## 一

「親分、近頃金の要るやうなことはありませんか」

押詰つたある日、錢形平次のところへノツソリとやつて來たガラツ八の八五郎が、いきなり長い<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でながら、こんなことを言ふのです。

「何だと？　八」

平次は自分の耳を疑ふやうな調子で、<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>に埋めた顏をあげました。

「へツ〱、へツ〱、さう改まつて訊かれると極りが惡いが、實はね、親分。思ひも寄らぬ大金が轉がり込んだんで」

「大きな事を言やがる。お上の御用を<ruby><rb>承</rb><rt>うけたま</rt></ruby>はる者が、<ruby><rb>手弄</rb><rt>てなぐさみ</rt></ruby>などしちやならねえと、あれほどやかましく言つて居るぢやないか」

「<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>なんかで儲けた金ぢやありませんよ、飛んでもない」

ガラツ八は<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らせて、大きく手を振りました。

「それぢや、<ruby><rb>富籤</rb><rt>とみくじ</rt></ruby>か、無盡か、――まさか拾つたんぢやあるまいな」

「そんな氣のきかない金ぢやありませんよ、全く商法で<ruby><rb>儲</rb><rt>まう</rt></ruby>けたんで」

「何？　商法？　<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>がかい」

「馬鹿にしちやいけません、かう見えても<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>の方は大したもので。ね、親分、安い地所でもありませんか、少し買つて置いてもいゝが――」

「馬鹿野郎、二朱や一分で江戸の地所が買へると思つてゐるのか」

「二朱や一分なら、わざ〱親分の耳には入れませんよ。<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おほみそか</rt></ruby>が近いから、少しは親分も喜ばしてやりてえ――と」

「何だと？」

「怒つちやいけませんよ、ね、親分。錢形の親分は<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>りつけのねえ江戸つ子だ。不斷は滅法威勢がいゝが、<ruby><rb>宵越</rb><rt>よひごし</rt></ruby>の錢を待ちつけねえ<ruby><rb>氣前</rb><rt>きめえ</rt></ruby>だから、暮が近くなると、カラだらしがねえ。さぞ今頃は<ruby><rb>青息吐息</rb><rt>あをいきといき</rt></ruby>で――」

「止さねえか、八。言ひ當てられて向つ腹を立てるわけぢやねえが、人の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をマジマジと見乍ら、何てエ言ひ草だ」

平次も<ruby><rb>呆氣</rb><rt>あつけ</rt></ruby>に取られて、腹を立てる張合ひもありません。それほど、ガラツ八の調子は、ヌケヌケとして居りました。

「箱根ぢや穴のあいたのを用立てたが、今日のはピカリと來ますぜ。親分、此通り」

さう言ひ乍らガラツ八は、内懷から拔いた<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>な<ruby><rb>財布</rb><rt>さいふ</rt></ruby>を<ruby><rb>逆</rb><rt>ぎやく</rt></ruby>にしごくと、中からゾロリと出たのは、小判が七八枚に、小粒、青錢取交ぜて<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みほど。

「野郎、何處からこれを持つて來やがつた」

平次は矢庭に中腰になると、長火鉢越しに、ガラツ八の<ruby><rb>胸倉</rb><rt>むなぐら</rt></ruby>をギユーツと押へたのです。

「あ、親分、苦しい。手荒なことをしちやいけねえ」

「何をツ、此野郎ツ。何處で盜んで來やがつた、眞つ直ぐ白状しやがれツ」

平次の<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>には、半分冗談にしても、グイグイと力が入ります。

「盜んだは情けねえ、親分、こいつは間違ひもなく商法で儲けた金ですよ」

ガラツ八は<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おほげさ</rt></ruby>に後手を突いて、斯う辯解を續けました。

「岡つ引に商法があつてたまるものか。盜んだんでなきや、何處から持つて來た。さア言へツ」

「言ふよ、言ひますよ、――言はなくて<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うするものですか、――おう痛てえ、<ruby><rb>喉佛</rb><rt>のどぼとけ</rt></ruby>がピリピリするぢやありませんか」

「喉佛の二つや三つローズにしたつて構ふことはねえ。さア言へ」

「驚いたなア、持ちつけねえ金を持つと、<ruby><rb>喉佛</rb><rt>のどぼとけ</rt></ruby>に<ruby><rb>祟</rb><rt>たゝ</rt></ruby>るとは知らなかつたよ」

「無駄はもう澤山だ。金を何處から出した、それを早くブチまけてしまへ」

平次が<ruby><rb>躍起</rb><rt>やくき</rt></ruby>となるのも無理のないことでした。正直と馬鹿力を取得のガラツ八が、萬々一、その頃の岡つ引の<ruby><rb>習慣</rb><rt>しふくわん</rt></ruby>に引摺り込まれて、うつかり役得でも<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぐ氣になつたら、貧乏と片意地を賣物にして來た、平次の顏は一ぺんに<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れることでせう。

「親分、心配するのも無理はねえが、これは筋の惡い金ぢやありません。實は親分も知つて居なさるあつしの<ruby><rb>赤鰯</rb><rt>あかいわし</rt></ruby>を、望み手があつて賣つたんで」

「何？　<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>の脇差を賣つた？」

「へエ――去年の暮、柳原の古道具屋を冷かし<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねて買つた、あの脇差が、十兩になるとは思はなかつたでせう」

ガラツ八の鼻は<ruby><rb>蠢</rb><rt>うご</rt></ruby>めせます。

「手前が二分で買つて、ひどく<ruby><rb>腐</rb><rt>くさ</rt></ruby>つて居たあの脇差が、十兩になつたといふのか」

「その通りですよ、親分。あの脇差を見た人があつて、恐ろしく<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びて居る上に<ruby><rb>無銘</rb><rt>むめい</rt></ruby>だが、彦四郎<ruby><rb>貞宗</rb><rt>さだむね</rt></ruby>に間違ひはない、若し間違ひだつたら、俺の<ruby><rb>損</rb><rt>そん</rt></ruby>といふことにして、現金十兩で買ふがどうだ、といふ話でさ」

