## 一

錢形平次が門口の雪をせつせと拂つてゐると、犬つころのやうに雪を蹴上げて飛んで來たのは、ガラツ八の八五郎でした。

「親分、お早やう」

「何んだ、八か。大層あわててゐるぢやないか」

「あわてるわけぢやないが、初雪が五寸も積つちや、ヂツとしてゐる氣になりませんよ。雪見と<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>やうぢやありませんか」

さう言ふ八五郎は、頬冠りに薄寒さうな<ruby><rb>擬</rb><rt>まが</rt></ruby>ひ<ruby><rb>唐棧</rb><rt>たうざん</rt></ruby>の袷、尻を高々と端折つて、高い足駄を踏み鳴らしてをりました。雪はすつかり<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れて、一天の<ruby><rb>紺碧</rb><rt>こんぺき</rt></ruby>、少し高くなつた冬の朝陽が、眞つ白な屋根の波をキラキラと照らす風情は、寒さを氣にしなければ、全く飛出さずにはゐられない朝でした。

「大層風流なことを言ふが、小遣でもふんだんにあるのか」

「その方は相變らずなんで」

「心細い野郎だな。空ツ<ruby><rb>尻</rb><rt>けつ</rt></ruby>で顫へに行かうなんて、よくねえ量見だぞ」

「へツへツ」

「いやな笑ひやうだな、雪見に行かうてエ場所はどこだ」

「山谷ですよ」

「山谷？」

「山谷の<ruby><rb>東禪寺</rb><rt>とうぜんじ</rt></ruby>横で」

「向島とか、湯島とか、明神樣の境内なら解つてゐるが、墓と寺だらけな山谷へ雪を見に行く奴はあるめえ、――そんなことを言つて、又<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>ひ出す氣なんだらう」

「圖星ツ、さすがに錢形の親分、エライ」

八五郎はポンと横手を打つたりするのです。

「馬鹿野郎、人樣が見て笑つてるぢやないか。往來へ向いて手なんか叩いて」

「實はね親分、山谷の寮に不思議な殺しがあつたんで」

「あの邊のことなら、三輪の<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>に任せて置くがいゝ」

「任せちや置けねえことがあるんですよ。殺されたのは吉原の佐野喜の主人彌八ですがね」

「あ、<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごふ</rt></ruby>佐野喜の親爺か、この春の火事で、女を三人も燒き殺した<ruby><rb>樓</rb><rt>うち</rt></ruby>だ。下手人が多過ぎて困るんだらう」

「多過ぎるなら文句はねエが、三輪の親分は、たつた一人選りに選つて<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の勝太郎を擧げて行きましたよ」

「えツ」

田圃の勝太郎は、まだ二十七八の若い男で、もとは八五郎の下つ引をしてゐたのを、手に職があるのに、岡つ引志願でもあるまいと、今から二年前、平次が仲間に<ruby><rb>奉加帳</rb><rt>ほうがちやう</rt></ruby>を廻して足を洗はせ、田圃の<ruby><rb>髮結床</rb><rt>かみゆひどこ</rt></ruby>の株を買つて、妹のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>と二人でさゝやかに世帶を持つてゐたのでした。

「妹のお粂が飛んで來て、今朝三輪の親分が踏込んで、兄さんを縛つて行つたが、兄が昨夜一と足も外へ出なかつたことは、一つ屋根の下に寢てゐたこの私がよく知つてゐる。夫婦約束までした嬉し野が燒け死んでから、兄さんはひどく佐野喜の主人夫婦を<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んではゐたが、そんなことで人なんか殺す兄さんでないことは、八五郎さんもよく知つてゐなさるでせう。錢形の親分さんにもお願ひしてどうぞ兄さんを助けて下さい――とかう言ふ頼みなんで」

「何んだ、そんなことなら早くさう言やいゝのに」

「それに三輪の親分だが、――殺しが知れてから半刻經たないうちに<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>を擧げたのは、自分ながら<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかな手際だつたよ。錢形が聽いたらさぞ口惜しがるだらう――つて言つたさうで」

「そんなことはどうでも構はない、出かけようか八。お靜、羽織を出しな」

「有難い」

八五郎はすつかり有頂天になつて、平次の先に立つて犬つころのやうに雪道を飛びました。

## 二

山谷の東禪寺横、田圃と墓地を左右に見て、二三軒の寮と少しばかりの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しもた</span>屋が建つてをりました。その中で一番洒落たのが佐野喜の寮で、左手は奉公人達が息拔きに來る<ruby><rb>別棟</rb><rt>べつむね</rt></ruby>の粗末な離屋。裏には三四間離れて、植木屋の幸左衞門の家があり、南は田圃に開いた見晴しで、平次が行つた時は道だけは<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>をこね返してをりましたが、田圃も庭も雪に埋もれて、<ruby><rb>南庇</rb><rt>みなみびさし</rt></ruby>から<ruby><rb>雪消</rb><rt>ゆきげ</rt></ruby>の<ruby><rb>雫</rb><rt>しづく</rt></ruby>がせはしく落ちてゐる風情でした。

錢形が來るといふ前觸れがあつたものか、番頭の萬次郎は心得て門口まで迎へます。

「御苦勞樣で御座います。親分さん」

「三輪の萬七兄哥が念入りに調べたさうだが、後學のために、俺もちよいと見て置きたい。佛樣はどこだえ」

「へエ――、御檢屍の御役人樣方がこの雪でまだお見えになりませんので、そのまゝにしてあります。どうぞ此方へ――」

萬次郎は先に立つて、狹いが確りした<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を二階へ案内しました。こんな商賣によくある、<ruby><rb>垢拔</rb><rt>あかぬ</rt></ruby>けのした五十がらみ、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>も、手足もいやにツルツルした中老人です。

