## 一

「親分、小柳町の<ruby><rb>伊丹屋</rb><rt>いたみや</rt></ruby>の若旦那が來ましたぜ。何か大變な事があるんですつて」

「恐ろしく早いぢやないか、待たしておけ」

「へエ――」

平次は八五郎を追ひやるやうに、ガブガブと<ruby><rb>嗽</rb><rt>うが</rt></ruby>ひをしました。

美しい朝です。鼻の先がつかへる<ruby><rb>狹</rb><rt>せま</rt></ruby>い路地の中へも、金粉を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らしたやうな光が一パイに射して、初夏の<ruby><rb>爽</rb><rt>さは</rt></ruby>やかさが、袖にも<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>にも香りさう、耳を澄ますと明神の森のあたりで、小鳥が朝の<ruby><rb>營</rb><rt>いとな</rt></ruby>みにいそしむ<ruby><rb>囀</rb><rt>さへづ</rt></ruby>りが聞えます。

こんな快適な朝――起き拔けの平次を待ち構へてゐるのは、一體どんな仕事でせう。<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>い事件の豫感に、平次は<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちよつと</rt></ruby><ruby><rb>憂欝</rb><rt>いううつ</rt></ruby>になりましたが、直ぐ氣を變へて、ぞんざいに顏を洗ふと、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>を撫で付け乍ら家へ<ruby><rb>入</rb><rt>はひ</rt></ruby>つて行きました。

「親分、た、大變なことになりました」

伊丹屋の大身代を<ruby><rb>繼</rb><rt>つ</rt></ruby>いだばかり、まだ若旦那で通つてゐる駒次郎は、平次の顏を見ると、上がり<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>から起ち上がりました。少し<ruby><rb>華奢</rb><rt>きやしや</rt></ruby>な、背の高い男です。

「駒次郎さんかい、――どうしなすつたえ？」

萬兩<ruby><rb>分限</rb><rt>ぶげん</rt></ruby>の地主の子に生れた駒次郎は、この春伊丹屋の主人になつて、<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もらしい<ruby><rb>尾鰭</rb><rt>をひれ</rt></ruby>を加へたにしても、平次の眼にはまだ道樂者の若旦那でしかなかつたのです。

「皆んな、隱せるものなら隱す方がいゝつて言ひますが、私はあんまり<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいから、親分の力を借りて、<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>を見付け、二度とそんな事のないやうにしてやりたいと思ひます」

駒次郎は、女の子のやうに、少し品を作つてお<ruby><rb>辭儀</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をしました。色の白さも、襟の青さも、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を引く<ruby><rb>單衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>の長さも、そのまゝ芝居に出て來る二枚目です。

「隱すの、下手人の――つて、一體それは、どんな事で？」

「親分、聞いて下さい。昨夜向柳原の<ruby><rb>十三屋</rb><rt>とみや</rt></ruby>のお<ruby><rb>曾與</rb><rt>そよ</rt></ruby>が殺されましたよ」

「えツ」

「母親と一緒に風呂へ行つた歸り、――一と足先に歸つて來たところを路地の中で<ruby><rb>絞</rb><rt>し</rt></ruby>められて――」

「それを隱して置く法はない、誰がそんな事を言ひ出したんだ」

「私の家の番頭達が言ひ出し、<ruby><rb>十三屋</rb><rt>とみや</rt></ruby>へは金をやつて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うやむや</span>にするつもりでした」

平次も驚きました。向柳原の名物娘が一人、絞め殺されて死んだのを、うやむやに<ruby><rb>葬</rb><rt>はうむ</rt></ruby>るといふのは、あまりと言へばわけが解らなさ過ぎます。

「十三屋のお<ruby><rb>曾與</rb><rt>そよ</rt></ruby>は、お前さんところへ嫁入りする筈だつたぢやないか」

十三屋の文吉が、娘のお曾與を<ruby><rb>伊丹屋</rb><rt>いたみや</rt></ruby>に嫁入りさせることになつた話は、平次の耳にもよく聞えてゐたのです。

「さうですよ、祝言は三日の後――この二十五日といふことになつて居ました」

駒次郎はいかにも<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさうです。

「成程、そいつは氣の毒だ」

「番頭や親類が集まつて、――こんな噂がパツと立つて、萬一呼賣の<ruby><rb>瓦版</rb><rt>かはらばん</rt></ruby>にでも<ruby><rb>刷</rb><rt>す</rt></ruby>られたら、伊丹屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>に<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>が付く、それよりは金で濟むことなら、十三屋へ金をやつて、内々にするがいゝと、かう言ひます」

「無法な人達だな」

「でも私は口惜しくて口惜しくてたまりません。嫁を貰ふのを一々怨まれちや、やり切れないぢやありませんか。この先もあることですから、どうぞ下手人をあげて、お<ruby><rb>處刑</rb><rt>しおき</rt></ruby>に上げて下さい、親分」

「お前さん、怨まれる心當りがあると言ふのかえ」

「――」

駒次郎は默つてしまひました。が、この樣子では、金があるに任せて、飛んだ罪を作つてゐるのかもわかりません。

「八、一と足先に行つて見てくれ。怨まれる筋があるさうだから、思ひの外手輕に<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>の當りが付くかも知れない」