「フーム」

「本當に貞宗だつた日にや、十兩で賣つちや大變に<ruby><rb>損</rb><rt>そん</rt></ruby>だから、一日待つて貰つて、知り合ひの刀屋を二三軒當つて見ると、――飛んでもない、そいつは<ruby><rb>備前物</rb><rt>びぜんもの</rt></ruby>で、彦四郎でも藤四郎でもある筈はねえ。その上日本一の大なまくらだから、<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>の尻を引つ掻くより外に役に立たない<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>だ。望み手があるなら、<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>へごと一兩で賣つても<ruby><rb>大儲</rb><rt>おほまう</rt></ruby>けだ――と言ふんで、思ひ切つて手離しましたよ、親分」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返つた野郎だ。手前はその刀屋の<ruby><rb>鑑定</rb><rt>めきゝ</rt></ruby>を、相手に言はなかつたのか」

「言ひましたよ。念入りに輪をかけて言つてやつたが、相手は少しも驚かねえ――彦四郎貞宗でなきや、師匠の五郎入道正宗だらう。折角見込んだ品だから十兩が二十兩でも買つて置きてえと<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うだ」

「――」

「ね、親分。こんな正直な商法はないでせう」

「――」

「生れて初めて入つた十兩の金だ。一人で<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>つちや<ruby><rb>冥利</rb><rt>みやうり</rt></ruby>が惡いから、取あへず親分に見て貰ふつもりで持つて來ましたよ。ね、何んか<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う役に立てるやうな口はありませんか、親分、差當り拂ふ當がなかつたら、地所を買ふとか、家を建てるとか――」

ガラツ八は<ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>くいゝ心持でした。七八枚の小判を疊の上へ並べたり、重ねたり、チヤリンと叩いて見たりするのです。

「止してくれ、俺はその音を聞くと蟲が起きるよ」

「へツ、<ruby><rb>負惜</rb><rt>まけをし</rt></ruby>みが強いね、親分」

「馬鹿な野郎だ。八兩や十兩で、江戸の眞ん中に家が建つ氣で居やがる」

「家なんか建たなくたつて構やしませんよ。これ丈けありや<ruby><rb>大福餅</rb><rt>だいふくもち</rt></ruby>を買つても、隨分出がありますぜ」

「呆れて物が言へねえ、――だがな、八。見す〱大ナマクラと知つて、手前の脇差を十兩で買ふのは少し變ぢやないか」

「變ぢやありませんよ。氣に入りや、<ruby><rb>跛馬</rb><rt>びつこうま</rt></ruby>だつて買ひますよ」

「待つてくれ、――こいつは少し臭いぞ」

錢形平次はもう一度長火鉢に顏を埋めました。暮のやり<ruby><rb>繰</rb><rt>くり</rt></ruby>と違つて、こいつは何うやら思案の仕甲斐がありさうです。それを眞似するともなく、八五郎も高々と腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>きました。

疊の上に並べた七八枚の小判も、何となく引込みのつかない姿です。

## 二

「八、近頃何か變なことがありやしなかつたか」

平次は改めてかう訊きました。

「變な事？」

「<ruby><rb>例</rb><rt>たと</rt></ruby>へば、手前が嗅ぎ出した<ruby><rb>犯人</rb><rt>ほし</rt></ruby>とか、<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないと思つた事とか――」

「ありませんよ」

「何かの證據を握るとか――」

「なんにも握りやしませんよ」

ガラツ八はあまりにも<ruby><rb>屈託</rb><rt>くつたく</rt></ruby>のない顏です。

「そんな筈はないが、――待てよ、その、手前から脇差を買つたのは誰だい」

「濱町の吉三郎、――遊び人で」

「吉三郎なら知つてゐる。<ruby><rb>賭事</rb><rt>かけごと</rt></ruby>もしない樣子だが、妙に金廻りのいゝ野郎だ、――その吉三郎と何處で知合になつた」

「<ruby><rb>髮結床</rb><rt>かみゆひどこ</rt></ruby>で、――あつしと丁度<ruby><rb>互先</rb><rt>たがひせん</rt></ruby>といふ<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>ですよ」

「手前、濱町まで顏を<ruby><rb>剃</rb><rt>あた</rt></ruby>りに行くのかい」

「いえ、吉三郎の野郎が町内の<ruby><rb>錨床</rb><rt>いかりどこ</rt></ruby>まで來るんで、――あすこの親方の<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>がたまらねえつて」

「錨床の親方は、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>はうまいが、剃刀は<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>ぢやないか」

「あつしもさう思ふんですがね」

「ところで、吉三郎は、何か手前に頼みはしなかつたか」

「いゝえ」

「少し變だな、八。<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>を賣つた時、何か言つた筈だと思ふが――」

平次の問ひは次第に<ruby><rb>核心</rb><rt>かくしん</rt></ruby>に觸れて行きます。

「言ひましたよ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の煙草入れの<ruby><rb>根附</rb><rt>ねつけ</rt></ruby>を見て、そいつは氣に入つたから、脇差と一緒に<ruby><rb>讓</rb><rt>ゆづ</rt></ruby>つてくれ――一つて」

「あの<ruby><rb>牙彫</rb><rt>けぼり</rt></ruby>の――」

「どうせ濱町河岸で拾つた品だから、脇差へおまけにつけましたよ」

「濱町で拾つた？」

「へエ――」

ガラツ八の話は少し變つて居ります。――『一と月ばかり前、<ruby><rb>夜釣</rb><rt>よづり</rt></ruby>に行つた歸り、白々明けの濱町河岸に船を着けたことがありました。その時自分の船より一と足先に岸へ<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ寄せた傳馬が、炭俵と米俵を二十五六<ruby><rb>俵</rb><rt>べう</rt></ruby><ruby><rb>陸</rb><rt>をか</rt></ruby>へ揚げて、サツサと大川を漕ぎ戻つたのを見てゐると、足元の石垣の上に、<ruby><rb>牙彫</rb><rt>けぼり</rt></ruby>の圓いものが一つ、危ふく水に落ちさうに引つ掛つて居た』――といふのです。

拾つて見ると、丁度手頃な根附で、眞中に穴まであいて居りますが、<ruby><rb>彫刻</rb><rt>てうこく</rt></ruby>は怪奇を極めて、<ruby><rb>唐草模樣</rb><rt>からくさもやう</rt></ruby>と鬼のやうな<ruby><rb>縮</rb><rt>ちゞれ</rt></ruby>つ<ruby><rb>毛</rb><rt>け</rt></ruby>の人間の首と、それから得體の知れない<ruby><rb>髯文字</rb><rt>ひげもじ</rt></ruby>がベタ一面に<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>つてあつたのを、<ruby><rb>暢氣</rb><rt>のんき</rt></ruby>なガラツ八は、自分の煙草入れに附けて、そのまゝ腰に<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>んで歩いて居たのでした。

