## 一

兩國の川開きが濟んで間もなく、それは<ruby><rb>脂汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>のにじむやうな、いやに、蒸し暑い晩でした。その頃上方から江戸に入つて來て、八百八町の恐怖になつた、巾着切と<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>りの仲間――天滿七之助の身内十何人を<ruby><rb>珠數</rb><rt>じゆず</rt></ruby>つなぎにして、江戸つ子達に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんや</span>と喝采を送られた錢形平次と八五郎は、町奉行村越<ruby><rb>長門守</rb><rt>ながとのかみ</rt></ruby>樣小梅の寮に招かれ、丁寧な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねぎらひ</span>の言葉があつた上、別室で酒肴を頂いて、寮を出たのはかれこれ<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>近い時分でした。

平次も八五郎も悉く充ち足りた心持で、醉顏を<ruby><rb>濕</rb><rt>しめ</rt></ruby>つぽい夜風に吹かせ乍ら、兩國橋の上にかゝると、丁度金龍山の<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）の鐘が鳴ります。上を見て通れ――と言はれた夏の兩國橋、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>過ぎになると、水の面もさすがに宵の賑はひはありませんが、それでも<ruby><rb>絃歌</rb><rt>げんか</rt></ruby>の響や<ruby><rb>猪牙</rb><rt>ちよき</rt></ruby>を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>がせる水音が、人の氣をそゝるやうに斷續して聽えるのでした。

八五郎の他愛もない手柄話を空耳に聽き乍ら、丁度橋の中程まで來た時のことです。

「あ、八、身投げだ。後ろからソツと行つて抱き留めろ」

「醉つ拂ひぢやありませんか、親分」

「いや、醉つ拂ひぢやない。死に神に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれて雪を踏むやうに歩いて居る――<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>ないツ」

平次の言葉を半分聽いて、八五郎はもう行動を起して居りました。月はまだ出ませんが水明りに<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して見當を定めると、反射側の<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>の方へフラフラと吸ひ寄せられて型の如く履物を脱ぎ、何やら口の中でブツブツ言ひ乍ら、飛び込まうとする男の後ろから、

「おつと待つた」

八五郎はガツキと組付いたのです。

「あ、死なせて下さい。お願ひ」

「何をつまらねエ。良い年をしやがつて、死に急ぐことはあるめえ」

<ruby><rb>羽交</rb><rt>はが</rt></ruby>ひ<ruby><rb>締</rb><rt>じめ</rt></ruby>にしたまゝ、欄干から引き<ruby><rb>剥</rb><rt>はが</rt></ruby>さうとしましたが、この身投男は思ひの外の剛力で、容易に八五郎の手に了へません。

「離して下さい。死ななきやならない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>があるんだ」

「その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>といふのを聽かうぢやないか。待ちなよ<ruby><rb>爺</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん」

「離して下さいよ。あれ、着物が破けるぢやねえか」

「何を、今死ぬ氣になつたものが、着物くらゐ破けたつて」

「あツ、痛いツ、痛いよ。<ruby><rb>髻</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで引いちや、――無法な人だね、お前さんは」

「少しくらゐ毛が拔けたつて命に別條はないよ。剛情な<ruby><rb>爺</rb><rt>ぢゞ</rt></ruby>いぢやないか」

「お前さんこそ亂暴だよ」

「何を」

この不思議な爭ひの馬鹿々々しさを、平次は面白さうに眺めて居りましたが、潮時を見て<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く二人を引離しました。

「八、もう宜い――死に神が落ちたやうだ。<ruby><rb>髻</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>を掴むのは止せ」

「へエ、呆れた爺いだ。こんなに死にたがる野郎を俺は見たこともなえ」

八五郎はブリブリ言ひ乍ら、それでも老人の側から離れて、自分の<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>などを直して居ります。

「爺さんも強情過ぎるよ、――死ぬ氣になつたのは、よく〱の<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>があるだらうが、留める方だつて、道樂や<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>ぢやない」

「へエ、まことに相濟みません」

老人は死に神から解放されて、張合ひ拔けのしたやうに、ピヨコリとお辭儀をしました。

「此處で話もなるめえ。何處かで一杯と言ひ度いところだが、もう<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>過ぎだ。少し遠いが、俺の家まで行かないか」

「へエ」

「それともお前の家まで送つてやらうか。<ruby><rb>爺</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん家は何處だえ」

