Soranoha

暁月夜

あけづきよ

樋口 一葉

第だい一回くわい

櫻さくらの花はなに梅うめが香かとめて柳やなぎの枝えだにさく姿すがたと、聞きくばかりも床ゆかしきを心こヽろにくき獨ひとりずみの噂うはさ、たつ名なみやび男をの心こヽろを動うごかして、山やまの井ゐのみづに浮岩あくがるヽ戀こひもありけり、花櫻はなざくら香山家かやまけときこえしは門表もんへうの從じゆ三位みよむまでもなく、同族中どうぞくちうに其人そのひとありと知しられて、行ゆく水みづのながれ清きよき江戸川えどがはの西にしべりに、和洋わやうの家やづくり美びは極きはめねど、行ゆく人ひとの足あしを止とむる庭木にはきのさまざま、翠色すゐしよくしたヽる松まつにまじりて紅葉もみぢのあるお邸やしきと問とへば、中なかの橋はしのはし板いたとヾろくばかり、扨さても人ひとの知しるは夫それのみならで、一重ひとへと呼よばるヽ令孃ひめの美色びしよく、姉あねに妹いもとに數多かずおほき同胞はらからをこして肩かたぬひ揚あげの幼をさなだちより、いで若紫わかむらさきゆく末すゑはと寄よする心こヽろの人々ひと〲も多おほかりしが、空むなしく二八の春はるもすぎて今歳ことし廿はたちのいたづら臥ぶし、何なにごとぞ飽あくまで優やさしき孝行かう〱のこヽろに似にす、父君ちヽぎみ母君はヽぎみが苦勞くらうの種たねの嫁よめいりの相談さうだんかけ給たまふごとに、我わがまヽながら私わたくし一生いつしやうひとり住ずみの願ねがひあり、仰おふせに背そむくは罪つみふかけれど、是こればかりはと子細しさいもなく、千扁一律せんべんいちりついやいやを徹とほして、はては世上せじやうに忌いまはしき名なを謠うたはれながら、狹せまき乙名をとめの氣きにもかけず、更ふけゆく歳としを惜をしみもせず、靜しづかに月花つきはなをたのしんで、態わざとにあらねど浮世うきよの風かぜに近ちかづかねば、慈善會じぜんくわいに袖そでひかれたき願ねがひも叶かなはず、園遊會ゑんいうくわいに物ものいひなれん頼たのみもなくて、いとヾ高嶺たかねの花はなごヽろに苦くるしむ人ひと多おほしと聞ききしが、牛込うしごめちかくに下宿住居げしゆくずまゐする森野敏もりのさとしとよぶ文學書生ぶんがくしよせい、いかなる風かぜや誘さそひけん、果放はかなき便たよりに令孃ひめのうはさ耳みヽにして、可笑をかしき奴やつと笑わらつて聞ききしが、その獨栖ひとりずみの理由わけ、我われ人ひとともに分わからぬ處ところ何なにゆゑか探さぐりたく、何なんともして其女そのをんな一目ひとめ見みたし、否いな見みたしでは無なく見みてくれん、世よは冠かぶせ物ものの滅金めつきをも、秘佛ひぶつと唱となへて御戸帳みとちやうの奧おくぶかに信しんを増まさするならひ、朝日あさひかげ玉たまだれの小簾をすの外とには耻はぢかヾやかしく、娘むすめとも言いはれぬ愚物ばかなどにて、慈悲じひぶかき親おやの勿体もつたいをつけたる拵こしらへ言ごとかも知しれず、夫それに乘のりて床ゆかしがるは、雪ゆきの後朝あしたの末すゑつむ花はなに見參げんざんまへの心こヽろなるべし、扨さても笑止せうしとけなしながら心こヽろにかヽれば、何時いつも門前もんぜんを通とほる時ときは夫それとなく見みかへりて、見みることも有あれかしと待まちしが、時ときはあるもの飯田町いひだまちの學校がくかうより歸かへりがけ、日暮ひくれ前まへの川岸かしづたひを淋さびしく來くれば、うしろより、掛かけ聲ごゑいさましく駈かけ拔ぬけし車くるまのぬしは令孃ひめなりけり、何處いづくの歸かへりか高髷たかまげおとなしやかに、白粉おしろいにはあるまじき色いろの白しろさ、衣類きものは何なにか見みとむる間まもなけれど、黒くろちりめんの羽織はおりにさらさらとせし高尚けだかき姿すがた、もしやと敏さとしわれ知しらず馳はせ出だせば、扨さてこそ引ひきこむ彼かの門内もんない、車くるまの輪わの何なんにふれてか、がたりと音おとして一ゆり搖ゆれヽば、するり落おちかヽる後うしろざしの金簪きんかんを、令孃ひめは纎手せんしゆに受うけとめ給たまふ途端とたん、夕風ゆふかぜさつと其袂そのたもとを吹ふきあぐれば、飜ひるがへる八つ口くちひらひらと洩もれて散ちる物ものありけり、夫それと知しらねば車くるまは其そのまヽ玄關げんくわんにいそぐを、敏さとし何なにものとも知しらず遽あわたヽしく拾ひろひて、懷中ふところにおし入いれしまヽ跡あとも見みずに歸かへりぬ。

乘のり入いれし車くるまは確たしかに香山家かやまけの物ものなりとは、車夫しやふが被布はつぴの縫ぬひにも知しれたり、十七八と見みえしは美うつくしさの故ゆゑならんが、彼あの年齡としごろの娘むすめほかに有ありとも聞きかず、噂うはさの令孃ひめは彼あれならん彼あれなるべし、さらば噂うはさも嘘うそにはあらず、嘘うそどころか聞ききしよりは十倍じふばいも二十倍もつとも美よし、さても、其色そのいろの尋常なみを越こえなば、土つちに根生ねおひのばらの花はなさへ、絹帽しるくはつとに挾はさまれたしと願ねがふならひを、彼あの美色びしよくにて何故なにゆゑならん、怪あやしさよと計ばかり敏さとしは燈下とうかに腕うでを組くみしが、拾ひろひきしは白絹しろぎぬの手巾はんけちにて、西行さいぎやうが富士ふじの烟けむりの歌うたを繕つくろはねども筆ふでのあと美みごとに書かきたり、いよいよ悟さとりめかしき女をんな、不思議ふしぎと思おもへば不思議ふしぎさ限かぎりなく、あの愛あいらしき眼めに世よの中なかを何なんと見みてか、人ひとじらしの振舞ふるまひ理由わけは有あるべし、我われ夢ゆめさら戀こひなども厭いやらしき心こヽろみぢんも無なけれど、此理由このわけこそ知しりたけれ、若わかき女をんなの定さだまらぬ心こヽろに何物なにものか觸ふるヽ事ことありて、夫それより起おこりし生道心なまだうしんなどならば、かへすがへす淺あさましき事ことなり、第だい一は不憫ふびんのことなり、中々なか〱に高尚けだかき心こヽろを持もちそこねて、魔道まだうに落入おちいるは我々われ〱書生しよせいの上うへにもあるを、何なにごとにも一ひと筋すぢなる乙女氣をとめぎには無理むりならねど、さりとは歎なげかはしき迷まよひなり、兎とも角かくも親したしく逢あひて親したしく語かたりて、諫いさむべきは諫いさめ慰なぐさむべきは慰なぐさめてやりたし、さは言いへど知しりがたきが世よの中なかなれば令孃ひめにも惡わろき虫むしなどありて、其身そのみも行ゆきたく親おやも遣やりたけれど嫁入よめいりの席せきに落花らつくわの狼藉らうぜきを萬一もしと氣きづかへば、娘むすめの耻はぢも我わが耻はぢも流石さすがに子爵ししやくどの宜よく隱かくして、一生いつしやうを箱入はこいりらしく暮くらさせんとにや、さすれば此歌このうたは無心むしんに書かきたるものにて半文はんもんの價値ねうちもあらず、否いなこの優美いうびの筆ふでのあとは何なんとしても破廉耻はれんちの人ひとにはあらじ、必かならず深ふかき子細しさいありて尋常なみならぬ思おもひを振袖ふりそでに包つヽむ人ひとなるべし、扨さてもゆかしや其そのぬば玉たまの夜半よはの夢ゆめ。