「フーム」

二階はたつた一と間、唐紙の中へ入つた平次は思はず眼を見張りました。六疊の半分をひたして血の海、その眞ん中に贅澤な床を敷いて、主人の彌八は殺されてゐたのです。

「こんな恐しいことになりました。親分さん方」

番頭は部屋の隅にヘタヘタと坐つて、死骸から眼を外らせます。あまりの凄まじさに、正視出來ない樣子です。

「主人はこの家に一人ゐるのか」

「いえ、お鶴といふ子供が一人、手廻りの用事を足して、この家に泊つてをります。夜が明けると、あちらの<ruby><rb>別棟</rb><rt>べつむね</rt></ruby>から下女のお吉や、下男の音松が參りますが、御主人は折角寮へ來て休んでゐるんだから夜だけでも靜かな方がいゝと仰しやるもので――」

番頭の話を聽き乍ら、平次は念入りにその邊を調べました。主人は寢込んだまゝ、一刀の下にやられたらしく、脇差が喉を<ruby><rb>貫</rb><rt>つらぬ</rt></ruby>き、蒲團までも突き拔けて、疊へ切つ尖が達してをります。

「大變な力だね、親分」

八五郎は一寸その<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>に觸つて舌を卷きました。

「まさか<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>で叩き込んだんぢやあるまいな。柄頭を見てくれ」

と平次。

「何んともありませんよ」

金具には髮の毛ほどの疵もないところを見ると、矢張り馬乘りになつて力任せに突き通したものでせう。

「青梅綿の蒲團を二枚通すのはえらい力だな」

「こいつは天狗でなきや怨靈ですぜ、親分」

「馬鹿なことを言ふな」

さうでなくてさへ、この春の火事には、延燒して來る火の手を眺め乍ら、大金の掛つてゐる十幾人の<ruby><rb>妓</rb><rt>をんな</rt></ruby>に逃げ出されることを<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ、納戸に入れて鍵をかけたばかりに、三人まで燒け死ぬやうな無慈悲なことをして、世間から鬼のやうに思はれてゐた佐野喜の彌八です。怨靈に殺されたなどといふ噂が立つたら、その日のうちに<ruby><rb>瓦版</rb><rt>かはらばん</rt></ruby>が飛んで、來月は怪談芝居の筋書になるでせう。

「戸締りは念入りだな」

「へエ――、主人は大層やかましく、申しました」

と萬次郎。

平次は立つて雨戸の工合を見ましたが、何んの變化もありません。<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も外からコジ開けるにしても、切立つた二階窓で下からは足掛りも手掛りもなく、隣の植木屋幸右衞門の二階窓とは同じ高さで向き合つてをりますが、三間以上離れてをりますから、羽がなくては飛付く術もないわけです。

その隣との間の雪の上に、たつた一箇所小さい穴のあるのは、上から物を放つたか、鳥が餌を探しにおりたのでせう。<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>の雪は雨戸を繰る時大方拂ひ落された樣子です。

「脇差は誰のだい」

「主人の品で御座います。用心棒の代りに、この二階の床の間に置いてあつた筈で」

さう説明されるとなんの手掛りにもなりません。

「昨夜主人の樣子に變つたことはなかつたのか」

「へエ――、別段變つたことも御座いませんでした」

「主人はちよい〱<ruby><rb>此寮</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ來るのか」

用心堅固に口を<ruby><rb>緘</rb><rt>つぐ</rt></ruby>む番頭の萬次郎から、いろ〱のことを引出すのは、相當の骨折です。

「滅多に參りません」

「それはどういふわけだ、もう少し<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく話してくれ」

「お神さんがこの夏この寮で亡くなつてから、あまり良い心持がなさいませんやうで、一度もいらつしやいませんでしたが、近頃ひどく疲れたから、せめて二三日休みたいと仰しやつて、昨日久し振りでお出でになりました。私はお供をして參りましたやうなわけで、へエ」

「お神さんも、變死したのではなかつたかい」

平次は佐野喜のお神さんが、春の火事で燒け死んだ<ruby><rb>妓</rb><rt>をんな</rt></ruby>共の<ruby><rb>祟</rb><rt>たゝ</rt></ruby>りで自殺したといふ噂のあつたのを思ひ出しました。

「へエ――」

「それを詳しく聽かうぢやないか。ね番頭さん、お前さんは大層用心してゐるやうだが、前後の<ruby><rb>經緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>を詳しく話してくれないと、罪のないものが罪を被ることになるよ、――これは物の譬だが、あの大雪の中を忍び込んで、この二階へ迷ひもせずに登つて來た上、これだけの恐しい力で主人を刺せるのは、よく案内を知つた男だ」

「へツ」

萬次郎は膽を潰しました。疑ひは眞つ直ぐに自分を指してゐることに氣が付いたのです。

「どうだ、隱し立てなんかせずに知つてゐることは皆んな話して見ちや」

「申します、親分さん、――お神さんは、この夏の末<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>が出來上つてホツとしたから、骨休めがしたいと仰しやつて、この寮へ來て泊つた晩、急に氣が變つたものか、下の部屋の<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>に<ruby><rb>扱帶</rb><rt>しごき</rt></ruby>を掛けて首を吊つて亡くなりました」

「その時は誰が一緒だつたんだ」

「私は參りません。離屋の方に下女のお吉と下男の音松が泊り、この寮には矢張り小女のお鶴がをりました」

「<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に自殺だつたのか」

「間違ひは御座いません。三輪の親分さんも、御檢屍のお役人樣方もさう仰しやいました」

「そのお鶴といふのに逢つて見よう」

「呼んで參りませうか」

「いや階下へ行かう」

平次とガラツ八は、狹い<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を踏んで下に降りました。そこは店の方から駈け付けたらしい人間で調べも何も出來ないほど一ぱいです。

