## 一

「八、丁度宜いところだ。實は今お前を呼びにやらうかと思つてゐたところよ」

「へエ、何んか御馳走でもありますかえ」

錢形平次は、斯んな調子で八五郎を迎へました。この頃の暑さで、江戸の惡者共も<ruby><rb>大怠業</rb><rt>サボタージユ</rt></ruby>をきめて居るらしく、珍らしく御用の方も閑だつたのです。

「呆れた野郎だ。御馳走ならお前を呼ぶものか、一人で喰ふよ」

「へエ、御親切なことで」

「今のは小言だよ、――<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのふ</rt></ruby>向柳原のお前の叔母さんが來て、お靜を相手に半日<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>いて行つたよ」

「有難いことで」

「たまには年寄の言ふことも聽くものだよ。叔母さんは苦勞人だ、なか〱面白いことを言つたぜ」

「へエ？」

「<ruby><rb>甥</rb><rt>をひ</rt></ruby>の八五郎も三十に近いから、一日も早く嫁を持たせて、<ruby><rb>冥途</rb><rt>めいど</rt></ruby>の姉にも安心させ度いと思ふが、あの樣子では嫁に來てくれ手もあるまい。何とか世間並の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>だけでも身につけるやうに、折々は叱つてやつて下さいと――ね」

「へエ」

「聞けばお前は、晝の着物のまゝで、床にもぐり込んだり、<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>で顏を拭いたりする相ぢやないか」

「叔母さんはそんな事を言ひましたか」

「あんな<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>はした覺えはないが、色氣がないにしても困つたものだ――と大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぼし</span>よ」

「色氣の方は滿々としてゐるんだが」

「尚ほ惡いやな」

平次は叔母に頼まれただけの小言を一と通り取り次ぎましたが、これが誠に儀禮的で、言ふ方も言はれる方も一向身につきません。

「その<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>で思ひ出したわけぢやありませんがね、矢の倉の<ruby><rb>御鞍打師</rb><rt>おんくらうちし</rt></ruby>辻萬兵衞といふのを親分は知つてゐるでせう」

ガラツ八は妙なことを言ひ出しました。

「知つてるとも、公儀御用の御鞍打師だ。鞍打師は外にもあるが、人間が一國で几帳面で、義理堅くて口やかましくて、早い話が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うるさい</span>方では江戸一番と言はれた男だ」

「その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うるさい</span>男が、金が溜つて商賣が繁昌して、娘が綺麗で申分のない暮しをして居るのに、毒を呑んで<ruby><rb>自害</rb><rt>じがい</rt></ruby>したとしたらどんなもので？」

八五郎はこんな人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じらし</span>な事を言つて、長んがい顎を撫で廻すのです。

「貧乏人が死に急ぎするとは限るまいよ。金持だつて死に度くなる事があるだらうぢやないか」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が一向死に度くならないところを見ると、それも一と理窟ですがね。――<ruby><rb>鞍師</rb><rt>くらし</rt></ruby>辻萬兵衞が<ruby><rb>裝束</rb><rt>しやうぞく</rt></ruby>も改めず、書置も殘さず、あの<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>の良いのが怪し氣な寢卷を着て、湯呑で毒を呑んで死ぬなんざ變ぢやありませんか、親分」

「さう言はれると、行つて見なきやなるまいかな、八」

「矢の倉は錢形の親分の繩張り内ですよ、辻萬兵衞の死んだのが殺しだつた日にや困つたことになりますよ、親分」

「<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かすなよ」

そんな事を言ひ乍らも、事件の妙な匂ひを感じたものか、平次は出かける支度をしました。

矢の倉の辻萬兵衞、――公儀御鞍打師で、職人ではあるが、それは大した見識でした。わけても主人の萬兵衞は、一と<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>ある男で、町内の口きゝであるばかりでなく、わけても奉公人――<ruby><rb>即</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち徒弟の養成に妙を得た男で、此處で三年なり五年なり辛棒した人間は、廣い江戸中何處へ行つても、先づ食ひはぐれはないと言はれるほど、良い訓練を身につけて居たのです。

その辻萬兵衞が、寢卷を着たまゝで毒死するといふことは、八五郎の頭で考へても、これは唯事ではありません。

## 二

矢の倉の御鞍打師、辻萬兵衞の店へ着いたのは、晝を少し廻つたばかりの時刻。

主人の死が尋常でないといふ噂が立つて、<ruby><rb>檀那寺</rb><rt>だんなでら</rt></ruby>でもそのまゝでは<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひを引受けてはくれず、御檢屍を待つて店中たゞウロウロして居る有樣でした。

