Soranoha

水ぎわの家

みずぎわのいえ

徳田 秋声

その時彼はちようど二人の女と差向ひにすわつてゐた。一人はその家うちの主婦で、一人は一流の花柳界にゐる女であつた。

そこは彼が時々息安めに行くところであつた。何の意味がある訳でもなかつた。生活の対象とか何とかいふ種類のものでは無論なかつた。緊張した愛の生活をするには、誰しもさう云ふものを欲するとほりに、彼も亦心易く友達と一緒に御飯の食べられるところが一つくらゐほしかつた。それには其処より外、知つたところがなかつた。余り好子のことで苦しくなつたとき、水辺のその家へ彼は出向いて行つた。その主婦の三十年の生活には、なまじつかな作家が筆をつけられないやうな人生と恋愛場面とが、まるで斧鉞を入れない森林のやうにあつたといふことも、彼としてはなか〱に看脱せないことであつた。

その時も彼はその家の小座敷にゐた。彼は昨日仕事の道具をもつてホテルへ出かけた。そして今日こゝへ飯を食ひにやつて来て、暫らく話しこんでゐた。昨日はちやうど好子が宏太郎と一緒に浜へ行くことになつてゐた。宏太郎の友人の洋行を見送り旁々、船を見たいといふので、同伴する相談が、二三日前宏太郎と彼女のあひだに成立つてゐた。その友人は好子の作品を読んで「男まさりだ」などと讃美したとかで、好子も未見の若いその読者に感激を感じてゐた矢先き、さうした若い人達の雰囲気に触れるのも悪くなかつたし、見送りの光景を見ておかうと云ふ心持も手伝つて、聊か好意を示さうといふ彼女らしい思ひつきであつた。

「私船を見たことがないから、それを見い旁々宏太郎さんのお友達を見送りに、一緒に行かうと思ふんですけれど、貴方もいらつしやらない?」

「僕は行かない。」彼は断はつた。

好子が宏太郎と一緒に行くことは、彼にも悪い気持ではなかつたが、何だか寂しかつた。

彼には寂しがりの癖があつた。格別作家生活の対象にはならない妻ではあつたけれど、半日でも用足しに出てゐると、何か物足りない感じがした。下宿に出てゐるこの頃の好子は余り家へ顔をもつて来なかつた。偶々病院へ行く日は、お昼頃家を出ると帰りは大抵遅かつた。でなければ大抵下宿に寝てゐた。痔疾が全癒に近づいてから、時々熱が出たりして捗々しく行かないのにじれじれしてゐた。彼は静かに一人で暮したい日もあつたが、彼女がゐないと矢張り寂しかつた。無諭横浜行きの帰りは遅くなるに違ひないのであつた。彼は必ずしも隙間を覗つて其の家へ行く訳ではなかつた。好子の帰りを待つてゐるのが苦しかつた。好子が何をしてゐるかを想像するのが悩ましかつた。

派手な服装をしてゐる主婦と並んで、ちやうど遊びに来てゐた主婦の友達の其の女がゐた。これは渋い茶の結城御召なぞ着るやうな女であつた。

「私なぞ待合の主婦には本当はこんなものが好いのね。処が私には何うしてもさういふものが似合はないのよ。」主婦はその女に言つた。「私は錦紗とかお召とかいふものでなくちや駄目なの。第一お鳥目が出なくて、綺麗なものを着てゐるやうに見えるぢやないの。」

「それもさうね。」

「その人の柄だね。顔の派手なものは渋いものは駄目さ。好子さんなんかも……。」

「先生は好子さんが口についてるのよ。」主婦は笑つた。

友達は苦笑してゐた。彼女は余り好遇されなかつたし寧ろ薄情に取扱はれた其の旦那とも良人とも決まらない男と、兎に角関係をつゞけてゐる間も、男が不意に死んでから後も余り幸福ではなかつた。そして作品を通して見る彼に好意を寄せて、是非一度逢ひたいと言つてゐたところから、その日主婦が電話で呼び寄せたのであつた。彼女はその男と別れてから再びお座敷へ出ることになつた。そして其の男と久しぶりで逢つた或晩、その男は遽かに胃が病み出して頓死してしまつた。何うした加減でか、不断健康であつた彼の胃袋が其時破れてしまつたのであつた。