「皆んなに暫くの間、向うへ行つて貰はうか」

その人數を別棟の方に追ひやつて、平次は小女のお鶴を呼出しました。

## 三

「お前はお鶴といふんだね」

「へエ」

「怖くなかつたかい」

「――」

平次の調子があまりに穩かなのと、その言葉の奧に優しく慰はる響があるので、お鶴はびつくりして顏を擧げました。お鶴の想像してゐた御用聞といふ<ruby><rb>概念</rb><rt>がいねん</rt></ruby>とは凡そ心持の違つた平次です。

十四五にもなるでせうか、なんとなく目鼻立の惡くない方ですが、發育不良らしく痩せ衰へた上<ruby><rb>小柄</rb><rt>こがら</rt></ruby>で青白くて日蔭に吹きかけた雜草の花のやうな感じのする小娘です。

「お前の親許はどこだ、――幾つで何年奉公してゐる」

平次は一ぺんに三つの問ひを投げかけました。

「川崎在で御座います。二年前十三の時、十九になる姉と二人で奉公に參りました」

お鶴の答への要領のよさ。

「姉はどうした」

「この春の火事で亡くなりました」

「さうか」

泣き出しさうなお鶴の顏を、平次は憐れ深く見やりました。多分姉妹二人、よく〱の事情で<ruby><rb>女衒</rb><rt>ぜげん</rt></ruby>の手に渡り、年上の姉は佐野喜の店で勤め、年弱で身體も<ruby><rb>萎</rb><rt>いぢ</rt></ruby>けきつてゐる妹のお鶴は、寮の下女代りにこき使はれてゐたのでせう。

「姉が死んで口惜しいと思はないのか」

「口惜しいと思ひました――でも」

弱くて若い女の子に、それがどうなるものでせう。お鶴は口惜しさも涙も隱さうともせず、<ruby><rb>俯</rb><rt>うつ</rt></ruby>向いて前掛に顏を埋めるのです。

「兩親はないのか」

「父親は五年前に亡くなり、母親は病身で親類の家に厄介になつてをります」

平次はすつかり考へ込んでしまひました。この日蔭で干し固めたやうな少女には、彌八を殺す動機がないとは言へません。

「主人はお前によくしてくれたのか」

「――」

「給料はいくらだ」

「――」

お鶴は默つて頭を振りました。因業佐野喜は決して結構な主人でなかつたことはよく解ります。

「昨夜皆んな<ruby><rb>別棟</rb><rt>べつむね</rt></ruby>に引揚げたのは何刻だ」

「お吉さんが引揚げたのは<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>（八時）頃で、番頭さんはそれから間もなく引揚げました。雪の降り出す前で――」

「それつきり寢てしまつたのか」

「は、いえ、<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>さんが來ました」

「どこの按摩で、何んといふ」

「玉姫の多の市といふ人で、よくこの邊を流して歩きます。御主人樣が晝のうちに往來で逢つて約束なすつたさうで、<ruby><rb>亥刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>（十一時）頃雪が降り出してから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いきなり</span>入つて來ました」

「<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>ませたのか」

「遲いからもう止さうと斷りましたが、多の市さんは<ruby><rb>依怙地</rb><rt>いこぢ</rt></ruby>な方で、こんな大雪にわざ〱來たんだからと、無理に入り込んで――」

「二階へ上がつたのか」

「いえ、階下の八疊で一寸揉んで貰ひました」

「歸つたのは？」

「直ぐ歸りました。<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>（十二時）前だつたでせう」

「それから」

「御主人は二階へ行つてお休みになりましたし、私は階下で、何時ものやうに休みました」

「二階へは<ruby><rb>有明</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>を灯けて置くのか」

「油が無駄だからと仰しやつて、何時でも直ぐ消します」

佐野喜の主人ともあらうものが、有明の種油を惜しむといふのは、一寸常人に思ひ及ばないことです。

「昨夜主人は酒を呑まなかつたのか」

「晩の御飯のとき二合位召し上りました」

「そんなことでよからう。ところで今朝の樣子を話してくれ」

平次は話頭を輕く轉じました。

「朝起きて見ると、お勝手口の戸が開いてゐて、外には大きな足跡が付いてゐました」

「確に戸は開いてゐたに違ひあるまいな」

「え、――寒い風が吹込んでゐました」

「八、雪の降り出したのは、何刻頃だえ」

平次は八五郎を<ruby><rb>顧</rb><rt>かへり</rt></ruby>みました。

「<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>（八時）時分から降り始めて、夜中にひどくなりましたよ」

「降り止んだのは」

「大降りだつた割りに早く<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れたやうですね。<ruby><rb>牡丹雪</rb><rt>ぼたんゆき</rt></ruby>で二た刻ばかりの間にうんと積つたんでせう、<ruby><rb>寅刻</rb><rt>なゝつ</rt></ruby>（四時）前に小用に起きた時は、小降りになつてましたよ」

「すると、下手人は<ruby><rb>寅刻</rb><rt>なゝつ</rt></ruby>（四時）近くに出て行つたわけだな、――その足跡には雪が降つてゐなかつたのか」

「え」

「お勝手口は締め忘れたのか、それとも外からコジ開けたのか」

「三輪の親分さんは、<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>か何んかでコジ開けたに違ひないと言ひました」

お鶴がさう言ふ迄もなく、お勝手の雨戸にも敷居にも、大きな傷のあることは、その間に家中を嗅ぎ廻つてゐる、ガラツ八もよく<ruby><rb>見窮</rb><rt>みきは</rt></ruby>めてをりました。

