## 一

兩國に小屋を掛けて、江戸開府以來最初の<ruby><rb>輕業</rb><rt>かるわざ</rt></ruby>といふものを見せた振袖源太。前髮立の素晴らしい<ruby><rb>美貌</rb><rt>びばう</rt></ruby>と、水際立つた<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかな藝當に、すつかり江戸ツ子の人氣を掴んでしまひました。

あまりの評判に釣られるともなく、半日の春を小屋の中の空氣に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>つた、捕物の名人で『錢形』と異名を取つた御用聞きの平次。夕景から界隈の小料理屋で一杯引つかけて、兩國橋の上にかゝつたのはもう宵の口。

小唄か何か<ruby><rb>口吟</rb><rt>くちずさ</rt></ruby>み<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、<ruby><rb>十六夜</rb><rt>いざよひ</rt></ruby>の月明りにすかして、何の氣もなくヒヨイと見ると、十間ばかり先に、<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>へ片足を掛けて、川へ飛込まうとして居る人間があります。

「あツ」

と言つたが、驅け付けるには少し遠く、大きな聲を出せば、直ぐ飛び込まれるに決つて居ります。

思はず袖へ手が入ると、今しがた<ruby><rb>剩錢</rb><rt>つりせん</rt></ruby>にとつた<ruby><rb>永樂錢</rb><rt>えいらくせん</rt></ruby>が一枚、右手の食指と<ruby><rb>拇指</rb><rt>ぼし</rt></ruby>の間に立てゝ、ろくに狙ひも定めずピユウと投げると、手練は恐ろしいもので、身を投げようとする男の<ruby><rb>横鬢</rb><rt>よこびん</rt></ruby>をハツと打ちます。

「あツ、何をするんだ」

思はず飛込みさうにした<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>の足を引込めて、側へ飛んで來た平次に、噛みつきさうな顏を見せます。

「お、危ねえ。俺は<ruby><rb>河童</rb><rt>かつぱ</rt></ruby>の眞似は<ruby><rb>得手</rb><rt>えて</rt></ruby>ぢやねえから、飛込まれたら最後見殺しにしなきアならねえ」

さう言ひ乍ら、冗談らしく相手の袖を押へた平次。<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>の間に見極めると、年の頃五十六七、實體らしい<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>さんで、どう間違つても身投などをする<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>とは見られません。

「無法な事をするにも程があつたものだ。こんなに<ruby><rb>脹</rb><rt>は</rt></ruby>れちやつたぢやないか、見ろ」

老爺は身投することも忘れて、しきりにこめかみに<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を附け乍ら、小言を言つて居ります。

「勘辨しねえな、とつつあん。さうでもしなきやア、間に合はなかつたんだ。命と釣替へなら、こめかみへ穴が明いたつて我慢が出來ねえこともあるめえ」

「不法な人があつたものだね、どうも」

老爺さん甚だ平かぢやありませんが、永樂錢一枚の痛手で、兎に角死ぬ氣がなくなつてしまつたことだけは事實のやうです。

間もなく平次は、もう一度東兩國の小料理屋に取つて返して、身投を思ひ止らせた老爺の話を聞いて居りました。

「人間、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>や冗談に死ねるものぢやねえ、ざつくばらんに話して見なさるがいゝ。金も智惠もあるわけぢやねえが、何を隱さう、俺は平次と言つてお上の御用を勤める人間だ。次第に依つちや相談相手にならねえものでもあるめえ」

「え？　錢形の親分さんで御座いましたか。これはいゝ方に助けて頂きました。<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うなればもう、嫌だと仰しやつても申し上げずには居られません。どうか、<ruby><rb>終末</rb><rt>しまひ</rt></ruby>まで皆んなお聞きなすつて下さいまし」

世にも奇怪な話が、老爺の<ruby><rb>朴訥</rb><rt>ぼくとつ</rt></ruby>な調子で斯う<ruby><rb>描</rb><rt>ゑが</rt></ruby>き出されて行きます。

## 二

日本橋通り四丁目に八間<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>口の<ruby><rb>呉服</rb><rt>ごふく</rt></ruby>屋を開いて、一時越後屋の向うを張つた『福屋善兵衞』、<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でつち</rt></ruby>小僧八十人餘りも使はうといふ何不足ない大世帶の主人ですが、先月の末から、五人の子供のうち三人まで順々に行方不明になつたには驚きました。

最初は先月の二十五日、二十四になる總領が、日本橋の店から白晝煙のやうに消えて無くなり、月を越して本月の五日、二番目の二十一になる息子が、これも日本橋の家で、一と晩のうちに<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>が判らなくなつてしまつたのです。

そればかりなら<ruby><rb>偶然</rb><rt>ぐうぜん</rt></ruby>の廻り合せとも思つたでせうが、續いて昨日の十五日、三番目の十八になる娘が、親類の家へ泊りに行つて居て、其先から<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどはか</rt></ruby>されてしまつたのです。

斯う十日目十日目に、上から順々に子供が見えなくなつて行くところを見ると、もう偶然の出來事と濟して居るわけには行きません。主人の善兵衞はことのほか心を痛めて、『金づくで濟むことなら』とあらゆる<ruby><rb>探索</rb><rt>たんさく</rt></ruby>をしましたが、不思議なことに三人の行方が一向判らないばかりでなく、その行方不明になつた足取りも、まるで見當が付かないのです。