「八五郎親分、重ね〲御苦勞樣だね」

威勢よく迎へてくれたのは、近頃養子に迎へられた早川馬之助でした。もとは武家だつたさうで、武藝のたしなみも相當らしく、身のこなしが<ruby><rb>輕捷</rb><rt>けいせふ</rt></ruby>で折目高な物の言ひ樣をしますが、肌合は間違ひもなく町人で、二十五六の良い男でもあります。この男がやがて矢の倉小町と言はれた、娘のお菊と祝言するのでせう。

案内されて店に續く仕事場の裏、主人萬兵衞の部屋に二人は通りました。八五郎は朝のうちに一度やつて來て、ひと通り眼を通した上、怪しいと睨んで其儘にして置くやうにと嚴重に言ひ置いた筈ですが、部屋へ入つた<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>の間の感じが、何んとなく先刻の印象と違つて居ることに氣が付きました。

「此處へ誰か人を入れたのか」

八五郎は恐ろしく不機嫌です。

「矢張り佛の世話もしなきやならない。それに家の者の身になると、線香くらゐはあげ度くなりますよ」

馬之助は丁寧ではあるが、嚴重な答辯振りです。

「何にか變つたことでもあるのか、八」

平次は取りなし顏に口を容れました。

「枕元の盆がなくなつて居ますよ。<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>と湯呑が臭かつたんで」

八五郎は其邊をキヨロキヨロ見廻して居りますが、その臭い土瓶や湯呑は部屋の中の何處にも姿を隱してありません。

「あ、それなら、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>下女のお早に片付けさせました。少し邪魔だつたもので」

佛の枕元に、首うな垂れて<ruby><rb>控</rb><rt>ひか</rt></ruby>へて居たボロ切れのやうな男が顏を擧げました。これは辻萬兵衞が手鹽にかけて育て上げた内弟子の一人、國松といふ二十四五の若い者です。

「お前は其處で何をして居たんだ」

「へエ、佛樣のお<ruby><rb>守</rb><rt>もり</rt></ruby>をして居りました。親方はあの通り江戸一番の元氣の良い方でしたが、心の中ではひどく淋しがりやで」

國松はさう言つて顏を伏せるのです。眼の細い、鼻の大きい、顎の張つた、充分實直らしい男ですが、そのかはり若さも<ruby><rb>覇氣</rb><rt>はき</rt></ruby>も消耗し盡した、どちらかと言へば<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い男です。

平次はそれに取合はずに、床の傍に<ruby><rb>膝行</rb><rt>ゐざ</rt></ruby>り寄つて、問題の死骸を見ました。

「――」

たつた一と眼で、ハツと息を呑んだのも無理はありません。それは猛毒で死んだ者によくある、恐ろしい<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>の表情で、口の隅から僅かに血潮の絲を引いてゐるのも、口の中の黒ずんでゐるのも、身體に<ruby><rb>斑點</rb><rt>はんてん</rt></ruby>の目立つのも、不自然な身體の<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>みも、馴れた者の眼には一點疑ひもない毒死だつたのです。

「何んと言ふことだ」

平次は今更腹を立てる張合もありません。死骸の前にあつた土瓶と湯呑――その中には<ruby><rb>請合</rb><rt>うけあ</rt></ruby>ひまだ主人萬兵衞を殺した毒が殘つて居る筈のが、故意か偶然か、無造作に取り捨られてしまつたのです。

「行つて搜して來ませうか。土瓶の中には<ruby><rb>煎藥</rb><rt>せんやく</rt></ruby>があつたやうですから、<ruby><rb>埃溜</rb><rt>ごみため</rt></ruby>にでも捨ててあるかもわかりません」

「それも大事だが、それより家中の者を皆んな此處へ集めてくれ、一應顏を見て置き度い」

「へエ」

八五郎は飛んで行くと、折から驅け付けてくれた土地の下つ引と力を<ruby><rb>協</rb><rt>あは</rt></ruby>せて、店中の人數を、主人の死骸の前に呼び集めました。

尤も近所の衆や今朝やつて來た親類の者を除けば大した人數ではありません。

主人萬兵衞の死んだ後では、この家の心棒になつて居るのは、お菊といふ一人娘で、これは矢の倉小町と言はれて十九、無口でおつとりして、親の萬兵衞の口やかましかつたのを、この娘の品のよさで割引くやうな、世にもすぐれた江戸娘でした。

