## 序

私は、私の流儀に従って、<ruby><rb>日頃</rb><rt>ひごろ</rt></ruby>尊敬する大音楽家の列伝を書いた。それは、あくまでも私の生活を通して見た大作曲家で、私の<ruby><rb>抱懐</rb><rt>ほうかい</rt></ruby>する尊崇と、愛着と、<ruby><rb>驚嘆</rb><rt>きょうたん</rt></ruby>と、そして時には少しばかりの批判とを、なんの<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うところもなく、思うがままに書き連ねたものである。

私はかつて考証のために書かなかった。事実の<ruby><rb>羅列</rb><rt>られつ</rt></ruby>のためにも書かなかったつもりである。私は大音楽家達に対する心持を、散文詩のように、少しばかりの陶酔と、<ruby><rb>詠嘆</rb><rt>えいたん</rt></ruby>をさえ交えて書いた。それは六十歳の青年の、せめてもの情熱であり、科学や芸術に対して日本人の持つ若さの表現であるかも知れない。

大音楽家の伝記というのは、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少なくないが、誰にでも――音楽に関心も趣味も知識もない人にでも訴えて、その作物に興味を持たせ得る啓蒙的な伝記は甚だ多くない。私の狙いはそこであった。それから、もう一つの望みは、一般青年のために、日頃関心を持った作曲家の伝記を通して、私のささやかな人生観と芸術論を説きたかったのである。

この記述の第一の目的は、読んで感銘の深いものであり、面白いものであるべきであった。その目的さえ果せば、読者諸君は次の段階に進んで、それぞれの大音楽家の詳伝を読まれ、その芸術に対する理解を深められることであろう。

芸術は<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>作者その人である。個性なくして芸術はあり得ず、創作者その人を知らずして作品の真髄を<ruby><rb>把握</rb><rt>はあく</rt></ruby>することは甚だむつかしい。本書を青年子弟のために書いた<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>である。

この稿のうち十二篇の伝記は、婦人公論に記載したもので、他の五篇は新たに書き加えたものである。作品及びレコードに関する<ruby><rb>厖大</rb><rt>ぼうだい</rt></ruby>な記述と、別伝数十ページことごとく書き下しで、そのために私はひと夏五十余日を費さなければならなかった。レコードは代表作の優秀盤きわめて少数に限定して、極力<ruby><rb>網羅</rb><rt>もうら</rt></ruby>主義を避けた。全部のレコードを書くのは、読者の選択の困難を増すばかりで、全く書かないと同じ結果になりはしないかと恐れたためである。母型や材料の輸入難を考え合せると今日のレコード選択標準は、向年五年、十年、あるいは十数年間は大した変化のないことと思う。今度ほど私はレコード選択について、安らかな心持で書いたことはない。

昭和十六年九月末日

あらえびす記

  


## 戦闘の人ヘンデル

  


「お前の一番好きな作曲家は？」と聞かれたら、私はなんの<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>もなく「ヘンデルとそしてシューベルト」と<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えるだろう。

「お前の一番大事なレコードは何か？」と言われたら、ヘンデルの「<ruby><rb>救世主</rb><rt>メシア</rt></ruby>」全曲十八枚を<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げることも間違いはあるまい。現に最近成城から高井戸へ引越した私は、一万枚以上のレコードの収集を、何の不安もなくトラックに積んで送り出したにかかわらず、ビーチャム<ruby><rb>卿</rb><rt>きょう</rt></ruby>の指揮する「救世主」十八枚のレコードは、二つの箱に納め、私の腕に抱えて、旧居から新宅へと運んだくらいである。

このレコードに対して、私にはきわめて個人的な思い出があり、何物にも代え<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>い心持ちになっているが、それにしても、ヘンデルの人間とヘンデルの音楽に、私の興味と愛着を誘うものがなければ、「<ruby><rb>救世主</rb><rt>メシア</rt></ruby>」のレコードに対して、これほどまでの執着は感じなかったことであろう。

ヘンデルは古典作曲家中の巨峰である。バッハが「西洋音楽の父」であるならば、ヘンデルは「西洋音楽の母」でなければならない。この二人は偶然同じ年に生まれ、バッハの音楽が理知的で対位法的であるのに対して、ヘンデルの音楽が感情的で旋律的であることが、まことに面白い対照でもあったのである。バッハはこの上もなく尊い。が、ヘンデルがなかったならば、我らの持っている音楽の国の<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しさはどれほどであろう。私は論議することをやめて、しばらく情熱漢ヘンデルの伝記を通じて、その人間味を見ようと思う。

## 若き放浪者

ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル（<em>Georg Friedrich Händel</em>）は一六八五年二月二十三日、富裕な理髪兼外科医の二番目の子として、ハルレの町に生まれた。

ヘンデルの音楽的才能と音楽愛は、多くの天才と同じように幼年時代から目覚めたが、父親は愛児が音楽を職業として選ぶことを好まず、音楽に携わること、楽器を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ぶことを厳禁してしまった。音楽を奪われた少年ヘンデルが、夜な夜な屋根裏の物置の中に通い、月の光をたよりに、そこに隠されたクラヴィコードを弾いて勉強したという逸話は、<ruby><rb>泰西</rb><rt>たいせい</rt></ruby>名画の題材として、記憶している人も少なくはあるまい。

七歳のとき、ワイセンフェルス公爵の御前でオルガンを<ruby><rb>奏</rb><rt>ひ</rt></ruby>き、公の<ruby><rb>御感</rb><rt>ぎょかん</rt></ruby>に入って、公爵自身ヘンデルの父に、息子の音楽修業を承諾させたという話もある。十一歳のとき父を失ってからは、父の望みの法律研究を捨てるに忍びず、一たびハルレ大学の法律部に籍を置いたが、十七歳のときついに法律を捨てて教会のオルガン弾きの地位に納まり、やがて本格的な音楽修業を思い立って、ドイツオペラの都ハンブルクに、彼自身の姿を見出したのは、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る十八歳の春であった。穏やかな<ruby><rb>長面</rb><rt>ながおもて</rt></ruby>、大きな真面目な眼、直な鼻、豊かな額、厚いが強い唇、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>や<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>はがっしりと端正で、四角帽を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った彼の<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>を、時の人は「力に富み、意志に強かった」と伝えている。

ハンブルクではカイゼル、マッテゾン、ブクステフーデなどが楽壇を支配し、いずれもヘンデルより年長で、若きヘンデルにとっては<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>な指導者であり、先輩であった。しかしヘンデルの才能と天分が次第に三人の先輩を抜いて、いつまでも保護者らしい顔をされるのに我慢が出来なくなってしまったのはやむを得ないことであった。最初にヘンデルと問題を起したのはマッテゾンであった。<ruby><rb>些々</rb><rt>ささ</rt></ruby>たる事から誤解を大きくして二人はハンブルク市場で決闘をする羽目にまで立ち至ったのである。マッテゾンの剣は危うくヘンデルの胸を貫こうとして、大きな金属製のボタンに留って折れ、ヘンデルの命は真に一髪の危機を免れ、次の瞬間二人は我を忘れて抱き合っていた。争いの種も憎しみも、死線を超えて春の霜の如く消え失せたのである。

続いてヘンデルとの間に大きな<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>を作ったのは、ハンブルクのオペラの中心人物なるカイゼルであった。カイゼルの<ruby><rb>落目</rb><rt>おちめ</rt></ruby>と嫉妬は、ハンブルクのオペラまでも滅茶滅茶なものにしてしまった。一七〇六年、二十一歳のヘンデルは、ハンブルクに失望して、イタリーへ――「太陽に向って微笑する音楽の国」を求めて去ったのである。

## 不愉快な立場

フローレンスからローマへ、ローマからヴェニスへ、青年ヘンデルの音楽の旅はしばらく続いた。「ヘンデルは決してイタリー音楽に心酔したのではなかった」とロマン・ローランは言っている。ドイツ人ヘンデルにはドイツ人に共通の負けじ魂ときかん気がある。が、イタリーの音楽界から、ヘンデルが学び得たところは決して少なくはない。彼の<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいオペラの豪華雄麗さに、イタリー的なものが多分に含まれていることは言わずもあれ、彼の晩年を飾る<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>の傑作に、イタリー風の<ruby><rb>艶麗</rb><rt>えんれい</rt></ruby>な色彩感を<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り入れ、存分に美しい旋律を氾濫させたのは、ヘンデルのイタリー修業の<ruby><rb>賜物</rb><rt>たまもの</rt></ruby>でないとは言えなかったわけである。

さりながら、イタリー旅行当初のヘンデルは、作曲家としてよりはむしろ演奏技術家として盛名を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せたことも事実である。イタリーの誇りとも言うべきスカルラッティ父子と<ruby><rb>相識</rb><rt>あいし</rt></ruby>り、<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>ドメニコ・スカルラッティと、オルガンの演奏を競って勝ち、二人は水魚の思いがあったという逸話も、この頃の消息を伝えたものである。

ナポリに遊んでローマに帰ったヘンデルは、歌劇「アグリッピーナ」でイタリー人を歓喜と狂乱の中に投げ込んだ。聴衆は「親愛なるサクソン人万歳」と絶叫した。当時イタリーに滞在していたハノーヴァの司教ステファンはヘンデルにハノーヴァ宮廷の楽長の地位を提供し、ヘンデルは直ちに応じた。

しばらくのハノーヴァ滞在の後、ヘンデルは早くから<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>の的であったイギリスに向った。二十五歳の秋である。イギリスの楽壇はパーセルの死後全く窒息状態で、首都ロンドンはたった一人の作曲家も持たず、ことごとくイタリー音楽とイタリー楽人の<ruby><rb>蹂躙</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>に任せておく有様であった。ヘンデルは音楽をお好きなうえ、<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>らクラヴサンをよく演奏した女王アンに<ruby><rb>謁</rb><rt>えっ</rt></ruby>した後、超人的に天才を発揮してわずかに十四日間で歌劇「リナルド」を書き下して上演した。

成功は記録的であった。イタリーオペラを武器とするヘンデルの勝利はめざましくもまた<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかだったのである。その成功が機縁となってイギリス定住の決心にまで発展し、ハノーヴァ王家に解任を求めて、時々帰任するという約束の下に英国に落着くことになったのである。

ヘンデルの英国における発展は<ruby><rb>未曾有</rb><rt>みぞう</rt></ruby>のものであった。外国人にして王室作曲官となり、アン女王の御覚え目出たいにつけても、ハノーヴァ王家に対する気まずさがないではなかった。

その不愉快な立場がアン女王の死によって、ついに法のつかぬ破局に導かれたのである。アン女王に代って英国の王位についたのは、ハノーヴァ家のゲオルク<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち後のジョージ一世だったのである。さきにハノーヴァ王家の好意に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>いたヘンデルが、宮廷から遠ざけられたのもまた<ruby><rb>余儀</rb><rt>よぎ</rt></ruby>ないことである。

## 組曲「水上の音楽」

ジョージ一世即位後間もなく、盛典を祝う意味も兼ねて、テームズ河に船遊びを催されたことがあった。善美を尽した御座船が中流に浮んで、<ruby><rb>貴顕</rb><rt>きけん</rt></ruby>淑女雲の如く<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby>する中に、ジョージ一世は玉杯を挙げて四方の風物を眺めながら、水と共にテームズを降った。

このとき御座船近く用意された船の中から、<ruby><rb>嚠喨</rb><rt>りゅうりょう</rt></ruby>として楽の音が起った。幾十人の奏する大管弦楽は、水を渡り<ruby><rb>蒼空</rb><rt>あおぞら</rt></ruby>に響いて、壮麗雄大、言葉にも尽せぬ情趣を<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>し出したのである。ジョージ一世御感のあまり、近くに伺候するキルマンセッグ<ruby><rb>男爵</rb><rt>だんしゃく</rt></ruby>を呼んで、「あれは<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>が作り、誰が指揮しているのじゃ」と仰せられた。キルマンセッグ男爵は進み<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でて、恐る恐る「ヘンデルにござります。陰ながら今日の御盛典を祝して、あの音楽を指揮しております」と申し上げた。

ジョージ一世が即座にヘンデルの罪を許し、謁見仰せつけて、アン女王以上に優遇したことは、歴史上の美談の一つとして伝えられている。この間の消息を、ジョージ一世の音楽愛好と器量の広大さに帰して「王は自分自らを罰することなくしては、ヘンデルを罰することは出来なかった」と伝える人もあった。

英国におけるヘンデルの地位は次第に変化してきた。かつては王家の<ruby><rb>庇護</rb><rt>ひご</rt></ruby>の下に一賓客的な安穏な日を送ってきたヘンデルの脈管に、一七二〇年三十五歳の働き盛りの血潮が燃えさかると、象牙の塔を出でて大衆と共に戦うことに、芸術家としての天分と生活の意義とを見出したのである。彼は<ruby><rb>赤手空拳</rb><rt>せきしゅくうけん</rt></ruby>で大衆の中へと飛び出した。彼の芸術は、万人に属するものでなければならぬと観じたのである。彼は作曲家であり、指揮者であると共に、演出家であり、そして資本家でもあった。この新しい境遇が、異邦人ヘンデルにとってどんなに恐るべきものであったかは誰にでも想像されよう。

彼は二度破産をし、三度殺されかけた。二度必死の病に倒れ、新聞記者と三文文士と、音楽批評家と貴婦人とを相手に二十余年間の戦いを<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>い続けなければならなかった。彼の真の天職にして、不滅の生命を盛られた芸術「<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>」に到達するまで、ヘンデルの戦いは文字通り死物狂いだったのである。

ヘンデルの最初の敵としてクローズアップされたのは、イタリー人ボノンチーニであった。彼はヘンデルよりも早熟で、ヘンデルよりも流行作家的で、ヘンデルよりも巧者だった。「<ruby><rb>熊</rb><rt>くま</rt></ruby>や<ruby><rb>雉</rb><rt>きじ</rt></ruby>やまたは名人上手達の勝負事を大好きなイギリス人」はこの必死のゲームに好奇心の全部を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けた。その挑戦に対して敢然として応じたヘンデルは見事に勝つことが出来たが、その次に控えたオペラのスターの悪闘には、さしものヘンデルも手を焼いてしまった。その選手はファウスティーナとクッツォーニと言った。二人の女優は二匹の猛獣のように争い続け、ウェールズ王女臨場の日の舞台の上で、血だらけな<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>み合いを始めてしまった。二匹の猛獣は疲らせるよりほかに引分けようがなかった。指揮者のヘンデルは、その争いを急速に終らせるために、盛んにティンパニを<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>かせた。

ある時は女優のクッツォーニはどうしてもヘンデルの書いたアリアを歌うことを拒んだ。ヘンデルはいきなりスターの<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>を<ruby><rb>引抱</rb><rt>ひっかか</rt></ruby>えると、窓から往来へ放り出そうとした。「あなたは女悪魔さ。そいつはよくわかっているが、この<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>が悪魔の王だってことを見せてあげようよ」そう言って、ヘンデルは皮肉な微笑を、<ruby><rb>強靭</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>な感じのする<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に浮べた。

続いてハッセとポルポラがヘンデルの敵に回った。<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>は後から後からと続いた。一番深刻にヘンデルを悩ましたのは、経済的な<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>で、続いてはその巨大な肉体を病床に投げ込んだ重病であった。しかしヘンデルはその間にも名作「アルキーナ」を作り、<ruby><rb>僅</rb><rt>きん</rt></ruby>々十日間で「アレキサンドルの祭」を書いた。

一七三七年春、五十二歳のヘンデルはとうとう中風にやられてしまった。右半身がきかなくなり、頭さえも<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>されたのであるが、災禍はそればかりではない。同時に彼の劇場は破産してしまったのである。失意のドン底に投げ込まれながら、温泉場に送られたヘンデルは、なんという<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>、秋の末には回復して、再び闘いの場へ登場したのである。

しかし災禍はそれっきりヘンデルを見捨てたわけではない。債権者は日々彼を追求して、<ruby><rb>牢獄</rb><rt>ろうごく</rt></ruby>の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>が巨人の背に迫ることも少なくはなかった。

## 「救世主」の感激

ヘンデルの創作力はまことに超人的であった。一つのオペラを二週間で書くことは珍しくなく、時には二つのオペラを同時に書くことさえあった。音楽の記譜法は彼のためには<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まだる</span>過ぎて、一種の速記法を必要とするほどであった。「彼は呼吸するように創作した」とさえ伝えられている。この驚くべき天才の<ruby><rb>奔騰</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>は、五十一曲の歌劇の創作となった。これこそ<ruby><rb>人間業</rb><rt>にんげんわざ</rt></ruby>以上の仕事である。が、五十三歳のヘンデルは、当時のイタリー風のオペラの馬鹿馬鹿しい堕落に対して、考えなければならない時に直面したのである。その頃のオペラの堕落ぶりは舞台に馬や鳥や、ライオンまでも出したというサーカス化の一面だけでもほぼ想像がつこう。

五十三歳のヘンデルが、老来<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>盛んな情熱を傾け尽して、<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>「サウル」を書いたのは、まさに天来の啓示による「新しい道の発見」であったと言ってよい。従来寺院のものであった聖譚曲――聖書の中の<ruby><rb>事蹟</rb><rt>じせき</rt></ruby>を音楽として、背景も<ruby><rb>扮装</rb><rt>ふんそう</rt></ruby>も用いずに、<ruby><rb>地味</rb><rt>じみ</rt></ruby>に<ruby><rb>抹香臭</rb><rt>まっこうくさ</rt></ruby>く歌われた「聖譚曲」を、社会とお宗旨関係者の反対を押し切って劇場に持ち来り、背景と扮装とを用い、イタリーオペラ仕込みの美しい旋律と、ドイツ音楽の手堅い手法を<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り入れ、<ruby><rb>壮大雄麗</rb><rt>そうだいゆうれい</rt></ruby>に作り上げたヘンデルの聖譚曲がどんなに衆目を驚かしたか言うまでもあるまい。ヘンデルの聖譚曲の価値が当時<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>に受け入れられなかったことは事実であるが、「時」がヘンデルに力を貸して、最後の勝利の栄冠はついに彼の頭上を飾ったのである。

五十五歳のヘンデルは、続いて器楽曲の傑作「<ruby><rb>大協奏曲</rb><rt>コンチェルト・グロッソ</rt></ruby>」十二曲を書いた。彼の人格と人間愛とを<ruby><rb>彫</rb><rt>きざ</rt></ruby>みつけた作品である。が、社会は決してヘンデルに寛大であったわけではない。反対派の<ruby><rb>跳梁</rb><rt>ちょうりょう</rt></ruby>は益々<ruby><rb>辛辣</rb><rt>しんらつ</rt></ruby>をきわめ、街の浮浪児を雇って、彼の演奏会のビラを<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がす者があり、彼の演奏会の日には他のイタリーオペラへ行くのが上流社会の一つの流行でさえあった。貴婦人達はヘンデルの演奏会の日にパーティを開いたり、お祭騒ぎをしたことさえある。ヘンデルは空っぽのホールを<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めて、「この方がおれの音楽がかえって立派に聴える」と負け惜しみを言わなければならなかった。

ヘンデルは幾度か破滅に<ruby><rb>瀕</rb><rt>ひん</rt></ruby>して、とうとうイギリスに<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>を尽かしてしまった。三十年来住み<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れたイギリスを去る決心をして、最後の演奏会を開いたのは一七四一年の春である。

アイルランドの総督が永久に去り行くヘンデルを惜しんで、ダブリンに招いてしばらくコンサートを指揮させた時のことである。

ヘンデルはついに、友人ジュネンの編集した聖書の言葉に付して、<ruby><rb>畢世</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の大傑作、聖譚曲「<ruby><rb>救世主</rb><rt>メシア</rt></ruby>」を作曲したのである。

「救世主」がいかなるものであるかはここに詳説する行数を持たないが、とにもかくにもこれこそは聖書の最良の注解であり、人類の持てる最高の宗教楽であることはなんの疑いもない。聴衆の心は感激の涙で洗われた。熱狂は嵐のようであった。

演奏がすんで廊下に出ると、一人の貴族がヘンデルの肩を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて言った。「非常に面白かった」と。ヘンデルは<ruby><rb>怫然</rb><rt>ふつぜん</rt></ruby>色をなして、「それは残念でした。私は皆さんを面白がらせるつもりでこの曲を書いたのではない。少しでも人の心を高めるために書いたのですが――」と言った、その<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>の広大さを知るべきである。

## 夜は昼に継ぐ

「救世主」の成功は圧倒的であった。書き下し当時の感激を、二百年の後まで生々しく伝える音楽は少ないが、ヘンデルの「救世主」の呼ぶ感激に至っては、年と共に級数的にその熱度を<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>むるばかりである。この<ruby><rb>雄篇</rb><rt>ゆうへん</rt></ruby>をヘンデルはわずかに二十四日間で仕上げた。そればかりではない。ヘンデルはこの曲の出版を禁じて、この演奏によって生み出される利益を全部慈善事業に寄付したのである。一七五〇年から十年間に、「救世主」が養老院のために働いた金額は実に六千五百九十五ポンドと言われている。一生独身で通したヘンデル、激情家で皮肉屋で大食で<ruby><rb>疳癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>持ちで、そのくせ、悲しいアリアを涙を流しながら書いたヘンデルは、破産の直後でさえも慈善事業に背を見せるようなことをしなかった。

ヘンデルの性格は、我らに最も訴える人間的な弱さと強さを持っている。彼が激怒すると管弦団の全楽員は震え上った。宮廷の女官達さえ<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>り飛ばして<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らなかった。が、その一面、<ruby><rb>諧謔</rb><rt>かいぎゃく</rt></ruby>に富んだ話術家で、戦闘的で情熱家で、ボーイが朝のコーヒーを持って行くと、徹夜のランプの下に、涙しながら作曲しているのを見ることさえあった。

「<ruby><rb>救世主</rb><rt>メシア</rt></ruby>」がロンドンで成功するまでには、なお数年の歳月を必要とした。彼が二度目の破産と敵の反撃のために、虚脱に陥って、八か月の静養をしたのは六十歳になってからのことである。チャールズ・エドワードの反乱で、国家的な事変がたまたまヘンデルを救って、二つの愛国的オラトリオを作らせ、人気の絶頂に押し上げられなかったならば、ヘンデルは本当にこの時死んでいたのかも知れない。

三十五年間にわたる長い長い苦闘の後、ヘンデルはついに勝った。その後の数作が光明と勝利に輝やくのも無理はない。「ソロモン」、「花火の音楽」などはその例である。

が、巨人ヘンデルにも最期の時が来た、一七五一年「エフタ」の作曲中その眼が次第に視力を失って、<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>くも完成したとき、彼は全く盲目になっていた。「夜の昼を継ぐ如く、悲しみ我が喜びに継ぐ」――こうヘンデルは楽譜に書いて筆を投じた。六十六歳の春である。

世界は真っ暗になった。ヘンデルの広大な創作力も終える時が来たのである。一七五九年<ruby><rb>遺言書</rb><rt>ゆいごんしょ</rt></ruby>に「貧しき音楽家救済のために一千ポンド」を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して、静かにして偉大なる死を待った。

彼の<ruby><rb>遺骸</rb><rt>いがい</rt></ruby>は彼の望みの如くウェストミンスターに葬られ、異邦人にして英国の栄誉のためにその名を刻まれたのである。

ベートーヴェンが言ったように、「ここに真理があった」のである。彼ほど男性的な、彼ほど情熱的な作曲家はかつてなかった。人間愛と信仰とがその作品を通じて、二百年後の今日まで世界の人類に呼びかける。

  


## ヘンデルの作品とそのレコード

ヘンデルのレコードは決して多くない。それは五十歳を越えるまで専念した歌劇は今日ほとんど演奏されず、晩年の精力を集中した聖譚曲は、一つ一つがきわめて長大で、幾通りものレコードに吹込まれることは、事情が許さないからであろう。

## 「救世主」

その中で、<ruby><rb>畢世</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の大傑作「<ruby><rb>救世主</rb><rt>メシア</rt></ruby>」の全曲に近いレコードを聴くことの出来るのは、なんという幸せであろう。このレコードについて私は繰り返して書いているが、管弦団と合唱団は英国のＢ・Ｂ・Ｃで、指揮はビーチャム<ruby><rb>卿</rb><rt>きょう</rt></ruby>、独唱者のうち、ソプラノのラベットと、バリトンのウィリアムスがわけてもすぐれている（コロムビア傑作集二一六、Ｊ八四五〇―六七）。

「救世主」のうちから、一部分の合唱やアリアを入れたレコードは少なくないが、部分的な出来から言っても、この全曲レコードに及ぶものは一つもない。これは実に出来の良いレコードである。例えばこの曲のクライマックスとも言うべき「ハレルヤ・コーラス」にしても、ブルノ・キッテル指揮のがわずかに追従し得るだけで、あとはほとんど問題にならない。「ハレルヤ」の後に続くソプラノのアリア「アイ・ノウ・ザット」の<ruby><rb>浄</rb><rt>きよ</rt></ruby>らかな美しさや、最後の一枚のＡ面、バリトンのソロで「ラッパは響き渡る――」の荘厳感など、曲も演奏も、申し分のない見事なものであると思う。十八枚三十六面は長大に過ぎて一般の収集に適しないが、折を得て聴く機会だけは作っておくべきであると思う。

## 器楽曲

ヘンデルの器楽曲で、第一番に<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げなければならないのは、ポリドールにボイド・ニール弦楽合奏団の入れている「合奏協奏曲＝作品六」（八五〇〇六―一八）である。合奏協奏曲というのは、「コンチェルト・グロッソ」の訳語で、このレコードはヘンデルの円熟期の傑作コンチェルト・グロッソ十二曲のうち六曲を吹込んだものであり、ボイド・ニールは世間的に<ruby><rb>華々</rb><rt>はなばな</rt></ruby>しい人気を持った団体ではないが、きわめて芸術的な楽団で、この演奏も、少しく暗いにしても、きわめて良心的なものであることに疑いはない。コンチェルト・グロッソは他にもいろいろレコードされているが、互いに一得一失あり、結局まとまったボイド・ニールが一番良い。

続いて私はランドフスカ夫人の入れた「クラヴサン組曲」を挙げたい（ビクターＪＤ九四五―五〇）。<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかにも楽しい曲である。古典の邪念のない美しさを愛する人には最もよき<ruby><rb>消閑</rb><rt>しょうかん</rt></ruby>のレコードだろう。

それから、ヘンデルがジョージ一世の<ruby><rb>勘気</rb><rt>かんき</rt></ruby>を許されたという、有名な組曲「水上の音楽」は、二十幾曲のうち十幾曲だけ入っている。レコードはコロムビアにハーティ卿が自身の編曲したものがあり（Ｊ八二四七―八）、ビクターにストコフスキーの指揮したのがあるが（ＪＩ六六―七）、これはハーティ卿の方が良く入っている。これとヘンデルの晩年のもので同じハーティ卿の指揮した「王宮の花火の音楽」（コロムビアＪ八五〇四―五）もあるが、「水上の音楽」の方が若々しい魅力があって遙かに面白い。

他の管弦楽で、メンゲルベルクの指揮した「アルキーナ組曲」（ビクターＪＥ一八七―八）は名盤の一つだ。吹込みは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ新しくないが、今でも噂に上るレコードである。

## 一、二枚物

一枚物、二枚物ではランドフスカのクラヴサンで「調子のよい<ruby><rb>鍛冶屋</rb><rt>かじや</rt></ruby>」（ビクターＪＥ一九〇）が面白い。同じ曲をコルトーがピアノで弾いたのもある（ビクターＪＤ一六七四）。ヴァイオリンでカール・フレッシュのひいた勇しくも楽しい「行進曲」などは、いつまでも名盤の声価を保つ傑作だろう（ビクターＥＷ六七）。

同じフレッシュのヴァイオリンで「ソナタ第五番イ長調」がポリドールの鑑賞会レコード第三集に入っている。吹込みはよくないが、重要なレコードの一つだ。一枚物ではないがシゲティーのひいた「ヴァイオリン・ソナタ第四番ニ長調」（コロムビアＪ五五六六―七）もやや苦渋な演奏ではあるが曲も美しく、芸術的な香気が高い。同じ曲をエネスコのひいたのもコロムビアにある。新しいところではメニューインのひいた「ソナタ第六番」（ビクターＶＤ八一〇一）などが<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げられよう。

オルガンではビクターの愛好家協会第四集にデュプレのひいた「協奏曲第二番変ロ長調」が入っている。これは名品と言ってよい。ヘンデルのオルガンはビクターにもポリドールにもあるが、吹込みが古かったり、演奏があまりよくなかったり、特に挙ぐるほどのレコードはない。

ピアノでは同じ愛好家協会の第一集に入ったフィッシャーの「組曲」を推すべきだろう。気品の高い曲で、端麗な演奏が人をひきつける。

## 歌

歌は「感謝の歌」をバリトンのヒュッシュ（ビクターＪＤ一五八三）とソプラノのラシャンスカ（愛好家協会第五集、「アリオーソ」の題目で）が入れている。後者はエルマンとフォイアーマンとゼルキンが助奏しているが、歌は前者ヒュッシュの方がうまい。「ラルゴー」はヘンデルの看板のような歌だが、ポリドールのシュルスヌス（六〇一八三）かビクターのジーリ（ＪＤ一七一）などがよかろう。

  


## 音楽の父バッハ

  


音楽の父なるヨハン・セバスティアン・バッハを語る時は、私も私の家の子供達も襟を正さずにはいない。私の<ruby><rb>居室</rb><rt>きょしつ</rt></ruby>には、かつて一枚の英傑の肖像画をも置いたことがないが、フランスの若い友人から送って来た、バッハの小さい肖像画だけは、長く私の書斎に飾って、<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>け込むような親しさと、その前に<ruby><rb>拝跪</rb><rt>はいき</rt></ruby>したいような敬意を感じたものである。

一片の肖像画ばかりではない。音楽に対する私の<ruby><rb>嗜好</rb><rt>しこう</rt></ruby>も、いつでもバッハに始まって、バッハに<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>っていく。私の座右に置くレコードは時にシューベルトになり、時にブラームスになり、時にヘンデルになるが、<ruby><rb>恒久不変</rb><rt>こうきゅうふへん</rt></ruby>の感激で、私の生活を<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>めてくれ、不断の<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>を投げかけてくれるのは、一応小むずかしき<ruby><rb>外貌</rb><rt>がいぼう</rt></ruby>を持つ、バッハの理知的な音楽だったのである。

「バッハは西洋音楽の<ruby><rb>祖師</rb><rt>そし</rt></ruby>である」と言ったならば、一応大袈裟に響くかも知れない。しかしこの言葉は決して私の発明ではなく、十九世紀の<ruby><rb>音詩人</rb><rt>おんしじん</rt></ruby>にして大評論家なる、ロバート・シューマンの言葉の意訳である。シューマンはこう言う、「宗教が祖師に負う所あるが<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>く、音楽はその大半をバッハに負う」と。だが、これでもまだバッハを<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>め尽したとは言い難い。パウル・モルゾックはさらに一歩を進めて、「バッハは音楽の旧約聖書である。彼の作品は、その後継者が<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たすところの約束である――」と言っている。

十九世紀の名指揮者ハンス・フォン・ビューローは、バッハの四十八の前奏曲と<ruby><rb>遁走曲</rb><rt>とんそうきょく</rt></ruby>に対して、「世界のあらゆる音楽が<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろ</rt></ruby>びてもこの四十八さえあれば、容易に今我らの持つところの音楽を再現することが出来る」と極言している。バッハを「音楽の父」と称する言葉が、決して単なる形容詞でないことを知るべきである。

バッハがなかったならば、ベートーヴェンもブラームスも生まれなかったであろうし、おそらく西洋音楽は、今日あるが如き形では存在しなかったであろう。バッハの偉大さはその「才能」の点だけでも、あらゆる天才達の上位に置かるべきものである。が、バッハの真の尊さは、単なる音楽的才能や、近代音楽の建設者としての功績ばかりではない。バッハは、音楽を通じて最もよく神に仕えた人であり、名利の外に、その大芸術を完成した人である。バッハの如くよき父は少なく、バッハの如くよき夫も少なかったであろう。人間バッハの良さ、高さ、尊さに、二百数十年を隔てて、私は心からの敬慕を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げずにはいられない。

## 良き血統

バッハを生んだ家系は「良き血統」として優生学上の有名な例であることは、その方面に興味と知識とを持つ人にはことごとく知られていることである。偉人天才は一代にしてなるに<ruby><rb>非</rb><rt>あら</rt></ruby>ず、幾代、幾十代の注意と修養とよき結婚の<ruby><rb>賜物</rb><rt>たまもの</rt></ruby>であることは、「バッハの家系」を見ただけでも解るだろう（バッハの家系表は、遺伝学、優生学、進化論等の著書には必ず掲げられている）。

遠祖ファイト・バッハはハンガリーに<ruby><rb>赴</rb><rt>い</rt></ruby>ってパン屋を開いているうち、十六世紀の中頃ルーテル派の信仰を<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>るために、家財を売り払ってハンガリーを立ち去らなければならなかったと伝えられている。ファイトから七代の孫にあたるヨハン・セバスティアン・バッハが、その生涯をルーテル派の信仰に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ね、清貧に甘んじて<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な生活を続けた<ruby><rb>由来</rb><rt>ゆらい</rt></ruby>はきわめて深いものがあると言わなければならない。

ヨハン・セバスティアン・バッハ（<em>Johann Sebastian Bach</em>）は、一六八五年三月二十一日、チューリンゲンのアイゼナッハに、音楽好きの父親の子として、想像し得る限りのよき中流家庭に生まれた。ルーテル派の敬虔な信仰と、アイゼナッハの美しい風光と、父親と兄との音楽的教養は、バッハ後年の偉大なる才能と、<ruby><rb>惇厚柔和</rb><rt>とんこうにゅうわ</rt></ruby>な風格を<ruby><rb>育</rb><rt>はぐ</rt></ruby>くんでいったのである。

十歳のとき父を失ったヨハン・セバスティアンは、オールドルフのオルガン奏者なる兄クリストフの<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に引き取られて、クラヴィーアの<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>を<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>けられた。少年バッハの限りなき音楽的向上心は、定まる課目では<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>より足るべくもない。十四歳年長の兄クリストフの書斎に<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい楽譜の収集があるのを知ると、厳格な兄の許しを受けることの困難さを知っている少年バッハは、夜な夜な兄の書斎に忍んで、その小さい手を利用して、格子の外から楽譜を引き出し、月の光をたよりに、六か月もかかって、兄の所蔵する作曲集をことごとく筆写してしまった。後年バッハが両眼の明を失ったのは、この少年時代の無分別な視力の<ruby><rb>濫費</rb><rt>らんぴ</rt></ruby>に原因するとさえ言われている。

兄のクリストフは、<ruby><rb>末弟</rb><rt>ばってい</rt></ruby>のこの出過ぎた向上心を許しはしなかった。<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい楽譜の筆写を発見すると、<ruby><rb>小弟</rb><rt>しょうてい</rt></ruby>の手からそれを取り上げて、六か月の苦心の結果を火に投じてしまったのである。しかしこのやかましい兄の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>における五年間のオールドルフの生活は、彼の作曲の才能の芽生えにはよき温床であった。

十五歳のとき、少年バッハは早くも職を求めてリュウネブルクの聖ミハエリス教会の合唱隊に入らなければならなかった。彼の美しいボーイ・ソプラノは、二年間の確固たる地位を約束したばかりでなく、教会付属学校の図書室には、ドイツ、オランダ、イタリーの傑作曲楽譜が夥しく用意され、彼の飽くなき知識欲に資したことは、なんという幸せであったことであろう。それよりも、少年バッハを夢中にさせたのは、オルガンという楽器に親しむ機会であった。バッハには二十五歳の年長ではあったが、有名なゲオルク・ベームは聖ヨハネ教会の<ruby><rb>風琴手</rb><rt>ふうきんしゅ</rt></ruby>で、バッハと年齢の隔りを超えて良き知己であり、ベームの師にしてオランダの名風琴手ヤン・アダム・ラインケンは、三十マイルを隔てて、ハンブルクにおり、少年バッハは事情の許す限り、長い退屈な旅をして、この人の演奏を聴きに出かけたのである。一度はこんなこともあった。十五歳になったばかりのバッハが、ラインケンのオルガンを聴きたいばかりに、なんの用意もなくリュウネブルクを飛び出したが、途中まで行った時は、激しい空腹のために、もはや一歩も動くことが出来なくなっていた。ラインケンのオルガンの魅力が、どんなに少年バッハを鼓舞したところで、一文なしでハンブルクへ行くことは、もはや諦めるより他はなかったのである。

バッハは疲労と失望とにさいなまれながら、泣きたいような心持ちである家の壁にもたれていた。どこからともなく肉の焼ける<ruby><rb>美味</rb><rt>おい</rt></ruby>しそうな<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いがして来る――フト顔をあげると、それは宿屋の外壁で、窓の中には山のような<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>と、温かい火と、楽しい歓談とがあった。

なにか窓から投げられたものがあった。バッハの頭をかすめて地上に落ちたのを見ると、うまそうに焼いた一匹の<ruby><rb>鰯</rb><rt>いわし</rt></ruby>で、その鰯の口には、<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>たる一個の金貨が<ruby><rb>哺</rb><rt>くわ</rt></ruby>えさせてあった。誰かが少年バッハの失望しぬいた姿を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわれ</span>と見て、こんな冗談をしたのであろう。バッハはその金貨でハンブルクへ行って、憧れのラインケンを聴いたことは言うまでもない。

## 猛精進

十八歳の秋、ザンゲルハウゼンの教会に<ruby><rb>風琴手</rb><rt>ふうきんしゅ</rt></ruby>の試験を抜群の成績で通過したが、あまりに年少だったために採用されなかった。翌年ワイマールで室内管弦団に加わり、その年の秋、久しい徒弟生活は終って、アルンシュタットの教会にオルガン奏者としての椅子につくことが出来た。若きバッハの<ruby><rb>猛精進</rb><rt>もうしょうじん</rt></ruby>は、その頃から拍車を加えられた。彼は練習に専念するあまり、教会関係者を困惑させたことはひと通りでない。彼の演奏はしばしば伝統を離れて、自由な飛躍を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げ、美しい即興曲を<ruby><rb>奏</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて長老達を驚かしたりした。一七〇七年にはとうとうここをも去ってミュウルハウゼンの聖ブラジウス教会の風琴手となり、翌年二十三歳のバッハは、<ruby><rb>従妹</rb><rt>いとこ</rt></ruby>に当るマリア・バルバラと結婚した。式に列したものは、彼とそして彼女だけであった。そして彼自身は、自分達の祝福のためにオルガンを奏いた。

この新家庭はきわめて幸福であったにしても、バッハをめぐる外界の空気には、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ面白からぬものがあった。清教徒とルーテル派との信仰の争闘が、バッハに安住を許さない情勢になったばかりでなく、彼の<ruby><rb>抱懐</rb><rt>ほうかい</rt></ruby>する教会音楽改良意見が、物議の的とならずにはいなかったのである。

バッハはついにワイマールに去った。続いてウィルヘルム・エルンスト公爵は、バッハの教会音楽改革計画を支持し、バッハはここに<ruby><rb>根城</rb><rt>ねじろ</rt></ruby>を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて、古今<ruby><rb>未曾有</rb><rt>みぞう</rt></ruby>の対位法形式の創造者としての彼の天分を伸ばすことが出来たのである。彼のうちにはかつて何人にも認めることが出来ない生命の光があった。彼の<ruby><rb>宝玉</rb><rt>ほうぎょく</rt></ruby>の如きオルガン傑作曲は、ウィルヘルム公の一風変った<ruby><rb>礼拝堂</rb><rt>らいはいどう</rt></ruby>の不調和なオルガンで初演された。彼の名声はやがてヘンデルと東西<ruby><rb>呼応</rb><rt>こおう</rt></ruby>し得るほど有名になった。バッハがドレスデンに旅行したとき、フランス人名風琴手マルシャンに競演を挑まれたのはこの頃のことである。バッハはもちろん敵に<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を見せなかったが、挑戦者なるマルシャンの方が、いざという<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>になって<ruby><rb>臆病風</rb><rt>おくびょうかぜ</rt></ruby>に誘われて姿を隠してしまった。

一七一七年、三十一歳のバッハの名声は、ドイツ全土に響き渡った。レオポルド大公はバッハを<ruby><rb>擢</rb><rt>ぬき</rt></ruby>んでて、宮廷礼拝堂管弦団の楽長に任じ、バッハは夫人と大勢の子供達をつれて、ケエテンに出発した。

ケエテンにおけるバッハは、その大きな生涯を通観すると、五年間の寄り道であったような観がないでもない。そこの教会には精魂を打ち込むオルガンのなかったことが、オルガン<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ちバッハの観のあった彼にとっては、重大な失望であったに違いない。その代り、彼の率いた小楽団は、練達なる器楽士のみの集団であり、仏伊の通俗楽に<ruby><rb>通暁</rb><rt>つうぎょう</rt></ruby>した彼にとっては、その<ruby><rb>豊饒</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>なる創作力を傾けて、美しき組曲、序曲、その他の器楽曲を生産せしむる唯一の機会でもあったのである。バッハの非教会的な、美しき器楽曲がケエテン時代の特産であったことが、バッハの作品を多彩ならしめ、今日我ら音楽愛好家に幸いしたことの少なくなかったことは特筆に値するだろう。

そこで彼は愛妻バルバラを失い、二度目の妻アンナ・マグダレーナ・ウィルケンと再婚した。そこで彼は一代の傑作器楽曲「ブランデンブルク協奏曲」六曲を書いた。が大公の愛が音楽から婦人に移るのを見、子供達に本当のルーテル教徒の教育を授ける機会のないことを知ったバッハは、一七二三年ケエテンを去ってライプチッヒに向い、聖トーマス学校の合唱長の椅子につくことになったのである。

三十八歳のバッハには、新しい天地が開けていった。バッハの生涯のうち、ライプチッヒにおける二十七年間は、最も意義の深い期間であり、最も光栄ある時代でもあったのである。その天才はいやが上にも円熟し、その信仰は火の如く燃えた。トーマス・シューレの合唱長として、二つの教会の楽長となったバッハは、ここに始めて、その真の姿を<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>なきまで発揮することが出来たのである。

## 神性の芸術

バッハの就任した聖トーマス学校は、十三世紀以来の伝統を有する<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>の深いもので、その学生は食物と教育とを支給されて、四つの市立教会の聖歌隊を勤めた。そのうちの二つ――聖トーマス及び聖ニコラス――に対してバッハは自分の手を下した音楽、カンタータ（交声曲）、オラトリオ（聖譚曲）、パッション（受難曲）などを演奏させなければならなかったのである。

学校には言うまでもなく、歴代の合唱長によって作曲され、増加された曲目が用意されてあったが、バッハは新しいスタイルの音楽を加えるために、非常に多くの曲目を自作しなければならなかったのである。一合唱長として、一<ruby><rb>風琴</rb><rt>ふうきん</rt></ruby>手として、ライプチッヒにある間のバッハは、数十年間、全く神を讃美するための音楽に没頭したと言っても決して過言ではない。

二つの教会で、日曜日と祭日に<ruby><rb>大礼拝</rb><rt>だいらいはい</rt></ruby>が挙行され、カンタータ一曲が聖歌隊と風琴と管弦楽とで演奏されたのである。時にはオルガンだけの伴奏で演奏されることもあったが、時には、長大な受難楽やオラトリオが演奏されることもあった。

バッハは、単に一合唱長として、毎月毎週、その要求を<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たすために作曲したのである。彼の作曲したカンタータは、三百曲の多きに上っている。その一曲の総譜数十ページから数百ページに及び、演奏数時間にさえ及ぶものがあった（クリスマス・オラトリオの如きは、五度の日曜にわたらなければ、全曲の演奏は出来なかった）。が、バッハはなんの求むるところもなく、半生を挙げてそれを続けたのである。

彼は名声を喜ぶようなあさはかな人間ではなかった。もとより金のためにはたった一小節も作曲したわけではない。ただ神を讃美するために、自分の職責を<ruby><rb>全</rb><rt>まっと</rt></ruby>うするために、珠玉にも比ぶべきカンタータを、毎週一曲ずつ作り捨てたのである。

作り捨てたという言葉は、この場合最も適切な響きを持つ。バッハのカンタータは出版するためでもなく、人に見せるためでもなく、金に代えるためでもなかった。彼は自分の楽譜を人に見せることを嫌い、そのために甚だ不利な立場におかれたとさえ伝えられている。バッハの作品で、生前印刷出版されたものはほとんどない。彼は天才のおもむくまま、神に<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>ぐる祈りのまま、幾百曲となく作り捨てたのである。

芸術は<ruby><rb>斯</rb><rt>かく</rt></ruby>の如き動機において作ることになって始めて尊い。彼の音楽が後世俗楽者流の企て及ばざる高貴なものを持っているのは、その天才に起因するばかりでなく、実はこの心ばえに原因するものと言うべきであろう。名利に超然とする人はあり得るが、その芸術的作品をさえ、神に捧ぐる以外に執着を持たなかった人は、少なくとも音楽の分野においては、ヨハン・セバスティアン・バッハ以外にあることを聴かない。

幸いにして、彼の二度目の夫人は音楽を解し、写譜をよくした、夫バッハの作り捨てて<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みなかったカンタータ三百曲のうち、百九十曲までは、十三人の子供を養育しながら写譜しておいたのである。バッハの偉大さを考える人は、その偉大なる業績を、二百年後の我らにまで伝えてくれた二度目の夫人、アンナ・マグダレーナの内助の功に感謝を捧げなければならない。

バッハの音楽に「神性」を見出すのは即ちそのためである。後世の芸術に携わるものが、神を対象としたバッハに比べて、その心構えにおいてなんという違いであろう。芸術が神性を失い、人間性を失い、今や獣性をさえ帯びんとしているのも当然のことである。我らの世紀は「悪魔」のために作った音楽のあまりに多きに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えざらんとしている。

その間にバッハは、今日の調律法の常識なる平均律を支持するために、あらゆる調子を通して、二十四曲の「前奏曲と遁走曲」をふた通り書いた。対位法と<ruby><rb>遁走法</rb><rt>とんそうほう</rt></ruby>のために「フーガの技法」を書いた。<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいオルガン曲のほかに、ヴァイオリンや、チェロのために数十曲の<ruby><rb>珠玉篇</rb><rt>しゅぎよくへん</rt></ruby>を作った。

一七五〇年七月二十八日、十三人の子供達に囲まれて、晩年盲目になったバッハは、安らかな永遠の眠りに入ったのである。

バッハを「西洋音楽の父」という言葉ほどふさわしい形容詞はない。彼の音楽は理知的で、対位法的で、近代音楽の形の上に確固たる<ruby><rb>礎石</rb><rt>そせき</rt></ruby>を与えたばかりでなく、音楽に内面的なものを与え、ドイツ魂の裏づけをした最初の人でもあったのである。バッハの音楽は、一応むずかしい<ruby><rb>外貌</rb><rt>がいぼう</rt></ruby>を持っているようではあるが、その底には<ruby><rb>掬</rb><rt>く</rt></ruby>めども尽きぬ人間愛が流れている。

すべての音楽愛好者は、一度は必ずバッハに<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>っていく。バッハは西洋音楽のメッカであると言っても、なんの不都合があろう。現に私は、その「ブランデンブルク協奏曲」と「平均律ピアノ曲」と「カンタータ」の数曲と「組曲」と「ソナタ」と「オルガン曲」のある物のレコードを、座右から離さずに、この数年を過してしまった。

バッハは最もよき<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>であり、最もよき師父である。悲しみにも、<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びにも、私は自分の心の反影をバッハの音楽に求める。二百年を隔てて、バッハの音楽は、我らの心に不断の光と歓びと、そして<ruby><rb>慎</rb><rt>つつし</rt></ruby>みとを与えずにはおかない。

  


## バッハの作品とそのレコード

バッハの音楽を、レコードによって聴こうとする人のために、その代表的な作品が、いかにレコードされているかを簡単に記述しようと思う。

バッハの作品は、決して通俗な音楽でないにかかわらず、そのレコードの数はベートーヴェン、モーツァルトに次ぐの<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しさである。それを一々詳述することは、不可能でもあり、かつ意味のないことでもあるので、ここでは厳選主義に従い、昭和十六年度の日本において、容易に聴くことの出来るレコードのうちから、最も優秀なものを掲げるに止めたい。それは実にバッハの全レコード数から言えば、十分の一に足らざる少数の珠玉盤である。

## カンタータ（交声曲）

バッハの二百に近いカンタータのうち、レコードされているのは果していくつあるだろう。第四番と第百四十番のカンタータは、全曲近いものがビクターに入っているが、それは残念なことに演奏があまり<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>でなく、その上カタロニア語で歌われていることや、吹込みの<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしく古いことが、甚だしい物足りなさを感じさせるだろう。

バッハのレコードは多いといっても、バッハの夥しい全作品から見ればさしたる数ではない。その全生涯の大部分を<ruby><rb>捧</rb><rt>さき</rt></ruby>げ尽して書いた、最も貴重なる作品「カンタータ」でさえその有様である。もっとも、一部分だけ<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いて吹込んだものは相当たくさん入っている。そのうちからきわめて興味の深いものだけを掲げるとしたら、コロムビアの、ティルの独唱した「わが心をとりたまえ」（第六五番）、「ああ不思議なる愛」（第八五番）（ＪＷ四五）、ラインハルト合唱団の「<ruby><rb>吾等</rb><rt>われら</rt></ruby>病める足を持ちて<ruby><rb>雄々</rb><rt>おお</rt></ruby>しくも急げり」（第七八番）（Ｊ八六四〇）、以上二枚は傑出したレコードと言えるだろう。いずれもカンタータの一節を採ったものであるが、バッハの作品の気高さと、<ruby><rb>浄</rb><rt>きよ</rt></ruby>らかな情熱を知ることが出来るだろう。前者も優れたものであるが、わけても後者の牧歌的なデュエット・アリアは少年聖歌隊の演奏で、限りなく美しい。他に「音楽史第二巻」の最後の一枚に「主よ人の希求する<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びよ」が入っている。バッハ・カンタータ<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>くらぶ</rt></ruby>の演奏で、一枚だけ手に入れることは困難であろうが、優れたレコードである。

ビクターには先に書いたカタロニア語のカンタータのほかに、シューマン‐ハインクの「わが心は歌い喜ぶ」（第六八番）（七三八八）、ラシャンスカの「甘き死よ来れ」（七〇八五）などがある。前者は古い吹込みであるが、シューマン\-ハインクの傑作レコードの一つで、親しみ深いレコードである。後者はカンタータではなくむしろ宗教的な小歌曲に属すべきだが、カサルスのチェロで弾いたレコードと共に、気高い哀愁が人の心を打つ。

## ブランデンブルク協奏曲

バッハの器楽曲中でも、最も重要なる「ブランデンブルク協奏曲」六曲は、幾通りも入っているが、メリハルの指揮した第四番（ポリドール四〇五四九―五〇）、コルトーが指揮してティボーの加わった第五番（ビクターＪＤ一二一―二）を除けば、コロムビアのブッシュ室内管弦団の演奏した全曲レコードを推したい（ＪＷ三四―三六、六二―六六、一一九―一二一、一四四―一四六）。それは一貫した気分で六曲通しているばかりでなく、ドイツ風の手堅い演奏でもあり、楽員も粒が<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>い、一脈の詩情を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えた、まことに嬉しい表現である。わけてこのうちの第六番は傑出したレコードである。

## 平均律ピアノ曲

バッハ<ruby><rb>畢世</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の大作の一つ、平均律を支持するためにクラヴィコードのために書いた「四十八の前奏曲と<ruby><rb>遁走曲</rb><rt>とんそうきょく</rt></ruby>」は、一部分コロムビアにオリジナルのクラヴィコードで、ドルメッチ教授のが入っている（Ｊ八一四一―七）。稚拙な趣のうちに、<ruby><rb>古朴</rb><rt>こぼく</rt></ruby>な風格を持ったもので、参考用にも、愛聴用にも重要なレコードであるが、この曲をピアノに編曲した通常聴くところの「平均律ピアノ曲」は、ビクターのレコードで、エドウィン・フィッシャーの演奏した「バッハ協会」レコード第一集から第五集までをもって代表レコードとしなければなるまい。フィッシャーは当代第一流のバッハ弾きで、その端正にして滋味に富んだ演奏風格は、まことに当代独歩の感があるだろう。バッハのレコード中最も重要なる大物として推さなければなるまい。

## チェロの組曲

この「バッハ協会」のレコードの第六集と第七集は、バッハの無伴奏チェロの組曲「第二番ニ短調、第三番ハ長調」<ruby><rb>並</rb><rt>ならび</rt></ruby>に「第一番ト長調、第六番ニ長調」を入れたもので、チェロは当代の巨匠カサルス、名曲の名演奏として、後世に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>さるべきレコードの一つである。この曲はバッハ当時としては<ruby><rb>画時代</rb><rt>かくじだい</rt></ruby>のものであり、チェロの機能をよく発揮したばかりでなく、<ruby><rb>組曲</rb><rt>スイト</rt></ruby>として――この簡素平明な形式の――最高峰に立つ芸術品であるが、それをカサルスが演奏することによって、真に珠玉的な完成感を与え、およそシェラックに刻まれたる音楽中にも、最高最美の域に達したものである。スペインの生んだ大チェリスト、パウ・カサルスのことと、カサルスが青年時代からこの組曲に興味を持ち、生涯を傾け尽した研究の後、六十幾歳にして始めて録音した心境に至っては、また別に説く折もあろう。

## 管弦楽組曲

管弦楽の組曲も四曲入っている。ビクターには、ブッシュの指揮したのが四曲<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>っている（ＪＤ一〇四六―五一並びにＪＤ一〇五二―六）。ブッシュの端麗さと、その室内楽的なまとまりのよさを特色とし、わけても第二番（ロ短調）のフリュートの組曲は、フリュートを名人モイーズが受け持った名盤であるが、この曲に限り、吹込みは古くとも、コロムビア盤のメンゲルベルク指揮（Ｊ七八九一―三）に捨て難い良さがある。メンゲルベルクが手慣れた管弦楽団アムステルダムのコンセルトヘボウを指揮している良さであろう。

この四つの組曲のうち、後に有名な「Ｇ線上のアリア」に編曲された、オリジナルのアリアを含む第三組曲（ニ長調）も美しいものであるが、なんと言っても第二のフリュートの組曲の輝かしさをもって第一とするだろう。バッハの「美しい曲」を代表する傑作である。

## ヴァイオリン協奏曲

四曲のヴァイオリン協奏曲のうち、第一番の「ヴァイオリン協奏曲イ短調」はコロムビアにフーベルマンのがあり（Ｊ八三四六―七）、第二番の「ヴァイオリン協奏曲ホ長調」はコロムビアにフーベルマン（ＪＷ一二九―三一）、ビクターにメニューイン（ＪＤ四一三―五）があり、「ヴァイオリン複協奏曲」にはビクターにメニューインとその師エネスコの演奏したのがある（ＪＤ二三―四）。

これらはいずれもよき演奏であり、もってバッハがイタリー古典と別に、ヴァイオリン音楽にドイツ的な基礎を定めた、雄大壮麗な趣を知るべきである。ほかに第二のホ長調の協奏曲にはＨ・Ｍ・Ｖの旧盤にティボーの名演奏があり、市価数百金と称せられ、複協奏曲にはビクターの旧盤にクライスラーとジンバリストの組合せによる名盤がある。

## ヴァイオリン・ソナタ

六曲の無伴奏ヴァイオリン・ソナタ（並びにパルティータ）は、チェロの組曲と共に、バッハの器楽曲の<ruby><rb>双璧</rb><rt>そうへき</rt></ruby>であるが、そのうちの<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたレコードは、「第一ソナタ＝ト短調」のメニューイン（ビクターＪＤ一二四七―八）を挙ぐべきであろうか。コロムビアのシゲティーもビクターのハイフェッツも名演奏ではあるが、私は少年メニューインの<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだバッハ魂の雄大端正さに<ruby><rb>左袒</rb><rt>さたん</rt></ruby>する。

「第二ソナタ＝イ短調」はコロムビアのシゲティーが当然良く、「第二パルティータ＝ニ短調」は同じくメニューイン（ビクターＪＤ七四〇―三）とハイフェッツ（同上ＪＤ一五九三―六）が対立する。ハイフェッツに技巧の驚くべき<ruby><rb>冴</rb><rt>さえ</rt></ruby>はあっても、メニューインの<ruby><rb>天賦</rb><rt>てんぷ</rt></ruby>の輝きには及び難いかも知れない。「第三ソナタ＝ハ長調」もメニューインのがある（ビクターＪＤ一五〇八―一〇）。私の好みはメニューインに傾き過ぎたきらいもあるが、バッハをひいては、この若い天才ヴァイオリニストに及ぶ人は<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少ない。

「チェンバロとヴァイオリンのソナタ」もいくつかレコードされている。そのうちで演奏も録音も甚だよくないが、コロムビアのデュボア（ヴァイオリン）とマース（ピアノ）の入れた第四、第五、第六の三曲が記憶されてよい。わけても「第五」のヘ短調のソナタは<ruby><rb>荘厳</rb><rt>そうごん</rt></ruby>な美しい曲である（これらはチェンバロの代りにピアノを用いていることは言うまでもない）。もう一つ、ブッシュ（ヴァイオリン）とゼルキン（ピアノ）の入れた「ソナタ＝ト長調」がある（ビクターＤＢ一四三四）。たった一枚物であることと、手堅い演奏で推賞されている。

## フーガの技法

<ruby><rb>遁走曲</rb><rt>とんそうきょく</rt></ruby>の名人であったバッハが、その最後の努力を傾けて書いた「対位法十四曲」と「カノン四曲」の大集成で、西洋音楽の経典として千古に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>さるべき<ruby><rb>珠玉篇</rb><rt>しゅぎょくへん</rt></ruby>である。この演奏は至難中の至難とされているが、<ruby><rb>無味乾燥</rb><rt>むみかんそう</rt></ruby>なるべき対位法の教科書であるにかかわらず、名手による演奏効果はまことに抜群の芸術境で、その<ruby><rb>端厳優麗</rb><rt>たんげんゆうれい</rt></ruby>なる趣は言葉に尽せない。

レコードは二種類入っている。一つは弦楽四重奏に編曲したものを、コロムビアにロート弦楽四重奏団が録音し（Ｓ一〇一三―二二）、一つは弦楽合奏用に編曲したものをディナー教授がコレギウム・ムジクム合奏団を指揮してビクターに入れている（ＪＤ一五二一―三〇）。前者は優麗で美しく、後者は学究的で<ruby><rb>蒼古</rb><rt>そうこ</rt></ruby>な趣がある。この種のレコードはいずれをいずれと優劣は定め難い。

## <ruby><rb>弥撤</rb><rt>ミサ</rt></ruby>と<ruby><rb>受難楽</rb><rt>パッション</rt></ruby>と<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>

バッハの全作品中にも、「<ruby><rb>弥撒</rb><rt>ミサ</rt></ruby>ロ短調」は厳然としてエヴェレストの観を呈する。おそらく古今の宗教音楽中、芸術的な点において、高遠荘重なる点において、ベートーヴェンの「荘厳弥撤」を除いては、バッハのロ短調の大弥撤と日を同じうして語るに足るものもあるまいと思う。この弥撤の特色はルーテル派の新教徒たりしバッハが、旧教の礼拝楽なる弥撤の形式を<ruby><rb>仮</rb><rt>か</rt></ruby>りて作った点で、この曲にはバッハの<ruby><rb>溌剌</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>たる信仰と、情熱とが盛られていると言ってよい。

レコードはやや吹込みの古きを我慢すれば、ビクターにアルバート・コーツがフィルハーモニック合唱団とロンドン交響管弦団を指揮した名盤がある。独唱者達も<ruby><rb>粒</rb><rt>つぶ</rt></ruby>選りで、エリザベト・シューマン等、いずれも真剣な良い演奏である（ＪＨ五五―七二）。

受難楽の全曲はビクターに聖バルトロマイ教会聖歌隊の「<ruby><rb>馬太</rb><rt>マタイ</rt></ruby>伝による受難楽」が入っているが、演奏はあまりよくない。Ｈ・Ｍ・Ｖには幾枚かの「馬太受難楽」があり、ポリドールにはブルノ・キッテルの指揮した「馬太受難楽」の「吾等涙もてうずくまりぬ」と「されば捕われぬ吾主エスは」等が二枚に入っているが、吹込みの古さを我慢すれば良いレコードである（六〇一〇四、六〇一〇五）。

「クリスマス<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>」のうちからは「神に栄光あれ」と「感謝に満ちて」が、ゲオルク・シューマンの指揮で、ベルリン・ジング・アカデミー合唱団のがビクターに入っている（ＪＨ六三）。

## ピアノ協奏曲

「ピアノ協奏曲＝ニ短調」はオリジナルの曲ではないが、フィッシャーの演奏したビクター・レコードは美しい（ＪＤ四二一―三）。わけても最後の楽章のアレグロは息づまるような壮麗さだ。「協奏曲イ長調」もフィッシャーのがあり（ＲＬ三五―六）、閑寂な感じを持った美しい曲である。「二台のピアノのための協奏曲＝ハ長調」はシュナーベル父子のがビクターにあり（ＪＤ一二八九―九一）、楽しき限りのレコードである。他に「四台のピアノのための協奏曲＝イ短調」もあるがさしたるレコードではない。

## クラヴサンの名曲

「フランス組曲」は六曲のうち最後のホ長調のものがランドフスカのクラヴサンでビクター愛好家協会レコードに<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>られている。「イギリス組曲」も六曲のうち第二番のイ短調のが、ランドフスカの演奏でバッハ協会の第五集に含まれているが、これなどは名盤にかぞえられるものだろう。

「イタリー協奏曲へ長調」はランドフスカのクラヴサン（ビクターＪＤ一二四二―三）と、シュナーベルのピアノのがある（ビクターＶＤ八一一五―六）が、シュナーベルほどの名ピアニストを<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしても、これはランドフスカのクラヴサンの<ruby><rb>古朴</rb><rt>こぼく</rt></ruby>な面白さに及ばない。

「ゴールドベルク変奏曲」はバッハの作品中でも大物だが、この貴人の眠りを誘うために作られたという伝説を有する曲も、ランドフスカのクラヴサンの名演奏で聴くとこよなくも楽しい（ビクターＪＤ二七一―六）。

「半音階的幻想曲と遁走曲ニ短調」もランドフスカのクラヴサンのと、ドルメッチのクラヴィコードのと、フィッシャーのピアノのと三通りあり、それぞれに美しくもあり興味もあるが、この曲の魅力的な美しきを味わうためには、ランドフスカのクラヴサンをもって第一とするだろう（ビクターＪＤ八〇一―二）。

ランドフスカのクラヴサン曲で、バッハのものをたった一枚味わうために、私は「幻想曲ハ短調」をすすめたい（ビクターＤＡ一一二九）。十インチ一枚両面だが、バッハの天才と神性と、その想像力と美しさは<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>なく発揮される。

## オルガン曲

バッハはその生涯の大半を教会のオルガンひきとして暮し、その職業に満足して、神への讃美と芸術への精進に余念もなかった。したがってその作品にオルガン曲は<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく、神来の名曲も<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少なくないが、ここには<ruby><rb>煩</rb><rt>はん</rt></ruby>を避けて、そのレコードされた曲のうち最も代表的なものを掲げるに止めておく。

何より私はバッハ研究者にして、アフリカ内地の伝導にその生涯を捧げた、アルベルト・シュヴァイツァー博士の「バッハ・オルガン曲集」二巻（コロムビア、第一集ＪＷ一―七、第二集コラール前奏曲集Ｓ一〇六〇―六）に限りなき尊敬と愛着を感じていることを断っておかなければならぬ。シュヴァイツァー博士のことについては、筆者の旧著にも詳述し、津川主一氏にはバッハ伝の訳もあり、ここには重複を避けるが、この音楽家にして宗教家、人道の戦士を兼ねたシュヴァイツァー博士が、バッハの<ruby><rb>真面目</rb><rt>しんめんぼく</rt></ruby>を伝うる熱情に燃えて、二百年前の機構のオルガンを捜し出し、バッハの真精神に還って演奏した第一集の「トッカータとフーガ、三曲の前奏曲とフーガ、一曲の幻想曲とフーガ、並びに小フーガ＝ト短調」と第二集の「十三曲のコラール」は、<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>、<ruby><rb>蒼古</rb><rt>そうこ</rt></ruby>、純正、端麗さにおいて、まさに二百年前のバッハの世界を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばしむるものがある。<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかなヴァーチュオーゾの演奏ではないが、かかる演奏こそは真にバッハを尊敬し、バッハを愛するものの聴かんことを望むものであろう。

シュヴァイツァー博士を除けば、ビクターのデュプレに<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたレコードがある。オルガン曲を他の楽器に編曲したものはここでは採らない。

  


## <ruby><rb>父</rb><rt>パパ</rt></ruby>ハイドン

  


「<ruby><rb>父</rb><rt>パパ</rt></ruby>ハイドン」という言葉がある。この言葉の持つ柔らかな感触と、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れるような親しみは、ヨーゼフ・ハイドンの人柄なり、その音楽なりに、なんの誇張も食い違いもなくピタリとするのだろう。

ハイドンの音楽のよさは、その温かい情愛と、純粋な形式から来るもので、そこにはロマン派の音楽を特色づける、無意味な誇張や、感情の爆発がなく、近代楽における個性の過大な強調や、灰色の<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しさもない。あるものはただ、<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>した形式と、美しい旋律と、そして誰にでも呼びかけ、どんな時でも、我らの心持を<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>めずにはおかない、やさしき愛情であったのである。

私個人のことを言わしてもらえるならば、仕事に疲れたとき、物事が意に満たぬとき、悲しみ溢るるとき、ハイドンの音楽ほど我々を慰めてくれるものはない。私はハイドンの室内楽（わけても弦楽四重奏曲）のレコードの一、二を、必ず座右に備えておき、父ハイドンの慈愛に溢れた音楽を、私の実生活に受け入れる<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>に成功しているつもりである。これはレコード音楽の恩恵であると共に、ハイドンの音楽の本当の<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさである。ハイドンの音楽には、<ruby><rb>眩耀的</rb><rt>げんようてき</rt></ruby>なものがなく、爆発的なものもないが、その和やかさと健康さが、結局我々には最もよき心の友となり得るのであろう。

## 若かりし日の<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>

ヨーゼフ・ハイドン（<em>Franz Josef Haydn</em>）は一七三二年三月三十一日から四月一日へかけての夜、ハンブルクから四里ほど離れたローラウの町で生まれた。祖父の代から車造りで、父のマシアスも母のマリアも、勤勉で清潔好きで、熱心な信仰の持主で、後のハイドンのよき性格と習慣とを作ったばかりでなく、宗教音楽史上の一大巨峰とも言うべき、<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>「創造」を作ったハイドンの信仰は、この<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な両親の<ruby><rb>賜物</rb><rt>たまもの</rt></ruby>であったと言われている。

少年ハイドンの楽才はモーツァルトのように<ruby><rb>奇蹟的</rb><rt>きせきてき</rt></ruby>ではなかったが、かなり早くから<ruby><rb>芽生</rb><rt>めば</rt></ruby>え、六歳のとき早くも遠縁の音楽家フランクの家庭に託されて、基礎的な教育を受け、「食物よりは<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>の方を余計<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>った」にしても、後年の偉大なるハイドンを築き上げる<ruby><rb>素地</rb><rt>そち</rt></ruby>を作ったのである。

ウィーンの教会のボーイ・ソプラノに編入されたのは八歳のときで、しばらくは作曲家ロイターの監督の下に音楽の修業を積んだ。マリア・テレジアの別荘に合唱団の一員として伺候し、精一杯の茶目振りを発揮して、マリア・テレジアに「あのブロンドの<ruby><rb>大頭</rb><rt>おおあたま</rt></ruby>」と指摘され、鞭のお仕置を受けたことなどもあった。それから春風秋雨四十何年、エステルハツィ城で老女王マリア・テレジアに謁見したとき、楽聖ハイドンはこのことを申し上げて、共に大笑いをしたということである。一七四九年、声変りがして教会の合唱隊から追い出され、十八歳の少年が着のみ着のままで街に<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>しなければならなかった。飢えと寒さにさいなまれながら、町のベンチで一夜を明かしたり、友人に見出されて、その貧しい家庭に居候をしたこともあった。両親はそれを聴いて心を傷めたが、貧しい車大工の手ではどうすることも出来ず、「牧師になって困惑を切り抜けるように」と勧めるほかはなかった。だがハイドンは、腹一杯食いたさの<ruby><rb>奴隷的</rb><rt>どれいてき</rt></ruby>な欲求にかられながらも、さすがにそのために牧師になる気にはなれなかった。

ハイドンは流浪のある日、教会の合唱団長に採用を拒絶されてしまったので、人知れずその合唱団の中に<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>り、いざ独唱というとき、独唱者の手から楽譜を奪い取って、朗々と歌い出したことがある。腹はひどく減っていたが、正確で声もよかったし、表情たっぷりでもあった。指揮者も合唱者達も非常に驚いたが、その巧みな独唱に圧倒されて心からの<ruby><rb>賞讃</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>を送り、お陰様でハイドンは、ひさしぶりの<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>にありついて、たらふく詰めこむことができた。

その<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby><ruby><rb>組紐業</rb><rt>くみひもぎょう</rt></ruby>のブルフホルツという人が、ハイドンの窮乏を<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>んで百五十フロリン貸してくれたが、後年ハイドンはその恩に<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いるために、遺言状で指定してブルフホルツの孫娘に遺産をわけてやった。

## 幸福な生涯

ハイドンは音楽家としては、珍しく幸福な人であった。友人に愛され、才能に恵まれ、生活も豊かに、長命をした上に、一つの職業を失えば、必ず次の職業が用意され、その名声は階段的に、次第次第に積み重ねられていったのである。その性格と<ruby><rb>耳疾</rb><rt>じしつ</rt></ruby>の故に一生悩み続けたベートーヴェンや、その天才の故に不幸だったモーツァルトやシューベルトに比べて、なんという大きな違いであろう。

そのハイドンにも、生涯にたった二つの不幸はあった。その一つは夫人が有名な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じゃじゃ</span>馬であったことと、青年時代に<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めた、たった一度の失職苦である。しかし、その苦労も決して長くは続かなかった。作曲家ボルボラの助手として作曲にいそしみ、二十六歳の頃は、モルツィン伯の<ruby><rb>礼拝堂</rb><rt>らいはいどう</rt></ruby>の音楽長として、最初の交響曲を作曲していた。