## 四

續いて下女のお吉を呼んで調べましたが、大した役に立ちさうなこともありません。

「何んにも知りましねエよ。今朝お鶴さんに騷ぎ出されて、びつくりして飛んで行つただ」

三十二三のお吉は働くのと溜める外には興味のありさうもない、恐しく頑丈な<ruby><rb>醜女</rb><rt>しこめ</rt></ruby>です。

佐野喜へ奉公に來て六年目、<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>は店の方にゐて、主人が寮へ來る時だけ付いて來るさうで、何を訊いても一向筋が通りません。

「主人を怨んでる者があるだらう。お前の知つてるだけの名前を言つて見な」

「皆んな怨んでるだ。私は給料が少くて仕事が多いし、番頭さんは朝から晩までガミガミ言はれるし、音松爺さんは六十八になるが、國へ歸して貰へさうもないし、お鶴は姉の<ruby><rb>百代</rb><rt>もゝよ</rt></ruby>さんが燒け死んだし、勝太郎さんは嬉し野さんが死んだし――」

お吉は水仕事で太くなつた指を折つて、かう勘定するのです。全く際限がありません。

「近頃主人にひどく叱られた者はないのか」

「毎日目の玉の飛び出るほど叱られるから、慣れつこになつて驚かないだよ」

「今朝の騷ぎの時お鶴が<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>に迎へに來たのか」

「いえ、大きな聲をしたから驚いて駈け付けただ」

「お前が行く時、雪の上に足跡があつたかい」

「あつたやうだよ」

それ以上はこの女の<ruby><rb>粗笨</rb><rt>そほん</rt></ruby>な記憶を引出す<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もありません。

「店中は兎も角、世間の人が皆んな主人を怨んでゐるわけぢやあるまい」

「さうだよ」

「一人くらゐは怨まない者もあるだらう」

「お隣の幸右衞門親方だけは、ひどく有難がつてゐるよ」

「それはどういうわけだ」

「娘のお歌さんの親許<ruby><rb>身請</rb><rt>みうけ</rt></ruby>の時、唯みたいに安くして貰つたんだつてネ」

お吉の話によると、植木屋幸右衞門はもと鳥越で大きく暮して居たが、惡い人間に引つ掛つて<ruby><rb>謀判</rb><rt>ぼうはん</rt></ruby>の罪に落されさうになり、<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>を投げ出した上娘のお歌まで佐野喜に賣つて、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く遠島は<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れましたが、その後お歌の歌川が病氣になり、勤めもできない身體になつたのを可哀想に思つて、ひどい苦面で親許身請をし、この寮の隣の二階屋を借りて養生をさせましたが、重い<ruby><rb>癆咳</rb><rt>らうがい</rt></ruby>で到頭去年の暮死んでしまつたといふのです。身賣の時も知合ひの佐野喜が思ひきつた金を出してくれ、病氣で親許へ歸る時は、世間の相場で三百兩も五百兩も積まなければならない歌川を、たつた五十兩で歸してくれた恩を、幸右衞門は今でも身に沁みて有難がつてゐるといふのでした。

「その幸右衞門は來てゐるのか」

「第一番に飛んで來て、いろ〱手傳つてゐたが、先刻歸つたやうで」

その次に平次は、下男の音松に逢つて見ました。それはもう六十八といふ老人で、腰も曲り、齒も殘らず<ruby><rb>缺</rb><rt>か</rt></ruby>け落ち、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんのくぼ</span>に少しばかり白髮の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>が殘つてゐる心細い姿ですが、多年の勞働で<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>へた身體だけはなか〱頑丈らしく、耳さへよく聽えたら、相當役に立ちさうな親爺でした。

給料の前借があるので、主人がなか〱川越在の田舍へ歸してくれないのが不平のやうですが、それを除けば大した文句もないらしく、結局小女のお鶴とたつた二人で、滅多に人の來ない寮の番人をしてゐるのが、反つて氣樂さうでもあります。

朝からのことを一と通り話させると、

「いや驚きましたよ。何しろ私共のゐるところからこの<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>まで、五六間のところに大きな足跡が付いてゐるんでせう。お鶴が氣が違つたやうに騷ぐから、二階へ上がつて見るとあの始末だ」

「第一番にどんなことをした」

平次は爺やの耳元で聲を張上げました。

「町役人とお店と醫者へ行かなきやならないから、先づ隣の幸右衞門さんのところへ飛んで行つて手傳ひを頼みました」

「幸右衞門はまだ起きてなかつたのか」

「<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>は恐しく早い人だが、大雪の朝は寢心地が良いから、今朝に限つて大寢坊だ。戸を叩いても容易に起きないのには弱りましたよ」

「幸右衞門の家から出るか入るかした足跡はなかつたのか」

平次の氣の廻ること――、ガラツ八はそれを聽き乍ら<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑みました。

「雪の中の一軒家のやうに、犬つころ一匹側へ寄つた足跡もねエ。五寸以上の雪だから、たつた五六間歩くのに、足駄がめり込んで弱つたね」

意味もなく語り續ける音松老人の言葉は、植木屋幸右衞門を遠く嫌疑の外へ追ひ出して了ひます。

「往來から直ぐこの寮へ來た足跡はなかつたのか」

「ありませんよ。<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も往來から俺達の休んでゐる離屋は直ぐだから、軒傳ひに廻つて來て、母屋のお勝手へ入れば別だが」