「相州小田原<ruby><rb>在</rb><rt>ぜえ</rt></ruby>でごぜえますだアよ」

「少し遠いな」

八五郎は遙かの夜空に小手をかざします。

「馬鹿だなア、小田原まで行く氣でゐやがる――ね、爺さん。あんなノウテンキな野郎だが、命の恩人だと思つたら、<ruby><rb>髻</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>を掴まれたくらゐ勘辨出來ねえこともあるめえ。サア、人立ちがするとうるせえ、歩いたり、歩いたり」

平次にさう言はれると、さすがに死ぬ氣を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>かれて淋しくなつたものか、老人は素直にうなづいて、平次の後ろから跟いて行くのでした。その後ろから<ruby><rb>虎視眈々</rb><rt>こしたん〱</rt></ruby>として八五郎、老人が逃げ出したら、もう一度<ruby><rb>髻</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>を掴んで引戻す氣だつたことでせう。

## 二

明神下の平次の家へ連れて來て、灯の下に坐らせて見てもう一度驚きました。

<ruby><rb>藁蘂</rb><rt>わらしべ</rt></ruby>で結つた油氣のない髮は、半分白髮が交つて、多年日光の下で燒き上げた澁紙色の皮膚、遠州<ruby><rb>縞</rb><rt>じま</rt></ruby>の單衣の尻を端折つて、<ruby><rb>淺葱色</rb><rt>あさぎいろ</rt></ruby>の股引は<ruby><rb>海藻</rb><rt>もくづ</rt></ruby>を<ruby><rb>綴</rb><rt>つゞ</rt></ruby>つたやうに<ruby><rb>繼</rb><rt>つぎ</rt></ruby>だらけです。

「どうだ晩飯は濟んだのか」

「へエ、<ruby><rb>晝</rb><rt>ひる</rt></ruby><ruby><rb>食</rb><rt>た</rt></ruby>べたつきりだが、腹一杯で何んにも欲しくねエだよ」

「さうか。死ぬ氣になつた人だ、無理もねえ――景氣付けに<ruby><rb>冷酒</rb><rt>ひや</rt></ruby>でも宜いから一杯爺さんに上げるが宜い。俺と八は要らないよ。小梅のお屋敷で、何んとかいふ名酒を散々頂戴したんだ。なア、八」

「へエ、――尤も橋の上で掴み合ひをしてゐるうちに、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>さめてしまひましたがネ」

「呆れた野郎だ、舌なんか鳴らしやがつて」

さう言ふ平次の前へ、女房のお靜は何時の間に支度をしたか、三つの<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちよこ</rt></ruby>と人肌の徳利と、二つ三つの<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め物を並べるのでした。

「さて、爺さん。その年寄が死ぬ氣になつた話を、一と通り聽かして貰はうぢやないか。この通り俺は貧乏人だから、大した力にはなるまいが、幸ひ十手を預つて、お上の御用を勤めて居る身體だ、何にかまた話を聽いた上で、役に立たないものでもあるめえ」

平次は酒が一と廻りした頃、改めて斯う訊ねました。

「有難うございます。<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う氣が落着いて見ると、死ぬ氣になつた私が馬鹿だつたかも知れません、――實は親分さん――」

親爺が靜かに話し出しました。

ひどい<ruby><rb>相模訛</rb><rt>さがみなまり</rt></ruby>ですが、話の筋はよく通ります。この<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>は小田原在の百姓で水右衞門といふのださうですが、村から御領主大久保加賀守樣上小川町の御屋敷にお屆けする、公用金百兩を、月當番二人で江戸まで持つて來ることになつたところ、一人は急病で動けなくなり、水右衞門たつた一人で、<ruby><rb>覺束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない乍ら江戸まで持つて來たといふのです。

その百兩の金を直ぐ上小川町の大久保加賀守上屋敷へ持つて行けば宜かつたのを、少し時刻が遲れたので、傳馬町あたりへ宿を取つて、明日早朝屆けることにし、兎も角も、滅多に來る折もない江戸を見物する氣になり、先づ兩國の盛り場へ來て、夕暮近い<ruby><rb>雜閙</rb><rt>ざつとう</rt></ruby>の中で、いかゞはしい見世物かなんかを口を開いて見て居たといふのです。

「木戸からドツと入つて來た人波が、うつかりして居る私へ、恐しい勢ひで突き當つて來ましただ。ハツと驚いて立直ると、二十二三のびつくりするほど綺麗な女が、あれツ――と私の首つ玉へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付くでねえか。あんまり惡い心持でもねえから、其時はその儘に濟しただが、後で氣が付くと、内懷ろへ入れて置いた財布がねえ」

