## 一

「親分」

「何んだ、八。大層あわててゐるぢやないか」

「天下の大事ですぜ、親分」

「大きく出やがつたな。大久保彦左衞門樣見たいな分別臭い顏をどこで仕入れて來たんだ」

錢形の平次は驚く色もありません。八五郎のガラツ八と來ては、向柳原の叔母さんが無盡に當つても、隣の荒物屋の猫が五つ子を生んでも、天下の大事扱ひにしかねないあわて者です。

「ね、親分。親分は近頃火事が多過ぎると思ひやしませんか」

ガラツ八は妙なことを言ひ出しました。

「火事と女出入は派手なほど良い――なんて<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>の當つたことを言つてゐたのは誰だつけ」

「そんなことも言ひましたが――この節のやうに火事が多くなると、火事と女出入は地味なのに限りますね」

「馬鹿だなア――それでどうしたんだ」

「四年前（明暦三年正月十八、九日）の丸山本妙寺の振袖火事から江戸は火事續きぢやありませんか。三年前（萬治元年）の本郷<ruby><rb>吉祥寺</rb><rt>きちじやうじ</rt></ruby>の火事、今年の正月の湯島天神門前の火事と、大きい火事だけでも三つ、その外小さい火事は毎晩だ。多い時は一と晩に五ヶ所八ヶ所もあるんだから、いくら火事が江戸の花だつて、これぢややりきれない」

「――」

ガラツ八の言ふのは尤もでした。明暦三年から萬治三年へかけて、江戸の火事騷ぎは、年代記にも明かで、大は八百餘町を一と<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めにした振袖火事から、小は夜毎のボヤまで、それは全く恐る可き『火の<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>ひ』だつたのです。

幕府は新に火消役人を置いて、火消機關の大編制をし、火の扱方にまで嚴重に干渉して、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>や材木を積むこと、川岸に小屋や<ruby><rb>雪隱</rb><rt>せつちん</rt></ruby>を建てること、二階に灯を點けることまで禁じましたが、夜毎の火事騷ぎは少しも減らず、たうとう四代將軍家綱が豫定された日光參詣の日取まで延引して、ひたすら心の安定を計る外はなかつたのです。

「こいつは<ruby><rb>干支</rb><rt>えと</rt></ruby>や年廻りのせゐでせうか、親分」

「お前は何んのせゐだと思ふ」

「人間の仕業ですよ、親分」

「何んだと」

ガラツ八は大變なことを持つて來たのです。四年この方、江戸中を騷がせた『火の呪ひ』を、人間のせゐと見破つたガラツ八の<ruby><rb>慧眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>は、この男にしては近頃の大手柄だつたのでせう。

「<ruby><rb>干支</rb><rt>えと</rt></ruby>や年廻りなら、<ruby><rb>酉</rb><rt>とり</rt></ruby>とか<ruby><rb>申</rb><rt>さる</rt></ruby>とか、たつた一年で濟むことぢやありませんか。火早いのが四年續いて、毎晩三ヶ所五ヶ所から、素性の知れない火をふくのは、人間の<ruby><rb>惡戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>でなくて何んでせう」

「えらいツ、八。そこまで氣が付いたのはさすがだ」

「――でせう、親分」

八五郎は急に<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>を正したりするのでした。親分にかう褒められたのは、三年前御府内荒しの三人組を手捕りにした以來のことです。

「俺もそこに氣が付いて、この間から笹野の旦那と相談してゐるんだが、――この四年越しの火事騷ぎに、火付けの姿を見た者もないんだから、手の付けやうがない」

「何んだ。親分は氣が付いてゐたんですか」

八五郎は折角の大發見が大した手柄になりさうもないのでがつかりしました。

「いや、氣が付いただけぢや何んにもならない。――本妙寺の振袖火事は別だが、あとはみんな夜中から曉方へかけての火事で、不思議なことに雨の降る日は一つもない。火元をいろ〱調べて見たが、どうも過失らしいものは一つもない――」