二十八歳の時、ハイドンはマリア・アンナ・アロイジア・アッポロニアと結婚した。それはハイドンにとっては、一生の不作を背負い込む不幸であった。最初ハイドンはマリアの妹娘を恋したが、妹娘はハイドンの愛に<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いずに僧院に入ってしまったので、小説的ないきがかりで、愛してもいない、三歳年上の姉のマリアと結婚したのである。

夫人のマリアは<ruby><rb>頑迷</rb><rt>がんめい</rt></ruby>で虚栄心が強くて、芸術などには全く理解がなく、夫のハイドンをして「彼女にとって、夫が靴屋であろうと芸術家であろうと同じことだ」と<ruby><rb>嘆声</rb><rt>たんせい</rt></ruby>を<ruby><rb>漏</rb><rt>もら</rt></ruby>さしめたが、人のいいハイドンは、四十年間この不愉快な婦人の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にじっと<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>して変らなかった。

翌年ハイドンはアイゼンシュタットのエステルハツィ<ruby><rb>侯</rb><rt>こう</rt></ruby>に招かれて、礼拝堂の第二音楽長になり、その半生を託した地位におかれた。翌一七六二年侯が死んで、弟ニコラウスが継いだが、このニコラウスは<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>で、<ruby><rb>寛達</rb><rt>かんたつ</rt></ruby>で、音楽好きで、心からハイドンを抱擁し、次第にその地位を引き上げて、間もなく第一音楽長として、三十年間の生活の根をそこに<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えさせてしまった人である。

ハンガリーにおける三十年間の生活は、ハイドンをしてウィーンの中央楽壇に遠ざからしめたが、その代り生活は安定し、作品は印刷され、その名声はきわめて徐々にではあったが、次第に全欧に広まっていった。この<ruby><rb>隠遁的</rb><rt>いんとんてき</rt></ruby>な安住の地位に対する、ハイドンの悩みは、時々イタリーに飛んで行きたい熱望となったにしても、ニコラウス侯の優遇はそれを拒んで、ついウカウカと三十年の歳月は過ぎてしまったのである。

エステルハツィの宮殿は、善尽し美尽したものであり、その楽員達はこの上もなく優遇されたが、ただ宮廷の規則がやかましかったために、楽員達は容易にお暇が貰えず、訪ねて来る家族も一昼夜以上は留め置くことが出来なかった。ハイドンはこの楽員の<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しさと悩みを訴えるために、有名な「<ruby><rb>告別交響曲</rb><rt>アブシート・シンフォニー</rt></ruby>」を作ったと言われている。曲は第四楽章の<ruby><rb>終曲</rb><rt>フィナーレ</rt></ruby>に入ると、自分のパートのなくなった楽員は、一人ずつ、一人ずつ、譜面台の前の<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を消してステージから去り、最後に第一ヴァイオリンが二人と指揮者だけが残って、<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れ深い曲を終るのである。ステージの淋しさは気も<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>るばかりであった。<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>なエステルハツィ侯はハイドンの<ruby><rb>諷諌</rb><rt>ふうかん</rt></ruby>の意を悟って、楽員に暇をやったことは言うまでもない。

ハイドンの<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>っ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>は、マリア・テレジアにお<ruby><rb>仕置</rb><rt>しおき</rt></ruby>されて以来、死ぬまで続いた。<ruby><rb>諧謔好</rb><rt>かいぎゃくず</rt></ruby>きで、陽気で、邪念のないハイドンは、子供好きで有名でもあった。街を歩くと、大勢の子供達はハイドンの後からついて来て離れなかった。ある日ハイドンは、町の<ruby><rb>玩具屋</rb><rt>おもちゃや</rt></ruby>へ行ってあらゆる<ruby><rb>鳴物</rb><rt>なりもの</rt></ruby>の玩具を求め、それを自分の楽員達に配って、新作の交響曲を演奏させた。楽員達が<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>したのも無理のないことであった。<ruby><rb>真物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>の楽器はヴァイオリンと一<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>のコントラ・バスだけ、あとはデンデン<ruby><rb>太鼓</rb><rt>だいこ</rt></ruby>に、<ruby><rb>鳩笛</rb><rt>はとぶえ</rt></ruby>に、ガラガラといった<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>ばかり、しかもその効果は想像以上にすばらしく、童心に通う前人未発の見事な芸術であったのである。今日に残るハイドンの「<ruby><rb>玩具交響曲</rb><rt>トイ・シンフォニー</rt></ruby>」がそれである。

## 光は彼方より

一七九〇年ニコラウス侯が死んで、ハイドンは二千フロリンの年金を約束されてエステルハツィ城から解雇された。一七六一年から実に三十年、ハイドンは五十九歳で始めて自由になったのである。

その前から英国行を勧めていたサロモンの代表者は、ある朝ハイドンが<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>の切れないのにじれ込んで、「良い剃刀を持って来てくれる人があったら、私の一等良い四重奏曲をやるが――」と言うのを聞いて、宿へ引き返して自分の剃刀を持って来てやり、ハイドンの四重奏曲の出版権を得たという話がある。俗に、「剃刀四重奏曲」というのがそれである。

こんな関係から、ハイドンはサロモンの勧誘を入れてロンドン行を決心し、一七九〇年の暮、ウィーンを出発して翌年正月ロンドンに<ruby><rb>初見参</rb><rt>はつけんざん</rt></ruby>をした。ロンドンの歓迎は全く想像以上であった。ハイドンはオクスフォード大学から贈られた博士号のお礼に、「オクスフォード交響曲」を作って指揮したりした。

翌年ハイドンは栄誉と名声とを<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>ってウィーンの新居に帰ったが、イギリスでつけた<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>がウィーンにまで重大な影響を及ぼし、ウィーンの人達はこの時あわてて、「我らの大作曲家のロンドンで作曲した交響曲を聴こう」とひしめいた。

一七九四年、六十三歳のハイドンは再びロンドンを訪ねた。エステルハツィの地方的存在にしかすぎなかったハイドンは、今は世界的の名声と人気を背負って、<ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>として舞台に立ったのである。そこで六つの交響曲が作曲され、「軍隊交響曲」その他が指揮された。

ハイドンがサロモンの望みによって作曲した「サロモン・セット」一連の交響曲には、非常な傑作があり、老来<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby><ruby><rb>旺</rb><rt>さか</rt></ruby>んなハイドンの、全才能の大燃焼とも言うべき感がある。わけてもサロモン・セット三番目の「ト長調の交響曲」は一に「<ruby><rb>驚愕交響曲</rb><rt>サープライズ・シンフォニー</rt></ruby>」とも呼ばれ、ハイドンの無邪気な逸話を伝えている。

当時の演奏会のプログラムは、今日のそれに幾倍する恐ろしいもので、<ruby><rb>貴顕淑女達</rb><rt>きけんしゅくじょたち</rt></ruby>が、曲の半ばについうつらうつらと<ruby><rb>居睡</rb><rt>いねむ</rt></ruby>りすることが普通であった。ハイドンは、この交響曲の第二楽章の眠りを誘うアンダンテの途中で、いきなりドカンと全管弦のフォルテで聴衆の眠りを驚かして喜んだのであると伝えられる。今日の常識から見れば、決して驚くほどの変化ではないが、たまたまもって十八世紀末のイギリスの宮廷の<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な空気が<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれて面白い。

二度目のロンドン行のとき、サロモンから得た二つの<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>の歌詞と、ヘンデルの「<ruby><rb>救世主</rb><rt>メシア</rt></ruby>」を聴いたときの感激は、ハイドンをして一代の名篇「創造」を作らせる原因になった。ヘンデルの「<ruby><rb>救世主</rb><rt>メシア</rt></ruby>」に対してハイドンは涙を流して、「ヘンデルは最大の音楽家だ」と言ったと伝えられている。正直で善良なハイドンの魂が、ヘンデルに鼓舞されて、最後の大飛躍を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げたことは想像に難くない。

ロンドンから帰ると、サロモンから受け取ったミルトンの「<ruby><rb>失楽園</rb><rt>パラダイス・ロスト</rt></ruby>」から編集した歌詞に手を加えて独訳させ、<ruby><rb>畢生</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の情熱を傾注してその作曲にとりかかった。「この曲を作っている時ほど、自分は敬神的であったことはない」と言った、ハイドンの言葉はもっともなことである。この<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>の<ruby><rb>敬虔雄麗</rb><rt>けいけんゆうれい</rt></ruby>な美しさは、古今、ヘンデルの「<ruby><rb>救世主</rb><rt>メシア</rt></ruby>」と比較されるだけで、幾多の人の心の<ruby><rb>糧</rb><rt>かて</rt></ruby>となったかわからないのである。続いて「四季」と「七つの言葉」が作曲され、音楽家としてのハイドンの労作は終った。

長い<ruby><rb>隠棲</rb><rt>いんせい</rt></ruby>の後一八〇八年、七十七歳のハイドンは、自作「創造」の演奏に臨んだ。老大作曲家の最後の思い出だったのである。<ruby><rb>肱掛椅子</rb><rt>ひじかけいす</rt></ruby>のまま会場に運ばれたハイドンは、演奏の進行と共に、次第に<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>が加わり、「そこに光ぞ現れける」の一節に至ると、感激のあまり立ち上って天の一角を指し、「<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>より」と絶叫して人事不省に陥った。

その後病床に親しんだハイドンは、翌一八〇九年五月、フランス軍がウィーンに侵入してハイドンの家近く<ruby><rb>砲丸</rb><rt>たま</rt></ruby>が落ちて来たとき、起き上って<ruby><rb>着物</rb><rt>きもの</rt></ruby>を<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>えさせ、驚き騒ぐ家人達に、「恐れることはない。ここにハイドンがいる限り、何事も起る<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>いはない」と言いながら、ピアノの前へ行って、自作のオーストリア国歌を三度繰り返して弾いた。ハイドンの作ったオーストリアの国歌は世界の数ある国歌のうちでも、芸術的な美しい国歌として有名である。

ハイドンの自信の通り、侵入して来たフランスの軍隊は、ハイドンの家へはどうもしないばかりでなく、フランスの士官達はわざわざ老ハイドンを訪ねて敬意を表した。

その年（一八〇九年）五月三十一日、ハイドンの魂はついに天に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>り、質素な――が立派な葬列には、敵国フランスの<ruby><rb>儀仗兵</rb><rt>ぎじょうへい</rt></ruby>まで付けられた。

## その明朗牲

ハイドンはバッハが「<ruby><rb>馬太伝</rb><rt>マタイでん</rt></ruby>受難楽」を作った年に生まれ、ベートーヴェンが「田園交響曲」を完成した年に死んだ。まさにこの二つの曲が暗示するように、バッハの対位法的な古典とベートーヴェンの情熱的なロマン派の音楽を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぐ人だったのである。

ハイドンは旋律家であると共に、ソナタ形式の完成者で、同時にケルビーニの後を受けて、弦楽四重奏曲の基礎的な形を整え、バッハの子供達の仕事を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けて、近代音楽の最高形式なる、<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>の四楽章形式を定めた最初の人である。

ハイドンなくしては、モーツァルトもベートーヴェンも、今日あるが如き形では存在しなかったであろう。ハイドンは、古典音楽の最後の巨人であるが、同時に、近代音楽のスタートを開いた人でもあり、その功績は<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい作品と共に百代の後までも伝えられるであろう。彼の作曲は、均整美と明朗性が特色で、主観に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れるようなことはかつてなく、安らかさと明るさが全曲を支配している。おそらくハイドンの人間としての良さが、その作品の上に反映するのであろう。

代表作は<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>「創造」「四季」、それに百に余るシンフォニーのうちから「<ruby><rb>驚愕</rb><rt>サープライズ</rt></ruby>」「軍隊」「<ruby><rb>告別</rb><rt>アブシート</rt></ruby>」「オクスフォード」などが挙げられるだろう。

弦楽四重奏曲は、ハイドン独特の境地で、七十七曲のうちから「セレナーデ」（作品三ノ五）「皇帝」「<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>」その他十数曲を挙げられるだろう。座右に置いて、生活の慰安に鼓舞に、ハイドンの音楽ほど<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>なものはない。誰にでも、なんの<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>もなくすすめられるのがハイドンの音楽であるとも言えるだろう。

  


## ハイドンの作品とそのレコード

ハイドンのレコードは、バッハの三分の一、ヘンデルの三倍くらいの数であろう。ハイドンの音楽はその穏雅平明さの<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>に、閑居に慰安に、<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>に<ruby><rb>団欒</rb><rt>だんらん</rt></ruby>に、最もよき伴奏を勤めてくれるに違いない。万人に愛せられることが、パパ・ハイドンの音楽の良さであると言うべきである。

## シンフォニーの内から

ハイドンの<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいシンフォニーの中から、最も有名な「<ruby><rb>驚愕</rb><rt>サープライズ</rt></ruby>シンフォニー」を選ぶとしてクーセヴィツキーと、ブレッヒと、ホレンシュタインといずれを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るべきか<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だむずかしい。新しい吹込みは演奏が気に入らず、演奏のやや良きものは吹込みがあまりに古い。

むしろトスカニーニの指揮した「時計シンフォニー」（ビクターＪＤ一四九五―八）、ワルターの指揮した「軍隊シンフォニー」（コロムビアＪＳ三八―四〇）並びに「オクスフォード・シンフォニー」（コロムビアＪＳ一一七―九）などを採るべきであろうか。これらの一つ一つは名盤にかぞえられるもので、ハイドンの良さを満喫させるであろう。

その他に私は、パパ・ハイドンの<ruby><rb>真面目</rb><rt>しんめんぼく</rt></ruby>を発揮するものとして「<ruby><rb>玩具</rb><rt>トイ</rt></ruby>シンフォニー」を挙げておきたい。たった一枚両面のレコードだが、街へ行って<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>の鳴物を買い集め、驚き<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れる楽員に演奏させたという、ハイドンの茶目気分が<ruby><rb>横溢</rb><rt>おういつ</rt></ruby>して楽しいことである。コロムビアに入っている、ワインガルトナー指揮のレコードが最も長い（Ｊ七九八二）。

## 室内楽

弦楽四重奏曲の形式を整え、幾十曲の名作を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して、後世のために室内楽の宝庫を打ち建てたハイドンの功績は大きい。Ｈ・Ｍ・Ｖのプロ・アルテ四重奏団はハイドン・ソサエティの名の下に、ハイドンの弦楽四重奏曲をかたっぱしからレコードし、六枚ずつ七集まで発売され、日本ビクターは第三巻から第七巻まで出しているが、プロ・アルテの冷たい演奏に、多少の反対者はあるにしても、この業績は尊敬しなければならぬ。ことにハイドンの如き古典の<ruby><rb>精粋</rb><rt>せいすい</rt></ruby>とも言うべき弦楽四重奏曲を、あまりにも甘美にセンチメンタルに演奏することは避けるべきで、私はむしろプロ・アルテの<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>なさに賛意を持つ場合の方が多いのである。

独立したハイドンの室内楽レコードでは、第一番にコロムビアのカペエ四重奏団の演奏した「四重奏曲（<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>）第六七番ニ長調」（カペエ協会Ｓ五〇〇一―三）を推さざるを得ない。この第一楽章に示された高雅な雲雀の歌の美しさは、春の<ruby><rb>野辺</rb><rt>のべ</rt></ruby>の<ruby><rb>麗</rb><rt>うらら</rt></ruby>かさを<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>させるもので、今は亡きカペエの傑作レコードの一つである。

続いてレナー四重奏団の「弦楽四重奏曲（皇帝）ハ長調」（コロムビアＪ八四七一―四）などを挙ぐべきであろうか。それはしかし、ハイドン・ソサエティ第四巻のプロ・アルテといずれをいずれとも言い難い。

有名な「弦楽四重奏曲（セレナーデ）へ長調、作品三ノ五」は愛好家協会の第一集にプロ・アルテの一枚物があるが、二枚物では吹込みは古いがコロムビアのレナーも悪くないだろう（Ｊ七六六一―二）、他にロート四重奏団の「弦楽四重奏曲（鳥）ハ長調」もハイドンの特質を活かした良いレコードである（コロムビアＪ八六八〇―二）。

世界最高の芸術的な団体というと、カサルス（チェロ）、ティボー（ヴァイオリン）、コルトー（ピアノ）の組合せに成るカサルス・トリオを挙げなければなるまい。そのおのおのの芸術家が第一流人中の一流人であるばかりでなく、カサルスを盟主とする、この三巨匠の有機的な結合は、比類のない芸術的表現を持っているからである。カサルス・トリオのレコードはかなりたくさんあるが、吹込みの古きをハンディキャップとしても、ハイドンの「三重奏曲ト長調」（ビクターＪＦ七八―九、並びに家庭名盤集第三集の内）などは、ベートーヴェンの「大公トリオ」と共にレコード界の珠玉的な傑作で、その盤上玉を転ずる名演奏は、長く記憶され尊敬さるべきものであると思う。

## チェロ協奏曲

「チェロ協奏曲ニ長調」もハイドンの代表的な佳作の一つだ。二、三種入っているが、コロムビアのフォイアーマンのがいい（Ｊ八五一一―四）。ランドフスカ夫人の「クラヴサン協奏曲ニ長調」も逸することの出来ないものだろう（ビクターＪＤ一三一六―八）。

## 天地創造

不思議と言ってもよいことは、ハイドン一代の傑作、聖譚曲「天地創造」と「四季」のレコードの少ないことである。ビクターに前者が一枚（ＪＢ五四）、後者が一枚（Ｃ二三八三）、コロムビアにも「創造」が一面あったが、これではいかにも心細い。この後しばらくは全曲入る見込もあるまいから、せめて<ruby><rb>先頃</rb><rt>さきごろ</rt></ruby><ruby><rb>新響</rb><rt>しんきょう</rt></ruby>の演奏した「四季」でも入れておいてもらいたかったと思う。

  


## 真の天才モーツァルト

  


「モーツァルトは音楽によって世界を征服した」と、ロマン・ローランは言っている。この言葉は一応<ruby><rb>奇矯</rb><rt>ききょう</rt></ruby>に聞こえるが、静かに考えると、非常に<ruby><rb>含蓄</rb><rt>がんちく</rt></ruby>の深い、適切無比な形容詞であることに気がつくだろう。

考えようによっては、ベートーヴェンも、音楽によって世界を征服したと言えるかも知れない。しかし、ベートーヴェンの征服は、力ずくであり、侵略的であり、帝国主義的である。ベートーヴェンの音楽は美しく強大ではあるが、世界の<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>には、いつの世にも、少なからざる「ベートーヴェン嫌い」のあることを無視するわけにはいかない。

そこへいくと、モーツァルトの音楽は、大地を潤す春雨の如く、なんの障害も抵抗もなく、世界の人の心に、しみじみと受け入れられ、モーツァルトにその意志が毛頭なかったにしても、一世紀半にわたって、音楽的に世界を征服していったのである。

この世の中の芸術的作品は数限りもなく、その種類も<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいことであるが、少なくとも人間の手で作られたものの内で音楽の分野においては、モーツァルトの作品ほど美しいものは断じてあり得ない。音楽はきわめて官能的な芸術で、鑑賞者の<ruby><rb>好悪</rb><rt>こうお</rt></ruby>に支配されることの大きいものであるが、それにもかかわらず、私はかつてモーツァルトの音楽を嫌いだと公言し得る人間のあることを知らないほどである。

モーツァルトの美しさは、なんに例えたものであろう。それは真に<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>たる美しさであり、邪念のない愛情と光明とに満ち<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れた美しさである。小児にも、素人にも、直ちに<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みかけるのが、モーツァルトの音楽であるが、同時に、最も<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>な新人達――わけても音楽の専門家達が、最後に行き着く理想的な「美の<ruby><rb>沃土</rb><rt>よくど</rt></ruby>」もまた、モーツァルトの音楽でなければならなかったのである。

モーツァルトの音楽はきわめてヨーロッパ的であり、同時に、古典音楽の最後の人らしい、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby><ruby><rb>無比</rb><rt>むひ</rt></ruby>なものである。モーツァルトの音楽は美の<ruby><rb>大氾濫</rb><rt>だいはんらん</rt></ruby>であったと同時に、冷たい<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>のような不思議な<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>を持ったものである。モーツァルトは決して健康な肉体の所有者ではなかったが、その音楽は「健康そのもの」であったとも言われている。

美しくて健康で、その上「<ruby><rb>人懐</rb><rt>ひとなつ</rt></ruby>かしさ」に燃えているモーツァルトの音楽が、直ちにもって、家庭の音楽であることは言うまでもない。この古典音楽の最後の巨人の作品と、音楽的傾向を語るために、私はしばらくモーツァルトの数奇なる伝記を振り返って見ようと思う。

## 超天才少年

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト（<em>Wolfgang Amadeus Mozart</em>）は一七五六年一月二十七日、オーストリアのザルツブルクに生まれた。父のレオポルトは音楽家で野心的で、その娘ナンネル（マリア・アンナ）と、ナンネルの弟ヴォルフガングを、天才少女少年に仕立てる術を心得ていたのである。

父親の教育はきわめて巧妙であったらしく、サーカスの獣を馴らす<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>の方法にさえ例えられているが、幸いにしてモーツァルト姉弟は、全欧のジャーナリズムにやんやと持て<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>される天才児になったばかりでなく、弟のヴォルフガングは、その驚くべき天才の芽生えを少しも傷つけることなく、生涯音楽に対する情熱を持ち続ける<ruby><rb>素地</rb><rt>したじ</rt></ruby>を作ることが出来たのである。

モーツァルトの天才は、早熟な大音楽家達の間にも、全くズバ抜けたものであった。後世音楽の部門において、天才と言えば、必ずモーツァルトを例に引き出すのも決して無理のないことである。例えば、五歳の年上なる姉のナンネルの<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>を見て、ピアノを鳴らすことに興味を持ったのは、彼がわずかに三歳の時であったと言われている。

四歳の時には、一度聴いた曲を、何の間違いもなく弾いたうえ、姉の五線紙の上に、自作の「メヌエット」を書いて人を驚かせ、六歳の時は「コンチェルト」を書き、七歳で最初の「ソナタ」を発表し、父の友人のヴァイオリンを弾き<ruby><rb>試</rb><rt>こころ</rt></ruby>みて、「おじさんのヴァイオリンは、僕のより八分の一音だけ低くなっていますよ」と注意し、大人達が試みに比べてみて、まさにその通りであったという超神童的な逸話が伝えられている。

十一歳で<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>を書き、十二歳で<ruby><rb>歌劇</rb><rt>オペラ</rt></ruby>を作曲し、十四歳で<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>を作った早熟のモーツァルトは、数学には熱中することが出来たが、少年らしい遊戯に対しては、少しも興味を持たなかった。モーツァルトの少年時代を知っている音楽家アンドレ・シャハトナアは、その頃のモーツァルトについて、「彼は全身これ火であった。そして万事に興味を抱いた。もし教育が悪かったならば、手におえない悪漢となったであろう」と言っている。

幸いにして、危険な<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>り性の性格の一面に善良で慈悲深い性格を持ち、絶えず人から愛されることを要求するモーツァルトでもあった。彼は、自分を愛してくれる者には、誰にでも容易になついた。そして一度友人になった者を生涯見棄てないという美しい徳を持っていた。幼年の頃のモーツァルトが、自分を愛しているかどうかを、一日に十<ruby><rb>遍</rb><rt>ぺん</rt></ruby>も人に尋ね、愛していると聴いてニコニコし、冗談にもしろ愛していないと言われると、涙を浮べて悲しんだという小さい逸話がたまたまモーツァルトの一生涯を支配した「正直さ」と「愛に対する餓え」であったと言うべきである。

十一歳の姉ナンネルと、六歳の弟ヴォルフガングは一時ヨーロッパの好話題になった。演奏旅行は九回にわたり、<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の人気はいやが上にも高まるばかりであったが、この旅行のためにモーツァルトの健康は一生涯<ruby><rb>害</rb><rt>そこ</rt></ruby>なわれたことも事実である。

小さい姉弟――ナンネルとヴォルフガングの二人は、あらゆる難曲を征服したが、わけても弟のヴォルフガングは、ヴァイオリンの協奏曲も、ピアノによる交響曲も自在に奏し、果てはハンケチで<ruby><rb>鍵盤</rb><rt>けんばん</rt></ruby>を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>ったまま、その上から少しの間違いもなく難曲を征服し、さらに各種の楽器を演奏したうえ、奇術的にさえ見えることまでも試みたのであった。その頃のモーツァルトのおもかげについて、大詩人ゲーテは後年、「私よりも七つ歳下のモーツァルトを見た。当時私は十四歳であったが、モーツァルトの小さい<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>と、髪の具合と剣とを今でも記憶している――」と語っている。

少年モーツァルトの無邪気ぶりは<ruby><rb>微笑</rb><rt>はほえ</rt></ruby>ましい。ある時はシェーンブルン宮殿の床に<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>って、小さい公女に助け起され、「あなた親切ね。お嫁に<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>おう――」と言ったり、オーストリアの皇后の<ruby><rb>御膝</rb><rt>おひざ</rt></ruby>の上に登って、大きな音をさせてキスしたりした。

十三歳の時ローマのシスティン教会で、合唱隊が門外不出の秘曲「ミゼレーレ」を歌うのを聴いた時、モーツァルトは宿へ帰って来てそっくりそのまま暗記で書き、二度目には、ほんの少しばかり訂正しただけで、完全に秘曲を写譜してしまった。法王はそれを聴いておおいに驚いたが、モーツァルトを罰する代りに、迎えて<ruby><rb>勲爵士</rb><rt>くんしゃくし</rt></ruby>に列したと言われている。

モーツァルトの天才ぶりの鮮やさは後にも先にも類がない。三十五年の短い生涯の間に、二十一曲の<ruby><rb>歌劇</rb><rt>オペラ</rt></ruby>、四十一曲の<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>、五十八の教会音楽、七十余の管弦楽曲、四十に余る室内楽、九十八のピアノ曲、四十二のヴァイオリン・ソナタ、二十二のピアノ・ソナタ等々実に一千にのぼる曲を書いている。

不断の楽想は泉の如く<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>咳唾</rb><rt>がいだ</rt></ruby>ことごとく<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>の感であった。古今、真の天才というものを求めたならば、音楽界においては、モーツァルトとシューベルトと、それからショパンを推さなければなるまい。バッハやベートーヴェンやワグナーは、単なる天才ではなく、むしろ英雄的な存在で、築き上げられた巨人型であると言うべきである。

## 不幸な自尊心

この<ruby><rb>不世出</rb><rt>ふせいしゅつ</rt></ruby>の天才を持ちながら、モーツァルトの生涯はあまりにも不遇であった。十七歳のとき旅から帰って、イタリーからフランスへと真剣な音楽の勉強を続け、故郷ザルツブルクの大僧正に仕えたが、大僧正の没後、この後継者の無理解に腹を据え兼ね、自暴自棄の<ruby><rb>振舞</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>があって職を奪われ、それから三十五歳でこの世を去るまで、モーツァルトには、職業らしい職業さえ与えるものがなかったのである。

<ruby><rb>抜目</rb><rt>ぬけめ</rt></ruby>なくモーツァルトを働かせた父親に対して、モーツァルトは誠に「よき子」であったが、ザルツブルクを去った時と、二十七歳で結婚した時だけは、父親母親、姉達の猛烈な反対を受けなければならなかった。夫人コンスタンツェはモーツァルトの初恋アロイジア・ウェーバーの妹で、ウィーンの踊り子であったが単にモーツァルトの愛情の浪費の対象であったにすぎず、あまりに無知で、夫モーツァルトに対して、理解も尊敬も払ってはいなかった。

モーツァルトの死後、天下<ruby><rb>翕然</rb><rt>きゅうぜん</rt></ruby>としてモーツァルトを惜しみ、旧居を<ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>う<ruby><rb>憧憬者</rb><rt>しょうけいしゃ</rt></ruby>の多いのに驚いて、始めて自分が十年<ruby><rb>同棲</rb><rt>どうせい</rt></ruby>した夫が、不世出の大天才であったことを「わずかに悟った」にすぎなかったと言われている。

コンスタンツエは経済観念というものを持たなかった。モーツァルトもその点においてはコンスタンツェに劣るものではない。二人は石炭のない冬の夜を、踊りあかして辛くも寒さを<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らせることさえあった。モーツァルトはしばしば窮乏のドン底に追いやられ、音楽時計のためにアダジオを書き、数フロリンの金のためにソナタを書いた。そして、「俺は金が欲しいから作曲する。食わなきゃならないからな」と<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>なことを言ったりした。

その疾苦のうちに<ruby><rb>沈湎</rb><rt>ちんめん</rt></ruby>しながらも、モーツァルトは、妻のコンスタンツェと友人達を愛し続けた。「最も真実な友は貧しい人達だ。富める人達はほとんど友情を知らない」――これはモーツァルトの逆境にも貧苦にもめげない愛の言葉の一つであった。

ベートーヴェンは「金のために書かない」と豪語し、モーツァルトは「金が欲しいから書く」と言った。その言葉は全く正反対で、ベートーヴェンの<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎ</rt></ruby>よさに比べて、モーツァルトの心事を疑うものがあるかも知れない。が、それは大変な間違いである。後世の批評者達はベートーヴェンにはやや虚勢と見得があり、モーツァルトには、偽悪的な自暴な調子があることを<ruby><rb>洞察</rb><rt>どうさつ</rt></ruby>しなければならない。モーツァルトの邪念のない<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>たる音楽を聴いて、誰がいったいモーツァルトが金のために書いたと思う者があるだろう。あの<ruby><rb>聖</rb><rt>きよ</rt></ruby>らかな美しい音楽は、決して金のためなどを考える卑しい動機から生れ出る性質のものではない。

貧苦と不遇のうちに、モーツァルトの芸術を救ったものは、実に彼の強大なる自尊心であった。少年時代のモーツァルトが、「愛されること」を望んだのも自尊心の現れであり、青年時代にザルツブルクの卑しい地位に我慢の出来なかったのもまた自尊心の発露である。彼の心は小児の如く純粋で、いささかの妥協も、卑怯な譲歩も考えることが出来なかった。

「某公爵は、僕のような人間は百年に一度世に出るだけだと言った」――とモーツァルト自身が言っている。これは一応自慢らしく聞こえるが、実は甚だ<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>した言葉であると言っても差しつかえはない。百五十年後の今日から見ればモーツァルトのような天才は、百年に一人どころか、千年に一人も生まれそうにないのである。

「君達は生れ変っても僕のようになれっこはないよ。それに比べると、君達の貰える限りの勲章を僕のものにするのは<ruby><rb>易々</rb><rt>いい</rt></ruby>たることだ」――モーツァルトは<ruby><rb>驕慢</rb><rt>きょうまん</rt></ruby>な現世的な人達にこう言ったこともある。「<ruby><rb>従僕</rb><rt>じゅうぼく</rt></ruby>にしろ伯爵にしろ僕を侮辱したが最後、<ruby><rb>賎民</rb><rt>せんみん</rt></ruby>だ」これもモーツァルトの自尊心の爆発した言葉であった。

さる公爵に招かれた時、<ruby><rb>饗宴</rb><rt>きょうえん</rt></ruby>の席から<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>け者にされたモーツァルトが<ruby><rb>雇人達</rb><rt>やといにんたち</rt></ruby>と一緒に食事をさせられて、「雇人扱いにされた」という屈辱感と激怒のため酔っ払いのように<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>として帰り、翌る日もまだ平静な心持になれなかったとさえ伝えられている。

ベートーヴェンも強大な自尊心の持主であった。この自尊心はしばしば芸術家に共通する性格で、その高貴なる作品を生み出すために、きわめて重要な資格であったのかも知れない。モーツァルトの音楽が、いかなる大衆にもそのまま受け入れられるにもかかわらず、その高貴なる冷美さを失わないのは、低俗な趣味に<ruby><rb>阿</rb><rt>おもね</rt></ruby>りきれない、絶大な自尊心があったためではなかったであろうか。

## 偉大なる記念碑

モーツァルトはこうしてその珠玉の作品を書いた。その日常は陽気であったし、いつでも笑いたい衝動に駆られている様子であったが、死期の近づくにつれて、作品は次第に暗さを加え、何がなし、宿命的な恐怖が背に迫るものがあった。後期の室内楽、ト短調の<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>などはその例である。

モーツァルトの健康は著しく衰えていったが、劇場主は<ruby><rb>耽溺</rb><rt>たんでき</rt></ruby>生活へ<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>り込んで、明るく愉快な作品を書かせることに専念し、妻のコンスタンツェはまた、子供と一緒に転地して夫のモーツァルトに限りなき浪費の財源を要求してやまなかった。

ある夏の日、灰色の服装をした背の高い厳粛な男がモーツァルトを訪ね、一曲の<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>（死者の霊を<ruby><rb>弔</rb><rt>とむら</rt></ruby>う曲）を依頼して、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい謝礼を約束した。それは地獄の使いのように無気味な男で、注文主の名さえ言わなかったが、金の欲しさに他を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みる<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>のないモーツァルトは、その注文を引き受けて一世一代の<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>の作曲にとりかかった。

健康が次第に悪くなると共に、モーツァルトは、地獄の使いと約束して、「自分のために葬式の音楽を作っているのだ」という強迫観念に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>えられるようになった。それにもかかわらず、<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>に熱中したモーツァルトは、わずかにその第二曲までと、以下四分の三のノートを完成したのみで、一七九一年十二月五日の暁、<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>してなすことを知らぬコンスタンツェを後に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して死んでしまった。

死後、<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>はフランベルク伯爵が自分の名で夫人の死を<ruby><rb>悼</rb><rt>いた</rt></ruby>む鎮魂曲を発表するため、<ruby><rb>家扶</rb><rt>かふ</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つかわ</rt></ruby>してモーツァルトに代作を依頼したのだと解ったが、それはしかし後の祭であった。

翌日モーツァルトの<ruby><rb>遺骸</rb><rt>いがい</rt></ruby>は共同墓地に葬られたが、荒れ狂う風雨に恐れて、<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>を送ったわずかばかりの友人達も、町の城門から帰ってしまい、二人の人足が彼らの哀れな仕事を風雨の中に続けた。

モーツァルトの墓には、花も墓石も、十字架さえもなく、貧民よりもひどい取扱いでしばらくはどこにモーツァルトが葬られたかさえ判らなかったと言われている。が、モーツァルトの一千に上る作品は、天にそそり立つ大記念碑として、すべての人の前に<ruby><rb>巍然</rb><rt>ぎぜん</rt></ruby>として立っているではないか。百五十年を隔てた今日、モーツァルトの<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>いの貧しさを<ruby><rb>嘆</rb><rt>なげ</rt></ruby>く人がどこにあろう。モーツァルトほど愛せられ、親しまれる音楽家は、たった一人もこの世界には生まれなかったのである。

## 光輝と愉悦の音楽

モーツァルトの音楽は、古典音楽の絶頂におかれたもので、その形式美の<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たる点においては<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>も及ぶところではない。<ruby><rb>清澄</rb><rt>せいちょう</rt></ruby>で、明朗で、光輝と愛情に恵まれ、<ruby><rb>豊醇優麗</rb><rt>ほうじゅんゆうれい</rt></ruby>を極めるのがモーツァルトの音楽の特色であると言ってもよい。

晩年の作品に一脈の暗さを加え、意志的なもの、または燃焼的なものを感じさせるのは、ベートーヴェンの出現に対して、予言的な役目を勤めるものと言っても差しつかえはない。

傑作は最後の三つの<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>（三十九番変ホ長調、四十番ト短調、四十一番「ジュピター」）、歌劇「魔笛」「フィガロの結婚」並びに<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい室内楽で、わけても最後の三つの<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>は、<ruby><rb>僅々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>六週間で作曲したという、超人的な逸話をさえ残している。

モーツァルトの全貌を知らんとするには、それらの傑作を<ruby><rb>玩味</rb><rt>がんみ</rt></ruby>すべきものであるが、単に一般家庭人が、モーツァルトの美しさ、愛らしさ、<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>たる天才の<ruby><rb>片鱗</rb><rt>へんりん</rt></ruby>を知らんとするためには、子守唄の一曲、トルコ行進曲の一曲、ないし<ruby><rb>小夜曲</rb><rt>セレナーデ</rt></ruby>の一曲を味わうだけでも充分だろう。それはまことに、人生を楽しくする音楽である。光輝と愉悦に満ちた音楽である。三十五歳で不遇のうちに死んだモーツァルトの遺産が、なんと後世の生活を<ruby><rb>豊饒</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>にし、張り合いのあるものにしたことであろうか。

  


## モーツァルトの作品とそのレコード

モーツァルトの<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>たる音楽は、人類への大きな恩恵の一つである。モーツァルトはいかなる場所、いかなる時にも、われわれの光明であり<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>であるだろう。飛行隊の軍人達が、激しい練習や実戦に疲れ、ヘトヘトになって基地に帰ったとき、一番先に蓄音機に飛びついて聴くのは、モーツァルトの音楽であるという記事を読んだことがある。さもありそうなことであると思う。

日々の労苦を<ruby><rb>犒</rb><rt>ねぎら</rt></ruby>う音楽として、モーツァルトの作品以上のものはあり得ない。それはサロンやステージのものであるよりも、炉辺に休憩室にある方がふさわしく、そしてより多く人類に役立つことであろう。光輝と魅力と、美しきと愛らしさを<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らすモーツァルトの音楽こそは、我らの生活に最も深き縁故を持つものと言うべきである。

## シンフォニー

モーツァルトのシンフォニーのレコードは、まず最後の三大傑作「ジュピター」と「ト短調」と「変ホ長調」の三つを用意しなければなるまい。わけてもその壮麗なるが<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>にジュピターと名づけられた「交響曲第四一番ハ長調Ｋ五五一」を、ワルターの指揮する、ウィーン・フィルハーモニー管弦団のレコードで聴くことの出来るのはまことに嬉しいことである（コロムビアＪＳ一九―二二）。これこそ本当にジュピター的威容と、美しきを兼ね備えたものと言えるだろう。

「交響曲第四十番ト短調Ｋ五五〇」は一脈の哀愁を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて、しばしば「ジュピター」より好ましいとする人のある曲であるが、レコードではビクターのトスカニーニがＮ・Ｂ・Ｃ交響管弦団を指揮したのが<ruby><rb>白眉</rb><rt>はくび</rt></ruby>であろう（ＪＤ一七二〇―二）。ワルターがベルリン国立管弦団を指揮したものもあるがやや古く、「交響曲第三九番変ホ長調Ｋ五四三」にはワルターがＢ・Ｂ・Ｃ管弦団を指揮したコロムビア・レコードのほかに良いのがない（Ｊ八三三一―三）。

以上の三つのシンフォニーを<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えただけでも、モーツァルトの晩年の円熟した境地を知るに充分だが、さらに望む人のために、トスカニーニの指揮した「交響曲（ハフナー）ニ長調Ｋ三八五」（ビクターＶＤ八〇二八―三〇）とワルターの指揮した「交響曲（プラーグ）ニ長調Ｋ五〇四」（コロムビアＪＷ八―一〇）を掲げておこう。わけても後者は、ウィーン・フィルハーモニー管弦団を指揮したもので、ワルターのレコード中でも傑作に属し、豊かな情緒と洗練された美しさを持ち、<ruby><rb>優婉瑰麗</rb><rt>ゆうえんかいれい</rt></ruby>を極めたものである。

## ヴァイオリン協奏曲

モーツァルトには「ヴァイオリン協奏曲」だけでも幾組のレコードがあるかわからない。第三番の「ヴァイオリン協奏曲ト長調Ｋ二一六」はメニューインとフーベルマンのがあるが前者のビクター盤はモーツァルトの甘美さに乏しく、後者のコロムビア盤は透明な端正さを欠くかも知れない。第四番の「ヴァイオリン協奏曲ニ長調Ｋ二一八」はシゲティーとクライスラーがふた通りある。前者のコロムビア盤は暗くて、モーツァルトらしい爽快さに乏しく、後者の新しいビクター盤は老境の枯淡味が救い難いまでに行き過ぎている。クライスラーには電気以前の吹込みでこの曲の名盤があったが、今は手に入れる見込もない。第五番の「ヴァイオリン協奏曲（トルコ風）イ長調Ｋ二一九」はヴォルフシュタールとハイフェッツとダーメンとある。ヴォルフシュタールは（コロムビア三九一〇―三）非常に古い吹込みだが、この若くて死んだヴァイオリニストの形見として、情緒的な演奏を私は愛している。ハイフェッツは（ビクターＪＤ三七八―八一）吹込みも新しく<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>も見事だ。その技巧は冷たいまでに冴えて、人間離れのするほど美しい。

第六番の「ヴァイオリン協奏曲変ホ長調Ｋ二六八」はティボーとデュボアのがある。ティボーのモーツァルトは一種の風格と情愛を持ったもので、これも名盤であったが、吹込みが非常に古い（ビクターＶＤ八〇四八―五〇）。第七番の「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」はビクターにメニューインのがある。

ほかにモーツァルト十歳の時の作品という「ヴァイオリン協奏曲（アデライデ）ニ長調」をメニューインのひいたのもある。重要性はなくとも充分に可愛らしい曲ではある。

## ピアノ協奏曲

「ピアノ協奏曲」は<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいレコードがあるが、そのうちからきわめて傑出した二、三を挙げるに止めたい。「ピアノ協奏曲第九番変ホ長調Ｋ二七一」は甘美な若々しい曲で、ギーゼキングのは胸の<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>く演奏である。軽い心持で聴くにふさわしい（コロムビアＪ八七〇五―八）。「ピアノ協奏曲第二〇番ニ短調Ｋ四六六」はフィッシャーのがある（ビクターＪＤ三一五―八）。プロフェッサーらしい<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>な演奏だが、端正でいかにも美しい。亡くなった小ニキシュの同じ曲もあるが、形見という以上に重要性はない。この曲を指揮者ブルーノ・ワルターがモーツァルト時代の習慣に従って、ピアノを弾きながら管弦楽を指揮したレコードは、<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えない感じだが落ちついた高雅な演奏で、名品のうちにかぞえられるだろう（コロムビアＪＳ四三―六）。

「ピアノ協奏曲（戴冠式）第二六番ニ長調Ｋ五三七」は、クラヴサンのランドフスカ夫人が、女流ピアニストとしても第一流であることが証拠立てられる。女性らしい思いやりのある、<ruby><rb>巧緻</rb><rt>こうち</rt></ruby>な演奏である（ビクターＪＤ一〇七六―九）。最後に「ピアノ協奏曲第二七番変ロ長調Ｋ五九五」はシュナーベルが弾いている。曲もモーツァルトの晩年を特色づける深味がある。演奏は一風変ったもので、シュナーベルのモーツァルトを聴く興味である。

## フリュート協奏曲

モーツァルトの美しい「フリュート協奏曲」が三つレコードされている。「フリュート協奏曲第一番ト長調Ｋ三一三」も美しいが、同じく名人モイーズが吹いているので、録音は古いが「フリュート協奏曲第二番ニ長調Ｋ三一四」の方が<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに面白い。管弦楽の指揮はコッポラで、この玉を転ずるような<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たる美しさは全く法外である（ビクターＪＢ二〇七―八）。同じ曲を第二、第三楽章だけたった一枚に入れたアマディオのフリュートも、またすばらしい（ビクターＪＨ二〇六）。モイーズのフリュートはフランス風の堅い透明な音で、これに対してアマディオは、イタリー風の柔らかい甘い音なのも面白い比較である。

それからもう一つ「協奏曲（フリュートとハープのための）ハ長調Ｋ二九九」という十二インチ三枚の名品がある（ビクターＪＢ一―三）。フリュートはモイーズ、ハープはラスキーヌ、二人の名人の息が揃っているうえ、この曲の<ruby><rb>耀灼的</rb><rt>ようしゃくてき</rt></ruby>な美しさは、この世のものとも覚えない。天才モーツァルトの<ruby><rb>真面目</rb><rt>しんめんぼく</rt></ruby>はここにあると言いたいようである。

## ヴァイオリン・ピアノ・ソナタ

ゴールドベルク（ヴァイオリン）、クラウス（ピアノ）の組合せはかつて日本でも聴かれたが、この二人のモーツァルトは、新鮮で透明で、一種の高雅な感じを持った演奏である。それは豪華ではなく、ステージ向きではないが、ワックスに録音して、近々と聴くためには、誠に現代人好みの良いモーツァルトであると思う。二人の組合せのモーツァルトは、コロムビアに「ソナタ＝変ロ長調Ｋ三七八」「ソナタ＝ハ長調Ｋ二九六」「ソナタ＝ト長調Ｋ三七九」「ソナタ＝変ホ長調Ｋ四八一」とかなりたくさん入っているが、いずれも特色的な良いものである。

私は女流ヴァイオリニストのモリーニがケントネル（ピアノ）と入れた「ソナタ＝変ロ長調Ｋ四五四」を愛する。この曲の優しい歌に満ちた甘美さが、女流のモリーニにピッタリとして得も言われないからである（ビクターＤＢ一四二九―三一）。同じ曲をハイフェッツとベイの組合せで入れた、歯切の良い冷美さと比べて見るがよい（ビクターＪＤ一三二九―三一）。これも申し分なく良いレコードだが、親しみはかえって前者にあるだろう。しかし親しみということは<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>という意味ではない。演奏も録音もハイフェッツの方に充分の<ruby><rb>勝味</rb><rt>かちみ</rt></ruby>のあることは言うまでもない。

メニューイン<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>は「ソナタ＝イ長調Ｋ五二六」を入れている。妹のピアノを引き立てるために、兄のメニューインが損をしているのはいたしかたもない。

ハイフェッツとベイの入れているもう一つの「ソナタ＝変ロ長調Ｋ三七八」は技巧的には<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>たる良さを持ったもので、この享楽的とさえ見える、<ruby><rb>縦横無礙</rb><rt>じゅうおうむげ</rt></ruby>の美の追及者の若い作品を、ハイフェッツの人間離れのした冷たい技巧でひきまくる快さは非凡だ（ビクターＪＤ一〇二一―二）。同じ曲をポリドールのフレッシュのひいているのは、先のヘンデルのソナタと一緒にアルバムに入っているが、録音の悪さのうちから、老教授の<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>が見えて面白い。

## ピアノ・ソナタ

モーツァルトの簡素なピアノ・ソナタは楽しい限りだが、ここには代表的な二、三のレコードだけを掲げておく。

有名な「トルコ行進曲ソナタＫ三三一」は四種か五種レコードされているが、ビクターのフィッシャー（ＪＤ三六七―八）とポリドールのケンプ（四五二三一―二）で代表される。前者は端麗で<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>としている。古典ひきの最上の風格と言ってよく、後者は重厚で熱っぽいが、一脈の親しみを感じさせる。私はむしろフィッシャーを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るが、ケンプを好む人も少なくあるまい。

「ピアノ・ソナタ＝ハ短調Ｋ四五七」のギーゼキングは、一種変ったモーツァルトとして評判であった（コロムビアＪＷ二二三―四）。この新人ピアニストの古典には、古い伝統の<ruby><rb>穀</rb><rt>から</rt></ruby>を破った、新しいリアリズムの生命があるのであろう。<ruby><rb>清楚</rb><rt>せいそ</rt></ruby>なうちに情熱を盛った、不思議なモーツァルトである。他に「ソナタ＝変ロ長調」のギーゼキングがある。

## 弦楽その他の四重奏曲、五重奏曲

モーツァルトの室内楽――わけても弦楽四重奏曲、五重奏曲は、それ自体が珠玉である。この世の中に、これほど無条件な美しさを持った音楽はない。それはハイドンの室内楽を母体として、さらに特殊の芸術境を開いたたものであるが、ハイドンとは全く異なった、もっと華麗で、もっと明朗で、そしてもっと美しい珠玉篇の驚くべき連発だったのである。晩年の作品にはト短調のシンフォニーにおける如く、歓楽きわまって哀愁生ずるの趣はあるにしても、その美しさを<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねる性質のものではなく、かえって深い陰影を加えて、モーツァルトの境地をさらに一段と引き上げたものであったのである。

レナー四重奏団はモーツァルトを四曲入れているが、いずれも十年以上の古い吹込みで、今日論ずるのは気の毒なくらいである。その中から挙げるとしたら、せめて「弦楽四重奏曲（狩猟）変ロ長調Ｋ四五八」と「弦楽四重奏曲ト長調Ｋ三八七」の二つであるが、原曲の面白さを勘定に入れて、前者を<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るのが穏当だろうと思う（コロムビアＪ七八五四―六）。この曲はモーツァルトの四重奏曲中でも荘重なもので、レナーの繊麗な柔美さは、発売当時われわれの血を<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>かしたものである。良い弦楽四重奏の演奏を聴く機会を持たなかったわれわれにとって、それは実に魔法的な美しさであったからである。

カペエ四重奏団のモーツァルトが出ることによって、レナーは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしくその声価を<ruby><rb>堕</rb><rt>おと</rt></ruby>した。例えば、カペエ四重奏団の「弦楽四重奏曲ハ長調Ｋ四六五」（コロムビアＪ七七八六―九）の如き、レナーと同様に十数年前の吹込みであるが、その技巧はもとより、その心構えにおいて、感覚において、レナーとは全く別個のものであり、そして、現代においてわれわれの接し得る、最高の芸術境に到達したものである。それは一見きわめて平明簡素であるが、<ruby><rb>遍</rb><rt>あま</rt></ruby>ねき光と、<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>る滋味とは、聴く者を最も高い陶酔境に導かずにはおかない。

他にプロ・アルテ、コーリッシュ、クレトリーその他の四重奏団のモーツァルトもあるが、それは以上数曲を味聴してのうえのことである。

「フリュートと弦楽のための四重奏曲イ長調Ｋ二九八」は若々しく美しい曲だ。ルネ・ル・ロアとパスキエ三重奏団の手頃なレコードが愛好家協会の四集にある。

「オーボエと弦楽のための四重奏曲へ長調Ｋ三七〇」は、オーボエの名手グーセンスとレナー四重奏団のがコロムビアにある（Ｊ八二〇九―一〇）。

「ピアノと弦楽のための四重奏曲ト短調Ｋ四七八」のシュナーベルとプロ・アルテの組合せも参考に掲げておく。

五重奏曲では「弦楽五重奏曲ト短調Ｋ五一六」はモーツァルト晩年の憂愁を盛った曲で、普通ヴィオラの五重奏曲中の傑作とされている。コロムビアにレナー四重奏団とドリヴェラのがあり（Ｊ七七六三―六）、ビクターにプロ・アルテ四重奏団とホブディのがあるが（ＪＤ三七一―四）、情緒的で甘美な前者と、理知的で<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>ない後者と好み好みがあろう。吹込みはプロ・アルテの方が遙かに新しい。

五重奏曲中の魅力は、「クラリネット五重奏曲イ長調Ｋ五八一」である。ブラームスのクラリネットの五重奏曲と共に、この楽器のために作られた傑作で、その<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>たる美しさは比類もない。レコードは三通り入っている。一番古いのはレナー四重奏団とドゥレーパーの組合せ（コロムビアＪ七四五一―四）、次はブダペスト四重奏団とベンジャミン・グッドマンの組合せ（ビクターＪＥ一六七―九、ＪＤ一三七四）、一番新しいのはロート四重奏団とベリスンの組合せである（コロムビアＪＷ二〇三―六）。

この三つのうち、ジャズの指揮者であり、クラリネット吹きであるベニー・グッドマン即ちベンジャミン・グッドマンとブダペスト四重奏団のが評判がよく、これを激賞する人も少なくないが、古いファン達には、今でもレナーとドゥレーパーの組合せに愛着を感じ、これでなければこの曲を聴いたような気にならない人の多いことも事実である。それはレナーの甘美な<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>性とドゥレーパーのクラリネットの思いのほかなるうまさによるもので、ベニー・グッドマンには、上手とは言っても、いかにもジャズ吹きらしいキメの荒さと情緒の欠乏とが免れないからであろう。

ピアノ三重奏曲が三つ四つレコードされている。そのうちで一つだけ「ピアノ三重奏曲ホ長調Ｋ五四二」のベルギー宮廷付三重奏団の演奏したコロムビア・レコードを挙ぐるに止めておく（Ｊ七八八三―四）。

## 管弦楽曲

<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい序曲やドイツ舞曲やセレナーデや、<ruby><rb>嬉遊</rb><rt>きゆう</rt></ruby>曲の中から、最も優れたものをいくつか挙げてみる。

ひと口にモーツァルトのセレナーデと言われる、愛情と魅力と輝きの本尊のような「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は<ruby><rb>随分</rb><rt>ずいぶん</rt></ruby>たくさんレコードされているが、その優雅にして端正な美しさで、コロムビアのワルター指揮のものを第一に推さなければなるまい（ＪＳ二三―四）。続いて録音のやや悪いのを我慢すれば、ポリドールのフルトヴェングラー指揮の、重厚壮麗さを採るのが順当だろう（Ｇ一〇八―一一〇）。

「ドイツ舞曲」もたくさん入っているが、コロムビアに入っているワルター指揮の第一番から三番までの三曲だけに止めよう（Ｊ五五七七）。

嬉遊曲（ディヴェルティスマン）もきわめて愛すべきものであるが、取り立てて言うほどのレコードは記憶しない。

序曲は有名なものは重複してたくさん入っているが、傑出したのは「フィガロの結婚」のフルトヴェングラー指揮（ポリドール四五一三）、「魔笛」のメンゲルベルク指揮（ビクタ―一四八六）の程度ではあるまいか。

## 歌劇、宗教楽、歌曲

歌劇はビクターから出したグリンドボーンの「モーツァルト歌劇協会」の全曲レコードは世界レコード界の偉業で、既発売は「コシ・ファン・トゥッテ」（ＪＤ一二九四―一三一三）、「ドン・ジョヴァンニ」（ＪＤ一四四四―六六）、「フィガロの結婚」（ＪＤ一二〇九―二五）、「魔笛」（ＪＤ一四六七―八六）の四組で、実に堂々七十枚という大物である。モーツァルトは当時の音楽家の風習に従って、歌劇の作曲に心血を注ぎ、現に「魔笛」のために死期を早めたことはモーツァルトの伝記を読むものの<ruby><rb>傷心事</rb><rt>しょうしんじ</rt></ruby>であるが、死後百幾十年に、これだけの全曲レコードを有することは、いささかの慰めではあるまいか。

この演奏は世界のモーツァルト歌手を集めたと言われる英国のグリンドボーンにおけるモーツァルト祭の録音で、管弦団も歌い手も、手堅い立派なものである。

「ドン・ジョヴァンニ」だけをコッポラが指揮して、パンゼラ（バリトン）等の歌った抜粋がある（ビクターＪＥ四四―六）。フランス語の歌詞だが、きわめて練達な演奏であり、これでモーツァルトの歌劇の良さを味わえないことはない。

歌劇の一枚物のアリアはここに省略する。

モーツァルトの宗教音楽で、最も重要な作品「<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>」の全曲レコードが日本で手に入れる見込のないのは惜しいことである。この全曲に近いレコードはジョーゼフ・メッツナーの指揮で、ザルツブルク・ドームの合唱団と管弦団がクリストシャルのレコードに六枚入っているが、日本には二組くらいしか来ていないはずである。演奏は最上のものでないが、独唱者のうちに今は亡き名歌手のリヒアルト・マイヤーなどが加わっている。

コロムビアには「ミサ」と「レクイエム」のうちから、二、三枚のレコードが入っているが取り立てて言うほどのことはない。

<ruby><rb>経文歌</rb><rt>モテット</rt></ruby>の「アレルヤ」は映画「オーケストラの少女」のディアナ・ダービンで一般に知られたが、ダービンよりはコロムビアのギンスターがうまく、ギンスターよりはＨ・Ｍ・Ｖのエリザベト・シューマンがよく、シューマンより、ビクターのオネーギンが上手で、最後にオネーギンよりも、旧盤のファーラーの方が魅力がある。

モーツァルトの歌曲は<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少ない。その中での傑作はビクターに入っている、エリザベト・シューマンの「子守唄」（Ｅ五五五）であろう。シューマンのモーツァルトは<ruby><rb>極付</rb><rt>きわめつき</rt></ruby>のものであるが、あの子守唄をこんなによく歌っている例を私は知らない。清らかな声と、柔らかな愛情とがわれわれの魂までも<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>めてくれるだろう。

「<ruby><rb>菫</rb><rt>すみれ</rt></ruby>」はモーツァルトの歌曲のうちでも、佳作の一つとされているが、ビクターのオネーギン（一五五六）は豊かな美しさに恵まれる。「秘めごと」のロッテ・レーマンも上手な例の一つとして挙げなければなるまい（ビクターＪＥ三〇）。

  


## 英雄ベートーヴェン

  


ベートーヴェンは音楽家中の英雄であったばかりでなく、英雄中の英雄であり、ある意味においては、征服者中の征服者でもあった。ナポレオンとベートーヴェンは、生前いろいろの因縁があり、よく比較され対照されるが、ナポレオンは生きている当時こそ「帝王の帝王」であったかも知れないが、百何十年か<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>った今となっては、功業の跡、夢の如く<ruby><rb>亡</rb><rt>う</rt></ruby>せて、その<ruby><rb>事蹟</rb><rt>じせき</rt></ruby>は、ドラゴン退治の伝説の英雄となんの選ぶところがない。それに比べてわがベートーヴェンは、なんというすばらしい恩恵を人類に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>していったことであろう。

ベートーヴェンが死んで百十四年になるが、その作っておいた<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい音楽は、実演で、ラジオで、あるいはレコードで、一瞬といえども止む時なく、この<ruby><rb>渾円球上</rb><rt>こんえんきゅうじょう</rt></ruby>の大気を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>がせ、十幾億の人類の慰藉となり、感激となり、光明となっているのである。人類生活における芸術の影響は、漫然と考えたよりは<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに大きいものであるが、その中でもベートーヴェンの音楽の如く広大で、ベートーヴェンの音楽の如く強烈なものは滅多にあり得ない。

私の若い友人なる学生の一人に、ベートーヴェンの「第五シンフォニー」のレコードを求めて、繰り返し繰り返し二百回聴いたというのがある。試験期などは一日に三回、四回も繰り返して聴いて、頭脳の疲れを<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>し、新しい勇気を盛り返したばかりでなく、うっかり遊び過したりすると、「こうしていては、ベートーヴェンにすまない」――そう言って、さっさと、ベートーヴェンが待っているだろうところの自分の書斎の、ノートに<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>っていくのである。

同じレコードを二百回、三百回と繰り返して聴くのは、決して良い趣味ではないが、とにもかくにも、ベートーヴェンの音楽の感激度の高さとその説得力の強大さには、万々心得ているように思いながら、幾度も幾度も驚きを<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>にするのである。人類の歴史始まって以来、芸術の種類も数も夥しいことであるが、<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だかつて、ベートーヴェンの音楽に匹敵する「力」を持ったものを私は聴いたことがない。

ミケランジェロの絵、シェークスピアの劇、ロダンの彫刻――それらは高貴な雄大なものであり、人類文化の誇りであるには相違ないが、ベートーヴェンの音楽の如くよき意味の大衆性を持たず、従って、百幾十年来数億の人の心に感激の黒潮となって流れてやまないベートーヴェンの芸術とは、その普遍性において、人の心への訴えの感度において、<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>ら差異のあることを否むわけにいくまいと思う。

世界いずれの国においても、音楽と言えば<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ちベートーヴェンである。コンサートも、ラジオも、レコードも、いやしくも音楽に関するものの三分の一はベートーヴェンの名によって占められると言っても間違いではない。この世からもしベートーヴェンの作品を取り去ったならば、気圧を取り去った空気の中に生存するように、我らは精神的の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たより</span>なさを感じずにはいないだろう。

## 偉大なる田舎者

ベートーヴェンの音楽は、<ruby><rb>何故</rb><rt>なにゆえ</rt></ruby>にかくもわれわれに働きかけてやまないか、――それはしばらくベートーヴェンの伝記から語らなければならないところであるが、ベートーヴェンの伝記は文字通り<ruby><rb>汗牛充棟</rb><rt>かんぎゅうじゅうとう</rt></ruby>で、一般に知り尽されていることであり、数ページの短文にその<ruby><rb>波瀾重畳</rb><rt>はらんちょうじゅう</rt></ruby>の生涯を<ruby><rb>叙</rb><rt>じょ</rt></ruby>することは困難でもあるので、しばらくベートーヴェンの生涯を特色づける、興味深い逸話を<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>り合せて、巨人のおもかげを<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>させ、あわせてベートーヴェンの音楽の驚くべき偉大性を語ろうと思う。

一七七〇年十二月ドイツのボンの町に、音楽家の血統をうけてルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン（<em>Ludwig van Beethoven</em>）は生まれた。父はボンの宮廷楽手で、性格が弱い上に<ruby><rb>酒癖</rb><rt>しゅへき</rt></ruby>があり、決して善良なる指導者ではなかった。その一例は、わが児を天才少年に仕立ててひと<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けするために、昼夜兼行の<ruby><rb>苛酷</rb><rt>かこく</rt></ruby>なピアノの練習を強い、危うくベートーヴェンに芽生えた音楽愛を枯らすところであったが、なんの幸いか、ベートーヴェンは、この残酷なレッスンによって、十歳の神童になる代りに、百代の英雄音楽家としての<ruby><rb>素地</rb><rt>そち</rt></ruby>を築き上げることが出来たのである。

父の酒癖はどんなに少年ベートーヴェンを苦しめたか解らない。街の悪童の<ruby><rb>漫罵</rb><rt>まんば</rt></ruby>の中に、<ruby><rb>泥酔</rb><rt>でいすい</rt></ruby>した父親を背負って帰る屈辱感が、ベートーヴェンの負けじ魂を一層<ruby><rb>頑</rb><rt>かたくな</rt></ruby>なものにし、<ruby><rb>荊</rb><rt>いばら</rt></ruby>の道を渋面作って踏み破る最初のスタートになったのであろう。そのうえ、十七歳のとき、愛情のほかにはなんにも持たなかった、善良にして無知な母親を失ってからは、ベートーヴェンの細腕に、酒毒のために職を失った父親と、幼い弟達の生活を全部引き受けなければならなかった。

ベートーヴェンの天才はその逆境のうちに芽ぐみ、十三歳でボンの宮廷のオルガン弾きに任命され、十六歳の時には最初のシンフォニー「イエナ」を作っている。

モーツァルトに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったのは、それから間もなく、最初のウィーン訪問の時であった。当時盛名全欧を圧したモーツァルトにとっては<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>少年ベートーヴェンの訪ねて来たことはたいした問題ではなく、その面前で弾いた「即興曲」も前から用意したものと思ったか、通り一遍の賞讃の辞を与えたにすぎなかった。少年ベートーヴェンは、モーツァルトの冷い態度に憤激し、主題の提出を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>い受けて、即座に豪壮<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby><ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>まる変奏曲をつけ、弾き終ると、驚き呆れるモーツァルトを<ruby><rb>尻目</rb><rt>しりめ</rt></ruby>に、<ruby><rb>闥</rb><rt>たつ</rt></ruby>を<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>して外へ出てしまった。その後ろ姿を指差したモーツァルトは、「今に彼の名は世界に響き渡るだろう」と友人を顧みて叫んだと伝えられる。

父の死に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>ったベートーヴェンは、いよいよ志を定めて音楽の都ウィーンに定住することになった。二十二歳の時である。その頃のベートーヴェンは、まだ若くもあり、野心的でもあった。仕事の性質上社交界に出入することが多かったので、努めて都振りに馴れようとし、その頃の流行に従って、モミ上げを長くしたり、<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を蓄えたり、ダンスの稽古までしたと言われる。ベートーヴェンのハイカラ姿は、想像するだけでも苦笑を禁じ得ないが、幸いにしてベートーヴェンは流行紳士の生活が板につかないことを自覚し、間もなくその<ruby><rb>都雅</rb><rt>とが</rt></ruby>な生活を捨てて、本来の<ruby><rb>田舎漢</rb><rt>いなかもの</rt></ruby>に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。

後年のベートーヴェンが、粗野な<ruby><rb>窮惜大</rb><rt>きゅうそだい</rt></ruby>として終始し、――<ruby><rb>梳</rb><rt>くしけ</rt></ruby>ずらぬ獅子の髪、<ruby><rb>烱々</rb><rt>けいけい</rt></ruby>たる<ruby><rb>鷺</rb><rt>わし</rt></ruby>の眼、伸び放題の<ruby><rb>不精髯</rb><rt>ぶしょうひげ</rt></ruby>、<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>一杯に物を詰めて、裏返しになった上着、底の<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>んだ<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>――そういった姿でウィーンの内外を横行し、好きな<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>道を散歩しては、百姓家の牛を驚かせることさえあった。「<ruby><rb>熱情</rb><rt>アパショナタ</rt></ruby>ソナタ」や「運命シンフォニー」や「皇帝協奏曲」は、この芸術的大燃焼に何もかも投げ込んだ境地にだけ生まれたのである。ベートーヴェンが都振りの<ruby><rb>小綺麗</rb><rt>こぎれい</rt></ruby>な紳士で終ったならば、――私はそれを考えただけでも<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>を禁じ得ない――我らはおそらく音楽芸術の巨大な分野、人類の最も尊い宝物を持つことが出来なかったであろう。

## 強大なる自尊心

ベートーヴェンの自尊心は、あらゆる芸術家中にも<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>を見ないほど巨大なものであった。その<ruby><rb>狷介不羈</rb><rt>けんかいふき</rt></ruby>な魂と、<ruby><rb>傲岸不屈</rb><rt>ごうがんふくつ</rt></ruby>な態度は、時には全ウィーン人を敵としながら、全世界の人を<ruby><rb>膝下</rb><rt>しっか</rt></ruby>に<ruby><rb>踞</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>かしめたのである。

ハイドンはこれを「<ruby><rb>蒙古王</rb><rt>もうこおう</rt></ruby>」と言って敬遠し、ゲーテは「手におえない野人」と舌を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って驚いた。その演奏会に、<ruby><rb>喃々</rb><rt>なんなん</rt></ruby><ruby><rb>私語</rb><rt>しご</rt></ruby>する貴婦人達を<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しった</rt></ruby>して、「こんな<ruby><rb>豚共</rb><rt>ぶたども</rt></ruby>に<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>かせるピアノではない」とピアノの<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>してサッサと帰ったこともあり、普仏戦争当時、<ruby><rb>戦塵</rb><rt>せんじん</rt></ruby>を避けたリヒノフスキー邸で、フランス軍の将校のためにピアノの演奏を迫られ、<ruby><rb>敢然</rb><rt>かんぜん</rt></ruby><ruby><rb>峻拒</rb><rt>しゅんきょ</rt></ruby>して二百キロを歩んでウィーンに帰ったことなどもあった。

彼は召使と争い、隣人と争い、劇場支配人と争い、パトロンの貴族と争い、ほとんど争い続けてその生涯を過ごした。ゲーテと散歩して、ウィーンの宮廷の貴人達と<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>った時は、「あの人達は、我らに対してどんな態度をとられるか、こうしてみようではないか」と帽子の<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>を下げ上着のボタンをかけ、まっすぐに貴人達の中に突き進んだ。一行の中のプリンセスは、その傍若無人なベートーヴェンを見て、微笑して<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をされ、道を開いて通してやったが、振り返って見るとゲーテは道の傍に<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく中腰を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>め、<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby><ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>まる態度で貴人達をやり過していた。「貴方は偉い人だが、あの人達に対して<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>すぎますね」と追い付いた大ゲーテに対して、ベートーヴェンはこう言った。ワイマールの<ruby><rb>賓臣</rb><rt>ひんしん</rt></ruby>で、大詩人で大政治家で、社会的地位の高いゲーテは、ベートーヴェンの<ruby><rb>野蛮</rb><rt>やばん</rt></ruby>さに苦笑したことであろう。

ナポレオンが一挙フランス革命の血の惨劇に終止符を打ったとき、ベートーヴェンはその英雄魂に傾倒して「第三交響曲」を作って献じようとした。既にフランス大使を通じてその手続までも採ったが、たまたまナポレオンが執政官として事実上フランスの専制君主となったと聴き「彼もまた唯の野心家だ」と総譜のタイトルを破って<ruby><rb>戸棚</rb><rt>とだな</rt></ruby>の中に<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んだ。が後日ナポレオンが没落してセント・ヘレナに流されたとき、その楽譜を取り出して、「俺はこれあることを予期していたよ」と、第二楽章の葬送行進曲を傍人に指差して示したということである。ベートーヴェンはナポレオンの没落を予言し得るはずはない。おそらく第三交響曲の第二楽章として書いた、「勝利の悲哀」とも言うべき葬行曲が、偶然ナポレオンの没落という事実と対応したのであろう。

ベートーヴェンの<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>さは数限りなく逸話を持っている。が、その性格の底流を成すものは、人並すぐれた「人間愛」であり、人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なつかしさ</span>であったということも見逃してはいけない。ベートーヴェンの伝記者は、彼が友達好きであり、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しがり屋であり、そして愛情の豊かな人間であったと言っている。その淋しがり屋の友達好きが、何故に孤独の穀の中に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>まって、世間を<ruby><rb>白眼</rb><rt>はくがん</rt></ruby>で見なければならなかったか。それは、音楽家としては致命的な疾患、――彼の<ruby><rb>耳疾</rb><rt>じしつ</rt></ruby>が高じた結果であったことは言うまでもない。

## 難聴の恐怖を征服

音楽家が聴覚を失うということは、想像を絶する恐怖である。ベートーヴェンの耳疾は二十歳を越して間もなく徴候を現し、二十七、八歳の時はもはや隠すことの出来ない状態となり、三十四歳の時はピアノの弾奏を断念し、三十八歳の時はほとんど耳が聴こえない状態になってしまった。

平常人より良い聴官を持っていなければならぬ音楽家が、次第に耳が遠くなりつつあることを発見し、それを承服しなければならないということは、<ruby><rb>五分試</rb><rt>ごぶだめ</rt></ruby>し一寸試しの虐殺に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>うようなものである。ベートーヴェンも最初は耳疾を隠していたが、ついには社交を断念して、故意に「人<ruby><rb>嫌</rb><rt>ぎら</rt></ruby>い」にならなければならなかった。その頃の心境を彼はこう友人に書いている。「――私は実に悲しい生活をしなければならぬ。この耳が聴えたら、どんなに幸福だろう。私はすべての人を避けていなければならぬ。悲しい諦め――そこに逃げ込まなければならぬ――」と。またこうも書いた、「私はしばしば私という存在を造物主に<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>った。私の生活は神の造り給うものの中で最も<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めだ」――と。我も人も許した第一流の音楽家が次第に聴覚を失いつつあるのである。世の中にこれほど恐ろしいことはない。