はじめは好奇かうきの心こヽろに誘さそはれて、空むなしき想像おもひをいろいろに描ゑがきしが、又また折をりもがな今いま一ひと度たびみたしと願ねがへど、夫それよりは如何いかに行違ゆきちがひてか後うしろかげだに見みることあらねば、水みづを求もとめて得えぬ時ときの渇かわきに同おなじく、一念いちねん此處こヽに集あつまりては今更いまさらに紛まぎらはすべき手段しゆだんもなく、朝あさも晝ひるも燭しよくをとりても、はては學校がくかうへ行ゆきても書しよを開ひらきても、西行さいぎやうの歌うたと令孃ひめの姿すがたと入いり亂みだれて眼めの前まへを離はなれぬに、敏さとしわれながら呆あきれる計ばかり、天晴あつぱれ未來みらいの文學者ぶんがくしやが此樣このやうのことにて如何どうなる物ものぞと、叱しかりつける後あとより我わが心こヽろふらふらと成なるに、是非ぜひもなし是上このうへはと下宿げしゆくの世帶しよたい一切いつさいたヽみて、此家こヽにも學校がくかうにも腦病なうびやうの療養れうやうに歸國きこくといひ立たて、立たちいでしまヽ一月ひとつきばかりを何處いづくに潜ひそみしか、戀こひの奴やつこのさても可笑をかしや、香山家かやまけの庭男にはをとこに住すみ込こみしとは。

第だい二回くわい

敏さとしおさなきより植木うゑきのあつかひを好すきて、小器用こぎように鋏はさみも使つかへば、竹箒たけばヽきにぎつて庭男にはをとこぐらゐ何なんでもなきこと、但たゞし身みの素性すじやうを知しられじと計ばかり、誠まことに只今たヾいまの山出やまだしにて、土つちをなめても是これを立身りつしんの手始てはじめにしたき願わがルビの「わが」はママひと、我われながら宜よくも言いへたる嘘うそにかためて、名前なまへをも其通そのとほり、當座たうざにこしへらて「こしへらて」はママ吾助ごすけとか言いひけり、さても氣きの利きかぬとて是これほどの役廻やくまはりあるべきや、浮世うきよの勤つとめめを一巡いちじゆん終をはりて、さても猶なほかヽるべき子この怠惰のらにてもあらば、如來樣によらいさまお出迎でむかひまで此口このくちつるしても置おかれず、草くさむしりに庭掃除にはさうぢぐらゐはとて、六十男をとこのする仕事しごとぞかし、勿躰もつたいなや古事記こじき舊事記くじきを朝夕あさゆふに開ひらきて、万葉集まんえふしふに不審紙ふしんがみをしたる手てを、泥鉢どろばちのあつかひに汚けがす事ことと人ひとは知しらねど、埒らちもなく万年青おもとの葉はあらひ、さては芝生しばふを這はつて木この葉はを拾ひろふ姿すがた、我われながら見みられた体ていでなく、これを萬一もしも學友ともなどに見みつけられなばと、心こヽろ笹原さヽはらをはしりて、門外もんぐわいの用事ようじを兎角とかくに厭いとへば、勝手かつてばたらきの女子をんなども可笑をかしがりて、東京とうきやうは鬼おにの住すむ處ところでもなきを、土地とちなれねば彼あのやうに怕こはきものかと、美事みごと田舍ゐなかものにしてのけられぬ。

君きみゆゑこそ可惜あたら青年わかもの一人ひとり、此處こヽにかく淺あさましき躰ていたらくと、窓まどの小笹をざヽを吹ふく風かぜそよとも告つげねば、知しらぬ令孃ひめは大方おほかた部屋へやに籠こもりて、琴ことの音ねなどにいよいよ心こヽろを腦なやまさせけるが、折をりふしの庭にはあるきに微塵みぢんきずなき美うつくしさを認みとめ、我われならぬ召使めしつかひに優やさしき詞ことばをかけ給たまふにても情なさけふかき程ほどは知しられぬ、最初はじめの想像さう〲には子細しさいらしく珠數じゆすなどを振袖ふりそでの中なかに引ひきかくし、經文きやうもんの讀誦どくじゆに抹香まつかうくさくなりて、娘むすめらしき匂にほひは遠とほかるべしと思おもひしに、其そのやうの氣けぶりもなく、柳髮りうはついつも高島田たかしまだに結むすひ上あげて、後おくれ毛げ一ひと筋すぢえりに亂みださぬ嗜たしなみのよさ、さても好このみの斯かくまでに上手じやうずなるか、但たゞしは此人このひとの身みに添そひし果報くわはうか、銀しろかねの平打ひらうち一つに鴇色ときいろぶさの根掛ねがけむすびしを、優いうにうつくしく似合にあひ給たまへりと見みれば、束髮そくはつさしの花はな一輪いちりんも中々なか〱に愛あいらしく、此處こヽ一つに美人びじんの價値ねうち定さだまるといふ天然てんねんの衣襟えもんつき、襦袢じゆばんの襟えりの紫むらさきなる時ときは顏色いろこと更さらに白しろくみえ、態わざと質素じみなる黒くろちりめんに赤糸あかいとのこぼれ梅うめなど品ひん一層いつそうも二層にそうもよし、あるが中なかにも薄色綸子うすいろりんずの被布ひふすがたを小波さヾなみの池いけにうつして、緋鯉ひごひに餌ゑをやる弟君おとヽぎみと共ともに、餘念よねんもなく麩ふをむしりて、自然しぜんの笑ゑみに睦むつましき咡さヽやきの浦山うらやましさ、敏さとしもとより築山つきやまごしに拜をがむばかりの願ねがひならず、あはれ此君このきみが肺腑はいふに入いりて秘密ひみつの鍵かぎを我わが手てにしたく、時機をりあれかしと待まつま待遠まちどほや、一月ひとつきばかりを仇あだに暮くらして近ちかづく便たよりの無なきこそは道理だうりなれ、令孃ひめは高嶺たかねの花はなこれは麓ふもとの塵ちり、なれども嵐あらしは平等びやうどうに吹ふく物ものぞかし。

