## 一

「親分、向島の藤屋の寮で、今日生き<ruby><rb>葬</rb><rt>ともら</rt></ruby>ひがあるさうですね」

ガラツ八の八五郎は、相變らず鼻をヒクヒクさせながらやつて來ました。

「俺はこれから、その生き葬ひへ出かけるところよ。お前も一緒に行つて見ないか」

錢形平次は<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みの紙入を懷ろに落して、腰へ煙草入を差すと立上がりました。

「御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>りませう。親分のお供は有難いが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は生き葬ひを出す奴と、死に金を貯める奴が大嫌ひで、へツ、へツ」

「いやな笑ひやうだな。どうせどつちにも縁はあるめえ」

「へツ、仰せの通りで。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は江戸中の奴がびつくりするほど借金を殘して死にてえ」

「その八五郎にビツクリするほど金を貸す奴がありや宜いが」

「違げえねエ」

相變らず無駄ばかり言ふ二人でした。

「金があつて暇があつて死に度くない奴が考へ出したことだらうが、生きてるうちに葬ひを出すといふのは考へて見ると妙なもんだね、――近頃は矢鱈に<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>るんだが――」

平次はつく〲さう言ふのです。江戸の文化も<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く爛熟しかけて、町人階級に金があると、<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>にも<ruby><rb>粹</rb><rt>すゐ</rt></ruby>にも縁のないのが、せめて生き葬ひを出して馬鹿騷ぎをし、自分の人氣を試して見るのが面白かつたのでせう。

「親分はまた何んだつてそんなものへ出かけるんです」

八五郎にはそれが不思議でならなかつたのです。御藏前の札差で何人衆の一人と言はれた藤屋の彌太郎が、道樂や贅澤にも飽きた末、自分の葬式を出してアツと言はせようといふ、アクの強い<ruby><rb>催</rb><rt>もよほ</rt></ruby>しにノコノコ出掛けて行く日頃の平次ではなかつたのです。

「御馳走があるんだよ。<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>を一日買ひきつたといふ話だ」

「冗談でせう、そんな事で親分が――」

八五郎は<ruby><rb>頑固</rb><rt>ぐわんこ</rt></ruby>に頭を振ります。

「では、これを見るが宜い」

平次は煙草入を拔くと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かます</span>の中から取り出したのは、小さく疊んだ紙片が一枚。粉煙草を拂つて、八五郎の鼻の先に突き付けるのでした。

「へエ、これなら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>にも讀めさうだ。皆んな日本の字で<ruby><rb>書</rb><rt>け</rt></ruby>えてある」

「日本の字だつてやがる。それは<ruby><rb>假名</rb><rt>かな</rt></ruby>だよ」

「――何々（藤屋の生き葬ひに大變なことがある、親分はこいつを見のがしちやなるめえ）――成る程ね」

「どうだ、それを讀んだらお前も向島へ行く氣になるだらう」

「からかつてゐるんぢやありませんか」

「さうかも知れない――が葉櫻の向島土手を、ホロ醉ひ機嫌で歩くのは惡くないぜ」

「行きませう親分」

八五郎も到頭そんな氣になりました。<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しい手紙を<ruby><rb>辨慶</rb><rt>べんけい</rt></ruby>讀みにして<ruby><rb>勃然</rb><rt>むつ</rt></ruby>として鬪爭的になつたのでせう。

「御馳走に引かれて行くのでなきや、向うへ行つても<ruby><rb>飮食</rb><rt>のみくひ</rt></ruby>は止すが宜いぜ」

「へツ、有難い仕合せで」

「十手を内懷中に突つ張らかして、ガツガツ食ひ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あさる</span>のは恥だよ」

「<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>にはそんな恥も掻いて見度え」

「馬鹿」

神田から向島へ、無駄話は際限もなく續きます。

## 二

向島の<ruby><rb>三圍</rb><rt>みめぐり</rt></ruby>の藤屋の寮は、江戸中の<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>と金持と<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>者を、總仕舞にした程の賑はひでした。

集まつたのはざつと三百人、これでも嚴選に嚴選をした、一粒選のを呼んだといふのが、藤屋彌太郎の味噌で、その生き葬ひの催しもまた、<ruby><rb>桁外</rb><rt>けたはづ</rt></ruby>れの<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おほげさ</rt></ruby>なものだつたのです。

客といふのは、藤屋の札旦那から、御藏前の札差仲間、金持、通人、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこ</rt></ruby>、繪描きに<ruby><rb>胡麻摺俳諧師</rb><rt>ごますりはいかいし</rt></ruby>、藝人、藝者、――あらゆる道樂階級を網羅して、無駄飯を喰ふ人間の大集團と言つても宜いものでした。

寮の建物は數寄を<ruby><rb>凝</rb><rt>こら</rt></ruby>して居る割合に狹いので、庭に<ruby><rb>朱毛氈</rb><rt>しゆまうせん</rt></ruby>の縁臺を並べ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よしず</span>の掛茶屋を連ねて、酒池肉林をさながらに現出させました。その一方には踊屋臺があつて、<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひの儀式が一わたり濟めば、其處では江戸中の人氣者を集めた餘興を、取つかへ引つかへお目にかけて、酒宴の興を添へようといふ<ruby><rb>趣向</rb><rt>しゆかう</rt></ruby>です。

