## 一

「親分、近頃江戸にも、變なお<ruby><rb>宗旨</rb><rt>しうし</rt></ruby>があるんですつてね」

ガラツ八の八五郎、何を嗅ぎ出したか、小鼻を<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>らませて、庭口からノソリと入つて來ました。

五月の末のある朝、明神樣の森も申分なく繁り合つて、平次の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>までが、緑の庭に淀んだやうな<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>です。庭先に並べた草花の鉢の芽を、後生大事にいつくしんでゐるところへ、この足に眼のない男が木戸を跳ね飛ばすやうに<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにふ</rt></ruby>して來たのでした。

「頼むから足許に氣をつけてくれ。この間もお前に朝顏の鉢を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>かれて、二三杯滅茶々々にされたぢやないか」

平次は氣のない腰を伸ばしました。外に道樂はないにしても、三文植木や、草花の鉢に夢中になる親分の趣味が、八五郎にはどうしても呑み込めません。

尤も、<ruby><rb>拳固</rb><rt>げんこ</rt></ruby>を七三に構へたやうな、間の拔けた彌造を拵へて、メロデーのない鼻唄か何んかを<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りながら、江戸中を驅け廻つて居るからこそ、時々は素晴らしいニユースを嗅ぎ出して來て、平次に溜飮を下げさせてくれる八五郎でもありました。

「何んと言つてもお宗旨ですね。信心でもなきや、この不景氣に二千五百兩といふ金は寄りませんや。ね、さうぢやありませんか親分」

「お宗旨がどうしたんだ。俺のところは、死んだお袋の遺言で、<ruby><rb>阿彌陀</rb><rt>あみだ</rt></ruby>樣一點張りさ、――太鼓持お宗旨だけは負けてゐず――とな。御用聞だつて金づくや權柄づくぢや、宗旨は變へないよ」

平次はそんな事を言ひながら、まだ朝顏の鉢から眼も離しません。

「へツ、誰も宗旨替なんか勸めに來たわけぢやありませんよ。近頃は妙に新しい宗旨が多くなつて、お上でも取締りに困つて居ることは、親分も御存じでせう」

「聽いたよ」

「その中でも、寶山講なんてえのは、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>たものですよ。有難い歌を唄つて、裸踊を踊つて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くたびれ</span>た頃お酒が出て、醉つてところで<ruby><rb>雜魚寢</rb><rt>ざこね</rt></ruby>をするんだつてね。どんなわからねえ野郎でも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれだけ</span>有難くされると、極樂往生疑ひなしと來やがる。へツ、たまらねえな、親分の<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>だが――」

八五郎はペロリと舌を出して、自分の<ruby><rb>頬桁</rb><rt>ほゝげた</rt></ruby>を一つ、威勢よく叩くのです。

「ワツ、止せよ、鼻の頭なんか<ruby><rb>甞</rb><rt>な</rt></ruby>めるのは。どうも氣味のよくねえ藝當だ」

などと、掛け合ひ<ruby><rb>噺</rb><rt>ばなし</rt></ruby>は埒もありません。

八五郎の持つて來たニユースといふのは、今度相州小田原に寶山講の本社が建つに就て、江戸中の信徒から<ruby><rb>淨財</rb><rt>じやうざい</rt></ruby>を集めたところ、山の手だけで、何んと二千五百兩といふ巨額に上り、それを明日は信徒總代が、<ruby><rb>木遣音頭</rb><rt>きやりおんど</rt></ruby>で威勢よく小田原に送り込むことになり、今夜一と晩だけ、赤坂田町三丁目の坂田屋に泊まることになつたといふのです。

「ところで、その二千五百兩の見張りですがね。大口の寄附をした旦那衆は嫌がつて駄目、若い奉公人では猫に鰹節で安心がならねえから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>に來て見張つてくれないかと――斯ういふ頼みなんです」

「お前それを引受けたのか」

「まだ引受けたわけぢやありませんがね。お禮がたんまり出るから、結構な内職になることだし、――と坂田屋の<ruby><rb>内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>が持ちかけましたよ。どうしたものでせう、親分」

「馬鹿野郎」

「矢つ張りいけませんかね」

「金の番をしろと、お上からお手當を頂いてるわけぢやあるめえ。どうしても内職をやり度かつたら、十手捕繩を返上してからにしろ」

「へエ」

八五郎はまさに一言もありません。

用事はそれで濟んだのか、

「あれ八さん、お晝の支度をしましたよ」

などと引留めるお靜の聲をぼんのくぼのあたりに聽いて、トボトボと歸つて行くのです。

お上のお手當、それがどんなに心細いものか、何も彼も知り拔いてゐる平次は、八五郎の後ろ姿の貧乏臭いのを見て、妙に身につまされるのでした。

「可哀想に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろく</span>な<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>もあるめえ」

さう言ふ平次も、女房のお靜も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろく</span>な袷などといふものは、もう三年越しお目に掛つてはゐないのでした。

## 二

「親分、到頭大變なことになりましたよ」

翌る日の朝――と言つても<ruby><rb>辰刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>（八時）過ぎ、八五郎は氣の拔けたやうな顏をして、明神下の平次の家へやつて來ました。

「今日は大層穩やかぢやないか、――赤坂田町の坂田屋で、二千五百兩の金が盜まれたとでも言ふのか」

「その上、人間が一人殺されましたよ」

「何？」

「用心棒の喧嘩の<ruby><rb>左吉松</rb><rt>さきまつ</rt></ruby>が、一人で見張りを引受けるとか何んとか大きなことを言つて、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>近くなつてから、一人で離屋に頑張つて居ましたが、<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>ないことに蟲のやうに刺し殺されて、二千五百兩の小判は影も形もありません」

「成程それは大變なことだ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は昨夜の見張りを斷つた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いきさつ</span>もあり、今朝起き拔けに覗いて見ると、この騷ぎぢやありませんか、――うつかり坂田屋の<ruby><rb>内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>に逢はうものなら、いきなり胸倉を掴まれて、『お前さんのせゐ』と言はれるにきまつてゐますよ。すまして阿彌陀樣の<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>にしても置けないぢやありませんか」