甚之助じんのすけとて香山家かやまけの次男じなん、すゑなりに咲さく花はないとヾ大輪おほりんにて、九こヽのつなれども權勢いきほひ一家かを凌しのぎ、腕白わんぱくさ限かぎりなく、分別顏ふんべつがほの家扶かふにさへ手てに合あはず、佛國ふつこくに留學りうがくの兄上あにうへ御歸朝ごきてうまでは、此君このきみにあたる人ひとあるまじと見みえけるが、孃ひめとは隨一いつの中なかよしにて、何なにごとにも中姉樣ちうねえさまと慕したひ寄よれば、もとより物ものやさしき質たちの、これは又また一段いちだんに可愛かあいがりて、物ものさびしき雨あめの夜よなど、燈火ともしびの下もとに書物しよもつを開ひらき、膝ひざに抱いだきて畫ゑを見みせ、これは何時何時いつ〱の昔むかし何處どこの國くにに、甚樣じんさまのやうな剛つよき人ひとありて、其時代そのときの帝みかどに背そむきし賊ぞくを討うち、大功たいこうをなして此畫このゑは引上ひきあげの處ところ、この馬うまに乘のりしが大將たいしやうと説明はなせば、雀躍こをどりして喜よろこび、僕ぼくも成長おほきくならば素晴すばらしき大將たいしやうに成なり、賊ぞくなどは何なんでもなく討うち、そして此樣このやうに書物ほんに記かかれる人ひとに成なりて、父樣とうさまや母樣かあさまに御褒美ごはうびを頂いたヾくべしと威張ゐばるに、令孃ひめは微笑ほヽゑみながら勇いさましきを賞ほめて、その樣やうな大將たいしやうに成なり給たまひても、私わたしとは今いまに替かはらず中なかよくして下くだされや、大姉樣おほねえさまも其外そのほかのお人ひとも夫々それ〱に片付かたづきて、人ひとの奧樣おくさまに成なり給たまふ身み、私わたしにはお兄樣にいさまとお前樣まへさまばかりが頼たよりなれど、誰たれよりも私わたしはお前樣まへさまが好すきにて、何卒どうぞいつまでも今いまの通とほり御一處ごいつしよに居をりたければ、成長おほきくなりてお邸やしきの出來できし時とき、かならず伴ともなひてお茶ちやの間まの御用ごようにても爲させ給たまへ、お分わかりに成なりしかと頬ほヽずりして言いへば、しだらも無なく抱だかれながら口くちばかりは大人おとならしく、それは僕ぼくが大將たいしやうに成なりて、そしてお邸やしきが出來できさへすれば、其處そこに姉樣ねえさまを連つれて行ゆきて、いろいろの御馳走ごちそうをなし、いろいろの面白おもしろきことをして遊あそぶべし、大姉樣おほねえさまや小姉樣ちひねえさまは僕ぼくを少すこしも可愛かあいがりて呉くれねば、彼あんな奴やつには御馳走ごちそうもせず、門もんをしめて内うちへ入いれずに泣なかしてやらん、と言いふを止とめて、其樣そのやうな意地いぢわるは仰おつしやるな、母樣かあさまがお聞きヽにならば惡わるし、夫それでも姉樣ねえさまたちは自分じぶんばかり演藝會えんげいくわいや花見はなみに行ゆきて、中姉樣ちうねえさまは何時いつもお留守居るすゐのみし給たまへば、僕ぼくが我長おほきくならば中姉樣ちうねえさまばかり方々はう〲に連つれて行ゆきて、ぱのらまや何なにかヾ見みせたきなり、夫それは色々いろ〱の畫ゑが活いきたる樣やうに描かきてありて、鐵砲てつぱうや何なにかも本當ほんたうの樣やうにて、火事かじの處ところもあり軍いくさの處ところもあり、僕ぼくは大變たいへんに好すきなれば、姉樣ねえさまも御覽ごらんにならば吃度きつとお好すきならん、大姉樣おほねえさまは上野うへののも淺草あさくさのも方々はう〲のを幾度いくども見みしに、中姉樣ちうねえさまを一度いちども連つれて行ゆかぬは意地いぢわるでは無なきか、僕ぼくは夫それか憎にくらしければと、思おもふまヽを遠慮ゑんりよもなく言いふ可愛かあいさ、左樣さうおもふて下くださるは嬉うれしけれど、其樣そのやうのこと他人ひとに言いふて給たまはるなよ、芝居しばゐも花見はなみも行ゆかぬのは私わたしの好すきにて、姉樣ねえさまたちの御存ごぞんじはなき事ことなり、もう此話このはなしは廢よしまするほどに、何なんぞお前樣まへさまが今日けふあそびて、面白おもしろく思おもひしお話はなしがあらば聞きかして下くだされ、今日けふは吾助ごすけがどの樣やうなお話はなしをいたしました。

この大將たいしやうの若樣わかさま難なんなく敏さとしが擒とりこになりけり、令孃ひめとの中なかの睦むつましきを見みるより、奇貨きくわおくべしと竹馬たけうまの製造せいざうを手てはじめに、植木うゑきの講譯かうしやく、いくさ物語ものがたり、田舍ゐなかの爺ぢい婆ばあは如何いかにをかしき事ことを言いひて、何處いづこの野山のやまは如何いかにひろく、某それの海うみには名なのつけ樣やうもなき大魚たいぎよありて、鰭ひれを動うごかせば波なみのあがること幾千丈いくせんぢやう、夫それが又また鳥とりに化けしてと、珍めづらしきこと怪あやしきこと取とりとめなく詰つまらなきことを、可笑をかしらしく話はなして機嫌きげんを取とれば、幼おさな心こヽろに十倍じふばいも百倍ひやくばいも面おもしろく、吾助々々ごすけ〱と付つきまとひて離はなれず、我わが心こヽろに面白おもしろしと聞きけば夫それを其そのまヽ令孃ひめに語かたりて、吾助ごすけが話はなしは何なにごとも嘘うそならぬ顏かほつき、眞面目まじめらしく取とりつぐを聞きけば、時鳥ほとヽぎすと鵙もずの前世ぜんせは同卿人どうきやうじんにて、沓くつさしと鹽賣しほうりなりし、其時そのときに沓くつを買かひて價だいをやらざりしかば、夫それが借金しやくきんになりて鵙もずは頭あたまが上あがらず、時鳥ほとヽぎすの來くる時分じぶんに餌ゑをさがして蛙かへるなどを道みちの草くさにさし、夫それを食くはせてお詫わびをするとか、是これは本當ほんたうの本當ほんたうの話はなしにて和歌うたにさへ詠よめば、姉樣ねえさまに聞ききても分わかることヽ吾助ごすけが言いひたり、吾助ごすけは大層たいそうな學者がくしやにて何なにごとも知しらぬ事ことなく、西洋せいやうだの支那しなだの天竺てんじくや何なにかのことも宜よく知しりて、其話そのはなしが面白おもしろければ姉樣ねえさまにも是非ぜひお聞きかせ申まうしたし、從來まへかたの爺ぢいと違ちがひ僕ぼくを可愛かあいがりて姉樣ねえさまを賞ほめて、本當ほんたうに好いい奴やつなれば、今度こんど僕ぼくの沓くつしたを編あみてたまはる時とき彼あれにも何なにか製こしらへて給たまはれ、宜よろしきか姉樣ねえさま、屹度きつとぞかし姉樣ねえさま、と熱心ねつしんにたのみて、覺束おぼつかなき承諾しようだくの詞ことばを其通そのとほり敏さとしに傳つたふれば、此消息このせうそくは人目ひとめの關せきの憚はヾかりもなく、玉簾たまだれやすやす越こえて、見みるは邂逅たまなる令孃ひめの便たよりを敏さとしは日毎ひごとに手てに取とるばかり、事故よしありげなる心こヽろの底そこも、此處こヽにはじめて朧々おぼろ〱わかれば、可憐いとほしの念ねんむらむらと堪たへがたく、君きみゆゑにこそ斯かくまでに身みを盡つくす我われ、木石ぼくせきならぬ令孃ひめに憎にくかるべき筈はずなし、此荊棘このいばらの中なかすくひ出だしてと、影かげも未まだなる戀こひに竹たけの柱はしらの詫住居わびずまゐを思おもひぬ。

第だい三回くわい

闇やみを常つねなる人ひとの親おやごヽろ、子こ故ゆゑの道みちに迷まよはぬは無なきものをと敏さとし此處こヽに眼めを止とむれば、香山家かやまけ三人みたりの女子むすめの中うち、上かみは氣きむづかしく末すゑは活溌はねにて、容貌きりやう大底たいていなれども何なんとして彼かの君きみに及およぶ者ものなく、是これにても同胞はらからかと思おもふばかりの相違さうゐなるに、怪あやしきは母君はヽぎみの仕向しむけにて、流石さすがかるがるしき下々しも〲の目めに立たちし分わけ隔へだては無なけれども、同おなじ物言ものいひの何處どこやら苦にがく、愁つらかるべしと思おもふこと折々をり〱に見みえけり。