晝を少し廻ると、式は先づ多勢の僧侶の讀經に始まりました。その大合唱が、鐘と太鼓とあらゆる<ruby><rb>抹香</rb><rt>まつかう</rt></ruby>臭い鳴物を動員した交響曲と共に、墨田川の水に響いて、淺草の觀音樣まで聽えたといふ話。

それは兎も角として、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>まで紋附姿で多勢の客に愛嬌を振り撒いて居た主人の藤屋彌太郎は、この時<ruby><rb>麻裃</rb><rt>あさがみしも</rt></ruby>に着換へて、正面壇上に据ゑた、<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の<ruby><rb>棺</rb><rt>くわん</rt></ruby>の中に納まりました。尤も檜の棺は天井と底と三方だけで、正面は開いたまゝ、其處に身を入れると、一ときは揉んだ<ruby><rb>讀經</rb><rt>どきやう</rt></ruby>の聲につれて、棺の上に掛けた白絹を、彌太郎自身の手で顏のあたりまで下げるのです。

儀式が濟むまで、三百人の客に、マジマジと顏を見られるのがさすがに照れ臭かつたのでせう。

藤屋彌太郎はこの時丁度五十歳、札差の株を買つての一代<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>で、<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>ぎつた顏――太い眉、厚い鼻、角張つた<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>に、戰鬪力が溢れて居りました。一と粒種の伜彌吉に、大方店の事は任せて、自分は若い<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>のお吉と、月の半分以上はこの寮に暮し、藏前大通の一人と言はれて、遊藝<ruby><rb>三昧</rb><rt>ざんまい</rt></ruby>にその日を送つて居る結構人で、フト自分の歳の事を考へたり、何時かは死ななければならぬ事を思ひ及んで、一番生き葬ひを出して、自分の人氣と威勢のほども見せ一つは百まで生きる<ruby><rb>禁呪</rb><rt>まじなひ</rt></ruby>にしてやらうと言つた、他愛もない事を考へる人柄でした。

棺の目隱しが下りると、讀經の波は又一としきり揉み上げます。莊嚴な齊唱が初夏の空に響き渡つて、三百の會衆も、何んか遊び事でもないやうな、嚴肅な心持に引入れられます。

棺の中の主人は<ruby><rb>霰小紋</rb><rt>あられこもん</rt></ruby>の<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>の胸から下が見えて、水晶の念珠が壇の<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>にキラキラと光ります。その時でした。

サツと一陣の晝の風が吹くと、棺の後ろの<ruby><rb>鯨幕</rb><rt>くぢらまく</rt></ruby>が動いて、何やら不吉な<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き聲――。

「――」

三百の會衆はゾーツと總毛立ちました。

もう一度恐ろしい呻き――苦悶に押し潰された聲と共に、<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の棺はグラグラと搖れて、サツと壇の白絹を染めたのは、<ruby><rb>紅牡丹</rb><rt>べにぼたん</rt></ruby>を叩き付けたやうな血潮ではありませんか。

「――」

壇に吸ひ付けられた六百の眼は、暫らくは氷の如く凝つと靜まりましたが、次の一<ruby><rb>瞬</rb><rt>しゆん</rt></ruby>忽然としてそれが恐ろしい動搖に變つたのです。

「何うした」

「何うした」

縁側に居た身近の五六人は、群僧を掻きわけて壇に近づきました。

と、その中から潜るやうに飛び付いて、眞つ先に棺の前に出たのは藤屋と無二の間と言はれて居る、黒船町の利三郎でした。引きむしるやうに棺の白絹を剥ぐと、中から轉げ出したのは、何んと<ruby><rb>麻裃</rb><rt>あさがみしも</rt></ruby>に威儀を正して、<ruby><rb>座禪</rb><rt>ざぜん</rt></ruby>姿になつて居た、藤屋彌太郎の血潮に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れた姿だつたのです。

「旦那樣」

「藤屋さん、どうなすつた」

五六人の手が、血潮の汚れも厭はず藤屋彌太郎を引き起しました。

<ruby><rb>斷末魔</rb><rt>だんまつま</rt></ruby>の凄まじい苦悶が、藤屋彌太郎の全身を走ると、その脂ぎつた肉魂は、黒船町の利三郎の手にドタリと轉げ込んだのです。

見ると今まで藤屋彌太郎の入つて居た棺には、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の板を突き貫いて、血だらけの<ruby><rb>拔刀</rb><rt>ぬきみ</rt></ruby>が五六寸、壇の灯を受けて、紫色になつて居るではありませんか。

「曲者は幕の後ろだ」

利三郎の聲を待つ迄もありません。ドツと幕の後ろに殺到した五六人、相手が何んであらうと、<ruby><rb>微塵</rb><rt>みぢん</rt></ruby>に掴み潰しさうな意氣込みでしたが、――其處にはもう<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>の姿もなかつたのです。