三十歳の時、ベートーヴェンは最初の<ruby><rb>遺言状</rb><rt>ゆいごんじょう</rt></ruby>を書き、その後二度まで自殺を企てた。「私の耳は平常人より完全でなければならない、――私は耳が聴こえないとどうして言えよう」、「死は無限の苦境から私を解放するだろう――」。ベートーヴェンはこう書いた。が、この苦悩は巨人を殺すために与えられた<ruby><rb>笞</rb><rt>むち</rt></ruby>ではなかった。絶望と孤独が、<ruby><rb>散々</rb><rt>さんざん</rt></ruby>に大きな魂をさいなみ続けた末、巨人は<ruby><rb>豁然</rb><rt>かつぜん</rt></ruby>として大悟したのである。

それはプルタークの英雄伝から教えられた思想であった。「――人はなんかしら、いいことの出来るうちは、自分で自分の命を断ってはいけない――」と。即ちベートーヴェンはその使命の高遠さと、芸術の不滅を信じて、辛くも自殺を思い<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>ったのである。

運命と人間との<ruby><rb>争闘</rb><rt>そうとう</rt></ruby>を描いたと言われる「第五シンフォニー」はこの頃作られた。<ruby><rb>辛辣苛酷</rb><rt>しんらつかこく</rt></ruby>な運命の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しいたげ</span>の下に、か細き<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うめき</span>をあげる人間が、その意志の力をもって、ついに運命に打ち勝ち、<ruby><rb>勝鬨</rb><rt>かちどき</rt></ruby>も高らかに最後の勝利へと突き進むのがこの曲の内容である。

ベートーヴェンは「<ruby><rb>人生のための芸術</rb><rt>アート・フォア・ライフ</rt></ruby>」の最初のスタートを開いた音楽人である。ベートーヴェン以前の音楽は、形式の<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>と、限りなき美しさの欲求のために書かれた、多分に娯楽的要素を含む音楽が主流であったが、ベートーヴェンに至って、音楽に人生観と哲学とを採り入れ、自己の精神内容と経験とを、直ちに音楽的表現に役立てて、切れば血の出るような曲を作ったのである。ベートーヴェンにおいては、生活は<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち音楽であり、音楽は即ち自伝であった。その作品を「金のために書かない」とベートーヴェンは豪語したが、むしろ、技巧や作為のために書かなかったと言った方が適当かも知れない。彼の音楽はそれぞれの書かれた時代の心境の反映で、たった一つも、「こしらえ物」はなく、ことごとくが生命の宿った、血の通う音楽であったからである。

「第五」と「<ruby><rb>熱情</rb><rt>アパショナタ</rt></ruby>ソナタ」の後、ベートーヴェンはしばらく明るく<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかなもの、華麗で壮大なものを書いた。「田園交響曲」「ヴァイオリン協奏曲」「皇帝協奏曲」などはそのよき例である。

ウィーンの郊外を、一日に二度ずつひと回りして雨の日も風の日もよさなかったベートーヴェンは、「余は人間よりも自然を愛する」と放言し、神の栄光が自然を通して、より高く発揚されると信じていたのである。世にも美しい自然讃美の音楽「田園交響曲」が生まれたのはこの心境からであった。

## 大諦観

「荘厳<ruby><rb>弥撒</rb><rt>ミサ</rt></ruby>」と「第九交響曲」は、ベートーヴェンの最後の二大傑作であった。一つは「心より出ず、再び心に<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>かんことを」と書いた<ruby><rb>頭書</rb><rt>とうしょ</rt></ruby>の如く、ベートーヴェンの信仰の結晶であり、一つは巨人の持っている人間愛の雄大壮麗な現れであったと言うべきである。わけても「第九交響曲」の如きは、人類の持てる芸術の最高のもので、その<ruby><rb>気高</rb><rt>けだか</rt></ruby>き力強さは言語に絶する。運命の<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げ、悪との闘争、あらゆる苦悩の最後に、勝利の歓喜がわれわれを待っているのである。シルレルの詩をかりた、<ruby><rb>終結章</rb><rt>フィナーレ</rt></ruby>の歓喜の歌は天へも響けと高鳴る――。<ruby><rb>音楽</rb><rt>おんがく</rt></ruby>がこれほど雄大な形式を持ったことはかつてなく、芸術がこれほど人に訴えたことはかつてない。後年ワグナーが失意と貧困とにさいなまれて、自暴自棄の心持になり切ったとき、「第九交響曲」を聴いて大熱を発するほど感激し、<ruby><rb>奮然</rb><rt>ふんぜん</rt></ruby><ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ってあの大成功への道を<ruby><rb>歩</rb><rt>あゆ</rt></ruby>んだという有名な逸話がある。

「第九」以後のベートーヴェンは、次第にその晩年を特色づけた閑寂な境地に入っていった。耳疾も、孤独も、不平も、何もかも征服して、大きな<ruby><rb>諦観</rb><rt>ていかん</rt></ruby>が巨人の魂を<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>めたのである。わけても<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>のカールの<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>な問題が片づいた後は心の声を五線紙に表現するために、弦楽四重奏曲の形式をかりることに余念もなかった。

外界の音と絶った大音楽家が、四つの弦楽器のために作曲した後期の四重奏曲はまことに<ruby><rb>尊</rb><rt>とうと</rt></ruby>い（作品一二七、一三〇、一三一、一三二、一三五）。これなどは経済的にはベートーヴェンを救わなかったが、後世のわれわれにとっては何物にも<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>え難き珠玉である。官能を断ち、世を断ったベートーヴェンの心の声が、弦楽四重奏曲という形をかりて、大諦観の<ruby><rb>聖</rb><rt>きよ</rt></ruby>らかな美しさを、心行くまで描くのである。

ベートーヴェンは孤独で貧乏であった。その日の物に困ることはなくとも、決して裕福な生活をするほどの収入を得たこともなく、パトロンが<ruby><rb>幾干</rb><rt>いくばく</rt></ruby>の年金を出したことがあったにしても、晩年はそれさえも絶え、いろいろ運動があったにもかかわらずウィーンの政府は進んでこの巨人の生活を保護してはくれなかった。

ベートーヴェンは<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>が上らないうえに、浮浪人と間違えられ、拘留されたことがあるほど粗野な様子をしていた。若い頃女優のマグダレーナ・ウィルマンに結婚を申し込んで、「醜いから」との理由で断られたのを手始めに、テレーゼ・フォン・ブルンスウィックや、「月光ソナタ」を献じたジュリエッタとも交渉を持ったが、テレーゼの写真を死ぬまで持っていて、「永遠の恋人」という伝説を残しただけで、誰とも結婚はしなかった。ベートーヴェンは一般の婦人に好まれるような<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の人間ではなく、彼の英雄魂はまた、「女のために一生を棒にふる人間ではなかった」と伝記者パウル・ベッカーは言っている。

そのうえベートーヴェンの音楽は、当時容易に解されず、ゲーテは「第五交響曲」に恐怖し、弟子達でさえも「第九」に不満を持っていた。ベートーヴェンがついに住み<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れたウィーンに断念して、ヘンデルやハイドンの故智に<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>って英国に安住の地を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>そうとしたのもまたやむを得ないことである。

英国から送られた手つけの金のうちで、好きな魚を買って食べながら、新しい英国生活の望みに燃えている頃――、ベートーヴェンの健康はもういけなかった。一八二七年三月二十六日、春雷の<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>り<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>ぶ日、「喜劇はおわった、諸君、喝采し給え」、そう言って死んだ。

翌々日の葬儀は会葬者数万、軍隊が出動して整理にあたったが、ベートーヴェンは、果してそれを喜んだかどうか解らない。

ベートーヴェンの作品は<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく、その半分は人に知らるる傑作佳作である。そのうちから真に代表的なものを選ぶとすれば、九つのシンフォニーのうち「第五」「第六」「第九」、三十二のピアノ・ソナタの中「<ruby><rb>熱情</rb><rt>アパショナタ</rt></ruby>」「ワルドシュタイン」「作品一〇九」「一一〇」「一一一」、十篇のヴァイオリン・ピアノ・ソナタのうち「クロイツェル」、十六の弦楽四重奏曲のうち「作品一三一」「一三二」「一三五」、ほかに「皇帝協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「大公トリオ」、それに「<ruby><rb>荘厳弥撒</rb><rt>ミサ・ソレムニス</rt></ruby>」を数うべきであろう。

ベートーヴェンの伝記とベートーヴェンの音楽については、なかなか語り尽せない。が、あらゆる芸術の分野においても、これほど強大な力と、情熱とを持った作品はないことだけは確信し得るだろう。われわれ凡人には経験することの出来ない、<ruby><rb>熾烈</rb><rt>しれつ</rt></ruby>な心の動き、深刻な悩み、それを征服する意志の力、異常な歓喜――等は、ベートーヴェンの音楽を通して最もよく知ることが出来るだろう。それは地上に生を受けて、芸術を知るもののみが経験する、大きな<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びでもあると言ってもよい。

  


## ベートーヴェンの作品とそのレコード

私はいよいよベートーヴェンのレコードに到達した。ベートーヴェンに対する尊崇は、日本だけの現象ではないが、ベートーヴェンなくんば西洋音楽なしの感あるは、多少の行き過ぎにしても、一方音楽の普及力、並びに文化に対する<ruby><rb>浸透力</rb><rt>しんとうりょく</rt></ruby>の方面から言えば、まことに結構なことであったと思う。わけても日本の如き音楽の処女地に、急速に良き音楽――芸術的な音楽をうえつけるために、ベートーヴェンは、どれだけ役に立ったことか。その英雄的な魂と、力と熱の音楽は、とにもかくにも、どんな人でも一度は<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>って行かなければ承知しなかったのである。

私はここにレコードのことについてだけ語るつもりであるが、世界の芸術的レコード（いわゆる名曲レコード）の約二割はベートーヴェンであり、レコード売上高の半分はベートーヴェンであるだろう。ベートーヴェンは常に音楽界の独壇場であり、レコード雑誌の問答欄の半分の投書は、ベートーヴェンの第五シンフォニーとヴァイオリン協奏曲のレコードの選択で持ち切っていると言ってよい。

その<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいレコードの中から、本当に優れたものを選り出すのは、至難中の至難事ではあるが、その中から私は代表作品の代表レコードだけを挙げて行こうと思う。

## シンフォニー

最初は九つのシンフォニーである。これだけでも全部のレコードを網羅したら、数十ページの記述を必要とするだろうが、私は出来るだけ一曲一レコード主義で話を進めていきたい。

「第一シンフォニー＝ハ長調作品二一」は吹込みの新しいテレフンケンのメンゲルベルク指揮を採ろう（五三六二〇―二）、管弦楽団はアムステルダムのコンセルトヘボウだ。続いてビクターのトスカニーニがＢ・Ｂ・Ｃを指揮したのは、やや古いが胸のすく演奏だ（ＪＤ一五四六―九）。

「第二シンフォニー＝ニ長調作品三六」は、コロムビアのワインガルトナーが、ロンドン交響楽団を指揮した<ruby><rb>温雅</rb><rt>おんが</rt></ruby>な美しさに興味が傾き（ＪＷ二九九―三〇二）、テレフンケンのクライバーはそれに続いて注目される。

「第三シンフォニー（英雄）変ホ長調作品五五」は重要作品で、レコードの数も<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいが、最近ビクターからＮ・Ｂ・Ｃを指揮したトスカニーニと、コロムビアから米国の管弦楽団を指揮したワルターと、テレフンケンからコンセルトヘボウを指揮したメンゲルベルクと、三種のレコードが日本でプレスされることになっている。そのいずれが良いか、たぶんこの書が<ruby><rb>上梓</rb><rt>じょうし</rt></ruby>されるころは興味の深い話題となっていることであろう。今まで日本で売出されているのでは、ビクターのメンゲルベルクとコロムビアのワインガルトナーが問題になっていた。

「第四シンフォニー＝変ロ長調作品六〇」は、テレフンケンのコンセルトヘボウを指揮したメンゲルベルク（四三六〇八―一一）と、ビクターのＢ・Ｂ・Ｃを指揮したトスカニーニ（ＶＤ八〇八六―九）とあるが、管弦団の関係で、前者の方に魅力がある。

「第五シンフォニー＝ハ短調作品六七」は大変だ。電気吹込み以後のレコードだけでも、少なくとも十二、三組はあり、その一つ一つが世界の大指揮者達が、腕に<ruby><rb>捻</rb><rt>より</rt></ruby>をかけて録音したものである。しかし「時の力」は少しでも古いもの、劣ったものを<ruby><rb>淘汰</rb><rt>とうた</rt></ruby>して、今では第一線に立つ「第五」のレコードというものは、ワインガルトナーと、メンゲルベルクと、トスカニーニと、フルトヴェングラー指揮の四種のレコードに限定しても差しつかえないものであろう。

このうちからさらに長い生命のある「第五」を選ぶとなると、結局、十人の七、八人までは、トスカニーニとフルトヴェングラーに指を屈するだろう。ビクターに入ったトスカニーニのＮ・Ｂ・Ｃを指揮した「第五」（ＪＤ一六二―四）は、反響を取り去った不思議な録音と、<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>ないうちに、クライマックスに盛上げていく燃え立つような力と、ややテンポの速い古典的な端正さのうちに、一種の<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>と情熱を包んだ演奏はすばらしい。これに反してコロムビアに入っている、フルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニーを指揮した「第五」（ＪＳ一―五）は存分に劇的で、主観の強烈な、工夫の多いものである。これほど神経の行きわたった「第五」はないが、トスカニーニのに比べては、現実性が<ruby><rb>稀薄</rb><rt>きはく</rt></ruby>で、芝居気を感じさせるかも知れない。しかしこの二つは<ruby><rb>併</rb><rt>あわ</rt></ruby>せ聴いて決して損をしたような心持にはなるまいと思う。

「第六シンフォニー（田園）へ長調作品六八」は、九つのシンフォニーのうちでも最も人に親しまれる。レコードもいろいろ入っているが、今のところブルーノ・ワルターがウィーン・フィルハーモニック管弦団を指揮したレコードをもって第一とする（コロムビアＪ八七四八―五二）。この和やかな牧歌的なシンフォニーを、これほど美しく演奏した例はかつてない。それはきわめてウィーン風であると共に、ワルターの持つ独特の情緒が、美しい微光と愛情になって、全曲を柔らかに押し包んでいく。これに比べるとトスカニーニのは壮大<ruby><rb>雄渾</rb><rt>ゆうこん</rt></ruby>で荒々しく、ワインガルトナーは吹込みが古く、パレーは冷たい。その中で古いシャルクが今でも一部の人に愛せられていることもつけ加えておかなければなるまい。

「第七シンフォニー＝イ長調作品九二」はトスカニーニがニューヨーク・フィルハーモニック管弦団を指揮したレコードを推す（ビクターＪＤ八一九―二三）。それは管弦団の張り切った良さと、それを制御するトスカニーニの気力が、壮烈を極めて見事というも愚かである。この曲の持つ熱情と力感――バッカスの狂乱――と言われた趣は、断じてトスカニーニのものであろう。ワインガルトナーの「第七」は充分美しいが、優麗に過ぎてやや物足りない。

「第八シンフォニー＝へ長調作品九三」は、コンセルトヘボウをマスターする、テレフンケンのメンゲルベルクの老巧さを第一とするだろう。適度の情熱と、そして行届いた注意と、盛り上げていく感興と、――まことに心憎き<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できばえ</rt></ruby>である（四三六〇一―三）。それから、やや古い吹込みではあるが、コロムビアのワインガルトナーも捨て難い名盤である。

「第九シンフォニー（合唱）ニ短調作品一二五」は、ベートーヴェンの幾百の作品中の最高峰であり、何人も打たれずにはおられない名篇であるが、レコードは案外多くはなく、七、八年前に出たウィーン・フィルハーモニーの管弦団と、ウィーン国立歌劇場合唱団を指揮したワインガルトナーのコロムビア・レコードを<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぐものがまだ現れない。この演奏はあまりにも<ruby><rb>瑰麗</rb><rt>かいれい</rt></ruby>であり、ワインガルトナー風に隠健であるが、その代り<ruby><rb>渾然</rb><rt>こんぜん</rt></ruby>たる<ruby><rb>完璧</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>の出来で、この精神的内容の<ruby><rb>熾烈</rb><rt>しれつ</rt></ruby>な曲を、きわめて優雅なクライマックスに導いていく手際は非凡である。聴いていて、これほど美しい「第九」はほかにあり得ない（Ｊ八三七一―八）。合唱者独唱者も第一流で、わけてもバリトンのマイヤーが傑出する。

テレフンケンのヨッフムはそれに比べると強烈で若々しくて、別の良さを持つだろう。

## 序曲

ベートーヴェンの序曲は十二もあるが、その中で「レオノーレ第三」と「コリオラン」と「エグモント」が有名でもあり優れてもいる。「レオノーレ第三」は歌劇「フィデリオ」のために書いた四つの序曲のうちの一つで、ベートーヴェンの特色の最もよく発揮された傑作の一つである。レコードは数え切れないほどたくさんあるが、コロムビアのワルターがウィーン・フィルハーモニーを指揮したレコード（ＪＳ五〇―一）は、劇的な誇張はないが、最も心静かに聴けるものだろう。続いて、同じコロムビアのメンゲルベルクが良い。

「コリオラン」序曲は少し古いがメンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ管弦団以外に良いのはない（コロムビアＪ八〇四二）。世界名盤集にワルターの指揮したのがあるが、ロンドン交響楽団は少し質が落ちる。

「エグモント」序曲はたくさんある。その中でベルリン・フィルハーモニーを指揮したポリドールのフルトヴェングラーは、物々しいが一番良かろう（四五一〇五並びに名曲集）。吹込みはやや古いがメンゲルベルクの指揮のレコードも傑作で、これはビクターとコロムビアと二種類ある。

## ピアノ・ソナタ

ベートーヴェンの三十二曲のピアノ・ソナタは、この楽器に打ち込んだベートーヴェンの魂の記録とも言うべく、九つのシンフォニーに次ぐ重要作品である。一つ一つのレコードについて書くと大変なページを要するので、私は重要と思われている作品について代表的なレコードを挙げることにする。

三十二曲全部ひいたのは、ビクターの「ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ協会」のレコードだけ。演奏者はベートーヴェン弾きとして当代の第一人者アルトゥール・シュナーベル、十三集八十一枚という大物である。これはレコード界の一大偉観で、ベートーヴェンのピアノ・ソナタのスタンダードを示すものともいうべく、きわめて端正な解釈と、練達無比な技巧とで大金字塔を築き上げた感である。一曲一曲比べ聴いても、シュナーベルと違ったベートーヴェンを弾く人はあるが、シュナーベル以上の人は容易にあり得ない。プロフェッサーらしい厳格さと、ヴァーチュオーゾの壮麗さを兼ねて、誰にでも<ruby><rb>堪能</rb><rt>たんのう</rt></ruby>させる演奏であり、きわめて高度の完成感を持った演奏でもある。

なお有名なソナタの一つ一つについて<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたレコードを挙げていくと、「<ruby><rb>悲愴</rb><rt>パセティック</rt></ruby>ソナタ作品一三」にはポリドールのケンプの情熱は挙げられて良い（六五〇二四）。「<ruby><rb>月光曲</rb><rt>ムーンライト</rt></ruby>」はビクターのバックハウスを私は支持する（ＪＤ四八九―九〇）が、ポリドールのケンプもドイツ臭い重厚な良いものだ（三〇一〇八―九）。

「ワルトシュタイン」は三十二のソナタ中でも華麗なものだが、シュナーベルを除けば、私はビクターのラモンドの古い演奏に好意を持っている（Ｄ一九八三―五）。情緒が豊かでポリドールのケンプも良い（四〇五三六―八）。「<ruby><rb>熱情</rb><rt>アパショナタ</rt></ruby>」はシュナーベルを除けばやはりポリドールのケンプのものだろう（Ｓ四〇三三―五）。ただしこのレコードの吹込みは非常によくない。「告別ソナタ」はシュナーベルのほかにバックハウスのビクター盤（ＪＤ六二二―三）以外に良いのがない。「作品一〇九番のソナタ＝ホ長調」「作品一一〇番のソナタ＝変イ長調」「作品一一一番のソナタ＝ハ短調」は、残念ながらシュナーベルに比較するものがない。その中ではケンプのがやや特色的な良さを持つだろう。わけても最後のハ短調のソナタにおけるシュナーベルは名演奏で、吹込みはやや古いが実に<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>たるものだ。

## 弦楽四重奏曲

この十六曲の四重奏曲を通してこそ、ベートーヴェンの本来の<ruby><rb>象</rb><rt>すがた</rt></ruby>を知ることが出来るだろう。わけても作品一二七番以後の晩年の作品は、完全に聴覚を失って後に到達したベートーヴェン最後の心境で、その中には芸術を通して<ruby><rb>淳化</rb><rt>じゅんか</rt></ruby>されたベートーヴェンの<ruby><rb>大諦観</rb><rt>だいていかん</rt></ruby>が盛られていると言ってよい。

十六曲の弦楽四重奏曲はいろいろにレコードされているが、一九二九年に物故した、フランスの名匠カペエの率いたカペエ弦楽四重奏団の入れたレコードが最もよく、それに次いではブッシュ弦楽四重奏団とレナー弦楽四重奏団のものが優れている。カペエ四重奏団のものはもはや十二、三年前の吹込みで、録音の古さは<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>うべくもないが、その<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>き抜かれた芸術境は、最高至純の域に達したもので、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に残した五組のレコードは、まことに世界音楽界の至宝と言ってよい。

この十六の弦楽四重奏曲を備える人は、原則としてカペエを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り、カペエのないものはブッシュを、ブッシュのないものはレナーを採れば大した間違いはない。

作品一八の六つの四重奏曲のうち、第一番はブッシュを、第五番はカペエを私はすすめる。作品五九番の「ラズモフスキー四重奏曲の一番」はカペエの名演奏がある（コロムビアＪ八〇五五―六〇）、二番はレナーの新しい録音があり（同ＪＷ二二五―八）、三番はブッシュがある（ビクターＪＤ三一一―四）。

「ハープ四重奏曲＝変ホ長調作品七四」はカペエがあり（コロムビアＪ七四一〇―三）、作品九五の「四重奏曲へ短調」はビクターのブッシュが名演奏だ（ＪＤ七一―二）。この曲は演奏が困難で、容易にベートーヴェンの深さと美しさに徹しないものだが、ブッシュの手堅いが熱の<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>った演奏は見事にそれを征服している。

後期の四重奏曲、作品一二七番の「四重奏曲変ホ長調」は、ビクターのブッシュがあり（ＪＤ一〇〇八―一二）、一三〇番の四重奏曲はレナーの古いの以外にない。

作品一三一の「四重奏曲<ruby><rb>嬰</rb><rt>えい</rt></ruby>ハ短調」は後の二曲と共にベートーヴェンの最大傑作だが、演奏はカペエとブッシュと二つの名盤がある。カペエは繊麗な美しきで、ブッシュは<ruby><rb>蒼古</rb><rt>そうこ</rt></ruby>な雄大さがあり、いずれとも言い難いが、演奏はカペエに一日の長があり（コロムビアＳ一〇九三―七）、録音はブッシュの方に新しい良さがある（ビクターＪＤ九二五―九）。

作品一三二「四重奏曲イ短調」のカペエは<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>、美妙の名演奏だ。第三楽章の「病後の祈り」の神々しさに至っては断じて比類がない（コロムビアＳ一〇九八―一一〇二）。ブッシュのビクター・レコードも、総体としては見事な出来である。

最後の「四重奏曲へ長調作品一三五」はビクターのブッシュが<ruby><rb>独壇場</rb><rt>どくだんじょう</rt></ruby>だ（ＪＤ四七六―九）。この雄大壮麗な趣や、透徹した美しさはレナーの及ぶところではない、名レコードと言ってよい。

## 三重奏曲

三重奏曲はかなりたくさんあるが、レコードはそんなに多くはなく、ピアノとチェロとヴァイオリンの三重奏曲はたった二つしか入っていない。そのうち「幽霊トリオ（作品七〇ノ一）」はたいしたことはないが、「大公トリオ作品九七」はベートーヴェンの中期の傑作で、カサルス（チェロ）、ティボー（ヴァイオリン）、コルトー（ピアノ）の組合せで入れたいわゆるカサルス・トリオのビクター・レコードは、十二、三年前の古い吹込みであるが、<ruby><rb>厳</rb><rt>げん</rt></ruby>として輝やかしい存在である。曲の良さもあるが、この荘重な美しきは全く言語に絶するだろう（ＪＩ八〇―四）。

## ヴァイオリン・ソナタ

ヴァイオリン・ピアノ・ソナタは十曲ある。十曲全部レコードしたのはビクターにクライスラーとルップの入れた「ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ協会」レコードが四集二十七枚あるが、権威的なものであるにしても、ややクライスラーの老いを感じさせる。

一、二曲の収集を望む人は、まず「スプリング」と称する「ソナタ＝ヘ長調作品二四」と「クロイツェル・ソナタ＝イ長調作品四七」の二つから聴くがよい。

「スプリング・ソナタ」はきわめて甘美な曲で、かつては女流モリーニのがよかったが、それがやや古いという人はコロムビアのゴールドベルクとクラウスのがよかろう（Ｊ八五二一―三）。冷たいほどの美しい演奏である。ビクターのブッシュとゼルキンも名演奏だが、あまりに情愛がない。

「クロイツェル・ソナタ」はおよそベートーヴェンの作品中でも<ruby><rb>妖婉</rb><rt>ようえん</rt></ruby>華麗極まるものだが、私は昔のコロムビアに入ったフーベルマンとフリートマンに今でも<ruby><rb>驚嘆的</rb><rt>きょうたんてき</rt></ruby>なものを感じている。しかしそれはもう古くて問題にならないとすると、やはりクライスラーとルップを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るべきであろうか。もっともこのレコードはティボーとコルトーのビクター盤が今でも一般に愛聴されている。これは穏雅なフランス風の演奏で、一番親しめるからであろう。録音は<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ古い。

## ロマンス

ヴァイオリンの「ロマンス」二曲は良いとか面白いとかいう意味でなく、一般的に知られている。レコードではエルマンが「第一番ト長調作品四〇」と「第二番へ長調作品五〇」を二つとも入れているが、たいした魅力はない。ティボーは支持者があるにしてもいかにも古い。

## チェロのソナタ並びにチェロ曲

チェロのソナタは三曲入っている。カサルス（チェロ）とシュルホーフ（ピアノ）の「チェロ・ソナタ＝イ長調作品六九」は絶対的な名盤で、吹込みの古いにかかわらず、この広大な<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>と、堂々たる威容に帽子を脱がせる。もう一つ「チェロ・ソナタ＝ハ長調作品一〇二ノ一」はビクター愛好家協会の第三集にあるレコードだが、この曲は最後のチェロのソナタ（ニ長調）と共に、ベートーヴェンの晩年の心境を描いたもので、やや苦渋ではあるが、情熱的な深さを持った曲である。カサルス（チェロ）とホルスゾフスキー（ピアノ）の演奏は通俗さはないが見事なものである。

ピアティゴルスキー（チェロ）とシュナーベル（ピアノ）は「チェロ・ソナタ＝ト短調作品五ノ二」を入れているが、あまり<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えない。むしろ古い吹込みではあるが、カサルスの「魔笛中の主題による七変奏曲」（ビクターＪＦ八〇―一）の方に魅力と美しきを感じさせる。

## ピアノ協奏曲

五つの「ピアノ協奏曲」は無条件にビクターのシュナーベル演奏のものに<ruby><rb>左袒</rb><rt>さたん</rt></ruby>する。管弦楽を指揮したサージェントが、甚だ不満足であるとしても、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しくシュナーベルの黄金盤を<ruby><rb>害</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねるとは言われない。

わけても第四番と第五番（皇帝）が傑出している。第四番にはバックハウスの<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたレコードもあるが、常識的にはやはりシュナーベルを揃えるのが穏当だろう。「第一」と「第五」はギーゼキングのもあるが、異色のある演奏で、現代人好みではあろうが、なんとなく物足りない。ここにシュナーベルのレコードの番号だけを掲げておく。

第一ピアノ協奏曲ハ長調（ビクターＪＤ一七―二一）

第二ピアノ協奏曲変ロ長調（ＪＤ六三九―四二）

第三ピアノ協奏曲ハ短調（ＪＤ一七四―八）

第四ピアノ協奏曲ト長調（ＪＤ一二四―七）

第五ピアノ協奏曲（皇帝）変ホ長調（ＪＤ三一一九―二三）

## ヴァイオリン協奏曲

「ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品六一」は、少なくとも十種類くらいのレコードがあるだろう。ベートーヴェンの作品中でも最も人に愛される曲であり、その<ruby><rb>灼熱的</rb><rt>しゃくねつてき</rt></ruby>な美しさは人を鼓舞してやまない。

その<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいレコードのうち、私はやはり録音は古くとも、クライスラーの電気初期の吹込みに愛着を感ずる（ビクター八〇七四―九）。それは実に心細い録音ではあるが、四十歳台のクライスラーの絶頂的な芸術境をレコードしたもので、その豊麗な美しさや、<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>るばかりの情愛は、全く比ぶべきものもない。管弦楽はベルリン国立歌劇場のそれ、指揮はブレッヒ、最初Ｈ・Ｍ・Ｖでこのレコードの輸入された当時の感激を私はまだ忘れることは出来ない。

二度目にクライスラーがこの曲をレコードしたのは、それから七、八年後のことである。技巧的にはさしたる衰えもないが、もはやさきの日の輝きがなく、滋味はあっても美しさにおいて同日をもって語ることは出来ない。

コロムビアのシゲティー、パルロフォンのヴォルフシュタールなどクライスラーに続いて忘れ難いレコードである。

## 宗教音楽、歌曲

「<ruby><rb>荘厳弥撒</rb><rt>ミサ・ソレムニス</rt></ruby>」は、「第九シンフォニー」「後期の四重奏曲」と共に、ベートーヴェン晩年の貴重な作品で、おそらく人間の創り出せる古今の芸術作品中の最高位に置かるべきものである。「心より出ず、再び心に<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>かんことを」と頭書したベートーヴェンの心境も尊い。

レコードはポリドールからたった一組出ている（大日本名曲レコード頒布会Ｍ一―一一）。有名なブルノ・キッテルが、ベルリン・フィルハーモニー管弦団とブルノ・キッテル合唱団を指揮したもので、独唱者も非常に良い。吹込みはもはや十二、三年前のものだが、このレコードばかりは少しも値打を下げないような気がする。

歌曲のうちでは、ロッテ・レーマンの歌った「フィデリオ」第一幕の「レオノーレの詠唱」（コロムビアＪＷ三〇）、「エグモント」の「太鼓が鳴った」「喜びと悲しみ」（コロムビアＪ五五五〇）などがすぐれている。

ポリドールのバリトン歌手シュルスヌスの歌った「アデライデ」は歌も歌い手もベートーヴェンの歌曲では第一位のレコードだろう（六〇一八四）。「神の<ruby><rb>稜威</rb><rt>みいつ</rt></ruby>」はヒュッシュやタウバーの独唱、ベルリン独唱者連盟の合唱などがあるが、私は旧盤のシュワルツをいつでも思い出す。「暗き墓場」はシャリアピンとシュルスヌスといずれも巧者だ。

  


## 旋律の泉シューベルト

  


音楽を口にする者で、「未完成交響曲」や「冬の旅」の美しさを知らないものがあろうか。それは小むずかしい理屈で<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ね上げた音楽ではない。初夏の<ruby><rb>薫風</rb><rt>くんぷう</rt></ruby>に歌う鳥のように、心から<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き出ずる旋律を、すばらしい天才で処置し、五線紙に留めて百千年の後に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>した人類への恩恵そのものだったのである。

「未完成交響曲」を作り、「<ruby><rb>菩提樹</rb><rt>ぼだいじゅ</rt></ruby>」を作り、「<ruby><rb>鱒</rb><rt>ます</rt></ruby>の五重奏曲」を作り、「アヴェ・マリア」や「魔王」を作った、フランツ・シューベルトこそは、いつの世にも我らの身近に生きつつある、万人の心の友であったと言って、なんの誇張があろう。

十九世紀のロシアの大ピアニストにして、<ruby><rb>旋毛曲</rb><rt>つむじまが</rt></ruby>りのルービンシュタインは、シューベルトの「白鳥の歌」の一つなる「<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>いの地」を聴いてこう言った。「もう一度、いや千度でも（その歌を繰り返してくれ）。バッハ、ベートーヴェンと共に、シューベルトこそは、まことにドイツ音楽の三大巨峰である」と。

この言葉には少しの誇張もない。我らの精神生活に食い込んで、<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>に<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>に、<ruby><rb>浄</rb><rt>きよ</rt></ruby>らかな<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>と感激とをもたらす音楽は、シューベルトをもって第一とすることはおそらく何人も異論のないところであろう。シューベルトの音楽にはバッハの儀容も、ベートーヴェンの威厳もなく、モーツァルトの<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>さもブラームスの端正さもないが、<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>かしさと優しさと、<ruby><rb>泌</rb><rt>し</rt></ruby>み出る愛情と輝く美しさは、人間に音楽あって以来、かつて例を見ざる<ruby><rb>比</rb><rt>たぐい</rt></ruby>のものである。これを人文史上のオアシスと言うもよく、芸術の中の芸術と見るもまた<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げない。シューベルトこそは<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>に人間の母の生んだもののうち、最もよき魂であり、百世変ることなき、人類の友であると言えるだろう。

シューベルトは「彼自身世界一と自任しない唯一の作曲家であった」と言われている。彼は自分の天才を少しも知らなかったほどの謙遜な魂の持主で、たまたまその歌がやんやと言われると、「それは歌い手のフォーグルがうまいせいだ」と信じていた。現にその日記に「その<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>の大部分はゲーテの詩のためであろう」と書いているほどである。人に示すために書くのでない日記にまでも、シューベルトの<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>しさ謙虚さがこう反映せずにはいない。これを「俺は百年に一度生まれる天才」と信じて疑わなかったモーツァルトに比べて、なんという大きな性格の違いであろう。

シューベルトの優しく美しき音楽は、この小児の如き心根に<ruby><rb>胚胎</rb><rt>はいたい</rt></ruby>したのである。春の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の如く、聴く者の心を和めずにおかないのも、また<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>ありと言うべきである。

## 歌うための生涯

フランツ・シューベルト（<em>Franz Schubert</em>）は一七九七年、貧しい小学校長の第十三番目の子として、音楽の都ウィーンに生まれた。父親の俸給はわずかであり、その生活は容易ならぬものであったにもかかわらず、家庭の空気は神聖できわめて音楽的であった。シューベルトは音楽の手ほどきは、父親と兄から受け、家庭の<ruby><rb>団欒</rb><rt>だんらん</rt></ruby>を楽しくした家族の室内楽演奏で、チェロの父親がのべつに<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、ヴィオラのシューベルトに、始終遠慮がちな注意を受けなければならなかった。

土地の合唱指揮者に音楽理論と歌唱法を教わったが、先生が教えようとすることは、小さいシューベルトはことごとく先を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って知っているので、間もなく先生の方から引き退るほかはなかった。十二歳の時、兄<ruby><rb>譲</rb><rt>ゆず</rt></ruby>りの古帽子に、母親の手縫の服を着、小柄で弱気で、強度の近眼鏡をかけた<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い顔の少年は、宮廷楽手を養成するコンヴィクトに入り、そこではかつてベートーヴェンの先生であった、有名なサリエリとルツィカに教わった。

その頃から少年シューベルトの楽想は、噴泉の如く<ruby><rb>奔騰</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>したが、それを書く紙がなかったので、先輩にして生涯のよき友人であったシュパウンは、紙を与えてシューベルトの天才の所産を書かせたりした。十六の時声変りがして、宮廷合唱隊を去ることになったシューベルトは、もう「第一交響曲」を書き上げているほどの飛躍ぶりであった。

その後二、三年、代用教員として、父の小学校を手伝い、十七歳で「<ruby><rb>紡車</rb><rt>つむぎぐるま</rt></ruby>のグレートヒェン」を含む十七曲の<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>を作った。後世に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>るシューベルトの遺産の最初のものである。翌一八一五年は、百五十七曲の歌曲を書き、その中には「<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>」や、「魔王」などがあった。わけても「魔王」はその年の暮のある日、ゲーテの詩を読んで霊感に打たれ、<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたもののようになって、四、五時間で書き上げたが、シューベルトにはその作曲を助けてくれるピアノもなにもなかった。ちょうどそこへ遊びに来たシュパウンは、シューベルトをつれてコンヴィクトに行き、シューベルト自身伴奏を弾きながら歌って友人達にやんやと言われた。

それから一八二八年、三十一歳の若さで死ぬまで、シューベルトは実に一千二百の作曲を遺したが、その半分以上は歌曲である。シューベルトは、歌うために生まれて来た人のようであった。野の鳥の如く歌ったと言ってもよい。シューベルトの楽想は、<ruby><rb>滾々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>として尽くる時がなく、手近に詩集があれば、取り上げては直ちにそれに作曲した。驚くべき天才の<ruby><rb>奔騰</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>のために、<ruby><rb>偶々</rb><rt>たまたま</rt></ruby>そのはけ口を座右の詩に求めたのかも知れない。シューベルトにおいては、作曲は少しも労苦ではなく、旋律と和声の噴泉が、絶えず<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き上って、その<ruby><rb>奔注</rb><rt>ほんちゅう</rt></ruby>の道を求めていたのである。シューベルトは<ruby><rb>歌劇</rb><rt>オペラ</rt></ruby>、<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>、<ruby><rb>弥撒</rb><rt>ミサ</rt></ruby>、室内楽、<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>、その他あらゆる形式の作曲をし、かつてその天才の泉の<ruby><rb>涸渇</rb><rt>こかつ</rt></ruby>する気色も見せなかった。万有還金という言葉があるが、シューベルトにとっては万有還楽である。<ruby><rb>森羅万象</rb><rt>しんらばんしょう</rt></ruby>ことごとく音楽の題材ならざるはなく、その思想の動きがすべて旋律と和声とを持っていたと言っても<ruby><rb>差</rb><rt>さ</rt></ruby>しつかえはない。

## 放浪生活

十九歳のシューベルトはライバッハの音楽学校長の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>って、才能の<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに低い候補者に打ち負け、それから三十一歳まで、完全にその生涯を無職で押し通さなければならなかった。その間家庭教師になったり、<ruby><rb>幾何</rb><rt>いくばく</rt></ruby>の作曲料が入ったりしたが、ボヘミアン生活にはなんの変りもなく、いつの間にやら、彼をめぐって「シューベルト組」なる仲間が出来、他愛もないことに騒ぎ暮す日が際限もなく続くのであった。

無名の詩人達は、シューベルトの友人であったばかりに、その詩に作曲してもらって、百代の名を残した。中にはシューベルトを助けた者もあるが、多くはシューベルトのたまたま<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けた数フロリンを、酒とソーセージにしてしまう場合の方が多かった。

シューベルトは誰にでも愛されたらしい。その謙虚な人なつかしい性格を、一度逢った者は忘れることが出来なかった。シュパウンは後に社会的地位を得て物質的にシューベルトを後援し、遙か年長の歌い手フォーグルはシューベルトに対して、「君は見込がある、が喜劇役者でなさすぎる。そんなに美しい思想を濫費してはいけない」と言いながらも、シューベルトの歌の魅力を忘れることが出来ず、機会あるごとにそれを歌って社会に紹介してくれた。フォーグルの言った「音楽になった言葉と詩」「音楽の着物を着た思想」を、多くの人は次第に理解していったのである。

ショオベルはシューベルトの貧困がその伸び行く天才の芽を枯らすことを怖れて、自分の家に引き取って、金になりそうもない作曲を続けさせるために、その生活費を支弁してやったこともある。ウィーンの<ruby><rb>碩学</rb><rt>せきがく</rt></ruby>ワッテルロート教授、その愛嬢ウィルヘルミ、ウィルヘルミの夫ヴィッテチェックなどはいずれもシューベルトの良き友人として、生涯変ることがなかったばかりでなく、ヴィッテチェックなどはシューベルトの死後その遺稿の整理収集までやってくれた。それらは皆、人間シューベルトの良き性格の反映と見るべきものである。

## 浄き貧しさ

一八一八年、二十一歳のシューベルトは、ハンガリーのエステルハツィ伯の家庭教師として雇われ、多くの友人達と別れてエステルハツィ城にしばらく滞在した。伯爵令嬢マリイエはその時十三歳、妹のカロリイネは十一歳、伯爵のバス、伯爵夫人とカロリイネのアルト、マリイエの美しいソプラノがシューベルト伴奏で楽しく歌った。シューベルトの受けた報酬は一授業わずかに二フロリンにすぎなかったが、作曲の時間があるのと、田園の風物に親しむことの出来たのが、ウィーン児のシューベルトにとってはなかなかに楽しい経験であった。

映画「未完成交響楽」はこのハンガリー時代のシューベルトに題材を採り、巧みに劇化したものであるが、実際はシューベルトの相手として、二人の令嬢は少し若過ぎたかも知れない。

シューベルトのハンガリー時代も、そう長くは続かなかった。それから幾年かの間、ウィーンでどうして暮したか。シューベルトの経済生活には時々わからないことがある。出版屋は愚劣な流行作家のものを出版するのに忙しいという口実で、十二曲をわずかに百六十フロリンで引き受けても、シューベルトは文句を言えなかった。その中の「さすらい人」一曲だけでも、出版屋は一八二二年から四十年間に二万七千フロリンを<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けている。

<ruby><rb>畢生</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の大傑作「冬の旅」二十四曲は、一曲わずかに一フロリンずつで買われた。珠玉を<ruby><rb>鐚銭</rb><rt>びたせん</rt></ruby>に代える如きものであるが、出版屋はそれをさえ恩に着せた。

窮乏と困苦の年は続いた。シューベルトは<ruby><rb>生粋</rb><rt>きっすい</rt></ruby>のウィーン児で、金持や貴族に自分を買い<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>らせて生活を安易にする<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>は知らなかった。あらゆる賞讃や注目から身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、いつでもその貧しい友人の中に<ruby><rb>晏如</rb><rt>あんじょ</rt></ruby>として暮しているシューベルトだったのである。

シューベルトの弱気は非凡であったが、そのベートーヴェン崇拝も容易なものではなかった。一人でこの老大家を訪ねることなどは思いも寄らず、一八二二年楽譜屋につれて行ってもらって始めて逢ったが、この老大家が鉛筆と紙を出してくれたのに、一句も書くことは出来なかった。ベートーヴェンはシューベルトの持って来た作品に目を通して、和声の誤りを二、三指摘したが、若きシューベルトは、それさえもきまりが悪くなってコソコソと逃げ出してしまった。

ベートーヴェンは其曲を愛好して<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>のカールに演奏して聴かせ、「シューベルトは神聖な火を持っている」と言っていた。

五年後もう一度シューベルトが訪ねたときは、ベートーヴェンはもう死の床に横たわって口もきけないほどの容態であった。シューベルトはこの瀕死の老大家をながめて、手を組んだまま一語もきかずに、涙を浮べて帰った。それから十四日経って、ベートーヴェンは死んだ。シューベルトは三十八人の<ruby><rb>炬火持</rb><rt>たいまつもち</rt></ruby>の一人として、<ruby><rb>棺側</rb><rt>かんそく</rt></ruby>に従ってこの巨人の<ruby><rb>遺骸</rb><rt>いがい</rt></ruby>を送ったが、その頃からシューベルトもまた健康がすぐれなかった。

翌一八二八年夏、<ruby><rb>眩暈</rb><rt>めまい</rt></ruby>と頭痛に悩まされ、医者に勧められて郊外に移り、十月の末のある日友人と夕食を<ruby><rb>摂</rb><rt>と</rt></ruby>っていて、「食べるものが毒のようだ」と、ナイフとフォークを投げ出した。それが致命的な病気の徴候だったのである。

十一月になって十一日間も飲食しない日もあった。ベッドから椅子へ行って、ヨロヨロと帰るのが精一杯だ――と友人に書いていたが、数日後には大熱を発し、十一月十九日、「僕は地上にいられない、ここにはベートーヴェンはいない」と言って死んだ。ヘンリー・フィンクが言ったように、それは「金さえあれば伸ばすことの出来る命」であったかも知れない。

<ruby><rb>遺言</rb><rt>ゆいごん</rt></ruby>によって、ベートーヴェンの墓の<ruby><rb>側</rb><rt>かたわら</rt></ruby>に葬られたが、それが三十一歳で<ruby><rb>夭折</rb><rt>ようせつ</rt></ruby>した、<ruby><rb>稀代</rb><rt>きだい</rt></ruby>の天才のせめてもの満足であったことであろう。<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>されたガラクタ――<ruby><rb>古靴</rb><rt>ふるぐつ</rt></ruby>や古寝台や古ズボンは六十三フロリンで評価された。その中には不朽の名作ハ長調の「交響曲」の手写譜が交っていたのはあまりにも痛ましい皮肉である。

## 天才の奇蹟

シューベルトの貧しさと、その人間的な良さはひと通り書いた。私は最後に最も重要な特質、シューベルトの天才の<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>と、その音楽上の功績、――わけてもドイツ<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>を確立した画期的な偉業について、ほんの少しばかり書き添えなければならない。

シューベルトの天才は全く人間離れのしたものであった。友人達と郊外を散歩して旗亭に休んだ時、棚の上のシェークスピア全集の中から<ruby><rb>詩篇</rb><rt>しへん</rt></ruby>を抜き出して、「僕は今すばらしい楽想が浮んだが五線紙がないかなア」と言い出した。友人がさっそくメニューの裏に鉛筆で五線を引いてやると、その上にサラサラと書いたのが、有名な「聴け聴け<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>」の高朗な名歌曲であった。

夜中楽想の浮んだとき、飛び起きてすぐ書けるように――一つは無精も手伝って――、シューベルトは<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>をかけたまま、寝る習慣があった。ある夜飛び起きて、興の趣くまま「<ruby><rb>鱒</rb><rt>ます</rt></ruby>」の曲を書いたが、吸取紙の代りに使う<ruby><rb>砂壺</rb><rt>すなつぼ</rt></ruby>とインキ壺を間違えて、書いた楽譜の上へインキを振りかけたのが、今日までの貴重なシューベルトの遺品として残っている。

「一寸法師」は友人と話しながら書き、「美しき水車小屋の<ruby><rb>乙女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>」は、友人の家を訪ねて、その留守の室で読んだ、ミュラーの詩に魅せられ、詩集を無断で拝借して来て作曲したものであった。この<ruby><rb>奔騰</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>する天才の<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>は、第一交響曲の完成に十年を要し、第九交響曲の合唱部の<ruby><rb>主題</rb><rt>テーマ</rt></ruby>を三十年ノートに秘めておいた、ベートーヴェンの努力ぶりと比較して、なんという興味の深い相違であろう。

シューベルトは詩から詩へ、楽想から楽想へと動いていった。一つの作曲をおわれば、ケロリと忘れて次の作曲に取りかかるのが、シューベルトの流儀だったのである。友人の歌手フォーグルがシューベルトの作曲した<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>に少しばかり手を入れて二週間目に持って行って見せると、「これはちょっと悪くないネ、誰の作ったのだ」と言った。自分の作曲をすっかり忘れていたのである。

シューベルトは霊感に身を<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねて、奔流の如く作曲したのである。十八年間一千二百曲の生産は、名誉も金も代償として考えたものではなかった。

傑作中の傑作「冬の旅」二十四曲の歌に作曲した時のことを、良き友シュパウンはこう書き残している。「シューベルトは気むずかしく沈んでいた。どうしたのか尋ねると、今に判るよと言った。ある日シューベルトは、ショオベルの家へ行って、冬の旅二十四曲全部を歌って聴かせた。われわれはその歌の<ruby><rb>陰惨</rb><rt>いんさん</rt></ruby>さに途方にくれた。ショオベルは<ruby><rb>菩提樹</rb><rt>ぼだいじゅ</rt></ruby>一つだけが気に入る歌だというと、シューベルトは、僕は僕の作ったほかのどんな歌よりもこの全部が好きだ、いつか君達も好きになる時が来るだろうよと言った」

なんというそれは悲しい自信であったことか、二十四<ruby><rb>顆</rb><rt>か</rt></ruby>の夜光の<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>に比ぶべき「冬の旅」は、作曲当時、その友人達にも理解されなかったのである。しかしシューベルトの言った「いつか君達も好きになる時が来る――」という言葉は見事に的中した。「冬の旅」二十四曲に<ruby><rb>優</rb><rt>まさ</rt></ruby>る歌がこの世の中に果してあり得るだろうか。人間の作ったもののうちで、あの中の一つ、「お休み」や「菩提樹」や「春の夢」や「道しるべ」や「<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>音楽師」に匹敵する美しい歌が他にあったであろうか。

続いてレルシュタープとハイネの詩に作曲した十四曲の歌は、シューベルトの死後「白鳥の歌」（告別の歌の意）として出版され、今さら世の人々は、<ruby><rb>薄幸</rb><rt>はっこう</rt></ruby>な天才シューベルトに辛かりしことをひしひしと後悔した。「白鳥の歌」の十四曲中、「アトラス」「都会」「セレナード」「<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>いの地」「海辺にて」「<ruby><rb>影法師</rb><rt>かげぼうし</rt></ruby>」などはわけても珠玉的である。

ドイツのリードはシューベルトによって完成された。

シューベルト以前にも<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>はあったが、モーツァルトもベートーヴェンも、歌曲における限りは、あまり傑作を持たない。

シューベルトはドイツのアクセントに<ruby><rb>深甚</rb><rt>しんじん</rt></ruby>な注意を払い、ドイツ語の詩の美しさを生かして全く新しい歌曲を創始したのである。シューベルトは旋律の宝庫であったばかりでなく、転調の名人でもあった。さらに伴奏部に背景としての重要な役目を持たせ、ここに詩と歌と伴奏との三位一体の理想を異現し、音楽と詩との有機的な結合を果したのである。

シューベルトの歌曲は全く独自の美しきに溢れる。傑作は「美しき水車小屋の<ruby><rb>乙女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>」二十曲、「冬の旅」二十四曲、「白鳥の歌」十四曲のほかに、一曲ずつ独立したものとしては、「さすらい人」「魔王」「<ruby><rb>鱒</rb><rt>ます</rt></ruby>」「死と乙女」「<ruby><rb>汝</rb><rt>なれ</rt></ruby>こそ<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>い」「<ruby><rb>連祷</rb><rt>れんとう</rt></ruby>」――等、限りもない。

この世にシューベルトの音楽のあることはなんという幸福なことであろう。シューベルトの歌曲の良さは言うまでもないが、「未完成交響曲」一曲を護るために、私はあらゆる交響曲を捨てても惜しくない――とまでに極論したことさえある。

「鱒の五重奏曲」「死と乙女の四重奏曲」を始め多くの室内楽、<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>なピアノの「即興曲」まで、シューベルトの音楽は、いつでもわれわれの身近に、愛と美と輝きとを、惜しみなく<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らしてくれるのである。

  


## シューベルトの作品とそのレコード

シューベルトの音楽が、いかにわれわれに親しい存在であるかは繰り返して書いた。そこには<ruby><rb>比</rb><rt>たぐ</rt></ruby>い<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>なる美しさと、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>るるばかりの愛情とがある。が物々しい重圧も、いわゆる名曲的な<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>もなく、直ちにわれわれの<ruby><rb>肺腑</rb><rt>はいふ</rt></ruby>に入って、シューベルトと共に歌わせなければやまない良さがあるのである。

シューベルトのレコードの量は、ベートーヴェンに次いで<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく、おそらくモーツァルトやバッハにも勝るであろうが、そのうちから私は最も代表的なもの、最も興味の深いものを、十中の一、二だけ抜くに止めておく。

## シンフォニー

「未完成シンフォニー」のレコードは、筆者の知れる限りでは、三十年前から入っているはずである。世界にはおそらく、二十組以上の「未完成」レコードがあるだろう。およそ人間の手で作られた音楽のうちで、これより偉大なるもの、これより立派なものはあるかも知れないが、これほど美しいものは<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>にあり得ない。「未完成」のレコードが百種あったところで、われわれは少しも驚くに当らない。

「未完成」のレコードのうちから、たったひと組だけ採るとしたならば、私はウィーン・フィルハーモニック管弦団を指揮した、ワルターのコロムビア・レコードを選ぶだろう（Ｊ八六四二―四）。それはいささかの芝居気もなく、平明枯淡な演奏ではあるが、柔らかな愛情と、ロマンティックな夢のうちに、そっと我らの心を押し包んでくれるからである。それに続いて私はさらに甘美で、さらに感傷的なテレフンケンのクライバー指揮を挙げるだろう。

「交響曲ハ長調」は長いシンフォニーとして知られているが、今日の常識から見れば、それほど長いわけではなく、かえって私はこのシンフォニーの美しさから言えば、短か過ぎるようにさえ感ずるのである。レコードはワルターがロンドン交響楽団を指揮したのがコロムビアに入っている（ＪＳ一〇七―一二）。他に四、五種入っているが、あるいは古く、あるいは面白くない。

## 序曲と間奏曲と舞曲

「ロザムンデ」の序曲や間奏曲や舞曲は、シューベルトらしい簡素な魅力を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えたものだが、レコードではどういうものかあまり良いのがない。少し古いがポリドールのベルリン・フィルハーモニーを指揮したフルトヴェングラーのもの（Ｓ四〇四一、フルトヴェングラー名盤集）と、新しいのではコロムビアにワルターがロンドン交響楽団を指揮したのがある（ＪＳ一一五）。「ドイツ舞曲」はビクターのブレッヒ指揮の以外に良いのを記憶しない（ＪＤ二〇二）。

## 室内楽

「ピアノ三重奏曲」は二つ、そのうち「三重奏曲変ロ長調作品九九」の方が美しく、レコードも四、五種入っている。カサルス、ティボー、コルトーの三名手を組合せたビクター・レコード（八〇七〇―三）は、電気初期のものできわめて古い吹込みにかかわらず、依然としてこの曲の王座を貧乏ゆるぎもしない。ほかにポリドールにナイ三重奏団、コロムビアにヘス三重奏団のが入っている。

「変ホ長調作品一〇〇」の方はビクターのブッシュ（ヴァイオリン）、ゼルキン（ピアノ）三重奏団のが入っている（ＪＤ七四五―九）。

弦楽四重奏曲では「死と<ruby><rb>乙女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>」の四重奏曲と言われる「弦楽四重奏曲ニ短調」にレコードは集中されている。第二楽章に歌曲「死と乙女」が<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り入れられ、美しいがこの上もなく物悲しい変奏曲となっているためで、弦楽四重奏曲ではベートーヴェンを除けば、これほど美しくこれほど人を打つ曲を作った人はない。レコードは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ古いが依然としてコロムビアのカペエ四重奏団の繊細な気品の高いのを第一とし（カペエ協会第八集Ｓ一一〇三―六）、ビクターのブッシュ四重奏団の重厚な良さがそれに次ぐだろう（ＪＤ一〇三一―四）。

もう一つ四重奏曲で「弦楽四重奏曲イ短調作品二九」のコーリッシュ四重奏団を<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げて良いと思う（コロムビアＪ八四一三―六）。

五重奏曲は「ピアノ五重奏曲イ長調（<ruby><rb>鱒</rb><rt>ます</rt></ruby>）作品一一四」一つでも充分シューベルトを代表する。第四楽章の歌曲「フォレルレ」を主題として作った変奏曲が美しいからでもある。レコードはビクターのシュナーベル（ピアノ）とプロ・アルテ四重奏団の明朗寛達なのを第一とし（ＪＤ七八六―九〇）、テレフンケンのルップ（ピアノ）とシュトロッス四重奏団のを第二とするだろう。

「弦楽五重奏曲ハ長調作品一六三」は第二チェロを加えた五重奏曲で、スケールの大きい、厚壮な五重奏曲である。ビクターにプロ・アルテのがある（ＪＤ六一五―九）。

## ピアノ曲

「ピアノ・ソナタ＝イ長調（遺作）」はシューベルトのピアノ・ソナタ中の傑出したもので、その晩年の深さが、華麗な形式のうちに秘められている。レコードはビクターにシュナーベルの名盤がある（ＪＤ一〇八七―九一）。

「幻想曲（さすらい人）ハ長調作品一五」は、第二楽章に歌曲「さすらい人」から<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>った主題と変奏を持っている、シューベルトらしい良い情熱を持った曲で、レコードはビクターにフィッシャーのがある。素直な良い演奏であると思う（ＪＤ六〇六―八）。

「即興曲」はシューベルトの無邪気さと<ruby><rb>奔逸</rb><rt>ほんいつ</rt></ruby>する天才の現れで興味が深い。ビクターにはフィッシャーの演奏で二集入っている。「即興曲作品九〇」（ＪＤ一四二四―六）と「即興曲作品一四二」（ＪＤ一四二七―九）で、この演奏は古典弾きのプロフェッサーらしい素直さと情熱があってうれしい。

「楽興の時（作品九四）」には、シュナーベルの名盤がある（ビクターＪＤ一五八四―六）。これもまたシューベルトの天才の一面を語るもので、邪念のない美しさにほほ<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>ませるだろう。「行進曲」は、ビクターにシュナーベル<ruby><rb>親子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の連奏で五曲入っている。楽しくも<ruby><rb>爽快</rb><rt>そうかい</rt></ruby>なものだ（ＶＤ八〇二一―三）。

以上三つのピアノ曲、「即興曲」と「楽興の時」と「行進曲」はいろいろのレコードがあり、ヴァイオリンやチェロや管弦楽に編曲したものもあるが、フィッシャーとシュナーベルと、同父子のレコードで充分だと思う。わずかに行進曲のうちの「軍隊行進曲」をタウジッヒが独奏用に編曲したのが、ポリドールにブライロフスキーの佳作がある（四〇五〇八）。

## ヴァイオリン、チェロ曲

ヴァイオリン・ピアノ・ソナタも幾つかレコードされているが、結局「大幻想曲ハ長調作品一五九」以外には大したものはない。この曲はシューベルトのもののうちでも、きわめて幽幻な第一楽章と、それに対比して歌曲「挨拶」と同じ旋律を用いた軽やかな第二楽章を持ったもので、ビクターに入っている唯一のレコード、ブッシュ（ヴァイオリン）、ゼルキン（ピアノ）は吹込みは古いが優雅な良いレコードである（ＶＤ八二〇三―五）。

チェロのソナタには「イ短調（アルペジオ）」がある。今は<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろ</rt></ruby>びたアルペジオという楽器のために書いたもので、コロムビアにはチェロの協奏曲に編曲したのもあるが、どちらも面白い。がここでは前者のヘルシャー（チェロ）、ナイ（ピアノ）のビクター・レコード（ＪＨ二二―三）、フォイアマン（チェロ）、ムーア（ピアノ）のコロムビア・レコード（ＪＷ七五―七）を挙げておく。甘美な面白い曲だ。

## 歌曲

シューベルトの良さはやはり歌であり、その天才の輝きは、リードを通して千古の魅力となるであろう。

三大歌曲のうち「美しい水車小屋の乙女」は絶対的に私はビクターのバリトン歌手ゲルハルト・ヒュッシュを推す（ＪＤ七二四―三一）。この二十曲一連のロマンティックな歌を、これほど巧みに、しかも正直に歌って、<ruby><rb>平坦</rb><rt>へいたん</rt></ruby>なうちに繊細な美しさと、深沈たる悲しみを出し得る人はない。

「冬の旅」二十四曲は「美しき水車小屋の乙女」以上に歌も<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れているが、これを歌っているヒュッシュの<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できばえ</rt></ruby>はさらにすばらしい。この歌はシューベルトの死の暗示であったと言われるきわめて陰惨なものであるが、ヒュッシュの演奏はリードの約束に厳格に相応したものでありながら、しかもその表現は限りなく深々として、身につまされる美しきを持っている。ビクターはこの一集九枚の大物を三度までプレスして出しているのは、日本人のドイツ・リードに対する理解のお陰であると思う（シューベルト歌曲集ＪＤ三五七―六二、ＪＦ五〇―二）。

「冬の旅」の中で一、二曲ヒュッシュと<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んで推賞すべきレコードがある。それは後の<ruby><rb>条</rb><rt>くだり</rt></ruby>に。

「白鳥の歌」は「冬の旅」よりも陰惨だ。そのうち「<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>いの地」や「影法師」や「<ruby><rb>海辺</rb><rt>うみべ</rt></ruby>にて」は聴くに堪えないものがあるが、歌の良さもまた格別である。悲劇的な芸術の美しさとして、これに匹敵するものは決して沢山ない。この十四曲の歌にはヒュッシュのがなく、ビクターに入っているバリトンのハンス・ドゥハンのが唯一の全曲レコードである（ＪＥ一一四―七、ＪＤ一〇五七―九）。ドゥハンは決して巧者な人ではないが、素直で端的で、「憩いの地」のようなものは非常に良い。

一枚物のレコードでは、歌手の方から分類すると、ポリドールの名テナー歌手スレザークでは電気の初期に入ったものほどよく、わけても「<ruby><rb>菩提樹</rb><rt>ぼだいじゅ</rt></ruby>」と「セレナード」と「海辺にて」と「君こそ安らいなれ」と「<ruby><rb>焦燥</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>」が絶品である（ポリドール、スレザーク愛唱曲集）。これほど行届いた愛情と、巧みな技巧で歌われたシューベルトはない。

同じポリドールのバリトン歌手シュルスヌスは、<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な調子で陶酔的な心持で歌う歌が良い。「魔王」「セレナード」「さすらい人」などは代表的なレコードだろう（ポリドール、シュルスヌス愛唱曲集）。

女流ではメゾ・ソプラノのエレナ・ゲルハルトが傑出している。わけてもこの人のまだ若い頃吹込んだ電気のきわめて初期のシューベルトには、さすがに名品と称すべきものがあると思う。理解の深さと、深沈たる声と、きわめて特異な表現である。ビクターに入っている「辻音楽師」「春の夢」「鱒」「水に寄せて歌える」はその最も傑出したもので、「道しるべ」「お休み」「菩提樹」「<ruby><rb>駅逓</rb><rt>えきてい</rt></ruby>」はこれに次ぐだろう。

ビクターのソプラノ歌手エリザベト・シューマンは可愛らしい清澄な声で日本のファンに喜ばれる。「<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>」「アヴェ・マリア」「聴け<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>」といった可愛らしいものが良い。

ロッテ・レーマンはコロムビアに入っている「魔王」や「死と<ruby><rb>乙女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>」が聴かれる。ビクターのギンスターにも幾枚かあり、シュナーベル夫人にもあるが、それは省略する。

アルト歌手では黒人と混血児で近頃有名になったビクターのアンダーソンがある。私はあまり好まないが「死と乙女」などが代表作だろう。ビクターのオネーギンは老巧無比で、「君こそ我が憩い」が非常にうまい。シューマン‐ハインクの「魔王」もここに掲げてよかろう。あとはさしたるリード歌手はないように思う。

  


## 純情の奇才ベルリオーズ

  


## 小児の心

世にも不思議な音楽家はエクトル・ベルリオーズである。

作曲家としての彼の業績は、山の頂上から頂上への超人的大飛躍であり、芸術家としての気宇は、英雄的でさえあったにかかわらず、人間ベルリオーズは、小児の如く純情で、<ruby><rb>乙女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>の如く感傷的で、彼自身の制御さえ<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>なく、心の弱さをことごとに<ruby><rb>暴露</rb><rt>ばくろ</rt></ruby>して<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らなかったのである。

六十五歳まで山登りを止さなかったベルリオーズ、激情に<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>られると、雨中の散歩も、雪中の睡眠さえも平気でやった、鉄の如き肉体を持ったベルリオーズが、十二歳のとき自分より六つ年上の少女――大きな<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をして<ruby><rb>薔薇色</rb><rt>ばらいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>をはいた――エステルに寄せた<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>を、五十年後の六十一歳まで忘れ兼ねて、七十歳近い老婆エステルの、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけの顔から、十八歳の昔を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>そうと、必死になっていたのである。彼は彼女の住む寒村に生命を集中し、「この秋は、彼女の傍で一か月暮そう。もし彼女から手紙が来なかったら、僕はパリのこの地獄の中で死ぬことだろう」と言うベルリオーズであった。

彼はパリの往来の石の上に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って泣いた。が、老女エステルにこの<ruby><rb>狂人沙汰</rb><rt>きちがいざた</rt></ruby>が理解されるはずもない。「今さらそれが何になろう」と彼に書くのが<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>であった。だが、老いたるベルリオーズは、それにもかかわらず、彼女の傍で死ぬことばかり夢見ていた。「お前の足下に坐り、お前の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひぎ</rt></ruby>に頭をのせ、お前の手を握って――」と、そう書くのが六十歳の少年ベルリオーズの心意気だったのである。

この小児の心の持主が、音楽上においては、最も革新的なる仕事を、大胆率直にやり遂げる闘士だったのである。傑作「ファウストの<ruby><rb>劫罰</rb><rt>ごうばつ</rt></ruby>」はベートーヴェンの死の翌年には着手され、その翌々年―一八三〇年には、早くも標題楽の最初の傑作「幻想交響曲」に着手し、近代音楽の<ruby><rb>𦮯棘</rb><rt>いばら</rt></ruby>の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を開きつつあったのである。

その頃はリストはもちろんのこと、ワーグナーの「リエンツィ」さえ現れてはおらず、世はまだ古典音楽の形式の拘束のうちに、明日の<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>も知らずに、太平の夢を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>っていたことは言うまでもない。ロマン・ローランはベルリオーズを<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>して「唯一のフランス音楽家」と言い、ワインガルトナーは「ベルリオーズがいなかったならば、ワーグナーやリストの存在にかかわらず、我々は今日いるところにいなかったであろう」と言ったのはまことに至言と言わなければならぬ。

## 窮乏と純情

ベルリオーズ（<em>Hector Berlioz</em>）は一八〇三年フランスのグルノーブル近郊に生まれた。医師であった父親は、家庭でその子を教育し、音楽の手ほどきまでもしてやったが、ベルリオーズの興味が次第に音楽に傾き、やがて音楽に対して異常な情熱を持つようになると、世間並の親達のように、その子が音楽家になることに厳重に反対した。

最初医学校に入れられたベルリオーズは、解剖室の空気に<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>が出来なくなって、ついに学校を飛び出し、音楽の修業に専念することになった。――辛抱の出来ないのは、一生ベルリオーズにつきまとった病癖であったが――そのため父親の怒りを買って、学費の途を絶たれ、ベルリオーズの<ruby><rb>惨澹</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる生活は、早くもこの時から始まったのである。

ベルリオーズの<ruby><rb>精進</rb><rt>しょうじん</rt></ruby>は涙ぐましきまでに見事であった。欠乏と闘いながらの七年間の苦学は英雄的であったと言っても<ruby><rb>差</rb><rt>さ</rt></ruby>しつかえはない。パリ音楽院の正規の課程はそうしておえたが、彼の抱懐するロマンティシズムの新傾向――わけても従来の常規を逸脱し、古臭い伝統を無視する態度は、世の反感と攻撃を受けずには済まなかったのである。

ベルリオーズは一番勇敢な形式の破壊者であった。いや、破壊がベルリオーズの形式であったと言ってもよい。彼は自分の心の要求に<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えるためには、少しも美しくない音楽をさえ書こうとした。因襲に依存して、思想の貧困に甘んずるよりは、最も大胆な反逆者となって新しい生命を燃やす一片の<ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>になろうとしたのである。

ベルリオーズは師にも友人にも見離されて、生活のために場末の劇場の合唱団に入り、細々とその日を歌い暮らさなければならなかったが、その弱い心の底に根を張る不退転の英雄魂は、そんなことではひるまなかった。

一八三〇年幸い<ruby><rb>交声曲</rb><rt>カンタータ</rt></ruby>「サルダナパール」がローマ賞を<ruby><rb>獲</rb><rt>え</rt></ruby>、三年間ローマに遊学する幸運を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだが、ここでもベルリオーズは辛抱が出来ず、とうとう二年足らずでパリに帰ってしまった。そして生活を支えるために、<ruby><rb>嫌々</rb><rt>いやいや</rt></ruby>ながら音楽批評の筆も取らなければならなかった。

ベルリオーズの飛び離れた<ruby><rb>奇矯</rb><rt>ききょう</rt></ruby>さは、ヘンリエッタ・スミスソンとの関係で絶頂に達した。この女優は英国生まれの美人であったが、ベルリオーズはたったひと眼彼女のシェークスピア劇を見ると、もう忘れることの出来ないものになってしまった。当時人気の頂点に押し上げられた女優が貧乏な作曲家の申し出を、ニベもなく拒絶したことは言うまでもない。激情家のベルリオーズは狂人のようにあてもなく<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>した。夜となく、昼となく、「一夜は町に近い野原に、一日はソオの近郊の牧場に、またある時はセーヌ河畔の雪の中に、時には彼を死んだと思い込んだボーイを驚かしながら、カフェーのテーブルの上に――」と伝えられている。

彼は眠くなるまで歩き回った。そして彼女を<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>し、彼女を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>った。ベルリオーズの傑作「幻想交響曲」は青年音楽家の病的な幻想を描いたもので、「夢」「情熱」「舞踏会」「野の風景」「断頭台への行進曲」「悪魔会議の夜の夢」とある標題の示す如く、明らかにヘンリエッタ・スミスソンに対する激情と<ruby><rb>呪</rb><rt>のろい</rt></ruby>とを書いたものである。

その後幾年か<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>った。再びベルリオーズの前に現れたスミスソンは、もはや以前の彼女ではなかった。彼女はその魅力をすっかり<ruby><rb>銷磨</rb><rt>しょうま</rt></ruby>した上、シェークスピア劇は大失敗におわり、巨額な借財まで背負って、かっては振り向いても見なかったベルリオーズの<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に飛び込んで来たのである。純情家ベルリオーズは、<ruby><rb>大手</rb><rt>おおで</rt></ruby>を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて彼女を受けいれたことは言うまでもない。

彼女の背負込んで来た一万四千フランの借財がどんなにベルリオーズを苦しめたかは言うまでもない。ベルリオーズはパリの聴衆に愛妻スミスソンのために復讐すると言ったが、そんなことは夢であった。「ファウストの<ruby><rb>劫罰</rb><rt>ごうばつ</rt></ruby>」が大きな期待の下に上演されたときも、誰一人金を払って見に行くものはなく、ベルリオーズは完全に破滅したのである。

