## 一

「あツ危ねえ」

錢形の平次は<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>くも間に合ひました。夜櫻見物の歸りも<ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>えた、兩國橋の中ほど、若い二人の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を取つて引戻したのは、本當に精一杯の仕事だつたのです。

「どうぞお見逃しを願ひます」

「どつこい待ちな、――そんな身投げの極り文句なんか、素直に聞いちや居られねえ」

「死ななきやならないわけがございます。どうぞ、親分」

<ruby><rb>爭</rb><rt>あらそ</rt></ruby>ふ二人、平次は叩きのめすやうに、橋の<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>に押付けました。

「頼むから靜かにしてくれ。俺は横山町から驅け付けたんだ。息が切れて<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>はねえ、――意見をするのが面倒臭くなると、二人を縛つて欄干に<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>し物にする氣になるかも知れないぜ」

「親分さん」

「解つたよ。三百八十兩の大金を<ruby><rb>巾着切</rb><rt>きんちやくきり</rt></ruby>にやられて、主人への申譯、言ひ交した女と一緒に、ドブンとやらかさうといふ筋だらう」

「えツ」

「お前は、<ruby><rb>増屋</rb><rt>ますや</rt></ruby>の養子徳之助、――此方はお富といふんだつてね」

「さう言ふ親分さんは？」

「神田の平次だ」

「あツ、錢形の――」

徳之助とお富は、死ぬ筈の身を忘れて、町の家並に<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>く櫻月の薄明りの中に、江戸第一番の御用聞と言はれた平次の顏を見直しました。

「横山町の店からの使ひで飛んで行つて見ると、――一度店へ歸つたお前が、お富と<ruby><rb>牒</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合せて飛出したといふ騷ぎの眞つ最中だ。いづれは心中ものだらうと思つたが、永代へ行つたか兩國へ行つたか、それとも向島へ<ruby><rb>遠走</rb><rt>とほつぱし</rt></ruby>りをしたか見當がつかねえ、――兎も角、近間の兩國へ驅け付けて、幸ひ間に合つたからいゝやうなものの、これが永代へでも<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>された日にや、今頃は三<ruby><rb>途</rb><rt>づ</rt></ruby>の川で夜櫻を眺めて居るぜ、危ねえ話だ」

さう言ふ平次の言葉を聞いて、

「――」

二人はゾツと<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をかき合せました。助けられた今になつて見ると、三途の川の夜櫻が、あまり氣味のいゝものではなかつたのです。

「さア行かうぜ。――店ぢや皆さんも大心配だ。わけても増屋の旦那は、三百八十兩のことも忘れて、徳之助に若しもの事がなけりやいゝが――と居たり起つたり、神棚に燈明をあげたり、見るも氣の毒な程の氣の揉みやうだ」

「申譯もございません、――でも、私は此儘店へ歸つては濟まないことがございます」

「はてネ」

月明りの僅かに殘る<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れたまゝ、徳之助は<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>に打ちひしがれて、濡れでもしたやうに、しよんぼりと語り續けました。

十三の年、親を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>つた徳之助は、遠縁の増屋に引取られて、養子分で二十一まで働きましたが、増屋の主人三右衞門の慈愛が深まるにつれて、<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>の<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やきもち</rt></ruby>が激しく、三百八十兩の大金を失つても、主人の三右衞門は許してくれるでせうが、番頭手代は、決して腹の中では、許してくれないだらうと――かう言ふのです。

その上、今日まで<ruby><rb>内證</rb><rt>ないしよ</rt></ruby>にして居た、お富との仲が、この心中騷ぎで一ぺんに知れたら、他の奉公人の手前、主人の三右衞門も、素直に許してはくれないかも解らず、いづれにしても、二人揃つて増屋の敷居を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐのは、どうも遠慮しなければならないやうに思はれる、と言ふのでした。

「それは一應<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もだが、金は働いて返す折もあるだらうし、二人の仲は、いづれは知れずに濟まねえだらう。店へ歸つて、大恩ある主人に安心させるのが、何よりの孝行といふものではないか」

平次は口を酢つぱくして説き勸めますが、若くて一<ruby><rb>徹</rb><rt>てつ</rt></ruby>な二人は、心中の仕損ひの顏を、ノメノメと元の店へは持つて行く氣になりさうもありません。

「それでは、私のお<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さんは、直ぐ其處の濱町に居ります。行つて相談して見ませうか」

お富はかう言ふのです。<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く十九になつたばかり、増屋の奉公人には相違ありませんが、女隱居の相手をしてゐる可愛らしくも清らかな娘で、徳之助と並べると、歌舞伎芝居の道行を見るやうな、一種の<ruby><rb>情緒</rb><rt>じやうしよ</rt></ruby>を<ruby><rb>醺</rb><rt>かも</rt></ruby>し出さずには居ません。

死出の晴着のつもりでせう。薄化粧に、一<ruby><rb>帳羅</rb><rt>ちやうら</rt></ruby>らしい銘仙を着て、赤い帶も、黒い髮も、水へも火へも飛込みさうな、純情無垢の象徴に見えて、平次の目には危つかしくてならないのでした。

「それはいゝが、店では心配してゐるだらう」

平次はまだ、増屋の大騷ぎが目に見えるやうな氣がするのです。

「親分――横山町へは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が一と走り行つて來ますよ。二人を濱町へ連れて行つちや何うでせう」

月の<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>の中から、長い〱<ruby><rb>影法師</rb><rt>かげぼふし</rt></ruby>を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて現れたのは、錢形平次の子分、ガラツ八の八五郎の忠實な姿でした。