平次は暗い顏をするのです。四年越しの謎を解き兼ねる樣子です。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>も一つ氣が付いたことがあるんだが――」

「言つて見るがいゝ」

「笑ひやしませんか」

「笑つちやすまないよ。天下の大事といふ<ruby><rb>觸</rb><rt>ふ</rt></ruby>れ込みで持ち込んだ話だもの」

「へツ、それ程でもねエが、――こんなのはどうでせう。四年越しの火事が、大きいのも小さいのもあるが、火元はお寺でなきや墓場の近所で、町の眞ん中のは佛事法事のある家ばかりだ」

「何んだと、もう一度言つて見ろ、八」

「<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かしちやいけませんよ」

平次が果し眼で詰め寄るのを、ガラツ八はおどけた手付きで尻ごみしました。

「脅かすわけぢやないが――成程さう言はれて見ると、火元の半分は寺だ」

「あとの半分は武家屋敷と町家だが、不思議なことに、火事の晩といふと法事をしてゐる」

「そいつはどういふわけだ、八」

「<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>ぢやありませんか、親分」

「――」

八五郎の想像は飛躍しますが、まんざらそれは根も葉もないことではありません。天草、島原の切支丹一味が亡びてから、長い間經ちましたが、全國に隱れた切支丹宗徒は、容易に<ruby><rb>剿滅</rb><rt>そうめつ</rt></ruby>したわけではなく、現に二年前の萬治元年には大村領の邪宗徒六百三人を死罪にし、幕府は切支丹禁制の令を嚴にし、奴僕を召抱へるのに、<ruby><rb>檀那寺</rb><rt>だんなでら</rt></ruby>の證文を必要としました。この年萬治三年に入つては、更に細川越中守、稻葉能登守、中川佐渡守の領地で、天主教徒を捕へて<ruby><rb>誅</rb><rt>ちゆう</rt></ruby>してをります。

江戸にその頃、表向切支丹宗徒はなかつたわけですが、原主水以來の熱心な信者が、<ruby><rb>刑戮</rb><rt>けいりく</rt></ruby>に洩れて地下に潜み、或は轉び切支丹となつて、ひそかに邪宗門歸依を續けてゐたことは充分想像されることで、ガラツ八がかう言つた言葉も決して好い加減な<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>ではなかつたのです。

## 二

即日平次は八丁堀組屋數に、お南の與力筆頭笹野新三郎を訪ねました。

「旦那、八五郎の奴がこんなことを申しますが、どうしたものでございませう」

打ち明けた相談をする平次を、笹野新三郎は頼もしく見やりながら、

「一應尤もだが、天下<ruby><rb>靜謐</rb><rt>せいひつ</rt></ruby>の折柄、無理な<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>をして江戸から切支丹教徒を擧げるのは面白くない。原<ruby><rb>主水</rb><rt>もんど</rt></ruby>一味の刑死以來、久しく<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>い邪宗徒の仕置が絶えてゐるのだから――」

笹野新三郎の顏は暗く<ruby><rb>翳</rb><rt>かげ</rt></ruby>るのです。この人は若くて聰明で、法外な平次贔屓ですが、與力には珍らしく内氣で、どちらかと言ふと、學者らしい肌合ひの人でもあつたのでした。

「私もさう思つて、一應八五郎を押へました。<ruby><rb>放火</rb><rt>つけび</rt></ruby>の現場を見付けたわけでもないのに、火元が寺方に多いからと、いきなり切支丹<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>をするのは、少し<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしいやうにも思ひますので」

折角表向だけでも轉んで（改宗）平穩な生活をしてゐる切支丹宗徒達、それをほじくり出して、<ruby><rb>磔柱</rb><rt>はりつけばしら</rt></ruby>に載つけるのは、錢形平次の忍ぶところではなかつたのです。

