Soranoha

早稲田神楽坂

わせだかぐらざか

加能 作次郎

床屋の壁鏡

神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナナ屋の露店が出て、パン〱戸板をたたいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。

私はその床屋へ、まだ早稲田の学生時代から今日までずっと行きつけにしている。特にそこが他よりすぐれていいとかうまいとかいう訳でもないが、最初その辺に下宿していた関係で行き出したのが元で、何となく設備や何かの感じがよいので、その後どこへ引越して行っても、今だに矢張やはり散歩がてらにでもそこまで出掛けるような次第である。数えるともう十七、八年もの長い年月である。その間私は、旅行その他特別の事情のない限り、毎月必ず一度か二度位ずつ、そこの大きな壁鏡に私の顔をうつし続けて来たわけであるが、する中いつか自分にも気のつかぬ間に、つや〱した若々しい青年だった私の顔が、皮膚のあれゆるんだ、皺深しわぶかい老人じみたものに変り、自ら誇りとしていたほど濃く、且つ黒かった頭髪が、今はすでに見るもじじむさい胡魔塩ごましおに化してしまった。

『随分お白いのがふえましたね』

『ううむ、この頃急に白くなっちゃった。まだそんな年でもないんだけれど……』

『矢張り白髪のたちなんですね、よくこういうお方がありますよ』

『何だか知らないが、実際悲観してしまうね』

大分以前、まだそこの主人が職人達と同様に鋏はさみを持っていた頃、ある日私の髪を刈り込んでいる時、二人はそんな会話を取りかわした。見ると併しかしそういう主人自身の頭も、いつかしらその頂辺が薄く円くはげているのだった。

『君も随分変ったね』

私はもう少しでそういおうとした。主人も今はもう五十に間もない年頃で、むしろ背の低い、まる〱と肥えた、極ごく鷹揚おうような、見た眼にも温良そうな男であるが……変ったのはかれや私の頭髪ばかりではない、それの店の内部も外観も、殆ほとんど昔のおもかげを止めない位に変ってしまった。何時どこが何うなったということはいえないが、何度か普請ふしんをやり直して、外観もよくなったと同時に、内部もずっと広くなり綺麗にもなり、すべての設備も段々とよくなった。散髪料にしても、二十銭か二十五銭位であったのが、今はその三倍にも四倍にもなった。髪の刈り方髯ひげの立て方の流行にも、思うに幾度かの変遷を見たことであろう。わけてそこに立ち働く若い理髪師達の異動のはげしさはいわずもがな、そこの主人の細君でさえ、中頃から違った人になった。多分前の人が病気で亡くなりでもしたのであろう。又そこへ来る常客の人々の身の上にも、それこそどんなにか、色々の変化があったことだろう。単にその外貌がいぼうだけについていっても、例えば私のように、血気な青年だったものがいつかすでに半白の初老に変じたものもあろうし、中年の壮者が白髪の老者に化し、又白髪の老者がいつかその姿を見せなくなったということもあるだろう。更にまた昨日まで母親や女中に伴われて、クル〱坊主にされに来た幼児や少年が、今日はすでに立派なハイカラな若紳士姿で、そのふさふさした漆黒しっこくの髪に流行の波を打たせに来るといったようなことも多いだろう。私はそこのかぎ形になった二方の壁にはめ込まれた鏡に向い、最近急に、自分でも驚くほどに変った自分の顔貌をうつし眺める毎ごとに、いつでもそうした事など考えては、いろ〱の感慨にふけるのが常である。

私と神楽坂

それにしても、私はこれまで幾度その鏡に私の顔を姿をうつして来たことだろう。思えばその鏡こそは、これまで十七年も八年もの長い年月の間、青年から中年に更にまた老年の域へと一歩々々近づいて行きつつある私の姿を、絶えずじっと凝視ぎょうしして来た無言の観察者であったのだ。どこの何者とも知れない一人の男が――私は性来無口で、そんなに長くその店へ行きつけているけれど、滅多に誰とも口をきくこともなく、いわんや私の名前や身分や職業などについては、未だかつて一言も漏らしたことがないので、そこの主人でもただ長い顔馴染かおなじみというだけで、恐らく私については殆ほとんど何事も知らないだろう――そのどこの誰とも知れない一人の男が、十数年この方毎月ふらっとやって来ては、用が終えると又同じようにだまってふらっと帰って行く、その同じことを長の年月繰返している間に、気がつくといつもなしにその男の髪が白くなり、顔にはしわが深く寄せている。非情の鏡と雖いえども恐らくは感慨の深いものがあるであろう。私はそれを思う毎に、いつもそこに或る小説的な興味をさえ感ずるのである。

こういう変化は、いうまでもなく何人の上にも、又何物の上にも行われていることである。しかも、それは極めて徐々に時の経過と共に自然に行われるのであって、何時何どうして何うということなどのいえないようなものである。長い年月を経た後に、ふと何かの機会にそれと気がついて驚くことはあっても、ふだん始終見つけている者には、何か特別の事情のない限り殆ど眼に立たないのが常である。私は本紙に連載中の大東京繁昌記の一節として、これからその印象や思い出を語ろうとしている牛込うしごめ神楽坂かぐらざかのことに関しても、矢張り同様の感を抱かざるを得ない。