「へエ――」

八五郎のガラツ八は、伊丹屋の駒次郎を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して、一と足先に出て行きました。後には平次、<ruby><rb>悠々</rb><rt>いう〱</rt></ruby>と朝飯にして、お靜と無駄を言ひ乍ら、陽の<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けるのを待つて居ります。簡單に<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>があきさうな事件を、なるべくガラツ八に任せて、手柄をさせようといふ心持でせう。

## 二

間もなく八五郎が歸つて來ました。

「親分、濟まねえが、ちよいと智惠を貸して下さい」

「何だ、もう見當が付く頃ぢやないのか。嫁入り前の娘を殺す奴は、大抵極つてゐる筈だ」

「それが一向決つてゐないから不思議で――」

「どうしたんだ」

「下手人の匂ひのするのが多過ぎるんですよ、親分」

ガラツ八は事件の<ruby><rb>外貌</rb><rt>ぐわいばう</rt></ruby>を一と通り説明しました。

娘の親の<ruby><rb>十三屋</rb><rt>とみや</rt></ruby>文吉といふのは、向柳原の毛蟲のやうに思はれてゐるかれこれ屋で、十三屋ぢやない千三つ屋だといはれる五十男、娘のお<ruby><rb>曾與</rb><rt>そよ</rt></ruby>が不思議に美しく生れ付いたのを利用して、一番有利な取引を心掛け、到頭小柳町の萬兩<ruby><rb>分限</rb><rt>ぶげん</rt></ruby>、伊丹屋駒次郎の嫁にするところまで<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎつけたのでした。

伊丹屋の先代、――この春死んだ駒次郎の父親が生きてゐたら、この祝言は成立たなかつたでせう。十三屋文吉のやうな、評判の惡い男の娘を嫁にすることは、お曾與がどんなに良い娘であつたにしても、大地主で<ruby><rb>舊家</rb><rt>きうか</rt></ruby>で、神田で何番と指を折られる格式の伊丹屋に取つては、まことに我慢のならない事だつたに違ひありません。

駒次郎はまた典型的な道樂息子で、八五郎の言葉を借りて言へば、

「あれは馬鹿野郎ですよ、金で世間の女が何うにでもなると思つてやがる、――その金で自由になつた女が、皆な自分に血道をあげると思ひ込んでゐるから<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじいぢやありませんか。だから、お曾與殺しの下手人が<ruby><rb>擧</rb><rt>あが</rt></ruby>らなきや、神田中の綺麗な娘が、種切れになると、大眞目面で思ひ込んでやがるから世話はない」

かう言つて、ペツペツと<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐くのです。

「八、その家の中から庭へ唾を飛ばすのだけは止してくれ。大層見事な藝當だが、千番に一番間違つて、疊へ落ちた日にや、<ruby><rb>表替</rb><rt>おもてがへ</rt></ruby>でもしなきや追つ付くまい」

「へツ」

八五郎はポリポリと<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>を掻きました。

「ところで話の續きはどうした」

「そこで、<ruby><rb>十三屋</rb><rt>とみや</rt></ruby>へ乘込んでお<ruby><rb>曾與</rb><rt>そよ</rt></ruby>の死體を見せて貰つたが――親分、良い心持のものぢやないね、あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>が達者なときはたまにからかつても見たが、駒次郎といふ大きな<ruby><rb>餌</rb><rt>ゑさ</rt></ruby>に喰ひ付いてゐるせゐか、こちとらには<ruby><rb>鼻汁</rb><rt>はな</rt></ruby>も引つかけなかつた娘だが、死んで見ると可哀想だ」

「無駄はいゝ加減にして、それから何うした？」

「娘は路地の外で殺されてゐたのを、一足おくれて歸つて來たお袋が、<ruby><rb>躓</rb><rt>つまづ</rt></ruby>いて氣が付いた、まだ月は出なかつたし、昨夜は<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に暗かつた」

「――」

「起して見ると、自分の娘のお曾與が、<ruby><rb>白木</rb><rt>しろき</rt></ruby>の三尺で絞め殺されてゐる――」

「白木の三尺？」

「その三尺は誰のだと思ひます、親分？」

「下手人ので無いことだけは<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かだらうよ」

「えらいツ、さすがは錢形親分だ」

「馬鹿だなア」

「その三尺の持主は、同じ町内のやくざ野郎で、勘三郎のものと知れた」

「あの、大工くづれの？」

「しめたと思つたから、飛んで行つて勘三郎を擧げるつもりだつたが、いけねえ、――肝腎の勘三郎は、三日前から<ruby><rb>霍亂</rb><rt>くわくらん</rt></ruby>に<ruby><rb>罹</rb><rt>かゝ</rt></ruby>つて、死ぬやうな騷ぎだ」

「本當か」

「<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>く<ruby><rb>瀉</rb><rt>くだ</rt></ruby>すで、げつそり痩せてゐるから、嘘ぢやないでせう。妹のお袖が、枕元に附きつ切りで介抱だ」