「<ruby><rb>巾着切</rb><rt>きんちやくきり</rt></ruby>にやられたのだ」

八五郎は口を容れました。手口はあまりにも平凡です。

「あの百兩が無くなつては、御領主樣の御屋敷へも顏を出せず、さうかと言つて、ノメノメと村へも歸られねえ。歸つたところで百兩といふ大金は、水呑百姓のこの私には、三代かゝつても工面が付かねえ――婆さんや娘が待つて居ることだらうが、私は死んでお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びをする外はないと想ひ定めましただ」

老爺は酒の醉もさめたらしく、薄寒さうに肩を<ruby><rb>縮</rb><rt>すく</rt></ruby>めてホロリとした姿になるのです。

「そいつは氣の毒だが、百兩といふ金は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こちとら</span>にも工面のつけやうはない。が、稼業柄巾着切の方へ手を廻したら、萬に一つその金を取戻せないものでもあるまい、――見世物小屋の中で、お前さんの首つ玉に噛り付いたといふのは、どんな女だえ」

平次は問ひ返しました。五兩や十兩の金と違つて、百兩と<ruby><rb>纒</rb><rt>まとま</rt></ruby>つては、家財道具を賣つても三十八所借をしても追ひ付かなかつたのです。

「良い女でごぜえましたよ。多い毛を<ruby><rb>櫛卷</rb><rt>くしまき</rt></ruby>にして、色の白い、背のスラリと高い、左の頬に小さい<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>のある――私の首へ噛り付いた時は、フンハリと良い匂ひがしましたたよ」

「あ、お時だ。一枚繪のお時ですよ」

ガラツ八は想ひ當つた樣子です。本所横網に住んでゐる女巾着切のお時、――一枚檜のやうな<ruby><rb>嬌慢</rb><rt>けうまん</rt></ruby>のポーズと、恐しい早業とで名を取つた美女。それに狙はれては、<ruby><rb>藁蘂</rb><rt>わらしべ</rt></ruby>の髮を結つた小田原在の<ruby><rb>爺</rb><rt>とつ</rt></ruby>さん、お<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>と<ruby><rb>接吻</rb><rt>キツス</rt></ruby>させて置いた財布でも、無事では濟まなかつたでせう。

「だがな、八。お時は足を洗つて、堅氣の商賣をして居るといふぢやないか」

「世間體だけですよ。あの女がまともな<ruby><rb>小商</rb><rt>こあきな</rt></ruby>ひで、世渡りが出來るものてすか」

八五郎は鼻であしらひます。

「兎も角も、明日行つて見よう。本當にお時が盜つたのなら、右から左へ、<ruby><rb>賭博</rb><rt>とば</rt></ruby>や吉原へ持つて行つてバラ<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>く氣遣ひはない」

平次の決心は<ruby><rb>斯</rb><rt>ようや</rt></ruby>く定まつた樣子です。

「有難うございます。あの金が手に戻りせえすれば、何も物好きに死ぬことはありません」

水右衞門老人は思はず手などを合せて拜むのでした。

「お前さんは百姓だと言つたね」

「へエ」

「それにしちや大層手が綺麗だが――」

「それはその筈で、百姓と申してもほんの猫の額ほどの畑で、大抵は婆さんがやつてくれます。私は荒物などの店を出して細々と小商ひをして居るのでごぜえますよ」

水右衞門老人は事もなげに云ふのです。

## 三

横網のお時、――<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>ては<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>の描いた一枚繪の美女に似て居るといふ噂が立つて、自分でも一枚繪のお時と名乘つた女巾着切の家は、ちよいとした横町を入つた三軒目。人通りのあまりないところに、申譯だけの店を出した、さゝやかな小間物屋でした。

小田原在の百姓水右衞門を、女房のお靜に預けて、平次と八五郎は翌る朝すぐ横網へ飛んで行きましたが、折惡しくお時は、仕入のことで出かけたさうで留守。店番をして居る<ruby><rb>姪</rb><rt>めひ</rt></ruby>の小娘が、

「晝過ぎには戻つて參ります。暫らくお待ち下さいな」

さう言ふのを振り切つて、二人は兩國まで歸つて來ました。

「八、この掛け合ひは、お前一人でやつて見ないか」

平次は不意にそんなことを言ひ出します。

「へエ、親分はどうかしたんで？」

「女巾着切を痛めるのは氣がさしてならねえよ。それに俺は八丁堀に行く用事を思ひ出したんだ。上方から來て江戸を荒した天滿の七之助一味のお<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>が明日開く筈で、笹野の旦那が何彼と前<ruby><rb>以</rb><rt>もつ</rt></ruby>て打合せて置き度いと仰しやつて居たんだ。繩を打つたのはこの俺で、<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>を取つたのは笹野の旦那だから、一應は話をして置かなきやア」