## 二

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん」

「――」

「開けて下さいな、お父さん」

「誰だい」

「私よ、お父さん」

お富はそつと入口の戸の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>に顏を當てました。

「何處の狐が化けて來やがつたんだ、畜生」

たまり兼ねて起出した樣子、――<ruby><rb>火打鐵</rb><rt>ひうちがね</rt></ruby>の音や、荒々しい足音にも、<ruby><rb>憤々</rb><rt>ふんぷん</rt></ruby>たる怒りはよく判ります。プーンと匂ふ、<ruby><rb>硫黄附木</rb><rt>いわうつけぎ</rt></ruby>の匂ひ。

「そんな事を言はないで、お父さん」

お富はやるせない樣子でした。幾度も〱――徳之助がそのまゝ逃げ出しでもするのを<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れるやうに、――振返つて後ろを見るのです。

「お店から先刻番頭さんが來て、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>の不心得は皆んな聞いてしまつたぞ、馬鹿野郎。死ぬなら勝手に死ぬがいゝ、親にまで恥を掻かしやがつて」

さう言ひ乍らも、内からガラリと戸を開けました。<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>を背負つた五十年配の屈強な<ruby><rb>親仁</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>、左官の彦兵衞といへば、仕事のうまいよりは、<ruby><rb>頑固</rb><rt>ぐわんこ</rt></ruby>一<ruby><rb>徹</rb><rt>てつ</rt></ruby>なので界隈に知られた顏です。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん、さういはずに、相談に乘つて上げて下さい、――私達は本當に死ぬつもりだつたのを親分さんに助けられて――かうしてお父さんのところへ歸つて來たんです」

お富はさう言つて、後ろに立つた徳之助と、それから、錢形の平次を見やりました。

「――」

娘の沈んだ聲も、<ruby><rb>打萎</rb><rt>うちしを</rt></ruby>れた樣子も、彦兵衞の怒りを<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>める由はなかつたでせう。

「お父さん」

「主人の養子をそゝのかして、三百八十兩の大金を持出させるやうな、そんな娘を俺は持つた覺えはねえ」

「お父さん、それは、違ひますよ。三百八十兩は<ruby><rb>巾着切</rb><rt>きんちやくきり</rt></ruby>に取られ――」

「默らないか。本所で<ruby><rb>巳刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>前に受取つた金を、わざ〱花時の向島へ持込んで、巾着切に取られる奴があるものか、――その上お<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>へ歸つたのは、薄暗くなつてからだつて言ふぢやないか」

「お父さん」

「さア歸つてくれ。俺まで泥棒の仲間にされちや、賣り込んだ顏に<ruby><rb>關</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はる、――繩を附けて突き出さないのが、せめては親の慈悲だ」

彦兵衞は言ふだけのことを言ふと、娘と徳之助を<ruby><rb>曉闇</rb><rt>げうあん</rt></ruby>の中に殘したまゝ、<ruby><rb>沒義道</rb><rt>もぎだう</rt></ruby>に戸をピシリと――

が、その戸は半分閉めかけたまゝ、錢形平次に押へられました。

「何をしやがるんだ」

彦兵衞は少し中ツ腹でした。

「彦兵衞、俺を忘れはしまいな」

「――」

「平次だ、――久振りだつたな」

「あツ、錢形の親分」

僅かに殘る<ruby><rb>月光</rb><rt>つきあか</rt></ruby>りに<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して、左官の彦兵衞は仰天しました。

<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>ては淺草で左官をして居た彦兵衞、飮む、打つの道樂が<ruby><rb>嵩</rb><rt>かう</rt></ruby>じて、一時は巾着切の仲間にまで身を落しましたが、今から五年前、別れてゐた女房の末期の<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めに、<ruby><rb>飜然</rb><rt>ほんぜん</rt></ruby>として本心に立ち<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>り、娘のお富を引取つて、神田で堅人に生れ變つた<ruby><rb>經緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>――平次は何も彼も知つて居たのです。

お富は美しく清らかに生ひ立ちました。親父に巾着切の<ruby><rb>古疵</rb><rt>ふるきず</rt></ruby>があるとも知らぬ清純さ、それを見るのを唯一の樂しみに、彦兵衞は本當に眞つ黒になつて働き續けたのです。

嫁入前の一と修業のつもりで、増屋の女隱居附に奉公させたのは一年前。それは娘を仕込む<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知らない、男親の淋しさでしたが、彦兵衞はそれも辛抱して、何の邪念もなく、勤め上げて歸つて來るお富を待つて居たのでした。

それが、お<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>の養子と勝手な事をして、三百八十兩の大金を持逃げしたと番頭に聞かされ、罪の遺傅の恐ろしさに、彦兵衞は打ちひしがれ乍ら、寢もやらず待つてゐると、顏見知りの錢形の平次に送られて、怪我もなく立ち戻つて來たのです。

飛び付いて引摺り込んで、二つ三つ横つ面を張り飛ばして、それから<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と抱きしめて、泣けるだけ泣いてやりたいやうな心持を我慢して、彦兵衞は沒義道に戸を閉めたのに、何の不自然があるでせう。平次が止めてくれなければ、お富が泣き濡れて、父親の胸に<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>り付くに定つて居るやうに思へたのです。

「ぢや、あの、娘を助けて下すつたのは？」

彦兵衞の照れ臭さ。

「俺だよ、彦兵衞」

「――」

「濱町で堅氣に暮してゐるとは聞いたが、お富の親がお前とは知らなかつた、――それにしても、五年前の彦兵衞とは、打つて變つた心持、この平次もすつかり感心してしまつたよ」

平次は<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>の中に全身を現すと、<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う心から老巾着切の心境を褒めるのでした。