「フーム」

「そのお袖がまた、殺されたお曾與の前に、駒次郎と評判が立つてゐたいふから<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>事ぢやありませんか」

「フーム」

「その上兄の勘三郎は、お<ruby><rb>曾與</rb><rt>そよ</rt></ruby>と仲が良かつた。伊丹屋へ嫁に行く話の始まる前は、妹のお袖の友達でもあり、ツイ冗談の一つも言ひ合つた仲だといふから、どんな事がないとも限らない」

「それつ切りか」

「まだありますよ、親分、伊丹屋の馬鹿野郎は小唄の師匠のお舟の世話も燒いてゐた」

「そんな話を聞いたこともあるやうだな」

「月々かなりのものを仕送つて、<ruby><rb>狼</rb><rt>おほかみ</rt></ruby>連が歸ると、長火鉢の猫板の上へ、長い頤を載つけて置いたつて言ふぢやありませんか」

「まだ續いてゐるか」

「お曾與の話が始まつてから、手切の金をやつて、綺麗に切れたとは言つてますがね」

「フーム」

「當てになつたものぢやありませんや。すると、お曾與を殺しさうなのは、勘三郎と、その妹のお袖と、師匠のお舟と――」

「勘三郎とお袖でなきや、お舟に決つたやうなものぢやないか」

と平次。

「ところが、お舟も<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は一と足も外へ出ねえ」

「はてな？」

「お舟のところに<ruby><rb>居候</rb><rt>ゐさふらふ</rt></ruby>してゐる和助――<ruby><rb>從兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>とか何とかいふ、不景氣な野郎を親分は知りませんか」

「知らないよ」

「三十がらみの<ruby><rb>青瓢箪</rb><rt>あをべうたん</rt></ruby>野郎で、大きな聲で物も言へない、物の<ruby><rb>汚點</rb><rt>しみ</rt></ruby>か、影のやうな野郎ですよ、――その和助が言ふんだ、お舟さんは昨夜一と足も外へ出ねえ――と」

「勘三郎とお袖は兄妹だらう」

「へエ――」

「お舟と和助も、<ruby><rb>從兄妹</rb><rt>いとこ</rt></ruby>同士か何かだ。二人づつ相談して口を合せたら、どんな嘘でも通るぢやないか」

「だから親分行つて見て下さい。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>ぢや、此上の見當が付かねえ」

八五郎は正直に投げ出してしまつたのです。

## 三

平次は大きな<ruby><rb>舌打</rb><rt>したうち</rt></ruby>をして、十手を懷にねぢ込みました。鼻がよくて、いろ〱の消息を嗅ぎ出すことにかけては、<ruby><rb>天稟</rb><rt>てんぴん</rt></ruby>の<ruby><rb>妙</rb><rt>めう</rt></ruby>を得たガラツ八ですが、理詰めに手繰つて、<ruby><rb>下手人</rb><rt>ほし</rt></ruby>を擧げることとなると、まるでだらしがありません。

先づ一番に小柳町の伊丹屋へ行つて見ると、本人の駒次郎以外は、お曾與を嫁に迎へることに賛成なのは一人もありません。

駒次郎に逢つて聞くと、

「お曾與は良い娘でしたよ、生一本で、情が<ruby><rb>濃</rb><rt>こまか</rt></ruby>くて――」

そんな事を言ふのです。

「お袖やお舟を捨てたのはどう言ふわけで？」

平次はこんな事まで突つ込むのです。

「お袖は兄がいけない、あの勘三郎は親類附合の出來ない男ですよ」

「お舟と手を切つたのは？」

「あの女には蟲が付いて居る、私は何時<ruby><rb>寢首</rb><rt>ねくび</rt></ruby>を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>かれるかわからない――あんな怖い女はありませんよ」

平次はこれ以上聞くこともありませんでした。<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼれ</rt></ruby>が強くて、薄情で、臆病で、慾が深くて道樂の強さうな駒次郎は、平次に取つても、一番嫌な相手だつたのです。

<ruby><rb>十三屋</rb><rt>とみや</rt></ruby>へ行つて見ると、まだお曾與の死骸の始末もせず、父親の文吉と母親のお倉は際限のない涙にひたつて居りました。

「親分さん、敵を討つて下さい。娘をこんな目に合せた人間を、八つ<ruby><rb>裂</rb><rt>ざき</rt></ruby>にも<ruby><rb>火焙</rb><rt>ひあぶ</rt></ruby>りにもして下さい」

父親の文吉は娘の死骸を見せながら、氣狂ひ染みた事を言ふのです。

「下手人は直ぐ擧げてやるが、一體誰がこんな事をしたんだ、心當りでもあるのかい」

と平次は

「心當りはうんとありますよ、親分。伊丹屋の旦那のところへ<ruby><rb>嫁</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きたかつたのは、此界隈でも、五人や三人ぢやありません」

