## 一

ガラツ八の八五郎が、その晩<ruby><rb>聟入</rb><rt>むこいり</rt></ruby>をすることになりました。

祝言の相手は金澤町の酒屋で、この邊では有福の聞えのある多賀屋勘兵衞。嫁はその一粒種で、浮氣つぽいが、綺麗さでは評判の高いお福といふ十九の娘、――これが本當の祝言だと、ガラツ八は十手捕繩を返上して、<ruby><rb>大店</rb><rt>おほだな</rt></ruby>の聟養子に納まるところですが、<ruby><rb>殘念乍</rb><rt>ざんねんなが</rt></ruby>らそんなうまいわけには行きません。

實際のところは、その晩聟入りの行列などを組んで歩いたら、命を奪られるかも知れないといふ、――眞實の聟、仲屋の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby><ruby><rb>錦太郎</rb><rt>きんたらう</rt></ruby>に頼まれて、いや〱乍らガラツ八は、聟入の贋物になることを引受けさせられてしまつたのです。

この頼みが持込まれたとき、さすが<ruby><rb>暢氣</rb><rt>のんき</rt></ruby>者のガラツ八も、再三辭退しました。が、錦太郎の頼みが如何にも眞劍で、涙を流さぬばかりに拜むのと、親分の錢形平次が、多賀屋の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>、主人勘兵衞の評判から、娘お福の行状、それから聟の仲屋の暮し向きから、錦太郎の人柄まで調べ拔き、『成程これは、うつかり祝言をさせられない』といふことが解り、自分からもガラツ八を説いて、『いざ三々九度の杯といふ時、<ruby><rb>眞物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>の聟の錦太郎と入れ替はらせるから』といふ條件で、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く聟入の<ruby><rb>僞首</rb><rt>にせくび</rt></ruby>になることを承知させたのでした。

祝言は多賀屋の身代にしては出來るだけつゝましやかに、當日の客は餘儀ない親類を五六人だけ、聟入りもほんの型ばかりといふことにして、僞首の八五郎が、<ruby><rb>仲人</rb><rt>なかうど</rt></ruby>寳屋祐左衞門夫婦に護られ、駕籠の垂を深々とおろして、多賀屋へ乘込んで行つたのは、秋の宵――<ruby><rb>酉刻半</rb><rt>むつはん</rt></ruby>そこ〱といふ早い時刻でした。

途中は平次の子分や、ガラツ八の友達が多勢で見護り、行列は先づ何の<ruby><rb>障</rb><rt>さは</rt></ruby>りもなく多賀屋の門口を入りました。紋切型の挨拶を上の空に聞いて、奧へ通されると親分の平次が、恐ろしく<ruby><rb>眞面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>腐つた顏をして迎へてくれます。

「どうだい八、滿更惡い心持ぢやあるめえ」

最初の平次の言葉はこんな調子でした。

「變な心持ですよ、親分」

「あやかりものだよ、――<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>け<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>にもう少しその儘にしてゐてくれ。眞物の聟は陽が暮れると直ぐ此處に來て居るが、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の嫁の支度が出來ない。三々九度はいづれ一刻も後のことだらう、その時はお客樣で<ruby><rb>鱈腹</rb><rt>たらふく</rt></ruby><ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>むが宜い」

「呑んだつてつまらねえ」

「ひどく<ruby><rb>落膽</rb><rt>がつかり</rt></ruby>するぢやないか、――だがな八。聟にもよりけりだが命を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>はれる聟なんてものは、あまり有難くないぜ」

「有難くなくたつて、僞首よりは器量が良いぢやありませんか」

「まア、さう言ふな」

ガラツ八の不滿は、平次も察しないではありませんが、<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うするより外に<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>のない<ruby><rb>切羽</rb><rt>せつぱ</rt></ruby>詰つた情勢だつたのです。

「親分は、いろ〱の事を調べたんでせう」

「まア、調べたつもりだ」

「誰が一體聟を殺さうなんて氣持になつて居るんで――」

聟の錦太郎が青くなつて平次のところへ飛込んだのは知つてゐますが、深い事情はガラツ八もよくは知らなかつたのでせう。

「金澤町の若い男は皆んなだよ」

「へエー」

「大きな聲ぢや言へねえが、よくもあんなに若い男と<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>になつたと思ふ位だ」

「へエー達者な娘だね」

「祝言の晩錦太郎を打ち殺さうと言ひ出したのは三人ある」

「へエー」

「中でも氣違ひじみてゐるのは、やくざの信三郎と<ruby><rb>髮結</rb><rt>かみゆ</rt></ruby>ひの浪藏さ、――聟の錦太郎<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、歩いて來るなら刀で向ふが、駕籠で來るなら何處かに待ち伏せしてゐて、土手つ腹へ<ruby><rb>槍</rb><rt>やり</rt></ruby>をブチ込んでやる――つて、言つて居たさうだ」

