これは錢形平次の最初の手柄話で、この事件が平次を有名にしたのです。この頃お靜はまだ平次の女房になつて居ず、ガラツ八も現はれては居りません。

## 一

「平次、折入つての頼みだ。引受けてくれるか」

「へエ――」

錢形の平次は、相手の眞意を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>り兼ねて、そつと顏を上げました。二十四、五の苦み走つた好い男、<ruby><rb>藍微塵</rb><rt>あゐみぢん</rt></ruby>の狹い<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>が膝小僧を押し隱して、<ruby><rb>彌造</rb><rt>やざう</rt></ruby>に馴れた手をソツと前に揃へます。

「一つ間違へば、御奉行<ruby><rb>朝倉石見守</rb><rt>あさくらいはみのかみ</rt></ruby>樣は申すに及ばず、御老中方に取つても<ruby><rb>腹切</rb><rt>はらき</rt></ruby>り道具だ。押付けがましいが平次、命を投げ出すつもりでやつて見てはくれまいか」

と言ふのは、南町奉行與力の筆頭<ruby><rb>笹野</rb><rt>さゝの</rt></ruby>新三郎、奉行朝倉石見守の<ruby><rb>智惠嚢</rb><rt>ちゑぶくろ</rt></ruby>と言はれた程の人物ですが、不思議に高貴な人品骨柄です。

「頼むも頼まないも御座いません。先代から御恩になつた旦那樣の大事とあれば、平次の命なんざ物の數でも御座いません。どうぞ御遠慮なく仰しやつて下さいまし」

敷居の中へゐざり入る平次、それをさし招くやうに座布團を滑り落ちた新三郎は、

「<ruby><rb>上樣</rb><rt>うへさま</rt></ruby>には、又<ruby><rb>雜司</rb><rt>ざふし</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>谷</rb><rt>や</rt></ruby>の御<ruby><rb>鷹狩</rb><rt>たかがり</rt></ruby>を仰せ出された」

「エツ」

「先頃、雜司ヶ谷御鷹狩の節の騷ぎは、お前も聞いたであらう」

「薄々は存じて居ります」

それは平次も聽き知つて居りました。三代將軍家光公が、雜司ヶ谷<ruby><rb>鬼子母神</rb><rt>きしもじん</rt></ruby>のあたりで御鷹を放たれた時、何處からともなく飛んで來た一本の<ruby><rb>征矢</rb><rt>そや</rt></ruby>が、危ふく家光公の肩先をかすめ、三つ葉<ruby><rb>葵</rb><rt>あふひ</rt></ruby>の定紋を打つた陣笠の裏金に滑つて、眼前三歩のところに落ちたといふ話。

それツ――と立ちどころに手配しましたが、曲者の<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>は更にわかりません。

後で調べて見ると、鷹の羽を<ruby><rb>矧</rb><rt>は</rt></ruby>いだ<ruby><rb>箆深</rb><rt>のぶか</rt></ruby>の<ruby><rb>眞矢</rb><rt>ほんや</rt></ruby>で、白磨き二寸あまりの<ruby><rb>矢尻</rb><rt>やじり</rt></ruby>には、松前のアイヌが使ふと言ふ『トリカブト』の毒が塗つてあつたと言ふことです。

「その曲者も召捕らぬうちに、上樣には再度雜司ヶ谷の御鷹野を仰せ出された。御老中は申すに及ばず、お側の衆からもいろ〱<ruby><rb>諫言</rb><rt>かんげん</rt></ruby>を申上げたが、上樣日頃の御氣性で、一旦仰せ出された上は<ruby><rb>金輪際</rb><rt>こんりんざい</rt></ruby>變替は遊ばされぬ。そこで御老中方から、朝倉石見守樣へ直々のお頼みで、是が非でも御鷹野の當日までに、上樣を遠矢にかけた曲者を探し出せとのお言葉だ。何んとか良い工夫はあるまいか」

一代の才子笹野新三郎も、思案に餘つて岡つ引風情の平次に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付いたのです。

「よく仰しやつて下さいました。御用聞<ruby><rb>冥利</rb><rt>みやうり</rt></ruby>、この平次が手一杯にお引受け申しませう。就ては旦那、私が聞き度いと思ふことを、皆んな隱さずに仰しやつて頂けませうか」

「それは言ふ迄もない事だ。何んなりと<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない事があつたら訊くが宜い」

「ではお尋ねしますが、上樣を雜司ヶ谷のお鷹野に引付けるのは、何にか深い<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>が御座いませう。小鳥の居るのは雜司ヶ谷ばかりぢや御座いません。目黒にも桐ヶ谷にも千住にも、この秋はことの外<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>が多いといふ評判で御座います。それが何うしたわけで――」

「これ〱、段々聲が高くなるではないか」

「へエ――、でもこれが判らなかつた日には手の付けやうが御座いません」

「話すよ――、薄々世間でも知つて居ることだ――、雜司ヶ谷の鷹野の歸り、<ruby><rb>上樣</rb><rt>うへさま</rt></ruby>には決つて、大塚御藥園へ御立寄りになる。あの中に新築した高田御殿で、一と<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>の御藥湯を召上がるのが、きつとお樂しみだ」

「と申すと」

「世上の噂でも聞いたであらう。御藥園預りの<ruby><rb>本草家</rb><rt>ほんざうか</rt></ruby>、<ruby><rb>峠宗壽軒</rb><rt>たうげそうじゆけん</rt></ruby>の娘お小夜は、府内にも並ぶ者なしといふ美人だ」

「さうで御座いますつてね、上樣もまつたくお安くねえ」

「コレコレ、何を申す」

「へエ――、だが、有難う御座いました。それだけ伺へば大方筋はわかります。仔細あつて私もお小夜の顏ぐらゐは存じて居りますが、あの女は何うして〱一筋繩でいける<ruby><rb>雌</rb><rt>めす</rt></ruby>ぢや御座いません――、宜しう御座います。乘るか<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>るか、平次の出世試し、命にかけてもやつて見ませう」

平次の若々しい顏には<ruby><rb>感興</rb><rt>インスピレーシヨン</rt></ruby>にも似たものがサツと匂つて、身分柄の<ruby><rb>隔</rb><rt>へだた</rt></ruby>りも忘れたやうに、胸をトンと叩いて見せました。