「何だ、拾つたものをそのまゝ腰へブラ下げて居たのかい」

平次も少し<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れましたが、今に始めぬガラツ八の<ruby><rb>暢氣</rb><rt>のんき</rt></ruby>さが、腹を立てるにしても、少し馬鹿馬鹿しかつたのです。

「どうせ馬の骨か牛の骨に細工をしたものですよ。吉三郎は三拜九拜して持つて行つたが、あんなものが何かになりますか、親分」

「呆れた野郎だ」

平次は誰へともなく<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う言ひました。

「こんな事が商法になるなら、江戸中の古道具屋を<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>つて、安物の脇差をうんと買ひ集めようかと思ふが、どんなもので」

「いゝ加減にしないか、八。吉三郎の狙つたのは、<ruby><rb>赤鰯</rb><rt>あかいわし</rt></ruby>ぢやなくて<ruby><rb>牙彫</rb><rt>けぼり</rt></ruby>の根附だつたかも知れないな――兎に角、十兩の金を持つて行つて、脇差と根附けを買ひ戻して來るがいゝ」

「三日も前のことですよ、親分」

「三日前だつて、三年前だつていゝぢやないか」

「十兩の金が、三日も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の手に無事で居るわけはないぢやありませんか」

「仕樣のねえ野郎だ、いくら<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>つたんだ」

「<ruby><rb>店賃</rb><rt>たなちん</rt></ruby>と米屋酒屋の拂ひと、煙草を一つと大福餅を十六文買つて、一兩二分と六十八文」

「いやに<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>みやがつたな、――お靜、一兩二分と六十八文、お前のところにないか」

平次はお勝手の方へ聲を掛けます。

「お前さん、――そんな事を言つたつて」

お靜の聲は口の中に消えました。<ruby><rb>差迫</rb><rt>さしせま</rt></ruby>る<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おほみそか</rt></ruby>を<ruby><rb>控</rb><rt>ひか</rt></ruby>へて此處も大世話場の眞最中だつたのです。

「氣のきかねえ事を言ふな、何のために<ruby><rb>質屋</rb><rt>しちや</rt></ruby>が<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を掛けて置くんだ。俺の<ruby><rb>着替</rb><rt>きがへ</rt></ruby>をそつくり持つて行きや――」

「でも、あと三日で<ruby><rb>年始廻</rb><rt>ねんしまは</rt></ruby>りぢやありませんか」

「この正月は<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を引くことにするよ」

「――」

お靜は默つて出て行つた樣子でした。

「濟まねえ、親分」

ガラツ八は<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れ返つて、平手で額を叩いて居ります。

「こいつは<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>だつたのさ、八。これからも氣をつけることだ、――なアに、お靜のことなんか心配することがあるものか、こちとらの女房は、貧乏や十手には馴れつこだよ」

平次はさう言つてカラカラと笑ふのでした。

## 三

「た、大變だ、親分」

「又大變の大安賣が來やがつた、――何だい、八」

十兩に<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>めた金を握つて、濱町の吉三郎のところへ驅けて行つた筈の八五郎が、<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>も經たないうちに、面喰つた<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじかぜ</rt></ruby>のやうに舞ひ戻つて來たのでした。

「こいつは驚くぜ、親分。吉三郎が<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>死んだんで」

「何？」

平次もさすがに立ち上がりました。

「下手人は<ruby><rb>鐵砲汁</rb><rt>てつぱうじる</rt></ruby>さ」

「<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>の毒にやられたのか」

大きな失望が、平次の顏をサツと<ruby><rb>翳</rb><rt>かげ</rt></ruby>らせます。

「友達が三人で河豚鍋を突つき<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、一杯やらかしてゐるまではよかつたが、その晩吉三郎が毒に中つて、七轉八倒の苦しみ、夜明け前に息を引取つたといふことですよ」

「あとの二人は何うした」

「無事だつたさうで」

「誰と誰だ」

「そいつは聞かなかつた」

「行つてみよう、八。どうも俺には<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない事だらけだ」

平時は帶を締め直して、<ruby><rb>草履</rb><rt>ざうり</rt></ruby>を突つかけました。

「河豚で死んだと解つても――ですかい、親分」

「河豚だつていろ〱あるよ。後學のためだ、一緒に來るがいゝ」

二人はそのまゝ、濱町の吉三郎の家へ飛んだことは言ふ迄もありません。

吉三郎の派手な<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>に似ず、家は至つて地味で、贅澤ではあるが、何となく<ruby><rb>粹好</rb><rt>いきごの</rt></ruby>みでした。附合ひがあまりなかつたものか、集まつて居るのは、ほんの近所の人達が二三人。それも平次とガラツ八の姿を見ると、妙に掛り合ひを<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れるやうに、コソコソと姿を隱してしまひます。

「飛んだことだつたな、お神さん」

「ま、錢形の親分さん。飛んだことになつてしまひました」

女房のお由。二十五六の良い年増が、顏を擧げることさへ出來ない樣子で、<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>さ<ruby><rb>屏風</rb><rt>びやうぶ</rt></ruby>の中に泣き<ruby><rb>崩</rb><rt>くづ</rt></ruby>れて居るのでした。

「昨夜の客は誰と誰だい」

平次は形ばかりの線香をあげてから、かう靜かに訊きました。

「それが、よく、わかりません」

「はて？」

「ちよい〱見かけるお顏ですが――」

「年の頃は」

「二十七八と五十二三」

「<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>は何處から買つたんだ」

「年を取つた方のお客が持つて來ました。竹の皮包みにして、――今日<ruby><rb>漁</rb><rt>と</rt></ruby>つたばかりのを、知合からわけて貰つて來たが、よく洗つてあるから大丈夫だ――と言つて」

「確かに三人で食つたのだね」

「それはもう間違ひもありません、大層おいしいから、私にも是非とすゝめましたが、私は<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>と<ruby><rb>雲丹</rb><rt>うに</rt></ruby>は我慢にもいけません」

「二人の客が歸つてから、毒が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き始めたのか」

「え」

「河豚の殘りがあるだらう、<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>でも<ruby><rb>煮</rb><rt>に</rt></ruby>たのでも構はねえ、チヨイと見せて貰はうか」

平次は妙に<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつあう</rt></ruby>に突つ込みます。