八五郎腐るわけでした。

「そいつは氣の毒だ。行つて見ようか」

妙な行掛りになつて、明神下から溜池へ、平次は八五郎に案内させます。

溜池の坂田屋といふのは<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>ては日本橋の油問屋で、華やかな大町人の一人でしたが、主人の敬三郎が三年前に死んだ後は、思ひの外の借金で店を人に讓り、<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>のお紋といふのが、娘のお新をつれて赤坂田町に引込み、まだ殘つて居る地所や貸家の收入で、昔の坂田屋の格式をあまり崩さず、世間體だけは心のまゝに暮して居るのでした。

「八五郎親分、ひどいぢやありませんか。あんなに私がお願ひしたのに」

坂田屋の店を入ると、十五六人の講中の人達を掻きわけるやうに、三十二三の良い年増が、八五郎へ飛び付きさうにするのです。

まだ若いのに、白粉氣のない<ruby><rb>櫛卷</rb><rt>くしま</rt></ruby>きで、世にも人にもすねた恰好ですが、精悍で、溌剌として居て、<ruby><rb>雌豹</rb><rt>めへう</rt></ruby>の怒つたやうな、言ふに言はれぬ美しさと、『抗し難きもの』を持つた女でした。

「濟まねえが、内儀さん、十手には十手の意地があるんだ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たんまり</span>禮を出すと聽かされちや金の番人は勤まらないよ」

「まア」

八五郎、よくぞ斯うまで言ひきりました。

「それでも、今朝は<ruby><rb>内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さんに合せる顏がないから、門口から飛んで歸つて、錢形の親分をつれて來たのさ」

「まア、錢形の親分さん？　濟みません、飛んだところをお目にかけて」

内儀のお紋は鼻白んで急に小さくなりました。雌豹の凄美が隱れて、それはもう唯の穩當らしい年増女でした。

でも、この感情の激しい動きの中から、平次はこの女の並々ならぬ魅力を見て取つてしまつたのです。尋常な目鼻立、少し淺黒い顏色、眉を落して<ruby><rb>鐵漿</rb><rt>かね</rt></ruby>を含んで、何んの變哲もない町家の内儀ですが、この燃えるやうな性格と、<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかに去來する感情の動きを見ると、――これは飛んだ罪を作るかも知れない――と思はないわけに行きません。

「どうぞ、親分さん方」

奧から飛んで出て、講中の人達の間に道を作つてくれたのは、手代の巳之吉といふ、二十四五の<ruby><rb>優</rb><rt>や</rt></ruby>さ男でした。

坂田屋の構へは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しもたや</span>風ではあるにしても、さすがに堂々たるもので、廣々と取廻した庭の奧まで廊下が伸びて、其處に二千五百兩の小判を置いた、二た間の離屋があります。

二た間のうちの一と間は、神佛混淆の怪し氣な<ruby><rb>祭壇</rb><rt>さいだん</rt></ruby>を飾つた八疊、それに續く一と間は、六疊の次の間で、其處に喧嘩の<ruby><rb>左吉松</rb><rt>さきまつ</rt></ruby>が、昨夜のまゝの姿で、<ruby><rb>紅</rb><rt>あけ</rt></ruby>に<ruby><rb>染</rb><rt>そ</rt></ruby>んだまゝ、引取手もなく轉がされて居るのでした。

平次が行くまで、朗々と聽えてゐた、お經とも<ruby><rb>朗詠</rb><rt>らうえい</rt></ruby>ともつかぬ聲が、平次が障子を開けるとハタと止んで、

「誰ぢや」

振り返つてクワツと眼を剥いたのは、五十近い<ruby><rb>修驗者</rb><rt>しゆげんじや</rt></ruby>、總髮に<ruby><rb>兜巾</rb><rt>ときん</rt></ruby>を頂き、輪<ruby><rb>袈裟</rb><rt>げさ</rt></ruby>をかけて<ruby><rb>數珠</rb><rt>じゆず</rt></ruby>を押し揉む、凄まじい髯男です。

「<ruby><rb>御坊</rb><rt>こばう</rt></ruby>、暫らく邪魔をするぜ。錢形の親分だ」

八五郎はそれを迎へて恐れ氣もなく長んがい顎をしやくります。

「何、錢形の親分？　近頃高名な岡つ引だな」

「岡つ引には違げえねえが、お前さんは？」

「寶山講の教主代理、<ruby><rb>寶雲齋</rb><rt>はううんさい</rt></ruby>ぢやよ」

「何んだ、代理か、番頭のやうなものだな」

八五郎の舌の長さ、廊下からぞろ〱と續いて來た、講中をハラハラさせます。

「代理であらうと、<ruby><rb>法力</rb><rt>ほふりき</rt></ruby>は洪大ぢや」

「その法力で、左吉松を殺して、二千五百兩を盜んだ曲者を縛つて貰はうか」

八五郎は遠慮もなく<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みました。この修驗者の高慢な<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>や、親分の平次を唯の岡つ引扱ひにしたのがひどく<ruby><rb>疳</rb><rt>かん</rt></ruby>にさはつた樣子です。

「應う。言ふ迄もないことぢや。九天の上に照覽遊ばす、我が<ruby><rb>大祖神</rb><rt>おほおやかみ</rt></ruby>を呼び降し、揉みに揉んで<ruby><rb>祷</rb><rt>いの</rt></ruby>るに於ては、人を<ruby><rb>害</rb><rt>あや</rt></ruby>めて淨財を奪つた曲者、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の絲に掛つた青蟲のやうに、この祭壇の前に引寄せられ、<ruby><rb>肝腦</rb><rt>かんなう</rt></ruby>を打ち碎いて天罰を受けるのぢや」