私が東京へ出て来てから既に二十二、三年にもなるが、その間今日までずっと、常にこの神楽坂を中心にして生活して来たようなものである。最初の三、四年間は、故あって芝の高輪の方から早稲田大学へ通っていたが、その頃まだ今の早稲田線の電車が飯田橋までしか通じておらず、間もなく大曲まで延びたが、私は乗換えや何かの都合で、毎日外濠線の電車を神楽坂下で乗り降りしたものだった。その後学校附近に下宿するようになってからは、何度その下宿を転々しても、又一家を構えるようになって、何度引越して歩いても、まだかつて一度も牛込の土地を離れたことがない。郊外生活をして見ようとか、他区に住み換えて見ようとか思い立ったことも幾度かあったが、その度毎に住み馴れた土地に対する愛著あいちゃくと、未知の土地に対する不安とが、常に私の心を元の所に引止め、私の身体を縛りつけてしまうのであった。今や牛込は、私にとっては第二の故郷も同様であり、又どうやらこのまま永住の地になってしまうらしい。若もし今後何等かの事情で他に転住しなければならぬようなことがあるならば、私は恰あたかも父祖伝来の墳墓の地を捨てて、遠い異国に移住する者の如き大なる勇気を要すると同時に、またその者と同じい深い離愁を味わわねばならないだろう。然しかり而しこうして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいるというも同然である。

かくして私は多年神楽坂という所に親しみ、且かつそこを愛する一人として、朝夕の散歩にも足自らそこに向うといった風で、その変遷推移の有様も絶えず眼にして来たわけであるが、そして一々こまかく検しらべたならば、はじめて見た時と今とでは、四辺の光景も全く見違えるほどに一変してしまっているに違いないが、さて何時どこがどんな風に変ったかという段になると、丁度私の頭髪が何時どうして白くなったかと問われると同じく、はっきりしか〲と答えることは困難である。長い間に、いつとはなく、又どことなく、自然に移り変って、久しく見なかった人の眼には驚くばかりの変化や発展を示しているに違いないが、毎日見馴れている私にとっては、大体において矢張り以前と同じようだといわざるを得ない。

山の手の銀座?

それに往年の大震災には、下町方面は殆ほとんど全部灰塵かいじんに帰して、今やその跡に新たなる東京が建設されつつあるので、その光景も気分も情調も、全く更生的の変化を示しているが、わが神楽坂通りをはじめ牛込の全区は、幸にもかの大火災を免れたので、それ以前と比べて特に目立つほどの著いちじるしい変化は見られない。路面がアスファルトになったり、表構えだけの薄っぺらな洋式建物が多くなったり、カッフェーやメリンス屋が多くなったりした位のもので、昔と比べて変ったといえば随分変ったといえるが、同じようだといえばまた同じようだといえないこともない。だが兎とに角かく神楽坂は、私にとっては東京の中で最も好きな街の一つだ。こないだも芝の方に住んでいる友達が来て私にいった。

『君は主にどこへ散歩に出かけるかね。』

『そりゃ勿論神楽坂だ。殆ど毎晩のように出かける。』と私は立ち所に有りのままを答えた。

『そんなに神楽坂はいいかね。』

『そう大していいということもないけれど、一寸ちょっといいよ。それに昔からの馴染で、出るとつい自然に無意識に足が向いてしまうんだよ。銀座あたりまで出かければ兎に角、外にちょっと手頃な散歩場がないからね。』

『銀座なんかと比べてどうかね。』

『そりゃ勿論とても比較にも何にもならないさ。すべてがちっぽけで安っぽくて貧弱で、田舎臭くてね。どうしても第三流的な感じだよ。併しかしその第三流的な田舎臭いところが僕には好きなんだ。親しみ易くてね。』

『ふふん。』友達は微かな冷笑をその鼻辺に浮べながら頷うなずいた。『併し僕には、神楽坂は山の手の銀座だとか、東京名所の一つだとかいわれるのがちょっと分らない。あれ位の所なら、外にも沢山、何処の区にでもあるじゃないか。』

『そりゃそうだ、殊にあすこは夜だけの所で、昼間は実につまらないからね。だが夜になると全く感じが違ってしまう。何処だってそういえばそうだが、殊に神楽坂は昼と夜との違いがはげしい。昼間あんな平凡な殺風景な所が、夜になるとどうしてあんなにいい感じの所になるかと不思議な位だ。』

『実際夜は随分賑かだそうだね。』

『賑かだ。四季を通じてそうだが殊に今頃から真夏にかけては甚はなはだしい。場所が狭いからということもあるが、人の出盛り頃になると、殆ど身動きも出来ない位だからね。』

『別にこれといって何一つ見る物もないし、ろくな店一つないようだがね。矢張り毘沙門びしゃもん様の御利益かな、アハアハハハ。』

『アハハハ、何だか知らないが、兎に角われも〱といったような感じでぞろ〱出て来るよ。牛込の人達ばかりでなく、近くの麹町こうじまち辺からも、又遠く小石川や雑司ヶ谷ぞうしがやあたりからもね。』

『どうしてあんな所があんな繁華な場所になったのかね、君なんか牛込通だからよく知ってるだろう。』

『いや、知らない、又そんなことを知ろうという興味もない。それこそ元は毘沙門様の御利益だったのかも知れないが、兎に角昔から牛込の盛り場としてにぎやかなので、だから人が出る。人が出るからにぎやかなんだという現前の事実を認めさえすればいいんだ。併し単ににぎやかだとか人出が多いとかいうだけならば、今君がいったように同じ山の手でも神楽坂なんかよりずっと優った所が少なくないよ。例えば近い所では四谷の通りなんかもそうだし、殊に最近の新宿付近の繁華さといったら素晴らしいものだ。すぐ隣の山吹町通り、つまり江戸川から矢来の交番下までの通りだって、人出の点からいえば神楽坂には劣らないだろう。けれどもそれらの所と神楽坂とではまるで感じが違ってるよ。』