ひどく打ち<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れては居りますが、親の死に逢つた悲しみさへも奪ふことの出來ない青春の美しさは、涙の<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>にもクワツと<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を明るくして居ります。

その隣に居るのは妾のお常、早く女房に別れた萬兵衞は、不自由さと淋しさを<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らすために、うつかり奉公人を昇格させた三十女です。豐麗で色つぽくて、愛嬌がポタポタこぼれさうですが、それだけ下司張つて慾が深さうで、そして存分に肉感的でもあります。

番頭の市五郎は四十五六、これは<ruby><rb>鞍打</rb><rt>くらうち</rt></ruby>の仕事よりは<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>の方が達者で、物慾の旺盛らしい青黒いノツポです。

鞍打の仕事をして居るのは<ruby><rb>甥</rb><rt>をひ</rt></ruby>の兼吉と、職人の金次と國松の三人。三人共この屋根の下に住み、長い苦しい修業を積んで鞍打の仕事を身につけてゐるのでした。そのうち甥の兼吉は一番年上の三十前後、辯口の達者な、身柄を崩さない、内々では稽古所へも出入りしさうな、小意氣な男前です。

金次は唯の職人で、年季を入れた腕と、手堅い人柄を買はれて、萬兵衞にも調法がられて居りました。男前も平凡、物言ひも尋常、親方の萬兵衞の<ruby><rb>非業</rb><rt>ひごふ</rt></ruby>の死の前にも一番冷靜に取りすましてゐるのはこの男でした。年の頃は二十七八、こんなのは戀も手柄も、派手な舞臺もなく、隱花植物のやうな一生ををはる人間でせう。

養子の馬之助は二十五、武家上がりで、切れ者で、ちよいと良い男で、そして愛嬌者でもありました。武家の出といふ、拔くことの出來ない自尊心が、性根の底にコビリ着いて居なかつたら、隨分人にも好かれ、女の子にも騷がれる男かも知れません。

もう一人の職人の國松は、<ruby><rb>粘液質</rb><rt>ねんえきしつ</rt></ruby>の見本のやうな男で、醜男で氣がきかなくて、その癖一國者で人がよくて、朝から晩まで、主人萬兵衞の小言の<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>を浴びるやうに出來た人間でした。萬兵衞はまたこの子飼ひの弟子が可愛くて可愛くてたまらないから、叱りもし打ちもして一番烈しく修業をさせるのだと、日頃人にも話し、機嫌の良い時は、當人の國松にも打明けて居りました。

あとは十五になる小僧の喜太郎と、四十五の出戻り女で、この家に十年も奉公して居る下女のお早だけ。喜太郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ませ</span>た利口な少年で、お早は<ruby><rb>鈍重</rb><rt>どんちよう</rt></ruby>で人の良い<ruby><rb>醜女</rb><rt>しこめ</rt></ruby>といふ外には言ふべきこともありません。

以上九人、佛と平次と八五郎と中心にして縁側まで居列びました。

「この中に、間違ひもなく、主人萬兵衞を殺した者が居るのだ」

平次はズラリと並んだ顏を見渡しました。綺麗なの、醜いの、平氣なの、<ruby><rb>緊張</rb><rt>きんちやう</rt></ruby>したの、なかなかに面白い取り合せです。

## 三

これはいつもの平次のやり方とは全く違つた方法でした。九人の容疑者を一室に<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>め、殺された死骸を前にして、一人々々に存分のことを言はせて、この言葉の微妙な喰ひ違ひの中から、本當の犯人を搜し出さうとするのは、奇拔ではあるにしても、その成果を充分疑はれるやり方だつたのです。

「最初はお菊さんに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かうと思ふが」

「？」

平次の言葉につれて、お菊はその美しい顏を擧げました。父の死といふ恐しい悲歎の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にも、奪ふ由もないこの娘の美しさは、何うかしたらこの魅力が、悲劇の原因ではあるまいか？　平次はフトそんな事を考へた程です。

「第一にお<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>さんを怨んでゐる者はなかつたかな」

平次の問ひは極めて常識的でした。

「そんな人がある筈もありません。父さんは皆んなによくしてやらうと、一生懸命でした」

娘のため、奉公人のため、世間のため、そんな事ばかり考へて、日頃口やかましかつた父親の態度は、生きてゐるうちこそ多少<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うつたう</rt></ruby>しいものでしたが、そのやかましい口が永久に閉ざされた今となつては、なつかしくやるせない思ひ出の一つだつたでせう。

