、人には見せたくないといつてをりました。あの晩も多分そんな片付けをしてゐたのでせう――<ruby><rb>親父</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>は夜分でもちよい〱一人で土藏へ行つて仕事をしました」

「近頃はすつかり元氣になつてゐたのだな。毒を呑まされたといつたが――」

「佐太郎親方はすぐ死にましたが、親父は翌る日はもう元氣になつてをりました」

「ところで、もう一つ訊きたいが」

「――」

平次は少し改まりました。

「お前は、お萩をどう思つてゐた？」

「どうといつて」

幸吉はパツと赤くなりましたが、そのまゝウヤムヤに言葉を<ruby><rb>濁</rb><rt>にご</rt></ruby>してしまひました。

次に會つたのは番頭の忠助でした。よく肥つた三十五六の男で、愛嬌のある顏、要領の惡い口調、一應はボーツとしたやうに見えて、思ひの外<ruby><rb>如才</rb><rt>じよさい</rt></ruby>がないところがあります。

「幸吉と父親の仲が惡かつたさうぢやないか」

「――」

「それにはわけがあるだらう。お前は知つてゐる筈だが」

平次の言葉には、なか〱掛引がありました。

「よく存じてをります。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つまらない</span>ことですよ」

「つまらないことゝいふと」

「若旦那が、<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の娘のお萩さんを嫁に欲しかつたんで、――唯それだけのことで」

忠助の言葉は妙に皮肉でした。

「主人を怨む者は他になかつたのか」

「あるわけはありません。あの通りの太つ腹で、奉公人も出入り職人も隨分<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>ほつてゐました。現にこの私など、<ruby><rb>多寡</rb><rt>たくわ</rt></ruby>が廻船問屋の番頭で、年に五兩か六兩の手當が當り前ですが、十兩の給金の外に、盆暮には十兩づつの御手當を貰つてをります」

「大層なことだな、――ところで、お前がこゝへ奉公して何年になる」

「たつた二年で――まだあの土藏の中へも一人では入れてくれません」

「板倉屋は拔け荷を<ruby><rb>拔</rb><rt>あつか</rt></ruby>つてゐるといふ評判を聽いたが――」

「飛んでもない親分、そんなことがあるものですか」

「ところで、お前はなにか知つてると思ふが、例へば棟梁の佐太郎が死んだ晩、酒の<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>は誰がつけたんだ」

「主人は酒がやかましくて、決して人に燗を任せませんでした」

「呑み殘した酒は調べたことだらうな」

「毒死でないと決つたので、殘つた酒はみんなで頂いてしまひましたが、中毒を起したのは一人もありません。――もう十二三日も前のことですが」

忠助のいふことにはなんの不思議もありません。

「ところで、お萩の行方不知になつた時、なにか變つたことに氣がつかなかつたか」

「なんにも氣が付きません」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、主人が外へ出た後で、お前は裏木戸を覗いたさうだが――」

「それを申上げようかどうしようか、迷つてをりました」

忠助は<ruby><rb>額</rb><rt>ひたひ</rt></ruby>を揉み込むやうに、ひどくいひ澁つてをりました。

「とも角いつてみるがいゝ。主人が死んだといふ大事な時だ、つまらねえ遠慮をして、下手人を逃がしてはなるまい」

「では思ひきつて申上げませう。――昨夜<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）頃、裏の方で人聲がいたしましたので、私は心配になつて出て見ました。それが佐太郎親方のところにゐる久治の聲で、ひどく怒つてゐる樣子なので、捨て置けない心持になつたのです」

「なに？」

「丁度私が裏木戸へ行つた時、なんか川へ落ちたやうな、大きな水音がしましたが、覗いて見ると、<ruby><rb>川岸縁</rb><rt>かしぶち</rt></ruby>には誰もゐませんでした。闇を<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して見ると、町の方へ人の逃げて行く足音を聽いたやうに思ひますが、確かなことはわかりません」