新妻スミスソンは結婚してみると、常識的で忠実ではあったが、きわめて平凡な英国女であった。

その頃ベルリオーズは、ある夜の夢に、すばらしい交響曲の主題を得たことがある。夢が覚めて卓の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>まで行って、思わずペンを<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>り上げると、美しい音楽は、<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>の中で<ruby><rb>嚠喨</rb><rt>りゅうりょう</rt></ruby>と響いている、――が、ベルリオーズは考えなければならなかった。階下では妻と子が病気で<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>しているが、近頃は<ruby><rb>薬餌</rb><rt>やくじ</rt></ruby>の料も<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない有様であるのに、もしベルリオーズが<ruby><rb>金儲</rb><rt>かねもう</rt></ruby>けの俗事を<ruby><rb>放擲</rb><rt>ほうてき</rt></ruby>して、<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>の作曲に<ruby><rb>没頭</rb><rt>ぼっとう</rt></ruby>したらどんなことになるだろう。一か月や二か月はその仕事のために一切の収入を失うことはわかりきっている。その上それを上演する熱望に<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>られて管弦楽団を組織し、長い間の練習を重ねて、どうせ<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>かるはずのない上演まで、驚くべき費用をどこからか<ruby><rb>捻出</rb><rt>ねんしゅつ</rt></ruby>しなければならないだろう。

「今はそんなものに没頭している時ではない」、ベルリオーズは自分に言い聴かせて、床の中にもぐり込んでしまったのである。

<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る晩も、ベルリオーズは同じ夢を見た。耳には美しい主題が<ruby><rb>凛々</rb><rt>りんりん</rt></ruby>と響く、――が、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>から聞える病妻と病児のうめき声が、またもベルリオーズの幻想を打ち破って、もう一度<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めの枕につかなければならなかった。

三晩目には、もうその夢は見なかった。そればかりでなく、後になっていくら骨を折っても、夢の中の交響曲の主題は、もうベルリオーズには<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>らなかったのである。ベルリオーズはせっかく天来の妙想を一つ失い、後世のわれわれは、ベルリオーズの人間味――弱い心のために、一つの美しい交響曲を文字通り<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>から闇に失ってしまったのである。

「天才を愛情の犠牲にするほど、彼は英雄的であった。――もしこれがワーグナーなら、どんなことを忍んでも、その交響曲を書いたろう。そしてワーグナーは正しかったであろう」とロマン・ローランは言っている。

ベルリオーズの貧窮を見かねて、ヴァイオリンの鬼才パガニーニが、いきなり二万フランの大金を、予告もなんにもなしに、無条件で<ruby><rb>贈</rb><rt>おく</rt></ruby>って来たのはその<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>のことである。ベルリオーズの狂喜が、その自叙伝のページに<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>る。パガニーニは、ベルリオーズを評して「彼こそはベートーヴェンの後継者」と公言していたことは、この二万フランの<ruby><rb>贈物</rb><rt>おくりもの</rt></ruby>の意味を説明するだろう。

## 苦悩の連続

ベルリオーズの生涯は、まことに苦悩の継続であった。その気紛れと純情の<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>に――常識では同情の出来そうもない――。情熱のためと言った方が正しいかも知れない。その作品が熱狂的な歓迎を受けたのは、壮年期のほんの<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくの間で、中年時代は実に<ruby><rb>惨澹</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる非運の連続であった。

パリの聴衆は決してベルリオーズを理解しようとはせず、ベルリオーズの作品は常に外国――わけてもドイツで問題になった。そこにはリストやシューマンやワーグナーのような、よき理解者があったためであろう。そして今日でも、「ファウストの<ruby><rb>劫罰</rb><rt>ごうばつ</rt></ruby>」を聴くためにはドイツに行かなければならないと言われている。

ワーグナーがベルリオーズに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったとき、思わず安心の<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>を<ruby><rb>漏</rb><rt>もら</rt></ruby>した。「彼はついに自分より不幸な人を見出した――」というに至って、私はベルリオーズの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みじめ</span>さを、目の前に見るような気がする。四十五歳のベルリオーズは「私はもうこんなに年寄りになって、こんなに疲れた。幻影も何も失ってしまった」と言っている。彼の中年以後の作品に、生彩の気のないのはやむを得ないことである。

後にベルリオーズはスペインの歌手マリア・レシオと結婚したが、晩年は<ruby><rb>姉妹</rb><rt>しまい</rt></ruby>も、スミスソンも、スミスソンの生んだ一人息子のルイも失い、全くの孤独になって「自分は随分悩んだ。が今は死にたくない。自分は暮らせるだけの金を持っている」と言いながら、一八六九年三月八日に<ruby><rb>瞑目</rb><rt>めいもく</rt></ruby>した。――ようやく生活の安定したとき、それは孤独なベルリオーズの最後の日だったのである。

ベルリオーズの音楽は壮大で陰影の濃いものであった。ロマンティックではあったが、少しの甘美さもなく、当時においては想像を絶する大規模の管弦楽の創作を企て、古典の形式主義を根底から<ruby><rb>覆</rb><rt>くつが</rt></ruby>えそうとしたのである。

標題楽では明らかにリストに先駆し、固定観念の技法はワーグナーのライトモティーフに先駆したと言えるだろう。

ベルリオーズは<ruby><rb>奔放</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>で情熱的で軌道を持たなかった。彼自身その生活と作品を支配する<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知らなかったためである。「彼は美を信ぜず、彼自身を信じない」と言うのは正しい。「――だが、彼の作品の一片、――幻想交響曲の一片すらも、彼が在世当時のフランス音楽の作品全部よりも、多くの天才を現している」。「彼の上位をしむる音楽家は、世界に四、五人しかいない。バッハ、ベートーヴェン、モーツァルト、ヘンデル、そしてワーグナー」と、こう言うのは決してロマン・ローランのお国自慢ばかりとは言えない。

  


## ベルリオーズの作品とそのレコード

ベルリオーズのレコードは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少ない。その曲が多彩で優麗で、きわめて興味の深いものであるが、一面甚だ一般人には親しみ難いものを持つからである。彼の音楽は大規模でありすぎたために、俗耳に<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れたのであろう。「ベルリオーズの理解されるのは、ワーグナーに半世紀遅れるだろう」というのは至言である。

## 幻想交響曲、その他の管弦楽曲

このベルリオーズの代表作のレコードは、モントゥー、マイロウィッツ、ピエルネ、ワルターがそれぞれ指揮した全曲あるいは全曲近いレコードが四種まで入っている。

このうち最近ワルターがパリの管弦団を指揮したレコードが、ビクターから現れて、間もなく発売を中止されたが（ＶＤ八一四六―五一）、おそらくこの曲のレコード中の<ruby><rb>白眉</rb><rt>はくび</rt></ruby>だろう。ワルターの持つロマンティシズムと技巧の<ruby><rb>冴</rb><rt>さえ</rt></ruby>が、パリの練達な管弦楽団を得て、ベルリオーズの幻想を<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>よく描いている。もう一つビクターのモントゥがパリ交響管弦団を指揮したレコードも、吹込みは新しくないが、香気の高いもので、ワルターと対比して長い生命を保つレコードである（一一〇九三―八）。

序曲「ローマの謝肉祭」は騒がしくはあるが、ベルリオーズでは最も通俗な曲だ。ボールト、ビーチャム、メンゲルベルクといろいろの人が指揮しているが、メンゲルベルク指揮コンセルトヘボウのレコードが良かろう（テレフンケン三三六一〇）。

他に「宗教裁判官」序曲、「リア王」序曲、「ベンヴェヌート・チェルリーニ」序曲などのレコードがある。

## ファウストの劫罰及び声楽レコード

ベルリオーズの一代の傑作で、ゲーテの詩によった劇的物語「ファウストの<ruby><rb>劫罰</rb><rt>ごうばつ</rt></ruby>」は、ビクターから全曲十枚物の名盤が出ている（ＪＨ七四―八三）。主役はパンゼラが歌い、コッポラがコンセール・パドゥルー管弦団とサム・ジェルヴェー合唱団を指揮したもので、このレコードは本場物の良さを満喫させる、申し分なく立派なもので、有名な「ラコッツィ行進曲」だけでもこの全曲物に及ぶものはない。

「ラコッツィ行進曲」だけ入れたのはたくさんあるが、ストコフスキー指揮などが面白かろう。

「聖家族の<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>い」は「キリストの幼時（作品二五）」の一節で、リュールマン指揮、パリ交響楽団、ジャン・プラネルが歌ったレコードがコロムビアに入っている（Ｊ八四三六）。宗教音楽としては、多分に人間臭い特色を持ったものだが、悩み深い美しいものである。

「カルタゴのトロイ人」よりの「はかなき<ruby><rb>憾</rb><rt>うら</rt></ruby>み言」と「最後の難船」をテナーのティルの歌ったコロムビア・レコード（Ｊ八四八八）は「聖家族の憩い」ほどは面白くないが、ここに掲げるだけのことはある。

  


## 幸福な天才メンデルスゾーン

  


メンデルスゾーンの名は、一たびナチスのユダヤ人排撃運動に<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いされて、ドイツの音楽教科書からまで削られたが、メンデルスゾーンの名は亡ぼしても、その<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた音楽は抹殺する<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>もなく、単に「ヴァイオリン<ruby><rb>協奏曲</rb><rt>コンチェルト</rt></ruby>＝ホ短調」と書き、「真夏の夜の夢＝序曲」と書いて、メンデルスゾーンの作品を演奏し続ける有様であったが、最近いかなる<ruby><rb>緩和策</rb><rt>かんわさく</rt></ruby>があったものか、再びドイツの教科書にメンデルスゾーンの名を復活し、その音楽もまた、大手を振って、ドイツ楽壇を賑わしているということである。

これはまことにさもあるべきことである。どんな事情があるにしても、ドイツ新教徒にしてドイツ音楽に画期的な傑作群を提供し、ドイツ・ロマンティシズムの最高峰をなした、フェリックス・メンデルスゾーンの名を、その珠玉の作品と共に失うのは、あまりにも人類文化の損失が大きすぎるからである。

## 幸福の権化

メンデルスゾーンはその短き<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>を通して、音楽家としては珍しきまでに幸福であった。一八〇九年二月三日ハンブルクの富裕なる銀行家アブラハム・メンデルスゾーンの長子として生れたフェリックス（<em>Felix Mendelssohn\-Bartholdy</em>）は、この世の幸運を一身に背負って、満ち足りた愛情と、行き届きすぎるほどの教養の中に育ったのである。

彼が三歳の時、一家はナポレオンの戦禍に<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>われてベルリンに移住し、よき母の慈愛の下に、一流中の一流大家数名を家庭教師とし、姉のファンニー、妹のレベッカ等と共に、お<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>の中の王子のように成人したのであった。これを貧しい小学校教師の子として育ったシューベルトや、酒乱の貧しい音楽家の子ベートーヴェンと比べて、なんという<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい違いであろう。

メンデルスゾーンの音楽には、何ら苦渋の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>がなく、明朗、快適、清純、華麗、美しすぎるほどの美しさと、整いすぎるほどの<ruby><rb>彫琢</rb><rt>ちょうたく</rt></ruby>とを持っているのは、まことにこの境遇から由来する影響と言ってよい。世にはメンデルスゾーンの音楽を好まないと<ruby><rb>揚言</rb><rt>ようげん</rt></ruby>する者は必ずしも少なくないが、その人達はおそらく、もう少し陰影の<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかな音楽、感情の爆発を伴う音楽、あるいはイデオロギッシュな音楽、悲劇的な音楽を好むためであろう。しかし、一方練達な老成人の中には、「歳をとって始めてメンデルスゾーンの良さが解る」と言う人も、なかなかに少なくはないことを記憶しなければならない。

メンデルスゾーンの音楽は、幾分表面的であるにしても、充分ロマンティックであり、その技巧は精緻微妙にして間然するところがない。これを貴族的と形容してもよい。<ruby><rb>下手物</rb><rt>げてもの</rt></ruby>趣味のない音楽と言ってもまた面白かろう。もし幾分の哀愁がありとすれば、それは<ruby><rb>洽</rb><rt>あま</rt></ruby>ねからざるなき幸福感に必然する、一脈の「あわれ」であり、完全なるものの「物悲しさ」である。メンデルスゾーンの音楽から、その「あわれ」と「物悲しさ」を<ruby><rb>掬</rb><rt>く</rt></ruby>み取ることは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だむつかしい。それほどメンデルスゾーンの音楽は、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たる幸福感に恵まれ、徹頭徹尾華麗にして光明的だからである。

## 異常の天才

少年メンデルスゾーンは、この環境のうちに、<ruby><rb>天賦</rb><rt>てんぷ</rt></ruby>の才能をすくすくと伸ばしていった。七歳の時は早くもピアノに対する並々ならぬ才能を認められ、九歳のときは公開の演奏にベルリン人を驚かし、十一歳の時にはもう、<ruby><rb>幾多</rb><rt>いくた</rt></ruby>の作曲があり、十五歳までには、数曲の室内楽曲、二つの歌劇、五つの協奏曲、その他少なからざるピアノ及びオルガンの独奏曲と、ヴァイオリン・ピアノのソナタを書いていたのである。

メンデルスゾーンの家族はきわめて音楽的で、フェリックスの音楽に対する精進を<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げる者もないばかりでなく、ときどき親しい友人達を集めて、いわゆる「メンデルスゾーン家の午前音楽会」を催し、少年メンデルスゾーンは、椅子の上に登って、小さい管弦団を指揮し、古典の名曲と、彼自身の作曲を聴かせたということである。

姉ファンニーはピアノを弾き、妹レベッカはヴァイオリンをひいて、その音楽会に加わったことは言うまでもない。時には豪華な客間で、時には広大な庭園で、少年メンデルスゾーンの作品が初演された楽しさは、想像するだにほほ<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>ましき限りである。

その間メンデルスゾーンは、一世の尊崇を集めた大詩人ゲーテに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って、その<ruby><rb>賞讃</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>の言葉を浴び、当時の大ピアニストなるモシェレスに逢って親交を結び、一八二四年には十五歳にして「第一交響曲ハ短調（作品一一番）」を作り、翌年はパリを訪ねて、マイエルベール、ロッシーニ、ケルビーニ等の大先輩に知らるる機会を得た。

メンデルスゾーンは音楽家として<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れていたばかりでなく、<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>が高雅で、各種のスポーツに<ruby><rb>秀</rb><rt>ひい</rt></ruby>で、性質も明朗で、その心構えも優しかったために、逢うほどの人誰にでも愛され、多くの友人と<ruby><rb>渇仰者</rb><rt>かつごうしゃ</rt></ruby>を持ち、<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くところ、美しい友情の発露を見ざるはなかった。メンデルスゾーンには、富裕に育った人のややもすれば陥り易い、<ruby><rb>驕慢</rb><rt>きょうまん</rt></ruby>と冷たさと、<ruby><rb>上滑</rb><rt>うわすべ</rt></ruby>りなところがなかったのである。

一八二六年、シェークスピアのドイツ訳が完成されると共に、メンデルスゾーンは「真夏の夜の夢」の夢幻的な詩趣に異常の興味を感じ、一気にその「序曲」を作り、メンデルスゾーン家の音楽会で演奏した。その時、完成したばかりの「真夏の夜の夢」の総譜を馬車の中に失い、演奏会に間に合わなくなって、大急ぎで記憶を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って書き直したが、後に原作と比較してみると、細部に至るまで少しの違いもなかったと言われている。メンデルスゾーンの天才が、十七、八歳にして既に完成されていた証拠である。

「真夏の夜の夢」の第二部「スケルツォ」「夜想曲」「結婚行進曲」等の十三曲は、その後十七年を経て、一八四三年彼が死の三年前に作られたが、十七年前の「序曲」と作曲上の立場の相違も、技巧の進歩もなかったと言われ、これもまたメンデルスゾーンが少年時代に完成した天才であることの証拠とされているが、一面にはまた、たまたまこのことがあるが<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>に、メンデルスゾーンの老衰の意外に早かりしことと、常に進み、常に動き、生涯を悩み続けたベートーヴェンなどと、<ruby><rb>好個</rb><rt>こうこ</rt></ruby>の対照とされているのである。

## 悲しき夭折

メンデルスゾーンはその短い生涯のうちに、十回も英国を訪問している。英国の水がメンデルスゾーンの性に合ったのか、メンデルスゾーンの作品が、英国的であったのか、ともかくいくたびごとに<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>されて、満足感で一杯になって帰ったのである。おそらくメンデルスゾーンの貴族的な人柄と作品が、保守的でアカデミックで、粗野なものを好まない英国人の<ruby><rb>嗜好</rb><rt>しこう</rt></ruby>に投じたものであろう。メンデルスゾーンのやや外面的な芸術性までが、今日のわれわれの眼から見ても、甚だしく英国的であることを感ぜざるを得ない。

その間に「スコットランド交響曲」を作り、姉ファンニーの結婚を祝うオルガン曲を作り有名な序曲「ヘブリディス」を作った。これはスコットランドの「フィンガルの<ruby><rb>洞窟</rb><rt>どうくつ</rt></ruby>」を訪ねて、その大景観に驚き、一篇の序曲として書いた有名な風景画詩である。

一八三一年イタリーに遊んで「イタリー交響曲」の楽想を得、翌年姉のファンニーに消息に代えて送ったという優しきピアノ曲「無言歌」の第一巻が出版された。翌三三年にはデュッセルドルフに移ってそこに腰を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えたが、二年後の一八三五年には名誉あるライプチッヒのゲヴァントハウス音楽会の指揮者に任ぜられ、そこで始めてショパンやクララ・ヴィーク（後のシューマン夫人）に逢った。音楽史上には重大な出来事である。

一八三七年にはシャルロットと結婚し、メンデルスゾーンは幸福の絶頂に押し上げられていた。ゲヴァントハウスの指揮者としての五年間は、おそらく幸福の<ruby><rb>権化</rb><rt>ごんげ</rt></ruby>のような人間メンデルスゾーンでさえ、最も平和な生活と、満ち足りた幸福を味わった時であったろう。

一八四一年プロシア王フリードリッヒ・ウィルヘルム四世は、ベルリンの文化を飾るために芸術大<ruby><rb>総合</rb><rt>そうごう</rt></ruby>のアカデミーを設立せんと企て、音楽部の主任としてメンデルスゾーンを<ruby><rb>招聘</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>した。それは心身両方面にかなりの負担と<ruby><rb>煩累</rb><rt>はんるい</rt></ruby>を予想される栄誉の仕事であったが、任命は命令的で辞退を許さず、メンデルスゾーンはようやく衰えた体力で、その重任に当らなければならなかった。

その間に時々の訪英とライプチッヒ音楽学校創立の事業は続け、四人の子供をもうけ、少年ヨアヒムに逢い（後の大ヴァイオリニスト）、「真夏の夜の夢」の第二部を完成した。

<ruby><rb>畢世</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の傑作、<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>「エリヤ」に着手したのはその頃で、一方傑作「ヴァイオリン協奏曲」を完成したのもその頃である。それは一八四四年のことで、彼の健康もまた、この頃からようやく衰えを見せた。一八四六年「エリヤ」の作曲に精力を集注して、甚だしく疲れ果てた彼は、一八四七年、最後の訪英に無理が続いたうえ、カレーからフランクフルトに帰り着くと、少年時代から力になり合っていた姉のファンニーが、突然死去したという知らせを受け取った。多感の才人、<ruby><rb>折悪</rb><rt>おりあ</rt></ruby>しく健康の衰え切っていたメンデルスゾーンにとって、それは想像以上の打撃であったらしい。彼はもはや作曲する力も指揮する<ruby><rb>張合</rb><rt>はりあい</rt></ruby>もなかった。

その年十月発作が起こり、一度は<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>したが、十一月四日、ついにこの世を去った。三十九歳という若さである。

  


## メンデルスゾーンの作品とそのレコード

メンデルスゾーンの音楽は、あくまでも明るくて美しい。そこには<ruby><rb>深沈</rb><rt>しんちん</rt></ruby>たるものも、苦渋なものもないが、その代り、春の光のような<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかな明るさと、<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>るような情愛とがあり、高貴な<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>と、清朗な美しきとがある。

レコードは必ずしも多くなく、有名なシンフォニーや有名な室内楽よりも、むしろ「ヴァイオリン協奏曲」一曲に各社の力が集注された感がないでもない。

## ヴァイオリン協奏曲（ホ短調）

ベートーヴェンとブラームスのヴァイオリン<ruby><rb>協奏曲</rb><rt>コンチェルト</rt></ruby>と<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>べて、世に<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>三大ヴァイオリン協奏曲の一つである。この曲が、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>豪華なのと、ブラームスの<ruby><rb>瑰麗雄渾</rb><rt>かいれいゆうこん</rt></ruby>なのとの中にあって、優雅、繊麗を極め、わけてもその<ruby><rb>浪漫</rb><rt>ロマン</rt></ruby>的な情緒の美しさは比類もない。第一楽章の<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>さと第二楽章の優麗さに続いて、第三楽章の燃え立つような情熱と、その<ruby><rb>豪宕</rb><rt>ごうとう</rt></ruby>壮快な美しきの対照は見事だ。

レコードは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく入っているが、この曲を二度吹込んでいるクライスラーのビクター盤で吹込みの古い方、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ちブレッヒがベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮したレコードが最も良い（八〇八〇―三）。同じクライスラーがロンドンの管弦団で入れた後のレコードは、技巧的には<ruby><rb>衰頽</rb><rt>すいたい</rt></ruby>を見せないまでも、その輝やきと若さと、美しさにおいて、吹込みの悪い最初のものに及ぶべくもない。しかしよい録音でこの曲を聴くうえには、やはりクライスラーの後の吹込みを捨てるわけにはいかない（ビクターＪＤ五九三―五）。

ほかにメニューインがエネスコの指揮をしたコロンヌの管弦団で入れたのがビクターにある。クライスラーを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るのは一種の<ruby><rb>懐古癖</rb><rt>かいこへき</rt></ruby>だと思う人は、メニューインの若さを買うがよい。しかし、そう言っても私はまだクライスラーがこの曲に示した情愛のやさしさと、美しい表現力に涙ぐましいほどのなつかしさを感じないわけにはいかない。

第四番目を強いて挙げるならば、コロムビアのシゲティーの地味な堅実味を採ろう。

## 真夏の夜の夢とフィンガルの洞窟

これほど有名な曲で、これほど良いレコードの少ない曲も珍しい。最も入っているのは「序曲」と「夜想曲」と「スケルツォ」と「結婚行進曲」くらいで、この曲が全部入っているわけではない。

「序曲」ではフルトヴェングラーのベルリン・フィルハーモニーを指揮したポリドールのレコード（四五二一三―四）は吹込みは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ古いが、雄大で<ruby><rb>行届</rb><rt>ゆきとど</rt></ruby>いて一番良く入っている。「スケルツォ」はトスカニーニのニューヨーク・フィルハーモニーを指揮したビクター・レコード（ＪＤ一四九八）が見事なものである。「夜想曲」と「結婚行進曲」は、どういうものか良いレコードがなく、「結婚行進曲」などはきわめて実用的なものであるから、やむを得ずんばコロムビアのビーチャム卿がロンドン・フィルハーモニーを指揮したのを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るほかはない（ＪＷ一〇八）。話は少し違うが、「スケルツォ」をピアノに編曲して、ラフマニノフの弾いているレコードは良い。胸のすく出来だ（ビクターＪＤ八〇三）。

「フィンガルの<ruby><rb>洞窟</rb><rt>どうくつ</rt></ruby>」は少なくとも二十枚くらいの違った吹込みがあるだろう。そのうちで第一番に推せるのは、フルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニーを指揮したポリドールのレコードだ（四五〇八八、またはフルトヴェングラー傑作集第三集）。この人の指揮はこの有名な風景画の描写には少し重いが、しかし申し分なく優麗で、海の奇勝が<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>する心地がするだろう。

## シンフォニー

メンデルスゾーンのシンフォニーはきわめて重要ではあるが、そのレコードにはあまり<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたのはない。

「スコットランド交響曲」と「イタリー交響曲」とは入っているが、前者にはコロムビアにワインガルトナー指揮（ロイアル・フィルハーモニック）のがあり、後者にはハアティ卿（コロムビア）のとクーセヴィツキー指揮（ビクター）のがあることだけを記しておこう。

## 無言歌

一連のピアノ曲「無言歌」は、簡素で清潔で、適当にロマンティックで、旋律的でまことに面白い。ショパンのプレリュードと共に、ピアノ音楽の小珠玉群ではあるが、ショパンよりは魅力に乏しく、四十九曲のうちわずかに数曲がレコードされているだけである。

その中で傑出した曲は、第三曲「狩の歌」、第六曲及び第十二曲の「ヴェニスのゴンドラの歌」、第三十曲の「春の歌」、第三十四曲の「紡ぎ歌」などであるが、コロムビアにフリートマンの九曲を十インチ四枚に入れたレコードがあり（Ｊ五二二一、五三〇六、五三〇七、五三一〇）、吹込みは甚だ古く、演奏も<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかさがなくて<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えないものであるが、ともかくもこの曲の唯一的なレコードである。ビクターには小シュナーベル（カール）が五枚入れているが、フリートマンほどの独創もない代り<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>の良い器用な演奏である（ＪＫ四―八）。以上二つの無言歌はいずれとも言い難く、私はどちらにも満足はしていない。

一枚ものでは不思議に良いのがない。コルトーは第一曲「甘き思い出」を入れているが、これはたいしたことはなく、「狩の歌」もモイセイヴィッチがやや聴かれる程度（ビクターＥ四七八）。「紡ぎ歌」はラフマニノフの古い吹込みがあり（ビクター一三二六）、美しい「春の歌」に至っては良いレコードは一枚もない。

やむを得ずんばヴァイオリンに編曲したシュメーの「春の歌」（ビクターＶＥ一〇三七）とクライスラーの「五月の微風」（同ＪＤ二九四または八〇八三）を聴くのも悪くないだろう。

## 「エリヤ」と歌曲

メンデルスゾーンがその命を縮めたほどの苦心の大作でもあり、<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>としてはおそらく、ヘンデルの「救世主」、ハイドンの「天地創造」に次ぐ歴史的傑作とも言えるだろう。「救世主」ほどの輝やきと情熱はないが、豪華でロマンティックで、メンデルスゾーンの一代の心血を注いだだけに、宗教音楽中の一大巨峰というにふさわしい。コロムビアの全曲レコードは、イギリス吹込みの英語で、「救世主」ほどの手に入った出来ではないが、Ｂ・Ｂ・Ｃの合唱団はなかなかによく、バリトンのウィリアムスなどはここでも押えている。ソプラノが「救世主」のラベットでないのが惜しい（Ｊ五三一九―三三）。

歌曲ではレーマンの「<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>」（コロムビアＪ五五五七）、シューマンの「歌の翼に乗りて」（ビクターＪＥ一二）、シュルスヌスの「ゴンドラの歌」（ポリドール五〇〇四二）の三枚が挙げられる。

## 室内楽曲

メンデルスゾーンの室内楽には、あまり良いレコードはない。たった一つ、電気の初期の古い吹込みではあるが、コルトー（ピアノ）、ティボー（ヴァイオリン）、カサルス（チェロ）のいわゆるカサルス・トリオのビクター・レコード「ピアノ三重奏曲＝ニ短調（作品四九）」が特筆される。この曲はメンデルスゾーンの室内楽の良さを代表するもので、その整然たる外面美とロマンティックな<ruby><rb>情緒</rb><rt>じょうちょ</rt></ruby>が、三名人の演奏で、古い録音の間から、生々とした感興で<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き上って来る（ＪＩ八七―九〇）。

他に四重奏曲が二つ三つ入っているが、取立てて言うほどのことはない。

  


## ピアノの詩人ショパン

  


ピアノ音楽に関係を持つ人で、ショパンを愛せずにいられる人があるだろうか。百年前、大ピアニストにして評論家なるルービンシュタインが言ったように、ショパンこそは「ピアノの歌い手、ピアノの詩人、ピアノの心、ピアノの<ruby><rb>霊</rb><rt>たましい</rt></ruby>」であること、今日といえども少しも変りはない。

ショパンの音楽は常に新鮮である。それは真の天才の創造せる芸術の特色であるにしても美しさと魅力とがいささかも時の<ruby><rb>銷磨</rb><rt>しょうま</rt></ruby>に<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げられず、かつてありしが如く人間に訴えつつあるショパンの如きは、まことに、芸術の<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>を成就したものと言うも誇張ではなかったであろう。

## ピアノの霊

断片<ruby><rb>零細</rb><rt>れいさい</rt></ruby>もショパンのピアノ曲における限りは珠玉である。<ruby><rb>眇</rb><rt>びょう</rt></ruby>たる練習曲のうちにも、巨大な交響曲に優る芸術的内容が盛られ、その思想の深さ、意図の<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましさ、表現の美しさに百年後のわれわれを驚倒せしめずんばやまないのは、ショパンの音楽の特色だったのである。例えば演奏わずかに二分間そこそこの「エチュードハ短調＝作品一〇の一二（革命）」に盛られた、祖国ポーランドの首都ワルシャワ陥落に対する失望と憤激は、ベートーヴェン以外には、決して到達することの出来なかった感情の大爆発である。

「ワルツ＝嬰ハ短調＝作品六四の二」に描かれた満たされざる愛の悲しみは、四幕十場のグランド・オペラといえども尽し得なかった優しくも<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れ深き境地である。「英雄ポロネーズ」に<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶポーランド華やかなりし中世騎士の勇姿、「<ruby><rb>雨滴</rb><rt>あまだ</rt></ruby>れのプレリュード」に示した<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじくも美しい<ruby><rb>憂悶</rb><rt>ゆうもん</rt></ruby>は、何に例えるものがあろう。一台のピアノから産み出す音楽として、これほど壮麗<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>な芸術を、誰が果してショパン以前に想像し得たであろう。

ベートーヴェンは、その三十二のピアノ・ソナタにおいて、ピアノの表現力を最大限度まで高揚し、楽器を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き割る一歩手前に踏み<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まったかの感がある。リストのピアノ曲は、ピアノの雄弁学であり、人間の指の生理的運用の限度に到達してやんだもの、と言ってよい。

ショパンはこの二人の大作曲家とは全く違った方向にピアノ音楽の<ruby><rb>沃野</rb><rt>よくや</rt></ruby>を開拓した。ショパンにおいては、彼自身全くピアノに没入し、ピアノの霊と一体になった。ピアノを駆使する代りにピアノのために詩を書き、ピアノをして歌わしめたのである。ショパンのピアノ曲には、氾濫する技巧もなく、不完全燃焼する感情もない。彼の作品の大きな特色は、<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>の如き完成感と、高貴なる甘美さである。ショパンの音楽が、年齢を超え、時代を飛躍し、国境を無視して、誰にでも愛されるのはおそらくそのためであろう。

ショパンの音楽には、処女の優しさと、英雄の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しさがあるが、<ruby><rb>玩味</rb><rt>がんみ</rt></ruby>し来って、なんの<ruby><rb>残糟</rb><rt>ざんそう</rt></ruby>も留めず、さながら<ruby><rb>寒潭</rb><rt>かんたん</rt></ruby>を渡る雁、竹林を過ぐる風の如く、<ruby><rb>至玄</rb><rt>しげん</rt></ruby>、至妙の境地に徹しているのは驚くべきである。少なくとも後味のさわやかさにおいて、人間はかつてショパンの音楽の如きものを持った経験はない。

私はしばらくショパンの伝記を<ruby><rb>閲</rb><rt>けみ</rt></ruby>して、この珠玉の芸術の由来するところを、探ろうと思う。

フレデリック・フランソア・ショパン（<em>Frédéric François Chopin</em>）は、一八一〇年二月二十二日、ポーランドの首府ワルシャワ郊外の一寒村に生まれた。父はフランス生まれの教養ある紳士で、かつポーランドのために剣を取って戦ったことがあり、母は純粋のポーランド人で、ショパンをして後年「母親中の最上のもの」という、敬愛の言葉をささげしめた賢夫人である。ショパンは姉二人の次に生まれた唯一の男の子として、全家族の<ruby><rb>鍾愛</rb><rt>しょうあい</rt></ruby>のうちに育ったが、一人っ児らしい<ruby><rb>蒲柳</rb><rt>ほりゅう</rt></ruby>の質で、子供時分から病気がちであった。性格はむしろ明るく、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>っ子で、快活で、<ruby><rb>諧謔味</rb><rt>かいぎゃくみ</rt></ruby>をさえ持っていたと言われている。

音楽愛は幼年時代から目覚め、良い音楽を聴くと「涙を止めることの出来ない」感受性の持主であった。最初の音楽の師はシレジアの音楽家エルスナーで、そのひと見識ある教育法は、ショパンの天才の芽生えを、申し分なく自由に育てていった。ショパン後年の作品に、<ruby><rb>衒学</rb><rt>げんがく</rt></ruby>的な気むずかしさのないのは、エルスナーの教育法のおかげであったらしい。

少年期のショパンは、楽しくも<ruby><rb>奔放</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>であった。寝室にピアノを入れて、深夜ふと眼が覚めて弾くこともあり、ワルシャワ学院に通う頃は、新聞を編集して友達に見せたり、受持教師の漫画を描いて叱られたり、危なっかしい馬に乗ったり、人一倍の勉強もしたり、――愉快な日はこうして過ぎていったのである。

最初のベルリン行きは十八歳のときで、そこでメンデルスゾーンに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>い、ウェーバーの「自由射手」を見る機会に恵まれたが、翌年は作曲家フンメルに逢い、ヴァイオリンの魔王パガニーニを聴いて、音楽家志願の決心をした。同じ年音楽の都ウィーンを訪ねて、二回の演奏会を開いたが、さして成功とは言い難く、翌年ワルシャワで開いた演奏会で、始めてショパンは収入らしい収入を得たと伝えられている。

## ポーランドの土

一八三〇年、ポーランドの国情が次第に険悪になったのと、初恋の少女コンスタンティアに近づく勇気を欠いた<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>は、二十歳のショパンを<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>り<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>てて、ついに「帰ることなき旅」へと出発させたのである。

ワルシャワを出たショパンの馬車が、生地ツェラツォヴァ・ヴォーラに着いた時、恩師エルスナーとその弟子達は、ゆくりなくもそこにショパンを迎え、カンタータを合唱して<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かなる旅への首途を祝し、銀の台杯に祖国ポーランドの土を盛って<ruby><rb>餞</rb><rt>はなむ</rt></ruby>けしてくれた。それから十九年の後パリの墓地に葬られたショパンの<ruby><rb>遺骸</rb><rt>いがい</rt></ruby>に振りかけられ、<ruby><rb>墓碑銘</rb><rt>ぼひめい</rt></ruby>に「彼はパリに葬られたれども、ポーランドの土に眠る」と刻されたのはこの土である。

再びウィーンを訪ねたショパンは、いろいろの妨げのために、散々の失敗を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めなければならなかった。その原因の大きなものは、ウィーン人の健忘と、コレラの流行であったにしても、ショパンの経済的打撃は相当深刻で、いろいろ迷い抜いたあげく、パリへと志して、<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>くもミュンヘンまで<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着くのが、精一杯であった。

ミュンヘンからシュトゥツトガルトに行ったとき――一八三一年九月八日、故国ポーランドの首都ワルシャワが、ロシア軍のために占領されたというニュースを聴いた。ショパンの<ruby><rb>悲嘆</rb><rt>ひたん</rt></ruby>と憤激は想像に余りある。<ruby><rb>蒲柳</rb><rt>ほりゅう</rt></ruby>の質に宿した<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>の魂が「練習曲ハ短調＝作品一〇の一二（革命）」となって作品の上に表れたのは、この祖国愛の<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>であったのである。

二十一歳のショパンは、とうとう<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこがれ</rt></ruby>のパリにはいった。一八三一年のパリは文字通り世界文化の中心で、さながら<ruby><rb>燎乱</rb><rt>りょうらん</rt></ruby>の花園であった。ユーゴー、ジューマ、バルザック、サンド、シャトーブリアン、ボードレール、メリメ等の文壇の巨星雲の如く、一方楽壇にはベルリオーズ、マイエルベール、ロッシーニ、リストが各々勢威を張って相対していた時であった。

その渦中に二十一歳のショパンが<ruby><rb>飃然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>として若い姿を現したのである。最初は知る人もなき異邦人であり、パリの音楽家も、<ruby><rb>好楽家</rb><rt>ディレッタント</rt></ruby>も、一般聴衆も、もとよりショパンの音楽を理解するはずはなかった。次第に襲い来る経済的窮乏は、ショパンにアメリカ行を思わせたが、間もなくラジヴィール公の知遇を受け、その紹介で若きショパンは、一躍楽壇の流行児にまで押し上げられてしまったのは不思議な好運であった。

## 優しきショパン

ショパンを人気の絶頂に押し上げたもう一つの原因は、ポーランド人に対するパリ上下の同情であった。ロシア軍に対する反感は、一無名の若きピアニストを、九地の底から、九天の上まで持ち上げたのである。第三の原因は、ショパンの性格と<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>が、パリ人の趣味にピタリとしたことであった。ショパンの<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>好みは有名で、頭の先から足の先まで、注意の行届いた端麗さが、第一印象として、パリの社交人を喜ばせたことであろう。

「ショパンの様子は、彼の音楽のようだ」と言われたのは、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>のよさと、デリケートな清らかさを指して言ったもので、ある人はこれを「か細い<ruby><rb>茎</rb><rt>くき</rt></ruby>に均衡のとれた<ruby><rb>青磁色</rb><rt>せいじいろ</rt></ruby>の花をのせた<ruby><rb>昼顔</rb><rt>ひるがお</rt></ruby>」に例えている。その花はちょっとでも触れると、傷つき、涙するようであった。頭髪は絹のように柔らかで、瞳は快活に輝き、四肢は細々として、あまり背は高くなく、鼻だけは特色的な湾曲した線を描いていた。

ショパンの笑いには、何ともいえない魅力があり、善良な性格がよく現れていた。声は音楽的で、時々女のような様子をして、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>することがあった。

こういったショパンが、パリ人の人気の中心になり、一流人の中に座を占めたのも無理のないことであった。二十三歳のショパンは、もはや押しも押されもせぬ存在であった。流行児らしく、一面には敵を作ったにしても、一方未知の芸術家達は、ショパンのために、争ってその作品を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げるようになっていたのである。この間に、メンデルスゾーンと交遊を<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>にし、ショパンのためには、生涯の大知己とも言うべきシューマンに逢い、「諸君、帽子をとり給え、天才ですぞ」という有名な言葉を<ruby><rb>贈</rb><rt>おく</rt></ruby>られたりした。

しかし<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>のショパンは、その頃から次第に公開演奏会に遠ざかっていった。内気な彼は、聴衆に圧迫されて、自由な想像の飛躍を妨げられ、演奏家としての自分の資格を疑い始めたからである。その頃ショパンはリストに対して「群衆が私を<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>する。その息で窒息させられそうだ。私は不思議な光景に<ruby><rb>麻痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>させられ、見知らぬ顔の海が私を<ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>にする」と言ったと伝えられている。

ショパンが公開演奏を断念して、作曲に没頭したことは後世のわれわれにとっては、どれだけ有難いことか解らない。

## 女流作家サンド

ショパンの人間としての記録の、最も重要なページは、女流小説家ジョルジュ・サンドとの交渉である。サンドは、当時フランス文壇に異彩を放った<ruby><rb>閨秀</rb><rt>けいしゅう</rt></ruby>作家で、ショパンよりは年上であり、その性格、肉体、趣味、ことごとくショパンと<ruby><rb>対蹠</rb><rt>たいせき</rt></ruby>的な存在であったが、ゆくりなき奇縁が、天才ショパンと結びつき、ショパンの晩年に重大な影響を与えるにいたったのである。

サンドはかつて結婚したことがあり、先夫との間に男の子さえあった。今日現存する肖像画によれば、豊麗な美人と言ってよい方であるが、実際は決して美しくはなく、背が低く色が<ruby><rb>蒼黒</rb><rt>あおぐろ</rt></ruby>く、不<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>な鼻と、粗野な口とを持っていたとさえ伝えられている。しかし女性としての魅力は容易ならぬものがあり、最初サンドを嫌い抜いていたショパンが、次第にその<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しの<ruby><rb>牽引力</rb><rt>けんいんりょく</rt></ruby>に引き寄せられ、抜き差しのならぬ心持になったことは想像に難くない。

ショパンとサンドとの最初の会合は、リストの<ruby><rb>茶会</rb><rt>ティー・パーティ</rt></ruby>であったとも言われ、ショパンが即興演奏を試みたとき、ピアノに<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて熱心に聴き入る、大きな燃える眼であったとも伝えられている。

とにもかくにも、相反する性格の<ruby><rb>牽引</rb><rt>けんいん</rt></ruby>は、二人を間もなく離れ難きものにし、一八三八年から三九年にかけて、肺を<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>ったショパンがスペインのマジョルカ島に転地した時は、サンドは同行してその看護を引き受け、島人の迫害の中に、よくショパンの看護に没頭した。

島の生活は決して愉快なものではなく、ショパンの健康のためかえって悪化するばかりであった。ある日サンドは、女中と共にパルマの町へ買物に出かけて、ひどい風雨に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったことがあった。洪水は道を没して、サンドは<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>を失ったうえ、乗って帰る馬車さえもなく、幾度か危険な目に逢いながら、命からがら帰り着いたのはもはや夜半であった。

留守をしていた病身のショパンは、サンドが<ruby><rb>溺死体</rb><rt>できしたい</rt></ruby>となってその上へ水の<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>りが<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>に落ち続ける幻想に悩まされ、眼に涙さえ浮かべながら、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>蒼</rb><rt>さお</rt></ruby>な顔をしてピアノを弾き続けていた。その時ショパンを<ruby><rb>因</rb><rt>とら</rt></ruby>えた不安と恐怖が、傑作「<ruby><rb>雨滴</rb><rt>あまだ</rt></ruby>れの前奏曲」になったのだと言われている。ショパンの幻想を誘った執拗な水滴の音は、住み古した家の天井に<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>る<ruby><rb>雨滴</rb><rt>あまだ</rt></ruby>れの音だったのである。

ショパンとサンドの交情も、さまで長くは続かなかった。正直一途のショパンが、正式結婚を求めたのに対して、年上で<ruby><rb>巧慧</rb><rt>こうけい</rt></ruby>なサンドが承諾を与えなかったために、二人は回避することの出来ない破局に直面した。

ショパンの<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>は見る目も無残であった。が、サンドが二度までもショパンの住居を訪ねたとき、ショパンは一言も口をきかず、臨終の際も、サンドの腕に抱かれて死ぬ望みに燃えながら敢然面会を謝絶してしまったほどショパンは一<ruby><rb>国者</rb><rt>こくもの</rt></ruby>であった。サンドの態度はもとより非難さるべきであり、ショパンの死期を早めたのは、サンドの無情のためであると言われるが、一面リストの如きは、ショパンがあの<ruby><rb>蒲柳</rb><rt>ほりゅう</rt></ruby>の質で、三十九歳まで生き延びたのは、サンドの看護と注意のおかげであったとも言われている。

## 淋しき死

サンドと永久に別れてからのショパンの生活は、まことに見るも<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めなものであった。その健康は次第に衰え、一八四八年の革命を避けて英国に逃れた時の如き、全く衰弱しきって生きているのが不思議なくらいであった。その頃の心境を「私は長いこと真の喜びを味わわない。私はもう何にも感じない」ショパンはそう書いている。

ショパンの英国における演奏会は悲惨であった。ステージに出る姿は、ほとんど二つ折になり、絶えず<ruby><rb>咳</rb><rt>せ</rt></ruby>き続けていた。が婦人達はそれにもかかわらず、少しも彼に休息を与えなかった。彼は好意の押売をする客のために、毎日ヘトヘトに疲らされなければならなかった。

一八四九年正月、ショパンはとうとうパリに帰った。<ruby><rb>奇蹟的</rb><rt>きせきてき</rt></ruby>な生命の弾力は、幾度も死を伝えられたショパンを<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ち上らせたにしても、その弾力には限りがあった。その年の十月十七日容態はにわかに悪化し、少しばかりの近親と友人達に<ruby><rb>看護</rb><rt>みまも</rt></ruby>られて、天才ショパンは最後の時を迎えたのである。

崇拝者ポトカ伯夫人がニースから<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>け<ruby><rb>付</rb><rt>つ</rt></ruby>けると、<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>のショパンは、この同国人に何か歌ってくれと言った。リストはこの時の光景をこう書いている――ポトカ夫人が涙に濡れながら「アヴェ・マリア」を歌うと、ショパンは「なんという美しさだろう。私の神様、もう一度、もう一度」と<ruby><rb>絶々</rb><rt>たえだえ</rt></ruby>に言った。ポトカ夫人は再びピアノの前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、あらゆる努力を払いながら歌った。<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>の声に絶えながらも美しい旋律は悲しく続くうちに、ショパンは静かに息を引き取ったのである。

その死顔は生けるが如く清らかに美しかった。――彼が死ぬとき、彼に腕を貸そうと申し出る伯爵夫人や令嬢は、ヨーロッパ中に五十人以上もいるだろうと言われたショパンは、少数の友人に<ruby><rb>看護</rb><rt>みまも</rt></ruby>られながら、こう<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しく死んでいったのである。

生前かくも人に愛せられたショパンが、死後百年、<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>世界の敬愛を集めているのは興味の深いことである。ショパンの音楽が、決して場当りの流行音楽ではなく、ショパンその人が、真の芸術家であったことは、この一事をもって知るべきではあるまいか。

いやしくもピアノ音楽に興味を持つ者にして、ショパンを好まないと言い切れる人を私はかつて見たことはない。ショパンの音楽は常に新鮮で、百年かわることなき魅力と、人の心に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み入る美しきを持っているからである。

ショパンの作品は<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいが、幾つかの歌曲を除けば、ほとんどことごとくピアノ曲で、その一つ一つが、珠玉の如く尊く美しい。真にピアノの魂を把握し、ピアノの歌を唄わせたショパンの天才は、ピアノという楽器がある限り、人類の至宝として伝わるであろう。

それは要約せる美の精粋であり、最も<ruby><rb>無駄</rb><rt>むだ</rt></ruby>のない芸術的表現である。玄の玄、妙の妙なる音芸術の至境であると言ってもよい。

即興曲の中わけても「幻想即興曲」の甘美さ、円舞曲のうち「華麗円舞曲」の雄麗さ、「円舞曲<ruby><rb>嬰</rb><rt>えい</rt></ruby>ハ短調」の<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>さ、二十四曲の練習曲、四曲のスケルツォ、三曲のソナタ、四つの<ruby><rb>譚歌</rb><rt>たんか</rt></ruby>、<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れ深き夜曲の数々、二十四の前奏曲、十数曲のポロネーズ、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しきマズルカ、――数え来るとショパンの作品は際限もない。が、そのことごとくが、天才の<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>した、世界の宝である、と言ってなんのはばかりがあろう。

  


## ショパンの作品とそのレコード

ショパンのレコードは実に多い。同じ曲が数多くレコードされている点では、ベートーヴェンといえどもショパンの敵ではない。それはショパンのピアノ曲は、手軽に楽しめることと、そのレコードが実用的に聴かれるためであろうが、一番大きな原因は、ショパンの魅力が、誰でも<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>えずにはおかないためで、その美しさと親しさが全人類に呼びかける普遍的な性質を持つからだと言っても過言ではない。ショパンにおける限りは協奏曲やソナタは<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>まで重要とは言い難く、私はむしろショパンらしき小曲から紹介する方法を採ろうと思う。

## 夜想曲

夜想曲と三つの漢字を並べるより「ノクターン」とカナで書いた方がショパンの曲にふさわしい。夜の<ruby><rb>情緒</rb><rt>じょうちょ</rt></ruby>、夜の空気、夜の感傷、そして夢のような夜の<ruby><rb>讃美</rb><rt>さんび</rt></ruby>をショパンはこの名において二十曲も書いている。コロムビアのゴドゥスキーには二集のレコードに十二曲を入れたものがあるが（Ｊ七三九五―八、Ｊ七四四一―四）、この近代の大ピアニストも老境に入ってからレコードしたもので、<ruby><rb>立派</rb><rt>りっぱ</rt></ruby>であり、美しくはあるが、もはやショパンの夢がない。ビクターにはルービンシュタインの「夜想曲全集」があり十九曲まで納めているが、それは<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>豪華でノクターンの<ruby><rb>模糊</rb><rt>もこ</rt></ruby>たる情緒を欠き、壮麗ではあるが少し約束に違ったものを感じさせる。しかし録音が良いのと腕が確かなので、曲の形を呑み込ませるためには申し分なく役立つ（ビクターＪＤ一〇三五―四五）。

一枚ずつの<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたレコードでは「夜想曲第二番＝変ホ長調（作品九ノ二）」は最も通俗な曲で、誰にでも知られているが、ビタクーのコルトー（愛好家協会第四集）を私は採る。「同五番＝嬰へ長調（作品一五ノ二）」はパデレフスキーの演奏が見事だ。この曲は旧盤のパデレフスキーも良かったが、よほど得意らしく、その風格の雄大なうちに、<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み出る美しい情緒は比類もない（ビクター六八二五並びに愛好家協会第二集）、「第八番＝変ニ長調（作品二七ノ二）」は老境に入ってからの吹込みではあるが、パハマンのレコードに興味を持つ。それは多少の年齢による<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>みと粗雑さはあるにしても、他の人達では<ruby><rb>到底</rb><rt>とうてい</rt></ruby>及び得ない<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>を<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>し出しているからである（ビクター、パハマン選集）。

## 円舞曲

ショパンの華麗さはこの十四曲の<ruby><rb>円舞曲</rb><rt>ワルツ</rt></ruby>に求めなければならない。まとまったものでは、ビクターにコルトーの「円舞曲集」（ＪＤ四三四―九）が入っている。これは実に縦横<ruby><rb>無碍</rb><rt>むげ</rt></ruby>の名演奏で、十四<ruby><rb>顆</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>瑰麗</rb><rt>かいれい</rt></ruby>なる珠玉だ。わけても第七番目の<ruby><rb>嬰</rb><rt>えい</rt></ruby>ハ短調（作品六四ノ二）の円舞曲などは、言語に絶する美しさで、一篇の劇詩に匹敵する雄弁さだ。

一曲一曲でコルトーのほかに<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたものでは、ブライロフスキーの「第一番＝変ホ長調（作品一八）」（ビクター愛好家協会第五集）の<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>さと、「第二番変イ長調（作品三四ノ一）」の豪華さが挙げられる。ブライロフスキーはこの種の外面的な華麗なものが非常に良い。

パデレフスキーでは「第一番の円舞曲」の壮麗さは、吹込みは古いがさすがに超大家の<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>がある（ビクターＶＤ八）。ギーゼキングの「小犬のワルツ」（コロムビアＪ五六〇四）の<ruby><rb>爽快</rb><rt>そうかい</rt></ruby>さ。パパマンの同じ曲の口上入のレコード（ビクターＪＦ一七）。それからラフマニノフの「第七番の円舞曲＝嬰ハ短調」は吹込みは古いが異色あるレコードである（ビクター一二四五）。

要するにショパンの円舞曲のレコードは、特別の好みがない限りコルトーの「円舞曲集」で満足してよいだろうと思う。

## 練習曲

練習曲という名において、不思議な詩を描いたショパンの天才は驚くべきである。作品一〇番の十二曲、作品二五番の十二曲、共にバックハウスの（練習曲集六九七一―六）とコルトーの（ＪＤ二九九―三〇一及びＪＤ四三一―三）がビクターに入っている。鍵盤上の獅子王と言われたバックハウスの技巧の<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えと、情緒的なコルトーの温かさとは、<ruby><rb>画然</rb><rt>かくぜん</rt></ruby>として面白い対照をなしている。前者の透明な堅実味、後者の豊かな情愛とは、好み好みによって<ruby><rb>取捨</rb><rt>しゅしゃ</rt></ruby>が定まるがどちらも良いものであるに相違なく、ただ吹込みの新しいコルトーの方に<ruby><rb>強味</rb><rt>つよみ</rt></ruby>のあることは疑いもない。

一枚物では五番目の「<ruby><rb>黒鍵</rb><rt>こっけん</rt></ruby>＝変ト長調（作品一〇ノ五）」ではビクターのパハマンのが面白く、例の<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>の入っているのまで物々しい<ruby><rb>妖気</rb><rt>ようき</rt></ruby>を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らす（ＪＦ五五）。パデレフスキーは全く違った曲のような物々しい表現だが、今は形見のレコードとなった（ＪＥ一九二）。ほかにホロヴィッツがある。これは技巧の冴えが一番見事だ（ＪＤ一四九四）。第八番のヘ長調（作品一〇ノ八）は良い曲だが、新しいのではホロヴィッツだけ（ビクターＪＥ八四）。

ワルシャワの陥落に<ruby><rb>憤激</rb><rt>ふんげき</rt></ruby>して作曲したと言われるハ短調の「革命練習曲（作品一〇ノ一二）」は、やはりコルトーのが良いが、パデレフスキーのはポーランドの愛国者としてショパンと一脈心持の通いがあり、非常に劇的で面白い（ビクターＪＥ一九二）。この演奏は決して正統的なものではないが、ショパンの魂が、かつてポーランドの大統領であったパデレフスキーに、どう反影するかの音楽以上の興味が特色である。

「練習曲＝変イ長調（作品二五ノ一）」は「牧童」と言う名前で呼ばれる美しい曲だが、これはコルトーのが二度入っており、いずれも詩情に富んで美しい。ほかに「<ruby><rb>蝶々</rb><rt>ちょうちょう</rt></ruby>」と呼ばれる二十一番目の練習曲、「<ruby><rb>木枯</rb><rt>こがらし</rt></ruby>」と呼ばれる二十三番の練習曲、ことごとくコルトー以上のがない。ポリドールのブライロフスキーとビクターのレヴィンに一、二聴かれるのがあるだけだ。

## 前奏曲

この自由な形式をかりて、ショパンは二十四曲のすばらしい傑作を書いている。レコードでは、電気になってから二度吹込んだコルトーのが代表的で、前の吹込みは一九二七年<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>であり（ビクター六五一五―八）、後の吹込みはそれより約五年くらい遅れている（ビクターＪＤ三八七―九〇）。この二つの前奏曲のレコードの優劣は、繰り返して論議されるが、録音が悪くとも、若さと夢とを多分に盛った古い方が、多くの日本人には好まれている。新しい方はやや冷徹で繊麗で客観的でさえあるだろう。この中の一曲、「<ruby><rb>雨滴</rb><rt>あまだ</rt></ruby>れ」と呼ぶ十五番目の「前奏曲＝変ニ長調」を比べると、その違いがよく解ると思う。旧盤の物々しくも劇的な盛上りに対して、新盤の方は<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>なくて冷徹だ。一人の人間が同じ曲をこうまで違った心持で演奏した例はかつてない。

一枚一枚のレコードではここにもパハマンとパデレフスキーが物を言う。わけてもパデレフスキーの「雨滴れ」（ビクター六八四七）や第一七番「前奏曲＝変イ長調（作品二八ノ一七）」などは記念的な意味以上に<ruby><rb>立派</rb><rt>りっぱ</rt></ruby>なものである。

## 即興曲

<ruby><rb>奔放</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>な即興に高い芸術性を<ruby><rb>賦与</rb><rt>ふよ</rt></ruby>することはショパンの<ruby><rb>独壇場</rb><rt>どくだんじょう</rt></ruby>だ。三つの<ruby><rb>即興曲</rb><rt>アンプロムプチュ</rt></ruby>と<ruby><rb>幻想即興曲</rb><rt>ファンタジー・アンプロムプチュ</rt></ruby>はこれもビクターにコルトーの名盤があり（ＪＤ二六四、ＪＤ二六五）、なんといっても他の追従を許さない。ただしコルトーは思いのほか淡彩で、もう少ししみじみとした情緒を予期してもよかろう。「幻想即興曲」はショパンの作品中でも通俗で、あまり華麗なるが故にショパンは出版を好まなかったと言われる。この曲の演奏ではコルトーと違った意味で女流のタリアフェロ（コロムビアＪ八三六九）やロン（同名盤集）やシャーラー（同ＪＷ一二六）に面白さがある。

## スケルツォ

ショパンの「スケルツォ」には苦渋の人生味がある。ビクターにルービンシュタインの「スケルツォ曲集」（ＪＤ一九一―四）というまとまったレコードがあるが、この人は見事な技巧家ではあるが、なんかしら飽き足らないものを持っている。もう少し冷徹で素直でもよい。しかし不思議なことにスケルツォにはほかに良いレコードはない。わずかに三番の「スケルツォ」をモイセイヴィッチが弾いたのや、四番の「スケルツォ」をホロヴィッツのひいたビクター・レコードが注目される。

## バラード

四曲の「バラード」はさながら四篇の劇詩だ。第三番目のバラードは最も美しく、最後のバラードは最も高く評価される。コルトーの弾いた「バラード集」は二度レコードされている（ビクター七三三三―六及びビクターＪＤ一五八九―九二）。この場合も前奏曲と同じことが言われるだろうが、一般には吹込みの新しいＪＤ番号の方を採って差しつかえはない。コルトーのバラードにおける出来<ruby><rb>栄</rb><rt>ばえ</rt></ruby>は、ワルツ以上に見事なもので、その<ruby><rb>颯爽味</rb><rt>さっそうみ</rt></ruby>と、含蓄の美しさは、名人芸の至極と言ってよい。私は三番目のバラードにいつでも<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>と愛着をさえ感じているほどである。

ほかに、コロムビアのカサドシュスのが四枚入っている。この人のフランス風のあくの抜けたリアリズムは、ショパンのバラードをあまりにも感銘の淡いものにしているが、しかし一つの主張はうなずかれる。廃盤にしたのは、<ruby><rb>性急</rb><rt>せいきゅう</rt></ruby>であった。ほかにフリートマンやモイセイヴィッチのがあるがたいしたことはない。

## マズルカ

ポーランドの郷土舞踊の形式をかりて、ショパンは世にも美しい曲を実に五十幾つと書いている。これはコロムビアにフリートマンがお<ruby><rb>国振</rb><rt>くにぶ</rt></ruby>りを演奏して四枚入れたのと（Ｊ八〇一〇―三）、ビクターにニーヅェルスキーというポーランドのピアニストの入れた一枚物がある（ＪＡ一三四）。フリートマンもポーランド人でショパンには自信のある人だが、実演で聴いてもマズルカが一番良かったようで、この手一杯に弾きまくった感じは、やぼったいが<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かで面白い。ニーヅェルスキーはそれよりたしなみがよく、落ちついた繊麗さが好感を持たせる。ほかにはパハマンの「マズルカ＝ト長調（作品六七ノ一）」（ビクターＪＦ五五）、パデレフスキーの「マズルカ＝嬰ハ短調（作品六三ノ三）」（ビクター七四一六）、ローゼンタールの「マズルカ＝ロ短調（作品三三ノ四）」（ビクターＪＤ九二四）などは記念的意味で重要であり、ホロヴィツツの「マズルカ＝ヘ短調（作品七ノ三）」（ビクターＪＥ八四）、「同＝嬰ハ短調（作品五〇ノ三）」（ビクターＪＤ一四九四）、「同＝ホ短調（作品四一ノ二）」（ビクターＪＥ一四二）などは演奏の精妙さで挙げられる。

## ポロネーズ

これこそショパンがそのポーランド魂を最もよく発露させた、<ruby><rb>豪宕</rb><rt>ごうとう</rt></ruby>なあるいは優雅な国民舞踊である。十五曲のポロネーズのうち八曲まで、ルービンシュタインが「ポロネーズ集」としてビクターに入れているが（ＪＤ六五五―六二）、これはルービンシュタインのショパン中の傑出したもので、滋味には乏しいが、形の上の美しさは非凡である。

ほかにはあまり良いレコードはない。かつての旧盤時代にパデレフスキーの「軍隊ポロネーズ」はファンの血を<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>かしたが、電気にはこの曲がなく、パデレフスキーでは「ポロネーズ＝変ホ短調（作品二六ノ二）」（ビクター七三九一）と「ポロネーズ＝変イ長調（作品五三）」<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち英雄ポロネーズ（ビクターＪＤ一一〇四）が入っているが、前者の方が幾分の若さがあって良かろう。パデレフスキーはポロネーズにうってつけのピアニストで、弾奏にもその祖国愛が<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れて興味深いことであり、わけても「英雄ポロネーズ」はショパンのポロネーズ中でも有名であるが、これをレコードした時は、何分の老齢で救い難い<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>を感じさせる。ほかにこの曲にはコルトーのも、フリーマンのも、ギーゼキングのも、ブライロフスキーのもあるが、最上のものではない。

「ポロネーズ＝嬰ハ短調（作品二六ノ一）」をパハマンの弾いたのはビクターの「パハマン選集」の中にあるが、これは老齢のハンディキャップを<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>に入れても捨て難いレコードである。パデレフスキーの英雄ポロネーズと共に記念的に保存さるべきである。

## 幻想曲、子守唄、船唄

ショパンのピアノ芸術の最後の到達点であったと言われる「<ruby><rb>幻想曲</rb><rt>ファンタジー</rt></ruby>＝ヘ短調（作品四九）」は、ショパンの甘美さをかなぐり捨てて、古典的な形式のうちに雄大深奥な<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>を盛ったものであるが、レコードはビクターのコルトー（ＪＤ三三〇―一）、コロムビアのロン、フリートマンなどがあったが、これはコルトーの<ruby><rb>雄渾</rb><rt>ゆうこん</rt></ruby>な演奏をもって第一とする。しかし、もう少し精神的内容を持ったレコードが要求されてよい。及ばないことであるが、若き日のパデレフスキーなどが夢想される。

「<ruby><rb>子守唄</rb><rt>こもりうた</rt></ruby>（作品五七）」、ショパンの童心の現れた、こんな優しく美しい曲は少ない。ビクターのコルトーが断然良い（ＪＤ一六七四）。コロムビアのロンも女らしさを買われようか（名盤集）。

「船唄（作品六〇）」は幽遠な海洋の幻想である。ショパンではスケールの大きい佳作の一つ。レコードはコルトー（ビクターＪＤ五〇九）、ロン、ルービンシュタインなどがある。

## ピアノ協奏曲

ショパンの協奏曲はその管弦楽の処理が稚拙なために、長い間非難を<ruby><rb>被</rb><rt>こうむ</rt></ruby>っているが、しかしピアノの詩人ショパンの特色は協奏曲に一脈の特異な生命を吹込んで、二つとも世の常ならず美しいものである。

「第一ピアノ協奏曲＝ホ短調（作品一一）」は<ruby><rb>爽快</rb><rt>そうかい</rt></ruby>な味があって好ましい。レコードはポリドールのブライロフスキーと、コロムビアのローゼンタールと、ビクターのルービンシュタインとあるが、三つともそれぞれの特色があるにしても、録音の美しいルービンシュタインを採るのが常識的であろう。管弦楽はロンドン交響管弦団、指揮はバルビロリ（ビクターＪＤ一二七〇―三）。

「第二ピアノ協奏曲＝ヘ短調（作品二一）」は優麗で美しい。レコードはビクターにルービンシュタイン、コルトーの二種、コロムビアにロンが入っているが、これはコルトーのを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るべきだ。指揮はバルビロリ（ビクターＪＤ七九四―七）。コロムビアのロンのも女らしい<ruby><rb>優艶</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>さがあって良いと言われている（Ｊ七八三二―五）。

## ソナタ

ショパンのピアノ・ソナタは三曲あるが、これも協奏曲同様、この窮屈な形式に<ruby><rb>縛</rb><rt>しば</rt></ruby>られてショパンの天才を<ruby><rb>充分</rb><rt>じゅうぶん</rt></ruby>に発揮出来なかったと言われている。しかし三つのうち第二、第三のソナタは確かに美しい。

「ソナタ第二番＝変ロ短調（作品三五）」は葬送行進曲ソナタとして有名だ。第三楽章に美しくも悲しい葬送行進曲が用いられているからである。このレコードはビクターに名盤が二つある。それはコルトー（ＪＤ三〇六―七）とラフマニノフ（一四八九―九二）で、コルトーはこれを二度入れているが、実に非凡の名演奏である。優雅な悲哀と、絶え入るばかりの美しい<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>は、コルトーの名演奏でこの上もなく美しく描き出される。ラフマニノフのはかつて私などは<ruby><rb>与</rb><rt>くみ</rt></ruby>し難いと思ったが、今聴いて見るとやはりうまい。これは演奏者の個性の強烈なために起る現象で、原曲に忠実ではないが、不思議な情熱を蔵したものだ。

「ソナタ第三番＝ロ短調（作品五八）」は前者――<ruby><rb>葬送</rb><rt>そうそう</rt></ruby>ソナタよりさらに完成したショパンが見られる。むずかしいが、美しい曲である。レコードではビクターにコルトーの名盤がある（ＤＡ二一〇九―一二）。これは録音がやや古いのが欠点で、この曲の<ruby><rb>精緻</rb><rt>せいち</rt></ruby>な味は同じビクターのブライロフスキーを聴くがよい（ＪＤ一六四三―五）。

## 歌

ショパンの歌「<ruby><rb>乙女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>の願い」を、旧盤時代にゼンブリッヒが歌った有名な<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>レコードがある。ピアノも自分で弾いているが、この録音の古さを超越した<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>さを私は愛する。電気ではコルユスがビクターに「小さき<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>」という名で入れているが、品格が<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに落ちるだろう。

最後に一言、ショパンのピアノ曲は原則としてコルトーのものを選んで大した間違いはない。それに少数のパデレフスキーとブライロフスキーとルービンシュタインが加わるだろう。ゴドウスキーはうまい人であったが、レコードでは年をとり過ぎている。

それから「パハマン選集」（即興曲第二番、夜想曲作品二七ノ二、作品七二ノ一、マズルカ作品二四ノ四、作品五〇ノ二、作品六三ノ三、作品六七ノ四、ポロネーズ作品二六ノ一、円舞曲作品六四ノ三）も逸することの出来ないものである。老境に入っているにしても、この人のショパンには、やはり不思議な美しさがある。パデレフスキーのレコードと共に後世に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>さるべきものだろう。

  


## 情熱のシューマン

  


<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>なピアノ曲「<ruby><rb>謝肉祭組曲</rb><rt>カーナヴァル・スイト</rt></ruby>」や、美しい歌曲「詩人の恋」を作曲したロバート・シューマンこそ、十九世紀中葉の欧州を<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>した、ロマン派音楽の最も偉大なる闘士であり、また同時に純情の騎士でもあった。

この人の全生涯と全作品を紹介することは限られたページの中ではむずかしい。私は単にシューマンの愛の生活とその結晶とも言うべき、二、三の作品について語るに<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めなければならない。

ロバート・シューマン（<em>Robert Schumann</em>）は、一八一〇年六月ドイツのサクソニーの本屋の子として生まれ、一八五六年七月、<ruby><rb>癲狂院</rb><rt>てんきょういん</rt></ruby>（精神病院）の一室で死んだ。四十六年の生涯は、まこと血みどろの奮闘の連続であったと言ってもよく、その奮闘と<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>と狂気とには、偶像化された天才の、超人的な有難さなどは<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>もない。あくまでも我らと同じ大地に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>み、我らと同じ生活を<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>い続け、我らの隣人のような親しみを感じさせるものがあるだろう。

## 少年ロマン主義者

シューマンの家系には、多くの大作曲家達と違って、音楽家の血はすこしも流れていない。その点はワグナーと同様で、両者が音楽界の伝統を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き破って、新しいもの、より生命あるものを築くために闘い抜いた点もよく似通っている。シューマンにとっては、音楽は父祖伝来の「家の芸」ではなくて、純粋に民族のものであり、人間のものであり、そして、自分自身のものだったのである。

シューマンは十九世紀のロマン派作曲家中、最も<ruby><rb>学殖</rb><rt>がくしょく</rt></ruby>に富み、最も<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>な、最も芸術的な人であった。彼の生涯には、天才の気まぐれらしいものは一つもなく、その作品にはかつて市場や世評を顧慮して生産されたと思わしむるものは一つもない。シューマンの伝記と作品に接する時、やぼったいほどの生真面目さと、狂気にまで押し広げていった、突き詰めた心持の重圧を感じさせずにはおかないだろう。

しばらくその伝記を見よう。

少年シューマンの音楽愛は、かなり早く目覚めた。同年輩の少年達と合奏したり、作曲をしたり、町の教会のオルガニストに手ほどきして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、未来の大ピアニストを夢みたり、九歳のときには、巨匠モーシェレスの演奏を聴いて感激し、早くも音楽をもって身を立てる決心を固めたが、十五歳、父の死に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って、その望みは<ruby><rb>挫折</rb><rt>ざせつ</rt></ruby>してしまった。

シューマンの母は、世間並にこの子を法律家にするつもりであった。が、十八歳で中学を卒業したシューマンは、バイロンやジャン・パウルの作物を<ruby><rb>耽読</rb><rt>たんどく</rt></ruby>して、腹の底からロマン主義者になっていたのである。わけても、その年友人と南ドイツに旅行し、詩人ハイネを訪ねて会ったのは、シューマンの心境に一転機を画したと言っても差しつかえはない。言うまでもなくハイネは当代の大詩人で、ロマン派の<ruby><rb>大立物</rb><rt>おおだてもの</rt></ruby>であった。その燃えるような情熱と、皮肉な<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>な<ruby><rb>人柄</rb><rt>ひとがら</rt></ruby>は、若いシューマンをすっかり傾倒させてしまったのも無理のないことである。

## 闘いの人シューマン

ライプチッヒの大学に法律を学んでいるうち、後年彼の妻になった、クララの父にしてピアノ教授として有名なフリードリッヒ・ヴィークに会い、その家庭にも出入するようになった。後ハイデルベルヒ大学に転じたが、シューマンの心は法律を離れて、作曲とピアノの練習に没頭し、ついにヴィークまで<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わして母親を説き落し、法律修業を廃して、ライプチッヒに帰ることになった。

ヴィークの家に寄宿しながら、ピアノの猛練習を続けたシューマンは、あせり過ぎた<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>のためにかえって指を痛め、ピアニストとして立つことを断念しなければならなかった。これはしかし、野心的な若いシューマンにとっては、不幸でもあり幸福でもあった。シューマンはこれを転機として、作曲にいそしみ、シューマン自身は狂気するほどの苦悩を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めたにしろ、後代のわれわれに、数十曲の傑出したピアノ曲、歌曲、室内楽曲、交響曲を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>してくれたからである。