驚き騷ぐ僧俗の三百人、寮から庭へかけて、さながら煮えくり返るやうですが、<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うなつてはもう、この恐ろしい恐怖と混亂から救ひやうもありません。

その時でした。

「お<ruby><rb>鎭</rb><rt>しづ</rt></ruby>まり下さい、――私は無事でございます。藤屋彌太郎はこの通り無事に生きて居ります」

縁側に立つて際限もなく混亂を續ける群衆に呼びかけた者があるのです。

多勢の眼は、焦點を求めて燒き付くやうに、その顏を仰ぎました。

「あツ、藤屋さん」

「御無事で、まア、まア、まア」

驚き呆れるのも無理はありませんでした。それはまさに、藤屋彌太郎の先刻のまゝの紋服姿で、少し取り逆上ては居りますが、如才なささうな微笑をさへ浮べた顏ではありませんか。

## 三

「では棺の中の人は？」

三百人の疑問の眼は、もう一度壇上の血だらけの棺に向けられました。

「<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>の善八でございますよ」

死骸を抱き起した黒船町の利三郎が言ひました。

「これは一體どうしたわけだ」

あまりの事に、非難らしい囁きが八方から湧き起ります。

「お騷がせして何んとも相濟みません。が、これには深い<ruby><rb>仔細</rb><rt>わけ</rt></ruby>がございます」

藤屋彌太郎は縁側に立つたまゝ、一應の辯解をしなければならぬ地位に置かれました。わざわざ一日の暇をつぶして、生き葬ひに參列した三百人を、その儘歸すわけには行かなかつたのです。

「兎も角御無事で結構だが、どうしてそんな事になつたか。一應承りませう、藤屋さん」

庭の多勢の中から、さう言つた要望が三人五人の口で述べられました。

「申上げませう。私のつまらぬ物好きから、人一人の命をなくして、何んとも相濟まぬことですが、それは<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>の善八が、進んでやつたことで御座います」

「――」

聽衆は<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑みました。

「今日の生き葬ひで、申すまでもなくこの私が棺の中に入るつもりでしたが、此處に居られる黒船町の利三郎さんが、どうも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない事があるから、止した方が宜からう――と斯う言つて下さるのです。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し私といたしましては、こんなに皆樣をお呼びして、形だけでも生き葬ひをしなければ、私の顏が立ちません。何が何んでも棺へ入ると申しますと、利三郎さんは、そればかりは思ひ止つてくれと涙を流さぬばかりに止めるので御座います」

「――」

「それを側で聽いて居た幇間の善八が、それでは私が代つて棺へ入りませう。身體も年恰好も似て居るし、顏もいくらか似ないことはないから、顏のところへ巾でも垂らしてもらへば、壇の上の供物や灯に<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れて、誰にもわかるわけはないと斯う申します。皆樣をお<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>しするやうで、まことに濟まないと存じましたが、善八がすつかり乘氣になつて、生き葬ひを出せば縁喜が良いからと、進んで棺へ入つたばかりに到頭<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んなことになつたので御座います」

主人、藤屋彌太郎の辯明はそれで終りました。續いて立つた黒船町の利三郎は、主人の彌太郎よりは二つ三つ若く、四十七八にもなるでせうか、彌太郎の脂ぎつた丈夫さうなのに比べて、それは青白く骨高に痩せて、無二の仲といふだけに、面白い對照を見せて居りました。

「私が御主人の棺へ入るのを止めさせたのは、少しばかりわけが御座います。――實は<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の一寸板で造つたといふ、この立派な棺が出來て屆いたのは、三日前で御座いました。その時わざ〱使ひを下すつて、此處まで見に參りましたが、その時は<ruby><rb>鵜</rb><rt>う</rt></ruby>の毛で突いたほどの傷もない棺が、今日の日になつて、いざ御主人がこの中へ入らうといふ時見ると、後ろの板――丁度中へ入つた人の心臟のあたりに、幅二分、長さ一寸五分ほどの傷が出來て居るのでございます。――その事はあまり恐ろしかつたので、その場では御主人に申しませんでしたが」

「――」

群衆は<ruby><rb>動搖</rb><rt>どよ</rt></ruby>みを打ちました。黒船町の利三郎の話が、思ひの外に根強い<ruby><rb>據</rb><rt>よ</rt></ruby>りどころを持つて居たのです。

「その上、誰からともなく私は、今日何にか變つたことがあるかも知れないといふ噂を聽いて居りました。檜の一寸板が、さう手輕に割れ目をこさへる筈もなく、妙な噂も<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>なこしらへ事とは思はれません。――そこで私は一生懸命主人の思ひ立ちを止めました。もはや棺へ入る時刻も迫つて居りますので、御主人も私も途方に暮れて居りますと、その話を小耳に<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>んで、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>の善八が進んでこの役を買つて出たので御座います。善八にはまことに氣の毒でしたが、これも一つの廻り合せと申す外はございません」