これは重大な證言でした。平次は默つて八五郎を振り返ると、心得た八五郎は獵犬のやうに、<ruby><rb>彈</rb><rt>はず</rt></ruby>みきつてどこかへ飛んで行きます。

「お前は川を覗いては見なかつたのか」

「まさか主人が落ちたとは氣がつきません。石でも投つたことと思つて、そのまゝ家へ入つてしまひました。――へエ外にゐたのはほんの一寸で」

「もう一つだけ聽いて置きたい」

「――」

「<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>佐太郎が死んだ時、お前は本道の全龍先生を追つかけて、その口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いだ筈だ。それを聽かうか」

平次の態度は容赦のないものでした。

「主人が苦しみながらも、全龍先生に百兩も握らせるやうに申しつけました。私は追つかけてその通りする外はなかつたのです」

忠助はかういひきるのです。主人萬兵衞が死んだ今となつては、最早遠慮する必要もないと思つたのでせう。

## 六

平次は八五郎の後を追つて棟梁の佐太郎の家へ行きましたが、肝心の久治は朝からどこかへ行つて歸らないさうで、八五郎はお萩の叔母のお紺と押問答の眞つ最中でした。

「留守なら、お前は暫らく見張つてゐるがよい。ところでお紺さん、この<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>に見覺えがあるだらうな」

平次は例の髮の毛を巻いた<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>き櫛を出して見せると、

「あ、どこにあつたんです。これはお萩が湯へ行くとき持つて行つた、あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>の梳き櫛に違ひありません」

四十前後、出戻りの叔母のお紺は、名代の<ruby><rb>金棒曳</rb><rt>かなぼうひき</rt></ruby>であるにしても、正直者で純情家らしい女でした。

「八、いよ〱大變なことになつたぞ」

「何が大變です、親分」

「もうひと息だ、――ね、お紺さん。これは大事のことだが、久治はお萩に夢中だつたんだね」

「それはもう親分さん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はた</span>で見てゐても、痛々しいやうでした。あの<ruby><rb>生</rb><rt>き</rt></ruby>一本の久治が、お萩のことといふと――」

「ところで、板倉屋の主人の萬兵衞は、お萩を奉公に出せとか何んとかいつたことなどがあるだらう」

「さうですよ、あの助平爺いがお萩を可愛がつて、――嫌らしいことはしないし、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>奉公といふわけではないから、小間使のつもりで奉公に出せつていふんです。兄は怒つてゐましたよ。でも<ruby><rb>不斷</rb><rt>ふだん</rt></ruby>お世話になるお店のことだし、ポンポン斷わるわけにも行かなくて、頭痛に病んでましたよ」

「それつきりか」

「板倉屋の旦那は夢中で、お常さんを出してもいゝとまでいふんですつて。でも兄もさすがに首を縱に振り兼ねて、愚圖々々してゐるうちにあんなことになつてしまひました」

お紺の話で、事件にまた新しい面が開けた樣子です。

「八、こゝは頼むぞ」

平次はそんなことにして、町内の醫者、石原全龍の家へ飛び込んだのです。

「何？　錢形の親分が來た」

庭先に飛び込んだ平次を、大坊主の全龍は、尤らしく縁先に迎へました。

「全龍先生、人間の命二つ三つに<ruby><rb>關</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はることだ。打あけてお話を願ひたいんだが――」

「何を打ちあけろといふのだえ、親分」

全龍は縁側に片膝を突いて、少し<ruby><rb>屹</rb><rt>きつ</rt></ruby>となります。

<ruby><rb>公方</rb><rt>くばう</rt></ruby>樣の糸脈を引く――と<ruby><rb>大法螺</rb><rt>おほぼら</rt></ruby>を吹くだけあつて、なか〱の<ruby><rb>見識</rb><rt>けんしき</rt></ruby>です。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は先生をどうしようといふ氣で來たんぢやありませんよ。ね、全龍先生。<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の佐太郎を殺し、お萩を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどはか</rt></ruby>し、板倉屋の主人を殺した曲者は、先生の言葉一つで、見當がつくのですぜ」