この話は<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、この場限りでは濟みませんでした。

丁度御用のことで、同じ組屋敷に來合せてゐた三輪の萬七が、隣の部屋で、笹野新三郎と平次の話を、殘らず盜み聽いてしまつたのです。

日頃平次に鼻を明かされ通しの萬七は、そのまゝ滑り出ると、笹野新三郎と對立關係になつてゐる與力堀江又五郎のところへ飛んで行きました。

實はかう〱と<ruby><rb>尾鰭</rb><rt>をひれ</rt></ruby>を附けて報告すると、同役笹野新三郎の若さと人氣を苦々しがつてゐる堀江又五郎は、

「そいつは面白い。四年間江戸中に火事を拵へた下手人を擧げると、大した手柄になるぞ。直ぐ手をつけて見るがいゝ」

大乘氣で<ruby><rb>煽動</rb><rt>せんどう</rt></ruby>したのです。

「大丈夫でせうか旦那。笹野の旦那と、錢形の親分には憎まれますが」

「構ふことはない、後は俺が引受けるから、隨分念入りにやるがいゝ。――江戸中の轉び切支丹の名前と住所は、寺社のお係へ行つて訊くといつぺんに判る」

「有難う御座います。それぢや――」

三輪の萬七は野心に燃えて飛び出しました。

元和九年十二月九日、原主水等四十七名の切支丹を品川で火刑にしてから三十六年間、江戸には<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>てこのことがなかつたのですが、明暦三年の振袖火事以來、江戸市民を恐怖のドン底に追ひ込んだ『火の呪ひ』が、遂に萬治三年の二度目の切支丹大檢擧となつたのでした。南町奉行直々の指圖で、與力堀江又五郎が采配を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ひ、三輪の萬七が子分と下つ引を總動員して、轉び切支丹と、その一家一族を根こそぎ洗ひ出し、たつた三日の間に、江戸御府内だけで七十八人の切支丹關係者を探し出したのは、大したことでした。

この情勢に驚いたのは、笹野新三郎と錢形平次です。自分達の密談が洩れたためとはもとより知る由もなく、唯<ruby><rb>呆氣</rb><rt>あつけ</rt></ruby>に取られて、ことの成行を見るばかり――。それよりも驚いたのはガラツ八の八五郎でした。

「だから言はないこつちやない、親分」

こいつは親分の錢形平次に喰つてかゝりさうな勢ひです。

## 三

「親分、切支丹のことで會ひたいつて人があるんだが」

ガラツ八は又何にか連れ込んだ樣子です。

「何んだ、お客樣ぢやないか。お前一人で心得てゐずに、此方へ通すがいゝ」

「會つてくれますか、親分」

ガラツ八は路地へ取つて返すと、若い女を一人呼び込んで來ました。

「叔母の知り合ひですがね、是非親分にお目に掛つてお願ひをしたいことがあるんですつて」

紹介されて默つてお辭儀をしたのは、二十二三の淋しい美しい女でした。――例へば狹くて<ruby><rb>欝陶</rb><rt>うつたう</rt></ruby>しい平次の家の庭の隅に遠慮しい〱吹いてゐる、<ruby><rb>紫陽花</rb><rt>あぢさゐ</rt></ruby>のやうな――。

「何にか、私に用事で」

切支丹一件ですつかり氣を<ruby><rb>腐</rb><rt>くさ</rt></ruby>らしてゐる平次は、この淋しい女から何にか重大な暗示を受けるやうな氣がしたのでせう。

「親分さん。どうぞ、多勢の人達を助けて下さい。あんまり可哀想でございます」

平次の顏を見ると、淋しい女はいきなり泣くのでした。三河町の手習師匠<ruby><rb>建部</rb><rt>たてべ</rt></ruby>久馬の娘お雪、――これは後で聽きました。

「多勢の人達では判らない。氣を落着けて<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく話して見るがいゝ」