「お鷹狩の日取りは<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさつて</rt></ruby>だ。ぬかりはあるまいが、そのつもりで――。拙者には拙者の工夫がある。油斷をすると、手柄<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べにならうも知れぬぞ」

「へエ――」

二人は顏を見合せて、會心の微笑を<ruby><rb>交</rb><rt>かは</rt></ruby>しました。與力と岡つ引では、身分は<ruby><rb>霄壤</rb><rt>てんち</rt></ruby>の違ひですが、何にかしら此二人には一脈相通ずる名人魂があつたのです。

## 二

大塚御藥園、一名高田御藥園といふのは、今の音羽の護國寺の境内にあつたもので、一萬八千坪の中に有名な藥師堂、<ruby><rb>神農堂</rb><rt>しんのうだう</rt></ruby>をはじめ、將軍<ruby><rb>臨場</rb><rt>りんぢやう</rt></ruby>の時の爲に、高田御殿といふ壯麗なる御殿まで出來て居ました。

<ruby><rb>總檜</rb><rt>そうひのき</rt></ruby>の<ruby><rb>破風</rb><rt>はふ</rt></ruby>造り、<ruby><rb>青銅瓦</rb><rt>せいどうがはら</rt></ruby>の<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>も物々しく、數百千種の藥草靈草から發する香氣は、<ruby><rb>馥郁</rb><rt>ふくいく</rt></ruby>として音羽十町四方に匂つたと言はれるくらゐ。幕府の御藥園の權威は大したもので、素より岡ツ引や御用聞などの近付ける場所ではありません。

與力笹野新三郎の屋敷を飛出した錢形平次、いきなり大塚へ飛んで來て、この藥臭い塀にヘバリ付きましたが、場所が場所だけに、何う工面しても入り込む工夫が付かないのです。

丸半日、氣のきかない<ruby><rb>空巣狙</rb><rt>あきすねら</rt></ruby>ひのやうな事をしてゐた平次も、その日の晝頃には、到頭シビレをきらしてしまひました。

「チエツ」

舌打を一つ、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から取出したのは、その頃通用した<ruby><rb>永樂錢</rb><rt>えいらくせん</rt></ruby>が一枚です。手の平へ<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せて中指の爪と親指の腹で<ruby><rb>彈</rb><rt>はじ</rt></ruby>くと、チン――と鳴つて、二三尺空中に飛上がります。落ちて來るところを<ruby><rb>掌</rb><rt>たなごころ</rt></ruby>で受けると、これが其儘<ruby><rb>錢占</rb><rt>ぜにうらなひ</rt></ruby>。

「歸れつて言ふのか、よし」

錢を袂に落すと、其儘塀を離れて、音羽の通りへ眞つ直ぐに踏出しました。これが錢形平次といふ<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>の出たわけの一つ。もう一つ、平次には不思議な手練があつて、むづかしい捕物に<ruby><rb>出會</rb><rt>でつくは</rt></ruby>すと、二三間飛退つて、腹卷から<ruby><rb>鍋錢</rb><rt>なべせん</rt></ruby>を取出し、それを曲者の面體目がけてパツと抛り付けます。薄くて、小さくて、しかも一寸重い鍋錢ですから、不用意に投げられると、泥棒や亂暴者などは、キツト面體をやられます、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひるむ</span>ところを付け入つて<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>る、このこつはまことに手に入つたもので、錢形の平次といふと、年は若いが惡黨仲間から<ruby><rb>鬼神</rb><rt>きじん</rt></ruby>の如く恐れられたものです。

その平次が見限つたのですから、御藥園の塀の中の祕密は容易のことではありません。腹立ち<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れの彌造を<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>へて、長い音羽の通りを、九丁目まで來ると、ハツと平次の足を止めたものがあります。目白坂の降口に、<ruby><rb>紺暖簾</rb><rt>こんのれん</rt></ruby>を深々と掛け連ねて、近頃出來乍ら、當時江戸中に響いた『<ruby><rb>唐花屋</rb><rt>たうばなや</rt></ruby>』といふ化粧品屋、何の氣もなく表へ出した金看板を讀むと、一枚は『――おん藥園<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へちま</span>の水――』次のは『――<ruby><rb>南蠻祕法</rb><rt>なんばんひはふ</rt></ruby>、おん白粉――』そして更にもう一枚には、『――<ruby><rb>峠流祕藥</rb><rt>たうげりうひやく</rt></ruby>色々――』とあります。

「これだツ」

平次は思はず顎を引きました。

## 三

「お<ruby><rb>靜</rb><rt>しい</rt></ruby>坊居るか」

「あら親分」

その頃東西の兩國に軒を並べた水茶屋の一つを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、平次は斯う聲を掛けました。

「よう、相變らず美しいネ。罪だぜ、お<ruby><rb>靜</rb><rt>しい</rt></ruby>坊」

「あら親分、そんな事を言ふなら、私は嫌」

「どつこい、謝まつた。逃げちやいけねえ、今日は大眞面目に頼み事があるんだ。<ruby><rb>靜</rb><rt>しい</rt></ruby>ちやんは、近頃評判の音羽の<ruby><rb>唐花屋</rb><rt>からはなや</rt></ruby>へ買物に行つたことはないか」

「いゝえ、<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>衆で唐花屋へ行かない人はない程だけれど、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>はまだ行つたことはありません」

「さうだらうねえ、お前ほどの<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりやう</rt></ruby>ぢや、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へちま</span>の水にも南蠻渡來の白粉にも及ぶめえ」

「あれ、親分さん」

なるほどこれは美しい<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりやう</rt></ruby>です。精々十七八、血色の<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかな瓜實顏に、<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいけう</rt></ruby>がこぼるゝばかり。襟の掛つた木綿物に、赤前垂をこそしめてをりますが、商賣柄に似ず固いが評判で、枝から取り立ての<ruby><rb>果物</rb><rt>くだもの</rt></ruby>のやうな清純な感じのする娘でした。

「實は少し無理な頼みだが、半日暇をもらつて、唐花屋まで買物に行つて貰ひ度いんだが、何うだらうネ、靜い坊」

「え、え、行つて上げるワ」

何んと言ふ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わだかまり</span>のない返事でせう。

「そいつは有難てえ、それぢや御意の變らぬうちに――」

岡つ引と水茶屋の娘ですが、どちらも水際立つた美男美女で、二人の胸には、何時の間にやら<ruby><rb>淡</rb><rt>あは</rt></ruby>い戀心が芽ぐんできたのでせう。兎に角話の運びの早いことは大變です。