「それが、その殘つたのを、皆んな竹の皮に包んで持つて行つてしまひました」

「吉三郎は河豚をちよい〱やるのかい」

「いえ、生れて初めてださうで、ひどく嫌がつて居りましたが、二人に笑はれて我慢に食べたやうです。でも、一と<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>二た箸食ひ始めると、――こりや飛んだうまいや、<ruby><rb>鮟鱇</rb><rt>あんかう</rt></ruby>そつくりだ――そんな事を言つてました」

「鮟鱇そつくりと言つたのかい」

「それから酒の味がどうも變だ、舌のせゐかしらとも言つてゐました」

女房のお由は進まない樣子乍ら、問はるゝまゝに説明しました。

「三人で一つ<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>を突ついたのだらうな」

「え、それなのに、<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>つたのが一人は情けないぢやありませんか」

「二人が無事とどうしてわかつた」

「何處で噂を聞いたか、今朝お二人はあわてて飛んで來ました。御近所の衆も御存じですが、何か宿が預かつたものがあるとか言つて、佛樣の懷までかき廻して行きましたが。――」

「それが見付かつたのかい」

「そこまでは解りません」

話が次第にこんがらかつて、そして微妙になつて行きます。

「おや？　この脇差ですよ、親分」

ガラツ八は死骸の枕元に置いてあつた、<ruby><rb>魔除</rb><rt>まよ</rt></ruby>けの脇差を取上げました。言ふまでもなく三日前にガラツ八が吉三郎に賣つた、十兩の<ruby><rb>赤鰯丸</rb><rt>あかいわしまる</rt></ruby>です。

「そいつには大した用事がなかつたんだよ。ところでお神さん、毒は何<ruby><rb>刻</rb><rt>どき</rt></ruby>ほど經つて利き始めたんだ」

「鍋が空になると、二人のお客はすぐ歸りました。それを送つて出ると、上り<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>で引ツくり返つた切り――」

「矢張り身體が<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れたんだね」

お由の聲が涙に途切れるのを、平次は慰め顏に言ふのでした。

「いえ、痺れもどうもしません。急に腹の中へ火が付いたやうだと言つて、目も當てられない苦しみをしましたが、到頭黒血を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>いて夜明け前に息を引取りました」

「醫者は？」

「町内の<ruby><rb>玄道</rb><rt>げんだう</rt></ruby>さんに<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>てもらひましたが、何の役にも立ちません」

お由はこれだけ言ふのが精一杯でした。平次の問ひが途切れると、吉三郎の死骸に<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>みつくやうに、時々は聲を立てて泣いて居ります。

## 四

「親分、<ruby><rb>河豚汁</rb><rt>ふぐじる</rt></ruby>ぢや十手捕繩にも及ばないぢやありませんか」

吉三郎の家を出ると、ガラツ八はもう天下<ruby><rb>泰平</rb><rt>たいへい</rt></ruby>の顏になつてゐるのでした。

「手前はさう思ふのか」

「だつて親分」

「だから幾年經つても、大物は<ruby><rb>擧</rb><rt>あ</rt></ruby>がらねえのさ」

錢形平次は八五郎の<ruby><rb>鈍骨</rb><rt>どんこつ</rt></ruby>を<ruby><rb>愍</rb><rt>あはれ</rt></ruby>むともなく、かう言ふのでした。

「へエ――、すると、何か變なことでもあるんで？」

「其邊に居る町内の人達に、今朝吉三郎の家へ來た、二人連れの人相を訊くがいゝ。その邊が<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>りどころだ」

「へエ――」

ガラツ八は吉三郎の家の裏口へ廻りましたが、やがて、狐につまゝれたやうな顏をして戻つて來ました。

「どうした、八？」

「變ですぜ、親分。今朝此處へやつて來て、佛樣の懷までかき廻して行つたのは、三十前後の<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い年増と、四十恰好の浪人者らしい男ださうですよ」

「それ見るがいゝ」

「吉三郎夫妻とは餘つ程<ruby><rb>眤懇</rb><rt>ぢつこん</rt></ruby>の樣子で、時々此家へ來るさうですよ」

「所、名前は？」

「そいつは解らねえ、――お由を締め上げてみませうか」

「無駄だよ、止すがいゝ。それに亭主の死骸の側で手荒なことをしちや、いかに御用でも<ruby><rb>寢醒</rb><rt>ねざ</rt></ruby>めがよくねえ」

「親分は相變らず弱氣だ」

「それでいゝのさ、氣が強くて考へが淺かつた日にや、岡つ引は罪ばかり作るよ」

平次はそんな事を言ひ<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、町内の本道、町野玄道を<ruby><rb>訪</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねました。

吉三郎毒死の<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を<ruby><rb>細々</rb><rt>こま〲</rt></ruby>と訊くと、

「親分、あれはどうも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないよ、<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>の毒ばかりではなかつたやうだ」

「すると、何か外の毒でも盛られた樣子で？」

「いや、さう言ふわけぢやない。第一あんな激しい毒藥は、江戸中の<ruby><rb>生藥屋</rb><rt>きぐすりや</rt></ruby>を搜したつてない――<ruby><rb>南蠻物</rb><rt>なんばんもの</rt></ruby>なら知らないが――」

「南蠻物？」

「矢張り河豚にして置く外はあるまい。三人で食つて一人しか<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>らないといふのは、河豚の外にはないことだ。<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>の中に外の毒が入つてゐたなら、三人が三人ともやられる筈だ」

玄道は大きな坊主頭を振るばかりです。

平次とガラツ八はもう一度吉三郎の家へ戻りました。が、お由はもう白い眼を見せるだけで、二人の問ひにもろくに答へてはくれず、親類縁者も、友達もない樣子で、話を手ぐり出す工夫もありません。

「お神さん、もう一つ二つ訊きたいが、お前さんところの<ruby><rb>宗旨</rb><rt>しうし</rt></ruby>は何だえ」

平次はつかぬ事をきくのでした。

「<ruby><rb>門徒</rb><rt>もんと</rt></ruby>ですよ、今お寺樣が來ますから、お宗旨の事ならそつちへ訊いて下さい」

少し劍もほろゝです。

「江戸には親類もないんだね」

「あつたつて遠い身寄は音信不通で、附合つちやくれません。尤も長崎には<ruby><rb>亭主</rb><rt>やど</rt></ruby>の弟が居ますが、お<ruby><rb>葬式</rb><rt>とむらひ</rt></ruby>に間に合ふわけはなし」