斯う言ひきつて寶雲齋坊は、怪しくも飾り立てた祭壇の前に大見榮をきるのです。

「そいつは面白いや。一つその御本尊の利益と、御坊の法力で、下手人を搜し出して貰はうか」

「わけもないことだ」

「萬一岡つ引の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こちとら</span>の方が一足お先に曲者を縛つたら何んとする」

「おツ、數珠をきつて、岡つ引の子分にならうか、――若し又、<ruby><rb>其方</rb><rt>そつち</rt></ruby>が負けたら」

「十手捕繩返上と言ひ度えところだが、この<ruby><rb>髷節</rb><rt>まげぶし</rt></ruby>をきつて、御坊の弟子になつても宜い」

「言つたな、岡つ引奴」

この爭ひは何處までも續きさうです。

「八、もう宜い。修驗者なんかにからかつて居ると、不動の<ruby><rb>金縛</rb><rt>かなしば</rt></ruby>りを喰ふぞ」

平次はあまりの馬鹿々々しさに口を容れました。

「へツ、金と聞くと、金縛りでも有難くなりますよ。この節は<ruby><rb>不漁</rb><rt>しけ</rt></ruby>續きで、財布の中には穴のあいた金もねえといふ心細い有樣で」

そんな事を言ふ八五郎です。阿彌陀樣の罰は當らなくとも、寶雲齋が本尊だといふ、<ruby><rb>達婆提多</rb><rt>だいばだつた</rt></ruby>の罰くらゐは當りさうでした。

## 三

縁側を戻つて、手前の六疊へ入ると、其處には昨夜のまゝの、喧嘩の<ruby><rb>左吉松</rb><rt>さきまつ</rt></ruby>の死骸を見守り乍ら、その兄弟分と名乘る一つ木の馬吉といふ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>者と、寶山講の先達で、二千五百兩の寄附を集めた責任者、新町の地主萬屋治郎兵衞が、睨み合つて居りました。

馬吉は三十七八の、薄汚ない<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>と、グロテスクな面を持つた、<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の嫌はれ者で、萬屋治郎兵衞は、五十前後の肉の厚い、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>の光る、<ruby><rb>愚鈍</rb><rt>ぐどん</rt></ruby>らしい癖に、何事にも一と理窟こねなければ氣の濟まぬ男。が、二千五百兩紛失の責任の當面に置かれて、全く腐りきつて居ります。

「親分、これは大變なことですね」

左吉松の死骸を見ると、八五郎はさすがにその不自然に眼を剥きます。

「お前も氣が付いたか。細引で縛つた上、喉笛を掻きつて居る。刄物は？」

平次は<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見ました。

「左吉松の持物ださうで、死骸の側にありました」

萬屋治郎兵衞は、懷ろ紙の上に置いた、凄い<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を指しました。ざつとそれは一尺一寸くらゐはあるでせう。喧嘩刀と言つても宜い程の<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>で、昨夜左吉松が用心のために、それを呑んで來たことは疑ひもありません。現に少しの汚れもない<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>が、血染の匕首と並べて、其處に置いてあるのです。

「これ程達者な男が、默つて縛られた上、素直に自分の喉笛を刺されたのかな」

離屋と言つても、<ruby><rb>母家</rb><rt>おもや</rt></ruby>は廊下續きの三四間先にあります。<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>が靜まり返つた夜半に、キヤツともスウとも言はなかつたにしても、バタバタやつただけでも、母家から誰か來てくれさうなものです。其處には現に此處に居る先達の萬屋治郎兵衞を初め、手代の巳之吉も、小僧の勇太郎も待機して居た筈です。

死骸になつて居る左吉松は、『喧嘩』といふ<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>を取つて居るだけに、小造りではあるが、三十五六の、申分なく<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい男でした。色の淺黒い顏の四角な顏、青髯が耳の下まで頬を染めて、腕つ節の強さうな、鬪志滿々たる男つ振りは、<ruby><rb>無抵抗</rb><rt>むていかう</rt></ruby>に人に縛られて、咽笛を默つて刺されて居る人間とは見えません。

それにその野性的な顏に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>る、<ruby><rb>法悦</rb><rt>ほふえつ</rt></ruby>にも似た、穩やかな表情は何んとしたことでせう。

「こいつは餘つ程仔細がありさうだな、八」

平次も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こと</span>の容易ならぬ樣相に、スタートを踏み直す心持になりました。

「あの山師坊主に負けちや大變ですよ、親分」

八五郎はそんな氣樂なことを考へて居るのです。

「<ruby><rb>賭</rb><rt>かけ</rt></ruby>をしたのはお前だ。俺は安心して居るよ」

「へツ」

「間違つても坊主にされるのはお前だ。八五郎の入道姿などは<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>たものだね」

「脅かさないで下さいよ、親分」

「あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>が泣くぜ」

平次がこんな馬鹿なことを言つて居る時、その時は、平次の神經が八方に觸覺を出して、何にか素晴らしいヒントを掴みかけて居る時でした。

「何んか、手掛りを見付けたんですか、親分」

「手掛りといふ程のことではないが、死骸の手足を縛つた、細引の結び目にお前は氣がつかないか」

死骸の手足を縛つた細引は、死骸の世話をした人達が必要な程度に切りほどいてありますが、切つた者に心得があつたらしく、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の結び目はそのまゝで、細引はまだ完全に死骸に絡み付いて居るのです。

「男結びとか、女結びとか、<ruby><rb>織</rb><rt>はた</rt></ruby>結びとか？」

「そんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まとも</span>な結び方なら、少しも不思議はないが、これはお前、<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>になつて居るぢやないか」

「？」

「わざ〱細引に罠を拵へて人を縛る者はないよ。<ruby><rb>左吉松</rb><rt>さきまつ</rt></ruby>ほどの達者な男が、罠へ手を突つ込んで縛られるのも變ぢやないか」