平次の言ふのは尤もでした。

「やつて見ませう。女巾着切のお時を持て餘しもしないでせうよ」

「では頼むよ、八」

平次は八丁堀の組屋敷へ、八五郎は兩國でブラブラして、晝少し過ぎに引返したのは、こんな都合があつたからでした。

「おや、八五郎親分、――<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>は錢形の親分さんも御一緒だつたぢやありませんか」

小間物屋の店へ入ると、クワツと咲いたやうな笑顏で八五郎を迎へたのは一枚繪のお時でした。二十二三といふにしては、激しい仕事で<ruby><rb>鍛錬</rb><rt>たんれん</rt></ruby>したせゐか、少し老けて居りますが、それは實に見事な恰服と、輝やくばかりの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>の持主でした。

「ちよいと<ruby><rb>内證</rb><rt>ないしよ</rt></ruby>で訊き度いことがあるんだ」

「まア、私に」

お時は銀<ruby><rb>簪</rb><rt>かん</rt></ruby>で<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>を掻き乍ら、大きい眼を見張ります。二の腕の美しい曲線が八五郎の眼の前へほんのり浮いて、關節のほのかな單紅色や、長いしなやかな指や、よく伸びた首筋の線など、たまらない魅力です。

「まさか、<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>きやしないよ。安心して二階へでも案内してくれ」

「少し怖いわねエ」

さう言ひ乍らもお時は、<ruby><rb>姪</rb><rt>めひ</rt></ruby>の小娘に眼顏で何やら含めさせて、狹い梯子をトントンと踏むのです。

二階は格子に西<ruby><rb>陽</rb><rt>び</rt></ruby>が當つて、明るい六疊。長火鉢の灰が冷たくなつたまゝですが、此處がお時の居間らしく、妙に赤い物がチラ付くのも<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めきます。

「八五郎親分、一體私に何んの用があると仰しやるの、いつにもない怖い顏なんかして」

大きい座布團をすゝめ乍ら、お時は長い煙管で煙草盆を引寄せます。

「俺の顏だつて、いつでも<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>がゆるんでるわけぢやないよ」

「まア、――本當に今日はどうかして居るのねエ」

一服吸ひ付けて、煙管を返して八五郎にすゝめます。こんな失禮な所置振りも、女が良いのと色つぽいので、少しの不自然さもありません。

「何んにも言はずに、昨日のものを出しなよお時」

「昨日のもの？」

お時の眉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひそみ</span>ました。少し<ruby><rb>公卿眉</rb><rt>くげまゆ</rt></ruby>ですが、大きい眼とよく調和して、この女巾着切を、ひどく上品に見せるのは不思議なことでした。

「白ぱつくれちやいけねえ、ネタはちやんと擧つて居るんだ」

「――」

「昨日の晝過ぎ、兩國の見世物――やれ突けかなんか、どうせ筋のよくねえ見世物だらうが、その小屋の中でお前は、年を取つたお百姓の懷中物を拔いた筈だ」

「まア」

「お百姓は小田原在の水右衞門といふ、日本一の正直者さ。御領主大久保加賀守樣御屋敷に屆ける村の<ruby><rb>年貢</rb><rt>ねんぐ</rt></ruby>の金が百兩、それを取られて思案に餘り、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆふべ</rt></ruby>兩國橋からドブンとやらうとしたところを、錢形の親分と俺が助けたんだ」

「――」

「聽けば、その爺さんの財布を拔いたのは、二十二三のびつくりする程良い女で、髮を<ruby><rb>櫛卷</rb><rt>くしまき</rt></ruby>にして、頬に小さい<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>があつたと言はれると、御府内では一枚繪のお時の外にはねえ」

「飛んでもない、八五郎親分。私はこの春から足を洗つて、こんな細々とした商賣を始めたことは、親分も、よく御存じぢやありませんか」

お時は眞劍になつて、八五郎に向き直りました。<ruby><rb>嬌瞋</rb><rt>けうしん</rt></ruby>を發した顏が近々と<ruby><rb>薫</rb><rt>くん</rt></ruby>じて、八五郎は思はず手を擧げて自分の額に迫る<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやかし</span>を拂ひ退けたほどです。