「恐れ入ります、親分」

「それにつけても、お前の考への間違つてゐることだけは言はなきやなるまい。番頭は何と言つたか知らないが、三百八十兩の金は、たしかに巾着切にやられたに違ひない。二人の樣子で、この平次は<ruby><rb>潔白</rb><rt>けつぱく</rt></ruby>を見屆けたよ」

「へエ――」

「兩國橋から飛込まうとするのを、どんなに骨を折つて止めたか――捕繩を出して、<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>へ縛らうかと思つた位だ。人間は、見榮や<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>で、夜中過ぎの大川へ、女づれで飛込めるものぢやねえ」

「――」

「増屋の主人は、徳之助の正直をよく見拔いていらつしやる。奉公人達には<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>みもひがみもあるだらうが、主人の信用さへ變らなきや、少しも驚くことはない――」

「へエ――」

彦兵衞はポロポロと涙をこぼして居りました。錢形平次が保證してくれゝば、もう大手を振つて江戸中を歩ける二人です。

「お富との仲が一ぺんに知れ渡つて、此儘では横山町の店へ歸りにくいといふだけの話さ。お前もよく若い二人に言ひ聞かせてくれ、――さア入つた〱、<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>つあんは苦勞人だ、よく解つてくれるよ」

平次は兩方へさう言ひ乍ら、有明月の<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>に小さくなつて居る二人を招きました。

## 三

貧しい灯の下に、二人を押し並べて、平次と彦兵衞は、死ぬ氣になつた無分別を叱つたり<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めたりしました。

「三百八十兩は大金だが、増屋の主人は<ruby><rb>締</rb><rt>あき</rt></ruby>らめてゐるし、奉公人並といつても、養子のお前だ。一生眞面目に働いて、<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>を肥らせる氣になれば、三百八十兩は安い資本のやうなものぢやないか」

平次はさう言つてやります。

「金せえありや、俺の手で何とでもするが、こんな暮しをして居ちや、三百八十兩は<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>か、三兩二分も<ruby><rb>覺束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ねえ」

彦兵衞は<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しがるのです。惡事に榮えた昔の事を思ひ出したのでせう。

「正直者はそれが本當さ、――ところで、どんな野郎が拔いたんだ。三百八十兩が懷中から消えた<ruby><rb>後前</rb><rt>あとさき</rt></ruby>のことを、少し<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく聞かして貰はうか」

と平次。

「<ruby><rb>相生</rb><rt>あひおひ</rt></ruby>町のお<ruby><rb>華客</rb><rt>とくい</rt></ruby>で、三百八十兩、小判で受取つたのは<ruby><rb>巳刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>少しまへでした。眞つ直ぐに兩國へかゝると、橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で何處かの小僧さんが待つて居て、『増屋の主人が<ruby><rb>小梅</rb><rt>こうめ</rt></ruby>の<ruby><rb>寮</rb><rt>れう</rt></ruby>に居るから、<ruby><rb>其方</rb><rt>そつち</rt></ruby>へ持つて行くやうに』といふ<ruby><rb>傳言</rb><rt>ことづて</rt></ruby>です」

「フーム」

「別に疑ふ心持もなく、向島へ行くと、丁度花は眞つ盛り、晝前だといふのに、<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>は、こぼれさうな人出です。その間を縫ふやうに、<ruby><rb>言問</rb><rt>こととひ</rt></ruby>の近くまで――實は飛んだ<ruby><rb>儲</rb><rt>まう</rt></ruby>けもののつもりで、花を眺め乍ら行くと、いきなり突き當つて喧嘩を吹つ掛けたものがあります」

「どんな野郎だい」

彦兵衞は横合から口を出しました。

「<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>の<ruby><rb>禿</rb><rt>は</rt></ruby>げ上がつた、薄あばたの男で」

「フーム」

「二つ三つ<ruby><rb>毆</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られて、土堤の下へ轉がされると、――それ喧嘩だツ――といふ人だかり」

「――」

「<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>くハネ退けて飛起きると、相手は人混みの中に飛込んで何處へ逃げたかわかりません。ハツと氣が付いて懷中を見ると、三百八十兩の小判を入れた財布は、紐を切られて拔かれてしまつたのです」

「あの野郎、やりやがつたな」

彦兵衞は思當ることがあるらしく、<ruby><rb>拳固</rb><rt>げんこ</rt></ruby>で鼻の頭を撫で上げ乍ら、詰め寄りました。

「びつくりして、氣違ひのやうに驅け廻りましたが、相手は何處へ逃げたか、影も形もありません。小梅の寮へ行つて見ると、旦那が此處へ來てゐるといふのは眞つ赤な嘘、よく〱<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>まれたと氣が付くと私はもう、死んでお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びをするより外に思案もなくなりました」

「――」

「日の暮れるまで死場所を探して、彼方此方歩きまはりましたが、何處へ行つても花見客で一パイ、日が暮れると足は横山町の方へ向いて居りました。お富に逢つて一と言、別れの言葉が言ひたかつたのです」

徳之助の肩はガクリと落ちて、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>のほつれも、白い頬も、あはれ深い姿です。

「一緒に死なうと言ひましたのは、この私でした。お父さん、堪忍して下さい。――お父さん一人殘して死ぬと思ふと、胸が張り<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>けるやうでした。でも、徳之助さん一人殺して、私は生きてゐる氣がしません」

後ろからお富、伸した手はそつと、父親の膝小僧へ――

「ば、馬鹿なツ。親父をつかまへて、<ruby><rb>惚氣</rb><rt>のろけ</rt></ruby>を聞かせる奴もねえものだ、へツ、へツ」

彦兵衞ははふり落ちる涙を、横なぐりに拂つて、<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ笑ひを絞り出して居ります。