子爵ししやくの君きみ最愛さいあいのおもひ者ものなど、桐壼きりつぼの更衣かういめかしき優やさ形がたなるが、此奧方このおくがたの妬ねたみつよさに、可惜あたら花はなざかり肺病はいびやうにでもなりて、形見かたみの止とゞめし令孃ひめならんには、父君ちヽぎみの愛あいいかばかり深ふかかるべきを、いよいよ胸むねわるく憎にくらしく思おもひ、然しかるべき縁えんにもつけず生殺なまごろしにして、他處目よそめばかりは何處どこまでも我儘わがまヽらしき氣隨きずゐものに言いひ立たて、其長そのながき舌したに父君ちヽぎみをも卷まき込こみしか、この一家けに令孃ひめありと見みて心こヽろを盡つくす者ものなく、有あるは甚之助殿じんのすけどのと我われ計ばかりなる不憫いぢらしさよ、いざや此心このこヽろ筆ふでに言いはして、時機あはよくは何處いづこへなりとも暫時しばし伴ともなひ、其上そのうへにての策さくは又また如何樣いかやうにもあるべく、よし一時いちじは陸奧みちのくの名取川なとりがは、清きよからぬ名なを流ながしても宜よし、憚はゞかりの世よの中なか打割うちわりて見みれば、天縁てんえん我われに有あつて此處こヽに運はこびしかも知しれず、今いまこそ一寒いつかん書生しよせいの名なもなけれど、やがては令孃ひめをも幸福かうふくの位置ゐちに据すゑて、不名譽ふめいよの取とり返かへしは譯わけもなきことなり、扨さても濱千鳥はまちどりふみ通かよふ道みちはと夜よもすがら筆ふでを握にぎりしが、もとより蓮葉はすはならぬ令孃ひめの、殊ことに我われ庭男にはをとこなどに目めの付つく筈はずなければ、最初はじめより艷書ふみと知しりては、手てに觸ふれ給たまふか否いなか其處そこまことに危あやふし、如何いかにせんと思案しあんに苦くるしみしが、夫それよ、人目ひとめにふるヽは何どの道みちおなじこと、何なにも度胸どきようと半紙はんし四五枚まい二つ折をりにして、墨すみつぎ濃こく淡うすく文ふみか有あらぬか書かき紛まぎらはし、態わざと綴とぢて表紙へうしにも字じを書かき、此趣向このしゆかううまくゆけかしと明あくるを待まちけるが、人ひとしらぬこそ是非ぜひなけれ、此處こヽは隣となりざかひの藪際やぶぎはにて、用心ようじんの爲ためにと茅葺かやぶきの設まうけに住すまはする庭男にはをとこ、扨さても扨さても此曲物このくせものとは。

日影ひかげうらうらと霞かすみて朝あさつゆ花はなびらに重おもく、風かぜもがな蝴蝶こてふの睡ねむり覺さましたきほど、靜しづかなる朝あしたの景色けしき、甚之助じんのすけ子供こどもごヽろにも浮うき立たちて、何時いつより早はやく庭にはにかけ下おりれば、若樣わかさま、と隙すかさず呼よびて、笑顏ゑがほをまづ見みする庭男にはをとこに、其そのまヽ縋すがりて箒木はヽきの手てを動うごかせず、吾助ごすけお前まへは畫ゑがかけるかと突然とつぜんに問とふ可笑をかしさ。畫ゑもかきまする歌うたも詠よみまする騎射きしやでも打毬だきうでもお好このみ次第しだいと笑わらへば、夫それならば畫ゑを描かきて呉くれよ、夕ゆふべ姉樣ねえさまと賭かけをして、これが負まければ僕ぼくの小刀ないふを取とられる約束やくそく、夫それは吾助ごすけのことからにて、僕ぼくは吾助ごすけに畫ゑが描かけると言いひしを、姉樣ねえさまはかけまじと言いひたり、負まけては口惜くやしければ姉樣ねえさまが驚おどろくほど上手じやうずに、後のちと言いはずに今いま直すぐに畫かきて呉くれよ、掃除そうぢなどは爲せずとも宜よしとて箒木はヽきを奪うばへば、吾助ごすけ少すこし困こまりて、描かきてはあげまするが今いまは少すこし、後のちに吾助ごすけの部屋へやへお出いでなされ騎馬武者きばむしやをかきて參まゐらせん、夫それとも山水さんすゐの景色けしきにせんかと紛まぎらせば、嫌いや、嫌いや、嫌いや、今いまでなくては何なんでも嫌いやなり、後のちになぞと言いはヾ其そのうちに僕ぼくは負まけて、小刀ないふを取とられるから嫌いや、どうぞ是非ぜひ今いま直すぐに描かきて呉くれよ、紙かみや筆ふでは姉樣ねえさまのを借かりて來くべし、と箒木はヽきを捨すてヽ欠かけ出だすに、先まづお待まちなされと遽あわたヾしく止とめ、直すぐと仰おつしやれば是非ぜひなけれど、下手へたに出來できなば却かへりて姉樣ねえさまに笑わらはれ、若樣わかさまの負まけと言いふ物ものなり、斯かうなされ、畫ゑはゆるゆると後日ごにちの事ことになし、吾助ごすけは畫ゑよりも歌うたの名人めいじんにて、田舍ゐなかに居をりし時ときは先生せんせいなりし故ゆゑ、其和歌そのわかを姉樣ねえさまにお目めにかけて驚おどろかし給たまへ、夫それこそ必かならず若樣わかさまの勝かちに成なるべしと言いへば、早はやく其歌そのうたを詠よめとせがむに懷中ふところより彼かの綴とぢ文ぶみを出いだし、是これは極ごく大切たいせつの歌うたにて人ひとに見みすべきでは無なけれど、若樣わかさまをお勝かたせ申まうしたく、他ほかの人ひとに内證ないしよにて姉樣ねえさまばかりに御覽ごらんに入いれ給たまへ、早はやく、内證ないしよで、姉樣ねえさまにお上あげなされ、と三つ四つに折をりて甚之助じんのすけの懷中ふところに押おしいれしが、無心むしんの處ところ何なんとも氣きづかはしく、落おとさぬやうに人ひとに見みせぬ樣やうにと呉々くれ〱をしへ、早はやくお出いでなされと言いへば、兩手りやうてに胸むねを抱いだきて一心しんに駈かけ出だす甚之助じんのすけ、お落おとしなさるな、と呼よびもならず、俄にはかに心付こヽろづきて四邊あたりを見みれば、花はなに吹ふく風かぜ我われを笑わらふか、人目ひとめはなけれど何處どこまでも恐おそろしく、庭掃除にはそうぢそこそこに唯たヾ人ひとに逢あはじと計はかり、敏さとしこれほどの小膽せうたんとも思おもはざりしを。

我わが思おもふ人ひとほど耻はづかしく恐おそろしき物ものはなし、女同志をんなどしの親したしきにても此人このひとこそと敬うやまふ友ともに、さし向むかひては何なにごとも言いはれず、其人そのひとの一言ひとこと二言ふたことに、耻はづかしきは飽あくまで耻はづかしく、恐おそろしきは飽あくまで恐おそろしく、塵ちりほどの事こと身みにしみぬべし、男女なんによの中なかもかヽる物ものにや、甚之助じんのすけの吾助ごすけを慕したふは夫それとも異ことなりて淡あはき物ものなれど、我わがが好このむ人ひとの一言いちごん重おもく、文ふみを懷ふところにして令孃ひめの部屋へやに來きし時ときは、末すゑの姉君あねぎみ此處こヽにありて、お細工物さいくものの最中もなかなるに、今いま見みせては惡わるかるべしと、情實わけは素もとより知しる筈はずなけれど、吾助ごすけとも言いはで遊あそび居ゐけるが、甚樣じんさま私わたしの部屋へやへもお出いでなされ、玉突たまつきして遊あそびますほどに、と面白おもしろげに誘さそひて座ざを立たつ姉君あねきみ、早はやく去いねがしにはたはたと障子しやうじを立たてヽ、姉樣ねえさまこれ、と懷中ふところより半なかば見みせ、吾助ごすけは畫ゑも上手じやうずなれど歌うたの方はうが猶なほ名人めいじんゆゑ、これを御覽ごらんに入いれさへすれば、僕ぼくが勝かつと吾助ごすけが言いひたり、勝かてば僕ぼくの小刀ないふは僕ぼくのにて、姉樣ねえさまのごむ人形にんぎやうはお約束やくそくゆゑ頂いたゞくのなり、さあ賜たまはれと手てを重かきルビの「かき」はママねれば、令孃ひめは微笑ほヽゑみながら、嫌いや、嫌いや、お約束やくそくは畫ゑなるに歌うたにては嫌いやよ、ごむ人形にんぎやうは上あげまじと頭かしらをふるに、夫それでも姉樣ねえさまこの歌うたは極ごく大切たいせつのにて、人ひとにも見みせず落おとさぬ樣やうに御覽ごらんに入いれろと吾助ごすけの言いひしは、畫ゑよりも良よきに相違さうゐはなし、是非ぜひ人形にんぎやうを賜たまはれとて手渡てわたしするに、何心なにごヽろなく開ひらきて一いち二に行ぎやうよむとせしが、物言ものいはず疊たヽみて手文庫てぶんこに納をさめれば、其顏そのかほを不審いぶかしげに仰あふぎて、姉樣人形ねえさまにんぎやうは下くださるか、進あげますると僅わづかに諾うなづく令孃ひめ、甚之助じんのすけは嬉うれしく立たちあがつて、勝かつた勝かつた。