「そのうちでも、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めたのと、諦め切れないのがあるだらう」

「お袖や、お舟は諦められない口です」

「それから」

「娘を追ひ廻してゐたのでは、お袖の兄の勘三郎といふ野郎があります。あの野郎なら殺し兼ねません。恐ろしく無法な奴で――」

文吉の<ruby><rb>呪</rb><rt>のろひ</rt></ruby>は果てしもありません。

平次はお曾與の枕元に線香を上げて、そこ〱に不快な空氣から遁れ出ました。

その次に訊ねたのは、小唄の師匠のお舟、何とかいふ名取りですが、昔から知つてゐる平次には、唯の新造のお舟のやうな氣がしてなりません。もう二十七八にもなるでせうが、若くて、意氣で、美しくて、何となく心ひかるゝ<ruby><rb>含蓄</rb><rt>がんちく</rt></ruby>があります。

こんな<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>徹</rb><rt>とほ</rt></ruby>るやうな感じの女が、どう間違つて伊丹屋の駒次郎などの思ひ者になつて居たことか、平次にはそれが不思議でなりません。

「あら、錢形の親分さん」

お舟は<ruby><rb>屈托</rb><rt>くつたく</rt></ruby>のない樣子で迎へました。

「お舟、お<ruby><rb>曾興</rb><rt>そよ</rt></ruby>が殺されたことは聞いた筈だな」

かう言ふ平次は、自分ながら職業的な嫌味を自分に感じて居りました。

「え、お氣の毒ねエ」

「お前もさう思ふか」

「まア」

「お曾與には<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>があつたんぢやないか」

「飛んでもない。伊丹屋の若旦那と手が切れて、私は清々して居ますよ」

「本當かい、それは？」

「嘘なら、今日にも伊丹屋の若旦那と<ruby><rb>撚</rb><rt>より</rt></ruby>を戻しますよ、――でも、私はもう眞つ平御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>ります」

「大層な見切りやうだね」

「世の中に、色男面をする人間ほどイヤなものはありやしません。本人はお曾與さんと祝言をしたら、江戸中の女は半分位<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>でも<ruby><rb>縊</rb><rt>くゝ</rt></ruby>るだらうと思つてゐるでせうが――」

「手嚴しいな、お舟」

平次も、お舟の<ruby><rb>氣焔</rb><rt>きえん</rt></ruby>には少したじ〱と來ました。

「だから、お曾與さんを殺したのが、伊丹屋の若旦那に振り棄てられた女の怨だと思つたら大間違ひさ、――金さへあれば、どんな事でも出來ると思ふやうな男に、女は夢中になるわけはない――金より外に何んにも持つてゐない男のために、人殺しまでする女がこの世の中にあるでせうか」

「さう言つたものかも知れないな。ところで、お前は大層な手切金を貰つたといふ話ぢやないか」

平次は話の方向を變へました。

「え、――まア〱あの<ruby><rb>吝</rb><rt>しは</rt></ruby>ん<ruby><rb>坊</rb><rt>ばう</rt></ruby>にしては、清水の舞臺から飛降りたつもりでせうよ」

「いくらだ」

「五十兩」

「ほう、それは大金だ」

「五十兩も出さなきや、私は頸でも縊ると思つたでせう」

「ところで、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>お前は一と足も外へ出なかつたと言つたさうだが、本當か」

「出やしません。日が暮れるとお<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>がなくなつたから、早御飯にして、和助さんと無駄話をしたり、ウンスン<ruby><rb>歌留多</rb><rt>かるた</rt></ruby>をやつたり、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>前に寢てしまひましたよ」

「和助といふのは？」

「私の遠い<ruby><rb>從兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>ですよ、――ちよいと、和助さん、錢形の親分さんに御挨拶をしておくれ」

「――」

お舟に呼ばれて、默つて出て來たのは、本當に物の<ruby><rb>汚點</rb><rt>しみ</rt></ruby>のやうな男でした。恐ろしく高い背を二つ折にして歩くので、<ruby><rb>傴僂</rb><rt>せむし</rt></ruby>のやうに思ひますが、別に<ruby><rb>不具</rb><rt>かたは</rt></ruby>な樣子はなく、竹のやうに長くて武骨な手足、<ruby><rb>白痴</rb><rt>はくち</rt></ruby>のやうに陰氣で無表情な顏、油つ氣のない<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>、何處から見ても、お舟と一緒に置いて、『男性』の不安を感じさせるやうな人間ではありません。

弟子達の下足を揃へたり、水を汲んだり、使ひ走りをしたり、下女に手傳つて<ruby><rb>雜巾掛</rb><rt>ざふきんがけ</rt></ruby>をしたり、お舟に取つては、色氣がないだけに、申分のない用心棒でもあつたのでせう。