「そいつは氣の毒だ」

そんな事を言ひ乍ら、家の中を念入りに見ましたが、ひどく<ruby><rb>裕福</rb><rt>ゆうふく</rt></ruby>らしいといふ外には、何の變つたところもなかつたのです。

「吉三郎は遊び人で通つてゐたが、勝負事は好きぢやなかつたさうだ。立入つたことを訊くが、世過ぎは何でやつて居たんだ」

平次の問ひはかなり突つ込みます。が、

「私にも解りませんよ。金の成る木でも持つて居たんでせう」

お由は<ruby><rb>空嘯</rb><rt>そらうそぶ</rt></ruby>いて相手にしさうもありません。

「もう一つ、三日前に八五郎が、この脇差と<ruby><rb>牙彫</rb><rt>けぼり</rt></ruby>の<ruby><rb>根附</rb><rt>ねつけ</rt></ruby>を一つ、十兩で吉三郎に賣つたさうだ。少しわけがあつて、それを返して貰ひたいんだが」

平次は十兩の金をお由の前に押しやつて、相手の出やうを待ちました。

「勝手にその脇差を持つて行つて下さい。<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も牙彫の根附なんかは知りませんよ」

「確かに持つてゐた筈だが――」

「親分も、佛樣の懷が見たいんでせう。勝手にするがいゝ、馬鹿々々しい」

お由は氣が立つて居るらしく、かう言つてプイと座を立ちました。

「見ませうか、親分」

立ちかゝる八五郎。

「無駄だらう、今朝拔かれてしまつたよ、――<ruby><rb>赤鰯丸</rb><rt>あかいわしまる</rt></ruby>なんか持つて行つても仕樣があるまい、――十兩の金さへ返しや氣が濟む。さア歸らうか、八」

平次はもう何の<ruby><rb>未練氣</rb><rt>みれんげ</rt></ruby>もなく立ち上がるのでした。

## 五

その日半日、平次は何處ともなく飛んで行つてしまひました。ガラツ八は吉三郎の家を宵まで見張りましたが、町内の百<ruby><rb>萬遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>の講中が來たのと、お<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>の小坊主が、お義理だけの<ruby><rb>經</rb><rt>きやう</rt></ruby>をあげた外には、何の變りもありません。

フラリと平次の家へ來たのは<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よる</rt></ruby>少し過ぎ、食はず飮まずで見張つてゐてひどく<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れて居ります。

「親分は？」

「まだ戻りませんよ。入つて待つてゐて下さいな、八さん」

お靜の<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りない調子に、八五郎はいつものやうにヌツと入つて長火鉢の前に<ruby><rb>頬杖</rb><rt>ほゝづゑ</rt></ruby>を突きました。

「何處へ廻つたらうなア」

「お支度は、八さん」

お靜はそれに構はず、腹の減つてゐるらしい八五郎の顏を、少し遠くから<ruby><rb>鑑定</rb><rt>かんてい</rt></ruby>して居ります。

「親分が歸つてから御馳走になりませう」

ガラツ八にも矢張り遠慮はあつたのです。

「それぢや、せめて一本<ruby><rb>燗</rb><rt>つ</rt></ruby>けませう」

「へエ、――變なことがあつたもので――」

「まア、八さん、たまにはお酒位はありますよ。――ツイ先刻、八丁堀の旦那から、心祝ひがあるからと、わざ〱一升屆けて下さいましたよ」

「そいつは豪儀だ、――さすがに笹野の旦那は氣が付くぜ、へツ、へツ」

八五郎はすつかり相好を<ruby><rb>崩</rb><rt>くづ</rt></ruby>してしまひます。

お靜はその間に、<ruby><rb>銅壺</rb><rt>どうこ</rt></ruby>に突つ込んだ徳利を拭いて、八五郎の前に<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>ゑた膳の上へ、そつと<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せてやりました。元は水茶屋に奉公してゐたお靜ですが、さすがに夫の留守に、子分の酒の<ruby><rb>酌</rb><rt>しやく</rt></ruby>までしてやるのを<ruby><rb>憚</rb><rt>はゞ</rt></ruby>かつたのでせう。

「濟みません」

「なアに、此方が勝手なんで、有難てえな。ト、ト、ト、散ります散りますと來やがる。へツ、へツ、良い色をしてゐるぜ」

グツと<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を鳴らし乍ら、<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちよく</rt></ruby>の手を胸のあたりまで持つて行つた八五郎。

「待ちな、八」

ガラリと格子が開きました。錢形平次が歸つて來たのです。<ruby><rb>盃</rb><rt>さかづき</rt></ruby>を膳へ置くかと思つた八五郎の手は、意地汚くそのまゝ<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>へ――

「あツ」

八五郎の手をハタと打つたものがあります。盃は後ろに飛んで、パツと胸から膝へ飛散る酒。平次の<ruby><rb>煙草入</rb><rt>たばこいれ</rt></ruby>が飛んで來たのでした。

「親分」

八五郎の聲にも<ruby><rb>怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>があります。

「馬鹿ツ、そいつを<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>むと命がねえぞ」

「えツ」

「今路地の外まで<ruby><rb>歸</rb><rt>けえ</rt></ruby>つて來ると、變な野郎がウワウロして居るから、樣子を見てゐるうちに、お靜の話を聞いてしまつたよ、――八丁堀の旦那が、心祝ひに酒を下すつたなんて、そいつは<ruby><rb>大嘘</rb><rt>おほうそ</rt></ruby>だ。俺はつい先刻まで、八丁堀に居たんだから、お酒を下さるなら、そんなお話の出ないわけはねえ。心祝ひどころか、笹野の旦那は明日は先代樣の<ruby><rb>法要</rb><rt>ほふえう</rt></ruby>で、牛込のお寺まで行かなきやならないと言つて居なすつたよ」

さう言ひ<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら平次は、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>も叩かずに入り込んで、默つたまゝお靜の差出す<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>を受取つて眺めました。

「親分、そ、そいつは本當ですかえ」

「嘘だつた日にや、俺は八に申譯がねえことになる。これを見るがいゝ、樽は町内の酒屋のだ。八丁堀から屆いたのではない證據は、この<ruby><rb>〼定</rb><rt>ますさだ</rt></ruby>の<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>で判るだらう」

「――」

八五郎もさう言はれると、口もきけません。

「危いところだ、八。そいつを<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちよく</rt></ruby>呑んだだけで、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>は俺の身代りに、血へどを<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>いて死ぬところよ」