兩國から<ruby><rb>小日向</rb><rt>こびなた</rt></ruby>まで駕籠、そこからわざと歩いて、唐花屋の入口に着いたのは彼これ<ruby><rb>酉刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>近い刻限でした。髮形をすつかり堅氣の娘風にしたお靜の後姿――<ruby><rb>黄</rb><rt>き</rt></ruby>八<ruby><rb>丈</rb><rt>ぢやう</rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>と<ruby><rb>緋鹿</rb><rt>ひか</rt></ruby>の子<ruby><rb>帶</rb><rt>おび</rt></ruby>が、唐花屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をくゞつて見えなくなつた時は、<ruby><rb>大日坂</rb><rt>だいにちざか</rt></ruby>の下から遠く樣子を見て居た錢形の平次も、さすがに眼の前が眞つ暗になるやうな心持がしました。唐花屋がどうといふ、突き留めた疑ひがあるわけではありませんが職業的第六感とでも言ひませうか、――此儘お靜を<ruby><rb>犧牲</rb><rt>いけにへ</rt></ruby>にするのではあるまいか――と言つた豫感が、平次の頭をサツとかすめて去つたのです。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へちま</span>の水を下さいな」

お靜は一向そんな事を構ひません。物馴れた調子で日傘を疊み乍ら、店がまちへもう腰を下ろして居ります。

「へエ、いらつしやいまし。丁度今年<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>つたばかりの新しいのが御座います。これ徳どん、其處からお入れ物を持つて來てお眼にかけな」

美しい客と見ると、馴れて居る筈の店中も、何となくザワついて、二三人の番頭手代が、<ruby><rb>磁石</rb><rt>じしやく</rt></ruby>に吸付けられる鐵片のやうに、左右から寄つて參ります。

「それからアノ、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>も貰つて行きませう」

「へエ〱」

「それにお紅も」

<ruby><rb>大束</rb><rt>おほたば</rt></ruby>な事を言つて、お靜はソツと店中に眼を走らせました。近頃出來の店構へで何となく眞新らしい<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>ですが、その癖妙に陰氣で妙に手丈夫に出來ているのが、娘の<ruby><rb>繊弱</rb><rt>デリケート</rt></ruby>な神經を壓迫します。

「お茶を召し上がつて下さいまし」

若い<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でつち</rt></ruby>が、店使ひにしては贅澤過ぎる<ruby><rb>赤繪</rb><rt>あかゑ</rt></ruby>の<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちやわん</rt></ruby>に、これも店使ひらしくない<ruby><rb>煎茶</rb><rt>せんちや</rt></ruby>をくんで、そつとお靜の傍にすゝめました。

「有難うよ」

<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>に相應した堅氣の娘なら、此茶は飮まなかつたかも知れませんが、お靜は水茶屋の女で、お茶を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>むことも汲ませることも馴れて居ります。桃色<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>を並べたやうな美しい指でそつと受けて、馴れた樣子で一と口、二た口。

「オヤ――？」

お茶にしては妙に甘い、そして香氣が<ruby><rb>可怪</rb><rt>をか</rt></ruby>しいと思ひましたが、三口目には綺麗に飮んでしまひます。

それから口の小さい<ruby><rb>素燒</rb><rt>すやき</rt></ruby>の<ruby><rb>徳利</rb><rt>とくり</rt></ruby>へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へちま</span>の水を詰めさしたり、白粉と紅とを取揃へたり、お<ruby><rb>鳥目</rb><rt>てうもく</rt></ruby>を出さうとして帶の間へ手をやつた時は、先程から我慢して居た恐ろしい<ruby><rb>眠氣</rb><rt>ねむけ</rt></ruby>が急に<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>つて來て、性も他愛もなく美しい島田髷がガツクリ前へ<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>きました。

「徳どんは外を見張れ、お前は手を貸せ」

大番頭が立ち上がつて指圖をすると、馴れた樣子で、バタバタと不思議な作業が始まります。

「へツ、こいつは全く<ruby><rb>掘</rb><rt>ほ</rt></ruby>り出し物だ」

「シツ」

二人の若い手代に抱き上げられたお靜は、死んだもののやうになつて、赤い<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>と白い<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>とが、ダラリと下にこぼれます。

音羽の通りは暫く絶えて、大日坂の下には、宵暗に光る眼、錢形の平次は全く氣が氣ぢやありません。

## 四

此時はじめて平次は、近頃江戸中で評判になつた美しい娘が、<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>に<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>不明になることに思ひ當りました――芝<ruby><rb>伊皿子</rb><rt>いさらご</rt></ruby>の荒物屋の娘お夏、下谷竹町の酒屋の妹おえん、<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby><ruby><rb>笄</rb><rt>かうがい</rt></ruby>町で御家人の娘お<ruby><rb>幸</rb><rt>かう</rt></ruby>――、數へて見ると、此秋になつてからでも三人ほど姿を隱して居ります。それも選り拔きの美人ばかり、書置も何んにもないから、まるで神隱しに逢つたやうなものですが、それが早くて三日目、遲くとも七日目には、二た目とは見られぬ<ruby><rb>慘殺</rb><rt>ざんさつ</rt></ruby>死體となつて、川の中、林の奧、どうかすると往來の眞ん中に捨ててあるといふ始末です。

南北町奉行は、配下の與力同心に命じ、江戸中の御用聞を總動員して、この惡鬼のやうな犯人を探させましたが、何としてもわかりません。犯人がわからないばかりでなく、何の目的で選り拔きの美しい娘ばかり殺すのか、<ruby><rb>皆暮</rb><rt>かいく</rt></ruby>れ見當も付かないのです。その上死體は、洗ひ落してはあるが、<ruby><rb>歴々</rb><rt>あり〱</rt></ruby>と全身に<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>を置いた<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>があります。

「これだ〱」

錢形の平次は一人<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>きながら、宵闇の中をすかして、<ruby><rb>唐花屋</rb><rt>からはなや</rt></ruby>の裏口から出て行く駕籠の後を追ひました。その中にお靜が入れてあることは最早疑ふ餘地はありません。