「それは世間體を誤魔化す<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>ぢやないか」

「まア、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいツ。第一私は、昨日一日、此處を一寸も動きやしません。嘘だと思つたら下に居る<ruby><rb>姪</rb><rt>めひ</rt></ruby>のお雪に訊いて下さい」

「姪も<ruby><rb>共謀</rb><rt>ぐる</rt></ruby>だつたら？」

八五郎が美女の前に、こんな強硬な陣を布いたのは前例のないことですが、それにはまた仔細があつたのです。

お時が女巾着切の親分として、盛んに活躍して居る頃、感の惡い八五郎は、この<ruby><rb>隼</rb><rt>はやぶさ</rt></ruby>のやうな女を追ひ廻して、幾度ひどい目に逢はされたことでせう。

「そんな事があるものですか。あれは十四になつたばかりだし、ツイ去年の暮田舍から呼んだ娘ぢやありませんか」

「言ひ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>を聽きに來たんぢやないよ。何うしても白を切るなら、氣の毒だが此處から繩を打つて引つ立てるばかりだ。一枚繪のお時が、縛られて町内の衆の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さらし</span>者になるのも<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>て居るだらうよ」

「それは、錢形の親分さんも御承知」

「さうとも、親分も一緒に來る筈だつたんだ」

「その樣子ぢや、お靜さんも知つて居るだらうね」

「そりや知つて居るとも。小田原在のお百姓が、神田一パイに聞えるほど張り上げての話だ」

八五郎の話には、少しづつ誇張が加はります。

「お靜さんはね、兩國の水茶屋に奉公してゐる頃からの顏馴染さ。私より年は上だけれど、――あの人が錢形の親分と一緒になつた時私やどんなに口惜しかつたか」

「つまらねえことを言ふな。女巾着切のお前が、錢形の親分なんか引合ひに出しやがると承知しねえよ」

「それは知つて居るよ。だから私はお前さんなんかとおとなしく附き合つて居るぢやないか――聽いておくれよ、錢形の親分さんがお靜さんと一緒になつた頃から、私や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐれ</span>出して――」

「止さないか。サア、此處で素直に百兩出しや、<ruby><rb>表向</rb><rt>おもてむき</rt></ruby>はならねえことだが、此儘默つて歸つてやる。どうしても嫌だといふなら、仕方がねえ、お前を縛つて、家搜しをするばかりだ。どうだお時」

八五郎は袖の中の捕繩などを<ruby><rb>爪搜</rb><rt>まさぐ</rt></ruby>り乍ら、入口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでいきり立つのです。

「何んといふ運の惡いことだらう、私は長い間骨を折つて溜めた金が丁度百兩。表店へ引越すつもりで、その用意をして居るのだよ。口惜しいけれど猫の子に家搜しされても見付かるにきまつて居る」

「そんな言ひ譯が通るか通らないか、お白洲の砂利を掴んで申上げて見るが宜い」

「八親分、覺えてお出で」

お時は立ち上がると、押入れを開けて小さく風呂敷に包んだものを出しました。八五郎の眼の前で解くと、中から轉がり出たのは、間違ひもなく小判で百兩。

「それ見るが宜い」

「さア、持つて行つておくれ。畜生」

「よし〱これさへ出せば、今度だけは目こぼししてやる」

「勝手にしやがれ、人が折角堅氣にならうといふのに」

お時は小判を取上げて、八五郎へ叩き付けさうにしましたが、思ひ直した樣子で、そつと疊の上を滑らせるのでした。わけもなく美しい兩眼に涙が湧きます。

## 四

八五郎は良い心持でした。長い間散々<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なぶり</span>ものにされた腹癒せが一ぺんに出來たやうな氣がしたのです。

でも二階の冷たくなつた火鉢に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて、小娘のやうにシクシクと泣き出したお時を見た時は、日頃の弱さが胸にこみ上げましたが、それを精一杯噛みしめると、梯子を飛ぶやうに降りて、一文字に往來へ出て居りました。

<ruby><rb>懷中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>には百兩の小判が、ドシリと<ruby><rb>手應</rb><rt>てごたへ</rt></ruby>がしますが、これを斯う握つて居さへすれば、一枚繪のお時が仕返しに來ても、萬に一つ奪られるやうなことはありません。

東兩國へ來ると、フト八五郎の足が<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>みました。昨月小田原在のお百姓を魅惑した看板が、若くて獨り者で、人一倍物好きな八五郎の注意を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>へたのです。