黒船町の利三郎の話はこれで終りました。

斯うなるともう、三百人のお客樣達も、御馳走どころの騷ぎではありません。空き腹を抱へて酒池肉林を後に、愚圖々々小言を言ひながら、ゾロゾロと歸つてしまつたのです。

## 四

「八、何うだ。あの手紙は<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>ぢやなかつたね」

あの群衆の中に交つて、錢形平次もまた、<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじふ</rt></ruby>を見聞して居りました。

「大變なことになりましたね、親分」

「來い、八。今の内に見て置かう」

二人は大方客の歸り盡したのを見定めて、縁側に上がりました。

「<ruby><rb>鯨幕</rb><rt>くぢらまく</rt></ruby>の後ろを見るんでせう」

「さうだよ」

が、<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、それは無駄でした。鯨幕の後ろは、僅かに人間一人通れるほどの<ruby><rb>通路</rb><rt>みち</rt></ruby>で、一方の口は群衆六百の眼玉の光る庭に開き、そして他の一方の口は、内廊下の――其處には藤屋の番頭や手代や、伜の彌吉や――多勢内輪の者の居るところに開いて居るのです。

「主人の彌太郎は此處から出て來たやうだな」

「さうですよ。主人の後ろから、伜や番頭が一緒に出て來たぢやありませんか」

「すると善八を鯨幕越しに刺した曲者は何處へ消えたんだ」

「わかりませんよ」

「鯨幕の蔭からあの騷ぎの中へ出て來た者はなかつたか」

「氣が付きませんね。何しろあの騷ぎでせう」

「此方へ出なければ、天井へもぐるか、床下へ入るより外に逃げ路はない筈だ」

「天井も床下も、あれだけ多勢で見張つて居ちや潜る工夫はありませんよ」

「――」

錢形平次もハタと當惑した樣子です。曲者が<ruby><rb>棺</rb><rt>くわん</rt></ruby>へ脇差を突つ込んで、逃げ出したとすれば、三百人の客の中へ――幕の端からパツと出て飛び込むか、彌太郎父子や番頭達の居るところへ、極めて自然に、そして素知らぬ顏をして<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>け込む外はなかつたのです。

「主人に逢つて見ようか、八」

「それが宜いでせう」

二人は其處へ通りかゝつた手代を案内させて、奧の一と間に入りました。

「これは錢形の親分、飛んだ宜いところへ」

主人の彌太郎よりも黒船町の利三郎が乘出します。

「飛んだことだつたね。お前さんが居てくれて、いろ〱訊くのに都合が宜いよ」

「へエへエ、どんな事でもお訊き下さい」

それも黒船町の利三郎でした。

「第一番に、藤屋さんが、ひどく人に<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>まれるやうな覺えはないだらうか」

平次の第一の問ひはあまりにも定石通りでした。

「こんな商賣をして居りますので、隨分思ひも寄らぬ怨みも買ひますが、差し當つて私の命を狙ふ者などの心當りは御座いません」

「藤屋さんが死んで得をするものは？」

「損をする者ばかりですよ、――私などもその一人で」

黒船町の利三郎は苦笑ひをして居ります。隨分藤屋には厄介をかけて居るのでせう。

「<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>の善八は、藤屋さんとは唯の藝人と客と言つた間柄か」

「いえ、善八の娘――お吉さんが、藤屋さんのお世話になつて居ります。此處に居りますが」

利三郎が指さしたのは、二十七八の美しい年頃、泣き濡れては居りますが、<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>や容貌から言ふと、唯の奉公人ではない樣子です。

「御主人とお前と善八と三人で、棺へ入る入らないの騷ぎをやつたのは何處だえ」

「此處で御座いますが」

今度は主人の彌太郎が答へました。

「その押し問答を聽いて居た者は？」

「一人も御座いません、――誰にも聽かせ度くなかつたのでございます」

「その時、家の者は何處に居たんだ」

「皆んなお勝手で料理の指圖やら、いろ〱の世話をやいて居りました」

「それから」

「<ruby><rb>麻裃</rb><rt>あさがみしも</rt></ruby>を善八に着せると、私は此處に殘り、利三郎さんは棺の世話をして、幕の外へ出た筈で――」

「それから此處へ來た者はないのだな」

「鯨幕の後ろからは誰も參りません」

主人の證言には疑ひを<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>む餘地もありません。

「ところで今度はお前に訊き度いが」

「へエ」

利三郎は氣輕に膝を前へ進めました。

「棺を三日前に見た時は傷はなかつたと言つたが――今日傷のあるのに氣の付いたのは、何時の事だ」

「<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>の上に載せてからで御座います。壇の灯が棺の後ろへチラと見えたので、おや變だなと思ひました」

「三日前から今日まで、棺は何處に置いてあつたのだ」

「自分が入るつもりでは拵へましたが、モノがモノですから、家の中へも入れられず、物置に入れておきましたが」

平次は默つて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うなづ</span>くと、今度は煙草入の中から、例の粉煙草だらけになつた、怪しい手紙を取り出しました。

「この筆跡に見覺えはないだらうか」

「へエ、一寸拜見いたします」

主人は手に取りましたが、見覺えがないらしく、一寸小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げたまゝ、利三郎に渡しました。利三郎も打ち返したり横から見たりして居りましたが諦めた樣子で、後ろの番頭の手に渡します。