これだけの事は、錢形の平次も聞き知つて居りましたが、改めて關係者の口から聞くと、なるほど事件の裏には<ruby><rb>濃厚</rb><rt>のうこう</rt></ruby>な犯罪の匂ひがありさうです。

「私はその三番目のお孃樣のお<ruby><rb>伴</rb><rt>とも</rt></ruby>をして、御親類のところへ參りましたが、行方不明になつたと言つて、今更『福屋』へ歸る<ruby><rb>面目</rb><rt>めんぼく</rt></ruby>も御座いません。まる一晝夜、心當りを探し拔いた<ruby><rb>擧句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、思案に餘つて兩國から、フラフラと<ruby><rb>入水</rb><rt>じゆすゐ</rt></ruby>しようとしたので御座います」

忠實さうな老爺が、話<ruby><rb>了</rb><rt>をは</rt></ruby>つて到頭ボロボロと泣き出して了ひました。

「成程、話を聞けば<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もだが、お前さんが死んだところで、娘御が歸つて來るわけのものぢやあるめえ」

「へエ――」

「よしツ、俺が一番乘出してやらう。それだけの<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をするのは、何うせ並大抵の人間ぢやあるまいから、骨が折れても張合があると言ふものだらう。お前さんは知らん顏をして歸つて、内の樣子を俺のところまで知らせちやくれまいか」

「親分が乘り出して下さりや千人力で、有難う御座います」

錢形の平次は人を助けたばかりに、到頭この事件の眞つ只中に飛込んで行くことになつてしまひました。

## 三

平次は早速福屋へ乘込んで見ましたが、日も經つて居ることであり、行方不明になつた三人の兄妹が、何うして<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>き出されたか、まるで見當が付きません。その頃は警察制限も至つて不完全で、町人もそれに信頼する氣は<ruby><rb>微塵</rb><rt>みぢん</rt></ruby>もありませんから、これ程の事件を、何處へ屆け出るでもなく、八十何人の奉公人や、一家身内の者が寄つてたかつて、唯もうワイワイと騷ぐばかりです。

わけても主人の善兵衞は、半病人のやうな有樣、評判のいゝ岡つ引の平次が顏を見せると、

「親分、何とかして三人の者を探し出して下さい。場合に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>つては、福屋の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>を半分潰しても構ひません」

拜まないばかりに頼み込みます。

殘つた家族といふのは、十六になる娘のお糸と、六つになる男の子の榮三郎と、一年ばかり前に<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>つた<ruby><rb>後妻</rb><rt>のちぞひ</rt></ruby>のお瀧だけ、世間並に考へると、この繼母のお瀧が一番疑はれる地位にあるわけです。

本人もそれを<ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>く承知で、岡つ引の平次と顏を合せると氣の毒なくらゐオドオドしますが、平次の眼から見れば、大それた惡事を働くほどの女とも思はれません。

年の頃三十二三、善兵衞に比べると少し若いが、<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>の女房にふさはしい美しさも品もあり、奉公人の評判も先づ惡くない方です。

外に奉公人は八十幾人、これは片つ端から調べるわけにも行かず、その中には、身許の怪しい者は一人もないといふ大番頭の證言を信ずるより外にはありません。

平次は、其儘引揚げて兎に角與力<ruby><rb>笹野</rb><rt>さゝの</rt></ruby>新三郎の耳へ、一件の始末を<ruby><rb>囁</rb><rt>さゝや</rt></ruby>いて置きました。

「なるほど、それは<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しい。突つ込んて調べ上げたら、飛んだ大物が掛つて來るかも知れない。もう少し見張つて居るがいゝ」

笹野新三郎も<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う言つて油をかけてくれます。

一日、二日と經つうちに『福屋』の一家は新しい不安に<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>されるやうになりました。今までの例によれば、この二十五日には四番目の娘お糸が行方不明になる番です。

お糸といふのは此間行方不明になつた姉のお清と共に、日本橋の二人小町と言はれた美人ですが、自分の身に降りかゝる恐ろしい危難を豫知したものか、近頃は一日増しに<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>いううつ</rt></ruby>になつて行きます。それよりも心配したのは父の善兵衞。

「お糸、何處に居る。お糸」

と少しでも姿を見せないと、家中探し廻るといふあわてやう、全く氣の毒で<ruby><rb>正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>には見て居られません。

「<ruby><rb>此處</rb><rt>ここ</rt></ruby>は人の出入りが<ruby><rb>激</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくて、とても見張つては居られませんから、二十四日の晩からお糸は向島の<ruby><rb>寮</rb><rt>れう</rt></ruby>へやつて置くつもりです。ついては親分、忙しいところを、何とも申し兼ねますが、二十五日一日だけ、娘の側へ附いてやつては下さいませんか。さうして下されば、外の者が百人附いて居るより心強いわけで御座いますが――」

福屋善兵衞が折入つての頼みです。

「相手は何分<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>の者ぢやない。私が見張つて居たところで、<ruby><rb>防</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ぎやうはないかも知れませんよ。それを承知なら一日お邪魔をさせて頂きませう」

錢形の平次ともあらうものが、甚だ自信のないことを言ひます。

## 四

その日、娘のお糸を護つて向島の<ruby><rb>寮</rb><rt>れう</rt></ruby>の警戒は、物々しいと言はうか、<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おほげさ</rt></ruby>と言はうか全く話になりません。日本橋の店から來た屈強な手代が十五六人、それに平次の手下が五六人、寮の番人やら女中やら、本店から來たお糸附の奉公人やら、近所の衆の手傳ひを加へると、總勢三十人あまり。美しいお糸を<ruby><rb>十重二十重</rb><rt>とへはたへ</rt></ruby>に包んで、晝のうちから水も<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らさぬ警戒振りです。