平次は物馴れた調子で、客の話の<ruby><rb>緒口</rb><rt>いとぐち</rt></ruby>を引出します。

「親分さん。――私の父親も母親も縛られて行きました。大村藩の浪人だといふことと、それから、母が<ruby><rb>子育觀音</rb><rt>こそだてくわんのん</rt></ruby>のお像を持つてゐたといふだけのことでございます。――三十六年前鈴ヶ森中お處刑を見た人達は、怖いことばかり申して、切支丹の疑ひが掛つては助かりやうはないと――」

お雪は<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び泣くのです。

「――」

平次はどう慰めたものか、迷つてしまひました。

「今頃切支丹の詮議は可哀想でございます。三十年も四十年も前に轉んで、觀音樣もマリヤ樣も解らなくなつてゐる人達を、<ruby><rb>火焙</rb><rt>ひあぶ</rt></ruby>りや<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>にしては、お上のなさることながらあんまりで御座います」

「――」

「私の知つてゐる人で、何んの氣も付かずにマリヤ觀音のお像を持つてゐる方が幾人もあります。朝夕口の中でオラシヨを稱へるにしても、人樣に迷惑をかけず、御政治の御<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げになるわけでも御座いません。<ruby><rb>稱</rb><rt>とな</rt></ruby>へる人達も、それに何んの意味があるか、何んの功徳があるのかも知らず、母親とか乳母から口移しに教へられたのを、そのまゝ傳へるだけで御座います。それでも矢張り切支丹邪宗門で火焙りにならなければ濟まないでせうか」

お雪は聰明で、純情な娘でした。慶長元和以來、町人武士の一部の間に、地下水の如く潜入してゐる切支丹の信仰は、紅毛人の手から切放され、すつかり無害になつてゐるのを知り盡して、かう平次に説いてるるやうに見えるのでした。

「邪宗門の禁制のことは俺は知らないが、放火が切支丹と關係がないと判れば、隨分七十八人の命を助けられないこともあるまいよ」

かう言ふのは、平次に取つては、精一杯のことでした。

「有難う御座います親分さん。――九州生れの私は切支丹のことをよく存じてをります。切支丹は放火などをする筈がございません。――親分さんさへその氣になつて下されば、七十八人の者は助かつたも同樣でございます」

「だが、放火を擧げるのは容易でないよ。四年越し尻尾をつかませない<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>だ」

切支丹でないとすると、江戸を恐怖のドン底に<ruby><rb>陷</rb><rt>おとしい</rt></ruby>れたのは、一體何者の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>でせう。それも二人や三人の手ではなく、少くとも十人、二十人、或はもつと多勢の<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>んだ手かも知れず、事件は益々重大性を帶びるばかりです。

平次とガラツ八の困惑を殘して、お雪は歸つてしまひました。

「親分、飛んでもない女ですね」

自分の連れて來た女が、この事件に大きな惑亂を持込んだのを、ガラツ八は少し恐縮氣味でした。

「いや。あの女の言ふことが本當らしいよ。あの女は多分切支丹のことをよく知つてゐるに違ひない。父親の建部久馬といふのは、多分切支丹の大先達だつたのだらう」

「それぢや」

「火焙りになるのを默つて見てゐる方がいゝと言ふのか。――俺は違ふよ。切支丹がどんなものか知らないが、何んの<ruby><rb>障</rb><rt>さまた</rt></ruby>げにもならないものを、無理に詮索して、<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしく殺させるまでもあるまい。七十八人の<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>を鈴ヶ森に立てたところで、御政道の自慢にはなるまいよ。それよりは、本當の<ruby><rb>放火犯</rb><rt>ひつけ</rt></ruby>を擧げることだ。四年越し、江戸中に火をバラ<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いて、何萬軒の家を燒き、何百人の人を殺した、鬼のやうな奴は、安穩に助けちや置けない」