「この頃は私お墓詣りばかりしてゐるのよ。気が鬱々するとお詣りに行つてよ。」彼女は自惚を言つてゐた。

「先生が何うして好子さんに惚れたろつて、不思議がつてる人がありましたけれど。」その女は彼に言つた。そして主婦が座を立つたところで、彼の子供の数や年なぞを訊いてゐた。

彼の作品に現はれる人生には、偶にさう云つた女にでも共鳴されるやうな暗さしかなかつた。好子と愛の生活を営むやうになつたお蔭で、そしてそれが或る人達には彼に取つて、苦悩の種子としか思はれないところから、妻を失つた彼の家庭へ入つて、子供達の面倒でも見ようといふ人が、余り幸福でない、多くの女のなかにあるのであつた。

「先生は好子さんに余り甘いつて評判よ。」

「さうかね。」

「好い加減何うかしたら可いぢやありませんか。」女は少し苛ついた調子で言つたりした。

座へ復つて来た主婦は、晴れやかな顔をして煙草を喫してゐた。

彼はさうやつてゐても、何かしら空虚を感じた。彼は横浜から帰つたら好子を呼ぶつもりで、ホテルに部屋を取つて時々彼女の宿へ電話をかけた。午後から二度ばかり、夜になつて又た二度ばかり。しかし十時頃になつても帰つてゐなかつた。

「奥さんからお電話でしたけれど、切れてしまひました。」

三度目に電話をかけようとしてゐる時、下宿にゐる好子の女中から電話がかゝつて来たので、彼は途中どこかで青年たちと飯でも喰つてゐる彼女が、彼を呼び出さうとして、電話が切れたものだと想像して、電話といふものゝ牾かしさを感じなから、二度目に来るのを待つてゐた。しかし電話は来なかつた。彼はベツトに横はりながらじれ〱してゐた。そして其の一夜が明けた。そして今彼は好子を気にしながら、ぐづぐづしてゐるうちに時間がたつた。彼は好子との今の生活に入つてから、生きる慵さを時々感じてゐた。去年までは多少の興味をもつことの出来た趣味や享楽も、今の彼に取つては、道傍の瓦礫にも劣るものであつた。庭とか家とか画とか、陶器とか、又は芝居音曲――それらのものは無論のこと、生きることに不思議な慵るさを感じた。時とすると好子の刺戟で向上心が燃えたつた。そして今までよりか気持が芸術に傾いたが、自分の芸術に自信がなくなると生活もやがて消えて行くやうな感じであつた。好子の顔や手や姿や、色々の場合の表情の美しさと、爽やかな無邪気な性情と、情熱的芸術欲、それと子供への愛、責任感、そんなものに彼は陶酔し惑溺し、引立てられ鞭たれながら、前進的な壮心を鼓舞されてゐた。その外現世には美しい楽しい何ものをも見ることができなかつた。恋愛生活についての周囲や一般社会への態度とか、時々は避けがたい恋愛の悩みとかゞ、彼の気分を緊張させ張合ひづけた。この恋愛生活をこえて、何か知ら大きな高い世界が展開して来さうにも思へたが、それは限りなく寂しい世界であつた。今の生活の刺戟と苦悩と美感とが失はれるとき超越したとき、そこに無限の寂寥と寂光の領土が見出されるやうにも思へた。悩みを経るごとに少しづつ活路か開けて来るかのやうな感じであつた。

