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どこでもいい。それこそ裏町のごみごみした露路越しでも、アパートの窓の干物のそばでも、村でも、野でも、或は、ビルデングの歩廊の壺に挿してあるのでも。

春さき、梅の花を、チラホラ見かける頃ほど、平和と、日本の土の香を、感じるときはない。

私は、梅が好きで、いつか「梅」の随筆を、まとめてみたいと思っている。梅に関する折々の感興や話題を古今に集めたら、たちどころに一冊にはなる。

私のいま住んでいる吉野村も、梅の頃には、全村、梅の花である。いつかリーダーズ・ダイジェストに、終戦の時、村の人が、梅を伐った話を書いたら、すぐ朝日の投書欄へ、村の出身者の抗議文が載った。梅村の住民には、そんな非愛郷心の持ち<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>はないというのである。それほど、吉野村は、梅の村だ。村の梅<ruby><rb>窓</rb><rt>そう</rt></ruby>に机をおく私としても、一部の随筆ぐらいは残しておかないとすまない。

そこで、ちらほら、書いてみる。

## 梅と話す人

梅を<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>かない日本画家はない。画題として、梅ほど画家に好かれる花はないだろう。古い水墨家では、足利期の一<ruby><rb>之</rb><rt>し</rt></ruby>の梅が私は好きだ。中華には、墨梅の名手が少くないが、日本人の梅はやはり日本の梅である。光琳の梅にいたっては、世界人の審美眼を<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えたものといえよう。抱一になって、同じ梅でも、だいぶ<ruby><rb>香品</rb><rt>かひん</rt></ruby>が下がる。

栖鳳の梅は、雀についで有名である。<ruby><rb>六人部</rb><rt>むとべ</rt></ruby>女史のはなしによると、一生のうち何万枚の梅を描いたかしれませんと云っていた。

毎年、梅の頃になると、翁は、もうろく頭巾をかぶって、湯河原から小田原の梅園まで、必ず梅を写生しに行ったという。それが、死ぬ前の年の冬までつづいたので、さる人が『もうそのお年まで、あんなに梅をお描きになっているのですから、今さら、この寒いのに、御無理をして、写生にお出かけにならなくても良さそうなものじゃありませんか』と、云ってみた。すると、七十八翁は、<ruby><rb>水涕</rb><rt>みずばな</rt></ruby>も氷りそうな中に立って、スケッチしていた筆をとめ、

『何を仰っしゃいます。私が梅にむかって、こうしていると、梅が私に話しかけてくるのです。ただ、梅の枝ぶりや花を写しているわけではありません』

答えると、また梅にむかって、他念なかったということである。

この話の中には、名匠的な精神のうちに、よくいわれる写生の<ruby><rb>深度</rb><rt>しんど</rt></ruby>という問題がふくまれていておもしろい。

## 王朝女性と蓮月

萬葉のうちにある梅の歌では、私は、<ruby><rb>坂上女郎</rb><rt>さかのうえのいらつめ</rt></ruby>の、

さかづきに梅の花うけて思ふどち

飲みてののちは散らむともよし

が何か心象に沁みてくるような香があってわすれられない。王朝自由主義の中の明るい女性たちが、男<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どち</span>と打ち交じって、杯を唇にあてている姿が目に見えるようだ。かの女たちの恋愛観もまたこのうちに<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>みとれる。

蓮月尼の――鶯は都にいでて留守のまを梅ひとりこそ咲き匂ひけれ――も春<ruby><rb>昼</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>の寂光をあざらかによくも詠んだものである。が、王朝の女性とくらべて大きな年代のへだたりが明らかに感じられる。何といっても、日本の女の、<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>と、自由に、しかも時代の文化をよく身につけて、女性が女性の天真らんまんに生きた時代は、<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>、奈良、平安朝までの間であった。