「――」

「これは、左吉松が、自分で自分を縛つたのさ。細引で最初に自分の脚を縛り、それから罠をこさへて、後ろ手に兩手を突つ込み、口を使つて締めたのだ」

平次は死骸に殘る繩の結び目を指し乍ら、こと<ruby><rb>細</rb><rt>こま</rt></ruby>かに説明するのでした。

「親分、それは本當でせうか」

眼の色を變へて詰め寄つたのは、先達の萬屋治郎兵衞でした。

「繩の結び目を見るが宜い。こんな馬鹿なことで縛られる人間はないよ」

「すると？」

「泥棒に二千五百兩の金を盜られたといふことにして、左吉松がそれを隱したに違ひあるまい、――いや、どうかしたら、相棒にそれを運び出させ、自分で自分を縛つて、人眼を誤魔化す氣だつたかも知れない」

「――」

四人は思はず<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑みました。錢形平次の説明は、あまりに適切で、一言半句の異論を挾む餘地もありません。

「ところが、その合棒は急に氣が變つた。左吉松と組んで、二千五百兩の小判を山別けにする筈だつたが、<ruby><rb>左吉松</rb><rt>さきまつ</rt></ruby>を眠らしてしまへば、自分が一人占めになることに氣が付いた――左吉松は自分で自分を縛つて居る、左吉松の自慢の<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>は、その膝の前に轉がつて居る」

「――」

「相棒は氣が變つた。左吉松の匕首を取上げると、後ろから馴々しく近寄つて、自分で自分を縛つて居る左吉松の<ruby><rb>咽笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を、一と思ひに掻ききり、二千五百兩の小判を<ruby><rb>渫</rb><rt>さら</rt></ruby>つて逃げ出してしまつた」

平次の論理は、依然として、容易に異を挾む餘地もありません。

「あツ、この野郎だツ」

萬屋治郎兵衞は、矢庭に一つ木の馬吉に飛かゝると、その胸倉を、<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と掴んだのです。二千五百兩を獨り占めにしたのは、左吉松の兄弟分と名乘つて出た、この男の外にあるべき道理はありません。

## 四

「あツ、何を、何をしやがるんだ」

一つ木の馬吉は、その<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>を逆に掴んで、何んの苦もなく胸倉から離しました。まさに<ruby><rb>揚心</rb><rt>やうしん</rt></ruby>流の逆手です。

「畜生ツ、二千五百兩を返せ」

もだ〱と掴みかゝる萬屋治郎兵衞に、

「何を面喰つてやがるんだ。俺は左吉松の兄弟分には違げえねえが、二千五百兩を盜つた覺えはねえ。現に俺は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>一と晩、佐竹の<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>に入り込んで、尻の毛までも張つて出たんだ。證人は十人もあるぜ。おい、<ruby><rb>爺</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん、妙な惡名をつけると、唯ぢや置かねえよ」

馬吉は治郎兵衞を突き飛ばして、その<ruby><rb>頬桁</rb><rt>ほゝげた</rt></ruby>を二つ三つ續け樣に高鳴らせました。

「畜生、泥棒奴ツ」

治郎兵衞は湯氣の立つほど怒りましたが、これは喧嘩になる筈もなく、眼を剥いたり、齒を鳴らしたりするのが精一杯です。

「<ruby><rb>巳之</rb><rt>みの</rt></ruby>さんと言つたね、昨夜戸締りはどうなつて居たんだ」

平次は不意に、凡そかけ離れた事を手代の巳之吉に訊ねました。

「母屋は何んの變りもございませんでした。<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>（十二時）の鐘が鳴り止んだばかりの時――内儀さんに火の用心のことを言はれて、念のため廊下傳ひに離屋へ來て見ると、左吉松さんはこの有樣ぢやありませんか。思はず大きな聲を出すと、家中の者が皆んな此處へ集つて來ました。見ると、左吉松さんが殺された外に、二千五百兩の小判がなくなつて居り、縁側の雨戸も、此處から逃げたと言はぬばかりに開いて居りました」

「其處から皆んな飛び出したことだらうな」

平次は口を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れました。馬鹿念を押した形です。

「一人殘らず外へ飛び出しました。ところが、不思議なことに、裏も表も、木戸は嚴重に内から締つて居りますし、忍び返しがあの通りで、<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>を越して逃げ出す工夫もありません」

「？」

「でも、曲者が二千五百兩を持逃げしたことは確かですから、飛び出した人數の半分は、家の廻りを見ることにし、あとの半分は、木戸の外に飛び出して、<ruby><rb>上手</rb><rt>かみて</rt></ruby>、<ruby><rb>下手</rb><rt>しもて</rt></ruby>から、溜池のあたりまで調べましたが、曲者が逃げた樣子もなかつたのです」

手代巳之吉の説明は、まことに行屆きます。

「矢つ張り曲者はこの野郎ですよ。親分、早く縛つて下さい。逃げられでもすると、あの二千五百兩が――」

萬屋治郎兵衞は馬吉を指さし乍ら泣き出しさうになるのでした。

「いや、それだけ嚴重に、内から締つて居る木戸を、どうして拔け出したんだ」

平次にはまだ<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないことばかりです。

「塀を乘越える<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>がありますよ、親分」

「忍び返しはあの通り無事だ。それに曲者は、二千五百兩の小判、千兩箱が三つ、どう積つても、十貫目以上の荷物を持つて居る筈だ」

「それくらゐの荷物は持ちますよ、あの身體ですもの」

萬屋治郎兵衞は、凄い顏して睨んでゐる一つ木の馬吉の<ruby><rb>威嚇</rb><rt>ゐかく</rt></ruby>にも屈せず、その顏を正面から指さすのです。

「が、待つてくれよ。左吉松が相棒を使つて仕事をしたのなら、何も、細引の<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>まで拵へて自分で自分を縛るやうな、不自由なことはしなくても宜からう。ほんのちよいと、その相棒に縛つて貰へば宜いのだ」