「ところで、彦兵衞。その巾着切の<ruby><rb>薄菊石</rb><rt>うすあばた</rt></ruby>を、お前は心當りがありさうだが――」

平次は職業意識を取戻しました。

「それですよ、親分。若い者には聞かせたくねえ話で、――ちよいとお顏を」

彦兵衞は目顏に物を言はせて、滑るやうに明けかゝつた街へ出ました。

それを追つて平次。二人は暫らく無言のまゝ、濱町河岸に立つて、銀鼠から桃色に明けて行く大川端の春を眺めて居ります。

「彦兵衞――<ruby><rb>薄菊石</rb><rt>うすあばた</rt></ruby>の<ruby><rb>巾着切</rb><rt>きんちやくきり</rt></ruby>は誰だ。早い方がいゝ。今から手を廻したら、金が戻るかも知れねえ」

平次は口を切りました。

「<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>菊石</rb><rt>あばた</rt></ruby>の<ruby><rb>東作</rb><rt>とうさく</rt></ruby>といふ野郎で、――仕事をする時だけ、自分の顏へ繪の具で菊石を描くほどの用心深い奴ですよ」

「何處に居る、少しでも早い方がいゝ」

「ね、親分さん、――これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>に任せて下さいませんか」

「――」

「十手捕繩ぢや――そんな事を言つちや惡いが、後口のよくねえことがあります。彦兵衞が一世一代、身體を張つてきつと型をつけます。こいつはあつしに任しておくんなさいまし」

彦兵衞は思ひ切つて斯う言ふのです。

「それはまた、どうしたわけだ」

と平次。

「増屋の嫁にならうといふ娘の耳に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじやう</rt></ruby>を知らせたくはありません。――それにあの東作の仕事振りを、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はよく知つて居ります。これは<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>みに企んだ上のことで、金を隱して、描き菊石を洗つて居た日には、親分が踏込みなすつても、どうすることも出來ません」

「その時は<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>が<ruby><rb>活證人</rb><rt>いきじようにん</rt></ruby>になつてくれるだらう。なア、彦兵衞」

「なれと仰しやればなりますが、その代りあつしの素姓は明るみに<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>されて、娘は死ぬほど<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れても、増屋の嫁になれつこはありません――相對死を助けて貰つても、一人死をさせちや、反つて<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>ぢやございませんか、親分」

「――」

「三百八十兩の金を取り戻し、徳之助とお富を無事に増屋に歸した上で、菊石の東作を縛るなり叩くなり、勝手になすつておくんなさい。ね、親分――錢形の親分さんを見込んで、この彦兵衞が一生一度のお願ひでございます」

何時の間にやら彦兵衞は、朝の大地の上に<ruby><rb>崩折</rb><rt>くづを</rt></ruby>れて、錢形平次を拜んでゐたのです。

「よし、判つた。たつた三日、<ruby><rb>日眼</rb><rt>にちげん</rt></ruby>を切つて待つてやらう。手前の改心を見屆けた平次があの可愛らしい娘への土産代りだ」

「有難うございます、親分」

「いゝよ、俺は拜まれるのはあんまり好きぢやねえ――大變な泥だぜ、仕樣がねえなア」

平次は彦兵衞を起してやつて、その胸から膝へ一面に附いた<ruby><rb>土埃</rb><rt>つちほこり</rt></ruby>を拂つてやりました。

もう出始めた街の人達、醉つ拂ひの介抱とでも思つたのか、それを遠卷に見て居るのでした。

## 四

田原町の<ruby><rb>經師屋</rb><rt>きやうじや</rt></ruby>東作、四十年輩の氣のきいた男ですが、これが描き<ruby><rb>菊石</rb><rt>あばた</rt></ruby>の東作といはれた、<ruby><rb>稀代</rb><rt>きだい</rt></ruby>の兇賊と知る者は滅多にありません。

その奧の、思ひの外<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を盡した一と間に、主人の東作と、左官の彦兵衞は相對しました。

「久し振りだね、彦兄イ。眼と鼻の間に住んでゐても、<ruby><rb>稼業</rb><rt>かげふ</rt></ruby>が違ふと、斯うも逢はないものか」

東作は澁い茶一杯<ruby><rb>掩</rb><rt>い</rt></ruby>れるでもない冷たい態度で、少し茶かし加減にかう言ふのでした。

「お蔭で地道な貧乏暮しも四年と續いたが――今日はね東作、少しお願ひがあつて來たんだが」

彦兵衞は居心地が惡さうにモヂモヂし乍ら、思ひ切つた樣子で切出しました。

「ハテネ、堅氣のお前さんからの頼み、といふと、袋戸棚の<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>でも貼つて貰ひたいと言ふのかい」

東作は煙草盆を引寄せて一服吸付け、<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な煙を長々と吐きました。プーンと高貴な、<ruby><rb>國府</rb><rt>こくぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>薫</rb><rt>かを</rt></ruby>り――。

「外ぢやねえ。昨日向島で拔いた、増屋の息子の三百八十兩」

「何を言ふんだい、彦兄イ。向島だの、三百八十兩だのと――俺はもう惡事とは縁切りさ。三年前から堅氣になつて、近頃では左官の彦兵衞と同じやうに通用する<ruby><rb>經師屋</rb><rt>きやうじや</rt></ruby>の東作だ。<ruby><rb>可怪</rb><rt>をかし</rt></ruby>な事を言つて貰ひたくないね」

「さうでもあらうが東作、――俺が聞いた手口は、昔のまゝの<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>菊石</rb><rt>あばた</rt></ruby>だ。あの三百八十兩を拔かれたばかりに、昨夜は兩國橋から、危なく若い二人、身を投げるところよ」