「どうも見覺えは御座いませんが」

誰一人この<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>つ<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>な假名書きの手紙の筆跡を知つて居る者もありません。

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>お前は近頃變な噂があつたと言つたが、あれはどういふことだ」

平次はもう一度利三郎に訊ねました。

「この手紙と同じやうなことを言ひ<ruby><rb>觸</rb><rt>ふら</rt></ruby>した者が御座います」

「生き<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひに何にか變つたことがある――といふのだな」

「へエ」

これだけでは何んの手掛りにもなりません。

## 五

平次はその儘外へ出ると、

「八、番頭を呼んで來てくれ。物置を一度見て置き度い」

八五郎は驅け出して行くと、やがて番頭の佐兵衞をつれて來ました。

「物置の戸を開けてくれ」

「<ruby><rb>錠</rb><rt>ぢやう</rt></ruby>も鍵もありませんが」

「成程、不用心なことだな」

平次は物置の戸に手を掛けて、無造作にガラリと開けます。

「この邊は田舍も同樣で、物置へ入るやうな世智辛い泥棒もございませんので、へエ」

「でも、此處で曲者は棺の後ろへ穴を開けたんだぜ――それ見るが宜い、<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の屑が落ちて居るぢやないか」

「へエ」

番頭佐兵衞の顏は見ものでした。

「<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>で掘つたらしいな。<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>は使はなかつた筈だから、二分鑿のよくきれる奴だ」

「誰でせう。そんな<ruby><rb>途方</rb><rt>とはう</rt></ruby>もないことをしたのは」

ガラツ八の質問の氣樂さ。

「それがわかれば苦勞をしないよ。眼の前で人一人殺されたのを、この平次がわからなかつたんだ――どうかしたら、あれを俺達に見せびらかすために、あの手紙を書いたんだらう」

平次は苦笑ひをします。ひどく自尊心を傷つけられた樣子です。

番頭の佐兵衞といふのは五十前後の穩かな男で、商賣の事以外はあまり關心を持つて居さうもなく、藤屋に取つては大事な人間であるにしても、平次に取つては大した役に立ちさうもありません。

その番頭を歸してブラブラ庭を歩いて居た平次は、

「さうだ、見落したことがあるやうな氣がする。もう一度あの棺を見て置かう」

いきなり座敷に入ると、正面から默つて壇を見詰めて居りました。騷ぎに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れてまだそのまゝに放つて置かれて居るので、<ruby><rb>花瓶</rb><rt>くわびん</rt></ruby>は倒れ、燭臺は曲り、まことに滅茶々々の姿ですが、血染めの棺だけ、もとのまゝ壇の上に据ゑられて居るのが、<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>へやうのない物凄さです。

「此處に坊さん達が二た並び居て――一番先に飛び付いたのは誰と誰だつたか、お前は知つて居るか」

「覺えちや居ませんよ。いづれ内輪のものでせう、――棺から轉げ出した善八を一番先に抱き上げたのは利三郎でしたが」

「それは俺も見た、――おや〱、妙なものがあるよ」

「何んです、親分」

「棺の穴へ、ちやんと<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>め木がしてあつたんだ、――細工は細かいな」

「へエ」

平次が、壇の上から拾ひ上げたのは、丁度脇差を突つ込むまで棺の穴を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いで居たらしい、厚さ二分、幅一寸、長さ一寸五分程の檜の木片ではありませんか。

「物置から壇の上まで棺を運ぶ時、あれだけの穴があつちや、氣が付かない筈はない。どうも不思議だと思つたが、矢つ張り穴は塞いであつたんだ」

「恐ろしく氣のまはる野郎ですね」

「それだけ氣のまはる奴が、主人と善八と入れ替つたことを知らずに居るだらうか」

「？」

「兎も角、この木片で穴を塞いで見よう」

平次は血だらけの棺の中へ手を入れて、木片を穴に差し込むと、丁度ピツタリとはまつて、一寸見ただけでは、そんな仕掛けがあらうとは思はれません。

「驚きましたね、親分」

「驚くひまに、幕の蔭へ廻つて、指でその穴のあたりを押して見てくれ」

「へエ」

八五郎は<ruby><rb>鯨幕</rb><rt>くぢらまく</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を潜つて、裏へ出ました。

「見當は付くかい、八」

「この邊でせう」

手で撫でて見當をつけて、指の先で輕く押すと、木片はコトリと落ちて、その跡に脇差を突つ込んだ穴が開くのでした。

幕を潜つて、平次の前へ戻つた八五郎は、

「親分、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は考へる事があるんですが」

ひどく思ひ込んだ樣子です。

「何んだ言つて見ろ」

「笑つちやいけませんよ」

「笑はないとも。お前が<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>、あわてて御馳走を詰め込んで、鼻の頭へ金とんを附けた時だつて笑はなかつたぢやないか」