音松の説明は、全く他の者――例へば勝太郎のやうなものでも、寮へ來ることの可能を證據立てます。

「お勝手にあつた足跡は足駄か草履か、それとも――」

「そこまで判らねえ、でも何んか齒の跡が見えたやうに思ふが――」

はなはだ<ruby><rb>覺束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない言葉です。

## 五

平次とガラツ八は、隣の植木屋幸右衞門の家へ顏を出しました。

「親方、飛んだ迷惑だネ」

平次はお世辭ものです。何にか昔馴染の家へ遊びにでも來たやうな心置きなさ――。

「へエ――、錢形の親分さんださうで、御苦勞樣で」

「俺の來ることが大層早く判つたんだね」

「お鶴坊がさう言つて教へてくれましたよ。江戸で高名な錢形の親分さんがいらつしやると――」

「ハツハツ、そいつは丁寧過ぎて謝つた。ところで親方、昨夜は何んにも物音を聞かなかつたかえ」

「何んにも知りませんよ。あれ程の騷ぎがあつたんだから五間と離れない私の家へ聞えない筈はないんですが、一杯飮んで寢たのと、大雪のせゐでせう。雪の降る晩といふものは、不思議に物音が聞えないものですね。同じ屋根の下でも階下に寢てゐたお鶴坊が知らないくらゐですから」

靜かな調子と重厚な感じの物腰が、この中老人をひどく穩かにします。中老人と言つても佐野喜の主人と同年配の、精々四十七八でせうか、もとはよく暮したといふのが本當らしく言葉の調子にも、身のこなしにも、何んとなく品格の匂ふ人柄でした。

「ところでお前さんたつた一人で暮してゐなさるのかい」

「へエ――、惡い月日の下に生れましたよ。女房に死なれた翌る年、<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>りに引掛つて身上を仕舞ひ、その二年後には娘に死なれたんですから。天道樣を怨む張合ひもありません」

幸右衞門は長い眉を垂れました。この上もなく靜かですが、動亂する心の中の悲しみは平次にもよく解ります。

「佐野喜を怨む筋はなかつたのかい」

「最初は良い心持ではございませんでした。納得して金に<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>へた娘でも、親から見れば買ひ手が<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしくなります。でも、二年目に病氣になると、たつた五十兩で親許に返してくれました。半年前に三百兩で身請け話のあつた娘です」

「成程な」

「それから、お隣に住むやうになつて、寮へいらつしやるたび毎に、何彼につけてお世話になりました。うまい物があれば屆けて下すつたり、良い醫者があるとわざ〱差向けて下すつたり、でも壽命のないものはどうすることも出來ません。長い間<ruby><rb>患</rb><rt>わづら</rt></ruby>つた揚句、親父の私をたつた一人この世に殘して去年の暮に亡くなつてしまひました」

娘のことといふと夢中になるらしい幸右衞門は、相手の身分の忙しいのも構はず、すつかり自分の述懷に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れきるのでした。

平次はそんなことで打ち切つて、

「この家の二階から、寮の二階を見せて貰ひたいが――」

「へエ、どうぞ」

自分で先に立つて二階に上がると、幸右衞門は窓を開けて何んのこだはりもなく平次に見せました。

窓と窓との間は三間あまり、飛付くことなど思ひも寄らず、締めきつて大雪が降つてゐたから、向うの物音が聞えなかつたといふのも無理のないことです。

「八、向うの窓へ物干竿か、丸太を渡して歩けるかい」

平次は冗談らしく窓の下に立てかけた、植木の突つかひ棒にする商賣用の丸太を指しました。

「御免蒙りませう、三足と歩かないうちにグラリと行きますよ。それに、丸太は二三十あるが、向うの窓に屆くやうな長いのは一本もないし、一パイ雪を被つて、引つこ拔いて使つたあともありませんぜ」

「物の<ruby><rb>譬</rb><rt>たとへ</rt></ruby>だ、――そんな手もあるまいといふ話さ。なあ親方」

平次は後に立つて、酢つぱい顏をしてゐる幸右衞門を<ruby><rb>顧</rb><rt>かへり</rt></ruby>みました。

それから念のため家の中と外廻り、隣との關係を見せて貰つて、外へ出ると、

「ところで八、あの番頭の身持と店中の評判を訊いて來てくれ」

平次はいきなりこんなことを言ひます。

「あの番頭は蟲の好かない野郎ぢやありませんか、あれが臭いんでせう」

「そんなことは追つて解るよ、――それから玉姫の多の市といふ<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>に逢つて、昨夜の樣子を訊くんだ。<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>はカンが良いから、佐野喜の主人の身體を揉んでゐるとき、何にか變なことがなかつたか、曲者が忍んでゐるとか、――主人が變つたことを言つたとか」

「それだけで？」

「それで澤山だ――俺は三輪の兄哥に逢つて訊きたいことがある。頼むよ八」

「合點」

八五郎は<ruby><rb>踵</rb><rt>かゝと</rt></ruby>に返事をさせるやうに、もう飛出してをります。

## 六

番所へ顏を出すと、三輪の萬七とお<ruby><rb>神樂</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の清吉は、自分達の手柄に陶醉して、すつかり好い機嫌になつてをりました。

「お、錢形の。兄哥が來たといふ話は聽いたが、とんだ無駄足で氣の毒だつたな」

萬七の鼻は<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>きます。

「樣子を見に來たんだが、――矢張り勝の野郎が下手人だつたのかい」

「まだ白状はしねえが、お<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>で二三束打たれたら他愛もあるめえよ」

「證據があるんだから文句は言はせねえ<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>さ。東禪寺前で夜泣<ruby><rb>蕎麥</rb><rt>そば</rt></ruby>を二杯も喰つてゐるし――」

「刻限は」

「雪がチラリホラリ降り出した頃だといふから、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）少し前だらうよ。それから雪に濡れた草履が自分の家の縁の下に突つ込んであつたし、手拭と袷を妹のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>が火鉢で一生懸命乾してゐたのさ」