二十三、四歳のシューマンは、いつの世にも絶えない俗楽者流を<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>け、楽界に新鮮な空気と正論を迎え入れるために、同志と共に音楽雑誌を<ruby><rb>創</rb><rt>はじ</rt></ruby>めた。この雑誌の投じた楽界の影響は甚だ大きく、ピアノ詩人と言われた天才ショパンを世に紹介したばかりでなく、シューマンは二つの<ruby><rb>仮名</rb><rt>ペンネーム</rt></ruby>の下に、勇ましく既成楽壇に<ruby><rb>挑戦</rb><rt>ちょうせん</rt></ruby>したのである。

シューマンはこの頃いくつかの佳作を発表した。ピアノ曲「<ruby><rb>謝肉祭組曲</rb><rt>カーナヴァル・スイト</rt></ruby>」などはその一つである。当時楽壇の中心人物メンデルスゾーンと<ruby><rb>相識</rb><rt>あいし</rt></ruby>り、一方クララとの愛が生長して、クララの父ヴィークに結婚の許しを求め、手痛い反対を受けたりしたのもその頃である。

## 名媛クララ

これより先、シューマンがヴィークの家庭に出入し、珠玉のような愛嬢クララを見出したのは、一八二八年シューマン十八歳、クララはわずかに九歳の時であった。が、クララはその頃すでに天才少女ピアニストとして知られ、世にも美しく<ruby><rb>気高</rb><rt>けだか</rt></ruby>く、それにもまして賢い少女であった。

今日、いろいろの文献や写真から想像しても、クララの優れた素質と、その美しさは、驚異的のものであったことは疑いを<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>れない。十三歳の時シューマンの第一<ruby><rb>交響曲</rb><rt>シンフォニー</rt></ruby>をピアノで演奏した頃から、シューマンの興味は少女クララの上に燃え始め、父ヴィークに伴われて、全欧を演奏旅行し、天才少女の名を<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>かした頃はシューマンとの間に美しい愛情が芽生え、それが<ruby><rb>退引</rb><rt>のっぴき</rt></ruby>ならぬ状態にまで生長していった。

「愛するクララよ、私があなたをどんなに好きだかと言うことを知っていますか。ではさようなら。あなたのロバート・シューマン」と書いたのは一八三五年シューマンは二十五歳、クララ十六歳の時であった。

翌年、栄光と名声の中に輝くクララの<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ、シューマンの求婚の手紙が届けられ、クララはそれによき返事を与えた。クララとシューマンとの純潔な情熱は、<ruby><rb>取交</rb><rt>とりかわ</rt></ruby>した手紙や、今に残る幾多の文献によって想像することが出来る。二人は五年の長い間、真に余念もなく愛し合い、一徹な父の許しを受けるために、あらゆる困難と<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>っていったのである。

クララの風にも堪えないような<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な美しさはシューマンを<ruby><rb>虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>にした最大の原因ではなかった。天才少女クララの練達無比なピアノも、シューマンの傾倒の全部ではなかった。それらのあらゆるものに増して、クララは人を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひき</rt></ruby>つける魅力と、才能と、純粋性を持っていたのである。クララの<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>さと、その高度の理解力は、シューマンの高踏的なピアノ曲の紹介者として、かけがえのない人であったばかりでなく、シューマンは一生を純芸術的な作曲に没頭し、かつて俗流に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるジェスチュアをさえ示さず、やや気むずかしく、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい作曲――が、それはなんという芸術的な美しいものであったろう――を書き続けたのは、<ruby><rb>名媛</rb><rt>めいえん</rt></ruby>クララの理解と、奨励とがあった<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>であろうと<ruby><rb>解</rb><rt>かい</rt></ruby>する人さえ少なくない。

シューマンは常にクララの奨励によって作曲し、クララと共にあるが故に作曲したかの観がある。悲しみも<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びも、クララあるが故である。<ruby><rb>畢生</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の大傑作「詩人の恋」も「女の愛と生涯」も「ピアノ五重奏曲」も「ピアノ協奏曲」も、クララの愛の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にいて始めて作られたと見るべき理由さえあったのである。

しかし、クララの父ヴィークは、全欧の人気を背負って立つ天才クララの夫として、貧乏で<ruby><rb>狽介</rb><rt>けんかい</rt></ruby>な一作曲家を選ぶはずはなかった。二人の婚約は、父の怒りの前に<ruby><rb>粉砕</rb><rt>ふんさい</rt></ruby>されたのも、世の常のことである。二人は<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>かれて監視された。シューマンは<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>と絶望の果て「クララは前のように私を愛してくれる。が、私は永久に彼女を<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めた」と、その姉に書いたのはこの頃である。しかし、一方優しく<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>なクララは、見かけによらず<ruby><rb>剛毅</rb><rt>ごうき</rt></ruby>であった。「どんなことがあっても、ロバートを見捨てはしない」と書きもし、決心もした。

シューマン自身の言葉で「世界がかつて見たものの中、最も光栄ある娘」を<ruby><rb>獲</rb><rt>う</rt></ruby>るために、シューマンは社会的地位と名声を築き上げる決心をした。換言すれば、身に<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>をつけて、クララの父ヴィークを説き落す決心をしたのである。長い努力の後、イェーナ大学から哲学博士の称号を<ruby><rb>贈</rb><rt>おく</rt></ruby>られたのは、一八四〇年、シューマンが三十歳の年であった。

しかし娘を極度に高く評価したヴィークは、<ruby><rb>頑</rb><rt>がん</rt></ruby>として二人の結婚に承諾を与えなかった。事はついに法廷に持出され、長い審議の後、法に許されて二人が結婚したのは、同じ年の九月であった。

## 愛の勝利、狂気

二人は愛に勝った。二人の生活はこの時ほど明るく、この時ほど喜ばしいことはなかった。クララは貞淑で純粋であったばかりでなく、シューマンにとっては、魅力の源泉であり、作曲上のインスピレーションであった。それから十年の間シューマンは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい傑作を、やつぎばやに世に送ったが、わけても結婚当時二、三年の作曲は、シューマンの絶頂期であったばかりでなく、ドイツ・ロマン派のエヴェレストでもあった。

間もなく父ヴィークと仲直りはしたが、過労と神経の酷使から、シューマンの上に暗い陰影が<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>し始めた。音楽学校の教授も捨てたが、次第に気むずかしくなり、次第に病的になる神経をどうすることも出来なかった。一時<ruby><rb>小康</rb><rt>しょうこう</rt></ruby>を得て、オペラを書いたり、指揮者になったりしたが、<ruby><rb>気鬱症</rb><rt>きうつしょう</rt></ruby>は次第に<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>って、一八五四年二月には突然発作を起してライン河に投じ、その時は人に救われたが、二年後の七月、ついに四十六歳の若さで世をおわった。

シューマンの最も人間的な性格と、その絶えざる苦悩は、その作品を暗く<ruby><rb>晦渋</rb><rt>かいじゅう</rt></ruby>にしたが、それだけに、内面的で、思想の裏付けがしっかりしているために、この人の音楽ほど興味の底の深いものはなく、この人の音楽ほど、純粋に芸術的なものは少ない。

ピアニストで立つつもりであったシューマンは、ピアノ曲の作物において、リストにもショパンにもない一大新境地を開いた。「幻想小曲集」「子供の情景」「<ruby><rb>謝肉祭組曲</rb><rt>カーナヴァル・スイト</rt></ruby>」「クライスレリアーナ」等において示した、シューマンの境地は、純粋にピアノ的で、この上もなく芸術的<ruby><rb>洗練</rb><rt>せんれん</rt></ruby>を持つものだ。シューマンには卑俗な甘美さも、低劣な芝居気もない。ピアノに<ruby><rb>託</rb><rt>たく</rt></ruby>して、自分の思想の最も芸術的な表現を完成し尽そうとしているようだ。その場合、ピアノは道具ではなくて、それ自身シューマンの生命であるようにさえ見える。ショパンはピアノの詩人であると言われるが、シューマンはピアノの哲学者だ。

ピアノ曲にもまして、シューマンを特色づけるものは、その<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>であった。かつてシューベルトが最高至純の域にまで押上げたドイツのリードを、シューマンはさらに変った方法によって高度の発達完成を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げた。シューベルトはドイツの詩に最上の音楽的表現を与えるために、美しい<ruby><rb>旋律</rb><rt>メロディー</rt></ruby>を書き、重要な伴奏部を付した。シューベルトより後に生まれて、高い教養を持ったシューマンは、詩を選ぶことにおいてまずシューベルトの及びもつかぬ好条件を与えられ、さらにピアニストであり、ピアノ作曲者であるシューマンは、その歌曲に、驚くべき<ruby><rb>巧緻</rb><rt>こうち</rt></ruby>な背景――伴奏部を与えることに成功した。「詩人の恋」「女の愛と<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>」その他が、ドイツ歌曲として古今の傑作と称せられるのは、いろいろの特色はあるが、シューマンの教養と、伴奏部のせいも大きな原因であったと言ってよい。室内楽は、シューマンの特色的なものは、やや<ruby><rb>晦渋</rb><rt>かいじゅう</rt></ruby>であるが、その傑作は二、三にして止らず、<ruby><rb>俗耳</rb><rt>ぞくじ</rt></ruby>は楽しませなくとも、音楽的教養の高い人を飽かせないだけの美しさと純粋に芸術的な良さを持っている。交響曲は第一から第四まで四曲。「春」という標題を持つ第一、「ライン」と称せられる「第三」はわけても人に親しまれる。シューマンの交響曲は決して通俗なものではないが、その気品と重厚さと、腹の底からのロマンティックな美しさは、ブラームス以前、ベートーヴェン以後の一大巨峰であったことは言うまでもない。ここにも情熱の音詩人シューマンの、人間らしさが<ruby><rb>横溢</rb><rt>おういつ</rt></ruby>して、限りなく人を打つものを感じさせるからである。

  


## シューマンの作品とそのレコード

シューマンの作曲の特色的にして興味深いものは、<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>なシンフォニーよりは、むしろピアノ曲と<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>でなければならない。四つの交響曲はそれぞれの因縁と苦心が<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>み、シューマンを語る上にはきわめて大事な役割を持つものであり、その一つ一つがシューマンの<ruby><rb>抱懐</rb><rt>ほうかい</rt></ruby>した大浪漫主義の理想を高らかに歌った、きわめて超凡にして気品の高いものであるにしても、その構成が色彩的でなく、灰色の重圧と、<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しい単一さを持ったもので、一般人が聴いて決して面白いものではなく、レコードにも甚だ少ない。わずかに「ライン」と呼ばれる「第三交響曲＝変ホ長調（作品九七）」をパリ音楽院交響管弦団をコッポラの指揮したビクター・レコードが、現役的なものであるにすぎない（ＪＤ三三九―四一）。これも小気の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いたイージーな演奏で、シューマンの<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>は見る由もない（この曲はきわめて明るい美しいものとされているが、シューマンの晩年作で、もう少し濃い陰影であってよいわけである）。

## ピアノ曲

ピアノ音楽に対するシューマンの開拓は、ショパン、リストと共に大きな分野を代表し、その作品はきわめて良心的で、高貴な深々とした芸術境に到達したものである。

そのうちで通俗的興味と芸術的気品とを兼ね備えたのは「<ruby><rb>謝肉祭</rb><rt>カーナヴァル</rt></ruby>（作品九）」をもって第一とするであろう。謝肉祭の仮装に<ruby><rb>擬</rb><rt>なぞ</rt></ruby>らえた幾多の小曲から成ったものであるが、その中にはシューマンの主張と<ruby><rb>矜持</rb><rt>きんじ</rt></ruby>と、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>と道楽気と、淡い恋と友情とが<ruby><rb>蔵</rb><rt>かく</rt></ruby>されており、技巧的にもシューマンのピアノ曲のエッセンスを集めてこの上もなく面白い。レコードは吹込みは新しくないが、ビクターのコルトー演奏をもって第一とし（ＪＤ七五一―三）、同じビクターのラフマニノフがそれに次ぐだろう。由来当代のシューマン弾き中、その教養と心構えと、趣味と技巧とにおいてシューマン的であること、コルトーに及ぶものはなく、シューマンの持つロマンティシズムは、コルトーによって最もよく理解再現されると言っても差しつかえはあるまい。ラフマニノフは筆者の旧著で非難しているが、聴き直してみると、この個性の強烈な演奏にも、不思議な良さを持っていることを承服させられるだろう。

「幼き日の思い出」（または子供の情景）は他愛のないようではあるが、子供の世界を描いて、童心と詩味の豊かな曲である。これもビクターのコルトーの演奏をもって<ruby><rb>白眉</rb><rt>はくび</rt></ruby>とし（ＪＤ八四〇―一）、ほかにビクターのモイセイヴィッチ、同じくナイ、コロムビアのナットなどがある。しかし迷わずにコルトーを採って決して<ruby><rb>悔</rb><rt>くい</rt></ruby>はない。この中の有名な「<ruby><rb>夢想</rb><rt>トロイメライ</rt></ruby>」はヴァイオリンやチェロに編曲して有名になっているが、カサルスのビクター・レコード（ＪＥ五九）は古い録音ながら名品で、コロムビアのマレシャルとフォイアマンは録音の鮮麗さで愛されよう。ヴァイオリンではビクターのエルマンが定評がある（ＪＥ一六三）。

「ダヴィッド同盟舞曲集（作品六）」は、「謝肉祭」ほど多彩な面白さはないが、クララに対するシューマンの情熱とも言い、理想主義的なシューマンの俗衆への<ruby><rb>示威</rb><rt>じい</rt></ruby>とも解される。レコードではビクターのコルトーが唯一で見事だ（ＪＤ一五〇二―四）。

「クライスレリアーナ（作品一六）」は同名の小説を題材としたもので、皮肉で<ruby><rb>諧謔的</rb><rt>かいぎゃくてき</rt></ruby>であるべきはずだが、シューマンの突き詰めた<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>さと、一種の情熱が<ruby><rb>不思議</rb><rt>ふしぎ</rt></ruby>な悩ましさを織り出す、コルトーのが唯一で立派なレコードだ（ビクターＪＤ九五一―四）。

「交響的練習曲（作品一三）」は一つの主題と九つの変奏曲と一つの終曲から成る幽玄な曲でこの優麗さを私は愛する。レコードは、ビクターのコルトーは<ruby><rb>鬱然</rb><rt>うつぜん</rt></ruby>たる感じのする名演奏で（七四九三―五）、ほかに三、四種のレコードも入っているが、コルトーに比べると薄手で散漫で問題にならない。

「幻想小曲集（作品一二）」は「謝肉祭」とはまた違った連絡のない小曲を集めたもので、ビクターには「幻想曲（作品一二）」の名で老ピアニスト、バウアーのが入っている。しかしこの中で面白いのは「飛躍」や「夢のもつれ」や「<ruby><rb>何故</rb><rt>なにゆえ</rt></ruby>」などで、一曲入ったのでは、旧盤時代のパデレフスキーの「飛躍」や「何故」を思い出す。

「幻想曲ハ長調（作品一七）」は前者とは全く違った長大な曲で、シューマンの純粋な幻想に面白さがある。レコードではビクターにバックハウスの<ruby><rb>歯切</rb><rt>はぎれ</rt></ruby>の良い技巧的に美しいのが入っている（ＪＤ一一六二―五）。

「<ruby><rb>胡蝶</rb><rt>こちょう</rt></ruby>の曲（作品二）」はきわめて初期の曲で、<ruby><rb>稚気</rb><rt>ちき</rt></ruby>愛すべきものがある。コルトーのが良い（ビクターＪＥ九七―八）。その他ホロヴィッツの「アラベスク」（ビクターＪＥ二〇五）、パデレフスキーの「<ruby><rb>予言鳥</rb><rt>よげんどり</rt></ruby>」（ビクター一四二六）などが<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げられよう。

「ピアノ・ソナタ＝ト短調（作品二二）」はビクターにホロヴィッツのがある。見事ではあるが大して面白いものではない。

## 歌曲

「詩人の恋」はハイネの詩のよさと共に、シューマンのリードに対する<ruby><rb>抱懐</rb><rt>ほうかい</rt></ruby>と天分を傾け、一面クララへの愛情の<ruby><rb>氾濫</rb><rt>はんらん</rt></ruby>を描いたものと言ってよい。全曲レコードはビクターにバリトンのデニスの歌ったのと（Ｄ二〇六二―四）、パンゼラがコルトーのピアノ伴奏で歌ったのと（ＪＤ七九八―八〇〇）ふた通り入っているが、パンゼラはきわめて巧者でコルトーのピアノ伴奏がすばらしいにしても、私はやはりデニスの情緒と魅力とを採りたい。身も心も打ち込んだような、優しく物悲しい表現である。

「女の愛と生涯（作品四二）」は「詩人の恋」と共にシューマンの二大歌曲集の一つで、シューマンがクララと結婚した年、即ち伝記家の「歌の年」の傑作である。乙女の愛の芽生えから結婚、出産、最後に<ruby><rb>寡婦</rb><rt>かふ</rt></ruby>の淋しさまで八曲に歌ったもので、その純粋な愛情と美しい悩みは人を揺り動かす。レコードではコロムビアのロッテ・レーマンの歌ったのが絶対的に良い（Ｊ五三九二―五）。これはピアノを交えた管弦楽伴奏で、シューマンのリードを<ruby><rb>冒涜</rb><rt>ぼうとく</rt></ruby>すること<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしいものであるが、それにもかかわらずレーマンの歌は見事で、<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>たる情緒と清らかな愛の表現は何に例えようもない。<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の好きなレコードの一つである。

一枚物の歌のレコードでは、一番有名なのは「二人の<ruby><rb>擲弾兵</rb><rt>てきだんへい</rt></ruby>」であろう。巧みにフランスの国歌を使って、ナポレオン軍の敗残兵を歌った技巧が面白い。レコードではポリドールのシュルスヌス（六〇二〇三、後にシュルスヌス愛唱曲集第二集）が傑出し、ビクターのシャリアピン（六六一九）がそれに次ぐだろう。

「<ruby><rb>胡桃</rb><rt>くるみ</rt></ruby>の<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>」はシューマン的な良い歌である。ピアノ伴奏部に重点が置かれ、そこに非難もあれば特色もある。ポリドールのスレザーク（Ｅ二〇七またはスレザーク愛唱曲集の内）は情愛兼ね備わった名演奏で、続いてはビクターのエリザベト・シューマン（ＪＤ一一〇）あたりが良かろう。ほかに「<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>の<ruby><rb>花</rb><rt>はな</rt></ruby>」のレーマン、「月の夜」のシュルスヌス、「春」のシューマンなどがとにもかくにも良いものであろう。

## 協奏曲と室内楽曲

「ヴァイオリン<ruby><rb>協奏曲</rb><rt>コンチェルト</rt></ruby>＝ニ短調」は最近発見された遺作で、その発見の<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>が興味をよんだばかりでなく、曲も晩年のものにしてはきわめて面白い。当時ヨアヒムがこの曲に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>む狂気的なものを感じて演奏を<ruby><rb>忌避</rb><rt>きひ</rt></ruby>したというのは、伝説の誤りでなければ、ヨアヒムの偏見であろうと思う。おそらくこの曲は古今のヴァイオリン協奏曲でも十指――あるいは五指に<ruby><rb>屈</rb><rt>かがな</rt></ruby>うべき傑作の一つと言って差しつかえはない。

レコードはドイツにおける初演のクーレンカンプ（テレフンケン二三六五三―六）と、アメリカにおける初演のメニューイン（ビクターＪＤ一五一四―七Ｓ）とが入っているが、こればかりは、正直で優麗で、打ち込んだ気持のクーレンカンプに同情が持たれる。近頃のメニューインのうまさは格別なものがあり、この曲においても驚くべき<ruby><rb>天賦</rb><rt>てんぷ</rt></ruby>を示しているが、ヴァイオリンの世の中は必ずしもメニューイン万能ではなく（もちろんメニューインに<ruby><rb>与</rb><rt>くみ</rt></ruby>する人も少なくないだろうが）、この曲に示した<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>にして<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>な身振りは、クーレンカンプの<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>にして<ruby><rb>端麗</rb><rt>たんれい</rt></ruby>な趣に及ばないものを思わしめる。

「ピアノ協奏曲＝イ短調（作品五四）」はきわめて有名な曲であり、シューマンにとっては傑作の一つである。この曲を<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>シューマンのために精一杯<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、その頃の無理解な――あるいは無理解を<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>わんとする聴衆を説得せんとした、<ruby><rb>名媛</rb><rt>めいえん</rt></ruby>クララ夫人の努力が今に<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれて<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>しい。レコードではビクターにコルトーの名盤がある（ＪＤ三四七―五〇）。管弦楽はロンドン・フィルハーモニックで指揮はロナルド卿、壮麗きわまる演奏で、この豊かな美しさに帽子を脱ぐ。コロムビアのナットは気の<ruby><rb>清</rb><rt>す</rt></ruby>んだフランス風のリアリズムが特色である（Ｊ八二七九―八二）。「チェロ協奏曲＝イ短調（作品一二九）」はヴァイオリン協奏曲と共にシューマンの弦楽器をマスターした名曲と言えるだろう。優雅な美しい曲である。ビクターのピアティゴルスキーのが良い（ＪＤ三五三―五）。指揮はバルビロリ、管弦団はロンドン・フィルハーモニック。

「ヴァイオリン・ソナタ」には良いのがなく、「ピアノ三重奏曲＝ニ短調（作品六三）」にコルトー、ティボー、カサルスの名盤がある（ビクターＶＤ八二三二―五）。これも吹込みは新しくないが、世紀の三重奏団とも言うべきカサルス・トリオの傑作の一つで、この<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>さは比類もない。

「弦楽四重奏曲」では第一番のイ短調（作品四一ノ一）を入れたカペエ弦楽四重奏団のコロムビア・レコード（Ｊ七六二九―三一）ひと組あれば沢山だ。吹込みは古いが<ruby><rb>洗練</rb><rt>せんれん</rt></ruby>された美しさは例えようもない。がしかし、シューマンの弦楽四重奏曲は<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>に面白くないことも事実である。<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>と想念はひとかどのものがあったにしても、弦楽器の性格を<ruby><rb>把握</rb><rt>はあく</rt></ruby>して、自由に扱い兼ねたのがシューマンの欠点で、これはいたしかたのないことである。

「ピアノ五重奏曲＝変ホ長調（作品四四）」、これは傑作だ。シューマンらしい<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>な暗さはあるにしても、とにもかくにも飛躍的で、シューマンの生涯のうちでも幸福な時期を暗示する曲である。レコードはビクターにシュナーベルとプロ・アルテ弦楽四重奏団の組合せで入っている（ＪＤ六九一―四）。この組合せでは良いものであろう。

  


## ピアノの巨匠リスト

  


## 交響曲詩の父

十二曲の<ruby><rb>交響曲詩</rb><rt>シンフォニック・ポエム</rt></ruby>を書いて、楽壇に大きな時代を<ruby><rb>画</rb><rt>かく</rt></ruby>し、近代音楽の<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>の鐘を高らかに<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>き出したフランツ・リスト、――一面においてピアニストとして前人未踏の境地を<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>き、パガニーニのヴァイオリンにおける如く、神話的にまで高められた技巧の征服者リストこそはまことに巨匠雲の如き十九世紀中葉の欧州楽壇においても、最も興味深き存在であったと言わねばならない。

筆者はきわめて最近電車の中で、若いインテリらしい婦人が、その友人<ruby><rb>達</rb><rt>たち</rt></ruby>と交えている会話の中に、リストという言葉を聞いて思わず<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>き耳を立てた。婦人は言うのである。

『私は近頃リストの伝記を読んで、すっかり感心してしまいました。昔からのエライ音楽者の中にも、リストほど<ruby><rb>立派</rb><rt>りっぱ</rt></ruby>な人はありませんね』――と。

この言葉は私にいろいろのことを思わせるのであった。

今からざっと百年前、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>から三十代のフランツ・リストの<ruby><rb>磁石的</rb><rt>じしゃくてき</rt></ruby>魅力は、全欧州至るところに<ruby><rb>五彩</rb><rt>ごしき</rt></ruby>の<ruby><rb>颶風</rb><rt>ぐふう</rt></ruby>を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き起さずにはおかなかった。ある婦人達はリストの<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>った花について論争し、ある婦人達はリストの捨てた葉巻の吸いさしを捜し回り、有閑婦人達の中には、金と境遇の許す限り、町から町へ、国から国へとリストの後を追い回すのさえあったのである。

この女軍の包囲から免れるために、リストは僧衣をもって武装するほかはなかった。彼はついに聖フランシスの<ruby><rb>帰依者</rb><rt>きえしゃ</rt></ruby>となり、ローマ・カトリックの僧位を<ruby><rb>獲</rb><rt>え</rt></ruby>て始めて生活の安らかさを確保したのである。

## 豊かなる愛

リストの魅力は、百年後の今日までもインテリ婦人を感嘆せしむるのはなぜであろうか。私はもう一度リストの伝記を調べて見て、その由来するところを探究せざるを得なかった。

リストが古今無双のピアニストであり、革命的な作曲家であることが、大きな魅力であったには相違ないが、それよりも大きな原因は、リストの豊かな愛情と、<ruby><rb>類</rb><rt>たぐ</rt></ruby>い<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>なる優雅さと、さらに、その人間的な高さが、リストをしてあらゆる人の「崇敬の的」たらしめたのであろう。

リストはその作曲を通してでも、多くの<ruby><rb>渇仰者</rb><rt>かつごうしゃ</rt></ruby>と少なからざる排撃者とを持っている。リストの作曲はルービンシュタインの所論を<ruby><rb>俟</rb><rt>ま</rt></ruby>つまでもなく、きわめて<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>で表面的で、わけてもピアノ曲は技巧重点主義で、<ruby><rb>煩</rb><rt>はん</rt></ruby>に堪えざらんとする者は決して少なくない。その人柄に関しても、かつて若き日のブラームスが、ヨアヒムの紹介で、欧州楽壇の大御所的存在であったリストを訪ね、彼を取巻く空気の、虚偽と、付和と、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>と<ruby><rb>驕慢</rb><rt>きょうまん</rt></ruby>とに驚いて逃げ出したのはあまりにも有名な逸話である。

リストの<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>なジェスチュア、儀礼、人をそらさぬお世辞――すべてそれは、<ruby><rb>田舎者</rb><rt>いなかもの</rt></ruby>のブラームスには、我慢のならないものであったに相違あるまい。しかし、それをもって直ちにリストを毛嫌いし、リストを排撃せんとする者があったならば、それはあまりにも早計である。リストはそういった派手好みで、道徳的にはきわめて弱気でさえあったにしても、あらゆる人に寛大で、豊かな愛情と、行届いた同情とを持った、生まれながらの長者であったのである。

ある伝記者はリストの豊かなる愛情を<ruby><rb>讃美</rb><rt>さんび</rt></ruby>して、それは全く比類のないものであったと言っている。彼は接する者誰にでも、<ruby><rb>満腔</rb><rt>まんこう</rt></ruby>の親しさと愛とを注ぎかけずにはおかなかった。彼の教養のよさと、その品性の高さがそうさせたのであろう。どんなに冷淡で厳格な人でも――時にはリストの敵でさえも、ついには彼に<ruby><rb>因</rb><rt>とら</rt></ruby>えられて、その<ruby><rb>渇仰者</rb><rt>かつごうしゃ</rt></ruby>の一人にならずにはいられなかったのである。

リストは友人としてはこの上もない人であった。彼は決して裏切ることも<ruby><rb>渝</rb><rt>かわ</rt></ruby>ることもなかった。<ruby><rb>弟子達</rb><rt>でしたち</rt></ruby>にとっても、リストほど親切な師はあり得ず、友人達にとって、リストほど<ruby><rb>頼</rb><rt>たの</rt></ruby>もしい男はなかった。

リストの世話好きは実に抜群の美徳であった。ポーランドの青年ショパンがいかにリストの恩恵でフランスの楽壇にデビューしたか、映画「別れの曲」は<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>八百の筋であるにしてもその心持だけでも伝えている。当時全欧の楽壇を敵として<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>うの<ruby><rb>概</rb><rt>がい</rt></ruby>があったシューマンは、リストに激励され、後援されてどれだけ助かったかわからない。故郷のフランスで理解されなかったベルリオーズの「幻想交響曲」を、ワイマールで上演して、その驚くべき芸術を紹介し、ドイツ人にまず理解させてやったのもリストである。<ruby><rb>轗軻不遇</rb><rt>かんかふぐう</rt></ruby>のワグナーを激励し、その難解極まる名作を上演して、世に知らしめたのもリストである。「タンホイザー」や「ローエングリン」が、リストの助けなしでは、あれほどまで順調に世に受け入れられなかったであろう。

リストは生まれながらにして<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>ということを知らなかったと言われている。「嫉妬を知らない天才」――これほど高貴な存在がこの世の中にあろうか。彼は誰の成功をも心から喜ぶ真心と雅量とを持っていた。徳川時代の江戸の<ruby><rb>伊達衆</rb><rt>だてしゅう</rt></ruby>のように、彼は人に物を頼まれて「<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>」ということの出来ない人間であった。その<ruby><rb>財布</rb><rt>さいふ</rt></ruby>の口は、必要でさえあればいつでも開いた。

ウィーンの都にあの立派なベートーヴェンの記念碑を、ほとんど一人で建てたのはリストであった。一音楽家の仕事として、それは決して容易なことではない。

ある田舎の町にリストが行った時、ちょうどその町にリストの門弟と称する女流ピアニストの独奏会があった。リストはその女流ピアニストの名を聴いたことさえなく、もちろんリストの門弟などではなかった。不思議なことに思いながらホテルに<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を取ったリストは、間もなく一人の若い婦人の訪問を受けた。婦人はリストの門弟と触れ込んだ女流ピアニストであったが、涙を流して、「先生のお名前でも拝借しなければ、私のピアノなどを聴いて下さる方もありません」と<ruby><rb>詑</rb><rt>わ</rt></ruby>びるのであった。

リストは<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にうなずいて、婦人をなだめながら、とにもかくにも、ホテルのピアノでその晩のプログラムにある曲を弾かせ、二、三の技巧上の注意を与えた後、「私はあなたにピアノを教えた。この<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>リストの<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>と言っていっこう差しつかえはありません」と、婦人の白い額に、――リストがよく出来たお弟子にいつでもしてやるように、軽く<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>してやった。女流ピアニストの名は逸したが、リストの親切ぶりは大方こういった類である。

リストの娘コジマと無理な結婚をしたために、リストと一時義絶の姿であったワグナーは、「十字架上のキリストの如く、リストは彼自身よりも、むしろ他の人を救うために、いつも準備をしていた」とその<ruby><rb>岳父</rb><rt>がくふ</rt></ruby>の人格を<ruby><rb>讃</rb><rt>たた</rt></ruby>えている。リストの私行には、非難すべきものがたくさんあったにしても、この無我の純愛は、万債を<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>って余りあるものがあるだろう。

## 燦然たる成功

フランツ・リスト（<em>Franz Liszt</em>）は一八一一年十月二十二日、音楽家アダム・リストの子として、ハンガリーの一寒村に生まれた。母はオーストリア人である。

リストの生いたちは、典型的な天才児の生い立ちであった。九歳の少年ピアニストは早くも富裕な貴族達の<ruby><rb>嘱目</rb><rt>しょくもく</rt></ruby>を集め、年金を約束させて、翌年から音楽の都ウィーンに、豊かな音楽修業の生活を送ることが出来たのである。

最初のピアノの師チェルニーは、この少年天才をどんなにいつくしみながら仕込んだことか。リストのピアニストとしての鬼神的な技巧は、良師チェルニーの<ruby><rb>賜物</rb><rt>たまもの</rt></ruby>であったことは言うまでもない。続いてサリエリに和声学と作曲法を学んで、後年「<ruby><rb>交響曲詩</rb><rt>シンフォニック・ポエム</rt></ruby>の創始者」としての<ruby><rb>素地</rb><rt>そち</rt></ruby>を作り、十二歳のとき父と共にパリに<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>き、そこで人間リストの仕上げを受け、それから全欧にわたる<ruby><rb>華</rb><rt>はなや</rt></ruby>かに輝かしい楽旅が始まり、ピアノの巨人リストの勝利の歴史が始まるのである。

後ワイマールにパリにローマに、<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く所必ず音楽界の中心人物として、多くの友人達と子弟の間に大きな影響を与え、名実共に欧州楽壇の大御所として、一八八六年七月三十一日七十五歳で<ruby><rb>没</rb><rt>ぼっ</rt></ruby>するまでその盛名が続いた。生前あれほど恵まれた音楽家は、メンデルスゾーン以外には考えられないことである。

音楽上に成就したリストの功績は大きい。バッハの子供達からハイドンに至ってその形式を完成した古典形式の交響曲は、ベートーヴェンの天才と努力をもってその発達の絶頂に達し、もはや打開の方法がなくなった時、多くの天才達は、<ruby><rb>浪漫</rb><rt>ロマン</rt></ruby>主義の新天地に、その芸術的創作力を存分に伸ばすために、新しき形式を要求し工夫したのである。

従来の一定の規則に<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>づけされたソナタ形式やロンド形式や歌謡形式は、もはや過去の<ruby><rb>桎梏</rb><rt>しっこく</rt></ruby>でしかあり得ないとし、ここにきわめて自由な想像力と、創作力の飛躍に相応するために、交響曲詩が工夫されたのである。それに<ruby><rb>先鞭</rb><rt>せんべん</rt></ruby>を着けたのはフランスのベルリオーズで、「幻想交響曲」「ハロルド」その他の諸作が、あいついで世界の楽壇を驚かした。

リストはそれと呼応して「英雄の<ruby><rb>嘆</rb><rt>なげ</rt></ruby>き」を書き、「タッソー」を描き、一代の傑作「<ruby><rb>前奏曲</rb><rt>レ・プレリュード</rt></ruby>」を作って、文学的標題を有する音楽の分野を確立し、音楽の表現力の上に、全く新なる希望を打ちたてて、近代音楽へのスタートを踏みしめたのである。

リストの交響曲詩十二曲のうち、前記「タッソー」「<ruby><rb>前奏曲</rb><rt>レ・プレリュード</rt></ruby>」のほかに、「マゼッパ」「ハムレット」などがある。わけても「前奏曲」は有名で、今日までも盛んに演奏され、交響曲詩の典型的な名曲とされていることは多くの人の知るところである。

古今の名ピアニストなるリストは、その超人的な技巧を駆使するために、古今無類の難曲を幾つも幾つも作った。故郷ハンガリーの舞踏曲を<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り入れて作った、十九曲の「ハンガリー狂詩曲」は実に<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>たる傑作で、ピアノ音楽の上の雄大なる<ruby><rb>金字塔</rb><rt>きんじとう</rt></ruby>の一つとも言うべきであろう。それは素朴な情緒や、狂暴な情熱のうちに、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>目を奪う美しさの<ruby><rb>氾濫</rb><rt>はんらん</rt></ruby>である。

もう一つ、<ruby><rb>虚心坦懐</rb><rt>きょしんたんかい</rt></ruby>なリストは、自分の先輩や友人達や、後輩の歌曲、管弦楽曲などを編曲して、幾多の珠玉的な傑作を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>している。標題楽嫌いを<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>に振りかざしたルービンシュタインですら、リストの編曲の珠玉篇には帽子を脱いでいるのは興味の深いことである。

  


## リストの作品とそのレコード

## 交響曲詩

リストの音楽をレコードしたものは、ハンガリー狂詩曲以外は<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ多くない。交響曲詩のうちでは、ラマルティーヌの「人生は死によってその厳粛なる第一音を奏せらるる未知の歌への前奏曲にあらずして何んぞ――」という意味の詩に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>った「前奏曲」が最も通俗でかつ面白くもあり、レコードもたくさん入っている。そのうちで私は五年前の旧著「ロマン派の音楽」に書いたことをもう一度繰り返して、メンゲルベルクがコンセルトヘボウを指揮したレコードを名盤として<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げたい（コロムビアＪ七六一一―二）。その他マイロウィッツ（コロムビア）、オルマンディー（ビクター）、クライバー（テレフンケン）の指揮したレコードもある。

「ファウスト交響曲」はリスト一代の心血を傾けた作で、リストの天才と技巧の最後の大集成でもある。ゲーテのファウストに感動して、ファウストとグレートヘンとメフィストフェレスの性格を描き、ゲーテの哲学と人生観とを、音楽を通して表現せんとした野心作である。この曲は今日といえども相当難解で一般人の好みに投ずる甘美さなどはない。レコードはコロムビアにマイロウィッツがパリ交響楽団とヴラソフ合唱団を指揮したのがある（ＪＷ五六三―九）。

他に「マゼッパ」や「メフィスト・ワルツ」もあるが特記すべきほどのものではない。

## ハンガリー狂詩曲とハンガリー幻想曲

第一番はポリドールにボロフスキーのがある（Ｄ一二三―四）。

第二番は非常に有名で、従って美しい。火花の散るような音楽だ。コルトー（ビクターＪＤ一二六四）が古い吹込みだが最も良かろう。ほかにポリドールのブライロフスキーとコロムビアのフリートマンが挙げられる。

「第六番」は美しい曲だ。ビクターのレヴィツキーはこの曲を得意で、胸のすく演奏である（Ｄ一三八三）。第十番はルービンシュタインのが見事で（ビクターＪＤ一三五六）、第十一番のコルトーは録音は古いが良いものだ（ビクター一二七七）。

第十二番はブライロフスキーとレヴィツキーがあり、第十三番はレヴィツキー（この十三番をブゾーニのひいた旧コロムビア・レコードはいわゆる珍品だ）。第十五番はクロイツァーとソロモンのがある。

要するに一般的の収集には第二番のコルトーと第六番のレヴィツキーぐらいで充分であろう。

第二番のハンガリー狂詩曲を管弦楽に編曲したのは、少し古いがビクターにストコフスキーがフィラデルフィア管弦団を指揮した名盤があり（ＪＤ一二三六）、吹奏楽ではコロムビアにデュポンの指揮したギャルド・レピュブリケーヌの名演がある（Ｊ三二三四）。

ピアノと管弦楽合奏の「ハンガリー幻想曲」は最もリスト的な華麗な曲だ。古いのでビクターにデ・グリーフ（ピアノ）とロナルド指揮ローヤル・アルバート・ホール管弦団（九一一〇―一一）があり、新しいのでビクターにヴォルフ（ピアノ）とヴァイスバッハ指揮、ベルリン交響管弦団のとコロムビアにデュポン（ピアノ）とリュールマン指揮、パリ交響管弦団のがあるが、ひどく古い録音ながら私はリストの<ruby><rb>直弟子</rb><rt>じきでし</rt></ruby>の一人で、今に音の風格を伝えている、老デ・グリーフの滋味と愛情に心ひかれる。もっとも録音その他の条件の良いのは新しいヴォルフのだ。

## ピアノ協奏曲とピアノ管弦楽合奏曲

二つのピアノ協奏曲のうち「第一番＝変ホ長調」は多少老齢の<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>はあるにしても、ザウアー（ピアノ）とワインガルトナー指揮、パリ音楽院管弦楽団を<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>すべきであろう。この両長老のリストに対する打込んだ愛情と、<ruby><rb>瑰麗</rb><rt>かいれい</rt></ruby>な古風な表現とは同情されてよい（コロムビアＪＳ一〇一―三）。ほかにビクターにレヴィツキーのがあり、コロムビアにギーゼキングのがある。どちらも悪くない。

「第二協奏曲＝イ長調」についても同じことが言える（コロムビアＪＳ一二〇―二）。これはペトリのレコードもあるが心構えにおいて老人達の比較にならない。ザウアーはもはや八十歳の老人であるが、依然楽壇の尊崇を集めている様子で、瑰麗な表現には青年らしい<ruby><rb>覇気</rb><rt>はき</rt></ruby>と光沢とがある。この二つの協奏曲を入れてくれたことは、レコード界の慶事と言ってよい。

「死の舞踏」は外面的ではあるが<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い曲だ。意図も、技巧も、コロムビアのキレニー（ピアノ）マイロウィッツ指揮、パリ交響楽団が名演だ（ＪＷ五四〇―一）。

「さすらい人の幻想曲」「アテネの廃墟の幻想曲」などリスト得意の編曲物だが、さして良いレコードはない。

## ピアノ奏鳴曲、その他

「ソナタ＝ロ短調」はたった一つの楽章でおし通した曲で、リストの力強さが<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れる。レコードはビクターのホロヴィッツ（ＪＤ二一六―八）が<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い。おそらくホロヴィッツの傑作レコードであろう。ほかにコルトーのもある（ビクター七三二五―七）。

「演奏会用エチュード」第二番のコルトー（ビクターＪＤ一九六）、「愛の夢、第三番目＝変イ長調」のルービンシュタイン（ビクターＪＤ七六八）、「水の上を歩む聖フランシス」のコルトー（ビクターＪＤ一二五〇）などは注目されるレコードであろう。

ほかに編曲物で「ラ・カンパネラ」はパガニーニのヴァイオリンの原曲からピアノに編曲したもの、レヴィツキーはこれを<ruby><rb>十八番物</rb><rt>おはこ</rt></ruby>にして弾いた（ビクターＪＤ一六六〇）。パデレフスキーのも良い記念レコードである（ビクターＶＤ八一九八）。

  


## 巨人ワグナー

  


明治三十五年の夏、初めて上京した<ruby><rb>石川啄木</rb><rt>いしかわたくぼく</rt></ruby>が、<ruby><rb>小日向</rb><rt>こびなた</rt></ruby>の素人下宿で、ワグナーの「<ruby><rb>白鳥の騎士</rb><rt>ローエングリン</rt></ruby>」の英訳本を<ruby><rb>耽読</rb><rt>たんどく</rt></ruby>していたことを私は記憶している。石川啄木は、ワグナーを劇詩人として論じ、私は音楽なしにワグナーを論ずることの無法さを説いて、半日愉快な論戦に暮した記憶は、三十七、八年を隔てた昨夏、函館図書館を訪ねて、岡田館長の好意で、問題の啄木の日記を一見し、明治三十五年の項に<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>なくも私との<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>な往来の記録を発見し、幼稚なワグナー論の思い出と結び付けて、まことに今昔の感に堪えないものがあった。

当時世界を<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>したワグナー主義の運動は、<ruby><rb>上田敏</rb><rt>うえだびん</rt></ruby>博士（当時学士）などに紹介されて、日本の青年達をも熱狂させ、まだ聴かぬワグナーの音楽にまで夢中になったことは、中年輩以上のかつての文学青年達はことごとく記憶しているであろう。ワグナーの感化の猛烈さは、一時世界の音楽界を<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>り込んで「ワグナーに<ruby><rb>非</rb><rt>あらず</rt></ruby>んば音楽にあらず」と思わせたことは、あまりにも<ruby><rb>生々</rb><rt>なまなま</rt></ruby>しき事実であったのである。

ワグナーの音楽の感銘は強大<ruby><rb>深甚</rb><rt>しんじん</rt></ruby>で、その支持者はきわめて熱烈であった反面には、常に<ruby><rb>反</rb><rt>アンチ</rt></ruby>ワグネリスムスの<ruby><rb>萌芽</rb><rt>ほうが</rt></ruby>が<ruby><rb>育</rb><rt>はぐく</rt></ruby>まれ、時あって全ワグナーの功業、芸術を、九地の底に葬らずんばやまざらんとしたことも事実である。<ruby><rb>褒貶</rb><rt>ほうへん</rt></ruby>相半ばするという言葉も、ワグナーの場合は必ずしも当らない。一八六〇年代から約四分の三世紀の間、ある時は世界はことごとくワグナーの敵であり、ある時は世界の三分の二は、ワグナーの熱烈なる味方であったのである。

今日の世界に、ワグナーの主張や音楽を全面的に支持する人はもはやあり得ない。が同時に今日あるが如き世界の音楽界は、ワグナーなしにはあり<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>なかったこともまた大きな事実である。

ワグネリスムスの波は、<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくど</rt></ruby>も幾度も繰り返して世界の音楽界を洗い去った。愛憎は人により、国により、時によって一様ではなかったにしても、ワグナーの影響の強大さは、ヴェルディも、ムーソルグスキーも、ビゼーも免れ得ず、全くワグナーと対照的な存在であった、ドビュッシーの作品の上にも否定することは出来なかったのである。

ワグナーを、バッハ、ベートーヴェンと共に、音楽の三大巨人とするのは正しい。好むと好まざるとにかかわらず、ワグナーの画した時代と、その英雄的功業を<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>む由はないからである。

## 努力と戦闘

リヒアルト・ワグナー（<em>Richard Wagner</em>）は一八一三年五月二十二日、警察書記フリードリッヒ・ワグナーとその妻ペーツとの問に、第九番目の子としてライプチッヒに生まれた。

父フリードリッヒはその年のうちにチフスで<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れ、母は六か月の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>俳優で<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>画家で戯曲も書いたガイヤーという人と再婚した。大勢の子供を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて、やっていける見込みはなかったのである。幸い継父のガイヤーは気立ての良い愛情の豊かな人で、ワグナーはなんの<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>いもなくすくすくと成長し、生涯継父に対する感謝の念を持ち続けたと言われている。

ワグナーの少時は、モーツァルトのような<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>たる音楽的天才の<ruby><rb>発揚</rb><rt>はつよう</rt></ruby>はなかった。が、奔放にして<ruby><rb>剛毅</rb><rt>ごうき</rt></ruby>なる異色を持った少年であったことは疑いもない。劇を好んでホーマーやシェークスピアに夢中になり、十一歳の時には「ロイバルド」という戯曲をさえ書いている。父のガイヤーは絵画を稽古させたがデッサンと<ruby><rb>粉本</rb><rt>ふんぽん</rt></ruby>とに囚えられるのは我慢が出来なかったらしく、音楽においても同じような課程の修業はワグナーの<ruby><rb>得手</rb><rt>えて</rt></ruby>ではなかった。

八歳の時、ウェーバーの「<ruby><rb>魔弾の射手</rb><rt>フライシュッツ</rt></ruby>」を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>て涙を流し、その中の美しい歌をピアノで弾き、<ruby><rb>病褥</rb><rt>びょうじょく</rt></ruby>の継父を驚かせたというが、その後ピアノの教師について学んだ時は技巧的な修業を嫌って、「この子は音楽家にはなれない」と見限られ、ヴァイオリンの教師には「一番いけない生徒」という折紙を付けられたりした。

ベートーヴェンの「エグモント」とシンフォニーを聴いて、天来の啓示の如く奮い<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ったのは十四歳の時である。音楽家としての<ruby><rb>素養</rb><rt>そよう</rt></ruby>が、一朝一夕には<ruby><rb>得難</rb><rt>えがた</rt></ruby>いことを知ると、ライプチッヒ大学の音楽学生として、良師ワイリングの下に六か月の<ruby><rb>大精進</rb><rt>だいしょうじん</rt></ruby>を続け、和声学と対位法の大体を修得して、自分の翼で飛ぶ<ruby><rb>素地</rb><rt>そち</rt></ruby>を作ったのである。ワグナーの伝記を<ruby><rb>瞥見</rb><rt>べっけん</rt></ruby>するといたいけな少年時代から、天下を敵として<ruby><rb>闘</rb><rt>たた</rt></ruby>かった中年期、功成り名<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げた晩年に至るまでそれは一篇<ruby><rb>血紅</rb><rt>けっこう</rt></ruby>の奮闘史であり、<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>の魂のあがきであり、あらゆる<ruby><rb>荊棘</rb><rt>けいきょく</rt></ruby>を踏みしだいて進む巨人の姿である。古今の音楽史上、おそらくワグナーほど戦闘的な作曲家はなかったであろう。

オペラ「<ruby><rb>妖精</rb><rt>ようせい</rt></ruby>」を作ったころから、ワグナーの音楽家生活は始まった。一八三三年二十歳にしてヴェルツベルクの劇場の声楽教師となり、ケーニヒスベルクの指揮者となり、続いてリガの指揮者となり、六年間小都会の劇場に職を求めて、人生の辛労の種々相を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め尽した。

二十三歳の時、美しい女優ミンナと結婚したが、その結婚はワグナーにとっても、ミンナにとっても決して幸福なものではなかった。ミンナは美し過ぎ<ruby><rb>浅薄</rb><rt>せんぱく</rt></ruby>に過ぎて、ワグナーの貧しい生活にふさわしくないばかりではなく、幾度か<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>の危機を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>た中年以後の夫婦生活に入っても、ワグナーの天才と芸術に対する理解を欠き、夫ワグナーを<ruby><rb>煩雑</rb><rt>はんざつ</rt></ruby>な<ruby><rb>我慢</rb><rt>がまん</rt></ruby>の出来ない生活に押し込めようとしたのである。もっとも二人の生活の最後の破綻については、ワグナーの態度も<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ公明ではなく、その点は充分非難されるべきであったと思うが、二人を破局に導いた最初の原因は妻が夫を埋解せず、その天職に同情し得なかったことに由来すると言って差しつかえはない。

ワグナーは<ruby><rb>浪漫</rb><rt>ロマン</rt></ruby>派の芸術に出発した。後年彼の思想はドイツの民族主義に<ruby><rb>性根</rb><rt>しょうね</rt></ruby>を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>え、高度の理想主義に発展したが、若かりし頃のワグナーは、当時の改革思想の影響を受けて、新しきものへと<ruby><rb>猪突</rb><rt>ちょとつ</rt></ruby>したのはまたやむを<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ないことである。

## 第九の救い

リガの指揮者を追われたワグナーは、自分の芸術の民衆への直接効果を求めて、情熱の命ずるままにパリへと走った。が、パリは決して一無名の青年作曲家を、大手を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて受け入れるほど寛大ではなく、その期待と希望はことごとに外れてしまった。<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>な競争者と、意地の悪い劇場と、無理解な出版者は、<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな異邦の一青年作曲家を<ruby><rb>飢餓</rb><rt>きが</rt></ruby>の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>に放り出したのである。骨にも<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>む失望と餓えとは、ワグナーを<ruby><rb>滅茶滅茶</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>にさいなみ続けた。ワグナーの<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いている靴には底がなく、髪を刈る<ruby><rb>小銭</rb><rt>こぜに</rt></ruby>さえ持っていないような、骨の髄に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>む幻滅の悲哀を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め尽して、つくづく夢みるのは、故郷ドイツの天地、――その民衆と芸術である。が日一日と<ruby><rb>背</rb><rt>そびら</rt></ruby>に迫る餓えは、夢や悔恨で払い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>ける由はない。ワグナーにとって、この上の可能なことは、「死ぬか<ruby><rb>泥棒</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>をするか」であったと言われる。

絶望と自棄とにすっかり自信を失ってしまったワグナーは、ある日コンセルヴァトワールでアベネックの指揮するベートーヴェンの合唱付シンフォニー「第九」を聴いた。天来の声は高々とワグナーの耳に響いた。

「人生の希望はここにある。光明よ、歓喜よ、――真実の音楽はあれだ」――と。

ワグナーは<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>として貧しい自分の部屋に帰ったが、おそろしい興奮のために発熱して、翌る日も枕から離れることは出来なかった。こうしてベートーヴェンは天来の啓示となって、ワグナーに<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くべき道を教えたのである。

一八三九年「ファウスト序曲」を書き、一八四〇年「リエンツィ」を書き、一八四一年「さまよえるオランダ人」をスケッチし、ワグナーの天才は火の如く燃え始めた。かくて翌一八四二年には「リエンツィ」がドレスデン宮廷劇場に上演され、期待以上の成功を博して、ワグナーは一躍作曲界の<ruby><rb>寵児</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>となったのである。続いて「さまよえるオランダ人」が上演され、熱狂的な歓迎の後ワグナーはついにドレスデンの王立オペラ座の指揮者として、祖国ドイツの音楽界に重要な地位を占むるに至ったのである。

ワグナーの生活は、幸福で順調であった。間もなく傑作「タンホイザー」が上演され、一面モーツァルトやベートーヴェンの作品を紹介して、民衆の理解を高めたが、それはしかしワグナーに用意されたゴールではなかった。その頃からワグナーの権力は劇場支配人の<ruby><rb>嫉視</rb><rt>しっし</rt></ruby>を買い、新聞を敵に回して一歩一歩救うことの出来ない難境に踏み込んでしまった。その上悪いことに、交友その他の関係で、政治運動に飛び込み、実際の運動には参加しなかったにしても、ついに<ruby><rb>逮捕状</rb><rt>たいほじょう</rt></ruby>を発せられ、危うくスイスのチューリッヒに身を<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れて、長い長いワグナーの放浪の生活が始まったのである。

異境の放浪生活は、一八四九年三十六歳の時から、一八六一年彼が四十八歳の年まで、実に十二年の長きにわたった。生活の本拠を失ったワグナーを襲った最初のものは、おそろしい窮乏であったことは言うまでもない。ワグナー自身政治家的野心などはなく単に芸術家にすぎなかったことを自覚したところで、今さらそれはなんにもならなかったのである。

長い窮乏の時代を通して、よくワグナーを援助してくれたのは、その芸術の理解者にしてワグナーの音楽の紹介に努めた、友人リストであった。ワグナーはその上若い<ruby><rb>耽美者</rb><rt>たんびしゃ</rt></ruby>の一団を得、その中から<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた青年ピアニストにして後年の大指揮者ハンス・フォン・ビューローを見出したりした。

ワグナー自身の言った、――眠ることのほかは、なんの楽しみもない孤独の生活、――絶えず金銭の苦労に<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わされ続けた窮乏の生活、――満足も希望もない生活は、一面においてワグナーのためには、解放の生活であったことも事実である。その間においてワグナーは<ruby><rb>畢生</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の大傑作、――四部作の大楽劇「ニーベルンゲンの<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>」のほとんど全部を完成したのである。この「ラインの<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>」の四部作はワグナーの楽劇の理想を具現した大傑作であるばかりでなく、実に古今の音楽史上に<ruby><rb>燦</rb><rt>さん</rt></ruby>たる<ruby><rb>大金字塔</rb><rt>だいきんじとう</rt></ruby>でもあったのである。

彼の思想はその手法と共に次第に円熟し、高潮した英雄主義には、ショーペンハウエル風の<ruby><rb>厭世主義</rb><rt>えんせいしゅぎ</rt></ruby>が加味され、宿命悲劇の<ruby><rb>深沈</rb><rt>しんちん</rt></ruby>たる暗さが、世界大に<ruby><rb>拡充</rb><rt>かくじゅう</rt></ruby>される愛の理想と結び付いた。ワグナーの音楽の重圧は、その<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>いのない音の大量放射にもよるが、一つはこのギリシャ風な英雄主義と、宿命苦の思想的な重力によるものであろう。

## 家庭生活

その頃ワグナーの家庭は次第に崩壊していった。ワグナーより四歳の<ruby><rb>歳上</rb><rt>としうえ</rt></ruby>で、「美しくはあるが散文的な女だ」と言われた妻のミンナは、年々ワグナーとの間に、越えることの出来ない溝を深めていったのである。二人は結婚の当日から争いを始め、ワグナーの窮境時代には富裕な男と駈落をやりかけたミンナであったが、追放時代にはザクセン朝廷に出頭して、三度までも夫の赦免を<ruby><rb>嘆願</rb><rt>たんがん</rt></ruby>したミンナでもあった。が、その同じミンナはかつてのモーツァルト夫人のように死ぬまでワグナーを理解せず、「リヒアルトがそんなにえらいんですって？　ヘエ――それはいったい本当ですか」と他人に聴くほど無理解でもあったのである。

ミンナが肺患になって、その病苦を忘れるために<ruby><rb>阿片</rb><rt>あへん</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>み始め、次第に<ruby><rb>猜疑心</rb><rt>さいぎしん</rt></ruby>は強くなっていた。折も折、実業家ヴェーゼンドンクの若く美しい夫人マチルデが夫に<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>うてワグナーをその別荘に迎え、ワグナーの最も熱心なる崇拝者として、毎日訪ねてはその詩と音楽と哲学とに触れた。マチルデは美しくて賢かった。アルプスと湖水とを見晴らす別荘の書斎にワグナーと芸術を語るマチルデの姿は、なんの邪念がなかったにしても、ミンナの目にどう映ったか語るまでもない。

ミンナはとうとう病める胸を抱いて永久にワグナーの<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>を去った。離婚はミンナの意志でありその後ワグナーが別れた妻に対して経済的援助を続けたにしても、無知な病妻を<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby><ruby><rb>看通</rb><rt>みとお</rt></ruby>さなかったことに対しての非難は免れない。まして、ワグナーはその後友人にして<ruby><rb>愛弟子</rb><rt>まなでし</rt></ruby>なるハンス・フォン・ビューローの妻にして、リストの娘なるコジマと――正式ではあるが好ましからざる――再婚をしているのである。ワグナーの婦人関係の道徳観念には、<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないものが一つ二つならずあったことは否む由のない事実である。名作「トリスタンとイゾルデ」は愛の悲劇を描いたもので、マチルデとの関係を暗示すると伝えられている。

それはともかく、<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>されてドイツに帰った後ワグナーは、相変らず衆愚と<ruby><rb>勁敵</rb><rt>けいてき</rt></ruby>とに悩まされ続けた。幾度か失望し<ruby><rb>蹉跌</rb><rt>さてつ</rt></ruby>して後、一八六四年、幸運はバイエルン国王ルードウィッヒ二世の使者となってワグナーを訪れたのである。

## 最後の勝利

召されてミュンヘンに<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>いたワグナーに幾多の敵と<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げとはあったにしても、国王の<ruby><rb>厚意</rb><rt>こうい</rt></ruby>でルツェルン湖のほとりに閑居し、若きコジマと結婚して、愛児ジークフリートを挙げ、可愛らしい名篇「ジークフリートの牧歌」を書いたのはその頃である。

ワグナーの戦いは、その芸術に対する世の無理解への戦いであり、伝統主義者達への<ruby><rb>闘</rb><rt>たたか</rt></ruby>いであり、同時に営業劇場への闘いであった。この<ruby><rb>頑強</rb><rt>がんきょう</rt></ruby>な敵の中にあって、ワグナーの音楽を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りなく演奏し、真に芸術を愛するものの享受に待つためには、理想の芸術殿堂とも言うべき、非営利主義の劇場を作るのほかはないと悟ったのである。

ワグナーは楽劇芸術を<ruby><rb>祝祭</rb><rt>フェスティバル</rt></ruby>として、その演奏の神聖さを保護するために、千人の同志を<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>ってバイロイトに<ruby><rb>祝祭</rb><rt>フェスティバル</rt></ruby>劇場を建てる計画をたてた。それはワグナーが六十歳の年、一八七三年のことである。バイエルン国王ルードウィッヒ二世の援助を得てその劇場の完成したのは一八七六年、その年の秋ルードウィッヒ二世臨御の下に「ニーベルンゲンの<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>」四部作の三回にわたる世紀的上演が実現された。ワグナーの楽劇に対する理想はかくして始めて実行されたのである。「ニーベルンゲンの指環」はその一回の上演だけに四日を要する大作であり、ギリシャ悲劇を復活して詩と音楽との融合を理想的に実現し、宗教の領域にまで踏込んだ音楽であると言われる。

その後バイロイト劇場は有料入場者を入れたにしても、近年まで<ruby><rb>永</rb><rt>なが</rt></ruby>らえた未亡人コジマ・ワグナーの手で伝統の<ruby><rb>祝祭</rb><rt>フェスティバル</rt></ruby>は続けられ、今日なお世界音楽の名勝の一つとして、厳然たる地位を占めていることは人も知る通りだ。

「パルジファル」を最後の傑作として、一八八三年、イタリー訪問中のワグナーは、二月十三日ヴェニスで卒中に倒れた。ちょうど七十歳である。ヴェニスを出発してバイロイトに向った<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>は、国王の使者と、全欧の芸術家と涙に濡れた群衆に迎えられ、盛大の限りを尽して、ヴァーンフリートの墓所に葬られたのは一八八三年二月十八日のことである。

最後に、少しワグナーの音楽論と、その功業を伝えようと思う。

## 大総合芸術

ワグナーに従えば、あらゆる芸術は音楽に統一帰納せらるべきもので、詩、絵画、劇、彫刻――等、ことごとく音楽と結び付いて<ruby><rb>渾然</rb><rt>こんぜん</rt></ruby>たる一大総合体を形作り、楽劇の形式において芸術の最高位に置かるべきであると信じたのである。ワグナーの楽劇はその神聖なる理想を果たすために、営業芸術と引き離し、祝祭として、真に芸術を愛する者によって支持せられるべきものであった。

ワグナーの楽劇に対する用意は<ruby><rb>並々</rb><rt>なみなみ</rt></ruby>ならぬものであったのである。従来の営業歌劇の低俗さから救われるために、まず詩と緊密な関係を持たせたばかりでなく、営業歌手の技巧のために用意された空々しいアリアを廃し、代るに広大な音楽を背景とする美しい<ruby><rb>宣叙調</rb><rt>せんじょちょう</rt></ruby>をもってし劇中の人物器具、思想環境を<ruby><rb>主導旋律</rb><rt>ライトモチーフ</rt></ruby>をもって現し、その発展交錯変化によって、豪華<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>きわまる劇の発展を成就したのである。<ruby><rb>畢生</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の大作「ニーベルンゲンの指環」の如きは実に九十幾つの<ruby><rb>主導旋律</rb><rt>ライトモチーフ</rt></ruby>を有し、その交錯はあたかも一幅天日を<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>うの大ゴブラン織の如き壮観を呈したのである。

不協和音の大胆なる使用、中音部の強化、楽器編成の新機軸、――数え来るとその音楽上の創見も<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい。わけても管楽器の使用の複雑強化に特色があり、時に九台のハープを<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>べて、聴衆の全神経を把握し、情熱の大洪水を浴せた「力の芸術」の<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすさ</rt></ruby>まじさは後にも前にも比類のないものである。

その音楽が強大<ruby><rb>熾烈</rb><rt>しれつ</rt></ruby>で、聴者に<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>う<ruby><rb>寸隙</rb><rt>すんげき</rt></ruby>も与えず、かつて感情の移入を許さなかったことや、採り用いた題材がことごとく神話であり、英雄主義に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れて、その宿命的悲劇に救いのなかったことなど、ワグナーの楽劇は神経の弱い人達には甚だ喜ばれなかったが、一方その高踏的な理想主義と、愛の宗教とも言うべき情熱の高揚は、当時の微温的なロマンティシズムの音楽を<ruby><rb>粉砕</rb><rt>ふんさい</rt></ruby>して新しき理知の音楽へのスタートを開き音芸術の表現力のために気を吐いたことは想像以上である。

性行にも音楽にも、生ける時も、<ruby><rb>棺</rb><rt>かん</rt></ruby>を<ruby><rb>蓋</rb><rt>おお</rt></ruby>うても、崇拝者と<ruby><rb>勁敵</rb><rt>けいてき</rt></ruby>との多いワグナーではあったが、その<ruby><rb>歩</rb><rt>あゆ</rt></ruby>みは巨人的でその音楽の後世への影響の<ruby><rb>深甚</rb><rt>しんじん</rt></ruby>さは否むべくもない。再び言うがワグナーなしには世界の音楽は今日の如くあり得ない。彼また、一面芸術の英雄児であったことに何の疑いがあろう。

ワグナーの音楽は<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいが「ニーベルンゲンの<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>」や「ローエングリン」の一部、「タンホイザー」の序曲、「名歌手」や「パルジファル」や「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲などは容易にレコードでも聴くことが出来る。巨人ワグナーの音楽と四つに組んで味聴することは、音楽を甘美な享楽と<ruby><rb>思惟</rb><rt>しい</rt></ruby>する人達には、出来ないことである。が、それはまことによき芸術鑑賞の<ruby><rb>試練</rb><rt>しれん</rt></ruby>であると言えるだろう。

  


## ワグナーの作品とそのレコード

ワグナーのレコードは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少なくない。それを一々詳述することは、一応私の旧著「ロマン派の音楽」で試みたが、<ruby><rb>網羅式</rb><rt>もうらしき</rt></ruby>に<ruby><rb>堕</rb><rt>だ</rt></ruby>して、真に良きレコードを選ぶ困難は加わるばかりだ。ここでは本当に良いものだけを掲げて、十中八九は触れないことにする。

ワグナーの音楽は音楽文化の上にきわめて重要性を持つことは言うまでもないが、その構成が雄大で、複雑<ruby><rb>精緻</rb><rt>せいち</rt></ruby>を極むるために、いつまでたっても難しさは解消されない。日本においてワグナーのレコードが、必ずしも商業的に歓迎されないのは、まことにやむを得ないことではあるが、なんとはなしに、肩身の<ruby><rb>狭</rb><rt>せま</rt></ruby>さを感じないわけにはいかない。

現に私が東京帝大その他のコンサートで経験したところによると、ワグナーの音楽は知識的な聴衆の間には、予期以上の強烈な感動を捲き起し、将来に対して興味の深い暗示を投げかけている。いつの世にか、日本においても、ワグナーが親しまれ、一般に理解される機会があるだろうと思う。

## バイロイトのワグナー祭レコード

ワグナーのレコード中で、最も興味の深いのは、一九三六年のバイロイトのワグナー祭を録音した九枚のレコードである。ワグナーの理想が一部は改められたにしても、バイロイトのワグナー劇場で今日まで続けられているのは既に興味の深いことで、その演奏は一九二七年にも一度録音されたが、それは甚だ録音が悪く、もはや問題外のレコードであるが、一九三六年のはさすがに立派で、バイロイトの気分を充分に味わい得るものがあるだろう。

管弦楽が舞台の下に置かれて、客席から楽員の姿を見せないという一風変わった設備も、この録音で<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われる。管弦団も合唱団も誇りと名誉を持ったもので、指揮者のティーチェンはどんな人か知らないが、相当の人物だろうと思う。レコードは「ローエングリン」と「ワルキューレ」と「ジークフリート」の山だけを集めたものであるが、劇的な発展が自然で、前後の関係もいくらか解り、流動的で面白いことである。歌い手も一流の人達で、バイロイトのフェスティバルの空気はかなりよく出ているばかりでなく、ワグナーの楽劇というものは本当にこういったものだろうと思わせる（ポリドールＳＫＢ二〇四七―五五）。

## タンホイザーとローエングリン

「タンホイザー」の序曲はわけても素晴らしい。ワグナー初期の傑作である。レコードは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく入っているが、吹込みは古くとも私はコロムビアのメンゲルベルク指揮、コンセルトヘボウ管弦団の壮麗さを推したい（Ｊ八〇九二―三）。ストコフスキーが指揮した「ヴェヌスベルク」の音楽は、「タンホイザー」序曲の改訂ではあるが、序曲ほどの劇的な面白さはない。

「タンホイザー」の一枚物の歌のレコードでは、ビクターのフラグスタートの歌った「歌の殿堂」（ＪＤ一三七五）と同じ人の「エリザベートの祈り」（ＪＤ七六三）が立派だ。それに次いで少し古いが同じビクターのエリッツァが良い。わけてもエリッツァの「歌の殿堂」は名盤の一つであったと思うが廃盤になっている。コロムビアのレーマンの「エリザベートのアリア」と「祈り」も練達なものであった。

「<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の星」は、昔のドイツ・グラモフォンのシュワルツを思い出す。電気のではヒュッシュのがある（ビクターＪＤ一一四三）が、こればかりは昔のシュワルツが良かった。

「ローエングリン」の全曲レコードのないのは物足りない。前奏曲は非常に有名でもあり<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたものだが、「第三幕の前奏曲」はビクターのトスカニーニが優れており（ワグナー名曲集）、ポリドールのフルトヴェングラー指揮の「第一幕の前奏曲」（六〇一八七）も名品の一つだろう。「結婚行進曲」（婚礼の合唱）は有名ではあるが、良いレコードはない。やむを<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ずんば先にあげたバイロイトの祝典レコードの中にあるのと、メトロポリタン合唱団のビクターを採るほかはない（一一二四九）。

有名な「エルザの夢」はビクターのフラグスタート（ＪＤ一三七五）、コロムビアのレーマン（Ｊ五五九三）いずれも良い。古いのではビクターにエリッツァがある。

## ニュールンベルクの名歌手とトリスタンとイゾルデ

「名歌手」の「前奏曲」は少し古いがビクターのムックがベルリン国立歌劇場管弦団を指揮したのが絶品だろう（六八五八―九）。

第三幕目の「前奏曲」にはビクターにストコフスキー指揮のと、ベーム指揮（ＪＨ一五三）のがあり後者が新しいだけの強味がある。しかしコロムビアのワルター指揮、ポリドールのフルトヴェングラー指揮も忘れてはいけない。

「<ruby><rb>靴屋</rb><rt>くつや</rt></ruby>の踊りと名歌手の入場」にはコロムビアにワルターが英国の管弦団を指揮したのがある（Ｊ八一七五）。「懸賞の歌」は非常に美しく一般に親しまれる歌だが、不思議に良いのがない。

「トリスタンとイゾルデ」にはストコフスキーの「交響的接続曲」があるが、編集も上手、指揮もうまいが、それだけのことで、劇的な展開も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆとり</span>も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふくらみ</span>も余情も失われる。

「前奏曲」と「イゾルデの愛の死」と一緒にしたのが、フルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニック管弦団で、ポリドールにも（六〇一九六―七）、コロムビアにも入っている（Ｓ一〇四四―五、名盤集第三集）。フルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」は天下一品の称があり、どちらもすばらしい。吹込みはコロムビアの方がいくらか新しいはずである。

## ニーベルンゲンの指環

「ラインの<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>」の四部から成るこの大楽劇のレコードは、部分的にはかなりたくさん入っている。

「ワルキューレ」では、ワルターがウィーン・フィルハーモニック管弦団を指揮し、レーマン（ソプラノ）とメルヒオール（テナー）とリスト（バス）の歌った第一幕全曲レコードがコロムビアに入っている（ＪＳ六―一三）。今日レコードが想像し得る最上の演奏で、歌手も指揮も管弦団も、申し分なくワグナーを<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>かす。ほかにストコフスキーの指揮した<ruby><rb>総合曲</rb><rt>そうごうきょく</rt></ruby>があり、古いところではコーツとブレッヒの指揮した全曲もビクターにあるが、もはや問題になるまい。

一枚物のレコードではストコフスキーの指揮した「魔の火の音楽」があり（ビクター愛好家協会第六集）、「ホー・ヨー・トー・ホー」をフラグスタートの歌ったのもある（ビクターＪＥ一二八）。

「ジークフリート」はバイロイトの祝典音楽レコードのほかには、「森の<ruby><rb>囁</rb><rt>ささやき</rt></ruby>」をメンゲルベルクがニューヨーク・フィルハーモニック管弦団を指揮したのがビクターにある（ＪＤ一五七〇）。非常に美しいが、少し古くなった。ストコフスキーの<ruby><rb>総合</rb><rt>そうごう</rt></ruby>音楽は好ましくない。