「先生、好子さんからお電話よ。」女中があわただしくやつて来た。

「まあ」主婦は目を丸くした。

「少し強く出てごらんなさいよ。先生は優しすぎるから駄目よ。」友達が興奮した口調で言つた。

彼は不愉快に感じた。過去の噂だけしか知らない限り、誰も好子の好いところと悪いところを知るものはなかつた。たゞ彼のみが彼女の全部に、目が開くやうになりつゝあつた。

彼ははらりとしたが、兎に角帳場へ出て卓上電話へかゝつた。

「人をこんなに苦しめてもいゝものなの。大芸術家は違つたものね。何をしたつて好いんでせう。一体いつからそこにいらつしやるの。私二タ晩も苦しんだわ。」

「苦しむのはお互ひさ。僕は今まで余りにも君の前にへたばつて来たからね。」

「ほゝ、貴方は皮肉を言つてらつしやるの。咋夜も一昨晩もそこに泊つたんでせう。」

「笑談ぢやない。今朝までホテルにゐたのさ。あの晩あんなに電話をかけたぢやないか。ホテルにきいて御覧なさい。」

「貴方が電話をおかけになつて、間もなく帰つて来ましたわ。そこに泊つたんでせう。」

「いゝや。泊るものか。僕は苦しかつたんだ。持つて行きところがないから……。」

「私田舎へ帰つてよ。」

「帰るつて。まあ、そんな事を言はないで、こつちへ来ない。来れば判つてもらへるよ。何でもないんだよ。」

「そつちへ。さうね。……行つてもいゝけれど。」

「来なさい。主婦も見たがつてゐるから。」

「行つてもいゝけれど、何を着ていくの。」

「何でもいゝさ。せい〲美しくして」

「ほゝ」

「今M―さんも来るかも知れない。花を引きに。」

「M―さん。あの人まで連れて行つたんですつて。」好子の声音が遽かに変つた。そしてふつと電話を切つてしまつた。

大体さういつたやうな話が、可なり息ぜわしく応答された。好子のいぢらしさを、彼は見たやうに感じた。

彼は座に戻つて行つた。

「怒つちやつた。」彼は息苦しげに呟いた。

「お呼びなさいよ。」

「さう言うたんだがね。」

「私がお呼びしますわ。」主婦が起つて行つた。

間もなく、「先生に」と言つて女中が駈けて来た。彼はまた出て行つた。そして好子と三言四言話し合つた結果、急いで帰ることになつた。

「……大急ぎで……二十五分以内に帰つていらして下さい。」

「ぢや帰らう。」

座にかへると、主婦が、

「帰つておあげなさいよ、先生。」

「いや、帰らない方がいゝのよ。これだから素人は厭だといふのよ。」友達がいきり立つた。

直にタキシイが呼びよせられた。

「私も帰らう。そこまで載せて行つていたゞきますわ。」友達は遽かに帰り支度をした。

自動車のなかでは格別の話もなかつた。彼は余り愉快ではなかつた。途中でおりる前に、彼女はノートの一頁をちぎつて、鉛筆で居所なぞ書いて「どうぞ又お遊びに」と言つて渡した。

彼はそのまゝ外套のポケツトへ押しこんだ。

二

下宿へ帰つて、急いで好子の部屋の開戸を開けると、そこに何時ものやうに、朗らかな顔をして好子が彼を見迎へた。洋服を着た客が一人窓ぎわにゐた。それは原稿の要件で来た人であつた。好子が彼にその人を紹介した。

彼と彼女とは二言三言応答した。

「先生は水際に好い人があるんですのよ。」好子は床のなかから微笑みながら言つた。

記者は笑つてゐたが、間もなく帰つて行つた。

「よく帰つて来てくれましたね。」好子は手を差伸べた。

彼はその手に唇をつけた。

「一昨日の晩から先生はゐなかつたのね。」

「そんな事はない。昨日の朝出たのさ。ホテルでは極りが悪かつた。君が来ないんで。」

「さう。勘忍して!貴方のお電話のすぐ後へ帰つたのよ。」

「僕は我慢ができなかつたからね。」

暫くしてから、好子が言つた。

「私何かおいしいもの食べたい。支那料理か何か。」

「ぢや行かう。」

「行きませう。」

好子は床を出ると、鏡の前でお化粧つくりをした。

「どの着物にしませう。」

「何でもいゝよ。」

「此間拵へた着ものがいゝでせう。」好子はさう言つて、女中を呼び入れて、着物を命じた。

「羽織は黒ね。」

「いゝね。」

仕度ができたところで、二人は表へ出た。

「電車で好いわ。」

「さうね。」

好子と二人で、或ひはお客をつれて行きつけてゐる支那料理屋では満員であつた。そして少し入口のところで待たされてから、二階の小間へ案内された。

「済みませんが何うぞ此方で……。」

そこには火鉢が積んであつたりした。

「結構。」

「ちまつとして好い部屋ね。」

「さう。」

「私今日は汚い?」好子はいつもの癖の顔の美醜を気にした。彼女は何んな場合にも容貌を忘れなかつた。顔が美しくないと、気分までが荒んで、人生が暗くなるのであつた。彼女は自己陶酔者であつた。