「危ねえな、親分」

ガラツ八も少しばかり薄寒い心持になります。

「<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>には其處までは聽かせなかつたよ、<ruby><rb>土壇場</rb><rt>どたんば</rt></ruby>になつて、聟の身代りになるのが嫌なんて言ひ出されると困るからな」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返るぜ」

何んな<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>があるか解りませんが、<ruby><rb>杯事</rb><rt>さかづきごと</rt></ruby>の始まる前、聟の支度部屋を占領して、平次はガラツ八相手にこんな無駄を言つて居るのでした。

「大丈夫だつたのかい、八。よく脇腹のあたりを見るが宜い、槍の<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>なんか殘つてゐると、後でとがめるよ」

「冗談ぢやない、槍の棘なんか立てられてたまるものですか、――本當にそんな危ない聟入だつたんですかい、親分」

ガラツ八も、濟んだこと乍ら、今更<ruby><rb>怖毛</rb><rt>おぞけ</rt></ruby>をふるひました。

「大丈夫だよ、吠える犬は噛み付かない」

「へエ――」

「その上、途中は二十人もの眼で見張らせたんだ。信三郎や浪藏は指も差せるこつちやない」

「驚いたね、どうも。そんな話を聽くと脇腹がムヅムヅしますよ」

「三々九度の<ruby><rb>杯</rb><rt>さかづき</rt></ruby>さへ濟んでしまへば此方のものだ。人の女房になつてしまつたお福のために、人殺しの罪を背負つて、お<ruby><rb>處刑臺</rb><rt>しおきだい</rt></ruby>に載つかるのはどう考へたつて智惠が無さ過ぎるよ、今晩一と晩だけ越せば天下泰平さ」

「そんな思ひまでして、あの錦太郎とか言ふ野郎は祝言をし度いのかね、男の切れつ端のくせに」

八五郎が少しく<ruby><rb>義憤</rb><rt>ぎふん</rt></ruby>を感じたのも無理のないことでした。仲屋の錦太郎といふのは、<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>こそ輕いが、なか〱の好い男で、金持の一人娘で、神田の指折りの綺麗首であるにしても、評判の<ruby><rb>蓮葉娘</rb><rt>はすつぱむすめ</rt></ruby>の聟には<ruby><rb>惜</rb><rt>を</rt></ruby>しいほどの若者だつたのです。

「多賀屋は神田で幾軒といふ<ruby><rb>分限</rb><rt>ぶげん</rt></ruby>だ、その上お福はあの通り美しい。<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>のことなら無理をし度くなるだらうよ。それに、多賀屋の主人勘兵衞と、仲屋の先代は無二の仲で、やりませう、是非貰はうと約束し、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>のうちから證文を入れたり證人を立てたりしたほどの<ruby><rb>許嫁</rb><rt>いひなづけ</rt></ruby>なんだとよ」

「不自由なことだね」

「町人はそれが何よりのほまれさ、約束を守るといふのは決して惡いことぢやない」

「本人の氣持などを<ruby><rb>其方</rb><rt>そつち</rt></ruby>のけにね」

「大層今晩は機嫌が惡いやうだな、八」

「金澤町小町のお預けなんぞ喰はされると、大概機嫌も惡くなりますよ」

ガラツ八は全く以ての外の機嫌でした。

「ところで、盃事の支度はまだかな」

「親分はそんなにして居て構ひませんか」

「構はないとも、<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>はれてるのは聟だらう。その聟が此處に居るんだもの、平次が<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う附いてゐるほど確かなことはないぢやないか」

「全くね」

ガラツ八の八五郎は、照れ臭く<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>ばかり氣にして居ります。どうもしびれが切れて叶はない恰好です。

「<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も、眞物の聟でなくて、お前は本當に仕合せだつたかも知れないよ」

平次は話頭を轉じました。

「へエ――？」

「あんな評判の<ruby><rb>蓮葉娘</rb><rt>はすつぱむすめ</rt></ruby>のお守をして、一生<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み付けられて暮すのは、樂な仕事ぢやないぜ」

平次の聲は小さくなりました。

「へエ」

「その上仲屋は十年も前に身代限りをして、近頃は其日の物にも困つてゐるんだ。錦太郎はどんなに齒ぎしりしても、多賀屋へ聟にでも入らなきや身の立てやうはない」

「――」

「親と親との昔々の約束は、お福を仲屋が貰つて、錦太郎の嫁にする筈だつたとよ。それが、仲屋の主人が死んで、身代が<ruby><rb>滅茶々々</rb><rt>めちや〱</rt></ruby>になつて仕舞ふと、一人娘を嫁にくれとは言ひにくからう」

「成る程ね」

「<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も錦太郎は腹の中ぢや面白くないかも知れないよ、――それに、聽えるかい、八」

「へエ」

「錦太郎には他に言ひ<ruby><rb>交</rb><rt>かは</rt></ruby>した女があるんだつてね」

「太てえ野郎だね」

「でも、背に腹は代へられなかつたのだらう」

「俺なら背と腹を代へるがな」

「それは<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>樣の言ふことだ、――おや？」

不意に平次は聽耳を立てました。

「何です、親分？」

「變な音がしたやうだ、――來い、八」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が行つても構ひませんか」