「へエ、つまらねエ事を覺えて居るんですね」

「だから氣の付いた事があるなら言つて見るが宜い」

「ぢや言ひますよ、――鯨幕の蔭から、棺へ脇差を突つ込めるのは主人の彌太郎の外にはないぢやありませんか」

「エライツ」

「あ、びつくりするぢやありませんか」

「すると主人は自分の背中へ、脇差を突つ立てる爲に、棺の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ穴を開けたといふことになるわけだな」

「でも、善八が代つて棺へ入つたぢやありませんか」

「善八が代らなかつたらどうするんだ」

「棺へ息拔きの穴を拵へたといふことにして<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>しや宜いわけで」

「だらしがないなア、お前の考へることは」

八五郎折角の知慧も、平次に斯う言はれるとローズ物になつてしまひます。

それからもう一度<ruby><rb>寮</rb><rt>れう</rt></ruby>に取つて返して、其處に居る者に一と通り會つて見ました。手代の伊介は三十一二、小意氣な男で道樂強さうですが、これはお勝手の<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>を振つて事件には關係が薄く、もう一人の手代の源七は、<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい二十七八の男ですが、庭にばかり居て、これは事件の前後には一度も家の中へ入りません。

伜の彌吉は二十七八の典型的な若旦那で、一番下手人の可能性は濃厚ですが、棺へ穴を開けてまでもいろ〱な細工をして親を殺す筈がなく、あとは下女二人、雇女五六人、男達七八人、いづれもお勝手や庭に居て、<ruby><rb>祭壇</rb><rt>さいだん</rt></ruby>には近付いた者もありません。

「八、お前は黒船町へ廻つて、利三郎の樣子を<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく調べてくれ。藤屋には恩があるといふが、どんな恩かそれが聽き度い、――それから下つ引を二三人狩り出して、死んだ善八と娘のお吉のことも聽き込めるだけ聽き出してくれ」

「それから、藤屋の主人彌太郎のことは」

「それは言ふ迄もない事だ。<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>のお吉のことから、伜との折合がどうなつて居るか、番頭や手代の身持も一と通りは調べるに越したことはない」

殘るところなく手を廻して、平次はその日は引揚げました。

## 六

「親分、いろ〱の事がわかりましたよ」

「どんな事が？」

ガラツ八の八五郎が、平次の家へ來たのはその翌る日の朝でした。

「第一番にあの番頭の佐兵衞が喰はせものですよ」

「フーム」

「十年の間に確かり取り込んで、鳥越に素晴らしい妾宅を持つて居るなんざ、太てえものでせう」

「それから」

「伜の彌吉は養子で、本當の子ぢやありません。それが又大變な道樂者で、親の知らない借金で首も廻らない有樣で」

「――」

「妾のお吉はあんな顏をして居るが、恐ろしく喰へない女ですよ。彌太郎に喰ひ下がつて、しつかり取り込んでゐますが、いづれ<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>で親父の善八が糸を引いて居たんでせう。尤も近頃は少し彌太郎に飽きられて居るやうで――どうかしたら、あの女ぢやありませんか。親父が<ruby><rb>棺桶</rb><rt>くわんをけ</rt></ruby>に入つて居ると知らずに――」

「女の手際ぢや五六寸も脇差を打ち込めないよ」

「さうですかねエ。それから黒船町の利三郎、これも宜い加減な野郎で――もとは<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>の良い札差だつたが、道樂の末が十年前に株を賣つて黒船町で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かれこれ</span>屋をして居ますよ。女房のお徳は良い女だが、こいつはもと藤屋の奉公人だつたさうで、いづれ彌太郎のお<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>りか何んかでせう」

「それから」

「まア、そんな事ですね。これだけ調べて、善八殺しの下手人はわかるでせうか」

「わからないよ、益々わからなくなつたよ」

平次はそんな事を言ひながら、相變らずの粉煙草をせゝりながち、若い<ruby><rb>蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>仙人のやうに考へ込んで居ります。

「それから藤屋のお蔭で食つて居る人間なら、隨分澤山ありますよ」

「例へば」

「第一が殺された善八、――尤もあの娘のお吉はあの通り綺麗なくせに<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>がよくないので、近頃歸すとか歸るとか騷がれて居ますがね」

「それから」

「次は黒船町の利三郎で、あれは十年前店の株を一萬兩といふ大金で藤屋に賣つて居ますが、大方は借金の穴埋になつて、近頃では藤屋から五十兩、三十兩と借り出して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かれこれ</span>屋の損を埋めて居るやうで」

「フーム」

「それに女房のお徳は藤屋の奉公人上がりですから、今でも時々は行つて手傳つて居ますよ。この間もお勝手に良い年増が居たでせう」

「氣が付かないなア――良い年増となると、お前は馬鹿に眼が早いから」

「手代や番頭にも、信用の置けないのが二三人居るやうで、下手人には事を<ruby><rb>缺</rb><rt>か</rt></ruby>きませんよ。尤も藤屋に死なれて困るのは利三郎やお吉で、死んでもらひ度いのは、養子の彌吉や番頭の佐兵衞ですが――」