「一人は彦兄イの――娘お富さんとか言つたね」

「それまで知つてゐるなら、言ふだけ<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>だ。なア、東作、昔の<ruby><rb>誼</rb><rt>よしみ</rt></ruby>。その三百八十兩を、この彦兵衞の顏に免じて返してくれ、きつと恩に<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>る――」

「それぢや彦兄イ、本氣でそんな事を言ひに來たのか」

「本氣も、本氣この通りだ。娘の命にも<ruby><rb>關</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はること、<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>に返つた彦兵衞が一生の頼みだ。聞いてくれ、東作」

彦兵衞は兩手を疊に下ろして、涙ぐんでさへ居たのです。

「やい、彦兄イ」

「――」

「いやさ彦兵衞。年のせゐかは知らねえが、大層<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>はボヤケやがつたな」

東作は銀煙管を<ruby><rb>逆手構</rb><rt>さかてがまへ</rt></ruby>に、火鉢を<ruby><rb>小楯</rb><rt>こだて</rt></ruby>に取つて<ruby><rb>屹</rb><rt>きつ</rt></ruby>となりました。

「東作、頼む」

「東作々々、と、安くして貰ひたくねえ。昔は惡黨仲間の兄イ分だらうが、――<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いだ金をそつくり返せといふのは、こちとらにはねえ仁義だ。<ruby><rb>巫山戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>た事を言やがると、彦兵衞だらうが<ruby><rb>朴念仁</rb><rt>ぼくねんじん</rt></ruby>だらうが、勘辨しねえぞ」

「解つたよ、東作。手前の腹を立てるのも無理はねえが、――俺の方にも少しばかり言ひてえことがある」

「――」

「娘の命を助けたのは、他ぢやねえ、錢形の平次親分だ。三百八十兩拔いたのは、<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>菊石</rb><rt>あばた</rt></ruby>の東作と話すと――」

「何？」

「まア、待つてくれ。俺は一生懸命平次親分を宥めて、三百八十兩は、見事この彦兵衞が貰つて來るからと、漸く引取つて貰つたのは、ツイ先刻だ」

「それぢや、手前、錢形の平次に、この俺の事までベラベラと饒舌つてしまつたのか」

東作はカンカンに腹を立て乍らも、襟元の薄寒さを感じました。錢形平次に睨まれることは、惡黨仲間に取つても<ruby><rb>致命的</rb><rt>ちめいてき</rt></ruby>な恐怖です。

「娘の命を助けたさの行きがかりだ――それは仕方があるものか。三百八十兩の金を返してくれさへすれば、平次親分に頼んで、今度のことは眼をつぶつて貰ふ工夫もあるだらう。なア、東作」

「御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>らう」

「何？」

「岡つ引に<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かされて獲物を吐き出したとあつちや、この東作の名折れだ。今直ぐ長い<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらぢ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>くまでも、そいつは御免蒙らうよ」

「どうあつてもか、東作」

「いやに東作、東作つて言やがるぢやないか。誰が何と言つても嫌だよ。判つたかい、彦兵衞」

「野郎ツ」

二人は睨み合ひました。爭鬪を始める一瞬前の猛獸のやうに――。

「ハツハツハツハツハツ、年は取つても、<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しやば</rt></ruby>つ氣は拔けねえぜ。飛んだいゝ氣合だよ、彦兄イ」

急に笑ひ出した東作の顏を、彦兵衞は眉も動かさずに睨み据ゑます。

「三百八十兩、事と次第によつては、隨分返してやらないものではないが、その代り、禮はするだらうな、彦兄イ」

「禮？――それはするとも、その日暮しの左官には、どうせろくな禮も出來ないが」

彦兵衞は緊張が<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んで、思はず肩を落しました。相手の樣子に妥協的なものを讀んだのです。

「禮と言つたところで、錢や金ぢやねえ」

「――」

「俺には少し望みがあるんだ。――外ぢやねえ、三百八十兩返しや、徳之助も無事に増屋に納まるだらう。お富とはどうせない縁と二人を諦めさせて、お富をこの東作の女房にくれる氣はないか」

「な、何だと」

東作は大變なことを言ひ出しました。

「それが嫌なら、増屋へ乘込んで、手前の素姓を皆んなバラしてやるまでよ。江戸で指折の<ruby><rb>大店</rb><rt>おほだな</rt></ruby>が、巾着切の娘を嫁にするかしないか。こいつは面白いぜ、なア彦兄イ」

「手前それは正氣で言ふのか、東作」

「正氣も正氣、この通り、醉つても寢ぼけても居るわけぢやねえ。年は少し違ふが、まだ<ruby><rb>厄前</rb><rt>やくまへ</rt></ruby>の東作に、十九のお富が不釣合とは言はさねえ。巾着切の娘が巾着切の女房、こんな似合ひの縁があるものか」

「野郎ツ」

「まア、怒るな、彦兄イ。俺は二三年前から、お富坊に眼をつけて居たんだ、――この縁談さへ承知なら三百八十兩は<ruby><rb>結納代</rb><rt>ゆひなふがは</rt></ruby>り、<ruby><rb>熨斗</rb><rt>のし</rt></ruby>をつけて差上げるよ」

「――」

東作の<ruby><rb>太々</rb><rt>ふて〲</rt></ruby>しさと、その<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>みの深さに壓倒されて、彦兵衞は燃ゆる眼に宙を見たまゝ、血の出るほど唇を噛みました。

濱町の家では、お富と徳之助が、平次に言ひ<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>められ<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、事情を知らない乍らも、何やら吉報らしいものを待つてゐることでせう。