第だい四回くわい

此思このおもひ通つうじさへせば此心このこヽろ安やすかるべしと願ねがふは淺あさし、入立いりたつまヽに欲よくは増まさりて、はてなき物ものは戀こひなりとかや、敏さとしはじめての艷書ふみに心こヽろをいためて、萬一もし落おち散ちりもせば罪つみは我われのみならず、知しらじとて令孃ひめも免ゆるされまじ、さらでもの繼母御前まヽはヽごぜ如何いかにたけりて、どの樣やうの事ことにまで立たちいたるべきか、思おもへば我わが思慮しりよあさはかにて、甚之助殿じんのすけどのに頼たのみしは萬々ばん〲の不覺ふかくなりし、とも思おもひ又また自みづから勵はげましては、何なんの譯わけもなきこと、大英斷だいえいだんの庭男にはをとことさへ成なりし我われ、此上このうへの出來できごと覺悟かくごの前まへなり、只たゞあやふきは令孃ひめが心こヽろにて、首尾しゆびよく文ふみは屆とヾきたりとも、つれなく返かへされなば甲斐かひもなきこと、兎角とかくに甚之助殿じんのすけどのの便たより聞ききたしと待まちけるが、其日そのひの夕方ゆふがた彼かの人形にんぎやうを持もちて例日いつよりも嬉うれしげに、お前まへの歌うたゆゑ首尾しゆびよく我わが勝かちに成なり、此樣このやうな人形にんぎやうを取とりしと誇ほこり顏かほに來きて見みすれば、姉樣ねえさまは彼あの歌うたを御覽ごらんなされしや、して何なんと仰おつしやりしと問とへば、何なんとも言いはずに文庫ぶんこに入いれてお仕舞しまひなされしが、今度こんども又またあの樣やうな歌うたを詠よみて、姉樣ねえさまの御覽ごらんに入いれよかし、お前まへが褒ほめられなば我われとても嬉うれしき物ものをと可愛かあゆく言いふに、思おもひある身み一層いつそうたのもしく樣々さま〲に機嫌きげんを取とりて、姉樣ねえさまも定さだめし和歌うたはお上手じやうずならん、是非ぜひ吾助ごすけも拜見はいけんが仕したければ、此頃このごろに姉樣ねえさまにお願ねがひなされ、お書かき捨すてを頂いたゞきて給たまはれ、必かならず、屹度きつとと返事へんじの通路つうろを此處こヽにをしへ、一日いちにちを待まち二日ふつかを待まち、三日みつかに成なりても音沙汰おとさたの無なきに敏さとしこヽろ悶もだえ、甚之助じんのすけを見みるごとに夫それとなく促うながせば、僕ぼくも貰もらつて遣やりたけれど姉樣ねえさまが下くださらねばと、哀あはれ板いたばさみに成なりて困こまり入いりし体てい、子心こごヽろにも義理ぎりに引ひかれてか中なかに立たちて胡亂胡亂うろうろするを、敏さとしいろ〱に頼たのみて此度このたびは封ふうじ文ぶみに、あらん限かぎりの言葉ことばを如何いかに書かきけん、文章ぶんしやうの艶麗えんれいは評判ひやうばんの男をとこなりしが。

見みる目めに見みなば美男びなんとも言いふべきにや、鼻筋はなすぢとほり眼めもと鈍にぶからず、豐頬しもぶくれの柔和顏にうわがほなる敏さとし、流石さすがに學問がくもんのつけたる品位ひんゐは、庭男にはをとこに成なりても身みを放はなれず、吾助吾助ごすけ〱と勝手元かつてもとに姦かしましき評判ひやうばんは、お茶ちやの間まを越こして大奧おほおくにも高たかく、お約束やくそくの聟君むこぎみ洋行中やうかうちうにて、寐覺ねざめを寫眞しやしんに物ものがたる總領そうりやうの令孃ひめさへ、垣根かきねの櫻さくら折をれかし吾助ごすけ、いさヽかの用事ようじにて大層たいそうらしく、御褒美ごはうびに賜たまはる菓子くわしの花紅葉はなもみぢ、お手てづからなる名譽めいよはあれど、戀こひに本尊ほんぞんあれば傍わきだちに觸ふれる眼めなく、一心しんおもひ込こみては有ありし昔むかしの敏さとしならで、可惜あたら廿四の勉強べんきやうざかりを此体このていたらく殘念ざんねんとも思おもはねばこそ、甚之助じんのすけに追從つゐしようしあるきて、本心ほんしんには成なるまじき文ふみの趣向しゆかう、案外あんぐわいのことにて拍子へうしよく行ゆき、文庫ぶんこに納をさめ給たまひしとは最もう我わがもの、と一度たびは勇いさみけるが、夫それより後のちの幾度いくど幾通いくつうかき送おくりし文ふみに一度たびの返事へんじもなく、さりとて無情つれなくは投なげかへしもせねど、披ひらきて讀よみしや否いなや甚じん之助すけが答こたへぶりの果敢はかなさに、此度このたびこそと書かきたるは、長ながさ尋ひろにあまり思おもひ筆ふでにあふれて、我われながら斯かくまでも迷まよふ物ものかと、文ふみを投出なげだして嘆息たんそくしけるが、甚じん之助すけに向むかひては猶なほさら悲かなしげに、姉樣ねえさまはあくまで吾助ごすけを憎にくみて、あれほど御覽ごらんに入いれし歌うたに一度たびのお返歌へんかもなく、あまつさへ貴君あなたにまで、この樣やうの取次とりつぎするなとさへ仰おつしやりし無情つれなさ、これ程ほどの耻はぢを見みて我われ男をとこの身みの、をめをめお邸やしきに居をられねば、暇いとまを賜たまはりて歸國きこくすべけれど、聞きき給たまへ我われ田舍ゐなかには兩親りやうしんもなく、只たヾ一人ひとりありし妹いもとの我われと非常ひじやうに中なかよかりしが、今いまは亡うせて何なにもなき身み、その妹いもとが姉樣ねえさまに正寫そつくりにて、今いまも在世あらばと戀こひしさ堪たへがたく、お前樣まへさまに姉樣ねえさまなれば我われには妹いもとの樣やうに思おもはれて、其そのお書かき捨すての反古ほごにても身みに添そへて持もたば本望ほんまうなるべく、切せめて一筆ふでの拜見はいけんが願ねがひたきなり、されども斯かく下賤げせんの我われ、いか樣やうに思おもふとも及およびなき事ことにて、無禮ぶれいものとお叱しかりを受うければ夫それまで、なれどもお厭いやならばお厭いやにて、寧むしろ、斷然さつぱり、目通めどほりも厭いややなれば疾とく此處こヽを去いねかし、とでも發言ありて、いよ〱成なるまじき事ことと知しらば其上そのうへに覺悟かくごもあり、斯かくまでの思おもひ何なんとしても消きゆる筈はずなけれど、覺悟かくご次第しだいに斷念あきらめもつくべし、今いま一度ど此文これを進あげて、明あきらかのお答こたへ聞きいて給たまはれ、夫それ次第しだいにて若樣わかさまにもお別わかれに成なるべければと虚實きよじつをまぜて、子心こごヽろに哀あはれと聞きくやう頼たのみければ、甚じん之助すけもとより吾助ごすけ贔負びいきにて、此男このをとこのこと一も十も成就じやうじゆさせたく、喜よろこぶ顏かほ見みたさの一心しんに、これまでの文ふみの幾通いくつうも人目ひとめに觸ふれぬ樣やうとヾこほり無なく屆とヾけ、令孃ひめの心こヽろも知しらず返事へんじをと責せめしが、此この迫せまりたる詞ことばに我われまづ悲かなしく、今日けふこそは必かならず返事へんじを取とり、其方そちの喜よろこぶ樣やうにすれば、田舍ゐなかへ行ゆくことは廢やめになし、何時いつまでも此處こヽに居ゐて呉くれよ、突然だしぬけに田舍ゐなかへ行ゆきては嫌いやぞと泣なき、其涙そのなみだを敏さとしに拭ぬぐはれて猶なほかなしく、手てにすがりて何時いつまでも泣なきしが、三歳子みつごの魂たましひいつはりには有あらで、此このこと心根しんこんにしみて悲かなしければこそ、其夜そのよ閑燈かんとうのもとに令孃ひめを拜をがみて、吾助ごすけは斯かく思おもひて斯かく言いふを、後生ごしやう、姉樣ねえさま返事へんじを賜たまはれ、决けつして此後こののち我わがまヽも言いはず惡戯いたづらもなすまじければ、吾助ごすけの田舍ゐなかへ歸かへらぬやう、今いままで通どほり一處しよに遊あそばれるやう返事へんじを賜たまはれ、只たヾ一寸ちよつとで宜よし吾助ごすけは一筆ひとふでにてもと言いひたれば、此卷紙このまきがみへ何なにか書かきて僕ぼくに賜たまはれ、吾助ごすけは田舍ゐなかへ歸かへりても行ゆく處ところの無なき身みなれば、大方おほかたは乞食こじきに成なるべきにや、夫それルビの「それ」はママれでは僕ぼくどうしても嫌いやなり、是非ぜひ此文これを御覽ごらんなされて、一寸ちよつと何なにとか言いふて下くだされ、よう姉樣ねえさま、よう姉樣ねえさま、お願ねがひ、此拜これ、とて紅葉もみぢの手てを合あはす可憐いぢらしさ、情なさけふかき女性によしやうの身みの、此事これのみにても涙なみだの價値あたひはたしかなるに、よし山賤やまがつにせよ庭男にはをとこにせよ、我われを戀こふ人ひと世よに憎にくかるべきか、令孃ひめの情緒こヽろいかに縺もつれけん、甚じん之助すけ母君はヽぎみのもとに呼よばれ、此返事このへんじを聞きく間まなく、殘のこり惜をしげに出行いでゆきたるあとにて、玉たまの腕かひなに此文これを抱いだき、胸むねに當あてヽ夜よもすがら泣なきけり。