「草履？」

「眞新しい麻裏だよ。――雪の降る前に飛出して、大降りになつてから歸つたんだらう」

「そいつは飛んだ間違ひだ、もう一度念入りに調べ直してくれ。下手人は勝の野郎ぢやないよ、兄哥」

と平次。

「何んだと、錢形の、――まさか俺の手柄にケチを付ける心算ぢやあるまい」

「飛んでもない」

「それぢや手を引いて貰はうか。勝は八五郎の下つ引だつたから、錢形の息は掛つてるだらうが、證據のあるものを放つて置くわけには行かねエ」

三輪の萬七は<ruby><rb>屹</rb><rt>きつ</rt></ruby>となりました。平次に對する反感で、<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい顏がサツと青くなります。

「證據？」

「勝は夫婦約束までした嬉し野が燒け死んでから、ひどく佐野喜を怨んで、折があつたら仇を討つてやると、友達中に觸れ廻り、腹卷には何時も<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を呑んでゐたさうだ」

「殺した道具は脇差だぜ」

平次もさすがにムツとした樣子です。

「手當り次第にやつたのさ、匕首よりは脇差の方が都合がいゝ」

「眞つ暗な二階で、よくそんな贅澤な道具を見付けたことだ。――ね、三輪の。俺は兄哥と張り合ひに來たんぢやねエ。どう考へても勝の野郎のしたことぢやないから、ツイ飛込んでお節介をしたまでのことだ。お願ひだからもう一度調べ直してくれ」

平次はもう一度下手に出る氣になつたのです。が、三輪の萬七は子分のお神樂の清吉の見てゐる前もあり、さう簡單には打ち解けさうもなかつたのです。

「存分に調べたよ、この上調べやうのないところまで調べたよ。それで勝をしよつ引いたが何うしたんだ」

「彌八が殺されたのはどう考へても<ruby><rb>亥刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>（十一時）過ぎだ、――下手人らしい足跡に雪が降つてゐなかつたさうだから、引揚げたのは夜明け近くだらう。勝が山谷にブラブラしてゐたのは、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）そこ〱だといふぢやないか」

「それから曉方過ぎまでゐたとしたらどうだ」

「あの大雪の中に一と晩立つてゐたのか」

「寮の中にゐる<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>もあもよ」

萬七は<ruby><rb>頑</rb><rt>ぐわん</rt></ruby>として讓りません。

「それに、下手人の殘した足跡は、足駄か高下駄だが、勝は草履をはいてゐたといふぢやないか」

「<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>きかへたらどうする」

「まアいゝ、兄哥の言ふのが皆んな本當として、――人を殺しに行く者が、夜泣<ruby><rb>蕎麥</rb><rt>そば</rt></ruby>を二杯も喰へるだらうか」

「膽の据つた野郎だ。呆れ返つてゐるよ」

これでは手のつけやうがありません。平次は尻尾を卷いて引退るより外はなかつたのです。

「さう言はずに兄哥」

「氣の毒だが勝は口書を取つてお係りに引渡すばかりになつてゐるんだ。助けたかつたら、眞物の下手人を擧げて來るがいゝ。錢形のお手際を拜見しようぢやないか」

萬七は子分の清吉を顧みてニヤリとしながら、<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に煙管を引つ叩きます。

平次は悄然として外に出ました。八五郎の面目のために勝太郎を救ふ工夫は容易につきさうもありません。

田圃の勝床を覗いて見ると妹のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>は浮かぬ顏をして客を斷つてをりました。

「あ、錢形の親分さん」

「お粂、氣の毒だなア」

「親分さん、兄さんは矢張り――」

「むつかしいなア」

「どうしませう、私」

お粂は手放しで泣き出すのです。十九か精々二十歳でせうが、勝氣らしい下町娘も、たつた一人の兄が、人殺しの下手人で縛られてはひとたまりもありません。

「お前がなまじつか隱し立てしたのが惡かつたんだ。潔白なものなら何も細工などをすることはない、――勝は矢張り昨夜山谷へ行つたんだらう」

「え」

お粂はようやくうなづきました。

「歸つて來たのは何時だ」

「雪が降り出してから――<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）少し過ぎでした」

「亥刻半（十一時）前に歸つたことが判れば、勝は下手人ぢやない。證據があるか」

「私が――」

「お前では證人にならない。誰か知つてる者はないのか」

「さア」

お粂はハタと困つた樣子です。

それからいろ〱と訊ねてみましたが、勝太郎を救ふやうな手掛りは一つもありません。この上は、三輪の萬七が挑戰したやうに、勝太郎以外の下手人を縛つて突き出す外はなかつたのです。

## 七

「親分、今歸りましたよ。あ、腹が滅つた」

ノソリと歸つて來た八五郎は、火鉢の側へ<ruby><rb>膝行</rb><rt>ゐざ</rt></ruby>り寄ると、もうこんなことを言ふのです。

「色氣のない野郎だな、頼んだ仕事の方はどうだ」

「上々吉ですよ、その代り腹が減つたの減らねえの――」

「何がその代りだ」

「助けると思つて先づ五六杯詰め込まして下さい。頼みますよ」

八五郎の望に任せて、お靜は膳を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>へてやりました。

「何しろ、あれから働きづくめで、水を呑む隙もねエ」

「能書はそれくらゐにして、どんなことがあつたんだ」

「佐野喜へ行つて、番頭の萬次郎のことを訊くと、いやもう滅茶々々。奉公人共は主人の惡いところは、皆んな番頭の入れ智慧だと思ひ込んでゐやがる」

「で？」

「店の金だつて、どれだけくすねてゐるか解つたものぢやありません。萬次郎の荷物を調べて見ると、盜み溜めたらしい金が何んと三百兩も隱してあるんだから驚くでせう」

「それから何うした」

「どんな顏をするか見てやらうと、荷物をもとのまゝにして、山谷の寮から萬次郎を呼び返して見ましたよ。すると」

「――」

「店へ歸るといきなり、用事を拵へて自分の部屋へ入り、くすねて置いた三百兩のうち二百兩まで持ち出して、店の金箱へ返すぢやありませんか。<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎ溜めた金なら、そんなことをする筈はない」