「神々の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>」もストコフスキーの<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>な総合音楽以外にはあまりレコードはない。「ラインの旅」は非常に美しい音楽だが、これはムックのベルリン国立歌劇場管弦団を指揮したのがビクターにある（六八五九―六〇）。

「葬送行進曲」も幾通りか入っているが、ムック指揮のがやはり心ひかれる（ビクター六八六一）。新しいのではワルターやフルトヴェングラーやクライバーの指揮したのがある。

## パルジファル

ワグナーの楽劇の最後の頂点をなす作品で、きわめて<ruby><rb>瞑想的</rb><rt>めいそうてき</rt></ruby>なものである。

「前奏曲」と「聖金曜日の音楽」はビクターにストコフスキーの指揮したのがあり（ＪＤ一六五三―六）、コロムビアにフルトヴェングラーの指揮したのがある（ＪＳ四七―九）。どちらも名演奏であるが、アメリカ風に豪華なストコフスキーより、フルトヴェングラーの内省的で心静かな演奏の方が良い。フルトヴェングラーの「パルジファル」は、これも天下一品的なもので、ストコフスキーほどの<ruby><rb>業師</rb><rt>わざし</rt></ruby>でもその境地は<ruby><rb>狙</rb><rt>うかが</rt></ruby>い得ないだろう。管弦楽はフィラデルフィア管弦団と、ベルリン・フィルハーモニック管弦団だ。

他にコッポラやムックやボールトの指揮したのもあるが、もはや掲げるまでもあるまい。

## ジークフリート牧歌

ワグナーが老境に入ってから一子ジークフリートをあげ、その喜びの余り夫人コジマの誕生祝いとクリスマスの祝いを兼ねてこの曲を作り、クリスマスの朝小管弦団に自宅の玄関で演奏させてコジマ夫人を狂喜させたという因縁のある音楽だ。楽劇「ジークフリート」から主題を採り、ドイツの古い<ruby><rb>子守唄</rb><rt>こもりうた</rt></ruby>が織り込んであり、ワグナーにしてはこの上もなく美しい曲で、<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>までも愛情が行きわたっている。

レコードは幾通りもあるが、ワルターがウィーン・フィルバーモニック管弦団を指揮したコロムビア・レコードをもって第一とするだろう（Ｊ八五六七―八）。情愛の<ruby><rb>行届</rb><rt>ゆきとど</rt></ruby>いた、いかにも<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>の良い演奏だ。トスカニーニの指揮したのも異色あるレコードだが（ワグナー名曲集）、多少この人らしい<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>なさがあるだろう。もう一つこの曲をワグナーの遺子で、<ruby><rb>物故</rb><rt>ぶっこ</rt></ruby>したジークフリート・ワグナーが指揮したレコードがビクターに入っている（Ｄ一二九七―八）。この人はあまりうまい指揮者ではなかったが記念的には興味が深い。

これを要するに、ワグナーのレコードとは「バイロイトの祝典レコード」とトスカニーニの「ワグナー名曲集」とムックの楽劇「ニュールンベルクの名歌手」序曲、楽劇「神々の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>」、「パルジファル」前奏曲と、フルトヴェングラーの「パルジファル」、ワルターの「ワルキューレ」は逸することが出来ない。巧みではあるが、ストコフスキーのものはまずどうでもよい。

  


## 音楽の隠聖フランク

  


近代音楽史の上に、<ruby><rb>慎</rb><rt>つつ</rt></ruby>ましやかながら、<ruby><rb>毅然</rb><rt>きぜん</rt></ruby>として<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>ゆるセザール・フランクの姿は<ruby><rb>尊</rb><rt>とうと</rt></ruby>くもなつかしい。その生涯の大部分を、聖クロティルド教会のオルガンひきとして隠れ、死の前年に至って、ようやく最初の<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>を受けたフランクこそは、まことに「音楽の聖者」とも、「近代のバッハ」とも言うべきであろう。

フランクの作品がほとんどことごとくカトリック的な信仰に由来し、かつて俗衆と楽壇的騒人とを眼中におかなかったことは、フランクの世に知らるることの<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>かった原因ではあるが、同時にそれは、ルーテル派の信仰に生涯を託して、同じく教会の一オルガンひきに満足し切ったヨハン・セバスチャン・バッハと一世紀半を隔てて互いに相通ずる尊さでもあり、やがてその<ruby><rb>真摯</rb><rt>しんし</rt></ruby>な態度こそは、<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>の芸術――最も気高きもの、そして最も良きもの――を<ruby><rb>産</rb><rt>う</rt></ruby>む<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>でもあったのである。

フランクの音楽は、いかにその外見は壮麗であるにしても、かつてバッハがありし如く、深く信仰に根ざしたもので、換言すれば、<ruby><rb>厭離</rb><rt>おんり</rt></ruby>と<ruby><rb>欣求</rb><rt>ごんぐ</rt></ruby>の音楽であり、<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>と<ruby><rb>贖罪</rb><rt>とくざい</rt></ruby>の音楽であったのである。フランクは単なる「美の追求」のために、一小節の音楽も書かなかったことは少しでもフランクを知る誰にでも<ruby><rb>首肯</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>されることであるだろう。例えば、古今のヴァイオリン・ピアノ・ソナタ中の傑作「ソナタ＝イ長調」の豪華<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>を求めた曲のうちにさえ、フランクは宗教的な情熱と、<ruby><rb>浄</rb><rt>きよ</rt></ruby>らかな歓喜とを描かずにはおかなかったのである。

## 多難の時代

セザール・フランク（<em>César Franck</em>）は一八二二年十二月十日、ベルギーのリエージュに生まれた。少年時代からピアノに異常の才能を現し、両親の大きな期待を<ruby><rb>荷</rb><rt>にな</rt></ruby>って十五歳の時、パリ音楽院に入学し、ピアノとオルガンの演奏でしばしば賞を受けた。

その頃大ピアニストとして全欧に君臨し、名誉と地位と、巨大な富とをあわせ有した、フランツ・リストの華やかな姿は、フランクの両親に、その子を大ピアニストに育て上げる希望を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>かしめたのであろう。しかし、若いフランクはその両親の望みを裏切って作曲に没頭し、作曲界の<ruby><rb>登竜門</rb><rt>とうりゅうもん</rt></ruby>とも言うべき、ローマ大賞を狙って努力を続けたために、父親の激しい反対を受けて、作曲も学業も断念し、故郷のベルギーに帰らなければならなかった。それは、彼が二十歳の年、一八四二年のことである。

いかなれば世俗的な報酬は、作曲家に薄くして、演奏家に厚いのであろう。あえてフランクの場合のみとは言わない。この<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby><ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>な不均衡は、古来幾多の天才を<ruby><rb>窮巷</rb><rt>きゅうこう</rt></ruby>に<ruby><rb>餓</rb><rt>う</rt></ruby>えしめたことか。

それはともかく、二年後の一八四四年には、フランクはもう一度パリの<ruby><rb>坩堝</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>に飛び込んで、独力その運命の開拓に健闘していた。それは両親の家計が<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ豊かでなかったためでもあるが、ともかく、フランクの困難な生活はその時から始まり、一八四八年パリ市中に築いた革命戦争の<ruby><rb>堡塁</rb><rt>ほるい</rt></ruby>を<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じて、女優デスムソーの娘との結婚式場に臨んだ頃から、ますますフランクの意志と健康とを必要とする逆境に当らなければならなかったのである。

彼は二人のパンを稼ぐために、毎朝五時半に起き出して作曲にいそしみ、それから和声とピアノの教授に終日を費さなければならなかった。

## 周囲の青年達

一八四六年最初の<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>「慈悲」が初演され、一八五〇年には歌劇の一部が完成されたが、フランク自身その理想に到達する<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>の遠きを思い、<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby>十年間ほとんど作曲の筆を断ち、一八六〇年以後も、さしたる活動はなかったようである。

一方フランクのオルガン奏者としての名声は次第に高まり、一八五八年には<ruby><rb>聖</rb><rt>サン</rt></ruby>クロティルド教会のオルガン奏者の地位を得、ほとんど終世この職に踏み<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>って、オルガニストとして<ruby><rb>確固</rb><rt>かっこ</rt></ruby>たる名声を保ち続けた。一八七二年にはパリ音楽院のオルガン教授となり、翌一八七三年フランスに帰化し、一八九〇年永眠するまで、約二十年間にその傑作が順次完成されていったのである。

フランクの周囲には、その風格を<ruby><rb>慕</rb><rt>した</rt></ruby>い、その作品に傾倒する青年達が集まった。まさに<ruby><rb>桃李</rb><rt>とうり</rt></ruby><ruby><rb>物言</rb><rt>ものい</rt></ruby>わずの感である。青年達のうちには、後年フランス楽壇に大きな<ruby><rb>旗幟</rb><rt>きし</rt></ruby>を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>した、ダンディ、ショーソン、デュパルク、ロパルツ、ピエルネ、ヴィダール、シャピュイの巨星が網羅され、フランクを中心にここに新時代の<ruby><rb>溌剌</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>たる機運が<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されていったのである。

しかし、それにもかかわらず、フランクの作品は、容易に世に知られるには至らなかった。フランクの音楽が地味で、知的で、無用の<ruby><rb>媚態</rb><rt>びたい</rt></ruby>を持たなかったために、一般人は言うまでもなく、当時の楽壇人も、これを理解するに至らなかったのであろう。

## 死の前年

死の前年――<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち一八八九年、フランクの大傑作にして、ベートーヴェン以来の大交響曲とも言うべき「交響曲ニ短調」がパリ音楽院で初演された時、当時フランス楽壇に雄飛したグノーはその取巻き一隊と共に来場し、演奏後感想を求められたのに対して、「無能な肯定――」と公言して明らかにフランクを<ruby><rb>誹謗</rb><rt>ひぼう</rt></ruby>した。この言葉は、歌劇「ファウスト」の作曲者を決して高からしめてはいないが、<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て当時のフランクの作品に対する世評の無慈悲無理解の程度も知るべきである。

この初演を済ませて帰って来たフランクに、家人が演奏の様子を尋ねると、フランクは「ウン、私が予想した通り、よく響いたよ」と<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えたという話は、六十八歳の老フランクの<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい姿を<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>とさせて涙ぐましくさえある。

翌年早春、「弦楽四重奏曲＝ニ長調」が初演され、このとき始めて、フランクの作品に対して理解ある<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>が起った。フランクは「とうとう」――と<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの人に言った――「私が信じていた通り、世間の人も私の曲を鑑賞するようになった」と。

がしかし、六十九歳になって、始めて喝采を味わったフランクには、もはや余命がなかったのである。間もなく不量のことで負傷し、<ruby><rb>肋膜炎</rb><rt>ろくまくえん</rt></ruby>を起してその年の冬、即ち一八九〇年十一月八日、多くの<ruby><rb>弟子達</rb><rt>でしたち</rt></ruby>に<ruby><rb>惜</rb><rt>お</rt></ruby>しまれながら、パリの宅に<ruby><rb>長逝</rb><rt>ちょうせい</rt></ruby>した。

## フランクの尊さ

人間フランクの尊さを、私はほぼ書いたつもりである。フランクの作品は、その形の上から言えば古典的であるが、その表現方法はきわめて近代的で、ドビュッシーの印象派とは別に、近代音楽の上に、<ruby><rb>鮮新</rb><rt>せんしん</rt></ruby>にして含蓄の深い、一つの領域を開拓した。

フランクの思想の中核をなすものは、カトリックの教義であるが、ネオ・スピリチュアリズムの運動と一脈相通ずるものがあると言われ、芸術作品としては想像以上に<ruby><rb>真摯</rb><rt>しんし</rt></ruby>である。ロマン派の感情の誇張も、ドイツ風の<ruby><rb>衒学</rb><rt>げんがく</rt></ruby>もフランクにはないが、その楽曲は建築的な合理性と雄大さがあり、神秘的であると共に、きわめて色彩的であることが、<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>に知られなかった原因でもあると共に、深遠な内容を蔵して、くめども尽きぬ霊的なものを持っている<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>でもあるだろう。

  


## フランクの作品とそのレコード

フランクは<ruby><rb>寡作</rb><rt>かさく</rt></ruby>であったのと、その作品の大衆性に乏しいため、レコードは決して多くない。しかしその数少ないレコードが、フランクの場合は、ことごとく聴くに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えるものであることは、他の作曲家と大いに趣を異にするところで、そんなことまでが、フランクに対する敬慕の念を深めるであろう。

## 交響曲、交響変奏曲

「交響曲＝ニ短調」はフランクの唯一のシンフォニーで、構造の雄大壮麗さと、精神的内容の深さにおいて、後にも前にも比類のないものである。フランクの天才と努力も、フランス風の交響曲の妙味も、この一曲において完成されたと見るべきであろう。レコードはストコフスキーのフィラデルフィア管弦団を指揮した豪華な演奏をもって第一とする（ビクターＪＤ九九八―一〇〇三）。

「交響変奏曲」はピアノと管弦楽との優麗な合奏曲である。この眼のさめるような美しさのうちにも、フランクらしい内容的な良さを失わないのは有難いことである。レコードはビクターに入っているコルトー（ピアノ）とロナルドの指揮するロンドン・フィルハーモニック管弦団の演奏を挙ぐべきだろう（ＪＤ五二七―八）。情愛の豊かなうちに、胸のすく鮮麗さを持ったものである。

## ヴァイオリン・ソナタ

「ヴァイオリン・ソナタ＝イ長調」は、ヴァイオリン・ピアノ・ソナタ中、古今の大傑作の一つで、華麗さはベートーヴェンに迫り、滋味はブラームスにも及ぶ名品である。レコードは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいが、吹込みはやや古くともビクターのコルトー（ピアノ）、ティボー（ヴァイオリン）の品位と優麗さに及ぶものは一つもない（八一七五―八）。この程度のレコードは選択に迷うだけが愚かである。

## 四重奏曲、五重奏曲

「弦楽四重奏曲＝ニ長調」はフランク唯一の四重奏曲であると共に、晩年のきわめて静寂な境地を表現するもので、大衆的興味には遠い。レコードはビクターにプロ・アルテ四重奏団の枯淡な演奏が入っている（ＪＤ五二一―六）。

「ピアノ五重奏曲」は、この種の曲としては<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>まで<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかさはないが、重厚な<ruby><rb>幽遠</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>なもので、レコードは最近再プレスでカペエ四重奏団とシャンピ（ピアノ）が出ている（コロムビアＳ一一一〇―四）。吹込みは十数年前のもので甚だ鮮明を欠くが、やはりカペエの良さは承服しないわけにはいかない。ほかにビクターにコルトー（ピアノ）とインターナショナル四重奏団のが入っているが、これもコルトーのピアノが<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れているというだけで<ruby><rb>弦</rb><rt>げん</rt></ruby>があまり上等でなく吹込みも新しくない。

## ピアノ曲、オルガン曲

「前奏曲、コラール、<ruby><rb>遁走曲</rb><rt>とんそうきょく</rt></ruby>（ビクター七三三一―二）、「前奏曲、<ruby><rb>詠唱調</rb><rt>えいしょうちょう</rt></ruby>、終曲」（ビクターＪＤ七七―九）の二曲は、フランクのピアノ曲としても代表作で、近代のバッハと言われた深遠な思想と、それを近代的に表現する技巧とを<ruby><rb>併</rb><rt>あわ</rt></ruby>せ、宗教的な<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な感じさえ持った名曲である。このコルトーの演奏はわれわれの期待し得る最上のものであるが、コルトーの若さか気分の違いか、それとも曲の良さか、前者の方が一段と高貴さを覚えしめる。

「前奏曲、遁走曲、変奏曲」はオルガン曲で、名手デュプレの演奏したのがビクターにある（ＪＤ一六二九）。名オルガン手フランクの面影をしのぶべきであろう。

## 管弦楽

「<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>われたる猟師」はブルゲルのバラードによった作品で、<ruby><rb>暴慢</rb><rt>ぼうまん</rt></ruby>な伯爵が狩から地獄へ追い落される、標題音楽的な味が面白い。レコードはポリドールにヴォルフのパリ・コンセール・ラムルウを指揮したのがある（四〇四八二―三）。少し古いが、ほかに良いのはない。

交響詩は「<ruby><rb>贖罪</rb><rt>しょくざい</rt></ruby>」と「プシシェ」、それぞれヴォルフの指揮でポリドールに入っているが吹込みが少し古いのと、全曲でないのが惜しい。

  


## 孤独の哲人ブラームス

  


「歌劇を作曲するのは、結婚するよりはむずかしい」とブラームスは言った。ブラームスが生涯を孤独のままで送ったことに対してはいろいろの説をなすものがあるが、それはともかくとして、あらゆる形の音楽を作ったブラームスが、たった一つの歌劇も作らなかったのは、その性格が<ruby><rb>生一本</rb><rt>きいっぽん</rt></ruby>で、妥協も誇張も、劇的表現さえも、その作品に<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>れることが出来なかった正直さのためであったらしい。ブラームスという人は、おそろしく正直な人であった。あらゆる<ruby><rb>浮華</rb><rt>ふか</rt></ruby>なもの、派手なもの、軽薄なものは、ブラームスの作品にも生活にも介在することを許さなかった。聴いてくれよがしの小器用な技巧や、お先っ走りの新しがりや、内容にそぐわない身振り<ruby><rb>声色</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>や、無意味に<ruby><rb>氾濫</rb><rt>はんらん</rt></ruby>する感情や、――そういったものは、ブラームスにとって全く我慢のならないものであったのである。

私はバッハやシューベルトと共に、ブラームスの音楽を好むことを幾度か語りかつ書いた。わけてもその室内楽には、神経質に光沢を消したうちに、整然たる形式美と、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れる滋味を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて、なんとも言えない良さを持ったものがあるからである。

ブラームスの音楽は「内容即表現」である。それはブラームスの全人格を素材とした混りっけのない白大理石像だったのである。粉飾も誇張もなんにもなく、古典の形式に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>って、潔癖に、正直に地下百尺に掘り下げた生命の清水が、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ちブラームスの音楽であったと言ってもよい。

私は「ブラームスの生活も芸術を<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>ぐることなき真実だ」とも言った。彼の音楽は偽善と軽薄に対する宣戦であり、誇示と虚飾に対する偶像破壊でもあった。当時近代音楽の<ruby><rb>勃興</rb><rt>ぼっこう</rt></ruby>時代で、<ruby><rb>真物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>も<ruby><rb>偽物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>も、ひたむきに新奇を<ruby><rb>趨</rb><rt>お</rt></ruby>うてやまなかった時、ブラームスは雄大、厳重、素朴、<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な古典精神に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>り、ひたむきに「絶対音楽の<ruby><rb>聖地</rb><rt>せいち</rt></ruby><ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>」の理想に突進したのである。

私はブラームスの<ruby><rb>礼讃</rb><rt>らいさん</rt></ruby>の文章と講演を、本年に入ってから、十回以上繰り返している。ブラームスの音楽は地味で堅実で、通俗にはなり難く、世には少数のブラームス好きと、それに数倍する大勢のブラームス嫌いのあることは、われらブラームス好きをして、こう書き語る機会を多くするのであろう。

何故にブラームスは、しかく俗衆に入れられなかったか。――それにもかかわらず、何故にブラームスの音楽は美しく<ruby><rb>尊</rb><rt>とうと</rt></ruby>いか、例によって私はその簡単な伝記から調べて一つの結論に到達しようと思う。

## 好青年

ヨハンネス・ブラームス（<em>Johannes Brahms</em>）は一八三三年五月七日、ドイツのハンブルクに生まれた。父ヨハンは音楽家で、ブラームスの生まれながらの楽才をなんの<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>みもなしに伸ばしていくためには、この上もない温床になったことは疑いもない。十歳の時は天才少年として、米国への楽旅を勧められたが、恩師コッセルは、ブラームスの大成を<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねるものとして、賢くもこれを拒絶させ、大ピアニストとしての将来に大きな望みをかけたが、ブラームスの心はむしろピアノという楽器を通しての和声の研究であり、その激しい情熱は、演奏よりも作曲の方へひたむきに進むようになったのである。

しかし音楽家としてのブラームスのスタートは決して光栄のあるものではなかった。少年ブラームスは、貧しい家計を助けるために、十四歳の時はもう、酒場のピアノを弾いて、お客様の興を添えなければならなかった。ブラームスに猛烈な向上心がなく、聖書に親しみ、教養を引き上ぐることに鋭意しなかったならば、おそらく生涯を酒場のピアノ弾きでおわってしまったかも知れない。幸いにして少年ブラームスの向学心は、<ruby><rb>寸暇</rb><rt>すんか</rt></ruby>を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>んで教養を高め、後年の気高い情操、哲学に対する識見などの土台を、<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>のうちに積み上げたのである。

作品三のソナタと歌謡集を発表したのは十七歳の年。二十歳の時にはもう若いヴァイオリニスト、レメニーと組んで、ハンガリーへと楽旅に出かけるブラームスであった。

ある田舎の小さい町で演奏会を開いた時のことである。開会直前、舞台のピアノが普通のピッチより半音低く調律されていることを知って、まずレメニーは<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなった。が、開場時間が切迫してどうすることも出来ない。ブラームスは平然としてそのピアノに向い、半音高く移調しながらクロイツェル・ソナタを全部暗譜で弾いてしまった。それを聴いて一番驚いたのは、偶然聴衆の中に交っていた大ヴァイオリニスト、ヨアヒムであった。さっそく交を求めて、生涯水魚の<ruby><rb>念</rb><rt>おも</rt></ruby>いが変ることがなかった。

ヨアヒムはブラームスを発見すると、さっそくこの優秀な青年音楽家を、その頃ワイマールに一大音楽王国を建てているの観あった大ピアニストにして大作曲家なるリストに紹介してやった。ブラームスを迎えたリストが、その持前の寛容と<ruby><rb>懇切</rb><rt>こんせつ</rt></ruby>で、どんなによくブラームスを遇したかは言うまでもない。まず自らピアノに<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って無名の一青年ブラームスの作曲した「スケルツォ」を、汚い譜面を判読しながら超人的な理解で弾き、さらにブラームスの第二ソナタに対して、熱心な興味を示してくれたりした。

野人ブラームスは、この大先輩にして大御所的存在であったリストの歓待に、ただ驚き<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れるばかりであった。だが、リスト殿堂の中を吹き巻く風は、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>で<ruby><rb>生温</rb><rt>なまあたたか</rt></ruby>くて、虚飾と<ruby><rb>阿諛</rb><rt>あゆ</rt></ruby>に満ちていた。やがてリストが客人や門弟に<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>されて、自作のロ短調のソナタについて長々と説明を始めた頃、ブラームスは<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>の緒を切って以来始めて<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った安楽椅子の<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>り<ruby><rb>心地</rb><rt>ごこち</rt></ruby>のよさに誘われて、ウツラウツラと<ruby><rb>居睡</rb><rt>いねむ</rt></ruby>りを始めていたのである。リストとブラームスはそれっきり<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しく別れてしまったことは言うまでもない。

この逸話のために、我らは決してリストを<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>ったり、軽視したりしてはいけない。リストは寛大で世話好きで、立派な人物であったに違いないが、野人ブラームスとは別の世界に住む人で、二人は<ruby><rb>畢寛</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>水と油であったにすぎないのである。

## シューマンと彼

続いてブラームスは、同じヨアヒムに紹介されて、ロバート・シューマンとその妻クララの家庭を訪ねた。その頃シューマンは、宿命的な脳の病に悩まされていたが、眼の涼しく髪の美しい二十歳の青年ブラームスを迎えて肉身の弟にめぐり逢ったように喜び、有名な<ruby><rb>才媛</rb><rt>さいえん</rt></ruby>クララもまた夫と共にその喜びを<ruby><rb>頒</rb><rt>わか</rt></ruby>った。

シューマンはブラームスの作品を見てすっかり有頂天になり、自分の主宰する雑誌「新しき道」にブラームスの発見を報告して、最大級の<ruby><rb>讃辞</rb><rt>さんじ</rt></ruby>を呈した。青年ブラームスはそのため一挙天下知名の音楽家になったが、その代り一部の間に多くの反感を植え、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>の眼でみられるようになったことも事実である。

ブラームスの生涯、わけてもその音楽に対するシューマン夫妻の影響は非常に大きい。ブラームスが俗流に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びず、新奇なもの浮薄なものを<ruby><rb>峻拒</rb><rt>しゅんきょ</rt></ruby>して、一生地味で<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えない――が最も芸術的な音楽を作り通した非妥協的な態度はブラームス本来の性格によることではあるが一部は理想家シューマンと<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>なクララ夫人の感化によるものと言っても決して間違いではないと思う。シューマンがロマン派音楽の闘士として、あれだけのことをしたのは、クララの激励が大いに<ruby><rb>与</rb><rt>あずか</rt></ruby>っていることは疑いもないように、シューマンの死後、<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに<ruby><rb>歳下</rb><rt>としした</rt></ruby>のブラームスに対して、才媛クララの影響がなかったとは決して言えない。クララ夫人のピアノの<ruby><rb>手並</rb><rt>てなみ</rt></ruby>と、その聡明さについては、文献を通して、我らはかなり<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>することが出来るのである。

一八五四年、脳を病んでいたシューマンはライン河に投身して<ruby><rb>危</rb><rt>あや</rt></ruby>うく救われた。その後ブラームスはシューマンの<ruby><rb>恩顧</rb><rt>おんこ</rt></ruby>に<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いるためにシューマンの作品や図書の整理をし、さらにシューマンの療養費を得るために、産後のクララを助けて、遠く演奏旅行に上ったりした。一八五六年七月シューマンが死んだ後は、クララとシューマンの<ruby><rb>遺孤</rb><rt>いこ</rt></ruby>のために、ブラームスは最もよき助言者であり、<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>変ることなき友人として、陰に陽に助けていった。

シューマンのブラームスに対する影響は決して小さいものではなかったにしても、<ruby><rb>僅々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>二、三年の知己の恩に<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いるに、その後四十年の長い間、かつて変ることなかりしブラームスの好意は<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>められるべきものである。

シューマンの死後、ブラームスはいよいよ独自の道を歩んでいった。古典の形式と精神を深く掘り下げ、無用の誇張と虚飾とを排斥して新しい美をそこに見出そうとしたのである。最初の「ピアノ協奏曲」はその主張を果すために、作品第一五として発表されたが、当時の聴衆はもちろん、専門の批評家もこれを理解出来なかった。「<ruby><rb>無味乾燥</rb><rt>むみかんそう</rt></ruby>」「不愉快な響き」といった無責任な批評で片づけられ、それから三十年の後、ダルベアによって演奏され、最初の熱烈な<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>を浴びるまで、それは<ruby><rb>悪罵</rb><rt>あくば</rt></ruby>と<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>と無関心とに葬られていたのである。

続く幾つかの室内楽や美しい<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>の数々は、友人達に励まされてとにもかくにも世に送り出されたが、当時は誰も<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みるものはなかった。ブラームスを理解するために、ヨーロッパの楽壇は掛値なしに三十年あるいは五十年の歳月を必要としたのである。

## 孤高の姿

ブラームスが音楽の都ウィーンを訪ね、そこに定住する気になったのは一八六二年のことである。モーツァルトやベートーヴェンやシューベルトが光輝ある一生を託したウィーンの魅力はブラームスを強く<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけたのであろう。

ブラームスのウィーンの生活はピアニストとしても作曲者としてもとにもかくにも成功であった。<ruby><rb>唱歌学校</rb><rt>ジングアカデミー</rt></ruby>の合唱長としての二年間は、<ruby><rb>不羈</rb><rt>ふき</rt></ruby>なブラームスとしてはむしろ<ruby><rb>不思議</rb><rt>ふしぎ</rt></ruby>に落着いた仕事であると言ってよい。その後数々の器楽曲と、傑作「永遠の愛」や「五月の夜」を含む歌曲集が公にされ、一八六六年には有名な傑作「ドイツ<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>」が完成した。

これは旧き師友シューマンの死を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>び、新たに失った母の死を<ruby><rb>悼</rb><rt>いた</rt></ruby>んで、ブラームスが心魂を傾けた作で、ドイツ語で書かれた最初の「<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>」であり、最も芸術的な宗教音楽の一つとして有名である。しかしその楽友協会における初演は決して成功とは言い難く、この曲を成功に導いたのは、それから二年後、ブラームス自身がブレーメンの寺院において指揮した時からで、今ではドイツ国民の胸に、最も<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な曲として深く深く印象付けられている。

その頃のブラームスは胸幅の広い、髪の毛の美しい、青い<ruby><rb>烱々</rb><rt>けいけい</rt></ruby>たる眼と、厳然たる態度を持った偉丈夫で、すべての人に<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>されていたということは、残る写真を見てもうなずけることである。

有名な「<ruby><rb>子守唄</rb><rt>こもりうた</rt></ruby>」は三十五歳の時の作。一八七〇年から七一年にわたる<ruby><rb>普仏</rb><rt>ふふつ</rt></ruby>戦争の時には愛国の血に燃えて雄大な合唱曲「<ruby><rb>凱旋</rb><rt>がいせん</rt></ruby>の歌」を作った。一八七三年には、楽友協会に<ruby><rb>紛糾</rb><rt>ふんきゅう</rt></ruby>がありブラームスは三千マルクの<ruby><rb>年俸</rb><rt>ねんぼう</rt></ruby>と共にその指揮者の地位を捨てたが、幸いブラームスの音楽はその頃からようやく理解されるようになり、作曲の印税で生活を支えることが出来るようになっていた。

その頃有名な外科医で熱心な音楽愛好者ビルロートが私財を投じて音楽会を後援し、ブラームスはそれに刺激されて、美しい弦楽四重奏曲を続けざまに発表した。このことはブラームスの珠玉の如き室内楽を<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく持つことの出来た原因として、後の世のわれわれにも決して意味のないことではない。

四十歳になったブラームスはその音楽生活の最高目標とも言うべき最初のシンフォニーを発表した。その「第一」は<ruby><rb>鬱勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>たる情熱を蔵し、休火山に例えられ、<ruby><rb>雄渾</rb><rt>ゆうこん</rt></ruby>壮麗なものであったが、直ちに世に認められるに至らず、名ピアニストにして名指揮者なるハンス・フォン・ビューローがワグナーと十年の交りを絶って、ブラームスの熱心な紹介者となり「これこそはベートーヴェンの第十シンフォニーに当るものだ」という警句を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>き、自ら指揮棒を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って反対者の大群を<ruby><rb>閉塞</rb><rt>へいそく</rt></ruby>させてしまった。続いて田園的な美しきをもった「第二シンフォニー」を発表し、ベートーヴェンの「第六シンフォニー（田園）」と共に、ウィーンの平和な郊外描写の音画として、後の人に愛されるようになった。

ブラームスはその頃すっかりウィーン人になりきってしまったが、相変らずその生活は孤独でたまたま数少ない友人との交渉があるだけ、公の席にも<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に顔を出さず、きわめて<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しいが孤高の生活を三十幾年も続けたのである。

「大学祝典序曲」や「悲劇的序曲」に次いで有名な「ヴァイオリン協奏曲」を発表したのはその頃であった。四十五歳のブラームスが、円熟しきった楽想と技巧を盛ったこの協奏曲は、ベートーヴェンやメンデルスゾーンの協奏曲と<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んで三大ヴァイオリン協奏曲と推賞されているが、発表当時からその真価が認められたわけではなく、徐々に――ではあるが確実にその声価を高めて、今は世界の好楽家の感激になっていることは、一般に知られすぎるほど知られていることである。

「第三シンフォニー」を公にしたのは一八八四年で、八六年には最後のシンフォニー「第四」を発表した。第一シンフォニーを出してからちょうど十年、この四十歳から五十歳の間は芸術家としてのブラームスの絶頂期で、数々の名曲はその期間に集注されたの感があった。その後の作曲には「ヴァイオリンとチェロの二重協奏曲」及び「クラリネット五重奏曲」という二つの大傑作があり、ブラームスの晩年を輝く<ruby><rb>夕映</rb><rt>ゆうばえ</rt></ruby>のように<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかにしたが、一八九六年頃から<ruby><rb>肝臓癌</rb><rt>かんぞうがん</rt></ruby>の症状が著しくなり、本人の知らぬ間に病勢は進んで、六十四歳のブラームスはもはや昔の威風はなかった。一八九七年一月楽友協会の演奏会で<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>のブラームスは立って自作への喝采に<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えたが、かつて<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>く清かりし眼は曇り、血色の美しかった<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>は<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめて、死の色が濃くこの大作曲家の立派な顔を侵すのを見て、聴衆は熱心にハンケチを振りながら涙を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだ。

越えて三月、継母への優しい手紙を絶筆に四月三日この孤独にして偉大なる魂は天に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。葬儀の日、涙と共に歌われたブラームスの「ドイツ<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>」の一節は「死に行く者の活動はやむとも、その作品は世に残さん」というのであった。

## 蝋燭の如く

多くの人がブラームスを愛するのは、その端麗<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>な音楽のせいには違いないが、この音楽を生んだ人間ブラームスの伝記を調べていくに従って、彼の芸術そのままと言ってもよい――優しく美しい――性格に傾倒せざるを得ない。

何よりブラームスの良さは、親孝行で子供好きなことであった。ブラームスは交際<ruby><rb>嫌</rb><rt>ぎら</rt></ruby>いの派手嫌いで、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に公の宴会にも出かけず、当時の音楽家の一つの仕事のようになっていた貴婦人付合などはもってのほかであったが、きわめて少ない友人との交際は、ほとんど一生涯変ることがなかった。シューマンとクララ夫人、ハンス・フォン・ビューロー、ハンスリック、ヨハン・シュトラウス、ヨアヒムなどはそのよき友の例である。

シューマンやビューローが、ブラームスを挙ぐるに急であったために、ブラームスは思わぬ敵を作ったこともまた事実であった。わけてもワグナーとその一党のブラームスを憎むことは猛烈を極め、関係団体や機関でブラームスの作品さえも上演を拒む有様であったが、ブラームスはきわめて<ruby><rb>恬淡</rb><rt>てんたん</rt></ruby>で、ワグナーがウィーンを訪ねた時などは、最初の訪問で勝手が解らなかったのと、ワグナーに対してかなり反感を持っている者の多かったのに同情し、ワグナーのために<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby><ruby><rb>奔走</rb><rt>ほんそう</rt></ruby>して、ワグナーの真価を認めさせるために骨を折ったりした。

「ブラームスは<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>のようにまっすぐだ」と言う言葉がある。一部の人達は当時既にブラームスを正しく理解し、蝋燭のような性格を愛しもし尊敬もしていたのである。ブラームスの良き性格を証明する逸話はたくさんあるが、それは大方省略する。

ブラームスの偉大さ、良さを知らんとする人は、まず何よりもその音楽を聴くことだ。「ヴァイオリン協奏曲」の豊麗な美しさ、「クラリネット五重奏曲」の典雅な優しさ、<ruby><rb>情緒</rb><rt>じょうちょ</rt></ruby>と愛に満ちた<ruby><rb>歌曲</rb><rt>リード</rt></ruby>の数々、それから少しむずかしいものを要求する人は、四つのシンフォニーや、ピアノ・ヴァイオリン・ソナタ、それに最もブラームス的な渋い弦楽四重奏曲、ピアノ協奏曲などを聴くがよい。

ブラームスの音楽にはサッカリンは入っていない。食いつきは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ悪いが、反復聴き込んで来ると、これほど渋味の豊かな、隠されたる美の多いものはない。私が極力ブラームスを推す所以は、この<ruby><rb>堅実素朴</rb><rt>けんじつそぼく</rt></ruby>にして汲めども尽きぬ美を蔵する点にあるのである。ハンス・フォン・ビューローが、ブラームスをバッハやベートーヴェンと並べて、ドイツ音楽の三Ｂと言ったのは、今にして思えば決して誇張された言葉ではなかったのである。

  


## ブラームスの作品とそのレコード

ブラームスの音楽は理解がむずかしいのか、親しみ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>くないのか、日本のファン達には、毛嫌いする向もあるようだが、そのレコードの数はベートーヴェン、シューベルト、モーツァルトに次いで<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく、おそらくバッハと<ruby><rb>伯仲</rb><rt>はくちゅう</rt></ruby>し、ワグナーやショパンの上位を占めるだろう。これは私の収集の<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>の面積の比例から見た見当であるが、まず大した間違いはないだろうと思う。

ブラームス嫌いはディレッタントや音楽界のダンディ達に多いのに反して、ブラームス好きは、学者とか研究者とか、地味な生活を持つ人に多いのも興味の深い傾向である。もし「そう言うお前は？」と<ruby><rb>聞</rb><rt>き</rt></ruby>く人があったら、私は即座に、しかも進んでブラームスのために<ruby><rb>左袒</rb><rt>さたん</rt></ruby>するだろう。ブラームスには<ruby><rb>上滑</rb><rt>うわすべ</rt></ruby>りな情熱もなく、<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかさも、誇らしさもない代り、やぼったいばかりの重厚さと、落ち着き払った深さとがあり、わけてもその滋味と深沈たる美しさは比類のないものであると私は思う。

音楽は最も官能的な芸術である代り、いかなる傑作でも、反復聴くことによっていつかは<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けんたい</rt></ruby>を感じさせる。が、ブラームスにはそれが<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少ない。その点ブラームスの音楽は、バッハと共に、最もわれわれの日常生活に親しみ深きものでもあり得るのである。

## 交響曲並びに管弦楽曲

ブラームスの四つのシンフォニーはかなりたくさんレコードされている。これは今から二十年前にわれわれが「ブラームスのシンフォニーが一つでもレコードされるといいがなア」と言ったことを思い出すと、まことに隔世の感だ。

「第一交響曲＝ハ短調（作品六八）」は人によっては最も面白いシンフォニーだと言うだろう。ベートーヴェンの第十シンフォニーに当ると言われた曲だ。レコードはワインガルトナー、ワルター、ストコフスキー等がそれぞれ指揮をして入れているが、いずれもこの曲の雄大さと、一種の情熱には当らない。やむを得ずんばウィーン・フィルハーモニック管弦団を指揮した優麗なワルター指揮（コロムビアＪＳ二六―三〇）を採るべきであろうか。「第二交響曲＝ニ長調（作品七三）」は田園的な情趣を愛される。レコードは不思議に良いのがない。

「第三交響曲＝へ長調（作品九〇）」は、特色の少ないシンフォニーではあるが、私はこの健康な情熱を愛する。レコードは最近ワルターがウィーン・フィルハーモニック管弦団を指揮したのが入った（コロムビアＪＳ一五―八）。それは名演奏には相違なく、優雅で端麗でさえあるが、私は少し古いレコードではあるが、メンゲルベルクがコンセルトヘボウを指揮したレコード（コロムビアＪ八一五四―七）の愛情と<ruby><rb>覇気</rb><rt>はき</rt></ruby>を忘れ難いものと思っている。

「第四交響曲＝ホ短調（作品九八）」はブラームスの最後のシンフォニーで、一種の哲学的な悟入を思わしむる、不思議な深遠さを持つ。レコードは古い吹込みながらワルターがＢ・Ｂ・Ｃ管弦楽団を指揮したコロムビアを採るほかはあるまい（Ｊ八六一七―二一）。ただしこれは英国の管弦団でウィーンのそれに比べてかなりの隔りのあることを覚悟しなければなるまい。

「ハイドンの主題による変奏曲（作品五六ノＡ）」にはビクターにトスカニーニがニューヨーク・フィルハーモニック交響管弦団を指揮したレコードがある（ＪＤ一三二七―八）。「大学祝典序曲（作品八〇）」は面白い曲だが、良いレコードはない。ワルター指揮のコロムビア・レコード（ＪＳ一四）ぐらいがわずかに挙げられる。「悲劇的序曲（作品八一）」にもビーチャムがやや問題になるだけ。

## 協奏曲

「ピアノ協奏曲＝第一番ニ短調（作品一五）」、若さと純情さがあって、好ましい曲だ。ビクターにシュナーベル（ピアノ）とロンドン・フィルハーモニック管弦団をセールの指揮したのがある（ＪＤ一六七九―八四）。<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>の良い、しかも端麗な演奏である。

「ピアノ協奏曲＝第二番変ロ長調（作品八三）」はブラームスの円熟期のもので、壮麗を極める。ビクターにルービンシュタイン（ピアノ）とロンドン・フィルハーモニック管弦団をコーツの指揮したレコード（七二三七―四一）と、シュナーベル（ピアノ）とＢ・Ｂ・Ｃ交響管弦団をボールトの指揮したのがある（ＪＤ八三〇―五）。どちらも良いレコードで、野村光一氏はルービンシュタインの情緒と若々しさを挙げているのは面白い。私も同感だが、しかし常識的には、録音の新しくて典麗なシュナーベルを<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るのが本当だろう。なお、最近ホロヴィッツ（ピアノ）とトスカニーニのコンビによるレコードが出た（ビクターＶＤ八一八七―九二）。

「ヴァイオリン協奏曲＝ニ長調（作品七七）」はベートーヴェンのそれとメンデルスゾーンのそれに加え、三大ヴァイオリン協奏曲として有名だ。実際この曲の深さ、美しさ、気高さは言語に絶するものがあり、どんなブラームス嫌いも、この曲の前に帽子を脱がされるだろう。レコードではビクターにクライスラーのが新旧二種あり、<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>い方はベルリン国立歌劇場管弦団をブレッヒの指揮したもので（ＪＤ五三八―四二）、名品中の名品に属すべきものだが、何分にも吹込みが古い。新しい方はロンドン・フィルハーモニック管弦団をバルビロリの指揮したもので（ＪＤ九三七―四一Ｓ）、録音が鮮麗ではあるが、クライスラーの老は隠す由もなく、管弦楽も<ruby><rb>薄手</rb><rt>うすで</rt></ruby>で感興が低い。なお、ビクターにはハイフェッツの新盤もある（ＶＤ八〇五六―八）。

ほかにテレフンケンのクーレンカンプのが思いのほかに良いレコードである。なんと言ってもブラームスのヴァイオリン協奏曲などは大事な収集の一つであり、慎重に研究して選ぶべきである。

「複協奏曲＝イ短調（作品一〇二）」はヴァイオリンとチェロのための協奏曲で、ブラームスの最後の傑作の一つだ。ビクターにティボー（ヴァイオリン）、カサルス（チェロ）とコルトーがカサルス管弦団を指揮して入れたのがある（八二〇八―一一）。録音が非常に古いために、少し<ruby><rb>晦渋</rb><rt>かいじゅう</rt></ruby>になり過ぎているが、名演奏には相違ない。

## ソナタ

「ヴァイオリン・ソナタ＝第一番ト長調（作品七八）」は「雨の歌」と言われる曲だ。ブッシュ（ヴァイオリン）、ゼルキン（ピアノ）の良いレコードがある（ビクター七四八七―九）。この組合せのブラームスはもう一つ「ヴァイオリン・ソナタ＝第二番イ長調（作品一〇〇）」もあるが（ビクターＪＤ一五一―二）共に美しい。

「ヴァイオリン・ソナタ＝第三番ニ短調（作品一〇八）」はブラームスのヴァイオリン・ソナタのうちでの名品だ。ブラームスの堅実な良さ、――良き魂の発露であると言ってもよい。レコードはたくさんあるが、ビクターのコハンスキー（ヴァイオリン）、ルービンシュタイン（ピアノ）などが第一位に置かれるだろう（ＪＤ四一―三）。コハンスキーはこのレコードひと組だけを残して他界し、今は形見になってしまった。

「チェロ・ソナタ＝第一番ホ短調（作品三八）」にはコロムビアにフォイアマン（チェロ）とデル・パス（ピアノ）があり（Ｊ八三一七―九）、ビクターにピアティゴルスキー（チェロ）とルービンシュタイン（ピアノ）がある（ＪＤ九九三―五）。どちらにも得失はある。（チェロ・ソナタ＝第二番へ長調（作品九九）」のカサルス（チェロ）とホルスゾフスキー（ピアノ）のビクター・レコードは名演だ（ＪＤ一二二六―九）。

## 三重奏曲、四重奏曲、五重奏曲

「ピアノとヴァイオリンとホルンのための三重奏曲＝変ホ長調（作品四〇）」と書くと長いが普通にはホルンのトリオで通っている。ブラームスの若さが<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>う曲で、非常に美しい。レコードはビクターにゼルキン（ピアノ）、ブッシュ（ヴァイオリン）、ブレイン（ホルン）の演奏した名盤がある（ＪＤ五五四―七）。私の好きなレコードの一つだ。

「ピアノ三重奏曲＝ハ長調（作品八七）」はロマンティックで美しい。ヘス（ピアノ）、ダラーニ（ヴァイオリン）の二女流に甘美なカサド（チェロ）を加えたのがコロムビアの世界名盤集に入っている。

ブラームスのピアノ四重奏曲とピアノ五重奏曲には、<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>と情熱があって、非常に面白い。この形式がブラームスの性に合っていたというものだろう。

「ピアノ四重奏曲＝第一番ト短調（作品二五）」のルービンシュタイン（ピアノ）とプロ・アルテ弦楽四重奏団の組合せは（ビクターＪＤ四四四―七）、かなり録音の古いレコードだが、ルービンシュタインの華麗な技巧と、プロ・アルテの簡素な趣との食い違いから生ずる、ピアノに重点が傾き過ぎるきらいはあるにしても、原曲の面白さとルービンシュタインの張り切った演奏に引きずられて、私は良い記憶を持っている。

「ピアノ四重奏曲＝第二番イ長調（作品二六）」はさらに<ruby><rb>優艶</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>で、ビクターに入っているゼルキン（ピアノ）、ブッシュ（ヴァイオリン）、ドクトル（ヴィオラ）、ヘルマン・ブッシュ（チェロ）の演奏は均整のよさと、ブラームスに対する理解の深さで、前者に<ruby><rb>優</rb><rt>まさ</rt></ruby>っている（ＪＤ七六四―七）。

「弦楽四重奏曲＝第一番ハ短調（作品五一ノ一）」はブラームスの室内楽の良さと、そのくすんだ渋さを聴くがよい。レコードはレナー四重奏団とブッシュ四重奏団とあるが、私はやはりブッシュを採る（ビクターＪＤ一三四―七）。

「弦楽四重奏曲＝第二番イ短調（作品五一ノ二）」はレナーだけ（コロムビアＪ八〇二三―六）。

「ピアノ五重奏曲＝へ短調（作品三四）」はブラームス的な厳重な<ruby><rb>精緻</rb><rt>せいち</rt></ruby>な名曲だ。レコードには録音の古いのしかないが、ビクターのバウアー（ピアノ）と、フロンザリー弦楽四重奏団は有名なレコードであった（六五七一―五）。コロムビアにはレナー四重奏団とレベルト夫人（ピアノ）のがある。

「クラリネット五重奏曲＝ロ短調（作品二五）」はモーツァルトの同じ形式の曲と共に、二大宝玉の感がある。非常に美しく、非常に深々とした曲だ。レコードはコロムビアにレナー弦楽四重奏団とドゥレーパー（クラリネット）のがあり（Ｊ七六〇〇―四）、ビクターにはブッシュ弦楽四重奏団とケル（クラリネット）のがある（ＪＤ一五三四―七）。コロムビアのはもはや十二、三年前のもので、録音は<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ古いが、このクラリネットのドゥレーパーは名手で、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」の場合にも私はベニー・グッドマン以上だと書いたはずだが、ここでも吹込みの新しいビクターのケルより<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かにうまい。レコードの場合は、なんと言っても録音の新旧が大きい条件になるが、私は古い録音でも良いものは良いという例にこのレコードを掲げたい。もっとも、ブッシュとケルの組合せも決して悪いものではない。

## ピアノ曲

ブラームスはピアノ曲にも独自の境地を開いた。それは内面的で、<ruby><rb>雄勁</rb><rt>ゆうけい</rt></ruby>で、しばしば高踏的でさえあるが、世にも不思議な滋味と渋さとを持ったものである。

「ピアノ曲集」はバックハウスの演奏したブラームスの代表的な小曲を集めたもので（ビクターＪＤ五四五―五一）、おそらくブラームスのピアノ・レコードの最も良きものであり、<ruby><rb>手頃</rb><rt>てごろ</rt></ruby>なものであるだろう。内容はバラード四曲、狂詩曲二曲、スケルツォ一曲、インターメッツォ六曲、ハンガリー舞曲二曲、円舞曲三曲で、このバックハウスの演奏は見事だ。これほど円熟した技巧と、自信と、よき理解を持ってブラームスを<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>く人は<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>にあり得ない。少し枯淡で、無用の思い入れのないものも、ブラームスの演奏としてはかえって好感が持てる。

「パガニーニの主題による変奏曲」、これもブラームスの有名なピアノ曲だ。レコードはビクターにバックハウスがあり（七四一九―二〇）、コロムビアにペトリがある（ＪＷ七一―二）。どちらも技巧家だが、録音は古くともバックハウスの方に同情が持てる。

## 鎮魂曲、歌曲

ブラームスの「ドイツ<ruby><rb>鎮魂曲</rb><rt>レクイエム</rt></ruby>」はいろいろの意味において重要性をもつ。それは遠くシューマンを<ruby><rb>悼</rb><rt>いた</rt></ruby>み、<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に母の死を悲しむブラームスの真心から出たもので、ドイツ語で書かれた最初の鎮魂曲であり、かつ芸術的にきわめて高い価値を有するからである。レコードには宗教音楽の研究者にして指揮者なるゲオルク・シューマンの、ベルリン・ジング・アカデミー合唱団とベルリン国立歌劇場管弦団を指揮したのがビクターに入っている（Ｃ二三七七、二三八一―三）。これはドイツ鎮魂曲のほんの一部分であり、吹込みも古いが、演奏は立派なもので、全曲でなかったのが惜しまれる。Ｈ・Ｍ・Ｖにはもう少し入っているはずだが、日本でプレスされたのは以上の四枚だけである。

「アルト・ラプソディ（作品五三）」はゲーテの風景詩に作曲したもので、ブラームスの歌曲中でも傑出したものである。名アルト歌手オネーギンとクルト・ジンゲルの指揮した、ベルリン国立歌劇場管弦団のレコードがビクターに入っている。これもかなり古い録音だが、オネーギンの豊麗な声と手堅い技巧とは抜群で、ブラームスのレコード中でもきわめて貴重なものである（七四一七―八）。

一枚物の歌曲のうちから、最もすぐれたものを少し挙げると、

「寂しき野辺」（または、野の<ruby><rb>寂寥</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>）は<ruby><rb>野辺</rb><rt>のべ</rt></ruby>の静けさを歌ったブラームスらしい淋しい歌だ。日本ポリドールのカタログには見えないが、スレザークが絶品だ。続いて私はゲルハルト（ビクターＪＤ七五）とシュルスヌス（ポリドールＤ一一七）を採る。

「<ruby><rb>窓辺</rb><rt>まどべ</rt></ruby>に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りて」のゲルハルトを採るのは、私の懐古的な好みかも知れないが（ビクターＪＦ四）、ロッテ・レーマンの「五月の夜」（コロムビアＪ五四八三）と「我が恋は新緑の如く」（ビクターＪＥ三三）などは新緑の如く<ruby><rb>香</rb><rt>かぐ</rt></ruby>わしい演奏だ。この人にはほかにも三つ四つブラームスがあるがいずれも良い。

エリザベト・シューマンの<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な「子守歌」や（ビクターＪＥ六一）、夫君のピアノ伴奏の方が有名なテレーゼ・シュナーベルの「愛の誠」なども可愛らしい（ビクターＪＦ二〇）。が、それよりもバリトンのシュルスヌスの歌った「愛の歌」（ポリドール五〇〇三六）の方が遙かに優れている。

「サフォー<ruby><rb>頌歌</rb><rt>しょうか</rt></ruby>」はあまり良いレコードはないが、ナンシー・エヴァンスの「ジプシーの歌」（ポリドールＥ一二四―五）は異色あるものだ。

  


## 悲哀の権化チャイコフスキー

  


「悲しみこそ、真の<ruby><rb>歓喜</rb><rt>よろこび</rt></ruby>への前奏曲である」とかつて私は書いた。チャイコフスキーの音楽を特色づける、絶望的な悲哀感は、少しばかりセンチメンタルであるにしても、万人に愛し親しまれて五十年、その魅力を変えないのは、まさにそのためであると言っても差しつかえなかろうと思う。

チャイコフスキーの人の良さ、正直さ、気の弱さ、そしてチャイコフスキーの愛情の<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかさが、あの前人未踏の涙の芸術を生み、すべての人の心に、<ruby><rb>四沢</rb><rt>したく</rt></ruby>を<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>おす春の水のように<ruby><rb>沁々</rb><rt>しみじみ</rt></ruby>と行きわたるのであろう。まことに「涙に満ちた作品」ほど、われわれを慰めてくれるものはなかったのである。

言葉を<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>えて言えば、チャイコフスキーの泣き<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた姿――<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>と<ruby><rb>歔欷</rb><rt>きょき</rt></ruby>と<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>とに充ちた音楽――は常に我らのために――存分に泣くことをさえ許されない我らに代って――心から悲しむ姿であり、やがてそれは、悲しみの底の<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びと、絶望の果ての希望とを暗示するものでなくてなんであろう。

この意味においてバッハ以来の高度に発達した西洋音楽の分野においても、チャイコフスキーほど人間らしい存在はなく、チャイコフスキーの音楽ほど、我らに親しいものはない。チャイコフスキーの音楽に、一脈の大衆性のあるのは、その音楽の低俗さの証明ではなくて、かえって、<ruby><rb>気高</rb><rt>けだか</rt></ruby>さの結果であり、<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたるものの一般性のためであると言っても差しつかえはない。彼の「<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>の全音階を支配した」と言われた絶望の音楽の底には、言うに言われぬ<ruby><rb>温</rb><rt>あたた</rt></ruby>かさがあり、その悲嘆と<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>とのうちには、大きな光明への予感が芽ぐむのである。

バッハの神性は凡人に近づき易いものではなく、ベートーヴェンの激情は、一般大衆の経験を<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに絶したものである。しかし、わがチャイコフスキーの悲哀と絶望感にいたっては、何人も想像し得る境地であり、経験し難からざる感情である。われらは実生活において、悲しんで悲しみの底を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め尽し難き<ruby><rb>生温</rb><rt>なまぬる</rt></ruby>さを、チャイコフスキーの芸術を介することによって、始めて悲哀のドン底を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>き、浄化された悲哀の美しさを味うことが出来るのである。チャイコフスキーの音楽が万人に愛せられるは、万人の経験し易く、達し難き感情の極致を、きわめて容易に、そしてきわめて美しく描き出したためではなかったであろうか。

とにもかくにも、特殊の色彩と香気を持った音楽を知るために、しばらくその気の毒な伝記を見ることは、決定的に必要であることは言うまでもない。チャイコフスキーの音楽は、その性格に<ruby><rb>深々</rb><rt>ふかぶか</rt></ruby>と根ざした音楽だからである。

## 不幸の連続

ピョートル・イリッチ・チャイコフスキー（<em>Pyotr Il'yich Tschaikovsky</em>）は一八四〇年五月七日、<ruby><rb>鉱山技師</rb><rt>こうざんぎし</rt></ruby>の子として、ロシアのヴィアトカ県に生まれた。

彼はその少年時代に、天才的な<ruby><rb>華々</rb><rt>はなばな</rt></ruby>しい逸話を一つも作らなかったが、その心に根ざした音楽愛は、怠りがちな<ruby><rb>灌水</rb><rt>かんすい</rt></ruby>のうちにも、すくすくと伸びて、十九歳で法律学校を卒業し、司法省に奉職するようになってからも、音楽学校に通って好める道をいそしむことを忘れなかったほどである。

二足の<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>は、しかし長くは続かなかった。間もなく和声学の先生アントン・ルービンシュタインに<ruby><rb>説諭</rb><rt>せつゆ</rt></ruby>されて、気の乗らない仕事と縁を絶ち、音楽の研究に没頭するようになったのは十九歳の年であった。

ひとたびその天職に<ruby><rb>目覚</rb><rt>めざ</rt></ruby>めると、チャイコフスキーの<ruby><rb>精進</rb><rt>しょうじん</rt></ruby>は世にも目ざましいものであった。たまたま先生のアントン・ルービンシュタインが、作曲の練習課題として<ruby><rb>主題</rb><rt>テーマ</rt></ruby>を与え、なるべく多くの対位法的変奏曲を書くことを命ずると、せいぜい十二曲くらいを期待しているところへ、二百余りの変奏曲を作って、ルービンシュタインの<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶさせたことなどもあった。

一八六六年モスコーの音楽学校が開かれると共に、二十六歳のチャイコフスキーは、和声学の教師として<ruby><rb>赴任</rb><rt>ふにん</rt></ruby>した。校長さんはアントン・ルービンシュタインの弟のニコラス・ルービンシュタインで、月給の安過ぎたチャイコフスキーは、校長さんの家に寄食し、一年前大ヴァイオリニスト、ウィニアウスキーが忘れていった、ダブダブの<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>などを着て、得々として学校へ通っている<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな先生であった。

その頃の彼は、トルストイを読み、ディッケンズを読みもっぱら勉強と創作とにいそしんでいたが、友達付き合いは決して<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>ではなく、遊びごとなどもおそろしく<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>であったらしい。その代り相手から小言を言われても<ruby><rb>上機嫌</rb><rt>じょうきげん</rt></ruby>で我慢をし、攻撃されても決して自分を弁解したり<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>したりするようなことはなかった。先輩のルービンシュタインは<ruby><rb>辛辣</rb><rt>しんらつ</rt></ruby>な批評家で、遠慮<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>もなく、チャイコフスキーの作曲の<ruby><rb>揚足</rb><rt>あげあし</rt></ruby>を取ったが、それに腹を立てるようなチャイコフスキーでもなかったのである。

チャイコフスキーはその頃最初の交響曲第一番「冬の日の幻想」の作曲に没頭していたが、その仕事ぶりは注意深くて落ち着き払ったものであり、きわめて勤勉で、<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けんたい</rt></ruby>というものを知らなかった。チャイコフスキーのこの良き習性は、彼の少年時代を世話したフランス生まれの家庭教師のおかげで、チャイコフスキーが死ぬ一年前南部フランスに老を養っているこの老婦人を訪ねて慰めてやったことなどもあったようである。

「冬の日の幻想」が完成すると、チャイコフスキーはかつての先生達――アントン・ルービンシュタインやザレンバ――に見せて、おおいに<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>められるつもりでセント・ペテルスプルクへ<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えていった。が、その野心と希望ははかなくも<ruby><rb>粉砕</rb><rt>ふんさい</rt></ruby>されてしまった。ルービンシュタインやザレンバは<ruby><rb>苛酷</rb><rt>かこく</rt></ruby>な批評を下して、改作しなければ音楽協会の演奏番組に<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せるわけにはいかないと宣告した。チャイコフスキーの長い長い作曲生活を貫く、悲惨な<ruby><rb>躓</rb><rt>つまづ</rt></ruby>きの最初のものはこの小事件であったのである。

翌一八六七年、フィンランド<ruby><rb>飢饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>救済の慈善音楽会に、初めて自作の「下女の舞踏」を指揮し、全く<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>して失態を演じたが、楽団が曲をよく知っていたので、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわ</rt></ruby>いにも大過なきを得た。チャイコフスキーの<ruby><rb>指揮</rb><rt>しき</rt></ruby><ruby><rb>下手</rb><rt>べた</rt></ruby>はきわめて有名で、それから二十年間決して指揮棒を手にしなかったほどである。晩年はそれでも、<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に指揮することがあったが、他人の作曲を指揮するときなどは、身体を不自然にねじ<ruby><rb>屈</rb><rt>ま</rt></ruby>げて、どこか痛いところでもあるような表情をしたということである。チャイコフスキーの<ruby><rb>弱気</rb><rt>よわき</rt></ruby>は徹底的で、<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>に好い<ruby><rb>心持</rb><rt>こころもち</rt></ruby>になるなどはもってのほかのことであり、自分に集まる人気や讃辞さえも極度に恐れる風があった。

イタリー歌劇全盛のロシアで、チャイコフスキーの最初のロシア歌劇「ヴォイェヴェーダ」の上演はきわめて困難で、第二流、第三流の小屋でようやく発表されることになったが、お人よしに徹したチャイコフスキーは、歌手に<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいうことはおろか、その<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できばえ</rt></ruby>を批評することさえ出来ないほど<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>で、「早く上演が済んでくれればよい――」とそればかり念ずる<ruby><rb>有様</rb><rt>ありさま</rt></ruby>であった。ルービンシュタインはその<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>に出席したが、作曲者の手ぬるさに腹を立てて席を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>って退場してしまったほどである。歌劇「ヴォイェヴェーダ」の不成功に終ったことは言うまでもなく、チャイコフスキーは失望のあまり、その総譜をことごとく焼いてしまった。<ruby><rb>躓</rb><rt>つまづ</rt></ruby>きの三つ目はこんな形でチャイコフスキーの弱い心を<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げたのであった。

続いて「ロメオとジュリエット」は、音楽協会で演奏されたが、校長ルービンシュタインと生徒の間に<ruby><rb>悶着</rb><rt>もんちゃく</rt></ruby>が起り、演奏会は気違いじみた示威運動に葬られて、チャイコフスキーの音楽は<ruby><rb>滅茶滅茶</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>にされてしまった。これは第四の<ruby><rb>躓</rb><rt>つまづ</rt></ruby>きである。

歌劇「ウンディーン」の総譜は官吏の不注意で郵送中に失われ、数年後にチャイコフスキーの<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>に届いたりした。これは第五、第六の躓きである。

こうしてチャイコフスキーの青少年時代は際限もない失望の行列であった。後年かくも万人に愛され、没後<ruby><rb>憧憶</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>と愛着の花輪で飾られたチャイコフスキーが、そのスタートの悪さはなんということであろう。チャイコフスキーを無口にし、<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>にし「<ruby><rb>悲愴交響曲</rb><rt>パセティック・シンフォニー</rt></ruby>」を作らなければならぬ<ruby><rb>心持</rb><rt>こころもち</rt></ruby>にしたのは、こういう不幸の連続のためではなかったと誰が保証しよう。

## 非凡の弱気

<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めはチャイコフスキーに新たなる勇気と、新たなる題目を与えた。たまたま窓の外に歌う左官の歌に霊感を<ruby><rb>呼覚</rb><rt>よびさま</rt></ruby>されて、「弦楽四重奏曲第一番ニ長調」の有名な「アンダンテ・カンタービレ」を作ったりした。

チャイコフスキーが歌劇のある女優を愛したのは、その頃のことである。女優は美しくて才能と機知に恵まれていた。友人達が二人の間を祝福している頃、女優はチャイコフスキーのことなどは<ruby><rb>打忘</rb><rt>うちわす</rt></ruby>れて、ポーランドで一座の男の歌手と結婚してしまった。チャイコフスキーは怒るよりも驚いていた。次のシーズンに女優が、モスコーに現れると、チャイコフスキーは客席から遠く舞台の彼女を見て、すっかり感動して涙さえ流していた。

それからしばらく<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>って後、ルービンシュタインを訪ねたチャイコフスキーは、控室でハタと彼女に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ったことがある。チャイコフスキーは<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>蒼</rb><rt>さお</rt></ruby>になって<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>から飛び上り、彼女は驚きの声をあげて追い詰められた<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>のように、外へ逃げ出す<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を捜し始めた。チャイコフスキーの人の良さは、おおむねこの<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>である。

心血を注いだ劇音楽「雪娘」も不成功におわり、当時ロシア楽壇の支柱と思われていたルービンシュタイン<ruby><rb>兄弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>はチャイコフスキーの作品を無視して、少しの好意も示さなかった。「ヘ長調の四重奏曲第二番」は不満と<ruby><rb>蔑視</rb><rt>べっし</rt></ruby>を報いられ、大ピアニストなるアントン・ルービンシュタインの如きは、チャイコフスキーが献じた「一つの主題による六つの小曲」に対して、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうな顔もせず、公衆の前で演奏したことさえもなかった。

一八七三年、「第二シンフォニー」その他傑作が世に送られた。がそれも、友達に抗議されて不本意ながら重大な変更を余儀なくされ、同時に作曲した「<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>」が、異邦フランスのパリ博覧会で演奏され、熱狂的な喝采を博したことも<ruby><rb>皮肉</rb><rt>ひにく</rt></ruby>である。

「ピアノ協奏曲第一番変ロ短調」は先輩ニコラス・ルービンシュタインに献ずるつもりであったが、ルービンシュタインはチャイコフスキーがピアノのパートを書くとき、自分に忠告を求めなかったことを含んで、その作品に敵意をさえ示した。大勢の前でその曲を、わざと<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>く弾いているような調子で、さんざんこきおろし、温厚なチャイコフスキーもさすがに<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>に据えかねて、その曲をハンス・フォン・ビューローに献じた。その曲がボストンでビューローの手で初演され熱狂的な歓迎を受けたと聴いて、チャイコフスキーは、有金を全部<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて返電を打ったりした。

フォン・メック夫人はチャイコフスキーに静かな生活を与えて、作曲に没頭させるために年金を約束することを申し出た。一八七三年のことである。その申し出はメック夫人の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を隠して、逢っても<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしないというチャイコフスキーの<ruby><rb>身勝手</rb><rt>みがって</rt></ruby>な条件まで入れて成立し、チャイコフスキーは音楽学校の教職を退いて、閑静な地に三年間作曲生活を続けることが出来た。「第三交響曲」を始め、幾多の傑作がこの間に生まれ、チャイコフスキーの音楽生活はようやくここに安定と自信を得るに至った。

一八七六年には有名な「スラヴ行進曲」を書き、翌七七年には<ruby><rb>畢生</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の傑作歌劇「エウゲニ・オニエギン」を完成した。この歌劇が実演された暁、ロシア最大の、そして最も人気のある歌劇だと解って、「一番驚いたのはチャイコフスキー自身であった」と言われている。この歌劇は、ロマンティックで旋律が豊富で、少し甘美で、当時の好みに投ずるためにはまことに満点的であったと言ってよい。

チャイコフスキーに突如として不幸の<ruby><rb>訪</rb><rt>おと</rt></ruby>ずれたのは、一八七七年の初夏であった。それは友人全部に秘密にして行われた結婚で、その結婚の不幸におわった一例として、最も親しかった友人カシュキンでさえ、チャイコフスキー夫妻が<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>っているのを見たのは、たった一回だけであったと言っているほどである。

チャイコフスキーの結婚は、恐るべき不幸な<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>におわった。彼はますます無口になり、<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になり、その生活の重荷を振り払うために、霜の深い晩、川に<ruby><rb>漬</rb><rt>つか</rt></ruby>って自殺を企てたこともあった。

弟の<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいほう</rt></ruby>と保養の後に、チャイコフスキーは不思議に明るい「第四交響曲」を書き、「イタリー狂想曲」を書き、「第二ピアノ協奏曲」を書いた。わけてもナポレオンのモスコー侵入を描いた「序曲一八一二年」は、初演のとき太鼓の代りに大砲を放ったと言われ、通俗第一の有名な曲になったが、チャイコフスキーはその演奏をひどく迷惑がっていたことも事実である。

先輩にして<ruby><rb>畏友</rb><rt>いゆう</rt></ruby>なるニコラス・ルービンシュタインは一八八一年に死んだ。生前あんなにも無視され<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げられていたチャイコフスキーが、この人の思い出のために、美しくも悲しい名曲「偉大な芸術家の思い出に」と<ruby><rb>頭書</rb><rt>とうしょ</rt></ruby>した「ピアノ三重奏曲イ短調」を作ったことはあまりにも有名である。チャイコフスキーの<ruby><rb>情誼</rb><rt>じょうぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>さと、その人の好さは、この美しいトリオと共に千万年の後までも語り伝えられるだろう。

歌劇「マゼッパ」の初日には、その人気に驚いてモスコーを逃げ出すチャイコフスキーであった。一八八五年にクリンの町近く<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>住いをしていたときは、海水浴客の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>ピアノに<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>して逃げ出す彼でもあった。その頃のチャイコフスキーは、晩年のベートーヴェンのように、毎日散歩を欠かさず、出れば近所の子にせがまれてありったけの<ruby><rb>小銭</rb><rt>こぜに</rt></ruby>をやっていたが、その無意味な<ruby><rb>贈物</rb><rt>おくりもの</rt></ruby>が不道徳な行為だと友人に<ruby><rb>諌</rb><rt>いさ</rt></ruby>められて、ある日道を変えて宿へ逃げ帰るところを、<ruby><rb>斥候</rb><rt>せっこう</rt></ruby>を放った子供達に包囲されて、同行の友人にまで借りて散財をさせられたといったような、<ruby><rb>放図</rb><rt>ほうず</rt></ruby>のない人の好さを発揮したりした。

八六年に「第五交響曲」を書き、歌劇「スペードの女王」を完成した。舞踊曲「<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りの美人」と一代の傑作「<ruby><rb>胡桃割</rb><rt>くるみわり</rt></ruby>組曲」を世に示したのは一八九二年のことである。

## 憂鬱の総勘定

その頃から、強健なチャイコフスキーの肉体もようやく衰え、眼も次第に悪くなって来た。彼は二度目のクリンの町外れに居を定め、静寂な境地に、隠者らしい生活を続けていた。

「<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい炉辺に、勝ったことのない三番勝負にことごとく勝つことを望みなから――」と友人がその頃の彼の生活を記録している。

その境遇のうちに、最後の天才の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>は、六度目のシンフォニー「<ruby><rb>悲愴</rb><rt>パセティック</rt></ruby>」として燃え上ったのである。この作には一八九三年八月三十一日と日付が書かれている。彼が出版者に出した手紙に、「他のどの作品よりも自信がある」と書いたシンフォニー、一度は「標題交響曲」と命じながら、弟の注意で「<ruby><rb>悲愴交響曲</rb><rt>パセティック・シンフォニー</rt></ruby>」と命名し直したシンフォニー、これこそは、チャイコフスキーの<ruby><rb>全生涯</rb><rt>ぜんしょうがい</rt></ruby>の総決算で、その自伝であると言われ、一方にはまたその救いのない絶望感のために、「死の予感」があると言われた不思議な傑作である。

この曲はチャイコフスキーの生まれながらの<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>の総勘定であり、高度の悲劇的緊張をもって終始したものであり、人の知らない苦痛への掘り下げであり、人間のあらゆる希望に終りという封印を<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>したものであると言われている。このシンフォニーを聴く者は、どんな絶望と悲嘆に<ruby><rb>沈湎</rb><rt>ちんめん</rt></ruby>する者でも、「まだしも自分は幸福であった」と感ずるであろう。チャイコフスキーの悲嘆は、それほど深刻にして救いのないものだったのである。