八五郎の報告はそんな事で了りました。が、この報告の中からも、何んのヒントも得られません。

それから十日ばかり經つたある晩のこと、騷ぎも一段落になつて、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く日頃の贅澤癖を取り戻した藤屋の彌太郎は、向島の寮に黒船町の利三郎を呼んで、晝から<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>を打つて居りました。

利三郎の方が一二<ruby><rb>目</rb><rt>もく</rt></ruby>強く、何時でもお世辭に負けたり勝つたりして居る碁でしたが、その日は彌太郎の方が風向きがよく、二三番勝越してすつかり良い心持になつてしまつた頃、朝湯の好きな彌太郎が、その晩に限つて、急に寢る前に一と風呂入り度いと言ひ出し、宵から<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き付けさして、

「お風呂がわきましたが――」

お吉が言つて來たのは<ruby><rb>戌刻半</rb><rt>いつゝはん</rt></ruby>（九時）過ぎでした。

「それぢや一と風呂浴びて來るが、――その間によく考へて置くが宜い。その<ruby><rb>大石</rb><rt>たいせき</rt></ruby>はどう考へたところで<ruby><rb>活</rb><rt>いき</rt></ruby>はあるまいが」

すつかり考へ込んで居る利三郎を奧に殘して、彌太郎はそのまゝ風呂場へ行つたのです。

さつと温まつて流しに降りようとした彌太郎、生温かい晩で、戸を開けたまゝの窓格子に背が向くと、

「あツ」

いきなり後ろからサツと突いて出た長いの。<ruby><rb>左肩胛骨</rb><rt>ひだりかひがらぼね</rt></ruby>の下を狙はれましたが、危ふく身をかはして、脇の下を縫つて流れました。

「泥棒ツ、――人、人殺しツ」

豪氣な彌太郎ですが、不意の襲撃に顛倒して、流しの下に轉げ落ちると傷口を押へて叫び續けます。

「旦那樣、どうなさいました」

一番先に飛び込んで來たのは<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>のお吉でした。續いて番頭の佐兵衞、伜の彌吉、そして奧座敷に居た利三郎まで、面喰つて白の碁石を三つ四つ掴んだまゝ飛び込んで來たのです。

「何うしたのです御主人？」

「あの窓からやられた。見てくれ、彌吉」

が、伜の彌吉は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>へて居て物の役に立ちません。

「どれ」

さすがに利三郎は皆んなをリードして行きます。風呂場の廻し戸をあけて、いきなり<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>のまま外へ――

がそれも無駄でした。格子の外に捨てて逃げた、長目の脇差を一つ手に入れただけ。

「逃げ足の早い野郎で、――姿も見えません」

ぼんやり歸つて來る外はなかつたのです。

主人彌太郎は早速傷の手當てをして、近所の外科を呼びましたが、幸ひ急所を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れて、命には別條がないとの見立てに、ホツとしたのはやがて<ruby><rb>亥刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>（十一時）頃でした。

「又やつたさうだね」

其處へ思ひも寄らぬ錢形平次と八五郎がやつて來たのです。

「おや、錢形の親分、どうして斯んなに早く」

驚きながらもイソイソと迎へたのは利三郎でした。

「一度あることは二度あると見て、手代の源七に頼んで置いたのだ。<ruby><rb>三圍</rb><rt>みめぐり</rt></ruby>から柳橋まで<ruby><rb>豫</rb><rt>かね</rt></ruby>て用意した<ruby><rb>猪牙</rb><rt>ちよき</rt></ruby>で漕がせ、柳原から一氣に驅けて來ると、俺の家まで四半刻（三十分）で來られるよ。今度は曲者を逃さねえつもりだ」

さう言ひながら、平次は八五郎と共に、風呂場からお勝手へ、居間へ奧座敷へと念入りに調べて行きます。

風呂場の外で見付けたのは、利三郎が見付けた脇差の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>が一本。それは外から窓の上、<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>の下に突き差して、<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>の先だけ出して置き、必要な時中味だけ引つこ拔いて使へるやう仕掛けてあつたのです。

「何時でも使へるやうに用意してあつたんですね、親分」

「その通りだよ――おや、おや、この足跡は？」

平次は奧座敷から風呂場に續く泥足の跡を指摘しました。

「私でございます。曲者を追つかけて、風呂場から出て、血だらけな脇差を拾つて入つた時、ツイ<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>だつたことを忘れて入りましたので」

利三郎は恐る〱顏を出しました。

「この足跡で見ると、爪先は奧から風呂場の方へ向いて居るが」

「あわてて、あつちへ行つたり、此方へ來たりしましたので、へエ」

「そんな事もあるだらうな。念のため足の裏を見せてくれ――おや、大變綺麗ぢやないか。何？　風呂場で拭いた、――拭いた足からあんな泥の跡がつくのか」

「八」

これだけで充分でした。<ruby><rb>待機</rb><rt>たいき</rt></ruby>して居た八五郎は、いきなり逃げ出さうとする利三郎に組み付いたまゝ、縁側から庭の闇へ轉がり落ちたのです。