「それを私が知つたことか。冗談ぢやない、――それだけの用事なら歸つて貰はうか、親分」

全龍は以ての外の口振りです。

「ぢや、訊きますが、――佐太郎が死んだ晩、主人のいひ付けで、番頭の忠助が百兩の金を先生に渡した筈だ。あれはどういふわけで――」

「――」

「こいつを申立てると、先生の立場はイヤなものになりやしませんか」

「いや、さうまでいはれては仕方がない。實は、棟梁佐太郎が死んだのは、あれは<ruby><rb>砒石</rb><rt>ひせき</rt></ruby>中毒かも知れない――石見銀山鼠捕りでも呑まされたのだらうと一度は思つたが」

石原全龍もいや〱ながら打ちあけるのです。

「主人も同じことで」

「いや、主人の萬兵衞は違ふ。主人の容體は砒石の中毒ではない。だから私は表沙汰にしなかつたのだ。砒石の中毒はあんな手輕なものではない」

「それは？」

「主人は唯<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>いただけのことだ。容體は佐太郎に似てゐるが、これは確かに違ふ」

石原全龍は思ひも寄らぬことをいふのです。

「そんなに吐かせる藥はあるでせうか、先生」

「<ruby><rb>南蠻</rb><rt>なんばん</rt></ruby>物にはよく効く吐劑がある。南の方の國で取れる<ruby><rb>吐根</rb><rt>とこん</rt></ruby>などはその一つだが、なか〱手には入るまいよ、――だが、こいつは<ruby><rb>内證</rb><rt>ないしよ</rt></ruby>にして貰ひたい。親分が折角いふからかうでもあらうかといふところを話したまでだ。表向きは萬兵衞も佐太郎も、酢の物の中毒でやられ、運が惡くて佐太郎が死んだといふことになつてゐる」

「――」

平次はこの間に合せの<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこ</rt></ruby>醫者の面上に<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐きたいやうな氣持でしたが、とも角も打ち明けてくれたのをせめてものことにして、そのまゝ歸る氣になつたのでした。

<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の家へ引き返すと、八五郎が大工の久治の胸倉を取つて大騷ぎをしてをりました。

「親分、これはどうしたことです」

久治は平次の顏を見るといきなり救ひを求めるのです。

「八、手を放すな、――おい久治、お前は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>何をした」

「板倉屋の<ruby><rb>猅々爺</rb><rt>ひひぢぢい</rt></ruby>に會ひましたよ。でも、大川へ飛び込んだのはあの猅々爺の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せゐ</span>で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の知つたことぢやありませんぜ」

「なんだと」

「お萩ちやんを隱したのは、板倉屋の親爺に違ひないと思つて、あの岸縁をブラブラしてゐるとあの萬兵衞の猅々爺が、裏木戸から顏を出して、<ruby><rb>嫌味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>なことをいひながら突つかゝつて來るから『お萩さんをどうした』つて詰め寄ると、いきなり力任せに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>を突き飛ばすぢやありませんか――<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>は大川で後がねえ」

「お互ひの姿は見えたのか。月はなかつた筈だが」

「水明りで、結構相手の樣子がわかりましたよ。川を後ろに<ruby><rb>背負</rb><rt>しよ</rt></ruby>つてゐるんだから――その時、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は危ないと思つて身をよけると、萬兵衞親爺奴、突いて出た<ruby><rb>彈</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、もんどり打つて大川へ飛び込みましたよ、――相手は泳ぎが達者だと知つてゐるから、少し凉ませるのも<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>てゐるだらうと、そのまゝ後ろも見ずに歸つてしまひました」

久治の話にはなんの<ruby><rb>巧</rb><rt>たくら</rt></ruby>みがあらうとも思はれません。

「ところで、お前はあの邊へ時々行つたことがあるのか」

「飛んでもない、板倉屋の裏口ですよ、お萩ちやんのことでも心配しなきや、あんなところへ行くものですか」

「木戸の内に物置があつた筈だが――」

「あつたかも知れませんね」

久治から訊くことはそれで全部でした。が、平次は何を思ひ出したか小戻りして、

「<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の佐太郎が生きてゐるうち、板倉屋の仕事をしてゐたさうだが、何をやつたんだ」