「――」

「だが、<ruby><rb>癪</rb><rt>しやく</rt></ruby>にさはる野郎ぢやないか。この平次を<ruby><rb>鰌</rb><rt>どぜう</rt></ruby>と間違へやがつて」

「誰がこんな事をしたんで、親分」

八五郎は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く人心地がつきました。

「吉三郎を殺した奴だよ」

「ぢや<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>？」

「馬鹿、河豚が酒を買つて、屆けるかよ」

「さア解らねえ」

「俺も解らねえが、こいつは大變な曲者だ。退治しなきや御府内の難儀、お上の<ruby><rb>御威光</rb><rt>ごゐくわう</rt></ruby>にも<ruby><rb>拘</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はる。來い、八。今晩のうちに<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>をあけてやる」

「へエ――」

八五郎は平次の劍幕に釣られて、モソモソ立上がりました。

「お靜、その酒は匂ひを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いでもならねえよ。<ruby><rb>封印</rb><rt>ふういん</rt></ruby>をして大事にしまつて<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>け」

「ハイ」

言ひ捨てた平次。其足で驅け付けたのは、町内の酒屋<ruby><rb>升定</rb><rt>ますさだ</rt></ruby>でした。番頭に訊くと、

「いゝ年増でしたよ。一番良いのを一升<ruby><rb>量</rb><rt>はか</rt></ruby>らせて、小僧に持たせてやりませうと言ふと、イヤ、それには及ばない、私が持つて行かなきや、親切が屆かないつて」

「その女は三十前後の――」

「<ruby><rb>大店</rb><rt>おほだな</rt></ruby>の御新造といつた風でした。頭巾を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>つて居るので、髮形はわかりませんが」

「有難う、飛んだ手數だつた」

平次は外へ出ると、眞つ暗な<ruby><rb>師走</rb><rt>しはす</rt></ruby>の空を仰いで、大きく息をしました。見えざる敵のしたゝかさを改めて<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひし〱</rt></ruby>と感じた樣子です。

## 六

「お神さん、そいつは間違ひだぜ。吉三郎は<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>で死んだんぢやねえ、立派に<ruby><rb>毒害</rb><rt>どくがい</rt></ruby>されたんだ」

通夜の人數を追つ拂つて、八五郎に見張らせた平次は、吉三郎の死骸を中に、お由と膝詰め談判を始めたのでした。

「まさか、親分」

お由は<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>に信じさうもありません。

「證據はいくらでもある。第一、昨夜三人で食つたのは、<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>ぢやない<ruby><rb>鮟鱇鍋</rb><rt>あんかうなべ</rt></ruby>だ、吉三郎が河豚を食つたことがないと言ふから、鮟鱇を持つて來て、河豚といふことにして食はせたんだ。鮟鱇鍋で死ぬ氣遣ひはないが、河豚なら隨分三人のうち一人死ぬといふことがないではない――、彼奴等は其處を狙つたんだ」

「――」

「殘つた魚を竹の皮包にして持つて歸つたのは、後で<ruby><rb>鮟鱇</rb><rt>あんかう</rt></ruby>と判つては面白くないからだ。それから、河豚の毒なら身體が<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れる筈だが、そんな事がなくて、腹の中が燒け<ruby><rb>爛</rb><rt>たゞ</rt></ruby>れるやうで、血を吐いたのは<ruby><rb>南蠻渡</rb><rt>なんばんわた</rt></ruby>りの毒藥に違ひない。玄道さんもさう言つて居る」

「――」

「毒は、吉三郎の盃の中に入つて居たんだ。多分、ちよいと立つた時か何か、投げ込まれたんだらう。――その證據は、昨夜は三人共、盃のやり取りはしなかつた筈だ」

「えツ、そ、その通りですよ。親分。いつも差したり差されたりするのが、昨夜は最初から御家人喜六の言ひ出しで、盃のやり取りなし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>と食つて飮まうといふことにしたやうでした」

「それ見るがいゝ。お前の<ruby><rb>配偶</rb><rt>つれあひ</rt></ruby>は、その御家人喜六と、もう一人の年増に殺されたんだ。今夜は俺のところへまで毒酒を持込みやがつたよ。<ruby><rb>放</rb><rt>はふ</rt></ruby>つて置くと何をやり出すか解らない」

「えツ」

「解つたか、お神さん。夫の敵を討つ氣はないのか」

「畜生ツ、さうとは知らずに、――私は<ruby><rb>亭主</rb><rt>やど</rt></ruby>に口止めされたのを守つて、今まであの二人を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>つてばかり居ました、――敵を討つて下さい。親分さん」

お由にも、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く事件の<ruby><rb>全貌</rb><rt>ぜんばう</rt></ruby>が解つた樣子です。

「それにしても相手の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじやう</rt></ruby>が解らなくちや、敵の討ちやうがない。あの女は何だい」

「<ruby><rb>唐人</rb><rt>たうじん</rt></ruby>お勇といふ大變な女ですよ」

「三人で何かやつて居た筈だが――」

「何か大仕事をしてゐるやうでしたが、私には言つてくれません」

お由は全く何にも知らない樣子でした。

「仲間はたつた三人切りか」

「子分は二三十人ある筈です」

「ね、お神さん。佛樣のことを惡く言ふわけぢやないが、吉三郎はその御家人喜六と唐人お勇に<ruby><rb>荷擔</rb><rt>かたん</rt></ruby>して大層なことをやつて居たんだ」

「――」

「俺の見當では、多分拔荷を<ruby><rb>扱</rb><rt>あつか</rt></ruby>つて居たのだと思ふ、――拔荷といふと何でもないやうだが、こいつは大變な御法度で、<ruby><rb>露顯</rb><rt>ろけん</rt></ruby>すると獄門にも<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>にもなる」

「――」

「自分の榮華のために、<ruby><rb>紅毛人</rb><rt>こうまうじん</rt></ruby>に御國の<ruby><rb>寶</rb><rt>たから</rt></ruby>をやつて、厄體もない贅澤な品物を買入れ、それを三倍五倍の<ruby><rb>利潤</rb><rt>まうけ</rt></ruby>で、金持や物好きな人間に賣り付けるのだから、拔荷扱ひは商人の風上にも置けねえ、<ruby><rb>屑</rb><rt>くづ</rt></ruby>のやうな人間だ」