ガラツ八もなか〱うまいことに氣が付きます。

「それから何うした」

「下つ引を呼びよせて、萬次郎を見張らせ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は玉姫の多の市のところへ行きましたよ。すると恐しい働き者で陽のあるうちから留守だ。仕方がないから行く先々を搜し廻つて、按摩の笛の音をしるべに、やうやく<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まへたのは日が暮れさうになつてから、――腹も減るわけぢやありませんか」

「無駄が多いなア、多の市は何んと言つた」

「何んにも言やしません。あの家は年に二三度づつお神さんを揉みに行つたきりで、主人を揉んだのは昨夜が始めてださうで、お神さんは療治代の十二文の外に一文もくれたことがないが、主人はさすがに豪儀だ、默つて二百くれたといふことで――」

「それつきりか」

「へエ」

「佐野喜が<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>に二百文も出すのはどうかしてゐると思はないか、――俺が行つて見よう。多の市に逢つたら、何にか變つたことがあるかも知れない」

「これから行くんですか、親分」

「まだ日が暮れたばかりだ。できることなら、勝の野郎を番所へ泊めたくねえ。お前は疲れてゐるなら、こゝで吉左右を待つがいゝ」

平次は手早く仕度をして立ち上がります。

「冗談でせう、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が行かなかつた日にや勝の野郎に濟まねエ」

ガラツ八は熱い番茶をガブリとやると、口の中に火傷をし<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>らもう足駄を突つかけてをります。

按摩の多の市を搜すのは、全く容易の業ではありませんでした。やうやく田町を流してゐるのを突き留めて、<ruby><rb>蕎麥</rb><rt>そば</rt></ruby>屋へ入つて一杯呑ませながら聽くと、十手より<ruby><rb>酒精</rb><rt>アルコール</rt></ruby>の方が利いて、思ひの外スラスラと話してくれました。

「佐野喜の主人は酒を呑んでゐなかつたのかい」

と平次。

「へエ、酒の氣もありませんでしたよ」

多の市の答へは先づ豫想外です。

「何にかものを言つたらう」

「何んにも言はないから少し向つ腹が立ちましたよ。世の中には無愛想な人間もあるものだが、あんなのはありません。尤も二百も祝儀を出しや、石地藏を揉んだつて腹は立ちませんがね」

「あのお鶴といふ小さい娘が取次いだのかい」

「へエ」

「療治の間主人は眠つてでもゐたのかい」

「飛んでもない、心臟が惡い樣子で、大變な<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>でしたよ」

「外に何にか不思議に思つたことはないのか。揉んでゐて何にか物音が聞えるとか、他の人間の氣はひがするとか」

「さう言へば、佐野喜の主人ともあらうものが、お召物がひどく粗末でしたよ」

「それつきりか」

「もう一つ、あの人はもと職人か百姓をしたことがあるでせうか、手がひどく荒れてゐましたが」

「フーム」

平次は深々とうなづきをした。

## 八

「來いツ八」

「どこへ行くんで、親分」

「<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>が判つた」

「番頭の萬次郎ですか」

「いや、主人を殺すくらゐな奴が、後ろ暗いことをしてゐる筈はない。――お前に店へ呼び戻されてからあわてて錢箱へ二百兩返すやうぢや、あの番頭は惡い奴だが人殺しはしなかつた」

「ぢや誰です、親分」

「今に判る」

平次とガラツ八が山谷へ行つた時は、寮はお通夜でゴタゴタしてをりました。

「八、提灯を用意して來い」

「へエ――」

離屋へ行つて提灯を借りて來ると平次は八五郎とたつた二人で植木屋の幸右衞門の家へそつと入つて行つたのです。

「何をするんで、親分」

「探す物があるんだ」

「――」

平次はいきなり二階へ入ると、窓の張出しと<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>を見ました。が、よく拭き込んで何んにもありません。隣の寮はお通夜のお經が始まつたらしく、閉めきつた中から陰氣な讀經の聲が漏れます。

「これだ」

平次は勝ち<ruby><rb>誇</rb><rt>ほこ</rt></ruby>つた聲を擧げました。窓の下、疊の上に僅かばかり殘つた鋸屑を見付けたのです。

「鋸屑ぢやありませんか」

「さうだよ、もう一つ搜すものがある」

階下へ降りて念入りに搜し廻ると、縁の下へ深く投り込んだ切口の新らしい二間ばかりの丸太が四本。

「占めたツ、もう大丈夫」

喜び勇む平次の眼の前に、何時どこから入つて來たのか、植木屋幸右衞門が、しよんぼりと立つてゐるではありませんか。

「恐れ入りました、親分さん。勝さんが縛られたと聞いて自首して出る<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>でしたが、ツイ未練で遲れてしまひました。私を縛つて下さい」

ヘタヘタと崩折れると、兩手を後ろに廻して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うな</span>垂れるのです。

「幸右衞門、――何んだつてもう少し早く名乘つて出なかつたんだ」

「一言も御座いません。命が惜しかつたのです、――親分さん、――この私でなく、若い者の命が――」

「よし〱、神妙の至りだ。お上にも御慈悲がある、――ところで、何んだつて、彌八を殺す氣になつたんだ」

「今朝申上げたのはあれは、皆んな<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>で御座います。私の娘のお歌は、彌八夫婦にいぢめ殺されました。身體の弱い者に、無理な勤めをさせ、少しでも休むと、物も食はせないばかりか、犬畜生にも<ruby><rb>劣</rb><rt>おと</rt></ruby>つた折檻をされ、たうとうもう助からないといふ大病人になつてしまひました」