食事がはじまつた。

「おいしいわ。幸福ね」

「さう。」彼も何だかさういふ気がしてゐたが、好子のやうにさう素直に現実の幸福に酔へない質であつた。

「先生、水ぎはの家へ行つちや厭よ。」

「行かないよ。行つたつて何でもないんだけれど。先刻くれば可かつたぢやないか。己がいつも自惚を言ふもんだから、主婦が見たがつてゐる。来てくれると、却つてよく解つたんだ。」

「M―さんもつれて行つたの。」

「いゝや。今日花を引かうと思つて、初めて呼んでみたのさ。だけど来なかつた。」

「さう。」

「行かない?」彼は気軽に誘つて見た。

「行つてもいゝ。」

勿論好子はちよつと行つて見たい気もしてゐたのであつた。彼は誘ひは誘つたけれど「少し困つたな!」と思つた。しかし矢張り行つてみる事にした。

「でも行くんでしたら、着物を……。このまんまでも好い。」

「可いとも。」

好子は又手を眺めながら、

「今日は指環もないのよ。だけど此の方が却つてきつとして可いわね。」

「さう。」

少し遅かつたけれど、彼はその家へ電話をかけた。

「先程は」

「どうなすつたの。」

「好子をつれて行かうと思ふんだ。」

「どうぞ……。」

そんな会話が交はされてから電話をはなれようとして振りかへると、段梯子の中程のところまでおりて、好子が耳を立てゝゐた。さつき帰つたばかりの其の家へ行くことにした。

「あんな女にも逢つておいて好よ。ちよつと小説なんかも解るんだからね。」

「さう。私水を見たいわ。水の見えるところは好きよ。」

「水の見えるところは思出があるからね。」

好子が彼に来る前に結婚しようとした男と、初めて逢つたのが、水の見える家だつたといふことを、彼は前に聞いたことがあつた。

「ううん!」好子は甘へるやうに言つて、肩で小突いた。そして

「私しんみりした唄が聞きたいのよ。聞かしてね。」

「あゝ、可いとも。」

彼女はいつものやうに彼の膝のうへに乗つてゐた。手術後の痔が未だ全く癒えてゐなかつた。白狐の襟巻をした彼女の頬が、ちやうど彼の顔と並ぶくらゐに、体を持たせかけて、手を彼の膝についてゐた。

その家では客が少し立込んでゐた。彼は先きへ立つて入つて行つた。そして中庭の中程にかゝつた橋を渡つて行くと、その一方の端の方の廊下を渡つて来る黒目な服装をした主婦の姿が目についた。彼女も気づいてゐたらしかつたが、わざと声もかけないで茶の間の方へ入つて行つた。

女中が水に臨んだ部屋の一つへ案内した。彼は好子をこゝへつれて来たことを、今の主婦の態度や、女中たちの気分で、後侮した。

「今あすこの廊下を渡つて行つたらう、あれが主婦さ。」

彼は好子と座敷に落着いてから言つた。

「さう、あれが! 背の高い。」

「背は高くない。」

好子の表情や気分では、それが全く予想に反したものであることを感じてゐるやうに見えた。火鉢や菓子を運んでくる、一人の女中も妙に硬くなつてゐた。好子の表情も先刻飯を食つたときほど晴々してはゐなかつた。

彼は益々この会合に幻滅を感じた。

(昭和2年3月「中央公論」)

底本 / Source edition

底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「中央公論 第四十二年第三号」
1927(昭和2)年3月1日発行
初出:「中央公論 第四十二年第三号」
1927(昭和2)年3月1日発行
※見出しの「一」がないのは、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:久世名取
2019年1月29日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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徳田 秋声「水ぎわの家」(新字旧仮名)、底本『徳田秋聲全集第16巻』八木書店、1999年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 055380_000023, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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