江戸時代の見世物が、どんなに無統制で、馬鹿々々しくて、エロテイツクで始末が惡かつたか。物語、言ひ傳へ、<ruby><rb>川柳</rb><rt>せんりう</rt></ruby>、その他の文献にも明かですが、八五郎が釣られた見世物もその途方もないものの一つで、それがまた割れつ返るやうな大入りで、木戸錢を拂つて入つた八五郎も人波を分け〱、漸く舞臺の正面まで進んだ有樣です。

時々どつと搖れて來る人波、――八五郎はそれに揉まれ乍ら、懷中の百兩ばかり氣にして居りました。その間にも見世物の番數が進んで、最後の馬鹿々々しいのが一とくさり濟むと、小屋一パイの見物は、<ruby><rb>堤</rb><rt>つゝみ</rt></ruby>を切つたやうに、ドツと外に追ひ出されます。

兩國橋の上まで、夢中で人波に押し流されて來た八五郎。昨夜此橋から、危ふく身を投げようとした水右衞門の事を思ひ出して思はず<ruby><rb>懷中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に手をやつて見ました。

「有る、有る。へン、どんなもんだ」

<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>の上で温めて居る百兩の手ざはりには、何んの異状もないことがわかると、八五郎はツイこんな事を言ひ乍ら、大川の流れを凉しい心持で打見やるのでした。

「はて？」

だが、妙に腰の輕いのは何んとしたことでせう。フト自分の腰に手をやつて見ると小判の包を懷中へ入れるために、腰へ移した筈の大事な<ruby><rb>十手</rb><rt>じつて</rt></ruby>がどうした事か無くなつて居るではありませんか。

「さア大變」

八五郎は橋の上を引返して、ウロウロし乍らもとの見世物小屋へ入りました。が、其處にも新しい人波が寄せて八五郎の十手などを搜す工夫はなく、權柄づくで人を除けさせるにしても、十手が無くては誰も言ふことを聞いてくれなかつたのです。

御用聞が十手を<ruby><rb>紛失</rb><rt>ふんしつ</rt></ruby>するといふことは、武士が兩刀を無くしたよりも重大なことでした。武士の兩刀は自辨で新しくなりますが、御用聞の十手は<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おほげさ</rt></ruby>に言へば、公儀からの預かりもので、無くなつたからと言つて勝手に作ることも、何うすることも出來ないものです。

それに、困つたことに八五郎の持つて來た十手は、自分の持つて居る眞黒な房のない十手ではなくて、威勢を示して相手を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>くために、親分の錢形平次から借りて來た、白磨き朱房の申分ない立派な品だつたのです。

その朱房を長く取つて『御用ツ』と振り上げると、燃え立つやうな朱房が、顏を斜にかすつて、サツと宙に舞ひます。そのたまらない<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>な味が好きで、平次の代理をするときは、平次に笑はれ乍らも、これを借用して來るのが八五郎の例でした。

「親分、相濟みません」

神田明神下の平次の家へ落合つた時、八五郎は全く頭を擧げる氣力もなかつたのは無理のないことでした。

「どうした、又<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじ</rt></ruby>つたのか」

平次は大した氣にもせずに、いつもの調子でニコニコして居ります。

「お時の<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>を<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かして、百兩の小判は確かに吐き出させました。この通り、間違ひはありません」

「それで宜いぢやないか」

「ところが、その歸り東兩國の見世物小屋で物もあらうに、親分から借りて行つたあの十手を<ruby><rb>拔</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かれてしまひました」

「何？」

「何んとも申譯がありません。坊主にならうか、身投げをしようかと思ひましたが――」

「馬鹿ツ、お前の坊主頭や土左衞門姿なんか見度かアねエ」

「へエ」

「十手と知つて取つたのは<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>のあることだらう。暫らく樣子を見るが宜い」

「へエ」

「それから百兩の金は水右衞門さんに返すのだ。江戸に何時までも居ちや<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろく</span>な事はあるめえ。遲い早いを言はずに、これから直ぐ上小川町の大久保樣に屆けて、明日の朝は早々と小田原へ歸るが宜い。路用くらゐのことは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が何んとかしよう」