## 五

お富を一人殘して、徳之助だけ店へ歸すのは、彦兵衞の方では<ruby><rb>不可能</rb><rt>ふかのう</rt></ruby>なことでした。

死の一歩手前まで行つた二人は、恥も外聞も、義理も體面も捨てて、もう一瞬も側を離れようとはしなかつたのです。

幸ひ、増屋の主人三右衞門からの<ruby><rb>傅言</rb><rt>ことづて</rt></ruby>で、二人を一緒にする前提として、暫くは世間體を兼ねて、お富は濱町の父親の許に留めるのが穩當だらうといふことになり、迎ひに來た手代に連れられて、灯の入る頃、徳之助は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く横山町へ歸る氣になりました。

「お富、――若旦那はお店へ歸つたが、三百八十兩の金が戻らなきや、親類方や古い奉公人の手前、増屋の跡取りに直るのがむづかしい事は、お前にも判るだらうな」

改めて彦兵衞は、娘に<ruby><rb>因果</rb><rt>いんぐわ</rt></ruby>を<ruby><rb>含</rb><rt>ふく</rt></ruby>めるのでした。

「――」

それは併し、何の前提やら父親の氣持を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>り兼ねて、お富は美しい瞳を擧げました。

「増屋から追出されても、裏長屋に住んでも、二人一緒に暮せるから――とお前は思ふだらうが、それぢや世上の義理が濟まねえ」

「――」

「男の出世を<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げるのは、何と言つてもつれ<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>ふ女の恥だ。解るか、お富」

「え」

「それが解るなら、今晩ほんの暫く、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な客に附き合つてくれ――三百八十兩の手土産を持つて來る客だ」

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん、それは？」

「察しの通り巾着切りの東作といふ男だが、深いわけがあつて、表沙汰にしたくないのだよ。判るか、お富」

子供の時別れて、五年前母親の<ruby><rb>臨終</rb><rt>りんじゆう</rt></ruby>の<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>で、久振りに逢つた父親ですが、それから五年の間の愛育は、世の常の五十年の恩にも<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えて深いものでした。

世に<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな良い父親があるといふことは子として、何といふ<ruby><rb>誇</rb><rt>ほこ</rt></ruby>らしいことでせう。

お富は何時でも、半白の<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>から、後光が射すやうな心持で、父親彦兵衞を見て來たのです。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん、――私には何にも判らないけれど、お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さんが良いと思ふことならどんな事でもやつてみませう」

お富はそれほど父親を信頼し切つて居たのでした。經師屋東作、<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>菊石</rb><rt>あばた</rt></ruby>と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>のある大惡黨が、押掛け聟に來ることは元より知る由もありません。

間もなく、東作が町駕籠で乘込んで來ました。

「爺さん、<ruby><rb>酉刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>だ、早過ぎはしないだらうね」

さすがに極りが惡かつたものか、少し面を冠つて、笑み割れた頬が、とろけて落ちさうなのも無氣味です。

「まア<ruby><rb>入</rb><rt>へえ</rt></ruby>んな、――お富、お富、俺の古馴染の東作さんだ。挨拶をするがいゝ」

狹い家、逃げも隱れもならぬお富は、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の蔭に小さくなりました。

「お富坊、相變らず美しいことだな。今晩から俺は此處の人だよ、お前とは――」

「シツ、餘計ことを言ふな。若い者は吃驚するぢやないか」

彦兵衞は精一杯の眼顏を働かせます。どうしても承知しなかつた東作を説き落して、お富との祝言は、いづれ徳之助と縁が切れてから、改めて<ruby><rb>盃事</rb><rt>さかづきごと</rt></ruby>をするとして、今晩はほんの見合だけ――といふ事で話をつけたのです。

「へツ、へツ、へツ、さう言つたものかいなアお富坊かう見えても、俺は日本一の親切者さ。お富坊に氣に入るやうに、三百八十兩の金はちやんと此處に持つて來たよ。次第によつちや<ruby><rb>熨斗</rb><rt>のし</rt></ruby>をつけないものでもない――なアお富坊、今晩にもこの俺の女房になる氣はないかえ」

しな垂れかゝる四十男の醜さ、お富はゾツと寒氣がして、父親の背後に逃げ込みました。

「お富、――あれほど言つて置いたぢやないか、<ruby><rb>酌</rb><rt>しやく</rt></ruby>をして上げな」

「ハイ」

「なア、東作。夜は長げえ、先づ<ruby><rb>御輿</rb><rt>みこし</rt></ruby>を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>ゑて飮むがいゝ、――そのうちにはお富も、一と晩經てば、一と晩だけ年を取るといふものだ」

「その代りお互ひも一と晩年を取るぜ、へツ〱。だが、全く<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らねえぜ、――お富坊の酌で飮むなんて、俺は三年越夢に見た圖だが、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのふ</rt></ruby>までもこんな幸せにあり付かうとは思はなかつたよ」

「だからよ、存分に飮みな」

「<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいはう</rt></ruby>はお富坊に頼むか、ゲープ」

東作は<ruby><rb>鯨</rb><rt>くぢら</rt></ruby>のやうに飮みました。逃げ腰のお富は、彦兵衞に眼で<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られて、觀念し切つた手に銚子を擧げるのです。これが徳之助を救ふ方法と聞かされなかつたら、どんなに父親が引止めたところで、四半刻とも我慢をするお富ではなかつたでせう。

<ruby><rb>酉刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>から<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>まで、呑んで、呑んで、東作は到頭正體を失ひました。

「いゝ<ruby><rb>鹽梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に眠たやうだ。お富、枕を持つて來な、――それから、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>かせるのだ」

「――」

默つて行燈を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>かせ、<ruby><rb>杯盤</rb><rt>はいばん</rt></ruby>をざつと片附けて、お富は部屋の隅に顫へて居ります。