妙なことを訊くのでした。

「大きい方の土藏の中に、なにかむづかしい<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>をしてゐたさうです。親方一人で引受けて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>なんか覗いて見たこともありません。板倉屋の人達も、近頃はあの藏の中へ入れなかつたさうです」

「それで解つたよ。八、來い」

「どこです、親分」

平次は八五郎をつれて、板倉屋へ取つて返したのです。

## 七

「八、あの野郎だ」

平次の指さしたのは、裏木戸のあたりをウロウロしてゐる番頭の忠助でした。

「あ、何をしやがるんだ」

八五郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もんどり</span>を打たせられました。忠助は思ひも寄らぬ腕達者だつたのです。

が、續いて飛びついた錢形平次は、さすがに<ruby><rb>汗</rb><rt>あせ</rt></ruby>も掻かずにこれを取つて押へました。

「この野郎」

その頭を押へて小突き廻したのは、投げられた<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさの八五郎です。

「畜生、俺は縛られるが、その代りお萩は死ぬぞ」

平次の膝の下に忠助は齒を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>くのです。

それは實に恐ろしい<ruby><rb>脅迫</rb><rt>けふはく</rt></ruby>でした。

「お萩のゐるところは、この俺が知つてるだけだ。俺が口を割らなきや、お萩の命は今日一日保つめえ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざまア</span>見やがれ」

「野郎」

八五郎はカンカンに腹を立てますが、大事な鍵を握られてゐるらしいので、どうにもなりません。

「八、驚くな。俺には見當がついてゐる」

平次は案外落着いてをりました。

「どこです、親分」

「あの大きい土藏の中だ。鍵はこゝにある。この番頭野郎が持つてゐたんだ、――お前が行つてもむづかしい、――久治を呼んで來い。餅は餅屋だ。あの男なら、死んだ<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>へた隱し戸棚かなんかを開けるに違げえねえ」

「よしツ、見てゐろ」

八五郎は棟梁の家へ飛びます。

久治をつれて來て、土藏の中へはいりましたが、その中に拵へた隱し戸棚を見つけることは容易でなく、それを開けるのにまた久治と平次は智慧を<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>けました。

ざつと一刻ばかり。ようやく開けたのは、土藏の一方の壁に造つた秘密の戸棚で、その中から出てきたのは、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびたゞ</rt></ruby>しい拔け荷、密輸入された物資――だつたのです。

珠玉、細工物、ギヤーマン、<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしや</rt></ruby>、それに南蠻物の<ruby><rb>生藥</rb><rt>きぐすり</rt></ruby>の數々。その中には萬兵衞が呑んだと思はれる<ruby><rb>吐根</rb><rt>とこん</rt></ruby>も、佐太郎を殺したと思はれる<ruby><rb>砒石</rb><rt>ひせき</rt></ruby>も交つてゐたことはいふまでもありません。

この隱退藏物資の山の奧に、半死半生の姿で、美しいお萩は隱されてをりました。<ruby><rb>餓</rb><rt>うゑ</rt></ruby>と<ruby><rb>苛責</rb><rt>かしやく</rt></ruby>とに疲れ果てて、最早助けを呼ぶ力もなく、僅かに顏を擧げて夢心地に、灯をかざしてゐる救ひの手の、誰彼の顏を眺めるのでした。

「お萩さん、助かつた。錢形の親分のお蔭だ」

久治は飛び込んで<ruby><rb>處女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>の弱り果てた身體を抱き上げたのです。二人は人の見る眼も忘れて濡れた頬を寄せます。