駕籠は<ruby><rb>無提灯</rb><rt>むぢやうちん</rt></ruby>のまゝ、音羽の裏通りを眞つ直ぐに、今の護國寺、その頃の大塚御藥園の裏門へ、呑まれるやうに入つてしまひました。

「矢張りさうだ」

平次は此儘引返して、笹野新三郎に報告した上、御藥園へ手を入れさせようかと思ひましたが、御藥園の<ruby><rb>見識</rb><rt>けんしき</rt></ruby>は大したもので、若年寄直々の指令を受けなければ、町奉行では手の付けやうがありません。そんな事で暇取つて居る内に、お靜の命が絶たれては一大事。

「先づお靜を助けよう」

後で考へると、それは多分<ruby><rb>盲目</rb><rt>まうもく</rt></ruby>的になりかけて居た、平次の戀心がさせた思案でせう。前後の考へもなく<ruby><rb>木蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby>の土塀に手が掛かると、平次の身體は輕々と塀を越えて、闇の御藥園の中へポンと飛込んでしまひました。

それから何刻經つたか、何處を何う通つたかわかりません。一萬八千坪の御藥園の中、<ruby><rb>茯苓</rb><rt>ふくりやう</rt></ruby>、<ruby><rb>肉桂</rb><rt>にくけい</rt></ruby>、<ruby><rb>枳殼</rb><rt>きこく</rt></ruby>、<ruby><rb>山査子</rb><rt>さんざし</rt></ruby>、<ruby><rb>呉茱萸</rb><rt>ごしゆゆ</rt></ruby>、<ruby><rb>川芎</rb><rt>せんきう</rt></ruby>、<ruby><rb>知母</rb><rt>ちぼ</rt></ruby>、<ruby><rb>人蔘</rb><rt>にんじん</rt></ruby>、<ruby><rb>茴香</rb><rt>ういきやう</rt></ruby>、<ruby><rb>天門冬</rb><rt>てんもんとう</rt></ruby>、<ruby><rb>芥子</rb><rt>からし</rt></ruby>、イモント、フナハラ、ジキタリス――幾百千種とも數知れぬ藥草の繁る中を、八幡知らずにさ迷ひ歩いた末、僅かの灯を見付けて、眞黒な建物の中へスルリと滑り込んでしまひました。

それは多分有名な高田御殿だつたでせう。兎に角、非常に宏壯な建物で、人目を忍ぶにはまことに好都合です。廊下から部屋へ、納戸へ、<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>へと、人と<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>を避けて拾つて居るうちに、何時の間にやら平次は、天井裏の密閉した一室へ入り込んで居ります。

ハツと思つて出口を探しましたが、何んな仕掛があつたか、四方一樣に<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の厚板で、戸や窓は愚かなこと、蟻の這ひ出る隙間もあらうと思へません。

「チエツ、勝手にしやあがれ」

度胸を据ゑてドツカと坐ると、不思議なことに、床板の彼方此方から、大きく小さく、下の大廣間の灯が漏れて居ります。

よく見ると、それは<ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>くギヤーマンを張つた穴で、この天井裏から、下の樣子を覗く爲に出來たのでせう。――これは後で見ると、悉く下の大廣間の<ruby><rb>格天井</rb><rt>がうてんじやう</rt></ruby>に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>かれた、天人の眼や、蝶々の羽の紋や、<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>の<ruby><rb>蕊</rb><rt>しべ</rt></ruby>などであつたと言ふことです。

## 五

最初平次の眼に入つた光景は、廣間の中央に<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>られた、何とも形容のしやうのない醜惡怪奇を極めた<ruby><rb>魔像</rb><rt>まざう</rt></ruby>で、その前と兩側には、眞つ黒な<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>が十三本、赤い焔をあげてメラメラと燃えて居ります。

魔像の前には<ruby><rb>蜥蜴</rb><rt>とかげ</rt></ruby>の死骸、猫の<ruby><rb>腦味噌</rb><rt>なうみそ</rt></ruby>、半殺しの蛇と言つた不氣味な<ruby><rb>供物</rb><rt>くもつ</rt></ruby>が、足の高い三方に載せて供へられ、その供物の眞ん中に据ゑた白木の<ruby><rb>大俎板</rb><rt>おほまないた</rt></ruby>の上には、ピチピチした裸體が仰向に寢かされて、その側には磨ぎ立てた出刃庖丁が、刃を下にしてズブリと板の上に突つ立つてゐます。

「アツ」

さすがの平次も、思はず唇を噛みました。<ruby><rb>俎</rb><rt>まないた</rt></ruby>の上の赤ん坊は、泣きも叫びもせず、好い心持さうにニコニコしてゐるのが、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>の陰慘な空氣の中に、不思議な對照を<ruby><rb>描</rb><rt>ゑが</rt></ruby>き出して、身の毛のよ立つやうな氣味の惡い<ruby><rb>情景</rb><rt>シーン</rt></ruby>です。

突然、今迄聞いた事もないやうな、<ruby><rb>陰慘</rb><rt>いんさん</rt></ruby>な<ruby><rb>合唱</rb><rt>コーラス</rt></ruby>と共に、一隊の男女が、妖魔の行列のやうに廣間へ入つて來ました。いづれも眞黒な覆面、その間から、眼ばかり光らして、覆面越しの<ruby><rb>讀經</rb><rt>どきやう</rt></ruby>の聲も、何んとなく陰に籠ります。

續いて燃え立つやうな<ruby><rb>眞紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の布を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>つた四人の女が、一人の娘を伴れて現はれました。夢見るやうな足取りで、無抵抗に臺の上に押し上げられたのを見ると、こればかりは町娘の服裝をしたお靜の<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>はれの姿だつたのです。

「あツ、到頭」

あまりの事に平次は、もう少しで聲を立てるところでした。人間の力で此密室が押し破れるものだつたら、何處かの羽目を<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み<ruby><rb>碎</rb><rt>くだ</rt></ruby>いても飛出したであらうが、それとても出來ないことです。

又、一としきり奇怪な讀經が湧き起つて、魔像とお靜の<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を、黒裝束の人間の輪が、クルクルと廻り始めました。

