## 一

<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>弥吉は、朝のうちのお呼びで、明るい下り屋敷の詰所で、<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>小姓児太郎の朝髪のみだれを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でつけていた。快よい<ruby><rb>髪弄</rb><rt>かみいじ</rt></ruby>りで<ruby><rb>睡</rb><rt>ね</rt></ruby>不足の疲れが出て、うとうとと折柄<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>がしらを暖める日ざしに誘われながら、い<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りをつづけていた。

<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>すじが女のように白くたわわになり、<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>き手の揺れをつたえるごとに、弥吉の手ごたえを重くした。弥吉は、飽かずそれを眺めていたが、いかにも疲れ込んでいるらしい児太郎の様子が、それとなくお<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>の、さまざまな取沙汰を思い出させた上、このように正体もなく居睡りをつづけていることが、軽い憎しみをさえ感じ出させた。生白い手をきちんと膝の上にかさね、それすら、ぐったりと、<ruby><rb>累</rb><rt>かさ</rt></ruby>ね手の重みで感覚もないように見えた。お弓蔵近くの桜が白く<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>されはじめ、詰所詰所では、うす睡い碁将棋の音も途絶えていた。

――或る日、ちょうど弥吉が奉公してから一と月ほどあと、児太郎は、自分の部屋へ弥吉を呼んだ。

「<ruby><rb>無聊</rb><rt>ぶりょう</rt></ruby>だから盃をとらす……。」

そう言われて始めて弥吉は、詰所結いを望んで、児太郎の屋敷へ勤めたこと、<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>狩の、<ruby><rb>鞍</rb><rt>くら</rt></ruby>ヶ岳の池で始めて児太郎を見たことなどを話した。そのことも、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか児太郎にはわかっていたらしかった。<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>のかげで、静かに<ruby><rb>微笑</rb><rt>わら</rt></ruby>ってみせ、自分でわざと酒をついでやったりした。そういう情事になれている児太郎は、高ぴしゃに弥吉を眺め下ろしていた。「爪を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>ってくれい。」そう主人の<ruby><rb>命咐</rb><rt>いいつけ</rt></ruby>を酔った手つきで、白<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>の投げ出されたときは、実際からだが震えるほど、ぞっと嬉しかった。「下手だの。お前のをお出し。」そういう主人を、弥吉は、あわてて手で<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った。

「勿体ない。」

「いや関わぬ。指を出せ。」

児太郎は、自分の白い手の上に、若者の指を乗せ、ポツンと深爪を剪っていたが、みな肉が切られ、あかいものが<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んで出た。弥吉は指頭をしたたる血と、それの痛みを<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えるため顔を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めていた。

児太郎は、弥吉の苦しそうにしている様子をみると、惨酷にちかい微笑をうかべながら、しまいに興もなさそうに手をつき放した。――主君利治公の御寝所で、ある晩、肩<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みをしていて、爪があたっていけない、どの爪だと、これも血のにじむ深爪を切られたことを思い出したのである。その自分が弥吉をこうするのは、べつに悪いことだとは思わなかった。

「弥吉、肩をあたれ。」

「はい。」

弥吉は、日頃思っている主人の、<ruby><rb>優肩</rb><rt>やさがた</rt></ruby>に手を触れる快適さに身をふるわせ、肩につかまったが、爪さきが痛んで、指頭が立たなかった、「どうした、利かないじゃないか。」児太郎はそう叫ぶと、<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さそうに肩さきを振って、弥吉の手を払った。

「指さきが痛むというのか、これしきのことがなんだ。」

児太郎は、手を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて近侍を呼び、<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を持たさせた。近侍がびくびくさし出した三尺なめしの鞭は、弥吉の、脊すじに向って激しく打ちのめされた。弥吉は、絶え入るような声で、あたりをのた打ち廻った。ふゆーと鳴る音がすると、からだじゅうの肉地が一どきに裂けるような痛みを感じた。<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしげに児太郎を見あげると、その真赤な顔は、百万石の主君の<ruby><rb>寵愛</rb><rt>ちょうあい</rt></ruby>をほしいままにしているだけ、わけても<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼせ</rt></ruby>気味で美しかった。振り上げられた二の腕の鮮かな白さが、うめき声を上げながらも、なお<ruby><rb>執念</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>く目に残った。