## 梅の<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>

梅暦は、僕は、伏せ字のない帝国文庫本の初版を、少年の頃、たしか二十五銭ぐらいで古本屋から買って読んだ。

<ruby><rb>仇吉</rb><rt>あだきち</rt></ruby>だったか、<ruby><rb>米</rb><rt>よね</rt></ruby>八だったか、女が、小梅の茶屋で、<ruby><rb>情人</rb><rt>いろ</rt></ruby>の丹次郎を待ちあわせている。……逢い<ruby><rb>曳</rb><rt>びき</rt></ruby>の待つ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>が長く、じれぎみになっているうちに、男の影が、小梅田ン圃の<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に見えてくる。と、女は、茶店の前の<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れ梅から<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>を取って、梅の蕾を、<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>に噛みながら、近づく男の姿を待っていた――という一節があって、なぜかそれだけで、接吻の香気を連想させ、いつまでも記憶にしみついている。

永井荷風氏の随筆のうちにも、その一章をあげて、為永春水を語っているのをいつか読んだことがある。文字の人を魅する所は、誰へもこうも同じものかと驚いたことであるが、年少にして深く魅せられたそのような感銘が、知らないうちに、自分などの恋愛観を<ruby><rb>培</rb><rt>つちか</rt></ruby>っていたことはまちがいない。

この頃の、恋愛作品にある肉体哲学もいいだろうけれど、私は、古典のうちのエロチズムを、恋する若い人たちが、もっと、もう一ぺん読んでみて欲しいとおもう。肉体本位だけでは、どうしても恋愛の腐爛と破局が早くて、完全なる恋愛を楽しむものとは私にはおもわれない。何しろこの頃の恋愛は、セッカチであり過ぎる。

## 父の一日

<ruby><rb>磯子</rb><rt>いそご</rt></ruby>の先の杉田の梅園へは、僕ら小学生時代の<ruby><rb>輩</rb><rt>ともがら</rt></ruby>は、横浜からよく遠足に出かけたものだった。

一度、遠足でなく、父に連れられて、<ruby><rb>父子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>二人で、杉田の梅の頃を、金沢の方まで歩いたことがある。そのとき、山の茶店で、うで卵をたべた。とても美味かった。も一つほしいとねだったら、私たちに出しただけで品切れだった。父が、『何でも、物は、も少しほしいという所がいいんだ。足らないから、なおウデ卵がうまかったろう』と云った。妙に、こんな平凡なことばが、一生忘れられない。

それと、その帰りに、父が、蕎麦屋かどこかで飲んで、大酔した。ほかの梅見客と同じように、梅の一枝をかついで、さんさんと道をよろめき、時々、帽子を落したり、坐ってしまったりして、少年の僕を困らせた。まだ、根岸から電車もなかった時代なので、家に帰るまで、僕は、幾たびも、途方にくれた。しかし、父の印象として、なつかしく、今も思い出してうれしくおもうのは、なぜか、その日の父である。

## 紅梅夢

梅の古材は、印材にいい。盆、莨セット、その他の小器具に作ると、自ら光沢が出て、雅味を加える。村の人は、薪にする。いつも、勿体ないとおもう。

桜を伐るのは、樹のために悪いというが、梅は伐るほどいいといわれ、それに南枝、東枝、やたらに伸びるので、よく伐られる。

奥多摩地方では、梅の実を多く収穫するために、梅の枝を、<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じ折る習慣がある。ために、下向きの枝がふえ、樹の姿が、傘のように見える。吉野の“折り梅”と呼んで、これを名物と見る人もあり、また自然でないといって、好まない人もある。川合玉堂氏などは、後者の方である。ついでにいうが、かつてこの地方へ疎開していた朝倉文夫氏は、梅の絵を描くと、余技ともいわれない墨梅を画く。佐藤朝山氏も梅の絵がうまい。淡雅である。概して、彫刻家は、余技画をかくらしい。文壇人の余技画では、梅の絵を見ない。陳腐を<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>むのかもしれない。が、梅は年々新しい。

紅梅を<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>ると血が出る。物事に幼稚な私は、或る折、自分で庭の紅梅の枝を伐り下ろし、<ruby><rb>樹心</rb><rt>じゅしん</rt></ruby>までが<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>らかに<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>いのでおどろいた。その晩、何だかいい気もちがしなかった。もし、夢に紅梅を見たらきっと寝汗をかいたろう。