「そいつは誰でせう、親分」

「相手が判つてしまへば、苦勞はないよ。先づ、手口から先に考へるのだ」

「手口から？」

「どうすればあんな具合に器用に火が附けられるか」

「？」

「<ruby><rb>燧石</rb><rt>ひうちいし</rt></ruby>と火打鎌と、<ruby><rb>火口</rb><rt>ほくち</rt></ruby>と<ruby><rb>硫黄</rb><rt>いわう</rt></ruby>附木ぢや、あんなことはむづかしからう。――そんなたよりない火附け道具で、四年越しの惡戯はできない――<ruby><rb>焔硝</rb><rt>えんせう</rt></ruby>かな――」

「焔硝？」

平次の頭腦は、恐ろしい勢ひで動き始めました。天才が點火されたのです。

「それを何うして持つて歩く。――火を附ける仕掛けは何んだ？」

「？」

ガラツ八は親分の表情の動きを、默つて頼もしく見上げます。もうかうなれば事件は半分解決したも同じことです。

## 四

平次は活動を開始しました。三輪の萬七が與力堀江又五郎の指圖で擧げた七十八人の切支丹宗徒とは別に、江戸に火をバラ<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いた本當の曲者を擧げようといふのです。その間に平次は、切支丹の動向を問題外に置いたわけではありません。三河町の建部久馬の家へ行つて、お雪を相手にいろ〱調べて見ましたが、その頃の地下の切支丹は全く無力化してしまつて、騷擾など<ruby><rb>企</rb><rt>くはだ</rt></ruby>てる樣子もなく、それに見境もなく火を放つて、江戸の町人を苦しめるといふことは切支丹にしてもありさうもないことのやうに考へられるのでした。

江戸を恐怖のドン底に投げ込まうとするのは、どんな人間の仕業でせう。氣違ひや變質者の仕業なら四年も續く筈はなく、それに夜に數ヶ所から數人の手で火を發することも考へられません。その間にお雪は兩親を救ひたさの一生懸命と、持つて生れた聰明さで、平次の良い相談相手になりました。一方、ガラツ八の八五郎は自分の付けた目星が外れた不面目さを忘れて、これも精一杯の活動です。かうなると、三輪の萬七に手柄を横取りされたのが飛んだ仕合せになりさうです。

春から夏へ――、何んの事件もなく過ぎました。切支丹の大檢擧があると、不思議なことに火事騷ぎもピタリと止んで、一時は「それ見るがいゝ。矢つ張り切支丹の仕業だつたのだ」と思はせましたが、それがあまり現金過ぎたのと、一、二ヶ月經つと放火癖の付いた曲者共が、我慢ができなくなつたものか、以前よりも猛烈な放火が始まつたので、わけもなく切支丹にかゝる疑ひは晴れ、七十八人の轉び切支丹は、三月經たぬうちに<ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>く赦されてしまひました。

赦されるまでには、寺社と町方との間に幾度か交渉を重ね、七十八人悉く轉宗者で無害この上もないと判つた上、錢形平次の働きで、いろ〱放火と關係のないことが明かにされ、その上笹野新三郎などの表立つた運動が奏功して<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>ての元和八年の獄を再びしないやう、人心安定のために赦し放たれたと言つた方が適當かもわかりません。

「さア、困つた。これで本當の放火犯を擧げなかつた日にや、いよ〱俺は坊主にならなきやなるまい」

平次はもう一度奮起しました。

「その時は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>も坊主になりますよ、親分」

ガラツ八は左に曲つた<ruby><rb>髷節</rb><rt>まげつぷし</rt></ruby>を押へました。

「止すがいゝ。櫻姫を<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>きさうでやりきれない」

この期に臨んでも、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>つ氣を捨てない二人でした。

「へツ、惡い見立てだなア」

「怒るな、八。それより江戸中の大きな橋や、高名な堂宮を一と廻りして來てくれ」

「何があるんです、親分」

「落書だよ。――今夜は月がないし、それにこの樣子なら晴れだ」

「落書がどうしたんで？」

「放火と落書との<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>に氣が付いたのさ。橋の<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>や、堂宮に放火仲間の合圖の落書があるんだ」