晝のうちは、それでも何事も起りませんが、あまり騷ぎが大袈裟だつたので、夜になると、皆んなの顏には明かに<ruby><rb>疲勞</rb><rt>つかれ</rt></ruby>の色が<ruby><rb>漂</rb><rt>たゞよ</rt></ruby>ひます。

平次はそれを<ruby><rb>督勵</rb><rt>とくれい</rt></ruby>して、厭應言はさず部署につけました。寮の入口といふ入口には、人を二人づつ配置して、危ないと思つた場所には、雨戸一枚に一人といつた工合に、蟻の這ひ出る隙間もなく人を配つてしまひました。

お糸は早くから氣に入りの女中お千代と自分の部屋に籠つてしまひましたが、いかに警戒が大事でも、日本橋小町と<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>はれた十六娘の寢室に押し込んで、その美しい寢顏の番人まですることは平次に出來ることではありません。<ruby><rb>幸</rb><rt>さいは</rt></ruby>ひ行き止りの二方口の部屋ですから、廊下には信用の出來る子分を二人張り込ませ、自分は日本橋からやつて來た大番頭の嘉七、寮の番人夫婦などと一緒に、次の部屋に陣取つて、夜と共に語り明かす決心を定めました。

「お孃樣、お休みなさいませ。お<ruby><rb>召換</rb><rt>めしかへ</rt></ruby>は――まア、其儘で――」

そんな事を言ふ女中の聲が手に取るやう、やがて不安のうちに眠りに就いたものか、隣室の物音がピタリと絶えます。

平次は寮の番人夫婦に目くばせをすると、お神さんは立つて、襖を細目に開けました。中には薄暗い<ruby><rb>街燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の蔭に、派手な夜の物を深々とかぶつた娘の<ruby><rb>頭</rb><rt>つむり</rt></ruby>が、平次の方からも手に取るやうです。

「――」

うなづいて見せるとお神さんは、そのまゝ唐紙を閉めて元の座に歸りました。

向う河岸を山谷堀に通ふ<ruby><rb>猪牙</rb><rt>ちよき</rt></ruby>の音の繼續したのも暫し、やがて向島の土手は<ruby><rb>太古</rb><rt>たいこ</rt></ruby>のやうな<ruby><rb>靜寂</rb><rt>せいじやく</rt></ruby>に更けて行きます。

それから三刻ばかり、家の内外の者は一人として眠つたものはありません。刻々高まつて行く異常な<ruby><rb>昂奮</rb><rt>かうふん</rt></ruby>を抑へて、窓から曉の光の忍び込むのを見た時は、全く腹の底から救はれたやうな心持になりました。

「やれ有難い」

番人夫婦は、明らさまにさう言つて、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>で額を叩いたりなどしました。

雨戸を開けると、一パイに春の陽が、歡喜と希望とを惜し氣もなく家中に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らせます。

が、其時不意に、

「あツ、お孃樣がツ」

隣室から女中の聲。

唐紙を押し倒すやうに飛込んで行くと、お糸の床は<ruby><rb>藻拔</rb><rt>もぬ</rt></ruby>けの<ruby><rb>殼</rb><rt>から</rt></ruby>で、その側に女中のお千代が、あまりの事に尻餅を突いたなり、ろくに口もきけません。

平次は飛付くやうに、床の中へ手を入れました。中はまだ人肌の温みが殘つて、<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどはか</rt></ruby>されたにしても、そんなに遠くへ行つたとも覺えません。

「家から誰も出すな。持場々々を<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>めて、手に餘る奴が飛出したら呼子を吹けツ」

平次は縁端に立つて、<ruby><rb>凛々</rb><rt>りん〱</rt></ruby>と朝の空氣の中に響かせます。

それからまる半日、寮の中は煮えくり返るやうな騷ぎでした。疊をあげ、戸障子を<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>し、天井裏まで入り込んで、鼠一匹見落さないやうに探しましたが、曲者の姿は<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>か、暗がりに隱したらピカピカ光るだらうと思ふやうな、美しいお糸の姿も見えません。

主人善兵衞の歎き、<ruby><rb>繼母</rb><rt>まゝはゝ</rt></ruby>お瀧の<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きは申すまでもなく、第一、これ程嚴重にしても、四番目の娘をさらはれた――では少しばかり大きい口を利いてやつて來た、錢形平次の顏が立ちません。

自尊心の高い男だけに、善兵衞夫婦に合せる顏もなく、トボトボと<ruby><rb>土手</rb><rt>どて</rt></ruby>を本所の方へ歸つて來ると、後ろからソツと平次の肩に手を置いた者があります。

「<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにき</rt></ruby>、大層沈んでるぢやないか」

「えツ」

振り返ると、石原の利助といふ四十男、同じ御用仲間ですが、評判の腕つこきで、平次とは自然、張合となつてる人間です。

「福屋の一件へ兄哥が手を付けたつて話だが、ありやア止した方がいゝぜ」

「それは又何ういふわけだ」

「あの<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどはかし</rt></ruby>なら、俺の方ぢやもう<ruby><rb>檢擧</rb><rt>あげ</rt></ruby>るばかりになつて居るんだ。滿更知らねえ顏でもない兄哥に恥を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>かせるでもないと思つてね」