神楽坂気分

私は冷めかけた紅茶をすすりながら更に話を継いだ。

『僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが少いせいか何となくごた〱していて、あたりの空気にも統一がないようで、ゆったりと落著いた散歩気分で、ぶら〱夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は通り抜けという感じも多い、又電車や自動車などの往来が頻繁ひんぱんだからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気のんきな散歩気分になれるんだ。それは僕一人の感じでもなさそうだ。それというのも、晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かた〲ちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。だからそういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとかいう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて歩くことも出来るんだ。少し範囲の狭いのが物足りないけれど、その代り二度も三度も同じ場所を行ったり来たりしながら、それこそ面白くもないバナナのたたき売を面白そうに立ち止って見ていたり、珍しくもない蝮屋まむしやの講釈や救世軍の説教などを物珍しそうに聞いたり、標札屋が標札を書いているのを感心しながらいつまでもぼんやり眺めていたり、馬鹿々々しいと思いながらも五目並べ屋の前にかがんで一寸悪戯いたずらをやって見たりすることも出来るといったようなわけだ。僕は時とすると今川焼屋が暑いのに汗を垂らしながら今川焼を焼いているのを、じっと感心しながら見ていることさえあるよ。まあ、そう笑い給うな、兎に角そんな風な呑のん気きな、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないんだ。そしてその間には、友達にも出会ったり、ちょっと美しい女も見られるというものだ。アハハハ。』

『ああそれ〱』と友達も一緒に笑った。『ところで色々とお説教を聞かされたが、これから一つ実地にその神楽坂気分を味わいに出かけるかね。』

『よかろう。』

そこで私達は早速出かけた。少し廻り道だったが、どうせ電車だと思ったので、幾らか案内気分も手伝って、家の行くの「行くの」はママ柳町の通りの方へ出た。すると、それまで気がつかなかったのだが、丁度その晩は柳町の縁日で、まだ日の暮れたばかりだったが、子供達が沢山出てかなり賑っていた。

『おや〱、こんな所に縁日があるんだね。』

と友達は珍しそうにいった。

『ああ、ほんの子供だましみたいなものが多いんだが、併しこの辺もこの頃大変人が出るようになったよ。去年あたりから縁日の晩には車止めにもなるといった風でね。』と私がいった。

『第二の神楽坂が出来るわけかね。』

『アッハハハ前途遼遠りょうえんだね。電車が通るようにでもなったら、また幾らか開けても来ようけれど何しろまだ全くの田舎で、ちょっとしたうまいコーヒー一杯飲ませる家がないんだ。』

『ここへ電車が敷けるのか?』

『そんな話なんだがね、音羽おとわの護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡れんらくする予定になっているそうだ。』

『そしたら便利になるね。』

『だが、それは何時のことだかね。何でも震災後復興事業や何かのために中止になったとかいう話もあるんだよ。』

寅毘沙・午毘沙

その時わが家の女の子供が三人仲よく手をつらねて玩具屋の前に立っているのに出会った。

『お父さん、風船買って頂戴』

七つになる一番末の子が、逸早く私の袂たもとを捉えて甘えかかった。同行の友人の手前、私が拒こばみ得ないという弱点を、かの女は経験によってちゃんと知っているのだった。私は文句もいえずだまって十銭の白銅を一つ握らせた。

『お兄さんも来ているわよ。』

かの女はうれしさの余りにか、おせっかいにもなおそんなことを私に告げ知らせるのであった。なるほど少し行くと、長い巻紙に出でたら目めに沢山数字を書きつらねたのを高く頭上にさしあげて記憶術の秘訣ひけつとやらを滔々とうとう弁じている角帽の書生を取り巻いた人だかりの中に、私は長男の後姿を見かけた。が、つかまったらことだと思って素知らぬ顔で通り過ぎた。

あちらにもこちらにも小さな人の渦が出来波が流れて、この狭い場末の一角にも、鄙ひなびた、ささやかな、むしろ可憐な感じのものながら、流石さすがに初夏の宵の縁日らしい長閑のどかな行楽的な気分が漂っていた。すぐ近くの河田町にある女子医専の若い女学生が、黒い洋服姿で、大抵三人ずつ一組になってぶら〱しているのが、ここの縁日の特色のように目立った。漬物屋へ入って、つくだ煮や福神漬など買っているものもあった。

『どこの縁日でも同じだね。』と友達はむしろつまらなさそうにいった。

『まあそうだね、殊にここなんか子供相手が主で、実に貧弱なものだが、それでも縁日だというと不思議に人が出るからね。そしてあたりの商店でも何でも段々と自然によくなって行くからね。だから土地の繁栄策としては、どうしても縁日というものが必要なんだね。』と私がいった。『神楽坂にしたって、今日の繁栄を見るに至ったのは、そりゃ種々様々な条件や理由がそなわっていたからに違いないが、極最初は、矢張り毘沙門びしゃもんの縁日なんかが主として与あずかって力があったんじゃないかと思うんだ。現に、今ではもう普通の日も縁日の日も区別が付かないようになってしまったけれど、僕が知ってからでも、元は寅とらと午うまとの縁日の晩だけ特に沢山夜店が出て、従って人出も多く、その縁日の晩に限って、肴町から先が車止めになったような訳だったからね。その頃は僕なども、特に今日は寅毘沙だ午毘沙だといって、丁度今僕の子供等が手をつないで近所の縁日を見に行くように、友達を誘ったり誘われたりして早稲田の奥あたりから出て行ったものだった。夜店なんか見るよりも、ただ人込の中をぶら〱しながら若い異性の香を嗅いだり袖が触れ合ったりするのを楽しみにね、アハハハ。』