第だい五回くわい

二十はたちの春はるを夢ゆめと暮くらして、落花らくくわの夕ゆふべに何なにごとを思おもひつきてか、令孃ひめは別莊住居べつさうずまゐしたき願ねがひ、鎌倉かまくらの何處どことやらに、眺望てうばうを撰えらんで去年こぞ買かはれしが、話はなしのみにて未まだ見みぬも床ゆかかしく「床かしく」はママ、別亭はなれの洒落しやれたるがありて、名物めいぶつの松まつがありてと父君ちヽぎみの自慢じまんにすがり、私わたくし年來としごろ我わが儘まヽに暮くらして、此上このうへのお願ねがひは申まうしがたけれど、とてもの世よを其處そこに送おくらしては給たまはらぬか、甚之助樣じんのすけさま成長おうきうならば、遣つかはさるべきお約束やくそくとや、夫それまでのお留守居るすゐ、又または父樣とうさま折をりふしのお出遊いでに、人任ひとまかせ成ならずは御不自由ごふじいうも少すくなかるべく、何卒なにとぞ其處そこに住すまはせて、世よを白波しらなみに浦風うらかぜおもしろく、梅うめの花貝はながひでも拾ひろはせて給たまはれとの願ねがひ、不憫ふびんや如何樣どのやうな子細しさいあればとて、月花つきはなをかしき盛さかりの歳としに、千人せんにん萬人まんにんすぐれし美色びしよくを、鏡かヾみは無なきか知しらぬかの樣やうな身みの上うへ、他人ひとごとにして嬉うれしとは聞きかれぬを、親おやといふ名なのまして如何いかならん、さりとは隱居樣いんきよさまじみし願ねがひも、令孃ひめが心こヽろには無理むりならぬこと、生中なまなか都みやこに置おきて同胞きやうだいどもが、浮世うきよめかすを見みするも愁つらし、何なにごとも望のぞみに任まかルビの「まか」はママかせて、住すみたしとならば彼地かしこに住すませ、好すきな琴ことでも松風まつかぜに彈ひき合あはし、氣儘きまヽに暮くらさせるが切せめてもと、父君ちヽぎみ此處こヽにお許ゆるしの出いでければ、あまりとても可愛想かあいさうのこと、よし其身そのみの願ねがひとて彼あの樣やうな遠とほくに、路みちは夫それほどで無なけれど行ゆき限きりにては我われも心配しんぱいなり子供こどもたちも淋さびしかるべく、甚之助じんのすけは其そのうちにも慕したひて、中姉樣ちうねえさまならでは夜よの明あけぬに、朝夕あさゆふの駄々だヾいかに増まさりて、姉あねたちの難義なんぎが見みゆる樣やうなれば、今いましばらく止とまりてと、母君はヽぎみは物ものやはらかに曰のたまひたれど、お許ゆるしの出いでしに甲斐かひなく、夫々それ〱に支度したくして老實まめやかの侍女つきを撰えらみ、出立しゆつたつは何日々々いつ〱と内々ない〱に取とりきめけるを、甚之助じんのすけかぎりなく口惜くやしがり、先まづ父君ちヽぎみに歎なげき母君はヽぎみを責せめ、長幼ふたりの令孃ひめに當あたりあるきて、中姉樣ちうねえさまを窘いぢめ出だすことヽ恨うらみ、僕ぼくをも一處ともにやれと迫せまり、令孃ひめに對むかへば譯わけもなく甘あまへて、取とりつきしまヽ泣なきて離はなれず、姉樣ねえさま何なにごとを腹はらたちて鎌倉かまくらなぞへお出いでなさるぞ、夫それも一月つきや半月はんつきならば宜よけれど、お歸邸かへりは何時いつとも知しれずと衆人みなが言いひたり、どの樣やうに仰おつしやる共ともそれは嘘うそにて、鎌倉かまくらへ行ゆかばお歸かへりの無なきに極きまりたれば、殘のこりて淋さびしからんより我われも一處ともにゆき、我われも此邸こヽに歸かへるまじ、父樣とうさまも嫌いや母樣かあさまも嫌いや、誰たれを捨すてヽも諸共もろともに行ゆかんと計ばかり、令孃ひめは靜しづかに諭さとして、其身そのみもほろりとし、可愛かあゆき事こといふて泣なかし給たまふな、鎌倉かまくらへ行ゆきて歸かへらぬとは誰たれが言いひしか、夫それこそは嘘うそにて、遂つひ一寸ちよつとあそびに行ゆき、其そのうちに歸かへつて來きまする程ほどに、おとなしう待まちて給たまはれ、よし歸かへらずとて彼地あしこはお前樣まへさまのお邸やしきゆゑ、成長おほきうなり給たまふまでのお留守居るすゐ、今いまもお連つれ申まうしたけれど夫それこそ淋さびしく、直すぐ嫌いやに成なりて母樣かあさまこひしかるべし、何なにも柔順おとなしう成長おほきうなり給たまへと、詫わびるやうに慰なぐさめられて、夫それでもと椀白わんぱくも言いへず、しくしく泣なきに平常つねの元氣げんきなくなりて、悄然しよんぼりとせし姿すがた可憐いぢらし。