「その<ruby><rb>窮屈袋</rb><rt>きうくつぶくろ</rt></ruby>と<ruby><rb>紋附</rb><rt>もんつき</rt></ruby>をかなぐり捨てるんだ」

言ひ捨てて平次は飛出しました。かなり大きな構へですが、唐紙を二つばかり開けると、其處は嫁の支度部屋になつて居たのです。

## 二

「あつ」

「<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>だ、灯だ」

平次の聲が響くと、さすがに氣の付いたガラツ八は、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を提げて飛込んで來ました。

「嫁がやられたツ」

<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>の中に崩折れた花嫁姿、<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>が血のやうに燃えて、それは凄まじくも華やかに浮いたのです。

「入つちやならねえ、入つた奴には皆んな下手人の疑ひがかゝるぞ。八、其處で<ruby><rb>頑張</rb><rt>ぐわんば</rt></ruby>つて、一々出入りの顏を調べろ」

平次の聲が響くと、廊下まで殺到した群集が、<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだれ</rt></ruby>を打つて引返します。

「私は構はないでせう、親分」

その跡に取り殘されて、おろ〱して居るのは<ruby><rb>眞物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>の聟、仲屋の錦太郎でした。二十五六の<ruby><rb>華奢</rb><rt>きやしや</rt></ruby>な男、青い顏をして、激動に顫へて居りますが、性根はなか〱の確りものらしくもあります。

「いや、こいつは聟殿に見せる幕ぢやねえ。親御の勘兵衞さんだけ入つて下さい――それから町内の外科を大急ぎで頼むんだ、<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>だが、命は――」

平次は手負を抱き起してフツと口を<ruby><rb>緘</rb><rt>つぐ</rt></ruby>みました。

「親分さん」

この時、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く主人の勘兵衞が飛んで來たのです。

「大變なことになつたぜ、御主人」

「どうしませう、親分」

六十男の勘兵衞は、娘の後ろから恐る〱差のぞきます。それでも、自分の身體で<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>つて、多勢の目から手負の姿を見せないやうにし乍ら――。

「八、何をぼんやりしてゐるんだ。曲者は外へは出られない筈だ、出口々々は先刻の俺の聲一つで、二十人の下つ引が固めてゐる。手前は錦太郎を見張つてゐるが宜い。<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>になつた曲者は何をやり出すか解らない」

平次の命令は周到を極めます。

そのうちに外科が來て、花嫁の傷をしらべました。傷は深くはないが、急所をやられたので、朝までの命がむづかしからうと言ふ噂が、誰からともなくパツと家中に傅はります。

手負を外科と主人に<ruby><rb>任</rb><rt>まか</rt></ruby>せた平次は、花嫁の支度部屋から出發して、縁側へ、庭へと調べて行きました。此道以外は人目の關が幾重にもあつた筈ですから、どんな忍びの名人でも、人に見とがめられずには通れなかつた筈です。

たつた一つの<ruby><rb>手燭</rb><rt>てしよく</rt></ruby>で、平次は實によく調べて行きます。<ruby><rb>生濕</rb><rt>なまじめ</rt></ruby>りの庭には<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>へたやうに足跡があつて、それがかなり大きいことや、突當りの木戸は外から簡單に<ruby><rb>輪鍵</rb><rt>わかぎ</rt></ruby>の外せることを見極め、

「ゐるか」

靜かに聲をかけると、

「親分」

木戸の外から<ruby><rb>應</rb><rt>こた</rt></ruby>へた者があります。言ふ迄もなく下つ引の一人。

「誰も出た者は無いな」

「ありませんよ、親分」

「誰でも構はない、外へ飛出さうとする者があつたら、遠慮無しに縛り上げてくれ」

「へエ――」

「御苦勞だな」

平次は言ひ捨てて元の縁側に歸りました。

「おや？」

見ると、其處にも泥の足跡が――よく拭き込んだ縁の板を薄く染めて居るではありませんか。足跡を追つて行くと、眞つ直ぐに花嫁の部屋に入つて行きます。

念の爲にツイ傍の上便所の扉をあけると、二本燈心の薄明りで、――<ruby><rb>草履</rb><rt>ざうり</rt></ruby>が一足。手に取り上げて裏返すと、<ruby><rb>生濕</rb><rt>なまじめ</rt></ruby>りの<ruby><rb>苔臭</rb><rt>こけくさ</rt></ruby>い土が一面に附いてゐるではありませんか。

「親分」

不意にガラツ八が顏を出しました。

「何だ、八？」

「刄物を見付けました」

手拭に包んで來たのは、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>が<ruby><rb>一口</rb><rt>ひとふり</rt></ruby>、切先が血に染んで、少し刄こぼれがあります。

「何處にあつたんだ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が居た部屋の<ruby><rb>花瓶</rb><rt>くわびん</rt></ruby>の中ですよ」