『随分不良性を発揮したことだろうね。』と友達は笑いながら半畳を入れた。

『いや、どうして〱、極きわめて善良なものだったさ。今日のモダン・ボーイと違って、その頃の僕等ときたら、誰も彼もいわゆる「人生とは何ぞや」病にかかっていたので、そういう方面には全く意気地がなかったよ。それにこの頃のように、善くも悪くも簡単に女の見られるカッフエなんていうものはなしさ、精々三度に一度位、毘沙門隣の春月か通寺町の更科さらしなあたりで、三銭か五銭のザルそば一つ位で人生や文学を談じては、結局さびしく帰ったものだよ。それでその頃は、普通の日はそんなににぎやかでもなかった。夜店も寿司屋の屋台店位だったが、それがいつとはなしに、銀座あたりと同じく毎晩定夜店が出るようになり、人出も毎晩同じように多くなり、従ってあたりも益々発展して来たというわけだ。今ではもう特にいつが縁日だということも分らない位で、吾々も又いつが寅毘沙だ午毘沙だなどいうことを知る必要もなくなった。いつ出かけて行っても同じように賑やかで、華やかで享楽地的気分が益々濃厚になって来たね。』

蟻の京詣り

私が早稲田の大学に学んでいた頃、また卒業してからでも、それは明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門の縁日になると、あすこの入口に特に大きな赤い二張の提灯ちょうちんが掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛かったのを覚えているが、外でもそうであるように、時勢と共にいつとはなしにその影をひそめてしまった。又、植木屋の多いことが、その頃の神楽坂の縁日の特色の一つで、坂の上から下までずっと両側一面に、各種の草花屋や盆栽屋が所狭く並び、植込の庭木を売る店などは、いつも外濠の電車通りの両側にまではみ出し、時とすると、向側の警察の前や濠端の土手際にまで出ていたものだった。そしていろ〱な草花や盆栽の鉢を、大切そうに小脇に抱えたり高く肩の上に捧げたり、又は大きな庭木を提げたりかついだりした人々が、例の芸者や雛妓おしゃくやかみさんや奥さんや学生や紳士や、さま〲の種類階級の人々のぞろ〱渦を巻いた、神楽坂独特の華やかに艶めいた雑踏ざっとうの中を掻き分けながら歩いていた光景は、今もなお眼に見えるような気がする。それもつい五、六年前、震災の前あたりまで残っていたように思うが、今はそうした特殊の縁日的の気分や光景は殆ほとんど見られなくなった。定夜店が栄えるに従って、植木屋の方が次第にさびれて行ったらしい。

その代り近頃毘沙門の境内に、夜昼なしの常設植木屋が出来て、どこへでも迅速に配達植込までしてくれるという便利調法なことになっているので、毎日中々繁昌しているのも面白い。つい一、二年前からはじめられたことだが、毘沙門様御自身の経営か、或は地代を取って境内を貸しているのか、兎も角震災に潰れた何とか堂の跡の空地を利用してのこの新しい商売は、毘沙門様にとっては、恰あたかも前庭の植込同様、春夏秋冬緑葉青々たる一小樹林を繁らして、一方境内の風致を添えながら兼ねて金儲けになるという一挙両得の名案、毘沙門様もさて〱抜け目なく考えたものかな、その頭脳のよさに流石さすがは御ほとけなればこそと自然とこちらの頭も下る次第で、市内至る処の大小神社仏閣の諸神諸仏も、よろしく範をわが神楽坂毘沙門様に取っては如何いかにと、ちょっとすすめても見たいところである。

私はそんな今昔談を友達にしながら、電車待つ間のもどかしさに、むしろ徒歩に如しかずとそのまま焼餅坂を上り、市ヶ谷小学校の前からぶら〱と電車通りを歩いていたのだが、いつかあの白い海鼠餅なまこもちを組立てたような、牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ、気がつくともう肴町の停留場のそばへ来ていた。

『いよう! なるほどこりゃ大した人出だね。』

友達は思わず角の交番の所に立ちどまって、左右を見廻しながら大袈裟に叫んだ。見ると今丁度人の出潮時らしい、電車線路をはさんで明るく灯にはえた一筋路を、一方は寺町の方から、一方は神楽坂本通りの方から、上下相うつ如くに入乱れて、無数の人の流れがぞろ〱と押し寄せていた。そして時々明るい顔を鈴のようにつらねた満員電車が、チン〱と緩やかにその流れを且かつ堰せき且通し、自動車の警笛の音と共に交通巡査の手がくる〱と忙しく廻っていた。

『いつもこうなのかね』

『毎晩この通りだね』

『まるで大きな蟻の京詣りみたいだ』

なるほどその形容は適切だと思った。そして私は、この短い、しかしてあまり広からぬ一筋の街を中心に、幾条となく前後左右にわかれている横町々々から、更にその又先の横町々々から、恰あたかも河の本流に注ぐ支流のそれのように、人々が皆おのがじしにここを目ざし、ここの美しい灯を慕したうてつどい寄って来る光景が眼に見えるような気がして、非常に愉快だった。