「ところで、お孃さんの祝言は、どういふ事になつて居ました」

平次の問ひは露骨で不作法でさへありました。

「そいつは無理だよ、錢形の親分。お菊さんは可哀想に眞つ赤になつて居るぢやないか」

横から口を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れたのは養子の馬之助でした。

「――それぢや、お前さんから訊きませうか」

平次の調子のさり氣なさ。

「お菊さんは十九の<ruby><rb>厄</rb><rt>やく</rt></ruby>だ。祝言は來年の春といふことになつて居たのだよ」

「成程ね、――ところで、<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に馬之助さんに訊きますが、萬兵衞さんには、敵がなかつたでせうか」

「それはある筈はない、口やかましいと言つたところで申分なくよく出來た人だ」

「すると、御主人は人に殺されたのではなくて、<ruby><rb>石見銀山</rb><rt>いはみぎんざん</rt></ruby>か何にか呑んで、自害したことになるが――」

平次は一歩突つ込んだのです。

「そんな馬鹿なことが――」

氣色ばんだのはむくつけき男の國松でした。

「それぢや、順序を立てて訊くが、よく考へて返事をして貰ひ度い」

「――」

一座は何んとなくシーンとしてしまひます。

「先づ、この家には、石見銀山の鼠捕り藥などがなかつたでせうか」

「そんな物騷なものはありません。主人は人間にも毒になるやうな藥を置くよりは、鼠の暴れる方がまだしも安心だと言つて居ました」

<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>のお常は言ふのです。口やかましくて、ツイ人の怨みを買ひ兼ねないと意識する人間が、刄物や毒物を怖がるのは、よくある例だつたのです。

お常の言葉が終らぬうちに、八五郎に耳打をされて、二人の下つ引が外へ飛び出しました。町内の生藥屋を一軒々々歩いて、この家の者に石見銀山を賣らなかつたかどうか、確かめさせたのです。が<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し全くの無駄骨と後でわかりました。

「そこで、店中の者で、近頃主人と<ruby><rb>爭</rb><rt>いさか</rt></ruby>ひをして居た者があるだらうと思ふが――」

平次が九人の者の表情を讀むと、多勢の眼は期せずして、妾のお常の面上に集るのでした。

「あれ、私は別に喧嘩をしたわけぢやありませんよ。唯ちよいと何時までも奉公人<ruby><rb>並</rb><rt>なみ</rt></ruby>では可哀想だから、後添に直すものなら直して、それからお菊さんの祝言も、母親といふことで世話をし度いと言つただけぢやありませんか。それより近頃は馬之助さんの方が仲が惡かつたぢやありませんか」

多勢の視線が<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しくなつたものか、お常はツイこんな事まで言ふのでした。多勢を並べて置いて、此方から出す問ひの反響を見るのも、滿更惡くないて――平次はそんな事を考へて居るのでした。

「ところで、昨夜、この部屋へやつて來て、主人に逢つたのは誰と誰だえ」

平次は局面を轉回しました。

「私は夜の御飯を持つて來ましたが」

下女のお早でした。

「その時主人は何にか言はなかつたか」

「少し<ruby><rb>暑氣中</rb><rt>しよきあた</rt></ruby>り氣味で、晝過ぎから床を敷かせて休んで居りましたが、私がお膳を持つて行くと、――有難いなお早、斯う寢て居て三度のものの頂けるのは、皆んなのお蔭だよ――と言つて居りました」

「それつきりか」

「へエ」

「その後で此處へ來たのは」

「金次さんと馬之助さんと御新造さんと國松さんで」

下手人の疑ひは、次第に局限されて、お常、馬之助、金次、國松の四人に限定されさうです。

「藥は誰が持つて來たんだ」

「それは私の仕事でした。でも私は石見銀山なんか入れやしません」

お常は妙に<ruby><rb>註</rb><rt>ちう</rt></ruby>を入れるのです。

## 四

お常が藥を持つて來たのは<ruby><rb>酉刻半</rb><rt>むつはん</rt></ruby>（七時）で、そのまゝ別室に退いて、今朝まで何んにも知らずに寢て居たとこの豐滿なお妾は言ふのでした。

近頃仲違ひをして居る上、病弱で年を老つた主人の萬兵衞は、近頃あまりお常を寢室に近寄せずに、閑寂な<ruby><rb>老</rb><rt>おい</rt></ruby>を樂しむ風もあつたのです。