「誰が見付けたんだ」

「錦太郎が氣が付いたんで――」

「馬鹿ツ、――その錦太郎を見張つて居ろと言つたぢやないか」

平次の聲は急に激しくなりました。

「だつて、親分」

「何が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だつて</span>だ、――刄物なんざ、何處にあつたつて構ふものか、錦太郎に間違ひがあつたらどうするつもりだ」

「へエ――」

ガラツ八は不平らしく引返しました。暫くその後ろ姿を見送つて居た平次、何を思ひ付いたか、猛然として後を追ひます。が、それも及びませんでした。ガラツ八が一寸眼を離した間に、事件は思ひも寄らぬ方へ急展開をしたのです。

「あツ、やられたツ」

ガラツ八の聲が突つ走ります。

「やつたな、畜生ツ」

飛込む平次。先刻まで平次とガラツ八が居た部屋に、錦太郎は半顏血に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れて、氣を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>つて居たのです。

「どうした」

「氣をしつかり持て」

平次はそれを後ろから<ruby><rb>抱</rb><rt>かゝ</rt></ruby>へて、あり合せのぬるくなつた茶を呑ませました。

「あ、有難うございます、もう大丈夫です」

錦太郎は極り惡さうに<ruby><rb>居住</rb><rt>ゐずまひ</rt></ruby>を直します。

「どうしたといふのだ」

「何處からともなく、こいつが飛んで來ましたよ。頬に當つたことまでは知つて居ますが――面目次第も御座いません。私は氣が弱いんで」

錦太郎は恥かしさうに首を垂れます。切られたのは左の頬先、ほんの引つ掻きほどですが、潮時と見えて、血が顏半分を染めて居ります。――尤も錦太郎が夢中で傷を押へた手で<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>したせゐかも知れません。

刄物はガラツ八が差して來た、犬おどかしのやうな<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>。こいつは聟入の恰好には無くてならぬ道具ですが、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>此處へ<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>り出して、嫁の部屋へ驅付けたのを、曲者は早速利用して、縁側から<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>つたのでせう。

「曲者の顏を見なかつたのかい」

傷を見乍ら平次は訊ねました。

「後ろから<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>られたんで、何んにも見ません」

「そいつは災難だつたね。<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も、大難が小難で濟んだやうなものだ。幸ひ、町内の外科が來て居るから、手當して貰ふがよからう」

「有難うございます」

「ところで、曲者はいよ〱家の中に居るに決つたぞ。床を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎ、天井へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り込んでも搜し出さう、八」

「おーい」

「何處に居るんだ」

「押入の中ですよ」

八五郎の返事は<ruby><rb>陰</rb><rt>いん</rt></ruby>に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>りました。

「その意氣だ、しつかり搜せ、――外から二三人呼び入れて手傳はせても宜い」

## 三

疑ひは三人にかゝりました。

多賀屋の外を、ウロウロして居た、やくざの信三郎と、髮結の浪藏と、――これはお福の甘い言葉に取り<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せて、是が非でも祝言を<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げようといふ仲間――。

あとの一人は、多賀屋の番頭で品吉、三十そこ〱の<ruby><rb>平凡</rb><rt>へいぼん</rt></ruby>な男ですが、これもお福の笑顏に釣られて、多賀屋の養子になれるものと思ひ込んでゐた男でした。

三人とも機會がありました。が、便所の<ruby><rb>草履</rb><rt>ざうり</rt></ruby>をはいて細工をしたり、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を聟の部屋の<ruby><rb>花瓶</rb><rt>くわびん</rt></ruby>に入れるやうなことは、品吉でなければ出來ない藝當です。

「此野郎ですよ、親分。思ひ切り<ruby><rb>引叩</rb><rt>ひつぱた</rt></ruby>いて見ませうか」

聟から岡つ引に<ruby><rb>引拔</rb><rt>ひきぬ</rt></ruby>いたガラツ八は、品吉を縁側に引据ゑて<ruby><rb>威猛高</rb><rt>ゐたけだか</rt></ruby>になります。

「待て〱、もう少し考へてからにしよう。家に居る者が怪しいとなると、手代、下女、下男、それからお前も俺も、聟の錦太郎も怪しくなる、――こいつはそんな<ruby><rb>淺墓</rb><rt>あさはか</rt></ruby>な<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>みぢやあるめえ。その番頭は下つ引に見張らせて置け、――ところで曲者は錦太郎を殺すつもりは無かつたかも知れないが、――お福は確かに殺すつもりだつた、――お福を殺して一體誰が<ruby><rb>儲</rb><rt>まう</rt></ruby>かるんだ」

「――」

平次が變なことを言ひ出すのを、ガラツ八は縁側から聽いて居りました。

「お福が死んで、一番損をするのは誰だ」

「父親と聟の錦太郎ぢやありませんか」

ガラツ八の應へは素直で簡明です。

「ところで今は<ruby><rb>何刻</rb><rt>なんどき</rt></ruby>だらう」

平次は又變な事を訊きます。

「<ruby><rb>亥刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>ですよ、親分」

「あと半刻で明日か」

「――」

「明日は<ruby><rb>戌</rb><rt>いぬ</rt></ruby>で<ruby><rb>佛滅</rb><rt>ぶつめつ</rt></ruby>で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やぶる</span>といふ日だ。祝言には一番嫌はれる」