「えツ」

嫌な事を言ひ殘して、利助は向島の方へ――、後も見ずに立去ります。

## 五

五人兄妹の四人まで、五の日〱にさらつたと言ふので、『福屋』の事件は江戸中の騷ぎになりました。その日のうちに<ruby><rb>瓦版</rb><rt>かはらばん</rt></ruby>が出て辻々を呼び歩く騷ぎ、錢形の平次が寢ずの番で見張つてゐて、まんまと出し拔かれたと言ふのですから、それは全く江戸ツ子を夢中にさせるだけの値打はあります。

與力筆頭笹野新三郎も、斯うなつては捨て置くわけに行きません。日頃可愛がつてゐる錢形の平次ですが、役向の手前呼び付けてツイ苦い顏も見せなければなりません。

「何うした事だ、平次。お前にも似合はない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へま</span>ぢやないか」

「へエ――、誠に、面目次第も御座いません。世間並に高が繼母の細工か何かだらうと思つたのが大<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじり</rt></ruby>のもとで――」

「と言ふと、<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどはかし</rt></ruby>は繼母のお瀧ではないといふやうに聞えるが、<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かにさういつた見込みでもあるのか」

笹野新三郎は少し意外な面持です。

「<ruby><rb>確</rb><rt>し</rt></ruby>かとは申し上げられませんが、あれほど<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかな藝當は、女一人の手で出來るわけは御座いません。それにあの繼母のお瀧つて女は、どうしてもそんな惡婆とは思はれないので御座います」

「と言ふと、平次は何時の間にやら人相の方もやるのか」

「へエ――」

此頃の與力には恐ろしく<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>た人があつたもので、平次も二の句が繼げなくなります。

「實はな平次、今日石原の利助が、あの繼母のお瀧を擧げて來たんだ」

「あツ、到頭やりやがつた」

「お前にも心當りがあるのか」

「いゝえ、繼母のお瀧が惡事をするか何うか、そんな心當りぢや御座いません。利助兄哥が此間嫌な事を言つて居りましたから、私の鼻を明かすつもりでそれ位の事はやり兼ねません」

「さうか」

と言つたが、笹野新三郎は<ruby><rb>何方</rb><rt>どつち</rt></ruby>の肩も持つやうな事も言ひません。

「かうなれば、私も死物狂ひでやつて見ます。どうか、もう二三日お待ちなすつて下さいまし」

「何時までも待つてやるが、其代り、もう次の五の日が來るぞ。五人兄妹種無しにさらはせて了つた後では、仕事がやり憎くはないかな」

「へエ――」

平次は<ruby><rb>悄然</rb><rt>せうぜん</rt></ruby>として笹野新三郎の前を滑りました。

<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>多い晩春の<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆふべ</rt></ruby>、八丁堀から大川端へ出ると、何だかかう泣きたくなるやうな風物です。

せめてこれが、『子供を返すから金をくれ』とか何とか言つて來ると、當りも付くわけですが、血を流さず金も欲しがらずでは、一體何を目當に、こんな<ruby><rb>殘酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>なことをするのか、平次にはまるつきり見當も付きません。

## 六

「お、とつつあん、久し振りだネ、あれから何處に居なすつたんだ」

「親分さん、お早う御座います。日本橋のお店で雜用を致して居りますが、今日は向島の寮が<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しいから、彼方へ行つて見てくれといふお話しで――」

「もう死ぬ氣はないだらうね」

「へ、へツ、どうも、その節はまことに有難う御座いました」

さういへば、いつぞや平次が錢を飛ばして、身投を救つてやつた<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>です。

「ところで、とつつあんは晩まで此方に居るだらうね」

「へエ、居りますつもりで」

「それでは、とつつあんを見込んで頼みがある、引受けてくれるだらうか」

「それはもう、親分の仰しやる事なら命にかけてもお引受けいたします」

「そんな大した事ぢやないんだが、此寮の中には、お前さんほど氣心の判つた人はないし、第一死ぬ氣にまでなつた人なんだから、お前さんの正直は<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かだ、――どうかすると、此役目が一番大事かも知れないよ。ちよいと、耳を貸してくんな」

平次は老爺の耳に口を寄せて、何やら囁いて居ります。

「へエへエ成程、へエ」

「判つたか、人に<ruby><rb>覺</rb><rt>さと</rt></ruby>られちや、何にもならないよ」

「へエへエ」

爺は<ruby><rb>唯々</rb><rt>ゐゝ</rt></ruby>として向うへ行つてしまひました。まだ朝のうちで、そんな手廻しには、誰も氣が付きません。

福屋善兵衞の最後の寳、五番目の榮三郎が狙はれるであらうと思はれて居る五日の朝から、平次は向島の寮に入り込んで、八<ruby><rb>門遁甲</rb><rt>もんとんかふ</rt></ruby>の陣を敷くほど念入りに準備を整へました。

曲者は玄關からも雨戸からも入るのではないといふことは、判り過ぎるほど判つて居りますから、今夜は外の警戒を一切<ruby><rb>撤回</rb><rt>てつくわい</rt></ruby>して、三十幾人の頭をすつかり家の中に集中してしまひました。

寮のことで、大して大きい部屋はありませんが、それでも奧八疊と六疊二た間打つこ拔いて、その中程のところに、<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>はれて居る筈の榮三郎を置き、その外へ平次の子分、福屋の手代、番頭、近所の衆など總勢三十餘人、二重の人垣を作つて嚴重に取圍みました。