それから暫く續いて、廣間は元の靜寂に還ると、不意に、人間の輪はサツと散ります。見ると、臺の上に立つたお靜は何時の間にやら、<ruby><rb>黒裝束</rb><rt>くろしやうぞく</rt></ruby>の人間達の手で、十七乙女の若々しい肌へ、ベタベタと<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>を置かれてゐるところだつたのです。お靜は魂の拔けた人形のやうに、少し仰向き加減に突つ立つた儘、なすが儘に任せて身動きもしません。

やがて乙女の上半身に金箔を置き終ると、黒衣長身の長老とも見える男は、黒頭巾の覆面を取つてお靜の前に近づきました。

「あツ」

平次はもう一度聲を立てるところでした。その男といふのは、地獄變相圖から拔け出した、惡鬼のやうに恐ろしく映つたでせう。

「――」

續いて覆面を除つたのは、この藥園の<ruby><rb>預主</rb><rt>あづかりぬし</rt></ruby>、<ruby><rb>峠宗壽軒</rb><rt>たうげそうじゆけん</rt></ruby>です。半白の中老人で、立居振舞に何となく物々しいところがあります。

二人は前後して進んで、<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>を置いた<ruby><rb>乙女</rb><rt>をとめ</rt></ruby>の肩へ唇を觸れました。續く黒裝束の五、六人も、<ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>く覆面を<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>して、同じやうに乙女の身體へ唇の雨を降らせます。

この<ruby><rb>冒涜的</rb><rt>ばうとくてき</rt></ruby>な<ruby><rb>行法</rb><rt>ぎやうほふ</rt></ruby>が、どんなに平次を怒らせた事でせう。お靜の<ruby><rb>清</rb><rt>きよ</rt></ruby>らかさを救ふ爲に、どんな事をしても――とあせりましたが、此密室はどんな設計で出來たものか、<ruby><rb>二刻</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>あまり探し拔いても、どうしても入つた場所がわかりません。

その内に、下の廣間が又賑かになりました。と見ると、焔のやうな赤い布を纏つた、半裸體の四人の美女は、<ruby><rb>人面獸身</rb><rt>じんめんじうしん</rt></ruby>の魔像と、金箔を置いたお靜を中心にして、あらゆる狂態を盡して亂舞を始めたのです。

魔像の前の<ruby><rb>大香爐</rb><rt>おほかうろ</rt></ruby>には、幾度も〱異香が投げ込まれました。天井裏でそれを嗅ぐと、平次の心持も、うつら〱夢見るやうになります。

幾度か<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めては、廣間の樣子を覗き、幾度か氣を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>つては何刻となく深い眠に<ruby><rb>陷</rb><rt>お</rt></ruby>ちました。――これではならぬと――滿身の力を兩の<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>にこめ、兩眼を見開いて氣を勵ましましたが、泥醉した人のやうに<ruby><rb>崩折</rb><rt>くづを</rt></ruby>れて、その努力も永くは續きません。

金色の<ruby><rb>處女</rb><rt>をとめ</rt></ruby>――お靜の上に加へられる、あらゆる<ruby><rb>辱</rb><rt>はづ</rt></ruby>かしめと、怪奇至極の大儀式が、斷片的に平次の眼と耳に燒き付けられながら、そのまゝ遠い〱過去の出來事のやうに、他愛もなく消えて行きます。

## 六

明くれば十月九日、三代將軍徳川家光は近臣十二名を徒へ、<ruby><rb>微行</rb><rt>しのび</rt></ruby>の姿で雜司ヶ谷へ鷹狩に出かけました。十二人の内四人は將軍と同じ<ruby><rb>裝</rb><rt>よそほ</rt></ruby>ひをした近習連、四人は<ruby><rb>鷹匠</rb><rt>たかしやう</rt></ruby>、あとの四人は警衞の士で、微行とは言ひ乍ら、此時代にしては恐ろしく手輕です。<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もこれは家光自身の命令で、目障りになるやうな士卒は、間近に置かれなかつたまでのこと、音羽から小日向、大塚へかけては、何千とも知れぬ警護の士で、蟻の這ひ出る隙間もなく固めて居ります。

此日はことの外<ruby><rb>不獵</rb><rt>ふれふ</rt></ruby>だつたせゐか、家光は恐ろしく不機嫌で、近習達とろく〱口も利きません。鷹狩が濟むと、待ち構へて居たやうに音羽へ<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>つて、大塚御藥園の高田御殿へお入りになります。

御藥園の門前に迎へたのは、<ruby><rb>峠宗壽軒</rb><rt>たうげそうじゆけん</rt></ruby>、五十がらみの總髮で、元々本草家で武士ではありませんが、役目ですから、<ruby><rb>麻裃</rb><rt>あさがみしも</rt></ruby>を着けて將軍を高田御殿へ案内します。

奧の一間、<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を盡した調度の中に納まると、近習達も遠慮をして、將軍を存分にくつろがせなければなりません。<ruby><rb>高麗縁</rb><rt>かうらいべり</rt></ruby>の青疊の中、<ruby><rb>脇息</rb><rt>けふそく</rt></ruby>に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて、眼をやると、鳥の子に百草の<ruby><rb>譜</rb><rt>ふ</rt></ruby>を書いた唐紙、唐木に百蟲の譜を<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>し<ruby><rb>彫</rb><rt>ぼり</rt></ruby>にした<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>、玉を刻んだ引手や<ruby><rb>釘隱</rb><rt>くぎかく</rt></ruby>しまで、此部屋には何となく、さり氣ないうちに漂ふ一<ruby><rb>抹</rb><rt>まつ</rt></ruby>の怪奇さがあります。

此時、<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>の<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>に<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を引かせて、茶碗を目八分に捧げて入つて來たのは、峠宗壽軒の娘お小夜です。<ruby><rb>曙色</rb><rt>あけぼのいろ</rt></ruby>に松竹梅を總縫した小袖、町風に髮を結ひ上げた風情は、<ruby><rb>長局</rb><rt>ながつぼね</rt></ruby>風俗に<ruby><rb>飽々</rb><rt>あき〱</rt></ruby>した家光の眼には、どんなに美しいものに<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>つたでせう。年の頃は二十二三、少しふけて居りますが、その代り町家にも武家にもない、<ruby><rb>滴</rb><rt>したゝ</rt></ruby>るやうな美しさがあります。