平次の言葉は、あまりにも常識的ですが、殆んど決定的な強さを持つて居ります。左吉松ほどの<ruby><rb>強</rb><rt>したゝ</rt></ruby>かな惡黨が、確かな相棒を一人持つて居るなら、何を苦しんで露見の<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れのあるやうな馬鹿な奇計を<ruby><rb>用</rb><rt>もち</rt></ruby>ひるでせう。そんな危險を冒す必要のあつたのは、全く相棒がなかつた爲とも言へるのです。

「すると親分」

八五郎は氣が氣でない樣子です。あらゆる假定を御破算にしてしまつた平次は、一體何を依りどころに、この後の調べを續けるのでせう。

隣りの部屋の寶雲齋は、<ruby><rb>數珠</rb><rt>じゆず</rt></ruby>を押し揉み押し揉み、勝ち誇つた調子で、祈り續けて居ります。左吉松を殺して、二千五百兩の小判を盜んだ曲者でなくとも――現に寶雲齋に對して敵意と憎惡に滿ち充ちて居る八五郎自身でさへも、あの山師坊主の強引な熱祷に引摺られて、『蜘蛛の巣に掛つた蟲のやうに』、あの祭壇の前に引摺られて行きさうな氣がして叶ひません。

## 五

「昨夜のことを、もつと<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく訊かうか」

錢形平次は旗色が惡くなると、かへつて落着き拂ひます。

「宵のうちは、萬屋さんと私と、左吉松親分と、三人で二千五百兩の金箱を見張つて居りました。でも、萬屋さんは恐ろしい眠がりやで、最初から居眠りをして居りますし、私も疲れきつて居りましたから、ツイ居眠りくらゐはしたことでせう。一番達者なのは左吉松で――尤も夜と晝と取違へたやうな身持のよくない男ですから、眠くないのも無理はありませんが、『そんなに眠いなら、向うへ行つて床の中に入つて、存分に眠るが宜い。此處の見張りは俺一人で澤山だ。御本尊の寶山樣も守つて居ることだから』と申します」

「左吉松も信徒だつたのか」

「それはもう、恐ろしいほどの凝りやうで、二千五百兩の金だつて、<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>つたり<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かしたり、散々講中の人達を嫌がらせて、半分は左吉松が集めたやうなものです」

「で、それから」

「さう言はれると、左吉松に任せても差支へはあるまいと思ひ、萬屋さんを誘つて私と二人は母家の方へ引取りました。その時、私はもう一度庭へおりて念のために表裏の木戸を調べましたが、よく締つて居て、何んの間違ひもなく、家中の締りも變りのないことを見定めて、暫らくして縁側から内儀さんの部屋に聲を掛け、萬屋さんと一緒に自分の部屋に引取つて休んでも構はないでせうか、左吉松親分は斯う言ふが――と申しますと、構はないだらうとも、朝までゆつくり休むが宜い。これが昔日本橋で繁昌して居た頃の坂田屋なら、二千兩や三千兩の金に心配もしないだらうが、お前も隨分氣が小さくなつたネ――と笑はれました」

「――」

平次は默つてその先を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>します。

「私も妙な心持になつて、暫らく縁側に立つたまゝお話をして居りましたが、障子の中ではお内儀さんが寢卷とお着換へをして居る樣子なので、開けて入るわけにも行かず」

「時刻は？」

「丁度三縁山増上寺の<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>（十二時）の鐘が、鳴り始めた時、――ではお休みなさいと申し上げて、私の部屋へ引取りました。すると、障子の中から内儀さんが、あれは九つだね――と追つかけるやうに言つて居りました」

「それから」

「九つの鐘が鳴り終つた時、――内儀さんが大きな聲で、左吉松は飮んで居るから火の用心が惡い、今夜はことの外暖かいから、あの火鉢を縁側へ出しておくれ――と御自分の部屋から聲をかけましたので、着換へが濟んで、床の中へ潜り込んだばかりの私が、飛び起きて長い廊下の、先の離屋へ入つて見ると、あの有樣で」

「――」

巳之吉はその時の驚きと恐れを思ひ出したらしく、暫らく絶句して、あと先の記憶を整へます。

「左吉松は首筋に匕首を突つ立てて死んで居り、部屋の中の手習机の上に載せて置いた、二千五百兩の金は、煙のやうに消えてなくなつてしまひました」

「金はどんなものに入つて居た」

「本式の千兩箱を拵へたわけではございません。坂田屋に昔からあつた小形の錢箱を三つ持出して、六七百兩づつ入れておきました」

「ところで、坂田屋の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>はどうだ」

平次の問ひは唐突で、無禮なものでした。

「――」

巳之吉の顏には一瞬、激しい怒が湧き上がりましたが、精一杯押し鎭めて、

「昔のやうには參りません、――正直に申上げると、苦しい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やりくり</span>でございますが、まさか、神佛のものにまで目をつけるやうなことはございません」

と少し突つかゝり氣味に言ひ放ちます。

「氣を惡くしないでくれ、念のために訊いたのだから」

「――」

「萬屋は始終お前と一緒に居たことだらうな」

「あの人は年にも<ruby><rb>恰好</rb><rt>かつかう</rt></ruby>にも似ず、飛んだ臆病で、一寸の間も私から離れませんでした。現に縁側で、障子の外から内儀さんと話して居る間も、縁側の向うから見て居たほどで――」

巳之吉から訊くことは、これで全部になりました。

「内儀さんに會つて見ようか。八、お前は近所の噂を集めてくれ」

「へエ」

張りきつて飛んで行く八五郎の後ろ姿を眺め乍ら、平次は長い廊下を、靜かに母家へ入つて行きます。

## 六

廊下の盡きたところ、即ち母家の取つ付きは内儀のお紋の部屋でした。

「ま、錢形の親分さん、さつきは飛んだところをお目にかけました。私としたことが、すつかり取亂してしまつて――」

と、お紋は極り惡さうに平次を迎へるのです。小綺麗に調つた六疊、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>の鏡臺が一つ、目に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みるやうな赤い座布團、そして内儀の地味な青い袷が、不思議な美しい調和を<ruby><rb>釀</rb><rt>かも</rt></ruby>し出して、うら寂びた中の<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしさです。