「驚くことはない。少し靜かにしたら、よく落着くだらう」

「――」

「飛んだ<ruby><rb>獸</rb><rt>けだもの</rt></ruby>に附合ひさせて、氣の毒だつたなア。お富、その代り、この跡始末は俺がしてやる」

彦兵衞は亂醉して、正體もなく眠りこけた東作の側に<ruby><rb>膝行</rb><rt>ゐざり</rt></ruby>寄りました。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん」

お富は思はず聲を出しました。父親の手が妙に物馴れた滑らかさで、何にも知らずに眠つてゐる、東件の懷中にスルスルと入つて行くではありませんか。

「拔かれた物を拔くまでのことだ。驚くことはない」

ズルズルと<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだ</rt></ruby>したのは、蛙を呑んだ蛇のやうに、恐ろしく<ruby><rb>脹</rb><rt>ふく</rt></ruby>らんだ胴卷。

「ウ、ウン、ウ、ウ」

うなされた樣に、寢返りを打つ東作。

「――」

彦兵衞の右手には、キラリと<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>が光りました。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん」

「大丈夫だ、心配するな。こんな毒蟲は、人助けの爲に命を取つても<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>はないが、俺は<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひけふ</rt></ruby>な人殺しはしねえ」

「――」

「お前はその胴卷を持つて、横山町の増屋へ行つてくれ、――此處にまご〱して居て、此野郎が眼を覺すと、後が面倒だ」

「お父さん」

「手觸りでもよく解る。中は確か三百八十兩。少し重いが、男一人の命にも<ruby><rb>關</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はつた金だ、しつかり持つて行け」

胴卷を娘の帶の下へ廻し乍ら、彦兵衞はさう言ひ續けます。

もう<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>近いでせう。街は灰を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いたやうに鎭まつて、<ruby><rb>朧月</rb><rt>おぼろづき</rt></ruby>の精のやうに、ヒラヒラと飛んで來る花片。

「お父さん、それぢや」

お富は三百八十兩の小判を<ruby><rb>背負</rb><rt>しよ</rt></ruby>つて、一歩眞夜中の街へ踏出しました。

「命がけの金だぞ、お富」

「ハイ」

「これが暫くの別れにならうも知れない」

「お父さん」

「なアに、そんな事があるものか。明日は又逢はう、いゝか、お富」

## 六

娘を夜の冒險に送り出して、引返した彦兵衞。行燈の灯りの中に、動物のやうに<ruby><rb>亂醉</rb><rt>らんすゐ</rt></ruby>した身體を横へた東作を、憎々しく見詰めましたが、いきなりハタと<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>を蹴つて、

「野郎、起きろ」

低いが、<ruby><rb>壓</rb><rt>お</rt></ruby>し付けるやうな聲を浴びせました。

「ウ、ウ、ウ」

ゴロリと寢返りを打つた東作、それ位のことでは、なか〱目を覺しさうもありません。

「只の洒だと思つて、よくも<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>ひやがつたな、畜生ツ、何うするか見るがいゝ」

勝手から持出した<ruby><rb>手桶</rb><rt>てをけ</rt></ruby>、井戸端へ行つて二た<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>まで汲み入れ、滿々と水を<ruby><rb>湛</rb><rt>たゝ</rt></ruby>へたのを持つて、東作の枕元に突つ立ちました。

「<ruby><rb>水垢離</rb><rt>みづごり</rt></ruby>を使はせてやる、驚くな」

高々と持ち上げた手桶から、ドツと一條の<ruby><rb>飛瀑</rb><rt>ひばく</rt></ruby>、熟睡した東作の眼へ鼻へ口へ、いや、顏も襟も胸も、上半身一ぱいにブチまけたのです。

「ワツ、な、何をしやがる」

ガバと飛起きた東作。

「騷ぐな、家は借家だ。望みとあらば、もう二三杯食はせてやらうか」

手桶を振り冠つたまゝ、彦兵衞の<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>は虹を掛けます。

「や、や、胴卷を拔きやがつたな」

立ち上がつて自分の懷中を<ruby><rb>搜</rb><rt>さぐ</rt></ruby>つた東作、さすがに酒の<ruby><rb>醉</rb><rt>よひ</rt></ruby>も覺めました。

「當り<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>よ、油斷をした懷中から拔くのは巾着切の手柄だ。ざまア見やがれ」

「<ruby><rb>爺奴</rb><rt>ぢゝいめ</rt></ruby>、一杯食はせたな」

濡れ<ruby><rb>腐</rb><rt>くさ</rt></ruby>つた<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>をかなぐり捨てると、<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい<ruby><rb>素</rb><rt>す</rt></ruby>つ<ruby><rb>赤裸</rb><rt>ぱだか</rt></ruby>、東作は行燈を<ruby><rb>小楯</rb><rt>こだて</rt></ruby>に<ruby><rb>屹</rb><rt>きつ</rt></ruby>と身構へます。

「金を拔いて娘をくれと拔かしやがつたな。<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>は江戸の巾着切の<ruby><rb>面汚</rb><rt>つらよご</rt></ruby>しだ。辯天樣のやうな娘を、そんなモモンガアの餌にしてたまるものか。少しは目が覺めたか、馬鹿野郎ツ」

「その娘をヌケヌケと増屋の嫁にする氣だらうが、そんな甘いわけに行くものか」

「俺の方でも、手前を錢形の親分に引渡す筈だが、――昔の<ruby><rb>誼</rb><rt>よしみ</rt></ruby>、繩を打たせちや氣の毒だ」

「何を、老ぼれ」

「何方も拔き差しならねえ<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>だ。仲間の仕來りは、こんな時には二<ruby><rb>梃</rb><rt>てう</rt></ruby>の匕首に物を言はせる外はねえ」