「その後で此處へ入つたのは？」

「私は一日の帳尻を見せに來たが、それは毎晩のことで不思議でも何んでもない。帳尻と言つても新しい註文のない日は、古い註文とその品の出來具合を話すだけだ」

馬之助は斯う言ひます。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は呼び付けられて叱られた方で、あんまり<ruby><rb>威張</rb><rt>ゐば</rt></ruby>れた話ぢやないが――」

金次は小<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>をポリポリと掻きます。

「何を叱られたんだ」

「少し道樂が過ぎるといふだけで。毎々のことで、馴れつこですがね」

金次は斯んな事を云つて居るのでした。

「その後で私が參りました。毎晩のことで足を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んで上げようと思ひましたが、よく寢込んで居る樣子で、そのまゝ戻つて參りました」

さう言ふのは國松でした。

「<ruby><rb>煎藥</rb><rt>せんじぐすり</rt></ruby>はまだ呑まなかつたのだな」

「その時は茶碗は伏せてありました、まだお藥を召上がらなかつたと思ひます。何時も夜中に<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>がかわいた時呑むんだと言つて、枕元に用意させて置きました。御町内の敬庵先生の處方の、<ruby><rb>疝癪</rb><rt>せんしやく</rt></ruby>の藥でございます」

國松はシトシトと説明するのです。

併しそれだけの事では、誰が下手人とも見當が付かず、錢形平次も指を喰はへて引揚げる外はなかつたのです。

「主人の部屋へ一番後で入つたといふ、あの國松といふ男が怪しいぢやありませんか。それに毒藥の<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>まであの男が捨てさせましたぜ」

引揚げて歸る途中、八五郎は八五郎らしい事を言ひました。が、平次は、

「そんな手輕なものぢやないよ」

それを取り合はうともしません。

大概の事件は一日のうちに片付けて、女房のお靜の晩酌のサービスを滿喫する平次ですが、この時ばかりは<ruby><rb>大縮尻</rb><rt>おほしくじり</rt></ruby>で、ぼんやり歸つて來て、八五郎を相手に、ホロ苦い盃を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めて居る眞最中でした。

「御免下さい。矢の倉から參りましたが――」

やがて<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）も近からうと思ふ頃、思ひも寄らぬ客があつたのです。

「なんだ、お前さんは、國松ぢやないか」

迎へ入れた八五郎も、少しばかり豫想外でした。それは辻萬兵衞の秘藏弟子で、昨夜萬兵衞に最後に逢つたといふ、内弟子の國松の萎れ返つた姿だつたのです。

「親分、私は大變なことをしてしまひました」

國松はさう言ひ乍ら、ヘタヘタと平次の前に崩折れてしまひました。

「何を言ふのだ、まさかお前は主人の萬兵衞を殺したといふわけぢやあるめえ。まア一杯呑んで元氣をつけて、ゆる〱話して見るが宜い」

「それが親分」

平次はもう或る程度の<ruby><rb>洞察</rb><rt>どうさつ</rt></ruby>をして居たのでせう。親切に國松を迎へると、盃をつけて、その前へ押しやつたりするのです。

「主殺しは<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>だぜ、滅多なことは言はない方が宜い。俺は知つての通り十手捕繩を預かつてる人間だ」

「それが、親分。――私は主人を殺したも同樣でございます。どうぞ、この私を縛つて、突き出して下さいまし。お願ひ」

國松は疊へ手を突くと、卑屈な態度で平次を拜んだりするのでした。

細い眼、グロテスクな鼻、一生懸命になると<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い顏が<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>して、言ひやうもない不思議な表情になります。少し氣の勝つた者なら、成る程この血の<ruby><rb>環</rb><rt>めぐり</rt></ruby>の惡さうな醜男を<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>といふ口實でからかつて見たくなることでせう。

「話して見るが宜い。一體お前は何をしたといふのだ」

「親分、――私はあの家に十二年も奉公をして居ります。その間、どんな目に逢つたか、親分始め世間樣も、全く御存じのないことで」

「いや知つて居るよ。公儀御鞍打師の辻萬兵衞は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やかましい</span>のと<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごふ</rt></ruby>なこと、そして弟子の仕込みの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うまい</span>ので名題の男であつた」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うまい</span>わけでございます。食物と<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>とで馴らせば、お猿も藝當をいたします。私は十二年の長い間、自分で自分の身體のやうな氣になつたことはございません。すること成すこと、ヘマと縮尻ばかりで、朝から晩まで、小言と冷かしの浴びせ通しでございました。あれが<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>といふものだつたら、私はつく〲躾のない國へ行つて、牛や馬のやうに暮したら、どんなに氣が樂だらうと思ひました」