こう相對してゐると、<ruby><rb>雌豹</rb><rt>めへう</rt></ruby>の精悍な美しさは隱れて、唯平凡で穩當な内儀、淋しく靜かでさへある大年増に過ぎませんが、何にか物を言はせたり、感情の激しい動きなどがあると、思ひも寄らぬ<ruby><rb>凄婉</rb><rt>せいゑん</rt></ruby>な美しさを見せる女でした。

「あの寶雲齋といふ修驗者は、どんな人ですかえ、内儀さん」

平次の問ひは妙なところから始まります。

「サア」

「遠慮なく言つて貰ひ度いんだが」

「私の口からは申上げ兼ねますが、――でも昨夜も金の見張りをしながら、あの離屋へ泊ると仰しやつて聽きませんでしたが、一度<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りたことがあつて、お斷りしました。それが反つて惡かつたのでございませう。あの方を泊めて、私の方が娘と一緒に逃げ出せば、間違ひはなかつたのですが」

恐らくあの修驗者は、内儀の美色に引寄せられて、灯に迷つて來る<ruby><rb>醜怪</rb><rt>しうくわい</rt></ruby>な昆蟲のやうに、夜中にノコノコ這ひ出して來たことでせう。そしてそれが、内儀の信仰にどんなに響いたことか、其處までは平次にもわかりません。

「娘さんといふと」

「お新と言つて十六になります。<ruby><rb>行々</rb><rt>ゆく〱</rt></ruby>は巳之吉と一緒にする約束になつて居りますが、まだ若過ぎることでもあり、昨夜のやうな時は、間違ひがあるといけませんので、麻布の親類へやつて泊めてもらひました」

それは母親としてはまことに賢明な處置らしく見えます。寶雲齋は撃退しても、喧嘩の<ruby><rb>左吉松</rb><rt>さきまつ</rt></ruby>などは、若い娘と同じ屋根の下には置き度くない人柄です。

「ところで昨夜のことを、もう一度繰り返して訊き度いのだが――」

「私は<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）前にこの部屋に引揚げましたが、萬屋さんと巳之吉は、<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>（十二時）近くまで離屋に居りました。二人があとを左吉松親分に任せて、その縁側から私に聲を掛けたのは丁度<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>（十二時）でした。増上寺の九つの鐘が鳴り始めると巳之吉は驚いて自分の部屋へ行つたやうでしたが、鐘が鳴り仕舞になつた時、私はフト離屋の火鉢のことを思ひ出し、女の私が寢卷姿でも參られませんので、一つ置いて先の部屋に休んでゐる巳之吉に聲をかけ、行つて見て貰ひますと」

「――」

お紋は<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑みます。剃り落した青い眉がひそんで、酢つぱいやうな口許が、馬鹿に仇つぽく見えます。

平次はお紋の部屋を出ると、次から次へと部屋を覗きました。娘のお新は母親と同じ部屋に寢て居るらしく、次の四疊半には、箪笥や手廻りの品があるだけ。

廊下を<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てて巳之吉の部屋、其處には昨夜萬屋治郎兵衞も泊つた筈です。小僧の勇太郎はその隣の二疊、お勝手の次の三疊には、下女のお直が休んで居る筈ですが、ザツと見たところで、三つの錢箱に入れた、二千五百兩の大金などを隱して居る樣子もありません。

間もなく八五郎が歸つて來た樣子です。離屋を覗いて、親分の平次が居ないと見ると、寶雲齋坊と、何にかひどくやり合つて居るらしく、<ruby><rb>罵</rb><rt>のゝし</rt></ruby>りわめく聲が筒拔けに聞えます。

## 七

「サア、その<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>をきつて、俺の弟子になれ。今更<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びても追つ付くことぢやないぞ、安岡つ引奴」

それは寶雲齋の祈祷で<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>へた<ruby><rb>破鐘聲</rb><rt>われがねごえ</rt></ruby>でした。

「何をツ、山師坊主奴。その祭壇の下に、法力とやらで引摺り寄せられると言つた下手人は何所に居るんだ」

「おう、左吉松を刺した當の相手の名、聽いて驚くな」

「誰が驚くものか、うぬが殺したと吐かしても驚く俺ぢやねえ」

八五郎は精一杯虚勢を張りますが、頼むところのない悲しさで、兎もすれば寶雲齋坊に押され氣味です。

「なア、岡つ引奴、左吉松は二千五百兩の大金、――幾百千人の信徒から集めた、清淨な寄附金を盜まうとして、立ちどころに寶山樣は本尊の利劍に刺され、その<ruby><rb>天誅</rb><rt>てんちう</rt></ruby>に伏したのぢや。天罰<ruby><rb>踵</rb><rt>くびす</rt></ruby>を返さずとはこの事ぢや。その方も舌長なことをほざくと、無事で此處からは<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>られぬぞ」

寶雲齋は一<ruby><rb>喝</rb><rt>かつ</rt></ruby>をくれて、縁側に立ちはだかるのです。數珠を振り上げ、四股を踏んで、まさに<ruby><rb>閻魔王</rb><rt>えんまわう</rt></ruby>の<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>を吐かんばかりの姿。

「寶山樣が下手人とは、言つたな山師坊主、――それが本當なら木像に繩打つてやらうか」

「何を、無禮」

「ところで、その二千五百兩が何處へ行つたのだ」

「それがわからなくて何うする――水に縁があつて土に縁がある場所、左吉松と<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合せた<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の惡者が、持出して溜池に沈めたに相違ない」

「何ツ、溜池？」

八五郎もそれには驚きました。この離屋から持出した二千五百兩、箱ごとでは十貫目に餘る荷物は、夜半過ぎに運び去るのは大變な仕事に違ひなく、恐らく手近の溜池に沈めたといふのが、誰が考へても一致しさうな隱し場所です。