「弥吉、いたむか。」

鞭を投げ出した児太郎は、そういうと、弥吉を抱き起した。ふしぎな発作のあとの、さらりとした児太郎の顔は、やや<ruby><rb>蒼褪</rb><rt>あおざ</rt></ruby>め、<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>として震えて見えた。

「お<ruby><rb>怨</rb><rt>うらめ</rt></ruby>しゅうございます。」

弥吉は、あまりと云えば無理な主人だ。いっそ飛び<ruby><rb>蒐</rb><rt>かか</rt></ruby>って白い<ruby><rb>喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を食い切ってやろうかとまで、劇しい<ruby><rb>忿怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>にかられていた。

「弥吉、これを見い。」

児太郎は、くるっと<ruby><rb>脊後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>向きになると、肌を脱いでみせた。美しいふた峯の脊すじに、幾すじとない紫色を帯びた鞭の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>が、逡巡としてまざまざと残っていた。

弥吉は、一と目みるなり身ぶるいを感じた。そしてうつ向いて<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>ぐんだ。児太郎は<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>していたが、こんどは落ちついていた。しばらくしてから、弥吉は、顔をあげると、

「もっとお打ち遊ばせ。」

そう微笑んで言った。児太郎は、頭を振って、きゅうに女のように笑うと、強う、弥吉の目をさし<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。

「予がからだを自由にせい。よいか。」

児太郎は、寂しげな、しかも慣れた目付をしながら、それが<ruby><rb>常</rb><rt>いつ</rt></ruby>も女のような姿をしつらえているように、立って弥吉の肩をそっと打叩いた。弥吉は静かに女性にみることのできない、いわば歯がゆいような<ruby><rb>凜</rb><rt>りん</rt></ruby>とした美しい顔をあげた。

「ついて来い。」

児太郎は、そのまま部屋へはいった。間もなく弥吉は、主人の×××××のである。

――弥吉は、それからそれへと考えているうち、児太郎の惨忍な性情が日増しに募っていることが感じられた。鞭打ちなどより、<ruby><rb>慄毛</rb><rt>おぞげ</rt></ruby>の立つような恐ろしい目に会ったりした。が、弥吉には、それが又不思議に、そうされるごとに、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って児太郎の美しさを<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>み込むように体内に感じるのだった。そういう不思議な発作のあるごとに、児太郎の上気した、さっと鮮紅を帯びた<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>は、いつも弥吉を<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>とさせた。それに<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか慣れてしまったせいか、静かにしているときの主人より、凶暴なときの児太郎がかれの<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>てを<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>したからである。

弥吉は、髪のほつれをすっかり仕あげると、居睡りをしていた児太郎はうっとり目をさました。

「つい睡って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>った。ご苦労だった。」

弥吉は、髪道具を前に、きちんと隔って坐って、優しゅう疲れている児太郎の、それゆえなお美しく見える目をみつめていた。いつになく児太郎は上機嫌であった。そういう日は<ruby><rb>殿宵</rb><rt>とのい</rt></ruby>の首尾もそれと察せられ、弥吉は、とうてい容れられない<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましさに、じりじり心を<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>てていた。

「今宵参っても苦しくないぞ。」

児太郎は、機嫌にまかせ、どうしたら<ruby><rb>彼</rb><rt>ああ</rt></ruby>いう目になるだろうと思われるくらい、<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>やかに光をうるませ、微笑んで自分でうなずいて見せた。が、弥吉は……<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>のそういう好意のあり過ぎるときに、ちょいと気持ちが沈んでならなかった。

「いえ、今宵は参りませぬ。ゆるりとお休みあそばせ。」

児太郎は、すぐ顔色を変え、声を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らせたのである。

「なぜ参れないというのだ。<ruby><rb>匹夫</rb><rt>ひっぷ</rt></ruby>のくせに口が過ぎるぞ。」

「いえ、お疲れでございましょうと存じますので。」

弥吉は、恐る恐る、一つには児太郎を休ませるつもりだった。が、児太郎は、すぐ真赤になって怒り出した。

「無礼なことを云う奴だ。殿づとめするのを<ruby><rb>嫉</rb><rt>や</rt></ruby>きおるか、たわけ。」

弥吉は、そうでない意味を言いあらわそうとすると、額口を扇子でぴしっと打叩かれ、巻きかえし打すえられた。弥吉は、そのまま縁側に手をついたなり、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いてしまった。磨きをかけた縁板に、児太郎の小姓<ruby><rb>袴</rb><rt>ばかま</rt></ruby>の銀縫いの影がちらついていた。口が過ぎたのだ。言わなければよかったと、後悔が正直一図な彼を流涙させた。