恐るゝ色もなく、家光の前に進んで、近々と茶碗を進め、二三歩返つて、

「お藥湯を召し上がりませ」

わだかまりもなく言つて、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむき</rt></ruby>加減に<ruby><rb>莞爾</rb><rt>につこり</rt></ruby>します。こんな無禮な仕打は、日頃の家光には見ようつたつて見られません。大名が<ruby><rb>廓通</rb><rt>くるわがよ</rt></ruby>ひに夢中になつたやうに、將軍家光が雜司ヶ谷の鷹狩に夢中になつたのも無理のないことです。

「――」

家光は默つて茶碗を取り上げました。本草家峠宗壽軒の<ruby><rb>煎</rb><rt>せん</rt></ruby>じた藥湯、別に何の藥と言ふでもありませんが、神氣を<ruby><rb>爽</rb><rt>さはや</rt></ruby>かにして、<ruby><rb>邪氣</rb><rt>じやき</rt></ruby>を拂ふ程度のもの、唇のところへ持つて行くと、高價な藥の匂ひがプーンとします。

## 七

天井裏に閉ぢ籠められた錢形の平次、幾刻――いや幾日眠らされたかわかりません。フト眼を覺すと、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>はすつかり明るくなつて、天井裏乍ら<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>の一つ〱も讀めさうです。怪奇な舞踊を思ひ出して、<ruby><rb>嘔氣</rb><rt>はきけ</rt></ruby>を<ruby><rb>催</rb><rt>もよほ</rt></ruby>すやうな不愉快な心持になりましたが、お靜の<ruby><rb>安否</rb><rt>あんぴ</rt></ruby>が心もとないので、もう一度ギヤーマンの穴から覗くと、廣間は廣々と取片付けられて、白日の光が一杯にさし込み、忌はしい物など影も形もありません。

思ひ直して出口を深すと、今度はわけもなく見付かりました。壁は同じやうな樫の厚板で張り詰めてありますから、一箇所だけ<ruby><rb>手摺</rb><rt>てず</rt></ruby>れがして、出入口といふことは直ぐわかります。暫く押したり叩いたりして見ると、どうした<ruby><rb>彈</rb><rt>はず</rt></ruby>みか、いきなりスーツと開きます。多分扉の下の踏み板に仕掛があつたのでせう。

一足<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>るやうな白日の光りの中へ飛出しましたが、困つたことに、庭にも廊下にも、廣間にも玄關にも、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびたゞ</rt></ruby>しい人間がたかつて居て、天井裏から飛出したまゝでは、大手を振つて出て行くわけに行きません。

「あツ、いけねえ。今日は上樣お<ruby><rb>鷹狩</rb><rt>たかがり</rt></ruby>の日だ」

<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>んだやうな平次の頭にも、これだけの記憶が<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがへ</rt></ruby>つて來ました。今日までに毒矢の曲者を<ruby><rb>捉</rb><rt>つかま</rt></ruby>へる筈だつたのが、天井裏に閉ぢ籠められてすつかり豫定が狂つてしまつたのです。

「こいつはしまつた」

平次は天井裏で<ruby><rb>地團駄</rb><rt>ぢだんだ</rt></ruby>を踏むばかりです。

それから又何刻か經ちました。御殿の中の空氣は<ruby><rb>遽</rb><rt>にはか</rt></ruby>に緊張して、

「<ruby><rb>上樣</rb><rt>うへさま</rt></ruby>のお着き」

といふ囁きが、隅々までも<ruby><rb>行亙</rb><rt>ゆきわた</rt></ruby>ります。

上樣お着きと言ふのは、お鷹野は無事だつたといふ證據にもなりますから、天井裏の平次もそれを聞いてホツとします。

「間違ひがあれば、この御殿内だ。よし、それならば、まだ望みがある」

暫く泥棒猫のやうに、天井から天井へ、<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>から梁へと渡つて歩いた平次、何時の間にやら、羽目からスルリと拔け出して、離れの<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の下に這ひ込んでしまひました。首を少し曲げると、一枚開け放つた障子の中に、上段の<ruby><rb>高麗縁</rb><rt>かうらいべり</rt></ruby>が見えて、豐かに坐つた黒羽二重の膝も見えます。

「上樣だツ」

平次はヒヨイと首を引きました。と同時に小夜が捧げた藥湯の茶碗が見えます。

やがて家光は藥湯を手に取り上げた樣子、それと同時に平次の眼には、もう一つ動くものが<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>ります。それは障子の外に、物の<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>のやうに踞まつた總髮の中老人、<ruby><rb>霰小紋</rb><rt>あられこもん</rt></ruby>の<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>を着て、折目正しく兩手をついて居りますが、前夜怪奇な行法を<ruby><rb>修</rb><rt>ず</rt></ruby>した、この藥園の預主、<ruby><rb>峠宗壽軒</rb><rt>たうげそうじゆけん</rt></ruby>に違ひありません。

家光が茶碗を取り上げて、唇まで持つて行くと、宗壽軒の唇が<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んで、障子を射通すやうな瞳が、キラリと光ります。

「あツ、<ruby><rb>毒湯</rb><rt>どくたう</rt></ruby>だツ」

捕物の名人、錢形平次には、外の人にない第六感が働きます。前後の事情から考へ合せて見ると、家光の手に持つて居る茶碗の中に、<ruby><rb>正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>な藥湯が入つて居るわけはありません。

笹野の旦那が呉々も頼んだのは、これだツ。

平次はいきなり<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>から飛出さうとしましたが、高が岡つ引、將軍樣の前へ飛出せるわけもなく、大きい聲を出さうにも、其邊の物々しいたゝずまひを見ると、うつかり騷ぎを大きくして、相手に<ruby><rb>棄鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>に出られると、反つて恐ろしい事になりさうです。それに毒湯と思ふのは、平次の單なる疑ひで、實は本當の藥湯を<ruby><rb>勸</rb><rt>すゝ</rt></ruby>めて居るのかもわからないのです。

ハツと氣が付いて腹卷を探ると、折惡しく<ruby><rb>鍋錢</rb><rt>なべせん</rt></ruby>はありませんが、小粒が二つ三つ。と、それに柄にもなく小判が一枚あります。其頃の小判は大變な値打で、岡つ引などに取つては一と身代ですが、<ruby><rb>一昨日</rb><rt>をとゝひ</rt></ruby>笹野新三郎から用意のために手渡された金、將軍樣の命に<ruby><rb>關</rb><rt>かゝは</rt></ruby>らうと言ふ場合ですから、<ruby><rb>物惜</rb><rt>ものをし</rt></ruby>みなどをして居る時ではありません。