通寺町の発展

普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすのであるが、今ではそれを神楽坂本通りとでもいうことにして、通寺町の全部をもずっと一帯にその区域に加えねばならなくなった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長屋建の家の廂ひさしが両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも微かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場かんこうばだったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった。

その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑々そもそも私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかかるかと内心非常にびく〱しながら箸はしを取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭だしてお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

それから少し行ったところの寄席よせの牛込亭は、近頃殆ど足を運んだことがないが、一時はよく行ったものだった。つい七、八年か十年位前までは、牛込で寄席といえばそこが一等ということになっていた。落語でも何でも一流所がかかっていつも廊下へ溢み出すほどに繁昌し、活動などの盛んにならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さんや円右の落語を初めて聞いたのもそこであった。綾之助や小土佐などの義太夫や加賀太夫や紫朝の新内にはじめて聞きほれたのも、矢張やはりその牛込亭だったと思う。ところがどういうわけでか、数年前から最早そういう一流所の落語や色物がかからなくなって、八幡劇だの安来節だのいうようなものばかりかかるようになった。それも一つの特色として結構なことであるし、それはそれとして又その向々の人によって、定めて大入繁昌をしていることと思うが、私としては往時をしのぶにつけて何となくさびしい思いをせざるを得ないのである。場所もよし、あの三尺か四尺に足らない細い路地を入って行くところなど、如何にも古風な寄席らしい感じがしたし、小さんや円右などの単独かんばんの行灯あんどんが、屋根高く掲げられているのもよく人目を引いて、私達の寄席熱をそそったものだった。今もその外観は以前と少しも変らないが、附近の繁華に引換え、思いなしかあまり眼に立たなくなった。今では神楽坂演芸場の方が唯一の落語の定席となったらしい。

そんな懐旧談かいきゅうだんをしていたら限りがないが、兎に角寺町の通りの最近の発展は非常なものである。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつつあったわけであるが、震災以後殊ことに目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も、坂下からずっとこの寺町の通り全体に大道露店が一ぱいになったものだったが、それから以後次第にそれなりに、私のいわゆる神楽坂プロパーと等しなみの殷賑いんしんを見るに至り、なお次第に矢来方面に向って急激な発展をなしつつある有様である。

独特の魅力

そうはいっても、併しかしその寺町の通りと神楽坂プロパーとでは、流石さすがにその感じが大分違っている。何といっても後者の方が、全体としてすべての点に一段級が上だという事は、何人も認めずにおられないだろう。例えば老舗と新店という感じの相違のようなものであろうか、矢張り肴町の電車路を越えてから、はじめて神楽坂に出たという気のするのは、私だけではあるまい。たった電車路一筋の違いで、町並も同じく、外観にもにぎやかさにも相違がなく、出る人も同じでありながら、全体の空気なり色彩なりが急に変るということは、地方色などといえば少し大げさだが、多少そういったようなものも感ぜられて興味あることだ。寺町の通りが今の神楽坂本通りと同じ感じになるには、まだまだ相当長い年数を経なければなるまい。

それにこちらの方は、その両側の横町や裏通りが悉ことごとく、芸者家や待合の巣になっていることをも考慮に加えなければならない。座敷著姿の艶っぽい芸者や雛妓おしゃく等があの肩摩轂撃的けんまこくげきてきの人出の中を掻き分けながら、こちらの横町から向うの横町へと渡り歩いている光景は、今も昔と変りなくその善い悪いは別として、あれが余程神楽坂の空気や色彩を他と異なったものにしていることは争われない。そして一見純然たる山の手の街らしいあの通りを、一歩その横町に足を踏み入れると、忽たちまちそこは純然たる下町気分の狭斜のちまたであり、柳暗花明の歓楽境に変じているのであるが、その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶かくぜつもなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合して、そこにいわゆる神楽坂情調なる独特の花やかな空気と艶めいた気分とをかもし出し、それがまた他に求められぬ魅力となっているのだ。よく田原屋やオザワなどのカッフエで、堅気なお邸の夫人や令嬢風の家族連れの人達や、学生連や、芸者連れの人達やがテーブルを並べて隣合わせたり向い合ったりしている光景を見かけるが、ここ神楽坂ではそれが左程不自然にも不調和にも思われず、又その何れもが、互に気が引けたり窮屈に感じたりするようなこともないという自由さは、私の知っている限り神楽坂を措おいて他にないと思う。

私はぶら〱歩きながらそんなことを友達に話した。友達はなるほどといった様子で一々私の説にうなずいた。そして山の手の銀座といわれるのも無理がないとか、下町気分もかなり濃厚だなどと批評した。

『それにここは電車や自動車も通らず、両側町だからなお更さら綺麗でもあるしにぎやかでもあるんだね。ちょっと浅草の仲見世みたいに』とかれはいった。

『そう、それもある。それにも一つ、ここでは人通りが大体において二重になるということもあるんだ。というのは、坂下の方から来る人達はずっと寺町の郵便局辺まで行って引返す、寺町の方から出て来た連中は坂上か坂下まで行って又同じ道を引返すというわけなんだ。丁度袋の中をあっち行きこっち行きしているようなものだ。だから僕なんか、こうしてぶらぶらしていると、何度も同じ人に出会わすよ、のみならず、ここを歩いている人達はみんな顔なじみという気がするんだ。』と私は、あの人もあの人もと、折りから通り合せたいつもよく見る散歩人を指した。