「へエ――」

「俺は堂宮を見て來る。いゝか、欄干の後を見るんだよ、大抵は消し炭だ。目印は二重になつた<ruby><rb>菱</rb><rt>ひし</rt></ruby>、判つたか」

「へエ――」

平次は何時の間にやら、二重菱の印は放火仲間の暗號で、それが火事のあつた時に諸々の橋の欄干、堂宮の玉垣などに書かれてゐることに氣が付いたのです。

「これを見定めるには三月かゝつたよ。確かに火事と落書の因縁に氣の付いたのは昨夜だが、一つや二つの落書では讀みやうが判らない」

「それぢや行つて來ますよ、親分」

ガラツ八は飛び出しました。江戸を恐怖のドン底から救ふ手がかりが、それでようやく、平次の手に握られた樣子です。

## 五

後で平次の言つたことですが、振袖火事にしても、吉祥寺火事にしても、二日に<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>つて火は八方から起つてをります。それを飛び火とばかり解繹して、何んの詮索もしなかつたのは<ruby><rb>迂遠</rb><rt>うゑん</rt></ruby>で、その後夜毎の火事にしても、江戸の諸方から一度に火の手の擧がる樣子は、どう考へても、多勢の者が連絡して、八方から火を放つとしか思はれず、この關係に氣が付いて、橋や堂宮の落書に連絡を見出したのはさすがに平次の手柄でした。ひと口に橋の<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>と堂宮の玉垣と言つても、江戸中のを調べるのは容易の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>ではありませんが、幸ひに落書のあつたのは、江戸の盛り場や目拔きに限られ、平次とガラツ八が、多勢の下つ引を使つて一日の骨折で集めた落書の數は、たつた一つしかなかつたのです。

「親分、落書はあつたが、かう一字づつバラバラに書き散らされたんぢや、讀みやうがありませんぜ」

「どれ、出して見せな。――橋の名は書いてあるだらうな」

「そこに拔りはありませんよ。こいつは日本橋の、こいつは今川橋、――こいつは――」

「待て〱、<ruby><rb>假名</rb><rt>かな</rt></ruby>が四つ、本字が三つぢや手の付けやうがない。何にか順序があるだらう」

その順序を定めるのが一と苦勞でした。道順も札順もない江戸の橋と堂宮を、どう並べたものか、最初は手の付けやうがなかつたのです。

併し、平次の<ruby><rb>叡智</rb><rt>えいち</rt></ruby>は次第にバラバラの文字から<ruby><rb>鍵</rb><rt>キイ</rt></ruby>を見出しました。

「谷といふ字と中といふ字と寺といふ字があつて、あとは假名が四つだ。中谷寺といふのはないから、谷中○○○○寺と讀ませるんだらう。今晩の火は一ヶ所だけかな」

「四つの假名は何でせう、親分」

「本字は堂宮で、假名四つは橋の<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>にあつたんだ。――橋は上野から日本橋までだから、三つ橋、昌平橋、今川橋、日本橋の順序で讀ませるつもりだらう。並べて見るがいゝ」

「ケントクと讀めますよ」

「そんな寺は谷中にないなア、八」

「行つて見ようぢやありませんか」

二人は出かけました。それはもう日が暮れてから、その晩の冒險が、どんなものか、もとより知る由もありません。

## 六

江戸の街を<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の中の如く心得た二人も、谷中にこんな寺があるとは氣も付きませんでした。それは谷中と言つても<ruby><rb>道灌山</rb><rt>だうくわんやま</rt></ruby>に近く、寺といふよりは無住の庵室で、木立の中に置忘れたまゝ、近所の百姓が物置に使つてゐるやうな荒れ果てた建物でした。