「昨夜お舟は何處へも出なかつたね、和助」

平次は聲を掛けました。

「へエ――、私も師匠も、<ruby><rb>此處</rb><rt>ここ</rt></ruby>から外へ一と足も出ませんよ」

さう言つて和助は敷居を指すのです。

「下女は？」

「母が病氣で三日前に房州へ歸りましたよ、――今日は戻る筈ですが」

お舟は何のこだはりもありません。

## 四

平次とガラツ八は、其足をすぐ勘三郎の家へのしました。

「病氣だつて言ふぢやないか、どんな具合だい」

淺間な家、木戸から入つて聲を掛けると、

「あつ、錢形の親分」

勘三郎はあわてて<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の上に起上がります。

「起きなくたつていゝよ、其儘で構はない」

「へエ――」

「お前は飛んだ仕合せだつたよ、ピンピンして居て見ねえ、今頃は無事ぢや濟まないよ」

「お曾與の<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>が殺されたんですつてね、好い氣味見たいなもので」

「何て口のきゝやうだ」

「へエ――」

平次にたしなめられて、勘三郎は頭をかきました。

三日寢てゐたといふ<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れはありますが、二十五六の小意氣な男で、伊丹屋の<ruby><rb>糝粉細工</rb><rt>しんこざいく</rt></ruby>のやうな若旦那よりは、江戸の町娘には好かれさうです。

「腹を惡くしたさうぢやないか」

「なアに、大した事はありませんよ。兩國で散々<ruby><rb>泳</rb><rt>およ</rt></ruby>いだ上、<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すゐくわ</rt></ruby>を<ruby><rb>鱈腹</rb><rt>たらふく</rt></ruby>やつたんで」

「それぢや腹をこはさねえ方が不思議だ」

「相濟みません」

「俺へ詫びなくたつていゝ。ところで、お曾與殺しに、何か心當りはあるかい」

「大ありですよ、誰もあの<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>を締め手がなきや、あつしがやるつもりだつたんで――」

「まア、兄さん」

妹のお袖は側からあわてて止めました。十九――殺されたお曾與よりは一つ年下ですが、荒つぽい兄の勘三郎に似ぬ、<ruby><rb>露草</rb><rt>つゆくさ</rt></ruby>の花のやうな淋しい娘です。

「大丈夫だよ、錢形の親分さんは見通しだ。思ふ存分な事を言はない方が、反つて<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てがあつていけねえ。ね、親分。さうぢやありませんか」

「その通りだ、氣の付いた事は何でも言つてくれ」

「千三つ屋の文吉奴、自分のとこの七つ下りの娘を<ruby><rb>伊丹屋</rb><rt>いたみや</rt></ruby>へ押付けたいばかりに、ひどい罪を作つてゐますぜ」

「フーム、どんなことをしたんだい」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の妹と伊丹屋の若旦那と心易くなつた時は、お袖には勘三郎といふやくざな兄が附いてるから後が怖いとか、お袖の<ruby><rb>血筋</rb><rt>ちすぢ</rt></ruby>には、惡い<ruby><rb>病</rb><rt>やまひ</rt></ruby>があるとか――いろんな事を、伊丹屋にたき付けたさうですよ。お師匠のお舟さんだつて、同じやうな目に逢つてますよ、あの女には隱し男があるとか、あとでお<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>へ行つて尻をまくる奴があるかも知れないとか――嫌な千三つ屋ぢやありませんか、あの野郎こそ、嘘<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>きで、<ruby><rb>胡麻摺</rb><rt>ごます</rt></ruby>りで、手癖が惡くて、<ruby><rb>瘡</rb><rt>かさ</rt></ruby>つかきで、――伊丹屋の若旦那の古いアラを搜して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いた振</span>つてばかりゐるさうで――」

「まア、兄さん」

お袖はまた止めました。

「ところで、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>はどうして居たんだ」

平次は話題を變へました。

「へツ、あんまり景氣の良い話ぢやありませんが、<ruby><rb>雪隱</rb><rt>せつちん</rt></ruby>へお百度ですよ」

「今日は」

「<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く落着いて此通り、――<ruby><rb>温石</rb><rt>をんじやく</rt></ruby>を三つ下つ腹へ當てて居ますよ、こいつは樂ぢやありませんぜ」

さう言へば、少し<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼせ</rt></ruby>てゐる樣子です。

「お曾與を絞めたのは、お前の三尺だつて言ふぢやないか」

「呆れてしまひましたよ、親分。俺の三尺なんか盜みやがつて手數のかゝる野郎ぢやありませんか」

「その三尺を何處で盜まれたんだ」

「町内の<ruby><rb>湯屋</rb><rt>ゆや</rt></ruby>で――一と月も前ですよ。晝湯につかつて、良い心持に<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>つてゐると、どこの野郎か知らないが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の三尺を<ruby><rb>締</rb><rt>し</rt></ruby>めて行つちまひましたよ」

「代りはなかつたのか」

「へエ」

「帶を締めずに來たのかな」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の白木の三尺を、<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>の帶とでも間違げえたんでせう」

「その時一緒に風呂へ入つてゐたのは誰だい」

「二三人ゐたやうですが、暫く<ruby><rb>柘榴口</rb><rt>ざくろぐち</rt></ruby>から出ずに、夢中で<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を聞かせてゐたから、どんな野郎がゐたか、ろくに見やしません」