「汝等ごとき<ruby><rb>蛆</rb><rt>うじ</rt></ruby>虫が分に過ぎた言い分だ。弥吉、面を<ruby><rb>擡</rb><rt>あ</rt></ruby>げい。」

「はい。」

児太郎は、そのとき<ruby><rb>故意</rb><rt>わざ</rt></ruby>と声を低め、やや微笑をふくんだ眼眸を弥吉にそそいで言った。

「そちにも予が殿づとめするのを苦しく思うか。」

弥吉は、<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>うつもりで<ruby><rb>左</rb><rt>そ</rt></ruby>ういう児太郎であるか、それとも本気でいうのか、確めようと眼をさしのぞいたまま、急には返事をしなかった。

「返事をせい。」

弥吉は、しかたなしに

「左様にございます。」

そう答えた。児太郎は、弥吉の苦しそうにしている眼を、自分が難題を持ちかけたためだと思い、興がった。

「<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>の情は人間にあるものだ。そちもそれに駆られて居るのだろう、包まず言うたらよいぞ。」

「いえ、そのようなことは御座いません。」

「では予をそちは思わぬのか。」

児太郎は、また<ruby><rb>嚇</rb><rt>かっ</rt></ruby>として<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まえた。弥吉はどう言っていいか分らなかった。どう言っても<ruby><rb>歪</rb><rt>ま</rt></ruby>げられて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>うのが<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もの言葉癖ゆえ、黙ってうつ向いた。そして低い声で、うつ向いたまま答えた。

「左様なことはございません。御主人様を束の間も忘れたことはございません。」

児太郎は、それきり奥の間へ黙って<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってしまった。弥吉はぼんやり坐って、このごろは唯<ruby><rb>呵責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>と<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>よりしか児太郎から受けない彼は、なおそこから脱け切れない自分を自分で<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>うていた。ときには思い切って屋敷をぬけ出そうと心構えしても、やはり未練があった。そう言っても、これ以上勤めることは彼にとって日夜耐えがたい苦痛であったのである。弥吉は、<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>詰めにされた優しいけだもののように、<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れるに従って卑屈になっていた。

## 二

夏が過ぎ、水の澄み工合がきまると、町の諸方から刀<ruby><rb>研師</rb><rt>とぎし</rt></ruby>が呼び出され、腰の物お手入れが始まりかけていた。児太郎の屋敷でも、あぶら引きを済ましておさめられた刀剣類のなかに、児太郎は、<ruby><rb>主馬寮</rb><rt>しゅめりょう</rt></ruby>にいる父親がするように、十八歳のかれにしては老人くさいような坐り方をして、焼きと光とから玉走る刃がしらの匂いをかいでいた。

弥吉は、<ruby><rb>鐙櫃</rb><rt>あぶみばこ</rt></ruby>のほこりを鳥毛さいはいで、ぱたぱた払っていた。丸腰の、武家には珍らしい町人腰に前垂れをしめ、新しい<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>をあたまに着けている姿は、どこか、意気で、なよらしげに児太郎にはながめられた。実際、いつも女役のかれにとっては、ふしぎに対手に、×××××××最中は、かえって快感が多かった。弥吉の、何でもない後姿が、習慣のせいか、児太郎を刺戟した。重い刀剣類を朝からいじくり廻したため、手の平のあぶらが<ruby><rb>柄糸</rb><rt>つかいと</rt></ruby>に吸い取られ、かさかさしているほど、目も疲れ込んでいた。

児太郎は鋭い一本の、研ぎの入った小柄に似たようなものの手入をすましかかったが、その薄手の刃がしらは、ナイフのように、ものの内部に刺し<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>される味いを、しらずしらず刺戟していた。

「弥吉。これは何か知っているか。」

児太郎は、その<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>ようなものを差し出して見せた。

「馬刺剣でございましょう。そのように思われます。」

「戦場で用立てるものかの。知っているか<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うじゃ。」

「馬<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れんとするとき、それを馬の尻につき立てて気附するものでしょう。」