「何？」

「さア、そいつを持つて柳原の<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>まで來い。地獄の旅へ、何處が先に踏出すか」

ガラリと投げた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>、行燈の影から手を出して、東作はあわてて一梃を拾ひました。

「しやら臭え、來いツ、爺奴」

二人は<ruby><rb>毬</rb><rt>まり</rt></ruby>の如く、<ruby><rb>朧月</rb><rt>おぼろづき</rt></ruby>の街に飛び出したのです。

×　　　　　　×　　　　　　×

それから一と月、江戸は青葉の風<ruby><rb>薫</rb><rt>かを</rt></ruby>る頃となりました。三百八十兩を取り返したのは、彦兵衞お富の<ruby><rb>親娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の手柄と判つて、徳之助の家督相續にも、お富との祝言にも、今は文句を言ふ人もありません。

左官の彦兵衞は假親を立てて貰ふやうに、強つて主張しました。――萬一自分の素姓が知れた時の用心だつたのでせう。増屋の主人は、それを世間並の遠慮と思ひ込んで、反對し續けて來ましたが、最後には折れて出て、一應増屋の親戚の養女と<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>し、それから改めて正式の輿入れになりました。

今日はいよ〱徳之助とお富の祝言といふ日。

濱町の貧しい父親の許に、<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまごひ</rt></ruby>に來たお富は、近所の人達に包圍されて、暫くは、祝ひの言葉と、<ruby><rb>羨望</rb><rt>せんばう</rt></ruby>の感動詞と、あらゆる目出度いものの渦の中にもみ拔かれました。

「まア、何て綺麗でせう」

「お富さんは本當に仕合せねえ」

「時々は濱町へもいらつしやいな」

そんな言葉の中に、<ruby><rb>盛裝</rb><rt>せいさう</rt></ruby>したお富と、相變らぬ<ruby><rb>布子</rb><rt>ぬのこ</rt></ruby>一枚の彦兵衞は、<ruby><rb>唯</rb><rt>たゞ</rt></ruby>おろ〱するばかりでした。

「それぢや、お<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん」

やがて<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>く陽、お富は盡きぬ名殘を惜しみ乍ら、店から廻された駕籠の中に納まりました。

「お富、達者で暮せよ」

戸口まで送つて出た彦兵衞の眼には、涙が光つて居ります。

「お父さん、時々は横山町へ來て下さるでせうね」

お富は美しい髮を氣にし乍ら、駕籠の中から顏を出して、咲き立ての花のやうに、四方の空氣を匂はせます。

「行くよ、行くには行くがな、――<ruby><rb>親父</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>が娘の嫁入先へ、ウロウロ行くのは、あまり見つともいいものぢやねえ」

「でも、お父さん」

「心配するな、時々はお前も顏を見せてくれ。言ふまでもねえ事だが、夫を大事に、御主人や御隱居によく仕へるのだよ」

「ハイ」

「やれ〱、これで俺も安心だ。死んだおつ母アも、さぞ喜んでゐるだらう」

「お父さん」

駕籠は上がりました。親と娘を<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てる、町の女房、娘達、美しく<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかな夕陽の中に、あやかりものの駕籠を、何處までも追ひます。

それを立ち盡して見送る彦兵衞。

「――」

默つて半白の頭を振りました。涙はポロポロと、<ruby><rb>赤銅色</rb><rt>しやくどういろ</rt></ruby>の頬を傳はつて、土間の土くれを濡らします。

そつと肩に手を置く者。振返ると。

「彦兵衞」

錢形平次が立つて居るではありませんか。

「親分」

「お慈悲は過ぎたぞ、――此上のお目こぼしは、役人方の落度になる」

「覺悟は出來て居ります、親分」

彦兵衞は靜かに後ろへ手を廻しました。

「<ruby><rb>經師屋</rb><rt>きやうじや</rt></ruby>東作殺しの下手人、神妙にせい」

「親分、有難うございました。お蔭で娘は、何にも知らずに、あの通り――」

街の夕陽の中に薄れて行く駕籠、それを見送つて、彦兵衞は聲もなく泣くのです。

「<ruby><rb>笹野</rb><rt>さゝの</rt></ruby>樣の御慈悲だ――それもこれも。さア立て。」

「親分、この彦兵衞が最後の願ひ、もう一つだけ無理を聞いて下さい」

「――」

「お願ひだ、親分。あの娘には、何にも知らせたくはありません。私の居ないのを不思議に思つたら、<ruby><rb>亡妻</rb><rt>かゝあ</rt></ruby>の<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>を<ruby><rb>弔</rb><rt>とむら</rt></ruby>ふため、西國巡禮に出た――とさう言つて置いて下さい」

彦兵衞は自分の襟に深々と顏を埋めます。

「いゝとも、この一<ruby><rb>埒</rb><rt>らつ</rt></ruby>は笹野樣も御奉行樣も御存じだ。東作はお上でも持て餘した惡黨、それを<ruby><rb>害</rb><rt>あや</rt></ruby>めたところで、大したおとがめはあるめえ――お富に初孫が出來るまでには、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>も西國巡禮の旅から歸つて來られるだらうよ」

「親分、何にも言はねえ」

彦兵衞は<ruby><rb>崩折</rb><rt>くづを</rt></ruby>れました。合せた手が<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の下に、涙に濡れてワナワナと顫へます。

「八、見つともねえ、そんなものを引込めろ」

「へエ――」

後ろから來た八五郎は、あわてて捕繩を引込めました。どつと起る街の<ruby><rb>歡聲</rb><rt>くわんせい</rt></ruby>、花嫁の駕籠を見付けた、子供達の聲でせう。