ありさうもない事ですが、勘三郎らしい無頓着さでもあります。

これ以上には訊くべきこともありません。

其處を出た二人。

「驚いたね、親分。お舟でなくお袖でなく、勘三郎でなきや、――流しの<ruby><rb>追剥</rb><rt>おひはぎ</rt></ruby>か、氣違ひぢやありませんか」

ガラツ八はこんな事を言ふのです。

「流しの追剥や氣違ひが、勘三郎の三尺をわざ〱用意するものかい」

「成程ね」

「無駄を言わずに、お舟の家の近所の食物屋を一軒殘らず當つて見るがいゝ。下女が房州へ歸つてゐると言ふから、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>あたりは<ruby><rb>店屋物</rb><rt>てんやもの</rt></ruby>を取つてゐるに違げえねえ。<ruby><rb>蕎麥屋</rb><rt>そばや</rt></ruby>でも小料理屋でもいゝ、昨夜あたりお舟のところへ何か出前物を持込まなかつたか、持込んだ時、お舟と和助が<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かにゐたか、それを訊き出すんだ、――それから、酒屋も訊いて見るんだぜ、いゝか」

「心得てゐるよ、親分」

八五郎はポンと胸を叩きました。勘三郎の病氣はニセでなく、三尺帶が勘三郎のに相違ないとすると、お曾與殺しの疑ひは、眞つ直ぐにお舟に掛かるわけです。お舟と和助と口を合せて、<ruby><rb>不在證明</rb><rt>アリバイ</rt></ruby>を作らないとも限らないわけですから、平次はその裏を掻いて、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>お舟の家を覗いた者を搜し出さうとするのです。

平次はガラツ八に別れて町の湯屋へ行きました。

「一と月ほど前に、勘三郎が白木の三尺を盜まれたさうだね」

番臺のお神さんに訊くと、

「そんな事がありましたよ、――板の間<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎはよくあることですが、あんまり新しくない三尺を盜んで行くのは變ぢやありませんか」

「その時、男湯へ入つてゐたのは誰だい」

「横町の古着屋の隱居と、町内の手習師匠と、――三尺には用のない方ばかりでしたよ」

「それだけか」

「小柳町の伊丹屋の若旦那が入つてゐました」

「珍らしい人だね、小柳町は遠過ぎるぢやないか、それに、伊丹屋なら<ruby><rb>内風呂</rb><rt>うちぶろ</rt></ruby>があるだらう」

「師匠のところ――親分も御存じでせう、お舟さんのところへ<ruby><rb>入浸</rb><rt>いりびた</rt></ruby>つてゐる頃は、伊丹屋の若旦那がよく此處へ見えましたよ」

「成程」

さう言へば一向不思議はありません。

平次はそんな事で<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて歸つて來ると、それから一刻ばかり經つて、ガラツ八は息せき切つて飛んで來ました。

「親分」

「どうした、八」

「變なことがありますよ、――あの町内の<ruby><rb>蕎麥屋</rb><rt>そばや</rt></ruby>で訊くと、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>お舟のところで、確かに蕎麥を三つ取つたと言ふんで――」

「フーム」

平次の見當は見事に當りました。

「ところが、不思議なことに<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>少し前に持つて行くと、お舟も和助も――二人共ゐなかつたと言ふぢやありませんか」

「――」

「それから半刻ばかり經つて<ruby><rb>入物</rb><rt>いれもの</rt></ruby>を取りに行くと、お舟と和助は何處からか歸つて來て、二人そつぽを向いて坐つて居たといふぢやありませんか」

「蕎麥は？」

「その時はまだお勝手口に置いたまゝで、念の爲に<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をあけて見ると、手もつけずに、<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>びてゐたんださうで――」

「八、來い」

「親分」

平次は猛然と<ruby><rb>起上</rb><rt>たちあ</rt></ruby>がりました、續く八五郎。

## 五

「お舟、――<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>何處へ行つた」

平次はお舟の家へ取つて返すと、八五郎に裏口を見張らせて、ズイと入りました。

「あ、親分さん」

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>は、よくも俺を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>したな。昨夜<ruby><rb>酉刻半</rb><rt>むつはん</rt></ruby>過ぎから<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>過ぎまで、此家に二人共ゐなかつた筈だ」

平次は入口を背にして、お舟と和助の方へ詰め寄りました。

「親分さん、濟みません」

お舟はガツクリ頭を垂れます。大きな<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>が、土に落ちて<ruby><rb>碎</rb><rt>くだ</rt></ruby>けた風情です。

「手數をかけずに、本當の事を言つちやどうだ」

「恐れ入りました、親分さん。お曾與を殺したのは、此私に違ひありません」

お舟は疊に手を突きました。

「違ふよ、――お舟さんぢやない。――お曾與殺したのは、この和助だ、――私だよ、親分」

<ruby><rb>汚點</rb><rt>しみ</rt></ruby>のやうな男――和助は長身を起しました。青い顏に血が上つて、この影のやうな男にも、若い情熱のあることを、平次は不思議な心持で見て居ります。