弥吉は、そう答えたとき、なぜか、しまったという気がした。それは、児太郎の目のいろが粗暴な荒れ方をしながら、がちがち震えていたからである。

「よく知っているの。」

そう言って、<ruby><rb>凝然</rb><rt>じっ</rt></ruby>として<ruby><rb>見戍</rb><rt>みまも</rt></ruby>っている児太郎は、しだいに、その眼底に<ruby><rb>髣髴</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>する焦燥をありありと燃え立てさせた。弥吉は、からだの<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>みを感じた。――三角に削り立てられた鋭利な馬刺剣は、四寸くらいの長さで、きらりと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">キッ</span>先きを、畳の上に向けられ、いまにもぷっつりと畳目にさし徹されるような気がした。

「弥吉、これへ来い。」

その目いろは最早や疑いもなかったため、弥吉は、鐙櫃に、にわかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さいはい</span>を入れはじめた。

「これを済してから参ることにいたしとうございます。最早、日脚もあの通りでございますから……。」

庭後の、植込みのあたまにうすら日がちらついたまま、間もなくその影をおさめようとしてい、踏石のまわりの土もいくらか夕湿りを催しかけ、褐色に沈んで見えた。

「いや、ならん。これへ来いと申したら来い。」

弥吉は、震えた。が、つぎの瞬間には、児太郎は、大きな弥吉のからだを<ruby><rb>羽掻</rb><rt>はが</rt></ruby>い責めに抱きすくめ、馬刺剣は、その×××××××られた。弥吉が、小さい叫び声をあげたときには、児太郎は、馬刺剣を拭きながら立っていた。

弥吉は、つッ伏していたが、控え部屋へ手当をしに立って行った。一言も言わなかった。

児太郎は、<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた顔をゆがめ、悪いことをしたときの窮屈な冷笑をうかべながら、馬刺剣を庭木の肌を目がけ投げつけた。<ruby><rb>李</rb><rt>すもも</rt></ruby>のいらいらした肌にぴいんと立ち、<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のように震え、やがて停った。児太郎は、病的にちかい目と手つきとから静まって、冷たい縁側にぺたりと坐った。弥吉は、とうとう来なかった。虫がひいひい<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いている、あたりは暮れかけはじめていた。

「なぜ<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>は逃げ出したのだ。それほど痛むか。」

児太郎は、ふたたび弥吉が部屋へはいってきたとき、そう言いながら、顔を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めている弥吉を見戍った。その顔は卑屈にしびれ切って、眼底に<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな反抗がうずまいていた。

「無調法をお目に停らせると恐れ入りまするので、あちらへ参りましたのでございます。」

「ふむ。」

児太郎は、それきり何にも言わなかった。頭が静まると、次第に自分のしたことに、いつものような後悔が募り出すのを感じたのである。

「痛むか。」

「いえ。」

弥吉は、わざと元気に立ち働いて、部屋じゅうに散らばった物を片附けはじめた。が、ときどき苦しそうに腰部をさすりながら、児太郎を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み見た。その目の底に燃えるような憎念がたぎりぎらついていた。

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>、<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>な目に遭って無念に思わぬかな。」

「すこしも思いませぬ、よく御存じ上げて居りますから。」

「では、予が<ruby><rb>為</rb><rt>す</rt></ruby>ることを先き以って存じていると言うのだな。」

「何となく感づくことがございます。」

そういう弥吉の目には、測り知れない例の憎念が、微笑んでいるに<ruby><rb>拘</rb><rt>かか</rt></ruby>わらず、児太郎の目に停らぬ程度で現われていたのである。とうてい<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>わない<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めもあったが、それにしては消えがたい底強い光が潜んでいたのである。

「弥吉、殿勤めはつらいぞ。」

児太郎は、<ruby><rb>左</rb><rt>そ</rt></ruby>ういうと後悔の念いを今はハッキリと面にあらわした。弥吉は、黙ってうつむいていた。

## 三

そのうち不思議にも、児太郎の乱行は、ぱたりと<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んだ。そのかわり殿宵の勤め泊りの声も、おかみからは下りなかった。夜は、ほの暗い行燈と虫声の繁い屋敷うちに、児太郎は端然と寂しく坐っていた。弥吉は、それを知ってから、なるべく児太郎に顔を合さぬようにした。