「――」

「私は親の道樂で、<ruby><rb>御鞍打師</rb><rt>おんくらうちし</rt></ruby>のところへ年季奉公に住み込みましたが、本心を申し上げると御鞍打師などには死んでもなるのが嫌で御座いました。起きるから寢るまでコキ使はれ叱り飛ばされて、打たれたり、からかはれたり、時には晝飯を拔かれたり。十二年の永い間、私はこの辻萬兵衞自慢の躾の稽古臺になつて、眼をつぶつて暮して參りました」

「――」

「ありやうを申上げると、私は<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>になるのを覺悟の前で、主人の萬兵衞を殺したかつたので御座います。私は十二年の永い間、齒ぎしりをして暮しました。その間に父親も母親も死んでしまつて、私は歸る家もなくなつてしまひ、間拔けな犬のやうに、一生あの家で飼ひ殺される外はなかつたのでございます」

「――」

「その上、親分さん、私のたつた一つの目當て。あの可愛らしいお孃さんのお菊さんに、<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>が來ることになりました。武家出の馬之助といふ、男がよくて腕が出來て、その上お世辭の良い男でございます」

「――」

それに比べると、この男の見すぼらしさは何んといふことでせう、國松の嘆きは誠に深刻を極めました。振り仰いだ顏は涙に濡れて、不甲斐もなく<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>をえつ</rt></ruby>さへ<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>にからみつくのです。

「私は主人を殺さうと思ひました、――でも臆病な私は磔刑柱が眼の前にチラ付いて、思ひきつてそんな事をする氣にもなれなかつたのです、――ところが、昨夜といふ昨夜」

「――」

國松はゴクリと<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑み乍ら續けるのでした。

「晝のうちに散々に叱り飛ばされて、此上の我慢が出來なくなりました。豫々用意した<ruby><rb>石見銀山</rb><rt>いはみぎんざん</rt></ruby>を持つて、いつものやうに足を揉みに、主人の部屋へ參りますと、主人はよく眠つて居りましたので、そつと<ruby><rb>煎藥</rb><rt>せんじぐすり</rt></ruby>の<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を取ると、中の藥がプーンと妙な匂ひがしました。私より先に行つた者が、主人の毎晩呑む藥の中に、毒を入れたに違ひありません。私は自分のやりかけた恐しい<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>らみも忘れ、餘つ程主人を起して、忠義立てにそれを教へてやらうとしましたが、思ひ直して默つて引揚げてしまひました。私と同じやうに、誰かが主人を怨んで居る者があつたのでございます」

「――」

「今朝になると、あの通り主人は死んで居りました。誰が殺したか、私にはよく解つて居ります。でも、土瓶の中に毒を投り込んであるのを知り乍ら、默つて<ruby><rb>成行</rb><rt>なりゆき</rt></ruby>を見て居たこの私も、主殺しの罪は<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れやうは御座いません。親分さん、斯う名乘つて出て、立派に<ruby><rb>處刑</rb><rt>おしおき</rt></ruby>を受けようといふ、私の考へは無理でせうか。親分」

國松は平次の膝にすがりつかぬばかりに、不思議なことを口説き立てるのです。

「よし〱。お前を縛るのはわけもないが、それより俺は本當に主人を殺した奴の正體が知り度いよ。誰だえ、それは」

平次は當然の問ひを投げかけたのです。

「一つも證據がございません、親分」

「證據がない？」

「あの通り如才がなくて腕つ節が強くては、私などにはどうすることも出來ません。それより親分、この私を縛つて下さい。私は見す〱主人を見殺しにしてしまひました」

何といふ解らなさでせう、國松はなほも平次に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みつくのです。

## 五

「どうだ八、驚いたらう」

しを〱と歸つて行く國松を見送つて、平次は八五郎に斯う言ふのでした。

「變な野郎ですね。ありや一體何が目當で來たんでせう」

「自分が下手人でないといふことを、俺に呑み込ませ度かつたのだよ」

「へエ、それにしちや手數のかゝつた細工ぢやありませんか」

二人の話はそれつきりでしたが、矢の倉辻家の事件は、それだけでは納まらなかつたのです。

その晩、眞夜中頃。

<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く檢屍が濟んだばかりで、<ruby><rb>入棺</rb><rt>にふくわん</rt></ruby>を翌る日に延ばした主人の萬兵衞の死骸が、床の上からフラフラと起き出して廊下へ、隣の部屋へと歩き出したのです。