令孃ひめが鎌倉かまくらごもりの噂うはさ、聞きく胸むねとヾろきて敏さとししばしは呆あきれしが、猶なほ甚之助じんのすけに委くはしく問とへば、相違さうゐなき物語ものがたり半なかばは泣なきながらにて、何卒なにとぞお廢やめに成なる樣やうな工風くふうは無なきかと頼たのまれて、扨さても何なにとせん、組くむ腕うでの思案しあんにも能あたはず、凋しほれかへる甚之助じんのすけが人目ひとめに遠慮ゑんりよなきを浦うらやみて、心こヽろ空そらになれど土つちを掃はく身みに箒木はヽきの面倒めんだうさ、此身このみに成なりしも誰たれ故ゆゑかは、つれなき令孃ひめが振舞ふるまひ其理由そのわけも探さぐれず、此處こヽに捨すてられて取とりのこされん我われ、いでや出立前しゆつたつまへの一目めをと心こヽろに願ねがひしが、空むなしく影かげも見みずに明日あすの早朝さうてうと恨うらめしき便たより、今いまは何なにも捨すてヽ一日にち病氣びやうきと伏ふしけるが、戀こひに亂みだるヽ心こヽろあはれ悲かなしくも、令孃ひめが部屋へやの戸と一枚まいを隔へだてに、今宵こよひかぎりの名殘なごりを惜をしまんとて、心こヽろも空そらも宵闇よひやみの春はるの夜よ、落花らくくわの庭にはに踏ふむ足あしの音おとなきこそよけれ、切せめては夢ゆめに入いれかしと忍しのびぬ。

更ふけて軒のきばに風鈴ふうりんのおと淋さびしや、明日あすは此音このおといかに戀こひしく、此軒こののきばのこと部屋へやのこと、取分とりわけては甚樣じんさまのこと、父君ちヽぎみのこと母君はヽぎみのこと、平常つねは左さまでならぬ姉妹しまいのこと、戀こひしかるべき物ものをと今いまも戀こひしく、寐ねぬ夜よの床とこに物ものおもふ令孃ひめ、甚之助じんのすけの暫時しばしも傍かたはらはなれず、今宵こよひも此處こヽに寐ねんと言いひしを、明日あすの朝あさの邪魔じやまなればと母君はヽぎみ遠慮ゑんりよして、連つれ行ゆかれしあとの猶なほさら淋さびしく、思おもへば明日あすよりの閑居かんきよいかならん、甚樣じんさまはしばしこそ我われを慕したひて泣なきもし給たまはめ、程ほどへなば自おのづと忘わすれて、姉樣ねえさまたちに馴なれ給たまはんは必定ひつぢやう、我われは紛まぎるヽこと無なき身みの戀こひしさ日毎ひごとに増まさりて、彼あの笑顏ゑがほみたしとても及およぶ事ことにあらず、父君ちヽぎみとても左さなりかし、遠とほく離はなれて面影おもかげをしのばヽ、近ちかきには十倍ばいまして、深ふかかりし慈愛じあいの聲こゑこの耳みヽを離はなれざるべし、是これによりてこそ此處こヽをも捨すて、いとヾしき思おもひに身みを苦くるしむれど、吾助ごすけのことも忘わすれがたし、免ゆるせよ吾助ごすけ、夢ゆめさらさら憎にくからねばこそ、戀こひすまじとて退のく身みぞかし、うつせみの世よに斯かかる身みの例ためし又またありや、知しらぬ心こヽろに恨うらみもせん憎にくみもせん、其その憎にくまるヽを本望ほんまうにての處爲しよゐ、貰もらひし文ふみは何處どこまでも惜をしきに、封ふうこそ切きらぬ手文庫てぶんこに秘ひめて、一生しやうの際きはまでは友ともとせん心こヽろ、さりとては我われ生先おひさきのある身み、憂うきに月日つきひの長ながからん事こと愁つらや、何事なにごともさらさらと捨すてヽ、憂うからず面白おもしろからず暮くらしたき願ねがひなるに、春風はるかぜふけば花はなめかしき、枯木かれきならぬ心こヽろのくるしさよ、哀あはれ月つきは無なきか此胸このむねはるけたきにと、押おす手てにいよいよ動悸どうきたかく、噛かみしめる袖そでに涙なみだこぼれて、令孃ひめは暫時しばらくうち伏ふして泣なきけるが、吹入ふきいる夜風よかぜたが魂たましひか、あくがるヽ心こヽろ此處こヽに堪たへがたく、靜しづかに立たつて妻戸つまどを押おせば、今いまぞ廿日はつかの月つき面おもかげ霞かすんで、さし昇のぼる庭にはに木立こだちおぼろおぼろと暗くらく、似にたりや孤徽殿こきでんの細殿口ほそどのぐち、敏さとしが爲ためには若しくものもなき時ときぞかし。

第だい六回くわい

言いはぬ浮世うきよの樣々さま〲には如何いかなることや潜ひそむらん、今いまは昔むかしの涙なみだの種たね、我わが戀こひならぬ懺悔物ざんげものがたり、聞きくも悲かなしき身みの上うへあり、春はるの夜よふけて身みにしむ風かぜに、寐屋ねやの燈火ともしひまたヽく影かげもあはれ淋さびしや丁字頭ちやうじがしらの、花はなと呼よばれし香山家かやまけの姫ひめ、今いまの子爵ししやくと同おなじ腹はらに、双玉さうぎよくの稱となへは美色びしよくに勝かちを占しめしが、さりとて兄君あにぎみに席せきを越こえず、物靜ものしづかにつヽましく諸藝しよげい名譽めいよのあるが中なかに、琴ことのほまれは久方ひさかたの空そらにも響ひヾきて、月つきの前まへに柱ちゆうを直なほす時とき雲くもはれて影かげそでに落おち、花はなに向むかつて玉音ぎよくおんを弄もてあそべば鶯うぐひすねを止とヾめて節ふしをや學まなびけん、子爵ししやくの寵愛ちようあい子こよりも深ふかく、兩親おやなき妹いもとの大切たいせつさ限かぎりなければ、良よきが上うへにも良よきを撰えらみて、何某家なにがしけの奧方おくがたとも未まだ名なをつけぬ十六の春風はるかぜ、無慘むざんや玉簾たますだれふき通とほして此初櫻このはつざくらちりかヽりし袖そで、馬廻うままはりに美男びなんの聞きこえは有あれど、月つきの雲井くもゐに塵ちりの身みの六三ろくさ、何なんとして此戀このこひなり立たちけん、夢ゆめばかりなる契ちぎり兄君あにぎみの眼めにかヽりて、或ある日ひ遠乘とほのりの歸路かへりみち、野末のずゑの茶店ちやてんに女をんなを拂はらひて、因果いんぐわを含ふくめし情なさけの詞ことばさても六三ろくさ露顯ろけんの曉あかつきは、頸くびさし延のべて合掌がつしやうの覺悟かくごなりしを、物ものやはらかに若しかも御主君ごしゆくんが、手てを下さげるぞ六三ろくさ邸やしきを立退たちのいて呉くれ、我われも飽あくまで可愛かあゆき其方そちに、遣つかはさるべくは遣つかはしたけれど、七萬石ひちまんごくの先祖せんぞが勳功くんこうに對たひし、皇室くわうひつの藩屏はんべいといふ名なに對たいし、此このこと許ばかりはなし難がたきに表立おもてだちては姫ひめも邸やしきに置おきがたけれど、我われには一人ひとりの妹いもと、ことに兩親りやうしん老後らうごの子こにて、形見かたみと思おもへば不憫ふびんさ限かぎりのなきに、其方そちが心こヽろ一つにて我われも安堵あんど姫ひめに疵きずもつかず、此處こヽをよく了簡れうけんなし斷念さつぱりと退のいて呉くれかし、さりながら此後こののちの身みの有ありつきにと包物つヽみものを賜たまはりて、言いはねど手切てきれの、端金はしたにはあらざりけんを、六三ろくさ此金これに眼めも止とヾめず、重々ぢゆう〱の大罪だいざい頸くびと仰おふせらるヽとも恨うらみは無なきを、情なさけのお詞ことば身みに徹てつしぬとて男一匹をとこいつぴき美事みごとなきしが、さても下賤げせんに根ねを持もてば、戀こひを金かねゆゑするとや思おぼす、是これより以後いごの一生いつしやう五十年ねん姫樣ひめさまには指ゆびもさすまじく、况まして口外こうぐわい夢ゆめさら致いたすまじけれど、金かねゆゑ閉とぢる口くちには非あらず、此金こればかりはと恐おそれげもなく、突つきもどして扨さてつくづくと詫わびけるが、歸邸きていその儘まヽの暇乞いとまごひ、惜をしき名殘なごりを姫ひめとも言いはず、生うまれかはらば華族くわぞくにと計ばかり、此處こヽを出いでヽ何處いづこへ行ゆきけん、忘わすれぬ姫ひめのこと忘わすれねばこそ、義理ぎりといふ字じに涙なみだを呑のんで、心こヽろは邸やしきを離はなれざりしが、帳臺ちやうだいふかくに物ものおもふ姫ひめ、六三ろくさ暇いとまを傳つたへ聞きくより、心こヽろむすぼほれて解とくること無なく、扨さても慈愛じあいふかき兄君あにぎみが罪つみとも言いはでさし置給おきたまふ勿体もつたいなさ、身みは七万石ひちまんごくの末すゑに生うまれて親おやは玉たまとも愛給めでたまひしに、瓦かはらにおとる淫奔いたづら耻はづかしく、猶なほ其人そのひとの戀こひしきも愁つらく、涙なみだに沈しづんで送おくる月日つきひに、知しらざりしこそ幼をさなけれ、憂うき身みの上うへに憂うきを重かさねて、宿やどりし胤たねの五月さつきとは、扨さてもと計ばかり身みを投なげふして泣なきけるが、今いまは人ひとにも逢あはじ物ものも思おもはじ、唯たヾ死しねかしと身みを捨すてものにして、部屋へやより外そとに足あしも出ださず、一心いつしん悔くやみ初そめては何方いづかたに訴うつたふべき、先祖せんぞの耻辱ちじよく家系かけいの汚けがれ、兄君あにぎみに面目めんもくなく人目ひとめはずかしく、我心わがこヽろ我われを責せめて夜よも寐ねず晝ひるも寐ねず、一身いつしんつかれて痩やせに痩やせし姿すがた、見みる兄君あにきみの心こヽろやみに成なりて、醫藥いやくの手當てあてに手てづからの奔走ほんそういよいよ悲かなしく、果はては物言ものいはず泣なみだのみ成なりしが、八月やつきの壽命じゆみやう此子このこにあれば、月足つきたらずの、聲こゑいさましく揚あげて、玉たまの姫樣ひめさま御出生ごしつしやうと聞ききも敢あへず、散ちるや櫻さくらの我わが名な空むなしく成なりぬるを、何處いづくに知しりてか六三ろくさ天地てんちに哭なげきて、姫ひめが命いのちは我われ故ゆゑと計ばかり、短みじかき契ちぎりに淺あさましき宿世しゆくせを思おもへば、一人ひとり殘のこりて我われ何なんとせん、待給まちたまへ諸共もろともにの心こヽろなりけん、見みし忍しのび寐ねに賜たまはりし姫ひめがしごきの緋縮緬ひぢりめんを、最期さいごの胸むねに幾重いくへまきて、大川おほかわの波なみかへらずぞ成なりし。