「それが何うしたんで、親分」

「明日祝言がいけないとなると、今日のうちでなければなるまい」

「誰が祝言をするんで？　親分」

「多賀屋の娘お福と、仲屋の伜錦太郎だ」

「えツ」

平次の言葉の意外さに、驚いたのは、隣の部屋で外科に手當をして貰つて居る錦太郎自身でした。

「お福は<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>だが、折角此處まで運んだ祝言、息のあるうちに盃事がしたいと言ふのだよ。しをらしい望みぢやないか。父親の勘兵衞は、<ruby><rb>涙乍</rb><rt>なみだなが</rt></ruby>らにその支度をしてゐる。幸ひ聟の錦太郎は<ruby><rb>淺傷</rb><rt>あさで</rt></ruby>だ、<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>前に祝言の盃事をして、死んで行く娘に安心させようと言ふのだ」

「――」

ガラツ八と錦太郎はゴクリと<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑みました。事件のあまりに不思議な展開に、考へることも、異議を<ruby><rb>挾</rb><rt>さしはさ</rt></ruby>むことも出來なかつたのです。

「この上に<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げが入つてはいけない。浪藏と信三郎と品吉は縛つてあるが、この上何處に<ruby><rb>寢刄</rb><rt>ねたば</rt></ruby>を合せてゐる者が無いとは限らない。善は急げだ、手當が濟んだら行かうか」

平次は斯う錦太郎と八五郎を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>し立てるのです。

## 四

その夜の婚禮は、世にも不思議なものでした。

多賀屋の二階二た間を打ち拔き、善美を盡した調度の中に、<ruby><rb>眩</rb><rt>まば</rt></ruby>ゆいばかりの銀燭に照らされて、凄まじくも<ruby><rb>早桶</rb><rt>はやをけ</rt></ruby>が一つ置いてあつたのです。

<ruby><rb>金屏風</rb><rt>きんびやうぶ</rt></ruby>、島臺、世の常の目出度いづくめの背景の中に、それはまた、何と言ふ恐ろしい取り合せでせう。

早桶を中に、<ruby><rb>仲人</rb><rt>なかうど</rt></ruby><ruby><rb>寳屋</rb><rt>たからや</rt></ruby>祐左衞門夫婦、多賀屋の主人勘兵衞、親類五六人、老番頭宅松が左右に居並びました。

一歩、この席に入つた錦太郎の顏色は、さすがにサツと變つたのも無理はありません。

「これは？」

ツイ唇をついて出た言葉、頬の色は半面を包んだ<ruby><rb>繃帶</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>よりも白く見えます。

「娘は到頭<ruby><rb>相果</rb><rt>あひは</rt></ruby>てました、曲者の手に掛つて、たつた十九で――」

多賀屋勘兵衞は<ruby><rb>絶句</rb><rt>ぜつく</rt></ruby>しい〱、教はつたせりふのやうに、斯う言ふのです。

「それで、私は、私は？」

「祝言の盃事をするのだ。あんなに<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れた仲だもの、せめて三々九度でも濟まさなきや浮び切れまい」

平次の聲は妙に荒つぽく響きました。

「――」

<ruby><rb>寂</rb><rt>じやく</rt></ruby>とした一座、兎もすれば、<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>るやうな<ruby><rb>緘默</rb><rt>かんもく</rt></ruby>が續きさうでなりません。

「さア、早桶の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を拂つて、花嫁の最期の姿と對面してくれ」

平次は後ろからせき立てます。

「――」

思はず尻ごみする錦太郎。

「解らねえ聟ぢやないか、三々九度は<ruby><rb>僞首</rb><rt>にせくび</rt></ruby>ぢや勤まらないよ」

ガラツ八は後ろから抱きすくめるやうに、早桶の傍の座に錦太郎を引据ゑました。

「そんなに遠慮するなら蓋は俺が取つてやらう」

平次は早桶の側に寄ると、その蓋を取つて、桶ごとパツと引つくり返しました。

「あツ」

中から現はれたのは、お福の死骸と思ひきや、――血の附いた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>と、ガラツ八の脇差と、便所の<ruby><rb>草履</rb><rt>ざうり</rt></ruby>と、それから、最後に一つ、血に染んだ<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐひ</rt></ruby>が一と筋。

「錦太郎、これを知つて居るだらう。手拭はお前の品に相違あるまい、花嫁を殺して間もなく押入で見付けた品だ」

「――」

「さア、のがれぬところだ、白状せい。<ruby><rb>聟入</rb><rt>むこいり</rt></ruby>の晩、花嫁を自分の手で殺すとは何としたことだ、――言ひのがれは無用だぞ。此の家は宵から大勢で取圍んでゐる、曲者は外から入る筈はない」

<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しつた</rt></ruby>する平次、一座は思はず逃腰になつて、この不思議なクライマツクスを見詰めて居ります。