いきなり小判を右手の<ruby><rb>拇指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>と<ruby><rb>食指</rb><rt>ひとさしゆび</rt></ruby>との間に立てて、小口を<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>で<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>らすと、錢形の平次得意の投げ錢、山吹色の小判は風をきつて、五、六間先の家光の手にある茶碗の<ruby><rb>絲底</rb><rt>いとぞこ</rt></ruby>に<ruby><rb>發矢</rb><rt>はつし</rt></ruby>と當ります。藥湯は飛散つて、結構な座布團も疊も滅茶々々。

「――」

家光は動ずる風もなく、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をあげて小判の飛んで來た方を<ruby><rb>屹</rb><rt>きつ</rt></ruby>と見やります。

「あツ」

驚いたのはお小夜、起ち上がると、いそ〱と近寄つて、藥湯に濡れた家光の膝へ、身體と一緒に、總縫ひ松竹梅の小袖を、サツと掛けました。

## 八

「これ、何をする――」

あわてて居住ひを直す家光の膝を追ふやうに、お小夜は袖の上へ顏を伏せました。

次の瞬間には、

「<ruby><rb>贋者</rb><rt>にせもの</rt></ruby>ツ」

と<ruby><rb>彈</rb><rt>はじ</rt></ruby>き上げられたやうに起ち上がります。

「<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く氣が付いたか」

「エツ、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい、お前は誰だえ」

飛退く女の帶際を<ruby><rb>猿臂</rb><rt>ゑんぴ</rt></ruby>を延ばして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むんず</span>と掴んだ<ruby><rb>僞</rb><rt>にせ</rt></ruby>家光。

「與力笹野新三郎、上樣の御座を拜借して、其方<ruby><rb>親娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>らみを見破りに參つたのだ。神妙にしろ」

と、高い聲ではありませんが、ツイ調子に乘つて名乘りを上げてしまひました。

これが非常に惡かつた――と言ふのは、障子の外で、<ruby><rb>深怨</rb><rt>しんゑん</rt></ruby>の眼を光らせて居た峠宗壽軒、娘の聲にハツと驚いたところへ、續いて笹野新三郎の名乘りです。思はず起ち上がるのへ<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せて障子の内から、

「父上ツ、<ruby><rb>露見</rb><rt>ろけん</rt></ruby>――早く、早く、<ruby><rb>地雷火</rb><rt>ぢらいくわ</rt></ruby>ツ」

と娘のお小夜が悲痛な聲を絞ります。

「おツ、娘、さらばだぞツ」

ヒラリと縁側から飛降りると、<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の上から錢形平次が、パツと飛付くのと一緒でした。

「野郎ツ、何處へ失せやがる」

素より捕物の名人、<ruby><rb>寸毫</rb><rt>すんがう</rt></ruby>の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もありませんが、困つたことに宗壽は思ひの外の剛力で、それに平次は、まる二日物を食はない上、廂から飛降りる<ruby><rb>機</rb><rt>はず</rt></ruby>みに足を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>いて、進退駈引自由になりません。

「エツ、面倒」

二人はそれでも負けず<ruby><rb>劣</rb><rt>おと</rt></ruby>らず<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>ぢ合ひました。あまりに<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>の出來事で、遠ざけられた近習達が、驅け付ける暇もなかつたのです。

そのうちにお小夜の背がバラリと解けました。錦の<ruby><rb>厚板</rb><rt>あついた</rt></ruby>の一と<ruby><rb>抱</rb><rt>かゝへ</rt></ruby>ほどあるのが、笹野新三郎の手に殘ると、お小夜は<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だつと</rt></ruby>の如く身を拔けて、

「父上、地雷火は私がツ」

「お、娘頼むぞツ、あの<ruby><rb>犧牲</rb><rt>いけにへ</rt></ruby>も逃すなツ」

親娘は最後の言葉を交すと、總縫ひ松竹梅の小袖は、大鳥のやうにサツと奧へ飛込みます。

犧牲と聞いて平次は驚きました。捨鉢になつた宗壽軒父子が、地雷火で高田御殿を吹き飛ばすとなると、あの可哀さうなお靜の命は一たまりもありません。<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>を置いて一度は祭壇に載せた<ruby><rb>處女</rb><rt>をとめ</rt></ruby>の身體は、いづれあの廣間の何處かに隱してあるに相違ないでせう。

「笹野の旦那、此奴を頼みます」

「お、心得た」

その内に遠慮して遠退いて居た近習達も、騷ぎを聽いて驅け付ける樣子。平次は猛然として突つかゝつて來る宗壽軒を、一つかはして芝生の上に叩きのめすと、身を退いてサツとお小夜の後を追ひました。<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>いた足首は、燒金を當てるやうに痛みますが、今はそんな事を言つて居る場合ではありません。

勝手を知つた大廣間の中へ入ると、プーンと鼻を衝く<ruby><rb>煙硝</rb><rt>えんせう</rt></ruby>の匂ひ、地雷火の口火は早くも點けられたのでせう。

今更事の<ruby><rb>危急</rb><rt>ききふ</rt></ruby>な勢ひに、平次はゾツと總毛立ちましたが、お靜を<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>した場所はまるで見當が付きません。

「お前は錢形平次、もう駄目だよ。一緒に死ぬばかりだ」

<ruby><rb>呵々</rb><rt>から〱</rt></ruby>と氣違ひ染みた笑ひを突走らせるのは、黒髮も衣紋も滅茶々々に亂した妖婦お小夜、<ruby><rb>金泥</rb><rt>きんでい</rt></ruby>に荒海を描いた<ruby><rb>大衝立</rb><rt>おほついたて</rt></ruby>の前に立ちはだかつて、艶やかに<ruby><rb>邪</rb><rt>よこ</rt></ruby>しまな眼を輝かせます。