『なるほどみんな散歩に出て来たという感じだね。』と友達がいった。

『それも他所よそ行き気分でなく、ちょっとゆかたがけといったような軽い気持でね。だから何となく気楽な悠長な気がするよ。そしてこの辺の商人も、外の土地に比べると正直で悠長で人気が穏やかだという話だよ。通り一ぺんの客は少ないんだから、店同士でお互に競争はしていても、客に対しては一ぺんこっきりの悪らつなことはしないそうだよ。』と私は人から聞いた通りに話した。

牛込見附

私達は両側の夜店など見ながら、ぶら〱と坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車の線路増設や停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。工事完成後はどんな風に面目を改められるか知らないが、この牛込見附から見た周囲の風景は、現在残っている幾つかの見附の中で最もすぐれたものだと私は常に思っている。夜四辺に灯がついてからの感じは殊ことによく、夏の夜の納涼に出る者も多いが、昼の景色も悪くはない、上には柳の並木、下には桜の並木、そして濠の上にはボートが点々と浮んでいる。濠に架かった橋が、上と下との二重になっているのも、ちょっと変った景色で、以前にはよくあすこの水門の所を写生している画学生の姿を見かけたものだった。

だがあすこの桜は震災後すっかり駄目になってしまった。橋を渡った停車場寄りの処のほんの二、三株が花をつけるのみで、他はどうしたわけか立枯れになってしまった。一頃は見附の桜といって、花時になると電車通りの所から停車場までの間が花のトンネルになり、停車場沿いの土手にも、ずっと新見附のあたりまで爛漫らんまんと咲きつらなり、お濠の水の上に紛々ふんぷんたる花ふぶきを散らしなどして、ちょっとした花見も出来そうな所だったのに、惜しいことだと思う。

あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、極ごく近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てて市の公園にするとかいう噂うわさも幾度か聞いたが、そのままお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。誰の計画か知らないがいろ〱の意味でいい思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな〱の盛況で、私も時々気まぐれに子供を連れて漕遊を試みることがあるが、罪がなくて甚だ面白く愉快である。主に小中学の生徒で占めているが、大人の群も相当に多く、若い夫婦の一家族が、水のまに〱舟を流しながら、パラソルの蔭に子供を遊ばせている団欒だんらん振りを見ることも屡々しばしばである。女学生の群も中々多く、時には芸者や雛妓おしゃくや又はカッフエの女給らしい艶めいた若い女性達が、真面目な顔付でオールを動かしていたりして、色彩をはなやかならしめている。聞くと女子の体育奨励のためとあって、特に女子のみの乗艇には料金を半額に優待しているのだそうだが、体育奨励もさることながら、むしろ囮おとりにしているのでないかと笑ったことがあった。

これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ〱牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反の廉かどを以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙しょうよう漫歩まんぽを楽しみ得るの日の来らんことを鶴首かくしゅしている次第である。

商店繁昌記

どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗しにせとか大商店とかいうものが殆ほとんどないようだ。何いずれも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店と資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)

酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらは併しかし普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場に充あてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店、塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂、機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ〲負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石さすがに早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。

その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。尤もっともどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。

ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具師やし的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、外ほかでは知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。

カッフエ其他

カッフエ其他これに類する食べ物屋や飲み物屋の数も実に多い。殊に震災後著いちじるしくふえて、どうかすると表通りだけでも殆ど門並だというような気がする。そしてそれらは皆それ〲のちがった特長を有し、それ〲のちがった好みのひいき客によって栄えているので、一概にどこがいいとか悪いとかいうようなことはいえない。けれども大体において、今のところ神楽坂のカッフエといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なものと見なされているようだ。

田原屋とオザワとは、単にその位置が真正面に向き合っているというばかりでなく、すべての点で両々相対しているような形になっている。年順でいうと田原屋の方が四、五年先輩で料理がうまいというのが評判だ。下町あたりから態々わざわざ食事に来るものも多いそうだ。いつも食べるよりも飲む方が専門の私には、料理のことなど余り分らないが、私の知っている文士や画家や音楽家などの芸術家連中も、牛込へ来れば多くはここで飲んだり食べたりするようだ。五、六年前、いつもそこで顔を合せる常連たちの間で田原屋会なるものを発起して、料亭常盤で懇親会を開いたことなどあったが、元来が果物屋だけに、季節々々の新鮮な果物がたべられるというのも、一つの有利の条件だ。だがその方面の客は多くは坂上の本店のフルーツ・パーラーの方へ行くらしい。

薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフエを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないいカッフエが出来、それで益々土地が開け且かつその繁栄を増すように思われたからだった。少し遅れてその筋向いにカッフエ・スターが出来、一頃は田原屋と三軒鼎立ていりつの姿をなしていたが、間もなくスターが廃業して今の牛肉屋恵比寿に変った。早いもので、オザワが出来てからもう今年で満十年になるそうだ。田原屋とはまたおのずから異なった特色を有し、二階の食堂には、時々文壇関係やその他の宴会が催されるが、去年の暮あたりから階下の方に女給を置くようになり、そのためだかどうだか知らぬが、近頃は又一段と繁昌しているようだ。田原屋の小じんまりとしているに反して、やや散漫の感じがないではないが、それだけ気楽は気楽だ。