錦太郎は唇を噛みました。が、暫く自分の心持を落着けると、白々とした<ruby><rb>觀念</rb><rt>くわんねん</rt></ruby>の顏を擧げ、キツと平次を睨み、それから主人勘兵衞を見据ゑ乍ら、少しかすれたが、落着拂つた聲で<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う言ふのです。

「白状する迄もあるまい、――殺したがどうした」

「錦太郎、それがお前の言ふ事か」

平次も思はずカツとなります。

「お、三千兩の身上を横取りされた上、江戸一番の<ruby><rb>蓮葉娘</rb><rt>はすつぱむすめ</rt></ruby>と添ふ位なら――俺はどんな事でもする」

錦太郎の聲は次第に<ruby><rb>疳</rb><rt>かん</rt></ruby>が立つて、<ruby><rb>引裂</rb><rt>ひきさ</rt></ruby>かれるやうな調子になります。

「宜い心掛けだ、――が、お前は誰を相手にして芝居を打つてゐるか忘れたんだらう、――俺のところへ驅け込んで、聟の身代りを頼んだ時から、俺は<ruby><rb>臭</rb><rt>くさ</rt></ruby>いと睨んだよ。手を盡して調べ拔いて、萬に一つの手拔りの無いところまで運んで置いたとは知るまい、――<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>に<ruby><rb>陷</rb><rt>お</rt></ruby>ちたのはこの平次ではなくて、お前だつた」

「それほど用心深い錢形平次が、お福の殺されるのを知らずに居たらう」

錦太郎は勝利感に<ruby><rb>陶醉</rb><rt>たうすゐ</rt></ruby>して<ruby><rb>亢然</rb><rt>かうぜん</rt></ruby>となりました。

「よし〱、その氣で居るなら逢はせるものがある、――それ」

平次の手が動くと、錦太郎の後ろの<ruby><rb>金屏風</rb><rt>きんびやうぶ</rt></ruby>が取拂はれました。その奧に置かれたやうに坐つて居るのは、何と、錦太郎が殺したと思ひ込んでゐる、お福の<ruby><rb>健</rb><rt>すこ</rt></ruby>やかな姿ではありませんか。

「あツ、お前は、お前は」

驚く錦太郎。

「驚いた錦太郎、聟に身代りがあれば、嫁にも身代りがある事に氣が付かなかつたらう。お前が<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>で突いたのは、忠義な下女のお常だ。振袖の下へ<ruby><rb>鎖帷子</rb><rt>くさりかたびら</rt></ruby>を着せて置いたので、<ruby><rb>力任</rb><rt>ちからまか</rt></ruby>せで<ruby><rb>刺</rb><rt>さ</rt></ruby>した匕首も、五分とは斬らなかつたよ」

「――」

錦太郎は何べんかお福に飛びかゝりさうにしましたが、その<ruby><rb>都度</rb><rt>つど</rt></ruby>、平次の眼に威壓されて、キリキリと齒を喰ひしばるばかりです。

「便所の草履をはいて、庭木戸を開け、曲者が外から入つたやうに見せかけたり、八五郎の脇差で、自分の顏を斬つて、自分の身體に附いた血を<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>したりしても、この平次の眼を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>すことは出來ない」

「――」

「お前は――」

續ける平次の聲を<ruby><rb>遮</rb><rt>さへぎ</rt></ruby>つて、錦太郎の怒りは爆發しました。

「止してくれ、俺はその<ruby><rb>豚</rb><rt>ぶた</rt></ruby>の<ruby><rb>仔</rb><rt>こ</rt></ruby>のやうな<ruby><rb>雌</rb><rt>めす</rt></ruby>と祝言せずに濟んだだけでも澤山だ、――何でえ、岡つ引のくせに。何も彼も見拔いたつもりでも、人の心の<ruby><rb>見透</rb><rt>みとほ</rt></ruby>しはつくまい」

## 五

「それがどうした」

靜かに迎へた平次、このたけり狂ふ男に、もう少し事情を説明させる必要があつたのでせう。

「何も彼も見拔いても、多賀屋勘兵衞の<ruby><rb>惡企</rb><rt>わるだく</rt></ruby>みだけは見拔けなかつたぢやないか」

「何？」

「言つてやらう、――その多賀屋勘兵衞は、今から十年前、死にかけてゐる俺の父親を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>し、親切ごかしに、仲屋の身上を皆んな取上げてしまつた大惡黨だ」

「嘘だ」

勘兵衞は不意に<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りました。よく光る頭から、ポツポツと湯氣が立つて居ります。

「――」

平次は默つてそれを押へたまゝ、一方、錦太郎の言葉を續けさせました。

「俺が成人するまでといふ約束だつた、――證人はうんとある、現に此處に居る<ruby><rb>仲人</rb><rt>なかうど</rt></ruby>の寳屋もその證人の一人になつて宜い筈だ。取上げた金は三千兩、――この錦太郎が成人すれば返す筈のが、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>になつても二十五になつても返さない。お蔭で俺は仲屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>と貧乏を<ruby><rb>背負</rb><rt>しよ</rt></ruby>つて、血の出るやうな苦勞をし乍ら育つた」