「――」

「さうなると、助からない病人の世話をして<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひを出すのが馬鹿々々しくなつて、私に五十兩といふ大金を苦面させて、死骸同樣の娘を無理強ひに親許身請をさせ、万一丈夫になつた時は、二度の勤めをさせるといふ<ruby><rb>證文</rb><rt>しようもん</rt></ruby>まで取つて、時々醫者をよこしました。鬼と言はうか、蛇と言はうか、あんな恐しい人間はありません。娘はそれを<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>み續けて血を吐きながら死んで了ひました」

さう語り續けるうちに、幸右衞門は燃え上がる忿怒のやり場もなく、唇を噛み、拳を握つて、はふり落ちる涙を横撫でに拂ふのでした。

「この夏お神さんの死んだのは――お前のせゐではあるまいな」

と平次。

「あれは全くの自害で御座います。寮へ來て、あの窓から私の家の二階を見ると、さすがに娘に濟まないと思つたのでせう。夜中にフラフラと死ぬ氣になつた樣子です。――娘の怨みだつたかもわかりません。――ところが主人の彌八は益々丈夫で、三人も<ruby><rb>妓</rb><rt>をんな</rt></ruby>を燒き殺しても、蟲を踏み潰したほどにも思ひません。昨日などは私の顏を見ると、いきなり、お前の娘のお蔭で、大損をしたと喰つてかゝる有樣で――」

幸右衞門の憤激は果てしもありません。

「で、昨夜、雪の降る前に寮に忍び込み、彌八が醉つて寢たのを見すまして、二階で刺したのだらう。――歸らうとすると按摩の多の市が來た。斷つても<ruby><rb>依怙地</rb><rt>いこぢ</rt></ruby>で歸らないから仕樣事なしにお前が彌八の代りに揉んで貰つて、何んとはなしに口止めの<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>で二百はずんだ」

「――」

平次の描いて行く事件の段取りは、實際と<ruby><rb>寸毫</rb><rt>すんがう</rt></ruby>の喰ひ違ひもありません。幸右衞門は口を開いて聞き入るばかりです。

「歸らうとしたが、丁度大雪が降つてゐて、足跡を隱しやうがない。幸ひお前が手掛けた寮の植木の突つかひ棒にする長い丸太が、寮の二階窓の下に立てかけてあつたのを思ひ出し、そこから丸太の尖につかまつて、三間も離れてゐる自分の家の二階の窓まで飛付いた。危い離れ<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>だが、それでもお前は高い場所の仕事に馴れてゐるから、どうやらかうやらうまく行つた」

「――」

平次の推量の素晴らしさ、幸右衞門は自分のした事を復習されて、たゞ呆氣に取られるばかりです。

「自分の家の二階へ歸つたが、四間以上もある丸太をそのまゝにして置くと忽ち露見する。お前はそれを二階へ引入れて、四つに切り落し、縁の下に投り込んで素知らぬ顏をしてゐた。二階から二階へ丸太で橋を<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>けることは俺も直ぐ考へたが、丸太を大地に立てて、二階から二階へ飛付くことは考へなかつたよ」

「恐れ入りました親分さん。その通りに違ひ御座いません」

幸右衞門は板敷の上へ兩手を突きます。

「ところで、雪の降る前にお前を<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>ひ込んで、夜中過ぎ大雪になつてからお前を送り出し、窓を締めたり、お勝手口へ足跡をつけたりした人間がある筈だ」

「それは親分さん、勘辨してやつて下さい。姉を燒殺された上、自分は牛馬のやうにこき使はれてゐる可哀想な娘です。娘の母親は遠い親類の厄介になつて、生きるに生きられず、死ぬに死なれぬ目に逢つてゐると、この間も手紙が來たのを見て、私も貰ひ泣きをしました。――あの娘はたゞ戸を締めて、足跡をつけただけです。たつた十五になつたばかりの娘が、姉の<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>を討つ氣にでもならなければ、そんなことができるわけはありません。お<ruby><rb>見逃</rb><rt>みのが</rt></ruby>しを願ひます、親分さん。彌八を殺した下手人は私一人で澤山で御座います」

幸右衞門は幾度も〱顏を床に摺り付けました。

「よし〱、何んにも知らなかつたことにしよう。それから、俺に縛られたんぢや、お前の命を助けやうはない。見え隱れに八をつけてやるから、直ぐ番所へ駈け込み<ruby><rb>訴</rb><rt>うつた</rt></ruby>へをしろ、お係り同心が出役になつてゐる筈だ。――俺に言はれたなんて、間違つても言ふなよ。佐野喜の主人にはお上の憎しみがかゝつてゐる。御慈悲でお前の罪が輕くなれば、遠島か永牢で濟むかも知れない、さうすると又娑婆へ出て來る折もあるだらう。――あの娘のことは心配することはない、俺が引受けて母親のところへ屆けてやる」

「有數う御座います。親分さん、神とも佛とも、――」

五十近い幸右衞門は恥も體面も忘れて大泣きに泣き入るのです。

隣の寮のお通夜の經は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く濟んだらしく、ザワザワと波立つやうな人の聲が聞えます。

それを聽いたガラツ八の八五郎は、薄暗いところに引込んで、やたらと拳固で涙を拭くばかりでした。

平次の手柄に代へて幸右衞門は、佐野喜の主人の段々の不都合が知れて、下手人ながら江戸追放といふ輕い<ruby><rb>裁</rb><rt>さば</rt></ruby>きを受け、平次が預つてゐるお鶴をつれて、川崎在のお鶴の母を訪ね、そのまゝ土着して安らかに暮してゐるといふことでした。これはずつと後の話。この胸の<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>く事件のお蔭で平次は手柄も褒美もフイにしましたが、その代りガラツ八と一緒に呑んだ正月は近年にない明るいものでした。