弥吉は、鞍ヶ岳の池のまわりで、そよりと立った鷹狩の、児太郎の<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な姿を、いまは<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にもみることができないのに気が附いた。ふしぎにお小姓は、長くて三年の器量といわれているだけに、もう児太郎の顔容は、その目つきばかりでなく、コワそうなうす青い<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の芽生えからも落ちかかっていた。その何よりも荒れ沈んだ眼底には、しおらしゅう匂う色艶がいつの間にか<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き消されていたのである。弥吉は、そういう児太郎の沈んだ姿を、下座敷のなかに、夜はいつも何ごとをか考え込んでいるのも見た。それと同時にふしぎに弥吉の心にも、何となく児太郎を慕う気が起らなくなっていた。呵責と折檻とから放されたような彼にとって、思いしずんでいる主人を時にはこころ<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>いまで復讐的な気分でながめていたのである。

或る晩、髪を上げてくれるようとのことで、弥吉は、そのうしろに立ち、鏡立てをした児太郎が静かに心沈むという風に、それを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んでいるのを、例によって、むしろ投げ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りな気もちでながめた。

「お上からのお召しも遠いようでございますのは、心がかりに思います。」

弥吉は、そう多少皮肉な気分で言って、しずかに髪の地に<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>をいれた。

「いや、そのうちにあろう。上は忙しくあらせられるからの。」

児太郎は、新参の大隅という、二つ年下の、<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>のような<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>をしている小姓仲間を思い出した。それの出仕と同時に自分への沙汰のなくなったことを考えると、なよらしゅう立働いている大隅が憎くてならなかった。

「弥吉、そちは大隅をみたことがあるかどうだ。」

弥吉は、<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せてはいるが、今小姓仲間の<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>といわれている大隅を、そう言われて急に思い出した。なぜか児太郎とくらべものにならない気がした。

「ぞんじて居ります。」

「予といずれが際立ち居るか。つつまず申して<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れ。」

弥吉は、すぐ返事ができなかった。そのため、立鏡にうつる自分の顔をわざと鏡の外側へずらせた。が、そのとき児太郎はそれを素早く見つけた。

「どうじゃ。」

「はい。」

児太郎は、その<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>にぐさりと突き込んで言い放った。

「予の方が劣るか。」

弥吉は、こう言い乗せられると、<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>あわてて<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>って、あいにく、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>絡まりをした声がかすれて出なかった。

児太郎は、立鏡を足で蹴り上げた。裏切りものめ、そう叫んだ児太郎は、<ruby><rb>髢</rb><rt>かもじ</rt></ruby>にかけた弥吉の手をとると、いきなり庭さきへ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけた。起上ろうとするのを上から乗り寄せ、丁々と<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を打った。弥吉は、唇を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みしだきながらも、手向いをしなかった。そして正面から児太郎の顔をゆっくり<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>め、冷えわたるような笑みを<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らした。

「児太郎様にくらべると、大隅さまはずっと立派に居られます。」

児太郎は、身うごきもせず、そう大胆に言い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>ける弥吉の顔をむしろ<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>とながめた。その口惜しさは一どきに頭を混乱させ逆上させた。はんたいに気持ちは落ちつき返っていた。

「そちでも<ruby><rb>左</rb><rt>そ</rt></ruby>う思うか。」

「はい。」

弥吉は、そのときどういう<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に遭うかわからないと思ったが、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って冷然としている主人をみると、自分があまり急所を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>きすぎたような気もした、一面から<ruby><rb>凋</rb><rt>しお</rt></ruby>れている児太郎にたいする日頃の<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>がいくらかずつ晴れてゆくのを快よく感じた。

「部屋へ下ってようございますか。」

<ruby><rb>曾</rb><rt>か</rt></ruby>つて<ruby><rb>然</rb><rt>そ</rt></ruby>う言い出したことのない弥吉を、児太郎は自身にひきあてて、悲しげに<ruby><rb>打棄</rb><rt>うちすて</rt></ruby>るような調子でしりぞけた。――弥吉は、部屋へかえると、通しをかけてあった大隅への奉公口の返事を、<ruby><rb>口入</rb><rt>くちいれ</rt></ruby>業のある<ruby><rb>町家</rb><rt>まちや</rt></ruby>をさして出かけて聞きに行った。どうせ浮いた髪結業だ。それにこの屋敷にいる気がしなかったからであった。

翌朝、弥吉が暇乞いに出かけると、児太郎は、黙って、それを許した。そのとき主人は最早や稚児袴を着けずに、わざとらしく鉄扇を持ち、座敷に坐り込んでいた。弥吉は、冷笑をふくんで、児太郎の屋敷を立ち出でた。