「――」

「父親の<ruby><rb>遺言状</rb><rt>ゆゐごんじやう</rt></ruby>は寳屋が預つて居る。それには、お福とこの錦太郎を一緒にする約束が書いてある筈だ。萬一、二人が一緒にならない時は、三千兩の金は利息をつけて俺に返さなければならない。十年の利息をつけて、三千兩の金を返すことは、今では多賀屋の身代を振つても出來ないことだ」

「――」

「お福を俺の嫁にしても、行く〱は仲屋のものは仲屋に返さなければなるまい。――惡智惠のたけた勘兵衞は、俺を聟にして多賀屋の養子に直し、<ruby><rb>難癖</rb><rt>なんくせ</rt></ruby>をつけて追出すことを考へた、――<ruby><rb>賣女根性</rb><rt>ばいたこんじやう</rt></ruby>の――江戸一番の性惡娘を、この錦太郎に押し付け、<ruby><rb>嫌應</rb><rt>いやおう</rt></ruby>言はせぬ祝言させようといふのは、皆んなそのためだ。俺は斷つたとも。一應も二應も斷つたが、――十年越の借金を拂つて、母一人を<ruby><rb>安穩</rb><rt>あんのん</rt></ruby>に養ふためには、斷つてばかりも居られなかつた。――<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいが俺は承知した。言ひ交した女には<ruby><rb>因果</rb><rt>いんぐわ</rt></ruby>を<ruby><rb>含</rb><rt>ふく</rt></ruby>め、――母にも觀念して貰つて――」

錦太郎は泣いて居りました、<ruby><rb>苦澁</rb><rt>くじふ</rt></ruby>の色が顏一面の筋肉を<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>させて、聲のない<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>をえつ</rt></ruby>が、時々激情の言葉を<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>らせます。

「それから何うした」

と穩やかに平次。

「俺は捨鉢になつた。が、母が生きてゐるうちは、命を捨てて多賀屋へ斬込むわけにも行かない。お福が江戸一番の蓮葉娘で、大勢の馬鹿な男に騷がれて居るのを<ruby><rb>幸</rb><rt>さいは</rt></ruby>ひ、親分に頼んで見代りの聟を仕立てて貰ひ、俺はそつと此處へ來て、お福を殺す工夫をした。大身代を<ruby><rb>繼</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐ花聟が、金澤町小町と言はれた嫁を、婚禮の晩に殺す筈はないと世間では思ふだらう」

錦太郎の言葉は次第にか細い<ruby><rb>述懷</rb><rt>じゆつくわい</rt></ruby>になつて、ともすれば途切れます。

「それから？」

平次はもう一度靜かに<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>しました。

「お福さへ居なきや、俺は勝手だ。<ruby><rb>親父</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>の<ruby><rb>遺言状</rb><rt>ゆゐごんじやう</rt></ruby>が出ても、三千兩の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>を受取るだけで、何の怖いこともない」

「――」

「細工が過ぎて親分に見現はされた、――<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいが仕方がない。サア、縛つてくれ、<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>にでも<ruby><rb>火焙</rb><rt>ひあぶ</rt></ruby>りにでもしてくれ、――その代り、萬一俺の母親が<ruby><rb>餓死</rb><rt>うゑじに</rt></ruby>するやうな事があつたら、俺は死んだつてお前達を<ruby><rb>安穩</rb><rt>あんのん</rt></ruby>には置かないぞ」

紋附姿の錦太郎が、身を顫はせ、疊を叩いて斯う言ふのです。

「嘘だ〱」

抗辯もしどろもどろに、多賀屋勘兵衞は立つたり坐つたりして居ります。

誰ももう、口を利く者もありません。

平次は一座の空氣を、愼重に味ひ盡しました。<ruby><rb>善惡邪正</rb><rt>ぜんあくじやせい</rt></ruby>が、鏡に映るやうに判つて行くやうな氣がします。

「八」

「へエ――」

突如、平次に呼ばれてガラツ八は入つて來ました。

「この家は出口々々を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでゐるだらうな」

「へエ――、下つ引が五六十人、<ruby><rb>十重二十重</rb><rt>とへはたへ</rt></ruby>に圍んでゐますよ」

「よし〱」

八五郎の應への常識以上に<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おほげさ</rt></ruby>なのを、平次は笑ひもせずにうなづきました。

「何をやらかすんで、親分」

「俺の指した野郎を縛れ」

「へエ――」

「それ」

平次の指は、ピタリと、<ruby><rb>仲人</rb><rt>なかうど</rt></ruby>寳屋<ruby><rb>祐</rb><rt>いう</rt></ruby>左衞門の胸を指したのです。

「御用ツ」

「わツ、御勘辨。私は、私は何にも知りません」

あわてた寳屋、疊の上を額で<ruby><rb>泳</rb><rt>およ</rt></ruby>ぐやうな恰好になるのを、ガラツ八は襟髮を取つてピタリと<ruby><rb>引据</rb><rt>ひきす</rt></ruby>ゑました。

