Soranoha

一茶の書

いっさのしょ

北大路 魯山人

われと来て遊べや親のない雀

痩蛙まけるな一茶是に有り

一茶いっさ自身の運命にも、なにかそうしたところがありはしなかっただろうか。

それはともかくとして、その書であるが、素質的にいって、大徳寺代々のうちでの随一の能書家(これは私の独断であるが)春屋しゅんおく禅師の書、池野大雅いけのたいがの書、良寛りょうかん和尚の書、茶人元伯げんぱく、原叟げんそうなどの書などと共通なところを持っているかのように思われる。

しかし、これらのうちで、一茶の書には、一番に下手物的な装わない心境直写の妙相をたたえているように思う。有欲といい、また、無欲というとも、要するに一茶においては、どうあってもいいのだろう。

一茶の書に今一倍気品があり、そして、同時に気力があったら、どんなに立派であったろうか――などという人も中にはあるようだが、私は一茶の書には、むしろそれがないのが、その真実ではなかろうかとするものである。一茶の書を見ると、第一にその情味において、人の涙をそそるものがある。そこで、どんな気格の高い他の人の書に出会っても、それはそれで少しの引け目を感ぜずに、その内容の個性味を、どこまでもはっきりと押して行っているのである。

申すまでもなく、芸術は要するにその内容である。内容というのは、その個性である。書という芸術も、最後はその真情に発したものでなくてはならない。仮りにそれが真情に発し、そして俗態を斥しりぞけて、ものの数ともしないというものであるならば、如何なる書を、いかに学んだとしても、決して模倣に終るようなことはないと思われる。

出るものが故障なく出る。書はそれでいいのである。いわゆる技巧的にも、心理的にも、その灰汁だとか、濁りだとかいうようなものが、きれいに取り除かれたならば、そこに出るものは、必ずその人の一番美しい本来の相でなくてはならない。

一茶の書のあの捨てがたい風味とか、風韻とかいうものも、実はそれに他ならないのである。(昭和六年)

底本 / Source edition

底本:「魯山人書論」中公文庫、中央公論社
1996(平成8)年9月18日初版発行
2007(平成19)年9月25日3刷発行
底本の親本:「魯山人書論」五月書房
1980(昭和55)年5月
入力:門田裕志
校正:きゅうり
2018年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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北大路 魯山人「一茶の書」(新字新仮名)、底本『魯山人書論』中公文庫、中央公論社、1996年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 055055_001403, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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