×　　　　　　×　　　　　　×

善八を殺し、彌太郎を刺した曲者は、黒船町の利三郎でした。

「少しもわかりませんよ。利三郎は、一度藤屋の主人を助けて置きながら、何んだつて殺す氣になつたんでせう」

事件が落着してから、八五郎は<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う平次に訊くのです。

「最初から利三郎は藤屋の主人を殺す氣だつたのさ。夜な〱物置に忍び込んで棺に穴をあけ、その穴を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぐ仕掛けまで拵へたが、さて、いざとなると、あの時彌太郎を殺すと、疑ひは眞つ向から利三郎に向けられると氣が付いたんだ」

「へエ」

「で、一度はわざと彌太郎を助けて命の恩人になつた。さうして置けばこの次に、本當に彌太郎を殺しても、自分へは疑ひは來ないと見たのだよ」

「<ruby><rb>太</rb><rt>ふて</rt></ruby>え野郎ですね、――たつたそれだけの證據を揃へるために、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>の善八を殺したんで？」

「その通りだ。幇間の善八は飛んだ貧乏<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>を<ruby><rb>抽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、利三郎の道具になつたのだよ」

「<ruby><rb>鯨幕</rb><rt>くぢらまく</rt></ruby>の後ろから棺へ脇差を突つ込んだ利三郎が、どうして壇の前に居て善八を介抱したのでせう」

「あれはうまい手品だつたよ、――棺の中から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うめき</span>聲が聞えて、サツと壇の白絹に血が流れた、三百人の眼が其處に吸ひ付いて居る時、利三郎は鯨幕の下を潜つて、棺に飛び付く人達の中に交つたのだ。幕の後ろに居た筈の利三郎が、眞つ先に居たのも變だと思つたが、それより殺されたのが善八と知つて居る利三郎が、あんまり眞劍に善八を介抱したのが後で考へると變ではなかつたか」

「さう言へばさうですね」

「それは幕の下をくゞる時、壇から流れる血を浴びたので、それを誤魔化すにも、善八を介抱するのが大事な仕事だつたのさ」

「ぢや親分は、何時から利三郎が怪しいと思つたんで？」

「利三郎が最初――棺の後ろから、チラリと壇の<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りが見えたので、棺に穴のある事に氣が付いたと言つたらう」

「え、え」

「ところが、その穴のことを、主人の彌太郎も善八も知らなかつたらしいのだ。穴は埋木で<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がつて居るから、知らなかつたのが本當だ。埋木の木の<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>は棺の中に落ちて居るところを見ると、あれは脇差で突いた時落ちたのだ、――その前に、棺の後ろに居て、穴から射す灯が見えたといふのは嘘だよ」

「成程ね」

「下手人は主人の彌太郎と伜の彌吉と、お吉と、番頭と、それから利三郎の外にはない。二度目に主人を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>つたと聽いて、これは利三郎だとはつきりわかつたよ。あの時一人で居たのは、奧座敷の利三郎だけだ。それに泥の足跡は風呂場の外へ廻つて主人を刺し、大急ぎで取つて返した時、あわてて下駄を踏み脱いで足を泥にした爲だ。利三郎はそれを誤摩化すために風呂場から<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で外へ出たのだ」

「へエ、行屆いた野郎ですね」

「それから彌太郎を狙ふのに、一々刄物を持つて歩くわけに行かないから、風呂場の窓の上に脇差を隱し、中味だけ引つこ拔いて窓から突いたのだらう」

「ところで、何んだつて利三郎は藤屋の主人を殺す氣になつたんでせう」

八五郎の問ひは<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も至極です。

「十年前に自分の店の株を買つた藤屋の、近頃の繁昌が<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましかつたのさ」

「ケチな野郎ですね」

「外にもあるよ。あんまり藤屋から恩を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>せられて、息苦しいやうな心持になつてゐる上、近頃妾のお吉に飽きが來た藤屋が、今では利三郎の女房になつて居る、もとの奉公人のお徳を呼び戻さうとしてゐたんだらう」

「へエ」

「戀の怨みは怖いな。八、お前も氣をつけろ」

「へツ、冗談で――ところでもう一つ、親分へ變な手紙をよこしたのは誰です」

「利三郎だよ」

「へエ？」

「惡智慧に<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼれ</rt></ruby>のある奴は、ツイあんな事をして見たくなるのだ。錢形平次の眼の前で、人一人殺して見せ度くなつたのさ」

「驚いた野郎ですね」

「棺の中で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うめき</span>聲がして、敷いた白い布がサツと赤くなつて、皆んなそれに氣を取られて居る時、そつと<ruby><rb>鯨幕</rb><rt>くぢらまく</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を潜つて出るのは、手品によくある<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>だが、うまい事を考へたものさ。その上主人を一度救つて置いて、二度目に殺さうとしたのは底の知れない惡黨だ」

「へエ」

「だが、<ruby><rb>怠屈</rb><rt>たいくつ</rt></ruby>で金があるからあんな事を思ひ立つことだらうが、生き<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひなどは増長の沙汰だよ。藤屋も惡いには違ひない」

平次はそんな事を言つて相變らず貧乏臭い粉煙草をせゝるのでした。