見徳庵――寺とはありませんが、外に似寄りのものもないので、平次とガラツ八は、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>と<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を積んだ小さい廢寺の中に入つて行きました。

「今までの火事は江戸の眞ん中ばかりだつたが、こんな林の中の、誰も氣の付かないやうな庵室を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>つたのはをかしいとは思はないか、八」

「へエ、さうですかね」

そんな微妙なことは、八五郎に判りさうもありません。兎も角、二人は庵室の中に入つたまゝ息を殺して夜中過ぎまで待ちました。

誰も來た樣子もなく、何んの變化も起りません。

「からかはれたんぢやありませんか、親分」

「シツ」

プーンと夜風に乘つて來る線香の匂ひ、破れても荒れても、庵寺の中にゐると、それさへも夜の靜寂を深めるばかりです。

それから又四半刻（三十分）經ちました。事件は實に、突拍子もない形で、豫想もしない破局へ押上げられてゐたのです。

いきなり、ド、ド、ド――ンと、庵室の四方に恐ろしい爆音が響きました。庵室がそのまゝ九天に吹き上げられるやうな恐ろしい<ruby><rb>轟音</rb><rt>ぐわうおん</rt></ruby>と爆風です。同時に四方の雨戸も壁も<ruby><rb>微塵</rb><rt>みぢん</rt></ruby>に碎けて、<ruby><rb>大火焔</rb><rt>だいくわえん</rt></ruby>の洪水が十八尺四方の庵室を包んでドツと吹き入るのです。クワツと眼を射る大火光、眉を燒いて吹き上げる焔の渦。

「八」

「親分」

「後へ飛出せ」

が<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、後も前も同じでした。庵室の外一パイに積んだ<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>が、仕掛けた焔硝に燃え上がつて、火焔の壁が二人の命を完全に封じ込んでしまつたのです。

「親分、左だ」

僅かな火焔の隙間を見付けると、ガラツ八は自分の<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>をクルクルと脱ぎました。

「何をするんだ、八」

「これを冠つて下さい」

「お前は？」

「なアに」

平次の躊躇するのを面倒臭いと見たか、八五郎は脱いだ袷を平次の頭の上へスポリと冠せました。

「あ、何をする」

「ぢつとして居て下さい。親分は大事な身體だ」

矢庭に平次の身體を横抱きにしたガラツ八、有無を言はせず、<ruby><rb>眞</rb><rt>ま</rt></ruby>つ<ruby><rb>裸</rb><rt>ぱだか</rt></ruby>のまゝ、猛然と焔の中に突進したのです。

「危いツ」

一應はそれに反抗した平次も、ガラツ八の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くそ</span>力に押へられては何うすることもできません。

併し焔の壁は思ひの外薄く、一瞬の後には、夜の冷々とした大地の上に、二人は<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>り出されたやうに倒れてをりました。

「八」

「親分」

ポツと燃える着物をかなぐり捨てると、平次はさしたる怪我もなく、裸體の八五郎はさすがに輕からぬ<ruby><rb>火傷</rb><rt>やけど</rt></ruby>を負つた樣子です。

「八、確りしろ」

「親分、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はもういけない。――でも親分を助けさへすれば本望だ」

「何をつまらねエ、<ruby><rb>確</rb><rt>しつか</rt></ruby>りしろ、馬鹿野郎ツ。――あツ人が見てゐる。――俺達は早變りするんだ。いゝか、お前は親分で、俺が八五郎になるんだ。――いゝか――確りして下さい、親分」

變なことを言ひながら平次は、いきなり大火傷のガラツ八を引つ擔いで、物蔭を縫ふやうに飛びます。

## 七

ガラツ八の火傷は思ひの外重く、それが快復するまでに二た月もかゝりました。平次はそのままガラツ八を自分の家に引取つて、ひどい火傷をしたのは平次自身と言ひ觸れさせ、命も危いやうに思ひ込ませて、そつと夜になると姿を變へて飛び出し、いろ〱手を盡して探索を續けました。が、月が明るくなるにつれて、放火の惡業も暫く休み、一と月ばかりは江戸も平穩な夜が續きました。