「それツ」

かくと聽いた萬屋治郎兵衞は、それを<ruby><rb>神託</rb><rt>しんたく</rt></ruby>と思ひ込んだには何んの不思議もありません。

萬一の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おとがめ</span>を恐れて、それ〲の係りに屆出ると、一方町役人の助けをえて、十二三人の人數を狩り集め、あつと言ふ間に、溜池の底に<ruby><rb>鳶口</rb><rt>とびくち</rt></ruby>と手網と、<ruby><rb>鈎</rb><rt>かぎ</rt></ruby>と、あらゆる道具を入れて掻き廻しました。

それから夕景まで、この探索は<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつあう</rt></ruby>に熱心に續けられましたが、人足共をヘトヘトに疲らせ、溜池を滅茶にかき濁らせただけ、錢箱は愚か、古下駄一つもあがらず、寶雲齋坊、眞つ先に立つて、數珠を打ち振り打ち振り指圖をして、<ruby><rb>草臥儲</rb><rt>くたびれまう</rt></ruby>けに終る外はありませんでした。

その間に平次は、八五郎を二度三度と走らせて、日本橋から赤坂へ、いろ〱の情報を掻き集めました。それに依ると、

「坂田屋の主人敬三郎といふのは、山師坊主の祈祷で鼻風邪か何んか癒つてから、すつかりあのお宗旨に凝つてしまひ、三年前亡くなつた時は、日本橋の店も人手に渡り、その上の大變な借金で、赤坂田町のこの家も、少しばかり殘つた土地家作も、いづれはなくなるだらうといふことですよ。――それだけの身上を、皆んな寶山樣に入れあげたわけで、吉原のお<ruby><rb>職花魁</rb><rt>しよくおいらん</rt></ruby>に入れ揚げた程の御利益もないとわかつた時は、氣の毒なことに助からないとわかつて居ました」

「お前の言ふことは、一々變だな、花魁なんか引合ひに出さなくても宜からう」

「物の<ruby><rb>譬</rb><rt>たとへ</rt></ruby>ですよ、――あの内儀も大した年増だが、娘のお新はもつと綺麗ださうで、婿になる約束の巳之吉が、落目の坂田屋をきり廻して、一生懸命やつて居るのも無理はありませんね。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>だつて――」

「それ又、變な聲が出る」

「あの内儀も評判者ですよ、悧巧で<ruby><rb>確</rb><rt>しつか</rt></ruby>り者で、あの若さで後家を立て通して、白粉にも紅にも縁のない暮しをして居るんだから。尤も<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>き手はいつでも五六人はあるやうで」

「寶雲齋もその一人だらう」

「あの山師坊主と來たら熊坂の<ruby><rb>長範</rb><rt>ちやうはん</rt></ruby>見たいな顏をして居る癖に、坂田屋の内儀に附き纒つて大變な騷ぎをやつたさうですよ。あんなのに口説かれちや美い女も樂ぢやありませんね」

「せめて八五郎にでも口説かれたら――と言ひ度いところだ」

「へツ、當つて見ませうか」

「馬鹿、あゝ見えても、お前より歳上で、人間も<ruby><rb>倍増</rb><rt>ばいまし</rt></ruby>悧巧だ」

そんな話がいつでも二人の結論になります。

「おや、到頭溜池からは小判が出ないと極つた樣ですね」

「そろ〱俺が乘出さなきやなるまいよ。八、皆んなを呼んで來てくれ。平次が二千五百兩の小判を搜し出したと觸れるんだ」

「大丈夫ですか、親分」

「俺の法力を疑ふ氣か」

それからが大變でした。八五郎が胴間聲を張り上げると、

「何處だ、何處だ」

「それ行けツ」

人足を<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>へて二十人ばかり、遠慮も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>もなく、どつと坂田屋の離屋に押し寄せたのです。

## 八

「親分、溜飮が下がりましたぜ。あの二千五百兩といふ大金を入れた錢箱が三つ、<ruby><rb>左吉松</rb><rt>さきまつ</rt></ruby>の死骸の下の、<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いだ<ruby><rb>爐</rb><rt>ろ</rt></ruby>の下から出て來た時には」

平次と八五郎は、赤坂田町の坂田屋を引揚げて、虎の門の方へ、殘る<ruby><rb>夕映</rb><rt>ゆふばえ</rt></ruby>の中を歩いて居りました。

「左吉松が金を隱したことは間違ひもない――縁側を開けて、自分で自分を縛つて、泥棒に盜られたと見せかけたつもりだらうが、――あの繩の結び目で、死んでから惡事が露見するとは氣が付かなかつた」

「淺ましい野郎で」

「でも、ほんの四<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>の又半分ほどの間に二千五百兩の小判の入つた三つの錢箱が、左吉松の手で爐の下に隱されたことは確かだ。――締つて居る木戸の外へ持出して、溜池へ沈める<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなく、相棒を呼入れた樣子もないとすると、金はたしかに身近に隱してある筈ぢやないか」

「成程ね。――そこで死骸の下の爐の中とわかつた」

「祭壇は下が見通しだし、押入や縁の下も智慧がないから、俺は爐の中と見當をつけたのさ」

「あの錢箱が三つ床下から出た時の、山師坊主の顏といふものはありませんでしたよ」

八五郎は<ruby><rb>揉手</rb><rt>もみで</rt></ruby>をし乍ら、すつかり有頂天になつて居ります。

「さすがに數珠をきる氣にもなれなかつたか、いづれ金は沼津まで送るやうにとか何んとか誤魔化して、ソコソコに逃げ出したぢやないか」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は追つ驅けてさう言つてやりましたよ。『どうでえ、錢形の親分の法力は――』てね」