不幸ふかうの由來もとに悟さとり初そめて、父ちヽ戀こひし母はヽ戀こひしの夜半よはの夢ゆめにも、咲さかぬ櫻さくらに風かぜは恨うらまぬ獨ひとりずみの願ねがひ固かたくなり、包つヽむに洩もれぬ身みの素性すじやう、人ひとしらねばこそ樣々さま〲の傳手つてを求もとめて、香山かやまの令孃ひめと立たつ名なくるしく、一切いつさい衆生しゆうじやうすて物ものに、我わがまヽらしき境界きやうがいこヽろには涙なみだを呑のみて、憂うしや廿歳はたちのいたづら臥ぶし、一念ねんかたまりて動うごかざりけるが、岩いはをも徹とほす情なさけの矢やの根ねに敏さとしがこと身みにしみ初そめて、其人そのひと床ゆかしからねど其心そのこヽろにくからず、文ふみを抱いだきて幾夜いくよわびしが、我われながら弱よわき心こヽろの淺あさましさに呆あきれ、見みればこそは聞きけばこそは思おもひも増ますなれ、いざ鎌倉かまくらに身みを退のがれて此人このひとのことをも忘わすれ、世よに引ひかるヽ心こヽろも斷たちたきものと、决心けつしん此處こヽに成なりし今宵こよひ、切せめては妻戸つまどごしのお聲こゑきヽたく、見みとがめられん罪つみも忘わすれて此處こヽに斯かく忍しのぶ身みと袖そでにすがりて敏さとしなげヽば、これを拂はろふ勇氣ゆうき今いまは無なく、よし人目ひとめには戀こひとも見みよ我わが心こヽろ狂くるはねばと燈下とうかに對坐むかひて、成なるまじき戀こひに思おもひを聞きく苦くるしさ、敏さとしはじめよりの一念ねんを語かたり、切せめてはあはれと曰のたまへと恨うらむに、勿体もつたいなきことヽて令孃ひめも泣なき、お志こヽろざしの文ふみ封ふうは切きらねど御覽ごらんぜよ此通このとほりと、手文庫てぶんこに誠まことを見みせしが、扨さても我われ故ゆゑと聞きけば嬉うれしきか悲かなしきか、行末ゆくすゑいかに御立身ごりつしんなされて如何樣どのやうなお人物ひとに成なり給たまふお身みにや、思おもへば尊たつとき御勉強ごべんきやうざかりを我われなどの爲ためにとは何事なにごとぞや、いよいよ戀こひは淺あさましきもの果敢はかなきもの憎にくきもの、我わが生涯しやうがいの此樣このやうに悲かなしく、人ひとに言いはれぬ物ものを思おもふも、淺あさましき戀こひゆゑぞかし、我われには有あらぬ親おやの昔むかし、語かたるまじき事ことと我われも秘ひめ、父君ちヽぎみは更さらなり母君はヽぎみにも家いへの耻はぢとて世よに包つヽむを、聞きかせ參まゐらするではなけれど、一生しやうに一度どの打明うちあけ物ものがたり、聞きいて給たまはれ憂うき身みの素性すじやうと、此處こヽに涙なみだを盡つくして語かたり明あかせば、夢ゆめとや言いはん春はるの夜よあげ方がたちかく、鳥とりがね空そらに聞きこえて扨さても忙せはしなし、君きみは都みやこに我われは鎌倉かまくらに、引ひきはなれて又また何時いつかは逢あふべき、定離ぢやうりの例ためしを此處こヽに見みれば、戀こひは一人ひとりぞ安やすかりける、何事なにごとも言いはじ思おもはじ、仰おふせられても給たまはるなとて、曉あかつきの月つきに影かげを別わかちしが、これより姫ひめは如何いかに成なりけん、扨さても敏さとしは如何いかに成なりけん、つれなく見みえし有明ありあけの月つきの形見かたみを空そらに眺ながめて、(曉あかつきばかり)と呌うめきけんか知しらず。

底本 / Source edition

底本:「都の花 第百一號」金港堂
1893(明治26)年2月19日
初出:「都の花 第百一號」金港堂
1893(明治26)年2月19日
※初出時の署名は、「一葉女史」です。
※表題は底本では、「曉月夜《あけつきよ》」となっています。
※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。
※「文《ふみ》」「文《ぶみ》」「此文《これ》」に使用されている「文」は「首尾《しゆび》よく文《ふみ》は」を除きくずし字的な文字を使用していますが、通常の「文」で入力しました。
※「ゞ」と「ヾ」の混在は、底本通りです。
入力:万波通彦
校正:Juki
2013年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/055659_000064/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/055659_000064/

樋口 一葉「暁月夜」(旧字旧仮名)、底本『都の花 第百一號』金港堂、1893年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 055659_000064, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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