次の無月を迎へる頃から、又も火事騷ぎが始まりました。それと共に橋と堂宮の落書が、ポツポツ現はれたことは言ふまでもありません。

その月の<ruby><rb>晦日</rb><rt>みそか</rt></ruby>、天氣の良い晩を選んで、平次は與力笹野新三郎を動かし、南町奉行から名指しで腕つこきの組を二十人ばかり狩り集め、一隊は牛込へ、一隊は麻布へ、一隊は築地へ、有名な寺三つに配置しました。

「寺に出入りの者や、寺の近所をウロウロしてゐる者はみんな調べろ。懷ろに線香を持つてゐる者は、一人殘らず縛るのだ。武家も町人も――顏見知りの近所の者も――容赦してはならぬ」

命令は嚴重でした。その結果、一と晩に擧げられたのが六人。中には恐ろしい反抗を續けて、役人にも少なからぬ怪我もありましたが、その代り、その六人の口を割つて、四年に亙る江戸の騷擾者三十幾人は一と晩のうちに縛られてしまつたのです。

「平次、大層な手柄であつたな」

「へエ――」

笹野新三郎は三日目にわざ〱平次を呼びました。

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>は慶安<ruby><rb>謀叛人</rb><rt>むほんにん</rt></ruby>の由比正雪、丸橋忠彌の一味だ。あの時お繩に洩れたのが江戸に潜入して、四年越し世の中を騷がすことばかり工夫してゐたのだよ」

「――」

「あんなことをして江戸の町人共の心を騷がし、その隙に乘じて又一と旗擧げるつもりだつた」

「――」

それは當時にしては智惠の廻り過ぎたスパイの神經戰だつたのでせう。笹野新三郎は續けました。

「お奉行樣もことの外お喜びだ。追つて褒美の御沙汰があらう。――ところで八五郎の怪我はどうだ」

「もう大丈夫で御座います。身體にも男つ振りにも異状はございません。當人は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の身替りになつて寢てゐたのと、今度の捕物にもお役に立たなかつたのばかり口惜しがつてをります。――それから、これはそつとお耳に入れて置きますが、惡者を擧げた手柄は、最初に目星をつけた八五郎のものでございます。お奉行樣によろしく願上げます」

「よし〱判つてゐる」

笹野新三郎は、平次の子分思ひをよく知つてゐたのでした。

×　　　　　　×　　　　　　×

これは後に判つたことですが、曲者の一組は平次の態度や動きから、落書の暗號を覺られたと氣が付いて、あの日谷中の見徳庵におびき寄せ、<ruby><rb>豫</rb><rt>かね</rt></ruby>て八方に仕掛けた火藥に、平次が庵室に入るのを見ると、線香の口火を點じたのでした。

八五郎がひどい火傷で動けないのを、平次の怪我と感違ひし、ぬけ〱と惡事を續けたのは、矢張り<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れない天罰だつたのでせう。

書き落しましたが、曲者が寺と法要のある家を狙つたのは、<ruby><rb>焔硝</rb><rt>えんせう</rt></ruby>に仕掛けた線香の口火の匂ひを誤魔化すためで、たま〱切支丹が疑はれたのを、丁度いゝことに利用したのです。

平次は見徳庵の火藥爆發の前に嗅いだ線香の匂ひを思ひ出して一切の謎を解き、最後の晩に三つの寺を張つて線香を持つた人間を縛らせたのは、まことに理詰めな捕物でした。

お雪父子が平和に暮した後日の噂や、ガラツ八が背中一パイの火傷をして、思はぬ男をあげたことは語るまでもありません。