暖かい時分ですが、<ruby><rb>曉方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>の冷えを勘定に入れて大火鉢へ埋火二杯、煙草盆と茶と、菓子と、足の踏みどころもなく配つた上、百日<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>を點けた<ruby><rb>大燭臺</rb><rt>おほしよくだい</rt></ruby>が四<ruby><rb>基</rb><rt>き</rt></ruby>、二つは榮三郎の左右へ、女中のお千代が護つて<ruby><rb>控</rb><rt>ひか</rt></ruby>へ、二つは部屋の入口へ、見知り越しの近所の娘が番をして居ります。

平次と主人の善丘衞が、丁度中程のところに相對して、夕景から座を起たず、ポツリポツリ話して居ります。繼母のお瀧が召捕られてから、善兵衞の氣の<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けやうは見る眼も氣の毒で、急に十ばかり年を取つたかと思ふ樣子、ハタからは全く<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>めやうもありません。

お<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>ならお通夜で、故人を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶ話位はあるでせうが、生きた人間を、神變不可思議な曲者の<ruby><rb>襲撃</rb><rt>しふげき</rt></ruby>から護らうといふのですから、その不氣味さと言ふものはありません。四回が四回とも、全く違つた手でさらつてをりますから、今晩は何んな<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>でやつて來るか、――さう考へただけでもぞつと寒氣立ちます。

「親分、大丈夫で御座いませうか」

善兵衞は先刻から、何遍も〱この同じ<ruby><rb>問</rb><rt>とひ</rt></ruby>を繰り返しますが、

「何とも言へません。兎に角出來るだけの事をやつて見ませう」

平次の答へも、判こで<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>したやうに同じです。

## 七

<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>少し廻つた頃。

不安と緊張は益々加はるばかり、一座の人達も漸くその壓迫から逃れようとして居りました。何か素晴らしい事件が爆發するか、でなければ、大きな聲で精一杯<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りでもしなければ、三十幾人が皆な氣が<ruby><rb>狂</rb><rt>ふ</rt></ruby>れてしまひさうな心持だつたのです。

その中に、美しい女中のお千代が、そつと立ち上がりました。何をするかと思ふと、蝋燭に溜つた<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>る爲で、<ruby><rb>眞鍮</rb><rt>しんちゆう</rt></ruby>の<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>を取つて、燭臺の上へ持つて行きましたが、何うした<ruby><rb>機</rb><rt>はず</rt></ruby>みか、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>が<ruby><rb>觸</rb><rt>さは</rt></ruby>つて一基の燭臺を横倒しにしてしまひました。

ハツと思つて手を退ると、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にあつたもう一基の<ruby><rb>燭臺</rb><rt>しよくだい</rt></ruby>も引繰り返つてしまひます。

「アツ」

と思ふ間もありません。それと同時に、近所の娘が護つて居た、あとの二臺の燭臺も、誰が觸るともなくバタリと倒れて、部屋の中は眞つ暗。

「キヤツ」

「助けてツ」

悲鳴と共に、どたり、ばたりと立ち騷ぐ物音。その中を唯一人冷靜な聲で、

「<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>だ、灯だ、勝手から持つて來てくれ」

と言ふのは錢形の平次です。

<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>しこれだけ<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんだう</rt></ruby>すると、急にお勝手へ飛んで行つて、行燈や手燭を持つて來るほどの氣の廻る人間もなく、お勝手に居る<ruby><rb>飯炊</rb><rt>めした</rt></ruby>きと近所の女房達は、奧の騷ぎにすつかり<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えてしまつて、急の事では腰も<ruby><rb>伸</rb><rt>のば</rt></ruby>せません。

「早く、<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>、灯、坊つちやんは俺が<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>へて居る」

二度目の平次の聲に、勢ひを待て飛出した二三人の子分。臺所へ飛んで行つて、行燈と手燭と有りつたけの灯を持つて來ると、――

これは何とした事でせう、部屋の中は、實に<ruby><rb>亂離骨灰</rb><rt>らんりこつぱひ</rt></ruby>、のた打ち廻る人間と、散らばされた道具類で、足の踏場もありません。

それよりも驚いたのは、榮三郎の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を<ruby><rb>確</rb><rt>しつか</rt></ruby>り掴んで居ると思つた錢形の平次でした。掴むには<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かに掴んで居りますが、それは榮三郎の裾ではなくて、最初の燭臺を倒した、美しい女中のお千代の裾、しかも紅く<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしくさへある裾を確り掴んで、泳ぐ形に<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>ひになつて居るのでした。

「あツ」

「坊つちやんが見えない」

「榮坊が居ないツ」

成程、榮三郎を坐らせて居た座蒲團だけが、部屋の眞ん中に冷たく殘つて、その上に居る子供の姿は<ruby><rb>掻消</rb><rt>かきけ</rt></ruby>しでもしたやうに見えなくなつて居るのです。

三十幾人の無力な護衞達は、暫らく口を利くものもありません。幾度も〱其邊中を見廻し、また主人の善兵衞は、いよ〱最後の愛兒もさらはれてしまつた事を確かめると、其儘、

「ウーム」

と氣を<ruby><rb>喪</rb><rt>うし</rt></ruby>なつて了ひました。

女中のお千代は、平次の手から取られた裾を<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に引離すと、

「到頭――」

さう言つて顏を<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>けました。勝ち誇つて居るのか、腹を立てて居るのか、まるつきり見當が付きません。

それにこの美しい女中が充分怪しいと思つたところで、平次が<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>の間に裾を掴んで引据ゑて居たのですから、これが榮三郎を隱したのでないことは、判り過ぎるほど判つて居ります。