この外牛込会館下のグランドや、山田カフエーなどが知られているが、私はあまり行ったことがないのでよくその内容を知らない。又坂の中途に最近白十字堂という純粋のいい喫茶店が出来ている。それから神楽坂における喫茶店の元祖としてパウリスタ風の安いコーヒーを飲ませる毘沙門前の山本のあることを忘れてはなるまい。

震災後通寺町の小横町にプランタンの支店が出来たことは吾々にとって好個の快適な一隅を提供して呉れた様なものだったが、間もなく閉店したのは惜しいことだった。いつぞや新潮社があの跡を買取って吾々文壇の人達の倶楽部クラブとして文芸家協会に寄附するとの噂があったが、どうやらそれは沙汰止みとなったらしい。今は何とかいう婦人科の医者の看板が掛かっている。あすこはずっと以前明進軒という洋食屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外硯友社けんゆうしゃ一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通っていた時分にも、まだその看板が掛かっていた。今その当時の明進軒の息子(といってもすでに五十過ぎの親爺さんだが)は、岩戸町の電車通りに勇幸というお座敷天ぷら屋を出している。紅葉山人に俳句を教わったとかで幽郊という号なんか持っているが、発句よりも天ぷらの方がうまそうだ。泉鏡花さんや鏑木かぶらぎ清方さんなどは今でも贔屓ひいきにしておられるそうで、鏡花の句、清方の絵、両氏合作の暖簾のれんが室内屋台の上に吊るされている。

花街神楽坂

川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ〱と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。

この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、併しかし惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥たんす町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分著いちじるしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮むりょ六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤、末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の噂うわさをそのまま記すだけに止とどめよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷にんじょう事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)の江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。

私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔ほろよいの快い気持で、ぶら〱と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りも疎まばらになり、両側の夜店もそろ〱しまいかけていた折柄車止の提灯ちょうちんが引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前に額ぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかいの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ〱いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフエからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら〱した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。

追憶

私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染なじみだが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。

寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。

その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ〱した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手にお閻魔えんま様があり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう〱とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。

私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しい傷いたましい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。

私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋の都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。

その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀、土肥、水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会の基もとを作った由緒ゆいしょづきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。

矢来・江戸川

その頃のことを追想すると、私は今でも心のときめくような深い感慨を催もよおさずにいられない。芸術座創立前後における、私達島村先生の周囲に集まった者等の異常な感激と昂奮とは別としても、私自身も一度は舞台に立とうかなどと考えて、同好同志の数氏と毎日その清風亭に集まり、島村先生や須磨子について脚本の朗読を試みたり、ゴルキイの「夜の宿」などを実際に稽古をしたりしたものだった。私はルカ老人の役に扮ふんし、最早大分稽古も積んで、もう少しで神楽坂の藁店の高等演芸館で試演を催そうとしかけたのであった。その高等演芸館が今の牛込館になったのであるが、当時そこには藤沢浅二郎の俳優学校が設けられていたり、度々創作試演会が催されたりしたもので、清風亭は別として、この藁店の牛込高等演芸館といい余丁町の坪内先生の文芸協会といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来わが牛込は日本の新劇運動に非常に縁故の深い所だ。

矢来の通りは最近見違えるほどよくなった。神楽坂の繁華がいつか寺町の通りまで続いたが、やがてこの矢来の通りにまで延長して、更に江戸川の通りと連続すべき運命にあるように思われる。消防署附近に、矢来ビルディングなるハイカラな貸長屋が建ち、あたりも大変明るい感じになった。そしてカッフエその他の小飲食店も沢山軒を並べて、この辺はこの辺だけで又一廓の小盛り場をなすが如き観を呈しているが、ここまで来ると、その盛り場は最早純然たる早稲田の学生の領域である。私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲津浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行くが、そののれんを外にくぐり出ると、真向の路地の入口にわが友水守亀之助君経営の人文会出版部の標木が、闇にも白く浮出しているのが眼につくであろう。仰げば近く酒井邸前の矢来通りに、堂々たる新潮社の四層楼が、わが国現代文芸の興隆発達の功績の三分の一をその一身に背負っているとでもいいたげな様子に巍然ぎぜんとして空高く四方を圧し、経済雑誌界の権威たる天野博士の東洋経済新報社のビルディングが、やや離れて斜に之と相対しているが、やがてこの二大建築の中間に、丁度三角形の一角をなして、わが水守君の人文会の高層建築の聳そびえ立たん日のあるべきを期待することは甚だ愉快である。

江戸川通りの発展こそは、わが牛込においては殆ど驚異的である。早稲田線の電車が来ない以前は、低湿穢小なる一細民窟に過ぎなかったが、交通機関の発展は、今やその地を神楽坂に次ぐの繁華な商店街となし、毎晩夜店が立って、その賑かさはむしろ神楽坂を凌しのぐの概がある。矢来交番前に立って、正面遠く久世山あたりまで一眸いちぼうに見渡した夜の光景も眼ざむるばかりに明るく活気に充ちているが、音羽護国寺前からここまで一直線に来るべき電車の開通も間があるまじくそれが完通の暁には、更に面目を一新して一層の繁華を増すことであろう。

それにつけて思い出されるのは江戸川の桜の衰微である。これは東京名所の一つがほろびたものとして、何といっても惜しいことである。あの川をはさんだ両側の夜桜の風情の如き外には一寸見られぬものであったが、墨堤ぼくていの桜が往年の大洪水以来次第に枯れ衰えたと同様に、ここもまた洪水の犠牲となったものか、あの川の改修工事以来駄目になってしまった。その代りというわけでもないが、数年前に江戸川公園が出来て、児童の遊園地としてのみならず、早稲田や目白あたりの学生の好個の遊歩地としていつも賑っている。時節柄関口の滝の下の緑蔭下に、小舟に棹さおし遊ぶ者もかなり多いが、あれが江戸川橋からずっと下流の方まで、両側の葉桜の下の流れを埋めて入り乱れ続いていた一頃の如き賑いは見られないようだ。行く川の流れは元のままにしてしかも元の水にあらずか?