×　　　　　　×　　　　　　×

事件が落着してから平次は、相變らず繪解きをせがむ八五郎に、かう話して聽かせました。

「板倉屋の萬兵衞は、あの拔け荷の隱し場所に困つて、<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の佐太郎に隱し戸棚を拵へさせたが、うつかり口走られると、命がけの大事になるから、お月見に祝ひ酒を呑ませることにして、佐太郎を毒害したのだよ。毒は<ruby><rb>砒石</rb><rt>ひせき</rt></ruby>だ、二本目の徳利に入つてゐたのだ。最初の徳利はなんにも入つてゐないが、酒を呑む前に、萬兵衞は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>と<ruby><rb>吐根</rb><rt>とこん</rt></ruby>を呑んでゐた、――二本目の酒――毒の入つたのは佐太郎一人で呑んだかな。同じやうに<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>いても、主人萬兵衞に別條なかつた。うんと苦しさうな顏をしただけのことだ。かうして置けば誰も萬兵衞に疑ひはかけない」

「へエ、恐ろしい<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>らみですね」

「萬兵衞は佐太郎を殺して、あの若くて可愛らしいお萩を手に入れたかつたのだ。その上、妾のお常が佐太郎に氣のあるのが<ruby><rb>癪</rb><rt>しやく</rt></ruby>に障つたんだらう」

「お萩を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>いうかい</rt></ruby>したのは」

「矢張り主人の萬兵衞だ。お萩の湯の歸りを誘つて、半分は力づくで土藏につれ込み、隱戸棚に入れて、氣長に<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>いたのだらう。お萩は賢い娘だが、どうしても外の人に自分のことを知らせる工夫はない。散々考へた揚句、湯へ行くので持つてゐた<ruby><rb>黄楊</rb><rt>つげ</rt></ruby>の<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>櫛</rb><rt>ぐし</rt></ruby>に、自分の毛を五六本拔いて巻きつけ、萬兵衞の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>にそつと入れた。なにかの<ruby><rb>彈</rb><rt>はず</rt></ruby>みに誰か氣がついてくれるものがあるかも知れないと、萬一のことを頼みにしたのだらう――幸か不幸かその晩萬兵衞は殺されて、櫛はお前の手に入つた」

「その萬兵衞を殺したのは、久治ぢやなかつたのですね」

「久治は良い男だ。最初から人などを殺す氣はないが、――自分を川へ突き落さうとして萬兵衞があべこべに川へ落ちたのを見て、少し良い心持になつて歸つたことだらう、――番頭の忠助は木戸のところでそれを見てゐた。主人が岸へ這ひ上がらうとした時、<ruby><rb>豫</rb><rt>かね</rt></ruby>て心得てゐる物置の中から、<ruby><rb>石突</rb><rt>いしづき</rt></ruby>の附いた物凄い<ruby><rb>棹</rb><rt>さを</rt></ruby>を取り出し、思ひきり上から突き落したに違ひない」

「へエ」

「それは忠助のいつたことでわかつたよ」

「あの男は人聲がしたので裏木戸から覗いたといつたらう。その時、水音がして誰か町の方へ逃げて行つたといつた――その時はもう久治はゐなかつた筈だ――<ruby><rb>棹</rb><rt>さを</rt></ruby>を置く場所を久治は知つてゐる筈はないから、月のない夜に、それを取出せるわけはない。もう一つ忠助は外へ出て四半刻近くも歸らなかつたと、お常も幸吉もいつてゐるのに、本人の忠助はすぐ戻つたといつた。――それから忠助が無理に主人を褒めるのも變だし、これは後でわかつたが、金も隨分取り込んでゐるし、お萩も隱し戸棚へ主人が死んだ後では忠助が來たと言つてゐる」

「惡い奴ですね」

「あんな惡い奴はないよ。土藏の隱し戸棚のことは主人と仲の惡い養子の幸吉は知らないから、お萩を手に入れた上、あの拔け荷をそつと取り込むつもりだつたらう」

「成程ね」

「久治は良い男さ。いづれお萩と一緒になつて<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりやう</rt></ruby>の後を立てるんだらう」

平次は滿足さうでした。正直者が幸せになるのが、平次は何より嬉しかつたのです。