「有難うございます。この御恩は――」

百姓水右衞門は、本當に涙にくれるのでした。

## 五

百姓水右衞門と名乘る老人は、それつきり錢形平次のところへ歸つて來なかつたのです。

「八、變ぢやないか。小田原在へ眞つ直ぐに歸つたのかな」

平次が氣の付いたのはその翌る日。

「百兩持つて逃げたんぢやありませんか。大久保樣のお留守居に伺つて來ませう」

八五郎は氣輕に飛んで行きましたが、その結果は飛んでもないものでした。

「大久保樣ではそんな事は知らないといふことですよ。殿樣は御在國だし、<ruby><rb>年貢</rb><rt>ねんぐ</rt></ruby>や公金なら小田原で扱ふ筈だから、領地の百姓が江戸屋敷へ百兩ばかりの小金を持つて來る筈はないといふんで」

斯ういふ報告です。

「しまつた。八、一杯喰はされたよ」

平次は地團太踏みましたが追ひ付きません。

「あいつは<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>りですかえ、親分」

「あんまり芝居がうまいので、すつかり<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されたが、考へて見ると、お百姓にしては手が綺麗過ぎたし、<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>言葉も、少し<ruby><rb>訛</rb><rt>なまり</rt></ruby>が強過ぎた。それに、あのお百姓は今朝顏を洗はなかつたぢやないか」

「私もそれを不思議に思つて居ました」

お靜はお勝手から應じました。

「顏を洗つて見ろ、一ぺんに化粧が崩れる」

「へエ、驚きましたね。あれがねエ」

と八五郎。

「さう思つて見ると、身投げの狂言なんかも芝居がうま過ぎたよ、――が、仕方があるめえ。平次一代の大<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじり</rt></ruby>だ――せめてお時のところへ行つて、<ruby><rb>詫</rb><rt>わび</rt></ruby>でも言つて來ることだ。百兩の金が本當にお時のものなら、<ruby><rb>年季</rb><rt>ねんき</rt></ruby>奉公しても返す工夫をするよ」

平次が支度をして出かけようと言ふ時でした。八丁堀吟味與力笹野新三郎から至急呼出しの手紙を、使の者が持つて飛んで來たのです。

早速出かけて行くと、笹野新三郎以ての外の顏色で、

「平次、お前がお預りして居る十手はどうした」

いきなり痛いことを訊ねるのでした。

「ハツ」

「三輪の萬七が盜賊を捕へたら、それがお前の十手を持つて居たさうで、御奉行村越長門守樣に、直々に屆け出でたぞ」

「――」

平次は一言もありません。御用聞が盜賊に十手を取られては、御上の<ruby><rb>御仕置</rb><rt>おしおき</rt></ruby>を待つより外に方法はなかつたのです。その十手を平次へでも返してくれる事か、奉行所へ持出した三輪の萬七は、何んといふ意地の惡い人間だらう――と今更怨んだところで何うにもなりません。

平次は<ruby><rb>悄然</rb><rt>せうぜん</rt></ruby>として歸つて來ました。まことに散々です。この上は百兩の金をつくつてお時に返し、改めて十手捕繩を返上して、<ruby><rb>小商</rb><rt>こあきな</rt></ruby>ひでも始める外はなかつたのです。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>のせゐですよ、親分。伯母さんから十兩くらゐは借りられるだらうし、あとは友達を訊いて廻つて、何んとかして――」

八五郎もそんな事を言ひます。

「馬鹿ツ、それんばかりの金があつたところで、何の足しになるものか――少し待て、俺はそれよりあの僞お百姓を擧げて、百兩の金を戻すことを考へるよ」

平次は默つて腕を組みました。女房のお靜は、母親から讓られた自分の<ruby><rb>古箪笥</rb><rt>ふるだんす</rt></ruby>の中味の事などを考へて居りましたが、裸になつて賣つたところで、十兩と<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>まるかどうか、甚だ覺束ないことです。

この上は昔奉公して居た兩國の水茶屋へ行つて、少し<ruby><rb>薹</rb><rt>たう</rt></ruby>が立つても、三年なり五年なり奉公をする約束で、纒まつた金でも借りて、良人の面目を救はうか――そんな事を胸算相して居りました。

「八、あの僞お百姓は、お時を疑はせるやうに仕向けたらう。お時はあの<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>本當に兩國へ行かなかつたとするとこいつは皆んな僞お百姓の細工だ」

「へエ」

「それからお時は、お前に、――覺えて居ろ――と言つたに相違ないな」

「へエ、確かにさう言ひました。口惜しさうでしたよ」

「何だつて俺はこんな事に氣が付かなかつたんだ。あの僞のお百姓はお時に<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>をする氣だつたのさ。間違ひもなくお時を怨んでゐる芝居者だよ。それからお前の十手を拔いたのはお時の仕業だらう、お前に思ひ知らせるつもりで後を追つて來たのだ。そして十手は三輪の萬七親分に取上げられたのだ」