「<ruby><rb>悲愴</rb><rt>パセティック</rt></ruby>シンフォニー」がモスコーで演奏された日チャイコフスキーの不慮の死は伝えられた。一部に自殺説もあったが実際には<ruby><rb>生水</rb><rt>なまみず</rt></ruby>を飲んでコレラにかかったためであった。「悲愴シンフォニー」の演奏を聴いた人々は、作曲者チャイコフスキーの<ruby><rb>訃報</rb><rt>ふほう</rt></ruby>を耳にして、涙を流しながら<ruby><rb>銘々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の家路に向った。それは一八九三年十一月六日のことである。

チャイコフスキーの音楽の良さは、誰にでも理解される悲哀の美しさを描いた点である。彼の<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>さは、幾分世紀末的であったにしても、邪念も、誇示も、<ruby><rb>粉飾</rb><rt>ふんしょく</rt></ruby>も小細工もない正直さと、そのむき出しの哀愁は、人の心にひしひしと浸透してやまない。「<ruby><rb>胡桃割</rb><rt>くるみわり</rt></ruby>」や「第四交響曲」のような明るい曲を書いても、チャイコフスキーには、<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>うことの出来ない悲哀感がその底に流れているのである。

チャイコフスキーには、ロシア的な<ruby><rb>泥臭</rb><rt>どろくさ</rt></ruby>さと野蛮な情熱は少しもない。彼はあくまでヨーロッパ的で、ロマンティックで、バイロン的であるとさえ言われている。その感じ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い美しい情緒は、どんな<ruby><rb>頑</rb><rt>かたく</rt></ruby>なな心をも動かさずにはおかないだろう。

  


## チャイコフスキーの作品とそのレコード

チャイコフスキーの一般的な人気は、おそらくベートーヴェンに次ぐものがあるだろう。その支持者の大部分は言うまでもなく大衆層ではあるが、それだけチャイコフスキーの音楽は多く<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>かれ、親しまれ、そして万人の胸に食い入るものがあるとも言えるのだろう。

チャイコフスキーをかくも親しみ深いものにしたのは、その音楽が思いのほか<ruby><rb>衒気</rb><rt>げんき</rt></ruby>がなく、感傷的で、直情的で、甘さと人の好きを露骨に表現しているばかりでなく、その形式が<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>されたヨーロッパ風であるにもかかわらず、その情緒は土臭いロシア民族のもので、独特の美しい旋律と、全体を特色づける哀愁が漂っているためであろうと思う。チャイコフスキーの良さはつまりは悲劇の良さであり、その人の良さがすべての作品に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み出すためでなければならない。

## 交響曲

六つのシンフォニーのうち、「交響曲第四番＝ヘ短調（作品三六）」はチャイコフスキーにしては明るい曲で、ストコフスキー、メンゲルベルク、クーセヴィツキーなどが指揮しているが、ストコフスキーとメンゲルベルクの吹込みが古く、クーセヴィツキーのは演奏が<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちず、ここに挙げるほどのレコードはない。

「交響曲第五番＝ホ短調（作品六四）」は壮麗で<ruby><rb>優</rb><rt>ゆう</rt></ruby>にやさしい。ストコフスキーがフィラデルフィア管弦団を指揮したのが名盤だ（ビクターＪＩ七四―九）。これは映画「オーケストラの少女」で<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の深い曲でもある。

「交響曲第六番ロ短調＝<ruby><rb>悲愴</rb><rt>ひそう</rt></ruby>（作品七四）」はチャイコフスキー<ruby><rb>畢世</rb><rt>ひっせい</rt></ruby>の大傑作で、これが完成後間もなく死んだために、「死の予感」だとも言われている。非常に感傷的で、絶望的な悲哀感が全曲に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>る。コロムビアに入っているフルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニック管弦団を指揮したレコード（ＪＳ三一―六）が名盤で、<ruby><rb>慟哭的</rb><rt>どうこくてき</rt></ruby>な悲愴美が、<ruby><rb>背</rb><rt>そびら</rt></ruby>に迫るものを感ずる。もう一つテレフンケンに入っているメンゲルベルクがコンセルトヘボウ管弦団を指揮したレコード（二三六八一―五）も、これに<ruby><rb>相並</rb><rt>あいなら</rt></ruby>ぶ情熱的な名演奏だ。この辺のレコードはいずれをいずれとも言い難いだろう。

## 管弦楽曲

舞踊組曲「<ruby><rb>胡桃割</rb><rt>くるみわり</rt></ruby>人形（作品七一ノＡ）」には、チャイコフスキーの童心と人の好きが<ruby><rb>躍如</rb><rt>やくじょ</rt></ruby>としている。美しく可愛らしい曲だ。レコードはストコフスキーがフィラデルフィア管弦団を指揮したのが決定的に良い（ビクターＪＤ六〇一―三）。

序曲「一八一二年（作品四九）」はナポレオンのモスコー侵入を題材とし、初演のとき太鼓の代りに大砲を撃ったという逸話と共に、通俗的には最もよく知られている曲だ。少しアメリカの<ruby><rb>成金好</rb><rt>なりきんごの</rt></ruby>みだが、「ラ・マルセイエーズ」と「神、<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>の民を<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>れ」と仏露の国歌が<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>み合うといったケレンが一般に受けるのであろう。ストコフスキーの指揮したビクター・レコード（ＪＤ一三九九―四〇〇）と合唱付のポリドール・レコード（Ｅ二二一―三）が良いだろう。後者はキッチン指揮、ベルリン・フィルハーモニック管弦団、ウラル・コサック合唱団の演奏だ。

ほかに、序曲「ロメオとジュリエット」、序曲「ハムレット」、「スラヴ行進曲」、「イタリー狂想曲」、舞踊組曲「白鳥の湖」、同「眠れる森の美人」などのレコードがあるが、そんなに面白いものではない。

## 協奏曲

「ヴァイオリン協奏曲＝ニ長調（作品三五）」は、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスの三大ヴァイオリン協奏曲に次ぐ傑作とされている。チャイコフスキーらしい<ruby><rb>優婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>な旋律と、技巧のむずかしいことで有名な曲だ。レコードでは、エルマン、ハイフェッツ、クーレンカンプ等かなりたくさん入っているが、私は録音は古くとも十数年前のフーベルマン（ヴァイオリン）とベルリン国立歌劇場管弦団をシュタインベルヒの指揮したコロムビア・レコードに未練を持っている（Ｊ七五五〇―三）。ハイフェッツは技巧征服的で、エルマンも昔の<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>はない。この曲はやはり、<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>たる歌に満ちた演奏で、そのくせ<ruby><rb>歯切</rb><rt>はぎ</rt></ruby>れの良いものでなければいけない。

「ピアノ協奏曲第一番＝変ロ短調（作品二三）」はチャイコフスキーの傑作の一つで、前者がヴァイオリンの難曲であると共に、これはピアノの難曲として知られている。レコードではルービンシュタイン（ピアノ）とロンドン・フィルハーモニック管弦団をバルビロリの指揮したのが<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れている（ビクターＪＤ六七―七〇）。コロムビアのペトリはこの場合にも、技巧倒れがして面白くない。

## 三重奏曲、四重奏曲

「ピアノ三重奏曲イ短調＝偉大な芸術家の思い出（作品五〇）」は、ニコラス・ルービンシュタインを<ruby><rb>弔</rb><rt>とむら</rt></ruby>った曲で、非常に親しみの深い、哀愁を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えた優雅な曲だ。メニューイン<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>とアイゼンベルク（チェロ）の合奏が<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れている（ビクターＪＤ一一七八―八三）。このチェロは若くて有望な人だ。

有名な「アンダンテ・カンタービレ」を含む「弦楽四重奏曲第一番＝ニ長調」の全曲レコードのないのが惜しい。

## その他

「三頭立の<ruby><rb>橇</rb><rt>そり</rt></ruby>」はラフマニノフのピアノが名演奏だ。旧盤以来三度も吹込まれている（ビクターＪＤ一六九五）。

他に「悲しき円舞曲」のピアティゴルスキー、「<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>なるセレナーデ」のエルマンなどがある。

  


## ドヴォルシャークの郷愁

  


特に音楽を熱愛し、音楽を研究する者とは言わない。いやしくも音楽に関心と興味を持つ者にして、<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>なるヴァイオリンの小曲「ユモレスク」と、美しくも<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れ深きシンフォニー――郷愁と哀歌とにみち<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れる「新世界」を知らない人があるだろうか。

その作曲者アントニン・ドヴォルシャークこそは、最も人間臭き存在として、――神話的天才とはおよそ縁遠い作曲者として――、チャイコフスキーやグリークや、と共に、<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての人に親しまれ、その哀切優麗なる音楽は、絶えず我らの身近に息づいていくことであろう。ドヴォルシャークの名を思い浮べて、静かに眼を閉じることによって、私は「<ruby><rb>新世界交響曲</rb><rt>ニュー・ワールド・シンフォニー</rt></ruby>」の第二楽章ラルゴーに出て来る有名な旋律を<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>と聴く<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>がするのである。アメリカ滞在中のドヴォルシャークが、黒人の<ruby><rb>祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>の歌から暗示を得たとも言い、あるいは遠く故郷ボヘミアを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>んで、その民謡を採り入れたとも言われる、世にも美しく、絶え入るばかりに<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れ深い調べが、<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>の郷愁となって、聴く者を涙させずにはおかないのである。

その他、「ドゥムキー<ruby><rb>三重奏曲</rb><rt>トリオ</rt></ruby>」がある。「アメリカン<ruby><rb>四重奏曲</rb><rt>カルテット</rt></ruby>」がある。「スラヴ舞曲」がある。「チェロの<ruby><rb>協奏曲</rb><rt>コンチェルト</rt></ruby>」がある。ドヴォルシャークの曲のすべてが清らかな魂と、正直な心と、豊かな人間愛と、そして優しき<ruby><rb>郷愁</rb><rt>ノスタルジア</rt></ruby>とに<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>られぬはない。シューベルトやモーツァルトのような天才でなく、ベートーヴェンやワグナーのような超人でなくとも、それはいっこうに差しつかえはない。ドヴォルシャークは常に我らと共に生活し、我らと共に悲しみ、我らと共に歌っているではないか。それでよい。それが一番よいのである。ドヴォルシャークの<ruby><rb>郷愁</rb><rt>ノスタルジア</rt></ruby>に聴き入って涙するのはわれわれ音楽鑑賞者の最もよき法悦であり、人の世の音楽の、最も清らかな<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>でもあるからである。

## 築き上げた成功

アントニン・ドヴォルシャーク（<em>Antoín Dovořák</em>）は一八四一年九月八日、昔のボヘミア、後のチェコのミュールハウゼンに生まれた。父は肉屋に<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>を兼業し、少しばかり音楽の<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みもあったらしく、旅籠屋にはときどき<ruby><rb>田舎回</rb><rt>いなかまわ</rt></ruby>りの音楽団や、安オペラなどが泊ることがあり、村の興行話でもまとまると、旅籠屋の庭でさっそくの<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>が始まるのも決して珍しいことではなかった。

幼いドヴォルシャークは、その演奏を聴いてどんなに音楽愛を鼓舞されたことか。やがて自分から進んで村の小学校の先生にヴァイオリンと唱歌を学び、生涯を託した「音楽」へのスタートを切ったのである。

ボヘミアは昔から音楽の国と言われている。イタリー人が歌うことに<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れているように、ボヘミア人はヴァイオリンをひくことに<ruby><rb>堪能</rb><rt>たんのう</rt></ruby>で、「旅人がボヘミアで<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>う人の二番目はヴァイオリン弾きだ」とも言われ、「ボヘミア人はヴァイオリンさえあれば<ruby><rb>牢獄</rb><rt>ろうごく</rt></ruby>もまた楽し」とも言われている。小さいドヴォルシャークが、田舎回りの音楽団や、小学校の先生から仕込まれた音楽的訓練を、日本流に低いものと考えてはいけない。

十二歳のとき、あまり遠くないツローニックの町へ行って<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>の監督の下に教会のオルガン弾きに師事し、ようやく本格的な音楽教育を受けることになった。オルガンやピアノの奏法から基礎的な理論、和声学等異常な熱心で修得し、さらにカムニックで一年の修業を積んで父の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に帰った。

幾年ぶりの帰郷に、音楽修業をしたドヴォルシャークは、当然<ruby><rb>郷党</rb><rt>きょうとう</rt></ruby>に示す<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>がなければならなかった。ちょうどそのとき、町に祭礼があったので、若くて野心的な町の作曲家ドヴォルシャークは、新作の「ポルカ」を町の楽隊に提供して演奏してもらうことになった。期待と得意にワクワクしているドヴォルシャークと、それを取巻く人々の前に、ポルカは<ruby><rb>嚠喨</rb><rt>りゅうりょう</rt></ruby>と鳴り響いた――いや、鳴り響くはずであったが、いきなり音楽は調子<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れの不協和音に混乱させられて、驚き騒ぐ人々の前にその醜い音楽はおわってしまった。あとで指揮者が調べてみると、Ｆのトランペットの譜が実際演奏されるように書くべきのを、ドヴォルシャークの不用意と無知のために、原調のまま書かれてあったことが解り、若い町の作曲家は穴へでも入りたいような<ruby><rb>恥</rb><rt>はじ</rt></ruby>をかかなければならなかった。

しかし、ドヴォルシャークは、それっきり<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めるような少年ではなかった。自分の無知と不注意とに気がつくと、一段の勇猛心を振い起して、ひたむきに音楽修業へと志したのである。父親がその<ruby><rb>無謀</rb><rt>むぼう</rt></ruby>らしい望みを容易に許さなかったのも無理のないことであった。ポルカさえ満足に作れない<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>は、やはり<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>で、<ruby><rb>親譲</rb><rt>おやゆず</rt></ruby>りの肉屋と旅籠屋を経営していく方が無事らしく見えたのである。

数か月にわたる議論と<ruby><rb>懇願</rb><rt>こんがん</rt></ruby>と、<ruby><rb>叱責</rb><rt>しっせき</rt></ruby>と<ruby><rb>慰撫</rb><rt>いぶ</rt></ruby>とが続いた後、父親もとうとうわが子の熱心に動かされずにはいなかった。十六歳の少年ドヴォルシャークは、ようやく<ruby><rb>笈</rb><rt>きゅう</rt></ruby>を負うて首都プラハに<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>き、ボヘミア教会音楽協会のオルガン学校に入学し、本式に音楽修業にいそしむことが出来たのである。だが、父の意に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>いて上京した子は、<ruby><rb>潤沢</rb><rt>じゅんたく</rt></ruby>な学費を恵まれるわけにいかず、それに加えて、父の家業も思わしくなかったために、送金は<ruby><rb>途絶</rb><rt>とだ</rt></ruby>えがちであった。ドヴォルシャークは少年時代に<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>したヴァイオリンを役立てて、<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>くも餓えを<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎながら勉強を続けるのほかはなかった。その苦学は若いドヴオルシャークの骨身に徹したことは想像に難くない。カフェーでヴィオラを弾き、病院でオルガンをひき、ただより高き音楽への<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れを持ち続けて三年の課程をおえたのである。

二十一歳のドヴォルシャークは、プラハに<ruby><rb>建</rb><rt>た</rt></ruby>てられた国民劇場の楽員に採用され、ボヘミア国民音楽の祖とも言うべき、スメタナの指揮の下にヴィオラの奏者として働きながら、スメタナの<ruby><rb>開拓</rb><rt>かいたく</rt></ruby>したボヘミアの国民音楽建設のために、その生涯を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げ尽す基礎を定めたのである。

ドヴォルシャークは――繰り返して言うが、決して花々しい天才型の人間ではなかった。長い間の修業と用意の後、<ruby><rb>蛹</rb><rt>さなぎ</rt></ruby>から蝶への大飛躍を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げたのは、実に三十二歳の時で、その年彼の歌劇「王と坑夫」が国民劇場で上演され、さらに国民的な要素を持つ交響曲が発表されて彼の名は次第に高められ、楽壇の視聴を集めるようになってきたのである。

三十三歳のとき結婚したドヴォルシャークは、<ruby><rb>新世帯</rb><rt>しんじょたい</rt></ruby>の貧しさを、長く<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めるには及ばなかった。翌一八七五年彼が三十四歳の年、オーストリアの美術省は、厳重な審査の後、ドヴォルシャークのために、わずかばかりではあったが年金を下付することになったのである（その頃ボヘミアはオーストリアの治下にあった）。

その年金制定委員の中に、ブラームスのあったことが、なんというドヴォルシャークの幸福であったことだろう。<ruby><rb>慧眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>なブラームスは、審査作品中に交ったドヴォルシャークの作品を見て、その中に盛られたボヘミア音楽の特性と、その特性を<ruby><rb>把握</rb><rt>はあく</rt></ruby>した<ruby><rb>叡智</rb><rt>えいち</rt></ruby>と詩情を見抜いて一等に推し、さらにドヴォルシャークに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って、その作品の発表を援助し、ボヘミアの無名青年作曲家は傑作の一つなる「スラヴ舞曲」を出版して、一挙全欧に盛名を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せるようになったのである。後進に対するブラームスの親切さは、かつてブラームスがシューマンに受けたところのものを学んだのでもあろう。美しい音楽逸話の一つとして語り伝えられている。

リストもビューローも続いてドヴォルシャークを紹介し、その名が<ruby><rb>喧伝</rb><rt>けんでん</rt></ruby>すると共に、プラハの音楽院はさっそく作曲法の教授として彼を迎えた。その幸運の<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばはブラームスのおかげであったにしても、結局はドヴォルシャークの長い努力の<ruby><rb>賜物</rb><rt>たまもの</rt></ruby>で、まことに見事な大器晩成ぶりであったと言ってよい。ドヴォルシャークの名は新旧大陸に伝わり、一八八四年には英国の招きに応じて自作「聖母は悲しみに立ち給う」を指揮するためにロンドンに渡り、翌年はバーミンガム音楽祭のために新作し、その翌年は再び英国に渡って、自作の<ruby><rb>聖譚曲</rb><rt>オラトリオ</rt></ruby>を指揮し、一八九一年にはケンブリッジ大学から音楽博士の称号を受けた。一八九二年五十一歳のドヴォルシャークは、招かれてアメリカに<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>き、ニューヨーク国民音楽院の芸術校長となり、一八九五年まで、滞米三年に及んで、その間一代の傑作、「<ruby><rb>新世界交響曲</rb><rt>ニュー・ワールドシンフォニー</rt></ruby>」が作曲された。

## 尊き郷愁

ベートーヴェンの苦悩と、<ruby><rb>克服</rb><rt>こくふく</rt></ruby>と、闘争と、勝利との記録とも言うべき大シンフォニー、ブラームスの厳重な形式に託した、<ruby><rb>雄渾蒼古</rb><rt>ゆうこんそうこ</rt></ruby>なシンフォニーを除けば、チャイコフスキーの「<ruby><rb>悲愴</rb><rt>パセティック</rt></ruby>シンフォニー」と、ドヴォルシャークの「<ruby><rb>新世界</rb><rt>ニュー・ワールド</rt></ruby>シンフォニー」ほどわれわれに親しく話しかけ全人類の悲しみとも喜びともなるシンフォニーはなかったであろう。

ドヴォルシャークは引込思案で<ruby><rb>厭人的</rb><rt>えんじんてき</rt></ruby>であった。わけても<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかな社交や、儀礼に<ruby><rb>縛</rb><rt>しば</rt></ruby>られる応酬などは、ボヘミアの土の中に生まれたドヴォルシャークの、とても<ruby><rb>我慢</rb><rt>がまん</rt></ruby>の出来ないことであったらしい。そのうえ優しい心の持主なる作曲者は、ニューヨークの生活の圧迫に堪え兼ねて、<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>し<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>きホームシックに悩まされ、<ruby><rb>憂悶</rb><rt>ゆうもん</rt></ruby>の日を送ることが多かったのである。

少しの余暇があると、ドヴォルシャークはアイオア州のスピルヴィルに逃げ込んでしばらく郷愁を慰めるのを常とした。そこはボヘミア人が大勢群居している部落で、風俗も習慣も言葉までがボヘミアそのままであった。ドヴォルシャークはその環境を愛し、ボヘミアらしい空気の中にひたって、僅かに弱い心を打ちひしぐ<ruby><rb>郷愁</rb><rt>ノスタルジア</rt></ruby>を慰めていたのである。

そのアイオア州の閑居で、ドヴォルシャークは傑作「<ruby><rb>新世界</rb><rt>ニュー・ワールド</rt></ruby>シンフォニー」を完成したのである。<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる中部大草原の中に、新大陸の<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかさの底に<ruby><rb>裏淋</rb><rt>うらさび</rt></ruby>しさを感じ、黒人の生活もつぶさに見聞して、故郷ボヘミアに思いを<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せながら、あの曲を書いたのであろう。従って、「<ruby><rb>新世界交響曲</rb><rt>ニュー・ワールドシンフォニー</rt></ruby>」には<ruby><rb>黒人霊歌</rb><rt>ニグロ・スピリチュアルス</rt></ruby>の旋律が<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り入れてあると言われ、多くの人はそれを信じているが、ドヴォルシャーク自身は「インディアンまたはアメリカの旋律を使用しているなどはでたらめも<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしい」と言い、この曲の旋律はアメリカのものではなくて故郷ボヘミアのものであると断言し、あるいはロシアの一地方のものとの説をなすものさえある。

とにもかくにも、「<ruby><rb>新世界交響曲</rb><rt>ニュー・ワールドシンフォニー</rt></ruby>」を特色づける郷愁は、ドヴォルシャークの個性的なもので、私はむしろドヴォルシャークのあらゆる作曲に、これを観取し得ることを強調したい。従ってこれを、黒人がその故郷アフリカに対する血の<ruby><rb>郷愁</rb><rt>ノスタルジア</rt></ruby>と見るもよく、アメリカインディアンの、白人到来以前の大草原に対する郷愁と言うも<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げず、また、ドヴォルシャークが故郷ボヘミアに対する、やるせなき郷愁と観じていっこう差しつかえないわけである。善良で、<ruby><rb>弱気</rb><rt>よわき</rt></ruby>で、人間と自然とを愛せずにいられなかったドヴォルシャークは、「新世界交響曲」その他の作曲において、「人類の原始生活へのあこがれ」を描いたものとしても<ruby><rb>首肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>けるものがあると思う。社交と、偽善と、虚礼と、<ruby><rb>駈引</rb><rt>かけひき</rt></ruby>と、<ruby><rb>繁雑</rb><rt>はんざつ</rt></ruby>きわまる現代生活は、ドヴォルシャークにとっては、相当<ruby><rb>荷厄介</rb><rt>にやっかい</rt></ruby>なものであったに違いない。<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>な生活への復帰を願うドヴォルシャークの心が、この郷愁となって、<ruby><rb>幾多</rb><rt>いくた</rt></ruby>傑作を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>し、ともすれば虚偽と繁雑とに<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き込まれて、人間本来の美しき姿を失わんとするものへのよき警告となったのであろう。私はそう解して、ドヴォルシャークの作曲に<ruby><rb>尊</rb><rt>とうと</rt></ruby>さを<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>し、その郷愁に涙するのである。

## 美と愛と光明

ドヴォルシャークの音楽は、古典的な形式美と、ロマンティックな優しい心情とのよき結合であり、一つ一つを支配する気分は「ものの<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れ」である。ものの哀れが東洋芸術の<ruby><rb>精随</rb><rt>せいずい</rt></ruby>であることは言うまでもない。ドヴォルシャークが、<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>なアメリカ人にも、<ruby><rb>理屈</rb><rt>りくつ</rt></ruby>好きのヨーロッパ人にも、<ruby><rb>瞑想的</rb><rt>めいそうてき</rt></ruby>な東洋人にも喜ばれるのはそのためである。ドヴォルシャークの郷愁が、アメリカ訪問によってインディアンや黒人から学んだというのは、アメリカ訪問以前のドヴォルシャークの作品にも同じ郷愁と「ものの哀れ」の漂っていることを知らない人の言い分である。

ドヴォルシャークの曲は、一編ごとに<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかな人間愛が<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ、<ruby><rb>温</rb><rt>あたた</rt></ruby>かさと美しさが行き渡っている。あえて「新世界交響曲」ばかりを言う必要はない。「スラヴ舞曲」にも「チェロの協奏曲」にも「ヴァイオリン協奏曲」にも「アメリカン四重奏曲」にも、豊かな、人間愛と――愛しても愛し切れない、愛の余剰に悩む郷愁が味わわれるのである。近頃世界の音楽が、<ruby><rb>猥</rb><rt>みだ</rt></ruby>りに新奇を追うに急で、必ずしも美しいとは限らないものになろうとしている。が、一般人にとって、「美しからざるになんの音楽ぞや」である。美しさと<ruby><rb>温</rb><rt>あたた</rt></ruby>かい人間愛に恵まれていればこそ、芸術はいつの世までも栄えていくのである。チャイコフスキーやドヴォルシャークの音楽は、現代の<ruby><rb>尖端人</rb><rt>せんたんじん</rt></ruby>にとって、あるいは甘すぎるかもしれないが、近代フランスの頽廃的な傾向を有するある種の新音楽や、アメリカの狂騒なジャズに比べて、人間生活を豊かにし、人の魂に寄与する力は同日をもって語ることは出来ない。<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>音楽は、優しい魂と美しい技巧をもって作られたものを第一とすべきであることに論はないのである。

一八九五年故郷ボヘミアに帰ったドヴォルシャークは、プラハ音楽院に作曲学を教え、後、校長として<ruby><rb>令名</rb><rt>れいめい</rt></ruby>を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せ、一音楽家にして上院の終身議員となり、功成り<ruby><rb>名</rb><rt>な</rt></ruby><ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げて一九〇四年五月一日六十三歳をもって没した。

その優しい魂は「<ruby><rb>新世界</rb><rt>ニユー・ワールド</rt></ruby>シンフォニー」と共に、「ユモレスク」と共に、<ruby><rb>永</rb><rt>なが</rt></ruby>く全世界の人の心に美と愛と光明とをもたらすであろう。

  


## ドヴォルシャークの作品とそのレコード

「新世界交響曲」以外はあまり良いレコードはない。が、ドヴォルシャークは、この曲一つだけでも世界中の人に親しまれるだろう。

「交響曲第五番＝ホ短調（新世界より）」、このレコードはストコフスキーがフィラデルフィア管弦団を指揮したのが決定的に良い（ビクターＪＤ六六五―九）。

第二交響曲とこの第五の新世界交響曲を、ドヴォルシャークの故国ボヘミアで、ターリッヒとセールという人がそれぞれチェコ・フィルハーモニック管弦団を指揮して入れたビクター・レコードもあるが、それはやはり郷土的ななつかしさが特色とされるだけのものだ。

「チェロ協奏曲＝ロ短調（作品一〇四）」はドヴォルシャークの傑作の一つ、哀愁がなつかしい。カサルスのチェロにセールがチェコ・フィルハーモニック管弦団を指揮して入れたのがある（ビクターＪＤ―一一八七―九一）。チェロの名盤の一つだ。同じ曲をフォイアマンのひいたのがコロムビアに、カサドのひいたのがテレフンケンにあり、それぞれ良いが、やはりこれはカサルスのものだろう。

「弦楽四重奏曲第六番目＝へ長調（ニガー）」は新世界交響曲と同工異曲のものだ。コロムビアのロート弦楽四重奏団のが（ＪＷ二五七―九）少し淡々としているが良い演奏だ。ほかにレナー四重奏団のもある。

「ピアノ三重奏曲＝ホ短調（ドゥムキー）」も<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な有名な曲だが、エリー・ナイ三重奏団（ポリドール四五二六二―五）以外に良いレコードはない。

「ピアノ五重奏曲＝イ長調（作品八一）」にはシュナーベルとプロ・アルテ四重奏団のがある（ビクターＪＤ三三四―七）。立派だが少し気が乗らない演奏だ。

## その他

管弦楽曲には、序曲「謝肉祭」、「スラヴ舞曲」などがある。「スラヴ舞曲」はターリッヒ指揮でチェコの管弦楽団がかなり入れている（ビクターＪＨ一四九―五二、ＪＫ四六―五〇）。独特のローカル・カラーがあるばかりでなく、演奏も悪くない。

「ユモレスク」はヴァイオリンに編曲したのが有名だ。「インディアン・ラメント」と共に、これはクライスラーのものだ。

  


## 印象派の勝利ドビュッシー

  


クロード・ドビュッシーは、古い法則から音楽を決定的に解放した。

フランスにおける印象主義の創始者という意味で、ドビュッシーはしばしば画家のマネーやモネーに比較される。しかし、それは間違いではないにしても、いくらか<ruby><rb>桁</rb><rt>けた</rt></ruby>の違った比較ではあるまいか。ドビュッシーの音楽界における業績は、マネーやモネーの絵画界における業績よりも遙かに革新的で、その作品も遙かに魅力的である。

ドビュッシーの音楽の特質に対して、おおざっぱに「形式上のほとんど絶対的な自由さ」と、「卑俗への神経質な恐怖」と、「和声的効果の過度なまでの探求」の三か条が<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げられている。ドビュッシーの音楽には伝統的形式や、支配的な<ruby><rb>均衡</rb><rt>シンメトリー</rt></ruby>は一つもない。彼はあらゆる音楽上の<ruby><rb>遺産</rb><rt>いさん</rt></ruby>を<ruby><rb>取除</rb><rt>とりの</rt></ruby>けて、全く自由に<ruby><rb>振舞</rb><rt>ふるま</rt></ruby>わなければ承知しなかったのである。古い形式はことごとく<ruby><rb>破棄</rb><rt>はき</rt></ruby>されて、彼自身のオリジナリティの上に厳として立ったのである。

ドビュッシーの音楽には<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>な身振りで、予想通り復帰する歌は一つもない代り、煙の如く<ruby><rb>模糊</rb><rt>もこ</rt></ruby>たる音響――和声の柔らかな織物の上を、花飾を<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>しながら消えも入り相なメロディは動くのである。そこにはワグナーの征服的な<ruby><rb>有頂天</rb><rt>うちょうてん</rt></ruby>さも、フランクの理知的な要素も、ロマン派の作曲者達の<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>じみた情熱もない。<ruby><rb>洗練</rb><rt>せんれん</rt></ruby>された近代フランス人の「<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>な朗らかさ」が、大気のように軽く、<ruby><rb>虻</rb><rt>にじ</rt></ruby>のように鮮麗に、そして夢のように<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>なく動くのである。

印象主義の勝利は多難であったにしても、彼はこうして、近代音楽の上に、ベートーヴェン以来、最も大きなエポックを作り、次の時代への大きな<ruby><rb>道標</rb><rt>みちしるべ</rt></ruby>となったのであった。

## 理解されなかった彼

ドビュッシー（<em>Claude Achille Debussy</em>）は一八六二年八月二十二日、パリの郊外に生まれた。初歩の教育は母から受けて、学校らしいものに行かず、家庭も決して音楽的ではなかったが、七歳のときカンヌに旅行して、<ruby><rb>叔母</rb><rt>おば</rt></ruby>ルウスタン夫人に音楽的才能を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>され、しばらくはイタリー人からピアノの手ほどきを受けたこともあった。

少年ドビュッシーは、勉強も遊びも好きではなく――今日の常識から言えば、決して良い子ではなかった。終日夢見るように、ぼんやり<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>にかけて物をも言わずに暮すことが多かったと言われている。

詩人ヴェルレエヌの義母モオテ夫人がショパンの<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>で、偶然のことからドビュッシーの才能を見出し、この子を船員にすることに決めていた父親を説きふせて、一八七三年十一歳のドビュッシーを、ともかくも音楽院に入学させることに成功した。

ドビュッシーの音楽学生生活は一風変ったものであった。音に対する異常な感受性はあったが、ピアノの練習は好きでなく「あれはピアノは<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いだが、音楽は好きなようだ」という不思議な結論を先生に下されたりした。ドビュッシーは無器用で<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>で、ピアニストには向かなかったのである。

その後作曲に進んでいったが、旧式な先生からは理解されず、そのうえ十三、四歳の頃からは貧しい両親を助くるために、<ruby><rb>他家</rb><rt>よそ</rt></ruby>の子のピアノの<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>を見てやるために時間を取らなければならなかった。

十八歳の時、師ギローの好意でロシアの旅に上り、チャイコフスキーのパトロンで有名なメック夫人のところに<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>して、ロシアの楽人達と知る機会を得、わけてもムーソルグスキーの音楽に感化されることが少なくなかった。その後ワグナー崇拝熱に感染し、ワグナーの後を追ってイタリーへ行ったりした。それは当時の一つの流行で、ドビュッシーだけがワグネリアンの外に超然としているわけにはいかなかったのであろう。

一八八三年師ギローの勧めでローマ賞に応じ、有名な<ruby><rb>交声曲</rb><rt>カンタータ</rt></ruby>「<ruby><rb>蕩児</rb><rt>とうじ</rt></ruby>」が一等賞になった。当然の結果としてローマに遊学したが、これは気の毒なことに<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い幻滅を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めなければならなかった。アカデミー的な<ruby><rb>凡庸</rb><rt>ぼんよう</rt></ruby>なヴィラ・メディチの空気は、どうにも我慢が出来ず、一八八七年には、ついにパリに帰ってしまった。

留学作品として「春」と「選ばれたる乙女」が提出されたが、「管弦楽にあるまじく嬰へ長調」で書かれているという理由で、後者は拒絶され、「春」の方はドビュッシー自身が<ruby><rb>撤回</rb><rt>てっかい</rt></ruby>してしまった。

## 目覚ましき勝利

パリに帰ってからのドビュッシーの生活は、各方面の友人達と接触して教養を高め、作品も少しずつは世に示されていった。それは商業的な目的に添わなかったために、ドビュッシー自身の費用で出版しなければならなかったにしても、ドビュッシーの社会との接触面は次第に広くなっていったのである。

一八九四年「牧神の午後」が国民音楽協会で演奏され、ドビュッシーは始めて成功の<ruby><rb>曙光</rb><rt>しょこう</rt></ruby>を認めた。批評家達は当惑しながらもきわめて<ruby><rb>控目</rb><rt>ひかえめ</rt></ruby>に<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めなければならなかったのである。

一九〇二年に楽劇「ペレアスとメリザンド」が初演され、ドビュッシーの勝利を決定的なものにした。これより十年前の一八九二年、メーテルリンクの原作を読んで感動し、作者を訪問して作曲の承諾を得てから、実に十年の歳月を費して完成したのである。その演奏は楽壇に大きな旋風を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き起したが、原作者メーテルリンクは、感情のもつれからフィガロ紙上に公開状を掲げて非難したが、ドビュッシーの勝利はそのために少しも<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>つけられはしなかった。

もっとも、勝利は決定的であったにしても、決して最初から予期されたことではなかった。初演の夜、聴衆は敵意に燃えて、非難と<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>と<ruby><rb>妨害</rb><rt>ぼうがい</rt></ruby>のうちに劇は進んだが、聴衆はいつの間にやら不思議な<ruby><rb>感銘</rb><rt>かんめい</rt></ruby>に引き入れられて、次第に<ruby><rb>静粛</rb><rt>せいしゅく</rt></ruby>になるのをどうすることも出来なかったのである。

三日<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>って二度目の演奏のときは、もう少しの妨害も起らなかった。それどころか、楽劇の進行につれてそれはワグナーが経験して以来かつて見ぬ熱狂となり、アンコール十回に及んで聴衆の感動は白熱するばかりであった。

その成功を助けたのは、新しき美に感動し<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い、音楽院の生徒や、その他の若い学生達であったと言われている。一方音楽院長のデュボアは、「ペレアス」を聴くことを学生に禁じた。それは学校で教える音楽上の規則に反するからだというのである。

ドビュッシーは一躍して天下の名士になった。その後「海」に着手し、ピアノ曲「版画」、「影像」を完成し、「シューマンの左、あるいはショパンの右に位置するだろう」と自分で言った。

一九〇八年「子供の領分」を書き、翌々年「<ruby><rb>聖</rb><rt>サン</rt></ruby>セバスチアンの<ruby><rb>殉教</rb><rt>じゅんきょう</rt></ruby>」を初演した。一九一四年第一次世界大戦勃発、愛国心に燃えて幾つかの戦争音楽を書き、さらにいろいろの楽器の組合せによるソナタを三曲書いたが、一九一八年三月二十五日、空襲下のパリで<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しく死んだ。

  


## ドビュッシーの作品とそのレコード

ドビュッシーのレコードが思いのほかに多いことに、一応は<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>でも驚くだろう。二十世紀になってから活躍した作曲家で、これほど魅力を持った人が少なかったのかも知れない。わけても日本人には親しみの深い人で、野村光一氏が「日本人の情操からしてむしろ<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>り<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い音楽の一つ――」とドビュッシーについて言っているのは、きわめて面白い観察である。

## ペレアスとメリザンド

楽劇「ペレアスとメリザンド」は、我らにとって、どんなに熱烈な<ruby><rb>憧憬</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>であったか、文献だけでこの曲を知っていた、二十年前の好楽家達の、優しい思い出の一つであろう。大震災の直後、フランス・グラモフォンに入ったこの曲の<ruby><rb>抜粋</rb><rt>ばっすい</rt></ruby>は、日本へ十組くらいは輸入されたはずで、それは非常に高価なものであったにもかかわらず、奪い合いのように消化されたことは、日本のレコード界の一つの<ruby><rb>話柄</rb><rt>わへい</rt></ruby>でさえあった。事実パンゼラとプロティエの「髪の場」や「泉水の場」などは、夢心地の<ruby><rb>陶酔</rb><rt>とうすい</rt></ruby>をさえ<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>ったものである。今の人には想像も出来ない、それは感激の深い思い出であったと思う。

その後フランス・グラモフォンは、全く同じ配役と同じ管弦楽を、同じくコッポラの指揮で電気の初期に吹込み直しそれがビクターにプレスされて、今日我らの常識的収集になったのである。このレコードも今から十数年前の録音で、管弦楽などはいかにも心細いが、パンゼラのペレアスとプロティエのメリザンドとマルクーのゴローのすばらしい組合せを<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い知ることは出来るだろう（ビクター四一七四―六、九六三六―九）。

コロムビアのはそれより数年新しく、トリュック指揮の管弦楽などは<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに鮮麗だ。その上クロアザがジュヌヴィエーブを歌っているのが特色で、どちらが良いとも言い難いが、主役歌手の良さと、管弦楽の質はビクターの方が<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れている（Ｊ八一七九―八四）。

他にポリドールにヴォルフの指揮で「髪の場」だけ入っている。荒々しい録音だがブリオ（ソプラノ）とゴーダン（テナー）の歌は悪くない（六〇一七七）。「ペレアスとメリザンド」の初演の時歌ったメリー・ガーデンがドビュッシー自身の伴奏で歌ったレコードが二枚Ｉ・Ｒ・Ｃ・Ｃ（国際レコード収集家クラブ）から出ているが、日本では今のところ手に入り難い。

## 「夜想曲」「海」「牧神の午後」その他

「夜想曲」は「雲」と「祭」と「シレーヌ」の三曲から成り、ドビュッシーの<ruby><rb>名声</rb><rt>めいせい</rt></ruby>を<ruby><rb>決定的</rb><rt>けっていてき</rt></ruby>にした佳作である。きわめて<ruby><rb>模糊</rb><rt>もこ</rt></ruby>たる印象を描いた、新鮮にして香気の豊かな曲だ。わけても歌詞のない女声合唱の「シレーヌ」は面白い。レコードはコロムビアのピエルネ指揮、コンセール・コロンヌ交響楽団のが良い（Ｊ八三三八―四〇）。が、ビクターのコッポラ指揮、パリ音楽院管弦団のは（ＪＤ一五四三―五）、録音の新しい意味で推賞される。

「牧神の午後の前奏曲」はマラルメの詩によった音楽で、ドビュッシー初期の野心作でもあり、<ruby><rb>不思議</rb><rt>ふしぎ</rt></ruby>な空気と光を描いた音楽だ。印象主義の最初の勝利であったと言ってもよい。レコードは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく入っている。ストコフスキー、ヴォルフ、ピエルネ、コッポラ、ストララム、と大指揮者が競って入れている形だ。しかし、たった一組を選ぶ人には、<ruby><rb>物故</rb><rt>ぶっこ</rt></ruby>した指揮者ストララムが自分の管弦団コンセール・ストララムを指揮したコロムビアのレコードが一番良かろうと思う（Ｊ七七四五）。次ではやはりコロムビアのピエルネ指揮のものが<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げられる。

「海」はドビュッシーの完成期の傑作だが、レコードはビクターのコッポラ指揮、パリ音楽院管弦団の以外にない（ＪＤ二〇四―六）。

「春」はボッチチェリの名画「春」にヒントを得て作曲したきわめて初期のもので、レコードはビクターにコッポラ指揮、パリ音楽院のが入っている（ＪＤ八六三―四）。「<ruby><rb>聖</rb><rt>サン</rt></ruby>セバスティアンの殉教」も同じくコッポラの指揮でビクターに（ＪＤ一―二）。「イベリア」も同様（ビクターＪＤ八五〇―二）。

「小組曲」はピアノ<ruby><rb>連弾用</rb><rt>れんだんよう</rt></ruby>の曲を管弦楽に編曲したのが二、三レコードされている。この曲の編曲者ビュッセがパリ交響管弦団を指揮したのがコロムビアに入っているが、少し<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えない（Ｊ五二三七―八）。ビクターにはコッポラ指揮もあるはずだ。

## ソナタ

ドビュッシーはその晩年いろいろの楽器による六つのソナタを作曲することを計画し、三つだけ完成して<ruby><rb>没</rb><rt>ぼつ</rt></ruby>した。その三つのソナタはいずれも<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>き抜かれた名品で、わけても「ヴァイオリン・ソナタ」をティボー（ヴァイオリン）とコルトー（ピアノ）の演奏したのが、絶品的なレコードである。こんな香気の高い表現のレコードは滅多にはあり得ない（ビクターＪＤ五九―六〇）。

「フリュートとヴァイオリンとハープのためのソナタ」は<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しくも美しい曲だ。モイーズ（フリュート）、メルケル（ヴィオラ）、ラスキーヌ（ハープ）の三名人を合せたビクターのレコードは良い（ＶＨ四〇〇六―七）。この曲のヴィオラをジノのひいたのはコロムビアにある。

「チェロ・ソナタ」はマレシャル（チェロ）、カザドシュス（ピアノ）の組合せと（コロムビアＪ七七九五―六）、もう一つカサド（チェロ）、ゴルディジァーニ（ピアノ）の組合せと（ＪＷ一二四―五）、二種のレコードがある。私は少し吹込みは古いが、前者のフランス風な<ruby><rb>洗練</rb><rt>せんれん</rt></ruby>された演奏を採る。

## ピアノ曲

ドビュッシーのピアノ曲は管弦楽に劣らず特色的で、きわめて香気の高い魅力的なものである。レコードも<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいが、最も<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたのだけ掲げると、第一に、

「前奏曲」第一集の十二曲が、ビクターにコルトー（ＤＡ一二四〇―四、ＤＢ一五九三）とコロムビアにギーゼキング（Ｊ五六三三―九）が入っている。この二つの優劣はいろいろ論議されるだろう。実際どちらにも特色があり良さはあるが、冷たい技巧の洗練を生命にしているギーゼキングより少しロマンティックで、なにか物を思わせるコルトーの方を私は<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>りたい。コルトーのこの十二曲の演奏は、ギーゼキングのようなメカニカルな美しさはないが、一つ一つがショパンの前奏曲におけると同じく、コルトーの非凡の解釈を通した音画である。

「子供の領分」、こんなに子供の世界に理解を持った美しい芸術はない。それは夢と、現実と、詩と生活との快き交錯であり、大人から見る子供の世界のなつかしさである。コルトー（ビクター七一四七―八）とギーゼキング（コロムビアＪ八七二八、Ｊ五五六三）のがあるが、ここでも私はコルトーの持っている非凡の詩情と童心に<ruby><rb>与</rb><rt>くみ</rt></ruby>する。ギーゼキングは巧みではあり、驚くべきではあるが、いかにも冷たく<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>なく、ピアノ弾きのピアノ曲らしい。

「版画」は「塔」と「グラナダの夕」と「雨の庭」の三曲から成っている。この風物を日本の木版風に考えた印象であろう。「グラナダの夕」には一九〇三年この曲の初演をしたという老ピアニストのリカルド・ヴィニエスのひいたレコードがあるのは<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しい（コロムビアＪ七七四七）。しかし単に<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>くためには若いギーゼキングの方がよかろう（コロムビアＪ八五三九）。

「雨の庭」はモイセイヴィツチが得意で、電気以前のレコードにもあり、日本へ来たときもしばしば弾き、新しいレコードも入っている（ビクターＪＤ一六一〇）。しかし、演奏はやはりギーゼキングに一歩を<ruby><rb>輸</rb><rt>ゆ</rt></ruby>するだろう（コロムビアＪ五六三九）。この曲の描いた降りそそぐ雨と、その晴れ行く庭の風情は言語に絶する美しさだ。

「映像」は第一集の中では「水の反影」だけが入っている美しい曲だ。やはりギーゼキングがよく（コロムビアＪ八五三九）、これは「グラナダの夕」の裏に入っている。

第二集からは「金魚」が入っている。コロムビアの世界名盤集にギーゼキングのがあり、他にヴィニエスもある（コロムビアＪ五一五一）。

他にロンの「レントより遅く」、シャンピの「花火」、ロンの「アラベスク」二曲、ギーゼキングの「スイト・ベルガマスク」四曲（このうちの「月光」が有名だ）（以上コロムビア）。ブランカールの「練習曲」六曲（ポリドール）等がある。

ピアノ曲をヴァイオリンや管弦楽に編曲したのはここに掲げない。

## 歌曲

「忘られし<ruby><rb>小唄</rb><rt>こうた</rt></ruby>」三曲のうち「そは<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>なれ」をバトリが歌い（コロムビアＪ五一八七）、「我が心にも涙の雨が降る」をクロアザが歌い（コロムビアＪ五一五七）、「緑」をヴァランが歌っている（コロムビアＪ五五〇五）。バトリとクロアザは技巧と理知だけで美しさがなく、私はむしろニノン・ヴァランの<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>なのを採りたい。

「<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>り人形」、「マンドリン」（コロムビアＪ五五〇五）は「緑」の裏に入っているが、この「マンドリン」は美しい歌だ。昔ノルディカの歌ったのを思い出す。

「ビリティスの三つの歌」のバトリは少し渋過ぎるが巧みなものだ（コロムビアＪ五一八六―七）。

「フランソワ・ヴィヨンによる三つの<ruby><rb>譚歌</rb><rt>たんか</rt></ruby>」は晩年の作で同じく光沢を消した<ruby><rb>地味</rb><rt>じみ</rt></ruby>なものだ。パンゼラの歌ったのがある（ビクターＪＦ六七）。

「ドビュッシー歌曲集」は英国人のマジー・テイト（ソプラノ）がコルトーの伴奏で「<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかな<ruby><rb>饗宴</rb><rt>きょうえん</rt></ruby>」その他を歌っている。巧みな知的な歌い手だが、やはりフランス人の安らかさと情愛がない。コルトーのピアノ伴奏は非凡だ（ビクターＪＥ七六―八二）。

カンタータ「<ruby><rb>蕩児</rb><rt>とうじ</rt></ruby>」より。このドビュッシーがローマ大賞を得たカンタータのうちから、「リアの<ruby><rb>宣叙調</rb><rt>せんじょちょう</rt></ruby>とアリア」をニノン・ヴァランが歌っているのは、とにもかくにも注目に値する（コロムビアＪ八七〇四）。

他にドビュッシーの最初の歌曲とも言うべき「星月夜」をクルプが歌ってドビュッシー自身伴奏したレコードや、「ロマンス」をメルバの歌ったレコードなどは、<ruby><rb>骨董的</rb><rt>こっとうてき</rt></ruby>の<ruby><rb>名品</rb><rt>めいひん</rt></ruby>として知られているが、容易に手に入る品ではない。

## 狂詩曲

「サクソフォーンと管弦楽のための狂詩曲」はヴィアールのサクソフォーン、コッポラの指揮、パリ音楽院管弦団で入っている（ビクターＷ一〇二七）。サクソフォーンをドビュッシーが扱ったところに興味がある。もう一つ「クラリネットと管弦楽のための狂詩曲」はハムリンのクラリネット、コッポラの管弦団指揮で入っているが（ビクターＤＢ四八〇九）、前者、サクソフォーンの狂詩曲ほどは面白くない。

  


## 別伝

大作曲家とその重要作品並びにその優秀レコード

  


本記において私は、十七人の大作曲家の伝記と、その重要作品並びにレコードについて書いたが、音楽の歴史は長く、ここに伝しなければならぬ大作曲家は、十七人を五倍してもまだ足りない。しかしそれを詳説することは、限られたるページにおいては不可能なことでもあり、かつ全部の作曲家を<ruby><rb>網羅</rb><rt>もうら</rt></ruby>することは、本書の<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>てにおいては無意味に属するので、それらの大部分は歌劇作曲家並びに現存作曲家の全部と共に、ことごとく本記に<ruby><rb>割愛</rb><rt>かつあい</rt></ruby>し、ここに音楽史的に<ruby><rb>瞥見</rb><rt>べっけん</rt></ruby>して、選に<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>れたる重要な作曲家のうちから、さらに数十人を<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いて年代順に略伝し、その重要作品と優秀レコードを掲げて、参考に<ruby><rb>便</rb><rt>べん</rt></ruby>した次第である。

  


## バッハ以前

バッハ以前の音楽は、これを三千年以前のエジプトまで<ruby><rb>遡</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>るとすれば、実に地質学的に巨大な量に上るであろう。しかし、ここには音楽の白亜紀、カンブリア紀を避けて、一般人の鑑賞に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>える<ruby><rb>僅少</rb><rt>きんしょう</rt></ruby>の作品と、そのレコードを<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>ぐるに止めようと思う。

バッハ以前の音楽を、レコードによって収集鑑賞するためには、

「アントロジイ・ソノール協会」レコード

コロムビア「音楽史」第一集並びに第二集

パルロフォン「音楽二千年史」

以上三組のレコードを用意するのが、最も便利で有効だろうと思う。

右のうち、

「アントロジイ・ソノール協会」

のレコードは世界的な音楽史学者クルト・ザックス博士の編集で、フランスでは既に五十枚以上発売されているというが、日本コロムビアでプレスして日本の市場に売り出されたのも十八枚に及び（昭和十六年初頭までに）これはまことにひと粒<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>りの美しくて重要な古典である。この集の特色は曲目の選択が良いばかりでなく、演奏がいかにも良心的で、音楽史研究の学徒は言うまでもなく、一般のレコード愛好家、音楽鑑賞者も充分に楽しめるものであり、その古代楽器の<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかな美しきや、古代歌謡ののどかな快さは他に比ぶべきものもないものである。曲目を一々挙げるのは<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしいが、現にこの項を続けながらも私は、ボーリン・オーベルの弾く、十七世紀のクラヴサン曲の邪念のない美しさに陶酔しながらペンを執っている有様である。

芸術の分野において、時間の強大な<ruby><rb>濾過</rb><rt>ろか</rt></ruby>装置を経て、後世に残された古典の傑作は常に美しい。それは一時の流行や気まぐれや、気取りやジャーナリズムの産物でなく、常に人間本来の欲求に根ざし、人の心の恒久の訴えを持っているからである。古典を楽しむことは、いつ、いかなる世界においても、人間に与えられた、きわめて健康な特権的<ruby><rb>愉楽</rb><rt>ゆらく</rt></ruby>であると言ってよい。

何はさておき、既発売「アントロジイ・ソノール」のレコードを手に入れるのは、今日ではなかなかむずかしいことであるが、幸いにして所有している人は、もう一度<ruby><rb>筐底</rb><rt>きょうてい</rt></ruby>から取り出して、古人の心意気を味わってみるがよい。そこには信仰もあり恋もあり、古い時代の人間生活が、音楽を通して活発に再現されるが古聖の言った如く、「詩三百一言以って<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>えば思い<ruby><rb>邪</rb><rt>よこし</rt></ruby>ま無し」の境地をほほえましくも見出すだろう。

ベートーヴェンのシンフォニー・レコードの管弦団や指揮者や録音の末まで、微に入り細を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>って研究する人は少なくないが、おそらくアントロジイ・ソノールの曲目の三分の一も記憶している人はあるまい。それは当り前のことではあるが、なんとなく物足りないことでもあると私は思う。

コロムビアの「音楽史」

も、最近、第五集を世に出した。第三集、第四集のふるわなかったのに比べ、第五集の選曲は<ruby><rb>骸目的</rb><rt>がいもくてき</rt></ruby>であったが、それでも第一、第二集の配列には私は多くの興味を持っている。それは「耳と目によるコロムビア音楽史」というだけあって、解説書に半分の重要さを持たせたものであるが、選曲はいずれも聴くに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えるもので、楽しく味わう古典としては、この要領のよさに敬服せざるを得ない。この中に宗教的な合唱曲を吹込んだ、バッハ・カンタータ・クラブは英国においてはきわめて質のすぐれたものであり、ドルメッチ一家の古典楽器の演奏による中世紀の楽器曲の面白さはきわめて特色ある復古主義的なものである。

パルロフォンの「音楽二千年史」

は、アントロジイ・ソノールと同じくクルト・ザックス博士の編集で、キリスト以前の音楽から、十七世紀に至る二千年の音楽のエッセンスを、十インチたった十二枚のレコードに盛った<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>のよさと、その選曲の音楽史家的な<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>さに敬服さるべきものがある。聴いた面白さはコロムビアの音楽史には及ばないが、歴史的な取捨と配列の妙に至っては<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かにそれ以上で、研究者に与うる便益は甚だ大きいが、惜しいことに解説が粗雑で資料としての役目を果さず、そのうえ早く廃盤になって、今では手に入れることはおろか単に聴くことさえもむずかしくなっている。

この母型は日本に既存するはずであり、パルロフォンの権利を承継したコロムビア会社の手によって再プレスされたならば、その喜びは筆者ばかりではあるまいと思う。レコード界の一つの問題としてここに提出しておく次第である。

古典音楽のレコードは他にも少なくないが、研究者のためのものでなく、一般の愛好者が聴いて面白いというのは、そんなにたくさんあるわけではない。

ビクターのベン・スタット指揮、

「古代の音楽」

は、きわめて重要性を持った古典の編集であり、演奏もアメリカ古代楽器研究会の<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたものであるが、一般人のためにはそれよりも、ランドフスカ夫人のクラヴサン曲の方に魅力を感ずるだろう。

<strong>クープラン</strong>（<em>François Couperin</em> 1668―1733）の「クラヴサン曲集」などはその代表的なものである。この楽器による<ruby><rb>古朴</rb><rt>こぼく</rt></ruby>な模写音楽の簡素な美しさは、ランドフスカ夫人のすぐれた演奏で、こよなくも面白く聴かれる。

古典ヴァイオリン曲にも、重要にして面白いものは少なくないが、そのうち一つ二つを<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬ</rt></ruby>くと、

<strong>コレルリ</strong>（<em>Arcangelo Corelli</em> 1653―1713）の「ラ・フォリア」はイタリー古典の代表作の一つで、演奏もむずかしいものであるが、コロムビアのエネスコ（Ｊ七九四〇）とビクターのメニューイン（ＪＤ二〇八）とがあり、この師弟のレコードはそれぞれに興味が深い。前者は吹込みは古いが温雅な演奏で、後者の若さと<ruby><rb>覇気</rb><rt>はき</rt></ruby>に対照して捨て難いものである。しかし一般収集家は常識として録音の新しい後者を選ぶのが本当であろう。

<strong>タルティーニ</strong>（<em>Giuseppe Tartini</em> 1692―1770）のヴァイオリン・ソナタ「悪魔の<ruby><rb>顫音</rb><rt>せんおん</rt></ruby>」はその――作曲者タルティーニが悪魔に魂を売った<ruby><rb>代償</rb><rt>だいしょう</rt></ruby>として一曲の楽想を得た――という伝説と共に有名であるが、レコードの方ではビクターのメニューインのが（ＪＤ八―九）最も条件を備えたものであろう。<ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>たる演奏である。

<strong>ヴィヴァルディ</strong>（<em>Antonio Vivaldi</em> 1678―1741）のヴァイオリン協奏曲ト短調は、ナシェッツの編曲したのがビクターに入っている（ＪＤ一一五五―六）。エルマンの演奏はやや<ruby><rb>豊婉</rb><rt>ほうえん</rt></ruby>に過ぎるかも知れないが、代表的なイタリー古典を面白く聴かせる<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>には<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そつ</span>がない。良い演奏であると言ってよい。同じヴィヴァルディのコンチェルト・グロッソは、後にバッハに影響した重要な作品であり、レコードされている数も少なくないが、そのうちですぐれたものは、メンゲルベルク指揮の「コンチェルト・グロッソ＝イ短調作品三ノ八」（テレフンケン二三六六〇―一）などではあるまいか。きわめて輝やかしい曲で、誰にでも楽しまれるだろう。

バッハ以前の古典から愛聴を目的とするレコードとして、とにもかくにも私はこれだけを選んでみた。が<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みて、

<strong>ドメニコ・スカルラッティ</strong>（<em>Giuseppe Domenico Scarlatti</em> 1685―1757）の「クラヴサン奏鳴曲集」、ランドフスカ夫人演奏（ビクターＪＤ六八二―七）を逸していることに気が付いた。この古く<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかな二十曲のソナタは、音楽史的に興味があるばかりでなく、<ruby><rb>団欒</rb><rt>だんらん</rt></ruby>の興を添える簡素な音楽として誰にでも喜ばれよう。世にも美しく明るい一連の名編である。

  


## バッハ以後

## バッハの子達

バッハの子供達では、長子のフリーデマン・バッハ（<em>Wilhelm Friedemann Bach</em> 1710―1784）は、不肖の子と思われ、あまり幸福ではなかったが、作品は一つだけレコードされている。ビクターに入っているブライロフスキーのピアノで「コンチェルト＝ニ短調」がそれだ（ＶＤ八〇〇四―五）。

次子エマメエル・バッハ（<em>Carl Philipp Emanuel Bach</em> 1714―1788）は、ソナタ形式の確立者としてハイドンに先駆し、近代音楽の発達に資する功績は大きい。レコードはコロムビアの音楽史に「ピアノ・ソナタ＝へ短調」が入っている。

末子クリスティアン・バッハ（<em>Johann Christian Bach</em> 1735―1782）は、イタリー風の美しい曲をたくさん作っている。レコードも三人のうちでは最も多く、ビクターの「ハープシコードと二挺のヴァイオリン及びチェロのための協奏曲＝ト長調」はシャンピオンの演奏で美しい（ＪＡ一二五二―三）。コロムビアの世界名盤集には同じくシャンピオンの独奏で「クラヴサンの協奏曲＝ハ長調＝よりのロンド」があり、もう一つメンゲルベルクがニューヨーク・フィルハーモニック管弦団を指揮して入れたビクターの「交響曲＝変ロ長調」は十年以前の吹込みだが名演奏と言ってよい（七四八三―四）。

## グルック

（<em>Christoph Willibald Gluck</em> 1714―1787）

ドイツの生んだ近世歌劇の改革者、当時世界を<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>したイタリー歌劇の伝統を打破して、劇的要素を取り入れた最初の人である。幸いにして代表作たる歌劇「オルフォイス」全三幕の全曲近いものがコロムビアに入った。アンリ・トマジがヴラソフ・ロシア合唱団とパリ交響楽団を指揮し、独唱の主役アリス・ラヴォ（アルト）は練達な歌い手だ（ＪＳ一三〇―七）。

## ボッケリーニ

（<em>Luigi Boccherini</em> 1743―1805）

イタリー古典の最も興味ある作曲家、チェロと室内楽に良いものがある。わけてもカサルスの演奏する「チェロ協奏曲＝変ロ長調」は曲の<ruby><rb>古朴優麗</rb><rt>こぼくゆうれい</rt></ruby>な美しさと、演奏のよさで、まさに絶品的だ。管弦楽指揮はロナルド（ビクターＪＤ一〇二三―五）。こんなレコードは本当に楽しい。

## ウェーバー

（<em>Carl Maria von Weber</em> 1786―1826）

ドイツの歌劇に時代を画した大作曲家で、浪漫派の開祖とも言うべき人である。歌劇「魔弾の射手」が代表的な傑作。全曲レコードはないがポリドールに縮小歌劇があり、序曲はフルトヴェングラーのベルリン・フィルハーモニック管弦団を指揮したのが名盤だ（ポリドールＥ二一七―八）。一枚物の歌ではレーマン（ソプラノ）の「アガーテの詠唱」がある（コロムビアＪ八五八六）。

「舞踏への勧誘」はピアノ曲として書かれた名作の一つ、吹込みは古いがコルトーのレコードがある（ビクターＪＥ一八五）。ベルリオーズが管弦楽に編曲したのをストコフスキーが指揮したレコードは有名だ（ビクターＪＤ一三二五）。ワインガルトナーが自分の編曲を指揮したのがコロムビアにある。

「ピアノ協奏曲＝ヘ短調（作品七九）」をカザドシュスがパリ交響管弦団（ビゴー指揮）と入れたコロムビア・レコードも良い（Ｊ八五九一―二）。

ほかにピアティゴルスキーが、ヴァイオリン・ソナタをチェロに編曲して入れたビクター・レコードなどもある。

## ロッシーニ

（<em>Gioachino Rossini</em> 1792―1868）

軽快な美しいロッシーニのイタリー歌劇が、どんなに当時全欧を<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>したか、想像も出来ない。レコードでは、歌劇「セヴィリアの<ruby><rb>理髪師</rb><rt>りはつし</rt></ruby>」の全曲を、モラヨーリの指揮、スカラのベスト・メンバーが入れている。本場らしい<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた演奏だ（コロムビアＪ八七三二―九、八七四〇―七）。この歌劇の一枚物では「序曲」にトスカニーニ指揮の名盤があり（ビクターＪＤ一二八七）、有名なアリア「<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かなる声」にテトラツィーニ（ビクターＪＤ二五九）とガリ＝クルチ（ビクター七一一〇）があり、「<ruby><rb>讒謗者</rb><rt>ざんぼうしゃ</rt></ruby>の陰に」にシャリアピン（ビクター六七八三）のレコードがある。

歌劇「ウィリアム・テル」の序曲は、品の良い通俗音楽の人気ものだ。コッポラがパリ音楽院管弦団を指揮したのと（ビクターＪＦ九―一〇）、トスカニーニがＮ・Ｂ・Ｃを指揮したの（ビクターＪＥ二〇八―九）といずれも良い。他に歌劇「セミラミーデ」序曲のトスカニーニ指揮も見事だ（ビクターＪＤ九四三―四）。

## レーヴェ

（<em>Karl Loewe</em> 1796―1869）

当時はシューベルトより<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに人気があったと言われる。バラードに良いものがあり、スレザークの歌った「トム・デア・ライマー」などは名演だが日本にはプレスされてない。

「<ruby><rb>鳥刺</rb><rt>とりさし</rt></ruby>のハインリッヒ」と「オイゲン王子」をヒュッシュ（バリトン）の歌ったのが推賞される（ビクターＪＥ七一）。

## ドニゼッティ

（<em>Gaetano Donizetti</em> 1797―1848）

イタリー歌劇の作曲者、伝統の保持者で、歌劇「ランメルムーアのルチア」、「<ruby><rb>連隊</rb><rt>れんたい</rt></ruby>の娘」などが有名だ。「ルチア」の狂乱の場はコロラトゥラ・ソプラノの腕を見せる絶好の歌で、昔はテトラツィーニ、今のダル・モンテやガリ＝クルチが得意にしている。「ルチア」の六重唱も有名で、カルーソーを中心に旧盤で三通りも入っている。「連隊の娘」の詠唱にもダル・モンテのレコードがたくさんある。

## ベルリーニ

（<em>Vincenzo Bellini</em> 1801―1835）

ロッシーニやドニゼッティの後を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けたイタリー歌劇の作曲家、歌劇「夢遊病者」と「ノルマ」が知られている。歌劇としてはそんなに面白いものではないが、<ruby><rb>随所</rb><rt>ずいしょ</rt></ruby>に出て来るイタリー風の美しい詠唱が有名だ。ダル・モンテなどのレコードに良いのがある。

## グリンカ

（<em>Mikhail Glinka</em> 1803―1857）

ロシア国民楽派の大先達、レコードは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少ない。シャリアピンの歌った「疑惑」（ビクターＤＢ一四六九）は名品だ。管弦楽曲では「カマリンスカヤ」がある。

## トーマ

（<em>Ambroise Thomas</em> 1811―1896）

フランスの歌劇作曲家、歌劇「ミニヨン」が知られている。その中でも「君よ知るや南の国」の歌はおそろしく通俗に流布している。昔はファーラーやシューマン＝ハインクのがあったが、新しいのではボリのビクター・レコード以外にはない。それからダル・モンテの「ポロネーズ」なども推賞されよう。

## ヴェルディ

（<em>Giuseppe Verdi</em> 1813―1901）

イタリー歌劇の<ruby><rb>鬱然</rb><rt>うつぜん</rt></ruby>たる巨頭、伝統を<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>って、ワグナーと<ruby><rb>対峙</rb><rt>たいじ</rt></ruby>したが、この人のイタリー歌劇は、その豊かな創作力と、変化きわまりなき種々相と、感銘の深さにおいて、何人も及ぶところでない。

「リゴレット」「アイーダ」それぞれビクターに全曲があり、「椿姫」はコロムビアに全曲レコードがある。いずれも古い吹込みだが、すぐれた演奏である。一枚一枚の歌はカルーソー、ジーリ、ダル・モンテ、ガリ＝クルチなどに優れたものがある。

「椿姫」の前奏曲で、トスカニーニのニューヨーク・フィルハーモニック管弦団を指揮したのが名盤だ。

## ダルゴミジスキー

（<em>Alexander Dargomïzhsky</em> 1813―1869）

ロシア風の<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い歌曲が特色的だ。シャリアピンの曲目にも相当あったし、ロージングなども好んで歌ったが、レコードはシャリアピンの「<ruby><rb>老下士</rb><rt>ろうかし</rt></ruby>」（ビクター七四二二）と歌劇「ルーサルカ」の「狂乱の場」（同ＪＤ一四九）しかない。

## フランツ

（<em>Rovert Franz</em> 1815―1892）

フランツはシューベルトの後にドイツ・リードの正統を継ぐべき人であるが、<ruby><rb>温藉</rb><rt>おんしゃ</rt></ruby>で美しいものを持っているにしても、シューマンやヴォルフの才能に欠けていたために、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ平凡らしく見える<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いがあり、やや魅力に乏しい。

「ロバート・フランツ歌謡曲集」はエルンスト・ヴォルフ（バリトン）の独唱で彼の代表作十六曲をまとめたもの、フランツの唯一のレコードと言ってよい（コロムビアＪ八六六〇―二）。

## グーノー

（<em>Charles François Gounod</em> 1818―1893）

フランスの最も著名な歌劇作家、歌劇「ファウスト」は今でもフランス人の誇りになっている。昔のパテーやコロムビアには全曲もあったが、今ではポリドールに<ruby><rb>抜粋</rb><rt>ばっすい</rt></ruby>した「縮小歌劇」しかない。一枚物ではソプラノで「宝石の歌」は昔メルバやファーラーのが有名であったが、<ruby><rb>近頃</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>のではコロムビアのヴァランかポリドールのシャンピだろう。バスでメフィストの「セレナーデ」も昔のはプランソンかジュールネがよかったが、今は良いのがない。「金の<ruby><rb>犢</rb><rt>こうし</rt></ruby>の歌」は昔のシャリアピンが良かった。「ヴァレンティンの祈り」はビクターのティベットのほかに良いのがない。

第二幕の「酒場の合唱」はビクターのメトロポリタン歌劇場のがよく、第四幕の「兵士の合唱」はコロムビアのモラヨーリの指揮スカラ座合唱団のが良い。

他にグーノーには歌劇「ロメオとジュリエット」が少しレコードされているし、バッハのハ長調の前奏曲を伴奏とした、有名な「アヴェ・マリア」がある。これは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しくレコードされているが、コロムビアのニノン・ヴァランがよかろう。

## オッフェンバック

（<em>Jacques Offenbach</em> 1819―1880）

フランスの喜歌劇の作曲家、大衆的な良いものがある。歌劇「天国と地獄」の序曲などは通俗音楽の大関格だろう。ビクターにブレッヒの指揮したのがある（ＪＤ一二四六）。歌劇「ホフマン物語」の「<ruby><rb>船唄</rb><rt>ふなうた</rt></ruby>」は有名だ。旧盤のファーラーがよかったが、近頃のではポリドールのミハツェック（ソプラノ）とハエンダー（バリトン）のはドイツ語だが悪くない（六〇一六八）。コロムビアのベイリーとウォーカーのは本格的にソプラノとアルトの重唱だ（Ｊ七五三九）。

## ヴュータン

（<em>Henri Vieuxtemps</em> 1820―1881）

ベルギー生まれのヴァイオリニストで、ヴァイオリン曲の作品が多く、そのうち協奏曲だけでも六つ入っている。「ヴァイオリン協奏曲第五番＝イ短調」はそのうちの一つ、コロムビアに、デュボアとブラッセル王立音楽院管弦団の入れたのがある。吹込みも古く演奏もそんなによくない。

## ラロ

（<em>Edouard Lalo</em> 1823―1892）

スペイン系のフランス人、歌劇「イスの王」とヴァイオリン曲「スペイン交響曲」が有名だ。

「スペイン交響曲」はメニューインとフーベルマンとメルケルのがある。メニューインも良いが（ビクターＪＤ二六〇―三）、私はやはりフーベルマンの征服的な<ruby><rb>武者震</rb><rt>むしゃぶるい</rt></ruby>に興味を持つ（コロムビアＪ八三二〇―二）。これを弾いた時のメニューインは、なんといっても若過ぎた。メルケルは緑盤だが質の良い練達なヴァイオリンだ。

「チェロ協奏曲＝ニ短調」のマレシャル（チェロ）とゴオベエル（指揮）も良い（コロムビアＪ八一三三―五）。

## スメタナ

（<em>Bedřich Smetana</em> 1824―1884）

ボヘミアの国民的音楽家、その郷土的な音楽の伝統をドヴォルシャークに伝えた。

交響詩「モルダウ」は大曲「祖国」の一節で数種のレコードがあるが、最近のテレフンケンでイッセルシュテットがベルリン・フィルハーモニック管弦団を指揮したのが入っている（テレフンケン五三六一三―四）。スメタナの歌劇で有名な「売られた花嫁」は、序曲をワルターがロンドン交響管弦団を指揮したのがコロムビアの世界名盤集にある。