「でもあんまり威張れないよ。<ruby><rb>左吉松</rb><rt>さきまつ</rt></ruby>を刺し殺した下手人がわからないまゝ引揚げるやうぢや」

平次はそれが心外でたまらない樣子でした。

「親分にも本當にわからないんですか」

「大變な相手だ、どうしても尻尾を掴ませないよ」

「馬吉は？」

「<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>から動かないし、あの庭へは外から入れなかつた」

「巳之吉は？」

「萬屋と一緒に居た、――最初のうちは縁側で<ruby><rb>内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>と話して居た」

平次にはこの下手人に負かされたことが、何んとしても諦らめきれない屈辱だつたのです。

「おや、増上寺の暮六つの鐘が鳴りますね」

八五郎も平次も、雀色になりかけて居る、夏の夕空を仰ぎました。遠浪のやうに打寄せる江戸の街の騷音の上を渡つて、澄みきつた増上寺の鐘の音が、ボーンと靜かに寂しい<ruby><rb>餘韻</rb><rt>よゐん</rt></ruby>を引いて唸るのでした。

「八、鐘の音と音の間が、思つたより遠いぢやないか」

「さう言へばさうですね。<ruby><rb>捨鐘</rb><rt>すてがね</rt></ruby>が三つ、あと六つ鳴るわけですが」

「お前は自分の<ruby><rb>脈</rb><rt>みやく</rt></ruby>を見てくれ。鐘の音と鐘の音の間に、脈は幾つ搏つか」

「――」

八五郎は默つて、左の手首を右手の三本の指で抑へました。やゝ、暫らく、鐘は又美しい餘韻を引いて鳴ります。

「五十六」

「俺の脈は六十二だ、――お前といふ人間は、矢つ張り血の<ruby><rb>還</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りまで遲いんだな」

この期に臨んでも平次は冗談を言ふのでした。

「これはどういふわけです、親分」

八五郎はこの變てこな遊戯の意味を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>り兼ねて、薄れ行く夕映に長んがい顎を振ります。

「寺の鐘の音は、思ひの外間が長いといふことさ。夜中の九つ（十二時）の鐘は、三つの捨鐘を入れると十二も打つんだらう。鐘<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>きは前の響の大きく殘るうちは、次のを打たないから、十二も鐘を打ち了へるのは、思つたより長い<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>がかゝるわけだな」

「へエ？」

平次は大變なことに氣が付いたのです。鐘と鐘の間が人間の脈で六十幾つといふと、ざつと今の時間にして一分近くかゝり、十二の鐘を打ち了へるには、少くとも十分はかゝることになります。

「大變なことになつたよ八」

「何です、親分？」

「あの内儀のお紋が、増上寺のことばかり言つて居たが――」

「？」

「鐘を打ち始めてから、十二の鐘の打ち了へるまでには、離屋へ忍んで行つて、左吉松の<ruby><rb>惡企</rb><rt>わるだく</rt></ruby>みを見拔き、後ろから首筋を刺すくらゐの暇はあつたのだ」

「？」

「左吉松の死顏は穩かで笑つて居るやうだつた。後ろにあの良い年増が立つて居たのだよ。自今が、蟲のやうに殺されるとも知らずに見上げて思はずにつこりしたことだらう」

「さう聽くと可哀想でもありますね」

「お前だつてそんな氣になるだらう。――ところで<ruby><rb>路傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>に立つて話をして居ると、<ruby><rb>往來</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>の人が變な顏をするよ。薄暗くなつたやうだ。歸るとしようか」

平次は何んの思ひ入れもなく、神田の方へ道を急ぐのです。

「下手人を縛らないんですか、親分」

八五郎はキナ臭い顏をして立停りました。

「誰を？」

「左吉松殺しの下手人、あの綺麗な内儀ですよ」

「證據があるかえ」

「？」

「鐘の音と鐘の音の間が、八五郎の脈は五十六<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>つて、俺の脈は六十二搏つ――なんてことを、八丁堀の旦那方が眞面目に聽いてくれると思ふか」

「？」

「それとも、あの綺麗な年増に、お前は石でも抱かせる氣か」

「驚いたね、親分は」

「俺だつて驚くよ。――寶山樣の罰で、<ruby><rb>左吉松</rb><rt>ききまつ</rt></ruby>が殺されたと言はされちや――でも、世間にはさう思はせて置く方が無事だらうよ」

二人は默々として、明神下へ、お靜がヤキモキしながら、<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆふげ</rt></ruby>の膳の上の冷えるのを氣にして居る――平次の家へと急ぐのでした。

「でもね、親分。あの綺麗な年増が、何だつて人まで殺す氣になつたんでせう。金が欲しかつたでせうか、それとも」

「寶山講の事で<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>を潰して死んだ、亭主の怨みでも晴したいと思つたかも知れないよ」

「それとも」

「あの山師坊主の寶雲齋が憎かつたのかな」

「――」

「矢つ張り二千五百兩の金が欲しかつたか。兎も角も左吉松と共謀でないことだけは確かだ。最初左吉松が相棒に殺されたと言つたのは俺の間違ひさ」

「――」

「あの年頃の女の考へることは、俺にはどうも解らないよ」

平次は襟を掻き合せて、一段と急ぎ足になるのでした。八五郎はまた、親分の平次が、あの凄い年増のお紋を許して、大きい手柄をフイにしてしまつたことに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひそやか</span>な滿足と<ruby><rb>誇</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りをさへ感じて居る樣子です。

×　　　　　　×　　　　　　×

寶山講のために、左吉松が無理に集めた二千五百兩は、お上の指圖――實は平次の意見で、大方もとの寄附主に<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>されました。

寶山講はそれつきり人氣を失つて、ウヤムヤのうちに潰れ、新しく魅力的な、<ruby><rb>鰯</rb><rt>いわし</rt></ruby>の頭のやうなお宗旨が又それに代つて繁昌しました。但しそれは、平次も八五郎も、この筆者も知らないことです。

そして坂田屋の娘お新は、手代の巳之吉を婿にして、<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>きかけた家運の立て直しに精一杯になり、後家のお紋は、あの美しさを捨てて、緑の黒髮を切つたと――その頃の物好きな江戸つ子達は惜しがりました。