世間、書を説く者は多いが、それは必ず技巧的にのみ観察したものであり、かつ、外見にのみ凝視することに殆ど決定的に偏している。すなわち、書家の書がそれである。ゆえに遠い昔はいざ知らず、近代では書家の書にうまい書があった例は皆無といってよい。全く書を専門に教える習字の先生から尊ぶべき書が生まれた試しはない。この一事実の現われは誰にとっても、うかうかと書家の教えを蒙る訳にはゆかない。

書家の書というのは、なぜそんなに価値がないか。書家の習字法は、なぜそんなに偏するか。それを一言にしていうならば、書家に芸術がないからという他はないのである。ついでながら美術もないからである。近い例としては<ruby><rb>市河米庵</rb><rt>いちかわべいあん</rt></ruby>、<ruby><rb>巻菱湖</rb><rt>まきりょうこ</rt></ruby>、<ruby><rb>貫名海屋</rb><rt>ぬきなかいおく</rt></ruby>、<ruby><rb>長三洲</rb><rt>ちょうさんしゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>日下部鳴鶴</rb><rt>くさかべめいかく</rt></ruby>、<ruby><rb>巌谷一六</rb><rt>いわやいちろく</rt></ruby>、<ruby><rb>吉田晩稼</rb><rt>よしだばんか</rt></ruby>、<ruby><rb>金井金洞</rb><rt>かないこんどう</rt></ruby>、<ruby><rb>村田海石</rb><rt>むらたかいせき</rt></ruby>、<ruby><rb>小野鵞堂</rb><rt>おのがどう</rt></ruby>、<ruby><rb>中林梧竹</rb><rt>なかばやしごちく</rt></ruby>、<ruby><rb>永坂石埭</rb><rt>ながさかせきたい</rt></ruby>等……みな芸術を解するところがないばかりでなく、美術を識らなかった。ために書道を誤認していた。従って後に遺るべき尊き書は生まれることがなかった。その中、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて貫名海屋ひとりが若干実を識るのみであって、他はいずれも俗流で一時を鳴らしたに過ぎない。

習字の要訣というのは、俗書に陥らざる理解と用心が肝要である。

書に限らないが、書はすなわち、身につく所にまで進まなければならない。手につく所までは誰しも行くが、身につく所には大概至らないで終るものである。身につくというのは、稽古離れする時の出来栄えである。稽古離れということは、その先入主ともなるべき最初の心掛けが重き役目を勤める。（昭和九年）