心のふるさと

神楽坂附近の散歩が長くなり過ぎて、早稲田方面に費すべき予定の時間が殆ど無くなってしまった。早稲田は私の「心のふるさと」である。大学を中心として、あの附近一帯から戸塚落合の方にまでも、至る処に私は私の足跡を見ざることなく、見るものすべてなつかしい思い出の種ならざるはないが、今は一々その跡を尋ねて歩く暇のないのを惜しく思う。

(都の西北、早稲田の森に……)

今はそこらの幼稚園の生徒でも、何かというとすぐ口癖のように歌い出す程あまねくひろまったこのなつかしい「われ等が母校」の歌が、はじめて「早稲田の森」から歌い出されたのは、明治四十年の秋、大学創立二十五年記念祭の折のことだった。私はその年の春大学に入ったのであるが、いわばあの歌は、当時在学の私達によってはじめて歌われ出したのであった。亡くなった東儀鉄笛氏が、震災で倒れたというあの東京専門学校時代からの記念的建物だった当時の大講堂に、幾回も私達全校の学生を集め、あの巨体を前後左右に振り廻し、あの独特の大きな両眼をぎろつかせ、渾身こんしんこれ熱これ力といった有様で指揮棒を振り、私達にあの歌詞(相馬御風氏作)と曲譜とを教えたのであったが、記念祭の当日大隈故侯の銅像除幕式をはじめ色々の祝典が催され、夜には盛んな提灯行列が行われて、今の野球々場を振出しに、鶴巻町通りから矢来神楽坂を経、九段からお濠に沿うて宮城二重橋前まで、はじめて皆一斉に「都の西北」を高唱しながら練歩ねりあるいて行ったその時の感激的な光景は、今もなお眼前に彷彿ほうふつとしている。

爾来星霜ここ二十年、大学それ自身の発展や拡張も、当時に比して実に隔世の感があるが、それにつれて附近一帯の変化発展も目ざましく、田甫の早稲田茗荷畑の早稲田は、今は唯ただ徒いたずらに其名を残すのみとなった。私が学校にいた頃には、今電車が走っている鶴巻町裏一帯の土地、即ち関口滝あたりからずっと先、遠く山吹の里なる面影橋附近まで一面の田野で、東電変圧所の赤煉瓦あかれんがの建物が、その田圃の真中にただ一つぽつんと、あたりの田園的風光と不調和に、寂しくしかも物々しく立っているのみで、蛙の声が下宿屋の窓に手に取るように聞え、蛍の飛び交うのが見えたりしたものだったが、そうした旧時のおもかげなどは疾とうの昔に跡方もなく、今は一面にぎっしり家が建て詰まり、すっかり見違えてしまった。殊に電車終点附近近来の発展は驚くべきで、戸塚方面から球場前を抜けてここへ出る道路が開けたのと相まって、やや場末的な感じながらもそこにまた一廓の繁華な盛り場を形造り、早稲田の中心鶴巻町通りの繁華を、次第にそこに移動せしめつつあるが如き観もないではない。

鶴巻町通りは、何といっても早稲田で唯一の目抜きの大通りである。だが私があすこを通る毎に思うことは、あの通りが大学前から一直線に山吹町羽衣館前まで、町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたりして、もっと感じのよい、品位にも富んだ、本当にいわゆる大学街といった風な、そして万余の学生諸君のためには、しっとりとした湿うるおいと温かい情味とに富んだ、心地よき散歩街ともなるようなものにならないだろうか、ということである。そうしたらどんなにいいだろう。又現に著々とその輪廓を整え、益々外観の美を増しつつある大学自身もどんなに引立って見えることだろう。穴八幡附近も、すぐ下に高等学院が出来たりしたためもあって、馬場下の通りでも、坂上の旧高田馬場跡の下戸塚通りでも、見違えるほど明るい繁華な町になった。

実は私は大学を中心として、それをめぐって近来異常な発展をなしつつあるいわゆる「早稲田」の名のもとにおける地方について、つぶさにその変遷推移の跡を尋ね、既往を回顧し現在を叙し学生々活の今昔をも物語る積つもりであったが、与えられた回数がすでに尽きたので、一方にのみ偏して甚だ申し訳なき次第だが、止むなくこれを他日の機会に割愛し、ここにわが愛する「心のふるさと」なる母校並びに全早稲田のために万歳を三唱して、以てこの稿を終ることとする。(昭和二年六月)

底本 / Source edition

底本:「大東京繁昌記」毎日新聞社
1999(平成11)年5月15日
初出:「東京日日新聞」
1927(昭和2)年6月11日~29日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年9月4日作成
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TEI
/works/055650_000247/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/055650_000247/

加能 作次郎「早稲田神楽坂」(新字新仮名)、底本『大東京繁昌記』毎日新聞社、1999年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 055650_000247, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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