「――」

「お國の寶の<ruby><rb>大判小判</rb><rt>おほばんこばん</rt></ruby>、あれを紅毛人は命がけで欲しがるさうだ。だから、命知らずの紅毛人は、<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしや</rt></ruby>だの、ビードロだの、いろ〱の小間物だの、あまり生活の足しにならぬ物を持込んで、この國の大判小判と<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>へて行くのだ。長崎ではお役人の目がやかましいから、九州の沖で日本の船に<ruby><rb>積換</rb><rt>つみか</rt></ruby>へ、米や炭の荷に交ぜて、公方樣お膝元へ持つて來るに違ひない。江戸へは諸國の荷が集まるから<ruby><rb>却</rb><rt>かへ</rt></ruby>つてわからない道理だ、――現にお前の夫の吉三郎を殺したのも、その<ruby><rb>拔荷</rb><rt>ぬけに</rt></ruby>で入つた<ruby><rb>南蠻祕法</rb><rt>なんばんひはふ</rt></ruby>の毒藥だ」

平次の舌は<ruby><rb>焔</rb><rt>はのほ</rt></ruby>のやうに燃えます。

「親分さん」

「私慾のために<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>を破り、その上、人まで殺すやうな惡者は放つては置けない。お前の知つてることがあつたら皆な言つてくれ、許して置けない奴等だ」

「親分さん、皆んな申上げます」

「それは良い心掛だ。夫の罪亡ぼしにもなるだらう」

「私は何んにも知りません、――でも、船の入る時の<ruby><rb>合圖</rb><rt>あひづ</rt></ruby>だけは知つてゐます。――時々見張りをさせられましたから」

「有難い、それが解りや」

「――」

お由は聲を<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めました。

## 七

その晩神田の平次の家は燒けたのです。

そればかりは、錢形平次も氣が付かなかつたのでせう。毒酒の<ruby><rb>計略</rb><rt>けいりやく</rt></ruby>は見事に見破りましたが、それだけで油斷をしてゐると、その夜の<ruby><rb>丑刻</rb><rt>やつ</rt></ruby>半頃、三方からあがつた火の手は、<ruby><rb>瞬</rb><rt>またゝ</rt></ruby>く間に平次の長屋を燒き落し、近所の二三軒を半燒にして、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く納まつたのでした。

風がないのと、暮の街で注意が行屆いたので、これ丈けで濟んだのは不幸中の幸ひでしたが、困つたことは、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の錢形平次が、それつ切り行方不知になつてしまつたことです。

――錢形の親分が燒け死んだとよ――

――表裏の戸口は外から閉めてあつたさうだ、お靜さんが命から〱逃げ出したといふぜ――

そんな噂が八方から飛びました。全く、<ruby><rb>燒跡</rb><rt>やけあと</rt></ruby>にシヨンボリと立つてゐる、氣の拔けたやうなガラツ八の姿や、顏から腕へかけて、<ruby><rb>晒木綿</rb><rt>さらしもめん</rt></ruby>で卷かれた、痛々しいお靜の樣子を見ると、錢形平次が死んだといふのも、滿更の<ruby><rb>噂</rb><rt>うはさ</rt></ruby>ばかりではない樣子です。

晝頃には八丁堀の與力笹野新三郎も來ました。江戸中の顏の良い御用聞も、五人十人と集まつて來て、夕方には、それが二三十人になり、打ち<ruby><rb>濕</rb><rt>しめ</rt></ruby>つた樣子で、ポツポと<ruby><rb>烟</rb><rt>けむ</rt></ruby>る灰を掻かせて居ります。

日が暮れると、平次の遺骸を<ruby><rb>板圍</rb><rt>いたがこ</rt></ruby>ひの中から運び出し戸板に<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せて、<ruby><rb>回向院</rb><rt>ゑかうゐん</rt></ruby>に移しました。江戸中の名ある御用聞手先が二三十人、笹野新三郎と一緒に、それに<ruby><rb>從</rb><rt>したが</rt></ruby>つたことは言ふ迄もありません。

その晩の<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>半頃、この一行は回向院の寺内に入り、其處でお通夜が營まれたのです。

同じ夜、<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>過ぎ、永代のあたりから漕ぎ上がつた傳馬が一<ruby><rb>艘</rb><rt>さう</rt></ruby>、濱町河岸に來ると、船頭が<ruby><rb>舳</rb><rt>とも</rt></ruby>の灯を外して、十文字に二度、三度と振りました。

師走二十九日、<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>のやうな闇の中に、その光が水を渡つて走ると、何處からともなく河岸に集まつた人數がざつと二十人ばかり。

「變な時船が入つたものだね、お<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>」

「宵のうちに、永代から合圖があつてびつくりしたよ、――今頃入る船はない筈だが、春になつてから來るといふのが、何かの都合で早く入つたんだらう」

さう言つた囁きが、彼方、此方に<ruby><rb>交</rb><rt>かは</rt></ruby>されます。

「それよ、板を渡してくれ」

「おい」

「酒の荷が先か米の荷が先か」

「明日は<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おほみそか</rt></ruby>だ、酒の荷を先にしてくれ。三河屋も、長崎屋も來て居るぞ」

何時の間にやら、屋號を入れた提灯が二つ三つ用意されました。<ruby><rb>屈強</rb><rt>くつきやう</rt></ruby>な若者達が、船から運び出す荷を、<ruby><rb>陸</rb><rt>をか</rt></ruby>に待つて居る人足が、言葉少なに受取つて、何處ともなく姿を消します。

船の中の荷物はザツと二十七八。その全部を運び終ると、後に殘つたのは、<ruby><rb>頭巾</rb><rt>づきん</rt></ruby>を目深に<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>つた男と女の二人でした。

「これでよし、歸らうか」

「歸りませう」

歩みを<ruby><rb>移</rb><rt>うつ</rt></ruby>す二人の前へ――、

「御用ツ」

ヌツと突つ立つたのは八五郎のガラツ八です。

「何？」

「御家人喜六、唐人お勇、神妙にせい」

パツと組付いて行くガラツ八、お勇は身をかはして、トンと肩のあたりを突きました。

「ワツ」

二三歩泳いで立直るガラツ八。その後ろから、

「えいツ」

後家人喜六の一刀が闇を<ruby><rb>劈</rb><rt>つんざ</rt></ruby>くのを、

「俺が相手だ、來いツ」

横合から飛込んだ十手が、ガツキと受止めました。

「邪魔だツ」

「<ruby><rb>拔荷</rb><rt>ぬけに</rt></ruby>の惡事、吉三郎殺しの<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>まで<ruby><rb>露顯</rb><rt>ろけん</rt></ruby>をしたぞ。觀念せいツ」