「野郎ツ、神妙にせいツ」

「申します、申します。皆んな申上げてしまひます。――多賀屋さんには數々のお世話になつて居るので、斷り切れなかつたのでございます。――仲屋さんの先代の<ruby><rb>遺言状</rb><rt>ゆゐごんじやう</rt></ruby>は、すぐ此場で錦太郎さんにお渡し申します、――御勘辨を。お願ひ」

寳屋祐左衞門は、懷中から紙入を取出して、ガラツ八の腕力の下に、何やらモゾモゾ續けて居ります。

「多賀屋さん、この祝言は取止めにしても<ruby><rb>異存</rb><rt>いぞん</rt></ruby>はあるまいな」

平次は勘兵衞の方へピタリと向きました。

「それはもう、親分さん。娘の命を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>ふ者を養子になどは――」

勘兵衞はブルブルと頭を振りました。

「よし〱。それでは、仲屋の先代の遺言通り、三千兩に利息をつけて、この錦太郎に返してやつちやどうだ。いやならお<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>へ持出すが」

「それは親分、<ruby><rb>殺生</rb><rt>せつしやう</rt></ruby>ですよ。三千兩に十年間の利息をつけて出しちや、多賀屋が<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れてしまひます」

勘兵衞は泣き出しさうです。

「貧乏になるのも<ruby><rb>洒落</rb><rt>しや</rt></ruby>れてゐるぜ。世帶の苦勞をさせると、第一娘がもう少し<ruby><rb>悧口</rb><rt>りこう</rt></ruby>になるよ、貧乏の味のよさを知らないのが金持の落度なんだ」

「親分、それは可哀想ぢやございませんか」

「まだ〱可哀想な人間は、廣い世界にうんとあるぜ」

平次はなか〱<ruby><rb>讓</rb><rt>ゆづ</rt></ruby>りさうもありません。

「親分」

錦太郎は顏をあげました。

「何だい」

「お禮の申上げやうも御座いません。――親分のお心持はよく解りました。さうとも知らずに、御手數を掛けた上、數々惡口を言つて――」

錦太郎はボロボロと涙をこぼし乍ら、疊の上へ<ruby><rb>雙手</rb><rt>もろて</rt></ruby>を突くのです。

「氣が立つと、餘計な事も言ふものだ。そんな事は心配しなくて宜い」

と平次。

「親分、――私も此上<ruby><rb>慾張</rb><rt>よくば</rt></ruby>つたことは申しません。あの化け娘と一緒にならずに三千兩返して貰へば、それで澤山です、――利息なんか、一文も要りません」

「それは本氣か、錦太郎」

平次は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を開きました。錦太郎の言葉が、此空氣の中では、かなり豫想外だつたのです。

「本當ですとも、親分。六十になる母親の<ruby><rb>老先</rb><rt>おいさき</rt></ruby>を幸せにするだけなら、三千兩でも多過ぎる位で、あとは私が精一杯働きます。何んなら――」

「よし〱、それ以上負けさしちや、多賀屋も<ruby><rb>冥利</rb><rt>みやうり</rt></ruby>が惡からう。お前は思つたより良い男だ、手の<ruby><rb>混</rb><rt>こ</rt></ruby>んだ人殺しなんかするより、心を入れ替へて商賣でも<ruby><rb>勵</rb><rt>はげ</rt></ruby>むがよからう。下女のお常の引つ<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き位は、俺が何とかしてやらう。なア、多賀屋」

「へエ」

「三千兩の利息で、膏藥がどれ位買へると思ふ」

平次はそんな無駄を言ひ乍ら、もう歸る支度をして居りました。

×　　　　　　×　　　　　　×

「<ruby><rb>溜飮</rb><rt>りういん</rt></ruby>が下がつたぜ、親分」

曉方近い街、女房のお靜が待つて居る家路を急ぎ乍ら、平次は<ruby><rb>應</rb><rt>こた</rt></ruby>へました。

「氣の毒なのはお福さ、心柄とは言ひ乍ら、あれぢや江戸中に貰ひ手もあるまい」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は親分」

八五郎はニヤリニヤリとほろ苦い笑ひを見せます。

「お前も氣の毒だよ、たま〱祝言をする事になると思ふと、それが身代りだつたりして、――でも、あんな<ruby><rb>蓮葉娘</rb><rt>はすつぱむすめ</rt></ruby>と祝言しなくて飛んだ仕合せよ。そのうちに、<ruby><rb>煮豆屋</rb><rt>にまめや</rt></ruby>のお勘ツ子にでも當つて見ねえ、あの娘の方が餘つ程筋が宜いぜ」

「チエツ」

八五郎は大きな舌打を一つしましたが、腹の中では怒つてるわけではありません。親分平次の今晩の<ruby><rb>裁</rb><rt>さば</rt></ruby>きの<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかさに、すつかり陶醉して居たのです。