家の中は又<ruby><rb>大掃除</rb><rt>おほさうぢ</rt></ruby>ほど探し拔かれましたが、平次はもうそんな事を當てにしません。フラリと飛出すと、ツイ寮の入口から、向島の<ruby><rb>土手</rb><rt>どて</rt></ruby>の上に驅け上がつてしまひました。

## 八

「<ruby><rb>老爺</rb><rt>とつ</rt></ruby>つあん」

「あツ、親分」

「どうだ、見たか」

「仰しやつた通り、引窓から黒い者が飛出しましたよ」

「何方へ行つた？」

「何か引つ<ruby><rb>擔</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで居る樣子でしたが、この通りの闇ではつきりした事は判りません。屋根からいきなり櫻の枝に飛付くと、土手へ這ひ上つて上手の方へ行きましたよ」

「何、上手？」

「追い驅けて見ましたが、早いのなんの、年寄の足ぢや追ひ付くことぢや御座いません。そのうちに、土手を滑り落ちたと思ふと、下に<ruby><rb>輕舸</rb><rt>はしけ</rt></ruby>が用意してあつて、飛乘ると今度は下手の方へ<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いで行きましたよ」

「あ、矢張り」

言ふまでもなく、いつぞや身投げを助けられた老爺と錢形の平次、寮の騷ぎを<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>に、土手の蔭にヒソヒソと話します。

爺を土手に置いて、屋根の上を見張らせたのは實に<ruby><rb>慧眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>ですが、折角姿を見た曲者を逃がしてしまつては何にもなりません。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し平次は何か<ruby><rb>思惑</rb><rt>おもわく</rt></ruby>があるのか、別にそれを<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>む風もなく、暫らく腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>いて考へて居りました。

「ね、親分さん」

「シツ」

話しかけようとする<ruby><rb>爺</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>の口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぐやうに、平次は櫻の老樹の蔭に身を<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めます。

寮の勝手元から、ソロリと滑り出した人影、二人の潜んだ櫻の側へ差かゝると、

「待て」

「あツ」

平次の手はその襟首へむんずと掛りました。

「そんな事だらうと思つた、來い」

引つ立てて、灯の屆くところへ來ると、それは<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもない女中のお千代です。

其儘女の首根つこを掴んで家へ入ると、主人の善兵衞は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く正氣付きましたが、あまりの衝動に、まだ口をきく氣力もありません。

「これは一體何うした事で御座いませう」

おろ〱する大番頭へ、

「大方の見當は付きました。曲者は逃げてしまつたが、片割れは捕まりましたよ。此女を見てやつて下さい」

突き出された女中のお千代は、打ち<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れた風もなく、その美しい頬に冷たい笑ひをさへ浮べて居ります。

「曲者は何うして逃げたのでせう、親分」

取卷く人達を<ruby><rb>顧</rb><rt>かへり</rt></ruby>み<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、平次は床の間に登つて、<ruby><rb>狆潜</rb><rt>ちんくゞ</rt></ruby>りの<ruby><rb>框</rb><rt>わく</rt></ruby>へ足を掛けると、<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>に片手を掛けて、床の間の天井の板を押して見ました。思つた通り、天井坂は二枚ほど樂に開いて、其上には、眞つ暗な天井裏が口を開きます、下を見ると床の間の<ruby><rb>花瓶</rb><rt>くわびん</rt></ruby>の上には、天井から落ちたらしい<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>さへ見えるのでした。

「矢張りこれだ。燭臺を倒して置いて、坊つちやんをさらつて、此處から飛出したに相違ありません。武術の心得があつて、身體が輕い者なら出來ない事はない――」

成程さう言はれゝばそれに相違ありませんが、曲者は上から降りて來たのではなく、お千代と一緒に燭臺を倒して、此處から子供をさらつて逃出したとすれば、宵の内から一座の中に立ち<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>つて居たわけですが、誰の眼にも氣が付かなかつたのは不思議です。

「すると、此前のお孃さんをさらつたのは、矢張り今度と同じ手段でせうか」

誰やら、そんな事を聞きます。

「いや、あれは違ひませう。この女に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>けばわかるが、多分、お孃さんを宵の内におびき出して置いて、この女中がお孃さんの部屋で一人二役をやつたに違ひありません。さうでもなければテニヲハが合はない事がある――今晩と違つて靜かにして居たから、天井裏を歩くのが解らない筈もなし、それに<ruby><rb>曉方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>まで<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かに床の中に人が居たやうだから、――な、女中さん、それに相違あるまい」

平次に問はれたお千代は、妙に意味の深い微笑を浮べてうなづくばかりでした。

「ところで親分、その娘を痛め付けて、相棒が何處に居るか五人の子供さん方が生きて居るか死んで居るか、生きて居るとしたら、何處に隱してあるか、何も彼も白状させてしまひませう」

と子分の者。

正氣づいたばかりの主人も、大番頭も、それを聞いて急に活氣付きました。

「どうだお千代――皆んなは、あんなに言ふが、お前はどう思ふ」

平次は子分に<ruby><rb>掴</rb><rt>つかま</rt></ruby>へさして居る女中の顏を覗いて、こんな事を言つて居ります。

お千代は何とも言ひません。觀念し切つた樣子で、眉も動かさずにその細つそりした肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>やかすばかりでした。

「この女は<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>な事では口を開かないだらうよ。それに俺には、この女の相棒の當りが付いて居る」