死骸に魔がさしたといふことは、言ひ傳へにはよくありますが、御通夜の衆がどんなに膽をつぶしたか、それは想像も及びません。

毒死と決つて、まだ入棺もしなかつたので、通夜と言つてもほんの二三人だけ。それも夜中過ぎは眠りかけて正體のある人も居なかつたのですから、<ruby><rb>屏風</rb><rt>びやうぶ</rt></ruby>の中からフラフラと起ち上がつた死人の姿に、

「あつ、助けてエ」

「お化けエ」

女子供が悲鳴をあげたのは無理もないことです。

店二階に寢て居た、養子の馬之助は、此騷ぎに眼を覺まして、おつ取り刀でガバと起きると、<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を一足飛びに降りようとして、どう足を踏み外したものか、恐しい勢ひで階下へ墜落しました。そして、自分の持つて居た<ruby><rb>拔刀</rb><rt>ぬきみ</rt></ruby>で首筋を<ruby><rb>貫</rb><rt>つらぬ</rt></ruby>いて、聲も立てずに死んでしまつたのです。

これは實に江戸開府以來の怪事件とも言ふべきでせう。死人が逆さ屏風の中からフラフラと起ち上がつたのも變ですが、後で氣が付いて見ると、主人萬兵衞の死骸は屏風の中に寂然と横たはつたまゝで、少しの動いた樣子もなく、そして養子の早川馬之助だけが、二階の梯子の下で、自分の刀で見事に<ruby><rb>喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を貫いて死んで居たのです。

土地の下つ引の報告で、錢形平次と八五郎が、矢の倉に驅け付けたのは、その翌る日の早朝でした。

「八、お前は奉公人達の持物を調べてくれ、<ruby><rb>見當</rb><rt>けんたう</rt></ruby>は血の附いた着物と、娘のお菊に宛てた手紙だ」

「へエ」

八五郎が下つ引と一緒に飛んで行くのを見送つて、平次はそつと娘のお菊を物蔭に呼びました。

「お孃さん、隱さずに言つて下さい。近頃お孃さんに、變な素振りをした者はありませんか、店中の者で」

それは十九の娘に問ひかけるには、隨分突つ込み過ぎましたが、今はもう遠慮をして居る時ではありません。

「金次が變なことをしました」

「國松は？」

「あの人は、遠くから私を<ruby><rb>見詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めて、泣きさうにするだけで、金次のやうに手紙をくれたり、暗がりで袖を引いたりしません」

「有難う。さう打明けてくれると助かります。ところで亡くなつた主人に身體の似てゐるのは？」

「肥つてゐる國松は、時々父さんの眞似をして、皆んなを笑はせて居りました」

「もう一つ、近頃お父さんと馬之助さんとは何にか仲がうまく行かなかつたやうですね」

「え」

「離縁の話でもあつたのですか」

「お父さんが頑固過ぎるし、――馬之助さんも遊び過ぎました。祝言前から店の金を持出すやうでは――と、お父さんがひどく小言を言つて居ました」

お菊の口から引出せるのは、これくらゐが精一杯です。

表二階――<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>死んだ馬之助の寢部屋は、ひどく取り亂したまゝで、夜半に飛び起きて、おつ取り刀で階下へ行つた樣子はよくわかりますが、なほ念入りに調べると、二階は物置兼用の至つて粗末な部屋で、その梯子も思ひの外のチヤチなものです。

その上梯子は明かに動かした<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>があり、死骸の馬之助の持つて居る刀は、首を<ruby><rb>貫</rb><rt>つらぬ</rt></ruby>かれてゐる自分の差料と違つて、全く間に合せの大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なまくら</span>とわかりました。

「親分」

八五郎が勢ひ込んで飛んで來ました。

「何んだ、八」

「娘へ宛てた色文を温めて居るのは、金次の野郎ですよ」

「それから」

「血の附いた着物なんか、ありやしません」

「風呂場か、流しを見たか」

「いゝえ」

「下女のお早に訊いて見ろ。誰の着物か知らない洗濯物が<ruby><rb>盥</rb><rt>たらひ</rt></ruby>につけてある筈だ」

「へエ？」

「梯子を引いて置いて、騷ぎに驚いて二階から飛び降りる馬之助を、下から突き上げた奴があるんだ。頭から血を浴びたに違ひない」

「へエ？」

「まだ解らないのか、――死人が歩き出して階下は割れつ返へるやうな騷ぎだ。二階で寢て居た馬之助は、枕元に置いてあつた刀を持つて二階から降りたが、梯子が引いてあるとは知らないから、恐しい勢ひで階下へ落ちた。其處を狙つて下から突き上げたのだ。少しくらゐ腕があつたつて、助かりやうはない」