「あれ、そんな事を言つて、和助さん」

と<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てるお舟。

「いえ、親分、――お舟さんは人などを殺せる女ぢやない。お曾與を殺したのは、全くこの和助だ、――私がそつと家を出たのが<ruby><rb>酉刻半</rb><rt>むつはん</rt></ruby>頃、――その時分お曾與が湯屋へ行くのを知つてゐるからだ」

と和助。

「お前にはお曾與に<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>がなかつた筈だ、<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>な事を言つちやならねえ」

平次は和助の白状を相手にもしません。

「親分、聞いて下さい、かうなりや、皆んな言つてしまひます。そして立派にお<ruby><rb>處刑</rb><rt>しおき</rt></ruby>を受けます」

和助は激情に<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>へながら、平次の前に手を突きました。

「――」

ヂツとそれを見詰ある平次、お舟も<ruby><rb>呆氣</rb><rt>あつけ</rt></ruby>に取られて默つてしまひました。

「私はこの通り、見る影もない人間だ。ね、親分。お舟さんが、寄り所のない私を引取つて、此處へ置いてくれるのは、私を男の切れつ端とも思はないからだ、――多勢の弟子達だつて、私を六十七十の年寄のやうに思つてゐる。私は結局それをいゝ事にして、人目に立たないやうに其の日〱を送つてゐる――」

「――」

「でも、私も男だ、――まだ三十を越したばかりの若い男だ。遠い<ruby><rb>從妹</rb><rt>いとこ</rt></ruby>のお舟さんの、人並すぐれて綺麗なのや、情け深いのを見て、木や石のやうな心持でゐられるわけはない。私の心はとうから火のやうに燃えてゐる――」

「――」

和助の言葉も火のやうに燃えました。この<ruby><rb>汚點</rb><rt>しみ</rt></ruby>のやうな男に、こんな情熱があらうとは、一緒に暮してゐるお舟も全く氣が付かなかつたのでせう。思ひもよらぬ生命の點ぜられた男の顏を見詰めるばかりです。

「<ruby><rb>伊丹屋</rb><rt>いたみや</rt></ruby>の若旦那に捨てられてから、お舟さんの悲歎は、この和助がよく知つてゐる、――負けん氣のお舟さんが、口では強いことを言ひ<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>らも、人の見ぬところでは、毎日泣いて暮してゐた。息も絶え〲に泣いて居ることさへあつた。伊丹屋の若旦那が何も彼も金で濟したつもりで、五十兩の<ruby><rb>手切</rb><rt>てぎれ</rt></ruby>をよこした時は、お舟さんは大喜びで受取りながら、使の者が歸ると、その金を庭に叩き付けた。この私に<ruby><rb>掃溜</rb><rt>はきだめ</rt></ruby>へ捨てろといふ大むづかりだ、見るのもイヤだと言つた」

和助の言葉の激しさ。が、それが<ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>く事實だつたのでせう。お舟は襟に顏を埋めて泣いて居ります。

「伊丹屋の若旦那へ、ある事無い事<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き付けて、お舟さんとの間を割いたのは千三つ屋の文吉だ。私は文吉が憎かつた、お<ruby><rb>曾與</rb><rt>そよ</rt></ruby>も憎かつた。どうせ私のやうなものを、男の切れつ端とも思つてくれないお舟さんのために、私はこのお舟さんの<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>をそつと晴らしてやらうと思つて、――<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、お曾與が湯屋から歸るのをつけて、あの路地の中で絞め殺したのは、お舟さんの敵を討つため、文吉に思ひ知らせる爲だ――親分、これで判つたでせう。さア、私を縛つて下さい。お舟さんに罪はない、――私も隱せるものなら隱し<ruby><rb>了</rb><rt>をは</rt></ruby>せるつもりだつたが、お舟さんが私を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>つて、自分で罪を<ruby><rb>背負</rb><rt>しよ</rt></ruby>ひさうぢや、もう我慢が出來ない」

「――」

「親分、縛つて下さい、さア」

和劫は自分の身體を、平次の方へすり寄せて、兩手を自分から後ろに廻すのです。

「和助さん、お前、それは本當かい」

お舟は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く顏を擧げました。

「本當とも」

「堪忍しておくれ、――私は何といふ馬鹿だらうねえ。そんな立派な男が自分の側にゐるのも知らずに、――あんな<ruby><rb>糝粉細工</rb><rt>しんこざいく</rt></ruby>のやうな金持の若旦那なんかに未練を殘して、――」

「お舟さん」

「有難うよ、和助さん」

お舟は<ruby><rb>膝行</rb><rt>ゐざり</rt></ruby>寄つて、和助の激情に顫へる手を取るのです。涙はお互の顏も見えないほど降りそそぎました。

「よし〱、いゝ心掛けだ、――ところで和助、――お前はお<ruby><rb>曾與</rb><rt>そよ</rt></ruby>を殺したに違ひあるまいが――何で殺した」

平次は靜かに問ひました。

「三尺ですよ、親分」

「どんな？」

「<ruby><rb>白木</rb><rt>しろき</rt></ruby>の三尺で」

「そいつはお前のか」

「え」

「ところで、お前は三尺を何本持つてゐる」

「二本持つてゐますよ」

「今締めてゐるのが一本、あとの一本でお曾與をしめたわけだな」

さう言ふ平次の言葉や眼色を讀むと、ガラツ八は飛んで待つて、横手の押入から<ruby><rb>行李</rb><rt>かうり</rt></ruby>を一つ出しました。