「えツ」

「相棒といふのは、今まで燭臺の側に居たもう一人の娘だ。あれは近所の衆のやうな顏をして居るが、實は男だつたんだよ」

驚いたのは、主人よりも番頭衆よりも、子分衆よりも、今まで冷靜そのもののやうに取濟して居たお千代でした。

## 九

明る日の朝、丁度兩國の見世物小屋の木戸が開かうといふ時、<ruby><rb>振袖源太</rb><rt>ふりそでげんた</rt></ruby>の輕業小屋は、錢形平次の子分で八方から取圍まれてしまひました。別に<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどはか</rt></ruby>しの確證があるわけではないので、與力同心の出役はありません。十手を預る錢形平次が、見込みで召捕つて、證據を突き付けて口を開かせるつもり、一つは<ruby><rb>繼母</rb><rt>けいぼ</rt></ruby>を擧げた石原の利助への<ruby><rb>面當</rb><rt>つらあ</rt></ruby>てもあつたでせうが、兎に角、この時代には、こんな形式の捕物も決して珍らしくはなかつたのです。

其代り引つれて來たのは、人數は少いが、一騎當千の腕つこきばかり。

「源太御用だツ」

「神妙にしろ」

木戸が開くと同時に、觀客と一緒に<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れ込んだ捕方、サツと樂屋に飛込んで源太を取圍みます。

此方は振袖源太、もう<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な舞臺着の振袖を着て、<ruby><rb>萠黄緞子</rb><rt>もえぎどんす</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を着けて居りましたが、御用の聲を聞くと、側に置いた小道具の一刀を取るより早く、舞臺の上に掛け連ねた、<ruby><rb>鞦韆</rb><rt>ぶらんこ</rt></ruby>、綱、<ruby><rb>撞木</rb><rt>しゆもく</rt></ruby>などの間を<ruby><rb>猿</rb><rt>ましら</rt></ruby>のやうにサツと昇りました。土間へ半分ばかり入つた觀客は、<ruby><rb>俄</rb><rt>にはか</rt></ruby>の捕物に顛倒して、

「ワーツ」

と云ふ騷ぎ、木戸へ飛出すもの、土間へ引くり返るもの、<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み、叫び、泣き、一瞬にして芋を洗ふやうな混亂が始まります。

「振袖源太、神妙にしろ。福屋の兄妹を五人まで<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどはか</rt></ruby>した事がお上に相判つたぞツ。逃げようとして逃げられる場合ではない。なまじ罪を重ねるより、お繩を頂戴して、兄妹の<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>を申上げろ」

錢形の平次、土間に突つ立つて見上げ乍ら<ruby><rb>凛々</rb><rt>りん〱</rt></ruby>と響かせます。

「お、錢形の平次か、岡つ引でもお前なら少しは話が解るだらう。暫らく其處で聞けツ」

「何？」

振袖源太は、赤地總模樣の大振袖の腕を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>り上げて、<ruby><rb>拳下</rb><rt>こぶしさが</rt></ruby>りに一刀を構へたまゝ。三丈餘りの<ruby><rb>高梁</rb><rt>たかはり</rt></ruby>の上から、土間の平次を見下ろしました。

藝人の<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいけう</rt></ruby>で前髮は立てて居りますが、もう二十二三にもなるでせうか、恐ろしい<ruby><rb>美貌</rb><rt>びばう</rt></ruby>で、引締つた<ruby><rb>細顎</rb><rt>ほそあご</rt></ruby>、長い眼、ふくよかな顎、<ruby><rb>華奢</rb><rt>きやしや</rt></ruby>にさへ見える恰好など、何う見ても十七八以上とは思はれません。

「俺は、あの福屋一家には<ruby><rb>七度</rb><rt>なゝたび</rt></ruby>生れ變つても<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>い切れないほどの<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>がある」

「――」

その氣組の激しさに、客も捕方も、一座の藝人も、暫く<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>として耳を<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>けます。

「<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく言つたら際限もねえ。俺は福屋の爲に<ruby><rb>沒落</rb><rt>ぼつらく</rt></ruby>した、本家福屋の伜だと言つたら、お前にも判るだらう。公儀御用の呉服屋、<ruby><rb>西陣</rb><rt>にしぢん</rt></ruby>の織物を一手に<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>いた本家福屋の番頭から仕上げた善兵衞が、<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を分けて貰ふと、公儀に<ruby><rb>讒訴</rb><rt>ざんそ</rt></ruby>をして、<ruby><rb>天草</rb><rt>あまくさ</rt></ruby>の旗指物を引受けたとか、身分不相應の<ruby><rb>奢侈</rb><rt>しやし</rt></ruby><ruby><rb>僭上</rb><rt>せんじやう</rt></ruby>に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>つたとか、根も葉もない事を言ひ立て、その爲に父は遠島、母は病死、家は<ruby><rb>沒收</rb><rt>ぼつしう</rt></ruby>、本家福屋は見る影もない有樣にされたのを怨まれずに居られようか」

「――」

「俺は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く命だけを拾つて、長崎へ落延び、異人に<ruby><rb>輕業</rb><rt>かるわざ</rt></ruby>を教はつて江戸へ乘り込んで來ると、善兵衞はあの通り日の出の勢ひだ。子供一人づつ<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどはか</rt></ruby>して、あの犬畜生に死ぬよりも辛い苦しみを<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めさせようと思つたのが何うして惡い。なア平次、お前が俺だつたら、指をくはへて敵の榮華を眺めて居る氣か」