## ブルックナー

（<em>Anton Bruckner</em> 1824―1896）

かつてブラームスと対立した<ruby><rb>浪漫</rb><rt>ロマン</rt></ruby>派の作曲家であったが、ドイツ人以外にはあまり好まれず、レコードにも<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ恵まれない。「交響曲第四番＝変ホ長調」の全曲がカール・ベームの指揮でビクターに入っている。が、万人向のものではない。昔のポリドールに第六、第七、第八などの交響曲が入っていた。手に入れておくべきであったと思っている。

## ヨハン・シュトラウス

（<em>Johann Strauss</em> 1825―1899）

ワルツの王という別名の方が<ruby><rb>喧伝</rb><rt>けんでん</rt></ruby>されているくらいだ。美しいウィーン風のワルツをたくさん作曲し、その一つ一つが珠玉のように美しい。通俗音楽の王と言っても差しつかえはあるまい。こんな人こそ、本当に民衆生活と密接な関係のある芸術家というものだろう。

一番有名な傑作は「<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>きドナウ―<ruby><rb>円舞曲</rb><rt>ワルツ</rt></ruby>」で、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しくレコードされているが、テレフンケンのクライバー指揮（一三一〇四）、ビクターのストコフスキー指揮（愛好家協会第五集）、コロムビアのワインガルトナー指揮（Ｊ七三四三）などいずれも良いレコードだ。

まとまったものではテレフンケンにクライバー指揮で「ヨハン・シュトラウスの円舞曲集」があり、他に一枚ものではワルターの指揮した「皇帝円舞曲」（コロムビア世界名盤集第三集）などがある。

「ウィンナ気質」「ウィーンの森の物語」「南国の<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>」「酒と女と唄」「芸術家の生活」等々、名作のワルッは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく、それぞれ幾通りもレコードされている。

ほかに「<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>きドナウ」を歌ったのや、ピアノで弾いたのを<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>すると際限もない。序曲「ジプシー男爵」と「<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>」も名指揮者達がひと通り入れている。ワルター、メンゲルベルク、クライバー、ワインガルトナーのものなどが良い。

## ルービンシュタイン

（<em>Anton Rubinstein</em> 1829―1894）

チャイコフスキーの師友、ピアニストとして一時全欧に鳴った。幾つかのピアノ曲が残っている。「カメノイ・オストロフ」は代表的な美しい曲、旧盤にゴドフスキーのピアノでひいた名盤があった。<ruby><rb>近頃</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>ではフィードラーの管弦楽を指揮したレコードがある（ビクター愛好家協会）。ほかに「メロディ・イン・エフ」が有名だ。カサルスがチェロでひいている。「スタッカート練習曲」「ワルツ・キャプリス」等のピアノ・レコードもある。

## ボロディン

（<em>Alexander Brodin</em> 1833―1887）

ロシア国民楽派の一人、交響詩「中央アジアの<ruby><rb>広原</rb><rt>こうや</rt></ruby>にて」、歌劇「イゴール公」などひどく<ruby><rb>韃靼臭</rb><rt>だったんくさ</rt></ruby>いものがある。「イゴール公」の「ポロヴツィの娘達の踊り」をストコフスキーの指揮したのが良い（ビクターＪＤ一五〇〇―一）。

## キュイ

（<em>Cesar Antonovich Cui</em> 1835―1918）

ロシア「五人組」の一人、東洋風な可愛らしい曲「オリエンタル」で有名だ。この曲一つしかレコードされていない。エルマンのヴァイオリンでひいたのがある（ビクターＶＥ一〇二九）。

## サン＝サーンス

（<em>Camille Saint\-Saëns</em> 1835―1921）

フランス新古典派の巨匠であり、国民的な作曲家として尊崇を集めている。フランス本国ではドビュッシーなどより大きく扱われ国葬にまでなっているが、あまり<ruby><rb>常套的</rb><rt>じょうとうてき</rt></ruby>なフランス風であるために、日本人にはかえって理解され難い。しかし立派な<ruby><rb>整頓</rb><rt>せいとん</rt></ruby>された作品をたくさん持っていること、その芸術は外面的ではあるがきわめて正統派的であることは特筆される。

レコードはストコフスキーのフィラデルフィア管弦団を指揮した、組曲「動物の謝肉祭」といったものの方が面白い（ビクターＪＤ五六二―四）。この中の一曲「白鳥」をチェロでひいたレコードは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しいが、古い録音ながらカサルスのが良かろう（ビクターＪＥ七）。

「ピアノ協奏曲第四番＝ハ短調（作品四四）」はコルトーの演奏のせいもあるが、<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかで良い。サン＝サーンスの外面的な美しさを知るには良いレコードだ（ビクターＪＤ九二一―三）。

コッポラの指揮した「交響曲第三番＝ハ短調（作品七八）」はオルガンと二台のピアノを伴った豪華な曲で、いかにもサン＝サーンスらしい。ただしこういったものを誰でも好きというわけにはいかない（ビクターＪＨ一七―二〇）。

「ヴァイオリン協奏曲」が二つ、「チェロの協奏曲」と、「チェロのソナタ」なども入っているが、特別にサン＝サーンスに興味を持つ人でなければそんなに面白いものでない。むしろ小さい曲に通俗的な興味を呼ぶものがある。

「死の舞踏」などはその一つで、たわいもないものだがストコフスキーの指揮したのが物々しい（ビクターＪＤ五五九）。ピアノで「ワルツ形式による練習曲」のコルトー（ビクターＪＤ一九六）、ヴァイオリンで「序奏部と狂想的回旋曲」のハイフェッツ（ビクターＪＤ八二九）、「ハバネラ」のハイフェッツ（ビクターＪＤ一二九二）などの方が通俗的で面白かろう。

他に組曲「アルジェリア」や歌劇「サムソンとデリラ」といったものがあるが、良いレコードはない。歌劇「サムソンとデリラ」はサン＝サーンスの傑作でもあるが、<ruby><rb>浪漫</rb><rt>ロマン</rt></ruby>的な良いものだ。デリラの歌と酒宴の音楽は幾通りも入っている。

## ウィニアフスキー

（<em>Henri Wieniawski</em> 1835―1880）

ポーランドのヴァイオリニストで、ヴァイオリン曲に有名なものがある。例えば「モスコーの想い出」のようなものは、最初は誰でも好きになる曲だ。ビクターにメニューインのがある（ＪＤ一五六七）。エルマンのも昔から有名だ。大物では「ヴァイオリン協奏曲＝ニ短調（作品二二）」をハイフェッツのひいたのがある。管弦楽はロンドン・フィルハーモニック、指揮はバルビロリ（ビクターＪＤ七一七―九）。この曲はハイフェッツが得意で、第二楽章の優しさは足りないが、磨き抜かれた見事な演奏である。

## ドリーブ

（<em>Léo Delibes</em> 1836―1891）

フランスの作曲家、歌劇「ラクメ」が代表作だ。この中の「<ruby><rb>鐘</rb><rt>かね</rt></ruby>の歌」はコロラトゥラ・ソプラノのすばらしい曲目で、昔のテトラツィーニ、今のリリー・ポンスのが良かろう。ほかに舞踊曲「コッペリア」「シルヴイア」などがレコードされている。

## バラキレフ

（<em>Mily Balakirev</em> 1837―1910）

ロシア国民楽派の五人組の頭目的な存在であったが、作品は案外少ない。ムーソルグスキーなどに及ぼした感化の方が大きく物を言う。交響詩曲「タマール」は唯一のレコードだ。これはロシアン・バレーの有名な出しもので、コッポラの指揮したのがレコードされている（ビクターＪＤ一四四―五）。

## ビゼー

（<em>Georges Bizet</em> 1835―1875）

歌劇「カルメン」たった一つで、ビゼーは千年の魅力となるだろう。哲人ニーチェがワグナーに飽き足らなくなって、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>歌劇で「カルメン」を見出して狂喜した話はいかにも面白い。ビゼーの生涯は甚だ幸福でなく、その上短命で「カルメン」への世界の<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>も知らずに死んだが、芸術家としては決して不幸でない。

歌劇「カルメン」は今までに全曲に近いレコードが五、六回入っている。旧盤時代にわれわれの血を<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>かしたフランス・パテー盤の<ruby><rb>縦震動</rb><rt>たてしんどう</rt></ruby>のレコード二十七枚は、大分後になって私も手に入れ、思い出深く愛蔵している。録音は非常に悪いが歌い手がなかなか良い。電気になってからはコロムビアにコーエンの指揮でパリ・オペラ・コミック（Ｊ七三六一―七五）、ビクターにコッポラの指揮で同じパリ・オペラ・コミック（九五四〇―五六）が入っているが、いずれをいずれと決定し難い。ただし録音はどちらも古い。他にポリドールに<ruby><rb>抜粋</rb><rt>ばっすい</rt></ruby>が五枚入っている。

一枚物は数え切れないほどたくさん入っているが、旧盤時代のファーラーやカルーソーの方が良いのは不思議だ。それでもコロムビアのニノン・ヴァランが歌う「ハバネラ」や「セギディリア」などは、さすがに昔の大カルメン歌手らしく<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたものだ。カルメンと同じスペイン人で、若くて死んだスペルヴィアの「ハバネラ」や「セギディリア」も異色がある。ホセは近頃騒がれているビクターのビヨルリンクと、古いテナーのジーリは共に良かろう。闘牛士の歌にはティベット以外に良いのがない。

それからビクターに入っているストコフスキー指揮の「カルメン」組曲はストコフスキーらしい要領と豪華さで目立つ。

歌劇「真珠採り」は全曲レコードがなく、一枚物が少し入っている。「アルルの女」組曲はビゼーのものでは「カルメン」に次いで愛されるが、飛び付くほどの良いレコードはない。第一、第二組曲全部をレコードしたのはコロムビアのアンゲルブレック指揮、パリ交響管弦団のだけ。抜粋で食いつきの良いのはストコフスキーの指揮したビクターのだろう。

## ブルッフ

（<em>Max Bruch</em> 1838―1920）

ユダ的な<ruby><rb>幽婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>な、<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>的な音楽が特色である。ドイツ<ruby><rb>浪漫</rb><rt>ロマン</rt></ruby>派の変り種だ。

「ヴァイオリン協奏曲第一番＝ト短調（作品二六）」は雄麗な曲だ。ビクターのメニューインが名盤である（七五〇九―一一）。第二番も良い曲だがレコードはない。

「コル・ニードライ」はユダの礼拝楽から採ったもの、ブルッフの代表作のように思われている曲だ。宗教的で優麗をきわめる。レコードはカサルスのが名演で（ビクター愛好家協会第二集）、愛好家協会の全レコード中の人気をさらったと言われている。カサルスのこの曲の旧盤は、音のコロムビアに入っているが雑音だらけな録音ながら、若々しくなんとも言えぬ良いものであった。

## ムーソルグスキー

（<em>Modest Musorgsky</em> 1839―1881）

ロシア国民楽派の五人組の中でも最も異色ある天才だ。作曲上の伝統を無視したために、生前は<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いられなかったが、その近代リアリズムの強烈な表現は、後より来るものへの影響が非常に大きい。

歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」は驚くべき作曲で、<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>るような現実感に、従来の<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>八百の歌劇を<ruby><rb>顔色</rb><rt>がんしょく</rt></ruby>なからしめる。シャリアピンがロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場で実演したのをレコードして、ビクターから三枚出ている（ＪＤ一五一八―二〇）。録音はよくないが緊迫感が<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい。それから同じシャリアピンの「<ruby><rb>時計</rb><rt>とけい</rt></ruby>の場」と「<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>は最高権威者だ」が一枚（ビクターＪＤ二二六）、「ボリスの別れ」と「ボリスの死」も一枚になっている（ビクターＪＤ八六二）。ほかに「レヴォルュショナル・シーン」の合唱が二枚あったが、それは廃盤になった。良いものであったが惜しいことである。

「ホヴァンシチナ」は「ボリス・ゴドゥノフ」に劣らず良い歌劇だが、レコードはきわめて少なく、クーセヴィツキーの指揮した序曲が、ビクター愛好家協会に入っているだけだ。

ムーソルグスキーの独立した歌曲も<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い。シャリアピンの「<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>の歌」（ビクター六七八三ノＡ）と「トレパック」（ビクターＪＤ七二三）は有名なレコードだが、ほかにまとまったものでは、コロムビアに<ruby><rb>不思議</rb><rt>ふしぎ</rt></ruby>なテナー歌手ロージングが「ムーソルグスキー歌曲集」二巻（Ｊ八六一〇―二、Ｊ八六一四―六）を入れている。一種特異な<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い表現を持った歌手だが、技巧は非常にうまい。

管弦楽では山の<ruby><rb>妖異</rb><rt>ようい</rt></ruby>の夜宴を描いた「<ruby><rb>禿山</rb><rt>はげやま</rt></ruby>の一夜」が面白い。きわめて怪奇なものだが、手頃な交響詩だ。コロムビアのパレー指揮のレコードがすぐれている（Ｊ八三六五）。「展覧会の絵」は原作のピアノの方が面白いが、ラヴェルが管弦楽に編曲したのがクーセヴィツキーの指揮で入っている（ビクター七三七二―五）。これは気の抜けたものだ。

## シャブリエ

（<em>Alexis Emmanuel Chabrier</em> 1841―1894）

フランスの特色的な作曲家で、近代音楽に先駆した。「エスパナ狂詩曲」がよく知られている。ピエルネ指揮のコロムビア・レコードが挙げられる（Ｊ八三五六）。

歌ではビクターの「フランス歌謡曲集」にベルナックが一つ二つ歌っている。

## マスネー

（<em>Jules Massenet</em> 1842―1912）

十九世紀末のフランス的な、最も<ruby><rb>妖麗</rb><rt>ようれい</rt></ruby>な、最も<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>的な美を持った歌劇を書いた作曲家である。

歌劇「マノン」の「夢の歌」は旧盤のクレーマンに及ぶものなく、歌劇「タイス」の「<ruby><rb>瞑想曲</rb><rt>めいそうきょく</rt></ruby>」は旧盤のファーラーに及ぶもののないのは皮肉だ。「タイス」はフランスのソプラノで、ファンニー・エルディが良く、その「鏡の歌」もフランス・グラモフォンに入っているが、日本プレスはない。歌劇「首領」と「ウェルテル」は一、二枚ずつは入っているがビクターの「ウェルテル」は子供の合唱の入った面白いものだ。ほかには「夢の歌」のスキーパでも採ろうか。

「悲歌」は歌でもチェロ編曲でも有名だが甘過ぎて少々胸が悪くなる。どうしてもという人はコロムビアのヴァランなどを聴くべきだろうか。

## グリーク

（<em>Edvard Grieg</em> 1843―1907）

スカンディナヴィアの大作曲家、北欧的な地方色と、その温雅な人格の反影とも言うべき、親しみ深い曲が特色である。代表作はイプセンの劇に付けた音楽「ペール・ギュント」第一組曲、第二組曲の二つでビゼーの「アルルの女」などと共にこれほど多く演奏される曲は少ないにかかわらず、良いレコードはない。ビクターのグーセンス指揮のが、中途半端な演奏ながら二組<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>っている。

「ピアノ協奏曲＝イ短調（作品一六）」は物優しい良い曲だ。ビクターにバックハウスのピアノとバルビロリがニュー・シンフォニー管弦楽団を指揮したのが入っている（ＪＤ二八七―九）。

歌では「ペール・ギュント」の中の「ソルベーグの歌」がおそろしく<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>している。ガリ＝クルチが有名だ（ビクター六九二四）。エリザベト・シューマンも特色がある。

ほかに「ヴァイオリン・ソナタ」「チェロ・ソナタ」「弦楽四重奏曲」「抒情組曲」「交響舞踊曲」などがあるが推賞するほどのレコードはない。

## リムスキー＝コルサコフ

（<em>Nikolai Rimsky\-Korsakov</em> 1844―1908）

ロシア国民楽派五人組の最も年少者、教養が高かったのと、管弦楽法の名人で、その作曲には手の込んだ技巧的なものが多い。ムーソルグスキーの<ruby><rb>荒削</rb><rt>あらけず</rt></ruby>りな作品に手を入れて、名作を我らに<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>してくれたのはもう一つの<ruby><rb>手柄</rb><rt>てがら</rt></ruby>である。

交響組曲「シェエラザード」は代表作である。アラビア夜話に取材して、豪華な夢を織りなす手際は見事だ。レコードではストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団を指揮したのが絶対的に良い（ビクターＪＤ七七一―六）。

歌劇「サドコ」は面白い曲だ。がこの中の「インドの歌」だけがいろいろの人に歌われたりヴァイオリンに編曲されたりして入っている。歌劇「<ruby><rb>金鶏</rb><rt>きんけい</rt></ruby>」の「太陽への<ruby><rb>讃歌</rb><rt>さんか</rt></ruby>」も有名だが取立てて言うほどのものはない。

## フォーレ

（<em>Gabriel Fauré</em> 1845―1924）

近代フランス音楽の最も大きい魅力はガブリエル・フォーレだ。この人はサン＝サーンスの影響を受けたはずだが、作品は少しもサン＝サーンスに似ず、一世を<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>したワグナーの影響にも外に立って、真にフランス的なものを築き上げた。それは優雅で清潔で、限りなく美しい。おそらく近代フランスの作曲家中、ドビュッシーと共に最も大きな生命を持つ人であろう。

「<ruby><rb>鎮魂</rb><rt>ちんこん</rt></ruby><ruby><rb>弥撤</rb><rt>ミサ</rt></ruby>曲」は中年期の傑作で、古典の宗教楽と違った人間臭い美しさを持っている。レコードはビクターにブレー指揮バッハ協会合唱団のがあり（ＪＤ六二七―三一）、コロムビアにブールモーク指揮、リヨン混声合唱団のがある（ＪＷ五〇九―一三）。これは吹込みは古いがビクターの方が<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに良い。

「ヴァイオリン・ソナタ第一番イ長調（作品一三）」は幽玄と言ってよいほどの<ruby><rb>深々</rb><rt>しんしん</rt></ruby>とした美しさを持ったソナタで、コルトーとティボーの演奏したビクター盤は、一時中古市場の話の種になったほどの高価なレコードであったが、吹込みがいかにも古くて一般の鑑賞には向かない。新しいのではコロムビアに二人の女流ソリアーノ（ヴァイオリン）とタリアフェロ（ピアノ）があり（Ｊ八三〇一―三）、ビクターにハイフェッツ（ヴァイオリン）とベイのがある（ＪＤ一〇一四―六）。いずれとも言い難い。

「ピアノ四重奏曲第一番＝ハ短調（作品一五）」は古典の味のある深々とした良い曲だ。ビクターにメルケルのヴァイオリン、テンロックのピアノその他で入ったのがあり（ＪＨ二六―九）、コロムビアにカザドシュスのピアノ、カルヴェのヴァイオリンその他で入ったのがある（Ｊ八六二二―五）。これもどちらとも決し難い。前者はヴァイオリンがすぐれ、後者はピアノが良い。

「ピアノと管弦楽のための<ruby><rb>譚詩曲</rb><rt>バラード</rt></ruby>（作品一九）」はロンの名演がある（コロムビア八〇二九―三〇）。「弦楽四重奏曲（作品一二一）」のクレトリー四重奏団のレコードも逸するわけにいくまい（コロムビアＪ七九〇七―九）。

ピアノ曲ではロンの「夜想曲第六番」（コロムビアＪ八七五五）、「即興曲第二番」（コロムビアＪ五四七六）などが挙げられよう。

フォーレの歌はデュパルクの歌と共に、フランス歌曲の<ruby><rb>粋</rb><rt>すい</rt></ruby>だ。どこまでもやさしく美しい。「夢の後に」（コロムビアＪ五三一三）、「<ruby><rb>揺籃</rb><rt>ようらん</rt></ruby>」（同Ｊ五六二二）、「月光」（同Ｊ五六二二）、「秋」（同Ｊ五四九八）、「ある日の詩」（同Ｊ五五四三）、ことごとくニノン・ヴァランが名演奏だ。この内の一、二枚を<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>るなら「夢の後に」と「月光」がよかろう。ヴァランの派手な甘さにフォーレがぴたりとする。「幻想の地平線」はビクターのパンゼラが良い（ＪＤ一二八五）。

## デュパルク

（<em>Henri Duparc</em> 1848―1933）

かつてフランクの門に集った新しいフランスの作曲家の一人であったが、そのフランス語の独特のメロディーは、言いようもなく美しい。人間の声の芸術の最高の洗練を思わせると言ってよい。

「旅への<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>い」はボードレールの詩に付けた未知の国へ誘う夢の歌、デュパルクの傑作の一つだが、バリトンのパンゼラの歌ったレコードは傑作だ（ビクターＪＤ一四八）。この歌はＨ・Ｍ・Ｖには管弦楽の伴奏とパンゼラ夫人のピアノの伴奏と二種入っている。

「悲しき歌」はコロムビアのクロアザを採るべきだろう（Ｊ五一九五）。「波と鐘」「フィディレ」はパンゼラの名盤がある。デュパルクの歌はまだあるが、これ以上は特別な興味を持った人に限られて来る。

## ダンディ

（<em>Vincent D'Indy</em> 1851―1931）

フランクの<ruby><rb>衣鉢</rb><rt>いはつ</rt></ruby>を継いた人だが、傾向は独自のものがあった。交響曲「フランスの山の主題による」がレコードされている。ロン（ピアノ）、バレー指揮、コンセル・コロンヌ交響管弦団の演奏がある（コロムビアＪ八五二七―九）。

ダンディの自作の「山の詩」をひいたピアノ・レコードがフランスにあるが、それは<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>になった。日本では手に入り難い。

## ショーソン

（<em>Ernest Chausson</em> 1855―1899）

フランク門下の最も特色のある作曲家だ。その清麗にして情愛に富んだよき近代フランス趣味は万人に愛される。

「ピアノとヴァイオリンのための協奏曲＝ニ長調（作品二一）」は情熱のある美しい曲、コルトー（ピアノ）、ティボー（ヴァイオリン）と弦楽四重奏団の演奏したレコードは非常に良い（ビクターＤＢ一六四九―五三）。

「詩曲（ヴァイオリンと管弦楽のための）」は、前者よりも思想的に深みを持つ。優麗で率直で、しかも訴える力が強い。メニューインのヴァイオリンで、師のエネスコがパリ音楽院管弦団を指揮したレコードがすぐれている（ビクターＪＤ二三九―四〇）。

「リラの花咲く時」はショーソンの代表的な歌だ。旧盤のメルバは<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>レコードの大関格の名盤だが、電気以後にはパンゼラの歌ったものがある（ビクターＪＤ一二五一）。メルバほどの清潔な柔らかさと甘さがない。

## リアドフ

（<em>Anatol Lyadov</em> 1855―1914）

リムスキー・コルサコフ門下、<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な曲に良いものがある。大した人ではないが舞踊曲や、ピアノ曲に見るべきものがあり、わけてもロシア民謡の研究に貢献したところが多い。コーツの指揮した「ロシア民謡選曲集」（ビクター九七九七―八）、同じコーツの指揮で「音楽玉手箱」が民謡集の四面目に入っている。この「音楽玉手箱」のピアノでひいたレコードを<ruby><rb>岩崎雅通</rb><rt>いわさきまさみち</rt></ruby>さんが長い間捜して、旧盤でようやく手に入れたという話があった。

## イッポリトフ＝イヴァノフ

（<em>Mikhail Ipplitov\-Ivanov</em> 1856―1935）

ロシア近代の作曲家で指揮者、組曲「コーカサスの風景」が代表作、通俗な曲だ。ストコフスキーが、「村の中」（ビクターＪＩ九二一）と「<ruby><rb>酋長</rb><rt>しゅうちょう</rt></ruby>の行進」（同ＪＥ一七六）を指揮している。この人の曲は日本人好みに投ずるらしく、ラジオで一週間に一度くらいずつはきっとレコードをかけている。

## エルガー

（<em>Edward Elgar</em> 1857―1934）

英国現代の国民的尊敬を集めた作曲家、十数年前友人中村善吉氏が英国にＨ・Ｍ・Ｖ盤の注文を発したとき「赤盤の傑作集は全部送ってもらいたいが、エルガーの作品は送るに及ばない」と言ってやると、リミントン商会の主人かが、「エルガーは当代第一の大作曲家である。貴下がなんとおっしゃろうと、エルガーの作品レコードは全部送るであろうぞ」と<ruby><rb>高飛車</rb><rt>たかびしゃ</rt></ruby>に言って来た話がある。英国人のエルガーに対する熱心さを知るべきである。この人の作曲は穏当で、英国風ではあるが当代の大作曲家としての貫禄は充分だ。レコードはかなり多く入っているが、「威風堂々たる陣容」や「<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>」など有名な作品のほかに、エルガー自身の指揮した「第二シンフォニー」、メニューインの「ヴァイオリン協奏曲＝ロ短調」などがある。

## プッチーニ

（<em>Giacomo Puccini</em> 1858―1924）

イタリー歌劇の作曲家で、「お<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>夫人」「ラ・ボエーム」のような甘美なオペラを作った。ヴェルディほど偉大ではないが、一般的に愛される作品は少なくない。

「マダム・バタフライ」「トスカ」共にコロムビアにモラヨーリが指揮した全曲レコードがあり、「ラ・ボエーム」はビーチャムが指揮した第四幕だけが入っている。歌劇の一枚物は旧盤時代の歌手の方が良いと思うが、しかしビヨルリンクの「<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>が小さき手」（ビクター愛好家協会第三集）などは傑作だ。

## レオンカヴァルロ

（<em>Ruggero Leoncavallo</em> 1857―1919）

歌劇「<ruby><rb>道化師</rb><rt>どうけし</rt></ruby>」一つで有名になっている。「道化師」はたった二幕の短かい歌劇だが傑作だ。全曲レコードは名テナーのジーリその他の歌手と、ギオーネがスカラ座の管弦団と合唱団を指揮して入れている（ビクターＪＤ五一〇―八）。一枚物ではカルーソーのものが良い。

## ヴォルフ

（<em>Hugo Wolf</em> 1860―1903）

ドイツ・リードはシューベルトからシューマンを経て、フランツとヴォルフの二つの型に分れた。ヴォルフのリードは伴奏部を<ruby><rb>広大</rb><rt>こうだい</rt></ruby>にし、表現は重厚になると共に、アクセントに神経質になって、一種の味を持たせたが、初期のリードに比べると、暗くて<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しさは免れない。しかし異彩ある作家で、一部に熱心な支持者を持っている。

十年ばかり前Ｈ・Ｍ・Ｖで、雑誌グラモフォンのマッケンジー氏の提唱で「ヴォルフ協会」を組織したとき日本から数百名の参加者があって、日本人の熱心さが、大いに英国人を驚かしたこともあるが、一集七枚のレコードを五集まで取った人は日本に幾人もなかったであろう。なんといってもヴォルフの歌曲はむずかしく、日本では容易に一般的になりやすくない。

第一集はゲルハルトだけで歌い、第二集以下はいろいろの人が歌っている。ゲルハルトはこの時もう老境には入っていたが、さすがに最も優れたものであった（ヴオルフ協会のゲルハルトについては小著「名曲決定盤」に詳説している）。

一枚物ではポリドールのシュルスヌスがかなりたくさん入れている。この人は声の質が美しいので、ヴォルフの暗い歌を面白く聴かせる。ほかにはポリドールのスレザークの「<ruby><rb>隠栖</rb><rt>いんせい</rt></ruby>」が名演だ（五〇〇三〇）。ビクターのゲルハルトも総体によく「隠栖」も別の味であり（ＤＡ一二一九）、ビクターのレーマンの「アナクレオンの墓」も推賞される（ＪＥ三四、ドイツ歌曲集）。

古い話ではあるが、ゲルハルトが名指揮者ニキシュのピアノ伴奏で入れたヴォルフの「望郷」が名盤で二十五歳のゲルハルトの良さが<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれる。Ｉ・Ｒ・Ｃ・Ｃ及び歴史的名盤集から出ている。

## アルベニス

（<em>Isaac Albeniz</em> 1860―1909）

スペイン近代の最も優れた作曲家、ファリアやグラナドスの先輩として、現代スペイン音楽の先駆をなしている。まとまったものはあまりレコードされていない。組曲「イベリア」は唯一の組物だ。ピアノの一枚物では、老ピアニスト、ヴィニエスのピアノでコロムビアに「セギディリア」「グラナダ」があり、ビクターに「カディス」がある。他にビクターにコルトーが二枚「<ruby><rb>椰子</rb><rt>やし</rt></ruby>の<ruby><rb>木陰</rb><rt>こかげ</rt></ruby>」と「セキディリア」。それからビクターのイトゥルビの「コルドバ」は異色がある。ヴァイオリンに編曲したものでは、ビクターにティボーのひいた「タンゴ」と「マラゲーニア」がある。

## マーラー

（<em>Gustav Mahler</em> 1860―1911）

近代ドイツ風の交響曲作曲家として、これほど<ruby><rb>広大</rb><rt>こうだい</rt></ruby>なスケールと、壮麗な表現を持った人はない。美しさにおいては比類の少ない人であるが、同時に<ruby><rb>事大癖</rb><rt>じだいへき</rt></ruby>が災いして、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ親しまれ難いものを持っている。レコードも決して少ない方ではない。

「交響曲第二番＝ハ短調」はアルトの独唱と合唱の入った大きなものだが、二度吹込まれており、オルマンディがミネアポリス交響管弦団を指揮したビクター・レコードが新しい（ＪＤ九五五―六五）。豊麗な曲で演奏も悪くないが広大に過ぎて盛り上る焦点がないから一般的にはどうであろう。

「交響曲第五番＝嬰ハ短調」の第四楽章だけワルターがウィーン・フィルハーモニック管弦団を指揮したのがある（コロムビアＪＳ二五）。たった一枚だがこれは良い。

「大地の歌」は<ruby><rb>李太白</rb><rt>りたいはく</rt></ruby>や<ruby><rb>王維</rb><rt>おうい</rt></ruby>の詩の独訳からヒントを得て作曲した長大な歌曲だ。これはおそらくマーラーのレコード中の傑作であろう。歌も音楽も少しも中国的ではないが、<ruby><rb>蒼古</rb><rt>そうこ</rt></ruby>雄大な人に迫る美しいものを持っている。ワルター指揮、ウィーン・フィルハーモニック管弦団、トルボルグ（アルト）、クールマン（テナー）等が歌っている（コロムビアＪＳ一三九―四五）。

「亡き児を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶ歌」は悲しくも身につまされる歌だ。少し実感が強過ぎるが、切々たる情愛が人に涙させる。ポリドールのレーケンパーは録音は古いがすばらしい（四五一五四―六）。

「我はこの世に忘れられて」はトルボルクがワルター指揮で歌っているのがうまい（コロムビアＪＤ五六〇六）。ほかにシュルスヌスの歌った「子供の<ruby><rb>不思議</rb><rt>ふしぎ</rt></ruby>な<ruby><rb>角笛</rb><rt>つのぶえ</rt></ruby>」がある（ポリドール四五一二九）。

## シャルパンティエ

（<em>Gustave Charpentier</em> 1860―1956）

歌劇「ルイーズ」の作曲者、このパリの<ruby><rb>市井</rb><rt>しせい</rt></ruby>の物語を独得の方法で描いたオペラは、立派な美しい作品で示唆と暗示に富んでいるばかりでなく、親しみ深く面白いものだ。ワグナーやドビュッシーと共に、それは尊敬さるべきである。レコードはニノン・ヴァランやティルといった大歌手を動員して、作曲者監修の下に吹込んだものがあり、歌劇レコードの名品の一つと言ってよい（コロムビアＪ八六七二―九）。

交響劇「詩人の生涯」は作曲者指揮、パードルー管弦団（ビクターＪＤ七〇二―五）も推される。組曲「イタリーの印象」も有名なものだが、作曲者の指揮した古いレコードしかない。

## パデレフスキー

（<em>Ignacy Jan Paderewski</em> 1860―1941）

第一次欧州大戦後ポーランドの大統領に推された大ピアニスト、当代の有する英雄的な音楽家であったが、祖国の急を見ながら米国で客死した。演奏は巨人的な見事さであったが、作曲は華麗で外面的であまり良いものはない。歌劇もコンチェルトもあるというが、レコードでは「メヌエット＝ト長調」が愛される。作曲者のひいたのがビクターに三、四度吹込み直した（ＪＤ一二八〇及び愛好家協会第二集）。ほかに華麗な「幻想的なクラコヴィアク」であるがこれはクロイツァーのひいたコロムビア・レコードだ。

## シャミナード

（<em>Cecile Chaminade</em> 1857―1944）

この集にたった一人の女流作曲家を加えるのも紅一点の面白さであろう。シャミナードは<ruby><rb>生</rb><rt>き</rt></ruby>っ<ruby><rb>粋</rb><rt>すい</rt></ruby>のパリっ子でかつては美しいピアニストとして有名であった。昔のレコードにはクララ・バットの歌った小さい歌曲「<ruby><rb>指環</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>」があり、シャミナード自身の弾いたピアノ・レコードが五枚、<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>中の骨董レコードとして記録されているが、手に入る見込はない。日本で聴けるレコードは、名人アマディオがフリュートを吹いている「小協奏曲」だけだ（ビクターＪＤ一一九四）。

## マクダウェル

（<em>Edward MacDowell</em> 1861―1908）

アメリカの持つ最も芸術的な作曲家であった。特異な個性を持った<ruby><rb>浪漫</rb><rt>ロマン</rt></ruby>的な歌曲に良いものがあるが歌のレコードは一つもない。「ピアノ協奏曲＝ニ短調」がサンロマのピアノ、フィードラーの指揮でビクターに入っている。

## マスカーニ

（<em>Pietro Mascagni</em> 1863―1945）

歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」たった一曲で現代イタリー歌劇界に地歩を占めている。レコードはビクター黒盤のほかに挙ぐるほどのものはない。

## ピエルネ

（<em>Gabriel Pierné</em> 1863―1937）

ドビュッシーと時代を同じうし、フランス風の優雅な趣味と、新しい感覚と、そして古典への懐古的な興味がこの人を特色づける。自作を指揮してレコードに入れたものが幾つかある。舞踊曲「旋回」などがその例だ（コロムビアＪ八三〇六）。この人はそれよりも指揮者として<ruby><rb>令名</rb><rt>れいめい</rt></ruby>があり、フランス近代のものをかなりたくさんレコードしている。

## リヒアルト・シュトラウス

（<em>Richard Strauss</em> 1864―1949）

現代の有する最も大きな作曲家である。その作曲は一般人にとっては難解なものであるが、それはこの人の意図が尋常でなく、非凡の才能をもって、交響曲詩の表現力を、文学的あるいは哲学的の領域にまで押し上げたからである。この人の大胆な革新態度と、強烈な個性は、その比類のない管弦楽法の手腕を<ruby><rb>駆使</rb><rt>くし</rt></ruby>してとにもかくにも前例のない驚くべき作品を完成させている。好むと好まざるとに関せず、Ｒ・シュトラウスの偉大さは認めなければならぬ。

レコードも非常に多い。そのうちから最も<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたのを挙げると、まず日本の紀元二千六百年を祝賀した「祝典音楽」のポリドール・レコードを第一に挙げなければなるまい。

交響詩曲では「ドン・ファン」、これはベームがザクセン王立管弦団を指揮したのが最も新しく（ビクターＶＤ八〇二四―五）、「死と変容」はストコフスキー指揮のが新しい（ビクターＪＩ四一―四）。

「ツァラトウストラはかく語れり」はクーセヴィツキーの指揮したのがある（ビクターＪＤ五七一―五）。

「<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>か<ruby><rb>貴族</rb><rt>きぞく</rt></ruby>」は二通りも入っている。「ドン・キホーテ」はシュトラウス自身指揮のがポリドールにあり（四五〇七〇―四）、「ティル・オイレンシュピーゲル」もたくさんあるが、フルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニック管弦団を指揮したのがよかろう（ポリドール六〇一八八―九）。

「英雄の生涯」もその曲を献呈されたメンゲルベルクの指揮したのが米国ビクターにあるが、日本プレスはなく、それにもう録音が古い。

楽劇「<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>の<ruby><rb>騎士</rb><rt>きし</rt></ruby>」の全曲ではないが全曲を<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>させる大物がビクターに入っている。レーマン（ソプラノ）、マイアー（バリトン）、オルシェヴスカ（メゾ・ソプラノ）、エリザベト・シューマン（ソプラノ）という当代で想像し得るベスト・メンバーで、ヘーガーがウィーン国立歌劇場合唱団とウィーン・フィルハーモニック管弦団を指揮した豪華盤だ（ビクターＪＤ三九一―四〇三）。

楽劇「サロメ」の「七つのヴェールの踊り」は有名な<ruby><rb>妖艶</rb><rt>ようえん</rt></ruby>な場面で、レコードもたくさん入っているが、困ったことに皆新しくない。古いのでポリドールの作曲者指揮、やや新しいのでビクターのコッポラ指揮というところだ。

歌曲はエリザベト・シューマンが「セレナード」（ビクターＪＤ三八六）、「朝」（同ＪＤ三八六）を歌ったのが二つとも佳作だ。シューマンはシュトラウスが得意だとされている。ほかにシュルスヌスもシュトラウス自身が自作を指名して歌わせた例があり、その「セレナード」などは名品と言える（ポリドール六〇一〇〇）。

## グラズーノフ

（<em>Alexander Glazunov</em> 1865―1936）

帝政ロシア以来のソ連楽壇の<ruby><rb>重鎮</rb><rt>じゅうちん</rt></ruby>であった。

「ヴァイオリン協奏曲＝イ短調（作品八二）」をハイフェッツの演奏したのが技巧的に面白いだけのこと（ビクターＪＤ四二七―九）。舞踊組曲「四季」を自分で指揮したのがコロムビアにあるがつまらない。交響詩曲「ステンカ・ラージン」と言ったようなものもある。

## デューカ

（<em>Paul Dukas</em> 1865―1935）

不思議な技巧を持った人である。高度の<ruby><rb>洗練</rb><rt>せんれん</rt></ruby>と神経質な新鮮さが興味をひく。交響詩曲「魔法使いの<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>」が代表作。トスカニーニ指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック管弦団の演奏をとる（ビクターＪＤ一二四五）。コロムビアにゴーベル指揮のもある。

## シベリウス

（<em>Jean Sibelius</em> 1865―1957）

フィンランドの国民的な音楽家、フィンランド政府の<ruby><rb>庇護</rb><rt>ひご</rt></ruby>は至れり尽せりで、レコード吹込み<ruby><rb>頒布</rb><rt>はんぷ</rt></ruby>にまで補助していた。

「フィンランディア」はフィンランドの郷土を<ruby><rb>讃</rb><rt>たた</rt></ruby>えた音詩で、シベリウスの代表作だ。レコードはストコフスキー指揮のが良かろう（ビクター七四一二）。「悲しきワルツ」も有名な作品だが、ストコフスキー指揮のとエルマンがヴァイオリンでひいたのがある。

「ヴァイオリン協奏曲＝ニ短調」はハイフェッツの演奏したのがある（ビクターＪＤ一四九〇―三）。これと「フィンランディア」ぐらいは用意してよい。

シベリウスの八曲の「交響曲」は四つまでレコードされ、日本にも三つプレスされている。「交響曲第一番＝ホ短調」と「交響曲第二番＝ニ長調」はカヤヌスの指揮でコロムビアから。これはフィンランドの保護をうけて売出されたもので特色的な良いものであったが、「交響曲第四番＝イ短調」ストコフスキー指揮のビクター盤と共に廃盤になってしまった。

## サティ

（<em>Erik Satie</em> 1866―1925）

非常に変った作曲家だ。フランスの<ruby><rb>尖端的</rb><rt>せんたんてき</rt></ruby>な音楽家「六人組」の年長者、<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>な音楽にとんでもない<ruby><rb>諧謔味</rb><rt>かいぎゃくみ</rt></ruby>を持たせ、かえって一種の<ruby><rb>真迫性</rb><rt>しんぱくせい</rt></ruby>を出した作品がある。レコードは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ少ない。ピアノ曲「グノシェンヌ」第一番をコープランドが<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>いているし（ビクターＪＦ三三）、歌曲「銅像」と「帽子屋」をベルナックがプーランクの伴奏で歌っている（ビクター現代フランス歌曲集）。コロムビアにも二、三枚サティのレコードはあったが惜しいことに廃盤になったらしい。

## グラナドス

（<em>Enrique Granados</em> 1867―1916）

最も甘美なスペイン風の曲を作った人だ。第一次欧州大戦中、大西洋上で撃沈された船と運命を共にした。

「スペイン舞曲」は代表的な佳作だ。かつて五曲揃ってオリジナルのピアノ曲にも管弦楽にもあったはずだが、今はカタログに見えない。五曲のうち、わけても二番と五番が良く、ヴァイオリン用に編曲されたのがかえって有名で、レコードはティボーが「スペイン舞曲第五番＝ホ短調」「第六番＝ニ長調」（ビクターＪＤ六五二）を入れているほか、カサルスのチェロに「第五番」（ビクター一三一一）と歌劇「ゴエスカス」の間奏曲（ビクター六六三五）がある。この上もなく甘いものだ。

## ルッセル

（<em>Albert Roussel</em> 1869―1937）

フランス印象派の音楽をきわめて<ruby><rb>精緻</rb><rt>せいち</rt></ruby>な境地に引き上げた作曲家、精緻に過ぎて大衆性はないが、芸術的な香気の高い作品が少なくない。

「<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の<ruby><rb>饗宴</rb><rt>きょうえん</rt></ruby>」が代表作だ。コロムビアの今は<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>きストララムが自分の管弦団を指揮したのが佳作で、ストララムの記念的な意味もある（Ｊ七八三〇―一）。

## シュミット

（<em>Florent Schmitt</em> 1870―1958）

印象派の作曲家の一人。組曲「サロメの悲劇」が作曲者自身の指揮でコロムビアに入っている。

## ヴォーン＝ウィリアムス

（<em>Ralph Vaugham\-Williams</em> 1872―1958）

英国の現代作曲家、郷土的な味の濃い人で交響楽にも室内楽にも民謡的な情趣を取り入れている。レコードは電気吹込み以後ほとんどない。旧吹込みには「ロンドン交響曲」や歌曲で佳作「オン・ウェンロック・エッジ」などがあった。

## スクリアビン

（<em>Alexander Skryabin</em> 1872―1915）

今世紀の初頭から第一次欧州大戦前まで、最も大胆にして革命的な音楽家として<ruby><rb>喧伝</rb><rt>けんでん</rt></ruby>された。その音楽論は官能主義に徹して、伝統を無視したものであったが、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>はカンディンスキーの絵画におけると同様、理論に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れて、優れた才能を<ruby><rb>伸</rb><rt>のば</rt></ruby>し切らぬうちに倒れてしまった形である。しかし視覚や<ruby><rb>嗅覚</rb><rt>きゅうかく</rt></ruby>までも音楽に採り入れようとした試みは大胆不敵で興味の深いものであった。

「法悦の詩」と「プロメテウス」はその代表作で、幸いビクターにストコフスキーの指揮で入っている（七五一五―八）。

ピアノ曲にはなかなかの佳作があり、「ピアノ・ソナタ第九番」と「同第一〇番」はシュンキエウィッツの演奏で十数年前日本ポリドールの名曲鑑賞会から出ているが、さすがに吹込みが古い。ほかにポリドールからブライロフスキーの演奏で「練習曲変ニ長調」と「前奏曲（作品一一ノ一〇）」が出ている。

## レーガー

（<em>Max Reger</em> 1873―1916）

ドイツの保守的な作曲家、歌曲「マリアの子守歌」が美しい。ビクターの名演奏家秘曲集にゲルハルトの歌った良いレコードがある。器楽曲も幾つか入っているが<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>いのはない。この人の得意のオルガン曲のレコードはまだないようだ。

## シェーンベルク

（<em>Arnold Schönberg</em> 1874―1951）

無調主義の音楽を主張しそれを実行に移した、最も破壊的にして同時に最も大胆な新機軸を生み出した作曲家、オーストリア生まれで、まだ健在である。「浄夜」は初期の作品だが弦楽六重奏曲で、美しさもある。オルマンディーがミネアポリス交響管弦団を指揮したレコードがある（ビクターＪＤ七七七―八〇）。

## アーン

（<em>Reynaldo Hahn</em> 1875―1947）

フランスの歌謡作曲家。レコードでは「ベアトリス・デスデの舞踏会」などが入っているが、やはりニノン・ヴァランの歌った「最後のワルツ」や「風景」などの方が良い。

## ラヴェル

（<em>Maurice Ravel</em> 1875―1937）

ドビュッシーの感化を受けたが、同時にドビュッシーにも感化を及ぼし、フランス音楽に独自の境地を打ち立てたのがラヴェルである。ドビュッシーほど詩はないが、ドビュッシーよりはリアリスティックで技巧はもっと<ruby><rb>精微</rb><rt>せいち</rt></ruby>であり<ruby><rb>簡勁</rb><rt>かんけい</rt></ruby>でもあった。レコードは<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい。

「マ・メル・ロア」はお<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>のマザー・グースに題材を採った組曲で、美しく清潔な曲だ。コロムビアのピエルネ指揮のが古い吹込みだが美しい（Ｊ八六四九―五〇）。

「ダフニスとクロエ」は舞踊曲の代表作、楽しさには欠けているが、<ruby><rb>精緻</rb><rt>せいち</rt></ruby>で驚くべき見事さだ。第一組曲はコッポラ指揮のがあり（ビクターＪＤ四四三）、第二組曲はゴーベル指揮のがある（コロムビアＪ七七四九―五〇）。

「スペイン狂詩曲」はコロムビアのピエルネ指揮のが録音は古いが騒がしくなくて良い（Ｊ八二九五―六）。

「ボレロ」はラヴェルの作品中、映画に題材として用いられた関係もあるだろうが、最もよく知られ愛される。が、けしからん巧みなもので、その単純性が一般に受け入れられるのだろう。無数にレコードされているが、ポリドールに入っているラヴェル自身の指揮のは録音は古いが面白い（Ｅ一八六―七）。次ではビクターのクーセヴィツキー指揮のだろうか。

組曲「クープランの墓」は有名でもあり、良い曲だ。古風な舞曲にラヴェルの清新さを盛ったところが面白い。コッポラ指揮のがよかろう（ビクターＪＨ一五七―八）。

室内楽では「弦楽四重奏曲＝ヘ長調」は名品で、コロムビアのカペエ弦楽四重奏団のが美しい（Ｓ一一一九―二二）。ピアノ協奏曲では「左手のためのピアノ協奏曲」は前欧州大戦で右手を失ったピアニスト、ウィットゲンシュタインのために作曲したもので、ポリドールに女流のブランカールが入れている（Ｅ一六七―八）。ほかに「ピアノ協奏曲」がもう一つ、コロムビアのロンのが名演だ（Ｊ八〇三五―七）。

ピアノ曲で「ピアノ小奏鳴曲」をコルトーの弾いたのは古い吹込みだが美しい（ビクターＪＤ五七六―七）。「<ruby><rb>道化師</rb><rt>どうけし</rt></ruby>の朝の唄」はギーゼキングのがあり（コロムビアＪＤ六〇一一）、「水の<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れ」はコルトーの名品がある（ビクターＪＤ五七七）。古い吹込みだが良いレコードだ。

ヴァイオリン曲では「ツィガーヌ」はラヴェルらしい野心的な意図を持ったものだ。ビクターにメニューインとハイフェッツのがあり、コロムビアにフランチェスカッティのがあり、それぞれに特色がある。

歌劇は「スペインの時」の全曲近いものがコロムビアに入っていたが、惜しいことに廃盤になったらしい。「三つのヘブライの歌」はグレエ（ソプラノ）の独唱でラヴェル自身ピアノを弾いたレコードがある（ポリドール五〇〇四三）。もう一つ「マダガスカル土人の歌」のグレエはラヴェルの指揮したトリオの伴奏でこれも面白いものだ（ポリドール五〇〇四四―五）。

こうたくさん<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>べると、何が良いかわからなくなる。私の趣味からはコルトーの「小奏鳴曲」と「水の<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れ」それにカペエの弦楽四重奏曲が一番親しめる。一般には「ボレロ」が人気があるが、なにか馬鹿にされてるような気がしないでもない。「ダフニスとクロエ」の良いレコードがあったらよかろうと思う。

## クライスラー

（<em>Fritz Kreisler</em> 1875―1962）

当代の最も有名なヴァイオリニスト、ウィーンに生まれて今は米国にいる。近頃自動車事故のため負傷したというが、幸い快方に向っているらしい。ヴァイオリニストとしてあまりに有名で作曲は忘られがちだが、ウィーン風のヴァイオリン小曲に<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>も言われない<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>なのがある。「ウィーン狂想曲」「愛の喜び」「愛の悲しみ」「美しきローズ・マリー」「<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>の太鼓」などことごとく作曲者の自演がビクターにある。「弦楽四重奏曲」などもレコードされているが、それは面白いものではない。

## ファリア

（<em>Manuel dé Falla</em> 1876―1946）

現代のスペインを代表する作曲家、その手法の練達さと、ローカル・カラーの香気の高いのを特色とする。「スペインの夜の庭」は非常に印象的な曲だ。ナヴァロ（ピアノ）とアルフテルの指揮するスペインの管弦団で入っている（コロムビアＪ七七七一―三）。

「クラヴサン協奏曲」は美しいことではファリアのレコード中で第一だろう。作曲者自身のクラヴサンにモイーズのフリュートで入っているのは大変な<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>だ（コロムビアＪ七八四四―五）。

舞踊曲「恋は魔術師」はアルフテルの指揮でセヴィリア・ベチカ管弦団が入れている。ヴェラスケス（メゾ・ソプラノ）の独唱も良い（コロムビアＪ五一七九―八二）。この曲の中の「愛の悩みの歌」と「<ruby><rb>狐火</rb><rt>きつねび</rt></ruby>の歌」をコロムビアのスペルヴィアの歌ったのは手に入って非常に良いものだ（Ｊ五四九〇）。

この「火祭の踊り」と「恐怖の踊り」をピアノに編曲したのをルービンシュタインが得意で、日本でも聴かせたが、レコードにも入っている（ビクターＪＥ二〇〇）。

「七つのスペインの民謡曲」はファリアの代表的な歌曲で、その中に有名な「ホタ」を含む。レコードはコロムビアのスペルヴィアの歌ったのが絶品だ（Ｊ五三八四―六）。

## ドナーニ

（<em>Ernest von Dohnányi</em> 1877―1960）

現代ハンガリーのピアニストにして作曲家、ピアノを演奏したレコードも入っている。作曲は交響曲、室内楽、歌劇にまで及んでいるが、穏健で郷土色が濃い。「管弦楽のための組曲」をストックが指揮したのやピアノ曲「随想曲＝へ短調」をホロヴィッツがひいたのがある。

## シュレーカー

（<em>Franz Schreker</em> 1878―1934）

オーストリアの作曲家。自身の指揮した、舞踊組曲「王女の誕生日」がある（ポリドール四五〇八一―三）。

## レスピーギ

（<em>Ottorino Respighi</em> 1879―1936）

イタリー現代の最も優れた作曲家だが、技巧家で、描写的なものをよく作っている。

交響詩曲「ローマの松」はビクターのコッポラ指揮のが新しい（ＪＤ一〇九八―九）。「ローマの泉」はモラヨーリ指揮のがコロムビアにある（Ｊ七五五四―五）。三部作のうち「ローマの祭」のレコードはなく、他に「鳥」はドフォー指揮のがコロムビアにある（ＪＷ一五九―六〇）。

## スコット

（<em>Cyril Scott</em> 1879―1970）

イギリス現代作曲家のうちで最も優れた人。Ｈ・Ｍ・Ｖに「<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>の国」をピアノでスコット自身ひいたのがあるが、日本にはない。クライスラーがヴァイオリンでひいたのがビクターにある（ＪＤ一五八八）。

## ピツェッティ

（<em>Ildebrando Pizzetti</em> 1880―1968）

現代イタリーで最も注目される作曲家。第一次欧州大戦の経験を描いたという「ヴァイオリン奏鳴曲＝イ長調」は特筆すべき作品だ。戦争に対する心理描写がよく出来ている。ビクターにメニューイン<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の演奏したレコードがある（ＪＤ一六二二―五）。イタリーにこんな作曲家のあるのが不思議でもある。

## バルトーク

（<em>Béla Bartók</em> 1881―1945）

ハンガリーの作曲家、リズムに新機軸を出したのと、郷土的な強健な色彩が特色である。

「アレグロ・バルバロ」と「バガテル第二番」をバルトーク自身が弾いたピアノ・レコードが面白い（ビクターＡＭ二六二二）。ほかに日本ポリドールが数年前名曲鑑賞会からアマール・ヒンデミット四重奏団の演奏した「弦楽四重奏曲第二番」を<ruby><rb>頒布</rb><rt>はんぷ</rt></ruby>したことがある（ポリドール四五一五七―六〇）。

## ラフマニノフ

（<em>Sergey Rakhmaninov</em> 1873―1943）

ロシアの国民楽派に対するモスコー派に属する系統の人で、若かりし日のチャイコフスキーの感化が、形を変えて今日の近代人ラフマニノフに残っている。ピアニストとしても第一流で、その作品にはすぐれたものが少なくない。

「ピアノ協奏曲第二番＝ハ短調」はラフマニノフ自身のピアノにストコフスキーの管弦団指揮で入っている（ビクター八一四八―五二）。<ruby><rb>撩乱</rb><rt>りょうらん</rt></ruby>目を奪うばかりの曲だ。「第三ピアノ協奏曲＝ニ短調」をホロヴィッツのピアノでロンドン交響管弦団の入れたのもあったが、これは廃盤になった。

「ピアノと管弦楽のための狂詩曲」もラフマニノフのピアノ、ストコフスキーの指揮で入っている（ビクターＪＤ七〇六―八）。

ピアノのための「前奏曲」はたくさん作っているが、「前奏曲＝嬰ハ短調（作品三ノ二）」は有名な曲だ。この含蓄の深い悲しい小品を作曲者自身ひいたのがある（ビクター一三二六）。

管弦楽では「死の島」が入っている。ベックリンの絵を題材としたもので、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい手の込んだ曲だが少し<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しい。レコードはラフマニノフ自身とフィラデルフィア管弦団の組合せで入っていたが、廃盤になってしまった。

## ストラヴィンスキー

（<em>Igor Stravinsky</em> 1882―1971）

現存作曲家中最も多くの話題を提供した人であろう。ロシアに生まれ、リムスキー＝コルサコフの影響を受けたが、当時<ruby><rb>勃興</rb><rt>ぼっこう</rt></ruby>したディアギレフのロシア舞踊団のために新鮮にして最も魅力に富んだ舞踊曲を書き、一挙にして世界の視聴を集めた。手法の自由さと意図の<ruby><rb>奔放</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>さに、<ruby><rb>褒貶</rb><rt>ほうへん</rt></ruby><ruby><rb>相半</rb><rt>あいなか</rt></ruby>ばしたが、その後<ruby><rb>相次</rb><rt>あいつ</rt></ruby>いで含蓄の深い大曲を発表し、独特の魅力で反対者の口を<ruby><rb>緘</rb><rt>かん</rt></ruby>してしまった。近頃の傾向として古典への復帰が伝えられているのも興味が深い。

舞踊組曲「ペトルーシュカ」は初期の作品で最も興味が深かろう。四旬祭のモスコー広場に興行する人形芝居の<ruby><rb>架空的</rb><rt>かくうてき</rt></ruby>な事件を舞踊劇にしたもので、<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかさとほのかな物悲しさとは比類もない。レコードはストラヴィンスキー自身の指揮したのもあるが、ストコフスキーのフィラデルフィア管弦団を指揮したのが最も鮮麗だろう（ビクターＪＤ一六四九―五二）。

舞踊組曲「火の鳥」は、ストラヴィンスキーの出世作でお<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>の舞踊劇だ。レコードはあまり良いのがない。作曲者指揮のがコロムビアにあり、ストコフスキー指揮のがビクターにある。

ほかに「春の祭典」ストコフスキー指揮、「兵士の物語」作曲者指揮、「結婚」合唱とピアノ、「ミューズの神を先導するアポロ」ボイド・ニール弦楽合奏団、「カルタ遊び」作曲者指揮、――と<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく舞踊曲が入っている。次第に生長し変化して、初期の美しさを失ったが、同時に<ruby><rb>精緻</rb><rt>せいち</rt></ruby>に暗くなっていくストラヴィンスキーを見るのは興味深い。

「詩篇による交響曲」は、詩篇から<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>を採った新しい宗教音楽で、この人間臭い悟り切れない暗さが特色的である。作曲者がコンセール・ストララム管弦団とヴラソフ合唱団を指揮している（コロムビアＪ七九〇四―六）。

「ヴァイオリン協奏曲＝ニ長調」をドゥシュキンのヴァイオリンで作曲者がコンセール・ラムルウ管弦団を指揮したのが近頃の面白いレコードだ（ポリドール鑑賞会）。

「狂詩曲」は作曲者のピアノ、アンセルメの指揮で、これもストラヴィンスキーのピアノが聴けるという以外に古典への復帰が暗示されて面白い。ほかに「管楽器の八重奏曲」、管弦楽曲「花火」などがある。

ストラヴィンスキーのもの一曲という人は「ペトルーシュカ」がよかろう。後期のものを望む人に、私は「詩篇による交響曲」をすすめたい。一番新しい「カルタ遊び」なども面白かろう。

## グレンジャー

（<em>Percy Grainger</em> 1882―1961）

<ruby><rb>豪州</rb><rt>ごうしゅう</rt></ruby>生まれの作曲家、今はアメリカにいる。ブゾーニの門下でピアニストとしても知られていた。英国の民謡の研究者で作曲も民謡風の良いものがある。「浜辺のモリー」などはそのよき例の一つだ。レコードは自演のがコロムビアにあったが今は見えない。現存のレコードでは「ロンドンデリー」をクライスラーがヴァイオリンでひいたのが良い（ビクターＪＤ二九四）。オルマンディーが管弦楽を指揮したのもある。ほかにオルマンディーの指揮した「田園風俗」「牧人の唄」などがあるが、たいしたものでない。

## シマノフスキー

（<em>Karol Szymanowski</em> 1881―1937）

ポーランドの新しい作曲家、ヴァイオリン曲に新しい面白いのがある。「アレトゥザの泉」をティボー（ビクターＪＤ三〇五）とシゲティー（コロムビアＪＷ一七九）のヴァイオリンでひいたもの以外にレコードでは長いものはない。

## グリュンベルク

（<em>Louis Gruenberg</em> 1884―1964）

歌劇「皇帝ジョーンズ」の作曲者、これ一つで有名になった。ティペット（バリトン）の歌った「祈りが必要」は<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い（ビクターＪＤ一六二八）。

## イベール

（<em>Jacques Ibert</em> 1890―1962）

二千六百年の祝典音楽、映画「ドン・キホーテ」の音楽で日本に親しまれている、フランスの現代作家。「ドン・キホーテ」を歌ったシャリアピンのレコードが一番面白い（ビクターＪＦ二二―三）。他に「寄港地」をストララムの指揮したのがあるが（コロムビアー七八二二―三）、面白いとは思わない。

## プロコフィエフ

（<em>Sergey Prokofiev</em> 1891―1953）

現代作曲家中でも最も興味の深い一人だ。ロシアに生まれて、かつて日本を<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねたこともある。作曲家としてはかなり革新的で、いくぶん象徴的ではあるが、力強い作曲態度は好ましい。<ruby><rb>洗練</rb><rt>せんれん</rt></ruby>された趣味と、思想的な深さを思わせる人で、作品にも良いものが多い。

「三つのオレンジの恋」は初期の歌劇で代表的な傑作とされているが、一部分クーセヴィツキーの指揮したのがある（ビクター愛好家協会）。

舞踊組曲「鋼鉄の歩み」は最も<ruby><rb>手応</rb><rt>てごた</rt></ruby>えのある曲だ。ダイナミックで、情熱的で、現代生活の暗示に富むと言われる。コーツのロンドン交響管弦団を指揮したのが良いレコードだ（ビクターＪＤ六四―五）。

組曲「キージェ中尉」は最近の作で、巧妙ではあるが「鋼鉄の歩み」ほどの力の魅力はない。クーセヴィツキー指揮のがある（ビクターＪＤ一五〇五―七）。

「ピアノ協奏曲第三番＝ハ長調」は力強い良い曲だ。プロコフィエフ自身ピアノを受持ちコーツが管弦団を指揮しているのもよい（ビクターＪＤ八三―五）。

「ヴァイオリン協奏曲第一番＝ニ長調」はシゲティーのがある。面白い曲だ（コロムビアＪ八六〇七―九）。シゲティーは日本へ来たときこれをひいたように思う。「ヴァイオリン協奏曲第二番＝ト短調」はハイフェッツのヴァイオリンでクーセヴィツキーの指揮したのがある。<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>が良すぎるほどだ（ビクター）。

「プロコフィエフ・ピアノ曲集」は作曲者自身の演奏で、いろいろ趣の変った曲が、十篇も集まっている、興味の深いものだ（ビクター）。

プロコフィエフのレコードを一組か二組用意する人は「鋼鉄の歩み」と「ピアノ協奏曲」などが適当ではあるまいか。「三つのオレンジの恋」には良いレコードがない。

## ミロー

（<em>Darius Milhaud</em> 1892―1974）

フランス音楽の六人組の一人、オネッガーと共に重要で、新味<ruby><rb>横溢</rb><rt>おういつ</rt></ruby>した曲がかなりレコードされている。「弦楽四重奏曲第七番＝変ロ短調」は新鮮で感覚的で面白い。ギャリミル弦楽四重奏団（ポリドール）のがある。

もう一つ「第二弦楽四重奏曲」をクレトリー四重奏団の演奏したのが英国コロムビアに入っている。

舞踊組曲「サラド」の二重唱とタンゴをマーエ（ソプラノ）とルーケッティー（テナー）が歌ったのがある（ビクター）。

ほかにロンの「ピアノ協奏曲」アストリュックのヴァイオリンで「春の小協奏曲」などが挙げられるだろう。

黒人の舞踊曲「世界創造」は非常に変ったもので、ジャズの手法で黒人の生活を描いた芸術的な作品だ。ミロー自身の指揮したのがコロムビアにある（Ｊ八一二七―八）。

## オネッガー

（<em>Arthur Honegger</em> 1892―1955）

フランス六人組のリーダーであった。端的な力強い表現と、そのために何物も犠牲にする勇気を持っている。

「パシフィック二三一」は機関車の力強い構成と動きを音楽で描いたという、オネッガーの代表作だ。彼自身の指揮したレコードがある（コロムビアＪ八二二九）。「ラグビー」は同趣向で少し二番煎じになる。これはコッポラの指揮したのがある（ビクターＷ一〇一五）。

「ピアノ協奏曲」は、たった一枚で片付けているところが気に入った。ノルトンのピアノ、オルマンディーの指揮で入っている（ビクターＪＤ六八九）。

オネッガーの傑作「ダヴィッド王」のうち、日本コロムビアから二枚出ているが、無残にも廃盤になった。日本にプレスされないのがもう一枚あり、合唱も管弦楽も常識を<ruby><rb>超</rb><rt>こ</rt></ruby>えて美しく、良いものであったが惜しいことをした。再プレスを待つ。我らに一番親しめるのは英国コロムビアに入っている「弦楽四重奏曲」（十インチ四枚）で、演奏はクレトリー四重奏団だ。

## ヒンデミット

（<em>Paul Hindemith</em> 1895―1963）

新即物主義の作曲家で、ドイツの最も新しい傾向を代表する人だ。その手法が古典的で、フランスの新人達に比べると一段の手堅さを感じさせる。

歌劇「画家マチス」が代表作。ヒンデミットが指揮してベルリン・フィルハーモニック管弦団が入れている（テレフンケン一三六〇一―三）。

「無伴奏チェロ・ソナタ」はフォイアマンの演奏したのがあり（コロムビア世界名盤集）、「弦楽三重奏曲第二番」はヴィオラ奏者なる作曲者と、ゴールドベルクのヴァイオリン、フォイアマンのチェロで入っている（コロムビアＪ八五〇一―三）。

## ワインベルガー

（<em>Jaromir Weinberger</em> 1896―1967）

チェコの作曲家、新しい道を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>っているが、ジャズをどれだけ古典様式の音楽の中に消化し得るかが興味を持たれる。「バグパイプ吹きのシュヴァンダ」の「ポルカとフーガ」がビクターに二種入っている。一つはオルマンディー指揮（ＪＩ二九）、一つはブレッヒ指揮（ＪＡ七〇五）。ほかにコロムビアにあったように思うがカタログに見当らない。

## タンスマン

（<em>Alexandre Tansman</em> 1897―　　）

日本へ来遊したことがあるので興味が深い。ポーランドの生まれで健実な新鮮な室内楽が特色的だ。「弦楽のための三枚絵」はベイリー指揮カーティス室内楽団演奏（ビクターＪＨ七一―二）。他に自演の「マズルカ曲集」がある（同ＪＡ五四）。

## ガーシュウィン

（<em>George Gershwin</em> 1898―1937）

ジャズのコンチェルトや歌劇を書いて一世を驚かした、一番アメリカ臭い作曲家だ。しかし何かしら根強いものや、暗示的なものを持っている。若くて死んだのは惜しい。

「ラプソディー・イン・ブルー」は出世作だ。ジャズのシンフォニー化を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>ったもの、作曲者ガーシュウインのピアノでポール・ホワイトマンの管弦団指揮（ビクターＪＢ二二三）が一番有名であったが、近頃ではボストン・ポップス管弦団に見事な録音のがある（ビクターＪＨ三〇―一）。この曲が電気吹込み以前に、ビクターの緑盤に入っていたことを知っている人は少なかろう。

歌劇「ボーギーとベス」はおそらくガーシュウィンの傑作だろう。非常に清新で野蛮で、根強いものを感じさせる音楽だ。レコードはスモーレンス指揮でティペットが主役を歌っているのも良い（ビクターＪＨ四五―八）。

他に「ピアノ協奏曲」がガーシュウィンのピアノでコロムビアに入っていたが、廃盤になったらしい。

## プーランク

（<em>Francis Poulenc</em> 1899―1963）

六人組の一人、簡素な美しい作曲がある。「<ruby><rb>無窮動</rb><rt>むきゅうどう</rt></ruby>」は作曲者のピアノで入っている（コロムビアＪ五二二八）、「田園詩曲」と「トッカータ」はホロヴィッツのピアノでこれは良い（ビクターＪＤ六九〇）。「ピアノ三重奏曲」のピアノを作曲者のひいたのも注目される（コロムビアＪ八一九〇―一）。「オーバード」はピアノと十八楽器のための舞踊協奏曲、これもプーランクがピアノをひき、ストララムが指揮している（コロムビアＪ五一九一―三）。ほかに歌曲「動物小話集」をクロアザが歌ったのは<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>たものだ（コロムビアＪ八一〇七）。

## フェルウ

（<em>Pierre Octave Ferroud</em> 1900―1936）

フランスの急進作曲家、自動車事故で若くして死んだ。「チェロ奏鳴曲＝イ長調」をマレシャルの演奏したのがコロムビアに入っている（Ｊ八四三三―四）。

## モソロフ

（<em>Alexandr Mosolov</em> 1900―1973）

ソヴィエト出の新しい作曲家、アメリカで活動している。イデオロギッシュで、<ruby><rb>報告芸術</rb><rt>ルポルタージュ</rt></ruby>の理論をそのまま実際に移そうとしている。「製鉄所」が代表的だ。レコードはエーリッヒ指揮（コロムビアＪ五五〇〇）と、フィードラー指揮（ビクターＪＫ五五）とふた通りある。

## ショスタコヴィッチ

（<em>Dmitry Shostakovich</em> 1906―1975）

ソヴィエトの有する最大の作曲家と言われている。「交響曲第一番＝ヘ短調」及び「交響曲第五番」をストコフスキーの指揮したのがある。舞踊曲「黄金時代」より「ポルカとロシア舞曲」をエーリッヒがパリ交響管弦団を指揮したのもある（コロムビアＪ五四二七）。現代の作曲家中では最も<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた一人だ。

## ワイル

（<em>Kurt Weill</em> 1900―1950）

ドイツの最<ruby><rb>尖端</rb><rt>せんたん</rt></ruby>作曲家、ジャズの手法を採り入れて一風変った<ruby><rb>刺激</rb><rt>しげき</rt></ruby>を持つ音楽を作っている。しかも芸術的であり、楽しくもあるのが面白い。

「三文オペラ」がその代表作だ。映画で日本人にも親しみがあるが、あの<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>ミッキーの歌などは洒落たものだ。クレンペラーの指揮したのがポリドールに入っている（三〇〇八二―三）。

  


## 補遺

## フォスター

（<em>Stephen Collins Foster</em> 1826―1864）

「故郷の人々」「懐かしきケンタッキーの家」や「黒ん坊のジョー<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>や」の歌がアメリカばかりでなく、世界の国々に愛唱されていることは言うまでもない。このフォスターの愛すべき歌は<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しくレコードされているが、まとまったものではビクターに「フォスター名曲集」と「フォスター民謡集」が入っている。この後のアメリカに、サン＝サーンスやエルガーに匹敵するあるいはそれ以上の作曲者はたくさん出て来るだろうが、フォスターのような母なる大地にしかと足を踏みしめた、民族的な音楽家はそうザラに生まれては来ないだろう。ウィーンのヨハン・シュトラウスと共にまことに得難き民族の天才というべきであろう。

## ルキュウ

（<em>Guillaume Lekeu</em> 1870―1894）

ベルギーの生んだ一異彩ギョオム・ルキュウは、わずかに二十四歳という若さで死んだにかかわらず、音楽史上に不滅の足跡を留めた天才の一人である。フランク門下の最年少者で、後ダンディに師事したが、少ない遺作のうち「ヴァイオリン・ソナタ」（コック、ランケエル演―ポリドール）と「未完成ピアノ四重奏曲」（ランケエル、コック等―ポリドール）がレコードされている、きわめて愛すべき曲である。

## カーペンター

（<em>John Alden Capenter</em> 1876―1951）

アメリカの現代作曲家中最も正統的でかつ情緒的な作曲家。レコード「<ruby><rb>乳母車綺譚</rb><rt>うばぐるまきだん</rt></ruby>」はビクターに入っているが、きわめて<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>で幾分の<ruby><rb>諧謔味</rb><rt>かいぎゃくみ</rt></ruby>が愛される。ほかに「摩天楼」はエルガー風の豪華な曲。前者はオルマンディ、後者はシルクレット指揮。