「こいつは和助の行李だらう」

と平次。

「え」

お舟は僅かに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>きます。

平次の指圖で八五郎が蓋を取ると、中には着物が二三枚、<ruby><rb>股引</rb><rt>もゝひき</rt></ruby>、腹掛、手拭の外に、白木の三尺が一本入つてゐるではありませんか。

「これは何だ」

と平次。

「もう一本ありましたよ、親分」

和助はヘドモドします。

「和助、氣の毒だが、お前が<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>ぢやないよ」

「――」

「下手人は、勘三郎の三尺を盜んで、それでお曾與を殺したんだよ」

「それが」

「まア聞け、その三尺は町内の湯屋で盜まれた品だ」

「私ですよ、親分。私が勘三郎の三尺を盜みましたよ」

と和助。

「何時の事だ」

「三日前で――いや五日位前ですよ」

「もう澤山だ、――下手人は和助ぢやない――が、お舟を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>つてさう言ふのだらうが、こいつはお舟でもないよ」

「――」

お舟と和助は濡れた眼を見合せました。

「和助とお舟は、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>別々に<ruby><rb>此處</rb><rt>ここ</rt></ruby>を出て、お曾與を殺すつもりで行つたんだらう」

「――」

お舟はうなづきました。

「ところが、お舟は本當の下手人を見た。背の高い男が、お曾與を殺して逃げたのを見た筈だ。<ruby><rb>宵闇</rb><rt>よひやみ</rt></ruby>の暗い中で、それを和助と思ひ込んだのも無理はない」

「――」

「和助の方はお舟の出て行つた血相と、あわてて歸つて來た樣子を見て、てつきり下手人をお舟と思ひ込んだ――それに相違あるまい」

「その通りですよ、親分」

和助とお舟は始めてホツとした顏を擧げます。

「背が高くて一寸和助に似た身體の男が下手人だ。そいつは、文吉に<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>があるか、お曾與が生きてゐては困ることがあつたんで、そして一と月前に湯屋で勘三郎の三尺を盜んで仕度をした――八、來い。俺には大方判つたやうな氣がする」

平次は其處を飛出しました、――續く八五郎。お舟と和助はそれを見送つて、氣まづい沈默を續けて居ります。

「和助さん」

<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く經つてお舟が口を切りました。

「――」

「和助さん、――お前さんは馬鹿ねえ、――でも本當に有難うよ」

お舟は極り惡さうにモジモジする和助の側に寄つて、その<ruby><rb>節高</rb><rt>ふしだか</rt></ruby>な手を取つて居りました。

×　　　　　　×　　　　　　×

平次はもう一度<ruby><rb>十三屋</rb><rt>とみや</rt></ruby>の文吉に逢つて、いろ〱締め上げました。そして文吉が、伊丹屋駒次郎が部屋住時代に、筋の惡い借金や、<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>りのやうな事までして、遊びの金を作つたことを種に、駒次郎を<ruby><rb>脅迫</rb><rt>けふはく</rt></ruby>して、お舟やお袖と手を切らせ、無理に自分の娘を押付けてゐたことを白状させました。

駒次郎がお袖に充分<ruby><rb>未練</rb><rt>みれん</rt></ruby>があつたことは、近所の人達もよく知つて居ります。押かけ嫁の祝言が近くなつて、駒次郎は最後の手段を取つたのでせう。

「それ行けツ、あの野郎だツ」

平次とガラツ八は小柳町に飛びました。丁度外へ出ようとした駒次郎は、ガラツ八の腕力に押へられて、蟲のやうに<ruby><rb>無抵抗</rb><rt>むていかう</rt></ruby>に縛られたことは言ふまでもありません。

繩付を役所に引渡した歸り、ガラツ八は繪解きをせがみました。

「惡い奴があるものだね、親分」

「あれは馬鹿さ、――金づくで何うにもならない事があると、馬鹿はあんな事をするのさ」

「何だつて、わざ〱親分のところへお曾與が殺されたつて言つて來たんでせう」

ガラツ八にはそれが不思議でたまらなかつたのです。

「どうせ變死と知れずには濟まぬと思つたのさ、知れると、この<ruby><rb>邊</rb><rt>あたり</rt></ruby>の事だから、俺が行くに決つてゐるぢやないか。どうせ平次の手に掛かるものなら、此方から訴へ出て好い子にならうといふ<ruby><rb>魂膽</rb><rt>こんたん</rt></ruby>さ」

「その邊は馬鹿ぢやないね」

「どんなに器用な細工をしたところで、人でも殺さうといふのは、矢張り馬鹿さ」

平次はさう言つて、お舟と和助のことを考へて居ました。この二人は駒次郎の馬鹿のお蔭で、飛んだ<ruby><rb>儲</rb><rt>まう</rt></ruby>けものをしたことになるのです。