美しい顏は<ruby><rb>昂奮</rb><rt>かうふん</rt></ruby>に輝いて、その眼は火のやうに燃えます。

## 十

「いや、善兵衞には罪はあるだらうが、子供等は何にも知らない。その樣な無法な事を云ふものではない。默つてお繩を頂戴して、五人の兄妹の<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>を言へツ」

平次もなか〱引いては居ません。

「お、言つてやらう。が、言つたら最後五人とも助からぬぞツ」

「何だと」

「見ろ、此太繩を切つて落せば、五人は道具部屋の中で<ruby><rb>巨石</rb><rt>おほいし</rt></ruby>に打たれて<ruby><rb>鹽辛</rb><rt>しほから</rt></ruby>になつて死ぬばかりだ」

「えツ」

「ハツ、ハツ、ハツ、驚いたか平次。萬一の事を考へて、俺はこれだけの用意をしたのだ――今まで彼方此方に散らして置いた五人の兄妹は、昨夜<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>めて此處へ連れ込んで、以前熊を入れた<ruby><rb>檻</rb><rt>をり</rt></ruby>の中へ投り込んである。檻の天井には百貫目以上の石を釣つてあるから、此處を切れば待て暫しはねえ、――どつこい動くな、<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>に動くと、今眼の前で此處を切るぞ」

振り冠つたのは小道具物乍ら<ruby><rb>眞刄</rb><rt>ほんば</rt></ruby>の一刀、<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>から<ruby><rb>斜</rb><rt>なゝめ</rt></ruby>に走る太綱を睨んて、今にも振り下ろさうとします。赤い振袖を着た<ruby><rb>稀代</rb><rt>きだい</rt></ruby>の美男が、<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしう</rt></ruby>の快感に浸つて、キラキラと眼を輝やかす樣は、言ひやうもなく物凄まじい觀物です。

「待て〱源太。その綱を切つて、五人兄妹を殺せば、お前の女房のお千代は、主殺しの罪で<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>だぞ」

「ウーム」

平次は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く源太の急所を見付け出しました。

「女を引つ立てて來い」

平次が木戸口へ聲を掛けると、

「應ツ」

引立てられて來たのは、<ruby><rb>雁字</rb><rt>がんじ</rt></ruby>がらめに<ruby><rb>縛</rb><rt>しば</rt></ruby>り上げられたお千代、思はず仰いで夫の源太を見ると、

「あ、お前さん」

固く引締つた顏が<ruby><rb>柔</rb><rt>やは</rt></ruby>らいで、美しい血潮が頬を染めます。

「お千代」

「私に<ruby><rb>構</rb><rt>かま</rt></ruby>はず、其綱を<ruby><rb>斷</rb><rt>た</rt></ruby>つてお<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ひよ。私ア磔柱の上から、福屋の屋根にペンペン草の生えるのを見てやりたい」

なんといふ氣の強い女でせう。その美しさも<ruby><rb>滅法</rb><rt>めつぽふ</rt></ruby>ですが、言ふ事を聞くと大の男を顫へ上がらせます。

「待て〱、もう一つ言つて聞かせる事がある。宿屋善兵衞は五番目の伜を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどは</rt></ruby>かされて、歎きの餘り、今朝死んで了つたぞ」

平次は最後の切札を出しました。

「えツ」

「それでお前達の怨みも消えるだらう。五人の子供達に罪はない、平次が惡いやうには<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>らはない、許してやれ」

「――」

「敵は討ち過ぎるものぢやない。サア、お前の女房の命と五人の命と<ruby><rb>釣換</rb><rt>つりか</rt></ruby>へだ。此繩を解いてやるから、お前も降りて來い」

平次は本當にお千代の<ruby><rb>雁字</rb><rt>がんじ</rt></ruby>がらめを解き始めました。赤い振袖の夫と、必死の繩目から解放された女房は、上と下とで感慨深く顏を合せます。

×　　　　　　×　　　　　　×

「平次、お前は又大事な捕物を逃したさうぢやないか」

「へエ――」

與力の笹野新三郎、少し苦り切つてかう申します。

「お千代の綱を解いて、源太と一緒に逃すなどは、少しやり過ぎではないか」

「面目次第も御座いません」

平次はこの若い與力の前へ、<ruby><rb>惡戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>つ<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>のやうに小さくなりました。

「まア、よい。五人の命を助けた手柄に<ruby><rb>免</rb><rt>めん</rt></ruby>じて、今度だけは<ruby><rb>朝倉石見守</rb><rt>あさくらいはみのかみ</rt></ruby>樣の手前を取りつくろつてやらう。以後はならぬぞ」

「へエ、有難う存じます」

「お前の道樂にも困つたものだな、ハツハツハツ」

<ruby><rb>朗</rb><rt>ほが</rt></ruby>らかに笑ふ新三郎を伏し拜んで、平次は八丁堀の往來へ飛出しました。襟へベツトリ冷汗。

平次は斯うして又一つ<ruby><rb>失策</rb><rt>しくじ</rt></ruby>つてしまひました。『手柄をしない平次』の名は、お蔭で又<ruby><rb>一際</rb><rt>ひときは</rt></ruby>高くなることでせう。

振袖源太と女房のお千代とは、それつ切り<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>知れず、石原の利助は<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく小さくなつて<ruby><rb>引籠</rb><rt>ひきこも</rt></ruby>りました。

言ひ落しましたが、五の日〱を選んで五人兄嫁をさらつたのは、源太の父が流されたのは五日で、母が死んだのが十五日だからだと言ひます。