「何をツ」

御家人喜六は、お勇を後に<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>つて、一刀を闇に構へます。

「御用ツ、御用ツ」

八方から、ヒタヒタと詰めよる捕方の人數。

「えツ、寄るな〱、一人殘らず切つて捨てるぞツ」

御家人喜六の腕は<ruby><rb>拔群</rb><rt>ばつぐん</rt></ruby>でした。

「傳馬は此方で仕立てた<ruby><rb>僞物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>だ、仲間は一人殘らず生捕られたぞ。神妙にお繩を頂戴せい」

先刻、船から揚げた荷物を、一つ〱<ruby><rb>擔</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで行つた子分は、回向院に<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>をすると見せかけた、江戸中の手先に、一人殘らず後を<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けられ、落着く先で縛られたとは、御家人喜六もまだ知らなかつたでせう。

「えツ、其方共に<ruby><rb>縛</rb><rt>しば</rt></ruby>られる喜六ではない、退け〱」

サツと身を<ruby><rb>飜</rb><rt>かへ</rt></ruby>すと、眼にも止まらぬ早業で、早くも二三人の捕方は<ruby><rb>淺傷</rb><rt>あさで</rt></ruby>を負はされた樣子。

「油斷するなツ」

後ろから激勵の聲を掛けたのは笹野新三郎です。

「<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>だツ」

誰やらの聲に應じて、何處に隱してあつたか、十幾つの御用の提灯が、一度にパツと二人の曲者を照します。

「あつしが行きませう。この野郎には家を燒かれた<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>があります」

パツと飛出した美丈夫。

「平次だ、平次だ」

捕物陣は二つに割れて、その道を開きました。

「生きてゐたのか平次、<ruby><rb>命冥加</rb><rt>いのちみやうが</rt></ruby>な奴だ」

<ruby><rb>苦</rb><rt>にんが</rt></ruby>りする御家人喜六、右手の<ruby><rb>刄</rb><rt>やいば</rt></ruby>は、油斷なく灯にギラリとうねります。

「手前のすることは一々<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひけふ</rt></ruby>だ、我慢のならねえ野郎だ」

さう言ふ口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぐやうに、喜六の刄はサツと伸びます。

「おつと危ねえ、――これでも食やがれ」

平次の右手が<ruby><rb>擧</rb><rt>あ</rt></ruby>がると、夜風を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>つて錢が一枚、御家人喜六の<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>へ――。

「己れツ」

僅かに刄の平で受けましたが、二枚目は<ruby><rb>強</rb><rt>したゝ</rt></ruby>かに頬骨へ、三枚目は額へ、――眼へ――。

「野郎ツ」

ひるむ後ろから、<ruby><rb>無手</rb><rt>むず</rt></ruby>とガラツ八が組付いて居たのです。

「危ねえ、八」

錢形平次は驚いて飛込みました。喜六の後に居る唐人お勇は、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を拔いて、ガラツ八の脇腹へサツと突いて出たのです。

平次は危ふくそれを突飛ばすと、お勇の匕首は<ruby><rb>飛龍</rb><rt>ひりう</rt></ruby>の如く平次の胸へ飛んで來たのでした。それをかはして、

「女、いゝ加減にしろツ」

飛付く平次。その手を拂つてお勇の身體は、大川の寒水へ、水音高く飛込んでしまひました。

×　　　　　　×　　　　　　×

「變な捕物だつたね、親分」

その歸り路、柳原土手でガラツ八は<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>ひかけました。

「脇差を十兩に賣つたのが始まりさ。<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>が感のいゝ人間で、吉三郎の心持を讀むと、こいつは危ないことだつたよ」

平次は面白さうです。

「へエ――」

「まだ判らねえのか、――手前に<ruby><rb>拔荷</rb><rt>ぬけに</rt></ruby>を揚げる現場を見られたから、大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なまくら</span>を十兩で買つてな、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>の御機嫌を取つたのさ、――見て見ぬ振りをしてくれといふ謎さ」

「なアーる」

「今頃感心する奴があるものか、十兩の元手を唯取られたやうなものだ」

「へエ――」

「あの<ruby><rb>牙彫</rb><rt>けぼり</rt></ruby>の<ruby><rb>根附</rb><rt>ねつけ</rt></ruby>は、多令拔荷を受取る手形のやうなものだらう。吉三郎は仲間では<ruby><rb>三下</rb><rt>さんした</rt></ruby>だが、あの牙彫の手形を手前のところから見付けて持つて行くと、急に<ruby><rb>頭領</rb><rt>かしら</rt></ruby>の株を狙つて、拔荷の<ruby><rb>大儲</rb><rt>おほまう</rt></ruby>けを一人占めにしようといふ大望を起したのさ」

「――」

「それと氣の付いた御家人喜六と唐人お勇が、吉三郎如きに大事の手形を取られちや<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>はないから、<ruby><rb>鮟鱇</rb><rt>あんかう</rt></ruby>を<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>と言つて食はせ、實は毒酒で殺して死骸から<ruby><rb>牙彫</rb><rt>けばり</rt></ruby>の手形を拔いたのだよ」

「さう繪解きをして貰ふと、さうでなかつたら嘘見たいで、へエ――」

ガラツ八はまだ長い<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を撫でて居ります。

「だが、自分達の<ruby><rb>利潤</rb><rt>まうけ</rt></ruby>のために、お上の御法を破る奴は憎いね。その上仲間を殺したり、――俺の家まで燒いたり」

「さう言へば、親分は何處へ行きなさるつもりで――」

「お靜は當分里のお袋に預けたよ。――俺はな、八。當分、八五郎の家に<ruby><rb>居候</rb><rt>ゐさふらふ</rt></ruby>ときめたよ」

「そいつは有難てえ。親分を居候に置いたとあれば、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>も肩身が廣い」

「ハツハツハツ、ハツハツ」

柳原土手の夜は白みかけて居りました。<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おほみそか</rt></ruby>の江戸の街は、一<ruby><rb>瞬轉毎</rb><rt>しゆんてんごと</rt></ruby>に、幾百人かづつ最後の足掻きの<ruby><rb>坩堝</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>の中に、眼を<ruby><rb>覺</rb><rt>さま</rt></ruby>さして行くのでせう。