「それは誰です、親分」

「死人に化けて<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>さ<ruby><rb>屏風</rb><rt>びやうぶ</rt></ruby>の中から出た奴だ」

「へエ？」

「血を浴びた着物を風呂場か流しで洗つた奴だ」

平次の<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>ひは極めて簡單でした。風呂場の<ruby><rb>盥</rb><rt>たらひ</rt></ruby>の中に、<ruby><rb>單衣</rb><rt>ひとへ</rt></ruby>を突つ込んで置いた男――あの一國者の國松は、その場を去らず、八五郎のクソ力で組み伏せられたのです。

×　　　　　　×　　　　　　×

「驚きましたね。あの江戸一番の正直者らしい顏をした國松が下手人とは？」

事件が一段落になると、八五郎は平次に此事件の<ruby><rb>繪解</rb><rt>ゑと</rt></ruby>きをせがむのでした。

「國松――考へやうぢや可哀想な男よ。辻萬兵衞はあの男を仕込むといふことにして、いぢめ拔いて、良い心持になつて居たのだ。意地の惡い<ruby><rb>姑</rb><rt>しうとめ</rt></ruby>が嫁を仕込むといふ口實でいぢめるのも、繼母が繼子を、<ruby><rb>躾</rb><rt>しつ</rt></ruby>けるといふことにしていぢめ拔くのも、皆んな同じことだよ」

「へエ」

「國松はそれを、世間體だけでも、有難く受けなきやならなかつたんだ。藝人などが弟子を仕込むのに、ひどい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いぢめ</span>やうをするのも皆同じことだ。嫁が年を取つて<ruby><rb>姑</rb><rt>しうとめ</rt></ruby>になれば又自分の若い時の事を忘れて、伜の嫁をいぢめるのと同じことだ」

「――」

それは恐るべき<ruby><rb>嗜虐</rb><rt>しぎやく</rt></ruby>狂の仕業でしかありませんが、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>ての日本では、それを尊い師の恩とさへ思ひ<ruby><rb>誤</rb><rt>あやま</rt></ruby>り、無用にして過度の屈從を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひて、尤もらしく美談として語り傳へたりしたのでした。

「國松は我慢がなり兼ねて、主人に毒を盛る氣になつたのだらう。ところがその晩自分より一と足先に、主人の<ruby><rb>煎藥</rb><rt>せんやく</rt></ruby>に毒を投り込んだものがある。近頃萬兵衞と仲違ひして、離縁話の持ち上がつて居る養子の馬之助の仕業とは思つたが、證據が一つもない」

「へエ」

「迷ひに迷つた<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、主人を殺して<ruby><rb>磔刑柱</rb><rt>はりつけばしら</rt></ruby>を背負ふ氣になつたくらゐの一國者だから、俺のところへ來て、自分の身體まで投げ出して皆んな話してしまひ、間がよくば馬之助を縛つて貰はうと思つたらしいが、あれだけの事では俺も動き出すわけには行かない」

「――」

「がつかりして歸つた國松は、無性に馬之助が憎くなつたことだらう。主人の萬兵衞を殺して娘のお菊をせしめるのが、どうにも我慢が出來ないが、證據がなくて取つて押へることもならず、それかと言つて、馬之助は腕つ節が強いから、正面から向つて勝てやう筈はない。いろ〱考へた末、その脇差を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り替へた上、二階の<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を引いて、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>で死人の眞似をした。國松の身體が死んだ主人によく似て居るから、主人の着物を羽織つて、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたひ</rt></ruby>に三角の紙でも當てて、屏風の中からヌツと出れば、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>の者は眼を廻す」

「ひどい野郎ですね」

「大騷ぎになつて、二階に寢て居る馬之助が眼を覺まし、降りようとしたが眞暗な上に梯子を引いてあるから、見事に階下へ落ちた。階下で待つて居た國松は、突き上げて一と太刀に殺し、頭から浴びた血を風呂場で洗ひ落したといふ順序だらう」

「へエ、驚きましたね」

「だから<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>も作法も程々で宜いわけだな、八」

「へツ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こちとら</span>は<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>で顏を拭くくらゐが丁度宜い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>で、お蔭で殺し度くなる主人も色敵もありませんよ」

こんな事を言ふ八五郎です。