平次の理性は活溌に働き始めました。

「畜生、何んてことをしやがるんだ。<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>」

「怒るなよ、八。これからお時のところへ行つて、筋道をつけよう。一緒に來るか八」

「へエ、あの阿魔の首でも引つこ拔かなきや」

<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し二人は、出かける迄もありませんでした。張りきつて支度をして居るところへ、一枚繪のお時が、お勝手口からソツとお靜を呼出して平次に取次がせたのです。

「何？　お時が來た、此處へ通してくれ」

<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く落着いた平次、その後ろに<ruby><rb>肩肘</rb><rt>かたひぢ</rt></ruby>を怒らす八五郎、お時はお靜の身體を<ruby><rb>盾</rb><rt>たて</rt></ruby>にして、部屋の隅へ小さく坐りました。

「親分さん飛んだことをしてしまひました。あの十手が錢形の親分さんの物と知らずに、八五郎親分の腰から拔いたのを三輪の親分に見付けられました。三輪の親分は意地が惡く、それをお奉行所へ屆け出たと聞いて――私はもう」

お時は日頃の<ruby><rb>強</rb><rt>したゝ</rt></ruby>かさを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かなぐり</span>捨てて、ポロポロと涙をこぼすのです。

「今更仕樣があるまいよ、――それよりお前に百兩すられたと言つた、僞百姓に心當りはないか、年の頃は――四十五六かな――六十近いやうに見せては居たが、前齒が一枚<ruby><rb>缺</rb><rt>か</rt></ruby>けて、右の<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みゝたぶ</rt></ruby>に傷があつたやうだ。間違ひもなく芝居者だよ、芝居がうま過ぎた」

「あツ、あの人ですよ、親分。私の昔の亭主、いえ、まだほんの小娘だつた私を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>した上、手籠同樣女房にし、自分の勝手で振り捨てた、七之助といふ惡黨ですよ。上方へ行つて惡事を重ね、近頃江戸へ歸つて來たと言つて<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつこ</rt></ruby>く昔の<ruby><rb>綟</rb><rt>より</rt></ruby>を戻すやうに言つて來ましたが、私は相手にしなかつたので、私にいやがらせをするつもりで、そんな芝居を打つたんです」

「さうか、何處に居るんだ。あの仲間は大抵縛つたが、<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>の七之助一人網を拔けたんだ」

「それなら私は知つて居ます」

「有難い」

「それから親分、これは私の<ruby><rb>手土産</rb><rt>てみやげ</rt></ruby>」

「何んだえ」

紙に包んだものを解くと、中から出て來たのは、切立ての男の<ruby><rb>髷節</rb><rt>まげぶし</rt></ruby>。少し白髮の交つて居るのも淺ましい姿です。

「何んだえ、これは」

「三輪の萬七親分の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>ですよ。私の取つた十手を卷上げて、錢形の親分をひどい目に逢はせた返報に、昔の手際でチヨイとあの人の髷を切つて來ました。こいつをお奉行所なり<ruby><rb>目安箱</rb><rt>めやすばこ</rt></ruby>なりへ投り込んで下さい」

負けん氣のお時は、口惜しまぎれに大變な冒險をしてしまつたのです。

「そいつは惡い。男が髷を切られちや、當分世間へ顏出しもなるめえ。せめてソツと返してやるが宜い。毛が出揃ふまで、<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>でも引いたことにするんだ」

さう言つた平次の弱氣は、八五郎やお時が何んと云つたところで追ひ付きません。

髷は人知れず三輪の萬七のところに返させ、天滿の七之助はその晩隱れ家から召し捕られました。

斯うして八五郎も伯母さんの虎の子を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>はずに濟み、お靜も水茶屋へ戻るに及ばなかつたのです。

百兩の<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>は、一枚繪のお時の小間物屋をどんなに<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>たものにしたことでせう。その店へ行つて時々手傳つて居る、お靜のまめ〱しい姿を見るのは、誰にも惡い心持のものではなかつたのです。

三輪の萬七は二た月ばかり風邪で引籠り、天滿の七之助がお處刑になつた事は言ふ迄もありません。

錢形平次の捕物の中にも、百に一つは斯う言つた全く<ruby><rb>詭計</rb><rt>トリツク</rt></ruby>のない物語がありました。