「やい、女、あの娘を何うした」

「知らない」

「いや、知つてゐる筈だ、言へツ」

「言はない、――どうしても言はない。私達をこんな破目に陷し込んだのはお前だらう。――その代りお前の名前を<ruby><rb>譫言</rb><rt>うはごと</rt></ruby>に言つて居るあの娘は、この御殿と一緒に<ruby><rb>木葉微塵</rb><rt>こつぱみぢん</rt></ruby>に<ruby><rb>碎</rb><rt>くだ</rt></ruby>け散るよ。好い氣味だ、――あれはお前の<ruby><rb>情人</rb><rt>いろ</rt></ruby>だらう。知らなくつてさ、――お、もう口火は燃えきつた。ホ、ホ、ホ、ホ」

「いや、俺はお靜を助けて見せる」

「馬鹿なツ」

荒海の衝立、怒り狂ふ<ruby><rb>紺青</rb><rt>こんじやう</rt></ruby>の<ruby><rb>波頭</rb><rt>なみがしら</rt></ruby>を背にして、小袖の前を掻き亂したまゝ、必死の笑ひに笑ひ狂ふ美女の物凄さ。物慣れた平次も、思はずタジタジと<ruby><rb>退</rb><rt>すさ</rt></ruby>りましたが、次第に激しくなる煙硝の匂ひに、もう一度氣を取り直して、毒蛇の眼の如きお小夜の瞳を、精魂こめて<ruby><rb>凝</rb><rt>ぢ</rt></ruby>つと見詰めました。

「解るまい、もう最後だ。それツ」

「いや、解つた」

何を考へたか平次は、猛然としてお小夜の身體に飛び付きました。細腕を取つて引退け、荒海の衝立をサツと前へ引倒すと、その背後にあるの。は『御藥草』と書いた御用の<ruby><rb>唐櫃</rb><rt>からびつ</rt></ruby>、力任せに<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をハネると、中から<ruby><rb>燦</rb><rt>さん</rt></ruby>として<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby><ruby><rb>無垢</rb><rt>むく</rt></ruby>の<ruby><rb>處女</rb><rt>をとめ</rt></ruby>の姿が現はれます。

全身に<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>を置かれたお靜は、半死半生の儘此中に入れられて、捨てるか殺されるかする最後の運命を待つて居たのでした。

「あツ、それを助けては」

後ろから<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付くお小夜を<ruby><rb>蹴返</rb><rt>けかへ</rt></ruby>して、金色の處女を小脇に痛む足を引摺つて外へ飛出す平次、――それと同時に、

<ruby><rb>轟然</rb><rt>ぐわうぜん</rt></ruby>――天地も崩るゝやうな物音。

天に<ruby><rb>冲</rb><rt>ちう</rt></ruby>する火焔の中に、高田御殿は<ruby><rb>微塵</rb><rt>みぢん</rt></ruby>に<ruby><rb>崩</rb><rt>くづ</rt></ruby>れ落ちてしまひました。

## 九

これは後でわかつた事ですが、<ruby><rb>峠宗壽軒</rb><rt>たうげそうじゆけん</rt></ruby>の前身は、<ruby><rb>駿河大納言忠長</rb><rt>するがだいなごんたゞなが</rt></ruby>の臣で、本草學の心得があるのを幸ひ、京都に行つてその道の<ruby><rb>蘊奧</rb><rt>うんあう</rt></ruby>を<ruby><rb>窮</rb><rt>きは</rt></ruby>め、身分を隱して大塚御藥園を預るまでに出世したのです。

主君忠長自殺の後は、何んとかして、家光に<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>を報じようと、高田御殿の中に<ruby><rb>祭壇</rb><rt>さいだん</rt></ruby>を<ruby><rb>設</rb><rt>まう</rt></ruby>けて、中世に<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>つた<ruby><rb>惡魔</rb><rt>サタン</rt></ruby>を祭神とする<ruby><rb>呪法</rb><rt>じゆはふ</rt></ruby>を行つたのでした。その祭に<ruby><rb>夥</rb><rt>おびたゞ</rt></ruby>しい<ruby><rb>犧牲</rb><rt>いけにへ</rt></ruby>を要するところから、腹心の者に命じて、音羽九丁目に<ruby><rb>唐花屋</rb><rt>からはなや</rt></ruby>といふ小間物屋を出させ、江戸中の美女を釣り寄せては、その内でも優れた美人を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどは</rt></ruby>かして<ruby><rb>犧牲</rb><rt>いけにへ</rt></ruby>にし、連夜ひそかに惡魔の<ruby><rb>呪法</rb><rt>じゆはふ</rt></ruby>を<ruby><rb>修</rb><rt>ず</rt></ruby>して將軍家光を<ruby><rb>調伏</rb><rt>てうふく</rt></ruby>する計畫だつたのです。

それも<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>が明かないと見て、近頃は<ruby><rb>毒矢</rb><rt>どくや</rt></ruby>を飛ばしたり、娘お小夜の美色を<ruby><rb>餌</rb><rt>ゑさ</rt></ruby>に、毒湯をすゝめて一擧に<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>を報じようとしましたが、奉行の朝倉<ruby><rb>石見守</rb><rt>いはみのかみ</rt></ruby>が老中に進言して、將軍家光に<ruby><rb>面差</rb><rt>おもざし</rt></ruby>の似た與力笹野新三郎を替玉に使ひ、見事にその裏を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いて取つて押へたのでした。

峠宗壽軒は詮議中に自殺してしまひましたが、娘のお小夜はそれつきり何處へ行つたかわかりません。

大塚御藥園は、その後間もなく<ruby><rb>取潰</rb><rt>とりつぶ</rt></ruby>しになり、<ruby><rb>天和</rb><rt>てんな</rt></ruby>元年護國寺建立の敷地として召上げられた事は人の知るところです。

錢形の平次はこれだけの仕事をして、將軍の命を狙ふ<ruby><rb>怨敵</rb><rt>をんてき</rt></ruby>を平げましたが、笹野新三郎に約束したお鷹野以前に曲者を擧げることが出來なかつたのと、事件の性質が性質なので、表向はその手柄に<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いられませんでした。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、家光の胸に錢形平次の名が印象深く<ruby><rb>記憶</rb><rt>きおく</rt></ruby>された事と、金色の<ruby><rb>處女</rb><rt>をとめ</rt></ruby>――お靜の愛を<ruby><rb>確</rb><rt>しつか</rt></ruby>り掴んだことだけで、若い平次は滿足しきつて居りました。